モーツァルト 「フィガロの結婚」 新国立劇場公演
新国立劇場公演、モーツァルト「フィガロの結婚」を観劇。
オープニングの「アラベラ」と交互に上演されていて、4回中の最終日にあたる火曜日でありました。
ともに、男女の恋愛の機敏を、ある意味リアルに描いたオペラ。
女性に翻弄される男たち?
ズボン役が活躍することでも共通。
とても考えられた上演の仕方だと思います。
若杉さんの後を継いだ、尾高さんの初回からのヒットではないでしょうか。
サロメのあと、モーツァルトの音楽を理想としてオペラを書き続きたシュトラウスであるからゆえ、音楽的にもこの2作を並べるどおりは筋が通ってる。
さらに思えば、この1週間に、アラベラ→トリスタン→フィガロと3作を観たわけで、モーツァルト、ワーグナー、シュトラウスという、ドイツオペラの本流の系譜を逆にたどることで、わたくしのそこそこ永い音楽鑑賞歴のなかでも、特筆すべき出来事であったと思う次第なんです。
アルマヴィーヴァ伯爵:ロレンツォ・レガッツォ 伯爵夫人:ミルト・パパタナッシュ
フィガロ:アレクサンダー・ヴィノグラートフ スザンナ:アレナ・ゴルシュノヴァ
ケルビーノ:ミヒャエラ・ゼーリンガー マルチェッリーナ:森山京子
バルトロ:佐藤泰弘 バジリオ:大野光彦
ドン・クルツィオ:加茂下 稔 アントーニオ:志村文彦
バルバリーナ:九嶋香奈枝
ミヒェアエル・ギュットラー指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団
演出:アンドレアス・ホモキ
(2010.10.19@新国立劇場)
新国のフィガロの定番となった、ホモキ演出のプロダクション。
2003、2005、2007に次いで4回目の上演だけど、私は今回が初めて。
もっと早く観ておくんだった。
この完成された、汲めども尽きぬ魅力があろう演出を実体験してまずそう思った。
ホモキ演出を観るのは、まだこれで4作目だけど、いわゆる読み替えの強弱は作品により様々されど、そんな表層的なことこだわらずに、人物たちの心理に即したこと細かな描写や場面の鮮やかな急展開、そして、そう来たかと思わせる落とし所の意外性とその納得感。
スピード感と若々しさ。演じる側の負担も大きいかもしれないが、観る側からしたら、息も切らせぬ舞台に目を離せないし、既知のオペラがこの次どうなっていくだろうという憶測の楽しみも味わえる仕組みとなるわけだ。
効果ねらいのへたな読み替えは、面白さはあっても、有名オペラ以外は、へたすりゃ慣れない方の誤解を生むだけとなるが、ホモキ演出は、あらゆる方に等しく訴える力を持っていると思う。(でも、西部の娘はよくわからなかった・・・・)
ホモキも述べているように、フィガロは、モーツァルトが貴族という体制批判に託した先進の思いを、時代設定を廃して「非歴史的空間」としたことで、鮮明に打ち出している。
オペラの開始前から、舞台には、狭小な四角い枠が据えられ、この中でドラマが始まるのであるが、舞台装置は、ホモキお得意の段ボールと後に出てくるクローゼットのみ。
最初は、登場人物たちは、領主・婦人・使用人・お小姓・領民などの立場の枠組みをしっかり持っていて、それぞれがそうした衣装をまとっている。
それが、フィガロとスザンナが領主権復権を狙う伯爵との対立軸に立ち始めると、壁の一方が崩れ、天井が少し開き、舞台も斜めに傾いでしまう。
さらに伯爵が形成不利となってくると、壁はさらに開き、天井もさらに空く。
最終幕の、庭園での取り違えのドタバタでは、登場人物たちは、端役にいたるまで真っ白な衣装になってしまい、立場の境がなくなってしまう。
貴族や領主云々ではなく、男と女、そして人間でしかなくなってしまう。
ある意味、モーツァルトの持つ音楽の普遍性を突いた完全なる舞台ではないでしょうか。
人物たちの細かな動きに目が離せないのと同時に、少数ながら登場する領民たちの動きも一人一人が役者的な能力を要求されるくらいに細やかで、見ごたえがある。
引っ越し途上の段ボールを序曲のうちに運ぶのもそうだし、フィガロの場合は男子が、ケルビーノには女子が、という具合に愉快に取り囲むのも領民たち。
そして、ケルビーノの軍隊行きを過剰なまでに揶揄するのも男子領民たち。
ケルビーノを取り囲んでぼこぼこにしちゃうし、進軍には、デッキブラシを使って銃となし、彼を壁に立たせて銃殺もどきのパフォーマンスを見せてくれちゃう。
モテ男、女たらしとしての存在を際立たせた演出ならではの男の嫉妬場面。
人物の感情表現が、例えば、手近の壁を叩いたり、床を踏みしめてイライラを表出したりと、問わず語り的な日本人の感情表現と違って、はっきりしているところも、オペラではわかりやすい動きかもしれない。
終幕で、伯爵が間違いを悟り、ペルドーノ・・と婦人に許しを乞う場面。
混乱の中から、即転で、神妙な音楽に転じるモーツァルトの音楽の神がかりの場面だけど、ここから終結までは、さほどの動きはなく、わたし的には消化不良。
全員が同じ衣装でそろって仲良く大団円なのだけど、もう少しひねりが欲しかったかも。
今回は舞台の細かな記載はしません、というかできません。
もう一度観てみたいホモキのフィガロですが、このプロダクション、4回目となると、このあたりで打ち止めかも。
歌手の若々しさと、太っちょさんが一人もいない、スマートさとキレのよさは、チームワークとしても完璧ではなかったでしょうか。
多彩な多国籍チーム。
イタリア人、ロシア人、ギリシア人、オーストリア人、日本人。
ワーグナーやシュトラウスだったら、ドイツ・北欧・アングロサクソンなどの方々が多いが、モーツァルトは民族を問わずの多彩な顔ぶれも問わない普遍性がある。
みんな強い個性はないけれど、明るい声の持ち主で、各所に散りばめられた名アリアをそれぞれ完璧に歌って、素直に、「あぁ、いい音楽だ、美しい旋律だ」と思わせてくれる歌唱だった。
演技もそれぞれうまくて、的確。
各人、調べたら、皆さんそれなりに活動してて、映像もあるし、HPもある歌手もいたりで、まだまだ知らない実力派がいるものだと思ったりしてる。
一番気にいったのは、ゼーリンガーのケルビーノ。
粒立ちのよい品のいいメゾの声で、ビジュアル的にも可愛くて、あのキルヒシュラーガーを思い起こしてしまった。
ロシアのソプラノ、コルシュノヴァはスタイルが抜群で、スーブレット的なてきぱきスザンナというよりは、もっと女性的な存在として見えて、その歌もそうした感じに聴こえた。
ギリシア的なエキゾチックなくっきり美人、パパタナッシュは、銀髪の鬘だとやや違和感あったけど、最後に鬘を外して黒髪で出てきたときはかなり美しくて、目を見張ってしまった。その歌唱は存在感あったけれど、低い方にややクセを感じたけどそれもまた微細。
前回上演では、あのカワユイ、コヴァレフスカが婦人を歌ったみたいだから、ほんとうに悔やまれます。
伯爵は、その前回に続いてのレガッツォ。この人は素晴らしい。
明るめのバリトンで、アクはまったくなく滑らかでありながら伯爵の押し付けがましさも歌いだしていたと思う。
その対比としてのヴィノグラートフのフィガロも、ロシア人とは思えない明確な歌い口。
伯爵との声の対比では、どうかとも思われたが、その姿とともに若々しい声によるフィガロでありました。
日本人歌手による他の諸役は、ずっと定番の方々で、まるでなりきり状態。
こうして、脇をしっかり固めているからこそ、舞台が映えるのですな。
なかでも、気にいったのは九嶋さんのキュートなバルバリーナ。
指揮は、ドレスデン出身の若いギュットラー。
氏のHPはこちら(ローエングリンが鳴りますのでご注意を)
この人、何気に登場したとおもったら、やたらとアルミンクばりのイケメンなんですよ。
隣にお座りの殿方が、「おぅ、いい男だなぁ」な~んて言ってましたよ。
そればかりでなく、指揮は完全暗譜で、指揮の半分以上は舞台を見ながら、でもオケには驚くほど的確に、そして弾むように指示をだしていて、舞台とピットを完全に掌握している。
休憩中に指揮台を見たら、確かに何も置いてない、まっさら。
早めのテンポで終始流れの良さと、リズムの良さを感じさせてくれて、一方で情感にも欠けておらず、完全に舞台の出来事とオケが一体化。完全な劇場のカペルマイスター。
ヴィブラート弱めの透明感あるサウンドを、お疲れの東フィルから引き出してました。
そうそう、神奈川フィルファンとしては、浅めのピットなので、コントラバス主席の黒木さんの活躍ぶりが、真正面にうかがえて嬉しいのでした。
精緻な美しすぎる造化の妙のR・シュトラウス。
人間の本能をくすぐり麻痺させてしまうまでのワーグナー。
表面上の美しさを超えてしまった無垢で永久なるモーツァルト。
あぁ、こんなに忙しいのに、仕事も大変な状況なのに、こんな素晴らしいオペラたちを短期間に楽しんでしまった罪なワタクシでございました。
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コメント
おはようございます。またまた同じ空間にいたようです。
>1週間に、アラベラ→トリスタン→フィガロ
凄くも、羨ましいです。こういう元気、喪失気味です。でも、フィガロは頑張って?!出かけました。
>アルミンクばりのイケメン
この方が見たかったのが、最大後押し要因だったかも。爽やか系のいい男でした!! 「ばらの騎士」もアルミンクゆえ、行きたいと思ってます。
確認不足で再演というだけで、シーズンチケットパスしちゃって、後で聞いての後悔、先に立たずです。
肯定的な感想じゃないのは、気がひけるのですけど、TBします・・
投稿: edc | 2010年10月21日 (木) 08時20分
euridiceさん、こんばんは。
そうですね、またかぶりましたね。
私も、こんな連続鑑賞はスケジュール調性もさることながら、体に堪えるようになってきました。
でも好きな作品ばかりでしたので、気分は全然OKなのでした。
私は、フィガロはいつでもどこかで観れると思ってましたので、ずっとパスしてきてしまいました。
今回はバリエーションセットでしっかり観劇しましたのは、やはりホモキ演出を観たかったからです。
初めてでしたので、新鮮で、ちょっとはしゃいでしまいました(笑)
投稿: yokochan | 2010年10月21日 (木) 21時43分
いつ感想があがるのが楽しみにしてました。
ホモキの演出、凄いですね。「読み替え」がここまでリアルだと、演出がオペラに与える強力なインパクトに震えが止まりませなんだ。ただ、このような演出であれば、歌手に多大な演技の負担がかかると思われ、その日その日の体調や、演技への習熟度が必要。yokochanさんのように楽日を観ればよかったかしら。13日ではまだ練れていなかったのがちょっぴり残念でした。
僕もゼーリンガーのケルビーノ、レガッツォのアルマヴィーヴァが抜群だったと思いましたし、ヴィノグラードフのフィガロ(粟国演出「カルメン」のエスカミーリョ)、それとギリシアのパパタナシュ(美貌に目が釘付け・・・)がよかったですね。ただ、スザンナのゴルシュノヴァの演技が生硬だったことと、パパタナシュの透明で明確な発声に比べ、なんか暗めて粘りがあるように思え「?」でしたけれど。
バルバリーナの九嶋も、モーツァルトが与えた珠玉の一曲(本当に綺麗。モーツァルト・オペラ中、屈指のアリアだといわれるわけだわ)と演出のおかげで端役のはずなのに、光ってたと思います。
ともかく、この公演、「アラベラ」より衝撃的で、記憶に残るものでした。
投稿: IANIS | 2010年10月22日 (金) 00時08分
IANISさん、おはようございます。
最終日は客入りは少なめで、落ち着いた雰囲気のなかでゆったり観劇できました。
最初から、最後まで、ホモキ演出にくぎ付けで、その意図も明快で、かつモーツァルトの音楽を全く阻害していないところが見事でした。
歌手たちの印象は同意見です。今の歌手たちは、体型もビジュアルもかつてと違って見映えがしますね。
その維持と、俳優なみの演技力が要求されるわけですから大変だと思います。
バルバリーナのあのアリア。プティボンが来日のたびに歌っているんです。
目のつけどころがシャープです!
投稿: yokochan | 2010年10月22日 (金) 09時27分