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2009年11月

2009年11月29日 (日)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 バレンボイム指揮

1 2度目のワーグナー・シリーズは、ようやく「ニュルンベルクのマイスタージンガー」にたどりついた。

このところずっと付き合ったベルクの無調の世界から、一転してハ長の明るい調和の世界へ。

耳に心地よく、急に晴れ間が広がったような気がする。

Meistersinger_baremboim_2 ルートヴィヒ2世が救世主として登場し、これはある意味白鳥の騎士だったわけであるけれど、借金から解放され、トリスタンも無事上演されたのが1865年。

コジマとの愛も育みながら、ついでにビューローの奥さんだったのに、子供までこしらえてしまうイケナイ作曲家であった。

 ミュンヘンでは、国王の偏愛とワーグナーの強引ぶりが問題となり、ジュネーヴ、そしてルツェルン近郊に移ったワーグナーは、そこで「マイスタージンガー」を完成させることとなる。

3 よく知られるように、半音階進行と不協和音すれすれの「トリスタン」の反動として、そしてそれと表裏一体の作品としての「マイスタージンガー」。
こうして、リングの合間に連続して書かれていて、「トリスタン」の世界は、この「マイスタージンガー」にも現われていて、まさに姉妹作といってもいいかもしれない。
騎士ヴァルターと市民の娘は、一目会って恋に陥り、身分を越えて騎士が、しかも聖堂で声を掛けるなんて掟破りであろうし、周囲が見えなくなって駆け落ちさえしようとする。
5 この熱烈な愛情は、トリスタンとイゾルデの関係にも他ならないし、ハンス・ザックスもマルケ王的な存在である。
事実、3幕では、ザックスは自身をマルケ王に例えていて、トリスタンの旋律やマルケの主題にのって歌うのだから。

明らかに、トリスタンと異なる点は、トリスタンが二人の愛とその死の浄化に焦点が絞られているのに対し、マイスタージンガーはヴァルターとエヴァは全体の一部にすぎず、この楽劇の主役は、ニュルンベルクという街であり、市井の民たち、そして芸術(マイスターたち)なのである。
あの嫌味なベックメッサーでさえ、マイスターの一人であるが、これもよく言われるように、ワーグナーの天敵だった論評家ハンスリックのカリカチュアであって、本来、立派な市役所の書記官という要職にあった知識人であるべきベックメッサーが、滑稽で最後は惨めな役になってしまっているところが常識的には矛盾しているところであるが、これもまた憎っきハンスリックへの感情のなせる技であろうか。

6 ベックメッサーの扱いは、かつてはト書き通りに喜劇的ないじられ役だったが、ここ数年は、マイスターの一員としての人物として格が上がっており、このウォルフガンク演出でも生真面目なバリトン、ンドレアス・シュミットが好演しており、最後にはザックスにいざなわれて登場して、一緒にマイスターの象徴である幟旗を仰いでいる。
ヘルマン・プライがベックメッサーに挑戦したとき以来、こうした風潮となったのだろうか。
 以前観た、バイエルン国立歌劇場の来演(メータ指揮)のラングホフ演出では、敗れたベックメッサーは最後ネオ・ナチ風の連中と手を組んでしまう雰囲気を漂わせていた、いやぁ~な雰囲気のものだった。ドイツの芸術を讃えるザックスはテレビ演説で、ひとり浮いてしまう存在だったし。
本場ミュンヘンでこれですから・・・・。

8 ドイツといえば、いまバイロイトで行われているワーグナーの曾孫カテリーナの演出は、もっと尖鋭的(らしい)。
ひい爺さんも出てくるし、要は、悪いことで塗り込められた過去をさらしだし、強い自己批判を織り込んだもの。
日本人は、やたらとタブー視してしまう自らの歴史の汚点を、ドイツ人は平気でさらけ出す「みそぎ」の民族性を持ち合わせているのだろうか・・・。

この作品の上演に、ニュルンベルクの町並みは必須と考えている私は古いのだろう。
かつてヴィーラントが、街を一切登場させず、「ニュルンベルクのないマイスタージンガー」と揶揄され、バイロイトにおいては、抽象性よりはもっと具象性のあったウォルフガンク演出が好まれた。
戦後、4度あるウォルフガンク演出は、そのいずれもがちゃんとニュルンベルクの街が描かれていて、美しい背景を持っている。
68年(ベーム)、74年(ヴァルヴィーゾ)、81年(エルダー→シュタイン)、97年(バレンボイム)の4回、いずれもがCDや映像になっていることからも好評がうかがえる。
ついでに、カテリーナのDVDもバイロイトのHPから購入できるし、オーパス・アルテからも発売されるはず。

今回取り上げたバレンボイム指揮による舞台は、いうまでもなく、とてもオーソドックス。
だから安心して観ていられるが、逆にそこには何も起こらないのも事実。
メッセージ発信力と情報過多の多い舞台を見慣れるてくると、不甲斐なく思えるという贅沢な悩みもあるが、片時も画面から目を離せないそうしたものに比べ、よそ見をしても、何かを摘みながらでも大丈夫。
でも、よく見ると背景にいる登場人物たちが、いろんな表情をつけたり動きをしたりしていて、それを観察する面白さもあったりする。
ダーヴィットがマグダレーネと目くばせしたり、親方たちが困った顔をして視線を交わしあったり、ベックメッサーは詩の暗記に余念がなくて合唱には口パクだったりと・・・。
どこまでが演出の細かな指示か不明だけれど、最近の歌手たちは演技力も相当にすごいから、アドリブの可能性もある。

この舞台で美しいのは、2幕の家々の瓦屋根が見える町並みと、舞台に据えられた「ニワトコの花の樹」。そして3幕の豊かな緑である。2000年を迎える当時、地球の環境問題も騒がれだした時分だし、ここでザックスが、環境の危機を歌うのも時流にかなったことであったろう。

10 そして、いま最後のザックスの「親方たちを蔑んではならぬ」の感動的なモノローグを聴き、そしてその歌詞を読むとき、デフレの閉塞感と殺伐とした環境におかれた、われわれ音楽ファンの気分をも読み込むことができるようだ。
かつでは、ヒトラーがいいように解釈し、使った場面である。

 「親方たちを蔑んではなりません。彼らの芸術を尊敬しなさい。・・・・
 これほどの賞をもたらす芸術が、どうして価値なきものであろうか・・
 この芸術は、艱難の年月の苦しみに耐え、
 ドイツ的に、また真実に生き続けてきた。
 現代においては、このひっ迫した情勢のようにうまくはいかなったが
 ご覧のように高き誉れを維持してきたのです・・・・・・

 気をつけなさい!
 いろいろのわざわいが、私たちを脅かす。
 ドイツ国民も国も崩壊し、外国の力に屈するとき
 諸侯はいずれも民意を解せず、外国のつまらぬがらくたを植え付ける。
 真にドイツ的なものが、マイスターたちの名誉の中に生きなければ
 誰もそれを知らなくなってしまう。

 マイスターたちを尊敬してください。

 気高き精神を確保できるのです。
 あなた方がマイスターたちの働きに愛を捧げれば
 神聖ローマ帝国は、靄のなかに消え去り、
 聖なるドイツの芸術が
 われらの手に残るでしょう。」


  ザックス:ローベルト・ホル   ポーグナー:マティアス・ヘレ
  フォーゲルゲザンク:ベルンハルト・シュナイダー 
  ナハティガル:ローマン・トレケル
  ベックメッサー:アンドレス・シュミット 
  コートナー:ハンス・ヨアヒム・ケテルセン
  ツォルン:トルステン・ケルル  アイスリンガー:ペーター・マウス
  モーザー:フルムート・パンプフ オルテル:シャンドール・ショーヨム・ナジ
  シュヴァルツ:アルフレット・ライター フォルツ:ユルキ・コルホネン
  ヴァルター:ペーター・ザイフェルト  ダーヴィット:エンドリック・ヴォトリヒ
  エヴァ:エミリー・マギー       マグダレーネ:ブリギッタ・スヴェンデン
  夜警:クワンテュル・ユン


    ダニエル・バレンボイム指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                      バイロイト祝祭合唱団
               合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ
    演出:ウォルフガンク・ワーグナー
                     (1999.6 @バイロイト)

オランダ人以降のワーグナーの全曲録音を成し遂げたバレンボイムのマイスタージンガーは、バイロイトでの録音である。祝祭が始まるまえの録画と録音であるが、バレンボイムのワーグナーの中でも、上位に入る好演に思う。
テンポが前のめりになってしまう箇所もあるが、オーケストラを完璧に掌握し、自在な歌い回しで、時おり、ハッとなるようなフレーズの歌わせ方をする。
そうでない普通の場面も多々あって、その落差が大きいのもバレンボイムらしいところ。
 マイスタージンガーでは難しい、バイロイトの音響を見事にとらえた録音も美しい。

9 ホルのザックスは個性や存在感はやや薄いが、細やかな歌い口と人格者然とした風貌がとても好ましい。
対するシュミットのベックメッサーも、先にあげたとおり、インテリ風でユニーク。
ヘレを代表に、いま旬に活躍中の歌手たちがそろったマイスター軍団も見ごたえあり。
声において、ひときわ輝いているのが、ザイフェルのヴァルターである。
混じり気のないピュアな声は一直線にどこまでも伸びている感じで、ルネ・コロと並ぶ最高のヴァルターであろう。実演で聴いたときも素晴らしいものだった。
スタミナも十分で、最後の懸賞の歌も疲れ知らず。
そりゃそうだ、あの立派(デカイ)な体格だもの。そしてお顔と髭は、マリオである。
評判の彼のトリスタンが聴いてみたいものだ。
 大柄なエヴァちゃんのマギーもいい。彼女は、新国の「影のない女」に出演予定。
それと、いつも新国でがっかりさせてくれるヴォリヒのダービット、ちゃんとしてる以上にイキイキとなりきってますし、小柄だけど立派な声のスヴェンデンといいコンビだ。
 いま大活躍の、ユンがチョイ役で出てます。すげぇ立派な夜警です。

手元にある14種類の「マイスタージンガー」たち。
そのどれもが思い入れがあり、捨てがたいものばかり。
実演では、ベルリン(スゥイトナー)、バイエルン(サヴァリッシュ)、バイエルン(メータ)、新国(アントン・レック)の4度。
お金のかかるこの楽劇、日本で当面は上演機会がないでしょうな。

さて、次回はいよいよリング
CDで行きます。

マイスタージンガーの過去記事

  バンベルガー指揮 フランクフルトオペラ抜粋盤
  ベーム指揮 バイロイト68年盤
  ハイティンク指揮  コヴェントガーデン97年盤
  
クリュイタンス指揮  バイロイト57年盤
  ヴァルヴィーソ指揮 バイロイト74年盤
  ベルント・ヴァイクル

Meistersinger_cd バレンボイムのCD。
グリーンですな。
 

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2009年11月28日 (土)

ベルク 室内協奏曲 アバド指揮

1 六本木ヒルズ内にある、毛利庭園。
その池に、クリスタルに輝くイルミネーション。

都市の樹と呼ぶそうな。
グリーンやブルー、赤にと刻々と色が変わるすぐれもの。

周辺のけやき坂もすばらしくキレイであります。
こちらも取材済みですから、いずれUPします。

Berg_chamber_concert_abbado 今日もベルクを聴いてやろうじゃないか。

大好きなヴァイオリン協奏曲でも、と思ったけど、何度か登場させているので、同じ協奏曲で、「ヴォツェック」の次に書かれた、室内協奏曲を聴くこととした。

ピアノとヴァイオリン、13管楽器のための室内協奏曲」というのが正式な名称。

ピアノとヴァイオリンはソロ、オケにあたる楽器は、ピッコロ、フルート、オーボエ、イングリッシュ・ホルン、クラリネット2本、バス・クラリネット、ファゴット、コントラファゴット、ホルン2本、トランペット、トロンボーンという編成。

こんなにユニークな楽器の取り合わせの協奏曲は、ほかにないのでは。

いつものベルクらしく、この曲にもいろんな想いを込めて緻密のかぎりに作曲されている。
1924年の、師シェーンベルクの50歳の誕生日に献呈するつもりで、筆を進めたが間にあわなかった。

では、師の誕生日に送りたかったこの曲の内容はというと。
まず、冒頭にこの曲のモットー主題が、フルート、ヴァイオリン、ホルンの橋渡しで演奏される。
新ウィーン楽派の面々がよく使う手だが、その主題の中に、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクの3人の名前を音名が共通する音で織り込んだのだ。
 この3という数字も、意味深く扱っていて、楽章は3つ、3つの楽器群。
1楽章はピアノ、2楽章はヴァイオリンが主体で、3楽章は二つの楽器が協奏し合うという3のバランス。
 さらに5という数字にも、意味を持たせているという。モットーが5つの小節、楽器総数が15、3×5=15、5回繰り返される旋律が多々ある。これらは、師の年齢50歳を意識してのことといわれている。
そして曲は無調が主体だが、一部、12音も柔軟に取り入れている。

まぁ、こんな小難しいことはあまり意識せずに、楽器間の緊張したやり取りや、時折ふっとあらわれるベルクらしい甘味な表情などを見つけ出したりしながら聴くのがよい。

1楽章は、「友情」と題され、スケルツォ風主題と5つの変奏。
この変奏には、ベルクの友人5人の名前がつけられていて、ピアノの怪しい輝きが魅力。

第2楽章は、アダージョで「愛」。これは、自身のヴァイオリン協奏曲とも似ていて、ベルクらしい美しさを聴くことができる。
シェーンベルクの病床にあった妻マティルデの名前が使われているほか、師の「ペレアスとメリザンド」からのメリザンドの主題も引用されている。

休みなくピアノの大胆なカデンツァで始まる3楽章は、冒頭のヴァイオリンとの超絶的な二重奏が強烈だ。「世界」と題され、これまでの二つの楽章と二つの楽器が融合した大曲。
二重奏の導入部、ロンド・リトミコ、コーダの3つに分けることもできる。
この楽章は、シェーンベルクの室内交響曲にそっくりに聴こえるのは、ホルンの活躍が大きいからだろうか。
熱気と緊迫感に満ちていて、スケッチにはベルク自身が、「世界、人生、万華鏡」と書いたとおり、いろんな方向から音が飛んできて、それは光の放射のようにいろんな色に姿を変えてみえるし、多面的で一言で推し量りがたい音楽である。
最後のコーダは、2分であっという間だが、モットーが次々とめまぐるしく奏され、ピアノの持続音の上にオーボエ、ピッコロなどが早いパッセージを刻んだあと、ヴァイオリンがピチカートで2楽章冒頭の旋律をポロロンと奏でる。
ずっとピアノは響いたまま、曲は消えるように終わる。

これは、かなり印象的な場面だ。
ベルクの音楽は、小難しく聞こえる反面、耳ざわりの非常にいいものだが、いつも最後は何か問題を投げかけてくる。
この曲も、最後のピチカートのあまりにあっけないお終いには、肩透かしを食らうが、その先にあるものはなんだろうか。
人生、こんなもん・・・・、ってなことかしらん。

ベルクの使徒アバドがCBSに録音したこの音盤。
アイザック・スターンと、ピーター・ゼルキンとの共演も珍しい。
オケはロンドン交響楽団メンバー。
全員が研ぎ澄まされ、明晰な音を紡ぎだしていて敢然とするところがない。
これは素晴らしい演奏だ。
ブーレーズもバレンボイムとともに何度か録音している。

3 2_2

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2009年11月27日 (金)

ベルク 「ヴォツェック」 新国立劇場

Opera_palace 昨日、うれしかったこと。
午前中、結構仕事が捗ったし、目途もたった。
午後からは初台でオペラ観劇。
同じ日だった、IANISさんと、アフターオペラを有楽町の居酒屋ですごす。
帰りの山手線で、チョコ電こと、山手線100周年電車に乗れてしまったこと。

Wozzeck2009 あっ、そういえば、オペラは

ベルク「ヴォツェック」

考えたくないのです。
というか、慣れ親しんだ作品でもあり、いつもならスイスイblogが起こせるのに、今回という今回は、筆が進まない。

一日置いて、書いてます。

ただでさえ、救いのないこのオペラなのに、今回の演出は、救いのないどころか、絶望と悲惨、そして言葉を失うほどの無情なまでのリアリティ。
幕が下りても、拍手すらできなかったし、いつもとは違う涙を流した。
その涙は、しょっぱかったし、歳とると肌に滲みるなぁ、なんて思ったりしてた自分。

数日前の「カプリッチョ」がとんでもなく懐かしい。

今回は、最終日の観劇だったので、皆様のblog記事を意識して拝見せずに、劇場に向かった。
バイエルン国立歌劇場との共同制作で、演出はクリーゲンブルク
バイエルンのHPで、ダイジェスト映像を見てしまっていたが、そこで印象付けられたのは、水とそこに投げ捨てられるナイフ、そしてみょうちくりんな連中・・・。

    ヴォツェック:トーマス・ヨハネス・マイヤー  
   鼓手長:エンドリック・ヴォトリッヒ    アンドレス:高野 二郎      
   大尉:フォルカー・フォーゲル      医者:妻屋 秀和         
   第一の徒弟職人:大澤 建               第二の徒弟職人:星野 淳
   マリー:ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン
   マルグレート:山下 牧子

       ハルトムート・ヘンヒェン指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
                      新国立劇場合唱団
                      NHK東京児童合唱団
                      合唱指揮:三澤 洋史
   演出:アンドレアス・クリーゲンブルク
                        (2009.11.26@新国立劇場)

以前の記事から、このオペラのあらすじを抜き出し、今回の演出を対比してみたいと思う。

第1幕
兵役中の理髪師あがりのヴォツェックは、大尉の髭をそっている

 四角い箱のような主舞台が浮き上がっていて、大尉とヴォツックがやりとりする傍らに、ヴォツェックの息子が壁を背に座って、ぬいぐるみで遊んでいて、大人のやり取りを聴いている風。大尉は、ヴォッツェックに対して暴力的である。
息子は、髭剃りのセットを取り上げてしまう。
それにしても、この大尉の肉襦袢をつけた肥えた醜さは気色悪い。
ヴォツェックと子供、そしてマリーは見た目は普通の人物。

友人アンドレスと野原を歩くヴォツェック

Ki_20002436_2  アンドレスは、髪が異常に後退していて、しかも背むし状態で、二本の杖をついて歩く。箱舞台の下のステージは、一面水に覆われていて、黒服の男が数人ゆらゆらと立っていて、ときおり、別の男が通りかかると黒服男は倒れてしまう?
威勢いいくらいに、水のぱしゃぱしゃ音が聞かれる・・・・。これは全幕に!
水に当たった光が、さまざまに色を変え全幕を通じ、舞台に反映しているし、時に人の影もゆらゆらと写しだして、これも効果満点である。
赤い炎のような幻影に悩むヴォツェックだが、背後の四角い箱には、赤く照らされたマリーが立っている。

妻マリーの部屋。軍楽隊の行進が近づいてくる。鼓笛長が色目を使い、近所の女がマリーをあてこする。マリーは混乱しながらも子守唄を歌い、そこへヴォツェックが帰ってくる。

 Ki_20002436_4 マリーは箱の上に、鼓笛長は、黒服男が背負ったステージに乗っかって登場。
近所の女マルグリートも、先のアンドレスと同様の気味悪さ。マリーの子守歌に、子供はあまり喜んではいない。
ヴォツェックは早めに登場し傍観していて、やがてマリーと手をつなぎ、そこに息子も加わり、ヴォツェックは抱っこする。こんな家庭的な光景をあえて出すのがこの演出。
息子は、壁にPAPAと書く微笑ましさ。ちょっとウルウル来てしまうじゃないか。

医師の部屋。ヴォツェックは医師から金をもらいながら実験台になっている

 実験台につながれたヴォツェック、傍らには息子。
台の左右には、本物のマウスがちょろちょろ動いている。
医師がまた珍妙で歩き方もヘン。小便をバケツに抜き取られていて、それを医師は舐めて実験結果を確かめている。その赤いホースを息子は拾い、ぬいぐるみをぐるぐる巻きにしてしまった?
ヴォツェックは、こんな姿を息子に見られたくないそぶりだ。

マリーの家。鼓笛長があらわれ、マリーはついに抱かれてしまう・・・。
 
Ki_20002436_6  この情事は、水上ステージで行われる。リアリティは薄く、奥には例の黒服集団がいる。そこに現れる男が、金のようなものを撒くと、激しい水しぶきをあげて取り合いをする・・・。
どうやら、仕事も金もないみじめな集団らしい。
こうしたシーンは何回か演じられて、鬱陶しい。
思えば、ヴォツェックもその中の一人ではあるのだ。

第2幕
マリーの部屋。鼓笛長にもらった耳飾りを眺めている。そこへヴォツェックが帰ってきて、拾ったとする耳飾りがなんで二つあるのかと問うが、実験アルバイト代を手渡し出てゆく。マリーは自責の念に取りつかれる。

 ここはこのままだった印象。
 
大尉と医師との会話。
大尉は、マリーの不義をそれとなくさとし、ヴォツェックは走り去ってしまう。


 左右から現れる二人。医師は破れ傘をさしている。
四角いステージの下には、例の男たちが、首から「ARBEIT」(仕事くれ)と書かれた札をぶら下げている。
いかにも体が悪そうなぶよぶよの大尉を医師はからかうようにするが、あらわれたヴォツェックが二人の嘲笑の標的となる。

Ki_20002436_10マリーの家。ヴォツェックがやってきて興奮して飛びかかる。「わたしに触れたら、ナイフで突き刺すわよ」と凄まれるが、この言葉がヴォツェックの脳裏にしっかり刻みこまれてしまう・・・・。

間奏曲でのチェロ独奏は、例の連中がエアチェロ演奏を片隅でしている。 
夫婦のぎすぎすしたやり取りは、四角い箱に幕が下りてその前でやりとりされる。
ヴォツェックはあまり興奮せず、マリーの方が興奮し、ナイフの言葉を口走り去る。
壁には、息子が書いた「GELD」(金くれ)の文字が・・・。


酒場。にぎやかな酒場で、みんな酔い潰れている。マリーと鼓笛長がワルツを踊っている。これを隅から見て興奮を隠せないヴォツェック。
白痴がヴォツェックのそばにきて、「匂う、匂う、血が」と暗示的なことをいい、ヴォツェックは周囲が赤く見えると言って、憑かれた様子に・・・・。


Ki_20002436_12  男たちが背負ったミニステージに乗った軍楽隊。
酒場の連中は、みんな薄毛・せむし・焦げ茶服で異様。
チューバに弱音器をつけてやる職人1号(?)が妙に可愛い(笑)
ウィンナワルツに乗って、不倫の二人も踊るが、気持ち悪い連中もうねうねと踊る。
ヴォツェックは、ぬいぐるみの男女を持っていて、それで男女の営みをもじったりしているが、やがて女のぬいぐるみだけを持ち、いつのまにか手は血まみれに・・・・。

兵舎。兵隊たちが寝ているが、ヴォツェックは眠れない。そこへ酔った鼓笛長がやってきて、さかんにヴォツェックをけしかけるので、ヴォツェックは飛びかかるものの、あっけなく組み伏せられてしまう。
静まりかえった兵舎のベットにまんじりともせずに座り続けるヴォツェック。


兵士たちは、マットレスを背中にしょっいながらあの猫背で登場。
集団で、後ろ向きになると、マットの壁ができたりして面白い効果を生んでいる。
そのマットを全員が水のステージにばらばらに重ね置いて、ヴォツェックお仕置きの場ができあがり。そんなに残酷にやられなかったのが救いだが、最後は兵士みんなにやられてしまい、アンドレスだけが止めようとする。

第3幕
マリーの部屋。ろうそくを灯し、聖書を読み贖罪のマリー。

 私の一番好きな場面。音楽も最高に美しく悲しい。あの哀切感ただようホルン・・・。
水が滴り流れ落ちる音が際立って聞こえる。
だが、マリーは祈り、子供に近づこうとするが、彼は逃げてしまい、むしろ嫌悪している風だ。
壁に沿って、線を描きながら回っていて、ついには、「売女」と書いてしまう。
そして、ぬいぐるみを壁にナイフで打ち付ける。。。。
なんとむごたらしい家庭の光景だろうか!

池のそばの林道。夜、ヴォツェックとマリーが歩いてくる。池の上には月。
赤い月を見て、血のついたナイフというヴォツェック。そしてマリーののど元を。。。


Ki_20002436_13 水のステージを二人手をつないであるいていて、例の黒服もうろうろしている。
奥の方には息子の姿もぼんやり見えるが、殺害の場面では消えていた。
月も葦の茂る池もなにもない。
マリーは人形もろとも刺されると、後ろで男たちが用意した担架のようなものに倒れ、運び去られてしまう。
ヴォツェックは、ナイフを水しぶきとともに投げ出す。

一転、酒場へ。飲んだくれて、近所の女にちょっかいを出すヴォツェック。
女は、右手に血が付いているという。その肘にも。手の血を拭いたとするヴォツェックはしどろもどろに。店の皆が、騒ぎ出す。


前の場の超緊張したフォルテッシモを受けて、急転直下ボロピアノが鳴り出す、ベルクの天才的な音楽なのだが、そのピアノは、水の上を男二人に引っ張られて、ピアニストごとおもむろに登場。この緩さには逆に拍子ぬけ。

池。マリーの死体、その首の赤い傷を見て、また誰かに首飾りをもらったのか。
ナイフを探しだし、池に投げる。しかし、泳ぐ人や月を獲る人(?)に見つかりはしないかと池の中に入って行き手の血を洗おうとするが、しだいに溺れてしまう。
大尉と医師が、遠くで人の溺れていそうな音を聴き身震いする。


ヴォツェック一人、水のステージの前面でモノローグ。
後ろには黒服。彼らはヴォツェックが捨てても捨ててもナイフを次々に手渡す。
殺害の証拠や、犯罪からは手が切れないということであろうか。
ヴォツェックは、入水せず、用意されたマットレスに悲しく背をむけて横たわってこと切れる・・・・。
大尉と医師の去ったあと、息子が懐中電灯を手に現れ、客席に向けて照らす。
そして、父の亡骸を見下ろし、その上に腰かける・・・・・。

マリーの家の前。木馬で遊ぶマリーの子供を含め、子供たちが戯れるなか、子供の一人がマリーが死んで発見されたことを言いにきて、みんな見に行ってしまう。

ひとり残されたマリーの子供は、少しためらったのち、やはり追いかけていく・・・・

 ここで、このオペラ、最大に泣かせる間奏曲が奏される。
私はここが先のマリーの祈りの場面とともに、最高に好きな場所で、体が痺れるほどの感銘と陶酔感を覚える。
ヘンヒェンは指揮棒を置き、満身の力を込めて指揮。オケも含めて、最大のフォルテを聴かせてくれた。
Ki_20002436_14  黒服を着た子供たちが、箱ステージの下にあつまり、両手に何か白いものを持ち水で捏ねている。
四角い箱の中には、少年がひとりぬいぐるみを手に立つ。
子供たちは、ふりかえり、なんと、ヴォツェックの息子にむかって、白い紙団子のようなものを次々に投げつけるではないか・・・。
こりゃひどい、イジメだよ。
そいつらが去ったあと、木馬なんて乗ってやしない少年は、HOPP、HOPPと歌いながらも、その手にはナイフが握られている・・・・幕。

あぁ、こうして思い出しながら書いていて、さらに暗澹としてくる。
ベルクのヴェリスモオペラでもある「ヴォツェック」だけど、こんなに徹底的に悲惨さ一色に塗り込めなくてもいいじゃないか。
どこにも、どこをとっても救いがない。
2時にスタートして、全幕通し上演で、幕が下りたのじゃ3時40分くらい。
マーラーの第3交響曲と同じくらいの長さだけど、その中身の異常なまでの濃さは、マーラーと違って、心を解放させてはくれず、むしろ、どうしようもない不安感とやるせなさに支配されることとなった。
劇場を出て、そこが夜でなくてよかった。
昼から夕方にかけての明るさが、まだそこにはあったから。

この作品にある重要なキーワード=ヴォツェックが口にし、自らその呪縛に取りつかれてしまう言葉。「血、ナイフ、月、夕日、赤、金、貧乏・・・」
これらは、そぎおとされたものもあるし、舞台は暗く色が意識的にもなかった。
家族3人の極貧物語。
それは、極貧がおちいる家庭崩壊ともいうべき悲惨さ。
金をもらうために権力に屈し体も精神も病んでしまう父親。
貧乏に不満を持ち、認知されない子供は懐かず、その反動で愛人関係を築く母親。
それをすべて見て知ってしまった子供。母殺しの父が好きだった息子は、まわりから揶揄され、そして・・・・・。何もこんなにリアルに書かなくていいのにわたし。

決して物語とも思えない世界を見せつけられてしまった。
この演出を私は評価不能であります。

某仕訳人たちに、こうしたオペラを見せつけてやりたいものだし、この素晴らしい音楽を耳の穴かっぽじってよく聴いてもらいたい。

タイトルロールのマイヤーは、性格バリトンじゃなくて、普通の美声のイケメン・バリトンで、われわれが抱く病んだイメージはまったくなかったのも演出意図であろう。
マリーのシュタイネンは声がやや詰まりぎみだったが、美人だし演技派で見栄えよし。
一番はまっていたのは、妻屋さんの医師で、歌もうまいが変質的な役柄に完璧になりきって見事。マルグリートの山下さんも、あんな変な頭をさせられていながら立派な歌唱。
大尉のフォーゲルは普通に歌う分にはいいが、ファルセットや咳込んだりするアクロバット歌唱の部分はイマイチ。
ヴォトリヒの鼓笛長、いつもながら聞こえません。バイロイトの放送ではちゃんとしてるのに。

ヘンヒェンの指揮については手慣れた以上に、緊張感漂う見事なもので、この人はオペラの人なのだなと実感。

それにしても、亡き若杉さんの指揮で、これを聴きたかった。
でも、この演出だと若杉さんの繊細緻密な演奏とミスマッチか・・・。

前にも記したことで恐縮だが、若杉さんの指揮する二期会「ヴォツェック」を85年に観劇した。当時は日本語上演であった。
葦の茂る池に、日が沈んで、あたりが赤く染まってゆく中、ヴォツェックが池の奥に沈んでゆき見えなくなった。誰もいない中に静かに奏される、あの美しい間奏曲。
体が震えるほどの感動と甘味な感情を味わった舞台に、若杉さんの素晴らしい指揮であった。
こんな場面は、昨今の演出では味わえなくなってしまったのだろうか。

ドイツの劇場の演出は洒落じゃないけど、過激。今回上演はまだマシな方かも。
最近では、スペインのリセウもそう。
ドイツ、スペインときて、かつての枢軸国イタリアはさほどでもなく、イギリス、フランスもそう。アメリカは保守的。
日本は、どちらかといえば保守的で、ようやくオペラが根強いてきたような段階。
でも以外と、受動的な我々日本人だから、過激演出もすんなり受け入れてしまうのも事実。
新国の予算削減とでもなれば、内外の劇場との共同作業も増えるであろう。
メットは高そうだから、ドイツ系の演出の流入が増えるかもしれない。
大いに、刺激を与えて欲しいものだ。


ナイフを握った少年に、虚ろなエンディングの長調の音楽。
さながらオペラそのものの、レクイエムのように響いた。
私は悲しいよ。

「バイエルン国立歌劇場」のヴォツェック映像

「ヴォツェック」過去記事

「ドホナーニ&ウィーンフィル、ヴェヒター」
「ベーム&ベルリン・ドイツ・オペラ、フィッシャー・ディースカウ」

              

   

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2009年11月25日 (水)

ベルク 抒情組曲 ブーレーズ指揮

3 今日25日の東京タワー。
週の中日だというのに、ダイヤモンドヴェール。

事務所から先っちょが見えていて仕事帰りに歩いて行ってまいりました。

1 2

「女性に対する暴力廃絶国際日」なのだそうです。

そのイメージカラーが、パープルということで、紫の東京タワーは初めて見たわけ。
女性もそうだけど、男性に対する暴力は・・・?
我が家では、日々恐々としているオヤジひとりいます。

Schonberg_berg_boulez R・シュトラウスモードから、耳を切り替えなくてはと、本日はベルク(1885~1935)。

1926年に作曲された、弦楽四重奏曲である「情組曲」は、ベルク初の12音技法によるものである。
6つの楽章から、2、3、4の楽章を弦楽5部の編成に組みなおしたのが、この「抒情組曲」である。
その名に惹かれて、抒情だから、さぞかし美しく繊細なのでは、と思って聴くと、これがなかなかにシャープな曲で驚かれるかもしれない。

1楽章と3楽章が無調。2楽章が12音技法によっている。
ベルクの作品は、どれも緻密な構成で出来上がっていて、この曲の1年まえの「ヴォッツエック」は、シンメトリーな構図がさらに組曲として細分化された構造となっていて、知らず知らずに、聴き手は蜘蛛の巣に絡めとられてしまうかの感覚を受けることになる。
 この「抒情組曲」も、真ん中の楽章が、さらに3つの部分になっていて、急速な12音のパッセージの間に、「トリオ・エスタティコ」=「恍惚のトリオ」という無調の響きが挟まれていて、ある意味、楔のような存在になっているという。

不安を掻き立てる早いパッセージに支配されたこの楽章の真中に、情熱を込めたようなトリオ部分を聴くと、ベルクが明らかに、ワーグナーやマーラーの系譜にある人であると確認できる。

この曲は、アルマ・マーラーに紹介された人妻ハンナ・フックスに捧げられていて、ハンナを表す数やベルク自身を表す数を、音や小節数、テンポなどに落とし込んでいて、遂げられぬハンナへの想いが、髄処ににじみ出ている。
 ハンナとその子供たちを表した第1楽章は、親しみやすく、しかしどこか寂しい雰囲気。
第3楽章は、情熱的なアダージョと名がつけられ、ツェムリンスキーの抒情交響曲からの引用がなされている、緊張感に満ちながらも、なかなかに美しい曲。

この曲も、ベルクの他の作品と同じく、最初はとっつきが悪いが、何度も何度も聴いていると、耳になじみ、そしてそれが甘味な美しさへと変わってゆく。
原作は、「潜在的オペラ」とも言われたこの作品。
これも原作では、トリスタンの引用もある。
いずれまた、オリジナル四重奏曲を取り上げましょう。

オペラは死んだ、の、ブーレーズは、なんだかんだで、オペラの指揮が上手。
ニューヨーク・フィル時代に、録音したこちらのCDは、切れ味もいいが、ブーレーズらしからぬ、リリシズムもある。
ニューヨーク時代のブーレーズは、バーンスタインとのお気楽NYPOを鋭利なオケに変えてしまった。
いまの丸くなってしまった大家ブーレーズより、当時の方が適度にキツくて好きだな。

4 もう一丁

暴力反対っと

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2009年11月24日 (火)

R・シュトラウス オペラ管弦楽曲集 カイルベルト指揮

Operacity 東京新宿の「オペラシティ」。
コンサートホールへ続く階段であります。
左手が「新国立劇場」、右手は、オフィスと商業のビル。

この新国立劇場も、事業仕訳けの対象の中に組み込まれてしまった。

日本芸術文化振興会からの委託を受けた「新国立劇場運営財団」がその矛先となっているわけだ。
天下り云々とか言われても、われわれ音楽愛好家には関係ないこと。
そして、採算性だけで片付けられないのが、文化芸術ではありませぬか。
開場以来、12年に渡って、素晴らしい公演を外来に比べたら安価に提供してくれた。
最近は、故若杉さんの努力も実り、本当に観たい舞台が次々と繰り広げられ、満席の公演も少なくない新国なのだ。

ここでは、政治的なことは一切書きませんが、歴史上、芸術が政治に泣かされるということは何度もあったこと。
でも、芸術はそのつど立ち上がり、それを愛する人々とともに乗り越えてきた。
二期会の「カプリッチョ」のローウェルス演出は、そのあたりのことも感じさせること、しきりであった。

 民間団体との協調や地方への寄与などを増やし、その存在意義を音楽音痴の方々にもわかっていただかなくてがなるまい。
そして何よりも、若い聴き手を育てなくてはならない。

しかし、オペラを喜々として享受しているのは、私のような一部の人間だけ。
厳しい世相にあって、オペラは道楽としか見られないのも事実。
難しいものだ。

暗澹たる思いもあるが、いまは新国を応援することしかできない。
お世話になっております、Museum::Shushi Bis。こちらもご覧ください。


Keilberth_strauss 本日も、R・シュトラウス

シュトラウスのオペラの中には、そこだけ抜き出しても素晴らしいオーケストラ作品がたくさんある。
名交響詩をさんざん書いたあげくに、オペラに打ち込んだ人だけに、あたりまえである。

定番は、「サロメ」、「ばらの騎士」、「インテルメッツォ」、「影のない女」、「カプリッチョ」といったところ。
あと変ったところでは、「グンドラム」や「ダナエの愛」、「無口な女」、「エジプトのヘレナ」なども、なかなかいい前奏曲や間奏曲を持っている。

そして、代表盤としては、なんといってもプレヴィン盤。
一家に1枚ぐらいに、持って聴いて損のないCDだ。
そして、メータ、J・テイト、シノーポリ、ティーレマン、そして今日のカイルベルトなど。
カラヤンが、ここに録音を残さなかったのが不思議で、「サロメ」は何度も録音したけれど、「ばらの騎士」のワルツを指揮したことじたいがないのではないかしら・・・。
ベームもまとめた録音はないけれど、そこそこ演奏していた。

   「サロメ」~7つのヴェールの踊り
   「ばらの騎士」~1幕・2幕のワルツ、3幕のワルツ
   「インテルメッツオ」~4つの交響的間奏曲
   「無口な女」~前奏曲(ポプリ)

    ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団
                          (1961? ミュンヘン)

カラヤンと同年生まれの、ヨーゼフ・カイルベルト
地味な存在だったが、若くして亡くなってしまう直前まで、N響によく来演していた。
享年60歳だから、もっと長生きしていたら、指揮者界はもっと変わっていたはずだ。
カイルベルトは典型的な劇場たたき上げのカペルマイスターで、トリスタンを指揮中に亡くなるという、まさに劇場とともに生きた人生だ。

R・シュトラウス直伝ともいえる、このオペラ管弦楽作品集は、バイエルン・シュターツオーパーを振っていて、派手さの一切ない、実質的な音楽運びのなかに、シュトラウスの歌心がキラリと光っている。
録音はやや古びていて、高音が耳につくが、ミュンヘンのオーケストラに特有の暖かみある音色は、しっかり顕在。
そして、昨今のオーケストラの音が軽く感じるほどに、重厚な響き。
これは、カラヤン時代のベルリンフィルを聴いても感じることだ。

それにしても、「インテルメッツォ」の間奏曲たちは、ほんとに素敵な音楽だ。
洒脱さと、勢い、情熱と美しい歌にも満ちている。
それと、あまり知られていないけれど、ポプリと題された「無口な女」の前奏は、センスあふれる洒落た音楽であります。

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2009年11月23日 (月)

R・シュトラウス 「カプリッチョ」 月光の音楽~モノローグ

 

Motomachi_4_2



































横浜
元町

通りには、こんなキレイなイルミネーションが施されておりました。

初冬の暮れようとする空の色は、本当に美しい。

厳しい世の中だけれど、我が人生の夕暮れもかくありたい。

Capriccio_schirmer_kiri_2 土曜日に観劇した、R・シュトラウスの「カプリッチ」。
観劇記事を仕上げているときも、聴きながら。
眠りについたときも、頭の中で、その素晴らしい音楽が鳴りやまなかった。

今日は、このオペラの一番の聴きどころを、手持ちの音源で聴いてみたい。

キリ・テ・カナワの全曲盤は、シルマーとウィーン・フィルという願ってもない組み合わせ。
キリのクリーミーボイスは、たまらなく魅力で、R・シュトラウスの甘味な音楽に絶大な効果を発揮するものの、ドイツ語の響きがややムーディにすぎる。
釜洞さんの方が、言葉が明瞭。
でも、さすがに気品漂うステキな令嬢マドレーヌで、耳にも心地よい。
シルマーは来年、東京でパルシファルとアラベラを振りますね。

Fleming_struass
デッカのキリのあとのディーヴァは、ルネ・フレミン
こちらもバックは、贅沢にもウィーン・フィル。
でも指揮がエッシェンバッハとあって、月光の音楽から、かなりゆったりめ。
そして味付けが濃い目。
それは、フレミングが歌い始めるとさらに濃厚に感じられるが、でもさすがに歌いくちがうまい。
違和感はすぐに薄れ、その巧みな歌と、背景のくまどり豊かなオーケストラに聴き入ることとなる。
録音も実によろしい。

Nina_stemme
そして、今が旬の北欧のソプラノ、ニナ・シュテン
イゾルデとマルシャリンを歌わせたら、いま一番かもしれない。
余剰な感情移入はなく、音楽のみを何不足なく、完璧に歌いだしてみせた感がある。
力ある声を、抑制しているから余裕も感じられるし、パッパーノの指揮と合わせて、すっきりとした現代的なシュトラウス。
 ここに儚さや、ほろ苦さが加われば万全。
いずれまた彼女のマドレーヌは聴くことができるかもしれない。
Capricio_strauss

 

往年の歌手となってしまった、シュヴァルツコップのマドレーヌ嬢はいかがだろうか。
久しぶりに聴いてみて、その感情表現の巧みさに耳を奪われた。
カラヤンの歌手版のようなキメ細やかな歌いぶり。
シュテンメと比べると、我々の耳も変化しているから、時代の経過を大きく感じさせる。
でも、雰囲気豊かなモノラル録音が雑念を抜きにして、初演されてたった15年後の録音ということを感じさせて感慨深い。
サヴァリッシュの若い指揮に、初演時出演者ホッターのラ・ローシュが味わい深い。ホルンは、デニス・ブレインでありましょうか。

 

Bohm_capriccio

 

何度も、弊ブログに登場させているこのジャケット。
楽器と羽が絡み合う。
そう音楽と羽ペン=詩、ということでありましょう。
秀逸なジャケットです。
ヤノヴィッツの声の美しさは、後輩のキリを上回るかもしれない。
明晰でクリアー、ほのかな甘みも感じさせる。そして、そのデリケートな表現では、絶妙のマドレーヌであろう。
造形の美を感じさせる点では、ヤノヴィッツが一番かもしれない。
それは彼女の歌う「4つの最後の歌」とも重ね合わせることができる。
ベームとバイエルンに何も言うことはない、完璧。

ヤノヴィッツのあとは、トモワ・シントウが活躍した。
シントウがザルツブルクで歌ったシュタインとの全曲盤は、放送録音の自家製CDRで我慢している。
シントウの声も美しい。でもヤノヴィッツよりもっと声に芯があって強い。
意志をもった真面目な女性を感じるがゆえに、どちらも選べない心の葛藤を歌いだすことに成功していると思う。これも素敵な令嬢マドレーヌさんだ。

クライバーの愛した名マルシャリン、フェリシティ・ロットも、この役を得意としていて、先だってのプレヴィン&N響定期を聴いたばかり。
録画した映像を改めて視聴してみたが、その立ち居振る舞いからして気品あふれるそのお姿。デイムという呼称が、まさに相応しく、「ごめんあそばせ」の雰囲気。
声も凛とした、一本まっすぐな凛々しさがあって、どこにも不明瞭なところがなく、安定感抜群。さりげない中にも表現力を強く秘めているのがわかる。
彼女が、プレートルと共演した全曲盤をオーダー中。

Popstein_strauss
そして最後は、ルチア・ポップであります。
この誰をも魅了してしまう、明るく暖かな歌声は、モーツァルトやシュトラウスの数々の役を、われわれの理想的な姿として、その耳に残してくれている。
彼女の早い死は痛恨事であり、シュトラウス好きにとって、彼女のマルシャリン、アラベラ、令嬢マドレーヌの全曲録音が残されなかったことも、悔やまれてならないことなのだ。
同じことが、ここで指揮をしているシュタインにもいえて、オペラ全曲録音に恵まれなかった。

ポップの令嬢マドレーヌの理想的な歌に、彼女の死により永遠に失われてしまったものを多く感じてしまい、涙が出てしまう。
ここにこそ、まさにひとりの名歌手の人生の美しい夕映えを見出す思いだ。

先だっての、ローウェルスの演出について、あれこれと考え、想像をめぐらせている。
これもまた、オペラ観劇の楽しみなわけだけれど、観るわれわれに、こうして悩みを植え付けるのも彼のまた演出の狙いだったのだろうか。
詩人の書いたソネットに、「たとえ私が50万年生き続けても、素晴らしき人、おまえをおいて他には私を支配するものはない・・・」とあり、作曲家のつけたその曲を、このモノローグの中で歌う。
通常は、つい数時間前のことを思い起こして歌う場面なのだが、今回の演出では、はるか昔に過ぎ去ったこととして、埃を払いながら悔恨に満ちながら歌うというシチュエーションだった。
 あの時の、令嬢マドレーヌの嗚咽の涙は、ユダヤ人として排除されてしまった音楽家と詩人へのものでもあり、そして、数十年も待ち続けている自分に対する涙であったのであろうか・・・・。「詩と音楽で細やかに織りなれた愛・・・・、そこにもう織り込まれている自分」

そして、シュトラウスとナチスとの関連についても、思いをめぐらせる今回の演出である。
この関係については微妙なところで、ずっとドイツにとどまり作曲や指揮活動を続けるには、当局との関係を保たないとできないこと、事実、帝国音楽院総裁の職にも一時あった。そして、イスラエルが長く、シュトラウスの音楽をワーグナーと合わせて禁止していたたことも、ついでに、日本帝国皇紀2600年の祝典音楽を我が国に寄せたことも、ちょっと親ナチス的なマイナスイメージともなっていようか。
 でも実際は、表面ではそうしながらも、あくまで自己の芸術を第一に優先し、ショスタコーヴィチほどではないが、当局におもねるようでいて、決してそうではなかったのが事実。
「無口な女」の初演ポスターから、台本作家のユダヤ人ツヴァイクの名前が削除されたことに怒り、作り直させた。当局からもヒトラーら幹部の初演臨席取り消しで応じるという悶着もあった。
その後、当局批判の手紙が押収され、シュトラウスは総裁職を辞することとなった。
 こんな風に、シュトラウスは音楽家としての気概を持ち続けた、強い意志の持ち主だったのだ。
演出の中では、劇場支配人ラ・ローシュが、実はナチス党員であったが、その立場をかなぐり捨てて、ユダヤの作曲家と詩人を逃がす場面があった。
シュトラウスの姿と重ね合わせることもできる。

こんな風に思いはとどまるところを知らない。

さて、本題の令嬢マドレーヌさん。
私は誰がお気に入り? 誰を選ぶ(笑)

そう、これは簡単。ルチア・ポップさまにございます。
 あ、でも美しいヤノヴィッツもいい。それとキリも甘やかいいし、ロットの気品も捨てがたいし、シュヴァルツコップには過去を回顧する悲しみが、シントウも、ステンメも、フレミングも・・・、あらら、どうしよう。

 

Motomachi_5 過去記事一覧

「フレミング&シルマー」
「シュヴァルツコップ&サヴァリッシュ」

「R・ポップ&シュタインの最後のモノローグ」
「F・ロット&プレヴィンの最後のモノローグ」
「ヤノヴィッツ&ベーム」
「2009年 二期会公演」

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2009年11月22日 (日)

お知らせ クラヲタ会Ⅲ 開催

好評を博しております、「クラシック音楽ファンの集い」=「クラヲタ会」、第3回が開催されます。
気がついたら、もうじき12月。
忘年会でもありますね。

これまでご出席いただいた皆さん、参加してみたいという音楽好きのみなさん。
大いに音楽を語りましょう。

例の事業仕訳で、新国立劇場をはじめ、わたしたちの音楽環境にも寒風が吹こうとしております。
音楽を愛する仲間の輪が、とても大切に思います。

【開催要項】

日時:12月5日(土)18:00~
場所:蒲田駅近くの店舗

詳細は参加表明頂いた方にメールでお知らせ致します

【お申込み、お問合せ】

①当記事にレスをお願い致します。

そして、
②下記にメールをお願い致します。

  
   ZUM02164@nifty.ne.jp

【お申込み締切日】

 11月30日(月)

【共催ブログ】順不同

「日々こもごも ~Humoreske~」

「のんべのクラシック日記」

「minamina日記」

「golf130のクラシックお笑い原理主義」

「さまよえるクラヲタ人」

よろしくお願いしますNyanko

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2009年11月21日 (土)

R・シュトラウス 「カプリッチョ」 二期会公演

Nissei

昭和の香り漂う「日生劇場」。
かつてのオペラの殿堂。
右手は帝国ホテル。

Capriccio_nikikai_2009



















定評ある二期会のドイツもの。
ワーグナーとR・シュトラウスの上演は、これまでは若杉さんに委ねられてきたが、これからは、ワーグナーは飯守先生、シュトラウスは沼尻さんということになるのだろうか。

その飯守先生の手兵がピットに入った日生劇場。
シュトラウスの晩年の澄み切った境地にある軽やかで透明感あふれる音楽を、沼尻さんは、うす味だけど、繊細にそして抑えた中にも美しく聴かせてくれた。
複雑極まりない円熟の極致にあったシュトラウスの巧みな筆致。うまく解き明かせてくれたのでは
響きは少ないけれど、舞台の声がよく通る中規模の日生劇場は正解だった。

演出は昨年のワルキューレと同じローウェルス
あの1作しか観たことはないけれど、わかりやすく、泣かせるツボを心得た人だが、ちょっと説明的にすぎて、過ぎたるは云々の感を抱いていた。
そして、今回もそうした印象は随所に抱きながらも、しっかりと、そしてまんまと、その術中にはまってしまうこととなった。

   R・シュトラウス 「カプリッチョ」

 伯爵令嬢マドレーヌ:釜洞 祐子   伯爵 :成田 博之
 作曲家フラマン:児玉 和弘       詩人オリヴィエ:友清 崇
 劇場支配人ラ・ロッシュ:山下 浩司 女優クレロン:谷口 睦美
 イタリア歌手:高橋 知子        イタリア歌手:村上 公太
 執事長:小田川 哲也         ムッシュ・トーブ:森田 有生
 8人の従僕たち:菅野 敬、園山 正孝、西岡 慎介、宮本 栄一郎
             井上 雅人、倉本 晋児、塩入 功司、千葉 裕一
 エトワール、振付:伊藤 範子 

   沼尻 竜典 指揮 東京シティフィルハーモニック管弦楽団
   演出:ジョエル・ローウェルス
      

これからこの舞台をご覧になる方は、以降は読まない方がお楽しみが増すものと思われます。

美しい弦楽6重奏の前奏曲が奏でられるなか、幕が開き、そこは乱雑に散らかった邸宅の一室。
詩人と音楽家、すなわちオリヴイエとフロマンが部屋のあちこちをいじくりまわして、何やら感慨にふけっている。
うち捨てられた婦人の肖像画を見つけたときは泣きそうになってしまう。
よく見ると、彼らの胸には、ユダヤ人の証たる星のバッジがつけられている。
原作は18世紀パリ近郊だか、ナチス占領下の1942年という作曲時期に舞台設定をおいているわけ。

そこへ、人の気配がして、二人は逃げる。
入れ違いにナチスの軍服をまとった男たちが入ってきて、倒れたテーブルを直したり、横たわったシャンデリアを吊したりと、部屋の復元作業を行った。
そのあと舞台が暗くなり、登場人物たちがそれぞれ配置ついて、通常の始まりとなった。
あのきれいな6重奏曲の間中、こんな動きがあったわけだから、音楽はバックグラウンドミュージックになっちゃった。
でも、これがプロローグ的な場面となって、ローウェルスの作り出した演出意図が理解できるわけでもあった。

Capriccio


















 こんな感じの舞台の様子。
劇場の1階入り口にあるスケール模型の舞台セットです。

この窓の外の田園風景の移り変わりが、極めて美しかった。
前奏曲ではもちろん闇だったけれど、本篇が始まると、外は美しい緑と黄色の秋模様(と思った)。
それが時間の経過とともに、だんだんと昼の眩しさとなり、そして夕焼けのオレンジから赤へと変わってゆく。
月光の音楽の前、みながそれぞれの目的のために去ってゆく場面では薄光で、そのあと闇が訪れた。
そしてシュトラウスが書いた最大絶美の音楽、「月の光の音楽」では、閉ざされてしまった窓の外が徐々に開き、外はブルーに覆われた。
そのあとの、令嬢マドレーヌのモノローグの場面でも印象深い背景のカラーが展開されたが、それは最後に。

各登場人物のキャラクター設定も面白い。

Capriccio_02_03














一番目を引いたのは、私が一押しのメゾ、谷口さんの演じたクレロン、存在感たっぷり。
スラっとした長身を生かしたタカラジェンヌ風の押し出しで、パンツ姿。
別キャストの加納さんは、写真で見るとスカート姿。
でも、谷口さんのお姿は、女優クレロンにぴったり。
お酒、とりわけ、ウィスキーに目がないご様子で、ジャックダニエルを生で、皆の目を盗んで何杯も飲んでらっしゃる。
酒飲みだからわかる、あの飲み方。ワインでもシャンパンでもなんでもいい。
給仕から何杯もおかわり。
ボトルを持ち歩くこともありよ!
そんなキャラクターを据えたローウェルスの意図はいかに。
厳しい時代に、酒に逃避し内面は苦しんだ芸術家。彼女も最後は・・・・。

Capriccio_02_02














伯爵兄妹は、館の主然とした皮肉もたっぷりの余裕ある存在。
パリの社交界にあって、利権・権力構造の上に自然にある方々。

若い芸術家ふたりは、精力的で、ジャケットにネクタイ、スカーフも巻いた当世風の若者。
それぞれの芸術領域にそれこそ、命をかけている熱中タイプ。
詩人の書いたソネットは、小ぶりのノートに。
作曲家の作った曲は、A4サイズのノートに。
それぞれ、その思いと熱意が詰まっていて、このオペラに重要な素材ふたつの肩代わりをしている。
冒頭のプロローグ的場面でも、片隅からこの分かち難いふたつのセットをふたりの若者は探し出していとおしんでいた・・・・。

芸術家より一世代以上うえの、劇場支配人ラ・ローシュは、現実的でありながらも、新しきことに価値を見出しがちな諸氏の反発をかってしまう旧来の人物。
この人のいい人物を、山下さんは、極めて明瞭に歌いだしていて、このオペラの聴きどころのひとつ、初演者ホッターの名唱も残る大モノローグを敢然と歌ったものだ!
 この支配人が、みなから軽んじられ嘲笑を浴びる場面。

Capriccio_02_10














執事連中もクスクス笑いはまだよいとしても、前の場で出てきたバレエ少女たちが、前面に出てきて滑稽なバレエを踊った。
これは、ちょっと無駄なことではないかと・・。ただでさえ、シュトラウスの錯綜した音楽に言葉(セリフ)の洪水の中にあって、目まであちこち動かさなくてはならないし、過剰な演出に思われた。
 このローウェルス氏、バレエ・ダンスの挿入がお好きと見えてワルキューレでも、ローゲをわざわざ登場させて興をそぐことをしていた。
ただでさえ美しい「月の光の音楽」は、先に舞踏の場面で登場した監督のスカウトしたバレエダンサーが、踊る場面となった。
単体でも聴き涙するあの名品。
できれば、そっとブルーの光の中に、音楽だけを聴かせてほしかった・・・・・。

それと少女の登場も、お父さんの心をくすぐり、彼女らの無垢の演技は父親たる私の涙腺を刺激するが、頻繁にすぎる。
彼女たち、ご褒美にチョコレートケーキを食べてました。
ご丁寧に、行き渡ってないグループに、配る少女もいるくらいに、細かな演出。
このケーキを切り分けたのが老執事。
オペラの最初から登場して、牛歩のように隅から掃除をしていて、舞台から落ちそうになると、伯爵が向きを変えてあげる。
椅子に座って居眠りをしちゃうし、窓ふきもして綿密そのももの。
ケーキを食べ終わった少女たちに、やさしくいざなわれて退出しておりましたよ。

こんな感じの、細かな動きが舞台のあちこちにあって、それも左右で行われるし、方や歌っている登場人物たちもいて、それらが皆ドイツ語を垂れ流すものだから一応字幕も確認しなくてはならない。
この忙しさ、おわかりいただけるでしょうか!
私が過剰といったのは、こうしたことで、昨今のオペラ演出は手が込んできてて、こんな舞台は当たりまえ。
一度や二度じゃ味わいつくせないものもあり。
トーキョー・リングはその最たるものかも。

ちょっと散漫になってしまったが、豊富で細かなアイデアはいたるところにあって枚挙にいとまがない。
でもそれらは、この演出の添え物にすぎないかも。

冒頭の場面は、最後にいたって、重きをなしてくる。

令嬢のオペラを作曲家と詩人で協力して作るようにとのアイデアに、伯爵の今日の反目した鶏と卵のお話をそのまま題材にしたら、というナイスな提案を受けて、一同の気持ちがひとつになる。
そしてクレロンが、パリへ戻ることに。

Capriccio_02_08












 


そこで踏み込んできたのが、ナチスの親衛隊。
彼らは、ダビデの星を付けた、先の老執事を引っ立てている。
ラ・ローシュは、隊長風の男が持ってきた令状を見て投げ捨て、その親玉に早変わりして鉤十字の腕章の付いた上着を着る。
若い芸術家には、冒頭のダビデの星付きの上着をあてがわれる。
クレロンもそうであろう。かれらが、引き渡されるのだ。
令嬢マドレーヌは狂わんばかりに止めようとするが、兄に押さえられる。
原作では、ごきげんよう、がんばってねぇ~、的な軽い別れなのに、ここでは今生の別れが繰り広げられたのだ。

引ったて役を自ら買ってでたラ・ローシュは、フロマンの胸ポケットに書類をねじ込む。
隙を見て、ふたりは部屋を脱出する。
ラ・ローシュは、腕章をかなぐり捨て舞台を去る。その後は押してしるべしであろう。

こうして誰もいなくなった舞台を、ゲシュタポたちが原作の執事たちのこっけいな歌を歌いながら、舞台を冒頭の混沌状態に戻してゆく。
なるほどですな。
 最初から気になっていた、プロンクターの箱。
これが実は、十字架のついた棺桶の形をしていて、ここから地下の住人、プロンクター氏が出てくる。
これには、ゲシュタポたちもどうしていいかわからず、そこそこ敬意を払いつつ、退場。

このあとが、先に書いたとおり、美しすぎる「月光の音楽」となり、バレエが始まる。
実は兵士が一人残っていて、このバレエを見ているが、実は彼は、館の舞踏でペアを組んだ相方だったのだ。
久方ぶりの対面に、仲良く踊るが、音楽が終わりに近づくと、別れを惜しみつつも左右に消えてゆく。
戦時に別れ別れとなった恋人たちを象徴しているのだろうか。

Nov17_2009_214












さあ、このあとが、シュトラウスの神がかり的にまで達した、軽やかで枯淡の境地の音楽。
令嬢マドレーヌの長大なモノローグが始まる。
そしてあらわれた令嬢は、予想もしなかった老齢の域に達した婦人だった。
杖をつきつつ、懐かしむように、かつて芸術を論じた部屋を眺める姿に、音楽の素晴らしさもあって、私は涙をとどめることができなかった。
そうきたか
傍らから、詩人と音楽家の残したソネットと楽譜を拾い、慈しむように、埃を払いながら、今だに続く心の葛藤を歌う。
かつて詩人が言葉をつけ、作曲家が音楽を付けた歌を歌う彼女。
この歌がこんなに、悲しく心に響くなんて。
この廃墟を見て、さっきまで明るく楽しかった舞台と、そこにいた仲間たちが、急に懐かしくなってしまった。客席の私にも、もう遠い過去に感じられた・・・・。

決めあぐね、悩む姿は、若い二人が姿を消したあの日から続いているのだろうか。
残酷な時の経過に、ついに彼女は、嗚咽にむせび泣いてしまうのだ。

ここで、舞台背景が動きだし、窓の背景が閉じられてゆく。
袖には、例の地下の住人プロンクター氏が、これを見守っている。
装置は片隅に追いやられ、舞台は半分が、まさに劇場の素のままの空間となった。
マドレーヌは、静かに舞台奥へと歩を進めてゆき、背景の色は、ブルーからベージュがかった色となり、彼女の姿だけがシルエットのようになっていった。
最後は、プロンクター氏が、令嬢の置いて行ったソネットと楽譜を拾い上げ去ってゆく・・・・。

こんなに悲しいカプリッチョの結末は、予想だにしていなかった。

でも所詮は劇の中での出来事・・・、最後はそう物語っていたのだろうか。

会場で配られたローウェルス氏のメッセージには、「ナチス政権頂点のもとで作曲したR・シュトラウスの作業は困難を極めたであろうが、ここに人間的メッセージが隠されていたのではないか・・・、熟練のシュトラウスが、私たちに人生の遺産を残そうとしたのではなかったか・・・」とある。

ホフマンスタール以来の、理想の共同作業の相棒となるはずだった、ツヴァイクがこのオペラの素材を選びつつも、台本を完成することなく、ナチスを逃れ亡命し、やがて自決してしまうという出来事は、「わかちがたい関係である言葉と音楽」の片腕を失ったに値する。
でも、自身とK・クラウスの素敵な台本は、その損失を補ってあまりあるものだった。
ナチスを非難して、役職を解任されてしまうシュトラウスの心の中には、まさに音楽と詩しかなかったのであろう。
生真面目で、ごく常識人だったシュトラウスである。
あまり深読みもしなくても、その素晴らしい音楽が、すべてを語っているように思われるが、いかに。

歌手のみなさんのことは、褒めても賞讃しても、しすぎることはないだろう。
ドイツ語乱れ飛ぶ、こんな難しい作品を、完璧に歌い演じるのだから。

中でも釜洞さんのマドレーヌは、ドイツ語のディクションも万全で、CDで聴くキリ・テ・カナワよりも言語明瞭。そして明晰で暖かな歌唱だった。
JADEで活躍中の成田さんの兄もまろやかなバリトンで、よかった。
ファンの谷口さんも、素晴らしくコクのある歌声で、お姿ばからりかお声もよかった。
詩人と音楽家の、友清さんと児玉さん、これから活躍しそうな若手で、舞台映えもいい。
そして山下さんの舞台監督は先にあげたとおり、ブラボーも浴びてました。
コミカルなイタリア歌手ふたり、高橋さんに村上さん、ドイツ語の中にあって異質のイタリア歌唱は、シュトラウスお得意の差配であるが、明るくも異質性を歌い出しておりました。
バレエのお姉様、伊藤さんの軽やかでお美しいことといったら、なかったですね。
日本人オペラはついつい褒めちゃいます。
実際素晴らしかったのだからなおさらに


こうした上演は、是非映像にしてもらって、何度も確認してみたいものだ。
この美しい舞台は、映像にしても鑑賞にたえうるし、世界に発信してもいいくらい。
二期会もそうだけど、藤原、新国、その他日本のオペラ上演は、NHKが必ず映像化すべきだと思うし、互いの団体が相互協力してより充実した舞台のレパートリー化を目指してもらいたいし、東京ばかりでなく、主要な都市での上演も心がけてほしいものだ。
(舞台写真は、CLASSIC NEWS、二期会blogから拝借いたしました)

 「カプリッチョ」 過去記事

「フレミング&シルマー」
「シュヴァルツコップ&サヴァリッシュ」

「R・ポップ&シュタインの最後のモノローグ」
「F・ロット&プレヴィンの最後のモノローグ」
「ヤノヴィッツ&ベーム」

なお、来年の二期会、「オテロ」と「ボエーム」のあとは、プラッソンのファウストの劫罰、グシュルバウアーの魔笛などがパンフレットに予告されております。

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2009年11月20日 (金)

プッチーニ グローリア・ミサ コルボ指揮

Azabu_church2 こちらの教会は、都会のど真ん中にある「麻布教会」。

通りを一本中に入ると、静かな住宅街。
さらに進むとお金持ちがたくさんいらっしゃるエリアになってる。
カトリック系は、聖母マリア様もしっかり存在感があります。

Azabu_church 教会の中庭から、マリア様を眺めると、六本木ヒルズがこんなにでっかくそびえておりまする。
手前のマンションがまた何とも・・・・。
右側に洗濯物が、それこそ沢山干してありましたので、カットいたしました(笑)

Pucini_messa_di_gloria_corboz オペラばかりじゃないプッチーニを。

私のフェイヴァリット・オペラ作曲家を3人あげるとすると、一にワーグナー、次いでR・シュトラウスプッチーニということになる。
 え、ヴェルディは、モーツァルトはどうした?と言われそうだけど、しょうがありません。

いずれもそのオペラ作品は、すべてブログにて取り上げてしまい、そして何度も観て聴いてます。

プッチーニは、10作(3部作=1作品)あるオペラ以外は、知られていないと思うが、唯一美しい管弦楽作品を集めたシャイーの1枚が、多くのファンを持っているはずだ。
歌曲や声楽作品もそこそこあって、シャイーやドミンゴのCDをこれまで聴いてきた。

そんな中で、一番の大曲が、この「グロリア・ミサ」である。
1880年、21歳の作品。
名門音楽一族の出自であるジャコモ・プッチーニが作曲を始めたのは、15〜6歳の頃とされ、教会のオルガン奏者を務める傍ら、オルガン音楽を作っていたらしい。
ルッカで勉学中、音楽コンクールで「モテット」と「クレド」の声楽作品を出して優勝し、その素材を使って書かれたのがこのミサ曲ということになっている。
パチーニ音楽院の卒業作品でもあるこの曲が、5つの通常ミサ式文からなる45分の大作である。

オペラ作曲を夢見て、すでに名作「交響的前奏曲」を10代に残しているくらいだから、プッチーニ特有の甘くも切ないメロディラインと、それを十全に表現しつくす巧みなオーケストレーションもしっかり身に付けていて、どこを聴いてもプッチーニの音がする。

もちろん、マノン・レスコー以降の劇的な音や、巧みな描写力はここには聴くことができないけれど、親しみやすい旋律とフレッシュな感性に溢れたその音楽は、宗教曲であることを忘れさせてしまう。神々しさや神妙さのない、リリカルで心易きミサ曲。
テノールとバスの独唱に合唱という、プッチーニにしては、女声っ気のない珍しい編成。

1.キリエは、優しいオーケストラの旋律から始まる癒される音楽。
  合唱も終始柔和な雰囲気で歌われるゆったりした展開である。

2.グロリアは、それだけで20分近くかかるが、さらにいくつかに分かれている。
  その最初は、快活で喜ばしい合唱についで、祈りの歌となる。
  次いで、テノール独唱が、まるでアリアのような聖句を歌い始める。
   これは素晴らしい。
  ロッシーニやヴェルディの宗教曲にもテノールのアリア風聖歌がありますね。
  あんな感じ。
  そのあと、冒頭の合唱の場面が繰り返される。
  男声合唱により主導される力強い部分(Qui tollis peccata mundi・・・)が始まり、
  対するオーケストラもなかなかダイナミックになってくる。
  最後はアーメンで高らかに終わる。

3.クレードは荘重で、いかめしい雰囲気で始まる。ここも15分と長い。
  やがて、テノールが合唱のうえに歌いはじめる。
  イエスがマリアから生まれたくだりを神妙に歌う。
   ピラトにより十字架にかかられ云々では、変わってバスが切々と深刻に歌う。
  その後は、合唱が引き継いで、長々と歌い継いでゆくわけだが、このあたり、ちょっと
  霊感不足で、やや印象が薄くなっているのは否めない。

4.サンクトゥスは、たった3分。合唱とテノールによるものだが、通常サンクトゥスには、
  爆発的な歓喜を期待するものの、ここでは意外と大人しく。あっさり終わってしまう。

5.アニュスデイは、さらにアッサリしたもので、3分に満たない。
  二人の独唱が、合唱のうえに、単純で親しみやすいアニュスデイを繰り返し歌う。
  このデュエットは、旋律こそ違え、ロドルフォとマルチェッロを思い起こしてしまった。
  静かに、やはりあっさりと終わってしまう、この優しく、小粋な終曲は悪くはない。

ちょっと、竜頭蛇尾の感のあるプッチーニのミサ曲。
でも、プッチーニを愛するものとしては、押さえておかなくてはならない憎めない作品でありました。

  テノール:ウィリアム・ジョーンズ バス:フィリップ・フッテンロッハー

   ミシェル・コルボ指揮 リスボン・グルベンキアン管弦楽団
                       〃        合唱団

合唱の神様とも呼ぶべき、コルボがリスボンのグルベンキアンを指揮したこの1枚、さすがに合唱が素晴らしい。
明るい基調で屈託ない歌声に透けるような明晰さ、オーケストラも精度はともあれ、同質の響き。
プッチーニの音楽には、こうした明るさと透明感があっている。
テノールのジョーンズは、ワーグナーやオテロを歌うようなドラマテック・テナー。
同名だからそうだと思っているが、ハンブルクオペラの来日でローエングリンを観た記憶があるが、声はもう覚えていない。
ここでは、ワーグナー歌いとは思えないリリカルな歌いぶり。
フッテンロッハーも定評あるところで、こうした曲はとてもうまいもんだ。

というわけで、気になったら聴いてみてください。
パッパーノや、シモーネは、豪華な歌手陣であります。
この曲の場合、あまりゴージャスな演奏はそぐわない気がしますね。
アマチュア合唱で楚々と歌われるのがいいのかも。

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2009年11月19日 (木)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 バンベルガー指揮

Oden_osaka 出汁がたっぷりしみ込んだダイコン。
大阪にて食べたそのお味は、優しくて暖かいお味にございました。

Meistersinger_ch_lp さて、本日は過去にトリップして、また昔話を。

たぶん、これが私が買った初めてのオペラのレコードであり、ワーグナーであります。

「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の抜粋盤。
会員制通信販売のコンサートホール・レーベルの1枚。
中学2年生だったでしょうか。
私の愛読書は、音楽の友社の名曲解説全集のなかの歌劇上・下2巻。
飽くことなく読み、いろんなオペラの粗筋を覚えていって、本作はどんななんだろ、と思いを膨らませていった頃。
そんな渇望を少しだけ満たしてくれたのが、このレコード。
当時発売されたカラヤンの全曲盤なんて高くて手がでなかったし。
ちなみに、初のオペラ全曲レコードは、中学3年に、「ベームのリング」「ベームのトリスタン」「カラヤンのボエーム」「プレートルのトスカ」・・・・こんな感じです。

Meistersinger_ch このレコードが、GALAレーベルから復刻された。
中学生ながらに、あまりにレトロな田舎の雰囲気に、ズーズー弁のような訛りのある妙な歌唱、もこもこしたオーケストラに、音のつまったようなこもった録音・・・、そんな印象を持った。
いまCDで聴くと、かなりその通りだが、バリッとした演奏に慣れてしまったこの耳には、妙に新鮮にひびくものだ。
レコードより多くが収録されているが、唐突に切れたり、始まったりと、興が削がれることも多々あり。
しかし、1956年録音時、ドイツの地方のハウスでは、きっとこんな演奏による上演が日常、行われていたことでありましょう。
正直、いまの極東日本の団体による演奏や歌のレベルのほうが、はるかに上。

こんな演奏ですから、あまりお勧めはできません。
ガッカリすること間違いなしです。
ダービットの歌にはずっこけちゃうし、ポーグナーも全然威厳がないし、ザックスも軽すぎ。
でもワルターはかなり立派だし、エヴァちゃんも悪くない。
オケはうまいんだか下手だかわかんない。

不思議なマイスタージンガーだけれども、私にとっては懐かしい。
マイスタージンガーの片鱗をこれで学ばしてもらった訳であります。

 ザックス:ルドルフ・ゴンスツァール ポーグナー:ゲオルク・ステルン
 ワルター:カール・リーブル      ダービット:ヤコブ・レス
 エヴァ:ウタ・グラーフ   マグダレーネ:アンネリーゼ・シュロスハウワー
 夜警:ヤコブ・シュテンプリ

 カール・バンベルガー指揮 フランクフルト歌劇場管弦楽団/合唱団
                      (1956年録音)

余白に、ライトナーとミュンヘンフィル+ビュルテンブルク劇場のマイスタージンガー抜粋も入ってる。
こちらはヴィントガッセン、ヘルマン、クッパー、テッパーなどの実力派が歌っていて、聴き応えあり。でも一部歌い回しが古臭いのもあり。
オケも録音もこちらの方が上。1951〜53年頃の録音。

2度目のワーグナー・シリーズは、順番だと「マイスタージンガー」だけど、こちらじゃありません。
どの演奏、どの映像にしようか、考え中

   

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2009年11月17日 (火)

札幌交響楽団 東京公演 尾高忠明指揮

Opera_city_1 毎年11月恒例の、札幌交響楽団の東京公演を聴く。この公演はホクレンの冠コンサートでもあり、今年で22回目。
毎回、てんさい糖を帰り際にいただけるのも恒例のお楽しみ!

Sapporo_so_2009 尾高&札響コンビならではのオール・エルガー・プログラムの今宵、絶品のエニグマが聴けて、寒さも雨の鬱陶しさも吹き飛んでしまった。

そして、オペラシティは、これも恒例のすんばらしいイルミネーションに彩どられております。

エルガー 序曲「フロワッサール」

       チェロ協奏曲
  
        チェロ:ガイ・ジョンストン

       エニグマ変奏曲

      組曲「子供の魔法の杖」
        ~ワイルド・ベア


  尾高忠明 指揮 札幌交響楽団
       (2009.11.17@オペラシティ)

エルガー初期の作品「フロワッサール」は、ブラームス的な響きと、明るく親しみ溢れるエルガーらしさのある快活な序曲。
コンサートの冒頭にまことに相応しいこの曲を鮮やかに演奏して、のっけからブラボーが飛んでいた!
これには、まぁまぁ、落ち着いていきましょうよ、という気分だったけど(笑)

次のチェロ協奏曲は、81年生まれの若い英国チェリスト、ガイ・ジョンストンがソリスト。
この人のチェロがまた驚くほどに繊細で、冒頭からその微細ともいえる表現に、耳をそばだて集中することとなった。
こんなにきれいに、細やかに演奏されるチェロ協奏曲は初めてだった。
尾高さんも、奏者を理解し巧みな付け方で、ガイ君もオーケストラに指揮者にと、なんども視線を送りつつよく聴きあっての協調ぶり。ソロとオケとの協奏というよりは、まさに協調。
ジョンストン氏の尾高さんへの尊敬の念あふれる、慎ましくもナイーブな演奏で、私にはとても好ましく感じられました。
少なくとも、浮ついたところのない、この渋~いチェロ協奏曲の一面をしっかり捉えていたのでは。
お聴きになった方はどうお感じになられたでしょうか?

20分の長めの休憩のあとは、30数分のエニグマ変奏曲。私の大好きな曲のひとつだ。
時間的には軽めだけど、どうしてどうして、冒頭に書いたとおり、ほんとに素晴らしい演奏だったから、アンコールを入れての40分間は、充実の極みであった。
出だしのアリスをあらわすテーマこそ、慎重な運びだったが、変奏が始まるとすぐにリズムの刻みが鮮やかでノリのよさが際立ちエンジン始動、そして全開という感じだ。
第4の地主さまのダイナミズムも見事で、札響の分厚いが威圧的でない低音群炸裂。
次ぐ気難しさと愛らしさの交錯する学者をあらわす変奏への切り替わりも鮮やか。
概して変奏と変奏のあいだの間が息もつかさず、かといって唐突にならず、呼吸が実によかったのもベテラン尾高さんならでは。
 ヴィオラを学ぶ友人の変奏の洒落た雰囲気と、次ぐ打楽器群・金管、エルガーらしく賑やかに上下する弦、それぞれ錯綜する7変奏の対比の妙。
そして、ニムロットであります
この日の白眉たる変奏曲は、この素敵なニムロットの曲だった。
じんわりと音楽が熱を帯びてゆくさま。
尾高さんの熱い指揮に、夢中になって演奏して応える札響の面々。
聴いていて胸と、そして目頭が熱くなってしまった。

 そのあとの愛らしいドラベラ。木管の刻みに、ピチカート、そしてチェロの優しい歌に陶然としてしまう。
このあとは、感動の最終フィナーレまで、急緩緩と素晴らしい音楽がつづくが、「なぞ」のロマンツァはそれこそ息を飲むほどに美しく、そして緊張を強いられた。
トリをつとめる、エルガー自身の音楽は、全体を俯瞰するかのような大きなムードに溢れているが、尾高さんはここで大爆発。
わずかにテンポを揺らし、そして速めながらオルガンも加わり、壮大極まりない感動のエンディングを築き上げた。
私は、もう感激しちゃって、ドキドキ・うるうる状態。
そして、ブラボーを軽く一声、今日も献上

この曲で、会場がこんなに沸いたのって初めて。
みんな札幌の街が好きだし憧れがあるから、札響のことも応援したくなる。
クールでブルー系の弦と木管、分厚い金管に低音。
しっかりと色をもったオーケストラではないかと思う。
尾高さんのしなやかで、上品な音楽造りと見事にマッチしているし、尾高さんのここ数年のコンサートでの熱血ぶりには、実は大いに注目していたところ。
私のフェイバリット指揮者に共通の、「物静かさと熱気の共存」という点で、大好きな尾高さん。今後オペラを振る機会も増えて、ますますスゴイ指揮者になっていくのではないかと思う。

アンコールの「子供の魔法の杖」組曲の最終曲「ワイルド・ベア」は、普段CDで聴くのとまったく違う、アンコールピースとして、オケの名人芸を引き立たせるような目にも耳にも驚きの演奏だった
やったぁ、という感じ。

来年はオール・シベリウスです。

Opera_city_2_2
そして、またまた恒例、来シーズンのラインナップが配られました。

4月 エリュシュカ
   シンフォニエッタ、
   ドヴォルザーク5番

5月 高関 &庄司紗矢香
   トルコ風
   ライン

6月 尾高 &イッサーリス
   サンサーンス2曲
   デュリュフレ レクイエム!

9月 尾高
    マーラー 3番

10月 D・イノウエ
    ラロ&フランク

11月 尾高 &竹澤

   シベリウス 4つの伝説曲

12月 ゲルゴフ
   チャイコフスキー4番

1月 E・リーパー&河村尚子
   ブラームス ピアノ1番
   プロコフィエフ 5番

2月 尾高 &ペレーニ
   ショスタコーヴィチ チェロ協、5番

3月 高関
   マーラー 7番

こんな感じです。
英国ものがまったくないのが、極めて残念。
しかし、尾高さんのマーラー3番と美しいデュリュフレは必聴。
神奈川フィルのように、金さんマーラーづくしになっていないところがいい。
その神奈フィルにも来る、若いゲルコフとはどんな指揮者なのだろ。
 今シーズンも、C・デイヴィスの息子のシベ2とか、尾高さんのラフ2、高関のショスタコ8など、魅力的なプログラムが残ってます。

でも、札幌は遠い



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2009年11月15日 (日)

マーラー 「千人の交響曲」藤沢市民交響楽団創立50周年記念公演と「さまよえるクラヲタ人」開設4年

Fujisawa_2 昨日は、藤沢市民交響楽団50周年記念公演
マーラー交響曲第8番「千人の交響曲」であります。

いやがうえにも盛り上がり、感動極まりないフィナーレに頬を上気させてホールを出ると、空がこんなに美しく染まっておりましたよ。

音楽も素晴らしいけれど、こうした自然の作り出す光景には敵わないや。
Fujisawa_3

夕焼け好きのワタクシですから、もう1枚。
何も加工しておりません。

「千人」を聴いて、こんなキレイな空を眺められるなんて
そして、このあと、おいしいお酒に突入したことは申すまでもございません

Fujisawa_shimin_2 神奈川フィルの定期公演とまったく被ってしまった。トゥルノフスキーの指揮でマルティヌーが聴けるというのに・・・・。(う~む、でも)

湘南高校吹奏楽部を母体に1959年に創立された藤沢市民交響楽団は、今年創立50年。
福永陽一郎氏の薫陶を受け、山田一雄、若杉弘など錚々たる指揮者との関係も深い歴史あるアマオケ。
文化人の多い湘南藤沢ならではだし、私なんぞは優秀な湘南高校は憧れの的だった。

そして、かつて、リエンツィやベリオ版トゥーランドットを初演したすごい団体なのであります。
神奈川に育ちながらも、不覚にも今回が初めて。

そして、神奈川フィルを通じてよく聴くようになった名誉指揮者、現田茂夫さんの「千人の交響曲」を聴き逃してはならなかった。
音楽の響きをキレイに聴かせる現田さんのマーラー、しかもオペラも得意なだけに、声楽入りの作品が悪かろうはずがない。

元気に、テキパキと指揮をする現田さんの後姿。
いつものように、その背中に汗が。
最初は左側にポチッと一点。それが曲の進行とともに徐々に広がってゆき、最後には背中じゅう熱演の証しともいる汗のシミで覆われてしまう。

こうした大曲を明快に、わかりやすく聴かせてくれる現田さん。
聴衆にも演奏する側にも受けがよいのがよくわかる。
曲が曲だし、出だしは皆さん硬かった印象だが、1部の中ほどから音がほぐれてきて、イキイキとしてきた。可愛い少年少女たちの声が出てからだったろうか。
CDでは、埋没してしまう子供たちの声が、本日はとても耳によく届いた。
彼ら・彼女たちの無垢な歌声は、きっとマーラーが思い描いた天使たちの声に最も近かったのではなかろうか。
 ホールの特性も意識して、現田さんは、ソロが入るとオーケストラを必至に抑えていたのがよくわかった。一方で、居並ぶ合唱には、もっと歌えとどんどん煽ったりしている。
ホール後方に陣取った別動隊バンダも加わって、それを振りむき指揮をする現田さん。
ファウストの場面の、さながらオペラのような音楽は、賑々しさよりは、抒情の際立つ場面が極めて美しく、全員が心を合わせて演奏しているのがよくわかり涙が出そうになった。
 そして、どんな演奏でも必ず感動の坩堝と化してしまう、「神秘の合唱」以降の圧倒的な高揚感。
500人並んだ演奏者のみなさん、現田さんの後姿、それぞれを見渡しつつ、この素晴らしい交響曲を努力して作り上げ、ここの最大のフィナ ーレを迎えるというシーンに立ち会い、その喜びに感きわまってしまったワタクシです。

  ソプラノ:管 英三子   山本 香代  半田 美和子
  アルト :栗林 朋子    牧野 真由美
  テノール:福井 敬     バリトン:久保 和範
  バス  :久保田 真澄

           現田 茂夫 指揮 藤沢市民交響楽団
                 藤沢合唱連盟、藤沢合唱連盟ジュニア団体
                 合唱、ニュニアコーラス多数
                 合唱指揮:浅野 深雪 ほか
                      (2009.11.14 @藤沢市民会館)

Hoppy Hoppy_holumon_2

プリン体ゼロのすぐれもの、ホッピーちゃんを飲みつつ、ホルモンをいただくの図。
藤沢でのアフターコンサートは、音楽の余韻に興奮しつつも、楽しい会にございました。
みなさま、お世話になりました。

これより、本日のブログ記事、第二部

Mikan_nakai

たわわなミカン。
これからもっと甘くなりますね。
シーズンです。

わたしの神奈川の実家の近くにて。
こんな温暖の地にのほほんと育ったわたくしにございます。

そろそろじゃないかと過去記事を遡ってみたら、「2005年11月7日」が初記事でした。
二期会の「さまよえるオランダ人」がそれ。

1週間たってしまいましたが、開設4年を機に、ここにいつもご覧いただいていらっしゃる皆様への感謝を申し上げます。
こんなへっぽこブログですんません。
感謝感激、今年もDanke schone

これからも聴き続けます。そして書き続けますよ
つらい日もたくさんありますが、音楽を聴き、癒され、そして書き、皆さまのご意見も頂戴し、気持ちが解放されてます。
実際にお会いして盃を酌み交わす方々もたくさん増えました。
音楽のなせる力、ここに極まれり

ただいま、昨日の余韻を確認しつつ、ハイティンクの「千人交響曲」を聴いております。
神秘の合唱が、静かに始まりましたよ

そして、わたくしごとで恐縮でございますが、来週の土曜日には、またひとつ歳を重ねてしまいます。
二期会のR・シュトラウス「カプリッチョ」観劇が自分への贅沢なプレゼント。
ここに明かそう、わたくしの秘密を。
市民オペラとほぼ同年代、現田さん、大友直人さん、と同期でございますよ。

現田さんの、汗に滲んだ背中をみていたら、まだまだこれから、頑張るぞという気持ちになってきた。
先が見えちゃった、なんていってらんないねぇ

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2009年11月13日 (金)

ペルゴレージ スターバト・マーテル アバド指揮

Takatsuki 高槻教会
高山右近ゆかりの教会は、とても清々しく落ち着く場所でありました。

聖母マリアとその足元の扇風機がなんとも庶民に開かれた雰囲気にございました。

こちらの写真は、いずれまたご紹介します。

Stabat_mater_orch アバドは、特定の作曲家に強い思い入れをもって、執念ともいえる意欲で、その作品演奏に励むことが多い。
マーラー、ムソルグスキー、新ウィーン楽派などに加えて、ペルゴレージもそう。

一番有名な「スターバト・マーテル」だけではなく、「ディキシド・ドミヌス」を含む宗教作品を集めた1枚とさらにミサ曲などの1枚、都合3枚のペルゴレージ・アルバムを続々とリリースする。

来年、2010年が生誕300年の記念の年となることもあっての録音ながら、超巨匠になったアバドが、マーラーを繁茂に演奏するかたわら、スターバト・マーテルばかりでなく、ペルゴレージのまったく未知の作品まで掘り起こして録音を重ねているということ自体がすごいことだと思う。
しかも、ピリオド奏法に徹した積極的な演奏で、その探究心の豊かさと進取の気性は、かつての大巨匠たちには考えられないことだと思う。

ペルゴレージ(1710~1736)は、中部イタリアに生まれ、その後ナポリで活躍した作曲家で当時絶大な人気を誇ったらしい。
オペラを数十曲、宗教作品・歌曲多数と声中心にその作品を残したが、26歳で亡くなってしまうという天才につきものの早世ぶりであった。
スターバト・マーテルは、おそらく最後の作品とされているが、磔刑となったイエスの十字架のもとで、悲しむ聖母マリアを歌った聖歌で、ヴィヴァルディ、スカルラッティ、ロッシーニ、ドヴォルザーク、プーランクなどが有名どころ。
 それらの中にあって、抒情的な美しさと優しい歌と劇性にあふれていることで、ペルゴレージのものが燦然と輝いている。

アバド3度目の録音は、ピリオド奏法を用いながらも、少しも先鋭にならず、リュートを交えた響きは古雅で暖かく、そして繊細極まりない演奏となった。テンポも早くなっている。
嘆きの歌であるから、基本は短調であり、悲痛な音楽でもある。
アバドの透徹した表現は、その悲しみを歌いだしてやまない。
一方で、アバドのこの演奏には、不思議と明るさが漂っているように感じる。
それは、音楽をする喜びに満ち溢れた明るさとでもいえようか。
若い奏者たちのレスポンスの高い演奏が、アバドを若々しくしているのか、アバドの深淵な域に至った人間性が、若いオーケストラから驚くべきサウンドを引き出しているのか。
マーラー・チェンバーと同じことがここでも言えるのではないか。
 アバドのお気に入りの歌手ふたり、ハルニッシュミンガルドのニュートラルな歌もすっきりと好ましくも美しい。

    ソプラノ:ラヘル・ハルニッシュ   コントラルト:サラ・ミンガルド
   
         オーケストラ・モーツァルト

                  (2007.11@ボローニャ)

Stabat_mater
83年録音のロンドン響との録音。
こちらは、レコード・アカデミー賞をとった名盤である。
当時、コンサートスタイルの演奏が主流の中にあって、ロンドン響を小編成に組みなおし、バッハやヴィヴァルディをさかんに演奏していたアバド。
この録音が出たときも、垢をすっかり洗い落したかのような、スッキリとスマートなペルゴレージに、多くの聴き手が新鮮な思いを抱いたはずだ。

新盤を聴いて、こちらを聴きなおすと、そのあまりの違いに驚くを禁じ得ない。
テンポの相違は先に書いたとおりだが、響きが過剰に感じ、感情表現も濃く感じる。
演奏スタイルの時代の変遷もあろうが、それ以上にアバドのやりたいことが違ってきているわけである。歌手の歌い方も、大幅に異なる。
ここで歌っている、マーシャルヴァレンティーニ・テッラーニは見事としか言いようのない素晴らしい歌唱である。しかし、新盤での抑制の利いた若い歌と比べると、歌いすぎと聴こえるし、オペラティックですらある。
 でもですよ、私には、この清々しい歌に満ち溢れたペルゴレージも捨てがたく、どこか懐かしく、若い頃のことを思い起こしたりもしてしまう1枚なのであります。
25年も前だもの。私も若いですから。

  ソプラノ:マーガレット・マーシャル 
  コントラルト:ルチア・ヴァレンティーニ・テッラーニ

         ロンドン交響楽団員
                 (1983.11@ロンドン・キングスウェイホール)

Stabat_mater_la_scalla そして、79年の録画によるスカラ座メンバーとの演奏。
こんな映像が、今年、忽然と姿をあらわした。
しかも歌手が、リッチャレッリテッラーニなのだから。
さらに、演奏会場がすばらしい。
オーストリア、ケルンテン州の美しい湖のあるオシアッハの、シュティフツ教会。
装飾美あふれるバロック建築の、これまた美しい教会である。

「ケルンテンの夏」音楽祭でのライブと思われる。

宗教音楽は、本来コンサート会場ではなく、教会での典礼の一部であったわけだから、こうした場所での演奏は至極当然であり、演奏する側も、聴く側も、音楽の感じ方が変わってくるはずだ。
アバドがこの音楽に求めたものが、こうしたシテュエーションでの映像を見てわかるような気がした。
ロンドンでの録音より、オーケストラは小規模で、教会の豊かな響きは意外と捉えられておらずデッドである。だから、よけいに音ひとつひとつが直接的に訴えかけてくる。
無駄なものを切り詰めた直截な表現に感じ、そうした意味では新盤に近い。
この演奏の2年後に、スカラ座を引き連れて、カルロスとともに来日したアバド。
その時のコンマスも座っていて、なぜか懐かしく思い出される。
アバドも歌手もともかく若い。
指揮棒を持たずに簡潔な動きで真摯な雰囲気がにじみ出ていて、ペルゴレージの音楽が持つ抒情と劇的な要素を見事に描き出している。
 惜しくも亡くなってしまった、ヴァレンティーニ・テッラーニの深みのある声がまったくもって素晴らしく、この頃は重い役柄で声が疲れていなかった、リッチャレッリのリリカルな歌声も素敵。ロンドン盤の歌唱より、こちらの方がオペラへの傾きが少ない。

     ソプラノ:カーティア・リッチャレッリ
     コントラルト:ルチア・ヴァレンティーニ・テッラーニ

         スカラ座合奏団
              (1979.夏@オシアッハ、シュティフツ教会)

3種類そろったアバドのペルゴレージ「悲しみの聖母」。
新盤は別次元の感あるが、それを含めて3つともに、わたしの大切なライブラリーとなりそうだ。願わくは、プティボンに、このソプラノ・パートを歌って欲しいもの。
キャプチャー画像を多めに貼ってみました。
若い、きれい、かっこいい、でしょ

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2009年11月12日 (木)

エルガー 弦楽四重奏曲 ブリテン四重奏団

Himeji_art秋の色濃くなってきた公園にて。

先週出張した姫路で早朝散歩したときの写真。
横には、壮麗な姫路城があります。

こうした景色に合うと、室内楽、それもブラームスあたりを想像してしまいますな。

String_quartet_walton

そのブラームスに雰囲気がとても似ている弦楽四重奏曲。
エルガー(1957〜1934)の作品を聴きます。
エルガー唯一の弦楽四重奏曲
1912年頃から構想を練りはじめ、1918年、ヴァイオリンソナタを作曲し、姉妹作ともいえるメロディあふれるピアノ五重奏曲とともに本格着手して1919年に完成させた。

1880年代と1907年頃にも、弦楽四重奏のスケッチを残しているが、いずれも完遂することなく放置され、何度目かの正直の結果生まれたのがこちら。
充実した筆致と、まるでブラームスを思わせるような内声部の充実した音楽。
エルガー62歳の作品は、いぶし銀的な部分ばかりでなく、いかにもエルガーらしい高貴な抒情にもあふれていて、ほかの有名作品と同じように広く聴かれるべき作品だと思う。

3楽章形式で、ホ短調の第1楽章には哀愁あふれる中にも熱い情熱を感じさせる。
まさにホ短調のブラームスの世界に相通じるかもしれない。
つづく第2楽章、ピアチェヴォーレとイタリア表記されたこの緩除楽章、翻訳したら「楽しく」という意味になったが、そういう雰囲気ではない。
このピアチェヴォーレで検索すると、イタリア料理のお店の名前や競走馬の名前、演奏団体の名前とか、いろいろ出てくるけど・・・・・。誰かピアチェヴォーレの意味を教えて。
この楽章、とても穏やかで、愛らしさと気品において絶品の美しさである。
 終楽章は、素敵な2楽章のあとにくる音楽としては、いささかせっかちなものに聴こえる。第1楽章との旋律的な関連もうかがわれるが、急速なパッセージの乱れとび、パタっと終わってしまうので、音楽の完結感がこれまたいまひとつに感じる。ブラームス的ともいえなくもないが・・。

エルガーの年上の妻、アリスは、第2楽章がその体調がすぐれなかった初演時に、すぐにお気に入りとなり、その後亡くなり、1920年の葬儀の折りに、この楽章は演奏されたという。
人の気持ちをいたわり、優しく包み込む、このような音楽で送られるのも悪くないと思わせる。この2楽章ゆえに、捨てがたい魅力をもつエルガーの四重奏曲でありました。

ブリテンのを冠した、ブリテン四重奏団は、若々しくフレッシュな感覚でもって、とてもよく歌っていて気持ちがいい。
ハイペリオンのコウルズSQのCDでも、カップリングはウォルトンとなっているところが面白い。

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2009年11月11日 (水)

ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番 五嶋みどり&アバド

Toyota_kanihnke 車であのトヨタのおひざ元を走っているときに、突然現れた立派なお城。

あれっ、地図にもナビにも出てないぞ?

誰の居城ぢゃあ~?

実はこれ、「かに本家 豊田城店」だそうな。

まじですごい。

天守閣でカニを食うのか

Shostakovichi_vln_con_midori_abbado ショスタコーヴィチヴァイオリン協奏曲第1番
これは大曲であり、4楽章の連続しない完結した構成は、まるで交響曲の様相を呈している。

1947年~48年の作品で、交響曲でいえば9番と10番の間。
スターリン政権下の文化委員ジダーノフの行った時の知識人への抑圧キャンペーンとちょうど重なる時期で、ショスタコーヴィチはダヴィッド・オイストラフを想定した書いたこの協奏曲を引っ込めてしまう。
そしてあたりさわりない、映画音楽や合唱作品を書きつつも、この深刻な協奏曲を完成させた。
初演は遅れること1955年に、オイストラフとムラヴィンスキーによってなされている。

例のDSCH音型も使用されるなど、第10交響曲との関連性も窺われるが、なんといっても、ヴァイオリン・ソロに要求される超絶的な技巧と多様な音楽性でもって驚くべき作品となっている。
トランペットとトロンボーンを欠く、渋く、かつ名技性を要求されるオーケストラ部分も凄まじい。

第1楽章:夜想曲
第2楽章:スケルツォ
第3楽章:パッサカリア
第4楽章:ブルレスケ


沈滞ムードとノクターン的夢想が織り込まれた第1楽章は緩除楽章。
いかにもショスタコっぽいスケルツォは、途中ノリノリのお得意の行進曲モードで、聴いていて思わず体が動いてしまう。
ヴァイオリン独奏がずっとカデンツァのように弾きまくらなくてはならない高難易度のパッサカリア。その形式のとおり、古風で甘味な雰囲気もあるが、実に深みのある音楽。
アタッカで強烈に始まる終楽章はまた、無窮動的なショスタコモード満載。
ソロとオケが激しくぶつかり合い、しのぎを削るかのようでとどまるところを知らない。
ラストは興奮の坩堝だ。

   ヴァイオリン:五嶋みどり

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                         (1997.12 ベルリン)

こんな凄まじい協奏曲を、五嶋みどりがライブ録音したのが97年、26歳のこと。
技巧的にまったくの過不足がないばかりか、一音一音に込められた覇気がひしひしと伝わってきて、こんなに音楽に入り込んで大丈夫だろうかと思ってしまう。
スケール感はさほどではないものの、繊細さと鋭さにおいては目を見張るものがあるし、音の充実度においては先に書いたとおりである。

いまのところ、アバド唯一のショスタコーヴィチ録音であるという点で、アバディアンである私にとっては、ミドリさん以上に注目度が高い録音である。
アバドの持ち味である繊細さと鋭さは、ミドリさんと同じくするものであるが、どこか醒めた眼差しも感じるのは私だけであろうか。
もちろん天下のベルリンフィルだけあって、2楽章や終楽章は凄まじいまでの鳴りっぷりである。
アバドのショスタコーヴィチは、この他にベルリンフィル退任コンサートで「ハムレット」を取り上げているのみである。
ムソルグスキーにのめり込むほどに、ショスタコーヴィチには向かわなかったアバドである。それでも、パッサカリアの深刻極まりなく重厚な響きは、まったく素晴らしいものである。

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2009年11月10日 (火)

祝開店 「爆演堂」    ベートーヴェン 交響曲第8番 バーンスタイン指揮

Manekineko 今日はいろいろとありましたな。

森繁さんが亡くなられたし、整形逃亡男は逮捕されたし、朝鮮半島は緊張してるし・・・・。

ですが、われわれクラシック音楽ファン、いやクラヲタ人にとっての朗報ひとつ

大阪キタで、音楽バーを営み、自らもレーベルを立ち上げたマスター氏が、       「ライブ&復刻盤」専門店を立ち上げました
その名は「爆演堂」でございます。
皆様、どうぞクリックしてご覧くださいまし。
驚きのレア音源がずらり。
くれぐれも、クリックしすぎに注意でございますよ

Beetohoven_bernstein_5_8

その「爆演堂」に多くのライブ録音のあるバーンスタイン
ボストン響とのベートーヴェンや、イスラエルとのマーラー第9など、食指のそそられるものばかり。
中でもあたしには、トリスタンと夢と終わったリングの抜粋DVD(J・キングのジークフリート)がむちゃくちゃ気になる。

でも今日は、おとなしくレニーとウィーンフィルートーヴェンから、交響曲第8番を聴きましょう。

バーンスタインの晩年の思いきり自己陶酔的な演奏の数々からすると、DGに移籍した70年代後半頃は、音楽に対して適度に中庸で、ウィーンフィルとの共演にも新鮮さが勝っていたから、安心して音楽に身を任せることができるし、音楽の活きがよく極めて気持がよい。

この第8交響曲は、昨今の演奏からすると、軽やかさが不足して感じるが、弾むリズムとキレのよさはバーンスタインならではだし、ウィーンフィルの小粋な管の響きも楽しいものだし、3楽章のウィンナーホルンとクラリネットの絡みは和みませてくれる。

本当は、ムジークフェとえんじ色を背景に演奏する映像の方が、ホールの響きも実感できるようでよいのだが、あいにくDVDは所有せず、手元には、NHK放映されたものを録画した大昔のビデオテープがあるのみ。
今回のCDや、映像すら、今や懐かしくなってしまった。

演奏の変遷も時代とともに移り変わり、過去に流されてしまうものもあれば、そうでないものもある。
私が音楽を聴き始めたことは、指揮者界では、カラヤンの天下。
バーンスタインは、ニューヨークからヨーロッパへ羽ばたいてから、カラヤンと覇を競うようになったし、同時にベームも大爆発した。
こうした大物たちに、未知のソ連の大家や、セルやオーマンディがひしめいていた時代。
素晴らしきかな70年代。

あぁ、今月はまたひとつ歳を重ねることになるワタクシ。
また昔話を聴かせてしまいましたねぇ~。

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2009年11月 9日 (月)

ものまね「にゃんにゃん」

D なかなかの風貌に貫録にございますな。

親にゃんこでありましょうか。

A1
こうやって、こうして、毛づくろいをするのだよ。
と、手取り足取り練習中。

ちょっとボケてますが。

B

こうしてお手々をと。

C それから、こうしてっと、頭をポリポリと掻いてと。

F おいおい、ひとのことは舐めなくていいんじゃよ。
くすぐったいじゃないかよう。

E あっ、変な人が写真とってるよう~、怖いよう~・・・・。

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2009年11月 8日 (日)

R・シュトラウス 「カプリッチョ」 ベーム指揮

Kitanno_kazamidori 神戸の山の手、北野地区にある「見鶏の館」。

朝早くホテルを出て行ってみました。
特にどうということはないと思ったけれど、ともかくよく朝日があたること眩しい限り。

NHKの朝のドラマで一躍有名になったけれど、あれはもう1977年のこと。
歳を感じるなぁ。
そして、風見鶏のようなどっちつかずの私の人生。。。。とほほ

Bohm_capriccio

言葉か音楽か、詩人か作曲家か、答えが最後まで出ない。
そんなオペラの本質の命題を素材にした作品が、R・シュトラウス最後のオペラ「カプリッチョ」。

シュトラウスが到達した枯淡でありながら澄み切った透明感あふれる境地。
全1幕、2時間20分。
ほとんど同じ舞台で、合唱も入らず、登場人物たちの語りと歌の入り混じった言葉の洪水に溢れていて、手ごわい印象も受けるかもしれない。
でも何度も味わうと、そう、スルメのように噛むほどにおいしく、味わいが増してゆく。
最初は、対訳付きで聴いても、言葉を追うのに疲れてしまう。
特にCDのリブレットは細かくていかん。
その点、レコードの豪華な解説書はよかった。

私は何度も格闘して、この作品に慣れ親しんでいったが、映像で観るとまたその理解の深まりと感銘もひとしお。
フレミングのDVD映像は画期的でありましょう。

そして、かつて若杉弘さんが手がけたこのオペラを、この11月に二期会が上演する。
当然にわたくしも観劇予定であります。

作品の来歴は、過去の記事をご覧いただくとして、まずはあらすじを再褐し、このオペラの私なりの見どころ、聴きどころをご紹介したいと思います。

パリ近郊、伯爵の兄と若い未亡人の妹が住む宮殿の客間。
作曲家フラマンが作った弦楽6重奏が演奏されている。劇場支配人ラ・ローシュは、よき調べに気持ちよく眠っている。伯爵令嬢は、うっとりと聞き惚れている。
フラマンは、自分の音楽が令嬢に満足を与えたとして満足しているが、詩人オリヴィエは、自分の詩の方がお気に入りなのだとして譲らない。
言葉(詩)と音楽、どっちが勝っているか、さらにラ・ローシュも加わり、3人で激論が交わされる。今夜、邸宅でオリヴィエの書いた劇が上演されることになっていてこうした人物達が集っているのである。
 代わって令嬢と伯爵が登場し、伯爵は令嬢が作曲家に惹かれているのではないか?とからかい、自分は詩の方がすぐれているという。
令嬢は、今夜の劇でその詩を伯爵お気に入りの女優クレーロンが朗読するからね、と逆にやり返す。
 ラ・ローシュが、今夜の演目を説明する。
まず、フラマン作曲のシンフォニア、次いでオリヴィエ作の劇、自身作のスペクタル劇、という具合に。
そこへ、クレーロンがやってきて、練習が始まる。
オリヴィエの伯爵令嬢への愛を歌った朗読に刺激を受けたフラマンは、作曲に没頭する。
その出来立ての歌は、令嬢を魅惑してしまう。
でも令嬢は、「あなた方は分かちがたく、一体化しています」とどちらともいえない態度。
二人になったフラマンは、明日朝返事を自分に聞かせてくれるという約束を令嬢から取り付ける。

一同が揃う中、新しいバレエダンサーが紹介され、ガヴォットなどいくつかを踊る。
その間、伯爵はクレーロンに、今夜一緒にパリへ行くという約束をしニンマリ。
ここで、今夜のスペクタル劇を説明するラ・ローシュだが、2部形式の古めかしい活劇を説明し、全員の嘲笑を浴びる。それでもめげない彼は、「劇場の永遠の法則」を朗々と長時間に渡り大演説を行い、逆に大喝采を浴びる。
  そこで、解決策として令嬢は、「オペラ」を作ることを提案。
内容は、「今夜起こったこと」をテーマにすることでと、兄の伯爵。
すっかり意気投合した、詩人と作曲家(でも、詩が音楽が、一番だと思っている二人)は、劇場支配人とともに、準備のため去る。女優と伯爵は、パリへ向かう。

誰もいなくなった部屋に、召使たちが現れて、やれやれ、すべてはお芝居、自分たちこそ舞台裏を知っているのに・・・・。
家令がひとりとなり、そこに居眠りしておいてきぼりを喰ったプロンクターが登場し、家令ととぼけた会話を交わす。


 (二人が去ったあと、音楽は美しすぎる「月の光の音楽」となる。)

正装した伯爵令嬢が登場、そこへ伝言を持った家令がやってきて、詩人オリヴィエが明日朝にお会いして、オペラの結末について聞きたいとのことを告げる。
期せずして、二人がかち合うことに。「これは宿命、二人は分かちがたく結びついているのだわ」決めあぐねる令嬢。
令嬢は、ハープを弾きながら、オリヴィエの詩に、さきほどフラマンが作ったソネットを歌う。鏡に映る自分に問いかける、「さあ、なんと答えるの?愛されているのに、自分を与えられないの?二つの焔の間で燃え尽きたいの?・・・・」
「あの人たちのオペラの結末を見つけるのに、月並みでない結末があるかしら?・・・」
迷う令嬢に、家令が食事に仕度を告げにきて、音楽は洒落た結末となる。

聴きどころ

①弦楽6重奏で演奏される前奏曲。
 しばしば単独でも演奏される物憂くも、美しい曲は、古典的な様相も感じる。
②引用される音楽の数々
 時代設定は18世紀フランスで、グルックとピッチーニに人気があった頃。
 彼らの作品の旋律が出てくるし、クープランやラモーも登場する。
 そして、当然に自作の旋律も~「ばらの騎士」「アリアドネ」「ダフネ」。
③女優クレーロンが、音楽なしに朗読するソネット。
 ドイツ語の美しさ(といっていいのだろうか?)が味わえるが、歌手はたいへん。
 他の人物たちもセリフが多い。
④作曲家フラマンが歌うソネット
 単純で覚えやすい旋律だが、心惹かれる。全曲に何度も登場するが、
 最後のマドレーヌのモノローグで歌われるときが素晴らしい。
⑤チェンバロを伴ったジーグやガボット
 さりげなく技巧的な音楽。
 舞台上にピアノや楽器が登場することが多いオペラだから、このあたりどのように演出
 がなされるか見もの。
⑥支配人ラ・ローシュの歌う長大なモノローグ
 自分の出した劇のアイデアを嘲笑されたラ・ローシュが、大演説をぶつ。
 ザックスの芸術賛美のロングバージョンだ。バス歌手の超聞かせどころ。
⑦月の光の音楽~マドレーヌのモノローグ
 このオペラ最大にして、シュトラウスオペラの美しい夕映えのような絶美の音楽。
 わたくしは、ここで涙にむせぶことになる。
  先日の、F・ロットとプレヴィンの名演奏がまぶたに浮かぶ。
 CDでの単独では、R・ポップとシュタインのものが最高に素晴らしい。
 演出でも、最大の見せ場となろう。
 軽い諦念と、前向きさ、そして余韻をどのように表現してみせるか。

ベーム盤の配役

 伯爵令嬢:グンドゥラ・ヤノヴィッツ  伯爵:D・フィッシャー=ディースカウ
 フラマン:ペーター・シュライアー   オリヴィエ:ヘルマン・プライ
 ラ・ローシュ:カール・リッダーーブッシュ クレーロン:タティアナ・トロヤノス
 イタリア歌手:アーリン・オジェー   イタリア歌手:アントン・デ・リッター
 トープ :デイヴィット・ソー       家令:カール・クリスティアン・コーン

   カール・ベーム指揮 バイエルン放送交響楽団
                 バイエルン放送合唱団員
                         (1971.4 @ミュンヘン)

台本共作者・初演者であるクレメンス・クラウスとともに、この作品を作曲者の意図を汲んで準初演からずっと指揮し続けたのが、カール・ベーム
晩年に到達したベームが、モーツァルトやワーグナーと同じように古典的な凝縮した無駄のない響きを聴かせる。
ミュンヘンの機能的だが明るいサウンドも実によく、この録音がこのオーケストラとなされて、とてもよかったと思う。
 そして、歌手の豪華絢爛ぶり。
もう何もいうことはありません。
ことに、ヤノヴィッツの明晰でガラス細工のような繊細で、かつ血の通った歌声は素晴らしい。シュヴァルツコプフが濃密に感じるとき、このヤノヴィッツを聴くとすっきりすることがある。この二人にポップももう少し存命であれば、名マドレーヌになったことであろうや。
 あと歌手では、リッダーブッシュの余裕あふれる声を聴きくと安心感に満たされる。
バスでこの美声。この人の早世もまったく惜しい。
他の歌手も最高ですよ!
 カプリッチョのCDとしては、これとサヴァリッシュ盤が一番。
シルマーとシュタインは、ウィーンフィルの魅力もあります。

Capriccio_nikikai
ここで、二期会公演の宣伝を。

シュトラウスは、この作品を「一般聴衆のためのものでもなければ、大劇場に集まった公衆のためでもない」として、小さな劇場での上演を望んだという。

そうした意味では、日生劇場でも多きすぎるのかもしれないが、とても良い選択に思う。

演目が渋すぎて、チケットが心配だけど、皆さんこうした機会を逃すとめったに体験できないオペラですよ。

私の応援する、メゾソプラノ「谷口睦美さん」が、女優クレーロン役で出演されます。
ダブルキャストで、11月21日(土)、23日(月休)の方。

チケットは、ご本人までどうぞ。まだ間に合います
 Tanigucci623@yahoo.co.jp

 

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2009年11月 7日 (土)

「ワーグナーの森へ」  飯守泰次郎指揮

1 ノイシュヴァンシュタイン、あ、いや、じゃなくて、国宝「姫路城」でござる。
先週の出張で撮影。
朝7時に散歩しながら近くまで。

城マニアじゃないけれど、そこに城があれば登りたくなるのが人情。
でも朝早かったので断念。

2 姫路駅から、まっすぐの通りの奥にすくっと立つ名城。
姫路の街は、この城が中心となっているようで、車で走ってもそれがよくわかる。
市民の皆さんも、この回りで普通に生活している。

美しいですな。

4

夜にも、酔っぱらう前に見てきました。
ドイツ語の外人さんがチラホラ。
どこかのオーケストラですかね。

夜は、新鮮な魚や、姫路おでんを食べたのであります。

Iimori_wagner

中世の城とくれば、ワーグナー
無理やりのこじつけで、今日は飯守泰次郎先生のワーグナーを聴こう。

飯守さんは、誰しもが認めるワーグナー指揮者。
若い頃、国内では地味ながらも、ヨーロッパでの歌劇場活動が日本人では珍しいカペルマイスター的な存在となっていった。
そしてやはり、ワーグナーの孫、フレーデントに認められ、バイロイトで長く音楽助手を務めたことが大きい。
時代的にみると、ベーム、シュタイン、ブーレーズ、マゼール、ヨッフムなど錚々たる指揮者たちと仕事をしてきてるわけだから。

日本でも、ワーグナー上演は、故若杉さんと並んで一番多いのが、飯守さん。
私もいくつ観劇したかわからない。
マイスタージンガー以外はすべて日本で指揮しているのではないだろうか!

オーケストラ・コンサートでも、ワーグナーを振っては各地で引っ張りだこ状態。
このCDは、2004年に東京都交響楽団に客演したときのライブ録音で、都響へは久しぶりの登場であったという。
そんな久方ぶりの共演なのに、ここで鳴っている音はもう、完璧にワーグナーの音。
ブラインドテストしたら、誰が日本人指揮者とオーケストラだと言い当てることができるだろうか
唯一、飯守さんの盛んな唸り声でばれてしまうけれど。

  ワーグナー 「タンホイザー」序曲
          「ジークフリート牧歌」
          「神々の黄昏」~「ジークフリートのラインの旅」
          「ワルキューレ」~「ワルキューレの騎行」
          「トリスタンとイゾルデ」~前奏曲と「愛の死」

       飯守 泰次郎 指揮 東京都交響楽団
                     (2004.1.15@文化会館)

冒頭のタンホイザーから相当来てます。
旋律の歌わせ方、タメ、ティンパニの一撃等々、決まりまくっている。
慈愛の目線にあふれたジークフリート牧歌は、いじらしいくらいに歌い込んでいて、気持ちのいい朝の目覚めに相応しいと思わせてくれちゃう。
ラインの旅は、独立した曲であるとともに、オペラの中の存在として意識させてくれる。
長大なリングを知悉した指揮者ならではで、複雑なライトモティーフのそれぞれが息づいていて、音楽のあとギービヒ家の連中がまるで登場してくるかのよう。
コンサート指揮者だと、こんな雰囲気豊かな演奏にはならない。
 そして、最高なのがトリスタンですな。
しっかりと腰が座っていて、ブレがまったくない。
無用に煽ることもなく、テンポもいじることなく、それでいて、うねるようにして音楽が盛り上がってゆくのだからもう完璧なのだ。
愛の死は、これをカラオケにしたいくらいの模範的な演奏で、その昇天ぶりは、泣きたくなってしまう。

褒めすぎじゃないかと、お叱りも受けるかもしれないが、散々ワーグナーを聴いてるこの耳がそう聴いたのであります。
オーケストラに求めたいものはあるけど、そんなものを越えて、ここには、ワーグナー音楽の呼吸がしっかりとある。

飯守さんが、バイロイトで指揮をしてくれたら、世界中がびっくりするくらいの素晴らしいワーグナーが鳴り響くのではなかろうか。
若杉さんもそうだったが、飯守さんのワーグナーのオペラ全曲を音源として残すべきと声を大にして言いたい。(シティフィルとのものはあるはず)

Iimori 昔のコンサート・チラシで見つけた若き、飯守さん。
若いねぇ~。

73年だったか、N響でトリスタンを指揮するのをテレビで見たことがあった。
律儀に6拍子を丁寧に振り分けていたのをよく覚えている。

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2009年11月 6日 (金)

ホルスト 「エグドン・ヒース」 プレヴィン指揮

Toyokawa_1 白い彼岸花を発見。
彼岸花の季節だから、少し前に撮ったものです。

赤と交互に咲いてましたよ。

この世ならぬ雰囲気と美しさ。

Brittenholst_2 ギュスターフ・ホルスト(1874~1934)は、「惑星」だけではありません。

交響曲こそないが、オーケストラ作品から室内・器楽・オペラ・声楽・合唱・吹奏楽と広範なジャンルにわたるオールマイティ作曲家。

本ブログでも「惑星」は数回登場しているが、それ以外の作品は、声楽の大作「雲の使者」のみだ。
そちらは、インド・サンスクリット文化に感化されていた頃のホルストらしく、エキゾシズムに満ち溢れたユニークな音楽だった。

今回とりあげるのは、管弦楽による幻想的な作品「エグドン・ヒース」。

「エグドン・ヒース」という名は、トマス・ハーディがその作品のひとつである「帰郷(The Return of the Native」の中で、その舞台となった地イングランド南西部地方のドーセット州の荒野を呼び与えた地名のこと。

Egdon_heath イングランドの荒野というと、イメージとしてはブロンテの「嵐が丘」にあるような風の強い荒涼と殺伐とした景色を思い浮かべるが、まさにその通りの場所がヒースの茂るような悲しく空しい光景。
場所そのものが、物語の重要なキーである、というかメインの登場人物に匹敵するくらいに強い存在となっている物語。
「嵐が丘」を読んで、私はそれを強く感じた。
そしてディーリアスやバックスの音楽を聴いて感じる、英国やアイルランドのまだ見ぬ光景も、その音楽から充分に読み取ることができる。

ホルストは、その光景を実際の景色からばかりでなく、ハーディの「帰郷」の中の荒野の描写に強くインスパイアされて、この「エグドン・ヒース」を書いた。
そのスコアには、「トマス・ハーディ」を讃えてという言葉が添えられているという。

「A place perfectly accordant with man's nature - neither ghastky ,hateful, nor ugly; neither commonplace, unmeaning, nor tame; but ,like man, slighted and enduring;  and withal singularly colossal and mysterious in its swarthy monotony.」


惑星の一部にある華やかなオーケストラサウンドは、ここにはない。
惑星に類似点を求めるならば、金星の澄み切った純な響きと、土星の老成した渋い音色であろうか。
14分あまりの曲に、人生と荒野を重ね合わせた心象風景を描きだしてみせたホルスト。
60歳で世を去るホルストの53歳の作品は、人生を経てハーディの描いてみせたイングランドの自然の中に、人の本性を見た。
渋いけれど、ほんとうに味わい深く、彼岸の音楽のようにも聴こえる名作だと思う。

この作品に、プレヴィンは手兵のロンドン交響楽団と目線の穏やかで明晰な演奏を残してくれた。プレヴィンらしい鮮やかな棒さばきが、作品が過度に晦渋にならずに、惑星の作者の延長にあるものと思わせることにも成功している。

このCDには、オペラ「パーフェクト・フール」のバレエ音楽や、ブリテンの名作も納めていて、いずれも私の好きな演奏のひとつとなっている。

 
 

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2009年11月 4日 (水)

「プティボンのラモー」と「アバドのペルゴレージ」を聴きながら

A 見てくださいよ、このコスモス畑。

先週、兵庫県を中心に出張したおり、行程に含まれていた淡路島。
そこで、得意の寄り道でござる。

あわじ花さじき」という県営の公園。無料なんです。
そしてやたらデカイんです。
急に寒くなって、いまさらコスモスでもないけれど、まだ満開のはず。
花の鮮度切れにならないうちに、公開しときます。
D 黄色いコスモスもこんなです。

こんな写真を整理しながら、本日もプティボ~ン

あのクリクリまなこのかわゆいジャケットのCDを聴いております。
ラモーのオペラ「プラテー」と「イメンとオモール」からのソロ。
彼女の声に、心が洗われます。
そして愉快なソロでは、あのお姿が目に浮かびます。
E

こーんな感じです。
こんな2色畑、初めて見た

C そして、もう1枚。
ペルゴレージの「スターバト・マーテル」。
こちらも美しく、歌に満ちた桂品でございます。
アバドは、この曲がよほど好きと見えて、映像も含めて3種類が手元にあります。
最新のものは、モーツァルト・オーケストラを指揮してピリオド奏法に徹してる。
おっそろしく透徹した演奏ですぞ。

B_2 ラモーはフランス・バロック、ペルゴレージは、イタリア・バロック。
ともに同時代に活躍したオペラ作曲家でもあります。

アバドの「スターバト・マーテル」は次週あたりに取り上げます。

サルビアの海や~

F 公園を眺め渡すの図であります。
まるで、富良野のようじゃありませんか。

1 明石海峡を望むの図。

こんな道草くってたら、約束の時間に遅れそうになってしもうた。

毎日、プティボンの声を聴かないと気がすまない。
こりゃ、重症だわな

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2009年11月 3日 (火)

パトリシア・プティボン オペラ・アリア・コンサート Ⅱ

Petibon2009_2 今日も懲りずに「パトリシア・プティボン

今日もやってくれました、見せてくれました、そして、完璧に魅せられてしまいましたよ~パトリシアさまに

土曜と同じ、オペラシティ、ステージにはオーケストラはなく、ピアノが1台。
ちょっと寂しく思ったのは、彼女が登場するまで。
今宵、楽しくも、可憐で鮮やかな、「プティボン・ショー」の始まりにございました

ロビーにせかせかと歩く見たことあるオジサンひとり。
おやっ?
土曜に指揮した、例の井上ミッチー似のレヴィ氏ではないかい。

すかさず駆け寄りサインをお願いしている方もいらっしゃったが、私はあいにくペンを持ちあわせていなかったので、断念。
このレヴィ氏の登場が後々、本日のポイントのひとつとなるのでございました(笑)

席につき程なく、本日、良席をご手配いただいたromaniさんと合流。
去年の、初来日コンサートもご一緒したromaniさん、今日も二人して、鼻の下も眼尻もずぅ~と下がりっぱなし(笑)

 ヘンデル   「アリオダンテ」 アリオダンテのアリオーソ
          ~ここでは愛を~
 モーツァルト 「フィガロの結婚」 バルバリーナのカヴァレッタ
          ~失くしてしまったの~
                     スザンナのアリア
           ~早くおいで、美しい歓びよ~
         「コシ・ファン・トゥッテ」 デスピーナのアリア
          ~女も15歳になると~
 ヘンデル   「リナルド」  アルミレーナのアリア
          ~私を泣かせて下さい~
 ハイドン   「薬剤師」  ヴォルビーノのアリア
          ~ご機嫌よう、親愛なるセンプルニーオ~
         「騎士オルランド」 エウリッラのソロ・パート
          ~あなたの愛らしい面差しが~
 ヘンデル  「エジプトのジュリオ・チェーザレ」 
         ~この胸に息のあるかぎり~

 ヘンデル   「アルチーナ」   ルッジェーロのアリア
          ~緑の牧場よ~
 ハイドン   ピアノ・ソナタ第16番 第2楽章
 ヘンデル   「アルチーナ」   モルガーナのアリア
          ~また私を喜ばせにきて~

~これより後半~

 ハイドン   「英語によるカンツォネッタ」より
          ~さすらい人、するどい目つき、忠実、霊の歌、船乗りの歌~
 プーランク  歌曲集「あたりくじ」より
          ~バ・ブ・ビ・ボ・ビュ、ハートの女王~
 サティ    「あなたが欲しいの」
 ガーシュイン   前奏曲 変ロ長調
 バーンスタイン  「キャンディード」 キャンディードのソロ
          ~この程度のものか~
 プッチーニ  「ラ・ロンディーヌ」 マグダのアリア
          ~ドデッタの美しい夢~

          ソプラノ:パトリシア・プティボン

          ピアノ :スーザン・マノフ

    
               (2009.11.2 @オペラシティ)

 

どうです、この盛りだくさんのメニュー

土曜と同じく、黒いドレスに今度はネックレスなし。赤髪が映えますね。
そして始まりはいつものように神妙に心を込めて歌われる。
ヘンデルのノーブルな歌がとても麗しい。

 そして、去年暗闇の中で光る玉を持ちながら歌った、お得意のフィガロからの2曲をつなげて歌う。CDでもこのふたつ歌われてますね。
今回は、仕掛けはなしに、ピアノの横で真摯に歌う。感情移入が素晴らしく、早くもプティボンの美しい手先に主人公たちの気持ちが宿っているのが感じられる。
 

 いったん、引き揚げ、さあ、始まりましたよ、デスピーナのおきゃんなアリアで
プティボンは、鮮やかなグリーンブルーの長髪の鬘をつけて、マノフ女史は真赤な鬘をつけて登場。まるで、セーラームーンの髪の毛みたい。
ふたりして、日本のティーン雑誌を広げて見てる(笑)
なるほど、歌の内容に巧みに即したパフォーマンスですな。
陽気に、髪で遊びながら、そしてなんとスタンウェイの上に片足を上げてしまうバレエのポーズまでやっちゃった。
最後は、鮮やかな鬘を客席に放り投げましたよ(爆)
こんな動きをしながらも、歌が一切乱れず、完璧だし、モーツァルトが書いた音楽をコミカルに歌い込んでいたし、休止の場面などピアノとの呼吸もぴったり。
気になるあの鬘、引っ込んだプティボンが笛をもって出てきて、その笛を鳴らして鬘の返却を観客に指示。お見事、ステージに投げ返されました、ハハハ。

 次ぐ、有名なヘンデルの曲をあふれるばかりの気品でもってしんみりと聴かせてくれた。
そして今宵追加された「薬剤師」のユーモアあふれる曲。
先日も歌ったこの曲、今回は、フィンガー・シンバルを自ら鳴らしながら。
時折鳴らし損じもあり、その時のオヤっという表情がカワユイ(笑)

と思ったら、今度は、望遠鏡を取り出し、マノフ女史と客席を覗き込む。
そして見つかってしまったのが、件のオジサン=ミッチー似=指揮者レヴィ氏であります。
ステージに用意された椅子に二人座り、コミカルな仕草で、不思議な二重唱(?)
CDでは、彼女の役は、主役級の王女さまなのだけど、ここでは羊飼いの娘役で、従者との二重唱の場面なのだ。レヴィ氏は歌うような、なんだか不可思議な合わせで、「ア・エ・イ・オ・ウ」。オケの鳴らし方もデカかったが、そのお声もデカイ(笑)

そして次は、ヘンデルの「ジュリアス・シーザー」のいたってシリアスな大アリア。
歌の出来栄えとしては、本日この曲が一番素晴らしかった。
悲しみと嘆きの表現と、憎しみの強い表現との鮮やかな歌い出し。
歌のフォルムが壊れるスレスレの緊張感に満ちた歌は、これもプティボンを聴く楽しみでもあります。

前半最後の組合わせは、ハイドンのソナタをはさんで、ヘンデルの「アルチーナ」。
「緑の牧場よ」は、ゆったりと伸びやかな歌、会場を暗くして、小さなライトを持ってステージの左右を歩きつつ歌うパトリシア。いやがうえにも、精緻なヘンデルの音楽に耳が釘付け。そっと舞台を去り、静かにハイドンのソナタが始まる。
このソナタがまた絶品の美しいもので、モーツァルトばかりでなく、ハイドンもしっかり聴かなくちゃいけないと思わせる素晴らしい音楽。マノフさんも素敵だ。
こうして作者こそ違え、調性と曲調のマッチングでもって見事なプログラムを組むのも、聡明なプティボンならでは!

 次ぐアリアでは、またしても双眼鏡。
そう、あのオジサンがモジモジと客席から登場なのであります。
「また喜ばせにきて!」はまさにそう(笑)
レヴィさんのネクタイを引っ張ったり、上着を脱がしたり、シャツのボタンを外したり・・・・。
レヴィ氏逃げ出したあと、上着でひと遊び。ポケットから携帯を取り出して掛けまくったり、携帯に向かって歌いまくったりともうハチャメチャ。
こんなせわしない動きをしつつも、そのお歌はしっかり完璧。
日頃どれだけ歌い込んで、しかも身体の鍛練も怠らないのでありましょうや。

休憩で、romaniさんと、ワインを補充してさらに気分高揚。

まったく初聴のハイドンのカンツォネッタ。
ロンドンでヘンデルの音楽に接し感銘を受けたハイドンが彼の地に滞在中に書いた作品という。5曲中4曲は、詩の内容もシリアスだし、音楽のほうもなかなかに素晴らしいもので、「忠実」の深刻な歌いぶりと、墓の下から語りかけるというミステリアスな内容の「霊の歌」のしめやかさに感銘を受けた。
そして最後の「船乗り・・」は、お約束の時間。弾けましてございます。
二人して、ピアノの奥の小道具をがさごそ。
海賊のバンダナキャップに、マドロスパイプ(笑)、おまけに一升瓶で乾杯。
マノフさんは、ピアノそっちのけで何度も飲んでましたよ。
こうして明るく快活に、ハイドンの私にとって未知の歌曲をより親しい存在に変えてくれました。
こんな風にして、普段はあまり聴かれない曲を歌ってくれて、私も含む聴衆に新しい歌の世界を開いてみせるプティボンの才能は、今後、功績ともなってゆくであろう。

プーランクの洒落たメロディふたつ。
バビブベにゃんこソングは二人でニャ~オ、次の曲では、ピアノストの左手に佇み、ムードあふれる歌い方。素敵すぎるよ。
 
 あまりに有名な「あなたが欲しいの」は、予想に反し、仕掛けなしで正攻法で真摯に歌うさまが、とろけるように耳に心地よい。
(romaniさんと、きっと客席にネクタイを引っ張りに降りてきますよと予想してたのに・・・)

パトリシアは、ここでお掃除タイム。ほうきとはたきを持ってガーシュインの鳴る中、踊りながら退場。
終盤に近づき、キャンディードから主人公のテノール役のキャンディードの歌を歌ってみせるパトリシア。いやはや、この曲がこんなに素晴らしいものとは知らなかった。
陽気な序曲や土曜に歌ってくれたクネゴンデの鮮やかなソロばかりじゃない。
テノールによる諦念にあふれた自分発見のソロアリア。
さりげなく、そして深くもあるパトリシアの感情の込めた歌に心動かされない人はいないであろう。まさに、「Nothing more than this」。

そして、もっとも楽しみにしていたプッチーニ。
私の愛するオペラのひとつ「ラ・ロンディーヌ(つばめ)」の素敵なアリアがプティボンの歌で聴けるなんて。椿姫のような、儚くも哀しいドラマのこのオペラに是非とも挑戦してもらいたい。可愛い女性を見事に歌いあげたパトリシア。
今回来日公演の中で、唯一のイタリアオペラ。
しかも、古楽や古典歌いからすると明らかに異質のプッチーニの歌。
でも彼女は、パトリシア・プティボンのプッチーニを歌った。
甘いメロデイにムーディに流されることなく、しっかりとした音符の歌い込みでもって、マグダの夢を女性らしく歌ってみせたのだ。
私はもう、涙がちょちょぎれましたよ・・・・・。
思わず、ブラヴァ~献上

熱烈拍手に応えて大サービスは、最終日ならでは。

 カントルーヴ   「オーヴェルニュの歌」
             ~捨てられた女~
 オッフェンバック 「ホフマン物語」
             ~森の小鳥は・・~
 バーンスタイン  「キャンディード」
             ~It must be me~

どーすか、この3曲。
緩急緩の3曲。
しんみりと物悲しいオーヴェルニュの歌。
こりゃもうCDが望まれますな。プラッソンとトゥールーズでね。
そして極め付き、オリンピアの歌。
マノフさん、レヴィさん、ともに紙袋をテレビに見立て頭からかぶり、キャスター(博士)になってスター登場をアナウンス。
そして、彼女は、こんな声も、さらにこんな声も出せますと。
千変万化のあらゆる声をユーモラスに出すパトリアシア。
会場はもう爆笑の渦。
CDとはまた違う歌い方で、超越、口あんぐりのすげぇ~アリアを披露してくれました。
 そして、最後はレヴィ氏もピアノを弾いて、再びキャンディードの中から1曲。
これもキャンディード役の歌でしょうか、静かで瞑想的な、そして最後を飾るに相応しい雰囲気豊かな曲。プティボンは、それこそ、心をこめて、私たちに歌ってくれました。

惜しみつつも、ステージを下がった彼女。
時計は、9時を大幅に回っておりました。
こんなに時間を気にしない、コンサートって久しぶり。

1 それでですよ、これまたお約束、サインちょうだいの列に並びました。
今日も疲れを見せずに、にこやかに一人一人お顔を見つめてくれちゃうサービスぶり。
今回は、ピアノのマノフさんも横にいらっしゃる。
そして、おまけにミッチー指揮似のレヴィ氏も(笑)
3人根こそぎサインをいただき、ほんとうに良き思い出となりましたね。
人がたくさんです。人気ものになった彼女、次回の来日でもこんな風に気さくな雰囲気の場を作ってくれたらいいなぁ。

2
なはははぁ~

つねに付いてきちゃうこの構図。

私のカメラのピントがどうしてもここに合ってしまう(爆)
唯一ボケてて助かったのがこれ(大爆)
ま、人のことは言えませんがねぇ(涙)

Petivon_fantaisies_3
2回も堪能した、今年のパトリシア・プティボン。

romaniさんともお話しましたが、ナタリー・デッセイとはもう別の次元の存在かと。
それは、上とか下とかじゃなくて、個性やその領域という意味でのこと。

でも、ともに、ステージを舞台とした歌う役者であるということ。
しかも、知性と機知に溢れた愛らしい存在であるということも。
デッセイは、時に歌と演技に深くのめり込みすぎて、怖さすら覚えることもあるが、プティボンには、どこかそうしたイッちゃってる雰囲気はまだ少なく、ユーモアという遊びの部分が多いように感じられる。
もちろん、本格オペラにまだまっとうに接してないせいもあるが、今後「ルル」などで新境地を開き、さらなる多面的なお顔を身につけてゆくものと思われる。
でも、今のままでいて欲しい気持ちもあるから、ファンとは贅沢なものであります。

ともあれ、また来てね、パトリシア・プティボンさま

Ganges 嬉々としてサインを頂戴し、気がついたらもう10時。
地下の居酒屋はもう閉店。
インド料理店「ガンジス」で、こんなプレートを食べながら、ビールで乾杯。
いやぁ、満足満足。
romaniさん、どうもお世話になりました。





 

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2009年11月 1日 (日)

パトリシア・プティボンを聴く一日

2今日は風が強く、生暖かい関東で25度。
北海道は雪、0度しかない。
西からは雨が迫ってきてるし、世相もそうだが、日本はいろいろある。

そんな日本にまたやってきてくれました、パトリシア・プティボン。

今日は外へ出ると髪の毛に悪そうだから、ひねもす一日、手持ちのプティボン音源を聴きながら、ちょびっと仕事の整理などをしながら過ごしております。

Petivon_3 昨日頂戴した、彼女のサイン。
ト音記号と音符のように思われます(笑)

このCDは、リュリやラモー、シャルパンティエなど、彼女のルーツ的な世界でもある古楽の歌の数々が収録されております。
オーケストラが現代楽器なのが惜しいところだけど、透明感あふれる声とリズムのよく弾む歌声が魅力的な1枚。
このジャケット、気に入っております。

Petibon2
こちらが、昨年のパンフレットにもらったサイン。
文字がちゃんとしてます(笑)

そして、今年のパンフレットは無料配布でして、ちょっとショボイ。

でもお金を出して買うよりは内容がよければいい。
しかし、歌詞の日本語対訳は付いていたけど、原語が載っていないのはどうだろうか?

Petibon3
そして、プティボン=小吉の名前を日本中に刻みつけたこの1枚。

ワタクシも、この1枚から小吉ちゃんのファンになりましたね(笑)

今聴くと、ちょっと弾けすぎか

とどまるところを知らないプティボンワールド全開で真面目な歌も、コミカルなお歌も目覚ましい歌唱力でもって易々と聴かせてしまう。
これ1枚で、メロメロになってしまった、罪なCDにございます。

Songs_america そして、先頃復活した「SONGS FROM AMERICA」。
彼女は全11曲中、4曲しか登場しないが、ここで歌っているのは、今回のコンサートでも取り上げている、バーバーやバーンスタインの曲。
ピアノを弾いているのも、一緒に来日したスーザン・マノフ女史である。
マノフさん、昨日のオーケストラコンサートでもお見かけしましたよ。

ついでに言うと、このCDに入ってる「At the river」は、前回の来日で取り上げていたが、こちらでは少年合唱によって歌われている。
あの「たんたんたぬきの○○玉は~」の歌ですよう~(笑)

Petivon_fantaisies そして、こちらは、さる方からお譲りいただいた1枚。

上のアメリカン・ソングスの一部や、オフッフェンバックのアリアなど、ヴァージンレーベルに残した録音から集成された楽しい1枚

アメリカの歌、古楽、フレンチオペラ、ヘンデルなど。これにDGの古典オペラを合わせると、プティボンのレパートリーが網羅されてくる。

あとは、R・シュトラウスやベルクなどのドイツ後期ロマン派系かな。
DGへの次の録音は、このあたりを取り上げて欲しいものでございます。

Charpenter_2_2

プティボンの出身地ともいえる、クリスティ率いるレザール・フロリアンでの録音から。

シャルパンティエを2枚。
「ヴェルサイユの楽しみ」と「ディヴェルティスマンや小品集」。
どちらも抒情派ともいえるシャルパンティエの音楽の美しさが味わえる楽しいCD。
プティボンは、ソプラノのメインで活躍してる。
彼女の美しいフランス語が、そのピュアトーンで味わえますよ。
これからの季節、夜にワインを傾けながら聴くのに最高の音楽。

Haydn_orlando_harnoncourt 最後は、オペラ。
ハイドンの「騎士オルランド」。
アーノンクール指揮のライブ盤。
シャーデやゲーアハール、ハルテリウスらの実力者たちに混じっていっそう輝いてるプティボン。
可愛い王女様役が引き立って聴こえる。

喜劇的な要素もあるこのハイドン・オペラ。
昨年の北トピアでの上演は都合がつかず行けなかった。
いずれ記事にてちゃんと取り上げる予定。
ハイドンのオペラは、ヘンデルと並んで、今後登頂しなくてはならない、私の未開のオペラ山脈たち。
こうして、お気に入りの歌手が出ているところから入り込むのがよろしい。

オペラ道は、忙しいし、お金もかかる(涙)
あんまり寄り道してると、ワーグナー様に怒られるし(笑)

ともあれ、プティボンの音源たちは、当たり前だけど、どこを聴いても、彼女の刻印がしっかりある。
明日のコンサートも楽しみだけど、1970年生まれのまだ若いパトリシア、今後も映像や録音をどんどん増やしていって欲しいものでございます。
 希望を述べれば、モーツァルト全部と「ルル」は当然として、「ゾフィー」に「ツェルビネッタ」、「ズデンカ」、「ダフネ」、「森の小鳥」、「エヴァ」、「メリザンド」、「ミミ」、「ムゼッタ」、「ラ・ロンディーヌ」・・・・、いやはやきりがありませんね。

無理せず、自分の喉にあったロールにじっくり取り組んでいって欲しいものであります。

FMでは、プティボンの姉筋にあたるナタリー・デッセイが、マーラーの「復活」を歌ってましたね。片手間に録音しつつ、チョイ聴き。
パーヴォ・ヤルヴィという指揮者はすごい人かもしれない。最後の爆発力は凄まじい・・・。

では、また明日、プティボン~

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