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2010年4月

2010年4月30日 (金)

バントック ケルト交響曲 ハンドリー指揮

Wakayama_1
逆光の海。
こんな写真もいいかも。
「輝き」をまともにとらえてしまった。
古い写真から。紀伊半島の先端の方(だったと記憶)。

Bantock_hebridean_celtic_handley
サー・グランヴィル・バントック(1868~1946)

英国音楽を愛して40年。クラヲタになって42年。ほぼ同じ。
ディーリアスから入ったこの道、その嗜好はやはりエルガーやスタンフォード、パリー以降の世紀の変わり目あたりから。
 このあたりの英国作曲家とみると、名前も知らずとも、どんどん鬼集してきた。
それだけに、たくさんありすぎて、持っていることも忘れてしまうCDがたくさんあるんだ。
 そんな音源のひとつがこちらだった。

バントック、ボートン、ブライアン、ブリス、バターワース、バックス、ブリッジ、ブリテン、ベイントン・・・、英国作曲家には「B」の人がやたらと多い。

 久しぶり、それこそ10年以上ぶりに聴いたバントックの音楽は、清冽で心洗われるような美しい音楽だった。

バントックはロンドンっ子。
外科と産婦人科の父のもとに生まれたグランヴィルは、恵まれた環境において、幅広い教養を身に付け、音楽もそのひとつとして、やがて作曲もするようになり大成してゆく。
あきれるほどの教養人で、ヨーロッパ各国語はおろか、ペルシア語やアラビア語・ラテン語までも体得し、日本をはじめとするアジア文化にも興味大だったバントック。
 その豊富な探究心から、極めて多岐にわたる題材でもってたくさんのオーケストラ作品や声楽作品を書いた。だから表題音楽がたくさん。
 でもその神髄は、ほかの英国作曲たちが同じく魅せられたケルトの世界。
神秘的であり、ロンドンっ子からしたら心の故郷の世界でもあった。

4歳違いのR・シュトラウスとも相通じるものがあるし、ときに巨大性も発揮するところは、親友ブライアンをも思わせるところがある。
その音楽は、シュトラウスと同じく、どちらかといえば保守的。
甘味さと自然賛美の大らかさが同居する、世紀末風の音楽でもあり、地味さと派手さも共存してる。

その名もズバリ、「ケルト交響曲(Celtic Symphony)」。

7部に分割された弦楽オーケストラと6台のハープのための交響曲。
途方もない編成なんだけど、その音楽は極めてまっとうで、極めて美しい。
ケルト民謡の「Sea Longing」を素材としている。
海洋讃歌、とかいう意味でありましょうか。
その素材は、「ロード・オブ・ザ・リング」にも出てくるようだ。

海を感じさせる音楽は、われわれ日本人にとっても親密度が高い。
ここで聴く海は、絶海の厳しさよりは、すべてを呑みこんでくれる悠久の遠大かつ偉大な海、といったイメージでありましょう。

交響曲というよりは交響詩。
20分の音楽は、交響曲に見立てられいくつかに別れるが、あんまり意識せずに、音楽に身を任せるのがよい。
エルガーの「序奏とアレグロ」にも似てるし、同じエルガーの交響曲にも似たフレーズも出てくる。
そして、6台のハープが天国的なまでの調べを奏で、弦楽オーケストラがそこに澄み切った音色を添える。ほんとにステキな音楽であります。
アルウィンの名作、「リラ・アンジェリカ」をも思わせるのでありました・・・。

バーノン・ハンドリーロイヤル・フィルハーモニーの名演にて。

Wakayama_2

明日、土曜日に聴く、金聖響&神奈川フィルの「フィンガルの洞窟」とも通じる、ヘブリディーン世界。
和歌山だけど、ケルトの海はこんなだろうか。

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2010年4月29日 (木)

ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」 カラヤン指揮

Kakuda_kouzouji
水車のある風景。
昨年画像で恐縮です。
5月の東北は宮城県角田。つつじ満開でしたね。

Karajan_beetoven6
このグリーンのジャケット。
録音何度目かの「カラヤンの田園」でしょうが、わたしが小学時代に手にしたレコードがこれ
オーケストラはベルリンフィル
まだそのまま持ってますよ。
クリスマス・プレゼントで買ってもらってから、40年。
ジャケットはカビも生えず、しっかりしてます。
後年買ったのレコードはもう痛んでるけど、この当時のものの数々はしっかりした装丁でありながら現在でもきれいだし、経年劣化が全然ないのだ。
 レコードも重量感あったし、すべてにおいて手抜きなしの芸術品的なまでの存在がレコードでありました。
Karajan_beetoven6_a
ジャケットを開くと、いわゆる見開きで、ハイリゲンシュタットの雰囲気ある写真。
Karajan_beetoven6_b
カラヤンのかっこいい写真と、詳細な解説。

いまの世の中は、無駄を最小限に、ニーズの吸収も最小限に。
事業仕訳よろしく、「そんなものいらない(だろう)」よろしく、すべてカット。
こうして、潤いのない世の中がますます切り詰められていくのでありました。

お金のかかるクラシック業界。
世界的な観点からも、既存の大御所的存在世界からも、きっとおそらく手を付けにくい業界でありましょう。
 でも、これでもって戦後築かれてきた音楽業界でありましょう。
枠組みを変えずに、仕組みを変革することで生き残り進歩していって欲しいものと思いますね。

あらら、カラヤンのベートーヴェンと離れてしまった。

いまでも重厚でかつ、キビキビし、そして明快。
そんなカラヤンのべートーヴェンはオールマイティで、田園らしい麗しい歌も行きわたった濃密な演奏なのでありました。
 彼らコンビは、何度も何度も演奏しつくした音楽でありましょうが、聴く側に強い説得力を植え付けるのは、彼らプロの音楽家の日々の精進のたまもの。
それがそのまんま、録音に刻まれたわけで、こちらもその一例だし、カラヤンとベリルリンフィルの永年のつながりの賜物が残された録音の数々のひとつですな。

中学生時代に聴いた、本格田園がカラヤンのこのレコード。
1962年の録音とは思えない鮮明さ。
当時は普通だったけど、その後早すぎ・都会的すぎ、と感じたカラヤン田園。
でも、いまや普通に「田園」じゃありませんか!
ベートーヴェンのイメージ、田園のイメージ、それらすべてが最大公約数で満載じゃありませぬか!
カラヤンのいいところは、このあたり、音楽の本質をあやまたずに、確実に捉えて、それをスタイリッシュに再現してしまうところ。

終楽章なんざ、泣けますねぇ~

Karajan_59 カラヤンといえば、映画。
同じ小学生時代、カラヤンの音楽映画が、生コンサートに先駆けてのクラシック音楽初ホール体験。
クルーゾ監督のモノクロ第5と、自身監督、ヤノヴィッツ・ルートヴィヒ・トーマス・ベリーの豪華第9。
 これまた40年前。
その会場が、新宿の厚生年金会館だったんだ。
先月末に閉館となってしまった、こちらのホールは、クラシック音楽の名演も数々刻んだホールで、まったくもって悲しくも寂しい時の経過を感じる出来事でございました・・・・。

わたくしも、古い人間でございますね。

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2010年4月28日 (水)

エルガー 「エニグマ変奏曲」 デイヴィス指揮

Akihabara1
秋葉原の万世橋から、お茶の水方面を望む。
先にある駅がお茶の水。
神田川にかかるこの橋、お茶の水の昌平橋とともに、江戸時代からの歴史を刻んでおります。
春の夕刻にパシャリと1枚。うまく撮れました。

かつての昔、中央線の万世橋駅があったそうな。
これもかつてあった交通博物館のあたり。
東京はどんどん変わってしまう。
 そして、右岸の石丸電気も変わってしまった。
レコード時代は、聖地だったのに・・・・。

Enigma_vwilliams6_davis
バイエルン放送交響楽団創立60周年のCDから、歴代主席指揮者を順に聴いてゆくシリーズ。
第3代主席のサー・コリン・デイヴィスとあいなりました。

ヨッフム、クーベリック、コンドラシン(未就任)に続いて4枚目。
デイヴィスの治世は、1983年から1992年まで。
クーベリックのあと、空席だったポストに、ソ連を脱したコンドラシンに他の競合を抑えていち早く白羽の矢をたてたけど、就任を前に急逝してしまったのがコンドラシン。

英国指揮者が、ドイツの楽団にポストを持つことって、あまりなかった当時。
逆にドイツの指揮者は英国では昔から、崇められる。
そして、ドイツオケとの関係をもっとも深めたのは、そのデイヴィスが一番ではなかったかしら。
 その後のデイヴィスは、ドレスデン、ベルリンと併行して関係を深め、よりドイツ的な味わいを身につけ、母国ロンドン響のオールマイティな音楽監督として君臨することとなるわけ。
そのLSOが、なぜか、いまやGさんだもの。
この際、ロシア一色の濃いオケに変貌してしまえばいいのに、フレキシブルな機能オケなものだから、よりなんでもござれ的変幻自在の存在になってしまう気がする。
これは余談ですが・・。

バイエルン放送響の音源は、NHKがFMで繁茂に放送してくれたので、歴代の音源はそこそこ愛聴してきました。
このエルガーも、しっかり録音して、同日演奏の「ドビュッシーの海」とともに何度も聴いてきた演奏であります。83年の録音。
デイヴィスは、このライブも含めて3度、エルガーの「エニグマ変奏曲」を録音していて、こちら以外はいずれも、ロンドン交響楽団とのもの。
初回は未聴なれど、ロンドン響と比べてみて、録音環境や年代により技術変化はあるにしても、バイエルンとの演奏に聴く機能的な爽快さは、英国やアメリカのオケとも違う温もり感をあるドイツの木質感を伴ったものである。
響きはマイルドでまろやか。
良質の磁器に注いだ暖かいミルクティ。
陶磁器は、バイエルンじゃないけどマイセン。ミルクはバイエルン・アルプスのもの。
紅茶はブレンドで、イングリッシュ・ブレックファーストとまいりましょうか

Enigma_davis_lso
ロンドン響とのライブは2007年の録音で、24年の隔たりがある。
ともに自主製作であるが、演奏の音の鮮度では甲乙つけがたい。
バービカンの響きの少なめの録音が、かえって音の親密度を高めていて、流れのよかったバイエルン盤に比べて、音の掘り下げが深くなり雄弁。
 最後のさりげないアッチェランドとその後の錯綜した響きを一本にまとめて崇高な雰囲気に紡ぎあげてゆく手腕はまったくもって見事で、デイヴィスの円熟を強く感じさせる。

こちらは、本場ウェッジウッドのティーカップでロイヤルにまりましょう。
ストレートティは、香り高いダージリンでどうぞ

私は、どちらのデイヴィスのどちらのエルガーも、そしてどちらの紅茶も好きですよ。
午前中はさわやかにバイエルン盤、夜はじっくりとロンドン盤。
など、いかがでしょうか。

参考タイム)
   バイエルン 31’19
   ロンドン    33’07

バイエルン放送響60周年ボックス過去記事

「ヨッフム~フルトヴェングラー交響曲第2番」
「クーベリック~ブルックナー 交響曲第8番」
「コンドラシン~フランク 交響曲」



エニグマ変奏曲 過去記事

「バーンスタイン&BBC交響楽団」
「オルガン編曲版」
「プレヴィン&ロンドン交響楽団」
「マリナー&コンセルトヘボウ、アカデミー」
「シノーポリ&フィルハーモニア管弦楽団」
「尾高&札幌交響楽団」

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2010年4月27日 (火)

眠れる「にゃんにゃん」

1
春眠、暁を覚えず。
眠いですよ、ネコも人間も。
この白ねこは、愛宕神社にいまして、いつも寝てます。
2
今日も寝てるし・・・・

3
まだ寝てるし・・・・・・

4
寝てるんだか、笑ってるんだかわかんねぇし・・・・。

5
横向いて寝てるし・・・・・。

6
コンビニ袋をガサガサさせたら起きたし・・・・。
こんな顔だし。オッサンじゃん(笑)

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2010年4月26日 (月)

マーラー 交響曲第3番 ハイティンク指揮

Ninomiya7
春が戻ってきました。
それは若々しくも楽しげ。
でも、冬や冷たい雨もきっと隣合わせの今年の春。
このまま初夏になってしまうのだろうか。

手前は夏ミカン。
奥は、リンゴの白い花。
一番奥にタンポポの野原。
眩しい季節が満載。
行進曲のようにどんどんやってくる季節の移り変わり。

Mahler3_haitink
金曜日に聖響&神奈川フィルのマーラー第3交響曲を聴き、大いに溜飲をさげたわたくし。
いらいずっとマーラーの3番が耳に残っていて、あわよくば「あらかわバイロイト」の「ワルキューレ」にも行ってやろうと思っていたけれど、懐中も厳しいし、何よりも素晴らしかったマーラーの響きを心の片隅から追いやることができず、日曜に鞭打つように「トリスタン」全曲を2度も聴いた。

「トリスタン」や「リング」「パルシファル」は、マーラー以上に愛着ある音楽で、ティーレマンとウィーン、そしてアメリカの歌唱陣による歌は、素晴らしい日曜日を提供してくれた。

でも、金曜の晩のマーラーもやはり忘れ難く、またしても3番を日曜の晩から聴いている次第なのでございます。
しかも、N響アワーでは、「トリスタン」と「ばらキシ」という、私の最大最高のフェイヴァリット・ミュージックが放送されていたじゃありませぬか。
竜馬を見て、ニュース後、「新参者」を見だしてCM中に3CHにしたら、たらこクチビルが「トリスタン」を指揮してましたがなぁ・・・。

ワーグナー、R・シュトラウス、マーラー。
このワタクシの最高にして最大のファイヴァリット作曲家たち。
これに、プッチーニに英国系、コルンゴルド、世紀末系、アバド・ハイティンク・プレヴィン・マリナーが加われば、ワタクシのクラヲタ人生はこれ極まり尽くせるのでございます。
そんな稀なる週末でしたよ。

さて、金聖響さんを大いに見なおすことになったマーラーは、やはり昨今最強の人気作曲家でもあるんですねぇ。
私がクラシックを聴きだしたころは、ブルックナーとマーラーなんて名前も知らない。
こんなの聴くヤツは評論家くらいだし、録音もほとんどなし。
明けても暮れても、モーツァルト・ベートーヴェン・ドヴォルザーク・チャイコフスキーばかりだったんだ。
その後に来たのが私の場合、ワーグナーとヴェルディだったわけだけど、カラヤンのブルックナー、小澤「復活」と朝比奈「千人」も同時にやってきた。
さっぱりわからぬままに、音楽だけをラジオから名曲辞典片手にむさぼるように聴いたものだ。
そんな受容歴がある古臭い聴き手のわたし。

マーラーは70年代後半から、新時代のマーラー演奏として、ワルターやクレンペラー、ショルティ、バーンスタインらと一線を分かつ、思い入れの少ない、楽譜を大切にした清新な演奏が登場し、以来戦国時代状況となった。
いうまでもなく、アバド、メータ、小澤、レヴァインらの鋭利でいながら心優しい演奏たち。

彼らは、すでに古典派やロマン派をさんざん演奏していたけれど、彼らの前には、カラヤンやベームが立ちはだかり、その評価はなかなか得にくく、マーラーの前には偉大なバーンスタインがいた。
 その彼らが、マーラーや後期ロマン派という新ジャンルで大いなる評価を、師バーンスタインとは違った客観性を帯びたやりかたで勝ち得たのが、いまやエポック・メーキングなことである。

かくして、マーラーは指揮者のいまやある意味登竜門でもあり、試金石にもなる作曲家なのかもしれない。
同時にブルックナーがきて、遡ってワーグナーやベルリオーズ、シューベルト、そしてベートーヴェンに戻ってゆくのも今やありかもしれない。
そこに常にモーツァルトがあると、さらなる強みだ。

聖響さんの清々しいマーラーを聴き、彼が若い頃からマーラーに取り組んでいたことも知り、わたしを納得させてくれないジャンルにおいても、今後新展開を期待しつつの週末なのでございました。

Mahler3_haitink

     マーラー 交響曲第3番

         Ms:モーリーン・フォレスター

   ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
                      オランダ放送女声合唱団
                      聖ウィリブロード教会少年合唱団
                          (1966年5月アムステルダム)

前段がどこまでも続きましたが、今日は、地道な努力がのちに、大いなる大輪を咲かせることになった、ベルナルト・ハイティンクマーラー交響曲第3番の一番最初の録音を聴きます。
 ハイティンクのマーラーは、先に記した新時代のマーラー演奏の系譜には載せてもらえず、常にマイナーな存在であり、誰よりも早くマーラー全集をこさえたのに、ほかの指揮者ほどには光を浴びなかった。
 そう、ハイティンクのマーラーは、同時にコンセルトヘボウのマーラーでもあり、営々と築きあげられたマーラー演奏の伝統の方に脚光が浴びてしまっていたからなのだ。
 その後のハイティンクのマーラーが、いくつかの再録音とベルリンフィル、そしてシカゴと進行中の演奏などを通じて、あまりに音楽的、そしてハイティンクの人間存在を語るような滋味を増し、優秀なオーケストラを得てどこまでも高みに達しゆくのを聴くにつれ、一徹の人間のなしゆく究極の「さま」を見せつけられている。
この出来事が、いまも今後も、進行中であることが驚きである。

1966年の、ハイティンクのマーラー全集でも、ごく初期の録音。
ハイティンク37歳。
コンセルトヘボウの指揮者になって5年目。
若い指揮者の果敢な指揮をしっかりと受け止める、しっとりした色調のオーケストラ。
元気一杯のハイティンクは、若さがはじけていて、それでいながら、全体の見通しと構成感もよく、やるべきことはちゃんと押さえている。
当時ばかだちょんだ言われたことが、ますます不当に思えてくるのだ。
勢いで飛ばしてしまうところは、コンセルトヘボウのオケの味わいや優秀録音のホールトーンで、巧みにカヴァーされているし。
 緑一杯の健康的なマーラー。
涙うるうるの終楽章では、朝露に濡れる草原に足を降ろしたような感動が味わえるんだ。

このハイティンクの若い演奏を聴いて、聖響さんのこと、神奈川フィルのこと、ワーグナーのことなどを思い起こしております。

           Ⅰ      Ⅱ    Ⅲ     Ⅳ     Ⅴ     Ⅵ 
  66年RCO  32'09       10'19      16'50        8'45         4'05        22'05
  83年RCO  32'38        9'06   15'20    9'12         3'55        23'05
  90年BPO   34'50       10'05      17'54        9'44         4'18        26'00
  06年CSO  .35'10         9'52      18'13        9'13         4'18        24'39

ハイティンクの当曲の録音タイム。
83年のクリスマスマチネのブックレットより記載。

Heitink_1
こちらは、69年頃の来日記念のチラシ。
ブルックナーとマーラーばっかりですよ。
当時はこれでは人気が出ません。

「シカゴとの最新ライブの記事」

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2010年4月25日 (日)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ティーレマン指揮

Sodegaura_2
堤防から覗き見。
足元に砕け散る波しぶき。
向こうの山は箱根の嶺。

今日は怒涛のワーグナーを聴くのだ。
あらかわバイロイトの「ワルキューレ」に行けなかったし・・・・。

Tristan_thielemann
本ブログ15本目の「トリスタンとイゾルデ」。
音源・映像22。エアチェックCDR・VTR・DVDはおそらく50くらい。
ばかですねぇ。
パルシファルもリングもマイスタージンガーもこんな感じ。

初トリスタンのレコードは、中学生のとき。
平塚か小田原だったかのレコード屋さん。
棚に鎮座してあったのをずっと見つめてはいつしか手にいれてやると思って半年。
ついに7000円を握りしめて、中学生のワタクシがずっしり重たい豪華カートンケース入りの「ベームのトリスタン」を手にレジへいくと、二人いた店員さんたちの驚愕ハイドン94状態のお顔。
いまでも忘れられませぬ。

今日開封して聴いたティーレマンウィーン国立歌劇場ライブのCDは、昨年秋に地方某塔の店で購入したもの。
思わぬ掘り出しものがあるから、出張時のCDショップめぐりは楽しい。
これ、ワゴンセールなんだけど、6395円の50%offのシールが。
少し悩んだけど、恐る恐るレジにもってゆくと、ポスレジを通らない。
え? 値段が間違ってましたと言われたらどうしよう・・・。
よってたかって店員さん3人がかりで手打ちしたり、なんだかんだやるけど、まったくだめ。
チーフらしき人が出てきて、本部だかなにかに電話してる。
ひとり残され、不安で一杯のわたくし。
 そして出された結論が、元値の間違いと。
6395円の60%引きが機械上すでになされていたのだそうで、そこでさらにその半額になったのでございます。
ということで、これ、1279円で購入したんざます。
あとで間違いでしたと言われないように、そそくさと店をあとにしたワタクシ。
しめしめと思いつつ、レンタカーに乗り込み急発進をして現場を逃げ去ったのです。

これもまた、思い出のトリスタン購入歴を刻む出来事でございます。

それにしてもこのジャケット、オペラにも造詣深いポップなアーティスト、ディヴィッド・ホックニーの「トリスタンとイゾルデ」だそうな。
演奏の内容と開きがありすぎるのでは・・・・。
各幕1枚、3CDのカラーが、赤・青・緑と、この絵のカラーモティーフとなっている。

 イゾルデ:デヴォラ・ヴォイト    トリスタン:トマス・モーザー 
 マルケ王:ローベルト・ホル    クルヴェナール:ペーター・ウェーバー
 ブランゲーネ:ペトラ・ラング    メロート:マルクス・ニミネン
 牧童:ミハエル・ロイデル      船乗り:イン・スン・シン
 若い水夫:ジョン・デッキー

   クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団
                         ウィーン国立歌劇場合唱団
                     演出:ギュンター・クレーマー
                     (2003.5 @ウィーン国立歌劇場)


Tristan_wien
ウィーン国立歌劇場のサイトで、この時の映像がちょこっと見れます。
この年がトリスタン37年ぶりのプリミエのクレーマー演出は、画像やリブレットでみるかぎり時代設定を近代に置き換え、装置は閉塞感ある雰囲気だ。
ウィーンのトリスタンといえばその前はエヴァーディングのもので、来日公演で観劇したけど、デイム・ジョーンズとテオ・アダムの素晴らしい声しか覚えておりませぬ・・・。

 音源だけなので演出のことはさておきだが、ときおりドシン・バタンと大きな舞台の音もそのまま収録されているので、びっくりするのも事実。

この上演は、NHKFMでも放送されCDRとして聴いたが音がいまひとつで、商品化したCDで聴く音は向上し、細部にわたって舞台の声とピットのオケ、それもウィーンフィルの美音が楽しめるのであった。それでもバイロイトの優れた録音には及ばないけど。

 かつてクナッパーツブシュ、ベームやシュタイン、レヴァイン、バレンボイムらが音楽監督的な存在であったように、ティーレマンはいまやバイロイトの音楽面での顔である。
7年前のこのトリスタンでは、いま現在のような図太いまでの圧倒的な説得力は弱め。
普通に非常に優れた演奏っていう感じ。
しかし、重心低めのド迫力低音、緩急の巧みさ、リズム感のよさとあふれる生気。
これらは今もティーレマンの音楽を特徴づけるもので、ウィーンフィルの艶色系の音色がそこに華を添えていて、第2幕の二重唱からその幕切れにかけての美しさと絶望感、さらに3幕のトリスタンの夢の熱烈さなどは、実に聴きものであった。
 いつしかまた、ドレスデンあたりと再録音をしてもらいたい。

アメリカ人二人の主役。
当時58歳のトマス・モーザーが実によいと思った。
モーザーはモーツァルト歌いとしてデビューし、カラヤンとのレコーディングもあったが、リリックから徐々にヘルデンに転向しワーグナーやシュトラウスには不可欠の歌手となった。
重ったるいロブストな声でなく、気品をともなったクリアボイスで、力強さや声量は少ないもの慎重で丁寧な歌い口で聴かせるトリスタンに思った。
Deborah_voigt
もうひとり、ジャイアント・デボラ・ヴォイトさんのイゾルデ。
かつてのカバリエのごとく、ビッグすぎて、演出家からイメージにそぐわないとして何度も降板させられてしまう愛すべきデビーさん。
そして何度もダイエットに挑戦し、メットのライブビューで観たイゾルデはいくばくか痩せておりました。
その時の進行役スーザン・グラハムとのやりとりもユーモアたっぷりで楽しく、なんでも笑い飛ばしてしまうアメリカ~ンなナイスなお方と感じましたね。
 そんなデボラ(一文字違うとたいへん)のイゾルデは、ちょっと表現の幅が大味だけど、これだけ立派で余裕を感じさせる声はそうそうにない。
メットのときも感じたけれど、人情味あふれる女将的なイゾルデでありました。
ことし、松本でサロメを歌う予定らしいけど、小澤さんもふくめてどうなるんだろう。

新国で若々しいザックスを歌ったウェーバーのクルヴェナールもいいが、P・ラングのブランゲーネが献身的な歌でもって印象に残る。
それと味わい深いホルのマルケ。

賛否両論あるらしいこのCD、わたくしは素直に楽しめました。
トリスタンが好きなもんですから、よっぽどひどくなければどんな演奏でもOK。
 ウィーンのこのプロダクション。
名指揮者が次々に登場していて、シュナイダー、W・メスト、セーゲルシュタム、ラトルなど。さすがはウィーンです。

聖響&神奈川フィルの素晴らしいマーラーの3番がいまだ耳に残る日曜。
マーラーも多大な影響を受けたトリスタン。
ともに「愛の救済」を描きつつも、どうしてこんなに違うのか。
どちらも慣れ親しんだ世界であるけれど、横浜のマーラーは素晴らしすぎた。
一方で、ワーグナー生涯愛は変わらないけど。(言うよねぇ~)

・トリスタン過去記事

 大植バイロイト2005
 アバドとベルリン・フィル
 
バーンスタインとバイエルン放送響
 P・シュナイダー、バイロイト2006
 カラヤン、バイロイト1952
 
カラヤンとベルリン・フィル
 ラニクルズとBBC響
 バレンボイムとベルリン国立歌劇場公演
  レヴァインとメトロポリタン ライブビューイング
 パッパーノとコヴェントガーデン
 ビシュコフとパリ・オペラ座公演
 飯守泰次郎と東京シティフィル
 ベームとバイロイト1966
 ジョルダンとジュネーヴ

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2010年4月24日 (土)

神奈川フィルハモーニー定期演奏会 金聖響指揮

Minatomirai_1
冷たい雨の降る寒いみなとみらい。
神奈川フィルの新シーズンのオープニング。

    マーラー 交響曲第3番 

       MS:波多野 睦美

    金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                神奈川フィル合唱団 (近藤政伸音楽監督)
               小田原少年少女合唱隊(桑原妙子指揮)
                    (2010.4.23@みなとみらいホール)
Kanagawaphil_20100423

神奈川フィルの音が帰ってきた。
そう、それは8本のホルンの咆哮によって始まった。
これで今宵は決まったという感じ。
続くみなとみらいの響きのよいホールを揺るがすトゥッティも威圧的にならずきれい鳴り渡る。
 この出だしから、終楽章の感動的なエンディングまで、そこには音楽がみちあふれ、指揮者もオーケストラもまさに自然体で音楽に語らせることが出来ていたと思うのだ。

「音楽が私に語ること」・・・・・、この交響曲に相応しいですね。

聖響さんのファンのように、多くは聴いてないけれど、この1年聴いてきて、初めて心から感動できた。決して油断してはいけないと自戒はしつつも素直によかったと言おう

万遍なく各セクションが活躍するマーラーの音楽。音の融合感とビジュアル的にも対向配置は今回とても成功していて面白かった。

何故よかったか。どこがよかったか。

・マーラーがスコアにしつこいくらいに書き込んだ注釈があるため、余計な解釈をほどこす余地がないし、多分時間的にもその暇がなかった。
・ピリオド奏法はなし。神奈川フィルの弦楽セクションにうるおいが満ち、輝かしさすら感じた。 
石田コンマスの絶美のソロが、長大な曲のそこかしこに登場して、演奏を締めていた。
・チェロとビオラに注目してたら内声部っていろんなことしてるし、マーラーの音楽はここがしっかりしてないとダメなんだと今さらに気がついた。
 山本さん柳瀬さん、それぞれが率いるセクション、素晴らしすぎ。
・聖響さんの導きだした音楽、その表情が若々しく、そして瑞々しかった。
 曲がマーラーの早春賦みたいなものだから、それに相応しいし。
 1楽章の猛然たるアッチェランドは爽快。
 わたしにも指揮させてくれい、と思っちゃった。
  後期の人間臭い複雑なものになると、どうだろうか・・・・。
・毎度素晴らしいのが神奈フィルの木管。今回も文句なし。
 それ以上に感嘆したのが、ブリリアントな金管。
 後半疲れちゃったけど、ナイスでした。そうポストホルンも。
・ピリオド時にはうるさい打楽器も収まるべきところに収まり、しっかりとかつ美しい。
・明るめの歌だった波多野さんのメゾが全体の若やいだ色調にマッチしていた。
・ソロの位置、合唱登場のタイミング、いずれもよし。
・シュナイトさん以来です。あ、ミサソレでもありました。神奈フィルで涙流したこと。
 4楽章の深い夜を歌う場面。波多野さんの素敵なメゾに、石田ヴァイオリンが美しく
 絡み合うヶ所。
 そして、終楽章の随所に。
  ビムバムが終わって、そっと始まる愛と感謝の名旋律。
 うるうるが止まらない。
 この楽章が大好きなワタクシ。アバドのウィーン盤が理想で、そのゆったりテンポが
 染み付いているのだけれど、聖響さんほぼその理想通りの出だし。
 だが、曲の進行とともに、テンポを上げてゆきました。
 これもありだな。よしだ。
  オケの全奏のなかティンパニの連打、それに付随するチェロ。
 観て聴いて、感動のシャワーを思い切り浴びることができたこの幸せ。
  しかし、拍手早すぎだ

この若々しい演奏に、コクや陰りを求めるのは無理。
歌の扱いも楽器のようで、申し少し歌わせてあげないと可哀そうに思えます。

でもですよ、国内でもありあまるマーラーの演奏の中にあって、この草食・お醤油系の清々しいマーラーは、美しい神奈川フィルの魅力もあいまって、独自の存在感を築きあげるのではないかしら。
 復活、4,5,6と続く今シーズン。来季もありと聞きます(後期は怖いけど・・・)

わたしのなかで、ちょっとヘタレでいた神奈川フィルの演奏会に楽しみがよみがえってきましたよ
でも次週は、またシューベルトとメンデルスゾーンの「ロマン派の響き」という鬼門が立ちはだかるのであります

最後に以前の記事から、わたしのこの終楽章に対する思い入れを再褐します。
ちょっと恥ずかしいですがね。

Img_ceremony01_01_2 今を去ること、愛情(??)も去ること数十年前、舞浜の某ホテルにて行なった、拙者の結婚式の背景音楽は自分が選んだ(無理やり)好きな曲ばかり。
「ローエングリン」「喋々夫人」「ショパンの協奏曲2番」「ラヴェルのP協奏曲」「ラフマニノフの交響曲2番」「ディーリアスの楽園への道」「ビージーズの愛はきらめきのなかに」「ナット・キング・コール」・・・・
そしてトリは、このマーラーの終楽章。しかもアバドのこの演奏。
式の終了の挨拶に、両家を代表して・・・・、亡き父が訥々と感謝の言葉を述べた。
その背景に流れるマーラーの音楽。
散々飲まされていた私も、ことここに至って神妙になり、涙がはらはらとこぼれてしまった・・・・

Beer

このところ不平不満で悪酔いしてしまっていたアフターコンサートは、久しぶりのニコニコ大会。
主席チェリストの山本さんもお越しいただいて、ほんとうに楽しいひと時でございました。
でかいピッチャーで飲むわ飲むわ。
二次会まで行っちゃったので、終電コース。
その電車で、隣に座った兄ちゃんが、爆睡で携帯は落とすは、鞄も投げ出すわ。
鞄もって慌てて降りたら、案の定、携帯置いてっちゃった。
わたくし、すかさず取ってホームでふらつく兄ちゃんに渡したけど、あやうくドアが閉まる寸前飛び込みましたよ。まったくもう。
ま、人のことは言えないのでありますがね。

応援する会メンバーさん、そして金さん・山本さん、オケの皆さん、どうもありがとうございました。そしてお疲れさまでした。

Minatomirai_2
桜木町駅前、新しいビルがオープンしてます。
Colette Mare~ショッピング・ホテル・美容・フィットネスと都市型商業ビルでした。
109も出来たし、こんなに出来て大丈夫なのかいな・・。

 

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2010年4月21日 (水)

「茜空」 レミオロメン

Sugamo4
寒い雨空のもとの桜。
そして交差する山手線。
ここは巣鴨駅のうえ。
もう少し歩くと、巣鴨地蔵と巣鴨商店街。
どちらも、味ありすぎ。
 もう散ってしまいました、あしからず。
Sugamo1
東京の景色ですな。
東京に出てきて、一人暮らしして、いろんなことにぶつかって悩んで、それでも毎日が否応なくやってくる。
そのテンポの早さときたらありません。
多くの人が経験してきた道でありましょう。
過密なまでの東京。その厳しさにおいても、物理的な豊かさにおいても世界有数じゃないかしらん。
東京だけ、なんで??
いまこそ、日本各地・地方均一の世の中が欲しい。

 いつになくシリアスになってしまった、あしからず。

Lemio_akane
やや季節感を外してしまったけど、この時期の「レミオロメン」の名曲「茜空」を。

春の別れと終焉、そして新しい出発を、4月の空に歌った曲で、わたしのようなオジサンがこれまで何度も何度も経験してきたせつない思いを感じ取ることができるんだ。
クラヲタのくせに、こんなウェットなワタクシ、笑ってくださいまし。
オペラを愛するわたし。
言葉に込められた感情を、音楽とともに味わうことを、身をもって知っておりますゆえ、音楽に隔てはないんですね。

 夕べの月の一昨日の残りの春の匂いで目が覚める
 私の好きなスニーカーで通う道に咲いた桜並木

 耳の先では四月の虫の歌が心を奮わすように奏でるから

 茜空に舞う花弁の中
 夢だけを信じて駆け抜けろ
 瞳には未来が輝いている
 そう春だから

 ・・・・・・・。

 以下気になる皆さん、ネットたたくと一杯でてきますよ。
 いい詩なんです。
  そしてそれに付随する、いい音楽なんです。

山梨出身の敏感な若者たち、レミオロメン。
こんなオジサンでも共感します。
若すぎるかしら。
でもいいんだ。心の源泉だし、若い気持ちを保たなくてはね。

若い頃に聴き、その時代のひとコマを飾った音楽は、歳とって何十年もしても、その心に生き続けるんだ。
私には、クラシックもそれ以外も、そんな音楽がたくさんあって、若い気持ちにリセットさえてくれるシチュエーションがたくさんある。

そして、オヤジとなった今も、そんな気持ちを持ちつつ、こんな音楽も聴いてしまうんですな、これが・・・。

 「レミオロメン ロミオベスト」
 

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2010年4月20日 (火)

チャイコフスキー 交響曲第5番 メータ指揮

Atago_1
トンネルの先は桜。
都心部でも数少ない山、そしてトンネルは、愛宕山でございます。
港区に山があり、トンネルがあるんだもの。
残された東京の不思議。
Atago_2
山の上にある愛宕神社。
急な男坂と緩やかな女坂があって、こちらは男坂。
出世坂と言われておりますよ。
おばあちゃん、大丈夫かい?
わたしも、これはきつかった。
そして出世なんぞも遥かに遠くなってしもうたわい。

Mehta_tyhaikovsky
今日は何故だか、チャイコフスキー交響曲第5番が聴きたくなって、このエントリー。
ケンタッキー・フライドチキン、吉野家の牛丼、マクドナルドのチーズバーガー、日清カップヌードルなど、何故だか無性に食べたくなる味ってあるでしょう。
みんな、メタボにゃ毒だけど、おいしい。

 それとおんなじ感覚が、チャイコの5番。
名曲だけど、運命や田園、悲愴や新世界ともちょっと違った無印系の名曲。
誰もが大好き。嫌いな人はいないと思う。
でも、B級グルメ的な存在なんだよなぁ。
だって、おいしすぎるんだもん。
 心くすぐる調味料の数々。今思えば、味の素なんて最高の隠し味だったし。
さらに、でもですよ、昨今は隠し味なしに、作品のシャープな魅力を浮き彫りにした秀演が多いのです。
 手垢にまみれてしまった有名曲に新しい解釈を施すって、決して奏法などの手法の問題だけじゃないですね。
手先じゃなく、音楽をどれだけ感じて、その感じた通りを再現できるかです。
奏法はその手段のひとつにすぎません。
作曲された譜面を作者以外は、その思いをどう再現し、いかに思い通りに近づけるしかないのですが、その作者の思いは100%他人が復元できませぬ。
だから難しいこと考えずに、感じたままを音にしている演奏のほうが、人を感動させ、説得力が強かったりするんですな。

メータの演奏を70年代から聴いてきて、この人の当時の演奏が今でも決して色あせないのは、そのゴージャスな色使いと、いまや渋さを感じるまでの楽器の使い方がずっと新鮮であること。

チャイコ5番においても、その爽快・前向きな推進力が聴く者に「かっこよさ」を印象づけるとともに、これまで聴いたことのないような意外なまでのスピーディさが清新なイメージを強く聴き手に与えてくれるんだ。
だから、音楽って、小難しいことを考えなくてもいいんだと思う。
愛する神奈川フィルも、袋小路に入り込んでしまった。
 めんどくさいことはおいといて、普通に、そう、感じたまんまを聴かせて欲しいもんだ。

メータのチャイ5には、この1977年のロサンゼルフィルとの全集録音のまえに、イスラエル・フィルを振った60年代末の録音があって、そちらの復活を私は熱望してるんだ。
この曲は、テレビで視聴した岩城・N響の70年頃の演奏がすりこみで、すぐあとにカラヤンのレコードを購入。
同時に、雑誌でみたメータのレコードがやたらと気になっていたんだ。
それから40年以上。
未聴のこの演奏、無性に聴いてみたい。

Mehta_tchaiko5

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2010年4月18日 (日)

イタリア・バロック名作集 アバド親子

Shihantei_2

ようやく、おてんとうさまが戻ってきた日曜日。
春を忘れてしまった感じで、体が戸惑っております。
歳とると、寒さが堪える・・・、調整機能の低下でしょうかね・・・。

こちらは、昨年の今頃。
亡父の13回忌を海辺のレストランで、家族だけで静かにやったときのもの。
結婚式も出来るところなので、少し華やかですが、親父が好きだった海が見渡せて素晴らしい場所でありました。
 この下の海で、子供のころ、よく釣りを教えてもらったものだ。
釣ったキスを家に帰って、フライや天ぷらに。
よき子供時代にございました。

Ninomiya6

わたくしの影。
風で上着が膨らんでます。決してメタボ腹じゃござんせんぜ。

海にはいろんな思い出がある。

M_abbado

アバドファン=アバディアンならば、これも聴け

そう、まぼろし級のアバド音源を、EINSATZレーベルさんが復刻してくれました。

親子共演。名門音楽一家だからできた共演。
クラウディオの親父ミケランジェロ・アバドとその息子で次男坊のクラウディオ
親父が指揮して、ヴァイオリンを弾き、息子がピアノ奏者。
カンビーニのピアノ協奏曲がその1曲。
1954年頃の録音と思われ、クラウディオは21歳。
アバドファンなら、21歳頃ならウィーンで、スワロフスキー教授につく前の時期とすぐにおわかりでしょうね。

父ミケランジェロは、ヴェルディ音楽院院長・ヴァイオリニスト・指揮者・教育者。
母マリアは、作家でピアニスト。
兄マルチェロは、父の後をついで音楽院院長、そしてピアニスト。
甥ロベルトは、有名な指揮者。
息子ダニエーレは演出家として活動を始め、ロッシーニのオペラの映像もあります。
 すごい一族でありますな。
もっと大きく見てみると、アバドは若い人のオーケストラをいくつも創設し、それこそ無数の演奏者たちがアバドの指揮棒のもとに育っていってる訳だし、弟子ではないものの、アバドを信奉する指揮者たちもたくさん。
教育者や指導者でもないのに、アバドの高潔さと音楽への愛情が人を育ててしまう。
かつての巨匠時代には考えられない存在感であります。

そのクラウディオ・アバドの今聴ける音楽の原点がこのピアノ演奏。
モーツァルトと同時代のイタリア作曲家カンビーニの明るい作品に、伸びやかで明晰なタッチのピアノはとてもよく合い、曇りない音楽をつくる今と同じ。
ウマい下手を云々できる曲ではないが、このピアノならモーツァルトなんかも聴いてみたかった。

  1.ヴィヴァルディ 4つのヴァイオリンのための協奏曲
  2.カンビーニ   ピアノ協奏曲
  3.タルティーニ(レスピーギ編) パストラーレ
  4.ボンポルティ  合奏協奏曲

    ピアノ:クラウディオ・アバド(2)

    ヴァイオリンと指揮:ミケランジェロ・アバド

    ミラノ弦楽合奏団
               (1954年頃)


父ミケランジェロのヴァイオリンが、イタリアの風を感じさせる颯爽とした気持ちのいいもので、歌に満ちあふれた心地よさに、昨今のキビキビ・スピーディ演奏を忘れて、ほのぼのとした気分になってしまった。
ことに、ポンポルティは曲もよく麗しい。
LPからの復刻が見事に成功していて、柔らかな弦楽器の音色を聴くに相応しく、雰囲気ばっちり。

今の超巨匠・孤高の存在となったクラウディオ・アバドをさらに知るために是非どうぞ

アバドには、バッハの協奏曲でチェンバロを弾いた録音もあっていまや廃盤。
60年代初めのころ、B・カニーノとの共演だったと記憶するが、こちらも是非復刻して欲しいものです。

Shihantei_a

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2010年4月17日 (土)

プッチーニ 「トスカ」 チューリヒ歌劇場

Tokyo_tower20104_1
今日もまた寒し。
しかも朝は、雪まじりの雨。
それもわたしの住む千葉は強くてびしょぬれになっちまった。
春らしかった4月の初めの東京タワーざあます。
 あら、いま「怪物くん」を見てたらこんなこと言ってしまった。
懐かしいですな。怪物くん。「おれは怪物くんだ・・・」という歌が脳裏に刻まれております。
もう40年以上前ざますわよ。

1

NHKでチューリッヒ歌劇場プッチーニ「トスカ」を放送したのでテレビ観劇。
チューリッヒやスカラ座、メトはNHK様は、このところよく放送してくれる。ウィーンやロンドン、ミュンヘンは以前よくやってたけど、技術提携とかいろいろ契約ごとがあるんだろうな。
でも、お膝元の新国をなんであんまりやってくんないのさ。

2
ま、それはともかく、チューリッヒの上演は質が高く、出演者も粒ぞろい。
数年前の来日公演で観た「ばらの騎士」はトータルバランスがとてもよくて、おりから繰り広げられた「ばら戦争」の中にあっても一際抜きん出た上演だった。
今回の「トスカ」は2009年9月の上演で、演出はロバート・カーセン、カヴァラドッシにいまをときめくヨナス・カウフマン、スカルピアがハンプソンだ。
このあたりが見もの。
放送に先立つ案内番組でご丁寧にもナタバレ解説をしてくれてましたな。
ま、人のことは言えないけど。

 トスカ:エミリー・マギー   カヴァラドッシ:ヨナス・カウフマン
 スカルピア:トマス・ハンプソン 

  パオロ・カリニャーニ指揮チューリヒ歌劇場管弦楽団/合唱団
   演出:ロバート・カーセン


歌手が素晴らしい。
7
トスカのエミリー・マギーちゃんは、マイスタージンガーのエヴァやローエングリンのエルザなどのワーグナーの初歩ロールからスタートし、いまや立派なドラマティコ。
声も巨大に立派になったけど、そのアメリカーーンなバディも超立派に。
圧倒されます。
恋に生き歌に生きでは、カーセン演出の真骨頂。
うしろでスカルピアがスポットをあびて聴いてます。
マフィアの親玉みたいですな。
トスカが真摯に歌い終えると、スカルピアさん、拍手をするんです。
 そう、このカーセン演出のキモは、劇中劇。
トスカをめぐる愛憎劇を、観衆は舞台の横からノゾキ見してるわけなのであります。
5
いつも親しみあふれるハンプソンがスカルピア?と思ったのもつかの間、結構いやらしく、サマになっているんだ。
マフィアの親分で、警視総監なんて風にはまったくみえない。
手下にやたら厳しく、女にめちゃくちゃ弱い。
1幕のテデウムでは、劇場に観劇しにきた市民とともに歌う実業家。
ハンプソンの声は相変わらずフレンドリーな感じだけど、苦みばしった演技がインテリ風のすさまじい恐ろしさを醸し出す。
4
カヴァラドッシのいる拷問部屋へ、無慈悲なダメ押しを送るスカルピアと、嘆きのダイナマイト・マギー・トスカ。
光と影の扱いかたが、このようにウマいのがカーセン。
音楽の局面をたくみに捉えている。
昨今のリアル演出にのっとり、スカルピアが迫りトスカが脱いじゃったり、鮮血もふんだん。
個人的には、血はよろしくない。
切れば血が出るけど、そんなに見せちゃいかんだろ。
当たり前の危険。
最近のオペラは、どこもかしこも血だらけだ。
9
そしてカウフマン
はっきりいってわれわれが思うカヴァラドッシらしくない。
重めの声に抜けない高音。強すぎる悲劇性。つかの間の逢瀬も悲壮感たっぷり。
でも、わたくし、カウフマンのカヴァラドッシを主役3人のなかでは一番楽しみましたよ。
ジークムントのようなカヴァラドッシ。
それは悲劇を背負った陰りある存在で、女優として脳天気なまでにはっきりした存在としてカーセンによって描かれたトスカと、その真摯さにおいて大きな対比をなしていたと思う。
プッチーニに異質な声は、あまりに異色で、逆にカラフを聴いてみたくなる。
演出によって生きたカウフマンのカヴァラドッシ。
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カヴァラドッシの偽装死の真実を知ったトスカ。
11 12
彼女は、舞台の中の舞台から身を投げ出すのであった。
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悲劇的に曲を終えたあと、カーテンコールに応えて登場のトスカは、あちらの舞台、すなわち、観劇するわれわれに背をむけ、挨拶。
そして、こちらに戻ってくるも、劇場の人から花束を受け取る。
 なんと、ここまでが劇中劇の演出が継続、
観聴きするわれわれは、心地よい錯覚と空しさを味合うのであります。

どうです、このカーセン演出。
深い洞察力に裏打ちされた巧みな舞台の意外性に驚きと発見、そして感銘が。
それが音楽を邪魔せず、必然としてなりたっている。
思いつきでない、考えぬかれた秀逸な舞台ではないかと。
カーセンの「カプリッチョ」でも、いつの間にか劇中劇に遊ぶ自分を見出したことがある。
倒錯と錯覚がもたらす甘味と不安感を、このような有名オペラの「トスカ」でも導きだしたカーセンはすごいと思う。
映像あってこそかもしれないが、映画系のヘンテコ演出家と比べると極めて音楽を理解した、落とし所に納得感あるものに思う。

日本でも実績つみつつある、カリニャーニの指揮がまた鮮度抜群で味わいも深いものでありました。

カウフマンとアバドの共演CDの記事はこちら

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2010年4月16日 (金)

フィンジ クラリネット協奏曲 ヒルトン&トムソン

Ninomiya1
寒ぅーい、ですねぇえ・・・。
人生、うん十年生きてるけど、こんな寒い春はなかったのではないかしら
今夜は関東は雪降るっていうし。
隠れちゃった春を呼び覚まそうと、パトリシア・プティボンを聴いたのに効果なし。

Bank_of_green_willow
ということで、ひとり寂しく英国音楽を。
それも、とびきり大好きな、フィンジクラリネット協奏曲を聴こう。

ジェラルド・フィンジ(1901~1956)は、白血病で54歳にして亡くなってしまうのだけれど、自己批判精神が強く、作品をかなり破棄してしまっていて、いま聴けるのは40曲あまり。
こうしたことや、父・兄・師の相次ぐ死による心の痛手と英国の田園風景・・・、これらは、こちらで何度も書いてきました。
 今後の可能性は、破棄したかに思われる作品の復刻。
こればかりは、わかりませぬが、出てくるかもしれない。

近代英国の作曲家たちは、多くが時代的にラップしていて、相互に交流があり、お互い影響しあっていたからおのずと自作に対して自ら厳しくなってしまうのではなかったろうか。
アイアランド、バックス、ハウェルズ、ウォーロック、みんな私の好きなナイーブ系作曲家たちがみんなそう。
ブリテンも、現在出版されている以外に、相当数の作品が残されていると聞く。

まだまだ楽しみの沢山残っている英国音楽であります。

死の淵をのぞき見てしまったような切実なまでに心に迫る音楽。

Hadano2
シリアスで、聴く者をいきなり思いつめたような状況に追い込んでしまう辛い音楽が第1楽章。ここには明るさを求めようと模索する気持ちも充満している。
 そして、最高に美しく甘味さまでも感じさせる第2楽章は、祈りと癒しの哀歌である。
せつせつと、涙に濡れたように歌われるクラリネットのソロに、弦楽オーケストラがこんどは楚々と答える・・・・。なんて儚く、悲しい、そして優しい音楽なのでありましょうか。
このところは、いろいろとあって、今宵はひとり、お酒を傾けながら聴いております。
外は春なのに、冬。
冷たい雨。
そんな自分の心に、ひたひたと寄り添うようにまとってきてくれる音楽。
そんなフィンジの音楽の典型が、こちらのクラリネット協奏曲の第2楽章なのだ。
思わず泣いてしまう。
 それが一転、終楽章のロンドでは音楽が飛翔し、こちらも心に光が射してくる。
明るく転結するかと思ったら、そうでもない。
どこまでも内面を見つめながら、聴く者を突き放すことのない美しい音楽なのです。

もし、まだ聴いたことがない方。
是非ともお聴きください。
たくさんCD出てます。

今日は、私のこれまた好きな指揮者、ブライデン・トムソンの指揮するBBCノーザンシンフォニー、そしてリヴァプール生まれの女流クラリネット奏者ジャネット・ヒルトンのソロ。
トムソンの指揮する一見無骨なまでのオケがこの曲の明暗すべてを表現しているようで素晴らしい。それと相和す、女性的な優しいクラリネット。

Hadano1
秦野市の名水・水無川沿いの桜並木。
Hadano3
夕闇せまる桜咲く街。
このあと、また冬がやってくるなんて、誰が予想しただろう。


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2010年4月15日 (木)

シャルパンティエ 「愛はすべてのもに勝つ」 クリスティ&プティボン

Azumayama5
まだ桜。
向こうは相模湾。

日替わりで、冬と春。
なんだか変だぞ、日本。

Charpenter_les_plaisirs
「春のプティボン祭り」開催中

今夜は、クリスティ門下時代のエラート録音から、シャルパンティエ(1643~1704)のパストラレッタ「愛はすべてのものに勝つ」を。

パストレッラは、牧歌劇のことで、イエスの誕生にまつわるパストラーレ=田園曲とはことなる神話世界の寓意劇で、宗教的な意味合いはまったくないのどかで、現世離れしたもの。
後世のオペラの人間ドラマからしたら、まったくもって呑気で、バカらしく感じるけれど、そんな素材に必死に取り組み、滋味深い音楽を書き残した当時の作曲家たちを思い、いまこんな時代に、その音楽を聴く邪念いっぱいのわれわれが、空しい存在に感じてしまう。

フランス・バロックの作曲家、マルカントワーヌ・シャルパンティエ。
多くを聴いてないけれど、キリスト降誕の「真夜中のミサ」が有名。
抒情的な作曲家との印象が強い。
一方で、イタリアに学んだことから、フランス的な優美でノンシャランな音楽と同時にイタリア的な形式重視かつオペラティックな要素も合わせもっているといわれる。

このCDには、フランス語によるディヴェルティスマンと、イタリア語によるパストラッタが収められ、クリスティらしい見事な対比を見せているが、わがパトリシア・プティボンが多く歌うのは後者の方。

プティボンは、二人の娘のうちのひとり、フィッリを歌っている。
羊飼いリンコとシルヴィオの恋人は、それぞれフィッリとエウリッラ。
彼らは、恋人たる彼女たちがつれないので空しい。
一方の女性陣は、子羊が狼に追いかけられたり、自身が熊に脅かされたりで、恋人どころでなく、嘆きの真っ最中。
そこに、牧神パンが現れ、君たちに恋してる羊飼いたちが助けてくれるよ、と歌う。
そのお礼は、「愛」と歌う。
「愛は勝つ」であります。(まるで、KANの歌ですな!~ご存じでしょうかねぇ)

まったく、ばかばかしいけど、真剣かつ優美、そしてオペラのように心情こもった音楽であります。ともかく美しく、緑の園にぼんやり映える音楽に聴こえました。

儚む恋人のひとりを歌うプティボン。
子羊を嘆いて歌うアリアは、ヴァイオリンとテオルボを伴って楚々と歌われ、短くて単純だけど、ジーンとくる音楽であり、プティボンの清純なる歌でありました。
全体のアンサンブルの中でも、ひいき目に聴いてるにしても、ひと際目だって聴こえる彼女の歌声です。

クリスティの意欲が全体にみなぎったシャルパンティエの演奏。
 ルイ14世も聴いたであろう音楽を、こんなに歌と情緒に満ちて、いきいきと再現してしまうのだ。
レザール・フロリサンの秀逸さにも感服。
プティボンの多彩さにも感服。
ここに聴く彼女が、いまやベルクやプッチーニを歌うのだもの。
1996年の録音。

Azumayama6
こちらも郷里桜シリーズ。
早咲きの「つつじ」とともに。

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2010年4月14日 (水)

愛と仮面~パーセルとイタリア P・プティボン

Azumayama11
美しい春の3色。
前回と同じく、我が郷里より。
一進一退の春で、桜が頑張っております。
手前は「ハナダイコン」、そして「菜の花」に「桜」、そして緑。
すんばらしい、色の組み合わせ。
自然の配色に人間の作り出す、どんなものも敵いませぬ。
Petibon_purcell
春のヤマザキ・・・、じゃなくて、春のプティボン祭り」開催中。
プチ・ボン=小さい幸せ=小吉。
そう、パトリシア・小吉チャンなんです。
小粋な名前。本名は知りませんが、彼女ほど名前とその歌がマッチしてる歌手はいませんね。

今宵は、そのプティボンの最初期の録音。
93年結成の古楽の室内アンサンブル、アンサンブル・アマリリスに途中参加したのが、プティボンとテノールのJ・フランソワ・ノヴェリ。
彼らの98年のレコーディングがこちらで、「仮面舞踏会」をコンセプトとした作品をパーセの歌曲を軸に、イタリアバロックの作曲家の舞踏的作品を配したアルバムとなっている。

 1.作曲者不詳     「イギリスの仮面舞踏会~怒り」
 2.パーセル       「徳に命じよ」
 3.フレスコバルディ  「第3のカンツォン」
 4.フレスコバルディ  「第4のカンツォン」
 5.フレスコバルディ  「第1のカンツォン」
 6.フレスコバルディ  「第6のカンツォン」
 7.パーセル       「聖なる守り主よ」
 8.作曲者不詳     「妖精たちの仮面舞踏会」
 9.作曲者不詳     「Cupararre or Graysin」
10.パーセル       「祈り」
11.作曲者不詳     「貴婦人の仮面舞踏会」
12.パーセル       「トランペットよ、響け」
13.作曲者不詳     「ヤギの仮面舞踏会」
14.作曲者不詳     「第2の魔女の踊り」
15.マンチーニ      「この情熱はなんと甘いことか」


        S:パトリシア・プティボン
     T:ジャン=フランソワ・ノヴェリ

       アンサンブル・アマリリス
        rec,ob:エロイーズ・ガイヤール
        clb,org:ヴィオレーヌ・コシャール
        vc:オフェリー・ガイヤール
        con:リチャード・マイロン


パーセルと最後の曲のみの登場のプティボン。
出番が少なく、テノールとの二重唱もあったりで、ちょっと不満だけど、いずれもパーセルらしい憂愁と気品、そしてユーモアにも満ちた桂品を、パトリシアはさわやかさを伴う感情移入でもって歌っている。
音楽への距離感が適度にあって、いまの彼女ならもっと歌えるはずだと思うけれど、パーセルの爽快さと、深刻すぎない哀感がとてもよく出ていると思う。
歌と交互に現れる明るいイタリア作品との対比も極めて楽しい。

パーセル以外では、オーボエとの絡みが天国的に素敵な最後の曲、マンチーニの3部からなるモテットが大いに気にいった。バッハのカンタータにもどこか通じる曲です。
少しボリュームを上げて、パトリシアの典雅無垢の歌声を思い切り受け止めてみたい。

このCDのリブレットを見ていたら、プティボンは、若い頃、クルト・モルやワルトラウト・マイヤーにも学んでいると書いてあった。
ドイツ歌曲やオペラ、そしてその後のクリスティやアーノンクールとの出会い。
彼女の才能は、こうして育まれ、仏・伊・独・英・米と後半なレパートリーを我がものとするようになったのですな。
前にも書いたけど、日本の歌もきっと歌ったら素晴らしいはず。
来日公演で「桜」を歌ってくれたけど、演歌やジャパニーズ・ポップスにも挑戦していただきたいですよね~

Petibon_purcell_2
ジャケットにあった写真。
緑の人がプティボン。
ひょうきんな画像もいくつかありましたよ(笑)

Azumayama4

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2010年4月11日 (日)

「Rosso」イタリア・バロック・アリア集 P・プティボン

Azumayama1
先週末は、神奈川の実家に帰っておりました。
予報では晴れの日曜日だったのに、あいにくの曇り空で、しかも花冷えする一日。
麓のコンビニで、おにぎりを買って、ひょいひょいと軽く山頂に。
ご覧の絶景。お正月からまだ残る菜の花と満開の桜、そして相模湾。
私が、小学生の時から40年以上も目に刻んできた風景であります。
心のふるさと、とでもいいましょうか。
Azumayama8
きれいです。
呑気にコンサート通っているように見えますが、世間の厳しさは、私も同じ。
日々極めて厳しいです。

この光景に、どれだけ心が晴れただろうか。
Petibon_rosso
そして、わが愛するパトリー。
パトリシア・プティボンの新譜も、ここ数日のもやもやを晴らしてくれるような鮮やかな1枚でありました。
2009年9月。11月に来日する直前の録音で、その時に歌われた曲もいくつか含まれていて、あの素晴らしかった思い出に浸ることもできるのです。
イタリア・バロック・アリアというタイトルながら、ヘンデルのオペラが多く歌われていて、イタリア語によるオペラのアリア集という内容であります。
サルトリオ、スカルラッティ、ストラデッラ、ヴィヴァルディ、ボルパラ、マルチェッロ、ヘンデル。
有名な名前も、そうでない人も、プティボンの歌声にかかると、馴染み深く親しみある音楽として聴こえるから不思議だ。
それは時にスリリングでもあり、濃密な空間を感じさせることもあり、さわやかでもあり、アクロバテックな技巧を楽しみ快感でもありと、芸達者なプティボンのあらゆる側面が次々に溢れだしてきてとどまるところがないのでありますよ。

 1.サルトリオ 「エジプトのジュリアス・シーザー」~クレオパトラ
          私が欲しいとき
 2.ストラデッラ 「洗礼者ヨハネ」~サロメ
          洗礼者の涙とため息
 3.ヘンデル 「アルチーナ」~モルガーナ
          また私を喜ばせに来て
 4. 〃    「リナルド」~アリミレーナ
          私を泣かせてください
 5. 〃    「アリオダンテ」~ジネルヴァ
          飛行、好きなもの
 6. 〃    「ジュリアス・シーザー」~クレオパトラ
          私は運命に泣くでしょう
 7.スカルラッティ 「グリゼルダ」~グルセルダ
          この悲しみがお嫌なら
 8.ヘンデル 「アルチーナ」~アルチーナ
          ああ、我が心よ!
 9. 〃    「アリオダンテ」~ダーリンダ
          怠惰なあなたはそうしますか?
10.ポルポラ 「ルチオ・パピーリオ」~ファビオ

          苦々しい死
11.ヴィヴァルディ 「オリンピアーデ」~アミンタ
          平安の中にいる限り
12.サルトリオ 「オルフェオ~エウリディーチェ
          あなたは眠っている
13.マルチェッロ 「アリアンナ」~アリアンナ
          あなたは私に嘆願するために
14.スカルラッティ 「エルサレムの王、セデチーア」~イスマエーレ
          暖かい血

   S:パトリシア・プティボン

     アンドレーア・マルコン指揮 ヴェニス・バロック・オーケストラ

                         (2009.9 @トブラッハ)


充実の14曲、75分。
歌の主、主人公に完全同化してしまうプティボン
多少のデフォルメも彼女ならではの個性で、とっても音楽的。
俊敏で小回り抜群、弾みまくりのパトリシアの歌は、こうしたバロックものにこそ相応しく、対するオケも古楽器のバロックオーケストラで、相性はばっちり。

14曲、どの曲もとても素敵な歌ばかり。
曲目のクレオパトラさまの我がまま姫の歌は、タンバリン・カスタネット・ドラム・ギターを伴いつつのエキゾテックな雰囲気に、ちょっぴり大人の雰囲気のプティボンの歌。
ため息がカワユス。

古雅な楽器に縁どられた曲目は、サロメの歌だけど、ヨハネに向かって涙ながらに歌うソスピリであり、真摯な歌い口と音楽への強い共感。
 愛らしいヘンデルのアルチーナからの曲目。
来日公演でも、胸キュンのお歌でございましたねぇ~。んもう~。
 深淵なる深みを見せてしまうリナルドのアリアは曲目。
技巧の限りをつくしながらも音楽的なヘンデルは曲目。
おんなじクレオパトラでも、憂愁の限りを深く歌い込んだヘンデルのアリアは曲目。
後半の激情も素晴らしいんだ。
 スカルラッティの短めのつめの曲。地声も使い分け、多彩な歌いぶりに魅惑されます。
再びのヘンデルは曲目。
敏感なオーケストラにのって歌われるアルチーナのラブソングは、プティボンの歌でもっていまどきの愛の歌のように聴こえます。おいらも歌われてみたいっす。
緩急の活発なアリオダンテからの一曲は、トラック。コロラトゥーラ炸裂!
 初めて聴くイタリア作曲家ポルポラの音楽は、10曲目。
たおやかで、優雅。田園曲のような麗しさでした。
続くヴィヴァルディは、後年の疾風怒濤的な激しさを明るさでもって駆け抜けてしまう活発な音楽。こりゃもう一緒に走りたくなりますよ、パトリシアと。(No11
 冒頭のサルトリオさんは、エウリディーチェのアリアでは、音楽は神妙かつ精緻な様相で、パトリーも一語一語、慈しむような歌いぶり。
クレオパトラ様とエウリディーチェ嬢の違いでありますな。
オルガンとリュートの合いの手が趣きあふれてますぜ。(No12
 最後の方になってくると前半のはじけぶりから、ぐっとシリアスになってきて深い歌を聴かせてくれます。
13曲目、マルチェッロの懇願のアリアは、たおやかな中に、クリアーな無垢のパトリシアボイスが光ります。
最後をとる14曲目は、スカルラッティ。
これは深刻です。
プティボンは楽しい曲でも、こうしたシリアス・ソングでも全身全霊、心をこめて歌うものだから、聴くものを心から共感させ同化してしまうのであります。

14曲の数々のドラマの連続。

一夜のオペラやコンサートを味わうがごとくの75分間。

またしても、パトリシア・プティボンの世界に引き込まれ、やられてしまった。

前日の音楽不足のコンサートとは、これまた段違いの世界。


プティボンの新境地はベルクの「ルル」。
ともかく観て聴いてみたい、最愛のオペラを演じるパトリシアに。
ジュネーヴ大劇場での画像をいくつか拾ってみました。
演出は、わたしの好きになれない映画系のオリヴィエ・ピー。
観ため重視で、音楽を曲解しているとしか思えない。
で、その「ルル」は、ポルノまがいの春をひさぐ街を背景にしたドラマになりさがっていた様子。
見なくちゃ評価は下せないけど、ファム・ファタールとしての転落の女の一面ではあろうが、それだけじゃベルクの甘味かつ危険な音楽は描きだせまい。
 今年のザルツブルクでも、プティボン・ルルが上演される。
そちらはどんな演出でありましょうか。きっと映像化されましょう。

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プティボン過去記事

 デビューCD「フレンチタッチ」
 「バロックオペラアリア集」
 「来日公演2008年4月」①
 「来日公演2008年4月」②
 「恋人たち オペラアリア集」
 「来日公演2009年10月」
 「プティボンを聴く1日」
 「来日公演2009年11月」
 「プティボンのラモー」
 

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神奈川フィルハーモニー演奏会 聖響音楽堂シリーズⅡ

Yokohama_narita
横浜野毛山の成田山横浜別院に登り、桜とランドマークを。
うららかな土曜日の午後、これから音楽堂で神奈川フィルハーモニーを聴くのでありました。
聖響音楽堂シリーズは、シューベルトとメンデルスゾーンの交響曲と序曲を4回特集するもの。
古典からロマン派へ、早世の二人の作曲家の中でもそれは共存する。
ともに偉大なベートーヴェンありきだけれども、死の淵を垣間見せたり、馥郁たるロマンの香りを感じさせたりと、それぞれに個性的な二人なのでありまして、聴くわたくしも、そのあたりをどう開陳してくれるかと耳をそばだてるのです。

    シューベルト     「ロザムンテ」序曲
   
                 交響曲第7番「未完成」

    メンデルスゾーン  交響曲第5番「宗教改革」

    シューベルト     「ロザムンデ」間奏曲

        金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                    (2010.4.10@神奈川県立音楽堂)


Kanagawa_phil_ongakudo1
宗教改革ならぬ、音響改革をほんのちょっぴり期待していたけれど・・・・・。
やはり、昨今のこのコンビのトレンド通り、予想通りの展開に妙に納得??
ま、こんなものだろうか、ていうか、これはかなりまずい状況じゃないのか!
気のせいか、楽員の皆さんに覇気も感じられないし、ちっとも楽しそうじゃない。
出てくる音も春なのに枯れてしまったように潤いがない。
これらのどこに、「ロマン派の響き」を感じ取れというのであろうか。

ロザムンデには、沸き立つ喜びはなし。
未完成は、通り一遍の印象でシューベルトの音楽に隣り合わせの死の影を注意深くスルーして通り過ぎた感じ。
メンデルスゾーンは、ノンビブラートのコラールは皮相な感じで気持ち悪い。
ドレスデン・アーメンで、ここのところ続いたパルシファル祭りを気分よく完結しようと思ったのに。
「神はわがやぐら」でもって感動の渦を呼び起こすはずだったのに・・・。
私の好きな2楽章が、木管の活躍で楽しめたのが救い。
しかし、その木管も痩せた弦、うるさい金管とティンパニの中で浮いてしまった感あり。


弱ったな。
神奈川フィルがこんなになっちゃった。
音の美しさに惚れこんでファンになった郷里のオーケストラなのに。

聖響さん、ともかく焦らないでください。
名作ばかりのレパートリーも見なおして再構築してください。
バロックとか近代もので、人がやらないものを聴かせてください。
協奏曲をもっともっとやって、合わせものの達人と呼ばれるくらいになってください。
しかるのちに、オペラにも入っていってください。

それでも神奈川フィルを応援しますよ。
素晴らしい演奏の数々を知ってしまっているのですから。

Ichinokura1
アフターコンサートは「一の蔵」で。
ちくしょうー、とばかりに飲みまくり。
しまいには、大徳利2本づつオーダー。酒もってこーーい。
Ichinokura2 Ichinokura5
旬の味。
「かつお」と「竹の子焼き」。

ただいま、ハイティンク、アバド、クリュイタンス中。

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2010年4月 9日 (金)

モーツァルト 「エクスルラーテ・ユビラーテ」 ルチア・ポップ

Ninomiya3
桜の花は、青い空にこそまた映えますな。
今年は、春に3日の晴れなし、の言葉通り、晴れが続かず、花曇りだったり、気温が低かったりで桜を愛でるのもちょっとタイミングが悪かったりすると大変だった。
先週末に神奈川の実家に帰り、晴れの土曜に家の前にある山桜を観賞。
毎年、ちゃんと咲く花々。
人間にはいろいろあっても自然は、たいしたもんです。

Popp_hendel
今日4月8日は、花祭り=お釈迦さまの誕生日。
そして、一日遅れだけど、おめでとうを申し上げたい方もいらっしゃます

そんな晩に、明るく、喜ばしいモーツァルトの音楽を。
「エクスルラーテ・ユビラーテ、かつては「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」と呼ばれたモテット。
モーツァルト17歳の作品で、私にはオペラのように聴こえる、喜悦の心情を吐露した歌に満ちあふれた音楽。
復活を経て、イエスを生んだ聖母マリアを称える音楽。
第2部のアリアが、イ長調のモーツァルトらしく伸びやかで穏やか。ここ好きです。
あとは何と言っても、「アレルヤ」。
歌詞がその賛美の言葉ひとつ。
小学生の時に、テレビで観た「オーケストラの少女」。
ストコフスキーの指揮で喜々として歌う女の子の笑顔が忘れられない。
なんという人だったかしら・・・。

ルチア・ポップの1967年の録音。
デビュー間もない、まだコロラトゥーラだった頃のポップの歌声は、少しおっとりとたおやか。素直で、明るく、ともかく気持ちがよいモーツァルト。
オーケストラも含めて、昨今の俊敏なる歌や演奏からすると、ちょっと緩やかに感じるけれど、でもこれがいい。
永年親しんで、耳になじんだ心地よさに、いつしか微笑みを浮かべて聴き入ってしまうのであった。
オーケストラは、ジョージ・フィッシャー指揮のイギリス室内管弦楽団。

Ninomiya4
桜のそばには、桃の花も咲いておりましたよ。
白とピンク。
こちらは、一転寒かった日曜日。

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2010年4月 8日 (木)

シャンカール シタール協奏曲 R・シャンカール&プレヴィン

Curry

自家製カレーであります。
クリスマス料理の時の、ローストチキンを漬け込んだ野菜や果物・ワイン・みりん・醤油のタレに、終了チキンのガラを入れて、何日も煮込む。
それを冷凍しておいたものに、野菜とチキンを新たに入れてカレーにするのでありました。
カレー粉とターメリックのみ。
甘~くて、辛~い、深みのあるカレーができあがりましたです。

インド周辺のカレーはいろいろなれど、こんな具材ゴロゴロ兼濃厚味わいカレーはないだろね。
インド人もびっくり

Shnkar_sitar_con

ムリムリのこじつけカレーで、あいすいません。
だって、ラヴィ・シャンカールの音楽を聴くんだもの。

民族楽器シタールを、世界基準の楽器に仲間入りさせたラヴィ・シャンカール。
1920年生まれだから、もう今年90歳になる。
インド音楽の神様・長老であります。
世界にその名を知らしめたのは、そうビートルズでありますな。
ジョージ・ハリソンが傾倒し、独学で、その曲にシタールを取り入れたのが、アルバム「ラバー・ソウル」から。
ついで、ロック音楽の歴史的名盤「サージェント・ペパーズ・・」では、まんまシタールを伴ったインド風瞑想音楽を登場させてしまった。
 ジョージの影響は、ほかのメンバーにも伝わり、ともにインドで生活したりもしたが、ジョージ以外はみんな醒めてしまった。

哲学的・思索的なジョージのみが、生涯シャンカールを師・友と仰ぎ心酔した。
インドとイギリス、深い関係にある両国が、人も文化もなにかにつけて交流し、主にイギリスの方が影響を受けてたんじゃないかと思ったりしてます。
日本が、インドのようになっていたら・・・・・、でもビートルズの音楽に日本に伝統音楽が影響を与えたかも、かもですねぇ・・・・・。

さて、長老シャンカール。
母親は違えど、その娘ふたりはミュージシャン!
有名な方は、ライター兼歌手、女優のノラ・ジョーンズで妹。
姉は父の跡を継ぐ鋭敏なるシタール奏者、アヌーシカ・シャンカール
アヌーシカのCDは実際すんばらしくて、やたらとセクシーでカッコイイから、近く記事にしますねぇ。

そして本日の本題の「シタール協奏曲」。
どこまで自身でオーケストレーションを手掛けたか不明なれど、協奏曲を2曲ものしている。
シタールとタブラを中心とした伝統的な音楽を瞑想の域まで、そして音楽的にも高めた音楽をたくさん書き、演奏したシャンカール。
それらはいくつも録音があり、私も何枚も持ってます。
でもクラシック音楽との融合は、74年こちらの協奏曲と、第2番たる「ラーガの花」という幻想的作品。
ともに、フルオーケストラとシタール&タブラによる協奏的作品なのでありまして、1番はレヴィン、2番はメータ、といういかにもの指揮者たちとの共演から成り立っている作品なんです。

どちらも、つぶさに聴いているけれど、音楽としての精度と民族音楽的な熱気を強く感じるのは、プレヴィンとの1番のほうの38分。
メータとの2番は、幻想かつ夢想的であるけれど、やや冗長な50分。

ポルタメントがやたらにかかりまくったムーディなオーケストラにのって、シタールがむせび泣き、即興の限りを尽くし、タブラはそこにまとわりつくように雄弁。
 4つの楽章に、ヒンドゥー的なタイトルを見出すが、外盤ではまったく説明がなく不明。
理解不能でありますゆえ、おそらく宗教的な日課を流れで書いたのか、それともインド聖人にささげたのか不明であります。

エキゾティックなだけのオーケストラ部分は、やや稚拙でありますが、雄弁なシタールに誘導されるようにして聴かれると、それはそれなりに面白く、ことに木管と打楽器はなかなかに聴かせるのであります。
終楽章の両者の掛け合いなどは、かなり熱っぽく、だんだん興奮を隠せなくなってきて、相当な熱中ぶりをみせて曲を閉じるのであります。

わたくし、本日もネパール系のカレー料理を昼に食べましたが、カレーの味や食感を呼び起こすような熱くも集中的、かつ一方で、ゆる~い音楽でもありました。

70年代プレヴィンのオールマイティ・フレキシブルぶりを知ることもできる1枚であります。
もの好きは、カレーとともに、お聴きあれ。

シャンカール家の過去記事

「チャント・オブ・インディア~ラヴィ・シャンカール」

「Not To Late ~ノラ・ジョーンズ」

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2010年4月 7日 (水)

BOSTON 「DON'T LOOK BACK」

Hard_rock_cafe
アメリカン・ダイナーの「ハードロック・カフェ」は、世界チェーン。
日本にはいくつあるのかとHP調べたら、全国で8か所。
六本木、上野、横浜、成田、大阪、ユニバーサルシティ、名古屋、福岡。
食いしん坊だから気になるけど、まだ行ったことがないんです。
でっかいハンバーガーや、豊富なプレート料理、ビール・・・、普通に食いしん坊クラヲタOKですし。

Boston_dont_look_back
クラシック好きなら、ボストンといえば、ボストン交響楽団
高校生のとき、城下町の学校に通っていて、箱根に行ったとき、アメリカ人に話しかけられた。聞けば、ボストンから来たというじゃありませんか。
すかさず、クラヲタ人としては、「オー、ボストン・シンフォニー・オーケストラ!」と言ったら、先方は、すかさず「セイジ オザワ!」と答えてくれました。

その後、大学生になった私が知り合ったもうひとつのボストンは、ロックバンドとしての存在だった。
1978年、2枚目のアルバムが「Don't Look Back」
このタイトルチューンが、全米ヒットNO1となり、当時一世を風靡したものであります。
その前の「幻想飛行」もなかなかに素晴らしい。

当時のアメリカンロックは、ハードロック系は少なくて、英国からの輸入品が主流だったと記憶する。
そこに登場したグループがボストンで、アメリカンなポップスや西海岸AOR系と、正統プログレッシブ・ロックを融合させた、新鮮な音楽ジャンルを築き上げたんだ。

当時、AOR系にはまっていたワタクシに、大英帝国のクィーンのアメリカ版のような、まさにアメリカの香りのプログレッシブ・ロックを強く印象づけたのであります。

ボストンを作りあげたのは、ドイツ系のショルツ。
ドイツ系らしい綿密かつ構成の豊かさをもつ天才肌のミュージシャン。
そして、こちらのCDでも、やたらに輝いてるのが、ショルツの朋友B・デルブ。
デルブの抜けのよいヴォーカルは、ボストンというグループの顔的存在だが、デルブは脱退後、ゲストで歌ったり、ソロで活躍したりしたみたいだけど、2007年に亡くなってしまった。
彼の、高音の素晴らしさはイエスのJ・アンダーソンと並ぶ存在ではないかしら。

このアルバムタイトルと同じ冒頭の曲が、やたらめったらカッコイイんだ!
シンセサイザーは控えめ、ほとんど使ってない。
ギターとなんと、オルガンが響くんだ。

  1.Don't Look Back
  2.The Journey
  3.It's Easy
  4.A Man I'll Never Be
  5.Feelin' Satisfied
  6.Party
  7.Used To Bad News
  8.Don't Be Afraid


世代を超えて、どんなジャンルの聴き手をも気持ちよくしてしまうのが、冒頭のタイトル曲。
クラシックファンでも違和感ない、ひと時代前のアメリカンなロックです。
機会があれば聴いていただきたい
「振り返るなーー」、と勇気づけられる名品。

あと、4曲目も壮大な名品でありますし、泣けます。

Beautiful America

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2010年4月 6日 (火)

小山 由美 サントリー音楽賞受賞記念コンサート

Sakurazaka1
アークヒルズのお隣にある「桜坂」。
福山さまの歌の「桜坂」とは違うみたい。
Sakurazaka2
ライトアップされ、こんな美しさ。
いまいち画像ですが。

Koyama_mami2010
日本を代表する最高のメゾソプラノ歌手、小山由美さんが、2008年度の活躍を評価され、昨年第40回のサントリー音楽賞を受賞されました。
その記念コンサートでありました。
パンフレットによりますれば、初回が小林道夫さんで、あとは歴代、日本の音楽史が書けそうな方々が受賞されております。
小山さんのご活躍がおおいに評価されての受賞、まさに慶賀の至りでございます。
ワーグナー好きのわたくしですから、ワーグナーやシュトラウスの緒役をレパートリーにする小山さんの舞台はかなり拝見しておりまして、逆にそれらの上演においては、小山さんはいまやなくてはならぬ存在になっているわけ。
これまでの観劇記録をひもとくと、オルトルート、マグダレーネ、フリッカ、クンドリー、ヘロディアス、エミリア・マルティ、ゲシュヴィツ公爵夫人などなど、たくさん接し、いずれもキリリとした歌唱とお姿は舞台を引き締め、牽引する小山さんが極めて印象的でありました。

 ワーグナー 「ワルキューレ」
          ワルキューレの騎行、第2幕~フリッカとウォータンの場面
 
 R・シュトラウス 「カプリッチョ」
          前奏曲、月光の音楽

 ツェムリンスキー 「メーテルリンクの詩による6つの歌曲」

 ワーグナー   「パルシファル」
          前奏曲、第2幕後半

 R・シュトラウス 「献呈」

     Ms:小山 由美

     T: 成田 勝美(パルシファル)

    飯守泰次郎 指揮 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
                           (2010.4.5 @サントリーホール)


実に素晴らしいプログラミング。
この演目を拝見し、小山さんだし、即チケット入手だ。
新国「神々の黄昏」、東京春「パルシファル」と続いてのこのコンサート。
まさに、ワーグナー週間、ワーグナー祭りでございますよ。
何もこんなに集中してやってくれなくてもいいじゃないと、半ば嬉しく、そして苦しい懐中に鞭打ちつつのワーグナー祭。
その仕上げに相応しく、リングとパルシファル、そしてワーグナーに派生したシュトラウスとツェムリンスキーの配合。
まったく見事なまでに、自分の中で完結した連続体験なのだ。
しかも、最後は日本人が達成した最高のワーグナー演奏で締めることができて、こんなにうれしいことはないし、自分のワーグナー鑑賞歴に大きなひとコマを刻むことができた大いなる満足感もひとしお。

ともかく、小山さんの歌とその立居振舞が素晴らしい。

まずはやはり、クンドリー!
数日前にシュスターの強烈なクンドリーを絶賛したばかりだが、テオリンのブリュンヒリデも含めて、その歌唱は強く圧倒的だが、あまりに凄過ぎて、かえって遠い近寄りがたい存在に感じたりもする。
それはいい意味で外国人が自分たちの音楽をむちゃくちゃ高度に歌い演じた姿であって、われわれ日本人からすると憧れの存在であろうか。
でも、小山さんのクンドリーは遠くなく身近な存在であり、シュスターのようにおっかない異次元クンドリーじゃなくて、転びの弱さも感じさせる、極めて人間的で情味溢れるクンドリーでありました。
高音域から低域までを存分に駆け巡らなくてはならない至難の役。
すさまじかったシュスターは、少し荒れて音程も怪しくなったが、小山さんは完璧だし、叫び声のようにはならなかった。
日生劇場で観劇したパルシファルを思いだしながら聴いた。
その時は、3幕ともに味わいを変えてのクンドリー。最後に、洗礼を受けて両手で目を覆って涙するクンドリーに、私も涙ボロボロでありました・・・・。
今回は前半・後半でドレスと髪型を変えての小山さん。
完全にクンドリー入ってました。
ドイツ語の語感の快さ。明晰な発声とほどよい感情移入。きりっとした切れのよさ。
音符に乗せた言葉の重みを感じさせる豊かな歌いこみ。
クンドリーのみならず、小山さんのドイツものは常にこうした感銘を与えてくれる。

 成田さんのパルシファル。
アンフォールタースの決め言葉、サントリーホールを揺るがしました!
安定感あります。カットはあったけど、小山さんとのあうんの演技も堂に入っていて、パルシファルの緊迫した2幕を心から感激しながら聴くことができた!
 もちろん、飯守さん指揮する東京シティフィルの、これぞワーグナーというべきサウンドは、もう何も言葉にすることはできないのであります。
多少の傷はまったくといっていいほど気にならない、そんな音楽の流れのよさと必然に満ちている演奏。

遡って、ワルキューレ。
騎行はともかくとして、馴染み深い小山さんのフリッカ。
気品と気位の高さを感じさせる。
ツェムリンスキーの歌曲を、実演で聴けるのも望外の幸せ。
小山さんの新境地ともいうべき、後期ロマン派こてこての世界は、先のベルクの「ルル」の系譜につながるもの。
思い切りこの系統が好きなもんだから、ハープのグリッサンドにピアノ、チェレスタの味付け、濃厚かつ緩めの音楽。まったくリラックスしてしまう。

この歌曲集は、オッターの蒸留水的な歌で聴いているが、小山さんの脂肪分ゼロのクリアーで透明な歌唱もツェムリンスキーにぴったり。
ここでは飯守&シティフィルは、絶妙のタッチで透明感と濃密感を見事に表現していたのが印象的で、オーケストラ部分だけ聴いていても存分に楽しめたのであります。
 そのオケが、私の大好きな「カプリッチョ」を演奏してくれた。
弦楽6重奏による前奏曲は、飯守さんは椅子に腰掛けて聴いいて、月光の音楽のみ指揮。シティフィルによる「カプリッチョ」は昨秋、日生で聴いて、その素敵な演出でノックアウトされてしまった。
その時の思い出が、次々に思い起こされてきて、素晴らしい月光の音楽では、涙が出てきてしまった。もう勘弁してよ、って心境。
 アンコールに、シュトラウスの歌曲をもってきたのも、小山さんと飯守さん、そして、今回のコンサートの流れを見事に完結する巧みな配分でありました!

素敵なコンサートでした。
盛大な拍手にブラボー、私も一声いきましたよ!
今年のびわ湖でのイゾルデ挑戦、楽しみですね。
トリスタンだらけだけど、なんとか観劇したいものです。

終演後は、ヲタ会理事のおひとりminaminaさんと、ホール近くの居酒屋で、軽く一杯。
長いコンサートだったのですが、やはり締めは飲まなくては。
ちゃんとお互い終電前に帰宅の途につきました!
お疲れさまでした。

Sakurazaka3
数日前の桜坂。
六部咲き花曇り。

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2010年4月 3日 (土)

ワーグナー 「パルシファル」 東京オペラの森

Ueno_3
Ueno_2
東京オペラの森公演、ワーグナーの舞台神聖祭典劇「パルシファル」を聴いた。
欧米は受難節・復活祭のイースター休暇。
都内は気のせいか外人さんのお姿が多いような気がする。
キリスト教社会にとっては、イースターが一番重要。
もちろん、日本はなにもなし。クリスマスはあんなに騒ぐのに、ハロウィンだってわけわからなくイベント化してるのに。

Ueno_1
われわれ音楽ファンとしては、この時期にまつわる音楽を聴くことも大事なこと。立派な名作がたくさんありまして「パルシファル」はその代表。今頃各地で上演されていることでありましょう。
今年から始まるワーグナーチクルスの初回が「パルシファル」であることは、新国の「神々の黄昏」との流れもよろしい。ワーグナーファンにとっては、盆と正月が一度に来てしまったようなもんだ。

  パルジファル:ブルクハルト・フリッツ  クンドリ:ミヒャエラ・シュスター
  アムフォルタス:フランツ・グルントヘーバー グルネマンツ:ペーター・ローズ
  クリングゾル:シム・インスン       ティトゥレル:小鉄和広
  聖杯騎士:渡邉 澄晃  山下 浩司
  小姓:岩田 真奈  小林 由佳  片寄 純也  加藤 太朗
  花の乙女たち:藤田 美奈子  坂井田 真実子  田村 由貴絵
                         中島 寿美枝  渡邊 史  吉田 静
  アルトの声:富岡 明子

         ウルフ・シルマー指揮 NHK交響楽団
                   東京オペラシンガーズ
                   東京少年少女合唱隊
                   合唱指揮:ロベルト・ガッビアーニ
                   音楽コーチ:イェンドリック・シュプリンガー
                       (2010.4.2@東京文化会館)

Tokyo_opera
演奏会形式の長丁場だが、一時も退屈することなく聴きいった。
舞台なし演技なしだから、余計なことを考えずに、家で寛いで最良の音質のCDを聴いているようなものだ。
それと、数々のワーグナー上演をしてきた文化会館は、木質感あって、ワーグナーの響きにはうってつけだ。
深遠な音楽、よいホール、完璧な指揮とオーケストラ、万全なる歌手たち。

いいことづくめだけど、気になったマイナス面をまず書きます。

歌手も合唱も譜面を見ながらの歌唱。なんかオラトリオみたい。以前聴いたバレンボイムの演奏会形式来日公演では、ピンチヒッターの主役以外はみんな暗譜だったと記憶する。プロンクターの問題はあるけど、オペラなんだから、譜面に顔突っ込んでるとサマにならない。合唱は特に。
3幕最終で、深い感動の余韻をぶち壊す、早過ぎブラボー野郎がいた。
まったくもう。
注目してた1幕のあとの拍手は起きてしまった。
これは、バイロイトの慣習であり、私も真似してこだわりたかった。
今回6度目の実演経験だが、いずれも大きな拍手は起きなかった記憶ありです。
会場サイドの問題。幕の途中で遅れてきた人をひとまとめにしてゾロゾロ入場させた。
1幕では場面転換の時を狙ったが、2幕はなんとなんと、パルシファルが「アンフォルタ~~ス」と、変貌の一声をあげる、まさにその瞬間ですよ。
こりゃひどい。
わたしは、1階サイドだったから、視野の中にホールの動きも入ってしまうんだ。
入ってきた方々は、スーツ姿のご一行で空いていた一列にきれいに座った。
ところが、3幕ではこの方々、一斉に姿を消していたのだ。何物かは想像できますが、書きません。
歌手からは、こうした動きはまる見えのはず。
パルシファル役のフリッツ氏はこんなことものともしないで、見事なばかりに決めてくれましたよ。

気になったのは以上だけ。
次いでよかったことたくさん。
まず、ウルフ・シルマーの的確な指揮。オペラを知り抜いた業師で歌手は後ろにいて、お互い合わせづらいだろうと思いきや、歌手たちは足元にある指揮者が映ったテレビを見てたし、シルマーも時に歌いながら歌手を引っ張っている。
舞台に乗ったオケを巧みに抑えて歌手とのバランスをとったり、逆にオケを目一杯鳴らしたり。
活発な指揮ぶりは、オーケストラを乗せてしまうようで、1幕の前半は冴えなかったが、聖堂への入場シーンからほぐれてきて、他では聴かれないユニークなくらいにリズム感あふれる弾んだ音楽が展開された。
1幕の最後の方はオケも疲れが出たのか少しダレちゃったけど、2幕はもう最高のコンディションと出来栄えで、花の乙女の場面の恍惚感と印象派をも思わせる響きも聞こえてきたのだ。
やはりN響は底力あるオケだ。分厚く、フォルテの幅がいくつもある。

 パルシファルはリングほどに大編成でないが、室内楽的な究極の響きは、そのピアニシモ部分において、舞台にのったオーケストラをつぶさに見ることによって驚きを禁じ得ないことになる。みんな弾いているのにこんなボリュームの少ない音がしてるとか、少ない人数なのに、でっかいフォルテを出してたり。
あんなことしてる、こんなことしてる、の連続であります。
クリングゾル城崩壊のときの2台のハープのグリッサンドは面白かった。

歌手はまず、クンドリーを歌ったシュスターがすごい。
テオリンの声も耳に残ってるけど、シュスターも負けじと強力。
ホールを圧する強靭な声は最上階のすみずみまで響き渡ったであろう。
2幕におけるパルシファルの幼い頃を歌う優しさと、パルシファル変貌後の救済を希う熱烈さ。これらは圧巻でありました。そしてその叫び声も唸り声もスゴイです。
ちょっと荒れてしまうところが残念だったけど、それを補ってあまりある声。
そして、他の歌手が大人しく立って歌っているだけなのに、彼女は表情と身ぶりが豊かで、ひとり立派にオペラしてましたよ。
ご奉仕、ご奉仕しか歌わない3幕では、前半出ずっぱりで、洗礼を施されて涙を流す場面など、その立居振舞いでもってクンドリーの心情を表現しておりました。
濃いモスグリーンのドレスが1・3幕と2幕前半。
パルシファル誘惑の時は赤に近いえんじのドレス。
かつて、マイヤーも、白と赤で着替え分けた。

新国のばらの騎士でオックス男爵を聴いたペーター・ローズの明るく美しいバスは安定感も抜群で、素晴らしくなめらかなグルネマンツだった。適度に若々しさもあって、いまが旬のバス歌手だ。注目です。
 韓国のインスンのクリングゾルが実によい。
アルベリヒ的な暗いクリングゾルではなくて、深みのあるバス系のクリングゾル。
表現意欲もまんまんで、日本人歌手なら真似のできないくらいの没頭同化ぶり。
 これで3度目聴くことになったベテラン、グルントハーパーのアンフォルタスは、相変わらず歌い口がうまく、Erbarmen!と熱唱する場面は身震いがしたくらいで、健在ぶりを確認できた。
 バレンボイムの秘蔵っ子というフリッツのパルシファルも先に書いたとおり、「アンフォルターース!」を見事に歌って素晴らしい声をアピールした。
声量とスタミナ配分がどうかと思ったが、きっと2回目はもっと声が出ているんじゃないかと想像する。明るめの伸びのよい声はクセがなく今後楽しみな存在。

舞台袖から深い声でティトゥレルを歌った小鉄さん、わたしのお気にいりメゾ小林由佳さんはあらかわと同じく印象的なお小姓役。
ほかの日本人歌手もみなさんしっかりしてまして、歌手層がほんと厚くなったことを実感。
花の乙女たちは、こうして舞台でじっと立って歌うと、誰がどんなこと歌ってるかよくわかるし、声がストレートにびんびん響いてくるのもある意味快感でありました。

この日最高の場面は、2幕のクンドリーの歌。
それから3幕の聖金曜日の奇跡の音楽。その高揚感に痺れるほどの感動を味わい、クンドリーの洗礼と涙の場面では、その美しい音楽に涙がこぼれた。。。

ワーグナー・チクルス、来年は今年バイロイトで「ローエングリン」でデビューするネルソンスが、どうオペラを振る。
ヤンソンスの弟子で、指揮姿もそっくり。
そっくりといえば、リングを振ったエッティンガーは師匠のバレンボイムそっくり。
ハーディングはアバド。
そして、さっきテレビでドゥダメルが指揮してたけど、彼も若いころのアバドそっくり。
音楽はまったく違うのに、その所作は同じになっちゃうんですな。

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2010年4月 2日 (金)

ワーグナー 「神々の黄昏」 新国立歌劇場公演④

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今日は、聖金曜日。
受難節の仕上げは日曜のイースターであります。
マタイはタイムリーに聴くことができなかったけれども、「パルシファル」の演奏会形式を聴くことができるのであります。
それはまた次の記事に。

ワーグナーの呪縛力はやはり強力でして、神々の黄昏」を観てしまったあとは、ずっと頭の中が「黄昏」状態。
まさに、たそがれておるわけでございます。

ウォーナーのトーキョーリングの総括をしようと思ったけれど、考えがまとまらない。
4部作、どこもかしこも仕掛けだらけで、それらが一本、筋の通ったメッセージとして一貫されているかというとそうでもない。
しかもその受け止め方は、人によってそれぞれ。
千差万別、いろんな考えの人にいろんな思いを抱かせたいろんな顔を持つリング。
ウォーナーの狙いもそうした多面的なものであったのではなかろうか。

おもちゃ箱をひっくり返したような、何でもありの舞台。
極度に便利に、発達成熟した人間社会。
ヴァルハラだけは別だったけど、すべての出来事が人間の領内で行われていて、それらを知らずに支配していたわけだ。
そこでは、ウォータンも無力で、英雄も存在できない。神様もヒーローも不要の世の中。
人間は自ら汚染し、その血も純粋でなくなった。その人間社会の壊滅のスイッチを押したのは一人の女性であった。

これらをつぶさに記録し、若者たちがスクリーンで確認をするが、終わりもまた、その始まり。
また人間は繰り返すのであります。
今のところ、こんな風に感じておりますが、全体を俯瞰したらまた思いが変わるかもしれませんね。

ここでは、たそがれ人物たちを振り返っておきます。

ブリュンヒルデ:
一人の女性、妻となった全人的存在。旅仕度をする優しい妻。S文字のトレーナーから、黒いドレスに替わって崇高さも出てきたのは、テオリンの存在ゆえ。
憎しみも人一倍だけど、グートルーネを思いやる優しさに暖かいものを見た。

ジークフリート:
やんちゃなわがまま坊主のまま。英雄らしさはこれっぽっちもない。
忘れ薬のあとは、ノートゥングをまったく持たず、傘一本。呑気なものだ。
殺されて、やっとヒーローっぽい死に方を得るが、それでも騙されていた。
フランツの声と姿もすっかり板について憎めない存在。

ハーゲン:
クール&ダーティー&エッチな男。
大胆に見えるものの小心。誰に似たかって、ミーメだもの。
まめに働くし、ジークフリートの着替えもたたんでたし、グートルーネの服の臭いを嗅いじゃうし、アルベリヒを嫌い殺しちゃうし。で、ミーメとアルベリヒの金髪の彼女と怪しい雰囲気をかもしだしていて、その後に囚われのアルベリヒは自らの股間に刃を突き立てていたのだから機能ゼロ。
金髪のグートルーネへの執着とジークフリートへの憎悪に固まっている単純な人物。

グンター:
ギービヒコンツェルンの総裁なれど、なにもしてない。鉛筆より重たいもの持ったことない。
ハーゲンにみんなお任せ。金髪は母親譲り。
時にウォータンを歌うようなバスバリトンが演じることあるが、初演のときは繊細なバリトン、ローマン・トレケルでスラリと格好いいが病的な感じがよかった。
今回のブルメスターは、病的感は後退したが、清潔感と無感情ぶりがよろしい。
そんな役柄で薄めの個性を配した演出である。
こんな経済帝国を築き上げた彼等の親父を知りたいものである。

グートルーネ:
グンターの妹として、何不自由なく暮らしている金髪ねぇちゃん。

ハーゲンからちょっかいを出されているが、毛嫌いしている。
普段は没個性の意思表示の少ない役柄で、エヴァやエルザを歌う前の若手登竜門的なロールであるが、こちらの演出では、ジークフリートを惑わす誘惑者兼ハーゲンの欲望の的としても存在していて個性を強く表現しなくてはならない。
ブリュンヒルデ級の横山さん、前回は今月ブリュンヒルデに挑戦する蔵野蘭子さまが、いずれも素晴らしく歌い演じた。

ヴァルトラウテ:
この大楽劇に唯一登場する神様はいった人物だが、ちょっとの登場でもあり、ウォーナーもあまりいじりようがなく、ごく普通の女性といった感じだった。
ワルキューレで飛び回っていたフェンシングの格好は同じ。
リッティングはビジュアルがよろしく、テオリン様とのバランスもよろしい。
だが前回の藤村美穂子さんを知ってしまっているので、ちょっと感情移入が弱いところ。

3人のノルンたち:
エルダの娘で、ウォータンの娘とも思われる方々は、悩みすぎ・考えすぎで頭が後退し、目も悪くなっちゃった。性別不詳で、その衣装も小難しい記号がたくさん配されていて、かわいさの欠片もなし。3人の実績ある歌手の方々を配しつつも見た目に気の毒。
でもさすがの歌唱は3者ともに立派なもの。
2幕でも登場し、ラインの旧乙女たちとともに左右に意味ありげな存在をなしていた。
ジークフリート3幕でも、幸せに溺れるふたりの後ろで運命の階段を上下していた。

ラインの乙女:
ピチピチしていた乙女たちも、神々の黄昏では、顔がおばあさんみたいになっちゃったし、腹も三段に・・・・。黄金なきラインで老いてしまった。
指環を取り返し、泳ぐさまは昔のようにスリムに。よかったよかった。
ラインの時はともかく、黄昏では残酷さと悪戯っぽさが同居する娘たちながら、ちょっと動きがあまり機敏でなかった感あり。

小鳥ちゃん:

ジークフリートの友達。黄昏でも案内人として出てきた。
ちゃんと消防服きてるし、髪も青、可愛い安井さんがまた出てくればよかったのに。

ギービヒ家の人々:
意思や顔を持たない無機的な存在だった。
けど、痙攣男ひとりの犠牲者は気の毒。なんであんなことまで見せるんだろ。
経営者・創業一族には絶対服従。
ピンク服のおねーさんたち。あんだけたくさんいると、見てて目が泳いじゃうよ。
オヤジですからね。
それにしても新国の合唱団は完璧で圧倒的。

まだ全体がつながらず、個々の印象にすぎないけど、また思いが固まったら記事にしようと思います。
休む間もなく、パルシファル
オーケストレーションが最高度に複雑化し、分厚い響きで、円熟の極みだった黄昏。
パルシファルは、さらに進化し、精妙さと崇高さを室内楽的に思わせるまで響かせることができるようになったワーグナーの作曲の筆。
こうして時を空けず聴くことができるなんて、東京はすごいもんだ。

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新国立劇場にあった、ウォルフガング・ワーグナー氏の追悼コーナー。

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2010年4月 1日 (木)

ワーグナー 「神々の黄昏」 新国立劇場公演③

第3幕

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ジークフリートのホルンでスタート。
舞台はの冒頭をきっと上から見た俯瞰で、斜めの舞台に水辺が池のように描かれていて、ラインの乙女たちは、これもの最終で出てきたような、老い疲れ果てた浮浪者然としていて、薄汚れたコートにしわっぽいお顔。
でも楽しそうに池(河)に飛び込んだりするんだ。コートを脱ぐと、三段腹と太足を強調した肉襦袢。気の毒な役柄に変貌してしまった。
するするっと、ショッピングカートが現れ、そこにはジークフリートの持ち物と思い出の品々が満載。
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ジークフリートとのやり取りは、さほど変わったことはなし。
先のカートから、キャンプ用の椅子、テーブル、そのた数々の品を舞台に並べるのはラインの乙女たちのお仕事。
この演出は、登場人物たちが、ト書きにない場面で出たり演じたりで、やたらと忙しいのであります。
つぐ場面では、上から仕切りがゆらんゆらんと降りてきて、それは緑の地図であった。
ギービヒラント~キービヒ国の地図で、その中には、ブリュンヒルデの岩屋・ミーメの家・ナイトヘーレ(竜ファフナーの森)・フンディングの館などがポイントされている。
思えば、リングの数々の場面であり、それはなんのことはない、人間ギービヒ家の所領の中にすべてあったのである。
これをデカイ所領と見るか、セコイ物語とみるか・・・・。
ウォーナー氏は後者を強調し、欲望と破壊の人間の作りだした世界に神々も妖怪も巨人もすべて収めてしまった感があり・・・・・。

やがて、ジークフリートのもとにハーゲン、グンター、数人のギービヒ家の男が集まってくる。
みんなオレンジのライフジャケット着用。
ここでジークフリートの冒険談が披露されるわけだが、その歌の内容に応じて、男達が先にラインの乙女たちが並べたジークフリートの思い出グッズをいちいち掲げるわけ。
ワーグナーのライトモティーフの説明的にすぎるパロディか。

そんな中で赤い槍が、真ん中に慎重に立てかけられている。
このあたりから、死のモノローグにかけてのフランツの歌唱は経験に裏付けられた味わい深いもので、本当に素晴らしく感激した。

グンターは槍の位置に立ち待ち構える。
ブリュンヒルデを思い出し恍惚となると、映像で火の中をウォータンの鴉が2羽舞い上がるのが映しだされる。でかいカラスだ。
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ハーゲンに槍を手渡し、ハーゲンはジークフリートを背中からズブリ。
自分で凶器を渡しておきながら「ハーゲン何をするのだ?」はないだろうな。
まさかほんとに殺っちゃうなんて僕、思わなかったんだもん、と、のほほんグンター。
ジークフリートを一人残しみんな去ると、地図はなくなり、お馴染みのパースペクティブな舞台となる。
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少し開いた奥には、ワルキューレの騎馬兜をかぶり黒いドレスのブリュンヒルデ。
ジークフリートは葬送行進曲に合わせて、奥に立つブリュンヒルデににじり寄ってゆくが、その背中は真っ赤に血がにじんでいて、なおさらに哀れをもよおす。
わたしは、この場面と崇高なる音楽に涙がボロボロとこぼれ落ちたものだ。
そしてついには、力尽きて倒れてしまう。

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涙とともに、葬送行進曲が終わりそ
うになったとき、そう、ワタクシは完全に思い出したのだ。
違う! あれはブリュンヒルデじゃないと。

そう、兜を脱ぐと金髪。ドレスを脱ぐとピンクのミニ。
グートルーネでありました。
これをどう読むか?
最後まで偽りの結婚から逃れられなかったし、グートルーネがしたたかに騙し続けたのか。
わたしは、やはり早変わりすることでグートルーネの場面にスムースに繋がるし、ブリュンヒルデに、しいては、英雄死んでヴァルハラに向かうの図式と思いたい。
でも、ウォーナーはきっと前者なんだろな?
前作から英雄性を真っ向から否定しているジークフリートだもんな。

グートルーネは、さらにピンクの服も脱ぐとと黒い下着のような服に。
帰ってきたハーゲンに、夫の安否を問うがハーゲンはグートルーネをまさぐるような手つきで抱き寄せるイヤラシぶり。
しまいには、脱ぎ捨てられたピンクの服を取ってクンクンしてる(笑)
これ、前に誰かしてませんでしたっけ?

ジークフリートの亡きがらは、ストレッチャーに白いシーツを掛けられたまま登場。
ギービヒ家の文字が上に掲げられている。
その前で繰り広げられるグンター殺害は、注射器で首もとプスリ、即死だ。
ハーゲンが指環を取ろうとして、通常は否定して手を高々と挙げるのだが、ここでは何もなく見受けられた。
でも音楽は、思わず背筋が伸びるような剣の動機が流れるのだが・・・。

 ここでしずしずと登場のブリュンヒルデは、まさに千両役者の登場に相応しい。
すべてを知り、この場を掌握した彼女の神々しさは、テオリンの姿にこそ相応しい。
 この女がいけないと責めるグートルーネが、真実を知りしょんぼりしていまうと、ブリュンヒルデは、彼女をいたわるようにその肩を抱くのだ。
このシーンは、プリミエの時も印象的であった。普段はこんな光景は見られないから、ウォーナーがグートルーネに与えた役柄をよく物語っていると思う。
そのあと意気消沈し、兄も失くしたグートルーネが、舞台奥に裸足でとぼとぼ消えてゆく。
これまた、憐れをもよおす場面でありました。


中央に、小屋のミニ版のような炭焼き小屋風のものが出てきて、にょきにょき槍を男たちがふたつに折りながらくべてゆく。
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最後の一本を制して自ら取ったブリュンヒルデは、ここから自己犠牲の長大な歌を歌い込んでゆく。
ラインの乙女たちはブリュンヒルデと示し合わせ、慕うかのように登場する。
彼女は、こんな指環なんてあったからいけないとばかりに、デカジグソー指環を投げ出してしまう。
指環の扱いが、ともかくぞんざいなのが、この演出のキモ。
手を伸ばせば欲しかった指環がそこにあるのに、何もしないハーゲンもおかしい。
炭焼き小屋に薪をくべ大量の火が発生するかと期待するスペクタルな場面では、煙突から煙がちょろちょろと出てくるのみだ(笑)
ここまで壮大さ、神々しさを否定するのもウォーナーならでは。
ハーゲンが半分にしてしまったグラーネを持ちつつ、その小屋に、ストレッチャーごと入れ込むブリュンヒルデは、まさにそこに一緒に入り込んで自己犠牲を完結させる。

先のほったらかし指環を文字通り拾ったハーゲンは、年老いたラインの乙女たちに囲まれ、地下(水の底)に沈んでゆく・・・。
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ここで、すべてが崩壊し、ギービヒの文字も崩れ折れる・・・・人間社会の崩壊!
そこには、白い生き物のようなな何かがうごめくのだ。
ここからまた組成されてゆくの意であろうか・・・・。

やがてスクリーンが下りてきて、うれしそうに泳ぐ乙女たちが映像であらわされるが、その姿は今度はピチピチと若々しい。
Gotter_5
映像は、ごちゃごちゃしつつも、ワンピース欠けたジグソーパズルのものになり、同時に乙女がひとりワンピースを掲げながら出てくる。
彼女は、それを映像の方へ投げ捨てると、見事ジグソーは完結・完成。
スクリーンが上へあがり、舞台はまっ黒いステージに。
こんな目まぐるしい舞台ながら、音楽は救済の動機が美しく響きつつ、観る方と聴く方で、わたくしは極めて忙しい。
はらはらどきどき。一瞬たりとも見逃してなるものか!

そのステージには、映写機が据えられていて、それは観客に向かって映写されているようだ。
そこには、若者のペアが複数出てきて、みんなこちら=スクリーンを見つめ返しているのだ・・・。
こうして、「トーキョーリング」は幕を静かに降したのである。

続く・・・・。

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ワーグナー 「神々の黄昏」 新国立劇場公演②

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新国のウォーナー・トーキョーリングの「神々の黄昏」。
舞台の様子を記録しておきます。
長大楽劇ゆえ、そして思い入れも強いゆえ、長いです。
二部に分けます。

序幕と第1幕

プロローグは、まず舞台下から青い継ぎ手のようなものがせり上がってきて、とどまることなく天井に消えてゆく。はて、これは?
のちの3幕のラインの場面で、出てきたけどわからん・・・。
もしかしたら、ラインから水を引く水道管のバルブかもしれない。

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ジークフリート第3幕でエルダの周りで上下し、ジークフリートとブリュンヒルデの後ろにも実はいたノルン3人娘、オールバックに眼鏡の頭脳派軍団。
巨大なフィルムのリールがフィルムを垂らして下がってきて、上からは映写機が回ってるし、壁にもリールがたくさん。
ノルンたちは、3人それぞれに奥にある赤いにょきにょき生えた槍をもぎ取って、フィルムを刺しとめる。
 綱を投げあって、なうのでなく、このリングでは、記録媒体であるフィルムを確認しあうわけだが、岩に引っ掛かるのではなく、彼女たち、自らフィルムをぶっち切ってしまう。
代わってせり出してきたのは、ブリュンヒルデとジークフリートの岩屋だが、かわいいサイズの新居で窓と煙突付き。
ベッドサイドには、記念の品よろしく、竜のぬいぐるみがあるが、愛馬グラーネは木馬からさらにスケールダウンしてベッドの下に転がっている。
仲のよい二人、ブリュンヒルデはスーパーマン=ジークフリートのSのトレーナー。
ジークフリートはブリュンヒルデのBにワルキューレの騎馬のイラスト、そんな微笑ましいかっこをしてる(笑)。
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トランクケースに黄色い着替えを入れて旅仕度をするブリュンヒルデには神性はもう見当たらない妻そのもの。
ジークフリートは流れる映像で旅を始めて、お供は消防服姿の可愛い小鳥ちゃんだ。

彼を待ち受けるギービヒ家の連中は洗練されていて、ハーゲンは黒い上下にサングラス、黒髪でダーティーな雰囲気。
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グンターはまっ白いロングコートに金髪。グートルーネはピンクのミニスカートに金髪。
そう、父親は違えど同じ母親から生まれた兄弟。
でアルベリヒの女だったイケてる女性の派手な金髪を思い出しましょう!
この場で降りてきた間仕切りには、山羊の頭部の絵。結婚を司るフリッカの象徴か、ギービヒ家何々の家門なのか?
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やがてやって来たジークフリートに移動式のバーで忘れ薬を調合し、彼が一口飲むと、山羊の絵は二重にぼやけてしまった。
 一杯飲むまえに、ブリュンヒルデへの変わらぬ愛を誓うのだが、ここでのフランツの歌唱とエッティンガーの示し合わせたと思われる感情こめたピアニッシモは見事だった!
義兄弟の契りは、お互い採血をしあって、それを混合してドリンクで薄めて飲むという不気味なまの。
これらの段取りと後片付けは、ハーゲンがやたらと丁寧にかいがいしく働くのだ。
気忙しくグンターを引っ張ってブリュンヒルデ掠奪に向かうジークフリート。

嬉しそうにしながら寝てしまうグートルーネ。
その股間に忍びより足を開いてしまうハーゲンは情欲と憎しみむき出し。
ハーゲンは、事の進行にほくそ笑み、グラーネ木馬を真っ二つに折ってしまう。
神聖を軽々しく扱い、ハーゲンにさらに侮辱させるコンセプト。
憎しみのモノローグを歌ったあとも何故かそこに居残り、ギービヒ家の対面応接チェアを残したまま、その奥にブリュンヒルデの新居がするすると現れる。
ハーゲンは、上着を脱いでにょきにょき生えた矢印のひとつにそれを掛けて、椅子に観客からは横向きに腰掛けてまんじりともしない。ブリュンヒルデとヴァルトラウテの姉妹対決からジークフリートが帰ってくるまでそこにいる。
リングの行方やブリュンヒルデの掠奪を見届けようとする千里眼的な意思のあらわれと、ギービヒ家の広大な領地内で、目が届くということの表明か。
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フェンシングルックのヴァルトラウテの登場と退出では、お馴染みとなった炎が実際に燃え盛ることとなって、ワルキューレがどこか懐かしく感じる。

ハーゲンは、ヴァルトラウテが指環をラインの乙女に返してと勧めると、反応して手を差し出したりする。
隠れ兜(仮面)をつけたジークフリートとノートゥングを手にしたグンターが連れ立ってやってくる。
通常は、ジークフリートが化けたことにして単独登場だが、ここでは、ジークフリートはハーゲンの対面に座って、いかにも気楽そうに、そしてめんどくさそうにグンターの声音で歌っている。グンターはジェスチャーのようにもの言わずブリュンヒルデを小屋に追い込んで淡々とことをすすめる。
ジグソーパズルのでかい指環はというと、ブリュンヒルデがしてたのに、予備を取り出したかのようにグンターもどきのジークフリートがしているというややこしい流れ。
二人揃って出てるからこんなことになる。ノートゥングでドアを封じるひどいジークフリート。あわれブリュンヒルデ。
ところが、さっきまですまして座っていたハーゲンが、いやらしくも窓からノゾキをするんだ。
覗き趣味を満たしたのか、成り行きにガッツポーズを見せて幕。やれやれだ。

第2幕

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例の歪んだ山羊絵の前。
2脚の椅子には、眠ったハーゲン、向かいには、酸素吸入中のアルベリヒで、ジークフリートのときより病んでいて入院中の雰囲気。
左右の長椅子には右ハーゲン側に3人のノルン。
左アルベリヒ側には3人のラインの乙女が座っている。
いま活躍中の運命を司る側は右。
そして左は、かつて黄金を盗んだ物語の原罪的な犯人の死を見届けようということか?
夢に出てきて語りかける場面なのに、リアルな存在のアルベリヒ。
途中、ヤクの注射もしてます・・・・。
「ハーゲンよ、息子よ」と語りかけると、ハーゲンは嫌やそうに顔をそむける。
そしてついには、クッションでアルベリヒを圧死させてしまうのだ。
これ、まったくの創作ですな。

ひどすぎだけど、それだけアルベリヒを憎んでいたんですな。

するすると椅子が移動してご帰還ジークフリートが今度は座って出てくる。
略奪の成果を報告し、グートルーネに会って抱きつかんばかりの喜び。
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ハーゲンは次いで、手元のバーカウンターからリモコンを取り出し、山羊仕切りを上げてしまうとそこは、ラインやワルキューレでお馴染みの奥に細まり、遠近感あって左右に複数ドアのあるヴァルハラ城と同じ舞台。 
そのドアから出てきたギービヒ家の男衆は、白い作業着に帽子、緑のエプロンのいでたち。ギービヒ株式会社の従業員なのだ。
新国自慢の強力合唱団は、こんなヘンテコな格好でも威力は抜群。しかし歌詞とのギャップは多大なり。
 ハーゲンは中央の簡易バーで、薬剤を調合中。酒を飲めと皆にふるまうのは、薬剤の一種でおそらくギービヒ家で作ってる劇薬のひとつてあろう。
みんなが飲むと、笑いだしたり悶えたりしてる。その中の一人をつかまえたハーゲンは、手にした試験管の赤い液を無理やり飲ませてしまう。
その男はとたんに痙攣とともに倒れ、悶絶しまくる。やがて来たガードマン風の二人にストレッチャーに乗せられて膠着したまま運ばれてゆく。
こんな異常な様子の中で、集まれ皆の衆、婚礼の準備だなどと歌ってるんだ。
 そして、捕囚のブリュヒルデは、例の小屋の中に入ったまま引きずられての登場で、その小屋を引くのは、これまたピンクミニのおねぇチャンたちだ。
その登場に合わせて左右に別れた実験男衆は、まるでチンパンジーが手を叩くように上下に手を打ち鳴らす不気味さ(笑)
小屋のドアを開けて、ちょっと顔を出したブリュンヒルデ。外の様子を見るとすぐにドアをばたんと閉めちゃうのが笑える。
誇らしげなグンターが、グートルーネ&ジークフリートと歌うと、狂ったように小屋から飛び出してきて、ジークフリートに駆け寄り抱きつく。これは喜びのあまりだ。
でも当の本人がまったく醒めていて冷たい。
これはいったい?、といぶかるブリュンヒルデが、やがて状況を理解し怒りに燃えてゆく描き方、これは実に秀逸なもの。
ジークフリートは呑気なもので、モスグリーンのスリーピースに帽子に傘。
あれれ、ノートゥングはどうした?と思ったら。
かわりにずっと傘を持ってるジークフリートなのでありました。
彼も忘れ薬によって、英雄じゃなくて普通の人間になってしまったことの証しなのでありましょうか、もしくは最初から英雄なんていないというコンセプトか。

ジークフリートとブリュンヒルデのすさまじいまでのやり取り、そしてグートルーネとグンターが徐々に不安に取りつかれてゆくさま、それらがやがて憎悪につながってゆく。
ハーゲンは一人、舞台のそでで見つめているクールさ。
槍への誓いは、奥からまたにょきにょき矢印をハーゲンがへし折ってきて行われる。
お互いの胸に突き刺さらんまでにリアルな槍の誓いであります。
矛盾だらけのジークフリートがその場を取り繕い出ていったあと、新居小屋は奥へと移動。それを奥まで見守るブリュンヒルデ。
奥行きの深さを巧みにつかった、ブリュンヒルデ、グンター、ハーゲンの三様がジークフリートの死を口走るまでの動き。

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これもまたウォーナーのひらめきあふれたヶ所。
真っ直ぐに、愛から憎しみへの道をひた走るブリュンヒルデは常に真ん中にいて奥と前面をいったりきたり。グンターは不安の虫に取りつかれてしまって、数あるドアを出たりはいったりで落ち着きがなく、とっても思索などできようがない。ハーゲンは、常に左側で怪しく窺っている獅子身中の人物。ブリュンヒルデがハーゲンにジークフリートの弱点を口走ったとき、グンターはまだウロウロ中。そして3人が、ジークフリート死を決したとき、とうのジークフリートは奥の方、小屋の近くで、まだ来ぬ恋人を待つ男よろしく傘を弄びながら時間をもてあましている最中。自分が殺される運命が決したというのに、手には傘なのだ・・・・。やがて、グートルーネが出てきて抱きつき、明るい婚礼のモティーフのなかに、ハーゲンの邪悪なライトモティーフも混ざって幕。

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