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2009年12月

2009年12月31日 (木)

R・シュトラウス 「最後の4つの歌」 ルチア・ポップ

A 2009年も最後の一日。

日本でも有数の観光立地、横浜の大桟橋の付け根あたり。

長方形のモニュメントが、とてもいいアクセントとなってる。

B 少し位置を桟橋の方へかえて。

あの観覧車ができたとき、YES89の横浜博だった。
移転はしているが、20年前。
消費税が導入された年だったし、そい言えば、わたしゃ、新婚さんだったわい。

まだまだ若いわたしだった。

無為に年輪を重ねて、また新しい年を迎えてしまう。

誰にもやってくる暦(こよみ)。

でも悪化するばかりの社会環境。
よい年は、特定の人々にしかやってこない、ここ数年。
あと数時間で、また違う暦が巡ってくるけれど、また新年の記事を起こす自分も含めて、節目には新たな気分を醸し出したいものである。

そりゃそうと、昨日の歌謡曲の方の「レコード大賞」がなんで、新国立劇場でやってんだ?
NHKホールはともかく、中劇場だけど、オペラ愛好家の殿堂なのに・・・・・・。
ま、いいか・・・・。

Pop_r_strauss ここ数年、大みそかには、この曲。
R・シュトラウス「最後の4つの歌」。

ただでさえ好きなR・シュトラウスの音楽の中にあって、15のオペラとともに、オーケストラ作品以上に愛する歌曲集がこの音楽。

R・シュトラウス(1864~1949)最晩年の作品であるが、歌曲を大量に作曲したシュトラウスとしては、実に20年ぶりくらいの純粋歌曲集なのであった。
その間、わたしにとってのシュトラウスの黄金時代のオペラ創作期が続いたわけである。

毎年書いてるかもしれないけど、ともかく美しく、キレイな4つの歌曲は、大オーケストラを伴いながら、リリカルなソプラノを要するシュトラウスの辞世の音楽でもあるのだ。
 前向きかつ、気真面目なシュトラウスは、死を前にこの歌曲をものしたわけでもなく、85歳で亡くなりはしたものの、まだまだ、音楽にたいする情熱は持ちあわせていて、あとほんの数年生きてさえしてくれたならば、オペラがもうひとつ出来上がったかもしれない。

しかし、「最後の4つの歌」ほど、美しく繊細で、聴く人の心の提琴にふれる音楽はないだろう。
数々のソプラノが、レパートリーとし、録音も数々行われているけれど、やはりある程度の場数を踏んだ歌手が、その人生を映し出すかのように、しっとりと歌いこんだものがいい。

われわれが愛したソプラノ、ルチア・ポップは2度、正規に録音している。
1度目は82年、43歳の壮年期のこちらの録音。
2度目は93年、54歳、彼女最後の年の録音。

この録音歴を見て深い思いにとらわれざるを得ない。

60年代から録音活動の豊富な彼女。
70年代後半から80年代前半にかけて、その声もリリカルなスーブレット・ロールから、リリコそしてスピントへと変貌をとげていった。
80年代後半以降は、ゾフィーからマルシャリン、ズデンカからアラベラ、スザンナから伯爵夫人へ、ステップアップ。
そうした声の移り変わりを、これらふたつの録音で味わえるのだ。

どちらも好きなポップだけど、今日は1回目の録音。
テンシュテットロンドン・フィルの蜜月時代。
一連のマーラー録音の最中であったと思われる。
濃密感は適度でありながら、抒情と透明感に心を配ったテンシュテットの指揮。
 優しく、人の心にひたひたと浸透するかのような印象深いポップの歌声とともに、最高のシュトラウス演奏であります。

ともに、いまは亡き音楽の導き手たち。
かれらを召してしまうなんて、神様はほんと残酷だ。

1.「春」(ヘッセ)
2.「9月」(ヘッセ)
3.「眠りにつくとき」(ヘッセ)
4.「夕映えに」(アイヒェンドルフ)


「夕映えに」の最後に、あたかも夕空に鳥たちが飛び立ってゆくかのような音楽を聴くとき、諦念とともに、明日も、きっとくる希望も見出すことができる。
前向きに、前向きにいきましょう

シュトラウスの書いたあまりに素晴らしい音楽には言葉もありません

この曲を初めて聴いたのは、1975年だった。
FM放送された、ハーウッドとシュタイン&ウィーン響のもので、いまは消失してしまったが、ハーウッドの美声とウィーンの独特の響きを引き出すシュタイン。
すごく聴いてみたい。
それと同時期に聴いたのが、マティスと夫君のクレーのN響ライブ。
昔のことばかりですんません。
 ごく最近聴いて、素晴らしかったのが、F・ロットとシノーポリ&ウィーンフィルのライブ。
この気品あふれる凛とした「4つの最後の歌」は、最近聴いたなかでは出色のもの。
ほかのカップリング曲とともに、近々ご紹介します。
これは「爆演堂」さんで扱っております。

さて、みなさま、1年間どうもお世話になりました。
数時間後の、2010年も、どうぞよろしくお願いいたしますと申し上げますとともに、いつも、ご覧いただき感謝感激の次第でございます。

ではでは、はここまでということで。

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2009年12月30日 (水)

京の「にゃんにゃん」

1 京都の高台寺付近で見つけた「にゃんこ」さま。

ふてぶてしくも、精悍な面構え。
睨んでるし。

2a かたらわには、動じもしない「にゃんこ」が。

眠ってるし。

Photo

おふたり合わせて、こんな構図。

車のボンネットの上は暖かいにょら〜〜

持ち主さんは、堪りませんなぁ〜

4 にらんでるし              眠ってるし

5 「ふん、かまってらんねぇ」

「ふ〜ん、眠ぃ〜」

6 うぅーーーーむ

ZZZZZ

8 今度は、車の下から。

にらんでるし・・・・。

7

まだまだ、眠ってるし・・・・。

悠久の都より、本年最後の「にゃんにゃん」をお届けいたしました 

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2009年12月29日 (火)

「さまクラ ヲタデミー賞2009」

Midtown_2 六本木のミッドタウン。
この海のようなイルミネーション目当てにすごい人出。
観光バスまで。

Midtown_5

今年のレビューを行います。

年初にコンサートを減らそうなんて言っておきながら、結局去年以上に行ってしまった。。。。

オペラ17、コンサート31、合計48。
(昨年は、オペラ18、コンサート27、計45)。

懐が危急存亡のときにいかんことであります。
しかし、国内演奏家が多かったので、出費は外来が多かった去年ほどじゃない。

で、「さまクラ ヲタデミー賞2009」

まずは、オペラ部門5傑

 ①R・シュトラウス 「カプリッチョ」 二期会公演
 ②ショスタコーヴィチ 「ムツェンスクのマクベス夫人」 新国立劇場
 ③ベルク   「ルル」 びわ湖ホール
 ④ロッシーニ 「ツェネレントラ」 新国立劇場
 ⑤ワーグナー 「ラインの黄金  「ワルキューレ」 新国立劇場

コンサート部門5傑

 ①パトリシア・プティボン リサイタル
 ②シュナイト&神奈川フィル ブラームス・ブルックナー
 ③シュナイト バッハ ロ短調ミサ曲
 ④ハイティンク&シカゴ響 マーラー6番
 ⑤シュナイダー&東京フィル オーケトラル・リング

CD・DVD部門5傑

 ①V・ウィリアムズ 歌劇「毒の口づけ」
 ②ペルゴレージ 「スターバト・マーテル」
 ③ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハイティンク
 ④ヨナス・カウフマン オペラアリア アバド
 ⑤カラヤン

期待してなかった演出に大いに裏切られ、素晴らしい歌手たちと、なんといっても美しいシュトラウスの音楽。悲しく切ない幕切れに涙が止まらなかった「カプリッチョ」。
若杉さんのやりたかったショスタコ。ムツェンスクが、こんなすごいオペラとは思わなかった。
初めて接した「ルル」の舞台にノックアウト。今年は「ヴォツェック」も観れた。
「チェネレントラ」には心から笑え、楽しめた。名歌手の競演も。
トーキョー・リングは2度目だし、半分だけだからこの位置で。4作通しを是非に!

プティボンには、今年もやられちゃった。もう言うことありませんね
日本で引退したシュナイトさん。音楽に神が宿っていたのかもしれない。
もうあんな演奏はこれから先聴けるかどうかわからない。
オーケストラ演奏の世界最大水準値的な演奏会がシカゴの来日。
ハイティンク、年輪の勝利。人間のなしうる高潔かつ純粋な所作が高みに。
シュナイダー熟練のワーグナー。あんな味わい深いリングが東京フィルから聴けるなんて。
ハイティンクの英雄の生涯、デ・ワールトのリング・アルペン、ルイージのアルペン、プレヴィンのドメスティカ。
それぞれのR・シュトラウス、いずれも素晴らしいものだった。

RVWの知られざるオペラは、その題名とは裏腹に愛らしく、素敵な旋律にあふれたメルヘンオペラであった。完璧にはまってしまった。何度も聴いてます。亡きヒコックスの指揮も素晴らしいもの。
どこまで進化するのかアバド。3度目のペルゴレージは、これまでと全然異なるアプローチ。演奏家の存在すら感じさせないたぐい稀な演奏。
カウフマンのバックをマーラーチェンバーと務めた1枚は、神々しいパルシファルに脱帽。
そして、わたし的には、カラヤンという指揮者を見直してしまったのも今年。
久々に60年代ベートーヴェンやライブ演奏の熱さなどを聴き、俗なカラヤンとは別な側面に今頃気づいている、遅れてきたわたし。

今年、物故された方々。

5月 黒田恭一さん
7月 若杉 弘さん
8月 ヒルデガルト・ベーレンス
9月 アリシア・デ・ラローチャ
9月 エリック・ガンゼル


なかでも、若杉さんの逝去は、あまりにショックで、悲しかった。

まだ、聴く音楽がいくつかありますが、まとめてみました。

そして、ヲタデミー大賞は、「カプリッチョ」であります、ジャ~ン
銀賞、「パトリシア・プティボン」
銅賞、「毒の口づけ」

受賞された関係者には・・・・、
何もありません、あしからず(笑)

Midtown_1

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2009年12月28日 (月)

武満 徹 「ノヴェンバー・ステップス」 ハイティンク指揮

Horyuji_1 法隆寺の回廊。

渋いですな。
何年に改修されているかわかりませんが、いぶし銀を感じるとともに、こうしたさりげない部分にも美的なこだわりを感じさせる日本人の細やかさ。

Tosyodaiji

唐招提寺。
12月の初旬、まだ残る紅葉。

均衡のとれた建築美に自然のおりなす彩。

Heiteink_takemistu_2 クリスマスが終わると、街にはまったくその形跡も跡形もなくなってしまう日本。

ま、欧米じゃないからあたりまえだけど、クリスマスに浮かれていた人々が、いまは慌ただしく、よいお年をとかいいながら、年越しの準備をして、神妙に正月を迎える。
 天の邪鬼だから、普通にしていたいし、クリスマスも延長したいから、クリスマス・オラトリオやメサイアを聴いたり、バイロイト放送を確認したりしている今日この頃のわたくしです。

しかし、土曜の第9は空しい内容だったなぁ・・・。

ヨーロッパと日本、それぞれの伝統の融合。
曲も演奏も、そんな意義のもとに選択してみた。

武満徹「ノヴェンバー・ステップス」。
琵琶と尺八とオーケストラのための二重協奏曲ともいえる音楽。

融合とか、先に書いけれど、この曲における日本の伝統楽器と西洋のフルオーケストラは、溶け合うというよりは、互いが拮抗し、聴きあい、その2者の間に生まれる緊張感を奏者も聴き手も感じ取る・・・・、といった風情のありかたに思う。

1967年11月、ニューヨークフィルの創立125周年の記念の依嘱作として初演された。
その11月という意味と、「序」と11の「段」からなっているところから「ノヴェンバー」の名前が付いているという。
11の段といっても、私のような素人では判別不能。
でも、日本の11月という、冬を迎える前の深まる秋、その静謐感がこの東西楽器の競演によく聴いてとれる。
竹林のざわめき、風の音色、空気の香り、高く澄み切った空、百舌の鳴き声・・・・などなど、われわれ日本人の心にある秋の心象。
武満氏が、それを思って作曲したかどうか不明なれど、わたしは武満の音楽にいつも感じるそうしたものを、和楽器が大胆に使われていることも相まって、この曲に強く感じる。

初めて聴いたのは、オーケストラがついていない、この曲の元になっている「エクリスプス」。これを、NHKの教育テレビで中学生の時に観た。
当然に、鶴田錦史の琵琶と横山勝也の尺八のコンビである。
和楽器には、まったく興味がなかっただけに、これには心底驚いた。
その、劇的な表現の幅の大きさに。
 で、すぐにあと、ノヴェンバー・ステップスを小沢征爾の指揮で、これもテレビで観た。
オーケストラとの組み合わせの妙。そして終盤のカデンツァで、あのエクリプスの場面が再現され、いたく感激したものだ。

実演では一度だけ、岩城宏之の指揮で武満徹の作品だけの一夜で。
コンサートすべてが武満作品で、途中安らかにあっちの世界へ行きそうになったのを覚えている(笑)

Heiteink_takemistu3 いまや、日本のクラシック音楽の古典ともいえる作品に、ハイティンクコンセルトヘボウ鶴田&横山コンビとともに録音を残している。
1969年の録音で、カップリングはメシアン。
ほんとは、メシアンの方がフランドル風の渋さがコンセルトヘボウっぽくて面白いのだけれど、われらがハイティンクが貴重にも武満作品を指揮しているので、この1枚はとても大切な音源となっている。
 たしかに、あのホールと、フィリップス録音の響きがオーケストラばかりでなく、琵琶と尺八の音にもする。
当時から、日本人奏者の多かったコンセルトヘボウだけれども、やはり、小沢盤や若杉盤の冷凛とした透徹感とは隔たりがあって、ちょっと生ぬるい。
でも、それがふくよかなハイティンクとコンセルトヘボウの特徴。
よいではないか。
 和楽器と完全なる対比が、巧まずしてなされている。

現代物をあまりやらない印象があるハイティンクだが、オランダの作曲家や、リゲティなどもいくつかライブ以外にスタジオ録音しているので、復刻が待たれる。

若いぜ、ハイティンク。

Yakushiji こちらは薬師寺の回廊。
改修したから、派手なくらい・・・・。

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2009年12月27日 (日)

ベートーヴェン 交響曲第9番 神奈川フィルハーモニー

1 2昨日は、勝手に「神奈川フィルを応援する会」の忘年会でございました。

幹事さまのお馴染みの素晴らしすぎる関内の居酒屋にて。
3 4 あんこう鍋。
これに、肝が入っちゃうわけ。

おいしくないわけがない。

幸福とは、こういうことをいうのだろう。

それと嬉しいお知らせもありました。おめでとうございます

開店と同時に飲みだして、終電まで。
湾岸をぐるりと回りこむ旅だったけど、秋葉原から総武線各駅も最終。
これがまぁ、驚くほどの混雑で、朝のラッシュなみ!
おかげで、眠らずに乗り過ごすことがありませなんだ。
楽しいかったから全然苦痛になりませんね。

みなさんお疲れさまでした。

あっ、そういえばコンサートを聴いたのだった。
一夜明けたら、もう記憶の片隅にわずかに残るのみの空しい内容。

Kanagawaphll_sym9 なんだかねぇ~

森麻季ちゃんの声が一番きれいでよかったし、佐野さんの伸びのあるテノールもいい。合唱も見事。
これが、昨日の第9の印象。
あと、麻季さんのお姿が、指揮者とかぶっちゃって見えない。
どいてくれ、といいたかった。

チケットが大きな県民ホールなのに完売。満員。
みなさん、どうお聴きになったろうか・・・・・。

予想していた演奏だったけれど、実際に目の前で、しかも前任者たちの深淵なまでの凄演にずっと接してきた神奈川フィルでやられちゃうと、怒りを通り越して、呆れてしまった。

実は、第9を生で聴くのってものすごーく久しぶり。
びっくりするでしょうが、シュタインかスゥイトナーのN響以来だから、四半世紀ぶりかもしれない(笑)
こんな骨董品的なわたくし。
ゆえにせっかく聴くんだから、晴れやかな思いにして、心を解放して欲しかった。

ダイエット中のわたくし、昨日はたくさん飲んで食べちゃったけど、第9を聴くのに、こちらが期待した味は、しばらく食べていない「かつ丼」のようなカロリーの高いもの。
ところが、供せられたのは「お茶漬け」。
しかも、出汁をしっかり取った料亭の「お茶漬け」じゃなくて、永谷園のお茶漬け海苔を半分だけかけて薄~くしたものだった。

これ以上はやめときましょう。

いま、アバドとベルリンフィルの第9を聴いてお口直し。
ベーレンライター版でも別格の演奏。こうあるべし。

それにしても、昨日の鍋はおいしかったなぁ

6 8

しょがないから、食べ物ブログと化してます(笑)
禁断の白子。
そして鍋が雑炊になりましたね 

Yamashita_park

記事が書けないから、今日は以前撮った写真をたくさん。
ランドマークタワーから見た山下公園方面。
県民ホールも見えます。 

4_2今年も多くの名演に出会った、みなとみらいホールは、左の隅の方。
(でも写ってません)
今年もお世話になりました。
来年はどんな演奏が待っているのでしょうか?
ちょっと不安なみなとみらい・・・・・。  

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2009年12月25日 (金)

ヘンデル 「メサイア」 シュナイト指揮

Azabu3 都心のカトリック麻布教会。

六本木と西麻布の中間。
こんな静謐な教会がひっそりとあります。

平日に伺ったが、この日も、集会が開かれておりました。

場所柄、結婚式などにも利用されているけれど、平常の宗教心が根付く教会は清々しいものだ。
ヘンデルは、英国国教会。
シュナイトさんは、プロテスタント。
同じキリスト教でも、三様となってしまった本日であります。

Messiah_schneidt ヘンデル「メサイア」は、邦名は「救世主」。
最近は、こんな風に決して呼ばれない。

私が、初めてこの曲を聴いた頃は、「救世主」だった。
そして、サブタイトルとして「メサイア」になってた。

またまた昔ばなしだけど、この作品のレコードは、ほんと限られていて、70年代前半では、クレンペラー、リヒター(独語版)、ビーチャム、サージェント、デイヴィス、シェルヘン、バーンスタイン、オーマンディ、ゲール、リヒター(英語版)などなど。
ほんと、限られていた。
ところが今や、古楽器によるもの、ピリオド奏法によるもの、コンサートスタイルによるもの、宗教感あふれるもの、などなど、百花繚乱。
数にして、100以上の録音があふれるようになった。

演奏の多様化がもたらしたという意味では、バッハも同じ。
でも、英語という万人的なテキストに加え、ハレルヤ・コーラスを代表とする合唱音楽として、アマチュアをはじめとする我々への歌える素材としての存在も極めて大きい。

ヘンデルは、合奏協奏曲とかオルガン協奏曲がよく聴かれていたけれど、最近は、オラトリオやオペラの興隆が著しい。
ことにオペラは、斬新な演出が施されて、世界中で上演されるようになった。
ヘンデルは、オペラとオラトリオの人なのであります。

1742年にダブリンで初演されて以来、メサイアは英国で爆発的な人気を呼び、すぐにヨーロッパ諸国へ広まっていった。
 歴史劇を扱うオラトリオであれば、主人公や登場人物たちがしっかり登場するのであるが、「メサイア」は登場人物のいないオラトリオであり、イエスは3人称で語られる。
詩篇や福音書、手紙などからテキストを得て、3つの部分はそれぞれ、「預言と降誕」「受難と復活」「栄光・救いの完成」となっている。
内容は、かなり宗教的なのである。
 そして、クリスマスシーズンに相応しいのは第1部だけとなるが、無宗教のなんでもありの国民が、キリストのことを音楽を通してだけでも考えてみるのに、最良の音楽であろう。

こんな超名作に、愛するハンス・マルティン・シュナイトの日本での演奏の音源が残されていることが、極めてうれしい。
今年は、シュナイト師が日本において、その指揮棒を置いて引退した年である。
手兵神奈川フィルとの渋いが、充実を極めたブラームスとブルックナー。
そして、エヴァンゲリストに自らなってしまったかのようなヨハネ。
横浜で不調を押して指揮した壮絶なシューマン。
オペラシティで、元気に登場して神がかり的なロ短調ミサを聴かせてくれた9月。

音楽を愛する者として、生涯忘れえぬ体験をさせていただいたことに、感謝の想いしかない。

そのシュナイト師が日本でずっと合唱音楽を指揮し続けるようになったのが、師の名前を冠したシュナイト・バッハ管弦楽団と合唱団の結成だ。
1998年に、東京フィルハーモニーを母体に、コンサートマスターの荒井氏が中心となって結成され、東フィルから神奈川フィルを交えて、シュナイト師の意思を貫いた有機的なオケと合唱団として活動した。
それが今年のシュナイト指揮による「ロ短調ミサ」によって活動の幕を下ろしたのである。

       S:田島 茂代    Ms:寺谷 千枝子
       T:辻 裕久      Br:河野 克典

     ハンス=マルティン・シュナイト指揮 
                シュナイト・バッハ管弦楽団/合唱団
                          (2000.12.4@みなとみらい)

シュナイト・ファミリーともいえる歌手の皆さん。
素晴らしいの一言。
リリカルで清純なソプラノの田島さん、輝くばかりに深みがあって、ビロードのようなメゾの寺谷さん、英国音楽の徒・辻さんの日本人離れした透明感ある声、日本のFD=河野さんの瑞々しいバリトン。

合唱も薫陶よろしく、よく歌いこんでいて見事であります。

そしてシュナイトさんの、音楽の呼吸のよさはどうだろう。
演奏者にも聴き手にも、理想的なテンポ設定で、どこをとっても心地よい。
この時分では、まだあの極端なまでにゆったりとしたテンポはとられておらず、ジャケット写真を見ると、立ったままの指揮ぶりで、ときおりドタドタと足を踏みならす音が盛大に収録されているのもご愛敬。
シュナイトさん、元気すぎ。
 メサイアは合唱曲も素晴らしい曲が散りばめられていて、その言葉ひとつひとつ、音符のひとつひとつに心が込められていて、そのこだわり具合にこそ、シュナイトさんの本領が聴いてとれる。1部の明るさ、2部の痛切感と深淵さ、3部の荘厳。

2部から3部が、シュナイト・メサイアの真骨頂であろうか。
音楽の緩急が激しくなり、かなり熱を帯びてきて、ハレルヤコーラスとアーメンコーラスでそれぞれ爆発する。
 ライブでそこに居合せれば、手に汗握って興奮してしまったことであろう。
シュナイトさんの音楽は、やはりライブが一番。
CDには収まりにくい音楽なのであろう。
それでも、このメサイアの完成度の高さは、ソリストの素晴らしさも相まって、相当なもの。
大切なCDが、またこうしてひとつ生まれた。

Azabu1

 



















カトリック麻布教会のステンドグラス。

Azabu_church4 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昼間の様子。
まぶし~い。

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2009年12月24日 (木)

バッハ 「クリスマス・オラトリオ」 フレーミヒ指揮

4 東京フォーラムで行われていた、スタラスブールの「マルシュ・ド・ノエル」。

本場のクリスマス・マルシェとしては、フランス国外初開催だそうな。
けど、ちょっとイマイチ。
規模がセコすぎるし、価格設定が高すぎだし、フード類はすぐに売り切れ・・・・。

1 ストラスブールといえば、アルザス地方。
シャルル・ミュンシュが生まれた場所だし、ストラスブール・フィルハーモニーなんかも有名。
ロンバールやグシュルバウアーが指揮してました。

ライン川の対岸はすぐにドイツ。
そこには、若杉さんが総監督を務めたライン・ドイツ・オペラがある。

フランスとドイツの最も近い関係。

Bach_weihnactsoratorium_flamig バッハ「クリスマス・オラトリオ」。

人類の名作とも呼ぶべきふたつの受難曲や、ロ短調ミサと並ぶ4大宗教曲であるけれど、このオラトリオは深刻な他の大作と異なり、イエス誕生の前後の喜ばしい輝きに満ちた幸福な大作であります。

大作オラトリオとはいえ、実際は6つのカンタータの集積であり、全部一気に聴く必然性もないのである。

①降誕節第1祝日 24日
②降誕節第2祝日 25日

③降誕節第3祝日 26日
④新年          1日
⑤新年最初の祝日 (2日) 
⑥主顕節        6日
      

主顕節というのは、イエスが初めて公に姿を現わされた日のことで、東方からの3博士が星に導かれて生後12日目のイエスを訪ねた日をいう。

1734年、バッハ壮年期に完成し、その年のクリスマスに暦どおりに1曲ずつ演奏し、翌新年にもまたがって演奏されている。

バッハの常として、この作品はそれまでの自作のカンタータなどからの転用で出来上がっているが、旋律は同じでも、当然に歌詞が違うから、その雰囲気に合わせて歌手や楽器の取り合わせなども全く変えていて、それらがまた元の作品と全然違う雰囲気に仕上がっているものだから、バッハの感性の豊かさに驚いてしまう。
バッハのカンタータは総じて、パロディとよく云われるが、それは自作のいい意味での使い回し、兼、最良のあるべき姿を求めての作曲家自身の信仰と音楽の融合の証し。

なんといってもこの「オラトリオ」の第1曲を飾る爆発的ともいえる歓喜の合唱。
これすらも、カンタータ214番からの引用だが、調性が違っているし、当然のことながら歌詞もまったく違う。
こんな風に分析するとするならば、この6つのカンタータの集積だけでも、カンタータの全貌を理解しつつ聴かねばならいからたいへんなこと。
私はこれから、ワーグナーの作品に対するのと同じように、バッハのカンタータ群に接していこうとと思っている。
大それたことだけど、すべてのカンタータ、それにまつわってバッハのあらゆる作品が大胆かつ微細なまでに、とりこまれている様子がだんだんとわかるにつれ、そのすべてを聴いてみたくなっている今日この頃。
 このクリスマス・カンタータにおいても、超有名な、マタイのコラール(それすらも古くからのドイツ古謡の引用であるが)が出てきたりするだけで、極めて親しみが増す。

クリスマス音楽のお決まりとしての「田園曲」=「パストラーレ」は、第2夜のカンタータの冒頭におかれたシンフォニアである。
この曲だけでも単独で聴かれる、まさにパストラルな心優しい癒しの音楽である。
単独の演奏では、あまりにも意外な演奏だけれども、フィードラーとボストン・ポップスが好きだったりするくらいで、独立性のある名品であります。

それと、この曲集で印象的な場面は、ソロと合唱、ないしはエコーとしての合唱のやりとりの面白さと遠近感の巧みさ。
その場面においては、私のこの曲のすりこみ演奏であるリヒター盤の、ヤノヴィッツの歌が完璧に耳にあって、他のソプラノではどうしようもなくなっている。

リヒターの刷り込み演奏は、ひとえに第1曲が収められた、アルヒーフのリヒター・サンプラーというレコードゆえでして、そこには、マタイや独語メサイア、ハイドン、トッカータとフーガ、イタリア協奏曲など、マルチ演奏家としてのリヒターが浮き彫りにされた1枚であった。
当然に、布張りのカートンに収められた、「リヒターのクリスマス・オラトリオ」のレコードは、実家のレコード棚に鎮座する一品であります。

CD時代に、リヒターを買い直し、同時に古楽器による演奏も聴いたものの、リヒターが一番。
そして2番手が、こちら、フレーミヒの指揮よるドレスデンの趣き溢れる古雅なる演奏。
レコード発売された頃に、「朝のバロック」で6回に分けて放送され、皆川さんの名解説で、大いに触発されながら聴いた演奏。
そのCDを、最近ようやく手にすることができた。

1974年の録音。
まだ東ドイツが厳然と存在していたなかで、ドレスデン・ベルリン・ライプチヒといった音楽主要都市では、今もしっかりと残る名録音が残されていった。
そのうちのひとつが、この「クリスマス・オラトリオ」で、当時東ドイツの宗教曲系合唱指揮者の神様的存在であった、マルティン・フレーミヒが指揮をしている。
シュターツカペレの陰にかくれがちだった、ドレスデン・フィルハーモニー
合唱は歴史あるドレスデン十字架合唱団
さらに独唱も、オジェーを除いては、東ドイツ系の純正ドレスデンの皆々。

第一音から、派手やかよりは、しっとりした内面的な喜びを感じさせる渋い演奏。
福音史家のシュライヤー。指揮者によっては、ノリすぎて鼻につきすぎる芸達者のテノールが、本来の律儀で規律正しいテノールに徹していて清々しい。
 アダムのアクのある声も、ワーグナーを日々聴く私には、これまた、聖十字架合唱団出身の真っ直ぐなバッハ歌いとしてのアダムに聴こえる。
 同じ東ドイツ組の、ブルマイスター。この素敵なメゾも、わたしにはフリッカやブランゲーネといったワーグナー歌手の印象も強いが、このオラトリオにふんだんに用意されている、メゾ領域の素敵なアリアの数々をピュアに、そして情感豊かに歌っていて、ほんとに感動してしまった。
 ヤノヴィッツの声の残るソプラノのパートは、オジェーで、彼女のみがアメリカ系。
ブルマイスターとオジェーは、物故してしまったが、バッハやモーツァルトを歌うオジェーの、これまたピュアな歌声は、エヴァーグリーン的な歌唱に通じている。

古楽やピリオド奏法に慣れてしまった耳には、かえって新鮮に聴こえるアナログ感あふれるもの。
ドイツで日常行われていそうな演奏と思っていかもしれない。
ろうそくを一本一本灯していって、降誕の日を迎える。
そんなジワジワと胸に染みいるような素朴な喜びが、ここには満ちているように感じる。
日本の商業主義に染められてしまった絵空事のクリスマスでない、真実の喜び。

いい演奏であります。

どうぞ、よいクリスマスをお迎えください

8 こちらは、一昨年ですが、札幌の大通公園のクリスマス・マーケット。

かなり本格的であります。
ヨーロッパの雰囲気でまくりぃ

Mikimoto_2 写真も鮮度切れにならないように、イブですから、追加しちゃいます

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2009年12月23日 (水)

チャイコフスキー 「くるみ割り人形」組曲 マリナー指揮

Kitashinchi 花屋さんのショーウィンドウ。

いまは完璧なオジサンだけど、いまだにクリスマスが好き。

子供の頃から、1年のうちで、夏休みよりも、お正月よりも、クリスマスの方が好きだった。

幼稚園が、カトリック系だったので、クリスマス会には、イエス誕生の劇を子供たちで演じた。
わたしは、いつも生まれたイエスを見にゆく乞食の役で、いわゆるその他大勢の役柄。
風呂敷を頭から被ってたもの。
ヨゼフとマリア役が、花形だったなぁ~。

Tchaikovsky_nutcracker_marriner クリスマスにまつわる音楽は、たくさんあれど、大人から子供まで、あらゆる人々に愛されていることでは、チャイコフスキー「くるみ割り人形」が一番では。

チャイコフスキーの3大バレエの中でも、一番メルヘンだし、深刻さは皆無で、親しみやすいメロディの宝庫。
1891年の作で、93年には亡くなってしまうから、チャイコフスキー晩年の作品は、巧みなオーケストレーションにクララの夢の世界を織り込んだ、素敵な音楽。

ご多分にもれず、組曲で初めて聴いた(聴かされた)のが、小学校の音楽の授業。
これはすぐにハマりました。
行進曲や、こんぺいとうの踊り、あし笛の踊りなどのチャーミングな曲がお気に入りになった。
レコードでは、「コロンビアのダイヤモンド1000シリーズ」の白鳥の湖とのカップリングで、ハンス・ユイゲン・ワルターとかいう廉価盤指揮者のものだったけど、当時はその良し悪しなんてわからないから、一生懸命に聴いたものだ。
 あとは、カラヤンとウィーンフィルのデッカ盤。これは音もよかったし、ゴージャスな1枚だった。

そして、組曲ばかりじゃなく、全曲が素晴らしいのがわかったのが、ロジェストヴェンスキーとBBS響のFM放送の第2幕全曲。
これは、今もとってあるけど、リズム感あふれる洒落た名演であります。
 それと、なんといってもプレヴィンとロンドン響のいかにもメルヘンチックなジャケットの全曲盤。
これはいまだに、全曲盤の最高の演奏ではないかしら!
オヤジになってから、プレヴィンのロイヤルフィル新盤や、ヤンソンス&ロンドンフィルなども愛聴してます。
何故か、ロンドンのオーケストラばっかりになってます。

で、本日は、サー・ネヴィル・マリナーアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(ながぁッ)の組曲盤を取り出してみました。
 これはいい。
マリナー好きだからベタ褒めだけど、誰しもが思う「マリナー&アカデミー」のさわやかなイメージ、そのとおりの演奏なのであります。
すっきり早めのテンポで、思い入れは少なめに、さらっと流したようなスリムな「くるみ割り」なんだけど、少なめの編成で演奏しているから、オーケストラの各声部がくっきりと透けて見える。
この小回りの効いた洒落た「くるみ割り人形」を聴くと、とてもいい夢が見れそう。
いろんな「くるみ割り」を聴いてきた人に聴いてもらいたいマリナー盤である。

カップリングの「弦楽セレナード」は、もうこのコンビの十八番。完璧ですわ。
(あ、「おはこ」で変換すると、「十八番」で出るんだ!知らなかった・・・)

というわけで、クリスマス3連投、初日からさわやかにまいりました。

Pimteps_2_2 ツリー大放出。

こちらは、プランタン前。

Mikimoto_1 そして、銀座のミキモトのツリー。

ツリーやイルミネーションで写真を撮っているオヤジを見つけたら、みなさん、それはワタシだよ。

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2009年12月21日 (月)

ワーグナー 「神々の黄昏」 ショルティ指揮

Kitashinchi_1

 


























大阪梅田の地下街のツリーとイルミネーション。

奥行き感もあって、そんなに華美じゃない。

さまええるクラヲタ人が選ぶ、今年のイルミネーション大賞候補のひとつだ。

Winter3













今年の年末バイロイト放送の予定。

24~27日「ニーベルングの指環」(ティーレマン)、28日「マイスタージンガー」(ヴァイグレ)、29日「トリスタン」(シュナイダー)、30日「パルシファル」(ガッティ)。
いずれも21時開始。
毎年のことながら、忙しいことである。
オーパス・アルテと契約したバイロイト。
今年と来年あたりで、ティーレマンのリング映像を収録しそうだし、カテリーナの過激マイスタージンガーもDVD化される。
こうして次々にバイロイトの音や舞台が身近になってくると、有難みがちょっと薄れてきちゃうのも事実であります。そして、それよりも懐に厳しすぎるし、もうこれ以上、置場所がない。もう新しいものを出さないで、勘弁して欲しい。

1876年に始まったバイロイトの祝祭。
1883年にワーグナーの亡くなったあとは、コジマが取り仕切り、1930年まで93歳の人生を全うした強い女性である。
コジマには、前夫の二人の娘がいたほか、ジークフリートが生まれる前にさらに二人の娘をもうけていて、その名前は、イゾルデとエヴァであるから徹底したものだ。
そこに生まれたのが男の子だったので、父リヒャルトの喜びようはなかったであろう。
息子ジークフリートは、父親からさまざまな指導を受け、語学も堪能でイタリア語と英語はベラベラだったらしく、建築家を志すのもイタリア好きがあったからかもしれない。
おまけに大のヴェルディ好きで、その旋律をよく口笛で吹いていたという。
そのジークフリートが、音楽家の道を歩むことになったのは、父亡きあとのこと。
作曲も台本もこなし、指揮も演出もするマルチな父親譲りの才能であったが、今はまったく顧みられることない偉大すぎる父を持ったジークフリートである。
しかし、父と違って、本当にいい人物だったらしい。

コジマのあとをそのジークフリートが継いだのが、1906年。
晩年にはナチスも台頭しているが、毅然とした態度を貫いた母・息子。
演出家としてのコジマは旧弊なものだったらしいが、ジークフリートはイタリアの美術家アッピアの考えを取り入れた新しい舞台を作りだした斬新な人で、ヴィーラントの天才、ウォルフガンクの実務は、父親から譲り受けた才能であろう。
しかし、1930年、母の後を追うようにして亡くなってしまう。

ここで登場するのが、ジークフリートの妻であったヴィニフレッドで、彼女は英国人。
彼女の存在がワーグナー家の闇の部分を担ってしまうことになるわけだが、ヒトラーを信奉した彼女の役割は、バイロイトの水準維持のためにも当時は、已む無しと思われるが・・・。その時の「みそぎ」を戦後ずっと行ってきたのもワーグナー家の人々。
面白い存在は、娘のフリーデント。幼い頃は、慕っていたヒトラーおじさんが、危険な独裁者とわかると、スイスに逃げ、さらにアメリカに移住してしまうという徹底ぶり。
ワーグナー家の人々は、このように激しい女性ばかり!

New_bayreuth 1951年の戦後バイロイトの再開については、数々のことが書かれてます。

私の愛読書は、ペネラピ・チュアリング「新バイロイト」という本。
英国の女性ワグネリアンが、1951年から1968年まで毎年バイロイトに通いつめ、その上演の様子をレポートしたり、ワーグナー家のこと、バイロイトの街のことなどが書かれている。
ベームのリングのレコードの初版特典だった。

貴重な写真も満載。
クナがカイルベルトが、カラヤンもベームもバイロイトを飾った指揮者や歌手たち、そして二人の孫の演出の模様もしっかり描かれております。いまは絶版でありましょうか。





「神々の黄昏」
は、1869年から作曲が始められ1874年に完成されたが、その間は祝祭劇場建設に奔走し多忙を極めた、
ワーグナーの作品の中でも、一番巨大な「たそがれ」はレコード時代は6枚組だった。
快速ベームが5枚組。
4時間30分にわたるドラマは、巧緻の限りを尽くし、これまでのリング3作で張り巡らされた仕掛けの数々が、完結に向けてすごいほどの集中力をもって動き出し、音楽がおのずとドラマを語り出すのを強く感じる。
音楽とドラマの完全なる融合。
ワーグナーの行き着いた極致は、最後の「パルシファル」においてさらに別次元の扉を準備することとなる・・・・・。

  ワーグナー 「神々の黄昏」

  ジークフリート:ウォルフガンク・ヴントガッセン 
  ブリュンヒルデ:ビルギット・ニルソン

  グンター:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ 
  ハーゲン:ゴットロープ・フリック   
  アルベリヒ:グスタフ・ナイトリンガー

  グートルーネ:クレア・ワトソン    
  ワルトラウテ:クリスタ・ルートヴィヒ

  ウォークリンデ:ルチア・ポップ   
  ウェルグンデ:グィネス・ジョーンズ

  フロースヒルデ:モーリン・ガイ   
  第1のノルン:ヘレン・ワッツ

  第2のノルン:グレース・ホフマン  
  第3のノルン:アニタ・ヴェルキ


 ゲオルク・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
              ウィーン国立歌劇場合唱団
         合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ
                   (1964.5@ウィーン・ゾフィエンザール)


Gotterdammerung_solti_1













リングのレコーディング史上の最大傑作は、やはりショルティ盤であろう。
当時のワーグナー歌手をウィーンに集め、ウィーンフィルを縦横に使用した、ジョン・カルショーの作り上げたレコード芸術の極である。
擬音をふんだんに取り入れ、歌手たちの位置もステレオ効果でばっちり。
オーケストラのマッシブな響きも巧みに捉えられていて、歌もそうだが、オケを聴く楽しみも最大限に味わえる。

あの凄まじい「ラインの黄金」のハンマーの音が録音されてからもう50年が経過している。
いまや、オペラの録音はライブが主流となり、音源から映像へとそのメインメディアも変貌しつつある。
でもそうした変遷に決して埋もれることなく、永遠に輝き続けるであろう名録音が、このショルティ=カルショーの「リング」なのだ。
ワーグナーに限ってはカラヤンとベームのリング、クナのパルシファル、ベームのトリスタンなどもそこに加えたい。
氾濫するCDを、1枚1枚慈しむようにして大切に聴くということは、なくなってしまったが、レコードというある意味貴重な品物を押し頂くようにして聴いてきた世代としては、こうした永遠の名盤は、心の襞にしっかりと刻まれてしまっているから、その地位はちっとやそっとじゃ揺るがしようがない。
 
最新のデジタル録音から比べたらさすがに経年を感じさせるところが多々あるし、工夫を凝らしたカルショーの仕掛けが、今となっては時代がかって聴こえるし、効果のための効果と感じなくもない。
でも、それゆえにこそ、長大な「リング」を飽くことなく聴くことができたのだし、あのハンマーやワルハラの陥落、雷鳴などの箇所を楽しみにしてしまう自分がいたりするわけで、先にも記したとおり、完璧なるレコードの芸術なのだから。

クナッパーツブッシュでなく、ショルティが指揮者に選ばれたことも、今となっては正解。
クナの悠久を思わせる叙事詩的演奏も魅力ながら、それはレコードには収まりきれない世界だったかもしれず、ショルティの直情怪行的な明快かつ豪快な解釈こそ、カルショーのソニックステージ・リングに相応しく、長く聴きこむことのできる演奏になった訳でもある。
そのある意味縦線のピタリと揃った線のキツイ解釈を緩和させているのが、ウィーンフィの独特の音色で、60年代当時は、いまの国籍不明になりつつあるこのオーケストラとは大違いで、鄙びた古風な音色さえうかがえるところが嬉しい。
久しぶりに聴いて、「あぁ、これこれ!」とニンマリしてしまったウィーンフィルなのである。

当時最高のワーグナー歌手を揃えたキャストは非の打ち所がまったくなくて、これより後だったら下り坂に向かってしまう歌手たちのピークの状態が最良の条件で録音されたことも喜ぶべきこと。
主役ふたりは、ベーム盤と同じだが、ライブでないぶん、こちらの方が精度が高く、ことにヴィントガッセンは若々しく、歌いまわしが巧妙で、こんなにうまかったっけ、と感心してしまった。
そしてまたしても驚嘆すべきは、ニルソン。ベーム盤のライブとほぼ同じコンディションで、あちらは出ずっぱりのライブに係わらず最初から最後まで変わらぬペースで歌い続けてることも驚きであるが、スタジオ録音でもライブ感ある迫真の歌唱で、その冷凛とした真っ直ぐの声には、背筋が伸びる思いだ。普段が茶目っ気たっぷりでたくさん逸話のあるニルソンだったが、その強靭な歌声とのギャップがはなはだ大きくて、彼女の大らかな人間性が偲ばれる。北欧系の方々の共通項かもしれない。
4年前のクリスマスの日に亡くなってしまったニルソン。寂しいですな。
ニルソンの絶唱ともいえる自己犠牲の場面を経て、ワルハラの陥落、そして救済の動機等が繰りなす大団円、あらゆるリングの録音の中で、これほど壮麗かつ感動的な演奏はないのではなかろうか。

グラインドルと並ぶ名ハーゲン、フリックの痛烈なハーゲンも久方ぶりに聴くと耳から鱗が落ちるような快感を呼び覚ます。2幕のピッツの指導を受けた合唱と、ショルティ閣下の睥睨するオーケストラと特注のブラスによるやり取りには誰しも白熱した興奮を覚えるのではなかろうか。ドイツの純正バスの真髄をここに聴く思いだ。
 F=ディースカウのグンターは立派すぎて、とても意志をもたないお人よしには思えないくらい。相変わらず、言葉ひとつひとつへの感情の入れ込みが強いが、この頃の声には力強さが十分すぎるほどあったので、違和感はなく、ウォータン系のステュワートのそれとともに好きなグンターである。
美しいソプラノ、ワトソンの哀れなグートルーネ。
神々しいルートヴィヒのワルトラウテ。
ザ・アルベリヒ=ナイトリンガー、素敵すぎる。
ポップ、ジョーンズと並んだラインの娘っ子たち、ベテラン勢のノルンたち。
いずれも豪華な顔ぶれで、もったいないくらい。

ジークフリート:不死身の英雄だけど、世間知らずのお人よしが玉に瑕。
忘れ薬を処方されるが、ブリュンヒルデだけを忘れて、愛馬や隠れ兜、ブリュンヒルデの岩屋、自分の名前などはちゃんと覚えている。なんでだろ。
女だけ忘れる、都合のいい薬。私たちも欲しいぞ。


ブリュンヒルデ
:いつも清く正しく真っ直ぐ。ハーゲンやアルベリヒが一番恐れていたのは、ブリュンヒルデ。
しかし、嫉妬は彼女をも狂わせてしまった。
父ウォータンを愛し、ゆえに神々と縁が切れても、きっと父のことは想っている(と思いたい)。
でも、神々の凋落の幕を引いてしまうのは彼女であり、すべてをリセットして元のあるべきところへ戻してしまうのも彼女。
次世代の母たるブリュンヒルデ。

ハーゲン:頭がいいのだか、悪いんだか、わからない。
リング随一の切れ者だが、別にジークフリートに思いだし薬を飲ませて、昔話をさせることはなかろうに。
あんなことしなければ、気のいいグンターに見透かされることもなかった。
最後も、あんなに欲しかった指環なのに、力ずくで取ればよかったのに。
長大なリングで、最後に声を発する記念碑的人物。


グンター:いい家柄のぼんぼん。初めて会ったジークフリートといとも簡単に義兄弟の契りを結んでしまう。
でも、まんまとハーゲンに騙され兄妹ともに哀れな末路をたどる。
近時は、病的で神経質なタイプで演出されたりするいじられやすい、注目の役柄。

グートルーネ:歌いどころ少なく、ハーゲンとグンターの陰に隠れている妹。
私も多くを語れない。ジークフリートが惚れちゃうのだから、いい女に描かれるべき女性。
トーキョーリングでは、兄は薬物依存、妹はセクシーガールだった・・・。

アルベリヒ:息子ハーゲンの夢の中に現れちゃうオヤジ。まだ生きているのか?
眠りながら語る息子も不思議なら、夢に出てくるリアル・アルベリヒがせっかちに息子を叱咤するのが面白い。
いつまでも煩い親父でハーゲンも気の毒。


ワルトラウテ
:ワルキューレの中から一人登場。ブリュンヒルデ破門のあと、ウォータンに一番近いところにいた。
弱った父を一番よく見ていたからこそ、指環をラインに返すことを進言するものの、人間になった姉は頑なだった。
この役も神々の現状を語る重要な役だからいいメゾが必要!

ラインの娘たち:ここでも男をたぶらかそうとする、悪い女河童たち。
ジークフリートもそこで、指環を投げちゃえばよかったのに。
ハーゲンも最後は川に引きずり込まれちゃう。

ノルンたち:運命の綱をなう娘たち。エルダの娘だが、お父様とか言ってるから、ウォータンの娘でもある(とされる)。
この楽劇に本当に必要だったか、ちょっと冗長な思いを抱く彼女らの冒頭部分。
何事も運命によって定められているのか??

これにて、「ニーベルングの指環」完結。
弊ブログでは、4度目のリング。

手持ち音源は、CDが14種、DVDが1種、VHSが3種、放送音源80年以降無数。
実演では、コンサート形式を含めれば4度。
5度目の、トーキョーリングが進行中。
やはり、リングは何度味わっても面白い。書くこともたくさんある。
この先、残された人生で、あと何回「リング」を聴くことができるだろうか。
しこたまある、ワーグナーのコレクション、わたしの子供たちは引き継いでくれるだろうか?

来年またリング特集やりますから、呆れてないで見て下さいましね(笑)

 「神々の黄昏」過去記事

「ブーレーズ&バイロイト」
「クナッパーツブッシュ&バイロイト」
「カラヤン&ベルリン・フィル」

「エヴァンス&尾高忠明~抜粋」

Kitashinchi_3

 

 

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2009年12月20日 (日)

ワーグナー 「ジークフリート」 ヤノフスキ指揮

Suntry_1


















今年のサントリーホールのカラヤン広場は、グリーンがテーマのようだ。

グリーンな植物や花をあしらったモニュメントが点々と置いてあり、花壇には、クリスマス3色のこんな洒落たものがたくさん。

ツリーばかりじゃなくて、こうした優しい緑もいいもんです。
街中いたるところにツリーだらけ。
25日が過ぎると、消え去ってしまい寂しくなることおびただしい。

Winter1

 














冬のバイロイト
かの地も雪が降るのでありましょうか。
夏しか稼働しない劇場は贅沢だし、もったいない。
暖房なさそうだし、寒そうだけど、何か企画しそうな、今の経営陣であります。
カテリーナエヴァの二人のワーグナーの曾孫は、本来の実験劇場をどう導いてゆくのだろうか。
 音楽面では、ティーレマンが監督的な立場にあって、やや過去に軸足があるような気もするが、演出面はますます先鋭に、劇場運営も斬新な考えを注入してもらいたいものだ。
そして、オランダ人以前の3作もレパートリーに入れて欲しいし、禁断のことかもしれないが、シーズンオフにワーグナーに近い存在の作曲家の作品を上演してもらいたい。
あの劇場の音響は、ともかく魅力的なのだから。

1872年にバイロイトに移住したワーグナーは、リング上演に新劇場の建設を熱望し、そのために精力的に働いた。
しかし、その前にルートヴィヒ2世が、ワーグナーの新作を早く観たいがために、「ラインの黄金」と「ワルキューレ」の上演をミュンヘンで強行してしまい、二人の関係も悪くなってしまう。このことは金銭的援助にも直結していたから、すでに各国でひっぱりだこになっていたワーグナーは自作の上演を次々に行って資金稼ぎをした。
やがて国王との仲も修復して、以前にも増して資金提供を受けることができて、72年に起工式が行われた祝祭劇場は、76年に完成し、リングの上演でもってこけら落としとなった。
これが記念すべきバイロイト音楽祭にスタートで、そのあとすぐに財政的に厳しくて開催されないことも存命中にあったらしい。
第二次大戦のあとも政治的な理由もあって閉館していたが、それが底知れない努力によって蘇ったのが1951年、新バイロイト。
この再スタートの年と、1976年のシェロー演出により100年祭が、バイロイトのマイルストーンでありましょうか。

「ワルキューレ」を1856年に完成させ、すぐさま「ジークフリート」に取り掛かった。
近くにブリキ工場があって、そのトンカンする音が、そのまま鍛冶場の音楽に取り入れられたという逸話もあったりする。
快調に作曲を進めたものの、「トリスタン」と「マイスタージンガー」が視野に入ってきて、2幕第2場あたりで作曲を中断することになる。
56年に中断して、再開は64年。
8年の中断の間、ワーグナーの作曲技法はますます進化して、分厚く施されたオーケストレーションに、再分化されミクロ化されたライトモティーフの複雑な絡み合いなど、まったく目を見張る有様。
「神々の黄昏」はもっと複雑きわまりなくなるが、「ジークフリート」は文字通り、牧歌的で純情なドラマでもあるから、ほどよい抒情性が心地よく、ワーグナーのジークフリートへの愛がたくさん詰まったような楽劇となっている。

   ワーグナー 楽劇「ジークフリート」

    ジークフリート:ルネ・コロ     
    ミーメ:ペーター・シュライアー

    さすらい人:テオ・アダム     
    アルベリヒ:ジークムント・ニムスゲルン

    ファフナー:マッティ・サルミネン 
    エルダ:オルトルン・ウェンケル

    ブリュンヒルデ:ジャニーヌ・アルトマイア
    森の小鳥:ノーマ・シャープ

  マレク・ヤノフスキ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
                     (1982.2@ドレスデン・ルカ教会)

Siegfreid_janowski












いまや押しも押されぬ大家となったヤノスフキがまだ42歳のときに録音されたリング。
誰もが、オーケストラと歌手は褒めても、指揮者のことはあまり褒めなかった。
デジタル初のリング録音に、リングの演奏からかなり長いこと遠ざかっていたドレスデン・シュターツカペレ。そこに起用されたヤノフスキは、当時からオーケストラ・ビルダーとしてのトレーナー的力量は高く評価されていて、伝統あるドレスデンにワーグナーの音色を呼び覚ます職人指揮者として呼ばれた。
 すっきりと早めのテンポで進められるこのリングは、ショルティやカラヤンと比較されちゃうと、それらの劇的なまでのオーケストラの雄弁な鳴りっぷりに、大人と子供くらいの遜色があるのも事実。
でもピュアで純粋、生まれたての新鮮なワーグナーの響きがここにはある。
ヤノフスキの棒を信じて、この名門オーケストラがワーグナーの音楽に人肌のぬくもりと、目の積んだ木目調の音色を響かせていて、ほかの強力盤にもひけをとらないユニークかつ美しいリングとなっているのだ。
 第2幕の「森のささやき」から同幕の最後まで、ルネ・コロの考え抜かれたみずみずしいジークフリートとともに、まさに緑の森に過ごすかのような美しいシーンが続出する。
ホルンは、かのペーター・ダムでありましょうか、いぶし銀の輝きを放っております。

異論はあろうかと存じますが、わたしはジークフリートとトリスタンは、ヴィントガッセンと並んで、ルネ・コロが一番好きなのであります。
肉太のロブストな声でどっしりと歌われるジークフリートのイメージを払拭してしまったのが、ルネ・コロの歌。知的でありながら頭でっかちの印象を決して与えることなく、自然児としてのジークフリートを歌いだしていて、さらに次の「たそがれ」ではジークフリートの遂げた成長をも歌い出すことに成功している。
このような歌手は、コロのあと、ペーター・ホフマンを除いて見当たらなくなってしまった。
ホフマンといえば、彼のジークフリートも聴いてみたいものだった。
あの病さえなければ、という「たられば」の想いに焦がれてしまう。
 私の自慢は、コロとリゲンツァの出演した「リング」を全部観劇したことだ。
その自慢の内容は、昔の日記を見つけ出したのでいずれご案内。

シュライアーの巧みなミーメが面白いが、ややウマすぎで鼻につくかもしれない。
ヘンゼルとグレーテルの魔女みたいなミーメなのじゃよ、ヒッヒッヒ。
 ベーム盤から、16年を経過している、アダムのさすらい人は、あの頃とあんまり変わっていない。息の長い歌手だ。聖歌隊で歌っていた少年時代からずっと長いキャリアの持ち主で、もう83歳になるはずだ。
ウォータンにザックス、オランダ人、アンフォルタス、ザラストロ、オックス、モロズスとアダムの歌声が刷り込みとなっているわたくし、いつまでも元気にいてほしいです。
アダムの「冬の旅」など、ちょっとクセある声だけど、味わい深いものです。
 ジークリンデ役から大抜擢を受けたアルトマイアーは、悪くない。
強靭なソプラノではないけれど、若々しい目覚めを元気に歌っていてよろしい。
ブーレーズ盤のジークリンデで馴染みすぎたせいか、ときおり、ジークリンデの声が顔を出し、相方がジークフリートと思うと複雑な感じになる(笑)
サルミネンの破壊力あるファフナー、シャープの決してシャープにならない可愛い小鳥ちゃんもいいし、ウエンケルの深みあるアルトで聴くエルダもよい。
 歌手が揃っていることでも、ピカ一のヤノフスキのリングである。

さて、男ばかりのジークフリートの登場人物。

ジークフリート:コジマとの不倫の落とし子である息子にも付けたこの名前。
自然児だけど、馬鹿力の持ち主で、英雄というよりは無鉄砲なやんちゃ坊主。
残虐な殺し屋でもある点を忘れてはならない。自分を育ててくれたミーメを殺してしまうのだから。
でもミーメもジークフリートを亡きものにしようと狙ってのですがね。ヒッヒッヒ。
自分の爺さんにも攻撃的だった向こう見ず。
 ちなみに、息子ジークフリートは、親の七光にはならず、オペラを19も作曲したが、いまはまったくネグレクトされている。
指揮者・劇場運営の実力は高く評価されているが、そのオペラはいかに。
近日、その大作を取り上げますぞ!

ミーメ:から、兄と決裂したこの弟、醜くてずるがしいが、どこか憎めないヤツ。
自分でペラペラとジークフリート殺害計画を暴露しちゃうから、逆に殺られてしまう。
赤ん坊から育てたのに、その坊主に殺されてしまう可哀そうな小人。
歴代、ナイスなミーメが続出している。シュトルツェ、ヴォールファルト、ツェドニク、ハーゲ、クラーク、ユンク(ジークフリートから転身!)、パンプフなどなど。
シュライアーはそれらとはちょっと違うミーメかな。
今のバイロイトでは、これもヘルデンのシュミットがユニークなミーメを歌っている。

さすらい人:さすらいという行動に、なぜかとても憧れと親近感を抱くわたくし。
指環が本当は欲しくて堪らない。ウロウロしまくった挙句に、孫に自慢の槍をへし折られてしまうが、ある意味ニンマリしている。
しかし、そこから神様たちの没落が始まろうとは・・・。自業自得の爺さん。

アルベリヒ:ウォータン憎し、好敵手弟ミーメ憎しに凝り固まっているが、ここでは見物人みたいで何もしないし、できない。
ミーメが殺られたあと、ニーベルングの動機でせせら笑う、兄弟愛もへったくれもない。
息子ハーゲンもおそらくジークフリートと同期生くらいに育っているのに、何故か登場しない。おかしいじゃないか。

ブリュンヒルデ:前の晩に火に囲まれて眠りに入ったばかりなのに、女に餓えた甥っ子に起こされてしまう。
ジークリンデのお腹の中の赤ん坊が、青年になっているから、だいたい18~20年は眠っていた勘定になる。
知力あふれる大人の女の魅力で、ジークフリートを虜にしてしまう、いけない伯母さん。
上演では、出ずっぱりで疲れの見え始めたジークフリートを元気一杯に目覚めて圧倒してしまう。

ファフナー:かつての巨人もいまや眠り竜。寝すぎだよ。
食っちゃ寝の典型で、退化してしまったが、ジークフリートに殺され、なんだか急に頭が冴えてしまう。
その血を浴びたジークフリートが、鳥の声を聞きわけるようになるが、リングの七不思議のひとつである。

エルダ:この女神さんも、よく眠る。
さすらい人にたくさん子供を作らされて、疲れて眠っていたのに、また急に呼び出しを受ける可哀そうなヒト。
ラインの黄金では、ウォータンが畏まっていたのに、ここでは逆で、なんだか怒られている。

森の小鳥:バイロイトでは、オーケストラピットの指揮者の隣あたりで歌っていたのはかつての話。
最近は、ワイヤーを付けさせられて飛ばなくちゃならない曲芸役。
バイロイトに登場した初日本人歌手、河原洋子さんは、ウォークリンデとこの役を歌った。

さて、明日は長大作「神々の黄昏」であります。

「ジークフリート」の過去記事

「ブーレーズ&バイロイト」
「ケンペ&バイロイト」

「カラヤン&ベルリンフィル」

 

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サントリーホールのグリーン

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2009年12月19日 (土)

ワーグナー 「ワルキューレ」 ハイティンク指揮

Tokyo_tower_1



















東京タワーをその下からパシャリ。

週末バージョンのイルミネーション。
足元にはツリーやミニタワーなどがきらきらしてる。

街中、こんなキラキラ。
でもLED照明だから消費電力は従来品と違って安く済んでるはず(?)

きれいですな。

そして、年末は日本の場合、バイロイトの季節。
夏は大本山のバイロイト音楽祭。昔は、現地情報なんて数か月後に雑誌で見て知り、年末に放送で確認するというパターンだった。
それが今や、夏にリアルタイムで音楽や場合によっては映像も確認できるようになって、年末は年末で高音質で録音するという、年2回バイロイトを楽しめるようになった。
 いつかは、本場に
夢であります。

Weihnacht2006_a

 

 

 

 

 






「ニーベルングの指環」
第1夜は、「ワルキューレ」
舞台祭典劇と題した4部作は、最初の「ラインの黄金」が序夜なので、こちらは第1夜となるわけ。

ワーグナーは、荒唐無稽とも思われた超大作のリングを想定せずとも、以前より、自作のオペラの上演は既存の劇場では出来ないと考えていた。
夢想家でもあった尊大なワーグナーは、指揮者としてドイツやパリの劇場で活躍しつつも、その旧弊な慣習や特権階級じみた聴衆に対して辟易たる思いを抱いていたらしい。
やがて、リングを発想した頃から、自作専用の劇場は必須のものとして確信するにいたった。
最初は、ルートヴィヒ2世のお膝元、ミュンヘンでの建築が計画されたが、以前書いたとおり、ミュンヘンを所払いになってしまい、この地での劇場企画は流れてしまった。
やがて、バイロイトに今でも存在する美しい辺境伯劇場のあることを知り、そこを訪れ、サイズ的にあまりに無理があって断念はしたものの、バイロイトが大いに気に入り、ここで劇場を建設する望みをいだきつつ、1872年にかの地にコジマと幼子ジークフリートとともに移り住んだ。
この年には、「トリスタン」と「マイスタージンガー」で中断していた「ジークフリート」は完成(1869年)しており、「神々の黄昏」を作曲中だった。
劇場建設の野望の実現はまた次回。

1854年、「ラインの黄金」のあと、すぐさま書かれた「ワルキューレ」は1856年に完成するが、この間、ショーペンハウエルの思想を知ったり、マティルデ・ヴェーゼンドンク夫人と怪しくなったりして、「トリスタン」も書き初めている。
「ワルキューレ」も「トリスタン」も、恋愛の大辞典みたいな楽劇だから、まことにワーグナーという人は人妻好きで、世間から疎まれる愛を実践していた達人なのである。

指輪の組成と略奪戦を描いた「ラインの黄金」から、20~30年経過した世の中が「ワルキューレ」。
ウォータンは、エルダを追いかけていってワルキューレたちを孕ませ、さらに人間界に降り立ちウェルズング族を作り上げ、ジークムントとジークリンデの兄妹を生みだしている。
これは、自分で手を出せない「指環」の奪還(捕ったものなのに)を託すための英雄待望論からしてやったこと。
 かたやライバル、アルベリヒは、愛を断念してを手に入れたのに、憎しみの念をもってハーゲンを生みだしていて、神々への復讐を計画中だが、ここワルキューレでは登場しない。
 一方、指環をワルハラ建設費の形(カタ)にとった巨人族ファフナーは、竜に変身し、後生大事に眠りながらお宝を呑気に守っている。

こんな指環をめぐる野望を背景にしながらも、楽劇「ワルキューレ」は、争奪戦はひとまずお休みで、とことん「愛」を追及したドラマとなっている。
許されない愛の練達の人、ワーグナーが編み出した「さまざまな恋愛のデパート」劇なのだ。
以前にも書いたことだけど、よくもまぁ、というくらいにムチャクチャ。
子供がリングに興味を持ってしまったら、どう説明しようかと激しく悩んだときもある。
兄妹の恋愛、無理強いされた結婚、そこから人妻の妹を奪う兄、醒めきった夫婦関係、嫉妬し夫の野望を見抜く強い妻、異母姉弟妹(?)の同情、生まれ来る甥への愛情の萌芽、父娘愛・・・・、ざっと挙げただけで、こんなにある。

Walkure_haitink












こんなインモラルな劇だけど、ドラマとして完結しているし、大いに人々を感動させるから単独での上演も多く、私はワルキューレだけで11回も観劇している。
心打ち、胸しびれる感動的な場面を列挙しよう。

1幕)ジークフリートが蜜酒を飲む場面のチェロの美しいソロ。
ジークフリートが武器を求めるところ、冬の嵐も去りの名アリアから最後までのロマンテックな二重唱。

2幕)ウォータンとフリッカの身につまされる夫婦の会話。
そのあとのウォータンの沈鬱な長大なモノローグ。
ジークムントとジークリンデの悲しみの逃避行と、死の告知、そしてブリュンヒルデの決意の感動的な盛り上がり。
ジークムントの死、父ウォータンの胸に抱かれて死ぬ演出ギボンヌ!

3幕)自暴自棄のジークリンデに、お腹の子供(ジークフリート)の存在を告げ、生に目覚め、感謝の念を歌う場面。
父と娘の反省会。やがて父の心裂かれる告別となる場面。
あらゆるワーグナー作品の中でも、私にはもっとも泣けるところ。
娘を持つ父として、これはいけない。泣かせないで欲しい。
 二期会ローウェルズ演出では、回顧して少女時代のブリュンヒルデが飛び出してきて、父親の胸に飛び込んだんだもの、涙ぼろぼろチョチョぎれまくりにございましたよ

「Wer meines Speeres Spitze furchtet, durchschreite das Feuer nie!」
 (わが槍の穂先を恐れるものは、この炎を超ゆることなかれ!)

 そのあと、大抵の演出では、ウォータンは後ろ髪引かれつつ、振り返りながら舞台を去るわけだ・・・・・。

さて、ここで人物紹介をば。

ジークムント:リングきっての、いやワーグナー作品きっての悲劇のヒーロー。
自ら、自分のいくところ、常に悲しみがついてまわる、と言明するなどの自覚があったが、妹を花嫁にすることで、一瞬、春を迎える。
しかし、父親に見捨てられてしまう、どこまでも悲劇の主人公。

ジークリンデ:兄で花婿のジークムントと同じく、悲劇一色。
母の自覚とともに、生き抜く強い女性となった。
こんな両親のもとに生まれたジークフリートがなぜ、あんなに脳天気なのか不思議でならない。(ミーメの育て方がよかったのか??)

フンディング:粗暴な小市民だけど、いいバス歌手に歌われると存在感ある役。
タルヴェラ、モル、リッダーブッシュ、クラス、サルミネンなどなど。
新国のマッキンタイアなんていう贅沢な布陣もありだ!

ウォータン:偉そうにしてるけど、カミサンにはからきし弱い。
日頃の不養生を掴まれている弱みがあり。
ついでに娘にも弱いときた。(うむ、書いてたら自分のことだった)

フリッカ:「ラインの黄金」での従順そうな妻が、怖い女に成長。
「女はみんなこうしたもの」でアリマス。

ブリュンヒルデ:元気印で登場しつつも、ジークムントを知ることで、自立的な考えに至る。
この急激な成長ぶりは驚きで、ずっと眠り続けて起きた暁にはさらに一人の女となっていた七変化ぶり。

ワルキューレたち:その多大勢的な軍団だけど、ワルトラウテのみ有名になる。
この8人の名前を諳んじている人がいたら、ワタクシ尊敬します。
あと、歌を聴いて、これは誰と当てたら、もうそれは神であります。

  ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」

   ジークムント:レイナー・ゴールドベルク 
   ジークリンデ:チェリル・ステューダー
   ウォータン:ジェイムス・モリス      
   ブリュンヒルデ:エヴァ・マルトン
   フリッカ:ワルトラウト・マイアー
      
   フンディンク:マッティ・サルミネン
   ゲルヒルデ:アニタ・ゾルディ       
   ヘルムヴィーゲ:ルース・ファルコン
   ワルトラウテ:ウテ・プリエフ       
   シュヴェルトライテ:ウルスラ・クンツ
   オルトリンデ:シルヴィア・ヘルマン
   ジークルーネ:マルゲリータ・ヒンターマイアー
   グリムゲルデ:キャロリン・ワトキンソン 
   ロスワイセ:マルゲリータ・リロヴァ

  ベルナルト・ハイティンク指揮 バイエルン放送交響楽団
                (1988.2,3@ミュンヘン・ヘラクレスザール)

ハイティンクのリングの中でも、このワルキューレは出色の出来栄えの演奏だと思う。
カラヤンのリングが抒情的で室内楽的な緻密さがあると評価されていたが、このハイティンクは、それをも上回る細やかな神経が張り巡らされた美しい演奏で、劇的な要素にも欠けてはいないが、ふくよかでマイルドな中間色の響きは実に心地がよいものだ。
オーケストラは、登場人物の心情に合わせて、時に沈滞し、心湧き、熱くなる。
こうして磨きあげられた音色は、バイエルン放送響という高性能だが常に有機的な響きを失わないオーケストラがあってこそ引き出せたものだと思う。
 こうした背景を得て、歌手たちは素晴らしい実力を出し切っていて、ステューダーモリマイアーの3人の情感あふれる歌には惚れぼれとしてしまう。
2幕でのウォータンの「Geh!」は、ソットヴォーチェで囁かれるように歌われ、これがゾッとする効果を生んでいた。モリスの滑らかだが、神というよりは、人間味豊かなウォータンは、レヴァイン盤よりは、ハイティンク盤のほうが似合っているように思う。
最後の告別の感動的な歌唱は、ハイティンクのなみなみと溢れるばかりのオーケストラの美音と相まって、言葉を失うような感銘を受ける。
 なにかと言われやすい、ゴールドベルクマルトンも、わたしはとても立派な歌唱だと思っている。
 ベームやショルティの劇的かつ、熱血ぶりはここにはないが、ハイティンクの個性がしっかりにじみ出た味わい深い「ワルキューレ」が、わたしは大好きである。

「ワルキューレ」の過去記事

「新国立劇場公演 エッティンガー指揮①」
「新国立劇場公演 エッティンガー指揮②」
「二期会公演 飯守泰次郎指揮①」

「二期会公演 飯守泰次郎指揮②」
「テオ・アダムのウォータンの告別」
「ブーレーズ&バイロイト」
「メータ&バイエルン国立」
「ノリントン指揮 第1幕」

「カラヤン&ベルリンフィル」
「エッシェンバッハ&メトロポリタン公演」

 

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2009年12月18日 (金)

ワーグナー 「ラインの黄金」 バレンボイム指揮

 

Roppongi_hills_1



















六本木ヒルズの中庭。

こういう色の丸い物、ことにそこに水なんかがあったら、すぐに「リング」を思い出しちゃう。

え? リング?
ニーベルングの指環」ですよ、ワーグナーの。

水、火、森、黄金、何でもワーグナーに結びついちゃう私ですな。

Winter2

 















ワーグナー
・シリーズもいよいよ、4部作「ニーベルングの指環」を聴くこととなった。
壮大な物語は、覚えてしまえばなんのことはなく、くどいくらいに、おさらいをしたり、昔を思い出したりと、ライトモティーフの実験台みたいになっている場面もあるが、延べ15時間に及ぶ台本と音楽を書いたワーグナーの、その弛緩のない仕事ぶりには、まったく驚きだ。

ジークフリートの死から物語を起こし、それじゃわかりにくいということで、ジークフリートの青年になるまでを描き、さらにその父母、神様たち、ラインの伝説などにまで話が遡って、逆算しながら台本を書きあげていった。
そもそも、「さまよえるオランダ人」を書いたとき調べた北欧神話、「タンホイザー」にまつわるドイツ=ゲルマンの物語などに大いに触発されていて、「ローエングリン」を作曲する前後には、「ニーベルングの指環」の台本は完成していた。
台本執筆は1848年頃から1852年。
音楽の方は、「ラインの黄金」から順に作曲され、「神々の黄昏」が終わったのが、1874年ということで、台本を起こしはじめてから実に26年の延大なる大作業であったのだ。
この間に、「トリスタン」と「マイスタージンガー」という相異なる2つの楽劇も書いているのだからまた凄いのであります。

1848年完成の「ローエングリン」から、1854年の「ラインの黄金」への劇面・音楽面の飛躍は実に大きい。
楽劇形式の萌芽はローエングリンにも明らかだったが、ではドラマと音楽がより対等になり、全1幕で明確な「場」の区切りもなくなり、2時間20分の全曲は休みなく大きな流れの中に括られていて緊張がずっと張り詰めて、いやがうえにも音楽とドラマに集中せざるを得ないようになっている。
好きな人には、たまらない140分間だが、そうでない人には耐えきれない140分でもあります。
私は当然、前者でして、冒頭の変ホ長調の原初の和音が鳴り始めたらもう全曲を聴かなくてはすまなくなってしまう。
ラインゴールドを聴いたら、ワルキューレ、ジークフリートと4部作聴き。これをこれまで何度繰り返して過ごしてきたことだろう。

リングは、映像でなくCDでまいります。
しかし、リングの全曲映像は
いったいいくつあるのだろう?
最初はブーレーズ&シェロー、そしてサヴァリッシュ&レーンホフだけだったのが、いまかぞえたら全部で9種類。まだまだ出てくる見込みだ!
CDなんて足の指を使っても数えきれない!
バイロイトの専売特許だったのは、今は昔。
世界中いたるところでリング、リング。
中国やタイでも上演されてしまう世の中となったのだ。
墓の中のワーグナーもにんまりしているだろうなぁ。自分の超大作が、世界の共感を得て文字通り、音楽で世界制覇してしまったのだもの。

Rheingold_barenboim












告白すると、ワタクシ、リングのDVDを持ってません。放送映像のビデオで、ブーレーズ、サヴァリッシュ、レヴァイン、バレンボイムを持つのみで、いまや画質も音質も堪えられないものになってしまった。
ゆえに、これまで取り上げていない指揮者のリングをバラバラに組み合わせて聴いてみる次第にございます。
 しかし、悩みましたなぁ。どの演奏を割り振るかで。
「ラインの黄金」は、当初レヴァイン盤を聴き始めたが、久しぶりに聴くレヴァインのワーグナー、正直、波長が合わなかった。音色が明るすぎるし、映画音楽のような味付けで、あの具象的なシェンクの演出の音版みたいに感じたし、イエルサレムのローゲも何だか妙に立派すぎて、狡猾さがないんだな。
同じヘルデンでもヴィントガッセンは、とぼけた雰囲気が漂っていて憎めないローゲになっていたのに。
 とかなんとかで、レヴァインはフライアが連れ去られるところまででお終い。

で、ローゲに人を得たバレンボイム盤を取り出した次第。

  ワーグナー 楽劇「ラインの黄金」

    ウォータン:ジョン・トムリンソン   
    ドンナー:ボド・ブリングマン

    フロー:クルト・シュライプマイヤー 
    ローゲ:グラハム・クラーク

    フリッカ:リンダ・フィニー      
     フライア:エヴァ・ヨハンソン

    エルダ:ビルギッタ・スヴェンデン 
       アルベリヒ:ギュンター・フォン・カンネン

    ミーメ:ヘルムート・パンプフ    
    ファゾルト:マティアス・ヘレ

    ファフナー:フィリップ・カン     
    ウォークリンデ:ヒルデ・リープラント

    ウェルグンデ:アネッテ・キュッテンバウム
    フロースヒルデ:ジェーン・ターナー

   ダニエル・バレンボイム指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
    演出:ハリー・クプファー
                       (1991.6 @バイロイト)

クプファー演出のリングは、88年から92年までの5年間上演され、その時の不動のメンバーは、強固なもので、演出の優秀さもあって、録音と録画がなされるべくして行われた。
音楽祭の前に祝祭劇場で観客なしで行われたライブ感あふれる演奏は、映像のものと一緒だから、バタバタドシドシといろんな音が派手に入っている。
クプファーの社会性に満ちたメッセージ性の強い演出は、P・ホールで弛緩してしまったシェロー以降のメッセージ・リング・コンセプトを強く打ち出すもので、このあとのキルヒナー、フリム、ドロストと続くなかでも、一番優れた演出とも言われる。
5年で交代のなるパターンのリング。映像で全部見てみたいものであります。

そして、当初はただ振ってるだけ的なバレンボイムだったが、年とともにリングをすっかり手のうちに収め、この年と翌年は大変充実していた。
ただ、こうして音だけ聴いてると、音に気が入ってる部分とそうでなく鳴ってるだけの部分の格差が多少あるように感じる。これが視覚を伴うと異なるのであろう。
冒頭の和音から、最後の入場の場面まで、やはり耳に馴染んだバイロイトの劇場の響きは心地よい。マンハッタンの摩天楼のもとでのゴージャスな響きと多違いなのである。

歌手は、そうG・クラークの小憎らしいまでに軽めのローゲが楽しい。
ジークフリートでは、ミーメに変わるところなんかも、先輩格のツェドニクとおんなじ。
強い男とずるい男が同居したトムリンソンのウォータンも久しぶりに聴いて懐かしさをもった。この人、存在感バッチリだから舞台で観たときも声もデカイしすごかった。

「ラインの黄金」は物語の始まりだけど、ここだけでもう出てこない人たちも何人もいる。

ローゲ:歌わないけど、ワルキューレとジークフリートでは炎になってるし、神々の黄昏ではウォータンの槍をかじっちゃってる。の主役ともいえる狂言回し。
最近の演出では、歌わないのに登場させたりして重要人物化している。

ドンナーフロー:ちょっとしか歌わない神様たち。黄昏では、ギービヒ家の人たちに祭られていたりする。
フローは、テノール歌手の登竜門で、R・コロもここからスタート。

フライア:女性(美・若さ)の代名詞。ジークフリートが、女性を思うときフライアの主題が鳴る。
ウォーナー演出では、ファゾルトと怪しい仲を醸し出していた。

ファゾルト:フライアに恋して、弟に殴り殺されてしまう可哀そうな純情兄巨人。

常連さんたちは、では・・・・。

ウォータン:新居が完成したが、そろそろ浮気の虫が騒ぎだした。
男は、家をもつと、そうしたもの。

フリッカ:まだ強い夫を信頼している。
だがしかし、このあとだんだんたくましくなるのは、世の中の常。

エルダ:得体のしれないヒト。神さまなのに、単独生活をしている。
このあと、母となる。ワルキューレにノルンたち、子沢山。

アルベリヒ:すけべオヤジから、悪の道へ踏み出し、実業家的な側面も見せつつ野望を実現に向け邁進するが、ちょっとおっちょこちょい。
カエルに変身しなければ彼の人生は勝ちだったか?金持ち父さんになりそこなった。

ミーメ:兄弟喧嘩はしょっちゅう。兄の後釜を狙う狡猾な弟。
ハーゲンはミーメの子の新説あり??

ファフナー:黄金を身代金にするなど、頭のよさそうな行動をする。
しかし、兄を殺してからは、ただ凡庸に食って眠るだけの恐竜生活にふけってしまう怠け者だった。

ラインの乙女たち:いたずら好きのライン川の妖精。日本なら河童だけど、こんなんなら会ってみたいぞ。

クプファー&バレンボイムのリングDVDが激安になったので、注文したら来年の2月まで入荷待ち。
きれいな映像で楽しんだら、また記事にします。
それはまた来年のはなし。

さて、「ワルキューレ」は、誰で行きますか。



「ラインの黄金」過去記事

「カラヤン&ベルリンフィルの」
「ブーレーズ&バイロイトの」
「ドホナーニ&クリーヴランドの」
「新国立劇場 ウォーナー トーキョーリング」

「ベームのリング」
「朝比奈隆のリング」

 

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2009年12月17日 (木)

ワーグナー オペラ合唱曲集 W・ピッツ指揮

Ginza_4

銀座4丁目の交差点。
これはまた由緒ある東京の顔的風景にございます。

子供のころ、神奈川の田舎町に育ち、父の職場と親戚が都内にあったものだから、たまに東京へ連れて行ってもらうと、ともかく眩しかった。

床がまだ木で出来ていた湘南電車に乗って。
家にあった雑誌に、この交差点の写真があって、ネオンサインが美しくて、憧れたものだ。
私のイルミネーション好きは、このあたりから始まったようだ(笑)。

1 老舗バイロイト、こちらは州政府から補助金がいくら出ているか知りませんが、ワーグナーという巨大な存在ゆえに恒久的な劇場に思われます。

しかし、意味は違うけれど、政治の道具として使われ、そこから脱却するのに、ワーグナー家とワーグナーファンが必死になった歴史がある。
今や実験劇場として、進化を続けているのも特筆大であろう。

その戦後の新バイロイトの強力合唱団を作り上げたのが、ウィルヘルム・ピッツ(1897~1973)である。
その経歴をちょっと調べると、ヨアヒムやF・ブッシュの名前が出てくるところがすごい。
そして、フルトヴェングラーやクレンペラー、カラヤンらのEMI録音の合唱作品には、ピッツの名前が必ず出てくる。
ドイツ系の合唱の神様と言っていいかもしれない。

そのピッツが、ワーグナーのオペラのなかの合唱曲を、バイロイトのオーケストラと合唱団を指揮してDGに録音したものが今日の1枚。

 「さまよえるオランダ人」~水夫の合唱(Ⅰ)、糸巻きの合唱、水夫の合唱
 「タンホイザー」~入場行進曲、巡礼の合唱、最終場面
 「ローエングリン」~ローエングリンの登場の場、エルザの聖堂への入場
             結婚行進曲
 「マイスタージンガー」~ザックスを讃える歌、最終場面
 「神々の黄昏」~ギービヒ家の家臣の合唱
 「パルシファル」~聖餐の合唱

   ウィルヘルム・ピッツ 指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                      バイロイト祝祭合唱団

   アルト独唱:エリザベート・シュレーテル
   ハーゲン:ヨーゼフ・グラインドル
                        (1958.バイロイト)

Wagner_chore この廉価CDに、録音データはないが、58年のバイロイト音楽祭前後のものと思われる。
この録音から、レコードやCDで慣れ親しんだバイロイト祝祭劇場の響きがするからである。ちゃんと第一ヴァイオリンが右から聴こえるし。

 録音のせいか、合唱団が遠く、その人数も少なめに感じる。
だから他のバイロイト録音に聴く、オケともどもに地響きするような圧倒的な響きは聴くことはできないけれど、人間の声の集まりが実に有機的に、そして立派な登場人物のように、存在感をもって聴こえる。
イキイキとした、その雰囲気のよさは抜群である。

おまけに、黄昏からの場面では、名ハーゲンのグラインドルの力強い「ハイホー」以降の歌がしっかり聴くことができる。
ベームの全曲盤の9年前のグラインドルの声は全盛期のものであって、すごいものだ。

断片とはいえ、合唱だけの、こうしたワーグナーの聴き方もありで、とてもいいもんだ。
こうした企画は、お金もかかるし、これからも無理なんだろうなぁ。

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2009年12月16日 (水)

ヴェルディ オペラ合唱曲集 ヴァルヴィーゾ指揮

Yurakucho2有楽町駅銀座口。

「有楽町で逢いましょう」だけど、かつては古くさくてイマイチの雰囲気だったけれど、商業ビルがいくつか出来たりして、いくつかある銀座の入り口の代表となった。

でも、左手の交通会館は、中に入って探索してみると新旧織り交ぜて面白い店がたくさんある。
各県のアンテナショップはあるし、古くからの居酒屋や喫茶店もあるしで、ニュー新橋ビルに似てる。
大阪でいうと、第1から第4まである駅前ビルみたい。

Verdi_varviso
ヴェルディのオペラは、全曲を聴くに限るが、そのアリア集や序曲集もたくさん出てるし、そうして聴いても聴き応え充分だ。
ワーグナーも同じであります。

そして、合唱だけ取り出した1枚もヴェルディのいいところがぎっしり詰まっていて、大いに楽しめる。
この点は、ワーグナーは違いますな。
W・ピッツがワーグナー合唱曲集を録音しているが、それが唯一かも(明日いきます)。

ヴェルディのオペラ合唱曲で特徴的なことは、前中後期と渡って満遍なく名作が多いが、前期のものは歴史劇的なスペクタクル作品の中に、愛国心を思い切り歌い込んでいるという点。
中期以降は、文豪作品をとりあげ、心理劇への志向が強まり、壮大さよりは内面重視の歌に変わってゆき、合唱も立派な登場人物としてしっかり機能するようになった。

 「ナブッコ」~「行け、思いよ、金の翼にのって」
         「祭りの踊りよ」
 「トロヴァトーレ」~「アンヴィル・コーラス」、兵士の合唱
 「アイーダ」~凱旋の合唱
 「マクベス」~踏みにじられし祖国よ
 「十字軍のロンバルディア」~「エルサレム!」
                   「おお神よ、生まれし家より」
 「ドン・カルロ」~「ここに喜びの日が明けた」
 「オテロ」~火の合唱

  シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
                     ドレスデン国立歌劇場合唱団
                      (1983.12 ドレスデン)

私の愛聴盤、アバド&スカラ座と同じ内容。
スイスの名指揮者だったヴァルヴィーゾが、ドレスデンでヴェルディを。
イタリア人の見当たらないこの組み合わせ。
これが実は、しみじみと味わい深いすっきりユニークなヴェルディだ。

ヴァルヴィーゾは、1924年チューリヒ生まれ、2006年にアントワープで82歳で亡くなった指揮者で、キャリアは相当長く、死ぬまで現役で活躍し、私のような世代からすると、オペラ指揮者のイメージが強い。
クレメンス・クラウスの弟子でもあり、スイスの歌劇場からスタートしたそのキャリアは、欧米のハウスからひっぱりだこになるまでになった。
69年にバイロイト・デビューを飾り、70年代はシュタインと並んでその中心指揮者だった。
バイロイトの「マイスタージンガー」のライブ録音は、ヴァルヴィーゾの代表盤でありましょう。
ストックホルム、シュトットガルト、パリオペラ座、バーゼルと、ヴァルヴィーゾの劇場監督の経歴は渋いが手堅いものがある。
 
 デッカを中心とする録音では、有名大歌手との共演ばかりのイタリアものが多い。
ロッシーニからマスカーニまで、ベルカントものからヴェリスモまでと網羅しているほか、各地では、ワーグナーは当然として、モーツァルトやR・シュトラウス、マスネ、ビゼー、ブリテンなどなど、あらゆるオペラをレパートリーにしていた、マルチ指揮者だったのだ。
このあたりが逆に、その存在が、個性が定まらなく却って地味にしてしまった一因かもしれない。

オーケストラ指揮者としても当然に活躍していて、70年代にN響にもやってきている。
私の記憶では、イタリア、ドヴォ8、ダフニスなどを演奏したのではなかったかな?
それと、ウィーン国立歌劇場の来日にも同行していて、「フィガロ」を指揮した。
ラインスドルフが全部振れなくなって、代わりでやってきたのだが、私はチケットを持っていながら、上司や先輩の誘いに断りきれず、チケットを棒に振ってしまったのだ。
いま思えば、なんというもったいないことを
移動があってすぐの環境だったし、当時はお誘いを断るなんて滅相もない風潮だったし・・・・。ちなみに、後日、この上演はNHKで放映されました。
このときのほかの演目は全部行きましたよ。
「シノーポリのマノンレスコー」、「ホルライザーのトリスタン」、「シュナイダーのばらの騎士」
すげぇな。独身時代はこうして、給料はみな音楽と酒に次ぎこんでいた「うつけもの」にございましたねぇ。

ヴァルヴィーゾに関して長く書きすぎてしまったけれど、ドレスデンのヴェルディが実によろしい。
派手なところが一切なく、その音はくすんでさえ聞こえる渋さ。
爆発や飛翔も聴かれない。
ヴァルヴィーゾは、サヴァリッシュと同じように、スタイリッシュな指揮をする人だから、テンポもすっきり速め。
 でも、ここに感じるのは、合唱部分をここに抜き出してやってみましたという仕上げ方じゃなくて、オペラの流れの中に、普通に位置する合唱曲としての在り方。
前にも後にも、続きがありそうで、もっと聴きたくなるけれど、さすが普段、劇場で演奏している面々の取り合わせだけあって雰囲気は抜群。
ドレスデンは適応力ある柔軟なオケでもあるから、ヴェルディだって、全然普通に楽しめる1枚であります。
このコンビ、あとワーグナーのオーケストラ曲もあります。

 

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2009年12月15日 (火)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 グシュルバウアー指揮~京都にて

1ponto 京都は先斗町
観光客主体の通りだけど、やはり風情があってよろしい。
新規開拓をしたいのだけど、京都のお店はその造りも奥行き深く、なかなかに入り辛い。

紅葉シーズンが終わった今の時期、観光客は減り、地元忘年会客は、大型店のある祇園方面なので、ここ先斗町はすいてます。

2red というわけで、お馴染みとなった「レッドストーン」へ。

こちらは、ジュピター交響曲とともに開店し、名曲ばかりだけど、クラシックを流していて、店の多くを占領するピアノでれっきとしたプロの貸し切りコンサートもあるんです。

こちらは、くじらのコロと白みそ出汁のおでん。
寒い晩に最高よ。
うまいうまい

3red 鱈の肝。
白子じゃなくて、肝。
珍しいでしょ。
濃すぎず、味わい深いものでしたね。
お酒は、すっきりした「美しい鴨川」。
あの俳優・佐々木蔵之介の実家の蔵元ですよ。
ダイエット中のわたくし、おばんざい中心に飲もうと思ったら、サバとか鰊もたくさん食べてしもうた。

4kiyamachi ほろ酔い散策。
木屋町通り高瀬川
ここもお店がいっぱい。
いろいろあるから気をつけよう。

5yasaka ほろ酔い散策。
八坂神社の境内から祇園方面を見る。
眩しいね。

6kamogawa_2 昼の鴨川、托鉢僧付き。
奥は四条南座

7hanamikoji 夜は行けない、見小路界隈。
かつて接待で、行ったことがある。
二階の座敷がカウンターみたいになってて、そこで上品なる京料理をいただいたことがある。
支払が心配で酔えなかったけど、紹介者がいるからツケでよかったのね。(昔のはなし)

そのあと、お客さんが馴染みの普段着の舞妓さんを呼んで2次回に祇園の高級クラブへ。。。。
そこでいただいた、鮒寿司のお茶漬けがもう、たまらなくおいしかった(昔のはなし)。

8sadakichi
お昼は、適当に蕎麦屋さんに入って、お銚子を一本。

9ryoma_shintaro 祇園から東山方面へ。
霊山に登り、坂本竜馬中岡慎太郎の墓を詣でる。

彼らの見つめる方向は、山の下、京の街でございます。
なんか、感慨深いものがありましたぞ。
好きな高杉晋作のお墓は見つからず。

10kiyomizu 清水には、外人さんが。
観光向けに着物コスプレが出来るようだ。
若い日本女性やアジア系女性の着物姿もいたけれど、いずれも浴衣みたいな色の着物で??
外人さんたち、なかなかセンスよくねぇ~

11kiyomizu

紅葉の残骸と舞台。

12sannenzaka 二年坂を下って。

13stand

急ぎ足で街へ戻る。
新幹線まであと2時間。

新京極なんて、修学旅行生しか行かない、なんて思っていたら大間違い。
そこにあるレトロな、食堂居酒屋が「スタンド」である。
ここは、素晴らしい。
980円のビールセット。
これに冷やっこがつきます。
ダイエット中なのにまた・・・・。
14stand 天井扇がいい。
テキパキしたおばちゃんたちは完璧すぎる。
こっちも思わず「おおきに」と言いたくなってしまう。

そして安い。
カレーやラーメンもむちゃくちゃうまそう。
ステーキも630円で食える。

15stand
ビール飲んで、燗酒飲んで、ハイボールを2杯。
つまみはあと、豚ポンズ、きゅうりもみ、だしまき。
これで3000円ちょっと。

16kyoto_st
京都駅のツリー。
新幹線発車15分前。
帰りたくな~い。
現実に戻りたくな~い。

Wagner_jordan_guschilbauer その時、西洋音楽は・・・・。

またこのお題目で。

竜馬たちが駆け抜けた幕末は、1850年頃。
竜馬は1836年に生まれ、1867年に刃に倒れたわけだけど、同世代の西洋作曲家はドヴォルザークあたり。
 そして幕末頃、活躍していた作曲は、ワーグナー、ヴェルディ、ブルックナー、ブラームス・・・。
こうみると凄いね。

日本では、まだ刀を振り回していた頃に、オペラやオーケストラの練達が名作を送りだしていたのだもの。

維新後、急速な文明開化を経て、戦争という暗闇による停滞はあったけれど、クラシック音楽の受容は、わたし達が、いままさに享受しているとおりの状況である。
まだ歴史は浅いとはいえるが、ご存知のとおり、財源カットの荒波が襲いかかろうとしている一方、CDソフトは粗製乱造され安くなる一方。
 後者は嬉しいが、前者は切実な問題で、一時の停滞は、永きの成長をとどめてしまうもの。
いまの逆境こそ、人の心を潤すクラシック音楽を、われわれ一部の人間ばかりでなく、多くの方に広めてゆくチャンスなのかもしれない。

さて、竜馬死す2年前の1865年、当時の音楽界に多大な影響を及ぼすこととなった「トリスタンとイゾルデ」が初演された。
そして、1868年、明治維新の年には、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が初演。
この歴史の事実もすごいことではあります。

今日は、「前奏曲と愛の死」を、再評価しなくてはなるまい、グシュルバウアーの指揮とバンベルク交響楽団の演奏で。
イメージからすると、サラッとした爽やか演奏に思われるかもしれない。
しかしです、それが大違い。
じっくりとした緩やかで、かつタメも効いた本格派的な演奏で、前奏曲などのジワジワ感や陶酔的な圧倒感など、まったく見事なものにございます。
愛の死は、ちょっと単調かもしれません。
演奏時間にして、18分23秒。
トリスタンの王者ともいうべきバレンボイム(シカゴ)が17分10秒。
かといって、ねっとり感や鈍長さは一切なく、見通しのよい明晰なトリスタンなのだ。
オーケストラが巧まずしてワーグナーの響きを持っていることも大きい。

75年頃の録音で、オリジナルはタンホイザーとマイスタージンガーも収録されていた。
ちょっとグシュルバウアーにハマりそうな予感ありです。

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2009年12月13日 (日)

プッチーニ 「ラ・ボエーム」 カラヤン指揮

Roppongi_1 六本木ヒルズのけやき坂。

右手はきらびやかな、ヴィトンの店舗。
奥には東京タワー。

東京を代表する冬の景色だけど、こんな厳しい世の中なのに、こんなにキラキラさせていいのかな?

Boheme_karajan

昨日、レオンカヴァッロ「ラ・ボエーム」を取り上げたばかり。

当然にして、プッチーニも取り上げないわけにはいかない。
中学3年のときに、「リング」、「トリスタン」、「トスカ」と手にして、年末に出た「カラヤンのボエーム」を購入した。
私の4番目のオペラのレコードであります。

思えば、シュトラウスこそまだ聴いてなかったけれど、ワーグナーとプッチーニへの熱中は、中学生から始まった。
同時にモーツァルトのオペラも。
NHKのテレビや、FM放送による恩恵は大きかった。
バイロイトやザルツブルクの放送に、イタリア歌劇団のテレビ・FM放送である。
73年のNHKホールのこけら落としは、サヴァリッシュの第9だったけど、その年に来たイタリア歌劇団は、「アイーダ」、「椿姫」、「トスカ」、「ファウスト」の4作を持ってきた。
スコット、ベルゴンツィ、クラウス、カレーラス、カヴァイヴァンスカ、コソット、ギャウロウ、ブルスカンティーニ、ラボーといったスゴイ歌手が勢ぞろい。
これらをテレビでみて、イタリアオペラにも開眼していったわけです。

Boheme_karajan2 そして購入した、このレコード。
当時のロンドン・レコードは、音もよく、ジャケットも豪華そのもので、オペラはライブラリーシリーズとして、分厚い装丁のケースに入っていて、所有する喜びをも一方で満たしてくれる存在だったのだ。

それを思うと、現在のあふれかえる再発CDの渦には、収集の喜びが薄い。
単に、欲しいという願望を満たすだけの、お手軽な存在になってしまった。
購入の仕方は、私もまさにそうなってしまったけれど、その聴き方だけは、1枚1枚大事にいきたいものである。
だから、いまこうして丁寧な音楽の聴き方をつらぬけるのは、ブログの効能のひとつでもある。

Boheme_karajan この「カラヤンのボエーム」が、昨年新しいマスタリングを施して発売され、それを購入してみたが、その録音のめざましさは、ただでさえ素晴らしい原録音なのに、薄皮が何枚も洗い落とされたような生々しさと、新鮮さでもって蘇った感がある。
誰かの言葉じゃないけれど、名演奏には名録音が付きものなのだ。(といえよう)
おまけにこのCDは、まるでハードカヴァー本のようなゴージャスさで、フレーニのインタビューCDも付いている。

ベルリンフィルが、イタリアオペラを録音するのは、これが初めてだったはず。
ベルリンフィルを劇場のピットに定期的に入れてしまったのもカラヤンで、最初は「リング」上演に始まったザルツブルクのイースター祭が、いまでは当たり前となったけれど、イタリアものを取り上げたのには当時は驚きで、当然に商業録音とあいなったわけだ。
 それがDGでなく、デッカで、デッカにベルリンフィルが登場するのも、極めて異例なことでもあって、プロデューサーやエンジニアたちの名前を見ると、レイ・ミンシャル、ジェイムス・マリンソン、ゴードン・パリー、コリン・ムアフットなどの当時のデッカ録音の精鋭たちが並んでいるところがすごい。
 イエス・キリスト教会の響きのよさと、芯のある音をしっかり捉えた録音は、DGとはまた異なる音がしつつも、しっかりベルリンフィルの特徴ある、木管やホルン、分厚い弦の音がしている。
ソニック・ステージという、左右分離のいいステレオ効果も抜群で、1幕で先に出発したマルチェロらの声と、愛を語るミミとロドルフォの距離感がリアル。
2幕のカフェ・モニュスに現れる楽隊が左から右に移動してゆくのも楽しいものだった。
こんな効果は、いたるところに聴かれる。

しかし、ベルリンフィルの威力たるや、なんたる凄まじさなのだろうか。
嵩にかかったように威圧的な場面もややあるが、その威力をシンフォニックオペラともいうべき、オペラティックでありながら、4つの楽章の交響曲のような見事な構成にしたてあげたカラヤンもまたすごい。
媚を売ったような歌い回しが気になるかもしれないが、プッチーニの場合は、私はこれはよいと思う。泣きのコブシにつながるものだから。
1幕の二つのアリアに、ムゼッタのワルツ(これはシュトラウスのように濃厚)、3幕の別れの切なさ、そしてミミの死を泣き咽ぶオーケストラは歌手そのものかもしれない。

クライバーの天才的に劇的な手腕に導かれた劇場のボエームに対して、レコードとして、ひとつの完璧な芸術を極めてしまったカラヤン盤である。

 ミミ  :ミレッラ・フレーニ     ロドルフォ:ルチアーノ・パヴァロッティ
 ムゼッタ:エリザベス・ハーウッド マルチェロ:ロランド・パネライ
 ショナール:ジャンニ・マッフォ   コルリーネ:ニコライ・ギャウロウ
 ブノア、アルチンドロ:ミシェル・セネシャル

  ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
             ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
             ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
                     (1972.12@ベルリン・イエス・キリスト教会)

歌手については、もう言うことはありませんね。
ザ・ミミともいうべき理想的なミミ。
フレーニ以外のミミなんて、わたくしには考えられない。
のちに声が重たくなってゆくパヴァロッティは、この頃が一番好きだった。
体も同時に大きく重たくなってゆき、3大テノールなんて、ちょっと困った企画だったし。
耳が洗われるような純正な歌声で、ハイCも楽々とこなしていて、嫌味もまったくない。
人情味あふれるパネライや、輝く低音の魅力ギャウロウ
カラヤンが好んだ英国のソプラノ、ハーウッドは、ちょっと弱いが、人工美的な魅力もあるのも確か。
この人は自国の音楽(ディーリアス!)にはとてもよかったが、早くに亡くなってしまった・・・・。

レオンカヴァッロのボエームの経緯を知ってしまうと、プッチーニがちょっとずるく感じるけれど、こうして残されたオペラの抗いがたい魅力には、ただひれ伏すのみである。
並べて聴いてしまうと、レオンカヴァッロの豊富な旋律の渦に魅力は感じつつも、台本のよさに密接に絡みついたプッチーニの音楽の巧みさには及ばないのが正直なところ。

ミミという劇中の女性を生涯気にいって、理想化していたプッチーニは、その最後の場面では涙しながら作曲したという。
 そのプッチーニの涙の想いが込められた「ミミの死」の場面に、わたしたちは、いつの世も悲しみを覚え、涙するのである。
これからもずっと、ずっと。

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2009年12月12日 (土)

レオンカヴァッロ 「ラ・ボエーム」 ワルベルク指揮

Roppongi_3 六本木ヒルズのけやき坂の様子。

華やかすぎず、ちょっとクールなイルミネーション。

事務所から散歩がてらに観察のオヤジ一人でありました。

Leoncavallo_la_boheme_wallberg もうひとつの「ラ・ボエーム」。

レオンカヴァッロの同名のオペラであります。

いうまでもなく、ボエームといえば、無条件にプッチーニなわけで、しかもプッチーニの最高傑作であるし、レオンカヴァッロに同名オペラがあることなんて知らない方も多いと思う。

そもそもレオンカヴァッロは、「道化師(パリアッチョ)」の一発屋みたいに思われていて、その点、「カヴァレリア・ルスティカーナ」のマスカーニと同じような境遇にある。
しかし、マスカニーニの方が、「友人フリッツ」とか「イリス」とかがまだ上演されているのでましだ。
何かと気の毒な、レオンカヴァッロなんだけど、10曲以上のオペラや、オーケストラ作品、器楽曲、歌曲など広範に作曲していて、文才もあって、自作のオペラのほか、他の人のオペラの台本などの執筆や新聞記事なども書いていたという、大変な才能の持ち主だったのだ。

レオンカヴァッロ(1857~1919)は、ヴェルディ以降のイタリアオペラ界の覇者となったプッチーニ(1858~1924)と完全に同世代。
マスカーニは6歳下だけど、ともかく同じ年代に綺羅星のごとくオペラ作曲家が連なっていたのが、当時のイタリア。この年表は、こちらの過去記事をご参照。
だから当然に、お互い顔見知りであったり、ライバル心をむき出しにしたりしていたことであろう。

プッチーニとの因縁浅からぬ関係。
お互い、オペラは発表しつつも、ブレイクせず、貧乏作曲家。
リコルディ社に目を付けられたプッチーニが、「マノン・レスコー」に取り掛かるときに、同社が台本作者として連れてきたのがレオンカヴァッロだったのである。
でも人一倍、台本にこだわりの多いプッチーニは、レオンカヴァッロの作品を気に入らず、却下してしまう。(そのあと4組目でようやく決まった。)
 マノン・レスコーで成功を収めるまえに、マスカーニのカヴァレリア、レオンカヴァッロのパリアッチが、ともに成功し、焦ったであろうプッチーニ。

その後、アンリ・ミュルジュ「放浪芸術家たちの生活風景」という戯曲を見つけ出したのが、レオンカヴァッロ。(一節では、プッチーニ組のイッリカ)
「ラ・ボエーム」として台本を書いて、プッチーニに作曲を勧めた人のいいレオンカヴァッロ。しかし、断ったプッチーニ陣営。
しょうがないので、自分で作曲をはじめたレオンカヴァッロ。
プッチーニの方は、イッリカ=ジャコーザという黄金コンビを得て、作曲をはじめ、プッチーニ陣営ではこの作曲に関してはかん口令を敷いたものの、のちに発覚したときは、さしものレオンカヴァッロも怒りまくったという。

かくして、1896年にプッチーニ作品が先に初演され、徐々に成功をおさめてゆき、翌年97年には、レオンカヴァッロ作品が初演された。
その結果がいかがだったかは不明であるが、いま置かれているこの作品、ないしはレオンカヴァッロの境遇から察するに、同名の名作オペラの影に完全隠れてしまい不遇をかこっている気の毒なオペラという評価になろうか。

同じ4幕仕立てで、舞台は1937年のパリ。12月24日から翌年の同日までの1年間の物語。
大きな違いは、1幕と2幕が入れ替わっていること。
ミミとロドルフォは、ソプラノとバリトン。ムゼッタをミュゼッテと読み、メゾが歌い、相方マルチェロはテノール。ショナールの恋人まで出てくる。コルリオーネは、チョイ役。
ミミは花売り娘で、ミュゼッテがお針子という設定になってる。
 二人の恋人に焦点があたり、あとは仲間一同的なプッチーニに対し、レオンカヴァッロはそれぞれの恋人たち、つまりボヘミアンたちが主役で、そこにミミの死という劇的というよりもさり気ない悲しみが花を添えているといった感じだ。
いわば悲喜劇ともいえようか。

内容もかなり違うのでここにあらすじを書きます。

第1幕 カフェモニュス
 カフェの主人とショナールが言い争っている。今日は皆と食事をしてちゃんとお金払いますと。そこへ、ボヘミアンたちが登場。
そのあと、ミミが友達のミュゼッテを連れてきて、「ミュゼッテは歌が上手なの」と紹介する。ミュゼッテは「金髪のミミ・ピアソン」を歌う。
 マルチェロはミュゼッテに一目惚れ。ロドルフォは勘定が心配でならない。
店主は金を払わないと店を出さないとすごむ。
そこへ、芸術を愛するバルベムッシュが現れ、わざとビリヤードで負けてやって勘定をしてあげる。
傍らでは、マルチェロがミュゼッテに絵をかかせて、と口説いている。

第2幕 ミュゼッテ家の中庭
 マルチェロのことがバレてしまい、パトロンから援助を打ち切られ、家財道具を運びだされてしまうミュゼッテ。じゃあ、僕の貧しい屋根裏においでと情熱的に歌うマルチェロ。
彼女も喜ぶが、今日パーティをする予定だったことを話す。
そこへ家賃の払えないショナール、詩が売れて金を手にしたロドルフォがやってきて、それでパーティをしようということに。
 ミミ、パオロ子爵、エウミーファ(ショナールの恋人)、ついでに通りがかりの若者もたくさん加わって、かまびすしいボエーム讃歌となる。
子爵はちゃっかりミミを誘惑し、贅沢な生活へと誘う。
ミュゼッテはワルツを歌ってるし、ショナールとロドルフォは2階でピアノを弾いて歌っている。この混乱のすきに、子爵はミミを連れ出してしまう。
 近所の人々が苦情をいって大騒ぎになり騒動となり、ミミが出ていったことを聞いたロドルフォは半ば狂ったように騒ぎに飛び込む。

第3幕 マルチェロの屋根裏部屋
 ショナールは破談となり、マルチェロと街へ金策に出てゆく。
ミュゼッテは、もう貧乏暮らしには耐えられないと別れを決意して手紙を書く。
そこへ、ロドルフォのことをまだ愛してるから、とミミがやってくる。
ミュゼッテは、マルチェロを愛してるけれど、この生活には我慢がならないの、と愛と貧乏のはざまの気持ちを熱く二重唱で歌う。
そこへ、マルチェロが帰ってくるので、ミミは隠れる。
別れの手紙を見た彼は怒りだし、ミュゼッテの首を絞めようとするが、そこへミミが飛び出すので、彼は笑いだし、ロドルフォを呼び出し、この女がミュゼッテのパトロンを探し出してくれたとよ、とひどいことを言う。
ロドルフォは、やぁ子爵夫人と冷たく言い、いってしまう。
泣く泣く帰るミミ。ミュゼッテは荷物をまとめて寂しげに出てゆく・・・・。
残されたマルチェロは、本当に出ていってしまったと空虚な部屋を見て嘆いて歌う。

第4幕 ロドルフォの屋根裏部屋
 クリスマスイヴ。
マルチェロはミュゼッテに戻ってくれと手紙を書いたが、喜んで、と言ってよこしたまま1週間たっても来ない、と嘆いて歌う。
そこへミミがやつれ切った姿であらわれる。どこにも行くところがないのと、1日でもいいからここにおいてと・・・。
子爵と別れて働こうとしたが、ひどい扱いを受けて、しまいに病に倒れて、あの20しかベットのない病院に、1か月入院していたと。
最後の10日間は、とても込んでいてかろうじて病院にいれたけど、もう完全に治ったと言われ退院したけれど、咳がとまらないの。だから、みんな離れて向こうで食事をしていて・・・。

はじめはそっぽを向いていたロドルフォ、でもたまらなくなってミミを抱きしめる。

 そこへミュゼッテが帰ってきて、再会を喜ぶが、ミミの容態が悪いのに気づき、腕輪と指輪をとってショナールに渡し、医者と薬を、と頼む。
ミミはミュゼッテは、とてもいい人ね、でももう遅いの。
ミュゼッテはここにロドルフォがいるじゃないの、と必死に励ます。
ミミは、死ぬのはいや、ロドルフォの愛が帰ってきたと語り、ロドルフォは神様が見捨てるはずはないと、歌う。

そして、ミミは、去年の楽しかったクリスマスのことを思い出しながら、ルドルフォに別れを告げ、クリスマス・・・・、と言いながらこと切れる・・・・・。


やはり最後は泣けますね。
こうして書いていても涙が浮かんできちゃうし。
こちらは、オペラ全集を参考に、対訳で肉付けしました。

1・2幕が喜劇風、3・4幕が悲劇風とそれぞれの色合いが際立つ。
そしてミミは最初から病気でなく、パトロンと別れてから病気になり、さらに病院から追い出されてしまうという、当時の社会性も物語っているような、その悲しみの死である。
 プッチーニのミミの死の方が、物語風で、一貫性があるのも事実だが、レオンカヴァッロ版は、より原作に忠実といえるのだろうか。

Leoncavallo 肝心の音楽。
メロディの甘味な美しさと、劇的なオーケストレーションの巧みさではプッチーニに敵うものではない。
しかし、レオンカヴァッロの旋律の豊富なことといったらない。
次々と歌が流れ、こぼれだしてくる、その豊穣さ。
アリアやちょっとしたソロが、みんなに与えられている。

列挙すると、ミミがミュゼッテを紹介する歌、ミュゼェッテの金髪のミミ・・の歌、マルチェロの屋根裏部屋へのお誘いの情熱ソング、ショナールのピアノ付きの歌、ミュゼッテのワルツ、ミュゼッテの貧乏生活を嘆く歌、そうじゃないと情熱を説くマルチェロの歌、ミミとミュゼッテの二重唱、まるでパリアッチョのようなすごみあるマルチェロの首絞めの場面!!、ミュゼッテが去ったあとのマルチェロの歌はまるで、サボテンの歌そのもの。
ロドルフォのミュゼッテを待ちわびる歌、ミミの切ない病気の歌、告別の歌。

どれも、聴き馴染むと素敵な歌たちである。
オーケストラは、パリアッチョと比べると大人しめだけど、これもまた美しい歌が満載。

 マルチェロ:フランコ・ボニゾッリ  ロドルフォ:ベルント・ヴァイクル
 ミュゼッテ:アレクサンドリナ・ミチェーヴァ ミミ:ルチア・ポップ
 ショナール:アラン・タイトス     エウフェーミア:ゾフィア・リス
 
  ハインツ・ワルベルク指揮 バイエルン放送管弦楽団
                     バイエルン放送合唱団
                          (1981.11@ミュンヘン)

イタリア人は、ボニゾッリただ一人のキャスト。
そして、そのボニゾッリが情熱ギンギンに歌いまくってる。
ガラコンサートで私は何度か聴いたことがあるけれど、その声のバカでかさと、熱血の塊ぶりは生だと崩壊寸前で、ムチャクチャ興奮させられる。
ここでの歌もかなり素晴らしい。こんな歌を歌う人はもういない。
 いないといえば、ポップの愛らしいミミも堪らない魅力。
歌いどころが決して多いわけでなく、相方がバリトンなのでやり取りは渋いが、イタリアものを歌っても、いつもの人懐こいポップに違いはなく、素敵である。
 ヴァイクルタイトス、ともに新国でファルスタッフを歌った名手であり、ワーグナー歌手でもあるが、ありあまる声をたくみに抑えつつ巧みな歌い回しで聴かせる二人。
ミチェーヴァというロシアの歌手も悪くなかった。あのワルツは曲も最高に素敵なのだ。

そして、当時こうしたメンバーで、モーツァルトやベルカント系オペラをいくつか録音していたワルベルクの貴重なレオンカヴァッロである。
オケも含めて、中間色のカラーであるが、華美にならず、ほどよく歌う均整のとれた演奏。
思えば、ワルベルクはレパートリーも広く器用な指揮者だった。

かなりの長文になってしまいました。
数か月前から聴きこんだこのオペラ。
多くに人に聴いて欲しい、もうひとつのボエームである。
そして、舞台の方も、プッチーニのセットがそのまま使えるのだから上演してくれませんかねぇ。

レオンカヴァッロ過去記事

 「五月の月」

 

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2009年12月11日 (金)

プッチーニ 「トスカ」 新国立劇場公演

Opera_palace200912 新国立劇場公演プッチーニの「トス」 を観劇。

  トスカ  :イアーノ・タマー     カヴァラドッシ:カルロ・ヴェントレ
  スカルピア:ジョン・ルントグレン アンジェロッティ:彭 康亮
  スポレッタ:松浦  健        シャルローネ:大塚 博章
  堂 守   :鹿野 良之        看 守  :龍 進一郎
  羊飼い  :九嶋 香奈枝

   フレデリック・シャスラン指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
                     新国立劇場合唱団
                     TOKYO FM合唱団
                 演出:アントネッロ・マダウ=ディアツ
                          (2009.12.11@新国立劇場)


Tosca 雨の週末、金曜日。6時30分開演、舞台がひけたのは9時30分。
中身は2時間を切るスケールながら、毎度プッチーニが繰り出す甘味で劇的、そして緊張感に満ちた素晴らしい音楽は聴き手の心をしっかりと掴んでやまない。
トータル3時間もかかったのは、休憩時間が25分もあるため。
それもそのはず、リアルでゴージャスな舞台装置は場面転換が相当大変なはずだ。
台本が歴史とローマの事物をまともに描いているから、具象的な演出となるとこうなる、という見本。
わたしがせっかちなのか、幕間もオペラのうちだから、ダラダラと長すぎに思った。
かといって、コンヴィチュニーのように幕間で何かやれとまで、いうわけでもないけど、そろそろ名作オペラも多面的に楽しみたいもの。
正直、音楽は素晴らしいが演出は凡庸、装置は豪華過ぎといった印象。

Ki_20002478_7_2  しかし、ほんとによく作られてる装置だ。
教会の細部にいたるまで完璧な仕上がりだし、ミサに訪れる人々の衣装やその時代考証も。豪華な堂内が、左右に開け、さらに豪華絢爛の祭壇が現れる。
2幕では、スカルピアはちゃんとなんか食ってるみたいだったし、拷問部屋の明かりも怪しげ。
そして、スカルピアの死体から、その下にあるストールをゆっくりと引っ張りながら後ずさりするトスカ。その影が十字に置いた蝋燭の明かりでできて、彼女の恐怖心を演出していた。
Ki_20002478_10 3幕の拘置所と、城の上がスライドするスペクタルな動き。
空に浮かんだ冷たく光る月に、星のまたたき・・・・。
こんな風になんだかんだ、印象的、というか、あぁ、よく出来てるな、と感心した場面たち。

ディアツの原演出は人の手を経て、変化しているのだろうか?
2000年の第1回目から、今回が5度目。
これだけの装置をこさえちゃったから、昨今の厳しい環境のおり、新国のトスカはこれが当面のスタンダードであろう。

でも歌手たちが引き立っていれば舞台は締まる。
Ki_20002478_9 そして孤軍奮闘したのが、タマー
もうひとりのタマちゃんの誕生だ。(先般、デスデモーナを歌ったタマーラ・イヴェーリがタマちゃん1号)
彼女、演技が機敏で細やか、わたしの視力では伺えなかったけれど、きっとその表情も豊かだったんだろうな。
肝心の歌は、観客受けがヴェントレの方がよかったけど、わたしはタマちゃん2号の方がよかった。
声は決して美声ではないけれど、演技に不随した内面的な歌唱は、歌姫トスカの優しさと敬虔、それと情熱と激情、それぞれをよく歌いだしていたと思う。
2幕の「歌に生き、恋に生き」は、指揮者シャスランとの呼吸もピタリとあった名唱で、わたしは涙をともに流したのである。
ここが、このオペラの頂点。
このあと、主役たちが次々死んでゆくわけだか、タマーのおかげで決まった、という感じだ
彼女のHPはこちら

対するヴェントレは、わたしの好みの声でなかったから、あまり喝采はできません。
威勢よく「ヴィット~リ~ア~」を決めたわけだし、こうして時おり、エイッエイッと張り上げるものだから、聴衆は大満足。
でも、タマーの歌い口と噛み合わず、もう少し知的な歌唱が欲しいところか。

北欧のバリトン、ルントグレンは1幕は全然よくなかった。2幕はまずまず。
というか、その声はプッチーニに合っていないような気がする。
私の耳には音源で聴ける、ゴッピやFD、バスティアニーニ、ミルンズといった知的だったり凶悪だったりするスカルピア、これらが、しっかりと刻まれているものだから、発声が大人しめで、特徴の薄い声にはちょっと厳しいのである。
ネットで聴けるこの人のオランダ人は、なかなか立派なのに。
同じサイトで、スカルピアのテ・デウムも聴けるが、これはやはり私にはダメでした。

脇を固めた日本人歌手、合唱、いずれも強力。
スカルピアなど、もう日本人歌手でいいのではないか。たとえば小森さんとか。

シャスランの指揮する東京フィルは、全般に抑えめで、テ・デウムの迫力はいまひとつに感じた。
プッチーニのオーケストレーションの綾を楽しませてくれるには至らなかったが、全体のまとまりを優先しつつも、タマーとのコンビネーションで見せたような抜群の舞台感覚を持った指揮者に思った。

Ki_20002478_12 これだけの名曲になると、こちらも視聴歴が長いものだから、つい厳しく見がちで、いろいろ辛口に書いてしまったけれど、これだけの高水準の舞台が普通に味わえるという点で、新国立劇場が世界的なオペラハウスの一員に仲間入りしたことは明らか。
故若杉さんの賜物でありましょうか。

3幕の二重唱の盛り上がりで、拍手がパラパラ起きてしまったのは残念でけど、こうしたスタンダードオペラを、日常的に楽しめる環境が極めて大事で、もしかしたら今日のトスカを通じてオペラファンになった方もいらっしゃるかもしれないし、事実、今日は若い方々も多く目立った。
啓蒙的な上演に関しては、高校生向けに、この「トスカ」や美しい「蝶々夫人」を新国は定期的に行い続けているけれど、地方公演も本格的に行ってもらいたい。
オペラは外来も、東京一極集中で、地方公演がまったくないものだからなおさらである。
みんな死んじゃう残酷で無常なオペラだけど、プッチーニの音楽の素晴らしさもあって、オペラ入門にも相応しい作品。
この豪華な舞台をもって、日本中で上演してもらいたいものである。

「トスカ」の過去記事

 「マゼールのトスカ」
 「ホルスト・シュタインのトスカ」

Operacity4

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2009年12月10日 (木)

「グレゴリオ聖歌」~奈良にて

1 ゆるキャラの中でも、気持ちわり~と評判の「せんとく
驚愕の「せんとくんツリー」を奈良市内で発見したのだ。

ちょっとどーすかね
街中いたるところに「せんとくん」がいますぞ。
コンビニにも「せんとくん」グッズが。

2unebiyama
車で移動しながら、途中寄り道ばかり。
でも朝早くから暗くなるまで走りまくったり、役所行ったりしてんですよ。
 ところで、奈良は道が狭いところがたくさんあって、みんな運転も怖いであります。

こちらは、畝傍山(うねび)。
耳成山、天香具山と合わせて大和三山のひとつ。
飛鳥の古代を偲ぶ歴史のつまった山々であります。

3
天理市内。
ようこそおかえり」とはまたいったい?
いうまでもなく、宗教関連色の強い本拠地。
でっかい地方別の館があちこちに・・・。

4toshodaiji
鑑真さんの「唐招提寺」金堂。
8世紀後半の完成といいます。

5yakushiji
唐招提寺から歩いて行ける「薬師」。
700年頃の完成。
いまは、新しすぎて眩しすぎ。
東塔が修理中で、シート被っていて興をそぐことおびただしい。

6sentokun 駐車場の売店にもいましたよ、彼が。。。。
馴染んでくると、つぶらな瞳が憎めないわね~

7horyuji

泣く子もだまる隆寺
ここで聖徳太子登場。
607年がその起源といいます。
世界遺産の日本指定1号。
やはり風格があります。
ちょうど鐘がなりました。
優しいお顔の百済観音像もいらっしゃましたぞ。

8horyuji はいはい、ご苦労さん。
どなたか、名前は存じませんが、屋根をしっかり支えていらっしゃいます。

9kura 奈良に名居酒屋「蔵」あり。
ここで、さまよえるクラヲタ人は、ひとり憩うのであった。

酒は、奈良の地酒「貴専寿」。
そして七味よりは、山椒の似合う焼き鳥。
くぅ~、うまいね。

10kura
いぶし銀の店内の様子。
もともと蔵であったものを居酒屋にしたもの。
居酒屋としても長い歴史がある。
私のようなのんべには、聖地のような店だ。

そしてですよ、テレビドラマの「あおによし」で、玉木宏綾瀬はるかがビール飲んでたのが、この店だそうな。
全部録画してあるので確認してみよっと。
ここでの飲食状況は、いずれ更新の止まっている「別館」にてご案内。
11sentokun また君かね

やたら出てくる「んとくん
今度は、お伴を引き連れて(笑)。
平城遷都1300年ということでイヴェントが企画されているそうじゃ。
リンクしたHPからせんとくんのオフィシャルページにも行けますぞ。
ダンスやブログパーツもあります。
よろしければ是非(笑)
このポスターの上には「待っててね。待ってるよ。」と書かれてます。う~む・・・・・。

Gregorian_chant
日本の「いにしえ」を訪ねたのに、西洋の神様の音楽とは不届きなり!とお叱りを受けるかもしれないが、そこはクラヲタゆえ、当然にございますな。

法隆寺や聖徳太子の時代、西洋ではどんな音楽が鳴っていたのか?
それをこじつけようという寸法でございます。

そう、グレゴリオ聖歌もその候補の大きなもののひとつ。
教皇グレゴリウスⅠ世の在位が、590~604年であるから。
しかし、教皇や側近のみが編纂したものでなく、古代由来の聖歌がさまざまな形で変化していって今聴けるものとして残っている訳でもある。
楽譜がないというのもこうして困ったもの。
でもネウマ譜というのがこの聖歌の楽譜で、にょろにょろした線のようなものだったらしい。
それらを研究したのが19世紀、パリ郊外のソレーム修道院で、皆川先生の解説によれば、古写本の読み取りが不徹底で、無用なフレージングがつけられた結果、19世紀的な美学も混在していまうこととなった、とされている。
十年以上まえ、ヒーリング音楽として空前のブームとなった「チャント」であるが、今はもう誰も聴かなくなってしまった。
 私はワーグナーに目覚めたころから、朝のバロックで始終「グレゴリオ聖歌」がかかっていたので、この単旋律の神秘的な響きを持つ歌が、妙に好きだった。

このCDは、ソレーム修道院の格式あるものでかつての昔、レコード何十枚もの全集が出たりしていた。
教会の鐘も鳴り響き、残響豊かに聖歌が歌われる。その背景には、鳥たちのさえずりも聴こえる雰囲気ゆたかなもの。
クリスマスにまつわるミサを集めた1枚。

ヒットしたEMI盤は、シロス修道院のもので、こちらはもう少し荒削りな印象。
ソレームは、どちらかといえばムーディな感じか。
その後いろいろ研究されていて、本格声楽団体もキッチリと歌うようになったが、私はこのソレーム盤が懐かしく、これにこそ、「いにしえ」を感じる。
指揮は、ガジャール神父じゃ。

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2009年12月 9日 (水)

エルガー 「愛の挨拶」 ノーマン・デル・マー指揮

Cafe_elgar_1 奈良方面に出張、最後の1日は勝手に休んで、京都ですごす。
そのおりの画像は徐々に公開します。
まずは、なんといっても久しぶりに訪れた「カフェ・エルガー」さん。
Cafe_elgar_3 朝食をすませたばかりだったので、スコーンが食べられなかったけれど、そのお味はなかなか評判のようだし、何よりも先だって、店主さまのエルガー愛が開いたこの店が京都新聞に掲載されたとのことで、慶賀にたえません。

Cafe_elgar_2随所にあるエルガー関連の品々。
まるで、ディズニーランドにミッキーがたくさん仕込まれているように、英国テイストとともに、エルガー卿がたくさん。

Cafe_elgar_4 店主さまのエルガーのお話や、欧州紀行談などを伺い、まことに楽しい時を過ごせました。

今日、聴かせていただいた、モルクの弾くチェロ協奏曲がとてもナイスな演奏でございました。
それと、ポール・マッカートニーのライブも

みなさま、是非一度行ってみてください。

Elgar_del_mar
そして、こちら、知られざる名指揮者、ノーマン・デル・マーが残したエルガーのミニアチュアズ。
愛の挨拶」はあまりにも有名な曲だけれど、刑事ドラマシリーズ「相棒」で使われたのが、この演奏といいます。
デル・マーの演奏が一番好きというセリフが入るらしくて、その弁は店主さまのお言葉をそのまま使ったとのこともお聴きしましたよ!

そしてその演奏が実に素敵なもので、ヴァイオリンソロが活躍するところが普通のオーケストラ版と違うところで、そのソロに木管楽器がそれぞれ、相の手いれて絡み合うところなんて、ふるいつきたくなるような感じでなのである。
間の取り方、タメの入れ方など、そのすべてが自然な呼吸で、ほんとに気持ちいい。
そして一時盛り上がる場面での弦楽の思い入れの表情もたまりませぬ。

「朝の歌」「夜の歌」といった有名どころも聴かせてくれますぞ。
オーケストラはボーンマス・シンフォニエッタ。
今日は歩き疲れたので、小品一曲をじっくりと堪能しましたよ。

Kiyomizu_1
街の中心から歩いてゆける「清水寺」に行ってきましたよ。
まだ紅葉が少し残っていて美しいものです。
学生さん、外人さんもしこたまいました。
中学・高校・大学とそれぞれの時期にここに来たけれど、社会人、というかおじさんになってから来るのは初めて。

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2009年12月 8日 (火)

路地裏「にゃんにゃん」

1 街を歩くときは、時おり路地に入り込むことにしている。

決して怪しいものではございませんが、狙いは「にゃんこ先生」にゃんですよ。

この日も、いましたね。
おくつろぎのところ、えらいすんません〜

2 おいおい、こっちだよ。
こっち向いてくれい

3

おっ、やっとこっち見たか。
でも睨んでるし・・・・。

君、足の裏汚いね。

4

あっかんべー、されてもうた

お邪魔いたしました〜

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2009年12月 7日 (月)

ヤナーチェク 「ブロウチェク氏の旅行」 東京交響楽団定期演奏会

Suntry_hallサントリーホール前のカラヤン広場には、この冬、緑をモティーフにしたモニュメントが飾られております。

当日ではありませぬが、数日前の月を緑の背景に撮ってみました。

Img 二日酔いもなく爽快な日曜日。
ともかく天気がよかった。

雲ひとつない青空が眩しい。
二日酔いはないけれど、はなはだ眠い。
朝帰りをして、また出かける私に向ける家族の視線が厳しい。
おまけに、月曜からしばらく出張。

こうして父は、家庭の居場所を失ってゆくものなのですな。
ははっ、でもしょうがない。
好きなことやってんだものね。
ごめんなさい。

かかる状況に追いこまれながらも、絶対に行きたかったコンサートが、東京交響楽団定期なのだ。
同団が手掛けているヤナーチェクのオペラシリーズ。
実演にめったに接する機会がないヤナーチェクのオペラだけに逃せない。
これまで、「利口な女狐」「カーチャ・カバノヴァ」「死者の家から」「マクロプロス家のこと」の4作が取り上げられている。
私は、今回が初めてなのだけれど、9つあるオペラを順次聴いていて、舞台でも昨年、二期会「マクロプロス」を観劇し、大いに感銘を受けた。
そして、今回の「ブロウチェク氏の旅行」は、日本初演で、このシリーズを任されている森範親氏の熱意みなぎる指揮と、DGから出ているビエロフラーヴェク盤の主役級歌手たちの本場の歌唱が加わって、初聴きながら大いに堪能した次第。

 ブロウチェク: ヤン・ヴァツィーク
 マザル/青空の化身/ペツシーク:ヤロミール・ノヴォトニー
 マーリンカ/エーテル姫/ クンカ:マリア・ハーン
 堂守/月の化身/ ドムシーク: ロマン・ヴォツェル
 ヴュルフル/魔光大王/役人: ズデネェク・プレフ
 詩人/雲の化身/ スヴァトプルク・チェフ/ ヴァチェク: イジー・クビーク
 作曲家/竪琴弾き/ 金細工師ミロスラフ: 高橋 淳
 画家/虹の化身/ 孔雀のヴォイタ:羽山晃生
 ボーイ/神童/大学生: 鵜木絵里
 ケドルタ:押見朋子

    飯森範親 指揮 東京交響楽団
              東響コーラス 合唱指揮:大井剛史
    演出:マルティン・オクタヴァ
                      (12.06@サントリーホール
)

詳細なあらすじは、こちら、ヤナーチェク友の会をご覧ください。
この会は、ヤナーチェクのオペラ対訳本を発刊していて、国内盤が手に入りにくいので、大変重宝しております。
会場でも盛んに売っておりました。

ヤナーチェクの常として、このオペラの筋もとてもややこしくて一度や二度じゃ頭に入らない。でもCD2枚、約2時間のコンパクトなところがいい。
かつては、「ブロウチェク氏の月旅行」とか表記され、SFチックな作品ともされていた記憶があるが、こうして親しく接してみると全然違う。
ユーモア溢れる喜劇的要素と、チェコの熱い歴史背景と、月世界への当時の憧れなどが風刺も織り交ぜながら巧みに取り込まれた面白いオペラなのだ。

筋を超簡単に記すと。

第1部「ブロウチェク氏の月への旅」
 第1幕 プラハの居酒屋で飲む連中のなかにいる家主ブロウチェク氏。
     恋人たちを羨みつつ、月を見上げる。
     月には税金も破産も泥坊もいないと。
     そしたら、月世界に飛んでしまった。
 第2幕 月の住人は居酒屋や近所の連中と瓜二つ。
     歓待を受けるが、そこは花の匂いをかぐことが食事でおかしい。
     「もうじゅうぶん嗅いだ」と日本語で歌い爆笑。
     居酒屋から持ってきたソーセージを食べてる。
     しかし豚を食べてる、野蛮と非難轟々。
     月から帰り、居酒屋の前では恋人たちが美しいデュエット。

第2部「ブロウチェク氏15世紀への旅」
 第1幕 1420年にタイムスリップ。ドイツと交戦中のプラハ。
      街かどで、敵のスパイと間違えられてしまうが、言い逃れる。
 第2幕 鐘つきの親子の家。
      続々とドイツを迎え撃つ市民が武器を手に集まる。
      ブロウチェク氏は戦いになんて行きたくない。
      勝利の暁、ブロウチェク氏は、ウソの武勇伝を語るが、見破られる。
      それどころか、敵に命乞いをしたことがバレる。
      かくして、樽に詰められ火を投じられ処刑されてしまう。
       ビール樽に入って寝て唸っているところを、
      居酒屋の主人にみつけられる。

ばかばかしいけど、おもしろい。
このオペラの主役のブロウチェク氏は、テノール役だけど、そこらにいる普通のおっさん。
オッサンが主人公のオペラって、ファルスタッフ以外、ほかにあったかしら?
その役を歌ったヴァツィーク氏は、まったくのはまり役。
常にちょろちょろ動きまくっていて落ち着きがないし、外観は、芋洗坂係長そのもの。
おなかポッコリの楽しいキャラクターで、肝心の歌も、声の通りはいいし、明晰で安心して聴いていられる歌手だった。
 ヤナーチェクのスペシャリストとあるマリア・ハーンも素晴らしい、ホールの隅々に響き渡る完璧な歌だった。
実力派を揃えた日本人歌手も、本場の皆さんにひけをとりません。
ことに高橋さんの存在感は、日本のオペラの舞台にはなくてはならぬ人と思わせるに充分。それと。鵜木さん、かわいい。
ノボトニーがやや精彩を欠いたのが残念なところ。

範親さんは、オケを押さえて歌をよく響かせるように徹してしたけれど、ヤナーチェクのモザイクのような複雑な音楽をすっきりとわかりやすく表現していた。
東響の厚みある響きは巧みにコントロールされている。

限られた舞台空間で、イマジネーションを刺激するような演出はまずまず。

ヤナーチェクのオペラは、最後のフィナーがどれも感動的。
今回のブロウチェク氏は、破天荒な物語を終わらせるブロウチェク氏のとぼけたセリフで洒落たエンディングとなった。
夢から覚めて、プラハ解放に力を尽くしたことを語り、「これは誰にも言いっこなしね」と。

ヴァツァークさん、大喝采でした。
明るいキャラは、ブロウチェク氏そのもの。

ヤナーチェクのオペラの魅力にまた取りつかれてしまった日曜でありました。

Suntry_hall2





      

       

   

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2009年12月 6日 (日)

モーツァルト 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 グシュルバウアー指揮

5_2 第3回クラヲタ会は、総勢10名を数え、蒲田の素敵な居酒屋にて、6時からスタートいたしました。
前回は、ハイティンク愛が話題となり、今回もその名残はございましたが、最初はゲルギーを、次いでヤンソンスを、ブロムシュテット、次いでノイマン(!)、ロベルト(アラーニャじゃないよ)が話題となる、いかにもこの会に相応しいマニア垂涎の楽しい会話が展開されました。
気がつくと早や11時。
おや、終電に間に合わない。
節酒中のワタクシ。久しぶりのお酒に、愉快な仲間たち。
毎日飲んでた頃は、こんなに酔うことなかったのに、東京駅も乗り過ごし、結局、朝起きたら会社で寝てましたね。
傍らには、中本の蒙古タンタン麺の赤いスープの残骸が置いてあります。

あ、いかん、今夜はコンサート、明日は早朝出張やど。
これより家に帰ります(12月6日AM8:00)。
みなさま、お世話になりました
次回もきっとございますよ。
さらなるご参加をお待ちしております。

(以下これより、素面の5日の自分が書いてます。)

Mozart_messe_ave_verum_corpus_gusch そして昨日は、モーツァルト(1756~1791)の命日。
レクイエムは重たいし、短めの曲で、かつ感動的なものがいい。
となるとこれ。
アヴェ・ヴェルム・コルプス」K618にございます。
モーツァルト、死の前年に書かれた合唱作品。
温泉地バーデンで療養していたコンスタンツェの面倒をよくみてくれた、合唱指揮者シュルテルのために、お礼の意もこめてかかれた小品。
わずか4分に満たない作品であるが、素朴な愛らしさとともに、穏やかな優しさにふんわりと包まれるような思いになる。
晩年の作品らしく、そこに陰りを帯びた表情も聴いてとることもできる深い音楽なのだ。

おやすみ前に聴くと、気持ちが落ち着く。

ウィーン生まれのグシュルバウアーの柔和な演奏は、この曲の定番。
グシュルバウアーも70歳。
ウィーン出身者は、ウィーンの楽壇でなかなか活躍できないが、もうひと花咲かせて欲しいもの。
スワロフスキー門下なので、アバドと同門。
そういえば、アバドのロッシーニのオペラ録音で、そのレシタティーボ・セッコで達者なチェンバロを弾いているのもグシュルバウアーだった。
来年は、二期会で魔笛を指揮するほか、ドヴォ8なんかもやるみたい。
これは読響なんだけど、読響は、カンブルランを迎えて、ペレアス作品をたくさん取り上げたり、コルンゴルトやったりするし、飯守さんがリングのオケ抜粋をやるようだ。
困ったものだ(笑)

写真集にございます。

Kappore_1 Kappore_2

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2009年12月 4日 (金)

ラヴェル 「ボレロ」 アバド指揮

Taiyaki_nagoya 変わり種のたい焼きを。
チョコとかカスタードはよくあるけど、こちらは、「お好みたい焼き」。

あんこの代わりに、お好み焼きの具?が入ってる。
結構お腹いっぱいになります。
@160円。

ほのぼのお好みたい焼き本舗

Taiyaki_nagoyajpg2 こちらは、普通のあんこタイプ。

めでたいですな。
跳ねてます。

Abbado_bolero 爆演シリーズ?

燃えなかったゲルギエフの演奏会の反動か、気持ちが「爆」を求めております(笑)

いつも物静かな印象のアバド
でも音楽への情熱ははかり知れぬほどに熱い。
オーケストラとの共同作業をこころがけ、そこに乗っかっているようでいて、オケのやる気をまんまと引き出してしまう。

だから気のあったメンバーたちと、それこそ興が乗ったときのライブは本当にすごいアバドなのだ。
進化するアバドはいま、ルツェルンを軸に、その重要な構成メンバーである、マーラー・チェンバーと古典専門のモーツァルト・オケの若いふたつの団体と仕事をすることが、楽しくてならないようだ。
オケの若さとアバドの成熟、この相対する要素が、いまだかつてない音楽の領域を切り開きつつある。
この常変わらぬ進行形の姿がアバドなのである。
先月体調を壊して(心臓疾患!)コンサートをキャンセルしているが、大事には至らなかったようで何よりである。

さて、そのアバドがポストを得たオーケストラの中で、一番相性が良かったと思うのが、ロンドン交響楽団である。
もちろん、スカラ座もいいし、ベルリンフィルの後期などはオケの献身も加わって神がかっていたけれど、ロンドン響とはお互い肩肘はらず、若かったアバドがやりたいことをやり、オケが素直に応じているという自然さがよいのである。
83年にこのコンビで来日し、来日中に首席指揮者から音楽監督への就任が発表され、アバドはとても嬉しそうな顔をしていた。
私は、このときの3つのプログラムをすべて聴いた。
①火の鳥、巨人、②不思議な役人、幻想、③ラ・ヴァルス、マーラー5番
どれもこれも燃えたぎる名演だったが、当時マーラーにはまっていたので、マゼール&ウィーンと時をおかずに聴いた5番が、もうむちゃくちゃに素晴らしい演奏だった。
ロンドン響の圧倒的なうまさにも驚きの連続!

そのロンドン響とラヴェルの全集を残したアバドだが、「ボレロ」をメインにしたこちらのCDがその1枚目であった。
アバドのラヴェルは、展覧会とラ・ヴァルスが先行して出ていたが、そちらはムソルグスキー寄りの渋い演奏で、それにラ・ヴァルスは霞んでしまった印象がある。
そして、このボレロを聴いたときの驚き。
ごく普通に、インテンポで始まり、敏感な弱音がいかにもアバドらしいわい、フムフムと思っているうちに、ジワジワと熱くなってくる。
そしてテンポも音圧も徐々にあがってくる。
一瞬アンサンブルが怪しくなるところもご愛敬。
オーケストラの各奏者たちは、もうノリノリである。
ことに金管の明るい輝きは炸裂寸前。

そしてついにやってくる最後の全オーケストラによる咆哮はすさまじく、そこにはこともあろうに興奮した楽員の叫び声が混じっているのだ。その後の急転直下のエンディングはそれこそ大爆発である。
ジャケットの解説に、この時の逸話が挿入されている。

「録音の際、間断なく演奏された主要録音の最後の数小節で、弦セクションの楽団員から自然に叫び声が湧き起こった。これはもちろん楽譜にないことであるが、その効果はめざましく、アバドの要望によりこの録音が採用されている」

スペイン狂詩曲」の終曲、祭りもまたすさまじいアッチェランドがかかり唖然としてしまう。
歌に満ちた「マ・メール・ロア」は美演。

音楽の楽しみをいつも味あわせてくれるアバドでありました。
爆シリーズ終わり。

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2009年12月 3日 (木)

ブラームス 交響曲第4番 クライバー指揮

Niniwaya1 このたい焼きクンは、見栄えは二の次で、味と中身で勝負だ。

明治42年創業「浪花家総本店」

庶民的でおしゃれな街、麻布十番にて。
ずっしりと重たいですよ。

Niniwaya2 すいません齧ったのをお見せしちゃって。
私はその時の気分で頭から、尻尾からとまちまち。

餡子ぎっしり。
そんなに甘くない上品なお味。
熱いお茶にぴったりよ

Kleiber_bpo 今日も爆演いっときましょか。

カルロス・クライバーベルリンフィルを指揮したライブにござんす。
ブラームス交響曲第4番
1994年6月のライブで、もちろんのことに、正規でなく膝上隠し撮り(まぁ、いやらしい)のモノラルである。
94年なのに、こんなモノラル。
放送用のマイクも本人に撤去させられ、何も記録がない中に、忽然とメモリーズというイタリアのレーベルが出した1枚。
これもまた、かつて、大阪はキタの音楽バー「EINSATZ」さんで聴かせてもらった。
ほろ酔いで聴く謎の録音に、酔いが醒めるほどの興奮を覚えたものだ。
某所で見つけて即座にゲット。いまは廃盤で入手困難か!

クライバーお得意のプログラム。
ブラームスは、ウィーン・フィル盤がお馴染みだけど、その弊記事はこちら

対するベルリン・フィル盤は、ライブならではの感興あふれる、しなやか演奏。
意外とゴツゴツしたイメージのあるウィーン盤に比べ、ベルリン盤は情感の噴出も最初は穏やかで、オケの持つブラームスの伝統にうまく乗ってしまったような感じがする。
2楽章までは、そんな趣きで、旋律もとても細やかに、そして愛おしむように歌っていて、おぉブラームスじゃ、という気分に浸らせてくれる。
 ところが3楽章はアクセル踏み込んだ感じで、早めのテンポに乗って、ティンパニの強烈な殴打が際立ってくる。切れ味鋭い乗ったベルリンフィルはすさまじい。
音を割るホルン、炸裂するティンパニ。こりゃもうティンパニ協奏曲だ。
終楽章も熱い。うなりをあげる弦楽、哀感漂う木管、悲しいくらいのホルンの相の手、いぶし銀の金管。
パッサカリアのイメージ通りのマックスの演奏に満足感を覚える。
その後はものすごい煽りでベルリンフィルが必死に食らいついているのがわかる。
これを実演で聴いたら、どんなにすごかったことだろう。

即興的なノリを感じさせるが、すべて綿密な練習と計算に基づいてのこと。
いやはや、カルロスのすごさと、ベルリンフィルのキャパシティの大きさに感服。
おしまい。

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2009年12月 2日 (水)

ブラームス 交響曲第2番 カラヤン指揮

Taiyaki たい焼き

羽根付きだ。

これを街角で買う。

Taiyaki_2

そして、こんな感じにして、歩きながら齧る。

どうだい、こんな食い方、うまそうでしょ。

こうして食べると、どうしても頭からガブリといくことになるね。
尻尾を出して食べてると何だかセコイやつと思われちまう

神田達磨の薄皮たい焼きだい。

Karajan カラヤン行きます。
「爆演」とはこういうものを言う。

カラヤンというと、完璧な仕上がりの、まさにレコードの芸術を求め続けた指揮者のイメージが先行するけれど、実はそうではないのであった。

ことに60年代から70年代前半のコンサートでは、驚くばかりの感情むき出しの演奏をすることがあったようだ。

そんなことの証しが、今日聴いたブラームスの交響曲第2番。
1966年4月の来日公演から札幌市民会館での演奏会。
これが掛け値なしにすんごい。
録音は年代を考えるとしょうがないが、ライブの雰囲気ありあり。

第1楽章から乗ってる。ゆるやかに始まりクレッシェンドしてゆく場面のダイナミズムの幅が大きい。それからは歌いまくりだ!
最後のコーダでは、テンポを落として印象深く締めくくる。
第2楽章は一転、じっくりとブラームスの緩序楽章の妙が楽しめる。ほんと美しい。
第3楽章も歌が強いし、この愛らしい楽章がメリハリ充分に聴こえる。
終楽章は、冒頭から音量の落差が大きい。そして劇的かつスピード感充分。
燃えまくってますよカラヤンが
うなりをあげてばく進しまくるベルリンフィルの鉄壁のアンサンブル。
こりゃもう、とどめようもない。
カラヤンも唸ってますぞ。
フィナーレは猛烈なアッチェランドがかかり歓喜のトランペットが響き渡り、こらえきれなくなった聴衆から拍手が巻き起こってしまうのだ

なんということでしょう。
カラヤンに爆演を聞くなんて。
一度限りしかできない、まさに興が乗ってやってしまった、という感じ。
聴衆も聴衆だ。興奮しちゃって止められなかった。
まさに演奏者と聴き手が一体になってしまった。
何もお互いここまでやらなくても、という気になってしまう。
そして思わず笑って、そして呆れてしまう。
誰かの言葉を借りれば、命をかけた演奏といえよう(笑)

この演奏マジですごいですから、興味を持たれた方は聴いてみてください。
爆演堂」に売ってます。
それと同じ来日公演から、東京での演奏会、ベートーヴェンの1番とレオノーレ序曲3番。
これもすげぇです。
ことにレオノーレの一気呵成の名人芸的なスピードは、芸術は爆発だ的な世界が繰り広げられ唖然としてしまった。

私は、オペラ以外は、本来は長くアンチ・カラヤンだった。
音楽の聴き方、受容の仕方も歳を経て、また環境が変わって、または周りの人々の影響などにより変わって当然だと思う。
クラシック音楽聴き始めはカラヤンばかり。
そしていま、またカラヤンが近くに感じられるようになってきた。
とりあえず、いまのところは、60~70年代のカラヤンですがね。

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2009年12月 1日 (火)

ゲルギエフ指揮 マリインスキー歌劇場管弦楽団演奏会

Chokoden_3 サントリーホールで、マリインスキー劇場オーケストラが繰り広げている、オール・ロシア・プログラムのチクルス。

写真は関係ないけど、先日遭遇したチョコ電。
ねこ乗ってますが、あしからず。

チャイコフスキー、ムソルグスキー、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキーの4人だけのそれぞれのプログラム。
そして、わたしがチョイスしたのは、ショスタコーヴィチの演目。
「鼻」、第1交響曲、「マクベス夫人」、第10交響曲。一晩にこれですよ!
すさまじい大盛り、テンコ盛り大サービス!

絶倫指揮者と絶倫オーケストラが今宵お送りする絶倫プログラムに、絶倫でない多くの日本人聴衆は、たじろぎ、ホールは7割程度の入り。
ところがですよ、楽しみにしていたマクベス夫人はゲルギエフの要望で消えてしまい、代わりになんと、はちゃむちゃなピアノ協奏曲第1番に変更されたのだ!さらなる絶倫攻撃に大曲馴れしたワタクシも、ちょっと勘弁、的な気分になったものだ。
長い前半が協奏曲で終わるともう8時15分。ホールを出たのは9時40分でございました。
あ~、疲れた。

 ショスタコーヴィチ 歌劇「鼻」 第2幕間奏曲
             交響曲第1番
             ピアノ協奏曲第1番
               ピアノ:デニス・マツーエフ
            (アンコール:シチェリドン ユモレスク)
  
             交響曲第10番

    ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー歌劇場管弦楽団
                                 (2009.12.1@サントリーホール)


と、ここで終わりにしたいところ。
そんな気分の今宵であります。
何故かって、ゲルギエフに煙にまかれた気分なのだから・・・
オーケストラは精度といい、個々の奏者の技量といい完璧。だから鳴っている音も立派で文句のつけようがない。
でも、心に響いてくるものがわたしにはないように感じられた。
これはどうしたものだろう。こちらの体調は悪くない。目の前でショスタコーヴィチのナイスな音楽がぐゎんぐゎん鳴り響いているのに、その光景を眺めているだけ。
そう、引っ掛かりのない、流れるような、すいすいとすらすらな感じ。
そんなに、せかせかと急ぎ過ぎないでよ、ゲルギーさん。
流れる車窓にも旅の喜びがあるように、変幻自在のショスタコの音楽をもっと楽しませてくださいよ。

あるいは、意識して脱ロシア臭を狙っているのか?
このオーケストラには、無用なビブラートはないし、音量もロシア的な物量攻撃型の破壊力もない。
世界各地のオーケストラと仕事しているゲルギエフは、コスモポリタン的な指揮者とその演奏を目指しているのだろうか。
かといって爆演もたくさん披露しているし・・・。
まえ聴いたベルリオーズのレクイエムは、こけおどし的なところの一切ない、真摯な祈りに満ちた演奏だったし・・・・。

ほんと、わかんねぇ指揮者だな


今日の席は、P席最前列でゲルギエフの指揮ぶりがもろに窺える位置。
トレードマークの、ちょっとひんまがった木枯らし紋次郎の爪楊枝みたいな指揮棒を持ち、チクチクひらひらと小刻みな動きで指揮をするその姿。
見にくい指揮だけど、オーケストラは何食わぬ顔でぴたりとつけてる。
それにしても眼光鋭く目力が強い。右斜め45度をたまに見上げるものだから、こちらを見据えられているようで、ちょっと居心地が悪い。

「鼻」間奏曲は、3分くらいの曲だったが、これがまた驚き。
打楽器だけのすさまじい音楽だった。大太鼓をティンパニのように叩き、ドラ、小太鼓、トライアングル、グロッケンシュピール、あとなんだっけ。。これが一番面白かったりして(笑)
 交響曲第1番は、スピード感あふれる鮮やかさが心地よかったが、ちょっと飛ばしすぎに感じた。現田&神奈川フィルのビューティフルな演奏を聴いているので、物足りなく思ったが、眼下に真近に繰り広げられるオケの迫力には舌を巻いた。
 ピアノ協奏曲は、こりゃもう、曲が曲だからいやがうえにも盛り上がった。
そのうえ、若いマツーエフ君のダイナミックな動きを伴う超絶技巧に、首席トランペット氏の目の覚めるようなソロも加わって、腰が浮いてしまうような演奏でありました。
会場は、ウォ~というような歓声が上がりましたね

休憩中、写真撮影をしにホール外を散策していたら、クラヲタ会でお会いしたヤマゲンさんと遭遇!

所要で、後半がお聴きになれないとのこと。そう、長すぎるんですよ、今日は。
そしてご自身の座られておられた2階S席を快くお譲りいただき、後半は、P席(C席)から格段のランクアップを図ることができましてございます。
ヤマゲンさん、ありがとうございます!
 P席は、オケの秘密を後ろからあれこれ見るようで好きだし、バランスは悪いものの迫真の音が聴けるのだけれど、2階前列S席にゃぁ敵いませんや。
音の溶け合いの美しさと、視覚的にオケ全体が正面に見渡せる安心感。いいもんです。
そして登場のゲルギエフ。相変わらず、指揮台はなくて平土間に立って手をあげると、今度は指揮棒がなし。素手だとヒラヒラぶりが増してみえるけど、ニュアンスが増したかというとそうでもないような・・・。
楽章間に休みをほとんどいれずに一気に演奏した10番も、冒頭に述べた印象のとおりで、気がついたら、最後のクライマックスを迎え、一気加勢に終わってしまった感じ。
ショスタコの名前のモットーは、ホルン奏者の凄演もあって耳がそばだったが、印象に残ったのはそこの場面だけというのも、自分の聴き方が悪かったのか寂しい。
ここでは、ものすごいブラボーが飛び交い、拍手も鳴り止まず、ゲルギエフは引っ込んでは、また登場し、ということを10回ぐらい繰り返す好評ぶりであったことを記しておきます。
う~む、わたくし、ゲルギエフと相性が悪いのかしらね。
でも自分にとってわからん人だからこそ、もっと聴いてみたい。
そんなことをモヤモヤ思っているうちに、家に着いたら11時を回っておりました。

はぁぁ~、疲れた。

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