「グラナダ」 ホセ・カレーラス
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アルファーノの「シラノ・ド・ベルジュラック」を視聴。
アルファーノ(1875~1954)は、ご存じの方は知っている、未完に終わったプッチーニの「トゥーランドット」を補筆完成させた、イタリアのオペラ作曲家であります。
弊ブログでは、トルストイの小説をオペラ化した「復活」をすでに取り上げております。
10作以上ものオペラや、広範なジャンルに曲を残した人ながら、これまで全然かえりみられることのない作曲家。
脱トゥーランドット・イメージを持たなくちゃいけない。
ということで、「復活」とともに音源のある「シラノ・ド・ベルジュラック」のCDは、かねてより聴いていたけれど、残念ながら歌詞も附属しておらず、大筋しかわからないオペラのひとつだった。
それが、なんと、あの秘曲に熱い東京オペラプロデュースが、12月に上演してくれるというじゃありませぬか。
それは当然に観劇するとして、このオペラをちゃんとモノにしなくちゃならない。
どげんかせんといかん、と思っていた矢先の今年半ば、某Y楽器のショップの閉店セールにて、大幅値引きで、DVDを入手。
いやはや、この実は千葉にありながらマニアックな店では、何度もこうした音源や映像を入手してきた。
こたびも、いくつか泣いて喜ぶようなものを確保してありまして、徐々に繰り出す予定につき、どうぞお楽しみに存じあげます。
アルファーノ 「シラノ・ド・ベルジュラック」
シラノ・ド・ベルジュラック:ロベルト・アラーニャ
ロクサーヌ:ナタリー・マンフリーノ
クリスティアン:リチャード・トロクセル
デ・ギーシェ:ニコラス・リヴァン
ラグノー :マルク・バラール
大尉カルヴォン、ド・ヴァルヴェール:フランク・フェラーリ
ル・ブレー:リヒャルト・リッテルマン
マルコ・グイダリーニ指揮 モンペリエ国立管弦楽団
モンペリエ劇場合唱団
演出・装置:デイヴィット&フレデリコ・アラーニャ
(2003.7 @モンペリエ劇場)
主人公のシラノは、17世紀フランス、実在の人物で、剣豪・文学者・詩人・理学者・哲学者という多彩な顔も持つ才人だったらしい。
19世紀の終わりごろ、ロスタンという人が、このシラノを題材とする戯曲を書き、舞台で上演すると大あたり。
舞台も映画もミュージカルも、人気を呼んで、日本でも盛んに上演されている。
簡単なあらすじを。
歌詞は、フランス語で書かれてます。
第1幕
街で士官候補生のクリスティアンとロクサーヌ嬢が出会い、言葉を交わすことなくも、お互い魅かれあう。
やがて、屋外で芝居が始まり、ロクサーヌは家政婦さんとともに観劇。
貴族が瀟洒に演じ始めるが、そこに乱入してきたのはシラノ。
人の何倍もある大きな鼻がいかつい風貌だ。
彼は、その役者をからかい、やがて決闘となるがその実力はシラノの比ではない。
適当にもてあそぶシラノ。ここでは、たくみな詩に託したアリアを歌いながら剣に従じるアラーニャの若々しさに舌を巻くこととなる。
その騒ぎのあと、家政婦がシラノのもとに、やってきて、ロクサーヌが会ってお話がしたいと。かねてより恋こがれていたロクサーヌからとあって、すっかり舞い上がるシラノ。
第2幕
ご馳走を囲んで大騒ぎ。そこへロクサーヌがひと目を偲んでやってくるので、シラノは皆をしっしっと締めだす。
ロクサーヌと二人きり。「兄のように慕ってまいりました」の言葉で、うれしくなるシラノ。
手のすり傷を包帯してくれて手を握り合い舞い上がるが、話すうちに、彼女は、彼の隊(カスコン青年隊)にいる若い士官候補生を愛していると告白する。
茫然としつつ平静を取り繕うシラノに、彼女は愛する彼を前線に行かさないでと頼み、気のいいシラノは約束する。
彼女が去ったあと、傷心のシラノのもとに、連帯仲間がなだれ込んできて、シラノの男爵昇進を告げ担ぎあげる。
そこへ、デ・ギーシェ伯爵が偉そうにやってきて、彼をこれまた偉そうに讃える。
皆の要望に応じ、武勇伝を語りだすシラノ。それを「鼻」、「鼻」と揶揄する美男のクリスティアン。名を名乗り、シラノはこいつがそうか、とピンとくるが自制し、怒ったふりをして皆を外に出し、二人きりにしろと叫ぶ。(みなは、眠れる獅子を起こしてしまった・・・とクリスティアンに十字を切る)
勝負を覚悟してたクリスティアンに、シラノは、「俺は彼女の兄、少なくとも兄のような従兄だ」、と語ると、一転豹変する。
彼女を愛しているが自分はおバカで、愛を語れないし文才もないと。
シラノは、では自分がなり替わって手紙を書いたからと渡し、不思議な二人三脚の誕生に二人は意気投合して出て行く。
自分にないイケメン要素、自分にない文才。お互いは補完しあうということで。
第3幕
ロクサーヌの邸宅。夜。
クリスティンが忍んできて隠れている。そこへロクサーヌが帰ってくるが、そこにあらわれたのは、かれまたかねてより横恋慕している伯爵デ・ギーシュ。
戦地に行くこと告げにくるが、ロクサーヌは辟易としていて適当にあしらい、伯爵はそうは思わず、籠に乗り帰ってゆく。
今度はシラノが登場。クリスティアンが来ることも告げ、入れ替わりにそのクリスティアンが出てきて、ロクサーヌといい雰囲気になるが、「愛してます」しか言えない。
「どんな愛なのか語って?」というロクサーヌに答えられず、彼女は幻滅して部屋に上がってしまう。
困ったクリスティアンに、シラノは、任せなさいと言わんばかりに、バルコニーの下からロクサーヌに向かって延々と甘い歌でもって語りかけ、ロクサーヌも徐々に心をほどき、歌も情熱的になると、彼女も陶酔したようになってゆく。
彼女が酔っているのが、自分でなくシラノの歌なのでクリスティンも横にいて穏やかではない。しかし、とうとうバルコニーをよじ登って彼女を抱きしめ接吻にいたるのであった。
その下で悲しい心境のシラノは、複雑な思いを口にする。
第4幕
悔し紛れにデ・ギーシュに戦場に送り込まれたシラノとクリスティアン。
前線で大活躍のシラノは、友人ル・ブレーが忠告するのにかかわらず、危険を顧みずクリスティアンの名でロクサーヌに恋文を送り続けていたのだが、当のクリスティアンはそのことを知らない。
みな寒さと空腹に耐えかねているが、シラノは祖国を熱く歌い慰める。
そこへ恋文にほだされて、戦場にまでロクサーヌはやってきてしまう。
クリスティアンに向かって、その恋文のこと、そしてあのバルコニーでの歌の素晴らしさなどを熱く歌う彼女に、クリスティアンは自分でなくシラノが描き出した人物が愛されていることを感じる。
彼女のいない隙に、シラノを呼び、「彼女はあなたを愛している、そしてあなたも彼女を愛しているのだから今こそ真実を言うように」と勧め、ロクサーヌを呼び、シラノが大事な話があると言い、自分は最前線に飛び出してゆく。
ロクサーヌに向かって、「いや、何もないよ、たいしたことないんだ」と語るシラノ。
その時、銃声がして、クリスティアンが銃弾を受け運び込まれてきて、ロクサーヌにシラノの書いた辞世の手紙を渡す。
敵兵も進んできて、ロクサーヌはクリスティンの死を悲しむ間もなく立ち去り、残ったシラノをはじめとする戦士たちは、戦いに備える。
第5幕
修道院。15年の月日が立ち、ロクサーヌは修道院に暮らし、デ・ギーシュがなにかと援助をしている。
シラノは彼女の慰めにと、毎週土曜日に訪問し、その週の出来事をあれこれ話にくることが習慣となっていた。
シラノの友人デ・ブレーが先に来ていて、今日も来ますよなんて挨拶していたところに、これも友人のラグノーがただならぬ様子でやってきて、二人は飛んでゆく・・・。
そこへ、シラノが疲れ切った様子でようやくやってくる。
シラノの敵対者グループが、彼に向って材木を落とし頭に重傷を負っていたのであった。
編み物をするロクサーヌの後ろ側、いつもの椅子に腰掛けると、「15年で初めて遅れてきたわね」と何も知らないロクサーヌにからかわれる。
いつものように、土曜から一日ごとの話を始めるシラノ。でも様子がおかしくなり、杖も落としてしまい、ロクサーヌが駆け寄るが、帽子を目深にかぶり、大丈夫大丈夫と。
ロクサーヌは、いまでもクリスティンのあの時の色あせた手紙を読んでいて、決して忘れることができない・・・と悲しく歌う。
その手紙を読ませて欲しいとのシラノに応じて、彼に渡し、シラノは手紙を声をあげて読み出す。それに聞き入るロクサーヌ。情感をこめて読むシラノ。
そして、もうあたりは暗いのに読めるはずはない、それにその声は、あのバルコニーの・・・・、ことに気がついたロクサーヌ。
「あなただったの・・・高貴な沈黙・・」と万感の思いに涙にくれるロクサーヌ。
友人ふたりが駆け付け、シラノが瀕死の状態にあることを告げるが、シラノはもう意識が遠くなりつつあって、「そう、決して愛してなんかない・・・、そう土曜日は・・・、これでもういい。。。」と倒れ、友とロクサーヌに看取られながら息をひきとる。
また長くなってしまいましたが、この劇の筋が面白いし、センチメンタルな悲しみと男粋の悲しさにも満ちているものだから、ついつい映像を想い起こしつつ書いてしまいました。
このオペラ、アルファーノの見事な筆致が光っていて、プッチーニでもなく、ジョルダーノやマスカーニ、レオンカヴァッロでもない。
親しみやすいメロディが多く、それらは抒情と甘味さが勝っていて、劇的な激しい要素はあるにはあるが控えめ。
以前の復活の記事では、プッチーニとジョルダーノの中間くらいと書いたけれど、今回は、どちらかというと抒情派のチレーアに近いと思った。
第3幕のバルコニーの場のシラノの愛を語る歌とその後の二重唱などは、もう美しすぎて甘味すぎて、ホントたまらない。トリスタンの長大な二重唱さえも思いおこすことができる。
1幕のシラノの登場の場、2幕のロクサーヌの告白の場、3幕のバルコニー・シーン、4幕でのシラノの羊飼いの歌、ロクサーヌの歌、5幕の枯れ葉舞うシラノの終焉。
こんなところが聴きどころ。
そしてこのオペラはなんといっても、主役テノールのもの。
アラーニャあっての舞台であり、映像。
若々しく、機敏。情熱と知性を兼ね備えた歌と演技にずっと釘付けになり、いつしかシラノの心情を思いはかって見てしまうようになる。
最後の死の場面には、思わずホロリとされてしまうことうけあい。
アラーニャ以外は、トロクセル以外あまり知らない歌手たちだが、いずれも雰囲気抜群で、日本初演を前になんですが、17世紀頃の人物たちの雰囲気はやはり欧州の方々には適わないかも。
ロクサーヌの可愛いマンフリーノに、ぼんぼんのようなトロクセルのクリスティアン。
すべてを知り、いつもシラノのそばにいる友人たちも素敵な連中だった。
モンペリエの劇場は、こうしたヴェリスモ系のオペラ上演に強いようで、音源もいくつもある。南フランスのこの地は、アルルの女や、このシラノの戦闘の地に近いし。
デイヴィットとフレデリコのアラーニャ一族の演出は極めて具象的で、こうした作品の場合とても相応しく、舞台の豪華さも見ごたえありです。
最近、ドミンゴも映像を出したが、そちらも是非観てみたいけれど、シラノのイメージは、アラーニャが相応しく感じるからどうかな? 最後の場面はいまのドミンゴ向きだけど。
あとひとつ音源はこちら。
トリノで上演されたもののライブで、75年にかかわらず、非正規ゆえに音はモノラルでやや貧弱。
でも、こちらも歌手にオケが熱いです。
シラノは、ウィリアム・ジョーンズで、この人はワーグナーやヴェルディのヒロイックな歌を得意としたテノール。ハンブルクオペラが来たときに、私はローエングリンを観劇したが、その時のジョーンズは、ドラマテックというよりはリリカルでとてもよかった。
アラーニャにも負けない、ここでは素晴らしい歌唱です。
曲を知るには、充分の出来栄えの演奏。
そして、12月11日と12日は、日本初演が予定されている。
ダブルキャストで、私は大隅さんのファンなもので、そちらに参ります。
楽しみです。
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辛いラーメン食べちゃった。
昼どきを逃してしまい、さまよっていたら、次々にお客さんが入る中華屋さんがあったので、つられて入ってみた。
「麻辣牛肉麺」とかあったので、何も考えずに指差し注文。
店は全員中国人で期待できそう。
で、出てきたのがこちら。お肉たっぷり。
ても、スープが赤いぞ。
ということで、ようやく商品の名前に気がついたわたくし。
大丈夫かしら?
クラヲタ会の辛いもの好きの皆さんからしたら、腰抜けのへなちょこと思われましょうが、辛いものはそこそこ食べるけど、大辛はちょいと苦手。
なんたって、頭に汗かいちゃうんですよ。
それも、はんぱなく。
風呂入ったみたいになって、シャンプーしたくなるくらいに。
このラーメン、ひと口すすって、こりゃやば、と思い、おもわずむせってしまいそうに。
しかし、慎重に麺をすすり、またスープを飲みを繰り返すうちにだんだんと、慣れてきましたよ、そしてはまってきましたよ。
そして、柔らかなお肉と、野菜も実に美味しくって、スープに合うんですよ。
辛みの常習性って、よくわかるような気がしましたね。
しかし、心配したとおり、店内でわたし一人がびっしょびしょ。
ちょー恥ずかしかった
目黒の「大陸食堂」というお店にて。
今日も幻想を追い求めるのだ!
ベルリオーズの幻想交響曲。
マリス・ヤンソンスの幻想を3種、前回は取り上げました。
こうなりゃ、親父にも登場いただこうではないか。
マリスの親父は、アルヴィド・ヤンソンス。
1914年ラトヴィア生まれ、1984年没だから、まだ活躍できる歳だった。
その息子がもうその年代に近づきつつあり、充実を極めているわけだ。
われわれが知り、音も確認できる2世指揮者は多くて、彼らはみな優秀なところが、政治の世界と大違いなところ。
思いつくままにあげると。
エーリヒ・クライバー→カルロス・クライバー
イゴール・マルケヴィチ→オレグ・ガエターニ
アルヴィド・ヤンソンス→マリス・ヤンソンス
ネーメ・ヤルヴィ→パーヴォ・ヤルヴィ、クリスティアン・ヤルヴィ
アルミン・ジョルダン→フィリップ・ジョルダン
ウィリアム・スタインバーク→ピンカス・スタインバーク
あと、誰かいましたっけ?
親父ヤンソンスの指揮は、中学・高校時代、テレビで何度か見ていた。
来る来るといって、いつも来なかったムラヴィンスキーの代役でレニングラードフィルとやってきた時は、日本にはなじみある指揮者すぎたので、がっかりしたもんだ。
今思えば贅沢で、もったいない話でありますが、その指揮ぶりは、優美でありながらも熱いもので、指揮棒を持たない姿はとても印象的だった。
CDで復活した万博の年の、チャイコとショスタコの5番。
まだ未入手だが、それらの曲をよく知ることになったのは、そのテレビ放送であったのだ。
そして、今回の幻想交響曲。
レニングラード・フィルとの1971年の録音。
このCDには、1960年ものと表記があるが、71年のものらしい。
2CDのもう一方、ムラヴィンスキー元帥のものが60年で、それとは明らかに録音の鮮度が違う故。
こちらは鮮明な録音で、演奏の方もなかなかに鮮烈でまだ50代だったアルヴィドの若さも感じさせる。
ロシアオケの幻想なんていうと、ちょっと敬遠してしまうが、ブラインド視聴したら、最初の方は絶対そうとは気がつかないと思う。
緩急と強弱がとても豊かで、音の扱いがとても丁寧。時おりかけるアッチェランドも効果的で、表現の古さなどは一切感じさせない。
1~3楽章までは、実は息子マリスの演奏に似ているくらいなのだ。
マリス氏は、自分はヨーロッパ人だと述べているとおり、この親父の演奏もヨーロッパのそれを感じさせる。
しかし、4楽章の断頭台から、ちょっと雰囲気が変わってくる。
音の刻みが短く、ぶつ切れ的な解釈で、不気味なイメージを醸し出し、金管もロシアっぽさが徐々に顔を出し、おらおらしっかりせんかい、と怒られてるみたいになってきて、首がチョンと切られちゃう。
この勢いで、ヴァルプルギスに送り込まれたらどうしようと不安にかられるが、実はそうでもなかった。鐘の音色が繊細で美しかったりするもんで。
でも油断大敵、最後の方は猛烈な追い打ちをかけられ、ひいひい言わされ強烈なエンディングに付き合わされる寸法だ。
これは息子も真っ青の面白い幻想だと思った。
ほかの父アルヴィドの音源を集めてみたい。
ちなみに、ムラヴィンスキーの幻想は冷徹無比のストレートなもの。
異論はあるかもしれませぬが、ヤンソンスの方が好きだな。
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いまだ冷めやらない日曜に聴いたヤンソンス&コンセルトヘボウの絶品マーラー。
何度も何度も、あの3番のいろんなフレーズが頭の中でなっております。
コンセルトヘボウのサイトに、日本やお隣、韓国での様子が動画で紹介されてますよ。
http://cultuurgids.avro.nl/front/indexklassiek.html
開演前に見たラゾーナ川崎の写真もたくさんありますもので、本日も、ヤンソンスを聴きながらここにアップさせていただきたく。
今年、ヤンソンスは、体調がすぐれず、春はウィーンのカルメンもキャンセル、来日前もインフルエンザにかかってしまいいくつかキャンセル。
でも、相変わらず元気な姿をわたしたちの前に見せてくれました。
ちょっと痩せたかな、歳とったかな、とも思いましたが、仕事の鬼のようなヤンソンスだから、これからますます復調して凄演を各地で聴かせてくれることでしょう。
ふたつの名門をかけ持ち、合間にベルリンやウィーンでも指揮をすることは大変なこと。
少しばかり仕事量を減らして、さらに大変かもしれないけれど、オケピットでの仕事を増やして欲しいものであります。
そう痛感するのは、今日の1枚を聴いてなおのこと。
もう一方の手兵、バイエルン放送交響楽団を指揮したR・シュトラウス。
今年2月から聴きだした、バイエルン放送響60周年のボックスの最後の1枚なのです。
歴代の指揮者の代表的なライブを1枚1枚丁寧におさめたボックスは、ほんとうに聴きでがあった。
R・シュトラウス 楽劇「ばらの騎士」組曲
交響詩「ティルオイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」
最後の4つの歌
S:アニヤ・ハルテロス
マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団
(2006.10、2009.5@ヘルクレスザール&ガスタイク)
録音が新しく、放送局のぴっかぴかの音源だけに、音質はやたらと良く、へたなスタジオ録音より、ずっと音楽的で雰囲気も豊か。拍手も入ってます。
冒頭のブリリアントで目覚ましい響きのホルンによる開始から、これはもう、劇場にいて幕がサッと上がって、マルシャリンとオクタヴィアンがいちゃついているのが見えちゃうくらいに生き生きとした「ばらの騎士」の開始。
冒頭→銀のばらの献呈→オックスの怪我→マリアンネとのからみ
→オックス男爵のワルツ→終幕の3重唱→オックス男爵の陽気な退場
こんな配列で休みなく演奏されるが、コンサートピースではありながら、そこはシュトラウスだし、本編オペラをこよなく愛するものとしては、その場面を思い浮かべながら視覚を補いながら聴く25分間は、最高の楽しみなのであります。
バイエルンのホルンと金管の素晴らしさと、柔らかな木管、暖かな弦、それらがマイルドに溶け合い、けだるいまでに私の耳をくすぐる。
そして、精妙極まりない、ばら贈呈や3重唱での透明感。
弾みまくり、いやでも乗せらてしまう、オックスがらみの場面。
来日公演でも、ふたつのオケで、アンコールで何度も取り上げてくれた。
ヤンソンス&バイエルンで、「ばらの騎士」を全曲やってくれないものだろうか。
同時に、コンセルトヘボウでもそれを望みたい。
「ティル」も生きがよく、その精度の高さは抜群で、ピアニシモからフォルティッシモまでの段階のレベルがいくつもあるように感じる鮮やかさ。
聴いていて面白いと同時に、音楽的な演奏。
こちらは、コンセルトヘボウとも日本で演奏してくれましたな。
「4つの最後の歌」は、この曲だけ、ガスタイク・ホールになっている。こちらのホールの方が音が近くリアル感が強いが、雰囲気では昔からのヘラクレスザールの方が良いかな・・・。
しかし、ここでも絶妙で、刻々と変化するシュトラウスならでは音の色合いの妙を堪能できる。秋や、夕空にうつろいゆく想い、そして死を前にした諦念の美しさ・・・、こんなシュトラウスのこの音楽に必須の要素が心をこめて表出されている。
ヤンソンスは、こうしてだんだんと、しみじみした音楽を深いところで表現できるようになってきているのだろう。
先日のマーラーの後半部分などもそう。
音楽を生き生きと、あるがままに聴かせるところから、さらに一歩踏み込んで人の心に触れる何かを掴み取ろうとしているように感じる。音楽に真摯に、深く接することをますます極めているヤンソンス。
ただ美しいだけではない音楽が、自ら語っているようだ。
この曲は、何度も書くけど、シュナイト&神奈川フィルの神がかり的な演奏を聴いてしまって、独唱の松田さんが泣きだしてしまうという途方もない名演で、あれがまだ耳にある。
あれは別格として、このヤンソンス盤はオーケストラの素晴らしさでは相当なものに思う。
ハルテロスは、だいぶ前に新国の「マイスタージンガー」で、エヴァを歌うのを観劇したが、やたらと背が高かったのが印象的で、その時のやや可も不可もない歌唱からすると、歌いまわしが実に自然で、少し強めの声質をコントロールしながら、ニュートラルな表現につとめている。
ヤンソンスの描きだす、絶美のオーケストラを背景に美しく歌いあげているのがよく、若く鮮度高い声を聴く喜びもある。
あと何年かしたら、もう一度歌ってもらいたいようなハルテロスの歌でした。
手元には、この録音の3年前、2006年4月のルツェルン・ライブ音源もあり、聴き比べてみた。
歌手はリューバ・オルゴナソーヴァで、彼女の歌がハルテロスに比べると、隈取りが濃く、濃厚に感じる。無垢なハルテロスの方がいいかも。
そして、ヤンソンスはここでも確かに精緻で、やたらと上手い。
しかし、後半の2曲では、テンポがそれぞれ30秒ずつ短く、2009年盤の方がよりじっくりと音楽に向き合った感がある。
3年の隔たり、このコンビの親密度とヤンソンスの円熟ぶりを物語っているのだろうか。
バイエルンもコンセルトヘボウも、日本で人気オケになりました。
本日より、クリスマス1ヶ月前、クリスマスバージョンに切り替えます。
バイエルン放送響ボックス過去記事一覧
「ヨッフム〜フルトヴェングラー交響曲第2番」
「クーベリック〜ブルックナー 交響曲第8番」
「コンドラシン〜フランク 交響曲」
「デイヴィス〜エルガー エニグマ変奏曲」
「マゼール~春の祭典・火の鳥」
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ミューザ川崎。
音響の良さは、外来オケが好んで来演することからも折り紙つき。
わたしは、ホールの構造が苦手なのだけれど、音の良さやアクセスのよさは最高と認めざるをえません。
ホールの中身は、ロビーのテレビにて。
開演に間に合わなかったかったり、途中退席したら、ここで観劇するんだろうな。
幸いにして、わたしは今までそうした経験はありませぬが。
ここで、日曜の晩に最高級のマーラー演奏が展開されたのでございます。
マーラー 交響曲第3番
Ms:アンナ・ラーション
マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
新国立劇場女声合唱団
FM東京少年少女合唱団
(2010.11.21@ミューザ川崎)
毎年この時期は、日本はヤンソンス一色になります。
ふたつの手兵、コンセルトヘボウとバイエルンを交互に引き連れて来日してくれる。
去年のバイエルンは、ソリストのマネジメントギャラ高で、高額チケットに遅れをとってお休みしたけれど、ここ数年ずっとヤンソンスを聴いてきたわたくし。
今年はなんといっても、マーラー・イヤーだし、そのマーラーゆかりのコンセルトヘボウとの3番なんだから、これはもう、何を差し置いても行かなくちゃならん。
おまけにですよ、わたくしの誕生日の公演なんだから、もう~。
家族は祝っちゃくんない歳だからして、自分で自分を、そしてマーラーに、マリスに、コンセルトヘボウに、それから音楽仲間に祝ってもらっちゃおうという寸法ですわ
マーラーって、どうしてこんなに優しいのですか?
ちょっと、泣かせないでよ
「愛が私に語ること」、終楽章では、もう涙が、涙が止まりません。
自然に溢れる涙が、頬を伝い、口に達する。
あっ、しょっぺぇ~。
そんなことを無意識に感じつつ、わたくしは、マリスとコンセルトヘボウの紡ぎだす純粋なマーラーに心身ともにどっぷり浸り、陶酔しきってしまったのです。
そして、この曲の独唱のスペシャリスト、ラーションが4楽章で登場するや、音楽は急激に引き締まり、深淵さと親密度とを増した。
ともかく、彼女の歌はとんでもなく素晴らしい。
大柄なお姿とは裏腹に、繊細かつ絶妙な歌はツァラトゥストラの詩の言葉ひとつひとつの重みをしっかりと、我われ一人一人の心に刻みつけるような名唱。
彼女のドレスの紫から紅の色合いにピッタリの歌声でありました。
次いで、「ビムバム」は、毎度おなじみ新国合唱団の生き生きとした歌声に、可愛い子供たちの無垢な合唱、そこに加わるラーションの琥珀色の声。
夢のような世界でした。
ビム・バムが余韻を伴って消えると、静かに始まる「愛が私に語ること」・・・・・。
ここから溢れだす涙・・・・・。
ずっと、ずっと浸っていたかった。
ほんと、自然に高まっていった最後の感動の頂点。
2基のティンパニの連打、オーケストラ全員の全奏は観ているだけで鳥肌が立ち、両手を握りしめ、感動にわなわなと打ち震える。
エンディングの最強音で、ヤンソンスの指揮は3度にわたって大きく振りかぶり、ホールを圧倒するフォルテで曲を終結させたのでした。
拍手できませなんだ・・・・・。
6楽章のこの長大な交響曲。
この作品には、全編、歌がみなぎっている。
オペラを書かなかったマーラーの、「千人」とは別のオーケストラによるオペラ的作品。
オーケストラによる、これまた長い前半の3つの楽章。
連日のコンサートによる疲れもあるのでしょうか、オケは、ちょろちょろとやらかしてます。
でも、それはご愛嬌だし、熱烈なヤンソンスの指揮に免じて、そして名門コンセルトヘボウも人の子だった。
鉄壁のバイエルンでは、決してこんなことはないであろう。
でも、このちょっと人間的な温もりのような感じが、コンセルトヘボウでありまして、ハイティンク時代の味わいの豊かさは一部失われたかもしれないけれど、とっても親しみを感じさせるオケになってきたのではないでしょうか。
今回の席は、2階Lで、ヤンソンスの左手、ハープの真上最前列。
オケの全体とヤンソンスの指揮ぶりを俯瞰でき、ホールに響きがこだまするのを正面に感じることのできる良席だった。
ゆえに、オケのメンバーが、ときおり目配せをしたり、他のソロに聴き入ったり、心配そうにしたり、出番に備えたり、微笑みあったり、そして、子供たちの歌と姿をにこやかに見守る、そんな様子をしっかりと確認できたのです。
人間的な、素晴らしい奏者が集まった素敵なオーケストラであります。
行進曲としての生き生きとした推進力を感じさせた1楽章。
弾むヤンソンスの面目躍如たる自在さと、豊かなアゴーギク。
しなやかなで、コンセルトヘボウの弦の美しさ、とりわけ、ヴィオラとチェロの素晴らしさを感じた2楽章。
私の席から、開いた扉から白いTシャツ(下着?)姿で演奏するのが丸見えだったポストホルン氏の澄んだ音色が印象的だった3楽章。
こちらは、モザイクのようなとりとめなさも、不思議な調和を感じさせるヤンソンスの巧みな棒さばきが光ります。
そんなこんなの前半に、感動炸裂の後半。
ホールは異様なまでの熱気を伴った歓声に包まれました。
鳴りやまぬ拍手に応えて、ヤンソンスは楽員の去ったホールに一人、出てきてくれました。
少し猫背になって、マリスもちょっと歳をとったな、と思ったりもしました。
真上から手を振ったら、こちらを見てくれましたよ
その鑑賞の興奮をそのままに、アフターコンサートになだれ込み、終電を逃す、はしゃぎぶりのさまよえるクラヲタ人なのでした
乾杯の儀。
今回は、「アバド愛の会」と「クラヲタ会」が合流して、わたしには、とっても嬉しいシテュエーションと相成りました。
しかし、皆さんよく飲む。
飲みにきたのか、コンセルトヘボウしにきたのか、さっぱりわかりません(笑)
しっかし、今宵のマーラーの素晴らしさが、このような気持ちの高まりになっていたのは間違いありません。
月曜の今日も、彼らは東京で同じ曲を演奏しているはず。
多くの皆さんが、ヤンソンスの終楽章に焦点を定めた名演と、なによりもマーラーの愛に感動していらっることでしょう
酔ってさまよう。シネチッタの美しい様子。
いま私は、NHKで放送された、このコンビの同じ演目の映像を観ております。
同じメンバーが弾いてます。ヤンソンスの指揮ぶりも同じ。
やはり、本拠地の響きと楽員の演奏の精度はこちらの方が素晴らしい。
しかし、昨日のミューザも、それにも負けない博愛の神が舞い降りたような終楽章だった。
そして、思いおこすのは今年、神奈川フィルで聴いた、金聖響のマーラーの3番。
青春譜のようなどこまでも純真なマーラーだった。
ヤンソンス&RCOは、ヨーロッパの大人のマーラー。
聖響&神奈フィルは、横浜の生み出した若い真っ直ぐなマーラー。
ヴァイオリンの音色は、実は、コンセルトヘボウのコンマスより、石田コンマスの方が息が詰まるような繊細さで、上をいっている。
2番も3番も、今年、こんな素晴らしい演奏を聴いてしまっていいのだろうか。
マーラーの3番の記事を自己リンクしておきます。
「アバド&ウィーンフィルの音盤」
「ハイティンク&シカゴの音盤」
「ハイティンク&コンセルトヘボウの音盤」
「金聖響&神奈川フィルのコンサート」
今回はネタが豊富なので、隣接するラゾーナの画像も追加しちゃいます。
きれいでしょ。
アンドレア・シェニエに、マーラーの「復活」に3番。
いずれの充実ぶりに、ちょっと腑抜け状態です。
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晩秋と初冬の境目。
今週の土曜もまたNHKホール。
わたしにとって、N響に魅力的なコンサートが続いている。
そして、新鮮なマーラーが聴けた。
マーラー 交響曲第2番「復活」
S:クリスティーネ・リポーア
A:アンケ・ファンドゥング
マルクス・シュテンツ指揮 NHK交響楽団
東京音楽大学合唱団
(2010.11.20@NHKホール)
マルクス・シュテンツというドイツの中堅は、今が旬の指揮者で、これからいろんなポストを得て大活躍することでありましょう。
なにより、オペラが振れるのがよい。ケルン歌劇場を率いて、上海で先頃「リング」上演をしたツワモノだ!
貴重なリング通しを、ついでに日本でもやって欲しかったところだが、発展著しい中国には行っても、日本には来ない演奏家が今後も増えるのでしょうな。
雑談はさておき、シュテンツの指揮ぶりは、なかなかの本格派で、左右巧みに振り分けながら、奏者への指示は細かすぎず、流れと全体の構成を重視したしなやかなもの。
そして、その音楽は、敏感かつニュアンスに富み、繊細さを重視した大人のマーラーに感じられた。
第2ヴァイオリンとビオラを入れ替えた対向配置。
2基のティンパニや、大小銅鑼をはじめとする打楽器群も左右に分かれるオーケストラ。
きっちり25分の第1楽章。長大さも少しもだれず、大音響もうるさくない。
強弱の幅が豊かで、この楽章の肝、しいてはマーラー指揮者のリトマス紙ともいうべき中間部。
冒頭場面が再現し、打楽器、ティンパニが炸裂したあと、音楽は死に絶えたように止まり、その後、低弦がうごめくようにはい上がってくる。
ここでの休止の緊迫感と、低弦のニュアンス豊かな最弱ピアニッシモ。
テンポもここではすごく落としている。
限界の緊張の見事な表出に感じた。
こんな微妙で自在な表現は、続く早めのテンポ設定の2楽章でも威力を発揮していて、思わず耳をそばだてしまう新鮮さを持っているのだ。
さらに、3楽章、ここでも低徊することなく進むが、子供の不思議な角笛を強く意識させる歌謡性を感じた次第。
次ぐ「原光」は、シュテンツの解釈をそのまま理解し、同質化したアンケ・ファンドゥング。
この人は素晴らしい。
繊細きわまりない歌い口を貫きながら、巨大ホールにその深い声をも届けることができているのだった。
わたしの記憶違いでなければ、彼女は、バイロイトにも出ていたのではなかったでしょうか。
深淵ではなく、何故か優しい雰囲気の4楽章の後は、巨大な終楽章。
まるで、オペラを観て、聴いているかのような伸縮自在・縦横無尽のドラマが嫌味なく展開される思いに酔い、浸ったのです。
ビジュアル的にも、左右の打楽器奏者が、いくつもかけ持って、出番に備えてそろりそろりと移動する様子なども見ながら、大いに楽しんだ次第にございます。
ともかく、音の出し入れがうまく、聴いてて、あっ、そう来るか・・・、とか思うことしきり。
そして驚きは、スコアが段ボールに入ったまま手元にないので番号を指摘できませぬが、展開部へ導入する打楽器によるクレッシェンド。
復活視聴歴35年になるけれど、こんなに長い、どこまでも長いのは初めて!
えーーー、どこまで、と思いつつ聴いてたけど、まだ終わらない。
こんな手段をとっても、全体の構成の一部として聴かせてしまうシュテンツの腕前はどうだろう。
合唱の入りも、極めて繊細。
だから、フォルテの個所がとても雄弁で、どこまでも幅があるように感じる。
リボーアのソプラノが、ちょっとフラットぎみだったけれど、そののちは万全。
独唱・合唱ともに相和して、バンダ・オルガンも加わって、大いなるクライマックスを見事に築いて、曲を終結した。
シュテンツの小手先でない、音楽性豊かなユニークなマーラーを堪能することができました。
N響は、こうしたドイツ系の指揮者は、確実に押さえておくといいと思う。
N響かつての伝統の、ドイツカペルマイスター指揮者は、こうしたシュテンツのような進化したマルチ指揮者によってとって替わってきているのであるからして。
最後に、苦言というか課題を。
今日は、最初から最後まで、おそらく補聴器のハウリングと思われるキンキン音に悩まされた。静かなところでは、演奏者も気にしていたくらい。
人のことは言えないが、N響定期の場合年齢層が高く、この事象は非常に多いと思われる。機器の問題として、どうにかならないものだろうか。
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新国立劇場にて、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」を観劇。
このオペラを実際の舞台で観るのは初めてでありまして、名アリア、名旋律、ドラマテックな急転直下の筋立てに、息を詰めるようにして舞台に食い入ったのでございます。
ヴェルディ以降のイタリア・オペラを愛し、探求しておりますが、11作品あるジョルダーノのオペラもそのターゲットのひとつでして、いまのところ、こちらの「アンドレア・シェニエ」と「フェドーラ」、「マルチェッラ」を聴いております。
まだまだ聴きがいのあるジョルダーノのオペラに思っております。
「アンドレア・シェニエ」は、素晴らしいオペラであります。
しかし、一歩間違えると、歴史上の出来事に色恋を絡めただけに、荒唐無稽な舞台となってしまいかねないから、演出家のコンセプトがしっかりしていないと、のんべんだらりと名アリア大会で終わってしまう。
フランス人、フィリップ・アルローの2005年11月の演出は、明快な演出意図とわかりやすい鮮やかな切り口、色彩的な明るい舞台に、流れるようなセンスあふれる舞台転換などがズバリ決まって、極めて見ごたえある上演となっているのでございます。
アンドレア・シェニエ:ミハイル・アガフォフ マッダレーナ:ノルマ・ファンティーニ
ジェラール:アルベルト・ガザーレ ルーシェ:成田 博之
密偵 :高橋 淳 コワニー伯爵夫人:森山 京子
ベルシ:山下 牧子 マデロン:竹本 節子
マテュー:大久保 眞 フレヴィル:萩原 潤
修道院長:加茂下 稔 フーキエ・ダンヴィル:小林 由樹
デュマ:大森 いちえい 家令・シュミット:大沢 健
フェレデリック・シャスラン指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団
合唱指揮:三澤 洋史
演出:フィリップ・アルロー
(2010.11.18@新国立劇場)
全4幕を、ふたつづつに分けて、間に休憩を置いた上演。
効果音なども、ふんだんに取り入れ、全体の解釈と主張に統一性をもたらした演出。
舞台の様子で気づいた点をここに記しておきます。
再演ですが、あと2回の上演があります。
まだご覧になっていない方は、お読みになりませぬように。。。。。
1幕。開幕前から、固く閉ざされたそのパネルによる幕は、斜め鋭角に切られていて、片隅には白いゴミのようなものが落ちている。
この斜め切りは、ギロチンの刃をイメージしたそうな。
音楽開始とともに、白いドレスの女の子と、白い作業着の執事たちが現れ、掃除を初め、同じく白い衣装のジェラールも登場する。
アルローによれば、登場人物たちは、みな白を纏うようにしたという。
身分や立場は、色は白でも、スタイル・デザインで識別できる。
これに、赤や青が加わって、トリコロールカラーが実によく映える仕組みだ。
そして、パネルには宮殿が映し出されていて、それが斜めなまま開くと、そこは宴が催される宮殿内部になっているという仕組み。
ここでもアルローによると、絵画を参考にしている由で、1幕はロココ時代のフラゴナールの世界をモティーフとしたといいます。
もったいつけた貴族たちが次々に入場してくるが、マッダレーナはドレスに着替えておらず、詩人アンドレア・シェニエも平服のまま。
これらの中では、芸達者な加茂下さんの修道院長が味ありすぎで、ケーキやらなにやら、ずっとむしゃむしゃ食べてる。
貴族たちが顔をそむけてしまう、シェニエの告発のアリアでは、おもいきり吐いてましたよ(笑)
やがて手に手に、斧や鎌を持った黒ずくめの民衆が入ってきて貴族たちを震撼とさせるが、それでもダンスは止まらない。ダンスがすんだら・・、なんていってる間もなく、民衆は貴族に襲いかかり修羅場となるところで、パネルが斜めに閉まりギロチンの音とともに1幕終了。
幕間は、1幕で出てきた民衆の行進の不気味な太鼓の音がずっと鳴り響き、パネルには、古書からギロチンが書かれた部分が何枚も映し出され、やがてそのギロチンは、1台浮かびあがって、刃がザクンと落ちるところまでCGで再現される。
そのギロチンがやがて2台になり、4台になり、8台になり、太鼓の音のクレッシェンドとともに、倍々に増えてゆく。最初数えていたけど、もう何台あるのかなんやら・・・・・。
しつこいくらいのギロチン+太鼓攻撃に辟易してしまった方もいらっしゃるのでは?
アルローは、ここまでして、革命で断頭台に消えた命の数の多さを表したかったのだろう。
2幕は、あまりにも有名なドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」の絵画の世界を背景にしたとのこことで、革命派の勝利を描いていて、銃や槍の先には、貴族の首や鬘が刺さってかかげられ、動物や巨大顔のカリカチュアお面をかぶった人物も見受けられる。
革命だ、なんでもあり、ってことでしょうか。
こうした場面と、高橋さんの、これまたキャラクター豊かな密偵の場面が、新国自慢の廻り舞台でもって巧みに繰り広げられる。
密偵やその仲間は、縞々の服で、これは革命軍内の暗殺者・スパイの衣裳で歴史上もそうみたい。
はやくも、ロベスピエールらの主力とジャコバン党の内部分裂が始まっているのだ。
シェニエと赤いショールをまとったマッダレーナの逢瀬と情熱的な二重唱は、斜めに走った仕切りをうまく活用して、光と影、傍らで見張る密偵など、緊張感ある設定となっていた。
この幕の最後では、革命軍の内部での抗争が描かれ、多くの人々が銃に倒れて銃の激しい音とともに幕となる。
パネルには、赤や青の花火のようなものが映し出された。
3幕は、ゴヤの絵画の時代の暗さを象徴したとのこと。
資金集めをするジェラール。トリコロールカラーがいたるところに。
マラーだか、誰だかの首も置いてあります。
老女マデロン(竹本さんの印象的な歌)が、十字架が斜めにたくさん立つ墓場を放浪する場面。廻り舞台の効果がここでも絶大。
ジェラールの名アリアも、葛藤を表わすように影の彩どりが暗く、マッダレーナの、これまた感動的な名アリアでも、光と影の効果が素晴らしく、歌の見事さも手伝って涙が出るほど感動した。
シェニエの裁判のあとは、傍聴席にいた貴族の残党狩りが始まって、ここでも大量惨殺シーンが・・・・。そして、ギロチン音がシャキーーン。
4幕は、ロマン派のフリードリヒの世界といいます。
前半はパネル前で。女囚と入れ替わるマッダレーナは、きょとんとした元貴族の若い女囚を抱きしめます。
斜めにパネルが開き、シェニエとマッダレーナの最後の高らかな二重唱が始まる。
やがて、パネルは全開となり、二人が情熱的に歌うなか、舞台奥から、これまでの登場人物たちが、ジェラールを除き、全員黒い眼隠しをして前に進んでくる。
そこには、これまで何度も出てきていた子供たちもいます。
死刑囚のふたりの名前は、舞台裏から驚くほどの音量で流されます。
「Son io!」(ここに!)と二人は答え、「Viva la morte insiem!」(さぁ、ともに死を!」と最後に歌うと、後ろの人々が一斉に倒れ、少し遅れてジェラール、そしてシェニエとマッダレーナが倒れてこと切れる。
しかし、子供たち4人は死ぬことなく、舞台奥に進んでゆき、その舞台奥がオレンジ色に輝き、子供たちのシルエットが浮かんで、感動的に幕を閉じました。
社会が変わっても、死が死を呼ぶ歴史は、いまもどこかで続いている。
しかし、死が最後まで横溢したアルローの舞台は、最後に夢と希望を描いてくれた。
「リング」の幕切れさえも彷彿とさせる素晴らしい解釈ではないでしょうか。
しかし、どちらも始まれば、そこから最後に向かうのであり、また繰り返されるわけであります・・・・・・。
ファンテーニのマッダレーナが、圧倒的に素晴らしい。
声量といい、歌唱のブレのなさといいい、感情移入の巧みさといい、何度も震えがきた。
彼女、一番拍手をもらってました。
美人だし、明るくナイスなお方で、カーテンコールでは、女の子を抱きかかえてしまい、聴衆のわれわれに嬉しそうに手を振ってくれました。
同じく、今度は男子を抱き上げて、肩車してしまったのが、ジェラール役のガザーレ君。
この若いイケメン純正バリトンは、ベルゴンツィに師事しているそうで、やや陰りをともなったバリトンは、こうしたヴェリスモや、ヴェルディの諸役にぴったり。
久々に耳が洗われるような鮮度高いイタリアのバリトンを聴いた思いがする。
そこへいくと、シェニエのアガフォノフは、立派ながら、ちょっとここでは異質か。
高音もよく伸びて、力強くスピントしてるけど、その発声が少しこもっていて抜けきらない。
イタリア人ふたりを相手にして、やや歩が悪すぎたかも・・・。
そして、毎度毎度、脇を固める新国常連の日本人歌手のみなさん。
ともかく立派です。
トスカでは、威勢がよすぎると感じたフランス人指揮者シャスランは、東フィルから幅広く色彩的な音色を出すことに成功してたようです。
欲を言えば、もっとよく歌わせて欲しかった。
しかし、これは演出のコンセプトを考えるとそうはいかないのかもしれないし。
この日のお客さんは、わたしも含めて大興奮。
盛大な拍手とブラボーでございました。
新国は、年内あと「シラノ・ド・ベルジュラック」と「トリスタン」があります。
そして、早いもので、来シーズンの新制作の目玉がふたつ、チラシで紹介されてましたよ。
オープニングは、予想がぴたりとあたって、「トロヴァトーレ」。あのデカ声フラッカーロ氏登場。
そして再来年には、これまた予想が当たり、「ローエングリン」!
P・シュナイダーの指揮に、イケメンF・フォークト君、メルベトのバイロイト並みの顔ぶれにシュテークマンの演出。
先のはなしだけど、楽しみ。
オペラシティのツリー、毎年お馴染み。
「アンドレア・シェニエ」の過去記事~シャイー指揮
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寒々しい孤城。
ここは、福島県白河市にある、「小峰城」。
最近、めっきり遠出がなくなってしまったので、過去写真を仕訳して引っ張り出しました。
この城は、南北朝時代に起源を遡り、結城、蒲生、上杉、丹羽、榊原、本多、松平、阿部・・・と目まぐるしく城主が変わっている。
新政府軍と東北・越後の軍がこのあたりで壮絶な戦いをしたともあります・・・・。
白河は関東と東北を隔てる関のある要衝で、新幹線も止まります。
わたしは、仕事で一時よく通いまして、街の隅々を走り回りました。
商業施設も大きなものが郊外にたくさんあって、酒蔵もたくさん。
そして、なによりも「白河ラーメン」が極めて美味しいんです。
あっさり醤油の旨口で、麺は手打ち縮れ。縁が赤い、懐かしいチャーシューも美味なんです。
本ブログの左にある、マイフォトのラーメンギャラリーにいくつか載っけてますので、よろしければご覧いただき、ヨダレのひとつも流していただければ幸いです。
アンドレ・プレヴィンの特集。
最後は、遅々とした足取りのショスタコーヴィチ交響曲シリーズの一環も兼ねて、交響曲第13番「バビ・ヤール」をば。
この曲は結構好きでして、記事としてはもうこれで3度目。
ですから、曲についてはもう書きつくしてしまったので、過去記事から再褐させていただきます。
「1962年、スターリン体制終結後のフルシチョフ体制化の作品で、「体制の雪どけ」で固く閉ざしてきたリアルな音楽を書き始めた頃。
エフゲニー・エフトゥシェンコの詩「バビ・ヤール」のいくつかの部分と、さらに、この作品のためにあらたに書かれた詩の5篇からなる。
「バビ・ヤール」は、キエフ郊外にある谷の名前で、ナチスがユダヤ人はおろかウクライナ人、ポーランド人、ロシア人までも大量虐殺した場所という。
ソ連も戦時はユダヤ人を圧迫した事実も忘れてはなるまい。
①「バビ・ヤール」この曲の白眉的な1楽章。ナチスによる暴虐が描かれる。
独唱は、自分がユダヤ人ではないかと歴史上の人物たちを上げて歌う。アンネ・フランクの悲劇についても言及される。リズミカルで不気味な行進調の音楽が2度ほど襲ってくる。
ファシストたちの到来である・・・・。
②「ユーモア」、ユーモアを忘れちゃならねぇ。支配者どもも、ユーモアだけは支配できなかった。辛辣かつ劇的な楽章、オーケストラの咆哮もすさまじい。
③「商店で」、獄寒のなかを行列する婦人たちを称える讃歌。
これも皮肉たっぷりだが、音楽は極めて深刻で寒々しい・・・。
④「恐怖」、これまた重い、重すぎの音楽。恐怖はどこにでもすべりこんでくる。その恐怖はロシアにおいて死のうとしている。・・・・が、詩(DSは作曲であろうか)を書きながらとらわれる、書かないという恐怖にかられる。仮面を被った痛切きわまりない音楽に凍りそうだ。
⑤「出世」、終楽章は一転おどけた、スケルツォのような音楽だ。
ガリレオ、シェイクスピア、パスツール、ニュートン・・・、世の偉人たちが生前そしられ、誹ったものたちは忘れられ、誹られた人々は出世した・・・・。
「出世をしないことを、自分の出世とするのだ」
皮肉に満ちた音楽、最後はチェレスタがかき鳴らされ静かに曲を閉じる。」
こんなシリアスな交響曲だけど、ソ連では長らく封印。
西側での演奏もオーマンディぐらいしか存在せず、コンドラシンがミュンヘンで伝説的ともいえる演奏を亡命を賭しながら成し遂げ、その放送を通じ、私などはこの曲に衝撃を受けるにいたったのであります。
その後は何といってもハイティンクの純音楽的なアプローチによる演奏に続いて、数々の全集録音の一環として、「バビ・ヤール」は聴くこととなるわけです。
全集とならず、単品での録音は、このプレヴィンとヤルヴィぐらいでしょうか。
マイルド派のプレヴィンが、このようなシビアで深刻な曲を取り上げたことに驚いたが、79年の録音は実はあのコンドラシンのバイエルン盤より前なのである。
そして、こともあろうに、わたしの記憶では、日本の当時の東芝EMIはこの演奏をお蔵入りにしてしまって、発売しなかったのではなかったろうか・・・・。
それは、今にいたるまでそうで、お得意の外盤2CDで、ついにプレヴィンのバビ・ヤールを聴くことができたのだった。
80年初頭、やはりこの曲は難解で、売れるという自信がなかったのでしょう。
それはすなわち、当時のこの曲に対する見方のあらわれかもしれない。
いまでこそ、なんのことはないのだけれど・・・・・。
Bs:ディミトール・ペトコフ
アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団/合唱団
合唱指揮:リチャード・ヒコックス!
(79.7@ロンドン・キングスウェイホール)
プレヴィンは、70年代からずっとショスタコーヴィチの交響曲に取り組んできていたので、その流れで、13番も取り上げたに違いないが、さすがはプレヴィンで、曖昧さはまったくなく、音はひとつひとつ磨き抜かれ明快に存在していて克明で、驚くほど力強い。
あのハイティンクの、交響曲の歴史の中でしっかり捉えた演奏と同じような解釈に思う。
ハイティンク盤の強みのひとつは、コンセルトヘボウという香り高いオケと一体になった部分だが、プレヴィン盤は、オケに色が少なめながら高機能でフレキシビリティ溢れるロンドン響を使ったところが、そのしなやかさとアクの少なめな心地よさを呼んでいる。
歌を伴ったバビ・ヤールというメッセージ性の強い交響曲を、威圧感やくどさから救っていうのは、このコンビのなせる技かもしれない。
強すぎる演奏ではない故でございます。
素直に、曲のよさ、面白さが感じ取れるのです。
それにしても、4楽章の「恐怖」は深い、不気味な音楽であります。
バス・テューバの響きに「ジークフリート」の森に潜む竜や、怪しく見張る邪悪な眼差しのモティーフを感じるんです。
プレヴィンの混じりけのない率直な演奏によって、この曲の凄さと底知れぬ深さに、また感じ入り、さらに魅力度を深める想いでありました。
過去記事
「ハイティンク&コンセルトヘボウ」
「オーマンディ&フィラデルフィア」
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街は早くも冬のイルミネーションをまといつつあります。
こちらが、銀座。
松屋はビルごとゴージャスにリボンが掛けられておりました。
不況なのに、個々には活況なのか。
月一、ベルリオーズの幻想交響曲を聴くシリーズ。
今月は、アンドレ・プレヴィンとロンドン交響楽団の演奏で。
1976年、ロンドン交響楽団首席時代の録音で、プレヴィンには、このあとロイヤル・フィルとも自主レーベルへの再録がある。
ウィーンフィルやアメリカのオケとも録音して欲しかった幻想。
EMIの手にかかると、なんでもかんでも無粋な2CDセットにしてしまって、私が持っているのは、レクイエムとのカップリングで、曲にそぐわないジャケットの仕儀となっております。
オリジナルのジャケットは、オケを指揮するベルリオーズのサイケなカリカチュアだったと記憶します。
ご多分にもれず、発売当時、レコ芸さまの月評では散々の評価をいただき、ラフマニノフ以外、まだプレヴィンに開眼してなかった自分も、あぁそうなのか、と思っていた。
しかし、90年頃からプレヴィンをあれこれ聴きだし、その芸風の幅広さと、何よりも音楽造りのスマートさに大いに共感したわけでして、長じて聴いたその「幻想」も、なんであんなに酷評されなくてはならなかったのか怒りを覚えてしまうくらいだった。
この幻想。一部繰り返しを行っていることもあるにしても、演奏時間が55分33秒と長い。
ゆったりめのテンポによる克明な解釈・・・と聴こえるが、確かにテンポはじっくりで、断頭台の行進などは、一歩一歩、踏みしめるような解釈でユニークだが、オケが爽快に鳴りきった感があって、おどろおどろしさは皆無。
続く、終楽章のヴァルプルギスの場面でも、威圧感はゼロで、じっくり感はそのままに、音楽の隅々まで見通しよく、クリアー。
第1楽章から目立っているが、楽器の鳴らし方は、かなりデフォルメチックで音の出し入れもユニークなんだけれど、濃厚さやいやらしさと皆無なのはプレヴィンの人徳とオーケストラのニュートラルな響きによるところか。
コル・レーニョ奏法がこんなに克明で、よく聴こえるのも珍しい。
1楽章から3楽章までは、流れるような流麗な雰囲気で、恋人の動機はとても美しく奏でられ、ワルツも優美。とりわけ3楽章の野の風景は英国絵画的でわたしには淡く素晴らしく感じられた。
前半と後半、どうも印象が異なるように仕掛けているように思います。
夢と実はリアルだった悪夢。
この違いを鮮やかに、そしていつもの洗練された手法で描いたユニークな「幻想」ではないでしょうか!
いくつもプレヴィンを聴いてきて、こんなうまさがあることを認識した「幻想交響曲」でございました。
もう少しだけ、プレヴィンいきますね。
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北海道土産の定番「白い恋人」・・・・、じゃなくて、「面白い恋人」は、大阪新名物だそうな
先月、なんば周辺を散策中、吉本で見つけたもの。
「おもろい恋人」っていうことになるんだろうな。
いかにも大阪らしい。
関東人のわたくしには、恥ずかしッくって買えませんわ(笑)
アンドレ・プレヴィンの特集。
本日は、オペラ行きます。
オペラといっても1時間に満たない軽い喜劇タッチのラヴェルの作品。
「スペインの時」は、情熱的で気まぐれなスペイン女を描いたオペラで、それこそ「おもろい恋人」にこじつけたくなる、ちょっと笑える作品なんです。
コンセプシオン(時計屋の妻):キンバリー・バーバー
トルケマダ(時計屋) :ジョルジュ・ゴーティエ
ラミーロ(ろば曳き) :カート・オルマン
ドン・イニーゴ・ゴメス(銀行家):デイヴィッド・ウィルソン・ジョンソン
ゴンザルヴ(学生) :ジョン・マーク・エインズリー
アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団
(1997.6@ロンドン・アビーロードスタジオ)
18世紀スペインのトレド市にある時計屋さんトルケマダの店。
そこに、ろば曳きラミーロがやってきて、闘牛士の叔父から譲り受けた家宝の時計を直して欲しいと持ちこむ。郵便物を運ぶのに困るんだと。
そこへ、時計屋の妻コンセプシオンが、週一回の市役所の時計合わせに出かけなくていいのか?と急かしにくるので、時計屋は大慌てで出てゆく。
残されたラミーロは、女性とふたりっきりなんて苦手で困り果てる。
一方で、コンセプシオンは、この男をどうにかしないと・・・と焦りまくる。
そう、週一度の浮気の時をむかえていたんです。
そこで、一計。夫に前からねだっていた置き時計を、2階に運んでと、ラミーロにお願いし、彼も、そこから離れられればと、喜んで応じ軽々と持ち上げて行く。
そこへ若い学生ゴンザルヴがやって来て詩を一句歌う。彼は詩人気どりなのだ。
ところが、ラミーロが上から降りてきてしまうので、気が変わったから、もう一つの時計を上げてもらいたいので、さっきの時計をもう一度降ろして、と頼む。
そのすきに、いまある時計にゴンザルヴは隠れてしまう。
ところがそこに、いま一人、銀行家イニーゴがしたり顔でやって来る。
このオジサンも、コンセプシオンの火遊びの相手のひとり。
彼女が、若い学生の入った時計を担ぐラミーロと一緒に2階へあがってしまうと、イニーゴは、お茶目なところを見せてやろうということで、時計の中にやっとこさ忍びこむ。
降りてきたラミーロは、素敵な奥さんだ、などと言っているが、その奥さんに、また時計を降ろしてと言われ、喜んで応じる。
イニーゴは、クックッゥーと鳥の鳴き真似でコンセプシオンをからかい、そして言い寄るが、またそこに、ラミーロが。今度は、イニーゴ入りの時計を易々と担いで上がってゆく。
いい加減、その力持ちに感心しだした奥さまなのでありました。
ゴンザルヴが出て来て甘い詩を口ずさみながら言い寄るが、もうそんなまどろっこしい男に辟易としてきたコンセプシオンは出て行ってくれと、言い放つが、ラミーロが降りてくるので、また隠れる。。。
で、ラミーロはコンセプシオンの顔を見るなりに、頼まれてもないのにもう一度2階から時計を降ろしに上がってゆく。
こうして、男が隠れた時計がふたつ。
さて、今度は、どちらの時計を?とラミーロ。
コンセプシオンは、「あなた一人でいらして」とふたりして2階へあがってゆく・・・・。
若い学生は、時計から抜け出して帰ろうとするが、時計屋トルケマダが帰ってくるので、もう一方の時計に入ろうとすると、中から「入ってます」との声が(笑)
銀行家は出ようとするが、お腹がつっかえて出れない。
大慌ての二人は冷静さを繕うものの、客に大喜びのトルケマダに、そのふたつの時計をまんまと買わされてしまう。
降りてきた妻も手伝って、みんなで銀行家を時計から出そうとするがうまくいかない。
でも、ろば曳きラミーロが、ひょいと出してしまうのが笑えます。
「毎朝、私の窓を下をロバを曳いて通ってね」と妻。
「それでは、毎朝、こいつに時間を教えてください」と時計屋。
最後は、全員そろって「本当の恋人は、役に立つ一人だけ」と歌って楽しく幕となります。
ちょっと長くなりましたが、時計の上げ下げが何度もあって、それらがキモになっているので、詳細になりました。
こんな愉快でマヌケなドラマに、ラヴェルが付けた音楽は、それこそ精密な機械時計のようで巧緻でセンスがよく、洒落ている。
ドビュッシーのペレアスのように、語りのようなレシタティーボのような歌で成り立っているが、人物たちにライトモティーフを与えて、それぞれの特徴が風刺的に描かれているし、みんな短いながらも、アリア風の歌いどころもあるのがニクイところ。
おフランス語の語感の美しさも麗しく聴くことができます。
管弦楽曲を聴くのと同じような感覚で楽しめる、ステキなラヴェルのオペラであります。
ラヴェルのオペラは、ともに短い「子供と魔法」とともにこちらの2作品のみ。
1911年初演の「スペインの時」が、コメディ・ミュージカル。
1925年初演の「子供と魔法」が、ファンタジー・リリックとされる。
どちらも、歌詞対訳がないと厳しいかもしれない。
プレヴィンのラヴェルは、オーケストラ曲では重心がちょっと低めで重く感じる場合もあるが、声楽付きのオペラ作品においては、実に雄弁で、ラヴェルのスコアが透けて見えるような精妙さ加減である。
冒頭の優美で緩やかな時計の合唱と呼ばれる前奏曲からして素晴らしい。
全曲にわたって、ロンドン響の透明感ある音色とともに、柔和でかつ、親しみにあふれ、微に入り細に入り聴かせ上手でもあるオーケストラ演奏なのでありました。
歌手たちは、みなさんうまいもんですね。
それぞれのキャラクターをしっかり歌いだしてますよ。
作品的にさらに好きな「子供と魔法」をまだ取り上げていなかったので、プレヴィンの演奏でいずれまた取り上げましょう。
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公園通りのPARCOの今年のイルミネーション。
タコみたいな、メリーゴーランドみたいな不思議物体。
赤いりんごが周囲にあったから、りんごの木の株かも。
でもパルコのサイトを見たら、マジョルカ マジョルカという新しい香水をイメージしたものなんだそうな。
この中に入ったら、その香りを味わえたかもしれませぬ。
わたしのようなオヤジ一人では、まずは不可能な行為でございますな。
相変わらずの人混みに辟易としたあと、これを見て少し和んで、NHKホール。
武満 徹 「グリーン」
ガーシュイン ピアノ協奏曲ヘ調
プロコフィエフ 交響曲第5番
アンドレ・プレヴィン 指揮とピアノ NHK交響楽団
(2010.11.13@NHKホール)
武満・ガーシュイン・プロコフィエフとプレヴィンらしい演目が並んだ今宵の定期。
オケが出てきてびっくり。
まろ様こと、篠崎さんがオケのメンバーと一緒に早くも登場。
でもセカンドに座り、堀さんが後に登場。
そう、本日は、ダブルコンマスの豪華布陣だったのであります。
そして、まさにプレヴィンの魅力を味わうプレヴィン・コンサート。
これで自作があれば完璧だった。
ガーシュイン1925、プロコフィエフ1945、武満1967。
それぞれの作品の作曲年であるが、それぞれに20年の経過がある。
近代ものの場合、その時代の響きを聞き取るのも楽しいこと。
ジャズの要素と本格クラシカル音楽を融合しアメリカ音楽の独自性を打ち立てたガーシュイン。
第二次大戦末期のソ連といういびつな体制の中で、戦勝ムードとともにむかえられたプロコフィエフ。
高度成長期に差し掛かっていた日本のクラシカル音楽を世界に認めさせることとなる武満徹の初期作品。
ほんと、よく考えられたプログラムであります。
そて、そして、今回来日の最終演目であるプロコフィエフは、N響も乗りまくって、まったくナイスな名演となりました!
この曲との付き合いは長く、中学生時代にサージェントのレコードで開眼し、大学時代は、FM放送をたくさん録音して、毎日聴きまくったものだ。
チェリビダッケ、コンドラシン、カラヤン、マゼール、バーンスタインなどなど。
そして、音盤ではロンドン響とロスフィルのふたつのプレヴィン盤も愛聴しているのです。
難解なモダニストから、平易でシンプルな作品を作る作曲家になったプロコフィエフの5番は、メロディが満載で、リズミカルでもあり、盛り上がりにも欠けていない。
プレヴィンは、この曲のそうした聴きやすさをさらに増すようなかたちで、山場をいくつも作りながら楽章間のインターバルを少なめにして一気に聴かせてくれた。
わたし的には、レコ芸の月評で大木氏に散々の酷評を浴びてしまった旧ロンドン響盤が、メランコリックでありつつ、颯爽としていて大好きな演奏なのであるが、今回のN響とのものは、そうした要素は備えつつも、より自在で繊細さが出ているように感じた。
N響の実力が実はモノをいっているように強く感じ、オケのパワーと緻密さには舌を巻いてしまったのです。
プレヴィンは、そのN響の力を信頼して、小さな動きで大きな音から、繊細きわまりない音まで引き出すことに成功している。
前にも書いたとおり、首が悪いことから、足腰に支障が出てしまっているプレヴィンの腰かけての指揮は、極めてわかりにくい。
しかし、その眼力の鋭さは横で見てるとスゴイものがあって、優しさと厳しさのないまぜになった目ヂカラは、それこそ、クレンペラーばりの域に達しているのではないかしら。
ことさらに素晴らしかったのは、第3楽章の深みある表現で、張り詰めた緊張感があったのがよいし、プレヴィンならではの歌の魅力も感じることができた。
終楽章の常動的な雰囲気が、最後、一気に弾けて終わると、ホールはブラボーの歓声に包まれました。
プレヴィンの指揮に奉じるN響メンバーの熱演たるや、なかなかのものでありました。
演奏後、しばらく立つことのできないプレヴィンを堀コンマスが助けて、客席ににこやかに応じる姿に、私はプレヴィンをずっと聴いてきてよかったと心から思った。
前半の、武満作品は、まるでメシアンのように聴こえた。
美しく、どこまで浸っていたい音楽のたぐい。
最後の最後の数秒で、曲の雰囲気が変わって、終わってしまう。
プレヴィンは、あっさりと指揮棒を置いたが、わたしもふくめ観客はあまりにあっけないので拍手ができず、プレヴィンが何か言ってるのが静かなホールに響いたくらい。
桂曲・桂演でありましょう!
お得意ガーシュインの弾き振り。
ピアノの蓋を外し、オケに対し縦に配置したが、ゆえに、私の席(1F右サイド)では、ピアノの音はオケに埋れてしまってあまり聴きとれないのでした。
放送ではそんなことがないと思いますが、暗譜でまったく完璧にスイスイすらすらと弾いていたスイングする、プレヴィンの至芸が楽しめたのではないかと。
技巧は衰えずとも、音量が落ちたのかしら。オケのメンバーをもっと刈り込んでもよかったかも。
ピアノに埋れながらの雰囲気もある指揮だったので、絶対オケからは見えない場面も多々あって、堀さんが、弓や体で完全に指揮をしてました。
こんな風にオケに支えられながらも危なげなく、ガーシュインの素敵な曲を弾きったプレヴィン。
2楽章の小粋なブルースが、とっても瀟洒な雰囲気を出していて、思わずわたしも、まわりのご夫人方も体を揺らしてしまうのでありました。
今度のプレヴィンの来日には、オケなしで、ジャズコンサートでもいかがでしょうかね。
N響の冊子には、来シーズンの予定がちょっこし出てまして、プレヴィンは10月定期を3つ振ります。
ちなみに、9月がブロムシュテットで、11月がコウト。
次回も早くも楽しみなプレヴィンであります。
その前にN響とは、来春、全米ツアーを予定していて、武満とプロコ5番に加え、エルガーのチェロ協奏曲と、キリの引退コンサートの一環として「最後の4つの歌」を予定している。
ますます蜜月の度合いを高めている、プレヴィン&N響です。
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秋が澄んでくると、夕映えが美しくなってくる。
物心ついた頃から、嫌なことがやたらと起きてしまう11月。
自分の誕生月なのにです。
でもですよ、その頃から冬の夕空を眺めるのがずっと好きだったんです。
中学や高校の時は、自宅の自室から富士の頭が赤く染まり藍色に変わってゆくのを。
大学時代は、よく遊んだ代々木公園の歩道橋や、いまのように喧騒がまったくなかった公園通りの坂から濃紺の空を。
歳を経た今は、そんな空を見る暇がなくなってしまった気がする。
いまの日本人、空を見上げたり、眺めたりする人がいなくなってしまったのでは。
目先のことや、自分のことばかり。
見るものは、PCや携帯の画面ばかり。
このままでは、いかんですね。
でも、こんな呑気なこと言っていらんないし、空ばかり見てたら、どんどん追い抜かれてしまう・・・・。
この空は、昨秋だけど、兵庫の加西市にある世界一の地球儀時計からのもの。
元気に来日中のアンドレ・プレヴィンを聴くシリーズ。
今回の来日では、N響メンバーたちと室内楽を演奏するコンサートも組まれていて、かつてのサヴァリッシュの活躍をも思いおこすことができる。
ともに、ピアノの名手。
でも、そのコンサートは、曲がブラームスからモーツァルトに変更されたようで、プレヴィンの指の負傷とあります。
明日・明後日の定期ではガーシュインの協奏曲を弾き振りするので大丈夫なんだろうか。
今日は、ちょっとオセンチな気分がまだ抜けきらないので、しんみり系の曲を。
バーバー(1910~1981)の「弦楽のためのアダージョ」
弦楽四重奏曲の楽章を自身で弦楽オーケストラ用に編曲したこの曲は、トスカニーニによって1938年に初演されているが、J・F・ケネディの葬儀に使われ有名になったのは皆さまご存じのとおり。
それがあるものだから、私もそういう聴き方をしてしまう。
故人を偲ぶのに聴いてしまう。親父が死んだときも、いろいろ聴いたなかのひとつだし。
でも映画での使われ方などを鑑みるに、その深い響きが、人間存在の根源に結びつき、ドラマ映像を後押しするようにしていたのを思い起こすことができる。
そこでは、人の死ではなく、人間の存在の悲しさというようなものが描かれているように思われる。
静謐で抒情的ありながら、熱気もはらんでいて、最後は慟哭にもにた叫びも聞かれる。
10分に満たない作品ながら、名作中の名作に存じます。
プレヴィンとロンドン交響楽団のコンビによるこのバーバー。
ソフィスティケートされた外観を持ちつつも、プレヴィンらしい柔和な眼差しは、曲の本質と結びついて、聴く者にじんわりとした感銘を与えてくれる。
バーンスタインの演奏が刷り込みではあるが、あちらは思い入れが強過ぎる演奏で、そう何度も味わうことができない。
プレヴィン兄さんのものは、ちょっと寝る前とか、少し落ち着きたいときなどに、さらりと聴けちゃう心優しい演奏なのだ。
このCDは、プレヴィンがBBCでテレビシリーズ化した「ミュージック・ナイト」で演奏された曲をあつめたものの第2弾。
「ルスランとリュドミラ序曲」、「三角帽子第2組曲」、「牧神の午後」、「青柳の堤~The Banks of Green Willow(バターワース)」、「皇帝円舞曲」などもおさめられている素敵な1枚。
バターワースは、実にチャーミングな曲であり演奏なのでありました。
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教会の中にて。
宗教は問わず、宗派も構わず、こうした静謐で神秘的な光のもとでは、誰しも神妙になり、心に何かを感じるはず。
親しい人の死が、まためぐってきてしまった。
亡父の兄にあたる伯父が、亡くなりました。
父の死には、若かった私を励ましてくれた伯父。
子供の頃からずっと親しんできた伯父は、私にクラシック音楽を教えてくれた。
直接の影響は従兄からだけど、その父たる伯父がクラシックを聴いていた。
なにか人を驚かそうとすると、「じゃ〜ん、ちゃららら〜ん・・・・」と、リストのハンガリー狂詩曲でもって登場するユーモアあふれる伯父。
「・・・・鼻から牛乳」以前に、トッカータとフーガを巧みに使用していた芸人のような伯父。
伯父と、その従兄からの影響が多大だった子供時代だった。
父母にねだった「ベームのリング」のレコードも伯父が援助してくれたというし、いまの私のクラヲタ人生形成に切ってもきれない伯父なのでありました。
親父と同じく江戸っ子だけど、仕事の関係でずっと群馬にいて、そこで没した。
猫が大好きで、家や会社で何十匹ものネコを世話していて、わたくしのネコ好きも、ここからきてるかも。
伯父が冷たくなって自宅に帰ってきた晩、猫たちは、伯父の枕元に、じっとして座っていたといいます・・・・・。
今年は伯・叔父がふたり、昨年は伯母に従姉、身の回りの人の死が横溢してしまう年代なのでありましょうか・・・・。
辛いけれど、しっかり生きていかなくてはと思うわたくしにございます。
こんな私的なことを書いてしまってすいません。
我がクラヲタ人生の恩人なものですから、どうかお許しを。
来日中のアンドレ・プレヴィンをしばらく特集します。
しかし、こんな選曲になろうとは思いもよらぬことでした。
ブラームスの「ドイツレクイエム」は、このブログでは、シュナイト師の専売特許みたいに何度も取り上げてきたけれど、実はたくさんCDを持ってるんです。
おそらく多くの方が、この曲はいろんなCDを集めてしまうのではないでしょうか。
CD時代になって1枚におさまるようになったし、個性あふれる演奏が、従来のドイツ系演奏に加えてたくさん出てくるようになったから。
かつては、クレンペラー、カラヤン、ばかりだったけれど、今、手元にはバレンボイムやジュリーニ、アバド、ハイティンクらの非ドイツ系お気に入り演奏に加えて、プレヴィンの指揮ものも存在感を増している。
プレヴィンは、この曲がよほど好きなのか、ロイヤルフィルとも録音しているし、こちらは2000年のロンドン響とのライブ録音である。
私の記憶違いかもしれないが、EMIにドレスデンとともに録音するんだか、したんだかの情報もかつてあった。
S:ハロリン・ブラックウェル Br:デイヴィド・ウィルソン=ジョンソン
アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団/合唱団
(2000.6.18@ロンドン・バービカンセンター)
プレヴィンとドイツレクイエム、結びつきそうでつかないけれど、交響曲なら3番と4番しか指揮しなくて、1・2番には見向きもしないから、プレヴィンの渋好み、というかブラームスの内面的な部分に触発されていることがわかるというもの。
死者を悼んだり、死に怒りを込めたりする死者のための「レクイエム」ではなく、聴く人に等しく「安らぎと平安」を与えるメッセージ性の強い、いわば生きてゆく私たちの「レクイエム」が、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」かもしれない。
Ⅰ「悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らは慰められるであろう」
Ⅱ「人はみな華のごとく その栄華はみな草の花ににている
草は枯れ 花は散る」
Ⅲ「主よ、わが終わりと わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ
わが命のいかにはかないかを知らせてください」
Ⅳ「あなたの家に住み 常にほめたたえる人はさいわいである」
Ⅴ「このように、あなたがたにも今は不安がある
しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう」
Ⅵ「この地上に永遠の都はない 来たらんとする都こそ
わたしたちの求めているものである」
Ⅶ「彼らはその労苦を解かれて休み そのわざは彼についていく」
(ルター訳聖書)
こんな時だから、心に沁みます。
じんわりと、そして、どんどん入ってきます。
この曲は、完璧だったり、うま過ぎる美麗な演奏よりも、心をこめて手作り風に、多少ゴツゴツしても丁寧な演奏の方がいい。
プレヴィンの演奏は、まさにそうした感じで、外観はきれいに整っているけれど、それだけではなくて、どこまでも純音楽的で優しい眼差しが隅々まで溢れた柔和なブラームスなのでありました。
気がつけば、横にいて微笑んでくれてるようなプレヴィンのブラームス。
録音がホールの影響もあって潤いが薄いにも関わらず、与える印象はとっても温もり感があってよろしい。
合唱が独語の深みに欠ける気もしなくもないが、それもまたこの演奏にはいいのかもしれない。
W・ジョンソンのすきっりしたニュートラルなバリトンの美声に、ブラックウェルの繊細無垢のソプラノ。彼女はプレヴィンとN響でもいろいろ共演してますね。
独唱は、個性はないものの申し分なく感じます。
来年のプレヴィンは、「ドイツ・レクイエム」を取り上げて欲しいものです。
予想通り、11月はいろんなことが起きる月となりつつあります。
毎年のこととはいえ、序盤なのにちょっと辛すぎました。
音楽による癒しに頼らざるをえない日々となります・・・・・。
昨晩の月と空。
群馬のパーキングです。
ここは、有名なラスク屋さんや、肉屋さんや地場野菜など、魅力的な道の駅です。
上州のからっ風が吹いたから、空がとても澄んできれいでありました。。。。
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Danke Schon
ありがと、ございま~す
日頃、ご覧いただきまして、ほんとうにありがとうございます。
長いようで短い、まだ5年の「さまよえるクラヲタ人」でございます。
5年前の今日、11月7日に、二期会の「さまよえるオランダ人」上演を観劇して記事を起こしたのが、第一回目。
爾来、ご承知のとおり、偏りはございますが、聴いては書きの日課となりました。
さらに、食べて・飲んでは書きの、別館「さまよえる神奈川県人」も起こし、ふたつのブログを継続できました。
後者は、途絶えがちだし、来客も少なめ。
でも、ほんとに多くの方に、こんな拙文をご覧いただき、いまや日々4桁アクセスを頂戴するようになりました。
苦しいときも、楽しいときも、悲しいときも、二日酔いで気持ち悪いときも、お金がないときも、不幸のどん底のときも。
どんなときも書いてきましたし、これからも音楽がともにある限り、ブログもともにあるようにしたいと願っております
ふつつかものですが、これからもよろしくお願いいたします。
あ、そうそう、「にゃんこ」たちにも感謝しなくちゃね。
ありがとうよ、「にゃんにゃん」。
5年後の今日も、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」を聴くとします。
バイロイト音楽祭の1961年ライブ。
ウォルフガンク・サヴァリッシュの名前を高めたフィリップスの名録音であります。
サヴァリュシュは、57年から62年までの6年間、バイロイトに登場し、その間、トリスタン、オランダ人、タンホイザー、ローエングリンの4作を指揮し、それらはいずれも現在聴くこともできる。
清新で明快なワーグナー演奏を求めていたヴィーラント・ワーグナーに見込まれての登場であった。
事実、前期ロマンティシュ・オーパーの3作に聴かれる若々しくも、明晰で快速調のワーグナーは、戦前の重厚でどんよりした演奏とは完全に一線を画する新バイロイトに相応しいものだった。
クナッパーツブッシュのみが、ことにパルシファルにおいては替わるべきものがない不変性を持ち続けたわけだが、クナの亡きあとは即座にブーレーズを起用したヴィーラントの意図は明確。
そんなわけで、サヴァリッシュは、新しいワーグナー演奏を打ち立てた立役者のひとりといっていいわけなのです。
50~60年代のそうした指揮者たちを挙げるとすれば、あと、カイルベルト、ベーム、カラヤン、ケンペ、スウィトナーなどでしょうか。
ちなみに、非正規盤も入れて、ワーグナーの初期オペラも含めて全オペラ10作が聴けるのはサヴァリッシュが唯一であります。
これってすごいことで、今後、誰もなしえないのではと思ってます。
ダーラント:ヨーゼフ・グラインドル ゼンタ :アニヤ・シリア
エリック:フリッツ・ウール マリー :レス・フィッシャー
舵手:ゲオルグ・パスクーダ オランダ人:フランツ・クラッス
ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
バイロイト祝祭合唱団
合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ
演出:ヴィーラント・ワーグナー
(1961.8 @バイロイト)
この時代を代表するベテランと若手を組み合わせた、バイロイトならではのキャスティング。
ベテラン組、グラインドルのダーラントはまったくの当たり役であるけれど、ここではヴィーラント演出がダーラントに俗物的な要素を強調し歌唱にもそれを求めたと思われ、エヘヘ笑いもあったりして、セコくて滑稽な雰囲気を歌いだしていて面白いし、声の威力も抜群だ。
ウールやパスクーダの常連たちも上手いもんだ。
若手組では、なんといっても前年に20歳で衝撃デビューを果たしたシリヤの鮮烈なゼンタが素晴らしい。輝かしい声にみなぎる若さと夢中なる没頭感。
いま音源で聴ける最良のゼンタかもしれません。
引退が早かったクラッス(クラス)にはもっと活躍して欲しかったが、彼のこのオランダ人やグルネマンツは、美しくマイルドな声が堪能できる貴重な記録だ。
鈍重さがまったくない気品さも兼ね備えた美声は魅力であります。
ただ悲劇性が後退してしまったが・・。
そしてオケは、前段のとおりの若々しいサヴァリッシュの指揮。
熱っぽくて、時おり突っ走ってしまうのもライブならではの生々しさ。
50年前とは思えない素晴らしい録音であります。
ヴィーラント演出は、北欧の港街を再現し、人物描写も極端にすることで、夢見る特異なゼンタと暗い象徴たるオランダ人を際立たせる意図が強かったという。
滑稽なダーラントに、酔っ払い軍団の船乗りや街の衆。
糸紡ぎの女性たちも脳天気で明る過ぎで、かまびすしいし、マリー婆さんをもてあそんじゃう。
それぞれ、ライブなものだからその様子はしっかり音として刻まれていて容易に想像できる。
だから当然に、幕切れは救済がなくふたりは昇天せず、それぞれに死んでしまう。
序曲にも救済の動機によるエンディングはありません。
いまでも新鮮であろうと想像されるヴィーラント演出であります。
行けることなら、戻って行ってみたい50~60年代バイロイトに。
黄色人種を見て欧州人は驚くだろうな。
ドイツの11月のカレンダーです。
ブログとワタクシの誕生日もあります。
某ドイツ料理店のトイレより(笑)
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NHKホール前、代々木公園にかけてお祭り状態の本日。
これから、コンサートに行って、秋のブラームスを聴こうというのに、すごい人混みと屋台の呼び込み。
毎度ながら渋谷からのサイテー行程も含めて、NHKさまのホールは厳しい立地にございます。
ですがね、上を見上げると、都心でもこんな秋があったんです。
ブラームス 交響曲第3番
交響曲第4番
アンドレ・プレヴィン指揮 NHK交響楽団
で、アンドレ・プレヴィンとNHK交響楽団の演奏会を聴くのでした。
今年で8回目となるNHK音楽祭の一環。
テーマはドイツ3大Bで、今宵のプログラムは、ブラームスの交響曲がふたつ。
まずは、苦言ひとつ。
いち早いブラボー野郎に。NHKホールでもありましたよ、アナウンスが。
「余韻を楽しみましょう」と上品に控えめに。
でも、そんなことはおかまいなしに待ってましたとばかりの、ブラボー。
生放送収録中だけに張り切っちゃったのか。
静かに終わる3番に間髪いれずに、終楽章が感動の名演となった4番でも、同じ方や他の蛮声もともなって。
感動の表明なんだろうけど、曲の内容や演奏の質からして、ちょっと違うんじゃなかろうか?
プレヴィンの到達したしみじみとした境地のブラームスに、もっとゆったりと浸っていたかった。
コンサートにこんなリスクがあるなんて、なんだか嫌やだなぁ。
プレヴィンやN響の面々は最初苦笑いしてましたよ。
でも肝心の本編は、味わい深い演奏だったのでありました。
アナウンスは、上品に言わずに、もっとはっきり言わなくちゃだめですよ。
1年ぶりのプレヴィン。
また小さくなっちゃった。
若い頃から猫背だったけれど、首が悪くて腰にもくる。
同年代の元気な指揮者からしたら、ほんとにお爺さんみたいで、指揮台の椅子の昇り降りもやっとこさ。
椅子に腰かけ、机の上に置いた譜面台のように見える楽譜に顔を突っ込んだようにしながら指揮をする姿も、さらに歳を感じさせる。
でも元気です。
あのわかりにくい、打点のない、こねくるような指揮は相変わらずのプレヴィン・モードで、慣れてないオケだと出れない。
しかし、さしものN響も、3番も4番も、出だしは手探りの感じで雰囲気を掴むまでしばしを要したように思えた。
さらに途中、気の抜けたようなか所もなきにしもあらず。
明日は、もっとよくなるかもしれない。
3番では牧歌的な第二主題、4番では主部のあとすぐ。
持ち直しは、旋律的な歌いどころ。
英雄的なんてまったく無縁な柔らかな第1楽章の3番。
続く2楽章と3楽章の、心持ち早めのテンポで流れるように進んだ場面は、ビューティフルなプレヴィン・ワールド。かつてなら、評論家受けはきっとよくないと思わせる柔な雰囲気。
でも、それがいま、とても心を開放し、多感となったわたしたちの心に迫ってくる。
音楽の受容も、世の中、時とともに変わるのであります。
終楽章も威圧感や闘争心はまったくなく、あっさりと迎える静かなエンディングは澄みきった雰囲気に急に満たされたんですが、あのブラボーが・・・・。
この曲は、ロスフィルとの来日公演で演奏し、NHK放送もあったもの。
レコーディングはありません。
4番は、プレヴィンが完全に、自分のものにした曲。
ロイヤルフィルとの桂演やN響とのかつての演奏などでお馴染みのお得意の作品。
後ろから見るプレヴィンも、この曲では大きく見え、指揮棒の振幅も大きい。
そして、左手の拳を上げる、昔からお馴染みのポーズも座りながらに出していて、そうした局面では、N響がほんと、鮮やかにかつ敏感に反応していて、繊細さから強打まで、レンジも広く、プレヴィンの音楽の特徴の一面をしっかり出している。
流麗な1楽章に、絶品の静謐な2楽章。
すっきりとした3楽章は、打楽器は控えめ。でも勢いはしっかりある。
次ぐ、パッサカリアは、淡々とすすめながらも、随処に熱がこもっているのがよくわかり、オーケストラが没頭して演奏しているのもよくわかった。
さりげない、指揮棒のひとこねくり。左手の抑え。猫背ながらも、オケを見渡す鋭くも優しい目は、斜め後ろからでもしっかり確認できました。
名指揮者は、やはり目がものを言ってます!
この終楽章が終りの方に向かって、テンポを抑えながらも、熱を帯びてゆくさまは、聴いていて涙が滲んできた。
その無為の高まりに、最後の最後で、心の底から感動がやってきた。
名演奏家がオケを動かし、背中からオーラを発し聴衆を惹きつけ、ホール全体を独特のムードにしてしまう。
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街のショーウィンドウに深まる秋を体感。
遅い秋はやはりやってきてますね。
秋=11月は、わたくしの月だけど、毎年毎年、めちゃくちゃ忙しいし、ロクなことがおこらない。
気をつけなくてはなりませぬ。
秋はブラームスがお似合い。
それも、器楽曲や室内楽がよろしいようで。
古典に軸足を置きつつ、適度なロマンティシズムが横溢しているのがいい。
ブラームス58歳の名作。渋い晩年の諸作の中にあって、そのメロディアスで哀愁に満ちたクラリネット五重奏曲は大衆的な人気をも勝ち得た作品になっている。
姉妹作のクラリネット三重奏曲は、かなり晦渋で、人気薄。
だから、この五重奏曲のカップリングは、姉妹作でなくて、モーツァルトの同じ五重奏曲となされることが多い。
モーツァルトと組み合わされると、その溢れいずる名旋律の宝庫にタジタジとなってしまい、正直辟易としてしまうのも事実。
だから、このふたつはたまにしか聴かないの。
モーツァルトは、春爛漫。
ブラームスは、晩秋。
初演時から、第2楽章のアダージョが連綿たる情緒とジプシー風ラプソディでもって、人気を呼んだが、確かに素敵な楽章であります。
でも、今回久しぶりに聴いてみて、あれ、こんなだっけと、その印象を新たにしたのは、最終楽章であります。
変奏曲形式で、内面的な静かさも持ち合わせ、後ろ髪引かれるように、静かに曲を閉じる。
澄んだ秋空のような音楽に感じた次第でございます。
ウィーンフィルの顔ともいうべきだったアルフレート・プリンツの甘さ漂うクラリネットに、ウィーンフィルのメンバーたち。
ヘッツェル、メッツル、シュトレンク、スコチッチといった、名前だけで、その顔まで思い浮かぶウィーンフィルの弦の練達たち。
プリンツのクラリネットと、まったく同質の音色を奏で、ウィーンの、というよりは、70年代ウィーンフィルのブラームスといったオンリーワン的演奏に思う。
甘過ぎという印象は、この際置いときましょう。
明日もブラームスを聴くんです。
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この先にある北方領土。
歯舞諸島が、天気が良ければ見えるはず。
かなり以前、真冬に釧路に泊まり、現地の方の車で厚岸、根室、そしていたずら心で吹雪のなか、納沙布岬まで強行。
途中、車が雪にはまってしまい、雪まみれになりながら脱出。
助けてくれた方に、バカすんなよ、と言われながらも、さらに進んでここに到着。
ホント、死ぬかと思った。
もう7年も前ですが、生きててよかった。
政治が弱いのか、周囲が強いのか、日本は完全な負のスパイラルに陥っていて、内外ともに不条理が横行している。
国も庶民も辛いです。
マーラーの「大地の歌」。
昨日は、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」。
「大地の歌」が1908年、「抒情交響曲」が1923年。
ともに、女声と男声のソロを伴う連作歌曲交響曲で、メゾにテノール、ソプラノにバリトンという両極の声部を配し、7楽章という形式も同じ。
さらに、マーラーは、李白を中心とした中国詩を素材とし、ツェムリンスキーは、インドのタゴールの詩を素材としているので、ともに欧州から見たエキゾシズム。
さらに、どちらもドイツ語の訳集からとられているので、本来の原語からすると、ややフィルターがかかっている。
では、年代からして、ツェムリンスキーがマーラーの二番煎じかというと、決してそうではなく、外観=形式のみを踏襲しつつも、その音楽や個性はまったく別物というべきで、昨日も書いたけど、マーラーは厭世と死、ツェムリンスキーは神秘性と愛への憧憬。
マーラーは、ワーグナーを超えて違う次元に到達してしまったのに比して、ツェムリンスキーはトリスタンの延長を濃密に描いたような印象を受ける。
ツェムリンスキーの朋友・弟子のシェーンベルクが、抒情交響曲の10年以上前、マーラー第9と同じ次期にトリスタン的な「グレの歌」を作曲してしているところがすごいところで、シェーンベルクがその後に無調や12音に走っていったことで、戦後、師がマイナーな位置に甘んじてしまったことの対比がよくわかる。
「大地の歌」と「抒情交響曲」、こうしてふたつ比べてみるのもおもしろいことであります。
今日の演奏は、シノーポリの指揮によるもの。
こちらのウリは、フィルハーモニアと番号交響曲を全部録音したあと、間をおいて、時の手兵ドレスデンと録音した1枚だということ。
フィルハーモニアとのものは、5番にスタートして出るたびにいくつか揃えたけれど、退屈になって途中で挫折してしまい、それきり。
最初に感じた新鮮味や、濃厚さ加減が、逆に鼻に着くようになってしまった結果でありました。
でも、96年録音のこちらは、ドレスデンのオーケストラの持つ味わいが、シノーポリの強さを中和してしまったようで、耽美的なまでに沈滞し、かつ思索的な様相を呈しているんだ。
この頃からシノーポリの音楽は、極端なダイナミズムや濃厚な味付けが影を潜めつつあって、音楽をじっくり見つめて語るようになっていったと思う。
バイロイトのパルシファルやリングなども、そうした傾向が強かったし、ブルックナーに傾倒していったのもそのあらわれかと。
だから、「告別」はフェルミリオンの名唱も加えて、聴いていて息をひそめて耳を澄ましてしまうくらいの深みある演奏が展開される30分間なのだ。
無常感ただようフルートに、去りゆく友に想いを馳せるメゾ。
背景のバスの持続音・・・・・。なんと繊細かつ微弱な世界なんだろう。
ewig ewig・・・・では、消えゆく影を、水墨画の山並みの彼方に感じ、そこに人生の終焉を感じることもできるが、ここでは最後ではなく、別離の先にある新たな世界や出会いをも感じさせる、不思議な明るさも感じさせる。
シノーポリの音楽の持つ明晰さがもたらす世界かもしれない。
テノールのK・レヴィスは、声が明る過ぎ上ずってしまい不自然だが、フェルミリオンの知的かつ明晰な歌唱は素晴らしく、シノーポリの指揮とドレスデンのオーケストラにピタリとあっている。
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夕暮れ、お江戸日本橋。
今日から、来年4月の建造100年を前に、橋の大規模洗浄作業が始まったとのこと。
1ヶ月もかかるんだそうな。
橋の上をすっぽりふさぐ首都高速。
歴史的な場所の上を、こんな風にしてしまう国ってないでしょうな。
今の日本なら絶対にやらないことだけど、高度成長期にあっては、こんなのはありだったんだろう。
河も浄化されたし、暗くなると光が河に映って、こんな具合にキレイなんです。
きっと、洗浄水は河にそのまま流れてしまうから、洗浄技術や洗浄液はきっと自然由来の高度なものなのでしょう。
ドイツ企業が行うみたいですよ!
ベルンハルト・クレーのシリーズ。
クレーのドイツ音楽。
そして、わたしがもっとも好きなクレーの音盤のひとつが、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」。
S:エリザベス・ゼーデルシュトレム
Br:デイル・デュージング
ベルンハルト・クレー指揮 ベルリン放送交響楽団
この素晴らしい作品を清潔なる紳士クレーが録音を残してくれたことは感謝に堪えませぬ。
そして、大好きなこの作品、このブログでもこれで3度目の登場となります。
曲のことは、過去記事をご参照くださいませ。
「シャイー&コンセルトヘボウ」
「エッシェンバッハ&パリ管」
この表現主義的で、悩ましいくらいの官能と甘味な瞬きに満ちた連作歌曲シンフォニーがこんなに人気曲になるなんて思いもよらなかった。
この曲、しいてはツェムリンスキーがブレイクしたのは、いうまでもなく、DGへのマゼールとベルリンフィル、FD・ヴァラディ夫妻のレコーディングで、1981年のこと。
ベルリンでの定期演奏会に併せての録音。
あのカンディンスキーの絵のジャケットとともに、私には、この曲の刷り込みレコードとして、酒を飲みつつ、擦り切れるくらいに聴き、楽しんだ1枚として忘れえないものなのだ。
同じころに、マゼール・BPOのラフマニノフ3番も聴きまくったのだ。
ブルー系のクールでひんやりするようなマゼールのツェムリンスキーは、いまでも大好きな演奏です。
ただし、ヴァラディはふるいつきたくなるけれど、F・ディースカウがうまいけれども、テカテカしすぎで、独特の陰りが欲しいところでありました。
でも、同じ頃に、同じベルリンで、ベルンハルト・クレーがこの曲を録音しているんです。
今は亡き、独コッホ・シュヴァンのレーベルは、当時かなり珍しいレパートリーばかりを取り上げていて、これもその一環で当CDには記載はないものの、81年の録音と推測される。
あと、この後ぐらいに、G・フェッロも録音していて、このあたりが「抒情交響曲」のパイオニア的な録音でありましょう。
マゼールだけが注目されてしまった。メジャーの強みとしかいいようがない。
で、このクレー盤は、マゼール盤や、その後多々あらわれた演奏に決してひけをとらない、きちんとした折り目正しい名演奏なのです。
伝統に根ざしたそうした様相も持ちつつ、歌ものを得意とする指揮者ならではの歌手を中心に据え、ときには控えめに、時には音を抑えつつ繊細に。
しかし、全7曲を一本筋の通ったまとまりのよさで聴かせてしまうところが素晴らしいのだ。
ここがどうの、あそこはどうの、という微細なこだわりはなくて、劇性にあふれた連続する7つの歌による交響曲としての作品を強く感じさせる。
強い個性の歌手たちを起用していないことも成功の要因。
バリトンに比重ある曲だが、デュージングの素直で、クセのない歌声は私にはとても好ましく感じ、クレーの音楽性にもとても合っているように思われる。
デュージングは、ベームのドン・ジョヴァンニに出ているくらいしか記憶にないが、このツェムリンスキーの歌唱は、まったく素晴らしく、美声バリトンを堪能できるし、歌詞の内容への歌の乗せ方が濃厚すぎない気持ちの入れ込み方で、とても好ましい。
「Ich bin friedlos」とか、「Du bist」とか、決め台詞のような出だしからして、まさに見事に決まっていて、一緒に歌いたくなってしまうナイスな歌唱。
そして、世紀末歌手と勝手に思っているゼーデルシュテレムのヴィブラートのかからない直線的な歌唱も、ある意味濃密でありながらも、不感症的な醒めた眼差しを感じさせて、私には素晴らしいと思えるのだ。
この曲のバリトンは、ゲルネと、このデュージング。
ソプラノは、シェーファーとヴァラディ、そしてゼーデルシュテレムが最高であります。
マーラーの「大地の歌」と同じようで、まったく違う音楽。
あちらは「生への告別」をうたった厭世的な曲。
こちらは、リアルな死や告別でなく、終末観ただよう濃密な男女の結びつきと神秘主義。
どちらも、いかにも世紀末でございましょう。
「心の休まるときがない 遥かなるものを渇望し
我が魂は暗きかなたの縁に触れようとし
あこがれの中をさまよいまわる・・・・・」
辛い毎日。
わたしには、こうした音楽が一番の慰めであります。
ついでに申さば、ワーグナー、シュトラウス、プッチーニ、世紀末系、英国音楽などがわたしの本当に好きな音楽なんだな、とつくづく思うのでございます。
これらは、ファエヴァリット演奏家とはまた違う次元での音楽の嗜好に関すること・・・・。
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