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2010年6月 2日 (水)

R・シュトラウス 「影のない女」 新国立劇場公演②

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新国「影のない女」、舞台の様子をレヴューします。
デニス・クリエフというフランスに学びイタリアで活躍する演出家に、美術・衣装アシスタントもイタリアチーム。
クリエフさん、イタリアものばかりでなく、リングなどドイツものもよく手掛けていて、ときに大胆な舞台に仕立てることもあるみたい。
そんなことで、その大胆ぶりをちょっと期待したりしていたのだけれど、その期待はあっさりと裏切られ、それどころか、私にとっては、ちょっとイマイチ感の残る舞台となりました。

一番、気にいらなかったのがイマジネーションとファンタジーの欠如。
シュトラウスとホフマンスタールが艱難を経て深まる夫婦愛とやがて恵まれる子供たちへの愛情をお伽話仕立てに作り上げたわけだから、そこに、魔法や現実離れした世界などがちゃんと描かれていないと、出汁の効いていない味噌汁を飲まされたような味気なさを感じてしまうのであります。

それから、予算内という妥協の産物かもしれないが安普請の舞台装置。
あえての効果だろうが、裏方黒子さんたちが、可動式の装置を始終あっちこっち動かしていて、あらかじめ位置につく姿もチラチラ見えて気になってしょうがない。
あとにゆくほど慣れてしまったけれど、最初は素晴らしい音楽を阻害するものに感じた。
しまいには、黒子さんたち、舞台左右の壁際に腰掛けて待機状態をあえて見せるという戦略にでた。
この際、かれらは思い思い、自由な感じで腰掛けていたので、彼らの存在そのものも、演出の意図なのであろう。

精霊、人間、森などの世界に始終、場面が移り変わる場面転換の激しいオペラ。新国の優れた舞台機構からすれば、難なく処理できるはす。
あえて、精霊界と人間界をあらわす装置を並列させ、境目をなくしてしまったのは、バラクの妻の夢という「読み替え」をしたからであろうか。
それとも、経済性のみだったりして。
でも、クリエフのほかの舞台写真をみると概して簡潔で、いずれも時代の移し替えをともなうもののようだ。
簡潔でも説得力がればそれでいいのだけれど・・・・。

ちょっとバブリーだったけど、惜し気もなく手の込んだ舞台にしたトーキョーリングが懐かしい~

パンフレットで演出家が述べている、夫の愛情願望と抑圧のバラクの妻の夢物語と主題づけててしまうと、先に不満としてあげたファンタジー欠如がますます大きくなってしまう。
「影のない女」は、バラクの妻の想像の産物だったなんて・・・・。
バラクの妻の心理には、たしかにそうした憧憬めいたものがあるのは事実だろうが、それを舞台のモティーフにしてしまうなんて、私には受け入れがたい。
影を求め、自身も人間になってゆく「影のない女」の厳しい心の成長が、なおざりにされてしまったようで!
であるから悩める皇帝の存在が、歌手の力不足もあいまって極めて希薄になってしまった。

不平ばかり連ねてしまったけれど、決して悪い舞台じゃないのですよ。
私のちょっとばかり保守的感性と合わなかったのかもしれないし。
でも、照明の使い方は見事だった。
人物の心理状態をあらわし、それを照射する光。
ブルーや赤、白を巧みに使い分けている。
そう、光の加減で人物に「影」が出来てしまうもの、そりゃ細心の注意を払いますね。

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あと、人物の細やかな動きは、なかなかに感心。
家の窓の内外から顔を出したり、うががったりする場面が多くて、それらはきっと内面からの気持ちの反映だったりするわけで、皇后・バラクの妻・バラク、この3人は盛んにそうした動きを示していたが、乳母だけは内面のない特別な存在のようで、窓がらみはなかったように記憶します。


ついで、各幕の様子をピックアップ。

第1幕
 舞台の上には山ぎりになった白いステージがあり、ところどころガラス張りになってる。
天上から吊るされた衝立のようなものが真ん中に。
奥には、家の屋根とわかる形の木のシルエットが。
その前には石が詰められた巨大な可分式の衝立が立っている。
 この木の家と石の壁が、それぞれ人間界(バラクの家)と、王宮、そして石の向こうは霊界という風な間仕切りになっているわけ。
上からは三日月が吊るされていて、案外キレイなものだ。
鷹や馬たちは、スチール線で象られた模倣の存在で、これにまたがったりして妙だった。

バラクの家が、黒子たちによって前面に出てくると、その家のいくつかある三角屋根は、それが反映したものが、白いステージの形そのもの。
窓もちゃんと反転してる。
 人間界ばかりでなく、霊界や王宮でも、全幕通して基本のステージになっている。
バラクの妻に主眼を置いたがゆえか・・・。

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乳母が現出してみせる宝石や酒池肉林、若い男などは、いたってシンプルで、衝立が下りてきて、一部がはぎ取られ、バラクの妻の向こう側には皇后がいて、鏡のような動きを仕組んだ。お互い宝飾をつけ着飾る。バラクの妻の心の反映・・・・。
若い男は、まるでバーテンダーのような兄さんだった。
バラクの妻は、こんな兄ちゃんが願望だったのかしらん。


第2幕
 バラクが儲けて、孤児を集めてきて食事を振る舞う場面。
ここでは、みんな身なりのいい方々がやってきて、楽器も奏でられ楽しそうなパーティ状態。上からは派手な電飾が下がってきた。
乳母も軽やかに踊るわ、バラクの3兄弟もナイスな道化っぷり。
その中にいて、フラストレーションの塊りのバラクの妻。
客の中にいた、男の子と女の子に強く反応して、いとおしむようにしてるのがいじらしい。
皇后が、ひとり部外者のように、でも興味深く観察している・・・・。

家は裏向きになり、粗末な内側は、油圧シリンダーが三角部分についていて、いずれこれが折れるということが丸見え。
斜めに走った角材がいかにも邪魔で、歌手たちはその角材を気にしながら、はたまた角材にすがりつくなどしながら、ちまちました動きを狭い中でみせる。
 広い舞台なのに、なんで、こんなせせこましいところで。。。

不仲なバラク夫妻。ひとり寂しく眠るバラクを見て、自己批判にさいなまれる皇后。
このあたりは、どんな演出でも最高に心動かされる。
マギーの歌と演技は最高。
 それと反比例するかのような、バラクの妻の激白。
フリーデの声に背筋が伸びるほどの感銘を受ける。
影が消えかかるバラクの妻は照明でうまく表現したもんだ。

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妻の不貞を信じたバラクに、ナイフは上からするりと降りてこないで、乳母がさりげなく渡す。ちょっと動きがユルイ場面。もう少し緊迫感が欲しいところ。
夫婦は抱き合ったまま、奈落に落ちるのか否かもわからん。
幕を引いたのは乳母で、最後まで、あの顔が・・・・。
音楽はこのオペラ最大のフォルテであり、サロメやエレクトラを思わせる強烈さ。

第3幕
 バラク夫妻の悔恨とお互いを思い合う素晴らしい音楽。
でも何故かバラクは、スカートみたいのはいてる。なんだろ?
マフラーも意味不明。
 二人とも、天の声に呼ばれ、石壁の間に入ってゆく。

この壁が今度は反転し、内側の眺めになると、乳母と皇后が船をイメージしたステージでスライドしてくる。
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乳母に三行半をたたきつけ、石の向こう側に消える皇后。
カイコバートの伝令さんにも、絶交を言いつけられ、気の毒な乳母は、ガラス板が開いてその中に沈んでいっちゃった。

音楽はヴァイオリンソロによる、霊気みなぎる透明感ある素晴らしいシーン。
さぁ、裁きの場のクライマックス。ここを楽しみにしてたんだよう~。
例の石壁は、丸く方陣を描くようにして筒状態になっちゃった。
でも中で、何かが動いているのが見えて、やや興ざめ・・・・。
 その方陣の回りの足場を伝いながら皇后がやってきて、命の水は、泉でなく、ワイングラスに入って、女性の門衛によって運ばれてくる。
「さぁ、飲みなさい。飲めば、お前には影が出来る」と言い、グラスも周辺も赤く染まる。
遠くからは、バラク夫妻のお互いを呼ぶ声がこだまする。。。。
 悶絶の苦しみの皇后。
この場面、もっと工夫が欲しいところ。やはり、ここでもせせこましく、石の方陣がまったくもって邪魔臭く味気ない。やがてそれは少し開き、皇帝が見える。
石になりつつあるのに、全然普通じゃん、皇帝。

苦しみの選択の末に、「私はそれを望みません・・・」と、絞り出すように歌う皇后。
涙ぼろぼろのワタクシ。マギーの歌、素晴らしい。
心洗われるような清冽な浄化の音楽。
(あら、飲まないのねぇ~と、やたらガッカリしてた門衛さん)

めでたく影が宿り、皇帝と再会できた皇后。
ここで例の家が小屋となって出来あがり。
やっぱり・・・・。(これみてブリュンヒルデの岩屋を思ったのは私ばかりじゃないでしょうね)

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上からは、生命漲る木が降りていて、月も光り、あたりは一面きれいなブルーにそまる。
バラク夫妻もうれしい再会をはたし、素晴らしい4重唱が始まる。
 男の子と女の子も走り出てきて、じゃんけんポンで遊んでいて、これを見守る二組の夫婦が、それぞれ退場、または家の中にはいり、やがて子供たちも立ち去り、舞台にはひとりもいなくなって、素晴らしいシュトラウスの音楽が余韻を残して静かに消えていった。



拍手はしばらくナシ・・・・。

なんだかんだで、終わりよければすべてヨシ。

やはり、シュトラウスの音楽の力は、まったくもって素晴らしいものがあって、舞台上の不満も、こうして大団円を向けると、どうでもよくなってしまう。
 日を置いて思い出しながら書いてると、不平も出てしまうもの。

このオペラに初めて接する方には、簡潔でわかりやすい舞台ではなかったかと。
私としては、久々の本格上演だから、普通にイルージョン効果や舞台転換なども駆使して見せてほしかったところ。
 予算を考えると、今後の上演は、観るこちら側もそれなりの覚悟と、我慢をしいられそうだ。受け止め方も変えていかないと・・・・・。

(最後に、26年前の、ハンブルク国立歌劇場の公演の、最後の拒絶の場面を。)
皇后の前には、きらきら輝く泉が横たわっていて、泉の水を勧めるのは天上からの声で、ここには皇后ひとり。
皇后の顔に、水のさざ波が反映していて、とても美しい。
あたりは暗く、その輝きのみが舞台で光り、いやでも緊張と集中が皇后の動きに集中する。
その心理を映し出した泉の光は、「Ich will nicht」のあまりに感動的で絞りだすような、リザネックの言葉で真っ暗になり、舞台がほのかに明るくなってゆく・・・・・。


こうしてまだ覚えてます、あの感動の舞台。

歌と管弦楽は、95点。演出は55点。音楽は200点。
以上がわたくしの、「新国・影なし」の総評にございます。
あしからず、申し訳ありません~
 

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コメント

naopingさんもすかしておられましたね。
新国の予算面の制約は相当きつそうで、過去の舞台のほうが「見栄え」のするものが多いように思います。「マイスタージンガー」や「ドン・カルロ」なんかも肩透かし食らっちゃったりして。それに第2幕幕切れもト書きを変えてるものだから、「アレレ」。第3幕の冒頭は揃いの寝巻き姿だった意味が分からん。影を乳母に売ってから、子供が出来ないので安心して「・・」に励む-ということは変だし。
まぁ、いろいろと演出は分からない場面が多かったけれど、音楽面では凄かったですね。日本のオーケストラがここまでシュトラウス(それも「影なし」ですよっ!)を演奏してくれるんだからなぁ。2月のマリインスキーがここまで演奏できるかどうか、ハッキリいって疑問です。それとゲルギーが例によって変なことをしそうだし。歌手も今回の新国を上回るかどうか・・・?
背筋がゾクゾクし鳥肌が立ちましたよ。シュトラウスの音楽は麻薬です。

投稿: IANIS | 2010年6月 3日 (木) 02時20分

おはようございます。
やはり、音楽面は素晴らしかったですが演出面は??というところでしたでしょうか。最後に書いておられた、今後はこうした舞台も覚悟せねばならない、というお言葉は身にしみました。演出に頼らずに、ちゃんと音楽を聴かないと、とも。時代が時代とはいえ、逆行してしまうのも少し寂しいです。

投稿: Shushi | 2010年6月 3日 (木) 05時23分

こんばんは。やっと出ましたね。

 私は、今回なにも考えず、初日だったせいか、音楽面も、そんなに褒められたモノではないと思いました。手放しで賞賛できるのは、「バラクの妻」ぐらいだと思いました。「Ich will nicht!」も、軽く通り過ぎてしまいました。批判的で、ごめんなさい。

 もちろん、ハンブルグやバイエルンの水準を期待してはいませんでしたが、ちぐはぐなところがあったり、緊張感が持続しなかったり、力不足が感じられました。回を重ねる毎に良くなっていったのでしょうね。それに、若杉さんの指揮でなかったのが惜しまれます。

 

投稿: にけ | 2010年6月 3日 (木) 19時18分

こんばんは。アラ、私の名前がここで。

色々な意見があるもんだなあと今回は色々なブログを(珍しく)見させてもらっています。私がみたところこの公演の感想は「絶賛組」と「もやもや組」に分かれるようです。ここに書かれている、にけ様とShushi様は「もやもや組」に当たるんでしょうか。私もやや「もやもや組」 なのかな。最後は良かったんで大拍手しましたけどね。拍手しすぎて手が痛かった~。

それにしても、日によって聴衆の反応があまりに違うので面白いですね。最終日は最後は拍手は暫くなし・・・だったんですか(余韻に浸ってたのではなく?)。私の日は「もうちょっと余韻があってから拍手して欲しいなあ」と思うほど間髪いれずの大ブラヴォーでした。


投稿: naoping | 2010年6月 3日 (木) 21時07分

IANISさん、毎度どうもです。
見ているあいだは、演出にあれこれ欲求不満がありつつも、歌の素晴らしさ、なによりもシュトラウスの音楽の素晴らしさに心奪われてまいつつ最終幕となりました。
 でもやっぱりあの味気ない演出は好みではありませんでした。
ヴィーラントや過去の演出家たちが、簡素な装置の中にも研ぎ澄まされた演技を要求し緊張感と想像力を作り上げたのに・・・。
これからの時代、また新バイロイトのような様式が、さらに掘り下げられて復刻するのでしょうか。
演出も時代・情勢の流れに呼応してゆくものでしょうね。

それにしても兄貴、シュトラウスの音楽はワーグナー以上に麻薬ですねぇ~
ずっと鳴ってます。

投稿: yokochan | 2010年6月 4日 (金) 00時37分

shushiさん、こんばんは。
貴ブログはチラ見して過ごしてきました。
最終日ゆえ、情報を遮断してきましたので、後ほどちゃんとお邪魔したいと思います。
申し訳ありません。

それにして素晴らしい歌唱でした。
もうそれで満足かも、です。

が、しかし、共感いただけましたように、今後のオペラ観劇にも覚悟を促すようなエコ演出にございました。
音楽を邪魔しなければいいんですがね~。

投稿: yokochan | 2010年6月 4日 (金) 00時45分

にけさん、こんばんは!
にけさんとこの記事、ちらっと見たらリアルな絵が描かれていましたので、申し訳なくもスルーして、情報を遮断して最終日を迎えました(笑)

ハンブルクもご覧になった同胞ですね。

ミュンヘンはありませんが、あのときの思いを引きずっれいるものとしては、今回の演出は稚拙でした。
音楽でもかなわないかもしれませんが、今風のまっすぐな歌唱と東響の充実した音色は、相当だったかと思います。
最終回ゆえに、力の込め方も違っていたかと思いますし。

それにしても若杉さんの指揮で観たかったですね・・・。合掌。

投稿: yokochan | 2010年6月 4日 (金) 00時55分

naopingさん、こんばんは。
影なし協会会長は、逃げられないのですよ(笑)

演出もやもや、演奏・音楽はすんばらし、です。
会場では、わたしも相当に感激し、興奮して拍手しまくりでしたよ。
カペルマイスター的な地味な指揮者もあって、盛り上がりを最期まで温存したかもしれませんし、もしかしたらそれ以上はできなかった指揮者かもしれませんし・・・。
 若杉さんだったら、それぞれの回をうまく作り上げることができたのかもしれませんね。

私の回では、みなさん集中しまくりで、2幕の興奮の幕切れなど、放心状態の方を何人も見かけました。
そして、最終の幕切れは、感動のあまりの静けさに思いました。
平日マチネゆえ、年齢層は私もふくめて高かったのですが、身につまされる聴衆が多かったのでしょうか。

ゲルの会は、きっと売れないから、安い席ねらいでチャレンジしようかなと思ってますが、でも嫌だなぁ~

投稿: yokochan | 2010年6月 4日 (金) 01時18分

yokochanさん、遅ればせながらコメントいたします。
いつにもまして更に充実した記事、読み応えありました。私は初日に行きました。

音楽と演奏が素晴らしかったことは同感です。
演出は予習をしないで舞台を観ると、今どんなことが起きているかわからないだろうな、
という場面がいくつもありました。
省エネのせいでしょうかね。

拙ブログには書きませんでしたが、大隅さんの鷹は私もとても印象に残っています。
そこだけ別世界の空気が流れているように感じました。

シュトラウスのオペラは日本で観る機会は増えてきていると思いますが、
18年振りの「影のない女」、新国で早めの再演をしてもらいたいですね。
できれば演出はリメークで!

投稿: pockn | 2010年6月15日 (火) 17時58分

pocknさん、こんばんは。
初日と千秋楽で、10日の開きがあるのですね。
好きな作品ですから、4回全部観てもいいと思ったのですが、さすがに懐が厳しいもので。

あの薄味の演出は、ちょっと消化不良でしたね。
それを補ってあまりある演奏と、なによりも音楽の素晴らしさ。
そうそう、大隅さん、実にいいですね。
本物のオペラ歌いです。

私も細部をもっと詰めて、早期の再演を期待したいです。

投稿: yokochan | 2010年6月15日 (火) 23時22分

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