ワーグナー 「神々の黄昏」 新国立歌劇場公演④
今日は、聖金曜日。
受難節の仕上げは日曜のイースターであります。
マタイはタイムリーに聴くことができなかったけれども、「パルシファル」の演奏会形式を聴くことができるのであります。
それはまた次の記事に。
ワーグナーの呪縛力はやはり強力でして、「神々の黄昏」を観てしまったあとは、ずっと頭の中が「黄昏」状態。
まさに、たそがれておるわけでございます。
ウォーナーのトーキョーリングの総括をしようと思ったけれど、考えがまとまらない。
4部作、どこもかしこも仕掛けだらけで、それらが一本、筋の通ったメッセージとして一貫されているかというとそうでもない。
しかもその受け止め方は、人によってそれぞれ。
千差万別、いろんな考えの人にいろんな思いを抱かせたいろんな顔を持つリング。
ウォーナーの狙いもそうした多面的なものであったのではなかろうか。
おもちゃ箱をひっくり返したような、何でもありの舞台。
極度に便利に、発達成熟した人間社会。
ヴァルハラだけは別だったけど、すべての出来事が人間の領内で行われていて、それらを知らずに支配していたわけだ。
そこでは、ウォータンも無力で、英雄も存在できない。神様もヒーローも不要の世の中。
人間は自ら汚染し、その血も純粋でなくなった。その人間社会の壊滅のスイッチを押したのは一人の女性であった。
これらをつぶさに記録し、若者たちがスクリーンで確認をするが、終わりもまた、その始まり。
また人間は繰り返すのであります。
今のところ、こんな風に感じておりますが、全体を俯瞰したらまた思いが変わるかもしれませんね。
ここでは、たそがれ人物たちを振り返っておきます。
ブリュンヒルデ:
一人の女性、妻となった全人的存在。旅仕度をする優しい妻。S文字のトレーナーから、黒いドレスに替わって崇高さも出てきたのは、テオリンの存在ゆえ。
憎しみも人一倍だけど、グートルーネを思いやる優しさに暖かいものを見た。
ジークフリート:
やんちゃなわがまま坊主のまま。英雄らしさはこれっぽっちもない。
忘れ薬のあとは、ノートゥングをまったく持たず、傘一本。呑気なものだ。
殺されて、やっとヒーローっぽい死に方を得るが、それでも騙されていた。
フランツの声と姿もすっかり板について憎めない存在。
ハーゲン:
クール&ダーティー&エッチな男。
大胆に見えるものの小心。誰に似たかって、ミーメだもの。
まめに働くし、ジークフリートの着替えもたたんでたし、グートルーネの服の臭いを嗅いじゃうし、アルベリヒを嫌い殺しちゃうし。で、ミーメとアルベリヒの金髪の彼女と怪しい雰囲気をかもしだしていて、その後に囚われのアルベリヒは自らの股間に刃を突き立てていたのだから機能ゼロ。
金髪のグートルーネへの執着とジークフリートへの憎悪に固まっている単純な人物。
グンター:
ギービヒコンツェルンの総裁なれど、なにもしてない。鉛筆より重たいもの持ったことない。
ハーゲンにみんなお任せ。金髪は母親譲り。
時にウォータンを歌うようなバスバリトンが演じることあるが、初演のときは繊細なバリトン、ローマン・トレケルでスラリと格好いいが病的な感じがよかった。
今回のブルメスターは、病的感は後退したが、清潔感と無感情ぶりがよろしい。
そんな役柄で薄めの個性を配した演出である。
こんな経済帝国を築き上げた彼等の親父を知りたいものである。
グートルーネ:
グンターの妹として、何不自由なく暮らしている金髪ねぇちゃん。
ハーゲンからちょっかいを出されているが、毛嫌いしている。
普段は没個性の意思表示の少ない役柄で、エヴァやエルザを歌う前の若手登竜門的なロールであるが、こちらの演出では、ジークフリートを惑わす誘惑者兼ハーゲンの欲望の的としても存在していて個性を強く表現しなくてはならない。
ブリュンヒルデ級の横山さん、前回は今月ブリュンヒルデに挑戦する蔵野蘭子さまが、いずれも素晴らしく歌い演じた。
ヴァルトラウテ:
この大楽劇に唯一登場する神様はいった人物だが、ちょっとの登場でもあり、ウォーナーもあまりいじりようがなく、ごく普通の女性といった感じだった。
ワルキューレで飛び回っていたフェンシングの格好は同じ。
リッティングはビジュアルがよろしく、テオリン様とのバランスもよろしい。
だが前回の藤村美穂子さんを知ってしまっているので、ちょっと感情移入が弱いところ。
3人のノルンたち:
エルダの娘で、ウォータンの娘とも思われる方々は、悩みすぎ・考えすぎで頭が後退し、目も悪くなっちゃった。性別不詳で、その衣装も小難しい記号がたくさん配されていて、かわいさの欠片もなし。3人の実績ある歌手の方々を配しつつも見た目に気の毒。
でもさすがの歌唱は3者ともに立派なもの。
2幕でも登場し、ラインの旧乙女たちとともに左右に意味ありげな存在をなしていた。
ジークフリート3幕でも、幸せに溺れるふたりの後ろで運命の階段を上下していた。
ラインの乙女:
ピチピチしていた乙女たちも、神々の黄昏では、顔がおばあさんみたいになっちゃったし、腹も三段に・・・・。黄金なきラインで老いてしまった。
指環を取り返し、泳ぐさまは昔のようにスリムに。よかったよかった。
ラインの時はともかく、黄昏では残酷さと悪戯っぽさが同居する娘たちながら、ちょっと動きがあまり機敏でなかった感あり。
小鳥ちゃん:
ジークフリートの友達。黄昏でも案内人として出てきた。
ちゃんと消防服きてるし、髪も青、可愛い安井さんがまた出てくればよかったのに。
ギービヒ家の人々:
意思や顔を持たない無機的な存在だった。
けど、痙攣男ひとりの犠牲者は気の毒。なんであんなことまで見せるんだろ。
経営者・創業一族には絶対服従。
ピンク服のおねーさんたち。あんだけたくさんいると、見てて目が泳いじゃうよ。
オヤジですからね。
それにしても新国の合唱団は完璧で圧倒的。
まだ全体がつながらず、個々の印象にすぎないけど、また思いが固まったら記事にしようと思います。
休む間もなく、パルシファル。
オーケストレーションが最高度に複雑化し、分厚い響きで、円熟の極みだった黄昏。
パルシファルは、さらに進化し、精妙さと崇高さを室内楽的に思わせるまで響かせることができるようになったワーグナーの作曲の筆。
こうして時を空けず聴くことができるなんて、東京はすごいもんだ。
新国立劇場にあった、ウォルフガング・ワーグナー氏の追悼コーナー。
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コメント
こんばんは。
このようなレベルの高い四夜を目の前で聴けて幸せでした。ワルキューレとジークフリートが最も感銘を受けました。トリスタン楽しみです。
投稿: Mie | 2010年4月 2日 (金) 22時10分
お晩です。
テオリンの絶唱とウォーナーの息をもつかせぬ演出に酔ってしまいました。まったく、その高品質の上演にやられてしまった「黄昏」であったと思います。トーキョーは凄いところです。
「ライン」、「ワルキューレ」、「ジークフリート」、「黄昏」と、後になるほど音楽がどんどん緻密になってゆくワーグナーの音楽の雄弁な力を享受できたことは、ウォーナーが素直に(いろいろと細工を施してはいましたが)、変な読み替えもせず舞台に表現してくれたこと、そしてそれを実現できた新国立劇場の舞台機構、スタッフの方々のおかげと深く感謝しております。
またその音楽を体現した歌手たちを数年前から発見し、招くことができた故若杉音楽監督らの功績、そして初「黄昏」にもかかわらず、日々精進してベクトルを補正していったダン君のおかげでもありました。彼についてはいろいろと評価が分かれるところではありましょうが、同じ年頃の師匠であるバレちゃんとの比較でいえば、ダン君の才能と資質ははるかに「上」と判じます。
これで、新演出の「トリスタンとイゾルデ」は絶対に見逃せなくなりました。
投稿: IANIS | 2010年4月 3日 (土) 01時27分
詳細な記事、読みながらいろいろ思い出しました。ありがとうございます。
自分自身そして現代社会状況など、いろいろ考えさせられる演出だったと思います。例えばつっこみお断りのちょっとした感じだけですけど、グンター&ハンゲンは、我が国目下のソーリとだれかさんとか^^;; ジークフリートやグートルーネは我ら国民、そしてブリュンヒルデもその中に存在するのかも・・とか・・
季節柄ぴったりのパルジファルにもいらしたのですね・・ 私は久しぶりに聴きました。
投稿: edc | 2010年4月 3日 (土) 10時15分
Mieさん、こんにちは。
4部作完結は、大いなる満足感と完結感がありますね。
早くも去年2作の記憶が薄れつつあり、やはり通しで体験したいところですね。年末年始のトリスタンはきっと素晴らしいものになるでしょう!
あの世界的な歌手たちが、日本の正月をどう過ごすか、考えるだけで楽しいです。
投稿: yokochan | 2010年4月 3日 (土) 13時14分
IANISさん、こんにちは。
やはり、リングは通しで観劇したいもの。
それもライブは、映像では味わえない視覚と空間、そして雰囲気であります。
その点、ドイツものをやる新国は、聴衆も含めて、わたしにはとても居心地のよい劇場です。
ご指摘のとおり、若杉体制の充実の果実の収穫期ですね。それを見ることができなかった若杉さんの死は無念であります。
ダン君は、音源だけでもう一度聴いて確かめてみたいです。まだその個性が見分けられないところですが、将来の大物を日本で育てあげたいものですな。
テオリンと大野と演出、おおいに楽しみです。
投稿: yokochan | 2010年4月 3日 (土) 14時22分
euridiceさん、こんにちは。
書きすぎてしまい、ご迷惑をおかけする方もいらっしゃるかもしれませんが、性分ですし、あとあとの自分のためということで。
切実な身の回りの問題ばかり。考えさせるということが、この演出の最大のネライかもしれません。
昔の抽象的な演出では考えられないことです。
聖金曜日と復活の日に、パルシファルが演奏されます。なかなかやるもんですね。癒されました。
投稿: yokochan | 2010年4月 3日 (土) 20時32分