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2010年6月

2010年6月29日 (火)

シューマン チェロ協奏曲 グートマン&アバド

Mita_6msky
先週の夕暮れ。
夏至の日でした。
夕焼けの後は、晴れるけど、春や梅雨時は天候の変化が激しいから、翌日はたいてい雨。
でもね、この次の日は梅雨なのに晴れてむしむし、暑かったですよ。
なんだか、わからない日本の天気。
気象も亜熱帯・東南アジア系の日本。

選挙カーや街角演説もかまびすしい。
若者を中心にワールドカップは、日頃の不平不満や不安を忘れさせてしまう吐け口となっている。
ヨーロッパの強豪の衰退ぶりと、新興国の躍進。

でも、このサッカー熱狂は、一時的に麻薬みたいなもんで、社会情勢は、そんなことお構いなしに進んでいるわけで、強弱の格差はますます広がりつつあるし、物の売れない社会は、売り手の側からすると深刻な状態。
そしてなにより、政治の話題がお留守になってしまう・・・・。
気が付いたら、民主・自民の大連立に野党は少数政党のみなんてことになりかねない。

ワールドカップもほどほどに・・・。

Abbado_schumanbrhams

まだやってますよ、アバド特集
イタリア人アバドも、サッカーは大好きで、サッカー小僧が指揮者になったようなもんだ。
小澤さんはラガーマンだったし、一慨にはいえないけれど、優れた指揮者はやはり身体能力が優れていて、スポーツマンなんですな。

アバドが、若い音楽家を愛し育てるのはご承知のとおり。
30代の若いころからそうした傾向はすでにあって、各地のユースオケを好んで指揮してたりしたけれど、ここにアバドがタイトルを持ったオーケストラをまとめてみた。
間違ってたらご指摘ください。
 

       楽     団       任      期
  1  ミラノ・スカラ座  1968~1986年
  2  ウィーンフィル  1971~1991年
  3  ロンドン交響楽団  1979~1988年
  4  EC(EU)ユースオーケストラ  1978~1990?(創設者)
  5  ヨーロッパ室内管  1981~?(創設者) 
  6  シカゴ交響楽団  1982~1985年
  7  ウィーン国立歌劇場  1986~1991年
  8  ベルリン・フィルハーモニー  1990~2002年
  9  マーラー・ユーゲント・オーケストラ  1996~ (創設者)
10  マーラー・チェンバー・オーケストラ  1997~2003年  (創設者)
11  ルツェルン祝祭管弦楽団  2003年~  (創設者)
12  モーツァルト・オーケストラ  2004年~  (創設者)

超一流と若者オケ。
こんな経歴を持つ大物指揮者って、かつてない存在であります。
南米ベネズエラまでその視野に入っているから驚き。

何度も言うけど、アバドが無能だとか優等生だとかいうまえに、こうした経歴をつぶさに見て考えて欲しい。
こうしていつまでも若々しい音楽造りができるのですな。
この中に、もしかしたら、ニューヨークフィルやパリ管も入っていたかもしれない。
ニューヨークは、ウィーンのオペラのオファーがなければ、メータの後任として、本人もその気だったらしいから!

さてさて、現在のルツェルンのオケの主体となっているマーラー・チェンバーとのCDから、これまたルツェルンの贅沢なオケのチェロ奏者でもあるナターリヤ・グートマンと共演したシューマンチェロ協奏曲を聴きましょう。

グートマンのチェロはとても繊細で味わいが深い。
豊かなチェロの音色も堪能できるけれど、内向的で渋いシューマンの協奏曲の本質を突いたかのような美しくもじんわりと心に響くような木質感ただよう音色。
アバドの敏感かつ鮮烈なバックに乗って、シューマンの難解で取りとめのない音楽を丁寧に、ひも解いてくれるような演奏なんです。
でも、短い第2楽章にほとばしるのはロマンティシズムの境地です。

1850年、シューマンの後期の作品は、演奏によっては難解で、なにも残らずに、はかないまでにあっさり終わってしまう、そんなとらえどころのなさもある曲。
 気心の知れたアバドとグートマン、そして鋭敏な若いオーケストラのつくり出すシューマンは、一日の終りに、お酒じゃなくてコーヒーを飲んで、自分の内面とじっくり向き合いつつも、心を安らかにしてくれるような効能にあふれているのでありました。

6msky2_2 

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2010年6月28日 (月)

可愛い指揮者「アロンドラ・デ・ラ・パーラ」ちゃん

Mc2
今日、帰宅時にマックの横を通ったら、新商品の先行販売ということで、チキン系のお品が売ってましたよ。
今日は、休肝日にしようと思ったけど、あっという間に断念を決意。
子供の土産にもいいから、いくつか買って、発泡酒(!)をプシュ~。
カラッとしつつも、お肉はジューシーで、そんなに油っぽくない。
ビールにぴったりですわ

何事も、限定品や先行もの、旬の売り出しものに弱いのが人間心理。

Parra1
今日は、こんなビューティな、おなご指揮者を見つけてしまったので、アバド様はお休みして、記事にしてみました。
かといって、彼女の音楽を聴いてみたわけじゃありませんのであしからず。
オヤジですから、お許しを。

彼女の名前は、Alondra De La Parraアロンドラ・デ・ラ・パラーラ
名前のような、地名のような、川や山の名前のような・・・・、どこどこの誰々みたいな意味かしら。
今日、HMVのサイトを見たら発見、そして「1年365枚」のgarjyuさんのブログでも拝見。
二番煎じながら、彼女ブレイクしそうなので、ご紹介。

1979年、メキシコ生まれ。
詳細なバイオグラフィーは彼女のHPでもやや不明ながら、ドミンゴに認められ、彼のコンサートを指揮したりしていて、メキシコとアメリカで活躍。
やがて、彼女のために、ニューヨークに、「フィルハーモニー・オーケストラ・オブ・アメリカ(POA)」というオケが創設され、通常レパトリーに加え、故国や中米、アメリカ現代の音楽をレパートリーに躍進中とあります。

ともかくチャーミングな彼女、ビジュアルばかりでない実力も持ち合わせているみたい。
写真集を見てたら、ドミンゴはともかくとして、何故かマズアやトゥダメルが、なんであんた達がここに…的にご一緒してるし、おなご先輩オールソップやポール・マッカートニーとのショットもあって、なぜか嬉しい。

おなご先輩でいくと、いまやシモーネ・ヤングとオールソップが双璧だけど、アロンドラちゃんも実力本位で今後指揮界を切り開くことができるかどうか、デビュー盤のメキシコ音楽集がとっても楽しみなお父さんであります。

Parra4_2 Parra3 

どうです、かわゆいですねぇ。
しかし、オッサンしょうもないですねぇ。

映像もいくつか拾ってみたけれど、録音のせいかオケがかなりしょぼい。
シモンボリバルも振ったりしてるみたい。
でも、彼女の声は、そんなにカワユクない。
聞きなれないメキシコ語を聞いたからか、とってもせっかち。
指揮者としては、そんな気質がいいのかも。

キャンディードを振るアロンド。
その指揮姿は、正直かつ、真っ当な感じ。
まだ余裕はあんまりなさそうだけど、左手もしっかり音楽を捉えていて、いい動き。
でもまだまだ。
でも、かわゆい

安っぽい販売戦略にのらずに、彼女のオケがあるのなら、そこでじっくり腰を据えて活動して欲しい。
皆さん、アロンドラちゃんを優しく見守りましょう

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2010年6月27日 (日)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 小泉和裕指揮

Minatomirai
アバド特集は、今日はお休み。

曇天の土曜日。
お昼からは横浜で、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会。
定期会員になっているので、いつも同じ席。

周りも同じ方々で、静かにお聴きになってるけど、土曜の14時というのは、どうしても眠くなってしまう。私は、電車で30分ほど眠ってくるので、大丈夫だけど、前半は結構落ちてらっしゃる方もいました。ぐぁあ・・・なんて音もしてたし(笑)

Kanagawaphil_20100626

   ブラームス  ヴァイオリン協奏曲

         Vn:矢野 玲子

           交響曲第1番

    小泉 和裕 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                      (2010.6.26 @みなとみらい)


名曲の組み合わせ、定番・王道コンサート。
なんでいまさら・・・・・。
今シーズンは、聖響マーラーばっかりだから、あえて名曲を間にいれているとあります。
へっぽこ指揮者による「田園」、今回のブラームス、「新世界」なんてのが組まれてるわけ。
多くのリスナーからしたら嬉しい選曲かもしれない。
でも、マーラーはいまや普遍的で、クラシック音楽にマーラーやブルックナーから入ってくる若者も多いわけで、マーラー以外は名曲に・・・、にとわられず、もっと大胆で、面白いプログラミングの差配が欲しかった。

小泉和裕さんの指揮を聴くのは、ほんとうに久しぶり。
カラヤンコンクールに優勝して、新日フィルの指揮者を務めたころ以来かも。
こんな小柄な方だっけ・・・。
でも、相変わらず「カラヤン」してます。
後ろから見ててそっくり。
両足が、演奏中まったく動かない。最初に立った場所を踏みしめたまま。
横顔も見えない。どんな表情をして指揮してるかまったくわからない。

そして出てくる音は、低音がどっしりとしたピラミッド型、一方で壮麗さも。
立派で文句のつけようがないけど、安全運転型で、それ以上のこともなく、何もおこらない。
贅沢なもので、神奈川フィルでこれらの名曲を聴いて、涙が出るほどの感銘を味わったのはそんな昔のことではないから、どうしても耳に残るあちらの響きと比べてしまう・・・・。

音楽は観て、聴いていたけれど、耳が眠っていたみたいなコンサートになってしまった。
こんな何もおこらない演奏なら、金さんの方が・・・。
聖響さんを懐かしむ、妙な結果とあいなりました(笑)
あちらはあちらで、演目によって耳を閉じてしまうけれど、表現意欲は旺盛で、聴くこちらは腹を立てつつも何かやると期待してしまうのだ。

音楽の聴き方は、その経験や体調などにもよって人さまざま。
私は、こんな風にうつらうつらと思いつつ聴いておりました。
交響曲の終楽章、あの名旋律はそれはそれは気分よく鳴り響き、オーケストラも気持ちよさそうに弾いている。
基本、早めのインテンポ演奏だけど、最後のコーダはお約束どおりに高らかにやって、大ブラボーを呼び込んでおりました。

せっかく久しぶりの小泉さんを聴くんだから、ウィーンフィルデビューを飾ったチャイコフスキーの5番とか、お得意のR・シュトラウスを聴きたかったなぁ。
大昔FMで放送されたチャイコフスキーは、堂々としていて、ウィーンの音色もしっかり活かした演奏だったと記憶。

むしろ、この日の成果は、ヴァイオリンの矢野玲子さん。
初聴きで、繊細かつ没頭感のあるタイプのヴァイオリンに感じましたね。
若くて瑞々しい、今の彼女しか弾けないブラームスを聴かせてくれたと思う。
曲の合間に、上の方を見上げたり、オケと一緒に口ずさんだりと可愛い仕草に、拝見していて微笑ましくなりましたよ。
パリ在。自己主張の国でますます揉まれて個性的なヴァイオリニストになることでしょう。

この日の「懲りずに勝手に応援する会」のメンバーは少なめ。
でも、4時終演後から飲み初めて、湾岸ぐるり一周の旅は、終電コースでした。
こちらも懲りないですな~

Kirin1
ビールおいちい

Minatomirai2
明るいうちから飲んだのに、もう夜。
時間がくれば、当たり前か。
Noge
野毛のすてきなバーにご案内いただき、アイラモルトを数杯・・・・。


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2010年6月26日 (土)

ブラームス 交響曲全集 アバド指揮

Azumayama4
まぶしい新緑。
緑は雨を経てどんどん濃く、美しくなる。
暑くなると、空の青はぼやけて薄く見えるけど、緑はどんどん濃厚に。

でもこんな色合いは、本格的な夏前のいまだけ。
真夏の青い空は、いやになるくらいに青くて見上げる気力もなく、緑も暑さに疲れてきちゃう。
四季は人生みたいですな。
ただ人生は繰り返しがなく、一度きりだけど。

Brahmas_sym 

アバド週間

そして、今日6月26日は、1932年生まれのアバドの誕生日であります。
いつまでも若々しい音楽をつくるアバドには、ずっとずっと元気でいて、ニコニコしていて欲しいものと、心から願っております。

いつも書くことで恐縮ですが、アバドのファンになったのは1972年頃、アルゲリッチとのショパンで聴いてはいたが、ボストン響とのレコードを購入して、そのかっこいい音楽造りに一度で好きになってしまった。
そして、翌年のウィーン・フィルとの来日公演をテレビで観て、アバドファンへの道は決定的となりました。
以来38年間、アバドをずっと聴いてきました。
音源は、ほぼコンプリート、でもコンサートは、結婚したり子供が出来たりで遠ざかっていた時期があって、その来日公演を幾年か聴くことが出来なかったのがかなり残念。

ワーグナーの鑑賞歴も、ほぼアバドに同じ。
この二人は、ずっと私の人生と共にあるのです。

Abbado1
そのアバドが、1972年前後に録音した1回目のブラームスの交響曲全集

こちらは、なんと4つのオーケストラを振り分けた録音なのだ。

73年から74年にかけて、DGが企画した交響曲大全集。
DGのアーティストによる、さまざまな交響曲全集の集大成。
みんな作曲家の顔をあしらった豪華な組物ジャケットで、収集の喜びをも満たしてくれる大企画だった。
ドイツの大レーベルが、ブラームスに、若いイタリア人指揮者を起用したことに、当時の音楽業界は驚いたものだ。
 ちなみに、大全集のラインナップは、ハイドン(ヨッフム)、モーツァルト(ベーム)、ベートーヴェン(ベーム)、シューベルト(ベーム)、メンデルスゾーン(カラヤン)、シューマン(カラヤン)、ブラームス(アバド)、ブルックナー(ヨッフム)、チャイコフスキー(ムラヴィンスキーetc)、ドヴォルザーク(クーベリック)、マーラー(クーベリック)、シベリウス(カラヤン、カム)
 こんな具合で、いまならニールセンやショスタコーヴィチ、V=ウィリアムズなども名を連ねることでしょう。でもなんたって、ショスタコは15番が出来たばっかりの頃ですからね。

アバドのブラームス全集は、発売間もなく買ったけれども、先のウィーンフィルとの来日公演での批評と同じく、日本の先生方からは散々なご評価を賜り、私は一人憤然としていたのであります。
でも、このレコードと来日公演を高く評価した方が数人。黒田、三浦、出谷、小石、岩井の5氏の方々。
ですからして、ワタクシ、その5氏の皆さんのことは、アバドを常に高く評価するオペラの高崎さんともども、非常にご信頼申し上げた方々なんです。
ファンとはこういうもんなんです。

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交響曲第1番は、ウィーンフィルとの72年の録音。
久しぶりに聴いてみて、その出だしからびっくり。
ピッチが高く感じるほどに、音色が明るく明晰。
ブラームスの熟考を重ねたしんねりむっつりとした重厚サウンドはまったくなく、軽快でかつ爽快。
繰り返しをすべて行うこだわりをみせ、テンポも中庸で、どちらかといえば遅めなのだけれど、早めの部分はすいすいと進行して、あっというまに終楽章の晴れやかな結末を迎える。
 私は、こんなブラームスが好きだ
ブラームスの1番、ブラ1の固定観念から遠いところで、こんな演奏をウィーンフィル相手にやってしまったアバドの大胆さがよくわかる。
評論家氏は、これをウィーンフィルに乗っかっただけで、アバドの顔が見えないと評したが、私はオケの美音と手を携えつつも、歌に注力し、細部はやや甘いまでも流線的な流れのいい美しいアバドのブラームスを作りあげたものだと、いまでも思っている。
2楽章は、さすがにウィーンの美音が満載で陶然としますよ。こりゃマーラーみたい。

Bpo 
交響曲第2番は、ベルリン・フィル
こちらは新録音ではなく、70年に単独で録音した音源。
カラヤン以外(ゲルデスという超例外はあるけど)が、70年代にベルリンフィルを使って録音した久しぶりの出来事。
同じベルリンフィルとの後年の演奏はおろか、ブラームスの2番の演奏のなかで、もっとも好きな演奏であります
この曲にイメージするものが、過不足なく、それもあくまで自然体で伸びやかに演奏されていて、曲中のどこもかしこも「歌」があふれていて気持ちがいい。
 こうした「歌う交響曲」的演奏は、誰もなしえなかったやり方で、しかもただ歌うばかりでなく、この曲でも、繰り返しを律義に行いつつ、全体の構成感をしっかり持たせてまとめあげているところがアバドらしいところ。
しかも、終楽章では驚きの歓喜の爆発が待ち受けているのでございます
 カラヤンのもとで、首根っこを押さえつけられていたベルリンフィルのつわもの達が、のびのびと気持ちよさそうに演奏しているのもよくわかる。
オーケストラを知らず知らずに解放してしまい、独特なムードに引き込んでしまうのもアバドならでは。
イエス・キリスト教会での、明るくも響きの豊かな録音も素敵なものがあります。
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ベルリンフィルとは、ばっちりの組み合わせだったアバド。
交響曲第3番では、ドレスデン・シュターツカペレとの共演。
レコードには収録されなかったハイドン変奏曲と合わせて、ドレスデンとの唯一無二の録音。72年、日本にウィーンとやって来る1年前の録音。
そう、この3番といえば、先にふれた私がテレビでアバドとウィーンフィルの演奏会を観たときの曲目。
ブラームスと英雄のふたつの3番の演奏会。アンコールは、青きドナウ。
英雄が終わったら、間髪いれずに、ものすごいブラボーが叫ばれた。
テレビに大写しになっていたアバドが、目の玉飛び出すくらいにびっくりしてた(笑)
 青きドナウでは、こともあろうにウィーンフィルの木管群が途中の出を間違えて、大トチリ。
アバドもウィーンフィルの楽員も、もうニコニコしっぱなしの感興あふれるコンサートだった。
思えば、このときに完全にアバドの人柄が好きになった。
 その思い出深いブラームスの3番。(ちなみに、この曲が大いに気に入り、すぐハイティンクのレコードを購入。以来、ハイティンク・ファンでもあります)

大きく歌に傾くアバドはここでもそう。
しかも1楽章ではかなりアッチェランドをかけたりして、揺らして劇的に走る場面があって、いかにも若々しい雰囲気。
だが、オーケストラがどこか抵抗してるような気がしなくもない。
もっと、一音一音じっくり弾き込みたいというオケと、歌と劇性に傾く指揮者。
でも2・3楽章では、ゆったりと構えて大らかな指揮ぶりなので、ドレスデンの美しい木管や落ち着いた弦の持ち味が楽しめる。
このふたつの楽章は、ルカ教会のお馴染みの音色も手伝って、極めて素晴らしい。
終楽章は、指揮者とオケが歩み寄ったかのように、克明でありながらも、しなやかな歌が聴かれるのが面白い。

実は、爆演堂さんに聴かせていただいた同時期のバイエルン放送響とのライブ録音が、ドレスデンよりもフレキシブルで、明るい音色でよかったりします。
いまのドレスデンなら、アバドとの相性もいいかもしれない

Lso
交響曲第4番は、つねにアバドの手兵であったロンドン交響楽団とのもの。
72年録音。ロンドン響は、プレヴィンと蜜月の頃。
アバドも60年代から客演を続け、相思相愛の間柄で、後年、プレヴィンの後を継ぐことになったことは誰しも納得の人事だった。
当時、ウィーンフィルのパーマネントコンダクターとスカラ座音楽監督でもあったアバドが、本当に気が許せて自分のやりたいことを心置きなくできたのがロンドン響。
ウィーンとスカラは、もう少しあとに完全掌握。

ほかの3つのオーケストラに比べ、なんで4番がLSOなんだろ。
と、当時は思ったけれど、後年よく聴きこめば、ここでもまた歌謡性に富んだユニークなブラームスが聴かれることに気付いたのだ。
2楽章のゴシック風の緩徐楽章は、甘さとは縁遠い思いのほか渋い演奏。
だが個々の楽器が、フレーズをほんとによく掴んで歌っている。
この楽章、各楽器が重層的に重なり合って、LSOのニュートラルな音色が、楽譜をそのまま音ににしたみたいで、ほんとに美しい演奏なんです。
この楽章だけでも価値ある4番の演奏かもです。
 ほかは、ベルリンの再録音がどうしても素晴らしいのでありますが、ブラインドテストしたら、アバドとロンドン響のブラームスだなんて、絶対にわからないくらいに本格的。
難点は、それも大きい難点は、録音の悪さ。
EMIアビーロードスタジオでのもので、音がこもりぎみで、すっきり抜けきらない。
それが残念だけど、不思議に愛着ある4番の演奏であります。
 
Abbado2
以上、1番は曲が昨今苦手なのであっさり聴いてしまったけれど、ほかの3曲は好きなだけに長くなってます。
そして、2番と3番は、アバドによってその音楽を知り好きになっただけに思い入れある演奏であったりします。
いずれも手に入りにくいCDかもしれませんが、アバドのいまでも若々しい音楽の本質が味わえる希少なブラームスだと思います。
 ベルリンとの再録音から20年近く。
そろそろ、最新のブラームスが聴きたいですねぇーーー

オーケストラは、マーラー・チェンバーでどうでしょうか
熱烈に望みたいです。

Azumayama6
すっきりさわやか。
何事もこういきたいですねぇ~

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2010年6月25日 (金)

モーツァルト ピアノ協奏曲第15番 ゼルキン&アバド+アジサイ写真集

Asuka25
咲き乱れる紫陽花
東京は蒸し暑い日々が続くけれど、湿度の加減で体感温度が全然違う。
こうしたことを、ほんとうに身をもって感じるのも的確な天気予報のおかげかも。
 でも、異常な気象は地球を覆ってる。
梅雨といえば、5月の陽光より薄ら寒く感じるしっとり感があるんだけれど、このところの梅雨は熱帯性で、降るときは降る、降らなきゃカンカン晴れ・・・・。
Asuka27
鮮やかでしょ!

こちらは、王子駅からすぐの、飛鳥山の麓の「飛鳥の小径」。
JR沿いだから、車中からご覧になる方も多いのではないのでしょうか。

Asuka26
ともかくこの小道に、紫陽花の花が連続で咲き競ってるんです。
それもいろんな種類の紫陽花が。

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桜は、お花見で、日本中大賑わいになる人気者だけど、紫陽花は、雨につきものとあって、風情はあるけれど、お花見のようにはいかない。
花じゃなく額だったりで、なんだか詳細を知ってしまうと地味な存在なんだけど、このパステルなカラーリングが実は季節をしっかり演出してて、日本の四季の景色にはなくてはならない存在なんですね。
Asuka6
咲いてる時は、濃いめの緑の葉もあわせて、生き生きと瑞々しくとてもキレイなんだけど、枯れるときは実に憐れで、焦げたような褪せたような感じで、しょんぼりと生気を失ってゆく。
Asuka7
そう思うと、とても愛らしく、梅雨という時期をひさぐ悲しい存在に感じられたりもしますね。

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アバド特集
紫陽花が中心になりました。
今日は、さわやかにモーツァルトピアノ協奏曲第15番変ロ長調K450を。

ピアノ協奏曲を生涯万遍なく書いたモーツアルトの中期の傑作が15番。
いや、12、13,14、16、17、あっ、27番まで、いやいや、8番あたりからずっと、ピアノ協奏曲は素敵で音楽的にすぎる作品ばかり!
この15番も、のびやかで愉悦に満ちていて、思わずニコニコとしてしまう愛らしい作品なんだ。
変ロ長調というと、最後の27番の夕映えのような名作と同じ調性だけれども、この15番も聴きようによっては空を茜色に染めるような、暮れゆく詠嘆とともに、明日は晴れるという明るい気持ちを抱かさせる快活なムードにもあふれている曲。
聴いていて、そんな気持ちになるんです。
ステキなモーツァルト。
特に第2楽章はたまらなく愛らしい・・・・。

人生の夕映えを迎えたルドルフ・ゼルキンが、DGと契約し、味わい深い録音の数々をその生涯の最後に残した80年代。
70歳代にして始めたモーツァルトのピアノ協奏曲全集の録音のパートナーに選ばれたのは、クライディオ・アバドロンドン交響楽団
技巧の衰えを補ってあまりある味わいの深さ。
それは色がなく、淡々としつつも、ピアノから出てくる純粋な音だけしか感じさせない。
それ以外はなにもない、蒸留水のようでいて、その水は時に甘かったり、軟水だったり硬水だったりと、変幻自在だったりするのだかれど、ぶれない強さが音の芯にあるものだから想いのほか強い音楽になっている。

そんな自在なゼルキンのバックを、無垢なるアバドとやたらにニュートラルなロンドン響が務めているわけで、アバディアンとしては、歴史に残るモーツァルトに心躍るのみであります。
いまや、アバドがゼルキンの境地にあり、奏者は若者。
酸いも辛いも味わったアバドは、あらゆる奏者を包み込む大らかなるオーラを発揮するのであります。

Asuka29
ガクアジサイ。
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こんな風にJRが真横を走ってる紫陽花の小路でございました。

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2010年6月24日 (木)

「知られざるヴェルディ」 パヴァロッティ&アバド

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魚介のマリネ。
きれいでしょ
そして、素材を活かしたソース。
美味であります。

こちらは、別館でもまだ未公開の、我が郷里のちょっと有名なフレンチ、「指帆亭」の一品。ほんとの身内だけで、亡父の法要をすませたあと、食事しました。
海が見えるすてきなレストランだけど、ここは、私が通った中学校に隣接する場所。
いつも遊んでました。
子供の頃からの遊び場は、海の周辺で、えらく恐ろしい廃墟洋館もありました。
そこはいまは整備されて、これまた有名なイタリア・レストランになっております。
そこそこ田舎だし、土地も安いし、海が見える立地はこうしたレストランに人気。
いくつもあります。
変貌する故郷です。

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アバド特集開催中。

アバドの故郷といえば、ミラノであります。
ミラノに生まれ、ヴェルディ音楽院の校長・ヴァイオリニスト・指揮者・音楽学者であったミケランジェロを父に、ピアニスト・作家のマリアを母に、完璧なる音楽一家のもとで指揮者になるべく育ったクラウディオ。
 父が指揮をして、自身がピアノを弾いたアルバムが、EINSATZレーベルから復刻されておりまして、私もいち早く記事にしてますし、不肖ながらCD解説まで書かせていただいております。

母からピアノを学び、兄ととものにドビュッシーの「夜想曲」を聴いて、指揮者になる決心をした少年アバドであります。
ウィーンでスワロフスキーに学び、イタリア各地で指揮活動を開始し、ニューヨークでコンクールを撃破。
バーンスタインやカラヤンからも厚遇され、スカラ座とザルツブルクでマーラーの「復活」で鮮烈な成功を飾るのが65年。

こうして檜舞台に躍り出たアバドが、当然の帰結として、故郷ミラノのスカラ座の音楽監督に就任するのが68年。
のちに芸術監督となり、前に記したように辞任騒動も繰り返し、最終は音楽監督として86年までスカラ座の顔として君臨した。
65年のデビューからウィーン転出による辞任まで、21年間であります。
そして、アバドの功績は、スカラ座フィルというコンサートオーケストラを創設したこと。
ただでさえ優秀な座付きオーケストラが、超立派なコンサートオーケストラであることを示した。

一流ポストを歴任したアバドであるが、こうして、ミラノとウィーンが一番長い。

リコルディ社が録音に乗り出していた時期に、アバドはいくつかのスカラ座との記録を残した。
そのひとつが、パヴァロッティと共演した「知られざる未出版のヴェルディ」と題された1枚。
 改定され埋もれてしまったオリジナルアリア、特定の上演に際してある歌手だけのために書かれたアリア、未完のオペラの一部のアリア・・・・などなど、文字通り珍しい知られざるアリアや序曲が選ばれ録音されたものなんです。

 「シモン・ボッカネグラ」前奏曲
 「エルナーニ」第2幕~「我が誓いを聴きたまえ」
 「アッティラ」 第3幕~「おお、苦しみよ」
 二人のテノールと管弦楽のためのシェーナ「私は彼女を見た」
 「二人のフォスカリ」第1幕~「もっとも遠い流刑地から」
                  「おお、わたしは聞いた、神がお呼びになる・・・」
 「シチリアの晩鐘」第4幕~「愛した君へ」
 「アイーダ」序曲

   T:ルチアーノ・パヴァロッティ
   Br:ジョセッペ・モレージ
   Bs:アルフレート・ジャコモッティ
   T:アントニオ・サヴァスターノ

 クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                    (1978、80 @ミラノ)


アバド得意中の得意、「シモン」。
まさにアバドが執念のように上演をかさね、この地味な傑作オペラを不動の存在にしてしまった、シモンからしたら大恩人のアバド。
通常私たちが耳にしてきたのは、中期以降にヴェルディが改定した版なので、プロローグの前に置かれた波のさざ波のような渋い短い前奏曲だが、オリジナルは、3分を要するなかなかにダイナミックな音楽だった。
まるで別物の音楽。
あの印象的な波の音色はなく、活気に満ちた出だしと、オペラ内の旋律からなる。
その旋律は、父と娘の邂逅の感動的な二重唱と、群衆の暴動の音楽。
これらが絡み合う前奏曲なんです。
まさに、ミニ「シモン」の3分間なり。
で、「アバドのシモン」といえば、史上最強のヴェルディ演奏であり、アバド&スカラ座の実力をクライバーとは、まったく違った次元でまざまざと聴かせてくれた来日公演。
いまだに、その光景と音は、私の脳裏に刻まれているのであります。

オーケストラ作品としては、最後に「アイーダ」序曲が取り上げられている。
アバドは、ロンドン響とも同時期に録音している。
カイロでの初演後、ミラノでの上演のさいに序曲を用意したヴェルディだが、リハーサルを聴いてすぐに引っ込めてしまい、初演時=現況時のままでイタリア初演を行った逸話がある。
オペラの中の名旋律を駆使した11分の華やかな序曲は、人間ドラマに深く食い込んでいた充実気のヴェルディとしては、やはり異質な存在と感知したのであろう。
正しい選択ながら、おかげで、この序曲は長く埋もれてしまい、トスカニーニが見つけ出して演奏した経緯があるものの、ずっとそのまま。
それを甦演したのが、アバドとスカラ座のコンビなのであります。
 このあとに、「清きアイーダ」が始まるとうイメージはあまりに想像しにくく、これはこれで、シンフォニック・アイーダともいうべき単独作品としてとらえた方がいいみたいだ。
ロンドン響の方がうまいけど、こちらはキリッと引きしまった鮮やかな演奏だ。

あとは、全盛時のパヴァロッテイの独演会
異なる上演機会に、歌手のスタイルによって書き分けられたアリア。
その歌手たちは稚拙だったり、悲劇性が強い声だったり、はたまた技巧派だったりするので、それこそいろんなスタイルのテノール・アリアが聴かれるのだ。
それらをやすやすと歌いこなすパヴァロッティに、雰囲気豊かな背景を司るアバドとスカラのオーケストラ。
有名旋律はありませんが、こんな耳の快楽とご馳走はありませぬよ。

珍品は、「フォスカリ」からのカヴァレッタで、ヴェルディが想定した歌手が、高音域がものすごく、しかもファルセットも駆使する技巧派だったとのことで、解説によれば、パヴァロッティもその通りに、3点変ホをファルセットボイスでクリアしているのが驚き。
ヒャぁ~って感じですよ(笑)

もう二度とあり得ない組み合わせによるCD。
正調ヴェルディがオーケストラと歌手にしっかり聴かれる、いまや希少な1枚でございます。
次期スカラ座のボス、ムーティと、戦後の低迷期から黄金時代を導きだしたアバド。
この二人は、イタリアオペラ界の偉大な指揮者として長く名前が刻まれるはずだ。
原典にこだわり、ヴェルディの音楽本来の力感とダイナミズムを生き生きと表出したムーティ。
愛国心や人間心理へ踏み込んだヴェルディのドラマ性を、精緻にとらえ、歌心の中に解放してしまったかのような無垢なアバド。
どちらのヴェルディも素晴らしいです。
いま、ヴェルディを彼らのように、ハイグレードに聴かせる指揮者は皆無。
ガッティもルイージも、ワーグナーは面白く聴かせても、ヴェルディはまだまだかも・・・

今日は、ミラノのアバドでした。

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「指帆亭」へのアプローチ。
右は海。左はすぐに中学校のグランド。
その境目はなにもないから、このあたりは自由自在に遊んでましたねぇ。
いろんな思いでがあったりしますね・・・・・。

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2010年6月23日 (水)

ビゼー「カルメン」&サラサーテ「カルメン幻想曲」 アバド指揮

Azeria
盆栽の「さつき」。
亡父は庭いじりが好きだったので、実家は緑が豊富で、鳥や虫もたくさん来ます。
私は平気だけど、蜘蛛やムカデ、蛾の幼虫などが登場すると、マンション育ちの子供たちは恐怖の雄叫びをあげることになります。

でも、親父の残した花々は、四季折々キレイなのです。

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アバド特集
ベルリンフィルの指揮者になると、定期演奏会ばかりでなく、いろんな演奏会をも指揮・プロデュースすることになる。
カラヤンが始めたザルツブルク・イースター音楽祭と、同じザルツの夏の音楽祭、ヨーロッパコンサート、そして海外ツアーに、大晦日のジルヴェスターコンサートと盛りだくさん。
これだけ、ベルリンフィルと一緒に過ごすわけだから喧嘩もするし、仲良くもなります。
カラヤンもアバドもそうだったし、ラトルもきっと。

プログラミングに関しては、カラヤンはあまり手のこんだことをせずに、堂々たるドイツの歴史に根差した王道プログラム+有名オペラを常とした。
 偉大な先達のあとを継いだアバドは、若い頃からロンドンやウィーンで行ってきたことと同じことを、さらにパワーアップしてやり始めた。
それは、ひとつのモティーフを年間テーマにして、音楽や文学なども交えた総合的な芸術を街中で行うというもの。
知的で熱意あふれるアバドならではのことで、広い人脈もこうしたことで生き、そして築かれるといった具合で、人望が期せずして生まれてしまうというもの。
 若い頃は、アバドを師とも仰いだラトルも、いまそうしたテーマ性のあるシーズンコンサートを仕掛けているのもご存じのとおり。
日本では、アルミンクと新日フィルがそうした試みで充実したプログラミングを仕立ててますな。

毎年テレビにくぎ付けになったジルヴェスターでも、テーマコンサートは実に考え抜かれたものばかり。
ベートーヴェン、シューマン、ワーグナー、R・シュトラウス、ヴェルディなどの単独作曲家の特集。
オペラ、今回聴いたのジプシー+スペインにまつわる音楽、ミレニアム前年にはフィナーレ特集・・・・、などなど、枚挙にいとまがない。

アバドの音楽造りもふくめて、若手奏者・オーケストラ育成など、大局的にこうしたアバドの音楽活動を見て、アバドのことをあれこれ言う輩が私には信じられませぬ。
音楽のことしか頭にない純粋な人なんです。

アバドを語ると、熱くなっちまいますね。

で、1997年のジルヴェスターは、「スペイン&ジプシーにまつわる音楽特集」。

 ビゼー 「カルメン」から

   カルメン:アンネ・ゾフィー・オッター ドン・ホセ:フランシスコ・アライサ
   エスカミーリョ:ブリン・ターフェル  フラスキータ:ヴェロニク・ジェンス
   メルセデス:ステラ・ドゥフォー

 ラヴェル  スペイン狂詩曲

 サラサーテ 「カルメン幻想曲」

      Vn:ギル・シャハム

 ラフマニノフ  パガニーニの主題による狂詩曲
 
      Pf:ミヒャエル・プレトニョフ

 ブラームス   ハンガリー舞曲第5番

     クラウディオ・アバド指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
                       (1997.12.31@ベルリン)


血沸き、肉躍る躍動する音楽の連続。
後半にいくほど、音楽が乗りにのってくるのがよくわかる。
休みをいれないライブの真髄。

克明なまでの前奏曲で始まる「カルメン」は、賑々しい安っぽい名曲とは完全に一線を画した本格的なドラマの一端を感じさせる優れた演奏で、70年代のロンドン響との名演よりも音楽は鮮烈に聴こえる。
オッターのおっかなくない、普通の女性としてのカルメンはそういうことで迫力はないものの、とても音楽的で、アバドの演奏にぴたりと寄り添っていて、かつてのベルガンサのカルメンの初登場(クーベリック)を思い出してしまうもの。
アライサの目の覚めるのよな素晴らしいホセにくらべ、ターフェルのエスカミーリョはこの演奏にはちょっと異色すぎ(というか声の威力しか感じない~そんな役柄だからいいのか、妙に張り切りすぎて、発声が鼻に抜けなくて変なことになってます(笑))
ちょい役にフランスの名手二人を起用してるのも贅沢なこと。

ついで、精妙さと、熱気の入り混じった素敵なラヴェル。

そして、シャハムのスリムで鮮やかなヴァイオリンは、チョーかっこよくって、オジサン舌を巻いてしまった。会場にいたら即ブラボーだよ。
サラサーテのこの曲、めちゃくちゃ盛り上がります。

珍しいプレトニョフとの共演のラフマニノフ
プレトニョフさん、鼻息と唸り声激しすぎ。
ヘッドホンで聴いてたら、誰かの声が聴こえたとおもって、「え?」って振り返ったら誰もいない。
で、ヘッドホンをまたかけたら声がする。
そう、プニョフさんのお声でしたよ。
この演奏もたいそう熱のこもった熱い演奏です。

で、最後はアバドのお得意のノリノリ・ブラームスで、賑やかに、よいお年を・・・、となる1枚でございました。

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2010年6月22日 (火)

プロコフィエフ 「ロメオとジュリエット」 アバド指揮

Cosmos_azumayama1

コスモス
一輪。
もう咲いてましたよ。
先週、神奈川の実家の小さな山を登って見たら発見。
周辺は、サツキが満開で、まだ菜の花も残り、コスモスのツボミもちらほら。
いろんな季節が交錯する不思議な光景。
でも、梅雨の晴れ間、日差しは強いですな。

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6月26日
は、私が敬愛してやまないクラウディオ・アバドの77歳の誕生日であります。
今週は、アバド特集をやります
癌からの再起以来、いつまでも元気で若々しいアバドだけれども、ちょっと気になるのが、5月恒例のベルリン・フィル定期登場後、体調を崩して入院してしまい、その後のスケジュールをキャンセル。
歴史的なカムバックになるはずだったスカラ座でのマーラー演奏も、無念、中止となってしまった。
こちらは、ラブコールのミラノ市に対し、出演の条件として市内の緑化(植樹)を打ち出して合意し、いざ予算がないのどうのと揉めていた矢先のこと。
体調悪化での中止とはいえ、生まれ故郷にも容赦もないリベラルなアバドならではの逸話がまた生まれてしまった。
 スカラ座時代も、惨憺たるイタリア経済界がオペラ予算を削減したりしようとすると、辞表を叩きつけて闘ったり、歌手たちがとどまるように慰留したりと、故郷に対しては熱い思いをぶつけてきたアバド。
 温厚だけど、熱いイタリア魂を持ったクラウディオなのです。

アバディアンとして、前置きが長くなりましたが、本題は、プロコフィエフ「ロメオとジュリエットであります。
全52曲のバレエ音楽と、そこからの第1から第3までの作者自選の組曲版。
これらが通常のロメオの演奏パターンだ。
 だがアバドは、全曲版と組曲版からそれぞれ、順番も入れ替えて20曲の、いわばアバド版ともいうべき抜粋版を作り出して録音した。

90年の音楽監督就任以来、ベストマッチなコンビとなりつつあったベルリンフィルとの96年の録音。この3年あと頃から、病魔の兆しもあらわれるアバド。
若い頃からお得意のプロコフィエフは、ベルリンフィルという強力なオーケストラを得て、繊細な歌う絶妙のピアニシモから、分厚いフォルティッシモまで、広大なダイナミックレンジを持つ鮮烈な演奏になっている。
威圧的にならず、明るいまでのオーケストラの鳴りっぷりのよさが味わえるのも、見通しいい音楽造りをするアバドならでは。
 有名な「モンタギュー家とキャピレット家」や「決闘」「タイボルトの死」などでは、オーケストラの目のさめるようなものすごいアンサンブルと、アバドの弾けるようなリズムさばきに興奮を覚える。
一方、恋人たちの場面での明るいロマンティシズム、ジュリエットの葬式~死の場面での荘重で静謐極まりないレクイエムのような透明感、それぞれにアバドの持ち味。

この1枚は、ずっと今日まで記事にせずに温存してきたけど、プロコのロメオの中でも一番素晴らしい演奏ではないかと贔屓目ながらも確信している次第。
あと、ロンドン響とのデッカ旧録音、プレヴィンの全曲。このあたりが好きですな。

以前にも書いたけれど、イタリア人指揮者は、プロコフィエフがお好き。
アバド、ムーティ、シャイー、ガッティ、ルイージ・・・みんなそう。
プロコフィエフの音楽はネ暗じゃないし、明快さやリズム感にあふれているからでしょうか。

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ほい、これ、菜の花とコスモスの季節を超えたコラボレーションなり。

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2010年6月21日 (月)

ビゼー 「カルメン」 新国立劇場公演

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ビゼー「カルメン」を観劇。
さるお方からチケットをお譲りいただき、嬉々として初台に参上。
恥ずかしながら、舞台での初「カルメン」でございます。
ワーグナーとR・シュトラウスは、たいてい観てるけど、こうした有名オペラは避けてるつもりはないけど、常に後回し。
ほんとうに、よい機会でした。ありがとうございました「I」さん。

そして、やっぱり名作は名作たるもの、隅から隅までよく出来てるし、名旋律の宝庫に心弾む思いでありました。
日曜の最終マチネ公演。
多くの観客が、リラックスしてオペラを楽しんでましたね。いい雰囲気。

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2007年がプリミエ。
この人気オペラ、新国2度目の演出で、ちょっと調べたら、97年のオープニング以来、今回で5度目の上演。
 ちなみに、新国の上演回数No1は、「蝶々夫人」の6回。
次いで、「カルメン」と「セビリアの理髪師」の5回となっていて、以下「魔笛」「トスカ」「ボエーム」となってました。「椿姫」や「フィガロ」が上位にないんですね。
やはり、日本のオペラハウスは、蝶々さん。

   カルメン:キルスティン・シャベス   ドン・ホセ:トルステン・ケルル
   エスカミーリョ:ジョン・ヴェーグナー ミカエラ:浜田 理恵
   スニガ:長谷川 顯          モラレス:青山 貢
   ダンカイロ:谷 友博          レメンダード:大槻 孝志
   フラスキータ:平井 香織        メルセデス:山下 牧子

  マルリツィオ・バルバチーニ指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
                      新国立劇場合唱団
                      NHK東京児童合唱団
                   合唱指揮:三澤 洋史
                         (2010.6.20@新国立劇場)

カルメンはレコーディングなどでは、アルコーア版がいまや常識で、それに耳が慣れてしまっている。
今回の上演では、アルコーア版と、レシタティーボのギロー編のものとの折衷とのことである。
聴き慣れてしまっていることもあるが、セリフ版の方がドラマの緊迫感が出るし、ヒゼーの劇的な音楽が引き立つものと思う。
日本での上演は、歌手の負担や聴衆の受けなどを考えると難しいものがあるかもしれないが、外来歌手も混合する新国であるならばこそ、オペラコミーク形式にて味わってみたい思いがあります。

この思いは、オーソドックスな演出にも感じられることで、ぼちぼち目の覚めるような斬新なカルメンを出してもらいたいものです。
ビジュアル的には、シンメトリーでバランスもよく、極めて美しい舞台で人物や群集の動きも見事なもの。
そして、物売りや酒場の人達も動きが細かく、手がこんでいる。
ホームレス風の人が常時うろちょろしてるのは、ちょっとやり過ぎ。
酒場の第2幕では、前面に酒ボトルがずらりと並べられた。数えたら約100本(笑)
こうして、細部まで徹底してるのが最近のオペラ演出なのだけれど、どこか物足りない。
整いすぎているのです。
もっと毒々しさや、生々しさといったリアリティーが感じられるといいんだけれど・・・・。

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終幕、闘牛士に投げられた色鮮やかな花が地面に、カルメンとホセの息詰まるやりとりに、あたりも暗くなり、二人の周辺だけに光があたる。
舞台が回ったのは不明なれど、緊迫した結末の描き方は見事だった。
動かなくなったカルメンを掻き抱くホセをとりまくように、無言の群衆があらわれ幕となった。

こうしたちょっと贅沢な不満は、別な意味で歌唱にも感じられた。
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アメリカ人シャベスは、エキゾチックな風貌とボリューミーなバディ(?)で、肉惑的なカルメンで、歌も演技もカルメン歌いとして場数を踏んだ堂々たるもの。
奔放なカルメンを見事に打ち出していたけれど、死という運命に向かって突き進んでゆく宿命的な存在としてのカルメンはちょっと弱め。
声だけだけど、ベルガンサやトロヤノスらの女性的な儚いカルメンが懐かしく思えた。
でも、シャベスさん、美人だし立派でした。

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マイスタージンガーのヴァルターで新国デビュー予定が、奥さんの病気で今回までお預けとなったケルルのドン・ホセ。
ワーグナーやコルンゴルトのオペラで、耳になじんでいる声だけど、このドン・ホセでは、力強く暗めの中音域に、明るく伸びる高音域、CDに比べそのバランスがとてもよくなってきたと思う。演技はやや鈍重ながら、その爽快な声は私にはとてもよかった。
次回はドイツものでしっかり聴いてみたい。

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ヴェーグナー
のエスカミーリョは、あまりに異質な存在。
この人の声は、テルラムントやヨカナーン(新国サロメでは凄かった!)の声で、決してエスカミーリョじゃない。
ミスキャスト。冴えない闘牛士の歌でした。

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そして、浜田さんのミカエラ
ともかく素晴らしいの一語に尽きます。
メリザンド、リュー、ミミときて、このミカエラ。
いずれも存在感あふれる心を打つ歌唱と演技で、小柄なのにその声はエスカミーリョよりもよく通っていた。


ほかの日本人歌手の皆さんも強力外国勢に一歩もひけをとらず、歌唱もアンサンブルとしても最高。
 それととりわけ感心したのが、児童合唱のみんな。
舞台で一番生き生きとしてたかも。
合唱団の強力さもいつもの通り。

でオーケストラ。
日本で一番カルメンを演奏しているであろう東京フィル
ほぼ完璧で、手慣れてます。
音楽をうまくまとめ上げることに専念したかのようなバルバチーニの指揮は、合わせは完璧。でも、演出と同じく、それ以上のことがない。
もっと弾んで、キレのあるカルメンが聴きたいところ。

いろんなスタイルの歌唱が混在の歌手、うまいけど、きれいだけど、薄味の舞台とオーケストラ。
こんな感じの印象ですが、CDや映像ばかりでいい演奏慣れしてしまった名曲ゆえのオペラに対する、極めて贅沢な不満であります。
初カルメン舞台、しっかりと楽しませていただきました。

オペラって、ほんとに楽しい~

Wakasugi
ロビーには、故若杉さんの新国芸術監督としての偉業をたたえるパネル展示がありました。
「鹿鳴館」はソールドアウトで行けないから、私の新国今シーズンは、これにて終了。
そして、若杉さんの治世とも私はこれでお別れ。
なんだか寂しくなってしまう。

尾高さんの来シーズン、予算問題を抱えつつも鮮やかな舵取りを期待します。

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2010年6月18日 (金)

チレーア 「アルルの女」 レイヤー指揮

Kanisyaboten
カニシャボテンを下から覗いてみた図。
怪しく毒々しいです。

Cilea_larlesiana
フランチェスコ・チレーア(1866~1950)は、プッチーニと同世代。
ということは、マスカーニやレオンカヴァッロらとも、活躍時期を同じくする、イタリアのオペラ作曲家。
前にも書いたとおり、ヴェルディ以降のイタリア・オペラ作曲家について、プッチーニはほぼ制覇したとして、それ以外が大いに気になっていて、一発ヒットの作品はおろか、他オペラ、そして他ジャンル作品なども、積極的に聴いてみたいと思って実践してます。

 話はそれますが、クラシックを聴いてきて、ヲタ境地に入ってくると、好奇心がどんどん湧いてきます。
名曲は飽いた気持ちを抱いていても、名演に出会うことを求めるし、気にいった作曲家の作品は、根こそぎ聴いてみたいし、好きなジャンル(例えばオペラ)なら、気持ちの赴くまま、知らない作品にチャレンジしてみたい。
さらに、名の知れぬ作曲家や、演奏家を探しあて、聴き込んでゆくという楽しみにもハマっている。

だから、私の音楽人生、とどまるところがないのです。
しいていえば、名曲路線は、特定の作品にとどめ、その分、あらたな音楽の風景を見たいと思うようになっている。
オペラであれば、ドラマを楽しむという喜びも別途あるので、いろんな作品にチャレンジしてゆきたい。手間暇&金がかかるのが難点ながら、お気に入りの作品を発見する喜びは尽くしがたい歓びなのであります。

さて本題、チレーアに関しては、76年来日のイタリアオペラの「アドリアーナ・ルクヴール」の舞台に接してからというもの、そのアドリアーナはマイフェイヴァリット・オペラのひとつになったし、チレーアという人の存在によって、プッチーニ以外にも甘味かつドラマテックな音楽を書くイタリアオペラ作曲家がいるもんだ、という印象を大いにあたえられたわけ。

そのチレーアの音楽を導入部として、カヴァ・パリ以外のマス&レオン、シェニエ以外のジョルダーノ、カタラーニやモンテメッツィ、らも聴くようになったのです。

そして、アドリアーナ以外のチレーアにも、当然に触手が伸びていて、そんな中のひとつ、「アルルの女」を今日は聴いてみた訳であります。
テノールの泣きのアリア「フェデリコの嘆き」~ありふれた話、のみが有名すぎるこのオペラ。
なかなか上演に巡り合えないし、音源も限られている。

オペラでは「ジーナ」のあと、「ツィルダ」が成功し、チレーアが次のオペラに選んだのは、ドーデの有名な「アルルの女」。
なにぶん、先輩ビゼーが、1872年に劇音楽を残していて、チレーアの作曲は慎重に行われたが、チレーアはよりヴェリスモ的、すなわち市井のドラマテックな物語性を強めて仕事を進め、1897年にミラノで初演。
フェデリコは24歳のカルーソだったそうな。
そして、その初演は大成功。
 チレーアはさらに、1912年、2幕と3幕の一部に手をいれたり、曲を追加したりしたほか、さらに1937年には、前奏曲も追加していて、このオペラへの愛着のほどが窺える。
以上、CDの解説書を参考にしましたが、これを読んでいて、なるほどと思った記述が、初期ヴェリスモオペラ作曲家が描いたのお決まりの最後。
ナイフによる殺傷のカタストロフ」~カヴァ・パリはまさにそのとおり。

やがて、よりスケール感を増した歴史物語や日常起こりうる物語も彼らのオペラとなり、血なまぐさい事件はなくとも、人情味や悲劇性も増して、ますますドラマが深くなったわけであります。

チレーアの音楽は、緻密で繊細、そして抒情的なイメージがあって、事実その通りだと思うけれど、「アルルの女」は、南フランスの奔放な女性に惚れこみ、翻弄される主人公を描いているだけに、なかなかに劇的でもあり、「フェデリコの嘆き」のイメージのような、物悲しい悲劇的な要素も併せ持ったオペラになっている。


Avignon

では、直情的おバカさんな男の物語を、名古屋弁で(笑)。


場所は南フランス、プロヴァンスのカステレ。


第1幕

 カステレの農場。農場の女主ローザの末息子(フェデリコのちょこっと足りない弟)に、老いた羊飼いバルダザーレが、狼の話などをどえらいおっかなく聞かせているところだがね。
 そけぇ、ローザがおいでて、「フェデリコに、ええ嫁はおらんかねぇ・・・」と語る。
バルダザーレは、「この村におるがなぁ、正直でええ娘がね。ほれ、女将さんも知っとるで。」
「でも、あのフェデリコのたわけときたら、アルルの女に夢中だで、どえりゃぁいかんわ」とおっかさん。
フェデリコの幼なじみ、ヴィヴェッタがやってきて、浮かない顔のおっかさんを心配するんだわ。
ローザは、「アルルに住んどる兄弟のマルコが、今日やってくるだでね、あれがアルルの女はやめとかんか、と言ってくれらええんだわぁ」と期待するんだわ。

 フェデリコがやってきて、「かあちゃん、アルルの女は最高だがね」とおのろけまくる。
「あの女にどこで会ったんか?」「この村だわ。ひと目、見ちょって好きになったわ。でゃぁじ(大事)な人だわ」
「あたしよりかい?」と母ちゃん。「何、たわけとるんじゃい、かあちゃん」
と陰で、「あたしよりもかね・・・」と悲しむヴィヴェッタなんだわ。可哀そうでしょ~。

そけぇ~、村一番の成功もん、マルコが帰ってござって、ようけおる村人から称賛を受ける。
マルコは、「アルルんもんに悪いヤツはおりゃせんでぇ~」と言いおって、ローザはがっかりなんだわ。

 「どえりゃぁニュースを聞いたで、おみゃぁの息子はアルルの女と結婚するんか?」とメティフィオという男がおっかさんの元に来てみえた。
「あのおなごは、でら卑劣な尻軽女だがや、はっはは」
「ウソだとさらすんなら、この手紙を見てちょう」とすごむメティフィオ。
その2通の手紙は、メティフィオとアルルの女の関係が、よ~けわかるものだったんだわ。
彼は、老羊飼いに手紙を預け、こんどいつみえるとの問いに、明日だがや、と答え出てゆく。

 フェデリコに、その手紙を見せる、羊飼いとおっかぁ。
「これを見さらせ、こんたわけが!」
「お~、なんて可哀そうな女なんだわさ・・・」と懲りないフェデリコなんだわ。


第2幕

 ローザと、ヴィヴェッタ。
「あんた、どんだけ、息子のこと見てんだがや」
「朝、日が昇る前からずっとだがや、おっかさん」
ローザは、ヴィヴェッタを愛おしく思って、「アルルの女よりずっと可愛いわぁ・・・」とアリアを一発歌い、フェデリコに告白してちょうだゃあ、と勇気づける。

 バルダザーレとフェデリコ。
フェデリコは、「おら、嫉妬に取りつかれたわ。だもんで、胸がちんちんで、どーにもならんのだわ」と打ち明ける。
老羊飼いは、「そりゃおみゃぁ、働くことだね」と、保健体育のようなことを言う。
「山はでらええで、わしと一緒に、来にゃーいかんで、山へ」とアリアを歌って悩める青年を誘うんだ。
「だで、おいら、あの女を忘れらんねぇんだゎぁーーー」

居眠りをこく、弟の傍らで、フェデリコがいよいよ歌うで、有名な「フェデリコの嘆き」を。
「あいらもこんな風にすべてを忘れてもうて、よ~け寝てみたい。幻よ、離れてちょーよ・・・」

そこへ音もなく、ヴィヴェッタがやってきて、生きのいい花を持ってくるんだわ。
アリアで彼を誘う。「あんた、覚えとらん?・・・」と、昔のことをはなし、まっぺんやり直そうと。。
フェデリコは、「もう、そりゃ過去のことだがや」と言って飛び出していってしまうん。
おっかさんが慌ててやってきて、ヴィヴェッタを慰めるんよ。
だでね、そこへ、戻ってきたフェデリコは、おっかさんの心情に動かされ、改心したんだわ。
ヴィヴェッタを思い切り抱きしめるんだ。。
まったくコロコロと忙しいやっちゃなぁ。


第3幕

 フェデリコとヴィヴェッタの矢継ぎ早やの婚礼。
羊飼いバルダザーレと若い娘たち。「まっ白なユリ」のちょこっと有名な合唱。
「幸せだなも」とヴィヴェッタ。
「そうだなも」とフェデリコ。「いままでは、おみゃあを愛しとりゃぁせんかった。だでね、いまは違うで、愛しとるわ」とベタベタの二重唱なんだわ。
 これを見ていた羊飼いバルダザーレは嬉しくてしょうがにゃぁ。

そこへ、メティフィオがみえる。
「あの若いのは、結婚すんだな、純な娘っ子と、そりゃええわ」
「わしは、もう二日と寝てねえんだわさ。でもこの嫉妬の嵐とはおさらばさ。アルルの女をひっ連れて出てゆくことにしたでね!」
 このやりとりに、気付いてしまったんだわ、新婚さんが。
「おっ、こいつは、おいらのライバルだがやぁーーー」むらむらとちんちんに激情するフェデリコ単細胞くん。
「やめてちょ~よ、フェデリコ、あっち行こう・・・」と必死にとどめるヴィヴェッタのことはもう眼中にはいりゃせんのだわ、フェデリコのすっとこどっこいは。
石斧をもって、襲いかかろうとするところ、すんでで逃げるメティフィオ。

宴の合唱が外ではこだまするけど、おっかさんローザは嘆きのアリアを歌うんだね。
「あたしぁ、もう死んでしみゃぁそうでいかんわ・・・・」
弟も怯えて、おっかぁに甘える。
フェデリコが放心したようにしてやってくる。「もう、あかんわ!」
「馬車の音がするで、ほかっとけねぇ。あれはアルルの女を連れてく音と叫び声に違ぇねぇーーーーー」

ヴィヴェッタも出てきて、もうやめてちょーよ、と引きとめるが、フェデリコは、階段を駆け上り扉を締めきってしまうんだわ。
ほんだもんで、追いかける女二人も、そこまでだわ。
フェデリコは、馬車を狂ったように追いかけようとして、バルコニーから飛び出してもうて、そっから落ちてあえなく死んでもうたんだわ、これが。
 女ふたりの「Ah!」の声には、聴いとって、ちょこっとびっくりしたなぁ、もう。
ショックで崩れ落ちるおっかぁの元には、可愛い弟の姿も・・・・。


なんだかなぁ・・・・。
バカらしいといえばバカらしい。
名古屋の方えらいすんません。
愛着ある言葉だもんで。

このオペラ、1時間40分くらいの適度な短さ。
音楽は傑作「アドリアーナ」ほどの精度はなく、激情に走り過ぎているかも。
でも、「フェデリコの嘆き」はやはり名アリア。
オペラのそこかしこに、この旋律が出てくるし、飛び降り後、オーケストラが悲劇の幕引きを奏でるのも、このアリアの旋律。
 カヴァレリア・ルスティカーナとカルメンを足して割ったようなオペラですな。

 フェデリコ:ジュセッペ・ジパッリ ローザ(その母):マリアンネ・コルネッティ

 ヴィヴェッタ(幼馴染):アンジェラ・マリア・ブラーシ
 バルダザーレ(羊飼い):アンブロージオ・マエストッリ
 メティフィオ:ミカエル・チィオルディ マルコ:エンリコ・ロルディ
 フェデリコの弟:ガェーレ・ル・ロイ

   フリーデマン・レイヤー指揮 モンペリエ国立管弦楽団
                    モンペリエ国立歌劇場合唱団
                     (2005.1@モンペリエ)


ヴィヴェッタを歌うブラーシ以外は知らない名前ばかり。
そのブラーシと、母コルネッティがなかなかに聴かせる女声二人組。
ジバッリは、アルバニア出身の若いテノールで、どこか陰りある声が、フェデリコには合っているけれど、少し呑気な表現すぎかな・・。
フランスの地中海に面する、まさに本場のモンペリエ劇場のライブだけに、聴衆の拍手も幕を追うごとに熱くなってくるラテン系のノリの演奏。
レイヤーはスワロフスキーに学んだ、ウィーン生まれの指揮者で、R・シュトラウスの録音があったが、このライブの時期、モンペリエの音楽監督をしていた模様。

EMIにも録音があったはずだが、このオペラのいま手に入る唯一の本盤。
貴重かも。
次のチレーアは、「ジーナ」に挑戦します。

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2010年6月17日 (木)

ラヴェル 左手のためのピアノ協奏曲 ベロフ&アバド

Sarada
今日は暑かったですな。
さっぱりと、キャベツでサラダをこさえてみましたよ。
ネットで見ておいしそうだったので。

①キャベツの千切りに、オリーブオイルを振りかけ、まぜまぜします。
②よ~く、混ぜたら塩とブラックペッパーをふりかけ、まぜまぜ。
③マヨネーズをほんのちょっと入れて、まぜまぜ。
④お好みで、トマトやキュウリを。

簡単です。そしてうまいうまい。

Ravel_concerto_abbado
今日はラヴェルです。
そしてこちらもフランス音楽。
左手のためのピアノ協奏曲
ラヴェルには、ヴァイオリン協奏曲はなくって、ピアノ協奏曲はふたつ。
いかにもラヴェルらしいです。
両手の作品と、左手の作品。

左手のピアノ協奏曲って珍しいけれど、ラヴェル以外では、コルンゴルトやプロコフィエフが思い浮かぶ。
不幸にして片腕しか使えなくなったピアニストのために書かれた作品なわけで、そうしたピアニストを想定して書いた、または今後書かれる作品もあると思う。
努力の人、舘野泉さんの存在がまさにそう。
数年前、ノルトグレンが氏のために書いたピアノ協奏曲を聴いたが、それはそれは、まったく見事なもので、5本の指だけで、なんでこんなにすごいことができるんだろう、と驚嘆と感動を味わったものだ。

ラヴェルの作品も、大戦で右手を失ってしまったオーストリアのピアニスト、パウル・ヴィットゲンシュタインの依頼によって書かれた。
両手のためのト長調の作品と、ほぞ同時期のもので、ジャズっぽいフィーリングもふんだんに感じ取れ、かつラヴェルらしいセンスあふれる羽毛のようなサウンドも聴かれる。
 聴いていて、左手の5本の指のみから、どうしてこんなに色彩豊かな、それでいて精緻でデリケートな響きを出せるのだろうか、と心底思ってしまう。
 関係ないけど、この曲の最後は、スターウォーズの映画の最後のタイトルに流れる音楽に似ている・・・・。

ラヴェルの全集をロンドン交響楽団と録音したアバドは、協奏曲も取り上げ、ト長調はアルゲリッチと2度目のコンビ。
左手の方は、アルゲリッチのアドバイスを受け、当時右手を故障してたミシェル・ベロフと初共演を行った。
繊細透明なベロフのピアノが実に素晴らしい。
その背景をアバドとロンドン響がしなやかかつ、軽やかな演奏で支えている。

87年の録音で、唯一の不満はややデットな録音状態。
データを見たら、アビーロード・スタジオとある。
EMIの専属のベロフだったからなのか、他の収録曲は、いずれもDGが普段使いなれた場所になっていて、そちらの録音はとてもいい音なんだけど。
悪い音ではないけど、潤い不足でちょっと残念。

そう、前にも書いたかもしれないけど、事故で両手を失ってしまったピアニストの映画を昔見たことがある。
その彼は、両手をほかの人から移植してもらうんだけど、それは死刑執行される殺人犯のものだった・・・・。
で、そのピアニスト氏は、ピアノを弾けるようになるが、思わずナイフを手にして夜な夜な街に出没するというB級ホラーだったけど、何だか宿命めいた、ちょっと悲しい映画だったなぁ。
脳が手に命令を下すわけだから、手先が誰のものであろうと関係ないとは思うのだけど、
やはり手先は大事よね。
なにいってるかわからなくなってしまったので、終了。

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2010年6月15日 (火)

フォーレ ピアノ四重奏曲第1番 ユボー

Ajisai_sumidahanabi
ガクアジサイ、「墨田の花火」という粋な名前がついてます。
気がついたらそこらじゅう、紫陽花が満開になってる。
そして、鬱陶しい梅雨に色どりを与えてくれる。

Faure_deux_quatuors
意外に思われるかもしれませんが、レクイエム以外のフォーレの音楽に目覚め、音盤を鬼集したことがあります。
フランスに初めて行って、おフランスの香りを嗅いでしまってからであります。
もう20年以上も前のことにございます。
ヨーロッパは地続きだけど、川や国境を超えると国柄も人柄も全然ちがう。
そんなことを思い知ったのは、ドイツからフランスにひとっ飛びしたときだ。
なにもかも違う。驚いたね。
さらに後年、英国と仏国を交互に訪れたときもそう。

いろんなフランス系作曲家の作品を集めたけれど、いちばんしっくりきたのが、フォーレでありました。
浮ついたところがなく、でも適度にフランス的な官能と情熱が溢れている。
でも宗教的なストイックなところもあったりで、なかなかに多面的な作曲家でもあるんだ。
 日曜の夕方、室内楽作品や歌曲、ピアノ曲などを聴きつつ、葡萄酒などを傾けたりするのが最高の楽しみだった。
いまは、そんな呑気なことしてらんないけど、今度は休日の朝早く起きて、熱いお茶をすすりながら、フォーレを聴くのが好きだったりします。

フォーレの室内楽曲は全部で10曲あって、そのなかでも一番有名で、メロディアスで聴きやすいのが、ピアノ四重奏曲第1番ハ短調。
作品番号は15で、フォーレ34歳の比較的初期作品で、4つのそれぞれ明確な楽想を持つわかりやすい構成となっている中にも、豊富な溢れ出るメロディが耳に心地よく、4つの楽器の対比も明快。

なかでも夢幻的で陶然となってしまう第3楽章のアダージョが素晴らしくて、ここが大好き。
ロマンの極みであります。
その極みといえば、第1楽章。一度聴いたら忘れらない熱っぽい素晴らしい旋律で開始され、次の主題は、うって変わって愛らしい。この二つの旋律が絡みあうさまが素敵すぎ。
スケルツォは、コロコロと転がるおフランス調。
終楽章は、ロンド形式でとらえどころがないが、フォーレ独特のリズムの刻みが心地よい酩酊感を生む・・・。

平日の夜だけど、久しぶりのフォーレのこの作品。
3回も聴いてしまった。
テレビでは、NHKで「ミス・ポター」をやっていて、美しい英国の湖水地方に見入りながら、フォーレを聴くという、なんともアンバランスなことになってしまったけれど、曲は止められず、これはこれで何だかマッチしてたような、してなかったような・・・・。

 ピアノ:ジャン・ユボー    ヴァイオリン:レイモン・ガロワ=モンブラン
 ヴィオラ:コレット・ルキアン チェロ:アンドレ・ナヴァラ
                          (1969.5月)

このメンバーで、フォーレ室内楽を全部そろえてしまった。
まったくもって芳香にあふれた、素晴らしい演奏であります。
これを機に、フォーレ作品もシリーズ化しよっと。

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2010年6月13日 (日)

マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」 若杉 弘 指揮

Azumayama1
この週末は、神奈川方面へ帰還。
記事は予約投稿にてすませてます。
さすがに、無名作曲家の記事は、みなさん食いつきません(笑)

暑かった関東の週末。
朝早めに、登頂したいつもの吾妻山。
家を出てから、20分くらいで、山頂の小さな山。
サツキがきれいな今時分。この先に富士があるのに暑いと見えません。

Wakasugi
テレビのN響アワーで、若杉さんの、マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」をやってりまして、1時間の放送時間にムリムリおさめるNHKの常套手段のひとつとして、無残なカットを施されまして、まったくライブラリー的な想いを満たされないまま、見始め、やがて観入り、聴きいってしまった。

1992年のN響定期。
このころ、年1回登場して、シリーズ的・独創的なプログラムを組んでいた若杉さん。
第8シリーズ、第9シリーズだったと記憶します。
都響とのチクルスの演奏会の翌年のN響定期。
この長大な曲を愛する若杉さんの的確かつ、隅々まで知りぬいた完璧な指揮姿にいまさらながら、感心をしてしまうわけだった。

オペラや声楽大曲を、破たんなく全体の見通し豊かに巧みに聴かせる若杉さん。
わかりやすい几帳面な指揮ぶりと、オケや合唱を見渡す眼力。

ビデオに全曲録画してあるはず。18年前の画像とはいえ、結構鮮明。

それと、変わらないのは、佐藤しのぶさんの、あたしよーーーっといわんばかりの存在感と、ちょいと派手目の存在感。
それに比べると、松本美和子さんの清楚な歌がよけい地味に感じる・・・。
伊原直子さんのメゾ、木村俊光さんのバリトンは、日本を代表する歌唱。ワーグナーやマーラーになくてはならない人だった。

それと思うのは、皆さんの髪型や顔つき、そして大きなレンズの眼鏡。
いかにも90年代前半のもの。
この頃の自分の写真もそうだもの。

それにしても、すんばらしい曲だねぇ。
オペラを書かなかったオペラ指揮者マーラーの、一番オペラしてる交響曲。
こんな膨大で野放図な交響曲が、実は繊細で美しい曲なのであって、そんなことにも気付かせてくれる若杉さんの指揮。
 この大曲が、身近に、始終聴かれるようになるなんて、かつて誰が予想したろう。
「私の時代は、いつか必ず来る」といったマーラー。

若杉弘&東京都交響楽団のCD

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2010年6月12日 (土)

アイアランド 「These things shall be」 ヒコックス指揮

Ube_5
海に沈まんとする夕陽。
海に囲まれた日本だけど、季節にもよるけど、海に朝日が見られる場所と、夕陽が見られる場所とそれぞれ。
私の育った相模湾も東よりは夕陽が見れるけど、私の街は海から太陽が昇る。
子供の頃は見てたけど、いまや不可能。
酔っていてたいてい起きれませんゆえにね。

こちらは、瀬戸内海。山口は宇部から防府にかけての海岸線。
波もなく静かですな。

Ireland_greater_love_hath_no_man_hi
ジョン・アイアランド(1879~1962)は、マンチェスター生まれの英国の作曲家。
「さまよえるクラヲタ人」は、アイアランドの記事はまだ少ないが、CDはいつのまにかたくさん集めてしまった。
正直、記事にしにくいのであります。
交響曲とオペラ以外にまんべんなくその作品を残したアイアランド。
でも大作がなく、小品や中規模作品に特化していて、大作好きの私からすると、これ一曲に絞り込めないうらみがあったのだ。

 でも思えば、すてきな作品ばかりで、ピアノ協奏曲やピアノの小品集、歌曲、ヴァイオリンソナタなどなど、一度はまったら病みつきになる曲ばかり。
その魅力は、アイアランドが愛したケルトのファンタジーを漂わせた、いわばバックス風のミステリアスな雰囲気と、英国風の田園的な抒情と国教風の厳格さ。
これらの融合でありましょうか。
今回取り上げた、亡きヒコックスの残したアイアランド・シリーズの一環の1枚は、声楽作品と管弦楽作品を取り上げた、いかにもシャンドス=ヒコックスらしいCDで、アイアランドの魅力をほぼ万全に味わえることができるんだ。

 1.Vexilla Regis (王の御旗)
 2.Greater Love Hath No Man (至上の愛)
 3.These Things Shall Be (これらはきっと)
 4.A London Overture (ロンドン序曲)
 5.The Holy Boy (聖なる少年)
 6.Epic March (エピック・マーチ)


    S:パウラ・ボット        Ms:テレサ・ショウ
    T:ジェイムス・オックスリー  Br:ブリン・ターフェル
          Org:ロデリック・エルムス

  リチャード・ヒコックス指揮 ロンドン交響楽団/合唱団
                         (1990.4 @ロンドン)

Vexilla Regisは、アイアランドがスタンフォードの元で学んでいた19歳の時の作品。
オルガンにトランペット・トロンボーンを伴う合唱曲で、原典は6世紀の聖歌で、受難週の日曜用の讃歌で厳かかつ壮麗な作品に、背筋も伸びます。

至上の愛は、こちらも教会音楽でモテットである。
33歳の作品を、のちにオーケストレーションしたもので、聖書の聖句を自身選びだし、つなぎ合わせた桂品。祈りに満ちつつ、アイアランド特有の抒情が光ります。

These Things Shall Beは、このCDの中では一番の大曲で壮大な高揚感とともに、ひたひたと滲み出る感動に包まれること請け合い。
1937年、ジョージ6世の名を冠した合唱祭用に、BBCから作曲以来があったのは年初。コンサートは5月。A・シモンズの詩に付けた英国讃歌。
でも速筆でなかったアイアランドは、間に合わず、オーケストレーションの一部を生徒のアラン・ブッシュに頼み、完成させ、ボールトの指揮により初演された。
 この時代の作曲家のご多分にもれず、第一次大戦の影も引きずり、解説によれば、その祖国愛は、ルパート・ブルックスの「The Soldier」にも例えられるとされる。
特徴的で一度聴いたら忘れられないオーケストラのリズムにのって高揚した合唱が繰り広げられる前半。
そのリズムをいろいろ変化させつつも、味わい深いオーケストラによる中間部。
やがて、後半に入り、大らかでかつ感動的な旋律が弦のユニゾンで現れる。
この旋律はほんと素晴らしくて、ついにバリトンによる熱い歌となって登場し、合唱に広がって、何度も繰り返され徐々に壮麗さを増してゆく。
しかし、最後はそれも徐々に静まり、オーケストラの精妙な背景を経て、もう一度クレッシェンドし、合唱が強く歌う「These things-they are no dream-shall be・・・・」
ここにいたり鳥肌立ち涙ちょちょぎれる思いだが、それもまた静まり、徐々に去りゆくようにフェイドアウトしつつ音楽は消えゆく。
これはあまりに感動的な音楽であると同時に、ちょっぴり悲しい思いも味わうのであります。

一転、ロンドン序曲は、明るく楽しい色調。1936年の作。
もとの曲は「コメディ序曲」というブラスのための作品で、ボールトの勧めでフルオーケストラ作品として生まれ変わった名作。
「コケイン」と同じようにロンドンの街の光と影を描いていて、明るく楽しい場面もよいが、中間部にオーボエで出てくる憂いを帯びた旋律は泣かせるし、次にホルンとストリングスで静かに歌われる旋律もやたらに素晴らしい。
そんな素敵な中間部をもったこの序曲は、コンサートピースとしても最適。

聖なる少年。本来はピアノソロ用に書かれたクリスマスキャロルのワンピース。
第一次大戦後、ヴァイオリンとチェロ、ピアノ用に編曲し、さらには第二次大戦後には合唱作品にも仕立てた。
嬰児誕生を静かに祝うパストラーレ的な静かなる桂曲であります。
ここでは弦楽合奏によって心をこめて演奏されております。

最後は、エピック・マーチ
痛快な行進曲。ここでもボールトが登場し、行進曲作曲を勧めたことにより1942年に誕生。
 エルガーの「威風堂々」のテイストを持った心のすくような行進曲で、中間部はさきの「These things shall be」の感動的な旋律が奏でられ、曲の最後のクライマックスにもオルガンも鳴り渡り盛大に響きわたる。

「These things shall be」を中心に据え、合唱と管弦楽作品でたくみなプログラムを組んだ、ヒコックスならでは1枚は、ほんとうに聴きごたえがあり、これまで何度聴いたことかわからない、大好きなCDなのだ。
オケと合唱もべらぼうにうまくて、ターフェルのビンビンの声も圧巻

BBCの音楽責任者を務めていた、ボールトがあってこそ生まれた作品も多々あり、英国音楽はこうした名匠たちによって豊かに育まれてきたのを痛感する。

Ube_7
しばらく立ちつくし、夕陽もすっかり沈んでしまった。

壮麗な夕日と音楽。
好きです

 

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2010年6月11日 (金)

マクダウェル ピアノ協奏曲 アマート 

Asahikawa_tokiwa
旭川の市民の憩いの場、常磐公園。
出張時、ホテルで朝からおいしい食事をとってしまったあと、腹ごなしに散策。
ちょうどほころび始めた桜がピンク色になりつつあるころ。
 春はこれからといった、ちょっと寒い雰囲気だけど、今頃は一気に初夏に向けて駆け抜けるような雰囲気になっていることでありましょう。
北国の春と夏は境が希薄で、ある意味うらやましい。
でも冬&雪の厳しさは大変です。

Macdowell_piano_concert
エドゥワルド・アレクサンダー・マクダウェル(1860~1908)。
ご覧の生没年のとおり、早世組の世紀末作曲家。
両親がアイルランドとスコットランド系のアメリカの作曲家であります。

でもですね、われわれがイメージする後期ロマン派・世紀末音楽とは無縁の、ロマン派どっぷり一直線の作曲家。
しかし、もう少し長生きしていれば、アメリカの風土に根差し、かつ映画音楽なども意識した、そう、コルンゴルトのようなアメリカ輸入発信の作曲家になっていたかもしれない。

そう思うのは、マクダウェルはヨーロッパ、それもフランスとドイツで学んだ本流であり、ラフの弟子となり、リストと交流をもったことで、ピアノ音楽を極め、当時のヨーロッパの本格的な流れに身を置くことができたゆえに、帰国後も完全なロマン派作曲家として生きたから。
 でも、アメリカ先住の民謡などを研究したりしたみたいだから、そんなミキシングが、後年どんな結果を生んだかは、想像するだに楽しいものがある。

ピアノ音楽の多いマクダウェルの作品の中でも、もっとも充実しているのが、ふたつのピアノ協奏曲。
どちらも初期の作品ゆえ、ロマン派臭満載であります。

1番イ短調は、22歳の作品。
北欧の民族的な雰囲気を感じさせる点で、これはまさにグリーグ。
でも、一方でかっちりした構成とドイツ風な生真面目さを感じさせる点で、英国のスタンフォードみたいにも聴こえる場面もあり。
マイナー曲の宿命で、○○に聴こえる、と言われ、例えられてしまうのが申し訳ないけれど、これはこれで、2楽章など、あらたなグリーグ作品の登場とも思わせ、うっとりとさせてくれます。
それでもって、弾みはじける3楽章は、一度聴いたら忘れられないんですよ。
いい曲だわ。

2番ニ短調。こちらも短調がメインの作品。
マクダウェル28歳。
さらにロマンテック、そして歌謡風になりメロディアス。
1楽章は、私には、イタリアのヴェリスモ作曲家のような抒情と激情の交差する音楽に聴こえた。さらに新世界の4楽章の旋律にも似てるし。
 どうしても比較の聴き方になってしまいますが、マクダウェルの曲は亜流じゃなくて、後ろ向きロマンティズムがたまらなくいいんです。
この曲は3楽章形式ながら、ちょっと変わっていて、1楽章は緩→急、2楽章はプレストの急、3楽章が緩→急。
 それで、2楽章のスケルツォみたいな楽章が、これは例えるならばサン=サーンス。
軽やかで、洒落た雰囲気。
3楽章は、まるで交響曲の終楽章。
冒頭の新世界みたいな主題が回帰し、それを中心にしてかなりあっけらかんとした展開と終結を迎える。
シンフォニックな2番です。

ピアノを弾く、アメリカのドナ・アマートも、ロンドン・フィルを指揮する同郷のフリーマンも、名は高名ではないが、快活でのびのびした演奏に徹してます。
これでいいのではないでしょうか。

歌曲に有名な作品があるらしいマクダウェル。
覚えておいて損はない、ヨーロピアンなアメリカン。
ちなみに、その死が不幸でして、馬車にはねられてしまって不随になってしまったことからといいいます・・・・。

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2010年6月10日 (木)

シューマン 「献呈」 シュヴァルツコップ

Musukari_1
4月ごろの花ですが、「ムスカリ」。
たくさん植えて、青紫の絨毯みたいにしてみたらとても美しいだろうな。
ぶどうみたいで、愛らしい花ですな。
男子からすると、青系の花は好きですぞ。
それに、どこかヨーロピアンな感じだし。

今日もシューマン聴いちゃいます。
それも短めで。

「献呈」は、誰もが知ってるシューマンの歌曲のひとつですね。
いうまでもなく、クララとの結婚の年、1840年に花嫁に捧げられた「ミルテの花」の第1曲であります。

ミルテは、婚礼の花飾りに伝統的に使われる花のことで、ドイツ名。
ギンバイカ(銀梅花)というらしいです。
こうしちゃうと、なんだか味もそっけもない名前ですよ。
ちょうど今頃、白い花を咲かせるようですから、まさにジューンブライドでございましょう。
Myrte

26曲ある歌曲集の、第1曲は、まさに恋人への讃歌でありまして、こっ恥ずかしくなるくらいに、言葉の限りで讃えております。
R・シュトラウスにも、同名の歌曲がありますが、これはまた別の詩人によるもの。
そちらも、なかなかに情熱的な内容です。

Schwarzkopf_1
でもなんといっても素晴らしいのがシューマンのこの「献呈」。
歌詞に何回、親愛の情で相手を呼ぶduが入ることでしょう。
シューマンの思いのたけが、この短い曲の中にたっぷり詰まっていて、男子たるワタクシからすると、ロベルトさん、何もそこまで、という気になりますが、ともかくロマンの芳香あふれる名曲でございます。
かつて、わたしも、FDのレコードに合わせて、バリトンで歌ってみたけど、全然ダメでした。

きょうは、シュヴァルツコップの語り口のうまい、濃密な歌唱で。
ちょっと言葉への思い入れが強く、表情が濃すぎると思っても、それは歌姫シュヴァツツコップ。抜群の説得力です。
ムーアの伴奏も、さすがのものです。
名曲・名唱です。
このCDは、全部で4枚ある、彼女のソング・ブック。
モーツァルトから、ダニーボーイまで、世界の名歌がたっぷり収められてますよ。

Schumann_fdeschen
ミルテの花は、フィッシャー=ディースカウのレコードでずっと聴いていた。
そう、エッシェンバッハとの歌曲全集の第1弾。
陰りがあって、敏感なエッシェンバッハの鮮烈なピアノに、一語一語を大事に旨さのかぎりのFD。シュヴァルツコップと同質性があります。
彼らの歌曲全集、買っちゃおうかな!

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2010年6月 9日 (水)

シューマン 「ばらの巡礼」 クーン指揮 ②

Yamashita_rose_1
今が盛りの「ばら」。
いろんな色や種類があるもんです。

そして、「ばら」にちなんだ音楽はというと、私なら、真っ先に浮かぶのは、シュトラウスの「ばらの騎士」。オペラの中でも、最上位に好きな作品。
 そして、誰もが知ってるシューベルトの歌曲。
ヨハンの方のシュトラウスのワルツ「南国のばら」(これも大好き)
パーセルやドビュッシーの歌曲もあります。

酒とバラの日々・・・、一方でなにか退廃の匂いがするバラでもあります。

で、これは知らなかった、シューマン「ばらの巡礼」という作品を聴きます。

Schumann_der_rose_pilgerfahrt
1850年に、ドレスデンからデュッセルドルフに移住したシューマン一家。
ここでは、熱心なアマチュア合唱団と優秀なオーケストラを手にして、ライン交響曲やチェロ協奏曲も生まれたし、合唱曲もいくつか作曲された。
その中のひとつが、このオラトリオ「ばらの巡礼」。
 ロベルトとクララは、30人くらいの歌の会のようなグループから、ソワレ(夜会)の音楽ということで、歌曲集やオペラ風の作品の依頼を受けていて、書かれたのがこちら。

同時代の作家モーリッツ・ホルンの童話が原作。
1851年、独唱と合唱、ピアノのためのカンタータとして、クララのピアノで演奏された。
そして、翌52年に、自身でオーケストレーションを施し、管弦楽つきのオラトリオとして生まれ変わり、リストやヨアヒムといった著名人臨席のもと、オーケストラ版も初演されている。

国内盤がなく、私のクーン指揮によるシャンドス盤も海外盤だし、しかも英訳すらない。
でも、すごいもんですね、先達の方々は。
対訳がいくつもありました。
こちらを参照しながらの鑑賞は、作品理解にはなはだ有益なものがございました。

概要は、なかなかにロマンテッィクなものです。

春真っ盛りの5月、乙女たちが野辺で楽しく歌う。
バラの妖精は、乙女たちが愛について歌うと、それをうらやんで嘆く。
彼女は妖精の女王に願い出て、乙女となって地上に舞い降りることを願い出て、女王は、一輪のばらを手にゆくことを許す。このバラを手放すと、命がなくなると。
 地上に降り立ったバラは、乙女としてさすらい、孤児なので身を寄せさせて欲しいと、とある家を訪問するが、にべもなく断られる。
バラの乙女の苦難の始まりである。
 やがて、バラは、みすぼらしい小屋と墓掘り人夫を見つけ、恋に破れ死んでいった娘の話を聞き、弔いの列に同情の涙を流す。
旅を続けようとするバラを引きとめ、一夜の宿を提供した墓掘りの老人。
朝になり、感謝とともに出立しようとするバラをさらに引きとめ、優しい両親を紹介しようと、水車小屋へ連れてゆく墓掘り。
そこは、先に亡くなった娘の家。悲しみに暮れる両親は、娘そっくりのバラを娘として迎え、バラも歓喜とともにそこで暮らすようになる。
 やがて、バラの乙女は、森の番人の息子と恋に落ち、村人たちの祝福も得て結婚。
1年後、バラの乙女は、可愛い赤ちゃんに恵まれる。
そして、その赤ん坊の胸に、片時も手放さなかった一輪のバラを涙とともに置く・・・・。
感謝とともに、光に満ちた死をえらんだバラ。
天使の歌にともなわれ、高みへと昇ってゆく・・・・。


どうでしょうか、この素敵な物語。
ドイツ・ロマンティシズムの極みでございましょう。
ちょっと風刺も効いてるし、ほろ苦い結末もまた涙さそう悲しさ。

ここのつけられたシューマンの音楽は、なんでこんな素敵な曲が見捨てられているのかと思ってしまうくらいに、素晴らしい。
最初聴いたときは、正直退屈で眠くなりました。
でも、今日まで何度聴いたことでございましょう。
聴くほどに、味わいを増し、今や耳にその旋律や歌声が鳴るようになりました。
歌詞の理解は必須なれど、一度通してしまえば、あんまりこだわらずに、音楽だけを聴けばよい。

春の訪れに、のどかだけれど、ハミングしたくなるようなウキウキの冒頭。
バスが歌う墓掘りの老人、ソプラノのバラとの味わい深いやり取りは、まるでオペラのワンシーンのよう。
妖精の合唱は、まるで、メンデルスゾーンの真夏の夜の夢のよう。
森で歌う男声合唱は、勇壮なホルンを伴い、こちらはウェーバーですよ。
それから、愛の喜びを歌う神妙な合唱は、のちのブラームスを思わせる。
明るく楽しい水車小屋を賛美するソプラノとアルトの二重唱は、愛らしく、これぞシューマンのスケルツォ的な世界で、この曲集の中で妙に気にいったりしてる場面。
爆発的な歓喜に湧く婚礼の場面。オーケストラがいかにもシューマンだし、少しぎくしゃくした舞曲風な節回しがとてもいい。
それと対比するかのような、しんみりした、バラの乙女の生への別れの場面。
オペラ好きからすると、ここでお涙ちょうだいの大見得を切るところなんだけど、そこはシューマンらしく、少しクールに、でもとっても優しい眼差しを感じる音楽で、福音史家のようなテノールが悲しく物語を完結させる。
そのあとの、楚々とした天使の合唱のエンディングも心にしみます・・・・。

 バラ:インガ・ニールセン  テノール:デオン・ファン・デル・ヴァルト
 妖精の女王ほか:アンネマリー・モラー 墓掘り:クリスチャン・クリスチャンセン
   ほか

    グスタフ・クーン指揮 デンマーク国立放送交響楽団
                    〃        合唱団
                          (93.11@コペンハーゲン)


どういう事情で、コペンハーゲンなのかわからないけれど、この演奏はとても充実している。
クーンのシューマンのツボを押さえた抑制された表現は、つつましくも自然にシューマン・ワールドを表現している。
ニールセンのチャーミングなバラちゃんがいい。
あと、進行役のような語り手テノール、ファン・デル・ヴァルトは、とてもリリカルで伸びのよい声で印象深い。彼は、たしか銃で自殺してしまったはずだ。
貴重なテノールだったのに・・・。

というわけで、2日がかりで、記事完成。
シューマン200を祝う「ばらの巡礼」でございました。

Yellow_rose 
バラの乙女は、きっとこんな感じのバラちゃん

Bbar_6
そして、またまた、昨夜のドイツ・ビールの登場。

「酒とバラの日々」でございますよ

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シューマン 「ばらの巡礼」 ①

Bbar_5

今年、2010年6月8日は、シューマン生誕200年の日でした。
シューマン愛の、はるりんさんのおかげをもちまして、その200年を記念して飲むことが出来ましたし、シューマンの積極的な聴き手ではなかったワタクシも、今年は記事には結びつかないものの、シューマンは結構聴いてます、そして、あと半年も聴くことになるでしょう。
はるりんさんは、ご自身プロデュースされ、シューマンのピアノ曲ばかりを、自身もピアノを弾きつつ、シューマン好きの皆さんを募って、6月8日の午前に、シューマン演奏会とランチパーティを実施されたのであります。

Bbar_1
で、乾杯。
夜の部は、クラヲタ会のメンツが引き受けましたぞ。

ドイツビールで、Ein Toast

シューマン祭、夜の部は、六本木の「バーンズ・バー」。
こちらも、はるりんさんのご紹介。

東京で、ドイツが味わえる本物ビア・バー。

なんといっていいのでしょうか。
ビールがこんなにウマイなんて~。
ビールにツマミがいらないくらいに、一本立ちしていて、「とりあえず・・・、」なんて言ってらんない、完璧なる存在だったんです。

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一杯目の「ワァイエンシュテファーナ」!
これが、結局一番うまくて、麦酒好き、いや日本酒が好きな方なら、ぜったいハマることうけあいの、高密度・高感度のビール。
 シューマンも、そして、わたしたちが、敬愛するドイツの作曲家や演奏家たちも、こうしたビールを飲んでいたんだろうな~。

極東、日本の首都で、ドイツ本国の味がそのまま味わえるんだから、200年前も、まったく、昨日のことのように感じられてしまいますよ。

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ジャガイモのニョッキみたいなものを付け合わせに、チーズのソースが絡んだシュニッツェル。これがまた、いかにも無骨かつ優しいドイツのお味。
 で、ホワイトアスパラに、ジャガイモ、ソーセージ。
なはは、シューマン万歳ざんすよう。

ビールを大で、都合4杯。
普通はなんのことはない杯数だけど、度数が高く味わいも深いので、結構酔います~。

シューマンさまは、歌ものが結局イイと、いうことにもなり、酔いも心地よく、美味しい料理にもお腹いっぱい。

このお店は、音楽好きなら是非とも押さえていただきたい店。
店主は、まさにドイツの方。
女性も美しいドイツの美人女の子。
 こんな場面になると、ドイツ語のひとつも言えなくなる自分が情けないのだきえれど、ロベルロト・シューマン200を語るに、こんな相応しい雰囲気にお店はほかにありませんね。

はるりんさん、お疲れさまでした。
そして、お世話になりました。
男子(オヤジ)少なめで、申し訳ありませんでした~。

ありゃ、本日は、曲のことがなにも書けませんだ。
シューマンの声楽作品の中でも、ファンタジーに富んだ「ばらの巡礼」。
次の記事にいたしましょう。
眠いし、また自室で飲んじゃってますので、へろへろですし・・・・。

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2010年6月 7日 (月)

オルフ 「カルミナ・ブラーナ」 神奈川県民ホール開館35周年記念 

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陽光あふれる、山下公園のばら園。

今日、日曜日は、開港記念バザールや、Y151(?)のイヴェントで、湾岸地区は大賑わい。
県民ホールでのコンサートは、関内から歩くことにしてるので、余裕をもったつもりでも、今日の山下公園方面へのルートは、人で一杯!!。
休日コンサートは、家族への負い目もあったりして、ギリギリの行動なので、よけいにひっ迫した動きをしなくてはならず、並みいる方々を押し分けつつ、ゴメンなさいよ、と思いつつ、突進。
それでも、ちゃんと想定内に到着し、公園内を散策するゆとりも。

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今日は、山下公園でもイヴェントたくさんで、ボート競技もやってたし、これは任意かもしれませぬが、怪しげなセーラー・コスプレ軍団もいましてね、彼ら、彼女らがヴァイオリン持ってたんですよ。
いったい、なんだったんでざましょ。

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そんな賑やかなヨコハマベイにある、神奈川県民ホールでは、ホール開館35周年/神奈川国際芸術フェスティバルの、素敵なコンサートが行われたのでございます。

日本晴れの初夏の日曜日。
気温は26℃。
ともかく、ちょっと汗ばみつつも、2週連続、気分良く35年目のホールに到着。

   団 伊玖磨      素戔鳴ファンファーレ

   ショスタコーヴィチ 祝典序曲

   ストラヴィンスキー 組曲「プルチネルラ」

   オルフ        世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」

       S:幸田 浩子    T:高橋 淳
       Br:堀内 康雄

      現田 茂夫 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                   神奈川県民ホール特別合唱団
                                       小田原少年少女合唱隊
                  合唱監督:近藤政伸
                  合唱指導:岩本 達明、桑原 妙子
                  練習ピアニスト:平川 寿乃、藤井 美紀
                    (2010.6.6 @神奈川県民ホール)

 

当日気がついた団伊久麿のオペラのファンファーレ。ずらり勢揃いの圧巻ブラス。数えましたよ、トランペット12、ホルン8、トロンボーン4、テューバ2の偶数。
若い人たちだし、華やかなもんです。
でもって、次のショスタコに向けて、オーケストラメンバーが出てきてからも、26名さまは、そのまま。
ははぁ~ん、やる気だな。中身の薄めな曲も、こんなことされたら、面白くて、しょうがないじゃないか
それよりも、先週、音像が遠く感じたホールとは思えないくらい、音がよく響き、耳にびんびん届いてくる。
先週は1階中央、今回は2階左の一番壁より。
上には、3階部分が被さってる。
不思議なホールであります。

ホールのことは置いといても、ショスタコの第一声から明るめで、きらめくような神奈川フィルらしい音色が響いたのですよ。
一週間前の、金さんマーラーの時は、こじんまりしたなかにも、清々しい響きを聴かせてくれたのに、今回は、曲目や編成のことは棚にあげても、豪奢で輝かしい音がする。
 台の上の指揮者によっての違い、面白いもの。

マーラーは、作曲家の術中に見事ハマってしまい心に感動を落としこんでくるような音楽だけど、今宵の曲目、まさにオルフなどは、五感をそれぞれに刺激されてしまうような、気持ちのいい感覚の音楽だったわけで、現田さんのもっとも得意とする分野ではないかと。

さて、プルチネルラは、5人の弦の主席がソリストのように、舞台前面に出ての演奏。
なるほど、こんな風に書かれていたんだと納得。
2年前のシュナイトさんの濃密な凄演を聴いてしまっているだけに、比較のしようがないのであるが、すっきりといかにも新古典風のさわやかなストラヴィンスキーでありました。
欲を言えば、もう少し編成を刈り込んで、軽やかに演奏して欲しかった気もしますけど。

メインのカルミナ・ブラーナは、合唱350名がステージにギッチギチ乗って、見るからにゴージャス。
展開された、この日のカルミナは、華麗で色彩があふれ、リズムも抜群。
単純なだけに、思わず指が、体が動いてしまう。
まわりの合唱団のお友達関係とおぼしきご婦人がたも、ゆらゆらしてましたよ
中世の俗的な原色感や、湧き出す生命のエネルギーというようなものとはちょっと縁遠い、ビューティフルな肯定的な中世観といったところ。
ともかく楽しい、賑やか、派手。
まったくもって気分がよろしくなるカルミナだ。
実演だと、打楽器や音板楽器、2台のピアノやチェレスタなどの大活躍を観察する楽しみもありだし。

 私の好きな高橋淳さんの、キャラクターたっぷり入れ込みの歌唱は、演技も伴い、客席から笑いがおこる名唱。この方は、表現の幅が極めて広く、ミーメやムツェンスク、ルルなどでいつも感心してしまう一方、アリアドネでバッカスまで歌ってしまう人。
日本のオペラの舞台にはなくてはならない方です。

そして幸田浩子さんの繊細な高音にもシビレました。わかってはいたけれど、こうして聴かされちゃうと、たまりせん。
わたしの愛しいひと、では涙が出そうになった。オーケストラの繊細極まりない背景にも耳をそばだててしまった。

出番の多い堀内康男さんも孤軍奮闘。大合唱に見事対峙してましたね。

そして、その合唱団もだんだんと熱を帯びていって、歌いながら感動を高めていってるのが、手に取るようにわかる。たくさん積んだ練習が、素晴らしい成果となっていました。
最後の怒涛のエンディングで、ホールは大喝采の仕儀とあいなりました

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白鳥を喰らう、流れで焼き鳥に行こうとしたものの、満席だったり休みだったりで、横浜では有名な「かに屋」さんに連れていっていただいた。
今宵は、「かに」で、勝手に応援する会の定例会
「愛知屋」さんというお店です。
安い、うまい、家庭的。驚きのカニ屋さんでありました

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カニ食うと、無口になると言うけれど、今夜は違う。
みなさん好きな音楽のこと、神奈川フィルのこととなると、あーだ、こーだと口が止まらないんです。
それもまぁ、神奈川フィルを応援しようという大いなる心意気なんですから。
お疲れさまでした。

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2010年6月 5日 (土)

プッチーニ 「ラ・ロンディーヌ」~つばめ~ ジェルメッティ指揮

Cooktal
お客様、今宵はカクテルなどはいかが
口当たりよく、デンジャラスなカクテル。
たいていは、2~3軒飲んでからこうしたバーに行くので、記憶を失いかけている場合が多い(私の場合)。
ですから、これが何というカクテルだか、記憶の片隅にもこれっぽちもないのだ。
そもそも、カクテルなんてめんどくさい酒はあんまり飲まないのに、なんでこんな写真があったんだろ

Puccini_la_ronfine
プッチーニ「ラ・ロンディーヌ」~(つばめ)を聴きます。
R・シュトラウス漬けだった今週、その傾向を受け継ぎつつの週末オペラは、プッチーニ。

プッチーニの方がちょっと先輩、でもふたりとも、世紀をまたいで同時期に活躍した独・伊のオペラ作曲家。
豊穣でドラマテック、甘味な旋律にも欠けておらず、そのずば抜けたオーケストレーションは、同時代のオペラ作曲家から抜きんでていて、大オーケストラを使いつつ、精緻で室内楽的な響きをも作りだす名人ふたりは、マーラーにも通じる。

そして、ともに優れたパートナーを得て、素材選びは、人間の感情の機微に深く根ざしたものが多く、ドラマと音楽が密接に絡み合って、深い感動とオペラを観劇する楽しみをわたしたちにずっと与え続けてくれるわけだ。
 モーツァルト、ワーグナー、ヴェルディに、この二人、そしてブリテンを加えた6人が、わたしの最強の鉄板オペラ作曲家。(それに最近は、コルンゴルトとシュレーカー、RVW)

さらに、ふたりの作曲家の共通項は、女声大好き。
ヒロインに対する思い入れの強さ。
女性の方には、異論がおありかもしれませぬが、「女の気持ち」を男の側から、こうまで完璧に表現しつくすなんて。憎らしいほどでございます。
プッチーニは、おっかない女から、つつましい女、意志の強靭な女、いろんなタイプの女性を描いたけれど、「ミミ」に理想を求め続けたという。
 対するシュトラウスも、いろんなタイプの女性を描いてますな。
でもシュトラウスの女性は、いずれもオペラの中で、成長してゆく女性か。
先日の「影のない女」しかり、「ばらの騎士」「ダフネ」「ダナエの愛」などなど。。

そんなお二人ですが、ともに、おっかない奥さんの独裁下にあったのがまたなんとも・・・。
だから、オペラの中に理想の女性像を求めてしまったのでありましょうか・・・・・
 いいなぁ、わたしにもそんな逃げ道が欲しいぞよ。

「つばめ」は、あまり日があたらないオペラだけれども、素晴らしい旋律がたっぷり詰まっていて、ドラマもセンチメンタルで思わずホロリとしてしまう、プッチーニらしい愛らしい名作なのだ。
わたしは、この作品が大好きで、今回で3度目の記事。

「椿姫」と「ばらの騎士」を混ぜ合わせたようなドラマ。

~銀行家の愛人の女性が、田舎から出てきた青年と真剣な恋に落ちて、リゾート地で暮らすようになった。青年は晴れて母親の許しを得て、結婚に燃えるが、女性は、自分の身の上を恥じ、涙ながらに自ら身を引く~

もといたところに、再び戻ってくるのが「つばめ」。

永年の出版元であったリコルディ社と一時的に決裂し、ウィーンからオペレッタ風の作品を書いて欲しいという要請のもとに手をつけたものの、台本にやたらうるさいプッチーニが散々に書き直させて今の形になり、1917年に初演。
この年にシュトラウスは、「影のない女」を完成している。

有名なアリアは、1幕の「ドレッタの夢」だけで、ドラマに生死もなく起伏が少ない全体に、なだらかな雰囲気。
でも、プッチーニ好きなら必ず好きになってしまう素敵な旋律の宝庫であります。
初演は成功したものの、埋もれてしまった桂作オペラをいまこそ広めていただきたい。


 マグダ:チェチーリア・ガスディア   ルッジェーロ:アルベルト・クピード
 リゼッテ:アデリーナ・スカラベッリ  プルニエ:マックス・ルネ・コソッティ
 ランバルド:アルベルト・リナルディ   ほか

   ジャンルイージ・ジェルメッティ指揮 ミラノ・イタリア放送交響楽団
                               〃       合唱団
              (1981.11.13@ミラノ・ヴェルディ音楽院ホール)

聴きどころや、大筋は、過去記事をご覧ください。

このCDは、某ショップで発見して即買い。珍しいイタリアのフォントチェトラ原盤で、いまはワーナー参加だからアメリカ盤なら手に入りそう。
洒落たジャケットで、メトやほかのDVDの舞台でも、アールヌーヴォ風の装飾の舞台装置が雰囲気豊かだった。

そして、歌手も指揮者もオーケストラもすべて生粋のイタリア産のこちらの演奏は、フレッシュで耳洗われる爽快さ、搾りたてのレモンサワーみたい。

ガスディアの若々しいマグダは大人の魅力は薄いけれど、コケティシュな感じで魅力的。
3幕で、ルッジェーロの母からの結婚の許しの手紙を読むところなんて、もう、切なくなっちゃう。
最近、名前を耳にしないけどどうしてるのだろう。
 日本を愛する、お馴染みクピードのルッジェーロにも鮮やかな感銘を受けた。
イタリアの太陽のような輝かしさと、どこまでも伸びやかな歌声は、ドイツものばかり聴いてると最初は違和感を覚えるが、耳のなかの、そして心の中の澱をすべて洗い流してくれるような思いになる。

これもまた最近名前を聞かないジェルメッティの指揮は、ミラノのオーケストラとともに、オペラティックな雰囲気抜群で、プッチーニのちょっとした節回しや、合いの手にも心がこもっていて聴かせてくれるんだ。

「ラ・ロンディーヌ=つばめ」、まずは、パッパーノあたりのCDでもってお聴きになってみてはいかがでしょうか!
素敵なオペラにございます。

そうそう、昨年、パトリシア・プティボンがコンサートのトリに歌ってくれたのも、このオペラのアリア。
アラーニャさま臨席のもと、彼女の歌とインタヴューの映像がありましたよ。
こちらでご覧ください。
役に同化する彼女の好みそうな役柄だけれど、プッチーニはまだ少し違和感あるかも。
でも彼女のことだから、すぐに彼女なりのマグダを歌い込むようになるのだろうな。

 ラ・ロンディーヌ過去記事

「アンナ・モッフォ&モリナーリ・プラデッリ」
「ゲオルギュー&アラーニャ@メト」

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2010年6月 4日 (金)

R・シュトラウス 「影のない女」 つまみ聴き

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白昼のオペラシティ。
左が新国、右奥がコンサートホール。音楽の殿堂でございます。

好きなオペラや曲を実演で体験しちゃうと、しばらくの間は、その呪縛が解けなくなってしまう。
これまで、何度もこうしたことを繰り返してきたのであります。
R・シュトラウスの「影のない女」。

昨日は飲んだくれて、何も聴けず、今宵は手持ちの音源を手当たりしだいに聴いてみた。
でもついつい聴き込んでしまう・・・。

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まずは、ベームの77年のウィーン国立歌劇場ライブ。
もしかしたら一番好きかも。
ライブで燃えつくすベームの熱い指揮が素晴らしいし、ウィーンの特徴ある甘く、少し退廃的な音色がたまらない。
そして、歌手では、ニルソンの強靭なバラクの妻に、いかにも好人物のバリーのパパゲーノ、じゃなかったバラク。あと、一身に悲劇を背負ってしまったようなジークムントっぽいJ・キングの皇帝
リザネックは、ちょっと声に衰えを感じるが、歌い込んだ貫禄は充分。
でも後年に、実演で接したリザネックは凄かったぞ
乳母は、ルート・ヘッセで、いぶし銀の味わいあり。
 ベームには、自家製75年のザルツブルクライブがあり、本当はこっちのほうが火の玉のような凄まじさ炸裂なのだ。キャストは、バラクの妻がルートヴィヒで実夫婦。

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カラヤンの唯一の影のない女は、64年のウィーン国立歌劇場ライブ。
カットが多すぎで、カラヤンがこのオペラをどう見ていたかがわかる。
冗長に感じ、ドラマの求心力を高めようとしたのか。
カラヤンらしくない、緩めな部分もあり、本当は後年、ベルリンフィルで録音してほしかった。
ルートヴィヒのバラクの妻が圧倒的。バラク、ここでも旦那ベリー。
なんとここでは、ルチア・ポップが鷹なんですよ
そういう時代。
カイルベルトと同時期の演奏で、ここでもトーマスの皇帝が気品と力感溢れるすばらしさ。

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名盤中の名盤といえばこのカイルベルト盤でありましょう。
63年のバイエルン州立歌劇場の記念すべき再スタートのライブ。
同時期にマイスタージンガーもありますな。
録音年代を感じさせない音のよさは、当時のDGの録音技術の高さを物語っているよう。
カイルベルトの腰の据わった雰囲気豊かな指揮は、決して鈍重にならず軽やかでさえある。オーケストラの明るい音色もいいし。
 そしてキラ星の歌手たち。
ボルクとF=ディースカウのバラク夫妻。とくにボルクは身震いするほどすんばらしい。
トーマスの力強い皇帝にはシビレまくりだし、なんたって伝令がホッターなんだから。
で、乳母がベテラン、マルタ・メードルだし。歴史的な存在入っちゃってるメードルだけど、その歌唱は全然古臭くなくって、現代風でもある。
ミュンヘンのプリマドンナだった、ビョーナーも貴重な録音で、これまたよし。
ほかのキャストも有名な歌手ばかり。ミュンヘンはすごかった

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カイルベルト後のミュンヘンのR・シュトラウスといえば、サヴァリッシュ
フィルハーモニーにはケンペがいたし、放送響にはクーベリック。
この3人が、ミュンヘンオペラの指揮台に始終立っていたのだから、なんとも贅沢な時代。
サヴァリッシュは、ここではバイエルン放送響を起用していて、その機能的でありながら暖かい音色を、見事、シュトラウスサウンドとして活かしきっている。
めちゃくちゃうまいオーケストラ。冒頭が一番素晴らしいのが、このサヴァリッシュ盤。
完全全曲盤なのもうれしくて、つまみ聴きしても、やっぱりしっくりくる。
 若がえった歌手たち。
ちょっとテカリすぎだけど、ヒロイックなコロの皇帝が好きだ。
そしてステューダーのスマートながら暖かみある皇后。
当時ブリュンヒルデなどで活躍し、サヴァリッシュがよく起用したヴィンツィングとムフのバラク夫妻は個性は弱いが、アンサンブルとして全体のなかで過不足なく収まっているからよい。乳母はハンナ・シュヴァルツで、明確でクセのない発声はとても好ましく、彼女は、90年代乳母の第一人者だった。

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ショルティはDVDしか持ってなくて、CDはなし。
今のところ一番新しい「影のない女」が、シノーポリ盤。
なんたって、オーケストラがドレスデンシュターツカペレなところが最大のウリ。
渋さとまろやかさを持つオーケストラの音色は、シュトラウスに相応しく、シノーポリもごく普通に振る舞っているが、その精緻さではサヴァりッシュに遠く及ばない。
ゼンパーオーパーでのライブ録音が、やや潤いに欠けるゆえの不満もある。
でも、2幕の皇帝の狩りの前奏は涙が出るほど美しい・・・・。
デヴォラ・ヴォイトが意外なほど、といっては失礼だけど、素敵な皇后。
皇帝は、すっきり、リリカルで現代風のヘップナー。ちょっと踏み込み足りない。
で、ここでも、シュヴァルツの乳母がしっかりした歌を聴かせて締めてます。
バラクは、お馴染みグルントヘーバーで、妻の気持ちがわからない悩み多き雰囲気がよくでてる。奥さんは、ビョーナーのあと、ミュンヘンやドレスデンで活躍したザビーネ・ハース。

Bayerisch
ミュンヘンの70年代の上演。レンネルトの演出はワーグナーみたいだ。
古めのわたくしは、こんな感じのが好きだったりします。
Hanburg
84年、ハンブルク国立歌劇場の文化会館でのリハーサル風景。
ジョーンズにデルネッシュが写ってます。
懐かしい~。



そして、好き嫌いが分かれるかもしれませんが、ともかく私は好き。
グィネス・ジョーンズ
彼女のバラクの妻は、最高であります。
その低い方の声の魅力には抗しがたいものがあるのです。
そして、バラクはベリーですよ。
80年のパリでの上演。指揮はたぶん、H・シュタインじゃないかと!

あと、シュトラウスはオーケストラが肝心ですな。
このCDたち、何気に、ウィーン、ミュンヘン、ドレスデンでしたよ。
ベルリンはちょっと別な感じで、これら3つは、シュトラウスのオペラでは最大最高のオケたちでございましょう。

 「影のない女」に取り憑かれた今週でございました。
ゲルギーの影なし、どうします。
あの「味のない指揮」は、どうなっちゃうんだろ。
あのオッサンのオペラは観たことがないけど・・・・。

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2010年6月 2日 (水)

R・シュトラウス 「影のない女」 新国立劇場公演②

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新国「影のない女」、舞台の様子をレヴューします。
デニス・クリエフというフランスに学びイタリアで活躍する演出家に、美術・衣装アシスタントもイタリアチーム。
クリエフさん、イタリアものばかりでなく、リングなどドイツものもよく手掛けていて、ときに大胆な舞台に仕立てることもあるみたい。
そんなことで、その大胆ぶりをちょっと期待したりしていたのだけれど、その期待はあっさりと裏切られ、それどころか、私にとっては、ちょっとイマイチ感の残る舞台となりました。

一番、気にいらなかったのがイマジネーションとファンタジーの欠如。
シュトラウスとホフマンスタールが艱難を経て深まる夫婦愛とやがて恵まれる子供たちへの愛情をお伽話仕立てに作り上げたわけだから、そこに、魔法や現実離れした世界などがちゃんと描かれていないと、出汁の効いていない味噌汁を飲まされたような味気なさを感じてしまうのであります。

それから、予算内という妥協の産物かもしれないが安普請の舞台装置。
あえての効果だろうが、裏方黒子さんたちが、可動式の装置を始終あっちこっち動かしていて、あらかじめ位置につく姿もチラチラ見えて気になってしょうがない。
あとにゆくほど慣れてしまったけれど、最初は素晴らしい音楽を阻害するものに感じた。
しまいには、黒子さんたち、舞台左右の壁際に腰掛けて待機状態をあえて見せるという戦略にでた。
この際、かれらは思い思い、自由な感じで腰掛けていたので、彼らの存在そのものも、演出の意図なのであろう。

精霊、人間、森などの世界に始終、場面が移り変わる場面転換の激しいオペラ。新国の優れた舞台機構からすれば、難なく処理できるはす。
あえて、精霊界と人間界をあらわす装置を並列させ、境目をなくしてしまったのは、バラクの妻の夢という「読み替え」をしたからであろうか。
それとも、経済性のみだったりして。
でも、クリエフのほかの舞台写真をみると概して簡潔で、いずれも時代の移し替えをともなうもののようだ。
簡潔でも説得力がればそれでいいのだけれど・・・・。

ちょっとバブリーだったけど、惜し気もなく手の込んだ舞台にしたトーキョーリングが懐かしい~

パンフレットで演出家が述べている、夫の愛情願望と抑圧のバラクの妻の夢物語と主題づけててしまうと、先に不満としてあげたファンタジー欠如がますます大きくなってしまう。
「影のない女」は、バラクの妻の想像の産物だったなんて・・・・。
バラクの妻の心理には、たしかにそうした憧憬めいたものがあるのは事実だろうが、それを舞台のモティーフにしてしまうなんて、私には受け入れがたい。
影を求め、自身も人間になってゆく「影のない女」の厳しい心の成長が、なおざりにされてしまったようで!
であるから悩める皇帝の存在が、歌手の力不足もあいまって極めて希薄になってしまった。

不平ばかり連ねてしまったけれど、決して悪い舞台じゃないのですよ。
私のちょっとばかり保守的感性と合わなかったのかもしれないし。
でも、照明の使い方は見事だった。
人物の心理状態をあらわし、それを照射する光。
ブルーや赤、白を巧みに使い分けている。
そう、光の加減で人物に「影」が出来てしまうもの、そりゃ細心の注意を払いますね。

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あと、人物の細やかな動きは、なかなかに感心。
家の窓の内外から顔を出したり、うががったりする場面が多くて、それらはきっと内面からの気持ちの反映だったりするわけで、皇后・バラクの妻・バラク、この3人は盛んにそうした動きを示していたが、乳母だけは内面のない特別な存在のようで、窓がらみはなかったように記憶します。


ついで、各幕の様子をピックアップ。

第1幕
 舞台の上には山ぎりになった白いステージがあり、ところどころガラス張りになってる。
天上から吊るされた衝立のようなものが真ん中に。
奥には、家の屋根とわかる形の木のシルエットが。
その前には石が詰められた巨大な可分式の衝立が立っている。
 この木の家と石の壁が、それぞれ人間界(バラクの家)と、王宮、そして石の向こうは霊界という風な間仕切りになっているわけ。
上からは三日月が吊るされていて、案外キレイなものだ。
鷹や馬たちは、スチール線で象られた模倣の存在で、これにまたがったりして妙だった。

バラクの家が、黒子たちによって前面に出てくると、その家のいくつかある三角屋根は、それが反映したものが、白いステージの形そのもの。
窓もちゃんと反転してる。
 人間界ばかりでなく、霊界や王宮でも、全幕通して基本のステージになっている。
バラクの妻に主眼を置いたがゆえか・・・。

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乳母が現出してみせる宝石や酒池肉林、若い男などは、いたってシンプルで、衝立が下りてきて、一部がはぎ取られ、バラクの妻の向こう側には皇后がいて、鏡のような動きを仕組んだ。お互い宝飾をつけ着飾る。バラクの妻の心の反映・・・・。
若い男は、まるでバーテンダーのような兄さんだった。
バラクの妻は、こんな兄ちゃんが願望だったのかしらん。


第2幕
 バラクが儲けて、孤児を集めてきて食事を振る舞う場面。
ここでは、みんな身なりのいい方々がやってきて、楽器も奏でられ楽しそうなパーティ状態。上からは派手な電飾が下がってきた。
乳母も軽やかに踊るわ、バラクの3兄弟もナイスな道化っぷり。
その中にいて、フラストレーションの塊りのバラクの妻。
客の中にいた、男の子と女の子に強く反応して、いとおしむようにしてるのがいじらしい。
皇后が、ひとり部外者のように、でも興味深く観察している・・・・。

家は裏向きになり、粗末な内側は、油圧シリンダーが三角部分についていて、いずれこれが折れるということが丸見え。
斜めに走った角材がいかにも邪魔で、歌手たちはその角材を気にしながら、はたまた角材にすがりつくなどしながら、ちまちました動きを狭い中でみせる。
 広い舞台なのに、なんで、こんなせせこましいところで。。。

不仲なバラク夫妻。ひとり寂しく眠るバラクを見て、自己批判にさいなまれる皇后。
このあたりは、どんな演出でも最高に心動かされる。
マギーの歌と演技は最高。
 それと反比例するかのような、バラクの妻の激白。
フリーデの声に背筋が伸びるほどの感銘を受ける。
影が消えかかるバラクの妻は照明でうまく表現したもんだ。

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妻の不貞を信じたバラクに、ナイフは上からするりと降りてこないで、乳母がさりげなく渡す。ちょっと動きがユルイ場面。もう少し緊迫感が欲しいところ。
夫婦は抱き合ったまま、奈落に落ちるのか否かもわからん。
幕を引いたのは乳母で、最後まで、あの顔が・・・・。
音楽はこのオペラ最大のフォルテであり、サロメやエレクトラを思わせる強烈さ。

第3幕
 バラク夫妻の悔恨とお互いを思い合う素晴らしい音楽。
でも何故かバラクは、スカートみたいのはいてる。なんだろ?
マフラーも意味不明。
 二人とも、天の声に呼ばれ、石壁の間に入ってゆく。

この壁が今度は反転し、内側の眺めになると、乳母と皇后が船をイメージしたステージでスライドしてくる。
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乳母に三行半をたたきつけ、石の向こう側に消える皇后。
カイコバートの伝令さんにも、絶交を言いつけられ、気の毒な乳母は、ガラス板が開いてその中に沈んでいっちゃった。

音楽はヴァイオリンソロによる、霊気みなぎる透明感ある素晴らしいシーン。
さぁ、裁きの場のクライマックス。ここを楽しみにしてたんだよう~。
例の石壁は、丸く方陣を描くようにして筒状態になっちゃった。
でも中で、何かが動いているのが見えて、やや興ざめ・・・・。
 その方陣の回りの足場を伝いながら皇后がやってきて、命の水は、泉でなく、ワイングラスに入って、女性の門衛によって運ばれてくる。
「さぁ、飲みなさい。飲めば、お前には影が出来る」と言い、グラスも周辺も赤く染まる。
遠くからは、バラク夫妻のお互いを呼ぶ声がこだまする。。。。
 悶絶の苦しみの皇后。
この場面、もっと工夫が欲しいところ。やはり、ここでもせせこましく、石の方陣がまったくもって邪魔臭く味気ない。やがてそれは少し開き、皇帝が見える。
石になりつつあるのに、全然普通じゃん、皇帝。

苦しみの選択の末に、「私はそれを望みません・・・」と、絞り出すように歌う皇后。
涙ぼろぼろのワタクシ。マギーの歌、素晴らしい。
心洗われるような清冽な浄化の音楽。
(あら、飲まないのねぇ~と、やたらガッカリしてた門衛さん)

めでたく影が宿り、皇帝と再会できた皇后。
ここで例の家が小屋となって出来あがり。
やっぱり・・・・。(これみてブリュンヒルデの岩屋を思ったのは私ばかりじゃないでしょうね)

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上からは、生命漲る木が降りていて、月も光り、あたりは一面きれいなブルーにそまる。
バラク夫妻もうれしい再会をはたし、素晴らしい4重唱が始まる。
 男の子と女の子も走り出てきて、じゃんけんポンで遊んでいて、これを見守る二組の夫婦が、それぞれ退場、または家の中にはいり、やがて子供たちも立ち去り、舞台にはひとりもいなくなって、素晴らしいシュトラウスの音楽が余韻を残して静かに消えていった。



拍手はしばらくナシ・・・・。

なんだかんだで、終わりよければすべてヨシ。

やはり、シュトラウスの音楽の力は、まったくもって素晴らしいものがあって、舞台上の不満も、こうして大団円を向けると、どうでもよくなってしまう。
 日を置いて思い出しながら書いてると、不平も出てしまうもの。

このオペラに初めて接する方には、簡潔でわかりやすい舞台ではなかったかと。
私としては、久々の本格上演だから、普通にイルージョン効果や舞台転換なども駆使して見せてほしかったところ。
 予算を考えると、今後の上演は、観るこちら側もそれなりの覚悟と、我慢をしいられそうだ。受け止め方も変えていかないと・・・・・。

(最後に、26年前の、ハンブルク国立歌劇場の公演の、最後の拒絶の場面を。)
皇后の前には、きらきら輝く泉が横たわっていて、泉の水を勧めるのは天上からの声で、ここには皇后ひとり。
皇后の顔に、水のさざ波が反映していて、とても美しい。
あたりは暗く、その輝きのみが舞台で光り、いやでも緊張と集中が皇后の動きに集中する。
その心理を映し出した泉の光は、「Ich will nicht」のあまりに感動的で絞りだすような、リザネックの言葉で真っ暗になり、舞台がほのかに明るくなってゆく・・・・・。


こうしてまだ覚えてます、あの感動の舞台。

歌と管弦楽は、95点。演出は55点。音楽は200点。
以上がわたくしの、「新国・影なし」の総評にございます。
あしからず、申し訳ありません~
 

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2010年6月 1日 (火)

R・シュトラウス 「影のない女」 新国立劇場公演①

Shinkoku_20106m_2
新国立歌劇公演、R・シュトラウス「影のない女」最終日上演を観劇。
このオペラが国内で上演されるのは、サヴァリッシュ指揮と市川猿之助の演出のバイエルンの引っ越し公演から18年ぶりという。
その公演は観ることができなかったが、その8年前の日本初演にあたるドホナーニ指揮するハンブルク歌劇場の公演に接することができた。
 この時の感銘はいまでも覚えていて、このオペラのわたしの基準点にもなっている。
音楽の基準点は、75年のベームのザルツブルク上演のFM放送。
まだ聴いてます。

そして、私にとってそれから26年ぶりの舞台、いやぁ、めちゃくちゃ素晴らしかった

Die_frau_ohne_schatten  
 いつも誉めることばかりだけど、大好きなシュトラウスのオペラだし、ただでさえしびれる音楽を音響のいい新国で、家では不可能な大音響で思い切り浸ることができた。
演出はともかくとして、歌とオーケストラは文句なし。

 皇帝:ミヒャエル・バーバ   皇后:エミリー・マギー
 バラク:ラルフ・ルーカス   バラクの妻:ステファニー・フリーデ
 乳母:ジェーン・ヘンシェル  霊界の使者:平野 和
 宮殿の門衛:平井 香織   若い男 :高野 二郎
 鷹の声:大隅 智佳子     天上からの声:松村 佳子
 バラクの兄弟:青戸 知、大澤 健、加茂下 稔
  ほか

   エーリヒ・ヴェヒター指揮 東京交響楽団
                                         新国立劇場合唱団
                   合唱指揮:三澤 洋史
    
    企画:若杉 弘
    芸術監督代行:尾高 忠明
    演出:ドニ・クリエフ
                  (2010.6.1 @新国立劇場)

                  

 ヴェヒターの指揮は本格・本物だ。
小さな動きでオーケストラからppからffまで、途方もないダイナミクスの幅を引きだし、それがひと時も混濁せず、隅々まで明快。
舞台の歌手の声の様子にも巧みに反応し、どんな時でも声をかき消すことがなかった。
よく書かれているから、よく鳴る響きに没頭しすぎてシラけさせてしまうシュトラウスを聴かせる指揮者が多いけど、それらとは大違い。
抒情的な場面、2幕の皇帝の狩りの前の独奏チェロを伴う素晴らしい場面に、3幕のヴァイオリンソロを伴った間奏などの精緻で透明な響きは、シュトラウスを聴く最高の楽しみ。
こんな場面でも涙をとどめることができなかった。
そして、東京交響楽団の充実ぶりたるやびっくり
今日のピットは完璧でした

このオペラの難しさは、全体を司る優秀なシュトラウス指揮者の存在と、主役級の歌手5人に人を得なくてはならないこと。
リリコスピントにドラマティックソプラノ、ドラマテックソプラノに近い強いメゾに、ヘルデンテノールに、バスバリトン。
ジークリンデにブリュンヒルデ、イゾルデとジークムントにアンフォルタスが必要なんだ。
あと、森の小鳥もね。

ハンブルク公演はすごかった!
リザネック、ジョンーズ、デルネッシュ、シェンク、ネントヴィヒだったんだもの。

でも、今日の新国もほぼ完璧。
得にアメリカ女声陣3人

Ki_20002811_3
以外に思われるかもしれない私が好きな、マギーちゃん。
彼女の皇后は一番楽しみにしていた。
先般のチューリヒの「トスカ」バイロイトの「マイスタージンガー」などの映像、新国では「イドメネオ」のエレクトラを通じて、そのアメリカンな大らかな雰囲気に親しんできたけれど、その声も最近ドラマテックに転じつつあって、今日もホールを圧する輝かしい声を聴かせてくれた。
表現の細やかさと役柄へののめり込みぶりがもう少し欲しいところだが、彼女はアメリカンな少しおおざっぱな雰囲気がいいところ。
 でも、皇帝愛ゆえに、影を無理くり欲しつつも、人間たちの愛と同情に目覚め変貌してゆくさまが、マギーはとても自然な演技と歌でもってよく表現出来ていたと思う。
 このオペラの最大の見どころと思っている、3幕での誘惑を否定する場所。
「Ich will nicht!」は、一語一語かみしめるように、観劇するわれわれの、一体どうするんだろうという気持ちを試すかのように、ゆったりと歌い語られた。
ここが毎度このオペラのキモであるわたしは、ただでさえ涙を随処にほとばしらせていたのに、ここでもうダム大決壊
なんで最近こんなに涙もろいんだろ。

ハンブルク上演のこの場面で、リザネックの迫真の歌と演技に、生涯忘れ得ぬ感動を与えられていて、演出のこともあり、今回は残念ながらそれに遠く及ばないのも事実でありましたが、マギーちゃんゆえに映画風なこの場面、なかなかでした。

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マギーよりも、さらに強靭なる声を響かせたのがフリーデのバラクの妻。
新国では、「西部の娘」「マクベス夫人」と聴いてきたが、今回が一番よかった。
演出ゆえか、ずっと不満にさいなまれるイライラ役だけど、その心の鬱憤とうらはらに夫の愛情をもとめるいじらしさを、その強い声で一途に歌い込んでゆく。
役柄的にも、献身的でもある歌いぶりにも、今回もっとも多くの共感と称賛を得たのがフリーデではなかったろうか。
怒ってばっかりの役柄だから強烈にシャウトしなくてはならないし、独白の場面では心の内面を丁寧にさらけ出さなくてはならず、ほんとうに難しい役柄だけど、フリーデは自然で、等身大、とてもよかった。

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風貌からして乳母にぴったりのヘンシェル。ハンブルクのデルネシュもすごかったが、美人すぎ・・・・。
皇后を溺愛するがゆえ、任務に忠実なるがゆえに、ダーティな役回りになっているが、彼女の乳母は終始、憎めない。
小柄に見えるけれど、彼女の声も圧倒的な存在感があり。
バラクの妻を誘惑する怪しげな雰囲気は、そのお姿からしてむしろペテン師のようにも見えちゃって面白かったし、バラクが儲けて帰ってきてのパーティでのダンスも可愛らしい(笑)。キャラクターメゾ的な歌い口の巧みなヘンシェルでもありました。

これら強力女声トリオに対し、よかったのは、ルーカスのバラクのみ。
つーか、皇帝がイマイチだっただけだけど。
純正バイロイト、そして当地で活躍中の旬のバリトン、ルーカスの明るめで伸びのあるバリトンには惚れこみました。
発声が明晰で、耳に馴染みのいいバリトンは、バラクの人のいいキャラクターにぴったり。
かつての名バラク、ワルター・ベリーを思わせましたぞ。

最初はよかったけど、後半、声が埋没しがちだし、個性がやや薄かったミヒェル・バーバの皇帝。
なにぶん、トーマス・キング・コロで聴き馴染んでいるロールだし、好きなもんだから、自分でもCDに合わせて歌ってしまう皇帝役。
いつも悩んでいる悲劇性では、ジークムントに匹敵する役柄だけど、まずはトルコ風かスマトラ風の衣装がイカンので、イメージが上滑りしてしまう。
最初は、悲劇性ある声に聴こえ、おっ、こりゃええわい、と思ったけれど、お供の大隅さんの鷹の真っ直ぐな声に負けちゃってる。
最後も、マギーちゃんの皇后にやられっぱなし。
ほかの日はどうだったのでしょうね。

でも、男声ふたりはさすがにドイツ語の語感が素晴らしく、そのアーティキュレーションの明快さにおいては、女声陣に勝っていたように思う。

ところが、ほんの数行の歌詞を繰り返す鷹役の、大隅智佳子さんは、短めだけど、へたなドイツ人よりそれらしく、数行の歌で耳をそばだてさせる魅力を発しておりました。
オネーギンのタチアーナ以来、ファンになった根っからのオペラ歌手の大隅さん、今回は足音立てずに始終飛び回る役柄。よかったですよ。

ドイツで活躍中の平野さんのカイコバートの使者。
この方もまた本場仕込みの素晴らしいバリトンで、これから国内で活躍されることでしょう。

ヴォツェックでユニークな役柄を演じ印象的だった、高野さんの若い男。
バーテン風のなりが、あまりにイマイチな演出で、ハンブルクのホレス演出では、金ぴかラメ男で、その方がシュトラウスの異次元音楽にもあっていたのだけれど・・・。
その普通の兄さんぶりにが何気に印象的だったんです(笑)

バラクの体の不自由な3兄弟も、毎度、新国や二期会を支える個性派名人たち。
舞台裏からの声のみなさんも、みんな素晴らしいですぞ。

というわけで、大絶賛の音楽部門。
で、演出はというと、わたしにはそうでもなかったところ。
このあたりは、次の記事とさせていただきましょう。

それにしても、若杉さんの早世の無念が、こうした素晴らしい音楽と演奏を聴くにつけ、大きく感じられるのであります。
終演後、奥さんと帰宅される、尾高さんを見かけました。
 来シーズンの目玉は、国内オケのシェフたちを新国指揮者として招聘する公演。
オープニングは大野さんだし、国内で活躍の指揮者たちを本格オペラでレベルアップする絶好のアイデアかと。
神奈川フィルファンとしては、金聖響さん
も、現田さんも、是非呼んでくださいましな。

「影のない女」 過去記事

 「サヴァリッシュ&バイエルン放送響」
 「ショルティ&ウィーンフィル」
 「カラヤン&ウィーン国立歌劇場」
 「交響的幻想曲 影のない女」

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