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2010年1月

2010年1月31日 (日)

東京交響楽団 名曲全集第53回 飯森範親指揮

Muza 川崎駅の改札周辺の混雑ぶりはすごい。
首都圏のターミナル駅はみんなそうだけど、その雑踏を抜けないと、ミューザ川崎にはたどり着かない。

    
リスト ピアノ協奏曲第1番
  
    ショパン(リスト編曲)
          17の歌曲~「わたしの愛しき人」

          ピアノ:ベンジャミン・グローヴナー

    マーラー 交響曲第10番
       (デリック・クック補筆完成版 第3稿 第2版)

          飯森範親 指揮 東京交響楽団
 
                      (2010.1.30@ミューザ川崎)      

Tso20100131 ミューザをフランチャイズとするオーケストラ、東京交響楽団の名曲全集。
今日の演目は、そんな有名通俗曲を思いおこさせるシリーズタイトルとは程遠い、マーラ10番がメインにどっかりとすえられた重量級プログラム。
ほぼ満席のホールは、めったに生演奏に接することのできない10番を食い入るように聴いている方々と、最初から終楽章のドラムの一撃までのあいだ安らかに昇天されていらっしゃる方々との対比が面白かった。

どちらも、演奏会では初めて聴く曲目。
18歳の英国のピアニスト、グローヴナー君の弾くリスト
有名なようで、そうでもない曲。アルゲリッチとベルマンしか持ってないけど、それらを直近で聴いたのはいつのことだろう?
全く聴かない曲のひとつ。久しぶりに聴いてみて、威勢のいい音楽というよりは、リリシズムにあふれたきれいな作品との印象。
グローヴナー君は、バリバリ弾くよりは、そうした場面での繊細な表現がよかったのでは。
アンコールの文字通りショパンとリストを足して2で割ったような曲も美しいものでありました。
リストって、ワーグナーの義父なんだなぁ~
ってことは、バイロイトのワーグナー家の人々にもその血が流れているんだなぁ~ なんて、ぼぉ~と考えながら聴いているうちに終わってしまった前半でありました。

マーラーは、そんなぼんやり聴きは許されない。
1楽章はすっかり手の内に入ってるけど、それ以降はそんなに聴いてない。
CDもハーディングとシャイー自家製カセットテープ起こし盤しかありません。
だから、思い切り必死に聴いて、そして涙したのです。
いったいぜんたい、なんたる曲なのでありましょうかsign01
最初と最後で25分ずつのアダージョ楽章。
間にある3つの楽章は、スケルツォ→ブルガトリオ→スケルツォ。
短かめの煉獄(ブルガトリオ)をはさんで、完全なシンメトリーの構成だが、間の3つは奇矯な音楽に聴こえるけれど、両端楽章は生への決別があまりに美しく語られる悲しみと諦めの浄化なのだ・・・。
最初のアダージョで、最近いろんなことがあったからウルウルきちゃって、中間の3つは少し気楽に楽しんで、最後のアダージョでは、悲しい気持ちを後押しされて、無常感漂うフルートソロでは、涙が溢れ出てしまった。

愛するアルマに未練たらたらのグスタフ。
一方で、改宗したクリスチャンとして、異例なまでにキリスト教の神にしがみつこうともしている。見えてきた自身の死をも重ね合わせ、孤高の様相も呈しつつ、グロテスクな中間部なども持つ・・・・。
やはり、これは多面的な要素のごった煮になった、まさにマーラーの音楽そのものであり、完成された完璧な音楽であることを、昨日の実演では目の当たりにすることができた。
いろんな版があって、ある意味では進行形の作品であることも魅力的。
エルガーの3番も、完全なる作品と私は認知しているけれど、そちらはペイン版しか考えにくいのに比して、マーラー10番は、いろんな可能性がある。
この曲の初心者であるワタクシには、いまのところクック版しか手が回りませんけれどね。
そんなワタクシには、昨日の飯森範親さんの指揮は、率直で明快、とてもわかりやすかった。
振りすぎの勇足もあったりしたけれど、音楽に没頭する熱意のあらわれ。
オーケストラも、こういう曲だとこなれるまで大変だと思うけれど、東響らしいパワフルな音と繊細さがとてもよく出ていたと思う。
フルート、トランペット、弦楽各奏者のトップさん、ホルンも含めて皆さんのソロとてもよかった。

大地の歌のパロディも随処に発見。同曲と第9と、この10番の3作品は、マーラー晩年の生への告別彼岸の3部作といえそう。
マーラーがこれらを書いたのと、同じ歳を迎えているワタクシ。
こんな、のほほんと、脳天気でいいものだろうか。
人生は厳しく、私を取り巻く環境も日に日に悪化してゆくばかり・・・。
だからこそ、音楽に救いを求めちゃうわけだけれど、この10番の終楽章には堪えた。
泣けた。
むなしかった。
なんという素晴らしい音楽だろうか。

こうして、わたしの、のほほん人生は、今日も続くのでありました。

アフターコンサートは、いつもお世話になっておりますお仲間と、ホール隣のラゾーナの居酒屋さんで、盃を傾けました。
ここで10番のスコアを初めて拝見させていただきましたよnote
一番下の段に、マーラーが残したスケッチが対比して書かれていて、全体は上から下までびっしりの音符。指揮者はこれを頭にいれて振ってるんだsign03
素人のわたしは、それで酔いがまわって、へろへろになってしまいました。
みなさん、お世話になりました。
Basashi





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2010年1月29日 (金)

ドビュッシー 練習曲集 内田光子

Asakusa_9 浅草は浅草寺のライトアップの様子。
この位置から見るのが五重塔と山門の両方が窺えるから好きなのだけど、1月は露天がしっかり出ていて、激しくフランクフルトーー、とかとうもろこし、あんず飴ーーとか暖簾が写ってしまうんだ(笑)
だから下をちょこっとカットしました。

Monet_pourville00_2  昨日酔っぱらった勢いで「月の光」をむさぼるように聴いたドビュッシー(1862~1918)。
あれ1曲じゃぁ、すまされない。
ドビュッシーの到達したピアノの世界。最後のピアノ作品を聴きましょう。
「12の練習曲」。
1915年、英国海峡よりの町、プールヴィルにて作曲を開始された練習曲。
 プールヴィルといば、モネの「断崖にて・・」のこの絵画が思い浮かび、ここに載せてみた。
この名画、2000年に盗難に遭い、つい先ごろ10年ぶりに発見され、犯人もお縄になったとのことである。その価値、1億ともいいますeye

絵画における印象派の代表モネと、音楽の印象派ドビュッシーはイメージ的に切ってもきれないものがあるけれど、ドビュッシーの方は、晩年に行くに従って、調性の世界からの離脱を感じさせるスレスレの緊張感に満ちた音楽を書くようになっていった。
だから、モネのぼうっ~とした、印象第一主義の雰囲気とは明らかに違う、いわば明晰で音楽のすみずみまで、光があたったかのような印象。

Debussy_12etude_uchida あの時代、音楽家の誰しもが「トリスタン」そして「パルシファル」の影響を受けざるを得なかったが、ドビュッシーも例外でない。
でも、自らワーグナーに決別しつつも、半音階的な技法に民族的な要素も加えたりで、新たな境地を切り開き、同時代人シェーンベルクが無調→十二音と進化していったのに比して、音階のある音楽の極限の可能性を極めてしまった晩年。
このあとに、メシアンがやってくるのを予見させるドビュッシーの音楽なんだ。
解説書に書かれた内田光子さんの文章も参考にして、まとめてみた印象。

まぁ、そんな小難しいことは抜きにしてこの12曲のエチュードを聴くとき、ショパンのような表題性はないものの、普通にここに展開されるピアニズムを楽しめば、メカニカルでも無機的でもない、お馴染みのドビュッシーの響きが見えてくる。
ちょっととっつきは悪いけれど、前奏曲集や映像、各組曲などと、同列に聴くことができるようになってきた、今日この頃。
何度も聴いていたら、キース・ジャレットやチック・コリアなどのいわばジャス抒情派の曲の先駆としても聴くことができるようになってきた。

2巻からなり、それぞれ6曲、計12曲。タイトルも付いている。
①5本の指のために、②3度のために、③4度のために、④6度のために、⑤オクターブのために、⑥8本の指のために・・・の第1巻。

第2巻は、⑦半音階のために、⑧装飾音のために、⑨反復音のために、⑩対比的な響きのために、⑪アルペジオのために、⑫和音のために。

それぞれのタイトルと、曲を結び付けて、その印象を述べるまでには、わたくし、まだ聴き込んでおりませなんだが、第2巻などは、音楽理論・実際演奏素人のわたくしでも、その雰囲気はアリアリと感じとることができます。

デイム・ミツコ・ウチダ
内田光子さんの緊張をはらんだ演奏を聴くと、いつもハラハラしてしまう。
そんなに根をつめて、凝縮し、透徹した音楽づくりをしていて、大丈夫なのかと・・。
このドビュッシーもそう。
曖昧さの一切ない、明快そのもののクリアーなピアノ。
一音一音が、考えつくされ、研磨しつくされたすえに選びとられた、厳しいまでのピアノ。
モーツァルトもシューベルトも素晴らしくて、おいそれとは日常聴けないくらいに凄いし、室内楽やリートの伴奏でも同じように、深い世界を切り開いてしまう内田さん。
ピアニストの概念を超えたピアニスト。
日本的なもの、とかなんじゃらなんて通念もとっくに通り越した人間存在・内田光子。
今年秋のクリーヴランド管との共演や、その時おそらく開かれるピアノコンサートは必聴でありましょうsign03

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2010年1月28日 (木)

ドビュッシー 「月の光」 フランソワ

Biwako_moon 本来は、真冬の今日、関東はとても暖かったし、お湿りも久方ぶりにあった。
でも、雨上がり、夜は冬らしく冷え込んで、空気が澄んで、月がとってもきれいな晩でした。
画像は、昨年10月の琵琶湖の月。
そうそう、びわ湖オペラで、やたらに感激した「ルル」の帰り道で、湖畔に浮かんだ月であります。

そして、今宵、ほろ酔いの帰宅途中、空を見上げたら、月しかありません。
むなしくもあり、美しくもあり・・・冬の月は妙に美しくありました。

Debussy_francois というわけで、こちらのブログでは、異例なまでに短い曲、ドビュッシー「月の光」を聴きました。
「ベルガマスク」組曲の中の一曲として、作曲されたのが、1890年。
自身は、没頭し、決別したワーグナーが「パルシファル」を初演したのが1882年。
この近似値的な年数は、われわれが、ワーグナーを聴き、ドビュッシーを聴くとき、思い起こさなくてはならないものだと、いつも思っている。

「月の光」ほど、一般的に、ドビュッシーのピアノ音楽を相対的にイメージする曲はないのではないでしょうか。
甘美かつ陶酔的で、旋律線が微妙にぼやけてしまって、曖昧、すれすれの音楽。
少し、酒気を覚えて、部屋の電気を消して、カーテンを全開にして、夜陰の中に月の光を探してみよう。
目が慣れてくると、ほのかに「ひかり」が差し込んでくるではないか。
寒い夜なら、月の精は、キラキラと雪の結晶のように舞うように見えるかもしれない。
これから迎える春の晩なら、ぼうっとした月明かりに、小躍りするような妖精も見えるかも。夏には、そして、よりクッキリした秋の月夜には・・・・・。

こんなイマジネーションを、四季折々、思いおこすことができるのは、わたしたち、繊細な日本人の特権かもしれません。
こんな数分間の名作品を、年中、愛でることのできる日本の四季と風土、人情に感謝しなくっちゃならないです。

サンソン・フランソワの粋なピアノで聴きました。

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2010年1月27日 (水)

聴いてびっくりハイドン交響曲第94番「驚愕」 ミンコフスキ指揮

Asakusa_1   浅草の仲見世。
まだお正月の名残りの残る晩に撮影。
この晩は、浅草で久々に飲んだけど、隠れ居酒屋みたいな店はあったが、2軒目を探すのが一苦労。
街、というかいくつもある通りや筋に、人がいなくなってしまい寂しいのである。
Asakusa_6 Asakusa_8
アーケードで屋根のある商店街には、こんな悲しいロープが張られている。
右は、人影のない伝法院通り。

Minkowski 寂しい導入部でありますが、今日は、元気よく、そして快活にハイドンの交響曲を聴きましょう。

マレク・ミンコフスキ指揮のルーヴル宮音楽隊による、交響曲が3曲収録されたCD。
いつもお世話になっております、「爆演堂」さんで扱っております1枚。
94番「驚愕」、99番、101番「時計」の3曲が収録されている2009年6月のウィーン・ライブをいち早く聴くことができた。
 ミンコフスキは、実のところ、幻想交響曲しか持っていなくて、あとはラモーやヘンデルをちょろっと聴いたことがある程度。
古楽出身でありながら、そのレパートリーは広くロマン派全域までをもカヴァーし、ビゼーやオッフェンバック、昨今ではブラームスやブルックナー、ワーグナーのオペラ(妖精)などのドイツものも指揮している今が旬の指揮者である。

このハイドンの交響曲が実に魅力的なのだ。
と同時に、アッと驚くタメゴローな世界なのだ。
あまり種明かしはしちゃいけないけれど、昨年11月の来日でも、アンコールで94番の例の「びっくり」第2楽章を演奏していて、聴いた方のブログなどを拝見すると、ほぼ同じ仕掛けがなされているんだ。
音源だけで聴いても、けっこう、びっくらこきまくるけど、生で聴いたら思わず笑っちゃうのでしょうな。
実際、このCDでも、ウィーンの聴衆の笑い声が盛大に収録されていて、極東の狭っこい部屋で聴いているワタクシも、そこに居合わせて、びっくらこいている気分になれるんだ。
ちょっとだけ披露すると、「無音と嬌声」・・・・、ふっふっふ、あとは想像してください。
そして実際に聴いてみてください。
こんなユニークな解釈が、単なる思いつきや仕掛けに終わっていないのが、ミンコフスキの実に音楽的なところ。
奇抜さという意味で、94番の第2楽章が目を引いてしまうが、ほかの楽章、そして他の2曲を通じて、生き生きと、まるで水を得た魚のようにピチピチとした生まれたての音楽が展開されるのだ。

冒頭に寂しい浅草の話をしてしまったけれど、ミンコフスキのハイドンは、粋でいなせな、浅草人の気風のよさがにじみ出たような、小股の切れ上がったような爽快ハイドンなんだ。
ミンコフスキもなかなか学究的なところがあって、作曲家の思いを再現したいという意向が強いと語っているが、彼の音楽からは、そんな大上段に構えての頭でっかちの貧血症的な響きは一切きかれず、切れば血の噴き出すような鮮烈さと、新鮮さ、そして何を隠そう「歌」に満ちているんだ。
当然にピリオド奏法ではあるが、こんなやり方があるんだ、という驚きと感激。
思いつきでやってみました的な演奏なんかじゃなく、完全に演奏者の血肉と化していて、そこに立派な解釈が生まれている。

サービス精神旺盛なハイドンの音楽が、ミンコフスキとルーヴルの連中によってさらに極上のサービスメニューが付加されて、聴き手を楽しくさせることこのうえない。
 音楽を聴いて、感動したいというのは誰しもが思うことだが、楽しい気分になりたい、というのも絶対アリで、このハイドンはその気分をしっかりと満たしてくれた。

私が定期会員になっているオーケストラでも、新シェフが盛んに試みているが、単なる奏法という試行のずっとずっと先に行っているこの演奏を聴いて、桁違いの世界があるものだと痛感する。
こんなポテンシャルの高い演奏ができるのだから、ピリオド奏法も捨てたものじゃぁない。
そんな可能性を聴いてしまったものだから、我がオーケストラにも頑張っていただきたいし、さらに応援する決心を固めてしまった、そんなミンコフスキのハイドンでありました。

曲の面白さがいまさらわかった99番、聴き古したクロックの刻みが極めて新鮮な101番、どちらも、すんばらしい演奏なのだ。
最後には、お客さんのブラボーも盛大に飛び交ってます。
録音も優秀で、ライブならではの感興あふれる1枚、実に楽しい聴きものであった。

Marcminkowski 昨年来日を聴き逃したのは痛かったミンコフスキ。
次の来日は、大ブレークの予感。
それは、愛しのパトリシア・プティボンさまと同じ。
彼らの共演が実現したりしたら、大エンターテイメント大会になることは必須。
きゃー、思っただけでも、すごそう、楽しそうnote

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2010年1月26日 (火)

ラフマニノフ 交響的舞曲 ヤンソンス指揮

IcecreamPalitteheart02

あの美しい北川景子さまが宣伝してるグリコのアイス。
出張先で、飲んだ勢いのコンビニ訪問で買ってしまったようだ。
朝起きたらお腹がいっぱい。

翌日、こんな写真を撮っているのを見て自己嫌悪にさいなまれる。
左の方には、ハイボールが写ってるし・・・・。

このところ、酒を飲むと後で記憶喪失になるようだ。
飲んだあとの、こんなオレには近づくな、ケガするぜ。

Rachmaninoff_stravinsky_jansons_5 今日もラフマニノフを聴きます。
交響的舞曲作品45
番号は付いてないが、3つの楽章を持ち、さながら第4交響曲のよう。
作品45aが、このオーケストラ曲に先立って書かれた2台のピアノ版。
ついで、1940年にオーケストレーションされたのが、この作品で、ラフマニノフの文字通り最後の作品となっていて、初演はこの作品を献呈されたオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団によって行われている。
ラフマニノフはロシアを去ってのち、晩年はスイスとアメリカを行き来していたらしいが、その終焉の地は、ビヴァリーヒルズだそうな。
1943年に69歳で亡くなっているから、その作風は思えば保守的なものである。
近くにはシェーンベルクもいたはずだから、ふたりがどこかで出会っていたかと思うと楽しいものであります。

バレエ音楽としても想定していたからから、その舞曲の名が示すとおり、全編弾むようなリズムが漲っていて、そのダイナミズムもふんだんに味わえる。
そして、当然にラフマニノフを聴く喜び、そう、甘味な旋律とうねり、むせぶような情念とメランコリー。
あぁ、ラフマニノフはこうあるべし、ともいえる作品であります。
当時埋もれていた第1交響曲の引用や、毎度、ほんとに毎度おなじみの、ディエス・イレの引用もしっかりある。
 でも、交響曲群に比べると、曲の印象はシャープでメタリックに感じるところは、舞曲風のリズムが勝るところゆえか。
これもまたよし。
私は3つの交響曲に、この交響的舞曲を加えて、始終楽しんでおります。

ピアノが活躍し、弾むようなリズムが印象的な冒頭から、中間部のサキソフォーンの泣き節が極めて印象的な第1楽章。
 ワルツ形式の第2楽章。最初は手探りで旋律を模索しつつ、徐々にワルツのリズムが姿をあらわし、ついに哀愁に満ちた旋律が全貌をあらわす。
これは一度聴いたら忘れられない。シベリウスの悲しいワルツにも似てるが、このラフマニノフの音楽は、憂愁に満ち満ちていて、もっと根っこが暗く感じる。
悲しい気分の時に、さらに落ちたいときにどうぞ。
 目まぐるしくも激しい音のぶつかり合いが聴かれる終楽章は、ちょっと掴みどころがないかもしれない。スピーディな展開の中に、終結のディエスイレの場面に音楽が収斂してゆき、ダイナミックに音楽を閉じる。
実に、かっこいいのである!

この曲は、第3番と同じく、マゼールとベルリンフィルのCDによって目覚めた。
容赦ないくらいにクールで、べらぼうにうまいオーケストラに快感を覚えたものだ。
その後も、交響曲を揃えると付いてくるからかなり持ってます。
未聴の山から、開封してなかったヤンソンスコンセルトヘボウ管弦楽団のライブ盤を聴いてみた。
ヤンソンスは、サンクトペテルブルク・フィルと協奏曲も含め、ラフマニノフを根こそぎ録音しているが、そちらはどうも燃焼不足で、EMIの醒めたような録音も好きになれないセットなのだ。(今回のシリーズで、協奏曲以外全部聴いてみたけど、印象は大きくは変わらないが、若々しさとオケのはみ出し具合がちょっと面白くて、見直した)

ヤンソンスのラフマニノフといえば、シャンドスに入れたフィルハーモニアとの2番の交響曲が、この曲最高の演奏のひとつと思う。そちらは、尋常でない熱さと輝きなのだ。
若い頃のヤンソンスの凄さがもろに出た演奏。

一方、ヘボウとバイエルンという2大名器を手中にした円熟の道をゆく、こちらのCDは、オーケストラの温もり感が、独特の落ち着きを与えていて、充実したラフマニノフ・サウンドが聴かれる。
弾むリズムのうまさと、聴き手を乗せるうまさは、相変わらず。
ロシア系の指揮者たちが聴かせる、胸かきむしる濃厚な演奏とは、反対にある、ヨーロピアン的な演奏であることもかつてのヤンソンスと異なるところ。
そのあたりの優等生ぶりが、面白くないという向きもありましょうが、音楽造りが旨いものはしょうがない。乗せられちゃうのだ。最後の激しいエンディングもド迫力。
 残念なのは、最後に鳴り渡るドラの余韻を楽しめないままに、拍手が始ってしまう。
ライブとは難しいもの。
コンセルトヘボウのお客さんも興奮しすぎ。

交響詩は残りますが、ピアノ作品、歌曲、オペラと、ラフマニノフ・シリーズはまたの機会に。

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2010年1月25日 (月)

ラフマニノフ 交響曲第3番 ジンマン指揮

Kurofune
今日から、「さまよえるクラヲタ人」は、極寒バージョンに模様替えしました。
どうです、寒々しいでよ。
つまらんジョークや記事に、寒ーっくなっていただければ本望です。

ちなみにイラストは借り物、それ以外は手製の背景は、季節に応じて6バージョンあります。
そちらも、春が待ち遠しいですな。
ところで、どうです、きれいでしょ、カステラ。

若い頃は見向きもしなかったカステラが、初老のオヤジになった今、とても美味しく、そして懐かしく感じる。
文明堂はもちろんウマイ。
そして重厚な福砂屋も美味しく、私のお使い物の定番にございます。

そして、行列して買ったこちらのカステラは、「黒船」。
濃厚だけど、甘すぎもせず、さっぱりとしていながら、旨味が満載でひじょうに美味しいんだ。
自由が丘が本店で、東京と大阪の百貨店で買えます。
この切れ端を使ったラスクがまた絶品でございますよう。

Rachmaninoff_sym3_zinman お気づきだとは思いますが、現田&東大オケの第2番を中軸に据えて、ラフマニノフの交響作品を聴いてますシリーズ。
本日は、交響曲第3番を。
曲の来歴は、過去のこちらの記事をご参照。
番号付きでは3曲あるラフマニノフの交響曲。
若書きのユースシンフォニーに、交響的舞曲。
これら5作品と交響詩が、シンフォニックな音楽。

ラフマニノフの作品は、第2番がいずれのジャンルも有名。
交響曲に、協奏曲、ソナタも。
私もいずれも第2番から入ったラフマニノフ。
多くの方がそうでありましょう。
そして定番どおり、プレヴィンの第2交響曲から入り、協奏曲は難なく2番から3番へ。
でも、交響曲はなかなか他の番号に進めなかった。
レコードもFM放送も、協奏曲ばかりで、交響曲はほんとに少なかったラフマニノフ。
プレヴィン以来、それこそ電撃的な再会は、FM放送の、ヤン・クレンツ指揮のケルン放送響のもの。
これは伝説的ともいえる名演で、そのカセットを来る日も来る日も何度も聴いた。
冬の日々で、おりしも今のハイボールのように、ホット・ウィスキーが流行った頃で、新入社員の寒い一人部屋で一人熱くなりながらラフマニノフに浸ったものだ。
Rachmaninov_sym3_maazel  ほどなく、FM放送に登場したのが、マゼール指揮ベルリン・フィルの交響曲第3番のライブだ。
これをしっかり録音して、2番とともに、聴きまくり、3番の魅力に目覚めたのである。
このコンビは、すぐにこの曲を録音し、私も即レコード購入し、これもまた同コンビのツェムリンスキーの抒情交響曲とともに、擦り切れるほど聴いたものであります。
 カップリングが、交響詩「死の島」で、その素材となったベックリンの絵がジャケットにあしらわれた秀逸なレコードで、切れ味のよさとオーケストラの色彩感に酔い、ベルリンフィルはマゼールに決まりだなと、応援していこうと思ったのだった。
 ウィーンフィルとの来日公演も聴き、国立歌劇場の監督になったりで、実は一時、マゼール・ファンだったのですよ。
それが、ウィーンの伏魔殿にコケ、ベルリンフィルの指揮者にも選ばれず。
そのあとがすべて、わが敬愛するアバドだったもんだから、マゼールさん、毒舌で八つ当たり。このあたりから、憎たらしくなってしまった、たわいもないワタシなんです。
 今日はマゼールを語る日ではないので、このあたりで、本題に。
(3番は、レコードのみで、CDで買いなおしていない今日この頃)

というわけで、買ったまま放置していた、ジンマンボルティモア交響楽団の演奏で。

いまや、チューリヒで巨匠となったジンマンも、ボルティモア響時代は、好きなレパートリーで結構やりたいことをやっていたように思う。
得意のロシアものに、エルガーなどの英国もの、ご当地アメリカや現代音楽。
古風でドイツ風だった(と思う)チューリヒ・トーンハレと、ドイツ本格派の音楽にユニークな視点の演奏を行いつつある現在。
さらに遡ると、無難なロッテルダムフィル時代もふくめて、ジンマンは手兵とその環境によって、いろんな姿を見せてきた指揮者ではないだろうか。

ボルティモア響とは、ヴィルトーソ的な、それはある意味アメリカ的な前向きかつ明るい音楽を築いている。
マゼールの演奏にあったのは、まさにヨーロッパのトーンだけれども、ここでは金管を初めてして、望郷の念に燃えるラフマニノフ・サウンドは、多少アメリカンな雰囲気なっているのは否めない。
 でもアメリカに永住し、かの地や他のヨーロッパ諸国から故国ロシアを思ったラフマニノフが書いた第3交響曲のある意味一面をもとらえているかもしれない。
旋律線では、そんな風に思ったけれど、この第3交響曲は、3つの楽章がともにメロディアスな要素とともに、リズミカルな要素も多々あって、ジンマンの演奏は、そうした弾むようなリズムの刻みが実に心地よいのである。
甘味な旋律と交錯する活気漲るリズム。この取り合わせでもって成り立っているかのような第3交響曲。
ジンマンとボルティモアの演奏は、このあたりの対比具合が非常によろしい。

曲の最後には、これまたラフマニノフの音楽のお約束どおりに、わかっちゃいるけど期待してしまうエンディングも派手にジャン・ジャンであります。

過去記事

「交響曲第3番 尾高忠明&日本フィル」
「交響曲第3番 ウェラー&ロンドンフィル」

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2010年1月24日 (日)

東京大学音楽部管弦楽団演奏会 現田茂夫指揮

Geigeki 土曜日の晩、池袋、「勝手に神奈川フィルハーモニーを応援する会」分科会が行われた。
名誉指揮者の現田茂夫さんを聴く会であります。
オーケストラは東京大学音楽部管弦楽団で、演目はワタクシの大好物がずらりと並んだ好企画。
なんたって、わたしのこのブログのカテゴリー欄がすべてに該当し満杯。

   エルガー     序曲「コケイン」

   ヴォーン・ウィリアムズ 「ノーフォーク・ラプソディ」第1番

   ラフマニノフ   交響曲第2番
 
            ヴォカリーズ(アンコール曲)

   現田茂夫 指揮 東京大学音楽部管弦楽団
                  
2001.1.23 @東京芸術劇場)

Tokyodaigaku_2_2  まずは、また昔話をご披露しますが、東大オケは、わたしが、初めて生のオーケストラを聴いた記念すべき楽団でして、高校1年のことでありました。
小学生のときに従兄弟から影響を受けたクラシック音楽道。その従兄が東大生となり、一緒に聴きに行ったわけであります。
演目はベートーヴェンの8番とチャイコフスキーの5番。場所は杉並公会堂。
これがその時のチケット。
後生大事に持ってます。
ずらりと並んだお兄さん、お姉さんたちの大オーケストラに圧倒され、初めて聴く豊穣なる響きに陶然となったものであります。
また従兄の友達連中が、スコアをもっていて、あそこがどうだったの、どのうと議論していて、田舎の高校生のわたくしには及びもつかないことで、ある意味カルチャーショックだったのであります。


このオーケストラは歴史が古く、その発足は1920年にさかのぼり、近衛秀麿や柴田南雄、別宮貞雄、早川正昭などの著名な方々も輩出しているそうだ。

Tokyodaigaku_1 そんな東大生の皆さんのオーケストラに数十年ぶりに接したわけだが、いまや、若い彼らは、わたしの子供たちぐらいに見えちゃうところが、我ながら寂しいところ(笑)
月日の経つのは早いし、残酷なものですなぁ、としみじみしてみる・・・・・。

そんなことはともかく、東大オーケストラはやたらとうまい。
やる気が満載で気合いが入っているので、へたなプロオケを聴くよりは数等によろしい。
奏者も曲によって入れ替わり、コンサート終了後ホール出口にアンケート回収やお見送りにたくさん出ていたくらいで、メンバーは相当にいて、みんな均一の実力を持っているところがまたすごい。
若い彼らの、眩しいくらいの音楽の放射を真っ直ぐに受け止めることができて、私は若返ることができた思いで、今日の日曜日はとても気分が爽快でよろしいのである。

さらに、我らがマエストロ現田さんの指揮が、彼らの実力を引き出し、そして、いつも魅惑されてしまう、現田トーンともいうべきキレイな音色がホールに響きわたったのであります。
アフターコンサートで、応援する会の皆さんと語りあったのだが、やはりオーケストラは指揮者によって音色がてきめんに変化するのである。
神奈川フィルを聴いていて、現田→シュナイト→聖響と、音楽の質も音色もまったく異なることで自明でありましょう。
現田さんは、オペラの資質を根っこに持った指揮者だから、旋律の歌わせ方ひとつにしても、聴き手の心にある歌心の波長とピタリと合うことが多いし、曲の見通しをしっかり立てて山場造りも巧み。

だから、オーケストラの若さと、指揮者の歌心が結びついた後半のラフマニノフは、本当に素晴らしい名演だった。
この曲を得意にする現田さんの指揮も、前半とうってかわって自在極まりなく、踊るような指揮ぶりに、この曲への愛情が充分すぎるほど感じられた。

そして、ワタクシも、ただでさえ大好きなこの交響曲第2番、CDも山ほどあるし、演奏会も何度も聴いているけれど、昨晩の演奏はそれらのなかでも最上位に入るくらいのものと言ったら褒めすぎでありましょうか。
自慢じゃないけど、曲のすみずみまで知り尽くしてしまったワタクシの、ここをこうして欲しい、こう聴かせて欲しいというポイントをすべておさえてくれて、オケと指揮者、それに私の3者が完全に一体化してしまった感があったのだ。
唯一の不満は、第1楽章の最後の低音の一撃。もう少しバスを効かせて欲しかった。
それにしても、第3楽章の甘味なる旋律の歌いまわしには、心底まいりました。
じわじわと盛り上がって、弦によってひしひしと歌いこまれるあの名旋律。
わたしの頬には涙が一滴伝ったのであります。
最終楽章のめくるめくコーダも、手を握り締め感動のエンディングを迎えたのであります。
思わずブラボー一声献上いたしましたことは言うまでもありません。

感極まって涙ぐんでいる女性の楽員もいて、お父さんはさらにウルウルしてしまいましたよ。
アンコールのヴォカリーズもお約束通りにビューティフルshine

もちろん、英国音楽の徒でもあります、わたくしですから、前半も最高潮に楽しみましたよ。
ノーブルさと活気がみなぎった明るい「コケイン」。
ノーフォークラプソディ」は、ヴィオラ主席君が、素晴らしいソロを聴かせた茫洋とした前半と、明るい後半の対比が見事。
こうして続けて聴くと、その違いが明確。
ドイツ的ともいえるカッチリした枠の中に英国魂を満載したエルガーに、英国の自然や世相を徹頭徹尾、心象風景的に音楽に盛り込んだヴォーン・ウィリアムズ。

素晴らしいプログラムに、感動的な演奏の@東京芸術劇場でございました。

ご一緒いただいた皆さん、お世話になりました。

追)
ラフ2フェチの私は、同時にエルガー1番も愛し、このふたつは、私の好きな曲の交響曲部門の1位と2位なのです。
このふたつの交響曲を得意にしている指揮者といば、そう、尾高忠明さんと大友直人さんでございます。
お二方ともに、何度も聴いておりますが、現田さんもエルガーの交響曲を是非ともものにしていただきたいものであります。
大友、現田、そしてついでにワタクシは、同い年なのでして、とても親しみはありますね。
二人とも、若々しくて、頭のあたりが特に私と大違いなところが、悔しいというかなんというか・・・・。

尾高さんと、飯守さんを別格尊敬指揮者として、同期二人を合わせたこの4人が、若杉さん亡きあとの、私のフェイバリット日本人指揮者でございます。
尾高さんのラフ2は、今年N響と札響で聴けますぞ。

ラフマニノフ 交響曲第2番の過去記事~たくさんありますなぁ~

「プレヴィン&ロンドン響」
「ハンドレー&ロイヤル・フィル」
「現田&神奈川フィル」
「尾高&東京フィル」
「尾高&BBCウェールズ」
プレヴィン指揮 NHK交響楽団」 
大友直人指揮 東京交響楽団
ロジェストヴェンスキー指揮 ロンドン交響楽団」
ヤンソンス指揮 フィルハーモニア管弦楽団」
ビシュコフ指揮 パリ管弦楽団

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2010年1月22日 (金)

ラフマニノフ 交響曲第1番 尾高忠明指揮

Cake テレビを見ていたら、今日22日は、「ショートケーキ」の日だというそな。

カレンダーで、22日の真上は、15日。
そう、イチゴが乗っかってます、ということで、ショートケーキ。
毎月、22日はショートケーキじゃけんねcake

酒も甘いものも好きの両刀(両糖?)使いのワタクシですから、ケーキは大好きでありまして、さすがに日本酒やビールとは難しいけど、ウィスキーや焼酎を飲みながら食べれちゃう。
でもそれはかつてのお話。
いまは、大人しくイチゴをついばむのみ。
先日のクリスマス・ケーキも、そのほんの一口と、包丁に付いた生クリームをひと舐めで我慢。
翌日帰ったら、もう何も残っておりませなんだ。悲しいお父さん。。。。

Rakhmaninov_sym1_otaka

今日は、昨日までのベートーヴェンとうって変って、ラフマニノフであります。
そう、ベタベタなんです。
でも、ベートーヴェンを毎日集中して聴いて、とてもよかった。またミニ特集やりたいです。

ラフマニノフを得意にしている尾高忠明さん
いまや、もっとも多忙な指揮者のひとりとなっている。
先だっても、N響の正指揮者に就任したばかり。
若杉さんの逝去に伴って、というかいずれは、そのポストに着くものと思われたが、早まっただけ。
さらに、メルボルン響の首席客演就任のニュースもある。

札幌交響楽団の音楽監督はずっと維持してもらいたいし、日本の各オーケストラにも名誉ポストを数々持ち、来シーズンからは、いよいよ新国立劇場の芸術監督に正式就任される。
新国の来シーズン演目は、期待通りと予想通りで、喜びとがっかりが相半ば。
10演目中、新演出が3つ。他劇場からの借用が1つ。あと6つが再演。
年末年始をはさんだ鬼才マクヴィカーの「トリスタン」は、大野指揮にバイロイト級の歌手たちで、世界第一級の上演になることは必至。
アルロー演出の「アラベラ」に、若手歌手ばかりの「コシ」のそれぞれ新作も楽しみ。

 でもやはり、例の事業仕訳の魔の手による予算削減から、再演ものは、日を置かずに取り上げられるものや、有名定番、簡潔舞台作品などが名を連ねる結果となった。

 英国を中心に、世界楽壇にチャンネルを持つ尾高さんの経験値がどのように生かされてゆくか、むしろその次の年度が楽しみであり、予算削減の波の中でいかに手腕を発揮されるか注目であります。

尾高さんが、桂冠指揮者を務めるBBCウェールズ交響楽団(現BBCウェールズ・ナショナル管)とは、もう20年以上の付き合いで、もっとも得意とするエルガーやラフマニノフ、グラズノフなどの交響曲録音がなされたのは、日本人として誇るべきことに思う。
小澤さんや、若杉さんとは異なるユニークな活動であったから。
プロムスでBBC本体のオケを振ってエルガーを指揮した初の日本人なのであります。

尾高さんのラフマニノフは、第2番が完璧なまでに素晴らしく、エルガーの1番とともに、毎年各地で指揮をし続けていて、そのたびに圧倒的な名演をなしとげている。
2番は当然として、3番は実演で聴いたものの、交響曲第1番は尾高さんの指揮でまだ聴いたことがなくて悔しい。。

有名な2番に先立つこと10年前に書かれた1番は、ラフマニノフ22歳の意欲漲る作品だったが、グラズノフ指揮による初演が大失敗に終わり、自信消失。
以来顧みられることなく、スコアも消失してしまい、戦後まで復活することはなかった。
 そんな日陰者だけれども、この交響曲は、ラフマニノフらしさ、すなわち、甘味な旋律とほの暗いロマンティシズムとロシアの土臭さ・・・・、誰もがイメージするものが、しっかり満載で、もっと聴かれていい名作だと思う。

4つの楽章の特徴などは、こちらの以前の記事を参照。
ラフマニノフお得意の、ディエス・イレがここでも響いてます。

尾高さんとBBCウェールズの、すっきりと作為なく、でも共感に満ちた演奏は、曲に没頭しすぎてしまうロシア系の演奏に比べて、私にはずっと親しみが持てるし、聴き飽きない。
きっと英国の聴き手も、尾高さんのロシアものに、同様の思いを抱いたのであろう。
第3楽章の連綿たるメランコリーの表出は、透き通るように繊細で美しい演奏で映えております。もう堪りません。

2番の3楽章に惚れた方は、この1番の緩徐楽章にも泣いてみてくださることをお勧めします。
終楽章の、ジャン ジャンの、ラフマニノフ・エンディングも、わかっちゃいるけど、はまってしまうものがありますぞ。

ますます忙しい尾高さん、体に気をつけて、どんどんご自身の好きな分野を邁進していって欲しいと思います
来々シーズンは、新国で「ピーター・グライムズ」と「パルシファル」を取り上げて、指揮もして欲しいのであります。

 過去記事

「交響曲第2番 尾高忠明&BBCウェールズ CD」
「交響曲第2番 尾高忠明&東京フィル」
「交響曲第3番 尾高忠明&日本フィル」

「交響曲第1番 デュトワ&フィラデルフィア CD」

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2010年1月21日 (木)

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第12番 アルバン・ベルク四重奏団

Beeyhoven_1_2 ウィーンの中央墓地にある、ベートーヴェンのお墓。

いまのところ、生涯唯一の新婚旅行、あ、いや、ウィーン旅行で訪問。
もう大昔ですよ。
当然、アナログカメラでの撮影。

ドイツが東西に分かれていたけど、その年に壁が崩れた。
東西の接点みたいなウィーンは、観光客には見えないものがあったのかもしれない。

そして、日本に帰ってきたら4月に入っていて、消費税が施行されていた。
何かと忘れられない年であります。

地下鉄で中心部からずいぶんと走ったところにある中央墓地。
作曲家のお墓やモニュメントが群生していて、お墓に目移りしてしまった(笑)

Beethoven_quartet_abq 昨年暮れの第9から、ミサソレムニスを経て、ベートーヴェンの後期様式の作品を確認している。
最後は、弦楽四重奏曲を聴きます。
11番のセリオーソ(作品95)以来、十余年が経過。
ロシアの貴族ガリツィン侯爵から、作曲依頼があったものの、第9やミサソレ、ピアノソナタに取り組んでいたので、久しぶりの四重奏曲が仕上がるのは、しばらく時間がかかった。
こうして出来上がったのが、弦楽四重奏曲第12番変ホ長調 作品127
第9が作品125だから、作品126が気になりますねぇ。
調べましたら、6つのバガテルでした。(これも聴いてみなくては)

ベートーヴェンの後期様式をわたしは、明確に言い表せないけれど、弦楽四重奏曲においては、この作品127を含む最後の5作品に大フーガが、後期四重奏曲としてひとくくりにされる。
このあとは、出版順に番号がついているから、作曲順を番号でいくと、12→15→13→14→16ということになるらしい。
実はこの順に聴いてゆくと、一口に後期様式といっても、後へゆくほど解脱して、いやむしろ違う領域へと向かいつつあった、そのあとにも次が来るといったような進行形的なものを感じるがいかがだろうか。
 いずれじっくりと聴きなおしてみたいと思っている。

12番は、さほど難しいことを考えなくても、素直に聴きやすく、そして溢れ出る素晴らしい旋律に満ちている。
なかでも、第2楽章は美しくも心を安寧に導く平安の音楽である。
第9の3楽章のように歌謡性にあふれ、変奏曲形式となっているので、モティーフは単純ながらも、どこまでも続くかのように思われる天国的な調べとなって、思い切り浸りきることができるのだ。
お休みまえに、この楽章を聴いて寝れば、ぐっすりといい眠りがとれそう。

特徴的な和音で開始される素直で明るい1楽章、先の素晴らしい2楽章をはさんで、3楽章は変幻自在のスケルツォ、終楽章は楽想が見えにくいけれど、聴きこむとなかなかに魅力があって、ちょっと幻想的。ミサソレの最後、アニュス・デイに似てると思ったのは私だけ?

全体に明るい基調の12番は、一口に後期群と一緒にできない雰囲気もありますな。

アルバン・ベルク四重奏団の明快で、かつ緻密な演奏は完璧。
かつてはスメタナ四重奏団の演奏を盲信したが、それに比べると、微笑みの要素がかなり高い。
あとは、最近の若い四重奏団の演奏も聴いてみなくてはなりませんね。

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2010年1月20日 (水)

ベートーヴェン 祝祭劇「献堂式」序曲 アバド指揮

6 4_2 今日は、大寒。
暦の上では、今日から立春まで、とても寒いですよ、という日。

でも皆さん、びっくりこかれましたように、春を思わせる気温で、昼休みは、東京は上着なしでも気持ちよかった。
夜は風が出たけれど、それでも寒くなく、家へ帰る途中、風に乗って梅の花の香りがただよっておりましたよ。

そして気になるこの画像は、12月3日に、ミラノのスタジオで収録された音楽対談番組。
発売された「音楽の友」でもレポートされていたし、いつもお世話になっている、アバド・ファンのサイト「con grazia」の掲示板でもご紹介があったもの。
そして、その映像をしっかり拝見しましたよ。
おりからスカラ座で上演された「カルメン」を、スタジオ内に並んだスカラ座フィルをバレンボイムが指揮して、楽曲紹介。観客も入ってます。
このスタジオは、もしかしたら、DGの数々のヴェルディのオペラを収録した場所ではなかろうか!!
そして、驚くほどイタリア語が堪能なバレンボイムのインタビューに続き、マエストロ・アバドがスタンディングの敬意を表され、登場。
バレンボイムのピアノで、ベートーヴェンの3番の協奏曲の終楽章を指揮。
スカラ座フィルを指揮するのは、いったい何年ぶりになるのでありましょうやsign03
きたるべき、マーラーの前哨戦ともいえる感動の組み合わせ。
朋友バレンボイムも、ピアノを弾きながら、思わず腕がうずうずしちゃってる。
こんな二人に睨まれて、オーケストラは大変だ。
イタリア語だからさっぱりわからないけれど、和気あいあいとした対談に続き、もう一人の朋友ポリーニが登場して、さらに対談が進み、ポリーニはピアノは弾かなかったものの、劇若のブラームスの協奏曲の映像が背景に流れて、いい雰囲気の巨匠3人組でありました。
こんなすげぇ番組は、DVDにでもしてもらいたいですな。

Abbado_beethoven_die_weihe_des_haus こちらは、15年ぐらい前のアバドのジャケット。
壮年の覇気に満ちております。
いまや、好々爺然としておりますが、相変わらずその表情は若々しい。

そして納得したこと。
先だって、神奈川フィルの主席チェロの山本さんを囲む会で、小澤征爾さんの目力のすごさ、というお話を氏からお聞きした。
それと同じような人間の目の力というものを、先の巨匠3人にも感じた。
目の力の雰囲気は、三者三様なのだけれど、人を動かす力とでもいいましょうか。。。

今日も、ベートーヴェンの後期を意識しつつ、しかもアバドということで、音楽を選択してみた。
祝祭劇「献堂式」序曲 作品124
ひとつ前の作品123が「ミサ・ソレムニス」、あとの作品125が第9交響曲。
巨大な作品に挟まれて、あまり有名でもなく、交響曲にカップリングされている程度で、地味な作品なのであります。
 祝祭劇とあるからには劇付随音楽なのであるが、大作作曲中に依頼を受けたうえ、納期も短かったため、劇音楽のほとんどを、作品113の「アテネの廃墟」から転用して、序曲と第8曲目のバリトンと合唱の音楽を付け加えて間に合わせた。
ウィーンのヨーゼフシュタット劇場のこけら落し用の音楽なのでありますが、当時は過去作の転用とかアレンジなんてことは気にせず、おおらかなものだったのだろう。
 ちなみに、この劇音楽、すなわち「アテネの廃墟」には、そっちの方の序曲もあるし、両方に超有名な「トルコ行進曲」が入っております。
 アバドベルリンフィルという超豪華な演奏で聴く「トルコ行進曲」は、キビキビとしたもので、ある意味快感を呼び起こしてくれますぞ。

さて、その序曲は、作曲時期からして、さぞや深淵なる音楽なのだろうと思いきや、堂々としていて、明朗快活な明るい音楽なのであります。
力強い和音の連続で始まり、荘重な出だしの前半は感動の兆しを予見させるが、続く主部は早いテンポの二重フーガで、にぎにぎしく、祝祭の雰囲気を盛り上げてゆく。
そのまま一気加勢に、ある意味楽しい雰囲気のまま曲は終結する。
 深みはないが、昨晩のピアノソナタで書いたとおり、ベートーヴェンが簡潔さモットーにして書いたような感じで、わかりやすく、気分も高揚することで、祝典的な序曲としては、大変よく書かれているのではと。

アバドにこうした音楽を振らせると実にうまい。
気まじめなアバドが、ベルリンフィルを相手に、真剣にベートーヴェンに挑んでいるが、いつものように、スリムでしなやかな響きがそこにあるので、実に気持ちがよろしい。
93年の録音。
Abbado_beethoven_ouverturen 一方、アバドは89年にウィーンフィルと序曲全集を録音していて、この序曲もそこに含まれている。
どちらも、オーケストラの持ち味が活かされた、とてもいい演奏だが、切れ味で勝るベルリン盤の方が今は好きかも。

明日も、一日の半分、暖かいらしい。
体調を壊しませんように。

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2010年1月19日 (火)

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第31番 リヒテル

Sagamiwan 冬の相模湾。

でも当地は陽光にあふれ眩しいのであります。

遠く、大島が見渡せる。

Beethoven_richter オペラや声楽、オーケストラ曲ばかりで、この分野の記事が少ない「さまよえるクラヲタ人」。

でもそこそこCDは持っているのですよ。
たまにこうして、ピアノ曲を聴いたりすると、耳にも心にも優しく響くものだ。

先日の、金さん&神奈川フィルの素晴らしかった「ミサ・ソレムニス」の流れで、ベートーヴェンの晩年の心境を同じく映しこんだ作品を聴いてみたくなった。

ピアノ・ソナタ第31番変イ長調を、スヴャトスラフ・リヒテルのピアノで。
番号付きのピアノソナタで1番は、1795年の作品。もっと若いころのソナチネ作品もある。
そして、最後からひとつ前の31番1821年。
生涯にわたって、ピアノソナタを書き続けたベートーヴェンが、到達した晩年の境地は、同時に書きすすめられた「ミサ・ソレムニス」と同じく、透徹した心境がもたらす明晰さと、内面的な深みとともに、シンプルさを追い求める簡潔感がある。

30番以降の3つのソナタは、そうした要素をいずれも持ちながらも、それぞれに個性的な内容が際立っていると思う。
その中では、わたしは、情緒豊かで、より詩的な31番が好きであります。
このあたりは、もう完全に古典のソナタの枠を抜け出してしまっていて、ロマン派そのもの。
リリシズム溢れる第1楽章、スケルツォ的な躍動感ある第2楽章、そして深みある序奏を持つ第3楽章は、続くフーガがまるでバッハを思わせるような教会建築を見るかのような壮麗さ。
久方ぶりに、この曲を聴いて、わたしは大いに感銘を受けたのであります。
短めの曲なものだから、4回も聴いてしまった。

1991年、ルートヴィヒスブルクでのライブ録音でのリヒテルのピアノは、無用な力が抜けきった練達の技を思わせるもので、技巧的にはやや難があるものの、その味わい深さといったらない。
剛毅で、テクニック抜群だったリヒテルも、老いて至った心境は、軽やかなものであったのだろうか。
ポリーニの大理石のような演奏も好きだけど、リヒテルやゼルキンのあまり弾きまくらない演奏もいまや、わたしの気分には向いているようだ。

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2010年1月18日 (月)

ブルックナー 交響曲第7番 スウィトナー指揮

Kobe_port 神戸のポートサイド。
去年の10月に撮影。

昨日1月17日は、阪神淡路大震災が起きて15年。

まだ記憶にあたらしい。
癒えぬ傷は多々あろうと思われるし、震災の余波はまだ終わっていないと思う。

15年前、わたしは名古屋で単身赴任中。
連休で、関東帰宅中の出来事で、その日は東京から長野に出張する予定で、長野に向かう車中、なぜかミヒャエル・プレトニョフがいたのを覚えている。
その連休に入る直前に、神戸に行き、三宮駅前の喫茶店で打ち合わせをしたが、その数日後には瓦礫と帰していた。
震災後、会社施設の管理を担当していたので、現地近くまで行った。
街中、ブルーのシートに覆われていたのが忘れられない。

金聖響さんの、ブログを見て、あの日のミサ・ソレムニスの演奏のさい、震災の被災者とご家族のことを思って指揮したとありました。
その思いは、きっと届いたことと思う。
そして、そんな聖響さんの指揮に、あらさがしするような聴き方をしてた自分が、恥ずかしい。でも、このブログにも書いたとおり、演奏者全員が心を合わせ、聴き手の心にもひしひしと、その思いが届く虚心で素晴らしい演奏だった。

 今日は、そうした思いも込めながら、先に亡くなったオットマール・スウィトナーさんの至芸から、ブルックナー交響曲第7番を取り出してみた。
Bruckner_sym7_suitner_2 スウィトナーは、オーストリアのインスブルック生まれの生粋のオーストリア人。

スウィトナーが初めて来日した頃から、インスブルックという地名が頭に刻みこまれていて、しかもオーストリア=チロルという図式で、ウィーンへの憧れと同じように、いまだ見ぬその街が音楽も盛んで、自然にも恵まれた、さぞかし美しい街であろうとの想像をたくましくしていた。

だから札幌の次の、76年の冬季オリンピックもやたらと覚えているのだ。

そのスウィトナーが、ウィーンやオーストリアでなく、その活動の場を東ドイツを主としたのは、面白いことだし、今となってはとてもよかったことではなかったかと。

インスブルックの場所を見ると、オーストリアの南北に一番細いエリアにあって、北はドイツ、南はイタリアに接する位置関係にある。
スウィトナーも、父親はドイツ、母親はイタリアという出自で、まさにインスブルックの街そのものが、スウィトナーの存在そのもののように感じてしまう。
 インスブルックは舞踏の街ともいわれ、街中舞踏会だらけともいう。

スウィトナーの作り出す明るさと、リズムのよさ。これもまた納得できる。
そして、同じオーストリアンのブルックナーを好んで指揮したのも、当たり前の図式。
もっと早く、録音を開始いていれば全曲間に合ったかもしれない。
いまのところ、正規録音では、1、4、5、7、8番の5曲。
N響放送の私家盤で、2、3番を作ってあるので、あと6・9番のみだった。

スウィトナーのブルックナーは、イメージとしては、ヴァントの峻厳で完璧な演奏とは正反対にあるものと思う。
大らかで、多少のでっぱり引っ込みは無視して流れるままに演奏してしまった感がある。
もちろん傷のない、しっかりした演奏なのだけれども、どこか緩やかで、厳しさとは程遠い微笑みのブルックナーともいえようか。
曲が7番だからよけいにそう感じるのかもしれない。
ヴァントは、ゴシック様式の人を寄せ付けない神の住処のような教会建築。
スウィトナーは、ドイツやスイス・オーストリアのどこにでもある、街の中心にある日常の教会。街の人々が、気易く集うところで、のどかな鐘の音が聞こえてきそう。

実にいいテンポで、まさにスイスイと進行する。演奏時間は64分。
牧歌的な3楽章と、そのトリオの場面がほのぼのと気分がよろしい。
短い終楽章も、すばらしく歌にあふれていて、さりげないほどのエンディングも仰々しくなくていい。
長大な1楽章には鄙びた雰囲気もただよい、澄んだ空気を思い切り深呼吸したくなる。
そして葬送の音楽ともされる2楽章、あの冒頓としたスウィトナーの指揮姿が目に浮かぶかのような素朴さと歌心にあふれている。
ここでは、かなりテンポを落して、じっくりと慈しみをこめて演奏している。
でも、クライマックスを朗々と大伽藍のように仕上げず、あくまでインテンポでさりげなくこなしているところが、スウィトナーらしいところ。
いろんな想いが、心に浮かび、今夜は、この楽章を何度も何度も聴いてしまった。

シュターツカペレ・ベルリンが、柔和さと、克明さを兼ね備えた柔軟なオケとして機能している。響きの適度にある録音も美しい。

ベルリンとドレスデンといった旧東系のオーケストラにとって、スウィトナーは、峠を越えて南から吹いてきた風のような存在ではなかったであろうか。
克明なアンサンブルと無骨なまでの重厚感を持つオーケストラに、ほんとうに必要だったスウィトナー。
スウィトナーもオーケストラから、ドイツの響きをもらったに違いなく、幸せな組み合わせだった。

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2010年1月17日 (日)

神奈川フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会  金聖響指揮

1 今年、初コンサートは神奈川フィルハーモニーの定期演奏会。
Kana_phll_201001 ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」一本。
金聖響さん、昨年暮の第9の流れの中で、是非にも取り上げたかった演目でありましょう。
第9は無味乾燥の思いしか抱けなかったし、音楽監督就任時のエロイカも同様。でもその後の、トリスタンとドビュッシーはすっきりとしてて悪くなかった。
だから、ご本人が著作をものにしたり、全曲録音を果たしたりと、注力中のベートーヴェンには私的には、警戒の念を抱かざるを得ず、曲への期待と演奏への不安の相半ばする気持ちでありました。

聴いた結果から先に述べると、悪くなかったぞ、いや、大変よくできましたなのだ。

金さん慣れしてないワタクシ、知らねば語れぬとばかり、プレトークでも登場の玉木正之氏との共著の2冊(ベートーヴェンの交響曲、ロマン派の交響曲)を購入して、ベートーヴェンの途中まで読んだところ。第9の項目でミサ・ソレムニスのこともかなりふれていて、晩年の作曲者が過ごし活動した家を訪れたくだりや、献堂式序曲を挟んで連続してかかれた、このふたつの大作が「悟り」の境地にあり、ともに広い意味での宗教感のもとにあることなどが書かれてあります。ほかの交響曲も、ピリオド奏法のことも、いろんなことを書いていらっしゃるわけだけど、私には言わずもがなの言葉の洪水のように感じられるのも事実。
しかし、こうしたい、ああしたいという、強烈な意欲と熱意は充分伝わってまいります。

いまのところ、こうした表現意欲が実際に音としてともなってきていないのが、正直なところと思う。
それは、まだ日の浅いオーケストラとのコンビネーションにも要因があるとも思われる。前任の指揮者団に培われてきたことと全く違うことをやろうとしているわけだし。
その点が、神奈フィルサウンドを愛する聴き手(わたしも会員であります「勝手に神奈川フィルを応援する会」~笑)の反発も呼んでいるわけでありますね。
もちろん、私たち聴衆は演奏方法はひとつの手段であり、その音楽が強い説得力を持って心に迫ってくれば、万事御の字なのであって、神奈川フィルの応援のしがいもあるというもの。

「心よりいでて、心へ」
ベートーヴェンがミサ・ソレムニスに託した思い。
この日のコンサートは、この言葉をともなって、心に迫って来ましたよnote
ことに、後半、「サンクトゥス」の神妙な低弦から耳をそばだて、歓喜のホザンナを受け、きたるベネディクトゥスを待つ。この橋渡し的なチェロ、ヴィオラの場面は私的にはいつも注目しているところで、最近ピリオド聴きで練習したノリントン盤よりも、ずっと美しかった。
こういうちょっとしたところに、ノンヴィブラート奏法でも血が通ったようになるのが神奈フィルなのかも。
そして、来ましたよ、この日のハイライト。
聴く前から間違いなく素晴らしいであろう石田コンマスのベネディクトゥス。
良い意味で線の細い、そして繊細極まりないソロは、ベートーヴェンの書いた最高に美しい音楽を余すところなく弾ききっていたように思う。
これまでの長い3章で、少し弛緩していたホールの空気が、ここへきてピリリと締まったわけで、少しお休みの方々も背筋を伸ばして聴き入っておりました。
ともかく久々の至福の時を味わうことができ、ソロに、涼やかな木管、そして素晴らしい独唱にと、わたしは涙が滲む思いであったことをここに記しておきます。

 最終章、「アニュスデイ」もよかった。

ミゼレーレの悲歌的ムードから、一転テンポがあがるが、このあたりのメリハリも性急感は少なめで、自然な感じ。合唱の素晴らしいフーガに、複雑にからむオーケストラ。
ピリオド奏法もこうした場面では、あまり気にならないし、むしろ普通だった。
終結部は、往年の壮麗な演奏になれた耳には、あっさりしすぎだと思ったけど、ノリントンよりはだいぶマシ。

 
冒頭に戻って。
出だしの「キリエ」を聴いたときに、いやな予感も走ったが、だんだんあったまってきた感あり、グロリアでは得意のティンパニの応酬とスピード感あふれる場面が続出。このあたりが、面白いという効果だけに終始してしまうので、今後いかに練ってゆくかでありましょうか。
独唱が活躍する「グロリア」、4人の中では、テノールの吉田さんの輝きと、澤畑さんの清潔であたたかな歌声がずばぬけていた。
お馴染みの押見さんと、新国でハーゲンを観ていらいファンである長谷川さん、いずれも安定感ありました。
一方、合唱の活躍する「クレード」、神奈フィル合唱団、力強く輝かしい。

全曲を通じ、聖響さん、オーケストラをかなり抑えていたのでしょうか。
シンフォニックでありながら、室内楽的な響きを目指していたような感じ。
曲が素晴らしく出来ているから、語らずとも音楽がすべてを言いつくしてしまう訳ではありますが、多くを語らぬ方が、そして肩の力を抜いた方が、金さん、よいのではないでしょうか・・・・・。
そんな風に思ったミサ・ソレの一夜である。

一夜明けて、ノリントン73分と、ベーム87分、ハイティンク79分を聴いております。
聖響さんは77分くらいだった。
こうして聴くと、ベームは歌はあるも遅すぎ。
遅い中にも剛毅なクレンペラーを買い直さなくては。
ベネディクトゥスの美しさは、聖響&神奈川フィルが随一かもnote

2  コンサート終了後、年初の乾杯式がございまして、理事の皆様のお話に、金聖響さん、ソリスト、オケの皆さん、それぞれご挨拶がありました。

「次期シーズンのマーラーよろしく!」の聖響さん。

4 ロビーには、昨年の神奈川フィルの活躍の模様がパネル展示してありました。
それらの中から、あの忘れられないシュナイトさんの最後の神奈川フィル。
壮絶なるシューマンの4番の最後のシーンでしょうか。

思っただけでも、涙がこみ上げてしまう。

こうしてひとつ終わり、また始まったわけであります。

アフターコンサートは、「勝手に神奈川フィルを応援する会」幹事長さまのお取り計らいで、首席ソロチェリストの山本裕康さんをお迎えして、楽しく有意義な音楽談義。
ミサソレ・フェチとおっしゃる山本さんは、演奏会で滋味あふれるチェロを弾き、束ねてらっしゃいました。
懇談でも、その優しさと気配りのお心あふれるお人柄に接し、ますますファンになりましたた。そして同時に、神奈川フィルをますます応援して行こう、若い金さんも見守って行こう、という気持ちになりました。
お疲れのところ本当にありがとうございました。
そして皆さん、毎度お世話になりました。

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2010年1月16日 (土)

モーツァルト 交響曲第40番 スウィトナー指揮

3 静岡県島田市にある「蓬莱橋」。
大井川にかかる、世界一の長さの木造の橋。
1879年の架橋がそのルーツ。
この写真は、以前、従姉が亡くなったときにも出しました。

どこまでも続く一本の橋は、黄泉の世界に続いているかのようなデジャヴ感あふれるもの。

 

1

橋の下は、ちょっと怖い。。。

Mozart4041_suitner

亡くなってしまった、オットマール・スウィトナーさん。
長い指揮棒を、やる気なさそうに振り回すしぐさで、ときおり体を縮ませたり、首をふりふりリズミカルに跳ねるようにしたりで、その指揮振りは結構ユニークだった。
興がものすごく乗ると、手をぶるぶると震わせたりして、そんな姿がオーケストラのやる気をめちゃくちゃ刺激してしまい、劇演が生まれたのだった。

死して思う、本物の芸術家。
飾り気なく、音楽のことしか頭になかったのでありましょう。
西側の人なのに、東で活躍したから60年代は日本のような島国では、完全に埋もれてしまった存在だった。
そのスウィトナーをN響が見つけ出したのは、まさにホームラン級のできごと。
71年に初めてN響定期に登場し、モーツァルトの交響曲や第9を指揮したものと記憶する。
N響アワーで、大木正興さんが大絶賛していた。

こうして、日本の全国放送で人気を得ていったスウィトナー。
ドイツ・シャルプラッテンの数々の録音に加え、同社と共同のデンオンレーベルのPCM録音。これらは、日本のファンが生んだ名録音である、と思っている。

忘れられないモーツァルトの数々。
交響曲第40番を聴いてみましょう。
あまりの名曲だけど、39番と並んで、わたしは好んで聴く交響曲。
アバド、ワルターと並んで、このスウィトナー盤。その3つが一番聴く機会が多い。
清々しく、背筋が伸びるような気持ちのよさ。
ドレスデンのオケからにじみ出てやまない温もり感と、柔和な表情。
音楽はどこまでも、手造り感を失わず、頭でっかちのピリオド奏法なんて、その足元にも及ばない。
中庸とか、適度という言葉は、褒め言葉ではないかもしれないけれど、この柔和なモーツァルトは、最高度の中庸ぶりと適度感に満たされていて、何百回も聴いても聴きあきることがないのだ。
うんうん言いながら指揮をする、スウィトナーの唸り声もしっかり収録さてます。
克明なアンサンブルながら、歌いまくる1楽章に、まさに天上を感じさせる2楽章。
このふたつの楽章が絶品であります。

明日(今日)は、金さんと神奈川フィルのミサソレに挑んでまいります。
そのあとまたスウィトナーの至芸をnotes

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2010年1月14日 (木)

「アルヒーフの軌跡」

Kikumasa 昨年、創業350年を迎えた「菊正宗」。
限定醸造の、大吟醸秘蔵古酒を飲ませてもらった。

大阪北新地にて、昨秋のこと。
ご贔屓のお店には、特別に「菊正読本」とともに、配布されたそうで、ワタクシも久しぶりに顔を出した店なのに、ご相伴に預かってしまった。

ただでさえ、辛口の菊正が好きなのに、大吟醸です。でも古酒入ってるから、すこしマッタリととろみがあって、濃い口。

Yukakiyo
お刺身のいいところ、ちょっとつまんで。
あとは、燗酒で、普通の菊正宗を。

今は、前みたいに毎日大量に酒を摂取しなくなったから、たまに飲むと、本当にお酒ってウマイsign01

こんな画像をみてるとやばいやばい。。。

今週の土曜日は、今年初めてのコンサートを予定しております。
神奈川フィルハーモニーの定期演奏会で、金聖響さんの指揮で、ベートーヴェンミサ・ソレムニスという大曲なのだ。
聖響さん、なんという大胆な選曲なのでございましょう。
いかなることになりますか?
 そこで、以前から開封してなかったノリントンシュトゥットガルトのCDを聴いて練習中()です。
これだけの、まさに「おごそかなる」大曲は、このところおいそれとは聴けないと思っている。大学生の頃に、開眼したこの美しいミサ曲。
あのヴァイオリン・ソロを伴うベネディクトスの場面で、落涙してしまった。
クーベリックとバイエルン放送のFMエァチェック音源でのこと。
それから、ジュリーニ&ウィーン響(FM)、カラヤン&ベルリン(FM)、ベーム&ウィーン(レコード)、バーンスタイン&コンセルトヘボウ(レコード)などを聴きまくり。
CDでも再購入し、リヒターの素晴らしいライブも手に入れたりしております。
いずれにしても、この曲に関しては古楽風の演奏から遠いところで、ずっと馴染んできた私である。

さて、金さん、どんな「ミサ・ソレ」を聴かせてくれますか。
確実に楽しみなのは、コンマス石田氏のソロでございます。

Archiv
聖書の各伝に、「新しいぶどう酒を、古い酒袋にはいれない。そんなことをしたら、酒が皮袋を切り裂いて、酒も袋も無駄になるだろう」とイエスが語るたとえがある。

古くなったものに新しいものは合わない。
パリサイ人ら古い考えの人には、新しい創造はできないということ。

う~む、音楽にも言えるのだろうか??

今日は、変ったところを1枚。
アルヒーフ・レーベル」のサンプラー盤。

だいぶ前に、アルヒーフの何だかのシリーズを集めて、特典でもらったもの。
もう10年以上前。

ドイツグラモフォンの古楽レーベルであるが、1950年代のモノラル時代からあるのでしょうか。
私のような、オジサン世代になると、いやでも「カール・リヒター」。
そして、「マタイ受難曲」といった図式がすぐにイメージされちゃうレーベルでありますな。
ほかには、ヴェンツィンガーやパウムガルトナー、ヴァルヒャ、フルニエ、ニコレ、ホリガー、メルクスなどなど。
そして、その分野もバロックからどんどん遡って、ルネサンスやゴシック、グレゴリオ聖歌までに広がっていった。
デジタル時代になると、ガーディナー、ピノック、コープマン、プレストンらが主流となり、今度は時代を逆流してベートーヴェンまでをカヴァーして、古楽的演奏を網羅するレーベルとなった。

いまや、アバドやラトルまでがDGと境界線がなく活躍しているわけで、かつて、リヒターがベルリンフィルを指揮したハイドンがDGから出たのと逆のことが起きている。
 これは、いまの音楽界を考えるうえで、とても示唆的なことだと思う。
アバドのモーツァルトやペルゴレージは、これがアバドかと疑うくらいに、古楽演奏家のそれそのもの。でも決して窮屈で貧血的な演奏でなく、アバドらしく、そこには豊かな歌と厳しい音の練磨がある。
逆に、多くは聴いてないので、断定的なことは言えないけれど、古楽系の人が、ロマン派以降の作品にチャレンジすると、ユニークな視点を開示するものの、ちょっと歌不足で血が通ってないようになってしまうような気がする。
もちろん、古楽系の人とそうでない人を区分けすること自体がナンセンスであることは百も承知のうえですが・・・。
でも、今後こうしたクロスオーバー現象は、どんどん加速するだろうし、ピリオド奏法も普通に根付いて、ほんとうに味のある演奏も生み出されてゆくものと思う。

こんなことを、書きつつ、懐かしのアルヒーフの過去を思い、私も柔軟な耳と心で、これからも音楽を聴いて行かなくてはならないと痛感。

 1.ベツレヘム教会の鐘の音
 2.コプト聖歌
 3.グレゴリオ聖歌(シオン修道院)
 4. 〃   (ボンロン聖マルティン・ベネディクト)
 5.インスブルクよ、さようなら(ムント指揮ウィーン少年合唱団)
 6.テレプシコーレ(ノイマイヤー)
 7.ムファット 合奏曲(アーノンクール)
 8.クープラン 王宮の合奏曲(ハンブルク・テレマン協会)
 9.ヴィヴァルディ 調和の霊感(パウムガルトナー)
10.バッハ フーガ (ヴァルヒャ)
11.バッハ 組曲第2番(リヒター)
12.バッハ イエスはわが喜び(リヒター)
13.ヘンデル 水上の音楽(ヴェンツィンガー)
14.ヘンデル ヴァイオリンソナタ(メルクス)
15.テレマン ターフェル・ムジーク(リンデ)
16.モーツァルト 旧ランバッハ(パウムガルトナー)


以上、いずれも抜粋。
今聴くと、正直、のどかでユルく感じてしまう。
でも先鋭さのない、いにしえの音楽を奏者が真剣に、かつ楽しみつつ演奏しているのがよくわかる。
ここにはまぎれもなく、音楽が人を感動させる音楽として存在している。
文献や学究から、大きく脱して、われわれが今(当時)聴く音楽として記録された古楽のスタートラインかもしれない。

そして、いま思えば、古楽ジャンルの大幅な拡充は、バロックオペラの盛隆をもたらしたし、ルネサンス時代の音楽の興隆は、アマチュアもふくめて楽しめるようになり、あの時代のイキイキとした人々の顔まで思い起こすことができるようになった。
音楽のジャンルがひとつ生まれたみたいで、これはとても大きなこと。
 そして、その演奏様式が古典やロマン派の音楽にまで及ぶようになっている今。
確かに、いま、音楽好きとして面白い時代に生きている。。。

追)ノリントンのミサ・ソレ、結構、普通です。73分間。
相変わらず、ツィーツィーと弦楽器はやっておりますが、合唱や独唱が入ると救われます。ベネデイクトゥスもかなり美しい、歌ってます。でもエンディングは・・・、あっけない。

ただいま出張中につき、本記事は、スウィトナー死去のニュースを知る前のものであります。

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2010年1月13日 (水)

オットマール・スウィトナーを偲んで

Suitner N響の名誉指揮者として、われわれに親しまれてきた、オットマール・スウィトナさんが、1月8日にベルリンで亡くなったそうであります。
スウィトナーさんは、1922年インスブルック生まれだから、享年87歳。
サヴァリッシュ、シュタインと並ぶN響のドイツ系指揮者団の中では、イタリアの血も流れるオーストリア人ということもあって、見た目の鷹揚な雰囲気も相まって、大らかで明るめの音楽をつくりあげる人だったと思う。
こうしてまた、わたしたちにとって思い出深い演奏家が天に召されてしまった。

得意とした中でも、モーツァルトは絶品。
ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ブルックナー、ドヴォルザーク・・・、残された録音には、いずれも捨てがい魅力がある。

でも、スタジオ録音よりは、スウィトナーは、やはりライブとオペラの人。
N響で聴いた第9のド迫力、ベルリンの来日公演で観た「マイスタージンガー」の職人芸。
このふたつがしっかりと脳裏に刻まれております・・・。

そして、忘れてならないのは、R・シュトラウスともつながりがあったこと。
そして、私には何よりも、ワーグナー指揮者であったこと。

バイロイトでは、ベームと同時期に活躍し、オランダ人、タンホイザーやリングを指揮した。
レコードになったベームのリングが、66年と67年にまたがっているのは、その半分をスウィトナーが指揮していたから。
ベームが、ライン・ジークフリートのときに、ワルキューレ・たそがれ。
次の年はその逆といった具合。
ヴィーラント・ワーグナーも認めたスウィトナーの実力。
ライブで火の玉のように燃えるベームと同質のものがある。
この時のリング、録音がないのだろうか・・・・。

Wagner_suitner 氏のワーグナーから、「ローエングリン」「タンホイザー」「ジークフリート牧歌」そして、「葬送行進曲」を聴いております。
ルネ・コロのアリア集におさめられた、「葬送行進曲」は崇高かつ慈しみあふれた名演である。

急な訃報で、驚いて記事を起こしました。
出張が控えており、追悼特集は機会をあらためて。

オットマール・スウィトナーさん、日本を愛してくれて本当にありがとう。
天上で、ベームとモーツァルトと一緒に一杯やるのでしょうね。
ゆっくり休んでください。
ご冥福をお祈りします。

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2010年1月11日 (月)

ワーグナー 「パルシファル」 ハイティンク指揮

Nanbuzaka_church 南部坂教会。
プロテスタントの質実さ漂う清潔なる教会。
幼稚園も併設されていて賑やかだったり。

Nanbuzaka_3

至近にあるのがドイツ大使館。

昨年は統一20年。
ということは壁崩壊も20年ということで、大使館の壁に写真展が開催されておりました。

去年から持ち越しの「ワーグナー・根こそぎ全作品シリーズ」。
暮れのうちに、観終わっていた「ルシファル」をいよいよ記事にしよう。
もう考えは固まっているけれど、あらためて、DVDをセットし、音楽だけ聴こうと思った。

そして、付録のDGのカタログ・ダイジェストを選択したら、「シェロー&ブーレーズのリング」が始まった。
ほんの10分の超抜粋だけど、久しぶりだから真剣に見入ってしまった。
今見れば奇抜はまったく薄れたけれど、その演劇性の水準の高さと音楽を見事に理解したうえでの説得力が見てとれる。
感激のあまり涙が出そうになってしまった。

(以下、このDVDを映像を楽しみに真剣に購入しようとされる方は、完璧ネタバレですので、注意して下さいませ

Palsofal_haitink
それにひきかえ、DVD鑑賞した「パルシファル」は、ファンタジーのかけらもない、無機的な映像だった・・・・。

そのあたりは、後段にまわして、まずは今回のシリーズでは、作品の成り立ちを軽く記しているので、そちらから。

1876年に、自作専用のバイロイト祝祭劇場のこけら落としを「リング」の初演でもってすませたが、次の年からは財政上の理由もあってバイロイトは閉ざされてしまう。
1880年に、イタリアに赴き、パレルモに滞在。
そこでかねてより構想を練っていた「パルシファル」に取り掛かることになった。
その台本は、1877年には完成しているが、着想自体はもっと若いころで、「ローエングリン」の時代1845年頃までに遡る。
ローエングリンが、グラール(聖杯)の物語で、父の名をパルシファルと名乗るとおり、中世の文学を読みあさる中、トロワの「ペルシヴァル・ルゥ・ガロワ」、ウォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(タンホイザーに出てくる吟遊詩人ですな)の「パルジファル」、不詳の「マビノギオン」という3作を中心として参考にして、「パルシファル」の構想を練っていった。
同時に、もっともキリスト教的たらんとした劇、「ナザレのイエス」の構想も頭にあって、台本化しようとしていたらしい。
さらに、仏教思想にも興味をいだき、仏教劇「勝利者」という作品も起こそうとしていた。

ファンとしては、それらが実現していたら、どんなにすごいことだろうと、想像を廻らすわけであるが、中世の物語・キリスト教劇・仏教劇などの考えが融合されて「パルシファル」の物語として統合されてゆくことになった。
出来上がった内容は、はなはだキリスト教的であるけれど、カトリックの聖餐やプロテスタントのイースターなども同時並行的な盛り込み方であるところが面白い。
舞台神聖祭典劇という厳めしい前置きがつき、バイロイト以外での上演を50年禁じたのも、ワーグナーの拘りである。

 さらに、この劇にあるのは、こうした宗教思想ばかりでなく、ワーグナーがずっと信奉してきた女性による救済(自己犠牲)が、その裏返しとして、クンドリーという二面的な存在によって描きだされていて、誘惑者ヴェーヌスとしての彼女は救済の証しとして、イエスの時代から生きた末に、ここで死ぬこととなる。

憐れや痛みを知り、悟りの境地にいたる、汚れを知らぬ無知なる少年は、まさに涅槃の思想でもあるとされる。

お伽話的な「妖精」、シェイクスピアの喜劇をもとにした「恋愛禁制」、ローマの史実をもとにした「リエンツィ」、中世伝説をもとにしたハイネの小説から起こした「オランダ人」、中世の伝説の「タンホイザー」「ローエングリン」、中世叙事詩にショーペンハウアーの哲学までが織り込まれた「トリスタン」、これまた中世の史実に現実的な人間を配した「マイスタージンガー」、古代北欧神話を巨大な叙事詩とした「指環」、そして神聖劇である「パルシファル」。

こんな風に俯瞰してみると、音楽もさることながらワーグナーの原作選択力の凄まじさがよくわかる。当時の現実でなく、伝説や神話にのっとったところがまたワーグナーらしいところで、そうした幻想と虚構の世界が永々にわたって人を虜にしてきた。

そして音楽は、「トリスタン」で境地を編み出した半音階法と「マイスタージンガー」や「神々の黄昏」で極値に達した対位法や分厚いオーケストレーションの技法が、完璧なまでに融合されていて、それが大オーケストラをピットに入れるにもかかわらず、室内楽的に研ぎ澄まされた印象を与えるところもすごいものだ。

1_3   1882年の1月に作曲が完成し、その夏にバイロイトで初演。
「私の生からの告別の作品」と呼んだワーグナーは、翌年、家族と過ごしていたヴェネチアで、コジマに看取られながら亡くなることとなる。
1883年2月13日であります。

戦後バイロイトでは、この演目は、ヴィーラント・ワーグナーの演出とクナッパーツブッシュの指揮によるものが、絶対的な存在として数十年間君臨した訳だが、いまや過去を否定するかのような非神聖なる演出が次々に登場するようになった。
ヨーロッパ各地でも、それはトレンドとなっているようで、今回視聴したチューリヒ歌劇場での公演も、そうしたものの一環とみてよい。
オーストリアの演出家ハンス・ホルマンの96年の演出。

4_2 まずいえることは、神聖性の排除。
ここには、キリスト教的なものが一切見当たらない。
何よりも「聖杯」が出てこない。
(さすがに槍は出てくるけど、槍に見えない)
ワーグナーが重要なライトモティーフを与えている聖杯はどこへいってしまったのだろう。
昨今、そんなことは当たり前で、私は古くさい聴き手なのだろうが、「リング」における槍や剣と同じように、音楽とツールが密接な関係にある以上、ましてパルシファルで聖杯が無視されるなんてことはワーグナーの音楽への冒瀆と考えてしまうが、いけないことだろうか。
5_2 小姓たちは、どっかの喫茶店か理髪店の店員みたいだし、祈る姿が登場人物たちにはまったくない。聖杯守護の騎士たちも、妙な杖をついて常に何かを探している様子で落ち着きなく、聖餐式においては、超でかいパンと、まるでソムリエのような小姓が注ぐボトルワインである。 アンフォルタスは、白いスーツを着たまるで病人。
どうも新興宗教のようである。
 クンドリーは、1幕2幕の前半は、黒いパンツスーツのビジネス・ウーマン姿。
2幕の誘惑者としては、ドレス姿の演歌歌手のよう。
3幕ではなんと、修道女になってしまった。胸にはクリスタルの十字架を付けてると、思いきや十字でなくT字であった凝りようである(笑)

小姓たちの一人に、「困ったチャン」がいて、彼がいつも人より遅れてるし、グルネマンツに手取り足取りの指導を受ける。
グルネマンツの長大な昔話のお披露目では、舞台にデスクがせりあがってきて、そこで小姓たちが手帳を取り出して、全員メモメモ・・・・。何だかねぇ~
困ったチャンも、ちょっと遅れてみんなにならってメモ。
3幕では、小姓たちも冒頭出てきて、みんな干からびたようになってしまって、彼なんか頭からジャケット被っちゃってます。

それと殺伐とした、ほとんど何もない舞台に、現代の普通の衣装。
この無機質ぶりも、古くさい私には気にいらないものだった。
舞台奥には、時おり説明的な単語が表示される。
「WASSER」「TOD」「BLUT」「QUELL」・・・、皆さん独辞書で調べてみてくださいな。
これもまた陳腐な手法に思われた。
8_5 10_4
陳腐といえば、2幕で、クリングゾルが槍を投げ、パルシファルは受け止めるところ。
もちろん、そんなスポーティな芸当ができたのは、かつてのP・ホフマンとマツーラだけ。
クリングゾルは、左手でよろよろしており、真ん中に突っ立つパルシファルに向かって、右手上空から、長~い槍が斜めに降りてきて止まる。
止まった瞬間に、長すぎなものだから、槍がユラユラとだらしなく揺れっぱなし。
これには笑った(笑)。
もしかしたら、これもまた、槍からの神聖性のはく奪なのかもしらん(としたらすごいけど)
ついでに、記すと、花の乙女たちは、ワルキューレか安キャバレーのホステスみたいで、手を上にあげてヒラヒラと登場し、色とりどりのプレートを持って誘惑し、クリングゾルの陥落とともに、手をヒラヒラさせて沈んでゆく、極めてユルイ誘惑の乙女たちである。
 親玉クリングゾルも、普通のオッサンで、ことにハウシュタインというバリトンがどうもいけない。動きがヨタヨタもっさりしてて、演技も鷹揚で古くさく、キレがないこと夥しい。
パルシファルの攻撃に兵士たちを鼓舞するところなんて、メガホンで声掛けですよ(笑)
クンドリーの求めに応じて、最後に出てくるところなんて、梯子に乗りかかったままユルユルと登場し、迫力のないことおびただしい。
声も軽すぎて暗さが欲しい、この方はアンチ・クリングゾルで、ミス・キャスト。

あぁ、どうしよう。文句ばっかし。

14_2 3幕、パルシファルをグルネマンツとクンドリーが、泉の水(水槽が登場)で清める場面。
パルシファルは寝そべったままで不遜。(これまた反宗教か?)
クンドリーに洗礼を施すところも、聖水を掛けてあげるのでなく、少し離れたところから、手を振るうようにピッピッと払うだけで誠意もクソもない。
 16_2 でも聖金曜日の場面は、作りものめいてはいるが、色彩的に美しいものであった。
先の水槽に光があたり、壁に虹色に反射する。
乙女たちのプレートカラーがモザイクのように壁に浮かびあがる。野の花のことかしらん。
そして乙女たちが、手に鞄を下げて旅立ってゆく姿が浮かびあがるという寸法だ。

20_2 大団円では、傷の癒えたアンフォルタスは、平和な顔でこと切れる。
舞台は明るくなり、さすがに感動的なムムードに包まれる。
パルシファルやクンドリーを中心に、全員が手をつなぎ人の輪ができる。
でもこれで終わらず、油断がならない。
輪からパルシファルが抜け出し、あの「困ったチャン」を選んで舞台を横切り連れて去って幕となる。。。

自分の無知なる後継者を選びだした、ということか。
では、彼がローエングリンなわけだ。
この浅薄なアイデアには呆れてしまった。。。

それと登場人物たちの描き方にも特徴がなく、みんな普通の人。
唯一アンフォルタスが、フォレの独特の風貌と絶唱もあって苦悩の教祖さまのように窺える。

てな訳で、舞台には、さんざん不満を書き連ねてしまいました。

3_2 しかし、このDVDには、ハイティンクの指揮があるのであります。
これがあるから、私は救済される。
私は、ハイティンクのパルシファル」を聴いたのである。
前奏曲は、ずっとピット内を映し出し、指揮者を見上げる団員の尊敬に満ちた眼差しが冒頭から感じられる。
音楽は、4時間にわたって、少しも弛緩せず、中庸のテンポを維持しながらも、常にふくよかで、温かみに満ちたサウンドが聴かれ、劇したところも、作為的なところも一切ない。
歌手の呼吸を読みつつ、歌いやすい背景も築き上げていて、間合いも実によろしい。
そう、我々が知っている、いつもハイティンクの音楽が、このパルシファルにおいても普通に聴かれるのであります。
ヘンテコな舞台なんて、関係なく、ハイティンクはハイティンクで、ワーグナーの神々しい音楽を立派に演奏している。
聖金曜日の音楽にいたるスリリングなまでの音楽の高まりと、その後のあまりにも美しい音楽は、もう何度聴いたかわからないこの音楽に、最高の感銘と涙線のうるむ感激をもたらしてくれた。
歌手も聴衆も、カーテンコールに登場するハイティンクに最大の敬意を払っているのがよくわかる。
映像は2回見たけれど、2回目からは、舞台が気にならなくなったし、3回目からは映像を消して音楽だけ聴くようにした。これでよい。

11_2 歌手たちは、ベテランと旬の歌手とが混在。
ベテランでは、サルミネンのグルネマンツが安定感あり、以前のような威圧的な歌い振りが潜まって、情のこもったグルネマンツになっていた。
予断ながら、歳をとって、この方、林家木久蔵に似てきた(笑)
 あと、素晴らしいのが、イヴィンヌ・ナエのクンドリー。
美人で舞台姿もいい、スイスのメゾだが、とても女性的なクンドリーで、妖艶さよりは誠実が似合いそうな雰囲気。強烈さはないが、2幕の長大なソロはクリアーボイスで聴きごたえ充分だった。
彼女は、メットの来日公演で素敵なフリッカを聴いているのだ。
 そして、先に挙げたミヒャエル・フォレの性格的なアンフォルタス。
ミュンヘン(新国)のヴォツェックがよくお似合いの風貌と、人物へ同化した激しい歌いこみは、観て聴いて感銘を受ける。この人は、ますます活躍するバリトンであろう。
 ヴェントリスは、その風貌にかかわらずリリカルな声質で伸びもよく、清潔でよいパルシファルだ。バイロイトでも現在歌っているが、今後ローエングリンやヴァルターでも活躍しそうな好漢である。ただ立っているだけ風の演技は、演出ゆえなのだろうか?

以上、不満が半分だけど、それも映像があるゆえ。
音楽だけなら、90点以上の素晴らしさであります。
これで、ハイティンクのワーグナーは、「タンホイザー」「マイスタージンガー」「リング」「パルシファル」と揃った。
あと、3作で有名作は完成するけど、コヴェントガーデンの記録にもないものかなぁ~。

「妖精」以降のワーグナー舞台作品をすべて取り上げました。
あと少し、オペラ以外も聴いて、完全制覇であります。
そして、また「リング」を聴きたい。「トリスタン」も聴きたい。
終わりもまた、始まりでありますsign03

「パルシファルの過去関連記事」

 演奏会形式もふくめて、通算5回の舞台体験。
 記事もたくさん書いてますな。いつも同じことばかり書いてる。
 この春は、東京で演奏会形式公演があります。

「ヨナス・カウウフマン&アバド」
「あらかわバイロイト2009」

「エド・デ・ワールト オーケストラ版」
「ホルスト・シュタインを偲んで」
「バイロイト2008の上演をネットで確認」
「レヴァイン バイロイト1985 CD」
「スパス・ヴェンコフ ワーグナー・アリア集」
「ジーン・コックス アリア集」
「ポール・エルミング ワーグナー・アリア集」
「ジェス・トーマス ワーグナー・アリア集」
「クナッパーツブッシュ バイロイト1964 CD」
「クナッパーツブッシュ バイロイト1960 CD」
「ペーター・ホフマン ワーグナー・アリア集」
「ジェイムズ・キング アリア集」
「クナッパーツブッシュ バイロイト1956 CD」
「ルネ・コロ ワーグナー・アリア集」
「バイロイト2006 FM放送を聴いて」
「ショルティ ウィーン・フィル CD」
「アルベルト・ドーメン ワーグナー・アリア集」
「リオバ・ブラウン ワーグナー・アリア集」
「エッシェンバッハ パルシファル第3幕 CD」
「ヨーハン・ボータ ワーグナー・アリア集」
「アバド ベリリンフィル オーケストラ抜粋」
「バイロイト2005 FM放送を聴いて」
「クナッパーツブッシュ バイロイト1958 CD」
「飯守泰次郎 東京シティフィル オーケストラルオペラ」

本日の記事、超ロングですいません~。

 

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2010年1月10日 (日)

ヴォーン・ウィリムズ 「田園交響曲」 B・トムソン指揮

Uzu柚子」です。
実家の庭にたくさんなっておりました。

いくつかもらってきて、煮物や汁ものの香り付けに使っております。

今夜あたりは、お風呂に浮かせようかとも思っております。

どちらも、ほのぼのとした気分になりますなぁ~。
春から夏、和食には、木の芽だけれども、冬は柚子がいい。

Vaugn_williams_sym3_thomson 新春さわやかシンフォニーは今日が最終回。
まだまだ、さわやかにしてくれるシンフォニーはたくさんありそうだけれども、ほかのシリーズものも待機してるし、通常業務に戻りましょう。

今日は、番号順に取り上げているヴォーン・ウィリアムズ(RVW)の、田園交響曲」でまいります。
番号でいうと、交響曲第3番「田園」ということになる。

RVWの交響曲は、ベートーヴェンと同じく、9曲あるけれど、偉大な先達と同様にそれぞれが一曲一曲で内容の異なるものとなっている。
でも純音楽としての交響曲というよりは、表題性の強いものも多いのも特徴で、番号として呼ばず、表題交響曲として呼ばれる。
「海の交響曲(1番)」、「ロンドン交響曲(2番)」、「田園交響曲(3番)」、「南極交響曲(7番)」というような感じ。

田園の副題を持つ音楽って、結構あります。
当然に、ベートーヴェンの交響曲にピアノ・ソナタ。
バロック期のクリスマス・コンチェルトは「パストラーレ」という楽章があるがゆえに、クリ・コン(クリスマス・コンパじゃないよ!)と呼ばれるようになったし、バッハ、ヘンデルのオラトリオでもシンフォニアとして挿入されている。
これらは、イエスが生まれたときに星を見た羊飼いにまつわる意味でのこと。
古くは、田園劇として宗教劇にもルーツをさかのぼることができるかもしれない。
あとは、ずっと下って、本日のRVWの田園に、ドップラーのフルート曲(ハンガリー田園幻想曲)や、プーランクのチェンバロ協奏曲(田園のコンセール)などが思い浮かぶところ。
 ほかにもありそう。

こんなわけで、田園にまつわる音楽はいくつもあるけれど、こうした流れを考えてみると、その根底には神や自然に対する感謝の念があるのがもしれない。

RVWの「田園交響曲」は、でもベートーヴェンのような感謝の音楽ではない。
この曲を着想したのは、北フランスにいたときのことで、その内容は以前のボールト盤の記事に書いたとおり。
英国のなにもない、なだらかな緑の丘や、厳しい大地などの心象風景が根底にあって、第一次大戦亡くなった人々へのオマージュも織り込まれている。。。

第1楽章「モルト・モデラート」、第2楽章「レント・モデラート」、第3楽章「モデラート・ペサンテ」、第4楽章「レント」
こんな按配で、全編これモデラート。ゆったりとした流れの中に、明確な旋律線もつかめないまま、たゆたうように音楽は進行する。
RVWらしい、異国情緒も感じさせるペンタトニック調もあり、鄙びた田舎風の旋律も顔を出し寂しげであったりする(1楽章)。
そうした中で、トランペットが営巣ラッパ風の、これまた寂しいソロを吹くのが印象的で、物悲しい(2楽章)。これを聴くと、わたしは刃に倒れ伏しているトリスタンの心にある北イングランドの海と城の風景を思い起こすことができる・・・・(行ったこともないのに)
テンポが唯一あがるスケルツォ楽章は、民謡調で懐かしい響き(3楽章)。
でも終楽章には、また前半のような静かでゆったりとした雰囲気に戻る。
ここでは、ソプラノの無歌詞の歌が心に沁み入るように歌われ、哀歌のようにも感じさせる。やがてオーケストラが全体を回顧するかのように時にボリュームをあげつつ様々な表情を示すが、最後にはそれも静まって、弦の持続音の上にソプラノの歌が入り、フェイドオウトしながら静かに曲を閉じる。
まるで後ろ髪を引かれるかのような印象的な終結・・・・・think

1921年、RVW49歳のときに完成。
これより前、1904年の、交響詩「沼沢地方にて」In the Fen Country)も、この交響曲と同じようなムードの情緒あふれる曲。
そして、のちの交響曲第5番も、静かで心癒されるシンフォニーであります。

      ブライデン・トムソン指揮 ロンドン交響楽団
        S:イヴォンヌ・ケニー
                       (87.11@ロンドン)

ブライデン・トムソンの男性的で、鷹揚な指揮で聴く「田園交響曲」は、ボールト以上にゆったりとした時間が流れてゆくのを感じるし、スコティッシュらしく自分の見てきた風景そのものを、慈しむかのようにじっくりと再現しているかのよう。
私は、トムソンが大好きで、彼の音源をかなり揃えているが、思わぬ情熱のほとばしりをい感じることがあって驚くときもある。
録音は、交響と声楽作品ばかりだが、きっとオペラを振っても面白い人だったであろう。
91年に63歳で亡くなってしまった。
ヒコックスとともに早世が悔やまれる指揮者で、ハンドリーもふくめて、英国音楽の使者でもあったトムソン。
 誰が英国音楽の指揮の伝統を引き継いでゆくか・・・・。
M・エルダーとワーズワース、Jジャット、ロイド・ジョーンズ、ボストック。
この人たちに期待したい。あと、ボルトンやマクローシュも変貌するかもしれない。
A・デイヴィスやノット、テイト、ラニクルズらはオペラや世界基準の指揮者になってしまったし、もちろん、ラトルとハーディング、ノリントンは別次元。

RVWの交響曲全曲は、ボールト、プレヴィン、トムソン、ハイティンクと4種を気分に応じて聴いている。あとハンドリーも聴きたいところだし、未完のヒコックスとノリントンも欲しいし、定盤のサー・アンドリューを持っていないのはいけません!

6
相模湾。
国府津の駅のそばに無粋なマンションが出来てしまい、こうして景観を壊すことおびただしい。

Nanohana
菜の花をもう一度UPしときます。

これにて、さわやかシンフォニー終わり。
ありがとうございました。

さわやかさとは、程遠い音楽も続々出しますよ(笑)

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2010年1月 9日 (土)

ビゼー 交響曲ハ長調 ミュンシュ指揮

Tsubakiほころび始めた椿の花。

濃い緑の艶々した葉と赤がきれいですなぁ。

このあと、花びらの中から黄色いおしべが顔を出し、えもいわれぬ3色の取り合わせになる。
椿姫とはよくいったもの。
咲き終わると、この花まるごと、落っこちちゃう・・・・。
落椿となる。
何だか切ない感じの「椿の花」でありました。

Bizet_sym_munch 切なくなってもいらんない。
今日も、新春さわやかシンフォニー行きます。
「さわやか」の定義も、濃い目の演奏なんかを選んだりしちゃって、ここへきていろいろだけど、いかにも若書き風で、青春してますの交響曲はコレsign01

ビゼー交響曲ハ長調
かつて、ハ長の交響曲といわれたりしてたアレですよ。

ビゼーは、1838年に生まれ1875年に亡くなっているから、37歳の早世。
「カルメン」や「真珠採り」のオペラや「アルルの女」や「パースの娘」などの劇音楽などがあって、劇的で詩的、そして充実した音楽を残しているものだから、そんなに早く亡くなっているなんて、意外と思わなかったりする。
それと、あの横顔の写真が結構オジサンに撮られているもんだから・・・・。

1855年、ビゼー17歳のときに書いた習作的な交響曲だが、世に出ることなく、そして本人も忘れたんだか、自信がないんだかで、ずっとお蔵入りになってしまった。
日の目を見たのが、1935年。実に80年後に、ワインガルトナーによって初演されているレア・シンフォニーなのであります。
 ビゼーにはほかに数曲、交響曲が見つかったりしていて、順番をつけるとこちらは交響曲第1番となるようだ。

古典的な4楽章形式を守り、シューベルトやメンデルスゾーンの雰囲気もにじみ出た、ある意味素朴な交響曲で、演奏時間も30分あまり。
フランス色があんまり出てないのが、私にはちょっと不満だけど、どろんどろんした「カルメン」を聴くよりは、ずっと気持ちがいいし、そう、さわやかだからいいのであります。

一番好きなのは、ノリノリの終楽章。
このノリのよさと、テンポ感はまさに果てることのない常動曲のようで、ずっとずっと続いても悪くないと思わせる好感度の高い音楽なんだ。
それから、オーボエのやたらに活躍する第2楽章。
これは、のちの「アルル」や「カルメン」の抒情的で木管のソロが活躍する音楽の前触れのようである。
南フランスの色香とシューベルトがまぜこぜになったような第1楽章に、これまたシューベルトのような素朴な第3楽章のスケルツォ。

まぁ気持ちのいい交響曲だこと。

実は、この曲の定盤である、マリナーやハイティンク、スウィトナーやアンセルメ、デュトワなどを持っていませんし、聴いたこともないのです。
唯一あるのが、シャルル・ミュンシュフランス国立放送交響楽団の1枚。
これは、レコードで長く親しんだコンサートホール・レーベルのCD盤。
あのレーベルらしい、モコモコとして詰まったような音のする録音であるが、そうしたアナログ感が、この曲にうまく符合してしまう。
剛毅なミュンシュが、肩の力をふっと抜いて、力まずに柔らかい表現に徹したビゼー。
機能的で無個性になる前のフランスの香り漂う放送オケが、いい感じで作用している。
若書きの交響曲に、大人の演奏。
これもまた味わい深いもの。

Suisen
水仙の花も咲き始めました。

こちらは無臭の椿にくらべて、甘い芳香を周辺に漂わす、ある意味アヤシイ花なのでありますな。

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2010年1月 8日 (金)

ドヴォルザーク 交響曲第8番 バルビローリ指揮

1 私の郷里の神奈川の小さな町では、小さな山の上に、もう菜の花が咲いております。

お正月3日。
箱根駅伝見物の帰りに娘と登頂。

向こうには、相模湾、そして真鶴半島。
伊豆、箱根、富士、丹沢(大山)が360度ぐるりと見渡せます。

4前にも書いたことですが、この山の麓の駅前には、小学校があり、そこが私の母校。
 当時は、山頂にこんな公園が整備されてなくて、あるのは神社だけ。
日本武尊が海路やって来たときに嵐に会い、妃の弟橘姫命が入水し、嵐を沈めたのが、相模湾。

櫛が流れ着き祀ったのが、ここ「吾妻神社」で、日本武尊が「あぁ、わが妻よ・・・」と嘆いたことから、この山は「吾妻神社」と言われております。

着物の袖が流れ着いた海岸が、「袖ヶ浦海岸」ですが、数年前の台風で、浜辺が消失してしまいました(悲しー)。
そして、海沿いには、「橘」という地名もあるんです。

ちっちゃな町だけど、これだけが自慢かな。
あとは小さなホールがあって、ここではコバケンもきちゃったし、来月は、安永徹さんもやって来る。
「ちあきなおみ」や「欽ちゃん」も住んでるんですよ(笑)

ふるさと自慢は、このへんにして、今日のさわやかシンフォニーです。

Dovorak_sym_barbirolli ドヴォルザーク交響曲第8番ト長調
いまや、「新世界」と並んでドヴォルザークの超人気曲となっておりますね。

私が子供のころは、いまほどでなく、新世界一本。
たまに「イギリス」なんて、らしからぬ呼び名で取り上げられていた。
イギリスの出版社から出されたことから、「イギリス」と呼ばれていたが、全然英国じゃぁなくて、まさに「ボヘミア」ののどかな自然を思わせる桂曲なのです。

例によって、昔話から・・・。
私のこの曲の初聴きは、1970年。
その2年前に、「新世界」によって電撃的なクラシックとの出会いをしたワタクシ。
同じドヴォルザークということで、テレビ放送された「8番」の演奏にかじりついた訳だ。
テレビにマイクを押しつけちゃって、「みんな静かに」、と家族を制しテープレコーダーに録音して、飽くことなく聴き続けたのであります。
第3楽章の舞曲風の優美なワルツがことのほか気に入りましてございます。
岩城宏之とNHK交響楽団の演奏でありました。

その後たくさん聴いたけど、ずっとずっと聴きたいと思っていた演奏が、バルビローリハルレ管弦楽団のもの。
これは、音楽評論家のデーヤンこと、出谷さんが、推薦しまくっていた演奏で、レコードでは廉価盤として、パイレーベルをテイチクが出していたものがあったが、長らく廃盤で、CD時代になってようやく手にすることができたアルバムなのだ。
デーヤンは京都在で、一度、京響のコンサートでCafe Elgar店主さまのご紹介でお会いすることができた。今思えば、この演奏のお話を聴かせていただくのだった。

ステレオ初期の録音で、音は鮮明ながらも時おりカスレたり混濁したりするので、お世辞にもよい音とはいえない。
でもですよ、この演奏は録音状態なんか超越して、ともかく素晴らしい。
素晴らしいなんて表現は、わたしのブログの常套句だけど、この8番の自分の思う理想形的な演奏に思うのだ。
知・情・意、ずべてが整っていながら、情の部分が勝っている。
バルビロ-リの音楽にあてはまる図式だけれど、イメージとしては、ウィーンフィルとの名盤のブラームス2番や、シベリウスの1番の情熱、「蝶々夫人」の悲しみの激情などを思い起こして欲しい。
バルビローリの録音によく聞かれる「唸り声」も隋処に漏れてきます。
音楽を一音一音、慈しみながら、気持ちを込めて歌いつくすバルビ節満載。
これがイコール、ドヴォルザークの郷愁みあふれた旋律の数々と完璧なまでに結びついて、聴くわたしたちを幸せの境地へと誘ってくれる。
 2楽章と3楽章が、ともかく最高。
思い切りゆったりと、愛情たっぷりそそぎこまれた、このふたつの楽章には、滋養や養分がたっぷりとしみ込んでいて、それをただただ気持ちよく受け取るのみ。
ほんと、気持ちがいいんだからsign01
1楽章の弾むリズムと、コーダのアッチェランドも素晴らしく、これはまさにオペラ指揮者のサー・ジョンの手腕。
終楽章の人懐こい旋律が変奏を重ねる中にも、どこかにこやかなバルビのご尊顔が浮かぶようで、オケは下手くそな場面があるが、そんなことも味わいのひとつになってしまう。
最後に切る大見得も、バルビローリならではで、ものの見事に決まってしまう。

新春さわやかシリーズとしては、やや異質かもしれませぬが、曲が本来、さわやかで和み力があるので、お許しを。

1889年、これもまさに世紀末の時代の音楽なのです。
マーラーは2番を作曲中だった。
ほのぼのと、いい曲でございますなぁ~

今日のドヴォルザーク、迷うことなくバルビローリを取り上げたけど、ブロムシュテットとドレスデン、スゥイトナー、ジュリーニ(シカゴ)、アバド、チョンさま、小澤さん、プレヴィン、セルなどなど、わたしの好きな演奏がたくさんありますよ。
このバルビローリ盤は、後期3曲と合わせて廉価にて入手可能であります。

追記)
今朝の民放でも小澤さんの食道がんの会見を放送し、世界の小澤という略歴を紹介していた。さすがはマエストロ小澤さん。
でもこの局は、表面的な報道に終始していて誤解を呼ぶこともしきり。
たとえば、アメリカでの活躍を映像はボストン響なのに、アナウンスはサンフランシスコやシカゴで活躍と言ってたし、日本人としてウィーンフィルを初めて指揮したともあったが、確かにザルツブルクで「コシ」を振ったのが初かもしれないが、日本人としての快挙はウィーンフィルの定期に初めて登場した岩城さんの方が定期演奏会ゆえに大きな出来事に思う。
それと、小沢幹事長との会見も放送し、天下りはけしからん的な話し合いをした、とかいう内容になっていた。それもひとつだが、小澤さんの思いは、事業仕訳けによりオーケストラへの援助が薄くなることを危惧して会見したはずなのに、テレビは一切そのことには触れず。
 明らかに報道にミスリードされてしまった内容に朝から憮然とした次第。

いつもお世話になってます、romaniさんと、minaminaさんが、小澤さんのドヴォ8を期せずして取り上げてらっしゃいます。嬉しい選曲に素敵な演奏の選択にございますね。

3

この菜の花の向こうは、桜の木。
春には、まだ残る菜の花と桜が同時に楽しめます。

普通にスニーカーでヒョイヒョイと登れます。
麓のコンビニで、ビールとお弁当を仕込んで、みなさんどうぞお越しくださいnote

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2010年1月 7日 (木)

シューマン 交響曲第1番「春」 クーベリック指揮

Fuji_201012 2010年1月2日の富士山
日も傾き、西日が眩しくて雪の白も飛んでしまった。

シルエットだけでも美しい富士山ですfuji

Ume そして、実家の庭には、紅梅の蕾がほころんできております。

春はまだ遠いし、寒い冬はまだ続くけど、気分は春bud

雪の降る地域の皆様には申し訳ありません・・・・。

Schumann_sym1_kubelik

本題に入る前に、気になるニュース。
小澤征爾さんが、食道がんということで、記者会見を今日7日行った。
早期発見ということで、治療にのぞんで、夏までの6か月間の活動休止。
今の医療からしたら、まず大丈夫でありましょうが、心配なことであります。
なんといっても、世界の小澤は、わたしたち音楽愛好家の小澤さんでもあるから。
 私はいやでも、胃がんを克服した、小澤さんの朋友、クラウディオ・アバドを思った。
そしてアバドが、そのあと異常なまでの音楽表現の高みに凄味をもって上り詰めたことを。
小澤さんの、本復とそのあとの活躍を切にお祈りいたしますconfident

さて、本題の「新春さわやかシンフォニー」は、おそらく大方の予想通りのシューマンでした。
交響曲第1番 変ロ長調「春」であります。
メンデルスゾーンの1番もそのさわやかさでは、負けていないが、今年のシューマン・イヤーも鑑み、こちらを選択。
そして、久しぶりに聴くと、やっぱりいいわ、シューマンの交響曲。
聴くなら最近は、2番か4番で、ほかの2曲、特に「ライン」は何だか苦手意識があって、ジュリーニとロスフィルのカリフォルニアサウンドをもってしても、鳴りの悪さやとってつけた5つの楽章の配列がどうもいけなかった。
そんな私がびっくりしたのが、シュナイト&神奈川フィルの南ドイツ風でかつ祈り溢れる名演奏。
1番の同コンビの演奏は聴き洩らしてしまった私。
イメージの中にあるのは、実は、30年以上前の高校時代に聴いたレコード。
それが、クーベリックベルリン・フィルの演奏。
一般的には、後年に録音されたバイエルン放送響のCBS録音でしょうが、私にはベルリン・フィル盤の方が耳になじんでいるんだ。
というか、バイエルン盤は持ってないし聴いたこともないイケナイわたくしなのです。
シューマンのイメージからすると、ふくよかで柔らかなバイエルンや、いぶし銀のドレスデン、マイルドなウィーンなどを脳裏に浮かべてしまうが、ベルリン・フィルは、その機能美ゆえにシューマンがシューマンらしくなく、美しく飾りたてられてしまう感がある。
(カラヤンの全集ゆえであるが、カラヤン再評価中のわたくしとしては、カラヤンのシューマンも克服しなくてはならないのであります)
 そんなベルリン・フィルを虚心に指揮して、たくまずしてシューマンの馥郁たるロマンティシズムと、ぎくしゃくしたオーケストレーションの面白さを描きだしてしまったのが、クーベリックなのだ。

イエス・キリスト教会の録音と思われる響きのよさと芯の強さは、まさに60年代のベルリン・フィルの音。当時の特徴的な木管の音色は、カラヤンの数々の演奏で慣れ親しんだものだけど、クーベリックが指揮すると、ほのぼのとした自然の息吹を感じる。
この演奏で素敵なのが、第2楽章の緩やかな歌に満ちた晩歌。とてもビューティフル。
それと第3楽章の思いきりテンポを落として歌われるトリオとその終結部。
第4楽章へのゆったりとした橋渡しも、昨今のキビキビした演奏からは、まず味わえないもの。ホルンの光沢ある音色もまさに、ベルリンフィル。
第一級のオーケストラから、ちょっと鄙びたサウンドを引き出してみせたクーベリックの人間性がうかがえますな!

1841年、シューマン31歳の作品。
日本は江戸は天保年間。天保の改革は水野忠邦さんだったでしょうか。
池波正太郎の世界でありますよ。
その時分にシューマンは、ロマンあふれる作品を次々に繰り出していたのございます。
春の始まり~夕べ~楽しい遊び~たけなわの春、といった楽章ごとに副題があるけれど、あんまり気にしなくても、季節の幸せが横溢しているのを、どなたも感じ取ることができるはず。
久しぶりに、懐かしい演奏を聴いたのは、外盤廉価CD。
DGのオリジナルでも復刻していて、音はそちらの方がいいかも。

Osechi 特別公開、実家の「おせち」酒宴。
3日とも異なる料理、いや我が家系にとっては「つまみ」が供せられ、夜はずっと飲み続けるのだ。
 お年頃の姪っ子たちもやたら飲むし、老母も強い。
我が子も強い(あれっ??)

敷物が、もらいものペルシアの敷物で、まがまがしいですなぁ。
豚もいるし。

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2010年1月 6日 (水)

シューベルト 交響曲第5番 ケルテス指揮

Daishi_9 だるまッsign03

ダルマ、ダルマ、だるまの渦だ。

川崎大師もダルマさんで有名なのだ。

よく見ると不思議な存在。
最近はカラフルなダルマも増殖中。

Daishi_8

は縁起がいい。

笑って大らかに過ごせるいい年にしたいもの。

Schubert_sym5_8_kertez 赤いCDケースなんて、いまはもうないでしょう。
同じくブルー(紺)も。
主流は黒か、透明か、せいぜい白。
おまけに、ヘンテコな絵のジャケット。
シューベルトのカリカチュアで、インクが切れちゃったぁ、の図。
これで、交響曲が1曲、未完成になりましたとさ。
ははっ、面白いね。
今から20年前の外盤CDで、このデッカのウィークエンドシリーズはこの手の変な絵ばかりだった。
当時安くてかなり揃えたけれど、それでも1500~1800円くらいしたんじゃなかったかしら?

今日の新春さわやかシンフォニーは、そう、シューベルト交響曲第5番変ロ長調です。
やはり、さわやか軍団は、みんな長調ですな。
シューベルト19歳の交響曲は、この前の第4番が「悲劇的」と呼ばれ、しかも同じ頃に書かれたのに正反対の、思い切り青春してるような羽ばたきの交響曲。
この年に、ベートーヴェンは第9交響曲をものしている。
この明るく健やかな交響曲を聴くと、ベートーヴェンよりは、モーツァルトやハイドンに近いシューベルトを感じる。

うきうきとしてしまう明るい第1楽章。ハイドンのように爽快。
第2楽章アンダンテは、歌心あふれたいかにもシューベルトらしい柔和で伸びやかな楽章。
ずっとずっと途切れることのない歌の世界。
一転、短調のメヌエットが訪れる。
明るい曲調の中にあって驚きの短調だが、その複線は第2楽章の中間部にあった。
シューベルトの音楽には、どこかに暗い影が潜んでいたりするから油断がならない。
それはモーツァルトのそれとはまた違う。青臭いことを書くようでなんだけど、青春の光と影みたいな、死への恐れと憧れのようなもの・・・・。
メヌエットにありながらその優美さはない。
 でも弾むような終楽章において、喜悦の想いに浸らせてくれるからシューベルトはいい。
素直なシューベルト君が微笑んでいるようだ。

この曲を生で初めて聴いたのは、マゼールとウィーンフィルの来日公演。
力の抜けた自在な演奏で、休憩時間にトイレに行くと、終楽章の旋律を口ずさんでいる人もいた。
そのあとに、マーラーの5番が演奏されて、シューベルトがぶっ飛んじゃったけど・・・。

だからこの曲はウィーンフィルにこだわりたい。
未完成フリークだったものだから、そのセットで5番や9番もかなり集まった。
そのウィーンフィルを指揮したケルテスの未完成は、かなり重々しく聴くのに胸にこたえる。
でもこの5番は、この曲のイメージ通り、ケルテスの得意としたモーツァルトの演奏のように肩肘はらずに、和やかに聴ける。木管楽器の独特の丸い音色と柔らかな弦がいい。
やや低音が重く感じるのは、録音のせいかもしれない。

ケルテスがテルアビブで、あのとき泳いでいなければ、今頃は大指揮者の一人として君臨していたろうに。
同時に亡くなった日本のバス、大橋国一さんもケルンで活躍したバス歌手で、バイロイトに出るのも夢ではなかった人。
ケルテスは、セルのあとのクリーヴランドの指揮者、やがてウィーン国立歌劇場の指揮者となっていた・・・であろう。

もう一回、第2楽章を聴いてから寝ましょう。

Daishi_4
川崎大師BB級グルメもレッド。

キムチ味の煮込みであります。
熱燗を飲んで、これ最高bottle

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2010年1月 5日 (火)

ベートーヴェン 交響曲第2番 クリュイタンス指揮

Daishi_1川崎大師への初詣は、子供の頃から続く恒例事業で、不謹慎ながら、アフター詣出の屋台飲みが楽しみで、朝も早よから人混みに飛び込むのだ。

今年は、出足が遅かったせいもあるが、ご覧のとおりの大変な人出。

神頼みの世の中なのだ。

Daishi_2010 Daishi_2009_a

そこで、これまた恒例のお賽銭箱ノゾキだeye

左が今年「賽銭2010」。
右が、去年「賽銭2009」。
わかりにくいが、紙幣が少ないですな。
2008年と比べると、さらに明らかに少ない・・・・。
Daishi_5
Daishi_2009_3 さらに比較してみようeye

いつも同じ店で買う焼き鳥だ。
左が「焼き鳥2010」。
右が「焼き鳥2009」。
 う~む。肉が小さくなっておる。
一方、「粉もん」はおっきくなっておるぞ、2010up

Beethoven_sym2_cluytens さてと、今週は、「新春シャンソンショー」、じゃなかった、「新春さわやかシンフォニー・ショー」を開催中なのだ。

2曲目は、時代順にベートーヴェンとまいります。
ベートーヴェンのさわやかさん、といえば、そう、偶数番号のシンフォニーですな。
2・4・6・8と、いずれも明るく聡明な雰囲気ただよう、耳にも優しい音楽。
おっかないベートーヴェンは、一休みしていて、本当は、こちらの姿の方が肩肘張らないベートーヴェンの本当に姿だったりして。

そこで、交響曲第2番ニ長調を選択。
ベートーヴェンのニ長調というと、あのヴァイオリン協奏曲、そしてロマンス、ミサ・ソレニムスなどが思い浮かぶ。
いずれも偉大だけれど、どこか作曲者の微笑みの浮かんだような和みの感じられる名品。
1802年、ベートーヴェン32歳の作品で、あのハイリゲンシュタットの遺書のあとの作品だけれども、ここに聴かれる屈託のない明るさは、そんなことをちっとも感じさせない。
決然と堂々たる長い前奏のついた1楽章は、主部にはいるともう走り出す爽快さがある。
このあたりの緩急を巧みに描き出す演奏がよい。
一番好きな2楽章は、これはもうロマン派の音楽。しっかり青春してて、私のような回顧オヤジからすると、それこそずっと浸かっていたいほのぼのと緩やかなムードの音楽。
でも、いい演奏で聴くと、キリリと引き締まった抒情が感じ取れる。
スケルツォが登場の3楽章は、1番からの飛翔が最も明らかかもしれない。
快活でキビキビした終楽章は、一気加勢の演奏が今や主流だけど、これぞじっくりとリズムを刻んで欲しい楽章。

偶数番号で、誰を聴こうかと思うとき、頭に浮かぶのは、ワルター、クリュイタンス、ベーム、ブロムシュテット、スゥイトナー、アバド、ハイティンク、意外とカラヤンなど。
そこで、今宵は久方ぶりのクリュイタンスを選択。
 そしてこれがまぁ、よかったこと。
カラヤンがDGに1回目の録音をする前のベルリン・フィルが、実に明るく洒脱な音色を出している。
指揮棒を持たなかったクリュイタンスは、バイロイトでも活躍し、クナッパーツブッシュと人気を二分したくらいのワーグナー指揮者だが、バイロイトのビデオに見るその指揮ぶりは、かなり指示が細かく入念だった。
でも出てくる音楽は、常に明晰で、しなやか。
このベートーヴェン全集も、カラヤン色に染まる前、むしろフルトヴェングラーの色香が残る50年代終わりにあって、こんなにも流麗なベートーヴェンを作り上げてしまったことに驚きを感じる。
実は偶数ばかりでなく、奇数番号も、ベートーヴェン臭さがなくて好きなのだ。
サラっとした3番なんて気持ちがいいし、舞踏音楽のようなノリの7番もすてきなものだ。
かつてセラフィムの廉価版では、ベートーヴェン像をあしらったジャケットで6枚だった。
いまや何度も装丁を変えて投げ売り状態のCDセット。
一家にひと組あっても悪くない、昨今のピリオド奏法の対極にあるような豊かな歌に満ちた、気持ちいいベートーヴェン全集であります。

Daishi_3 最後に、気風のいいから揚げのメタボ・テンコ盛りを。

おばちゃんが、気前よく大盛りにしてくれました。
これも商法かもしらんが、新春から気分がエエわいgood

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2010年1月 4日 (月)

モーツァルト 交響曲第39番 スウィトナー指揮

Ekiden お正月は実家で過ごしました。
いつも、あんまりのんびりできないのは、行く所・やることが満載だから。

今年も箱根駅伝の復路を見物に。
新春を駆け抜ける若者たち。
私の街をだいたい9時半頃に通過。
そしていつも二日酔い状態だから、かなり辛いけれど、元気に走る諸君を見ると、こちらも気持がさわやかになる。
Mozart39_suitner
そして、今週はさわやかな交響曲を聴いてみよう。
新春さわやか交響曲ウィークであります。

モーツァルト晩年の作品、交響曲第39番変ホ長調K543
後期の3大交響曲は、1788年に一気に書きあげられているが、どれもが性格が違う。
短調の40番、荘重なハ長の41番、そして晴朗な気分の横溢した39番。
どれも素晴らしいし、大好き。

一晩のコンサートでも、よくプログラミングされるのも、曲の長さが最適なこともあるが、異なる気分をそれぞれに味わえるからでもあろう。

前奏が長く据えられているのも、3つの中では、この39番が唯一。
その前奏のあと始まる主部の快活な主題を聴くと、もうすっきりさわやかな気分になる。
そして私が一番好きなのが、第2楽章のアンダンテ。
優美さの中にも、どこか陰りを帯びていて、思わぬ激情をも垣間見せる。
かつてはよく「モーツァルトの白鳥の歌」とも言われた由縁はこのあたりの美しさだろうか。
第3楽章のメヌエットは、なんといってもクラリネットのトリオの楽しさ。
終楽章の飛翔する軽やかさも素敵。

スウィトナーが、シュターツカペレ・ドレスデンと一連のモーツァルトの録音を残してくれたことは、とても幸せなことだった。
中でも、この39番は、この美しいオーケストラがあってこそ映える名演に思う。
何もしてないようでいて、その何気なさが極めて味わい深い。
ライブやワーグナーなどでは、かなり熱烈な演奏をするスウィトナーだけど、レコーディングに聴くモーツァルトは、羽毛のような軽やかさとしなやかさが、聴く者を幸せの境地へと誘ってくれちゃう。
演奏する側も、指揮者に心を解放されちゃって、ほのぼのとした気分になっていることが推察される。
N響に始終来ていた頃は、いつでも聴けるという油断から、意外なまでに生で聴いていなかったスゥイトナー。
サヴァリッシュもシュタインもそう。
もったいないことしたもんだ。

Ekiden_4

すごいメカニカルな中継車が走ってましたぞ。

最後のランナーが、大声援とともに駆け抜けると、「応援ありがとうございました・・・」と放送しながら走る車でもってオシマイ。

また来年・・・。

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2010年1月 1日 (金)

チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」     ハイティンク指揮

Tokyo_tower2010 twozeroonezero年の幕開きsun

今年はどんな年になるのでしょうか。

不安も例年にもましていっぱいだけど、明るく前向きに精一杯やりましょうsign03

今年のメモリアル作曲家はたくさん。

スカルラッティ、ペルゴレージ、ケルビーニ、シューマン、ショパン、シャルパンティエ、ヴォルフ、マーラー、アルヴェーンなどなど。

音楽会はマーラーだらけになりそう。

ワタクシの方は、気にせずにこれまでの路線でまいりますよ。

今年もよろしくお願いいたしますnote

Tchaikovsky_haitink
今年の1曲目は、スタートに相応しく、しかも冬の音楽ということで、チャイコフスキー交響曲第1番「冬の日の幻想」であります。

わたしは、この交響曲だ大好き。
チャイコフスキーの交響曲のなかでも5番と並んで好きなのであります。

だから年中聴きたいのだけど、やはり冬に聴くものとして自分を戒めたりもしている。

なんといっても、抒情的でロマンテック。
冬のロシアの大地を思わせる大らかさと、厳しさもここには満載。
26歳の若いチャイコフスキーが書いたこの曲は、果てをも知らぬメロディの宝庫でもある。
私の好きな旋律は、もちろん冒頭、弦のトレモロに乗ってフルートに現れる主題。
それから第2楽章のメランコリックなオーボエの旋律、これにからみつく木管楽器。
第3楽章の中間部にあらわれる単純だが優しい旋律。

そして楽章の魅力でも、やはり2楽章かな!
夢見るロシアの大地。そこに深々降りしきる真白な雪。吐く息も真白で凍りそう。
でも寒いからといって、ウォッカばっかり飲んじゃいけません。
待ちわびた愛する人が息をはずませてやってくるのが見える。
二人で、ホット・ワインでも、暖かい暖炉に腰かけて飲もうじゃないの。。。。

こんなロマンテックな第2楽章(を夢見るオヤジは、今年も健在だ~笑)

この楽章のクライマックスで、鳴り響くホルン!
コンセルトヘボウの素晴らしいホルンには泣かされます。
ここも最高note

ハイティンクコンセルトヘボウのチャイコフスキー全集は、アバドやマリナー、メータと並んで私の大事な全集である。
あまりに音楽的、そしてあまり立派すぎて、若書作品とは思えない。
終楽章のしつこいコーダも、必然性があって全然普通なのでありました。
フィリップスのアナログ最盛期の録音も絶品。

今日から、神奈川の実家に帰ります。
川崎大師に駅伝。
毎年同じことをやっております。

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