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2010年2月

2010年2月28日 (日)

シュレーカー 「烙印を押された人々」 デ・ワールト指揮

7

東京フォーラム。
青いツリーが、ちょこっと見えちゃうところが、昨年画像でばればれだけれども、この位置から見た光景が好きだ。
こんなに長いランドイルミネーションは、そう近未来チックな感じもして。
人通りも多いから、誰も入らないように、じっくりとチャンスを窺うオッサンでありました。

一時、退廃音楽という言葉が流行ってデッカからもシリーズが出たりした。

1930年になってナチス政権が、主としてユダヤ人芸術家に対して貼ったレッテルで、その音楽に対してこれを禁じたものである。
メンデルスゾーンやマーラーも含まれ、そのためカラヤンが長く取り上げなかったことは、いろいろ取り沙汰されもしたのだ。
過去の作曲家はまだしも、当時活躍していた音楽家はまったくもって気の毒で、スイスやアメリカへ逃れた作曲家もいることはご承知のとおり。
なかには、倒れ、病んでしまい、亡くなってしまった人もいる。
フランツ・シュレーカー(1873~1934)がその人。
キリスト教徒のユダヤ人を両親に、父が優秀で宮廷写真家の称号を得ていて、生まれたときはモナコにいた。
ツェムリンスキーの師フックスに学び、ウィーンとドイツワイマールて活躍し、9つのオペラ、オーケストラ曲、声楽作品などを残すも、いまやちょっとマイナーな存在になってしまった。
ナチスに目をつけられる1920年代後半までは、その作品がさかんに上演された人気作曲家であった。
シュレーカーが見直されるようになったのは、79年にギーレンが取り上げたときから。
さらにアルブレヒトがさかんに演奏そして録音し、アバド時代のウィーンでも世紀末特集で取り上げられ、リバイバルなったシュレーカー。
日本では、いうまでもなく若杉さんが、そのあとは大野さんが、何度か演奏していたので、これがさすがと思わせる。

でも、また沈みこんでしまった感があるのが宿命的でもあり、寂しいものだ。 
その音楽は、表現主義的で、ワーグナーに流れを発する濃厚な後期ロマン派風。
シュトラウス、マーラー、ツェムリンスキー、初期新ウィーン楽派などと相通じるもので、この手の系統が異常に好きなわたくしのウルトラヒットゾーンなわけであります

Schreker_die_gezeichneten

オペラの中での一番の代表作が、「烙印を押された
人々」。
最初は、ツェムリンスキーから自作のオペラの台本にと、醜い男の悲劇のような具体的リクエストをもって作成の以来があった。
だがやがて、シュレーカーは、オスカー・ワイルドの戯曲などを参考に、台本を作成するうちに自分でオペラにしてみようと思うようになり、ツェムリンスキーに断りを入れてこのオペラの音楽も作るようになった。
ツェムリンスキーも魅力ある素材を捨て切れず、似たようなモティーフでもって音楽を作ったのが面白い。
1915年に完成し、18年にフランクフルトで上演されセンセーションを巻き起こしたオペラであります。

この作品の音源は、本日のワールト、アルブレヒト、ツァグロセク、ナガノ(DVD)の4種があるが、ナガノ以外はいずれも廃盤。
今回は、英語訳を必死に見ながらの鑑賞はこの1カ月。
未知作品を手のうちに入れる作戦の常として、何度も繰り返し聴くという意味で音楽に親しむこと半年。
この作品も、すっかりなじんで夢にまで出てくるようになり、こうしてようやく記事にできました。手間暇かけてものにしたオペラは愛着あるんです。
RVW「毒入りキッス」、コルンゴルト「カトリーン」に続き、最近では3作目。
素晴らしい音楽に痺れるような快感を覚えてしまう。
これって危険なことだろうか(笑)

以下は、このオペラのあらすじを音楽も含めて書いてしまいますが、毎度ながら長くなりますので、嫌な方はスルーしてくださいまし。

ところは、ルネサンス期、イタリアのジェノヴァ。

第1幕 貴族アルヴィアーノ・サルヴァーノの館

 「しかめっ面、せむしの私に、どうしてこれほどの感情、欲望があるんだろう・・・」と一人悩むアルヴィアーノ。
そのまわりでは、仲間の貴族たちが、面白おかしく、おれたちは街の娘や夫人たちをつまらない恋人や、技巧に不慣れな夫たちから解放してやってると言っている。
 アルヴィアーノは、かつて金で娼婦を買ったとき、その時の自分への嫌悪感を思っていて、いまでも嫌な思い出と次元の違うことを話す・・・。
そこへ、公証人到着の知らせに、貴族連中は、何事かと色めき立つので、アルヴィアーノは、「楽園島」~それは人工噴水、庭園、芸術のステージ、自然の配合からなるパラダイス~をジェノヴァ市へ寄贈することにしたと語る。
 貴族たちは、「え? おいおい、わかってるんだろうな、それは裏切りだぜーー」「事が露見したらどうすんだ!」、とせっかくの私財をなげうった施設を惜しむとともに、必死に食い止めようとして、なんとか手を打たなくてはならないと語り合う。
そこへ、貴族タマーレが遅れてやってきて、美しい女性を見て惚れてしまったとひとり大騒ぎする。

市長と娘、元老院議員がやってくる。
市長はアルヴィアーノに、娘があなたにお願いがある、まったく奔放で困ったヤツだ、そりゃそうと今回の寄贈は素晴らしいと長口舌。
その話の中で、最近女性がさらわれ行方不明となっている事態も語られる。
島の譲渡を受けるには、アドルノ公爵の了解も必要、こちらは自分が責任もって対処しますと市長は請け負う。

タマーレが見染めたのは、実はその市長の娘、カルロッタ。
彼は、そこで、これ幸いと言い寄るが、彼女は、私の好きなのは酬いを求めて苦しみ、犠牲となる男性、あんたが死んだらそうなるかもね」、と厳しくも不可解な態度。
ますます彼女に夢中になるエロいイタリア男、タマーレであった。

貴族の雇った刺客ピエトロとアルヴィアーノの家政婦マルトゥッチはいい仲で、スパイとなることが予見される。
彼は冒頭に出てきた悪い貴族メナルドと間違えられ、ある女性に追いかけられていると語る・・・・

 アルヴィアーノとカルロッタが二人になり、彼女は、いろいろ絵を描いているけれど、一番描きたいのは「魂」と歌う。この場面の彼女の危ういほどの情熱の歌は素晴らしい。
だから、あなたを描きたい、と語るが、アルヴィアーノは自分が醜いというコンプレックスがあるものだから、ばかにされていると思いこみ、なら道化に描いて欲しいと嘲笑する。
カルロッタは、ある朝、あなたが私のアトリエの前を通り過ぎそこに朝日が昇るのを見た。その時の巨大な姿を私は絵にしたけれど、顔がないの、太陽に向かって進むアルヴィアーノを描きたいと熱烈に語り、ついにアルヴィアーノも絵のモデルになることを同意する。。。

第2幕 アドルノ公爵家の広間


 アドルノ侯爵の館から市長と元老議員が怒りながら出てくる。
島の譲渡に関して貴族仲間への配慮もあり、慎重な姿勢を崩さなかったことへの憤りである。
 そのアドルノに貴族タマーレがやってきて、またもやある女性への熱愛を語り、友人ゆえに公爵は協力を約束。
でも相手が市民の市長の娘とわかると貴族の立場ゆえの自戒を伝える。
それでも、あの女をものにしたいと語るので、アドルノは引いてしまう。
どうせわかりゃしないし、昨晩も一人、こっちに知らないうちに娘がかどわかされたのだと。
え??、おまえ、まさか一連の事件に」、とアドルノ。
そうとなりゃ、仕方あるめぇ、じつはあの島の地下洞窟に愛の宴の巣窟があるんですよ。アルヴィアーノが、解放してしまったらすべてがバレちまうのですわ。だから、市への譲渡を阻止していただきてぃんですよ~。
 アルヴィアーノ7は関与してるのかとの問いに、ヤツは加わってません。今や後悔してるかもしれませんぜ。アドルノは怒り、おまえは愛を覚えたから悪い奴らとは違うと思うし、一度は助けるといってしまったのだ、でも暴力はイカンぞ」、と不愉快ながらクギを刺す。

カルロッタのアトリエ
 アルヴィアーノがモデルとなっている。
彼女は、「かつて心臓を病んだ友人がいて、彼女は風景や人物も描くが、人の手を描き、あるとき干からびた枯れ枝のような死んだ手を描いた。その手は死に怯え飢えていたようだったし、赤い筋のようなものも見えたのだ」、と語る。
アルヴィアーノに、「視線をのがれてはいけない、こっちを見て、自信をもって」と言い、情熱的な音楽(前奏曲に同じ)になる。
「そうそう、その調子」。
でも、すっかり思いが高ぶり、彼女に詰め寄ろうとするアルヴィアーノ。
それを制し、絵の仕上げにふらふらになりながらのカルロッタ。
彼女は危ない雰囲気で倒れそう。
やがて出来上がり、倒れこむカルロッタが傍らの画架に手をすがると、その布のあいだから、やせ細った手が見える。
すべてを察知したアルヴィアーノ
ぎこちない抱擁。かわいそうな優しい人を大事に守る決意を歌う・・・・。

第3幕 楽園島にて

市民たちが解放された楽園島にやってくる。
そこでは、怪しいしいニンフやパンたちのマイムが行われていて、市民たちも、これじゃなんだかななぁ、の意見。
行方不明となった女性に関し、ご主人に危害が及ぶかもしれないと警告しようと家政婦が出てくるが、悪漢ピエトロに捕えられてしまう。
奴はいまや、完全にアドルノの手下なのだ。
 むしょうに、いなくなってしまったカルロッタを心配するアルヴィアーノが市長とともに出てくる。
市長は、今宵アドルノのある告発があるのを知っていて警告するが、アルヴィアーノは娘さんは最高の女性、自分の罪は自覚していると語り、市長は混乱する。

そのあとそこには、アドルノとカルロッタ。
絵が出来上がってから、自分の中で何かがしぼんでしまった、アルヴィアーノはもう私にすべて最高のものを与え、これ以上は期待できないとぶちまける。
同情というヴェールが包んでいたのに、それを破り捨ててしまうと、かつてアルヴィアーノが自嘲して語った「花々の中にある醜い毒虫・・・」という言葉を思い出すのよ。。と語る。
それを聴き、アドルノは、アルヴィアーノはもう情欲の僕となっている劣等肝と語るが、彼女はがぜん、それを否定し、アルヴィアーノの高貴さと気品を称え怒りすべてを否定する。
揺れ動く女心は難しいのだ。
でも夏の蒸し暑さに火照り、灼熱に浮かれたようになってしまう・・・。

狂おしく花嫁のカルロッタを探しまくるアルヴィアーノ。

祭りの催しに熱狂する市民、そこで夢遊するカルロッタを見つけだした、マスクをかぶったタマーレ。
彼は狂おしく迫り、あらがうカルロッタだが、しかし負けてしまい抱かれてしまう。

民衆は、この島譲渡の善行に、アルヴィアーノ万歳、あんたは祝祭の王だ、とはやし立てる。
でもかれは、自分はそんな立派なものではないと言いつつ、それどころでなく、カルロッタが不明となり、「彼女を探し出せば私財をすべてやる」と混乱の極み。市長やその女中連中も必死に探している。

そこへ8人の屈強の覆面男が、司法警察の隊長とともに登場。
アドルノの起訴をもとにやってきたのだ。


アドルノは民衆に向かい、「おまえらはたぶらかされている。この男はお前らの嫁や娘をさらい、たらしこんだヤツだ」と告発する。
 しかし、民衆は逆に、いまある快楽をねたんで奪う盗人と逆ぎれし証拠を示せとさわぐ。
そこで出ました、刺客が悪漢貴族のために誘拐した女性が、アルヴィアーノ邸にいたの証言で、スパイの仕業が見事に。
これで、はめられたとわかったアルヴィアーノ。

民衆をともない地下室へと降りてゆくアルヴィアーノ。
そこには乱痴気騒ぎが中断され茫然自失の女たちと、すでに捕えられた貴族たち。
その中には、タマーレもいるし、倒れたカルロッタもいる。

アルヴィアーノは、彼に、彼女がおまえを愛したということであれば、最初から自分は何も所有しなかったということで、元のみじめな日々に戻るだけ」、と語る。
タマーレは不敵にも、「これは宿命、おまえは自分が一時強者だと思ったろ、でも違うんだ、喜びにしり込みしたのさ、なぜ、彼女を奪わなかったのだ?」と強く攻める。

アルヴィアーノは、「自分は人生の深淵を見てきた人間だからだ。

対するタマーレ、そんなことぁ知らねぇ。強烈な抱擁のうちに至福の死を彼女は求めてきたんだ。彼女は自由になり、死を与えられたのだ。

アルヴィアーノは、「きさま、彼女の心臓の病、そのことを知ってやがったのか、このくそやろう!!」

タマーノは、まるでばかにしたかのように、道化のヴァイオリン弾きの女を奪うために、そのヴァイオリンでたたき殺したと歌う。
ついにアルヴィアーノは、タマーノを刺殺し、その断末魔の叫びに正気に戻ったカルロッタ。
彼女に、「大丈夫、自分ならここに」、というものの、「近寄らないで、妖怪、失せて、あの赤い糸が・・・」、「いとしい人よとタマーラに・・・・。

ここで茫然とするアルヴィアーノ。
私はヴァイオリンが欲しい、それと赤く鮮やかな、隅に鈴の付いた帽子も。
どこへ行った? あれ、ここに死体が・・・」
皆さん死体がありますよ・・・・

怖れ、道を開ける人々の間をぬって舞台奥へ消えゆく、正気を失ったアルヴィアーノ・・・・・


静寂から、やがて虚無的なまでのフォルテに盛り上がって後ろ髪引かれるようにして音楽は終わる。

                        幕

ここで重要なターニングポイントは、死の手はカルロッタが描いたもので、彼女こそが心臓の持病を病み、熱愛が出来ないと思い込んでいた。
アルヴィアーノは、それを瞬時に理解し、同情し愛した。
そして、女はみんなこうしたもの。さらなる愛を求め、カルロッタはタマーラに気を許してしまい、熱愛のすえ倒れてしまう・・・。そんな彼女の体を知っていたタマーラを許せなかったアルヴィアーノだったのだ!!!!

このややこしいドラマを理解し、解析するのに2カ月かかった。

烙印とはなにか、誰がそれを押されているのか?
聴くからに、その被烙印者は混濁の度合いを強めたが、こんな具合か。
まず、主要人物の3人。

アルヴィアーノ)自分が醜男であり、コンプレックスのかたまり。
表面上の美や形式を求め、人工島パラダイスを企画。
 でもそれも彼を癒すことはなく、結局、一人の女性を愛することで解決することに。
 それが不幸を招く。

カルロッタ)その弱い体ゆえに、愛に求めるものが消極的に。
 奔放さの裏がえし。その気持ちを絵画の中にもとめ、醜いアルヴィアーノもその中で
 昇華されてしまい、純粋な彼との間で悲劇を生むこととなる。

タマーノ)単純極まりない快楽男。
 でも、女性に対してはやたらと鼻がきき、カルロッタの弱みをも完全に掌握。

 スカルピア的、かつ勝者のバリトン、ほかにいたっけ?

民衆)子供たくさん、ひごろ不平不満ばかり、金もなし、喜びもなしの衆が、アルヴィアーノによって無償の楽園を与えられた。最初はその官能にとまどいつつも、それを偽政者に奪われるのではと思いだすと猛然と反発。どこにもある勝手な衆。

貴族)ここでは悪逆。誘拐・監禁とやりたい放題。しかも、友を売ってしまい、お縄にもなる。

アドルノ)自分の立場に最後まで固執。本オペラ一番の悪党かも。


     シュレーカー 歌劇「烙印を押された人々」 

 アドルノ:チャールズ・ファン・ターセル 
 タマーレ:ジークムント・コーウェン
 市長:ヴォート・ウースターカンプ    
 カルロッタ:マリリン・シュミーゲ

 アルヴィアーノ:ウィリアム・コックラン その他多数

 エド・デ・ワールト指揮 オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団/合唱団
        (1990.2~3@アムステルダム・コンセルトヘボウ)


ここで、熱狂的なアルヴィアーノを歌うのは、コックラン
クレンペラーの未完ワルキューレのジークムントであり、英国ヘルデンで、ちょっと病的なまでの夢中な歌唱が魅力的。
シュミーゲの無垢だが、ゼンタを思わせる一途感もいいし、ほかの地味歌手もやたらと熱いのです、このCDは!!。
彼らを司る、デ・ワールトの指揮は普通に素晴らしい。
先鋭さはまったくなく、時代の位置づけとしての後期ロマン派作品を丹念に扱っている。

このところずっと聴いてるこのオペラ。
その前奏曲だけでも、日に何十回も聴いてるんだ。
私こそ、退廃の烙印をレッテルされた人間かもしれない。

 

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2010年2月27日 (土)

ジークフリート・ワーグナー アリア集 R・トレケル

Toyota
豊田社長の涙は、日本人には印象的。
企業人としての想いを真っ直ぐに感じることができる。
でも米国内では、どうであったか?

不振の米車業界。
議員が情報開示に、イエスかノーか? 異常なまでに迫る姿。
欲しい技術、出る杭は打たれる・・・・。

写真は、豊田市の巨大な本社ビル。
地名もトヨタ町なのであります。

Siegfried_wagner_trekel
ワーグナー祭りの余勢をかって、今日はワーグナー・ジュニア。

ジークフリート・ワーグナー(1869~1930)は、大リヒャルト・ワーグナーとリストの娘、コジマとの間に生まれたサラブレッドで、音楽家になるべくしてなったはずだが、そうでもないし、父の才能には及ばず、いまや気の毒なくらいに地味な存在となっている。
大ワーグナーは、コジマとの間に娘二人がいたが、56歳にしてようやく生まれた息子に大いに喜び、おりから作曲中の「ジークフリート」の主人公の名前を付けた。
 ちなみに、彼の姉ふたりは、イゾルデとエヴァだからおそれいりますな。

親父は、息子に音楽の道を進ませなかった。
イタリアには家族で始終行っていたし、ギリシア語も学んでいたから、おのずと建築家を志すようになったという。
でも、さすがに音楽家の素養は隠しきれず、イタリアにいたことからヴェルディの旋律を口ずさんだり、爺さんのリストの前で歌ったりとしたらしいし、フンパーディンクに学んだりもしている。

本格的に音楽家になろうと決意したのは、父が亡くなってから9年あまりたってから。
23歳のことだから、これまた凡人ではなしえないこと。
オペラ通いに熱を注ぎ、一方で裕福だったものだから、友人の商船で東南アジアなどにも長旅をしていた。そのとき、シンガポールの街中で、何故かバッハの「ヨハネ受難曲」を耳にして、電撃的な感銘を受けて、音楽家転向の決心をしたという。
なんだか、まるで作り話みたいだけど、ほんとの話。

やがて指揮者としてデビューし、父の作品の解釈者として一流の存在となり、同時に、自身で台本を書き、オペラの作曲も始める。
その数、19作品
父親のオペラ作品数は、リングを4として、13作品。
数では、父に勝った。そのほかにも交響曲や器楽作品なんてのもある。
でも、それらの出来栄えは、父親の足元にも及ばなかったのは、いままったくその作品が顧みられることがないことで立証されているわけだ。
 むしろ、ジークフリートの功績は、劇場の近代的運営といまにつながるワーグナー演出を打ち立てたことにある。
母コジマを補佐しつつ、バイロイト音楽祭を盛り立て、母が引退後は、総監督として指揮も行いつつ、民間の劇場としてのバイロイトを軌道に乗せた。
演出面でも、具象的だが平面的・絵画的であった装置を、三次元の様式(アッピアの理論)に高め、光の効果的な使用なども実践し、これは戦後の新バイロイトにいずれつながる流れとなっている。

作曲家・指揮者・演出家・劇場運営者と、マルチな才能を発揮したジークフリートは、まさにオペラの人になるべくして生まれたわけであります。

親父ばかりか、息子にもスポットをあてなくっちゃ、「さまよえるクラヲタ人」の名がすたる。
毒食わば皿までだ。

手始めに、オペラのアリア集を取り上げてみよう。
実は、もう2年前から、このCDは聴いているんだけど、旋律は耳に馴染み覚えたけれど、全然こちらに入ってこないし、手応えが全然ないんだ。
いいメロディラインはあるし、親父ばりのかっこいい場面もそこそこあるけれど、それらが感銘を与えるまでにいまのところ至らない。
バスバリトンのアリア集だからか、歌唱部分も地味の感は否めない。
ヒロイックな歌も、高貴さ、甘味さもない(ように感じる)。
でも、大ワーグナーそっくりの旋律や歌が出てくると、一瞬感違いをしてしまうのも事実で、親父の作品の試作品的に聴く分には、未知の世界が開けたようで、極めてうれしい。
 いまのところは、こんな印象しか書けませず、申し訳なく。

ローマン・トレケルの真摯な歌と、その馴染み深い声、独語のなめらかな美しさなどについては特質もの。
この手の知られざる音楽の大家、アルベルトの指揮もうまいものだ。

「木を見て、森を見ず」的な現在。
やはり、オペラ全曲を味わってみないことには話にならない。
オペラ1作品を入手済みなので、年内にはなんとかモノにして記事にしてみたいと思っております。

 1.「太陽の炎」、    2.「熊の皮を着た男」 3.「いたずら好きの公爵」
 4.「コボルト(小鬼)」 5.「陽気な仲間」     6.「バナディートリヒ」
 7.「黒鳥の王国」   8.「異教徒の王」   
 9.「マリーエンブルクの鍛冶屋」 10.「ラインウルフとアデラシア」


以上10作品からのモノローグやアリア。

       Br:ローマン・トレケル

  ウェルナー・アルベルト指揮 ケルンWDR放送交響楽団


最後に、ワーグナー家の人々のお顔を

Richard_wagner Siegfrid_wagner Wieland_wagner リヒャルト・ワーグナー、息子ジークフリートに若い妻ヴィニフレット、孫ヴィーラント
Wolfgang_wagner Katharinaeva_wagner_2
孫ウォルフガンク、曾孫カテリーナとエヴァ。
彼女たちの二頭体制でバイロイトはこれからも生き続ける。
みなさん、意思の強そうな(手ごわそうな)お顔をしてらっしゃる。
ジークフリートは、ものすごく「いい人」だったらしい。
大ワーグナーの強烈さは、曾孫さんにしっかり伝わっているみたい。。。

ワーグナー大会、ひとまずオシマイ。

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2010年2月26日 (金)

ワーグナー 「大ピアノソナタ」 W・ゲヌーイ

Jelly_beans
今日も暖かい一日でしたなぁ~
もう春、来ちゃうんでしょうか?
ハイカラな携帯の広告をパシャリ。
むかし、ジェリー・ビーンズを大好きなアメリカ大統領がいましたな。

冬にはもっと頑張って欲しい。
いったいぜんたいどうしちゃったんだい?
季節感まるでなしの日本、全然美味しくない。

Bayreuth_klavier_music
熱中ワーグナー
今日は、以前からこっそり聴いて機会をうかがってきた、器楽曲です。

強烈かつ、人を惹きつけてやまない歌劇・楽劇のひと、ワーグナーなんだけれど、いま多く聴かれる作品が生まれるまえの習作期には、数々のオペラ以外の音楽も創作した。
いくつかは失われてしまったけれど、ピアノ作品はそこそこ残されている。

現存するものでは、本日の大ソナタ、作品1のソナタ、幻想曲、ヴェーゼンドンク夫人にささげたソナタ、4手用ポロネーズなどが残っている。
初期と中後期という時代配分で、初期は敬愛したベートーヴェンの影響、その他はリスト(なんといっても義父さまだし)の雰囲気がるのが、いかにもワーグナーらしいところ。

今日は「大ソナタ」を。

何が大ソナタかって?

何もない、普通のピアノ作品なんです。

第9に心酔したワーグナーは、その第9をピアノ独奏用に編曲したくらいで、その流れでベートーヴェンを想い、この大ソナタを書いた。1832年のこと。
ワーグナー19の青年の頃であります。
同時期に交響曲ハ長調という幸福感みなぎる作品も書いてます。

そして生まれたこのソナタは、至極普通のピアノ作品でして、むしろ後年のオペラ作曲家としてのワーグナーの姿はまったく見られず、古典的で形式に枠にしっかりと収まろうとする妙な意識が感じられて、いじらしい。
その音楽は、意外なまでにかっちりとしていて、そんな中に初期ロマン派的な拙い語り口もあったりで、後世の雄弁さとはまた違った穏やかさがある。
少し元気なウェーバーといった感じか。
全4楽章、元気ハツラツ・オロナミンC的な1楽章、ベートーヴェンの緩徐楽章のようなロマンティックな2楽章、終楽章への序奏のような短めの3楽章からその終楽章へは休みなく続き、そこではフーガが展開される。これぞ、ベートーヴェンですよ。

ウェーバーとベートーヴェンを強く感じさせる、ワーグナーの大ソナタでありました。

その読み方すら不明で自己流で、ゲヌーイとか読んだけど、いまは入手不能のアカンタ=ピルツの盤は2枚組で、ワーグナーの主要ピアノ作品と、リスト、それに驚くべきことに、ビューローの作品まで収録されている。
ワーグナーを軸に、義父と、奪った妻の元夫の作品。
なんだかなぁ~、やたらにドロドロとややこしい関係だけど、その音楽は極めてまっとうでございました(笑)
このピアニスト、ちょっと調べたら、すでに97年に60歳で亡くなってしまっているけれど、残されたレコーディングはシュポア、プフィッナー、ブゾーニなど、かなりコアな分野の作品ばかり。極めて魅力なんです(笑)

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2010年2月25日 (木)

ワーグナー 「ニーベルングの指環」 アメリカ5大オケ

Shimonoseki 1か月前の訪問先、下関の駅周辺です。
駅は、1時間に数本の電車がやってくると賑やかに人が出てきて、迎えの車に消えてゆくけど、そのあとは、パチンコ店とホテルの明かりが眩いのみ。
日本の各地方は、だいたいこんな光景かと思われる。
違うのは東京圏、札仙静名京大広福(わけわからんね)などの主要都市のみ。
東京の山手線内西側なんてもう、世界的に異常なくらいの人の多さ。
このギャップを作りあげてしまった日本の政治。
地方も整備され、化粧姿は抜群だけど、いったいどうなってしまうんだろう、この国は。
いまあるオリンピックも、日本の衰退、アジア他国の伸長。
明らかに国力や気運で負けている。
私たちの気持ちも、どうせ勝てないや、とかいう風に負けている。
トヨタ問題も含めて、これが日本の実力・現状という認識をもって、淡々と

なんだか、このブログらしからぬことを書いてしもうた。
いかんいかん、今日もワーグナーじゃ。

「ニーベルングの指環」をオーケストラで聴く場合、4つの楽劇から名場面をバラバラにチョイスする場合と、昨今ではブリーガー編曲版も多く取り上げられる。
後者は休みなく60分以上の大曲仕上げで、原作の雰囲気をとても出している名品。
前者は、各曲が分断され、ショーピース的な扱い。
私には、前者は歌抜きということで違和感が大きすぎる場面も多々あり、後者はシンフォニックであり、オペラとしての流れ・劇性がうまく取り入れられていて、かなり満足できる。

で、唐突ながら、前者のハイライト盤的な録音がアメリカ5大オケ、通称ビックファイブで聴けるので、まとめて聴いてみた次第。

Munch_bso_wagner 古い順にまずは、ボストン交響楽団。指揮はシャルル・ミュンシュ。57年の録音。
ミュンシュのワーグナー自体も珍しい。
魔の炎の音楽、ラインの旅、自己犠牲が収録されていて、アイリーン・ファーレルのブリュンヒルデ付き。
響きはかなりヨーロピィアンでそこそこよい雰囲気。
でもさすがはミュンシュで、音のたたみこみ具合がダイナミックで切れがよい。
黄昏では聴いたことないようなブラスのスタッカートで驚きもあったりする一方、表情がやや乾いたりして、ちょっと尻切れトンボ的な雰囲気。
ファーレルのハスキーなブリュンヒルデも違和感あり。

Szell_cleveland_ring 次いで、ジョージ・セル指揮のクリーヴランド管弦楽団の68年録音。
これは、素晴らしい。
ワルハラ城入場~騎行~魔の炎~森のささやき~ラインの旅~葬送行進曲
この手の定番ラインナップ。
ここでも感じるのは、ヨーロッパの響きだが、ミュンシュと違うのは、ここに感じる劇場空間と冷静なまでの緻密な音楽表現。ミュンシュは感興にのってやってしまった感ありだが、セルは冷静に、登場人物たちを描きわける。
全14時間あまりの楽劇の、ほんのさわりに過ぎないのだけど、全体の一部を感じさせつつも、そこに凝縮された劇場的な表現を盛り込んでいると感じる。
オケもクールに感じるけど、実は熱くなってる濃密度の演奏。

Ormandy_philadel_ring ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団は、69、71年の録音。
騎行~魔の炎~森のささやき~アルベリヒの呪い・入場~ラインの旅~葬送~自己犠牲
アルベリヒの場面があることが珍しい。
しかしジャケットには、「アルベリヒの祈り」と書いてあるのが妙だ。
この訳わからん訳、どうも演奏の印象につながっていて、しっくりこない。
というか、私には違和感ありすぎ。
このコンビのファンの方には申し訳ないが、テンポ感、主力声部の捉え方、音色、すべてにおいて私には受け入れられなかった。

Mehta_nypo_ring ズビン・メータ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏は、82年(たぶん)。
入場~騎行~魔の炎~森のささやき~ラインの旅~葬送~自己犠牲。
自己犠牲はオリジナルではなく、カバリエとの別録音から追加されたもの。
こちらは、かなり本格派で、通常リングを聴いてる人間からも、オーケストラ作品として聴く方からも違和感は少なく溶け込めるはず。
なめらかで、美しく、やるべきことはみんなやっていて充実したワーグナー・サウンドが聴かれる。
でも、それ以上のこともなく、耳ざわりよく、口当たりもいい上質のワーグナーといった感じ。すごくいいんだけど、密度の濃さは、セルに遠く及ばないといった感じ。
カバリエの麗しいブリュンヒルデにも同じことがいえるかも。。。

Barrenboim_ring_cso 一番新しいのが、ダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団。91年録音。
騎行~森のささやき~夜明けとラインの旅~葬送~自己犠牲。
ここでは、デボラ・ポラスキのブリュンヒルデが聴けちゃうお楽しみつき。
一聴わかるオーケストラの蟻の這い出る隙間のないほどの高密度なビンビンの優秀さ。
これが、バイロイトでワーグナー経験の年輪を積みつつあったバレンボイムの自信みなぎる指揮ぶりに、敏感に反応している。
実際にリングを今振ってる体験からか、個々に思いいれの強い部分もあったりして微笑ましく、意外や森のささやきなんかが、自在な表情付けで楽しめたりする。
スケール感や全体の見通しはもう一歩。
 でもなんといっても、馴染み深い、ポラスキの素晴らしいブリュンヒルデが聴けるのがうれしい。彼女の大らか、かつ、情のこもったアメリカの母的な歌声は、とても安心感があるし、それが大雑把な場違いな表現に陥らずにブリュンヒルデという一人の女性を短いながらも歌いこんでいるように感じる。
彼女のブリュンヒルデとイゾルデはこの耳で聴いたけれど、力強さとおおらかさと情にみちた暖かさを感じることができたのだ。
その貴重な歌唱で、ここではバレンボイム、点を稼いでる。

いやぁ、おもしろかった。
3日間、5枚のCDを聴きまわしてみたけど、あえて、さまよえるクラヲタ人が付けた順位は。
①セル、②バレンボイム、③メータ、④ミュンシュ、⑤オーマンディであります。
音源ある米オケに限定してのこと、あいすいません。
50~80年代の録音ではありますが、この頃までは、アメリカのオーケストラにも色がそれぞれあって、それがレーベルの個性ともあいまって、とても楽しく聴けたのです。
もちろん超優秀フィラ管の美しい弦も味わえたし、RCAのボストン録音も特徴あります。

曲を絞って、こうしてオーケストラの聴き比べも楽しいものですよ。

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2010年2月24日 (水)

HILE MIME !

Imgp2562
過去の写真を整理していたら出てきた1枚は、札幌の豊平川で見つけた鴨ちゃんたち。
もうすぐ春ですよ~って感じ。
色は違えど、仲良くしてます。

苦手な方には申し訳ありませんが、本日もワーグナー・ネタであります。
土曜以来、ずっとワーグナーが頭を駆け巡り、私を支配しております。
こんなことは、これまでずっと経験してきたことでして、熱がちょっと冷めたら英国音楽やバッハやモーツァルトを聴くと、心洗われることになるんです。
でもまた、いつしか、おいでおいでされて、ワタクシは二人のリヒャルト様にお呼ばれしてしまう、その繰り返しが私の音楽人生なんです。

Ki_20002662_1_2 新国立劇場で、23日まで上演された「ニーベルンクの指環」第2夜「ジークフリート」は、大成功裡に終わった。
その第1幕は、ミーメの館。
原作では、森の中のあばら家になっているのだが、キース・ウォーナー演出では、ご覧のような資本主義アメリカン調の物があふれた家庭になっていた。
ここで、ジークフリートは何自由なく暮らし、食べ物は粗末にするは、物は壊すは、養い親に反抗はするは、命令はするは、暴力は振るうはの家庭内暴力したい放題だったわけだ。
 これが何もデフォルメされた演出とばかりもいえず、原作でも、ミーメは醜い存在として描かれ、まして神と人間の血をひくウェルズング族と地底の小人族とは相いれない間柄だからして、ともに暮らしながら憎しみあう関係になってはいたのだから奇抜な読み変えでもないわけ。

で、気になったのが、お家の上下にある「HILE  MIME」の金ぴかラメ文字。
しかも反転しちゃってる。

この言葉は、「ハイル、ヒットラー」だと、「ヒットラー、万歳」とか、「ヒットラー、最高!」「ヒットラー、やったぁ~」とかいう風になるみたい。
ヒットラーはおいといて、「ミーメ万歳」、「ミーメ、最高だぜ」ということになるのです。
または、単にご機嫌の挨拶みたいにも使われるから、「ハ~イ、ミーメ」という掛け声にもなっちゃう。

今回意味するところは何だろう。
私の深読みでは、ミーメ万歳」。
でも素直に表明できないから、裏返し。
何故かって、ジークフリートを育てあげ指環を獲得させた。
もしかしたらジークリンデにもちょっかい出してたかもしれないヤツ(ジークリンデの血にそまった服を愛おしそうに抱きしめてた・・・)
そして、ハーゲンの親である可能性も高い。

ま、こんなことに想像をめぐらすことができるのも、キースの「トーキョー・リング」の面白いところ。

で、今回、そのミーメをば、名ヘロデで、特異な性格テノールでもあるウォルフガンク・シュミットが演じたわけだけど、一見淡々とした見るからに男っぽいシュミットが、細やかでそれこそオカマっぽい動きをしていて極めて面白い出来栄えだった。
もともとは、タンホイザーやジークムント、やがてジークフリートもバイロイトで歌ってきたヘルデンテノールだけに、相方のことも痛いほどわかる頼もしい存在。
見た目も演技も、ちょっとエキセントリックなところがあるから、この新境地はこれからちょっと面白い存在。ローゲもやって欲しい。
 こうしたヘルデン系のローゲは、多々事例のあることだけど、ミーメとなると珍しく、マンフレート・ユンクくらいしか思い当たらない。

ここでシュミットの「エキセントリック・ミーメ」を頭に置きつつ、歴代のミーメちゃんを振り返ろうという寸法。
音源として入手しやすい、新バイロイト以降となりますが・・・。

          バイロイト              その他
51~57年  パウル・キューン        ユリウス・パツァーク
58年      ゲルハルト・シュトルツェ
60~61年  ヘロルト・クラウス
62~64年  エーリヒ・クラウス
65~67年  エリヴィン・ヴォルファールト
68~69年  ゲルハルト・シュトルツェ
70~71年  ゲオルク・パスクーダ      ペーター・シュライアー
72~80年  ハインツ・ツェドニク
83~86年  ペーター・ハーゲ         ホルスト・ヒーステルマン
88~92年  グラハム・クラーク
94~98年  マンフレート・ユンク
00年      ヘルムート・パンプフ
01~04年   マイケル・ハワード
06~08年   ゲルハルト・シーゲル
09~      ウォルフガンク・シュミット

日本人歌手: 篠崎義昭 松浦健

Zednik ざっと自分で聴いて確かめたものも含めて、こんな感じでしょうか。
ひとつ言えることは、ミーメ歌いは、すぐれたローゲも歌うこと。
バイロイトでも、とジークフリートで、ミーメ役が異なることが多々あって、それはローゲを歌うからでもある。
 こうしてながめてみて、戦後最高のミーメは誰か?
私は、ハインツ・ツェドニクといきたい。
シェロー演出で親しんだせいもあるが、あの演劇的な要素が高まった歴史的な演出に華をそえたのが、ツェドニクのローゲとミーメだったと思う。
高音で、キーキーまくしたてるような、コミカルな軽々しさとシニカルな哀感。
歌に演技にそんな雰囲気がにじみ出ていて、かつてないタイプのキャラクター・テノールだったと思う。
ツェドニクの前には、絶対と思われたシュトルツェも古臭く感じてしまったのだ。
Volfallt ただ、ヴォールファールトはよかった。というかベーム盤という刷り込み体験があるから印象深いし、早世してしまったし、写真で見る気持ち悪い風貌と実物のハンサムぶりのギャップがとても大きかった。

Berlin それと、バイロイトには出なかったけれど、私には2度の舞台体験でのヒーステルマンも思いで深いミーメだ。二期会とベルリン・ドイツ・オペラであるが、前者は完全に舞台を引っ張っていて、若杉さんが完全に任せきっていたし、後者はR・コロとの丁々発止の舞台がG・フリードリヒのコミカルな演出とあいまってすごく面白かった。
その声はもう30年前だからあんまり覚えていないけれど、ツェドニクやクラークまでは軽くはなく、シュトルツェに近いものだったような・・・・。

シュトルツェ→ツェドニク→ハーゲ→クラーク→ユンク→パンプフ→シーゲルと続いた、名ミーメの系譜に、シュミットおじさんが、ユニークなミーメとしてしっかり名を連ねることができるかどうか。今後出てくるバイロイトの映像にも大いに期待したいものですね。
「ヒッヒッヒッ~」じゃなくて、「ウッヒッヒッヒー」。。。。。

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2010年2月21日 (日)

ワーグナー 「ジークフリート」 新国立劇場公演①

Shinkoku201002

ワーグナー「ニーベルンクの指環」第2夜、ジークフリート」を観劇。
自身5度目のリング体験。
こちらは、2003年のプリミエに続き
2度目。
もう7年前、昨年の前半部分もそうだったけど、いろんなことが満載の演出だから、どこがどうだったか、詳細には覚えていないのがちょっと情けない。
逆に、何度観ても飽くことのない魅力的な演出。

Siegfried2010 土曜日ということもあるけど、満席99%の新国立劇場
リングでも一番地味だし、男オペラなのにこんな状況。
他の日も同様と聞きます。オペラファン層の昨今の拡充と、ワーグナーの音楽、それも「リング」を一般教養として、普通に受容しようという、積極的な観客が増えたことの証しであります。
これは、実に喜ばしいことで、イタリアオペラに熱狂する観客とは明らかに異なる雰囲気のお客さんを本日目の当たりにして、思ったことであります。
拍手のタイミングも含めて、理想的でマナーがよい、世界規準の高度な観客であったわけです。

そして、キース・ウォーナーのポップでカラフルな演出は、こんな地味楽劇でもハジケまくっていて、バイロイト級の一流歌手たちの文句のつけようのない歌と演技が完璧に色を添えた上演。

 ジークフリート:クリスティアン・フランツ ミーメ:ウォルフガンク・シュミット
 さすらい人:ユッカ・ラシライネン     アルベリヒ:ユルゲン・リン
 ファフナー:妻屋 秀和           ブリュンヒルデ:イレーネ・テオリン
 エルダ :シモーネ・シュレーダー     森の小鳥:安井 陽子

  ダン・エッティンガー指揮  東京フィルハーモニー交響楽団
    初演演出:キース・ウォーナー
    企画:若杉 弘
    芸術監督代行:尾高 忠明
    舞台監督:大仁田 雅彦

                         (2010.2.20 @新国立劇場)

今回も、ウォーナーの名前や装置、照明などの担当者は、初演スタッフとして記載されているのみで、顔写真入りでの紹介もなし。
その意匠はしっかり受け継がれているから、この世界に誇るべき「トーキョー・リング」を無心に楽しめばよい。
カヴァー歌手が、ジークフリートがシュミット、さすらい人がリン、アルベリヒが島村さん、ブリュンヒルデが横山恵子さんといった具合!

体型のことはともかく、フランツのコロやイエルサレムにつながる、明晰かつ明るい色調の声は、肉太で重いヘルデンを過去のものに感じさせるに充分。
ずっと出ずっぱりで、最後はただでさえ凄いデカ声のブリュンヒルデと張り合わなくてはならない超難役だけど、フランツは最初から最後までスタミナ充分に元気で無邪気なジークフリートを歌いきった。
対する期待のテオリンもすごい!目覚めの一声は、グワァーーンと大声響かせるかと思ったら、意外と大人しいお目覚めで、むしろ純潔の動機にのって歌われる場面での抒情的な細やかな表現の方に魅力を感じた。でも当然、イザとなると凄いお声です。
彼女が主役の黄昏が楽しみ。
 ヘルデン級の歌手がミーメを歌うのも最近のトレンドで、バイロイトでもユンクに始まり、今回のシュミットも現在本場で歌っているところ。
これが実に巧みで余裕たっぷり。ジークフリートとのやり取りも負けじ劣らず。
性格テノールによる「ヒッヒッヒッー」のミーメに慣れた私には、シュミットの「ウッヒヒヒッ」のミーメは妙に新鮮。スキンヘッドの、その特異なミーメは不可思議な存在だった(笑)
 ハマっているといえば、アルベリヒのリン
この人の声もまったくもってブレがなく強いもので、どんな格好しても、後ろ向いててもしっかり通る声。黄昏で出ないのは残念。
以前は上ずった声が好きになれなかったラシライネンだけど、昨年来のウォータンですっかり見直すことが出来た。軽めのバリトンも、演技もうまいもので存在感があるから気にならなくなってきたのかもしれない。今回も渋いけど若々しい神々の長でありました。
 美しいバスの妻屋さんは、強烈な外国陣営のなかでも光っていたし、ぐるぐる回されて歌わなくてはならない気の毒なシュレーダーのエルダも味わい深いメゾ。
 そして飛びました、安井陽子さん。素敵なツェルビネッタがまだ耳に残る彼女の小鳥。
愛らしい声とウマさも相変わらずだけど、着ぐるみを来た可愛い演技も目を見張り、さらに人気者になりそう。
最後に着ぐるみ脱いじゃう場面も相変わらずあって、隣席ではあれは無意味との声が聞かれたけれど、ウォーナーの細かな演出からすると、防火の消防服に着替える段階で必要な見せ場なのだろう。
こんな具合に、すべてに意味をもたせていて、それが舞台のあちらこちらに展開されているものだから、まったく気が置けないのだ。

前回は、準メルクルの強い要望もあってジークフリートからN響がピットに入って、重厚さが増して劇場が一変してしまった印象を持っている。
今回は、そんな思いをぬぐい去ってしまうような東フィルの目覚ましい好演。
ちょこちょことアレ?はあったけれど、エッティンガーが目指したと思われる曇りないクリアーなワーグナー・サウンドをしっかり紡ぎだしていたように思う。
そのエッテンガー君、今回も遅い、タメる、伸びる。
でも緊張感をしっかり維持していて、聴いていてだれることが一切ないし、もたれることも一切ない。演出の細やかさに寄り添うように、微細にわたって音楽が変化するのがよくわかった。時おり立ち上がり、師匠バレンボイムそっくりの指揮ぶりを垣間見させてくれた。
 こうしたスリムなワーグナーもいいけど、ティーレマンが聴かせているような過去軸足型の重厚ワーグナーにも心魅かれるのも事実。

長文になりますので、舞台の様子は後篇に。

Shinkoku201002_2 違う日の公演とばかり思い込み、手帳に誤記載をしていたわたくし。
IANISさんと同日でした。氏と幕間で談笑中、グラス片手に横切るromaniさんを発見。
これもオペラ同好の楽しみ。
IANISさんは、新幹線の時間があるためお別れし、romaniさんと、オペラシテイで焼酎1本飲みました。初めて飲む銘柄だったけど、これが極めてウマくて、翌朝も快調。
2時開演で、幕が下りたのは8時過ぎ。
店に飛び込み、9時30分のラストオーダー。10時間あまり新国周辺にいたことになります(笑)。
お二人とも、どうもお世話になりました。

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ワーグナー 「ジークフリート」 新国立劇場公演②

面白さ満載の「トーキョー・リング」
「ジークフリート」の舞台をここに書いてしまいます。
長文あしからず。

いろんな工夫や仕掛けが随処に施されているけれど、それらが決して思いつきや、効果を狙っただけの見せ物ではない。
しっかりと音楽と劇を読み取り、ワーグナーが書いた微細なまでのライトモティーフも汲み取っているし、人物たちの複雑な心理状態にも踏み込んでいるのがわかる。
人間ドラマのワルキューレでは、こちらの思い入れも強すぎて、不快な場面もあったけれど、人物たちが単純で、欲のままに動き回るジークフリートは、ウォーナーのポップ感覚が面白いように決まりまくったのを強く感じた。
何よりも、音楽を邪魔しない、音楽を理解した演出であることがよいのだ。

第1幕

前奏曲と同時にまず、さすらい人(ウォータン)が左から顔を出し、舞台前面にある金床の上に工具箱を置く。
Ki_20002662_1 そのあと右からアルベリヒが車椅子状態(で自らの股間を傷つけたため)で出てきて、金床のうえに今度は薬瓶を置く。
やがてせり上がってきたのは、切り取られた家の断面、「ラインの黄金」のニーベルハイムの構成によく似てる。
上下には、「HILE MIME」のラメ文字が、しかし裏向きに書かれている。
2階はクマさんのぬいぐるみが転がる子供部屋、1階は床が斜めで、厨房、電子レンジ、冷蔵庫、テーブル、作業台、クローゼットなどところせましと並ぶ。
物が豊富なアメリカンスタイルの生活を送っているのがわかる。
ミーメは出来そこないの剣の数々をゴミ箱から出してみせる。にょろにょろだったり、ラケットだったりで・・・。そしてテーブルの下から、恐竜のぬいぐるみまで出しちゃう。

 ジークフリートは、熊を追ってくるのでなく、自らが熊の着ぐるみで現れ、頭や足を脱いでミーメに向かって投げつける。下は、スーパーマンのTシャツにジーンズのオーバーオール、スニーカーの兄ちゃんスタイル。
 ミーメが冷蔵庫から出したりした、肉や飲み物をちゃぶ台を一蹴するかのように投げ出す乱暴者。肉なら自分で焼くと電子レンジでチンして、もも肉を食い付くがイライラしてすぐに投げちゃう。家庭内暴力進行中なのだ。
びくびくするミーメは、甲斐甲斐しく働く。黄色に赤いフリルの付いたエプロンを付けて、ジークフリートが脱ぎ散らかした熊の服にアイロンをかけてる(笑)

「乳飲み子のお前を養って・・・云々」と何度も繰り返すが、そのたびに何か手仕事をしてるし。
 折れた剣ノートゥンクは、前作の通り赤い。布に包まれていて、その布はジークリンデの着ていた服で、お腹のあたりが赤く染まっている。
これを抱きしめるミーメは気持ち悪い。

いきなり登場のさすらい人への質問は、アメリカTVのクイズショー。
キンキラのジャケットをクローゼットから出して、さすらい人を真ん中のイスに座らせ、テレビ画面に顔を映し出してクイズ開始。手には質問をいくつも書いたカード。
答え合わせに、分厚い本をめくって調べもする。
さすらい人は、答えのたびに懐から黄金や金の林檎を出したりする芸の細かさ。
 今度は、逆クイズの時間。
ミーメは、ガウンを着てクイズに備えるが、イスに縛りつけられてしまう。
その不安な表情が、テレビに大写しになり、さすらい人から折れた剣を押しつけられる

ミーメのその首を怖れを知らぬものに預け、森へ行く地図を残して、戦争の恐怖を映し出したビデオをセットして出てゆく。
 原作では近づく光に怯えるミーメ。とってつけたように不自然なこの場面を、ウォーナー演出では恐怖ビデオを映し出すことでうまく処理していたように思う。

元気に帰ってきた乱暴者は、帰るなり、いそいそとサンドイッチを作りだす。
パン・レタス・チーズ・ハム・レタス・パンといった具合に、ほんとリアルそのもに作っていき、さぁ頬張るとおもったら食べないで、ほったらかしてしまうのが何とも・・・・。
ミーメは、今度はまた違う上着にお着替え。さきのガウンをやたら丁寧に畳んでいて、とても満足そう。
Ki_20002662_2 剣を自ら鍛えなおすジークフリート。剣を包丁で刻んで、それをミキサーにいれて、冷蔵庫から白と緑の液体を入れてシェイク。それを今度はレンジに入れてチン。
さらにそれを大きな型枠に入れて加熱。ふいごをミーメに変わって吹くと勢いが違う。
ジークフリートの目を盗んで、ソーセージをロ-スターで焼いてるミーメは憎めない。
型枠から緑のかたまりを出し、ロースターで焼き、出来上がり。
こんな気楽な鍛冶の歌。最後は小さなトンカチでカンコンうあって剣が仕上がる。
 傍らでは、ミーメは一抹模様のアメリカンダイナーのシェフのようなジャケットにコック帽。
ジークフリートを眠らせるための飲み物作りは、鍛冶の音楽に合わせてシェイクだ。
そのあとは、この日最後の衣装替え。旅行ジャケットに帽子、鞄で、森へ行く準備完了。
ジークフリートの剣の一振りで、作業台は煙を吹き、舞台前面にあった金床は倒れる。
最後は、養い親と息子は抱き合って幕。


第2幕

Ki_20002662_3 Ki_20002662_4 ディズニーの漫画に出てくるような、幹がオバケの顔にデフォルメされた大きな木が一本。枝からは数体、人のようなものがくくられてぶら下がっている。
その前に右からアメリカン・モーテルがせり出してきて、ふた部屋の片隅にはアルベリヒがベットの上に眠っている。
右上からネオンで輝く「Neidhohle」と書いた矢印が出てくる。
隣室にやってきたさすらい人とアルベリヒは隣部屋同士で口論を始める。
やたら興奮して松葉杖でうろつくアルベリヒに対し、達観したかに見えるさすらい人は、余裕ある旅人に見える。
外の恐竜ファフナーに呼びかけようという段になって、二人同時に窓のブラインドを開けるとそこには、恐竜の目が左右に光っている仕掛けだ。
「なるようにしかならない・・・」と言って出てゆくさすらい人。赤い槍を残していってしまうかと思ったら、また戻ってきて槍を持ちなおして「各自自分なりのやり方とうものがあるものだ」と言い残す。この言葉を印象付ける再登場とみたがいかに。

ミーメに連れられやってくるジークフリート。角笛(おもちゃのラッパ)を矢印のような木に下げ、鞄も片隅に置き準備するミーメはここでも甲斐甲斐しい動き。
ミーメを追い出し一人になったジークフリートのまわりに着ぐるみの動物たちが現れる。
ますは鹿が一匹。それは頭を外すと男性で赤い剣をもっていて、背中をみせて寂しげ(ジークムント)。
やがて、ウサギも現れ、男性で赤い槍所持(ウォータン)。
真ん中に女鹿。彼女はまさにジークリンデでありましょう。ジークフリートの、女性に憧れる歌に即した動きをする。

さらに、リスはチップとデールだ。頭を取ると白いツルツル頭。兄弟喧嘩を始めるこれは、巨人の兄弟ですな。
ジークフリートをとりまく人物たちと、彼の孤独をあらわしたものか。
Ki_20002662_5  動物が去ると、人間大のデッカイ青い鳥。足は黄色くてアヒルみたい。
鞄からおもちゃの笛を数々出し、芦笛とかいいながら吹くが、鳥は嫌がる。
角笛ことおもちゃのラッパを楽しげに吹き、鳥が引いてしまうのが笑える。
 やがて不穏な雰囲気になり、大きな樹の中の目が赤く光りだし、ぶら下がったものが落ちてきてゾンビと化してうごめいている。
Ki_20002662_6 ジークフリートはこれらと戦い、木を真っ二つに折ると断末魔のファフナーが出てくる。
ここでミーメの調合した飲み物を飲ませてしまうジークフリート。
苦しそうな様子のファフナー、最後には驚いたことに、ジークフリートに接吻しちゃう。
原作では、剣を引きぬいたときに浴びた血をなめるんだけど、ここではチュウされちゃったんだ(笑)
 頭を外した大青鳥の中からは青い頭のかわゆい女性。
鳥の声がわかるようになったジークフリートが、獲物を探しにゆくと、モーテルがせり出してきて、今度はミーメとアルベリヒの骨肉の兄弟喧嘩が始まる。
お互いの部屋を行ったり来たり。電話で罵り合ったりと早口言葉みたいなシーンなのに、こんな細かくて激しい動き。歌手は大変だけど、難なく歌う二人に感心。

ジグソーパズルのでっかいリングを付けたジークフリートが、出てきて、ミーメはすり寄り、べらべら喋りまくる。
建物の上には、鳥ちゃんがほんとに飛んできて、宙返りをしたり逆さまになったり、部屋の様子を窺っている。
鳥の声とともに本音も聴き分けることができるようになったジークフリート。ミーメの腹黒い企みは、みんなわかっちゃう。ミーメはその都度隣室に行き、壁のテレビに顔が大写しになって、そこで、その魂胆をみんな喋ってしまうんだ。笑える。
 そしてついにジークフリートの一撃に会い、残虐にもドアに血糊を付けてずるずると倒れてしまう。鳥の変わりに上に現れた兄がせせら笑うが、リンの声はド迫力。

Ki_20002662_7 女性に恋焦がれるジークフリートに、ブリュンヒルデの存在を知らせ道案内をする大青鳥は、舞台奥で鳥の衣装を脱ぎ捨て、消防服を手に元気よく去り、ジークフリートも鞄片手に後を追う。


第3幕

Ki_20002662_8 終幕や、ワルキューレで現れた奥にすぼまったパースペクティブな白いスペース。真ん中には、巨大なジグソーの一片がゆるゆると回っていてそこに横たわっているのは人間ICのような妙な格好をさせられたエルダ。
周辺はフィルムの残骸の山で階段を3人のノルンたちが昇り降りしている。
立ち入り禁止を破ってウォータンが入り、回転を止めエルダを無理やり起こす。
ノルンの動きも止まってしまうがエルダが喋ると動く仕組みだ。
エルダに知恵を借りるどころか、いい争い一方的に怒るウォータンの無謀ぶりは、フィルムを引っ張りだして、その手でぶっちぎることで、自らの終焉を物語っている。
これと同じことが、ワルキューレの2幕で、アルベリヒの息子誕生と挑戦に怖れ、神々の終わりを歌ったシーンにありはしなかったろうか。
でフローが撮影していたビデオや、ウォータンが見ていた映写機を忘れてはならない、神々の黄昏の大団円にも活きてくるのであります。
 このステージが、またもやワルキューレのように、舞台奥へと消えてゆく様は、本当に見ごたえあって、他の劇場では上演不能でありましょうか。

代わりに巨大な金床が現れ、小鳥ちゃんも奥にひょっこり姿を見せるが、さすらい人を認めていなくなってしまう。
孫を待ち受けるウォータンと、お腹ぽっこりの無邪気なジークフリートの会話も面白い。
顔をのぞきこんだり、帽子をとって自分でかぶったりと、爺さんと孫って感じだ。

Ki_20002662_10 やがて、槍でもって剣を取れと戦いを促すかのようなウォータンであるが、難なく槍は真っ二つ。このとき、二人はヒシと抱き合うのであった。
ジークムントの最後のように、でも今度はジークフリートに想いを託したウォータンが抱かれるように見えたのだ。

そのあと微動だにせず、前を見つめるウォータン。
舞台前面に壁が降りてきて、ウォータンは見えなくなりつつ、壁には、「この槍を怖れるものは近づいてはならない!」の文字が燃え盛りつつ流れている。
次に出てくる言葉が、「各自、それぞれの流儀があるものだ・・・」。
ジークフリートと聡明なブリュンヒルデに託した想いは、神々の黄昏でどうなるのであろうか。。。
左右に緑と赤の扉。緑から鳥ちゃんが出てきて、舞台を横切り赤のドアを開けて入ってゆく。
そのあと、ジークフリートがやってきて、ここで山の頂きに着いた長いモノローグが歌われるわけだが、ブリュンヒルデの山はまったく見せず、前舞台でパントマイムのように処理。
女とわかってるのに、「こ、これは男じゃない!」と驚いてみせる矛盾だらけのシーンだけに、この味気ないくらいのやり方はよかったかも。

Ki_20002662_12 やがて、壁が開き、大きな家の形の空間があらわれ、お馴染みの巨大な鉄パイプの斜めベットに、目覚まし時計、武具、小さく縮んちゃった木馬などが周囲に置かれ、ブリュンヒルデが眠っている。
窓の外は本物の火が燃え盛っている。

ブリュンヒルデ、眠ったときは、もう少し黒かかっていた髪が、まっ白い銀色になってる。
起こされたブリュンヒルデとジークフリートの二重唱は、さほど変わったところなく進行。
心理状態に合わせて時おり暗くなったり、背景が赤くなったりするが、空は晴れて雲も浮いて美しいものであった。
Ki_20002662_13 ここは、二人の絶唱に素直に耳を傾け、背筋が伸びるほどの感銘を味わった。
しかし、最後にこの家の背景がいつのまにか変化しているのに気がついたでありましょうか。
 先のエルダが眠る、運命をつかさどる部屋が窓の外に見え、ノルンが上下していたのだ。
幸せに酔いしれる二人の背景では、もう次の運命にむけてフィルムはスタートしていたのである。。。。


アルベリヒは結局、ミーメを遠隔操作し、ウォータンはジークフリートに剣を復元させ、ファフナーを倒し、ブリュンヒルデの山へと向かうように仕向ける。
ここではそんな思惑の背景が窺える演出だったけど、かわいそうなのはミーメだ。
家庭内暴力の吐け口にあい、子育ての報酬に無残にも殺されてしまう。
しかし、ウォーナー演出では、で、自ら不能となったアルベリヒの女と怪しい雰囲気になる場面が描かれていて、不能者からいくら憎しみの子といえども生まれ得ないので、ハーゲンはミーメの子供ではないかと想定される新説が残されている。
アルベリヒとともに、ミーメの思惑も神々の黄昏には引き継がれているのかもしれない、そんな演出。私の深読みでしょうか?
 いずれにしても、いろんな想像や思考が生まれる宝庫ともいってよい「トーキョー・リング」の魅力は尽きず、一度や二度では味わいつくせない。
再度の通し上演を企画して欲しい。
 それとできれば、普通の演出(メトの映像)を見てから、この舞台に接して欲しいもの。
奇抜さが単なる面白さで終わってしまうから。

それにしても、素晴らしい舞台に歌と演奏。
ブラボー飛び交い、歌手たちも満足の表情しきり。
目は怖いけど、テオリンさん、明るくてナイスな人柄とみました。
彼女のイゾルデの録音確認してみなくては。
鳥の足で出てきた安井陽子さん、3幕でも歌なし出番ありで、カーテンコールをもらった。歩き方カワユス(笑)

新国オリジナルの「トーキョー・リング」、国の威信をかけて、映像化して世界に発信して欲しい

 「ジークフリート」の過去記事

「ヤノフスキ&ドレスデン」

「ブーレーズ&バイロイト」
「ケンペ&バイロイト」

「カラヤン&ベルリンフィル」

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2010年2月19日 (金)

ディーリアス パートソング エリジアン・シンガース

Hills_rose 六本木ヒルズで見つけたオブジェ。
この怪しいバラは、とてもデカイのでありました。
8mもあるんだそうな。
バルコニーと奥に見える東京タワーとの不思議な幻想的バランスが面白いですな。

Delius_partsong 今日も英国。
最愛の作曲家のひとり、フレデリック・ディーリアス(1862~1934)を聴きましょう。
ディーリアスによって導かれた英国音楽愛好の道。
中学生の時からの永い付き合いで、いつどの曲を聴いてもディーリスというだけで、その音楽は、私をノスタルジーのかたまりへと誘ってしまう。
当ブログ初期に、「望郷のディーリアス」というタイトルの記事を起こしてます。
ちょっと恥ずかしいけれど、昔から、そして今もこれからも変わらないディーリアスへの思いは、育った地と肉親への想いへとつながっているのである・・・・。

日本のディーリアス・ファンにとって、東芝EMIが出したディーリアスの一大アンソロジーシリーズのLPは、極めて重大なターニングポイントだったろう。
それは、英国を愛した三浦淳史さんあってのシリーズだった。
そのシリーズになかったのが、合唱曲集の1枚である。

コニファー・レーベルから出たエリジアン・シンガーズの1枚は、おそらく唯一のコンプリート集であろう。
オルガンやピアノを伴う曲も一部あるが、基本は無伴奏による合唱作品がオペラや劇音楽からのものもふくめて全部で13曲。
ドイツ語による25歳の若い頃の作品から、62歳の円熟期までのものと各期にわたっての合唱作品が万遍なく収められている。

 1.初期のパートソング(独語)
    「森を透かして」
    「黄金の太陽」
    「アヴェ・マリア」
    「日の光の歌」
    「春の訪れ」
 2.「さぁ祝宴をあげよう」(独語)
 3.歌劇「イルメリン」~第1幕の合唱
 4.「イルメリン」
 5.歌劇「村のロメオとジュリエット」~婚礼の合唱
 6.「アパラチア」~合唱曲
 7.「クレイグ・ドゥの頂で」
 8.「さすらい人の歌」
 9.「真夏の歌」

10.「子供のためのふたつの歌」
    「小鳥」
    「まどろみの子守唄」
11.「夏の夜 水のうえにて歌える」
12.劇音楽「ハッサン」からふたつの合唱曲
13.「夕日の輝きが城壁に落ち」

 マシュー・グリーノール指揮 エリジアン・シンガーズ・オブ・ロンドン


シモンズテニソンの詩的な歌に、さりげなく添えられた音楽は本当にステキなものだ。
押しつけがましさが一切なく、少しシャイな音楽は、繊細なアカペラでもっていっそうに美しく、触ったらこわれてしまいそうなくらにデリケートに響く。
三浦先生の名訳でもって一躍、夏のさわやか音楽として脚光をあびた⑪「夏の夜 水のうえにて歌えるは、厳冬のいま聴いてもしんしんと心に染みいる名品。
 ⑧「さすらい人の歌は、愛も女性も充分に経験してきた男が心破れてグラスを片手に、荒涼とした自然に向かう歌である。
パリで放蕩のすえ、体を病んでしまったディーリアスの姿が、このシモンズの詩と悟りきったような澄んだ音楽に見てとれる・・・・・。
⑬「夕日の輝き・・・・は、テニスンの詩。悲しい恋人たちの歌が、いにしえの城壁に傾く夕日の中から聞こえてくるようだ。
ハミングの伴奏のうえに、重ねて歌われる合唱。とても洒落ていて、美しくも物悲しい・・・。

何度聴いても、心にしみいるディーリアスのパートソングの数々でした。

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2010年2月18日 (木)

ハーティ ヴァイオリン協奏曲/ピアノ協奏曲

Torisoba とり蕎麦
鶏は意外なほど出汁が出る。
その出汁で、作るお雑煮が大好きなんだ。
それはともかく、ネギと柚子がほんわかとしてとてもおいしかった。
温まりましたねぇ。

Harty_concert サー・ハミルトン・ハーティ(1879~1941)いきます。
ハーティといえば、どちら様もヘンデルの「水上の音楽」の編曲者として、その名前はご存じかもしれませんね。
ヘンデル作曲、ハーティ編曲、組曲「水上の音楽」。
大オーケストラによる豪奢なヘンデルは、往年の名指揮者たちの演奏でたくさん取り上げられたけれども、今やオリジナル回帰で、あんまり演奏されなくなってしまった。

そう、ハーティは編曲の達人であり、オーケストレーションの匠でもあった。
そして当然に作曲家として、いくつもの作品を残している。
加えて指揮者としても高名で、ハルレ管弦楽団の指揮者を務め、英国初演曲も多く手掛けているなかなかの音楽家なんだ。

アイルランドに生まれ、アイルランドを愛したハーティは、音楽にも母国にちなんだフォークソング的メロディをちりばめ、ノスタルジックな曲を書いた。
同時にカッコイイくらいにオーケストラを鳴らせてみせるような、見事な作風ももっていたので、決して多くはないその作品のいずれにもハマってしまうんだ。
 私のお気に入りは、華麗なオーケストレーションではなくて、詩情あふれる静かな部分。
今日のふたつの協奏曲も、そうした魅力にあふれているんだ。

      ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
         Vn:ラルフ・ホームズ

      ピアノ協奏曲  ロ短調
         Pf:マルコム・ビンズ

   ブライデン・トムソン指揮 アルスター管弦楽団


ヴァイオリン協奏曲は、ほかの管弦楽作品に強くみられるアイルランド・テイストはやや後退していて、ヨーロッパ伝統の協奏曲のスタイルを踏襲している。
ドヴォルザークやブルッフにディーリアス風な雰囲気を感じさせる。
1908年、シゲティのために書かれ、シゲティもこの作品を大きく評価したらしい。
なんといっても、ノスタルジー溢れる2楽章がステキだ。
英国系音楽に特有のすっきり感と、茫洋としたとりとめなさが同居していて、夢みる雰囲気にあふれている。泣きのヴァイオリンが聴かれる。
ワタクシ、この楽章だけ、取り出して寝る前なんかに聴くこともあります。
ファンファーレ風に始まる冒頭楽章、終楽章の親しみやすい旋律も、ハーティならではで、一度聴いたら耳に残る旋律であります。
1楽章の冒頭と、終曲最後のティンパニが決め手。

一方、1922年に書かれたピアノ協奏曲の方は、哀愁たっぷり。
アディンセルのワルソー・コンチェルトみたいで、日曜洋画劇場の雰囲気。
解説にはラフマニノフ風とあるとおり、極めてロマンテックでほの暗い要素ももってる。
第1楽章は、まさに映画音楽を思わせるメランコリックなものでふたつの主題ともに、オーケストラとピアノでそれぞれ泣き節のように奏でられる。
カデンツァはショパンみたい。最後は荘重にエンド。
 第2楽章は、これまた緩やかで散文的な美しい音楽で、徐々に熱くなっていくさまがとてもよい。こうしたとらえどころのない音楽はダメな人はまったくダメなんだろうけど、ワタシはもう長く親しんできた世界だから、無性に好きで、これの世界があるから英国系音楽がやめられないのです。
 第3楽章は、アイリッシュきてます。
ダンスの「ジグ」のリズムでとても民族調で活気に満ちている。
アイリッシュ・ソングの「The Wearing of the Green」が懐かしい雰囲気で出てくる。
知らないはずなのに、どこか郷愁を感じるメロディ。
終盤、まるでラフマニノフの協奏曲のような場面も出て印象的に曲を閉じる。

シャンドスに本場アルスター管と、ハーティを集中的に録音したB・トムソン
すっきり・ブルー系の音色のオケとともに共感あふれる演奏。
英国ものに抜群のホームズのヴァイオリンも悪かろうはずがなく、あまり知られていないビンズのピアノもクリアーな音色がとてもよい。
この人、英国作品をたくさん録音してるようなので、探してみたい。

ハーティ、次はオーケストラ作品いきます。

    

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2010年2月17日 (水)

「福井でつるつるいっぱい」 シベリウス カレリア組曲 

Hayaseura 福井に出張。
福井って、飛行場がない県から、関東から行くには意外と遠い。
小松空港から、レンタカーに乗るか、バスで1時間のアプローチが一番早いかも。
ちょっと地味だけど、おいしいもの、珍しいものたくさんの県。
しかも、県内でその風土・気質は東西南北ぜんぜん違う。その辺は長くなるからまたいずれ。
こちらは、市内随一の繁華街、片町(金沢と同じ名前)の居酒屋さん。
地元のお客さんに連れていっていただいた、すんばらしい店で、福井の地酒をたらふく飲んでしまった。「早瀬浦」、つるつるいっぱい
つるつるいっぱいは、県民ショーでも取り上げられていた福井の方言で、表面張力目一杯のなみなみ一杯のこと。ちなみに、私の頭は、表面張力なしのカスカス状態。

Pinpinyaki_2  こちらは、「ピンピン焼き」といいまして、これまた福井の名物。
山芋を丹念にすりおろしたものをお好み焼き風に焼いたものなんです。
これね、ほんと、むちゃくちゃウマいですぜ。
ホカホカ・ふわふわ・ねばねばで、食感がいいし、味がまたほっこり優しい。
家でもできそうなので、検索してみて。

Fukui_katamachi ほいでぇ、店を出て、もう一軒連れていっていただいて、そこを出たら雪やで。
日付は変わっていたけれど、一人になって雪みて浮かれて歩いていたら、見つけてしまった、またもや福井名物。

Akiyoshi 西日本ではお馴染み、焼き鳥の「秋吉」。福井が本場。
東京にも増えましたな。
お客さんと別れ、ひとり秋吉しちまいましたよう。
社長と呼ばれて、ホイホイと、こんなに、さらにその倍も食べちまいましたよ。
ワンロット5本で300円前後。ウーロンハイのんでも、お土産包んでもらっても、そんなに高くない。
焼き鳥、ビジネスバックに入れて飛行機乗ってるの、ワタシぐらいかしらん(笑)
焼き鳥好きの息子に食わせたかったんだもん。

Fukui_castle 翌朝(今朝)は、きれいな雪景色。
福井城址。柴田勝家さんです。来年の大河ドラマ、のだめの上野樹里ちゃんが主演の「お江」にも所縁ある場所ですな。

Kistuccho1_2  最後は食い気で、本日の昼食の模様。
福井の名物のひとつは、ソースかつ丼。
こちらは、そば屋さんも兼任してるので、越前そばの代名詞でもある「おろし蕎麦」とセット、@800円。
ソースは、ちっと濃かったけど、ヒレかつは柔らかく、とってもウマいし、蕎麦のあっさりもGOOD。
このかつ丼は、ソースどっちゃりだけど、かつ丼発祥の店「ヨーロッパ軒」は、こんな感じ
福井は、あとPLANTが楽しいスーパーセンターです。県民ショーになってしまった。
さらに詳しく、ほったらかしぎみの別館で公開予定。

Sibelius_karellia 酔って雪中行軍をしたもんで、元気よくジベリウス「カレリア組曲」を聴きましょう。
野外劇の付随音楽から組まれたこの組曲は、シンプルなメロディラインを持ちながらも、しっかりとシベリウス特有のクールな北欧情緒もかもし出されている名曲。
3つ目の行進曲がやたらに有名だし親しみやすいけど、2番目のバラードがちょっと寂しげで鄙びた雰囲気がいい。湧き上がるような雰囲気溢れる1曲目もいいですな。
ハンニカイネン指揮のシンフォニア・オブ・ロンドンのいぶし銀の演奏で。
オケはモコモコしているけど、それがかえって味がありすぎて、ぶっきらぼうなまでのハンニカイネンの指揮とともに捨てがたい魅力となっている演奏。
5番の交響曲も同種の演奏に感じるけど、録音も含めてちょっと辛いかな。

最後に一言。

当ブログの右下に、検索ワードランキングがあります。
そちらを見てびっくり。
我が愛しの「パトリシア・プティボン」ちゃんの「ルル」が、ジュネーブで上演されたのですな。
某有名評論家氏(いつもどこかで会ってます)がしっかりレポートしてます。
なんだかR18風とあるじゃぁありませんか。
映画畑出身のみょうちくりんなピーの演出だから恐れていたとおりのことがジュネーヴで起きている。
ザルツブルクは、違う演出家だから、もっと考えぬかれた演出ギボンヌ。


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2010年2月16日 (火)

プッチーニ ソプラノ・アリア集 G・ナヴァロ指揮

Shinshindo_1 きれいでしょ。ゼリー。子供のころからゼリー大好き。
京都、祇園の喫茶・ケーキ屋さんの「切通し 進々堂」。
昨年12月、新幹線の時間を睨みながら、すごい勢いで買って帰った一品。
ともかく、美しく、そしてどこか懐かしいゼリー。
舞妓はんが、「みどり〜の、あかい〜の」と言って買うそうで、関東ものにはその洗練された美しさが眩しーーい。
家人に食べさせようと、必死こいたのに、「ふ〜ん」で終わってしまった。
やっぱり、京都の雰囲気の中で購入し、食べないとアカンのやろか・・・・・。

La_donne_di_puccini 今宵は、「あまい〜の」行きましょ。
プッチーニのソプラノのロールに与えられたアリアばかりのコンサート・ライブ録音。
1994年12月、ミュンヘンに集まった名ソプラノは、デイム・グィネス・ジョーンズに、ィタ・グルベローヴァ、ガブリエラ・ベニャチコヴァ、エヴァ・マルトンの4人。
すごい顔ぶれでしょ。グルベローヴァを除けば、みんなブリュンヒルデやサロメが歌えちゃうドラマティック・ソプラノばかり。
しかもそのグルベローヴァのプッチーニは希少だし、大好きなデイム・グィネス・ジョーンズのプッチーニもそう。

オーケストラは、急逝してしまった、スペインのオペラ指揮者、ガルシア・ナヴァロ指揮するミュンヘン放送管弦楽団だから、これまた言うことなし。

 1.「交響的前奏曲」
 2.「エドガー」〜さようなら・・・      ベニャチコヴァ
 3.「マノン・レスコー」〜ひとり寂しく   ベニャチコヴァ
 4.「ラ・ボエーム」〜さようなら      ベニャチコヴァ
 5.「トスカ」〜恋に生き歌に生き     マルトン
 6.「マノン・レスコー」 間奏曲
 7.「蝶々夫人」〜さよなら坊や      マルトン
 8.「西部の娘」〜ソレダートにいたとき ジョーンズ
 9.「ラ・ロンディーヌ」〜ドレッタの歌   グルベローヴァ
10.「修道女アンジェリカ」〜母もなく    マルトン
11.「ジャンニ・スキッキ」〜私のお父さん グルベローヴァ
12.「トゥーランドット」〜きかせたまえ   グルベローヴァ
13.「トゥーランドット」〜遠き昔       ジョーンズ


ガルシア・ナヴァロ指揮 ミュンヘン放送管弦楽団
                 (1994.12.11@ミュンヘン・ガスタイク)

こうした複数歌手によるガラ・コンサートのいいところは、独特の高揚感が味わえるのと、一人が2〜3曲なので声をセーブせずに目一杯歌ってくれること。
そして、同じ声域だと、お互いがライバル心をむき出しにして負けじ劣らずの力唱となることだ。
その会場に居合わせたりすると、もうこれは一種の興奮状態が次々に連鎖してしまい、知らず知らずと熱狂の渦に溶け込んでしまうんだ。
 こうして機械を通した音だけ聴いても、充分に味わえるのは、これはイタリア・オペラの刺激的なところ。

4人の名ソプラノ、すべてが素晴らしいのだけど、私には何といっても、グィネス・ジョーンズ
彼女のトゥーランドットには、心底震えあがり、エキサイトしてしまった
そして、その凄まじさに涙がにじんでしまった。
なにものをも寄せ付けない孤高の歌。
そこには気品と風格があふれ、感情のない仮面の下に血のかよった女性の姿を思いおこさせるに十分な心震わす歌唱なんだ。
 鉄火場の女、西部の女ミニーのアリアも力強く、惚れ惚れしてしまう。

そのあとに、絶妙のタイミングで、クリスタルのような声で、グルベローヴァの私の大好きな「ドレッタの歌」がピアノのオブリガートを伴い始まる。
さらにその後が、マルトンの少し強すぎるけど一図なアンジェリカに、極めつけ!!グルベローヴァの「私のお父さん」とくるわけだ。
こりゃもう、泣くしかないでしょ。
お父さん方。

順番は逆になるけど、ベニャチコヴァが歌う前半の力強くも感情豊かな歌もとても気にいったし、おおざっぱなどと、なにかと言われやすいマルトンも悪くないです。
欲をいうと、グルベローヴァは、あんまりプッチーニには向いていないかもしれない。
冷凛としすぎていて、そのくせ色が濃かったりして、ちょっとできすぎてと、妙な贅沢なんだけど・・・(叱られそうだけど)

それにしても最後の、ジョーンズのトゥーランドットは泣かせます。泣けます
聴衆の異常な熱狂ぶりもすさまじい。

そしてこちらは、2001年に50代で亡くなってしまったスペインのオペラ指揮者、ガルシア・ナヴァロの貴重な録音にもなっている。
スペインものの録音がいくつかDGなどに残ってるナヴァロは、日本でも何度か行われた「ガラ・コンサート」の指揮者を務めていたほか、東フィルにも客演していたはず。
私は、いまや伝説となってしまった、ガラ・コンをすべて行ったが、その時の興奮たるや、いまでも覚えてますよ。
ヤノヴィッツ、フレーニ、バルツァ、リザネック、ボニゾッリ、イエルサレム、カプッチルリ、ギャウロウ・・・今思い出しても興奮してくるし、若き頃の自分を思って懐かしくなってしまう。
冒頭の、交響的前奏曲、曲よし演奏よしであります。

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2010年2月14日 (日)

ブリテン 「アルバート・ヘリング」 ハイティンク指揮

1 ブリテン(1913~1976)のオペラシリーズ第7弾。
全部で16あるブリテンのオペラ的作品。若い頃から晩年まで万遍なく作り続けたオペラだけど、この「アルバート・ヘリング」は、コミカル・オペラ。
作曲順では、4番目のオペラ作品で、1947年、グラインドボーン音楽祭の主催者の依嘱により書かれ、同地で自身が長く主幹することになる、イングリッシュ・オペラ・グループの旗揚げ公演として初演されている。
原作は、モーパッサン「マダム・ユッソンのばらの樹」で、巡業オペラ団に相応しく室内オペラとして書かれていて、オーケストラは各奏者1の12名編成。
合唱もなく13人の個性豊かな登場人物たちが、生き生きと歌い、語り、演じるユニークなオペラである。

この珍しいオペラに、グラインドボーンでの上演に合わせてビデオ収録されたハイティンクが存在することは、望外の幸せであります。
1985年の演奏で、演出は英国演出界の御大サー・ピーター・ホールで、ホールはその頃、バイロイトでシェローのあとを受けて、英国組による「ブリティシュ・リング」を手掛けていた時期である。
革新的だったシェローが勝ち取った栄光は、ホールの具象的で過去に戻ろうとしたかのようなファンタジー溢れる演出では、同じように称賛されることはなかったようだ。
 しかし、この映像に見るいかにも英国の街そのもの舞台設定の美しさと、人物の一挙手一頭足、まばたきひとつにいたるまでに目を光らせた細やかな表現は、極めて見ごたえがあって、入念に録画されただけに、映画を見るかのような入念・入魂の出来栄えとなっているんだ。

コミックということもあり、ブリテンの音楽は明るく、そしてシニカルでユーモアも満点でとても聴きやすい。ブリテンが初めての方でも充分に楽しめます。
そしていつものように、緻密でクール、独特のリズムも相変わらずブリテンしてます。
ドラマに合わせた擬態的なメロディーも面白く、トリスタンのメロディも出てくるし、逢引の抱擁の場面では、それを覗く純朴青年の血圧が上がってゆくかのような音がなります(笑)
ほのぼのとした洒落たエンディングもブリテンらしいところ。

ネタバレとなりますが、自分の記録のためにも映像を見たうえでのあらすじを詳細に書いちゃいます。困るかたは読まないでくださいまし

ところは、イギリスの田舎町ロックスフォード。1900年のこと。

第1幕
2 3
4月の終わり、貴族ビロウズ夫人の邸宅。家政婦のフローレンスが忙しく立ち振舞っている。
ご主人は、気難しく、やたらに細かくうるさいのである。
そこへ約束の時間通りということで、街の有力者、ゲッジ牧師、ワーズワース先生、市長アップフォールド、バッド警察署長の4人がやってくる。
みんな緊張の面持ち。
町恒例事業の「五月の女王(メイ・クィーン)」選出の会議が行われるのだ。
各人が持ち寄った候補者の名前を挙げるが、その彼女たちのこと、いずれもフローレンスは調査済みで、「その娘は日曜に男の子と遊んでいたわ、あっ、その娘の伯父は見持ちが悪い、あの娘はスカートが短い・・・・」等々、おばちゃん、いちいち難癖を付けてコメントし、夫人も「近頃の若い娘ときたらまったく、ブツブツ・・・・」とお怒りモード。
この演出では、外は雷が鳴り雨が降り出す。

 そこで署長が、純潔の女性にこだわらずに、今年は五月の王(メイ・キング)」を選んだらどうか
それにうってつけの青年が八百屋の「アルバートヘリング」君と提案。
彼は母親に育てられ、彼女のために一生懸命働いている真面目で純粋な青年と。
 牧師の篤い説得を受け、ビロウズ夫人、悩み熟慮のすえ、「アルバート・ヘリングで行くわよ!」と決断。さて、全員でこの吉報をヘリング家に伝えに行こうと全員で向かうことに。

 街の八百屋、悪ガキどもが店の前で遊んでいて、アルバート・ヘリングがいないことをいいことに、店のリンゴを盗んだりしている。馬鹿にされたものである。
4 5
アルバートの友人、肉屋のシドがやってきて、「おまえは真面目すぎるんだ、女の子はいいぞ」、となんだとからかわれる。
シドが言いよっているナンシー。
二人は、アルバートの前でさんざんいちゃつき、を手にとり、逢引の約束をしている。
羨ましそうな顔のアルバート、仕事が手につかない。
 一人になったアルバートは面白くない。「オイラにはいつも母ちゃんがいて・・・」と落ち込んでしまう。「もしかしたらチャンスが来るかもしれない・・・。」
ここでのモノローグはなかなかに素晴らしい。
 そこへ、先の有力者ご一行さまが到着し、メイ・キング選出の知らせと、賞金25ポンド獲得を告げると、母ちゃん大喜び。
でも、アルバートは何とも思わず、ご一行退却後、「そんなのは気が進まねぇ~、もう自分で決まられる歳なんだよう」「ダメダメ、言うとおりにおし!」母と息子は口論してしまう

第2幕

 祭りの芝生広場。盛大な飾り付けの真っ最中。
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おいしそうな料理もたくさん。テーブルをセット中のシドとナンシー。
シドは、「シャイなアルバートが晴れの日に恥をかかないようにしねぇとなふっふっふ・・・」悪だくみを考える。
壇上のテーブルのグラスにレモネードを注ぐシドとナンシー。
アルバートのグラスには、大量のラム酒のレモネード割り。
(ここで飲み物を調合する際に、流れるのがトリスタン」の音楽なのだ。やるぜ、ブリテン。)
 全員が揃い、著名人たちのスピーチがまた面白い。
気合いが入りまくって飲み物をこぼしてしまうビロウズ夫人、市長の長~いお話に、欠伸を噛み殺し、股おっぴろげの母ちゃん、こっけいなくらい真面目なワーズワースは、シェイクスピアの本を仰々しくプレゼント、手ぶらだけどともかく素晴らしいと連発署長、司会者のお堅い牧師。
7_2 8  「ここで一言!」とアルバートが指名されるが、彼は立ち上がるものの何もいえない。
ようやく、「Thank you」一言。「だめだめ、もっとちゃんとしなさい」と全員。
牧師がとりなし、まずは乾杯と。
アルバートは、酒入りレモネードを一気に飲み干し・・・・・、そしたらシャックリが止まらなくなっちゃった。
しゃっくりをコップに戻せば治るともう一度、今度はゲップ!
 あとは、あきれるくらいに全員が派手に食べまくる(笑)
このDVDでは、リアルにサンドイッチやプルプルンのゼリーを食べてる。
とりすましたお偉方も、実は品がないのであります。

 その晩、酔ったアルバートが店に一人帰ってくる。

9 11 外では、シドとナンシーがしっぽり逢引中。これを盗み聴きしてるアルバートは、ヨダレたら~り。
恋人たちは夜の闇へ消えてゆく・・・。
「くそっ、くそっ!」、何かを決してアルバートは、コインを投げて占う。
「表が出たらGO,出なければそのまま・・・」。はたしてコインは、表!
コートを着込んで、店の戸締りをしていそいそと出てゆく。


第3幕

 朝から、アルバートが失踪したとあって街中大騒ぎ。
12_2 13
軽はずみな行為を悔いるナンシー、そぼ降る雨に濡れそぼって探索から帰ってきたシドも後悔してナンシーと口論になる。
母ちゃん「あたしの可愛い息子・・・」と大ショック。「おっかさん、しっかりしてよ」
子供たちが、白い何かが井戸の中から発見された、と伝えにくる。
次々に、登場人物たちがやってきて母親を慰め、ついにアルバートがかぶっていた帽子が汚れて発見され持ち込まれてくる。
14 15 一堂は、悲しみに打ちひしがれそれぞれに哀悼の歌を歌う、かなりしんみりしてしまう場面。

そこへ、ドアのベルを鳴らしながら、アルバートがひょっこり帰ってきて、一同「えーーーっ

白い晴れ着は、もう泥だらけである。
16 17 「一体なにをしていたのだ」、と問い詰められ、「ごめんちゃい」、とアルバート。
でも、晴れ晴れとしてるし、ぼろぼろだけど、シャンとした身のこなしが大胆に見える(笑)
「お金は?」、 「22ポンド持ってるよ。」、 「じゃあ、あと3ポンドはどうしたんだ?」
「そう、街を出てパブで酒を飲んだんだ、ビールにジンにウィスキー・・・。」
「あとみんなで大議論になって、喧嘩になって、頭突きかまして、追い出されて、もうぐちゃぐちゃ・・」


「それからねっ・・と、ポケットから女もの下着なんぞを取り出してしまうのであった(笑~うふふ)
 これには、街のお偉方、母ちゃんも呆れかえり激怒。

「あのお金でそんなこと、あんなこと、なんてことでしょう」と気位の高い夫人はプンプン。
でも、シドとナンシーは「ヒャッヒャ~、ナイス・アルバート!」と笑ってる。
可笑しくってしょうがないんだ。

母は怒りつつも、息子が離れていく不安の表情。
19 20
シドとナンシーを残して、皆が去り、悪ガキどもは、「のろまのアルバート、や~い」。
いつものようにアルバートをはやし立てたるけど、今日のアルバートはちょっと違うぞ。
無言でガキたちの前に立つ。子供たちは「あの、その・・・」と大人しくなってしまう。
「こっへ、来い
おどおどする子供たちに、そっと後ろ手に隠し持った、甘~い高価な桃を取り出し、「さぁ、食べろよ
メイ・キングの花の冠を外へ放り出し、青年たちは、思いきり「Sweet Peach」を頬張るのでありました。わはははぁ
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オシマイ 

スノッブな、英国社会への巧みな風刺。
ちょっと外れてた青年が、社会体験を経ることによって、仲間や街に溶け込み、大人になってゆく。
クンドリーの接吻を得て、痛みを知る賢き人に高まったパルシファルのようでもある。
 これを見せられた当時のグラインドボーンに集まった高尚クラスの方々は、内心、眉をひそめたことでありましょう。
ブリテンとお友達、ピアーズは、それこそ、「してやったり」であったでしょうよ!

アルバート・ヘリング:ジョン・グラハム=ホール シド:アラン・オウピ
ナンシー:ジーン・リグビー       母ヘリング:パトリシア・キーン
ビロウズ夫人:パトリシア・ジョンソン フローレンス:フェリシティ・パーマー
ワーズワース:エリザベス・ゲイル   ゲッジ牧師:ドレーク・H・ストロウド
アプフォード市長:アレクサンダー・オリヴァー 
バッド署長:リチャード・ヴァン・アラン エミリー:マリア・ボヴィーノ
シス:ベルナデッテ・ロード       ハリー:リチャード・パーシー

  ベルナルト・ハイティンク指揮 ロンドン・フィルハーモニック
    
  演出:サー・ピーター・ホール
                    (1985@グラインドボーン)


芸達者たちによる歌に演技は、とても見ごたえがあった。
グラハム=ホールは、音源だけだと魅力が薄いかもしれないが、その豊かな表情と憎めない雰囲気がとてもいいテノール。この役を初演時は、当然にピアーズが歌ったのだから面白い。
シドのオウピは、バイロイトでベックメッサーを歌ってた豊かなバリトン。
高尚な方々、母親もそのなりきりぶりがすごい。
子役もうまいもんだし。
ハイティンクの巧妙なリードは、ブリテンのユニークな音楽にふくよかな奥行きを与えているようで、ブリテンとの相性のよさが感じ取れる。
こうしてグランドボーンで、いろんなオペラ経験を積み重ねて、今の超巨匠ハイティンクがあるのであります。

Britten_albert_herring_haitink このオペラ、日本での上演機会は意外と多く、2007年新国上演は何かと重なり行けなかったのが残念だったが、調べたら二期会・横浜シティオペラなどでもやってました。
お薦めの面白オペラです。

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2010年2月13日 (土)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 下野竜也 指揮

Yokohama20100212

雪まじりの、冷たい小雨降る土曜日、横浜の桜木町駅前。

そう、思えば学生時代、横浜を乗換駅に日々利用していた周辺の駅といえば、桜木町は駅周辺はなにもなく、横浜西口(東口は卒業頃!)か、関内か、石川町のどれか。
桜木町、いまや、こちらランドマークタワーの先に、素晴らしいホールが燦然とあっていくつもの名演がそこから生まれているんです。

今日も、そんな名演が味わえるかどうか。
Kanagawaphil_20100213_2  神奈川フィルハーモニーの定期公演に行ってきましたよ。

      ラロ     歌劇「イスの王様」

     ショパン  ピアノ協奏曲第1番
   
            華麗なる円舞曲第2番

              ピアノ:田村 響

     矢代 秋雄  交響曲

        下野 竜也 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                   (2010.2.13 @みなとみらいホール)

ショパン以外は、初聴きの曲ばかり。
矢代作品は、ニコ動で聴いて少し練習。
そして、実はショパン以外が私にはとてもよく、大いに楽しめた。
 ショパンは曲に配列にもよるのか、豪奢なオーケストラ曲のあとに聴く薄い響きのオーケストラは、これはまた仕方がないくらいに鳴らない。やむをえない。
石田コンマスも動きようがなく、じっと神妙に奏するのみ。
それに反してピアノの部分は極めて雄弁で、うっとりしてしまう。
しかし、そのうっとりがいけなかった。ぼぅっ~として、過ごしてしまった40分間。
長いと思った。陥落してしまうかとも思った。
曲の長さも含めて、2番の方が好きかな。
ロン・ティボー優勝の田村響クンのピアノは、その男らしい風貌に似合わず繊細なタッチの極めて美しいもので、アンコールも含めて素敵な演奏だった。
リストなんかもよさそう。

1曲目のラロ。ワーグナーや後期ロマン派風の香りがする、私を刺激する好きな分野の曲で、10分あまりの中に悲しみの旋律や、甘味な歌や、ガンガンなる豪奢な大オーケストラの響きなどが、しっかり詰まっていて、大いに気にいった。
見知らぬオペラとなると、チャレンジしたくなるので、全曲を是非聴いてみたいと思ったものである。
ここでは、山本さんのチェロのソロがまた絶品でございましたことを書いておきましょう!

矢代交響曲は、少し練習の甲斐もあって、こうしてライブで聴いて、どんどんこちらに入ってきた。
こんなすごい、そして聴きごたえのある音楽が、日本人作品のなかにまだまだ沢山あるわけで、ほかにもまだ聴きたい曲が一杯あるのに、残った人生、これまた困ったことになってきた。
パリ留学を終えて、1958年という我が方にとって馴染み深い年(?)に書かれた40分の大曲は、交響曲の美しくあるべき姿の、しっかりとした4つの楽章から成り立っていて、心酔していたフランクの循環形式によっているともいう。
 こうした馴染みの薄い曲だから、何に似てるとかしか言うことができない虚しい自分だが、第1楽章冒頭の神秘的な出だしは、何故かディーリアスの音詩を思い起こしてしまったし、第2楽章のスケルツォは聴くものすべてを興奮させる祭り囃子のリズムそのもの。
これにはハマった。
静謐な第3楽章は、メシアンの教会音楽みたいな神との対話のような雰囲気。
繰り返し繰り返し打楽器が、その配列順に左から右へと印象的に流れながら鳴ってゆく。
いつも神奈フィル打楽器軍団の素晴らしさに関心していたけど、この曲は終始活躍する様々な打楽器。もう完璧でした。
イングリュホルンの山本さん(ですよね?)、大見さんのバス(アルト?)フルートがやたらに深い響きで感銘をうけた。
終楽章は、静かな序奏を経て、激しいリズムの交錯する主部はメシアンとバルトークを感じた私。ともかくこんなややこしいリズムをしっかり振り分ける下野さんの的確でキレのよい指揮が、ここへ来て最高調。
最後の最後、第1楽章が、極めて感動的に回顧され、キターーーッ、という気分に心から満たされ、そのかっこいいエンディングにドキドキ感も極まってしまったのだ。

ブラボーが飛び交ってましたよ

大満足の指揮者とオーケストラ。
石田コンマスが、やろうぜ、と下野さんを誘うかのように、Vの字、(いやこれが第2楽章の2だったのだが)を全員に出してアンコールは、祭り囃子
をを~、これまたかっちょいい音楽が再度聴けて、われわれ聴衆は大満足の心持ちでホールをニコニコとあとにするのでありました。

いやはや、下野さん、いいじゃないですか。
初シモノーだけど、あのリラックマちゃんみたいな癒し系の風貌だけど、音楽にあふれるキレのよさと、豊かな感情表現は、聴衆が初めての曲でも、わかりやすく説得力抜群に聴かせてしまう。オケも弾きやすいみたいだし。
 下野スケジュールを調べてみたら、各地でぎっしり大活躍。シュトットガルトも振るみたいだ。そして、そのプログラムの絶妙さ、グラゴルミサ、ドヴォ4、ブリテン、トランスクリプション集などなど、果敢な挑戦ばかり。
いやぁ、若いんだからこうでないと。
どうしても比べてしまいますなぁ・・・・・。

という具合に予想通りの辛口比較から、矢代作品の素晴らしさ、大胆な海外話(笑)など、今宵もまた「勝手に神奈川フィルを応援する会」終電コースは楽しく続くのでありました。
皆さん、今回もお世話になりました。Sake 電車で心地よく寝てしまった。
お酒も寝てます。

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2010年2月12日 (金)

ブラームス 交響曲第2番 B・クレー指揮

Croket 美しい揚げ物、そうコロッケでございます。
神田の立ち飲みの店で、ミニクラヲタ分科会が開催され、あにはからんや、座り飲みのフロアにて、それこそ腰を落ち着けて飲んでしまった。
ビールに、ホッピー、熱燗、ハイボール、ウーロンハイ・・・、なんで皆さんこんなに飲むの

Bernhard_klee シューマンのあとは、ブラームス
それも幸せな交響曲第2番を聴きましょう。
4つある交響曲のうち、歳とって一番好きになってきたのが、2番と3番。
1番はどうも仰々しいし、4番は飽きちゃった。
さらに歳を重ねるとまた変わるかもしれないですな。

さて、ベルンハルト・クレーというドイツの指揮者をご存じでしょうか?
かつてN響によく客演していて、初来日はたしか1974年(?)頃だったと記憶する。
魔弾の射手、第5などの純正ドイツものをさわやかに聴かせてくれた。
なかでも素晴らしかったのが、奥さんのエディット・マティスと組んだ「最後の4つの歌」。
一部欠落してしまったものの、今でもわたしの大事なエアチェックCDRで、マティスの歌とともに絶品の演奏であった。

レコードもDGや東独系レーベルにそこそこ残している。
ベートーヴェンの管弦楽曲、モーツァルトの初期オペラ、ニコライのウィンザー、ハイドンの交響曲、シューマンのレクイエム、ツェムリンスキーの抒情交響曲などなど。
 そして、ピアノの名手でもあって、マティスの伴奏でもモーツァルトがこれまた絶品。

サヴァリッシュに学んだこともあって日本にやってきたのかもしれないが、やはりドイツのカペルマイスター的な育ち方をしているので、根っからのオペラ指揮者。
日本でもその機会があればよいのに、と思っている。
 今年、都響に来演して、ロマンテッィクやR・シュトラウスを指揮するので、これは絶対に聴きものなのだ
上の画像は、若い頃だけど、いまやお爺さんのような風貌になっていて、どんな円熟ぶりか大いに楽しみであります。
このクレーといい、グシュルバウアー、ロンバール、コウト、グラーフなど、地味なベテラン指揮者たちに注目したい今日このごろ。

さて、そのクレーの超素晴らしい演奏が、今日のブラームスなのであります。
フランクフルト放送交響楽団との1989年のライブ録音で、これは今は亡き、大阪の音楽バーEINSATZさんで初めて聴かせていただいて、その清々しい名演ぶりに心を洗われ、後にその音源を購入したもの。

この曲の理想の姿と言ったら、おまえ褒めすぎやろ、とお叱りを受けそうだけど、実際そう思うのだからしょうがない。
旋律の歌わせ方が、弦は弓を一杯に弾ききり、木管や金管は柔らかくのびのびと柔軟に、どこまでも気持ちがよい。
ことに、第2楽章でその息の長い旋律をじんわり聴かせて、そこに馥郁たるロマンが漂ってくるのをヒシヒシと感じ取ることができる。
どこまでも自然で、作為のまったく感じられない第1楽章。
愛らしい第3楽章は、中間部の生き生きとした躍動感も素敵なもの。
躍動といえば終楽章。決して爆発的じゃないけれど、オペラ指揮者の面目躍如たる感動的なエンディングにじんわりと感動に浸ることができる。

この音源は、一昨日の飲み会でも話題となったCDR盤ではあるが、個人的に鑑賞する分は、私は全然OKで、なによりもこんな素晴らしい演奏が埋もれているから楽しいじゃありませぬか。録音もよいです。
 宣伝してるわけじゃありませんが、爆演堂さんで扱ってます。

何度もいうけど、素晴らしい演奏。
今日3回目の視聴で、最後の部分で涙が出てきた。
そんなの、シュナイト&神奈フィルの神々しい名演以来かもしれない。
ちなみに、この曲の、私のベストワンは、アバド&ベルリンフィル(70年盤)。
そちらは、春が来たら全集まとめて取り上げましょう。

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2010年2月11日 (木)

シューマン ピアノ協奏曲 アバド指揮

Furofuki_daikon 凍てつく晩には、ふろふきダイコンをあてに、熱燗ですな。
柚子味噌と大根。なんて合うんでしょう。
 大根は、申し少し薄く輪切りにして、テフロンのフライパンで油もひかず、胡椒だけサッと振って焼き上げてもおいしい。大根ステーキざぁますわよ。
大根の甘さがかじると染み出てきて、とてもおいしい。
醤油をちょこっとつけてもいい。

Schumann_piano_conceruto_brendlabba 今年はシューマン生誕200年の記念の年。
おくればせながら、シューマン・イヤーを記念しまして、ピアノ協奏曲を聴きましょう。
ただシューマンだけにスポットをあててもつまらないから、アバドの指揮に着目して聴いてみようではありませんか。
私はアバドの40年来のファンでありますが、そのアバド。シューベルトやメンデルスゾーン、ブラームス、ロッシーニは盛んに指揮しても、同世代のシューマンはなかなか指揮しなかった。
かつては、かのカラヤンも取り上げなかったから、いろいろと憶測がなされたのだけれども、カラヤンはピアノ協奏曲をよくとりあげたし、ついには交響曲全集も70年代前半に録音したものだ。
 そして、アバドの初シューマンは、ブレンデルとともにフィリップスに録音したこちらの協奏曲。
アナログ最終時期のロンドン響とのものは、まず、その録音のよさ。
芯のあるその音楽的な録音の素晴らしさは、ピアノの暖かな響きと、オーケストラのまさにウォーム・トーンがしっかりと捉えられたことに感銘を覚えてしまう。
そして演奏も水際立ったロマンの抽出が見事で、ともかくロマン派の音楽然としていて、溢れいづる音楽の泉に、聴く側も瑞々しい早春に息吹を感じてしまうのだ。
ロンドン響のニュートラルな新鮮な響きもそれに相応しい。
79年6月の録音。

Schumann_piano_conceruto_polliniabb ついで、アバドがそのパートナーに選ばれたのが、同郷で朋友、ポリーニ
おりしもベルリンフィルの音楽監督になって3年目。89年の録音。
ここでのアバドは、まだベルリンフィルとの共演では、お互いが手探り的な演奏もままあったりして、この協奏曲も流れはいいものの、どこか引っかからないスームスすぎる場面が続出する。
立派すぎるくらいに、いい演奏なんだけれども、この二人ならもっとできる、そしてもっと若ければ、そしてもう少しあとに録音してくれれば、という思いの残る過渡的な演奏に感じる。
カップリングのシェーンベルクは、切れ味鋭い演奏だから、よけいにそう思う1枚。
何故だろう。

Schumann_piano_conceruto_perahiaabb ついで、94年12月のジルヴェスターコンサートのライブ。
ファウストや、ゲノヴェーバを取り上げた「オール・シューマン・プログラム」でのライブ録音。
これが実はまた素晴らしい演奏。
ペライアとアバドは、完全に同質の音楽を根ざしていて、そこにあるのは豊かな歌なのである。
それは繊細な中にも、心の底から歌っているからこそ、その歌からドラマが生まれ、そこからシューマンの屈折したロマンとほとばしる情熱が浮かび上がってくる。
2楽章の弱音における歌の見事さでは、この演奏が随一かも。
そして3楽章の飛翔しまくるような、めくるめく世界は、聴いていて一緒に体が動いてしまうくらいに素晴らしいもの

Schumann_piano_conceruto_piresabbad いまのところ、最新のアバドのシューマンのピアノ協奏曲の録音は、97年9月のピリスとのもので、オーケストラはベルリンフィルと並ぶ当時の若い手兵ヨーロッパ室内管のもの。
ベルリンとも蜜月の時代を築きあげ、次の高みを目指しつつあったアバドの心の中には、若い演奏家たちとの気の置けない楽しい触れ合いと、彼らの無限の可能性を一緒に引き出す喜びがあったものと思う。
病気に倒れるまえで、この頃から数年、気の抜けた音楽の瞬間も聴かされることが多くなったのも事実で、ここでのシューマンは、そうした時期の直前であろうか。
 だがここでは、小編成のオーケストラ、そして鋭敏なECO特有のセンスあふれるキレのいい響きが堪能できる一方、いかにもピリスらしい音をひとつひとつ厳しく選びとったかのような緊張に満ちたピアノが主導してしまった濃密度の音楽が聴かれる。
アバドはそうした流れに乗ってしまって、若いオケの手綱を締めたり緩めたりと、自在な指揮ぶりなんだ。
透けてみえるような室内オケ特有に響きに、聴いていて耳がそばだってしまう。
ピリスの繊細きわまりないピアノにも、耳が集中してしまう。
なんて詩的で敏感なピアノなんだろう。
ちょっとすごすぎて、辛くおもってしまうのも事実で、ブレンデルの溢れるロマンや、ペライアの豊かな歌が懐かしく思えてしまう。

ポリーニもそうだけど、あんまりウマすぎたり、気がはいりすぎたりするのも、シューマンの場合、聴いていてシンドイこともある。

合わせものがうまいアバドとの名ピアニストたちの、シューマン。
アバドの姿もそれぞれだった。

そして、それぞれにいいと思いつつも、一番は、学生時代の思い入れもふくめて、ブレンデル。
次いで、ペライア。そしてピリスとポリーニでありましょうか。
こんな贅沢な順位付けってありだろうか?
こんなにも立派な演奏の数々に、まことに申し訳なく、ここにお詫び申しあげます。

シューマン35歳の、ロマンあふれる短調の協奏曲、アバドの指揮に焦点をあててみたけれど、あと愛聴盤は、ルプープレヴィンの素晴らしさ)、リパッティ&カラヤンリヒテル&マタチッチなどでございます。

みなさんの愛聴盤は

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2010年2月 9日 (火)

フィンジ オーケストラ作品集 ボールト指揮

Yumoya_kasai 夕靄が除々に立ち込める景色。

昨秋、兵庫県のとある街にて、高台から望んでみた。

なんか、懐かしい光景。
日本の原風景ともいえる、誰の心にもきっとある景色ではないかしら。

いまの若い人たちには、どうだろうか?
およそ、情緒的な感情が、だんだん失われつつあるのではないかと。
自分の子供たちを見ていてすらそう思うから・・・・

Finzi_boult ジェラルド・フィンジ(1901~1956)。
ロンドンっ子で、イングランド南部ハンプシャー州で、50代半ばにして白血病で亡くなってしまう。

薄幸の作曲家と呼ばれる所以は、「フィンジ」のタグをクリックいただき、いくつかの過去のエントリーをご覧ください。
英国作曲家のなかでも、抒情派のフィンジ。
かなり好きでいらっやるのであります。

破棄してしまった作品もあって、現在残されているのは40曲あまり。
管弦楽、協奏曲、室内楽、声楽曲など。

フィンジの声楽作品には、トマス・ハーディの詩につけた作品が多い。
幼いころに父を、さらに兄弟たちも亡くし、尊敬する師である作曲家のファーラー(この人の作品も素晴らしいですので、いずれ各種ご案内)を戦争で亡くしてしまい、失意のフィンジの心の糧となったのがハーディの詩。

ゆえに、フィンジの歌曲はいずれも深く、心に響くのだが、数少ないオーケストラ作品も負けず劣らず素晴らしく、聴き手の心にそっと寄り添って、いつしかその優しい抒情に同化してしまう自分を見つけることになるはずだ。

フィンジの作品目録を調べて作り上げたいと考えているが、いまだ手をつけていない。
少ないゆえに、全貌を知りたくもあり、知ってしまうと寂しい気もするから、そっとしておいて、いまある作品を静かに楽しむのも良しと思ったりもしてる。

今日の1枚は、オーケストラ作品の大半が収められたもので、その多くを、サー・エイドリアン・ボールトがロンドン・フィルハーモニーを指揮している。
これだけ1枚のCDに収められたフィンジ集も珍しい。
この1枚は、実はもう1年前、いつもお世話になっております、IANISさんにお連れいただいた、氏の行きつけのショップ、新潟のコンチェルトさんで購入したもの。
店主は大のフィンジ好きなのです。
ちなみに、この時同時に、コルンゴルトの1枚を買ってまして、いずれまた記事にしましょう。

 1.「7つのラプソディ」
 2.ノクターン「新年の音楽」
 3.小オーケストラのための3つの独白「恋の骨折り損」から

 4.弦楽オーケストラのためのロマンス
 5.弦楽オーケストラのための前奏曲
 6.「散りゆく葉」~オーケストラのためのエレジー
 7.小オーケストラとヴァイオリンのための前奏的作品
 8.「エクローグ」~ピアノと弦楽オーケストラのための
 9.ピアノとオーケストラのための幻想曲とトッカータ

  サー・エイドリアン・ボールト指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団
        Vn:ロドニー・フレンド

  ヴァーノン・ハンドリー指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
        Pf:ペーター・ケイティン  <8&9>
                            (録音75~77年頃)

ここに収められた9曲にうち、9つめのピアノとオケの作品が、意外なまでにジャジーな雰囲気で、ほかは、フォルテの部分が少なく、全般にゆったりと、そして優しく聴き手に語りかけてくるような作品ばかりで、ともかく美しくも物悲しい雰囲気に満ちていて、誰しもの心にさりげなく優しさという気持ちをそっと置いていってくれるような音楽ばかりなんだ。
どれもが、聴いていて涙が出そうなくらいにデリケートで美しい音楽なのだけれど、なかでも、「弦楽のためのロマンス」の繰り返し歌われる一度聴いたら忘れられないメロディには泣かされてしまう。
こんなに儚く、心を打つ旋律ってあるだろうか。1952年に出版された1928年、フィンジ27歳の若かりし日の作品。20代の青年に、こんな微妙な陰りを感じとる私にもそんな時代があったのだろうかと、思わず悔恨と忘失の念に包まれてしまう。

同様に、「オーケストラとヴァイオリンとための前奏的作品(イントロイトゥス)」もあまりにも甘味でかつ篤い敬虔的な美しさを伴った桂品。
ヴァイオリン協奏曲の2楽章として書かれた作品だが、ともかくその短調であり、楚々とした詩情が心に迫ってきてやまない。
ここでは、LPOのハイティンク時代の名コンマス、のちにNYPOに転じたR・フレンドの泣きのヴァイオリンがあまりにも美しく聴かせる。。泣ける。

泣けるという点では、同質の曲が、ピアノのソロを伴った「エクローグ」。
これまた繊細かつ心に染みいるような名作で、前作とともに涙なしには聴けない、どこまでも清純無垢の汚れない美しい音楽で、これを聴いて心動かされない人がいるだろうか
言葉にすることができません。
書いたら壊れてしまいそうな音楽ってあんまりないでしょう。
フィンジの「エクローグ(牧歌)」がそれかもしれない。
いくつもあって困るけど、わたしが死んだら、いや今際のきわに、この曲を流してもらいたい。
ケイティンハンドリーの慈しみあふれた演奏に、今回も涙するワタクシでございます。
H・シェリーとヒコックスの抒情味溢れる演奏も愛聴盤であります。

篤信あふれる「ノクターン」、K・ジャレットのような幻想味溢れるピアノが聴ける「トッカー」、その他の曲も愛すべきフィンジの桂作であります。

ボールトの横顔が茫洋としすぎて、ジャケットがイマイチでありますが、ディーリアスを演奏しなかったボールトが、フィンジを慈しむように指揮していて泣かせますです。

時期は遡るが、抒情という点では、ディーリアスと同質の癒し的な世界。
でもオペラや壮大な合唱作品があるディーリアス。
そして音楽には大自然が歌い込まれているディーアスだけど、フィンジにはオペラはなく、大きな合唱作品は少し、ほとんど愛らしい作品ばかりで、心の隙間を埋めてくれる人間味あふれる音楽。
日本人にマッチした素晴らしい世界です。

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2010年2月 7日 (日)

コルンゴルト 「カトリーン」 ブラビンス指揮

Midtown_a

六本木ミッドタウンで見つけた光のオブジェ。
ひとつひとつにメッセージが書かれてました。

Korngold_kathrin

コルンゴルト(1897~1957)のシリーズ。
何気にシリーズしてます。
録音されて聴ける作品は、そんなに多くはないので、全作品を時間をかけて踏破してみようと思っている。
同じ曲ばかりだけれど、本ブログでも記事数は15になった。
いずれの写真もイルミネーション系で、私の貧弱なイメージ造りに失笑・・・。
こうして愛着をもって聴いてきて思うのは、コルンゴルトのいい意味での保守性。
世紀末後の作曲家であるけれど、世紀末の末裔として生き抜くことしかできなかった悲劇。
時代は無調や十二音、さらには前衛音楽までもがコルンゴルトの身の回りには鳴っていたはずだ。
でも彼は、モーツァルト以来の神童として活躍し、もてはやされたウィーンのことを忘れられず、過去の街ウィーンを思い、いつか復帰できることを願望し続けるのだ。

Korngold_kathrin_1

こんなエピソードを思うだけで、胸が締めつけられる思いがする。
ユダヤ人ゆえに、アメリカにのがれ、ハリウッドで映画音楽の祖のような存在となるが、心にはヨーロッパがあったのだ。
ナチスが消え去っても、ヨーロッパは、もうコルンゴルトを受け入れることはなかった。
気の毒なコルンゴルト。
でもおかげで、素晴らしい映画音楽の数々が生まれたし、アメリカの風土とヨーロピアンの望郷がシナジーを生んだ素敵な作品も残された。

いろんなジャンルに作品を残したけれど、やはり声楽や劇場作品が素晴らしい。
オペラは5つ。
作曲順に、「ポリクラテスの指環」(17歳)、「ヴィオランタ」(18歳)、死の都(23歳)、「ヘリアーネの奇跡」(30歳)、カトリーン(40歳)。
いかに早熟であったか。
最後のオペラとなってしまった「カトリーン」は、CDにして3枚。
演奏時間3時間の大作だけど、これで怯んではいけません。
全3幕。
内容は、洒落たラブストーリーで、とっても気が効いていて、音楽は馴染みやすく、ウィーン世紀末風、かつ、ハリウッド的。
メロディアスな旋律の宝庫でもあり、コルンゴルト好きの私は、何も勉強せずに一度通して聴いて、そこですぐにお気に入りに昇格。
以来、ここ数カ月、何度も何度も聴いてます。
その素敵な旋律は歌えるくらいになっちゃった。

そう、コルンゴルトのヴァイオリン・コンチェルトをお好きな方なら、思わず口ずさみたくなるような、ロマンティックな旋律が次々に紡ぎだされてくる3時間。
R・シュトラウスとマーラー、ツェムリンスキーや初期新ウィーン楽派をお好きな方なら、全然OKのコルンゴルトのオペラであります。
有名な「死の都」よりは、シンプルで映画音楽的。死の都は、ゴシックロマン風の心理劇を見事に描いてみせたコルンゴルトだが、ここではよりシンプルなラブロマンス。
思えば、長じてますます、ヨーロッパの音楽の潮流から自ら脱して、より単純に大衆にもわかりやすいメロディ重視、耳に優しい音楽へと向かっていったことがわかる。
これを後退とみるか、前進とみるかは、当時のナチス政権が下した「退廃」という言葉では、簡単に片付けられない問題だけれども、私は、ハイドンやモーツァルト以降、営々と続いたドイツオペラの流れに立派に即した純正なオペラとして、大いに評価、応援したい。
しいては、コルンゴルトの音楽そのものにも、そう思いたい。

 

第1幕

南フランスの古い街。
若い男女がシネマを見に集いつつあって、映画館のドアマンの呼び込みもかまびすしい。
若い兵士のフランソワは、招集される前はシャンソン歌手、ギター片手に街で歌っていた青年で、ベンチに腰掛け歌っていると、カトリーンと友達のマーゴットが映画を見にやってくる。
フランソワは、カトリーンをひと目見てピピッときてしまう。
彼女たちは、ドアマンに兵士さんが同伴でないとお断りと、入場を禁止されてしまう。
そこでフランソワは、一緒にいかがとカトリーンを誘う。
街は学生や人々で大騒ぎ。映画を見終えて出てきたふたり。
ベンチに腰掛け、楽しかったと語りつつも、お互い魅かれあう。
フランソワは、得意の歌を披露(このテノールの歌は、ホントとろけるほどに美しい)し、カトリーンもうっとりと答え、つに愛を交わしあう。カトリーンはスイスから出てきて両親もいないし、フランス語がわからない。
フランソワは、兵士で歌が好き。片言のドイツ語がやがて歌になってゆくのが素晴らしい。
夜も更けて、二人は別れなくてはならない・・・・。

ハウスキーパーの仕事をマーゴットとしているカトリーン。

ご主人のことを気にしつつも、同僚とフランソワのことを話すが、マーゴットは所詮、兵隊さんだし別れた方がいいし、仕事を解雇されては困るから、もう会えないと手紙を書くことを勧める。
涙ながらに、別れの手紙を書くカトリーン(泣けるよ、このモノローグ)。
そこへ夜を忍んでフランソワがやってくる。帰って、いや君が好きなんだ、の押し問答。
そしてフランソワは、自分は兵士だけど、あともう少しでそれも終わる、本当は歌手なんだ、と熱く歌う。(~これまた素晴らしいアリア)
そして二人は朝まで過ごすのでありました・・・・・。

数日後、軍に命令が下り、隊は街を出て出陣することに。
別れの挨拶にきたフランソワをマーゴットは追い払うが、カトリーンが出てきて、変わらぬ愛を誓う。盛大に軍は行進して街を出てゆき、人々も熱狂してそれに続く。
一人カトリーンは、マリア様の像の前にひざまずき、残される悲しみを歌う。
そして、フランソワとのあいだに身ごもった子供に祝福を求め、マリアに深く祈るのであった。


第2幕
 
 数ヵ月後のフランス国境に近いスイス。
年末の宿屋の前、カトリーンがフランソワを探し国境を越えようとやってくる。
警察官にこの道はフランスのマルセイユに行くのか聞くが、警官は何故ゆくと問い詰め、フランソワからの手紙を取り上げ、パスポートの提示を求めるが、それはすでに期限の切れたものであった。
警官は、宿屋にカトリーンを押しこめ、明日戻りなさいと諭し、宿屋の女主人も含めて小競り合いとなる。
その騒ぎのなか、マリニャックとモニークの男女がやってくる。
この男は、マルセイユでクラブを経営する実業家で、ひと目カトリーンを見て気に入り、彼女がフランソワという男を探していることを聞き、マルセイユへ連れてゆくことを約束し、偽のパスポートを渡す。
世間しらずのカトリーンは、他人のパスポートに疑問を抱きつつも、フランソワのいるマルセイユにいけるとあって了解する。
警官は、この男女に袖の下をつかまされ黙ってしまうのであった。悪いやっちゃ。

マルセイユ、マリニャックがオーナーのクラブ。大晦日のパーティを迎える準備中。
ジャズ風の音楽、むせび泣くサクソフォーン。コルンゴルトの面目躍如たる音楽。
女主人ショウショーが、新人歌手のフランソワにキャバレーの歌の手ほどきをしている。
彼女は、フランソワにいいよるが、彼は一人の女性を大事にしていると断り、彼女を怒らせてしまい、出て行けということになる。
 オーナーにお暇をもらおうと向かったところに、マリニャックが帰ってくるが、話を聞いてくれない。
こいつは、カトリーンをいかに物にするかで頭が一杯。
フランソワは引き下がり、マリニャックは、まるでスカルピアのように燃える邪悪な心を歌う。
それを物陰で聞いていたのが、モニークで、彼女は嫉妬に狂い、自分と結婚をしなくてはならないと散々に食い下がり大喧嘩になり、マリニャックに殴打されてしまう・・・。
 覚えておき!と退出したかに見えたモニークは、カーテンの後ろに巧みに身を隠す。

そこへカトリーンが連れられてくる。
フランソワに会えると喜々としているが、マリニャックはマルセイユは複雑な街だからすぐには無理だ。明日ゆっくりと探しましょう、ほら海だよ、と外の海を見せると山育ちのカトリーンは感動してしまう。
迫る男に、ようやく気付き逃げるカトリーン。気分直しに、歌でも聞かせようと、ボーイを呼び、先ほどの新人歌手を連れてこさせる。
ここで再会を果たす二人。
マリニャックに抱かれようとするところに来てしまったフランソワ。
怒り、カトリーンは逃げる。
思わず、軍人ゆえに持っていたピストルを出してしまうが、冷静になりそれを雇い主に渡し、さるフランソワ。
この混乱のなか、物陰からそっとそのピストルを取ったのがモニーク。
欲望ギラギラのマリニャックがカトリーンに襲いかかるところへ、一発の銃声。

ホールに瀕死の状態で出てきたマリニャック。犯人は新人歌手だ・・・・とこと切れる。
それを見ていたフランソワは、てっきりカトリーンがやったものと思い、そう、自分がやりましたと自白。
カトリーンは、フランソワが撃ったものと思い、自分がやったの・・というものの、フランソワは連れていかれる。
 一人残ったカトリーンは、わが身の哀れさに、悲しみの歌を歌い泣く。。。。


第3幕
 
 あの事件から5年が経過し、カトリーンはスイスの山に抱かれた小さな宿屋の女主人となっていて、傍らには父と同じ名前をつけられた少年フランソワがいる。
ここで、カトリーンはずっとフランソワを待っていたのである。
夕方、親切にしてくれるテイラーが頼まれた商品をもってやってくる。
彼は、カトリーンに好意をもっていて、いつまで待っても帰ってこないよ、自分ならいつでもいいと語るが、カトリーンはあなたはとてもいい人だけど、必ず帰ってくるのよ、といなす。
少年は、夕飯の片付けをするカトリーンに、何故いつもお皿が余分にあるの?と無邪に聞くと、彼女は、いつお客さまが来るかわからないでしょ。
イエスさまもお客さまも、疲れていらっしゃるのです。。。と8時になったらベットに入るのよ、と約束させて、仕事をしに奥へ消える。

そこへフランソワがギターを片手に、「何かに導かれてここへ来た、私の憩う場所はどこに・・・」と歌いながらやってくる。
少年を認め、彼の頭をなでつつ、少年に父がいないことなどを聞き、自分なら君のような子供が欲しいとフランシスはいい、少年に歌を教える。
やがて8時の鐘がなり、少年は別れを告げ家の中に入る。

テイラーと道であったフランシス。テイラーは、一晩の宿を提供するかわりに、自分のために求愛の歌を歌って欲しいと頼みこみ、カトリーンの家のまえでギターを構え、見えないところでフランソワが美しいラブソングを歌う。
 やがて、歌を聞いてカトリーンが出てきて、ここで二人はまた再会を果たす。
しかし、テイラーと結婚してしまったと早合点したフランソワはその場を去ろうとし、カトリーン
は、ずっと待っていたと必死に食い止め、人のいいテイラーも違うんだととりなし、ギターをフランソワに返して去ってゆく。


ここで、二人の邂逅の二重唱。
お互いが、片方が人を殺めてしまったと思い込んでいたが、ここでようやく真相がわかる。
少年フランソワが、眠気まなこで出てきて、父親が帰ってきたとカトリーンに言われて、父の胸に飛び込み、明日は喜びのあまり踊っちゃうよ!と語り、ベットにまた帰ってゆく。
もうパズルのようにややこしいことはオシマイだね、ここでずっとずっと暮らしてゆくことにするよ、とフランソワ。
 静かに、静かに音楽は感動的なまでに美しく閉じるのであります。。。。。。


長いあらすじを起こしてしまいました。
邦訳が付いてないので、英訳を見ながら聴いたものです。
ワーグナーの台本のように複雑じゃないから、音楽をしっかり聴いて耳になじませてから、対訳片手に聴いたものです。

 コルンゴルト 歌劇「カトリーン」

   カトリーン:メラニー・ディーナー  
   フランソワ:ディヴィット・レンドール
   モニーク:デッラ・ジョーンズ    
   マーゴット:メラニー・アルミステッド
   ショウショウ:リリアン・ワトソン  
   マリニャック:ロバート・ヘイワード
   テイラー:トビー・スペンス     
   息子 :マーガレット・フィーヴィオル
   その他
   
  マーティン・ブラビンス指揮 BBCコンサート・オーケストラ
                BBCシンガース
                    (1997.11 @ロンドン)


このCD、これまで何度聴いたかわからない。
ともかく甘味で美しいコルンゴルトの音楽。
そして、素晴らしい歌の数々がたっぷり詰まったこのオペラに何度も涙を流した。

馴染みでないオペラを、ものにするには手間暇がかかる。
たいていそれは輸入盤だから、私は、まず音楽だけを徹底的聴いて耳につくくらいまでにする。同時に、各国語だから厚い解説書の中から、あらすじの部分をコピーして電車の中などで読んで概略頭にいれておく。
そして、最後は英訳をたよりとして、CDを全曲じっくりと聴くのだ。
音楽はすっかり馴染みになっている頃あいなので、不思議なほどに、ストーリーと歌、オーケストラがどんどんこちらに入ってくる。
 こうして狙ったオペラを自分のお気に入りにしてゆく喜び。
なかでも今回の「カトリーン」は、私の大好きなオペラのひとつとなったことは間違いない。
昨年のRVWの毒入りキッスとともに、私の中での大ヒットであります。 
美しくも愛らしい、フランソワの歌の数々は歌えちゃいますし、カトリーンのアリアも鼻歌で歌えます(笑)

ここで歌っている歌手のうち、M・ディーナーは、シュトラウスやプッチーニを得意にする今や旬の歌い手で、わたしのお気に入り。昨年N響にも来てました。
後期ロマン派を歌うのに必須の声の怜悧な美しさと音程のよさが完璧なまでに素晴らしい。彼女のマルシャリンを聴いてみたいもの。
対するレンドールのリリカルなテノールも惚れ惚れとしてしまう。
このひと、最近オテロやトリスタンも歌うそうだから、声が重くなっているのか。興味あり。
BBCの英国オケらしい柔軟で適用力あるニュートラルな響きもコルンゴルトには合っているように思われ、近現代ものに強いブラビンスの指揮のもとに素敵なオーケストラが聴けるのだ。

 

多くに方に聴いていただきたい、コルンゴルトの最後のオペラカトリーン」であります。
コルンゴルトのオペラ、あと3作、徐々に取り上げますよ。

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2010年2月 6日 (土)

「松村英臣 ピアノ・リサイタル」

Saigosan 上野の山におわす「西郷さん」。
夜の西郷さん、しっかり犬も連れております。
今年の大河ドラマも幕末ものだから、西郷さんが登場することでしょう。

Hideomi_matsumura 松村英臣さんのピアノ・リサイタルに行ってまいりました。
一昨年秋に、初めて聴かせていただいた。
今回も、いつもお世話になっております、schweizer_music先生のご案内を頂戴し、今年も聴くことができました。

この西郷さんの北側の並びにある東京文化会館小ホールにて行われたコンサート。
かつてのクラシック音楽演奏会の殿堂、数々の音楽の歴史を刻んできた文化会館。
いまや、都内ではほかに専用ホールがたくさんできてしまったけれど、私がコンサート聴き始めのころは、ここか、日比谷公会堂、新宿厚生年金会館、杉並公会堂などくらいしかなかったもの。
久しぶりに上野の公園口に降り立ち、そんな感慨にふけってしまった。

そして音楽をじっくり聴く、という感興がおのずと溢れだすような雰囲気の小ホール。
響きのよいこのホールで、ピアノが聴けるというのは、ほんとうに素晴らしい体験でありました。

松村さんは、以前のコンサートの時にもその経歴を書いたとおり、大阪を活動のベースとしていたので、関東ではあまり馴染みが少ないかもしれない。
こちらの氏のHP。schweizer_music先生のレポートがございます。
 チャイコフスキー・コンクールでの逸話が示すとおり、日本人には数少ない本格ヴィルトゥオーソのおひとり。

    ベルク       ピアノ・ソナタ

    リスト        ピアノ・ソナタ

    シューベルト   ピアノ・ソナタ第21番

        チャイコフスキー 「四季」~舟歌

    ナザレー
         (曲名忘れ・・brejeiro?)     

         ピアノ:松村 英臣 
               (2010.2.5 @東京文化会館小ホール)
     

素晴らしいプログラムが据えられました。
どう見てもすごい演目。
前半が、ワーグナーつながり。そして時代も遡ってシューベルトで終わる。

ベルクの初期作品は、前期シェーンベルクやツェムリンスキー風の後期ロマン派風の曲で、始終ベルクを聴きながら、このソナタは初めて聴いたもの。
短い曲で、もやっとしているうちに終わってしまったが、終演後、schweizer_music先生のお話ではトリスタンの半音階も現れるし、何度も聴くと味わいの増す音楽とのことでして、ベルク好きとしては、これはひとつハマってみようかい、と思った次第。

次のリストは、松村さんならではの、バリバリの超絶技巧の音楽。
情念うずまく、そして幻想的ともいえるその音楽は、まるでオペラの世界。
婿さんのワーグナーにも通じてゆくのも感じることができた。
どうしても、曲中何度も訪れる凄まじいパッセージの続く劇的な部分に耳がいってしまうが、そして確かに松村さんのピアノの素晴らしさはその完璧な技巧に裏打ちされた、そうした部分だけど、リストの詩情に満ち溢れた静かな場面の方にこそ魅力を感じる演奏だった。
強い音も弱い音も、しっかりと弾かれてホールに響き渡るさまは、これはある意味、快感でございました。

後半のシューベルトの長大なソナタ。
ここには、本当に豊かな歌があふれておりました。
シューベルトの中でも大好きな旋律が、第1楽章の冒頭のもの。
静かに、ゆったりと抒情的に流れるこの素敵な旋律は、こうして眼前のピアノで接すると、感銘もひとしお。
余裕を持たせながらも、しっかりとシューベルトに没頭している松村さんのピアノは、前半とまったく異なる世界を描きだしてくれた。
さらに素晴らしかったのが、第2楽章。
深遠を見尽くしてしまったかのようなぎりぎりの音楽のようにも感じ、そしてその演奏でありました。聴いていて「冬の旅」を思い起こしていたが、後にパンフレットを読んだら同じことが書いてあって、大いに納得。
この楽章をあっさりスルーしてしまう演奏も多いが、松村さんのピアノはそのあたりを想起させる感動的なものと思った。
続く2つの楽章は、すっきりと、そして軽やかに、シューベルトを聴くときの気持ちのよい気分に満たされるものでありました。
シューベルトの音楽にある、明と暗のような要素を弾き出していて見事なものだったと思います。

アンコールの舟歌はもう、絶品!
氏の十八番とのことだけど、こんなにリリシズムあふれ、音の粒立ちが豊かな演奏を聴いたら誰しも耳が釘付けになっちゃう!

最後に、近々のコンサートのご案内もユーモアを交えてお話され、これまた初聴のブラジルの作曲家ナザレーの明るく陽気な音楽でお開きとなりました!
満足満足

アフターコンサートは、先生を交えて、とても楽しく有意義な時間を過ごし、上野の森の夜は更けゆくのでございました~
皆様、ありがとうございました。

 

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2010年2月 4日 (木)

フルトヴェングラー 交響曲第2番 ヨッフム指揮

Brso これ、買ってしまった。
新譜はなるべく控えていたけれど、その豪華ラインナップを見たら、クリックせざるをえなかったんだ。

バイエルン放送交響楽団創立60周年の自主製作アンソロジーCD。
歴代の主席指揮者たちの演奏が、1枚1枚に収められた6CD。

①ヨッフム(1949~1960) フルトヴェングラー 第2交響曲
②クーベリック(1961~1978) ブルックナー 第8交響曲
③コンドラシン(1982未就任) ロシアの復活祭、フランク 交響曲
④デイヴィス(1982~1992) エニグマ演奏曲、RVW第6交響曲
⑤マゼ-ル(1993~2002) 火の鳥、春の祭典
⑥ヤンソンス(2003~ )   ティル、ばらの騎士、最後の4つの歌


こんな具合の詰め合わせに、触手が伸びないわけがない。
で、買っちゃった。

Brso_jochumfurtwangler これから1枚1枚、取り上げますよ。
今日は、初代主席、オイゲン・ヨッフムの指揮で、なんとフルトヴェングラー交響曲第2番を。
フルトヴェングラーの作品は、初めて聴くのである。
いやはや、なんと長い、そしてゆったりと流れる交響曲でありましょうや。
1枚に収まらずに、2CDになっちゃってるし。
約83分の長丁場、どこまで続くのフルヴェン、って感じでありました。

ウィキによりますれば、1945年の作品で48年にベルリンフィルで自身の指揮により初演とある。
戦時~戦後の時期、何かとむずかしい立場だったフルトヴェングラーの力作。
それにしても長い。
ほかの交響曲や、室内作品も長いらしい。
う~ん、フルトヴェングラーらしいといえばらしいが、こうして名前を打ち込むのも長いと思えてきた。アバドなら3文字だし。。。

しかし、よくよく聴けば、後期ロマン派臭ぷんぷんの軸足超過去型の曲で、どこ見ても書いてあるとおり、ブルックナーとマーラー風なのである一方、やはりフルトヴェングラーらしく、ベートーヴェンやブラームスの偉大な交響曲を念頭に置いているものとも思われる。
苦しみを経て、最後には神々しく解放されるような曲の大きな流れがある。
4つの楽章が、まるで大河の流れのように滔々とあふれるように流れるさまは、まさにフルトヴェングラーの指揮して造りだす、ワーグナーの叙事詩的な世界そのもの。

初聴なものだから、この程度の感想しか今回は書けません。
でも3楽章のスケルツォのボロディン風な主部とブルックナーの緩徐的な中間部、そして終楽章のエンディングのオペラの最後の幕引きのような神々しいさまなどは、とても気に入ったし、ライブで聴いたらさぞかし感動するだろうと予想しますな。

ヨッフムの気合いの入った、かつ若々しい指揮は、清新なオーケストラとともに、素晴らしいものである。
1954年のモノラル録音だが、鮮明かつリアルな録音。
ヨッフムは、バイエルンとともに、ハイティンクを補佐するように、コンセルトヘボウの指揮者も務め、ふたつのオーケストラと関係深い初代の指揮者となった。
このトレンドは、ハイティンク、ディヴィス、ヤンソンスと両オーケストラと関係深い指揮者たちの流れとなるわけ。
それは多分に、なくなってしまったフィリップスレーベルの存在も大きかった。

さて、長いけど、もう一回挑戦するか、フルトヴェングラーさん。

Furutomenkrau 最後に過去のレコ芸から、砂川しげひさ先生の名作をいただいて掲載。

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2010年2月 3日 (水)

「明日の担う音楽家による特別演奏会」 現田茂夫指揮

Operacity クリスマスシーズンが終わっちゃうと1年で一番寂しい雰囲気になるオペラシティ。
でも隣接のオペラパレスは年中、晴れやかに感じられるのは私だけ?

Bunkacho_2010 今日は、文化庁主催による「明日を担う演奏家による特別演奏会」に行ってきました。
国が若い広範な分野の芸術家を海外研修に送り出していて、その後、活躍の場を海外や国内に得て頑張っている若い歌手の皆さんの成果発表ともいえるコンサートであります。
新進芸術家海外留学制度といわれるもので、21年度からは、新進芸術家海外研修制度と呼ばれるもの。
勉学よりは、より、実地の研修を重んじるということらしい。
例の芸術家や愛好家を心底ヒヤヒヤさせた事業仕訳のターゲットにされた分野であります。
今回のコンサートは、平成18年から20年度に派遣された方々のコンサート。

愛好家としては、実績を上げつつある上り調子の歌手のイキのいい歌が数々、それも格安に聴けるということで、こんなにうれしいことはありませんね。
(私の席は1階後方A席2000円ですよ!)
しかも、オペラを得意とする神奈川フィルハーモニー名誉指揮者の現田茂夫さんの指揮だから、もういうことなし。
メンバーの皆さんに声をかけなかったのが悔やまれるが、今日は「勝手に神奈川フィルを応援する会」ひとり分課会となったわけです。

グルック   「オルフェオとエウリディーチェ」~序曲
        「おいで、君の夫についておいで」 鷲尾 麻衣・小野 美咲

モーツァルト 「コジ・ファン・トゥッテ」~「岩のように動かずに」
             吉田 珠代

ヴェルディ   「エルナーニ」~「エルナーニ、一緒に逃げて」
             石上 朋美
         「リゴレット」~「悪魔め、鬼め」
             町 英和
         「トロヴァトーレ」~「わかったか 夜が明けたら…」
             石上 朋美

プッチーニ   「蝶々夫人」~「夕暮れは迫り」
             田口 智子・塚田 裕之


グノー     「ファウスト」~「宝石の歌」
             田口 智子

ビゼー     「カルメン」~「母のたよりを聞かせて」
             駒井 ゆり子・塚田 裕之

オッフェンバック  「ホフマン物語」~「お前はもう歌わないのか」
             吉田 珠代・町 英和・小野 美咲

プーランク    「ティレジアスの乳房」~「いいえ、だんな様」
             駒井 ゆり子


バーンスタイン  「キャンディード」~「きらびやかに着飾って」
             鷲尾 麻衣

ワーグナー    「ラインの黄金」~「避けよ、ヴォータン!避けよ!」
             小野 美咲

           「ワルキューレ」~「さらば 大胆で輝かしき娘よ!」
             大塚 博章

     現田 茂夫 指揮  東京フィルハーモニー交響楽団
                  (2010.2.3@オペラシティコンサートホール)



「THE JADE」の成田さんの司会で進められたコンサート、曲目をご覧のとおり、イタリアを発し年代順に進行し、後半はフランス、アメリカ、ドイツと、 万遍なく楽しめるもので、ヴェルディとワーグナーを中軸に、オペラの歴史を俯瞰できるものになっている。
文化庁らしい優等生的なことでもあるが、歌手の留学先に応じた得意曲でもあるので、成果披露の目的も万全に達しているわけ。

こうして、皆さんしっかり成果をあげて、オペラ界に羽ばたいていってるわけで、こんな立派な制度はどんな名前に変わっても、しっかり存続させていただきたいものだ。

ここで、個々の歌い手さんたちを、どうこう言ってもしょうがないですね。
皆さん素晴らしい!
強いて印象深かったのは、鷲尾さんのコケットリーで軽やかなキャンディード。
小柄な体から、深々としたメゾを聴かせた 小野さんのエルダ。
しっかりワーグナーしてました

そして、私の耳と目は、しばしば、現田マエストロのしなやかな指揮に向かうのでありました。
歌手の呼吸や声を入念に見守りながら、時にオーケストラを抑制しつつ、そして煽りもして、美しくも味わいある背景を作りだしておりました!

軽やかなモーツァルト、弾むような推進力あふれるヴェルディ、痺れるような美音のプッチーニ、洒落たプーランク、ゴージャスなバーンスタイン。
そして、これら今日会場に来て知ったプログラムのなかでも注目は現田ワーグナー。
過去に全曲の上演を手がけているし、神奈フィルでも演奏しているワルキューレ。
いやこれが実に素敵なものだった。
決してうるさくならない、そして、重くならない、充分に抑制の効いた美しいワーグナーで、舞台に上がったから突出してしまう、金管や低弦を巧に抑えつつ、結果として柔らかなワーグナーが響いたのだ。
大々大好きな音楽だから、涙うるうるを覚悟のうえ構えたが、なんということでしょう、ブリュンヒルデを優しく眠りにつかせる絶美の箇所、そのあとのローゲの召喚、このふたつがカットされ、いきなり「我が槍を恐れるものは・・・」のウォータンの絶唱の部分に飛んでしまった。そのあとの魔の炎の音楽も少し短縮。
うーーーん。
いろいろ状況でおありだとは存じますが、歌入りのワーグナーにカットは厳禁ではないかと存じますが・・・。これならマイスタージンガーの方がよかったかも。

最後はややがっかりだったが、フレッシュな歌と素敵なオーケストラが聴けて満足の一夜でございました。

蛇足ながら、司会者のインタビューで、現田さんも派遣経験があるとのお話で、その場所はウィーン。そして、「ばらの騎士」をじっくり学んだと言われていた。
そんなんなら、来シーズンの新国の「ばらキシ」は、現田&神奈川フィルをピットにいれて欲しかった! アルミンク&新日フィルは、もう聴いてるし・・・・。

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2010年2月 2日 (火)

ヴォジーシェク 交響曲  ヘンゲルブロック指揮

Snow_view 2月1日の夜は、関東地方でも雪が積もった。
それでも1cmの積雪なんだけど、電車は少し乱れ、首都高も橋のあるところは通行止め。雪に慣れてない首都圏。
さらに降ってしまうと、翌朝は怪我人続出。靴の裏がツルツルの都会人の靴なのであります。
かく言うワタクシも、若い頃、北海道に初めて雪の季節に普段の靴で行ってしまい、まったく歩行困難になりました。滑り止めを市内で手に入れようやく歩けるように。
でも、夜飲んで、滑らな~いなんて、調子乗ってほいほい歩いていたら、見事にすってんころりん。
今では、雪道を歩くと、慎重のあまり筋肉痛になります(笑)

Schubert_vorisek_sym_hengelbrock 今日は、古典から初期ロマン派にかけての音楽を。
ヴォジーシェク(1791~1825)の交響曲と、シューベルト(1797~1828)の交響曲第1番がカップリングされたCD。
ヴォジーシェクなんて知らん
そう、私もまったく知らない作曲家で、この1枚でその名前を知った。
シューベルトと生年・没年を比べて見てください。
ともに34歳、31歳と早世している。
そして、ともにウィーンで活躍しているのも同じで、シューベルトはヴォジーシェクに幾多の影響を受けているともいう。
 そのヤン・ヴァーツラフ・ヴォジーシェクとは、どんな人なのだろう。
いかにもボヘミア系の名前。CD解説によれば、プラハに学び、かなりに実績を積んでからウィーンに移住し、フンメルに学び、ベートーヴェンとも知己を得てウィーンでも要職を得て第二の故郷として活躍するも、肺結核で亡くなってしまう。
オペラ以外の多彩なジャンルに曲を残したとされるが、交響曲はこの1曲。

ベートーヴェンに褒められたこともあって、その影響が大きいようで、シューベルトよりもよりベートーヴェンよりなところが面白い。
強烈なアタッカで推進力のある第1楽章に、ベートーヴェンの緩徐楽章のようにメロディアスな第2楽章、でもこの楽章の中間部では意外なまでに短調の厳しい響きが登場したりする。そしてスケルツォの3楽章の切れ味の鋭さとトリオのゆったり感。
ピリオド奏法で演奏するヘンゲルブロックの造りだす先鋭さばかりでなく、音楽そのものにも強さが感じられる。
シューベルトに一番似ている箇所かもしれない。
終楽章は、第1楽章の旋律が回帰されるなど、斬新なところもある朗らかで快活、明るいフィナーレである。ベートーヴェンとシューベルトを足して割ったような感じといえばよいかしら。
埋もれさせておくには惜しい名作だと思いますぞ。
マッケラスやビエリフラーヴェクも録音してるみたい。

対比して、シューベルトの若書きの交響曲は、抒情的な反面、背伸びしたかのような重厚感が微笑ましく、一方で素直にシューベルトの歌心に感じ入ることができる桂作。

こんな考えぬかれた組み合わせのCDを造るトーマス・ヘンゲルブロックは、1958年生まれ。おや、馴染み深いお歳だこと。
これからますます注目のドイツの指揮者。
ヴァイオリストとしてキャリアをスタートさせ、ドイツカンマーフィルのコンサートマスターも務め、ウィーンコンツェルトムジクスでも弾いたという。
若手演奏家たちと古楽オケや合唱団を創設したり、ルトスワスキやドラティらのアシスタントも務める一方、あらゆる芸術分野にも造詣を深めていった。
古楽出身と一言で割り切れず、現代音楽までも普通にこなす、マルチ指揮者は、まさにこれからの指揮者のあるべき姿のひとつの典型かもしれない。
 ここで指揮しているドイツカンマーフィルの芸術監督のあと、ウィーンフォルクスオーパーの音楽監督を経て、フェルキルヒ音楽祭の監督、さらには来年からドホナーニの後を継いで、北ドイツ放送響の音楽監督に就任する。
さらに来年はまた、バイロイト音楽祭にデビューして、「オランダ人」(順番から推測して)を指揮することになっているから驚きだ。
 ちなみにバイロイトの指揮者は、急速に若手器用を深めていて、今年はネルソンス(ローエングリン、ノイエンフェルスの恐怖の演出・・・)、2013年頃のペトレンコ(リングとの噂)などで、いま旬の指揮者たちばかり。

ヘンゲルブロックのはつらつとした、イキのいい音楽を聴いていると、先週聴いたミンコフキのハイドンのような、一皮むけたような生まれたての音楽に接したようなフレッシュな感銘を味わうことができる。
単にイキがいいだけでなく、全体のバランスや構成感もあって、曲がしっかりとあるべきところに収まっている感じで、突飛なところは一切ない。
彼の音源は、グルック、バッハ、モーツァルトや協奏曲の伴奏など。
ロ短調ミサやカンタータは是非にも聴いてみたいし、埋もれた名作の発掘にも力を入れたいと話しているので、これから面白いものがたくさん出てきそう。

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2010年2月 1日 (月)

後ろ向きのにゃんにゃん

1a 仕事の関係から定期的に訪問する人形町。
時間があれば、東西南北の路地をにゃんこ先生を求めて散策する。
この方は、たいていお会いできます。
呼んでも答えない、いつも後ろ姿。
2 寒いから尻尾が丸くなっちゃってますよ。
頭からうなじにかけてのライン。
ねこで、一番好きなところ。
おいおい、どんなお顔をしているのかね?
こっち見たらどうだい?
3 ウン?
と、チラリ。
1  今度は、帰り道に寄ってみましたよ。
そしたらいましたよ、さきほどの謎のにゃんにゃん。
くつろいでますなぁ。
4 「おい君」
「なんだい?」
今度は、すんなり振り向きましたぞ・・・・。
そしたら、あれ? れれ?
あんた、いい顔してんね~
味ありすぎちゃう?
5 さらに近づくと、こんな感じ。
めんどくさそうにしてますなぁ。
6 前にまわると、もうこれだよ。
目つぶっちゃったよ。
ごらぁ、起きろよ
余裕と風格のブ○○クにゃんにゃんでございました。
肉球、かわいいね。

後ろ向きじゃなくって、何事も前向きにいきましょうね

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