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2010年12月

2010年12月31日 (金)

R・シュトラウス 「4つの最後の歌」 フレミング&ティーレマン

Yurakucho2

有楽町駅前。
交通会館を中心に、きれいなイルミネーションにおおわれてました。
かつてはちょっと古えの趣きだった有楽町も、銀座の窓口ばかりでなく、商業施設や反対側のビックカメラ、そして丸の内から続くビジネス&ブランド街の混在にて、キラキラする街が蘇った。

今年最後の更新。
といっても、数時間後には新年初なんていいながら登場しますけど。
別に新年だからって、普段と変わらない生活をしたいわたくし。
でも、音楽の節目は、このところずっとこの曲。
昔は、NHKが大晦日に第9を必ず放送していたので、それを録音しつつ年を越すのが多かった。N響以外の海外ライブも多かった。
そして、ここ数年は、バイロイトのライブで年を跨ぐわけ。
でも今年はFMチューナーがお陀仏になってしまい、70年代後半から続いたバイロイトライブのエアチェックも、終止符を打ってしまうことになった。
終りは必ずくるもの。
でもこんなにあっさりくるとは思わなかった。
夏にネットで聴いたことが本当に救いだった・・・・。

そんなことを思いつつ、音楽の嗜好や聴き方も、少しづつ変化させていってる自分がいるわけです。
2010年の記事数291。別館飲食系が少しの26
よく書きましたし、多くの方に閲覧いただきました。
ありがとうございました。

Rstrauss_fleming_thelemann

R・シュトラウス「最後の4つの歌」。
今年は、ルネ・フレミングクリスティアン・ティーレマンミュンヘン・フィルハーモニーの濃厚な組み合わせで。
わたしとほぼ同い歳のフレミングは、またたく間にスター歌手になってしまった。
実演ではまだ接したことがないけれど、舞台ではきっと映える歌手なのでありましょう。
映像でもその雰囲気は独特で、気品と風格とともに親しみやすさも感じさせる。
マルシャリンや伯爵令嬢、アラベラなどのR・シュトラウスのお嬢様ものが素晴らしいのは当然であります。

だがしかし、視覚を伴わず、音だけで彼女の歌声を聴く場合には、時として味わいが濃すぎて、退いてしまうことも多い。
上手さが鼻につくのであり、節回しも独特な場合が多くて、そこだけが目立ってしまう。

でもですよ、それでも彼女の甘味料たっぷりの極上スゥイーツな声は魅力なんです。
ことにR・シュトラウスは。
先輩のキリとおんなじ。

「4つの最後の歌」でも、今風のすっきりとしたクリアな歌唱とは遠いところにあるように感じ、隈取りは濃く、ときに聴きなれない歌い口にも聴こえてしまうくらい。
晩年のシュトラウスが行きついた、諦念と澄みきった心境を歌い出すことはしていない。
音の美感に酔ってしまっているような感じ。
それは、ティーレマンの指揮にも感じ、もっと深い音楽が欲しいとおもったりもする。
しかし、シュトラウスはツワモノで、元気な老人だったから、去年も書いたけれど、これが最後とは全然思っていなかった。
そして、フレミングの歌にも、これからの夢や希望も込められているようで、深淵さは少なめなのだ。
大好きなこの作品だから、これはこれでアリの歌であります。

しかし、アイヒェンドルフの詩は深いです・・・・・。

「かくも深く夕映えのなかに、私たちはなんとさすらいに疲れたことだろう、これがあるいは死なのだろうか」

このCDのわたしにとっての聴きものは、むしろ併録された「アリアドネ」と「エジプトのヘレナ」にありました。
フレミングの表現力の素晴らしさと、水を得たようなオーケストラ。
2008年4月、ミュンヘンのガスタイクでの録音でした。

Yurakucho1

これにて、年の部、終了でございます。

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2010年12月30日 (木)

「さまクラ ヲタデミー賞2010」

Tokyo_tower1

東京タワー2010。
数日前のものです。
今年ももうお終いです。

そして、今年のわたくしの音楽レヴューを行っておきます。

またまた結構行ってしまった。
でも外来は、コンセルトヘボウのみ。
ほかは、全部日本のオケやオペラ・プロダクション。

オペラ13、コンサート32 合計45
(去年はオペラ17、コンサート31、合計48)

さぁ、今年の「さまクラ ヲタデミー賞」です。

オペラ部門5傑

 ①ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 新国立劇場
 ②ワーグナー 「ジークフリート」  「神々の黄昏」 新国立劇場
 ③R・シュトラウス 「影のない女」 新国立劇場
 ④バーンスタイン 「キャンディード」 佐渡裕プロデュース
 ⑤アルファーノ  「シラノ・ド・ジュヴェラック」 東京オペラプロデュース
  次点: 「アンドレア・シェニエ」

コンサート部門5傑

 ①マーラー 交響曲第3番 金聖響&神奈川フィル
 ②プロコフィエフ 交響曲第5番 プレヴィン&N響
 ③マーラー 交響曲第3番 ヤンソンス&RCO
 ④R・シュトラウス 「ドン・キホーテ」 金聖響&神奈川フィル
 ⑤オルフ  「カルミナ・ブラーナ」 現田茂夫&神奈川フィル
  次点:シューマン 交響曲第3番「ライン」 マリナー&N響

CD・DVD部門(旧譜含む)

 ①シュレーカー 「烙印を押された人々」 デ・ワールト指揮
 ②コルンゴルト 「カトリーン」 ブラビンス指揮
 ③フィンジ    オーケストラ作品集 ボールト指揮
 ④ブリテン    「アルバート・ヘリング」 ハイティンク指揮
 ⑤シューマン   「ばらの巡礼」 クーン指揮
  次点:ディーリアス 「村のロミオとジュリエット」 デイヴィス指揮

最終駆け込みで、一昨日観た「トリスタンとイゾルデ」が。
これはもう確信犯的な1位だけど、あれだけ素晴らしい舞台を見せられてしまってはどうしようもない。世界に誇れるトリスタン上演だった。
びわ湖トリスタンもよかったが、ちょっと霞んでしまった。(というかあの時は疲れすぎ)
 「リング」後半をふたつ同時にいれてしまい、ワーグナーだらけに。
ウォーナーのトーキョーリングは、賞味期限もあってか、今年でお蔵入りすることになったけれど、何度観ても異なる味わいのあるリングでありました。
 新国では、R・シュトラウスの名作がふたつ。
「アラベラ」もお洒落な舞台だったが、歌の魅力では「影のない女」の方が勝っていた。
演出はエコにすぎたけれど、皇后とバラクの妻、乳母、三人の女声が極めて素晴らしかった。
「キャンディード」は展開の早い、ありえないストーリーの作品だけれども、カーセンのセンスあふれる演出は、情報発信とメーセージが満載で飽くことのない名舞台だった。
そして、異論はあるかもしれないが、私には「シラノ」が本当に素敵なオペラに感じ、それをハイレベルで上演した東京オペラプロデュースに敬意を表したい。

マーラーばかりの今年。
まさかの金印マーラーの純なる名演奏。曲のよさも素直に味わうことができた。
このコンビで、こんなに感動してしまったことがまず嬉しい。
ヤンソンスとRCOも終楽章が極めて素晴らしかったが、このコンビはもっとできるはず。
今年も元気に登場してくれたプレヴィンのプロコフィエフは、力強く、そしてモダンな演奏。
歳とってみえても、眼光鋭く、オケの音色も一変させてしまう。
そしてもうひとり、マリナーも元気一杯。爽快なシューマンは暑い9月に爽やかな風を吹かせてくれた。
聖響でもうひとつ。オーケストラと指揮者、オケを代表するソリスト、それぞれが完全に一体となって高みに達したR・シュトラウスは感動もひとしお。
それと現田サウンドも健在。キラキラしたオルフは楽しい聴きものでした。

旧譜ばかりの音源部門。
いまさらながらに、シューレーカーとコルンゴルトのオペラが、自分にとってかけがえのないものであると強く認識。
ブリテンのオペラ制覇まであと少し。アルバートヘリングは英国ならではのユーモアと風刺の聴いた名作でした。
そして、フィンジ。言葉はいりません。
それとシューマン・イヤーには、素敵な声楽作品を。独特の味わいがありました。

そして、総合して・・・・・

 ヲタデミー大賞 「トリスタンとイゾルデ」新国
    銀賞    「ジークフリート」&「神々の黄昏」 新国

     銅賞    マーラー 交響曲第3番 金聖響
 ※銅賞は悩みました。
 「烙印」か「カトリーン」にしようかと思ったけれど、聖響&神奈フィルに期待をこめて。

今年も、残念にも逝去された方が多かった。
スゥイトナー、W・ワーグナー、ローテンベルガー、シミオナート、マッケラス、P・ホフマン・・・。これらの方々を偲んだ記事を起こしました。

2011年の作曲家は、またもやマーラー。
そしてリスト、メノッティ、マクドウェル、スヴェンセン、アレンスキー・・・、ちょっとジミね。

あと、年内ブログ更新は、いつものあの曲で1回を残すのみです。
では、新国トリスタンの大賞受賞をお祝いして、テオリン様のイゾルデを聴いてから寝ることとしましょう。

Tokyo_tower2

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2010年12月29日 (水)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 新国立劇場公演②

Operapalace201012_4

幕間が長いもので、お酒一杯のんだだけじゃ間がもたない。
火照った頭を覚まそうと劇場の内庭をぼぅーっと眺める。

そして、1月観劇予定の方は、以下は見ないで!

第1幕

前奏曲の開始とともに、紗幕の向こう、舞台奥に白い月がゆっくりと上がってくる。
その月はしずしずと移動し、紗幕にはさざ波が映り、右手の方からは、廃船になったかのような木の骨組みだけになった船が姿を現し、幕開きとともに舞台全面に横付けとなる。
そこには、イゾルデが一人座りこんでいて、月は驚くことに朱色に染まった。
この船、舳先がどうも不安定で、ただでさえ、大きな主役たちが駆け上ると、ぐらぐら揺れるところがなんとも。そして、船をしずしずと動かすスタッフの足も見えましたがな。
 怒れるイゾルデと不安が一杯のブランゲーネについては、①で書いたとおり。
トリスタンがクルヴェナールとともに出てくると、そこにはなんと上半身裸の、ちょっとワルっぽい海賊みたいな連中も数人ついてきて、すごんだり、へこへこしたりしてる。
こいつらは、マルケ王の到着時にも出てきてへーこらしてたし、2幕のマルケ王の踏み込み、3幕のメロート往来にもついてきて、私的には鬱陶しいことはなはだしかったなぁ。
連中が出てくるとき、舞台に水が張られているのがわかったから、まぁよかったけど。
(1階の前の方だったので、見えなかったのですよ)

Tristan_2010_1
 トリスタンとイゾルデは、最初から魅かれあう仲として、かなりリアルに描かれていて、特にイゾルデ側からの接近ぶりははなはだしい。
だから、媚薬は、単なるきっかけにすぎず、イゾルデは飲みほしたあと、思いいきり盃を文字通り投げ捨て、まってましたとばかりに、二人はすぐさま抱き合う。
薬が徐々に効いてきて、見つめあい、恥じらい・・・、とかいったプロセスはまったくなしに、即座の熱烈恋愛モード。
 そもそも、二人には魅かれあった下地があったわけで、それを強く描いてみせたマクヴィカーの意図はいかに。
 たいそうなボックスに入ったガラス瓶に入れられたたくさんの魔法の薬。
女主人の命に背いて、死の薬でなく、愛の媚薬を選択するブランゲーネは、ボックスを持って舞台から去り、われわれ聴衆には、何が調合されたかわからない。
実はこれ、愛の媚薬でなく、同じ媚薬でも死ぬことを欲し、結果、愛を成就するオクスリなのだ。
ゆえに、2幕でトリスタンは、自らメロートの刃に飛び込むばかりか、その刃を自分で何度も突き立てていて、いかにも死を望んでいたことが鮮明だ。
そして、イゾルデも、「愛の死」を歌ったあとは、わたし達に背を向けて、海にに向かって進んでいった訳で、それは浄化というよりも死にゆくイゾルデの姿を見せたものと思う。
 原作にあるワーグナーの死への憧憬と愛との関係をよりリアルにしてみせたのではないか。
1幕は朱色の月がずっとかかっておりました。

第2幕

この幕は美しい。
船着き場を思わせる防波堤があり、灯台なのか一本の塔が立ち、そこには無数の銀色の輪がかかっていて、そこに水のさざ波が映し出されている。
逢引を急くイゾルデは落ち着きなく、あっちこっち動きまわり、海の水もすくったりしてる。
ブランゲーネも急くご主人さまに右往左往するさまがカワユイ。
Tristan_2010_8
 松明をを、これまた思いきり投げ捨てると、のっしのしとトリスタンが登場。
大きな二人の逢瀬は、耳にも目にも大迫力なのだ。
ふたりは、黒にラメのはいった上着を着ていて、同質的。

Tristan2010_2
 
長大な二重唱が始まると、上から無数の星のようなものが下がってきて、なんと先の輪っかは、ブルーのネオン管になっていて、あたりを青い光に照らしだしたのだ。
 こんな幻想的でかつクールで美しい場面は初めて。
ブランゲーネは、右手の奥から姿を現し、後ろから暖色系の照明で照らされ、その影が映り込むなか、あの陶酔的なまでの音楽が響く。
これに感動しないわけがない。エレナちゃんの声が実はもう少し色気があればいいのにと思ったわたしは贅沢でしょうか。
歌い終えると、そこにうつ伏せで次まで待機。

メロートに先導された、マルケ王ご一行さまの踏み込みとともに、青い世界は白日の眩しい世界にとってかわった。
やぶれかけた悲しい雰囲気の幕も背景に降りてきた。
杖をついた爺さんのマルケ王は、ほんとうに弱っていて、これじゃイゾルデに手も出せんわな、と納得するほどの様相。
しまいに階段に躓いてしまうくらい。
このマルケ老王、3幕ですべてを知って出てくるところでは、杖も持たずにかくしゃくとしていたから、2幕ではよほど堪えたんでしょう。
そこまで対比してます。

刃に自ら倒れるトリスタンに、イゾルデは駆け込むでもなし、ゆっくりと歩みより、冷静にそこに膝を落としたように見えたが、これもまた既成のわかっていたことと言わんばかりのことか。

第3幕

またも月が昇っているが、今度は血の赤です。
例によって、水が張られているようです。
廃墟と化したティンタジェル城を模したのか、石積みの城壁が右手にあって、物見台にもなっている。
忠実なクルヴェナールは、動き的にはそんなにかいがいしくないけれど、スキットルからご主人になにか飲ませたりもしてます。
このふたり、みょうにべたべたするところが、外国演出家らしいところ。
抱き合ったり、介抱中に髪の毛をなでなでしたりしてるし。
 最初は赤かった月も、トリスタンの苦悩の巨大なモノローグになったときに、その色を失い無機的なベージュになった。
これがいつ赤に戻ったか、ワタクシ音楽と歌に夢中になりすぎて覚えておりませぬ。
グールドの疲れをしらぬものすごい熱烈歌唱はすごかった。
イゾルデ到着を知り、傷口から血を沸き立たせるところでは、ちゃんと血糊を出して手を赤く染めてました。
しかし、舞台中央に倒れて横たわってしまう。

Tristan_2010_3

黒いベールと赤いドレスの(いや実際は黒が裏地の長いドレス)イゾルデが夢中になってやってくるが、このとき、テオリンは本当に息を切らせ喘いでいて、そのうえで、「トリスタン、ああ」と歌うものだから、こっちも涙がちょちょ切れましたよ。
で、血に染まった手を取ると、イゾルデの手もその血で赤く。
その後の決闘シーンも、マルケの何でや?の問いの間も、イソルデはずっとトリスタンの傍らにうずくまったまま。

メロートは武器を構えずクルヴェナールにやられてしまうが、クルヴェナールはバシャバシャとやってきた例の男たちにあっさりやられてしまい、男たちも、マルケ王の合図とともに、体を左右にゆっくりと揺らしながら彼方に消えてゆきました。

みんないなくなってしまい、マルケは椅子に茫然と腰かけ、ブランゲーネは例の体育座りのまま動かず、あたりは暗く、そして徐々に青い照明に包まれてゆきました。
赤い月を背景にイゾルデが歌う「愛の死」。
これほど感銘を受けたことはありません。
月も徐々に沈んでゆきます。
歌い終えると、イゾルデは背をむけ、舞台奥、そう海の彼方へと静かにゆっくりと歩んでゆき、赤い背中のみがだんだんと小さくなり、弱まる音楽とともに消えてゆきました。
実に美しいエンディングでありましたことでしょう。

              

しかし、残念なことに、音楽が消えて余韻を楽しむ間もなく、上階の方から拍手をする方ひとり。つられてその拍手は広がっていってしまいましたよ!
なんでそうなるの????
わたしは、拍手もせず、じっとしたまま。まだ涙が出てくる。
泣き虫のわたしですが、人の感情表現の多様さに、今日ほど感じさせられたことはありませぬ。
9回目のトリスタンだけど、愛の死は、感動しながら聴きつつも、また速めの拍手きたら嫌だなと思いつつ聴いてしまうのです。

1月の上演では、こうならないことをお祈りしてます。

演出家マクヴィカーとブリティシュ軍団。きっと尾高さんのコネクションでもあるのでしょうか。
品のいい象徴的な舞台は、極めて美しく、ほどよく近未来的であり、余計な読み替えのないところがとてもよかったのではなかろうか。
衣裳デザインも、時代背景を見据えつつも人物の心象に合わせ、演出に相応しいもの。
人物の動きがかなり動的で、せわしいのは昨今の演出ならでは。
一度の観劇で、まだなんとも言えませんが、マクヴィカーは、「愛と死」というテーマを明快に掘り下げてみたのではないでしょうか。

リングもブリテッシュだった。
このトリスタンも、新国のレパートリーとして、繰り返し上演して欲しいものです。

(画像は記事①とともに、新国のサイトと産経ニュースから拝領してます。)

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ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 新国立劇場公演①

Operapalace201012_2

幻想的な美しい舞台、過剰すぎない明快な演出、世界一流メンバーの名に恥じない最高の歌唱、全体を司る的確な指揮。

ああ、もう大満足の一夜。

新国立劇場公演、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」を観劇。
年をまたがっての新プロダクションの
年内最終公演でした。
今年もっとも楽しみにしていた上演。
5時開演、45分休憩を2回はさんで、終演は10時45分。

休憩はお一人様には退屈だったけど、その間も含めて緊張感の持続した極めてハイレベルの上演で、おまけに今回は席が最上級で、こんな贅沢いいのかな、と至福の思いに最初から震えどうし。(お一人様でセット券を取ると、驚くほどいい席が配分されます)
幕が降りても拍手できない。
幕が降りても感動の涙があふれ出してくる。
このままずっとじっとしていたかった。
それでも盛大なカーテンコールに参加し、ブラボーもかけまくり。

しかし、終わってしまった。
ずっと、ずっと、この素晴らしいトリスタンに浸っていたかった。
劇場を去ることに、悲しいくらいに切ない思いを、今日ほどに味わったことはない。
いや、かつて一度、アバドのトリスタンを観たときもそう。
トリスタン観劇、今回で通算9度目。
アバドと並んで、それだけ素晴らしかった。

のっけから熱くなってすいません。

この公演は、1月にあと3回。年内も来月も、ぜんぶソールドアウト。
願わくば、もう一度行きたい。
ここに、2回に分けて、演奏の印象と、舞台の様子とを書きあげます。

これから観劇の方は、観劇後にご覧いただき、ご意見をお伺いできればと存じます。

Operapalace201012

 トリスタン:ステファン・グールド イゾルデ:イレーネ・テオリン
 マルケ王:グィド・イェンキンス  クルヴェナール:ユッカ・ラシライネン
 ブランゲーネ:エレナ・ツィトコーワ    メロート:星野 淳 
 牧童 :望月 哲也         舵取り:成田 博之
 若い水夫:吉田 浩之

   大野 和士 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
               新国立劇場合唱団
   演出:デイヴィッド・マクヴィカー
   美術・衣裳:ロバート・ジョーンズ
   照明:ポール・コンスタブル
   振付:アンドリュー・ジョージ
   指揮補:ペーター・トメック
   合唱指揮:三浦 洋史
   音楽ヘッドコーチ:石井 宏
   舞台監督:大澤 裕

   芸術監督:尾高 忠明

            (2010.12.28@新国立劇場)


今回は、プログラムに出てるスタッフも全員記載しました。
こんなスゴイメンバーに、それぞれの役の和製カヴァーキャストもしっかりしたものなんです。
成田勝美さんに、並河寿美さん、池田香織さん、などなど。
新国の総力あげてのドイツものです。

Tristan2010

新国デビューのマルケ王・イェンティンス以外は、すっかりおなじみの常連歌手ばかり。
主役ふたりの声が圧倒的なのは、聴く前からわかっていたこと。
でも、まずワタクシは、彼女。
Ezhidkova

Tristan_2010_6

そう、ツィトコーワ
エレナちゃんの可愛いブランゲーネにすっかり入れあげちゃってるんです。
ちっちゃくって、その仕草がカワユク、あの体で驚くほどしっかりした声を届けてくれる。
今回は、テオリンさまが、おっかなくて感情的な女主人、そんなキャラに見えてしまう。
そのご主人さまに、ちょっとおどおどしながら、いじらいいくらいのご奉公ぶり。
まるで、姉と妹。お姉さんに、まったく頭が上がらない。
そしてお姉さんから、優しく抱きしめられる。
体育座りも可愛いし、怒られて指先でウジウジしちゃってるし。
鼻の下をこすっちゃうし、後ろに垂らしたお下げ髪を不安そうにいじくりまわすし、クルヴェナールや手下たちに好奇の目で見られモジモジしてるし。
もうもう、あたくし、ぞっこんになってしまいましたよ。
エレナたんの描きだした守ってあげたくなるブランゲーネ。
演出意図がどこまでか、彼女の造り出す雰囲気なのか、どっちかわからない。
これまで、オクタヴィアンとフリッカを観てきて、これはやはり彼女も持てる個性と演技力なのではないかと思っている。


 そして、テオリングールドのトリスタンイゾルデの歌唱には、言葉もありません。
まさに「と」=「und」で並べて呼ぶに等しくふさわしい素晴らしさ。
大オーケストラの咆哮をもろともせずに、こちらの耳に、心にビンビンと響いてくる。

イレーネ・テオリンは、トゥーランドット姫のときは、デカイ声の圧倒感が先行し、固めの声とヴィブラートがやや気になったが、今年のブリュンヒルデではその声に情感の豊かさが加わり、威力ばかりでない歌の豊かさが全面に出るようになった。声の揺れも気にならなくなった。
そして、今回のイゾルデは、怜凛さと温もりを併せ持った鉄壁の声で、しかも強靱なフォルテと繊細なピアニシモ、そのどちらをもしっかりと劇場に響かせることができるのが脅威的。
バイロイトの録音ともまた印象が違う、進化し続けるテオリンさま。
怒れる1幕に、愛に溺れる2幕、神々しい3幕。それぞれのイゾルデを完璧に歌いこんでました。
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「愛と死」は、諦念と愛情の果て、普通の
ひとりの女性がそこにあるのを感じるような暖かな名唱で、わたしは涙がこぼれてくるのを止めようがなかった。
沈みつつある赤い月、その場を去りゆく赤いドレスのイゾルデの背中が遠くなってゆき闇に消えてゆく。オーケストラの浄化された最美の和音が静かに鳴りやんだ時、感動で震えるわたしの視界も滲んでしまった。。。。。

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グールドも、バイロイトのジークフリートやタンホイザーの音源で親しんできたヘルデンテノール。
フロレスタンとオテロを新国で観ているが、いずれもジークフリートのイメージを自分の中で払拭しきれなかった。
が、今回のトリスタンは全然違う。もともとに巨漢がさらに大きく見えるくらいに立派な声に、トリスタンならではの悲劇性の色合いもその声に滲ませることに成功していて、これはもう天衣無為のジークフリートではなかった。
以前は空虚に感じた声も、実に内容が豊かで、髭で覆われた哲学者(ザックスみたい)のような風貌も切実に思えた。

イェンティンスのメルケ王は、こちらは見た目まるでグルネマンツのような老人。
でもその声は若くハリがあってよい。バイロイトで領主ヘルマンを歌っていたこの人、深みや味わいからは遠いが、滑らかなバスは美しい。
そして、おなじみのラシライネン
わたし達には、この人はトーキョーリングのウォータンで、メガネを外してクルヴェナールになって出てくると、初めは誰だかわからなかったくらい。
情味ゆたかな、親愛あふれるクルヴェナールを好演してましたよ。

メロートの星野さん、存在感ある敵役ながら、演出のつくり方もあって、最後はいいヤツ風に倒れてしまってました。
牧童がリリカルだし、やたらと声が素敵なものだから、あとでキャストを見たら望月さんじゃないですか。最初から気がつかなかった自分が情けない。
いつも新国でしっかり脇をかためている吉田さんの水夫も、幕開き第一声に相応しい美声。そして、去年のカプリッチョでやわらかなバリトンを聴かせてくれた成田さんが、贅沢にも二言三言の舵手役。

アメリカ、デンマーク、フィンランド、ロシア、ドイツ人は唯一ひとり、そして日本人。
こんな国際色豊かな配分は、いまの世界のオペラハウスの潮流。
新国もその一角を担うようになったんですね。

そしてなによりも心強く、嬉しいのが、この上演のキーになっているのが、指揮の大野和士。
世界的なオペラ指揮者となって新国に戻ってきた大野さんのワーグナーを、わたしはかつて二期会の「ワルキューレ」で聴いている。リングチクルスは、続かなかった。
音楽の記憶は薄れているが、正攻法の
ワーグナーではなかったかと。
今回、大野さんは、ピットを深めに落とし、歌をオーケストラの大音響が覆ってしまわないようにしていて、当然にオーケストラも巧みにコントロールして舞台を配慮していた。
そしてその繊細なタッチは驚くべきで、前奏曲の出だしのあの和音が劇場で聴いて、こんなに美しく響くのは驚きだった。
惜しむらくは、オーケストラの出足がいまひとつ不調で、1幕後半からピッチがかかり、2幕、3幕は、東フィルであることを忘れさせてしまう出来栄え。
これもひとえに大野さんの、音楽にのめり込んだような巧みな指揮に牽引されてのこと。
ダン・エッティンガーが音楽に空白を感じさせることがあったのにくらべ、大野さんの指揮にはブレが一切なく、ピシッと筋が一本通っていて、オケと歌手たち、そして舞台の様子を完全に掌握していたところがスゴイと思う。
繊細さとともに、ワーグナーの書いた濃密で麻薬的な情熱の響きも巧まずして掴んでいたのでは。ピットの中から、大きく振りかぶった両手が何度も上がるところが見えました。
その時の全力をこめた音の気迫は、これまたあのオケとは思えない。

やたらとまた誉めてしまってますが、今回の演奏で、歌にもオケにも欠けていたのは、情念というか、きれいごとでないドロドロとした世界。
これもまたワーグナーの持つ響きなのでしょうが、昨今はあまり流行りませんねぇ。
同じようなことを感じた演出と舞台の様子は第二部にて。

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2010年12月27日 (月)

神奈川フィルハーモニー第9演奏会 金聖響指揮

Yokohama_bay

神奈川県民ホールに向かう前、象の鼻パークから、赤レンガ倉庫やみなとみらいを望んでパシャリ。
いい天気です。
関東はこの時期は、連日の晴れ。
そして、空気は乾燥して乾いております。

そして、今年もめぐってきました、年末の第9の演奏会。
予想通り、こちらも乾いております。潤いが欲しいデス。

Beethoven_sym9_kanagawa2010

無味乾燥のプログラム。確かに第9です。

   ベートーヴェン 交響曲第9番

      S:市原 愛    MS:鳥木 弥生

      T:村上 敏明   Br:キュウ・ウォン・ハン

   金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
             神奈川フィル合唱団
              合唱団音楽監督:近藤 政伸
               (2010.12.26@神奈川県民ホール)


満員の大きな県民ホール。
去年は全般にさらさらと流れ去ってしまう快速調だったが、今年はゆったりめに感じた。
指揮棒を持たず、フレーズのニュアンス付けを意識して行っている感じで、ピリオド奏法が無味乾燥に陥らないようにとの思いでありましょう。
強弱のメリハリを施したヶ所も随所に見受けられ、去年のお茶漬けサラサラ感からすると、出汁の出具合がだいぶよろしくなった感あり。
 オーケストラの奏法に対する慣れも増した点も、向上と呼べるかどうかは別としてプラスと呼んでいいかも。
 とはいっても、ヴィブラートのかけ具合とかけるヶ所は、奏者によって落差があり、例によってそれらは弦のみで、管セクションは通常の演奏となんら変わりない。
当然に、独唱も合唱も朗々と歌っていて、1~3楽章の出来事との、全体のバランスが損なわれているように感じ、しいては、声楽を組み込んだ終楽章のみが余計に浮いてしまった感があった。
 不遜なわたくしは、終楽章のあの名旋律が出てくるといやがうえにも感動しなくてはならないと思ったりして、却ってその部分が恥ずかしくなってしまうようなケシカラン輩なのです。
(ブラームスの1番もそう。でも新世界や、チャイコの5番は大丈夫。)
子供時代から、ベートーヴェンの逸話とともに、こうでなくてはならぬという思いとともに、聴き過ぎたツケなのでしょうか。

あの旋律がまず低弦で出て、やがて中音からヴァイオリンに、オーケストラ全体に広がってゆくとき、最弱音を繊細に鳴らしつつ、徐々に音を強めていったが、ここは細心の演奏であったのだろう。しかし、わたしは醒めて見つめるのみでした。
どうも聴き方がいけないのか?
試しに、手近にあったケンペのCDを聴いてみた。
小細工ひとつないストレートな演奏なのに、音楽があるがままに響いていて、普通にいい。
恥ずかしくなかった。

うーむ、昨日の聖響第九の不徹底さはどうしたものだろう。
1~3楽章は、ティンパニの突出具合が際立ちすぎていたが、わたしは、あれはあれで良かったのではないかと思う(というか、慣れとは恐ろしいもの・・・・、なのだろうか)。
ことに、3楽章の、いい意味での透けるような透明感は、弦においては、あの奏法のいいところが出たのではないでしょうか。
しかし、終楽章が先の苦手意識を差し引いても、わたしには辛いものだった。
合唱団をもっと少なくして、独唱者ももっとコントロールして、オケとともに、徹頭徹尾磨き上げて欲しい。
その奏法が、ピリオドだろうと、ノンヴィブラートだろうと、なんでもいいです。
音楽に一本筋が通っていれば。

聖響さん、オケのみなさん、ファンの皆さん、偉そうにうだうだ書いてすいません。
今年は、ミサソレ、マーラー、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、R・シュトラウスとたくさん聴かせていただきました。
あーだこーだ、勝手に書いてしまってますが、どの演奏も一音も洩らすまいと真剣に聴き、議論もしました。
気がつくと、聖響&神奈川フィルのコンビを楽しみにするようになっているんです。
この第9も、彼らの里程標として心に刻んでおくこととします。
引き続き、応援しますよ!
次回は年が変わって、マーラーです。

Yokohama_bayst

こちらも応援しますよ!
首の皮一枚つながったベイスターズ。
第9に行く前にご挨拶。しっかり頑張ってくださいよ。

Yokohama_china_2

アフターコンサートは、アフターのくせに、何事もなかったように中華街へ繰り出し、「勝手に応援する会」の忘年会。

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世界のオザワも、戦場カメラマンも来てます。

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乾いた喉(心??)に滲みいる一杯のビール。
ちょいと冷え過ぎじゃねぇ?

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こちらの名物の小籠包に、レモンチキン。
ウマいったらないんだから。

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お腹もふくれて、幹事長のご案内で、雰囲気あふれるバーへ。

Three_martini3

日曜の晩、遅くなるまで飲み、語りました。
みなさん、お世話になりました。
来年も、神奈川フィルでよい音楽が聴け、よいお酒が飲めますように。
乾杯

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2010年12月26日 (日)

フンパーディンク 「ヘンゼルとグレーテル」 ショルティ指揮

Shinbashi_2

なにをかくそう、こちらは新橋です。
知ってる人は知っている、新橋のSL広場は、冬にはこんな風になってしまうんです。
サラリーマンへのテレビインタビューのメッカ。
そのサラリーマンや、怪しげなオッサンたち(わたくしです)の待ち合わせ場所のメッカ。
写真なんて撮るような人はあんまりいない。

が、しかし前から気になっていた。

アングルをうまく捉えれば、こんないい感じに撮れます。
奥には名門「第一ホテル」も写ります。
がしかし、ヤマダ電機と消費者金融の看板が激しいのも新橋ならではなんです。

Shinbashi_1

ここ、新橋は、あらゆる食と酒が集まり、しかもそれがピンキリの世界。
安心かつ、驚くほどのハイレベルのお店もあるんですよ!

Humperdinck_hansel_und_gretel_solti

クリスマスにまつわる音楽を聴いてきた今週。
最後は、世界中で愛されているメルヘンオペラ、フンパーディンク「ヘンゼルとグレーテルを。
題材がクリスマスでも何でもないけれど、子供とそろって観劇できるグリム童話素材のオペラゆえに、この季節に上演される機会が多い。
新国の上演記録をみたら、2002年以来上演されてないので、そろそろ新演出で登場しそうな予感。
まだ1本も持ってないけれど、ついにこのオペラも、オーソドックなメルヘン演出から、だんだんと先鋭なユニーク演出の洗礼を受けつつあるみたいだ。
 「ほんとうは怖いグリム童話」じゃないけれど、お子様たちにはちょっと目をつぶっておいてもらって、おっかなくて面白い、そして腹のたつような演出を見てみたい気がする。
こんな思いはいけないでしょうかねぇ

以前の記事に書いたけれど、母親が口減らしのために子供を森へ追いやり、子供ふたりが帰ったら母は死んでいて、父子家庭となってしまう原作。
これじゃぁ、ひどすぎるってんで、フンパーディンクの妹アデルハイトは母も死なさず、そんな、いじわる母じゃなくして、しかも最後はヘンゼルとグレーテル以外の多くの子供たちが魔女から解放される按配に書き換えた。
そんな兄妹の趣旨に反するけれども・・・。

フンパーディンク(1854~1921)は、いうまでもなく熱烈なワグネリアンで、ワーグナー教たるグラール団などを結成したくらい。
その音楽の影響はライトモティーフや、分厚いオーケストレーションにみてとてるが、さすがにこちらのメルヘン・オペラでは、その傾向は少なめ。
しかし、この音楽に、「ジークフリート」や「パルシファル」の響きを聴きとるのも容易なことだ。
このオペラを初演指揮したのが、R・シュトラウス。
大ワーグナーの息子、ジークフリートが建築家の道を歩みつつも、音楽を志すことになったが、その音楽の道の手ほどきをしたのは、フンパーディンク。
ワーグナー後のドイツオペラの相関関係であります。
「ヘンゼル」ばかりじゃない、最近は「王様の子供」や「いやいやながらの結婚」はよく上演されるし、音源も出てます。全部で7つあるフンパーディンクのオペラに興味大であります。

 ヘンゼル:ブリギッテ・ファスベンダー グレーテル:ルチア・ポップ
 父ペーター:ヴァルター・ベリー     母ゲルトルート:ユリア・ハマリ
 魔女:アニー・シュレム           眠りの精:ノーマ・バロウズ
 暁の精:エディタ・グルベローヴァ

  サー・ゲオルク・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                      テルツ少年合唱団
                    (1978.2~6@ウィーン・ゾフィエンザール)

70年代後半、鬼軍曹から、酸いも甘いもかみ分けた上級大佐になりつつあったショルティ
エッジの効いた鋭い指揮ぶりはここではすっかりなりをひそめて、優しくマイルドな手つきで、このメルヘンドラマの音楽を作りあげている。
ここでは、やはりウィーンフィルの柔らかな音色と南部ドイツの森を思わせるグリーンな響きが功を奏していて、オーケストラの響きに聴き惚れてしまうこと必須である。
愛らしい序曲に、2幕の終わりの天使のパントマイム、3幕への前奏曲など、それだけ抜き出して何度も聴いてしまうくらいに魅力的。
一方で、魔女の騎行と呼ばれる2幕の前奏曲では、かつての軍曹の面目躍如で、ワーグナーばりの大迫力サウンドを聴かせてくれます。

このオペラのレコーディングは、歴代名歌手たちが顔をそろえた豪華配役盤が多いが、こちらショルティ盤も負けてはいない。
ファスベンダーポップのコンビ。そうです、「ばらの騎士」のオクタヴィアンとゾフィーのふたりが、そっくりここで絶妙のコンビネーションとなっていて、その同質性のある声が美しく溶け合うさまは惚れ惚れとします。
ことにポップの親しみあふれる暖色系の声はとても素敵なのです。
 味わい深い懐かしさのベリーのお父さん。ハマリのお母さんも冷たくなくって生真面目な様相。
アニー・シュレムは、マイスタジンガーのマグダレーネでお馴染みの歌手だけど、ここでは、かなりデフォルメチックに濃厚な魔女を演じてまして、ヒヒヒ笑いも堂に入ってます。
もったいなくも、バロウズグルベローヴァを精たちに起用するとういうのも、当時のデッカのオペラ録音の贅沢ぶり!

アナログ末期の優秀録音もうれしいのでした。

このオペラには、かねてより今まで、名演が目白押し。
オケも、ウィーンフィル、ドレスデン、バイエルン、ケルン・ゲルツィニヒと味わい深いドイツ系のものばかり。
カラヤンがベルリンフィルで、ベームがウィーンかドレスデンで残してくれたらよかったのに。

過去記事

 「C・デイヴィス&ドレスデン」盤

Shinbashi_4

こちらが昼の顔。

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夜はこうなります。
どちらも大人のオジサンの街、新橋です。
私も含めたオジサンたち、たまにはメルヘンに浸ってみてはいかがでしょうか

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2010年12月25日 (土)

ヘンデル 「メサイア」 マリナー指揮

Queens_isetan2

横浜みなとみらい、クィーンズモールのツリー。
港街にかもめが飛んでます。
お隣のみなとみらいホールのパイプオルガンのクリスマス音楽の演奏に合わせて、鮮やかなツリー・パフォーマンスが行われるのでした。

Queens_isetan3

このツリーを見たあと、お隣で神奈川フィルの定期。
心に沁みるフォーレのレクイエムを聴いたのでした。
あちらは、死者と残された人々を優しく包みこむ音楽。

クリスマスにレクイエムや受難曲は禁物かもしれないけれど、フォーレのそれは、その音楽ゆえにいいのかもしれない。

そして、本日は、この時期ならではの定番を。

Handel_messiah_marriner

ヘンデルのオラトリオ「メサイア」。
わたしが学校で習ったときは、オラトリオは聖譚曲と呼ばれてた。
オラトリオというよりは、そうした邦訳の方が宗教色が強く感じる。
同様に、この「メサイア」のタイトルも昔は、「救世主」とされていた。
それぞれがそう呼ばれなくなって、この作品が本来持っている、イエス・キリストの生涯を描いた宗教物語的な要素がかなり後退して、その音楽のよさのみが際立つようになり、より一般化したのも事実でありましょう。
それと英語による歌唱も、親しみやすさを後押ししてます。

3部形式のイエスの生涯。
Ⅰ「預言と降誕」、Ⅱ「受難と復活」、Ⅲ「栄光と永遠の生命(救いの完成)」
ゆえに、クリスマスに限れば、第1部のみで事足りるわけで、この時期に「メサイア」を聴く意義は、イエスを思い、その生き様を考えてみよう~的なことにあるわけだ。
そうした意味では、受難節や復活祭において、イエスを思い聴くことも充分ありなわけです。
無宗教な日本においては、ヘンデルの平明で伸びやかな音楽を中心にすえて、歌詞の中身や宗教観などは二の次にして聴くのもいいのかもしれない。

この曲が初演されたのは、1742年4月13日、アイルランドのダブリンの音楽堂でのこと。
その初演から250年を経て、同じダブリンで、その同じ日に演奏された記念コンサートのライブ録音が、本日のマリナー指揮によるCDであります。
こちらは映像も残されていて、NHKで放送もされました。

    S:シルヴィア・マクネアー   Ms:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
    CT:マイケル・チャンス
     T:ジェリー・ハドレー     Bs:ロバート・ロイド

  サー・ネヴィル・マリナー指揮
    アカデミー・アンド・コーラス・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
       Tp:マーク・ベネット    Cemb:ジョン・コンスタブル
       Org:イアン・ワトソン
              (1992.4.13@ダブリン、ポイント劇場)

豪華歌手陣を配したこの演奏。
いま聴くと、18年の歳月は長く感じるかもしれない。
いまや古楽器を用いてもより洗練された鮮やかな演奏を普通に聴けるようになったけれども、こうした従来通りの演奏方法によるものこそ、わたしには新鮮でかつ懐かしく感じる。
なにも猫も杓子も、ピリオドしなくったっていい。
豊かな表情と、マリナーらしいキビキビした細部にこだわらない流れのよい感性豊かな演奏がこうしてとてもうれしい時がある。

イギリス由来の作曲家としてのヘンデル。
そして英国音楽としての伝統のうえに則っているかの様式美を描きだしたマリナー。
でも、そこはマリナーとその取り巻きの学究者。
少なめのヴィブラートで、表情が誇大になることや劇的になることを抑えつつ、歌うべきは歌い、締めるところはしっかり締め、実にソツなく全体を見通して演奏してます。
かつてのイギリスやアメリカでの、大オーケストラによる壮麗・劇的な演奏とは完全に一線を画していて、明快のそのものマリナーは、そう、いつものマリナーなのでした。
「ハレルヤ」に豪奢な響きを期待しちゃうと裏切られます。
軽やかで、かつ生真面目なくらいに楽譜を忠実に音にしたみたいなのです。
これもまたマリナー卿。
録音がちょっと潤い不足で、フィリップス録音も他流試合風なところが画龍点睛を欠くところか・・・・。

歌手はみんな立派です。
とりわけ、マクネアーとオッターのピュアな歌声は、混じりけのないおいし飲料水のようで、実に清々しい。
カウンター・テナーにいくつかのアルト歌唱の部分を配分しているところがユニークで、M・チャンスはまったくもって見事なものだけれど、オッターひとりでよかったかも・・・。
故ハドリーはやや歌い過ぎ、R・ロイドはやや不安定感を残すも、こちらは、さすがの品格が漂う歌唱。

わたしが一番好きな部分を、厳選してあげると。
 1.シンフォニアとそのあとのテノールのレシタテイーヴォとアリア。
 9.メゾのアリアと合唱「高き山にのぼれ」
12.合唱「ひとりの嬰児うまれたり」
13.田園曲と14.ソプラノと合唱による聖夜のくだり
18.ソプラノとメゾの二重唱
21.メゾのアリア「彼は侮られ・・・」
43.ソプラノのアリア「われは知る・・・」
46.バスのアリア「ラッパは鳴りて!」
51.「アーメンコーラス」

とかいいながら全部好きなんですな、これが。
百花繚乱の「メサイア」演奏。
皆さんは、どの演奏がお好きですか?

Shunjyuku_2

こちらは、新宿のミロード。
ミロードとサゼンテラス。いずれもブルー系の美しいイルミ。
ツリーっぽいものだけ、賞味期限の関係で公開しときます。
ほかは冬の景色として、いずれ公開してまいります。

LEDの普及で、初期投資は大きいものの、電気代が少なめでランニングはコスト減となっているはず(?)。
一番いいのは、球切れがなくなり耐用年数が伸びたこと。
でも、主催者側はいいけど、毎年毎年、同じものを見せられることになるわけでもありますな。
これはなんとも言えません。

クリスマスおめでとうございます

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2010年12月24日 (金)

コレッリ クリマス協奏曲 コレギウム・アウレウム

Yorii

クリスマスの物語。
某インターチェンジにありました。
馬屋で臨月を迎え、イエスを産んだマリアとヨセフ。
天使も東方からの博士たちも、貧しい人たちも、そこに描かれてます。

わたしが幼少のみぎり通った海の見える幼稚園は、プロテスタント系でして、クリスマスには園児たちが、クリスマス物語を演じるのでした。
女子はマリア、男子はヨセフが一番の役どころ。
その次は女子は天使、男子は博士。
しかしわたしは、2年とも風呂敷かぶった貧しい人々のひとり。
いまもそれは変わりません・・・・・・涙。

Yorii_4

幼いときから、こんな経験をしつつ、教わってきたものだから、イエスの降誕というクリスマスは、浮ついたものでなく、1年の節目としての喜ばしい出来事として捉えてます。
 まれに見る不況と格差ゆえか、クリスマスを何とも思わない人が今年は急増してます。
商業主義にまみれた日本の皮相なクリスマスは、完全なイベントと化していて、これに組みすることの出来ない人々は宗教的な意味ばかりでなくとも、経済的によしとならない人々が増えているわけです。
悲しいことに、こうした場合はえてして暴力的になったり、向う見ずに命を張ったりしてしまうのが人間の難しい心理。
 あほな政治は何も解決できないし、企業に属する人々と、そうでない学生や仕事のない人々との大きな格差はますます広がるばかり。
クリスマスに、そんなことを思うことも大事だと思う。

いつになくシリアスになってしまい、申し訳なく存じます。
奢ってはいけない。いつかは迎える死は平等にやってきます。
厳しい毎日だけれど、わたしは人を思い、優しく心かよわせていきたいと誓っております。

Corelli_collegium_aureum

イヴの晩、イエスが降誕したことをいち早く知ることになったのは、羊飼いたちであった。
彼らもまた、弱者。
ルカ伝2章にあります。
かれらの吹く笛から発したのが「パストラーレ=田園曲」で、シチリアーノと同じもの。
そのパストラーレは、ヘンデルの「メサイア」やバッハの「クリスマス・オラトリオ」にも楽中の曲として出来てくるが、協奏曲においても、それを挿入し、クリスマス用のものとした作品もバロック期にはいくつも書かれたわけであります。

その代表格が、アルカンジェロ・コレッリ(1653~1713)のコンチェエルト・グロッソ第8番。「クリスマス協奏曲」と呼ばれるものであります。
ヴィヴァルディより25歳年長のコレッリは、もちろんバッハやヘンデルよりもかなり上。
ヴァイオリン奏法においておおいなる足跡を残し、悲劇性に富んだ曲想を多くもちながら、そこには常に高貴なる歌が通っていて、明るさと悲しみが同質化したような音楽が多いように感じる。
もっとも、この曲の入った曲集(マリナー)とヴァイオリン・ソナタ「ラ・フォリア」しか聴いたことがないでですが・・・・。

で、このパストラール付きの協奏曲。
真摯な1楽章の出だしに次ぐ主部がとても素敵で、その気品あふれる音楽は、クリスマスを迎えるにあたっての雰囲気があふれていて、とても大好きなのです。
そして、たおやかでゆったりとした第2楽章。だんだんと聖誕の雰囲気が満ちてきます。
急の楽章なのに3番目のものは、ちょっと憂いを含んでいて、ついで短調のアレグロ楽章に入りヴァイオリンが活躍するが、しばし後に、のどかで、夢見るようなパストラーレに休みなく入ってゆく。
3分たらずのこの場面。深夜に明かりを暗くして、目をつぶって聴きましょう。
ほのかな喜びと、優しさに心が満たされることでありましょう。

Ginza_wa

こうしたバロック期のクリスマス協奏曲を1枚にしたCDやレコードはかつて多くて、かのカラヤンまで録音してました。
わたしは、レコード時代はイ・ムジチのものを愛聴してきたけれど、CD時代初期に遅れなせながら、70年代古楽の雄でもあった「コレギウム・アウレウム」のものを入手して、とても気に入って聴いている。
いま聴けば、古楽奏法の過渡期で、古楽器を使いながらもヴィブラートをしっかり効かせていて、昨今の演奏からしたら手ぬるい感じは否めない。
 でもしかし、ハルモニアムンデイのこの時期の多くの録音、PCAやデラーなどと同じく、この団体の演奏があったからこそ、現在の古楽の興隆があったわけで、わたしなどの年代はこれを通常奏法と今の先鋭な古楽演奏様式との間に置いているわけだからして、いがいとしっくりくるのであります。

ソフトフォーカスで、アナログ的な古雅な響きなのでありました。
それはまた、クリスマスの思い出とたくみにマッチするのでございます。

Shinjyuku

よいクリスマスを




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2010年12月23日 (木)

バッハ マニフィカト ヘンゲルブロック指揮

Mikimoto

銀座ミキモトのクリスマスツリー。
さすがにジュエリー屋さんだけあって、毎年こちらのツリーの煌めきは美しい。
店内は、わたくしには縁も所縁もなく、入ったこともないけど、季節を彩るこちらのコーナーはいつも楽しみ。
お隣の山野楽器も、ここんところ縁遠い。
かつては、輸入盤セールなどを特設フロアで大掛かりにやっていたのに、いまや普通に高いショップになってしまった・・・・。

Mikimoto2

バカちょんデジカメの限界。
イルミネーションの撮影は難しいのです。

Bach_magnificat_hengelbrock

今日はバッハ「マニフィカト」。
ヴィヴァルディと違って、こちらは聴きなれた曲だけに安心してその壮麗な響きに身をゆだねることができる。

これからますますブレイクしそうな指揮者、トーマス・ヘンゲルブロックの演奏で。
ヘンゲルブロックは、1958年生まれ。
アーノンクールのもとでヴァイオリンを弾いていたし、その後は現代音楽の勉強もしたり、みずから古楽アンサンブルを創設したりしつつ、オペラの分野にも進出して、いっときフォルクスオーパーの指揮者をもつとめていた。
このユニークで多彩な才能を持つ指揮者は、古楽演奏から現代音楽まで、しかもオペラも広範にカヴァーするというレパートリーの持ち主で、古楽演奏とフルオケの指揮をも両立させてしまうという、これからの指揮者のひとつの指標みたいな存在になりつつあると思う。
 北ドイツ放送響の指揮者に就任が予定されるほか、来年はバイロイトでタンホイザーを指揮するわけで、まさにタダものではないヘンゲルブロック氏なのだ。

その彼が得意とするバッハ。
でも普通にマニフィカトを演奏してるかと思いきや、そこは学究熱心なヘンゲル氏。
初稿による録音なのであります。
1723年、バッハはクリスマスの時期を想定してこの「マニフィカト」を作曲したが、その後、1728年、クリスマスにも復活祭、聖霊降臨祭にも対応できるように、クリスマス向けの4曲を外した形の「マニフィカト」を編み出した。
調性も初稿が変ホ長調。2稿がニ長調で、楽器編成も異なっている。
演奏時間も33分くらいに伸びてます。

一般には、2稿が演奏されることがほとんどで、手持ちCDも全部そう。
ちなみにガーディナー盤を聴いてみると、その演奏時間は25分。
一聴して輝かしいトランペットが突出して感じ、音程も高めに感じる。
このことによって、祭典風の喜ばしさと明るさが際立っていて幸せそのもの。
 一方のヘンゲルブロック盤は、もっと落ち着いた古雅な雰囲気が出ていて、トランペットも全体として収まっていて、リコーダーの音色も雅なものに感じる。
合唱団の数も少なめで、ソリストもメンバーたちが交互につとめていて、突出したところが一切なく、まとまりの良さと親密さで渋く統一されている。
 教条的なお固い演奏ではまったくなくって、音のひとつひとつに血が通っていて生き生きとしている点では、かつてのギスギスした演奏とはまったく次元を異にする昨今の古楽演奏の典型である。
マリアが称え、感謝する神への讃歌と呼ぶに相応しい、心のこもった素晴らしいマニフィカト演奏に思う。

  トーマス・ヘンゲルブロック指揮バルタザール・ノイマン・アンサンブル
                      バルタザール・ノイマン合唱団
                        (2000.11@ゲニンゲン福音教会)

ヘンゲルブロックが創設したアンサンブルは、音楽と他の芸術=それは民族伝承なども含む広範なもの、この融合を根ざして活躍している由で、ロ短調ミサもあるので、今度是非聴いてみようと思っている。

Mikimoto3

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2010年12月22日 (水)

ヴィヴァルディ マニフィカト ムーティ指揮

Hamamatsuchou2

ご存知、小便小僧。
こちらは、浜松町駅のホームのはじっこにいます。
季節ごとに、いろんな衣裳をまといまして、裸の姿って見たことない。

Hamamatsuchou1

着込みすぎで、いったい何者かが不明となってる。
おかげで、局部へのモザイクはいりません(笑)

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アップにすると、なんだか不気味ですな

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「マニフィカト」は、受胎告知を受けたマリアが、神を賛美して歌う讃歌。
受胎の喜びと、自分のようないやしい僕が、永遠の王(イエス)を産むという、大いにへりくだった立ち位置で祈る神至上の讃美歌。
ルカ伝の1章にあります。

「マニフィカト」の名作といえば、バッハ
そちらは明日聴くとして、今日はヴィヴァルディ
四季ばかりのヴィヴァルディですが、最近は50あまりあるオペラにも脚光が浴びていて、一度はその上演に接してみたいと思ったりしている。
宗教曲も多くて、その代表格がこのCDにも併録されている「グロリア」。
そちらは明るく輝かしくて、いかにもヴィヴァルディという感じ。

で、こちらの「マニフィカト」。
バッハのそれが、それこそ輝かしい喜びにあふれているのに比べ、ヴァイヴァルディのマニフィカトは、冒頭かなりシリアス。
アレンジを加えたいくつかの版があるが、このCDは最終のものらしい。
メゾソプラノとコントラルトの二人の女声ソロと合唱。
この声部から察するとおり、いつも明るく伸びやかなヴィヴァルディの顔に加えて、ちょっと落ち着いた雰囲気も横溢していて、それがマリアの自らをいやしめて祈り歌う謙虚なお姿をとてもよく映し出している。

まるで「四季」の音楽に歌が付いたような部分もあり、シリアスと書いたけれど、実は耳に馴染みやすいことも事実で、どこを取ってもヴィヴァルディしてます。
全部で11の部分からなっていて、20分そこそこの音楽。
日頃、重たいものばかり聴いてる耳には、とても軽やかで新鮮な赤毛のヴィヴァルディの音楽なのでした。

リッカルド・ムーティがこうした曲を演奏するなんて当時はびっくりだった。
1976年、ムーティさん35歳の録音。
クレンペラーの後を継いだニュー・フィルハーモニア管とのもので、当時のはちきれんばかりの情熱と突進力は、まったく隠していて、神妙に真摯な音楽造りに徹している。
その屈託ない指揮ぶりは、ヴィヴァルディにぴったりかも。
そして、何よりの聴きものは、豪華な二人の独唱者。
テレサ・ベルガンサルチア・ヴァレンティーニ・テッラーニという、最高級のロッシーニ歌手がそのふたり。
その透明感あふれる歌声と、確かな技巧。
登場個所が少なめでもったいないくらい。
この二人とムーティの共演。二度と味わえない希少なものでありましょう。

Hamamatsuchou4

浜松町駅にこんな看板があるんですよ。

あ、そうそう、ご報告をひとつ。
以前、朝から登場した「おねいさん酔っ払い」のお話を書きましたな。こちらで
そのお姉さんに、本日遭遇したんすよ。
午後3時頃、都内某駅近くの携帯ショップで。
替えたばかりの携帯のあるコンテンツが不調で持ちこんで、あれこれやっていたところ、店内で、声を荒げる女性ひとり。
「えーーーーっ!なんだぁ?」などと言ってます。
店員さんが、ご本人確認を、と言ってまして、それに対して怒っちゃってるんです。
おっ、美人じゃん。と見てみたら、あの夏しか会えないと思っていたねーさんだったのです。しかも、完全に酔ってます。ロレツがまわってないんです。
で、お連れがいまして、ちょっとオジサンですが、これがまた腫れものにさわるように、「だからね、そうじゃなくてね・・・・」、云々やってました。
で、しばらくすると、フラフラしながらそのショップを出てゆきましたよ。
 決して、目を合わせちゃいかんですな。
う~む、いったい何者なんだろう

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2010年12月20日 (月)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ワルベルク指揮

Landmark1

体を斜めにするか、パソコンか携帯を斜めにしてご覧ください。

Landmark2

横浜ランドマークの恒例クリスタルツリー。
しかし、今年はスワロフスキー製が復活したそうなのです。
去年も一昨年も観てるけど覚えてないところが悲しい。
高い天井にこだまする音楽がステキなのでした。

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今日のワーグナーは、お馴染みだったハインツ・ワルベルクの指揮する「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。
非正規盤で、抜粋盤。
しかし抜粋といっても、劇場での上演のハイライト盤なので、歌にコーラス付き、全3幕4時間あまりの聴きどころがうまく抽出されたものであります。

N響に何度もやってきてくれたワルベルク(1923~2004)。
見るからに普通のオジサン指揮者然としていて、いかにも人のよさそうな方でしたね。
それにゆえに、際立った個性は弱めで、同時期にN響で活躍したほかのドイツ系指揮者が名誉指揮者の称号をえていたのに、ワルベルクは無冠のまま世を去ってしまった。

この指揮者も古きよきドイツ・カペルマイスターの伝統にのっとり、小さなオペラ劇場からたたき上げでステップ・アップしていった。
ドイツ西部の生まれながら、ウィーンとの関係も深く、トーンキューンストラ管とは長い付き合いだったし、ウィーン響ともそう。同団とは日本にもやってきてます。
あと長かったのが、ミュンヘン放送管で、こちらとのオペラ録音はたくさんありますね。

今回の演奏は、ワルベルクの最終ポストのエッセン劇場のもので、その座付きオケであるエッセン・フィルハーモニーを指揮したものである。
このエッセンこそ、ノルトライン=ウェストファーレン洲にある街で、ワルベルクが生まれたハムという場所も近い。
商業の盛んな、買い物の街みたい。
そこにある市立劇場が常設オペラハウスで、サイトを調べたら、なかなかの充実ぶりで、この12月は「ルイザ・ミラー」や「清教徒」を上演しているし、ビデオも視聴できて、そこには「リング」や「ルル」もあったりして、それぞれにいかにもドイツ風な先鋭舞台なんだ。

そして、こうしたレアな地方劇場の音源を聴いてしまうと、ドイツの地方都市、しいては音楽・舞台芸術に対する底の深さを感じてしまう。

前奏曲~教会での合唱~ポーグナーのモノローグ~ザックスの「にわとこの花」~ベックメッサーのおどおどモノローグ~3幕前奏曲~ザックスの「みんな迷いだ」~エヴァのザックスへの感謝~5重唱曲~ザックスを称える市民の合唱~ワルター「朝はばら色に輝き」~「親方たちを蔑んではならぬ」終幕。

1988年9月25日の上演。

マイスタージンガーの全貌を1時間で確認できる見事なチョイス。
それぞれに、フェイドアウトしてしまうが、時間がないとき、こんな聴き方も悪くない。
長大な本編なので、エヴァちゃんやワルターが最後の方になってようやく出てくる始末だがやむをえないとして、この音源はトラック割りがなくって、全部連続。これは困ったもんだ。
 しかも、歌手の名前が明記されてなくって、何者かわからずに聴かざるを得ないのが、さらに困ったもんだ。

まずはっきりいえるのは、ワルベルク指揮するエッセンのオケの雰囲気ゆたかな音色。
それは暖かく、そしてキビキビした小気味のよいもので、てきぱきと物事は運び、気持ちがよい。劇場指揮者としての優れた手練れは、舞台の様子を掌握し、ひと時もだれることなく、聴衆に劇と音楽を楽しませる術を心得ている。
そんな有様が、この1時間音源でありありとわかるのだ。
まさに職人芸。
すごくはないけれど、このオペラテックな雰囲気には捨てがたい歓びを感じる。
聴衆の熱狂ぶりもうれしい。

N響ドイツ系指揮者たちの「マイスタージンガー」が期せずして手元にそろった。
サヴァリッシュ(バイエルンとの放送音源=FDとコロ、EMIのCD)、スウィトナー(日本公演)、シュタイン(バイロイトの映像、放送音源)。

歌手たちは、デコボコあります。
立派なのはしっかりもの風のエヴァちゃんと、父親ポーグナー。
声に威力はあるけれど、平板で音程がだんご状態のワルター氏。
古めかしく、少しへたったザックス氏。
顔が見えないから、評価は厳しいっす。

でも劇場で観たら、絶対にいいんだろうな。
ドイツにいたら、そこそこの都市ならば、こうした水準のまずまずの上演が始終楽しめる訳です。
しかし、いまや東京もそれ以上の音楽都市になった訳でもあります。

ワルベルクの音源。いまは少ないけれど、晩年のN響とのものは充実してたから音源化が望まれるし、コンサートホールには、なかなかいいものがありましたよ。
ワーグナーの「リング」管弦楽曲、ブルックナーの4、8、9、テ・デウム、J・シュトラウス作品集・・・・などなど。

Landmark3

ワーグナーのミニシリーズ終了。

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2010年12月17日 (金)

ワーグナー オペラ管弦楽曲集 カンテッリ指揮

Bay_quarter1

横浜ベイクォオーターのツリー。
こちらは、東口にある商業施設で、もとは倉庫だった場所。
昔は、西口しかなかった横浜の商業エリア。
わたしが大学生の時に、東口に地下街ができて、そごうやルミネもできた。
西に比べると、人の数は少ないし、ベイエリア方面にもたくさん流れてるから、こちらも特徴付けが大変かも。
 大企業の本社ビルや、大型店舗のあるエリアとも通じていて、歩いたら、みなとみらいまでそんなに遠くない。
遠からず、そちらと一体化して、大ベイアリアとなるんでしょうな。

Cantelli_wagner

今日のワーグナーは、グィド・カンテッリの指揮。
伝説と化した感のあるカンテッリは、イタリアの指揮者。
年代的には、ジュリーニの後の世代で、もし、もう少し存命だったらならば、ジュリーニ、カンテッリ、アバド、ムーティ、シャイー、ガッティ、ルイージと、おおどころで並ぶイタリア指揮者たちの一角としてとらえられる大物指揮者だった。
その系譜の直前に位置するトスカニーニから可愛がられ、自身のNBC響を託され、スカラ座をも手中にしたカンテッリ。

 1920年、ミラノ近郊に生まれ、若い時より楽才を発揮。
しかし、時が時、早くして召集され戦地に駆り出され、ファシスト・反ファシストのややこしい局面に巻き込まれ常に敗走・脱走、そして敗戦後にようやく指揮者として本来の活動に復帰をみた、極めてドラマテックな人生を歩んだ指揮者。
生死の局面を垣間見たカンテッリは、アメリカでトスカニーニに目をつけられたことから、欧米の超一流楽団を指揮するようになり、世界を股にかけた売れっ子指揮者となった。
 今でこそ、ヨーロッパ・アメリカ・アジアと、飛行機で安全性も約束されたなかで自在に飛びまわることが音楽家にとって必須のこととなった。
しかし、カンテッリの不運は、楽旅に向けて飛びったった飛行機が、離陸に失敗してしまい墜落事故。
そこに乗って、居合わせたことで、戦争からは生き延びたのに、飛行機事故からは生きのびることができない運命にあったことだ。

もし・・・、の、たらればですが、カンテッリがあんな事故に遭わなければ、カラヤンやバースタインと並ぶ大スター指揮者が、もうひとり存在していたかもしれない。

  ワーグナー  「リエンチ」序曲
           「神々の黄昏」~「ジークフリートのラインの旅」
           「パルシファル」~「聖金曜日の音楽」   
           「ファウスト」序曲
           「リエンツィ」リハーサル風景

    グィド・カンテッリ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック
                  NBC交響楽団(リエンツィ)
              (1953、56、49~リハーサル @ニューヨーク)

これらは、黄昏とファウストだけが同じ日のコンサートで、ほかはみな異なる演奏機会のライブ録音である。
まず、驚きは演奏の鮮度の高さ。
わたしにとって、もう、それこそ耳タコ状態のこれらの音楽。
イキが良くって弾んでる。
そして音楽の隅々に、演奏者と指揮者が音楽してる喜びに満ちあふれて、幸福そうにしてるのがよくわかる。
リエンツィなんて、浮かれた音楽に演奏してしまうむきもあるが、カンテッリはしっかりした歩調でじっくり歩みながらも、リズム感が抜群なので知らず知らずに乗せられてしまう。
テンポをいじるわけでもないのに、最後のクライマックスには興奮させられてしまい、おやおや、聴衆も曲が終わらないのに拍手しまくりだ。
わかるよ、その気持ち。

Bay_quarter2

「たそがれ」における解放感とスケールの大きさ。
ドイツの演奏とは明らかに異なる明るさではあるが、トスカニーニとはまた違った音の明晰さと透明感があるように感じる。

「パルシファル」の清らかさは、歌優先。
それが極めて自然で作為が一切ない。
こんな「パルシファル」を、きっとヴィーラント・ワーグナーは気に入って、絶対バイロイトに招致していたことでありましょう。
これもまた残念なこと。

暗くて陰湿な「ファウスト」が、こんな立派な曲に響くのは初めて。
アバド(非正規)やブーレーズと並ぶ、曇りひとつない名演と思う。

最後に収録のリハーサルでは、甲高いテノール声の興奮したカンテッリの声が聴かれます。エモーショナルです。

録音状態は、かなりいいです。
全然普通に聴けます。

全体に、もう少し音を磨きあげることにおいて、いま一歩厳しさが必要かなとも思うけれど、カルロス・クライバーを思わせるような情動の豊かさは、意識しないで育まれた天性のものに感じ、若くしてこんな感じだったのだから、さぞかし。。。と思うわけなのです。
 カンテッリの音源を少し漁ってみようと思っている、さまよえるクラヲタ人なのでありました。

Bay_quarter3

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2010年12月15日 (水)

ワーグナー オペラ管弦楽曲集 シューリヒト指揮

Yokohama_st

横浜駅西口のツリー。
JR管内で全国5位の乗降客の横浜駅は、いつ行っても行き交う人であふれていて、それは新宿や池袋、渋谷と同じ様子だ。
でも、つねにいつも工事してるイメージがあるんです。
うん十年前もそう、いまもそう。でも東西通路はきれいになったみたい。

写真右手の駅ビルCIALなどが建て替えとなり、高層ビルになるらしい。
さらに壮大な計画もあるらしい。
わたしは、完成をこの目で見ることができるのでしょうか?

Schuricht_wagner

さて、今日のワーグナーは、オペラから管弦楽部分を抜き出したものを。
この手のCDは、いったい何枚持っているだろうか。
その中からまだ未聴だったシューリヒトの1枚を。

 ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 前奏曲と愛の死

         「神々の黄昏」 ジークフリートのラインの旅〜葬送行進曲

    カール・シューリヒト指揮  パリ音楽院管弦楽団
                        (1954.6 @パリ)

シューリヒトは、1880年ダンツィヒ、現在のポーランドのグダニスクに生まれたドイツの大指揮者のひとり。
劇場からたたき上げて、キャリアを積み上げていったかつてのドイツの指揮者のまさに王道を行った人だけれど、不思議にオペラの録音がまったく残されていないのが残念だ。
世界中のオーケストラを指揮していたようだが、正規に残された録音として有名なものは、ブルックナーの交響曲やべートーヴェンやモーツァルト、ブラームスの交響曲やバッハでありましょう。
1967年にスイスで亡くなったが、長く活躍したわりに録音が少なめ。
今後は放送音源の復刻などもさらに、増えることでありましょう。

わたしは、中学生時代、頒布レコードのコンサート・ホールの会員になっていたので、そちらでのシューリヒトのレコードはそこそこ持っていた。
音は悪いが、ジャケットのセンスが良かったし、当時は素直に(!)某有名シューリヒト賛者の評論家様の解説を感激しながら読んでいたもんだ。

そのシューリヒトは、いつも速い、ザッハリヒ、素朴、ときに濃厚・・・、いろんな要素が時に合い乱れる不思議な指揮者だと思っている。
実は、よくわからないのであります。
あの世評高いブルックナーも録音のせいもあるが、薄すぎると思ったりする。
でも、ブランデンブルク協奏曲と、ブラームスの4番、J・シュトラウスは本当にスゴイと思ってたりする。
余談ながら、J・シュトラウスをウィーンフィルで録音してたときに、そこで勉学中で居合わせた故岩城宏之氏は、思わず立ち上がって「神だ!」と呟いたそうであります。

で、今日のワーグナーは、シューリヒトによくある、ドイツ物はパリで、の演奏なのです。
トリスタンの前奏曲の出だしから、あれ? 半音高いよ?
と思ってしまうくらいに、音のピッチが少し高く感じるほどに、オーケストラ、特に管の音色が明るいのあります。
慣れるまで違和感はあるものの、徐々にうねりを増すほどに、音は明晰さをも増してゆき、どの楽器もみなはっきりと聴こえてくる。
古めのモノラル録音なのに、音がぼやけず、明確なのはスゴイと思う。
フルトヴェングラーの巨大なうねりの中に人を巻き込んでしまうスタイルとは、まったく逆で、シューリヒトは直球ストレートで、ワーグナーの音を裸で聴かせてしまい、人の耳をそばだてることに成功している。
すっきりした「愛の死」も浄化作用が強く、構えずに明るく昇り詰めてゆくところがよろしい。

生命力に満ちた「ラインの旅」に続いて、驚きは「葬送行進曲」。
シューリヒト自身の編曲で、続けて演奏され、ジークフリートが刺され、彼のモノローグから葬送行進曲へとつながってゆくが、ここでの切実な響きは意外性のシューリヒトならではで、こんな厳しくシャープな葬送行進曲はちょっとないと思った。
昨日のミトプーより辛い。
パリのトランペットの鳴きの咆哮は、耳をつんざくように悲しみを伴って刺さってくるし、打楽器の強打も強烈だ。
しかし、弦楽器の清澄な響きと壮麗さも感じさせる管も極めて印象的。

モノラルだし、少しばかりユニークなワーグナーだから、よほどのワーグナー好きじゃないとお薦めできませんが、シューリヒトの芸風を味合うには持ってこいのワーグナーでした。
シューリヒトには、コンサートホール原盤のバイエルン放送響とのもとと、シュトットガルト放送響との放送音源によるものが、それぞれ音もまずまずで楽しんでます。

録音技師は、ケネス・ウィルキンソン、プロデューサーにはヴィクトール・オロフの名前が書かれてまして、ここにカップリングされた、シューリトっぽくない「イタリア奇想曲」のプロデューサーには、ジョン・カルショウの名前も書かれてます。
デッカの黄金時代はこのあたりから始まっているわけですな。

Yokohama_st2

今度は、駅を背に。
グリーンです。


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2010年12月14日 (火)

ワーグナー 「神々の黄昏」第3幕 ミトロプーロス指揮

Tokyotower12m1

12月の週末のトーキョータワーは、ダイヤモンドヴェールの照明となってます。
時間限定。
しかも、30分間、レーザーを駆使したショーをやってるんです。
その一瞬を見たけれど、写真撮れなかった。
スカイツリーに負けずに頑張ってますな。
同期として嬉しいし、わたしも頑張んなくっちゃ。

Wagner_gotterdammerung_mitoropoulos

今日はワーグナー
それも珍しいところで、ミトプーのたそがれ」でございます。

 ブリュンヒルデ:アストリッド・ヴァルナイ ジークフリート:ラモン・ヴィナイ
 グンター:クリフォード・ハーヴォット   ハーゲン:ルヴォミル・ヴィチェゴノフ
 グートルーネ:ルシーネ・アマーラ    ウォークリンデ:ヘルタ・グラッツ
 ウェルグンデ:ロザリンド・エリアス   フロースヒルデ:シューケ・ファルカナジアン

   ドミトリ・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック
                        (1955.10.30@N.Y.)

カーネギーホールでのライブ録音。
ミトロプーロスのワーグナー録音自体が非常に珍しいのでは!
あとは、メトでのワルキューレ(これはリング上演だったのかどうか?)ぐらいしか音源は見当たらなかった。
ニューヨーク・フィルは、今みたいにへたれてなくて、重厚で分厚く、かつ、とんがってる。
ミトプーの切れ味鋭い指揮が、無慈悲なまでにジークフリートの死の悲しみをつのらせる・・・・。
それに輪をかけて、高貴でかつ悲劇一色のトーンにつつまれた、ラモン・ヴィナイのジークフリート。
ヴィナイのジークフリートゆえに、この音源に手を出したくらい。
父親、ジークムントと完全に同一化してしまったかのような思いを抱かせる、ジークフリートの死と、その前の記憶をたどり、ブリュンヒルデを回顧する場面。
一般的ではなさすぎるけれど、こんな色合いのジークフリートは聴いたことがない。
3幕だけだからかもしれないが、呑気で屈託のないジークフリートの姿がどこにも見当たらない。
バリトン歌手であり、ヘルデンテナーでもあったヴィナイ。
イヤーゴ、スカルピア、リゴレット、カニオ、テルラムント、オテロ、トリスタン、ジークムント、パルシファル・・・、これらに一人で最高峰の歌唱を残したのは後にも先にもヴィナイだけ。
ドミンゴだってできません。
そんな貴重はヴィナイのジークフリートが聴けたのです。

そしてお馴染みアストリッド・ヴァルナイのブリュンヒルデ。
雨が降ろうが、風が吹こうが、槍が飛んでこようがヴァルナイはまったく自分の世界をもっていて、そのペースで歌い通している。
人間味豊かな、艱難くぐりぬけたひとりの女性を歌いだしていて、ニルソンの神を感じさせる怜悧さとはまた違うブリュンヒルデ。
メードル、ヴァルナイ、そしてニルソンと、思えばワーグナーソプラノの系譜でいうと、50~60年代は一番すごい時代だったんですな。

アマーラのリリカルなグートルーネはいいが、、情けなさが特徴のそのものハーヴォットという人にグンターと、ハーゲンはちょっとイマイチかな。

それにしても、ミトプーのワーグナーは強靭でかつ神々しいまでの崇高さを感じさせる。
テンポはかなり動くが、ハイスピードの部分と、思い入れたっぷりの部分が、不思議に自分にしっくりくる。
でも自己犠牲は少しやりすぎか、けっこう飛ばしてますぞ。
時代がかってなくて、今でも充分通用します。
こんなの聴いちゃうと、今の若いバイロイトの兄ちゃん指揮者たちが、ひよっこみたいに聴こえるから困ったもんだ。

録音は時代と録音の背景を考えればまずまず鮮明なもの。
なによりも、とても安く手に入りました。
ちなみに、最後のハーゲンの一言は何故か入ってません、なんでだろ。

Tokyotower12m2

冒頭の写真の数分前、こっちは、ハート入っちゃってます。

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2010年12月13日 (月)

アルファーノ 「シラノ・ド・ベルジュラック」 東京オペラ・プロデュース公演

Operacity1

アンドレア・シェニエの時はなかった新国のクリスマス・ツリー。
次回演目、ソールドアウトのトリスタンの時は、初日の25日だけ、このツリーが拝めるのかしら。
わたしは、違う日なので、これが見納め。オペラシティの巨大ツリーも。

Operacity

楽しみにしていたオペラ公演。
中劇場を使っての東京オペラ・プロデュースの出し物は、アルファーノ(1874~1954)の「シラノ・ド・ベルジュラック」。
つい先頃、アラーニャの名舞台を記事にしました。
1年以上かけて聴き込み、DVDも観て、充分に把握してから臨んだ今回の舞台上演。

やはり、実際の舞台にのると、こうも違うものか。
そして、こうもワタクシを感動させ、虜にしてしまうものか。

邦訳がなかったもので、誤訳してたり、内容理解が不十分だったところが、舞台に接することで完全に掴むことができました。
こうした珍しいオペラを次々に取り上げては日本初演を繰り広げている東京オペラ・プロデュース。
その舞台の充実度は毎度のことながらに、手探りのやってみました、なんて次元よりはるかに高いレヴェルで、そのオペラの理想像を打ち立ててみせることに感嘆するしかない。
原語が、フランス語というイタリア・オペラ。
そんな実に難易度の高いオペラを、日本人だけでこうして上演してみせることに、わたくしは尊敬と感謝の念を捧げたいと思います。

今日は、前から3列目。かなり左手26番という席で、舞台の全貌が観えるし、オケ近すぎながらも実によい音で、良席でした。
これでもB席ですから、中劇場はいいです。

Cyrano

 シラノ・ド・ベルジュラック:内山 信吾  ロクサーヌ:大隅 智佳子
 クリスティアン:三村 卓也         デ・ギーシュ伯爵:秋山 隆典
 カルボン :村田 孝高           ル・ブレ :峰 茂樹
 ラグノー  :和田 ひでき         家政婦・修道女:和田 綾子
 リーズ・修道女:小西 美緒        ヴェルヴェール:岡戸 淳
 リニエール・騎士:白井 和之       モンフルリー:八木 清市

   時任 康文 指揮 東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団
             東京オペラ・プロデュース合唱団
       演出:馬場 紀雄
                     (2010.12.12@新国立中劇場)


公演パンフレットにあるアルファーノの記述や、本オペラの紹介など、とても参考になり、ますますこのオペラへの理解が高まりました。
劇の筋や、アルファーノに関しましては、弊ブログのこちらの記事をご参照いただければと存じます。

今回の演出は、DVD映像でもそうであったけれど、無用な解釈を廃し、劇の時代設定と筋立てに忠実に従った、極めてオーソドックスなもので、初演ものだし、ましてシラノという実際の人物を描いたオペラだけに、わたしは大賛成。
慣れない初観劇オペラで、あれこれ解釈されちゃったら、観る方も、演じる方も大変ですから。

4幕5場で、各幕と場は、それぞれ30分たらず。
しかし、場面設定がそれぞれに異なるから、舞台転換がたいへんだ。
だから、休憩が大中小合わせて3回あり、5分の小休止もあった。
出ずっぱりのシラノ役のことを思えば、この舞台設定のための休憩は必須だったでありましょうが、ドラマの緊張がややとぎれてしまったのは否めない。
特に、3幕と4幕は、シラノの死を際立たせるためにも、連続ないしは、小休止ぐらいにして、観客は席にとどめた方がよかったかも。
 でも、舞台を観ると、戦場と修道院内部とであまりにかけ離れている設定なので、機能上やむをやないのかも・・・。

1幕
クリスティアンの若い三村さん。なかなか飛ばしてまして、いい第一声でしたね。
そして、シラノの男粋溢れるカッコイイ登場は、内山さん。
大きな長い鼻。ドンキホーテばりのお髭。実にさまになってまして、出だしこそ慎重だったけれど、あの剣劇をともなうアリアはお見事。
シラノは、最初から最後まで出ずっぱりで、最後の大往生まで声を駆使しなくてはならないから、そのスタミナ配分がさぞかし大変だったのではないでしょうか。
街を隔てる門と、その街並みの背景はなかなか優れた設定でしたね。

2幕1場
人のいいラグノーを優しそうな和田さんが歌ってくれました。
ラグノーは浮気性の女房に手を焼き、料理人兼詩人ゆえに、女房に逃げられちゃうます。
DVDでも、貴族のギーシュは憎たらしいけど男前だった。
今回の秋山さんもなかなかのスノッブで、嫌な感じを出してました。
で、いよいよ登場したのが大隅ロクサーヌ。
ファンなものだから彼女の本格登場を心待ちにしてた。
シラノの気持ちを知ってか知らずか。いや、まったく知らない彼女。
少しばかりの高慢さもにおわす、大隅さんのしっかりとした歌唱に演技。
さすがであります。

2幕2場
ロメジュリならぬ、バルコニーの場。
このオペラのひとつの白眉。
アルファーノが書いた愛の二重唱は、先達プッチーニともまったく違う。
ワーグナーのトリスタンの世界にも肉薄する愛と死、そして自分の思いを封じ込めて苦悶する複雑な情熱の吐露。
内山・大隅・三村の素晴らしいトリオによる熱唱に、わたしは心が熱くなりました。
震えました。
そして、顔で笑って、心で泣いて。
背中で演技するかのようなシラノに、男ながらに感じ入ったのでございます。

3幕
殺伐とした戦地の陣営。
いつも影のようにシラノとともにいるル・ブレが、戦地をかいくぐってロクサーヌにクリスティアンになりきって書いた手紙を届けるシラノに友として忠告する。
さんのル・ブレは、親愛に溢れた素晴らしい友でした。
そして、元牧童の美しい笛に乗って歌う故郷の歌と合唱。
解説には、ムソルグスキーのようだとあったが、ほんとそうかも。
圧政と偽善に泣く兵士たち。
それを許すことができないシラノと、ギーシュの対立。
 そして、この幕でも大隅さんの素晴らしい歌唱。
あのバルコニーの場を夢見つつ語る歌。
今日一番の聞かせどころだったかもしれない。
はりのある声と、豊かな声量、そして感情移入の的確さ。感動しまくりでしたよ。
そして、三村クリスティアンは、この幕ではやたらと悲壮感が強まってました。
ここではカルボンを歌った存在感溢れる村田さん、こちらも敵に殺られてしまうのですね。
クリスティアン亡きあと、雄たけびを挙げ、敵地に乗り込んでゆくシラノ。
その後ろ姿を巧みに演出してました。ヒロイックでした。

4幕
清涼感と荒涼感のあふれる修道院の庭。
大きな木の下には、枯れ葉が散ってる。
背景は美しい赤い夕暮れの光景。
とてもきれいでした。
しかし、わたしは、やがて来るシラノの壮絶な死を知ってるだけに、切なくてしょうがなかった。
家政婦さんと、修道女の二役の和田さん。笑顔がとても素敵なチャーミングなメゾです。
彼女に十字を切ってお祈りを受けるシラノは瀕死の重傷。
それを知らずに、編み物を続けるロクサーヌ。
シラノになりきってしまっかのような内山さん。
高音の力強さと威力。
何度か新国の舞台やオケのソロでも聴いてるけれど、こんなに立派なテノールだったとは思いもよらなかった。

かつて自分で書いたクリスティアンの辞世の手紙。
そこには、その時の涙の滲みと、クリスティアンの血のあとが・・・・。
それを淡々と読み始め、やがてそれは情熱的になってゆく。
あまりの素晴らしさに、わたしはもう涙あふれ、くちびるが震えてしまう。
そうと知ったロクサーヌが、あなただったの・・・、何故・・と大隅さんが悔恨こめて歌うとき、わたしは感動のあまり嗚咽しそうになってしまいました。
オテロの死を思わせる幻影との戦いと死を受け入れる諦めのシラノ。
そこに立ちつくす親友と愛するロクサーヌの前で、シラノは死んでゆくのでした。
DVDでは、友がシラノの瞼を閉じてあげたけれど、今回は、友の腕の中、ロクサーヌがシラノの手を取るなか静かに息を引き取りました。
残された三人は、遠くを見つめるようにして・・・・・。

ほんとうに素晴らしい上演でした。

劇場はあんまり埋まらなかったけれど、その場に居合わせた方々のすべてが、このドラマに酔い、大いなる感動を味わわれたのではないでしょうか。
トゥーランドットの補完者は、単なるアルファーノの一面で、このように素晴らしいオペラがあるんです。
そして、再度書きますが、東京オペラ・プロデュースに感謝です。

時任さん指揮するオーケストラも、全然素晴らしいのでした。
このオペラを完璧に知悉し、のめり込むようにして指揮をしていた時任氏。
こういうオペラ実力派がいるから心強いです。
第二、第三の若杉さんが輩出してきております。

いま、公演の様子を思い起こしつつ、W・ジョーンズの歌ったCDを聴いております。
プッチーニ同世代イタリア作曲家。ともかく大好きです。探訪は続きます。

Operacity2

新国エントランス。

Operacity3

誰もいない大劇場のロビー。
クリスマスツリーのみが光ってます。

そして最後は華やかに。

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オペラシティ内のツリー。
毎年お目見えのおなじみです。
つりーの足元のご夫婦。
なんだか羨ましくも微笑ましいですね。

アルファーノ関連 過去記事

「アラーニャのシラノ・ド・ベルジュラック」

「アルファーノの復活」

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2010年12月12日 (日)

シューマン ピアノ五重奏曲 ピリス

Roppongi

六本木

Bernds_bar1_2 

土曜日は、ギロッポンで、ヲタクラ会

シューマン・イヤー掉尾を華々しく飾るべく、ドイツ料理のお店で。
全部で13人。
みんなクラシック音楽好き。
ブログというナイスなツールが生み出した、ナイスな集い。

Bernds_bar3

となりでシューマン、こっちでショパンやポーランド、あっちでノイマン、そっちでN響、あそこではオペラやマーラー、神奈フィル、仙フィル・・・・、もうもう、みなさんお話が尽きません。
そして飲むわ飲むわ・・・。
クラシック音楽好きなのか、単なるあ飲兵衛なのかよくわかんない。

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というわけで、まず曲いっときましょう。

シューマンピアノ五重奏曲
ある年ごとに、そのジャンルに集中して作曲したシューマン。
ピアノの年、歌の年、室内楽の年もあります。
室内楽は、1842年。
ライプチヒに住んでいた年で、今年3曲まるごと聴くことができた味わい深い弦楽四重奏曲や、ピアノがらみの四重奏曲、五重奏曲、幻想小曲集など。
ヴァイオリンソナタやトリオは、もう少しあとの晩年の時期。

Schumann_piano_conceruto_piresabbad

弦楽四重奏+ピアノ。
非常にわかりやすい編成の延長として、ロマン派のロマン派たる魅力に満ちあふれた明るい名曲。
明るい、という意味ではシューマンらしからぬ雰囲気もあるが、幸せと自信に満ちているともいえるかも。
メロディアスで、屈託が少なめで、平明な構成と旋律線。
1楽章からして、情熱と柔らかな抒情の綾なす雰囲気に引き込まれる。
その冒頭は、ときおり何かの拍子に脳裏に浮かんでしまう旋律のひとつなんです。
2楽章に陰りある部分を持つものの、そこは充分にロマンティーシュであり、続く3楽章と終楽章も明るく輝かしい。
こんな快活として、明るいシューマンはちょっとないと自分は思ってます。

ピリスデュメイ夫妻を核に、若手実力奏者の臨時編成ながら、まとまりが均一的で実によろしい演奏。
ピリスの明晰でかつ深みのあるピアノは素敵です。

  ピアノ:マリア・ジョアオ・ピリス
  ヴァイオリン:オーギュスタン・デュメイ
    〃    :ルノー・カプソン
  ヴィオラ      :ジェラール・コセ
  チェロ     :ジャン・ワン

           (1999.10@スネイプ・モールディングス)


このCD。最初国内盤では、協奏曲1曲でやや廉価で発売されてた。
アバディアンとしては辛かったけれど、じっと我慢して、カップリングのピリスの弾く室内楽曲とともに外盤で発売されるまで待ち続けた思い出があります。

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まだまだ続く宴会写真。
お食事前の方、すんませんね。
ドイツ料理の神髄をプレートに山盛りに。
こちらは、シュニッツェル。

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がじゃいも(ポテト)、奥はソーセージ。

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エルディンガーの黒。
香ばしくもシャープな味。
やだもう、うますぎ~

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ドイツ料理の大物といえば、アイスバイン。
牛さんの脛肉を、数日かけて煮込んであります。
ほろほろの柔らかいお肉にマスタードをちょいと付けて食べるんです。
むちゃくちゃ美味しい。

Bernds_bar13

そして、またビール。
最初に飲んだヴァイエンシュテファーナに戻ります。
たぶん、4杯は飲んでますな。
写真だけが、わたしの衰えつつある記憶をとどめるものとなりつつあります。

濃厚で、アルコール度数が高いから結構酔うんです。

Bernds_bar11

こうして、お肉は骨だけになりました。

Bernds_bar2

店内は、こうしてドイツしてます。

Matsuchan1

そして、酔っ払いヲタクラ軍団は、六本木の街を縦断して、ドイツから和の居酒屋に攻め入ったのでございます。
まるで、料亭。
しかし、驚くべきことに、店内は完全な居酒屋。

Matsuchan

居酒屋にいると、まるで自分の家にいるみたいになっちゃう。
ポテサラを食べながら、片手にはジョッキ。
今度は、ビールじゃなくって、ジョッキの中身はなんと、焼酎のロックだ。
こりゃ、酔いますわなぁ。

Matsuchan2

こんなの食べてました。

Matsuchan3

ヒョウタンまで食っちゃった。
最後は、日本人。漬け物やね

いやはや、飲んで食べました。
みなさま、お疲れ様、そしてお世話になりました。

シューマンのあとは、ただいまフィンジを聴いとります。

午後からは、オペラを観に、ちょいと新国まで行ってまいります。

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2010年12月10日 (金)

シャイなにゃんにゃん

Shibaneko1

 夜の商店街を酔っぱらって、さまよっているワタクシ。
ふと、もうシャッターの閉まった飲食店の片隅に、にゃんこ発見。
近寄る怪しい男(=それはワタシだ!)に怯え、清酒のケースの後ろに隠れようとするにゃんこ。
 これこれ、オジサンは悪い人じゃぁないよ。出ておいで・・・・、と呟いても覗きこむばかり。

Shibaneko2

で、あきらめて立ち去ると見せかけて、急に振り向いてパシャリ。
固まってましたね。
でも、このにゃんにゃん、めんこいのぉ~

Shibaneko3_2

画像を拡大してみました。
どう?かわゆいでしょ。
シャイねこは、カワユイのです。

Mitsu_neko

もうひとつ、昔の写真を。
再褐かもしれませぬ。
某居酒屋に付かず離れず、めんこいにゃんにゃん。
首かしげてますな~

久々の「ねこ」シリーズ。
酔ってても、「夜のシャイねこ」を探し求める、そんなクラヲタ人なのでしたぁ~

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2010年12月 9日 (木)

ファーラー オーケストラ作品集 ミッチェル指揮

Ginza4st

銀座4丁目の交差点を望む。
先週の夕空。
ひとり活動の時は、自由に歩き回り、写真を撮りまくるのであります。
誰か一緒いると極めてやりにくい、ネタ集め。

銀座は、この時期キラキラしてますよ。
懐はさびしいけれど、こうして美しい写真が撮れたりすると、嬉しくなります。

Ginza4st_2

銀座で買い物なんて、もってのほか。。。。
某国の人がバスで乗り付けて跋扈してます。
でも、彼らもユニクロで並んでたりすると妙にうれしいですな。

Farrar

今日も、フィンジ(1901~1956)がらみの音楽を。
アーネスト・ファーラー(1885~1918)の名前は、フィンジ・ファンならばご存じかもしれません。
音楽一家だったフィンジが、父を9歳にして失くし、第一次大戦の影響もあって、疎開した先がハロゲイト。
そこで知り合ったのが、作曲家・音楽家のファーラーで、当時教会オルガニストだった。
音楽一家のもとで、手ほどきを受けていたとはいえ、音楽の本格勉強は、ファーラーに出会ってからで、和声法やピアノを習ったという。
この時、フィンジは13歳で、1914年のこと。
それから約4年間、ファーラーを亡くなった父や、さらに相次いで亡くなった兄たちと重ね合わせて、師として慕い勉学に励んだフィンジ。
 そのファーラーも、大戦に出兵することとなり、1918年9月にフランスの前線に召喚され、そのわずか2週間後に戦死してしまうこととなる。
父・兄弟・師を失った18歳の多感なフィンジでありました。

その師、ファーラーも思えば34年という短い戦争に散った薄幸な生涯であります。

思えば、ふたつの世界大戦は、音楽家にいろいろな運命を与えた。
第一次は、このように死に直結してしまう音楽家。
第二次は、迫害から逃れるゆえに、忘れられ不遇に陥った音楽家。

ファーラーの音源は、ほとんどないに等しい。
シャンドスのこの1枚と、歌曲少し。あとナクソスにはあるのでしょうか。

もったいないことです。
どれだけの作品があるかも私には不明ですが、オーケストラ作品と歌曲、オルガン曲あたりに絞られるようです。

このほとんど唯一といっていいオーケストラ作品を集めた1枚を聴いて思うのは、わたしたちが、日頃接し思う、英国音楽の特徴を完璧なまでにしっかりと踏襲し、イメージとしてそれを感じとることができること。
澄みきった和音に、爽やかな響き、哀愁と悲哀、ペーソスとコメディ、田園情緒と民謡・・・。

    1.ラプソディ第1番「The Open Road」

   2.ピアノとオーケストラのための変奏曲

   3.「見捨てられた人魚」

   4.「英雄的哀歌」

   5.「英国の田園風景の印象」

          P:ハワード・シェリー

     アラスデアー・ミッシェル指揮フィルハーモニア管弦楽団
                       (1996.11@ロンドン)


これらの作品は、いずれも英国音楽を愛する人ならば、その心の提琴にふれる桂作ばかりです。
なかでも、わたしが気にいったのは、「英国田園インプレッション」で、これは3つの作品からなる組曲。
①春の朝、②ブリードンの丘、③丘を越えて、はるか遠くに・・・・・。
イギリスの朝もやのような中から、いかにも英国民謡風の調べが響きだす①。
極めて詩的で、静的。繊細極まりない②は、ケルト風な雰囲気もただよい、後のアイアランドやバックスを思わせる素晴らしいもの。
③は明るくて、先輩パリーの音楽を思わせるような快活なもの。でも充分に詩的です。

「英雄的哀歌」は、ほぼ最後の作品のようで、哀愁でまくり。
しかし、トロンボーンで歌われるアジャンクールの歌が高貴なる死を予見させるようで、淡々と、そしてひしひしと、死が迫ってくるようなヒロイックな音楽なんです。
なんともいえない悲壮感がただよっていて、エルガーが自国に歌ったシンフォニーの緩徐楽章みたいに聴こえる。

悲壮感と哀感ただようといえば、「見捨てられた人魚」という27分におよぶ幻想的な交響詩も素晴らしい。
詳細はまだ掴みきれてませんが、浜辺で悲しむ男人魚とその子供の嘆きみたいな内容のようです。
ここには、わたくしは、ワーグナーやシュトラウス、そして人魚といえばツェムリンスキー、初期シェーンベルク、あと忘れてならないはディーリアス、さらにスークなどをも思い起こすのでした。
実は、この曲が、このCDの中で一番気になる。
英語解説もまだ把握できてないし、しかもそれは、いつも酔ってるから難しいのだけれど、音楽を聴いてて、もっともピピッときたのは実はこれ。
先にあげたわたしのフェイヴァリット作曲家たちの延長線上にある音楽。
このあたりは、また機会をあらためて探究してみたいです。

こうして聴いてみると、ファーラーはゆるぎないいかにも英国的な作曲家という作風を持ちつつも、世紀末をまたいだ作曲家として、島国英国から、ドイツ・オーストリアをも見こしていたのではないかと思う。
あんなに若くして亡くならなければ、ファーラーは一体、どんな作曲家になっていたことでありましょう。
そして、フィンジの音楽も・・・・。

こうした自国音楽を着々と掘り起こし、録音していったシャンドスレーベルは、いまさらながらに素晴らしい存在です。

「フィンジとその仲間たち・・・」、そんな歌曲集のCDがハイペリオンから出てますが、そちらはまたの機会にして、今週はフィンジの朋友と師の作品を取り上げてみました。

  

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2010年12月 8日 (水)

フィンジ チェロ協奏曲 ウォールフィッシュ

Sunset_11m

ある日の夕方、自宅から見たお空は、こんなんなってました。
ちょっと秋っぽいけれど、今日のように寒くて乾燥して、空気が澄んでくると雲ひとつない美しい夕映えが拝めるようになるんだ。

夕焼けウォッチャーとしては、これからも楽しみ。

Finzi_leighaton_cello_con

昨日は、朋友ファーガソンの感動的な声楽曲を聴きました。
そして、今宵は、お友達の片方のジェラルド・フィンジ(1901~1956)の最晩年の大作、チェロ協奏曲を聴きます。

フィンジは繰り返し記事にしてます。
若くして多くの別離に遭遇したフィンジ。
それでも自身の思いを、作品は少ないながらも、こうして音楽としてしっかり刻むということで、残してくれた。
破棄された作品も多いとはいえ、フィンジの作品が、いまあるわたくしたちに、どんなにか、慰めと癒し、そして希望を与えてくれているだろうか。

悲しいとき、嫌なことがあったときなど、フィンジの音楽はそっと傍に寄り添ってくれて、いつしか心の襞をうめてくれる。
楽しいとき、うれしいときも、一緒になって、とても気持ちを豊かにしてくれる。
それが、わたしにとってのフィンジの音楽です。

チェロ協奏曲は、フィンジがずっと書こうとして、心にとめていたジャンルの音楽で、かつ、いくつかはしたためていたという。
自己批判精神の高いフィンジは、かなりの作品を破棄してしまっているから、あといくつかのチェロ協奏曲があったかもしれない。。
バルビローリの勧めに応じて、完成させたのが39分に及ぶこちらの大作。
1955年に完成し、同年7月、チェルトナム音楽祭で、C・ビューティンの独奏、バルビローリとハルレ管によって初演された。
このときすでに、フィンジは不治の病に冒されていて、翌年55歳で亡くなってしまう。

3つの楽章のうち、1と2の楽章で30分あまり。
そのふたつの大きな楽章の素晴らしさと、終楽章の舞曲風な明るい楽しさの対比が、妙に心に残る。

シリアスで、自在なスタイルで作曲することの多かったフィンジが、協奏曲の王道にのっとり揺るぎないソナタ形式で書いた第1楽章。
ラプソデックであり、かつヒロイックなチェロ独奏は、思いのたけを思い切りぶちまけているようで熱く、それを受けてオーケストラも孤独の色濃く壮絶。
辛いけれど、聴きごたえ充分で、大河ドラマの主題歌のようにドラマテックな音楽に驚く。

でも第2楽章は、あの優しくシャイなフィンジが帰ってきて、静かに微笑んでくれます。
このいつまでも、ずっとずっと浸っていたい音楽はいったいどのように形容したらよろしいのでしょうか。
冒頭、オーケストラによって、この楽章の主要旋律が、どこか懐かしい雰囲気で静かに奏でられる。
あまりの美しさに、手をとめて、目をとじて、じっと聴いていたい。
今日のいやなこと、昨日の悲しいこと、明日ある辛いこと・・・、そんなことは、もういいよ、といわんばかりにフィンジの音楽が包みこんでくれます。
チェロも、オーケストラの各楽器も、感じ入りながら演奏しているのが手に取るようにわかる。奏者も聴き手も、そんな優しい気持ちにしてしまうフィンジならではの楽章です。
楽章の終りに、メイン主題がチェロによって静かに繰り返され、オーケストラがピアニシモで儚くそれに応え、静かに終わります。泣きそうになってしまいます。

そして、チェロの上昇するピチカートで開始される舞曲風の第3楽章。
明るいけれど、2楽章と違った意味で、どこか懐かしい。
ふたつの楽章からすると軽めだけど、クラリネット協奏曲の終楽章と相通じる飛翔するような音楽。
洒落たエンディングが待ち受けております。

英国音楽のチェロ作品に必須のウォールフィッシュの気品あふれた艶やかな音色。
ハンドレーロイヤル・リヴァプールフィルの素晴らしい演奏。

このチェロ協奏曲は、エルガーのように人気はないけれど、多くの方に、静かに楽しんでいただきたいものです。

Sunset_11m2

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2010年12月 7日 (火)

ファーガソン 「Amore langueo」 ヒコックス指揮

Motomachi_cath2

函館の教会。
過去画像より。
カトリック元町教会の夕暮れ間近の様子。
もう10年以上も前だけど、函館は仕事の関係で始終行っておりました。

父が亡くなり、どうしようもない喪失感にさいなまれているときも、お仕事ですからこの地に行きました。
車を駅に返し、徒歩で元町地区に向かい、暮れなずむ頃合に、この教会に初めて足を踏み入れました。
誰もいない静寂の教会。
一人腰掛けてずっと座ってました。
涙が出ました。
あの感覚は、一生忘れられないものかもしれません。

Ferguson_amore_languro

ハワード・ファーガソン(1908~1999)は、いまは北アイルランド、ベルファスト出身の英国作曲家。
おもにロンドンにおいて、勉強し、活躍したものだから英国作曲家といえるのかも。
サージェントに指揮を学んだりしながら、作曲家としては寡黙な方で、フィンジの朋友としても知られる。
教育者・学者・音楽プロデュースとしての才も豊かで、シューベルトのピアノソナタの校訂や、マレイラ・ヘスやカスリーン・フェリア、ヤッシャ・ハイフェッツなどとの仕事もファーガソンの名前を音楽の歴史にとどめるものとなっている。

合唱作品、協奏曲、室内・器楽曲などに桂品を残しているが、ほとんど顧みられていないのが現状。
わたしも、今回のCD、そして同じ協奏曲の入った1枚しか聴いたことがないのです。
しかし、これら限られた音源でも明らかなのは、ファーガソンが時代的には、やや保守的で、英国の抒情派に属する作曲家であること。
 そう、まさに朋友フィンジとも相通じる、繊細で心優しい音楽を書いた人のようなのです。
もっと同じ傾向の作曲家をあげるならば、アイアランド、ハゥエルズ、レイトン、ラッブラ等々でございましょうか。

93年発売の、当CDのバイオでは、ファーガソンがまだ存命になっておりますが、99年に物故しているのですね。
まったく知られることなく、ひっそりと消えていったこうした作曲家に、わたしは大いに興味を抱きます。
 それほどまでに、今回の「Amore lngueo」と併録のピアノ協奏曲は、美しく魅力的に聴こえるのであります。
フィンジの絶美の名曲「エクローグ」が、同時に収録されていることからも、これらファーガソンの音楽の魅力がおわかりいただけるのではないでしょうか。
というのは、未完の「エクローグ」をフィンジの死後、完成に導いたのはファーガソンだったし、今回の作品をフィンジに捧げたのもファーガソンであります。

1930年頃からそのテキストを選び、ずっと構想を温めてきたファーガソンが、この声楽作品を完成させたのは、1956年のこと。フィンジ死の年です。
この「Amore langueo」は、ラテン語で、おそらくですが、「愛への憧れ」(愛は神への愛)というような意味でしょうか。
15世紀の古詩がその原典で、ラテン語を英語訳したものであるが、その英詩を見ても、内容は例えが多く、わたしにはよくわからない。
磔刑のキリストが、人間(彼女)と対話する内容を恋愛のように例えたのではないかと、勝手に想像している。

詩の内容は、想像の域を脱しないが、ファーガソンの音楽はとびきり美しい。
静かに、そして沁み入るように淡々と語りかける類の音楽で、毅然とした情熱も表出されることもあり、そこには甘味なまでに傾くことがある神への愛の姿がみてとてれる。
「ナイーブな静かな悲しみ」を感じ取ることで、フィンジととても似ていると思う。
合唱が、背景や人間を、テノール独唱がキリストを歌っている(と思います)。
各文節のあとに歌われる、「Quia amore langueo」という言葉。
それが、それぞれに気分や様相を変えながら登場する。
終りの方で、女声を中心にアカペラ合唱が始まる。その静謐な美しさには胸が熱くなる。そして、そのあとテノールが優しく応える・・・。
いったん休止したあと、冒頭の印象的な導入の合唱が再現され、曲はまるで溜息をこらえるかのように静かに終わる。

30分の静かな音楽。
しみじみとしました。

リチャード・ヒコックスがこうした曲にもしっかりと名演を残してくれたことに感謝。
天塩にかけたシティ・オブ・ロンドン・シンフォニエッタロンドン交響合唱団の純度の高さと、マーティン・ヒルの清潔な歌。
併録のピアノ協奏曲も聴きこむと、実に美しい音楽です。
そちらはまた次の機会に。

Motomachi_cath5

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2010年12月 5日 (日)

ディーリアス 「村のロメオとジュリエット」 M・デイヴィス

Tsuya1

流れるともない河。
まるで黄泉の国への入口みたい。
こちらは、少し前の秋。
岐阜の津屋川にて撮った写真です。
秋だから、土手に赤い花が咲いてます。
この風景を見たときから、この写真を撮ったときから、思い描いていた音楽がありました。

Romio1

11月から、なんとなく悲しい気分で12月を迎えてしまった。
街にあふれるイルミネーションも写真に収めているけれど、どこか空しい。
公私ともに辛いことばかりだ。

音楽のみが私の慰みであり支えになっている。

今日は、しばらくぶりに英国音楽。
それも最愛の作曲家ディーリアス(1862~1934)のオペラ作品を。
「村のロミオとジュリエット」は、わたくしのとっておきの作品。
6つあるディーリアスのオペラ的作品を、気が付いたらこちらのブログでは一度も取り上げていなかった。
書くのがもったいないというか、文章にすると壊れてしまいそうで、何故か書くことができずにいた。
ディーリアスの音楽は、誰にも触れられずに、自分のものとして、そぉっとしておきたい類のものですからしてよけいに。
でも、ここにようやく気分が整いまして、この愛すべきオペラについて書いてみようと思い立ちましたのでございます。

心が疲れているとき、心がさらなる悲しみを求めている今こそ、このオペラを久方ぶりに聴いてみたかった。

「楽園への道」で知られるこのオペラの間奏曲は、ずっとずっと前から聴いていて、ディーリアス作品の中でも最上位に好きな曲だったのだけれども、その全曲オペラに接することができたのは、EMIが発売したディーリアス・アンソロジー集によって廉価盤化されたレコードによってだった。
 80年代初めのことで、社会人になりたてのわたくしは、三浦淳史さんの名解説の施されたそれらのシリーズを密やかなる喜びとともに、すべて揃えていったのでした。
2枚組のレコードで初めて聴いたこのオペラ。
あの間奏曲が、こんな場面で流れてくるのか、と思いつつも、あまりに悲しく儚い筋立てと、その音楽にはらはらと涙を流したのでございました。
まだ20代の「さまよえるクラヲタ人」にございます。

1900年、ディーリアス36歳の時のオペラ4作目。
スイスのゴットフリート・ケラーの小説「村のロメオとユリア」を原作とし、ディーリアス自身が独語で台本を作成し、その英訳版は妻のイェルカ・ローゼンが行っている。
このイェルカ版は、英語が超堪能とはいえなかったセルヴィア生まれの彼女の手によるものだけあって、用語や記譜との乖離があったりして、演奏の際は大変だったらしく、1962年のディーリアス100年の上演には、新訳が施され、現在一般に聴かれる版となった。
初演は、1907年ベルリン・コーミッシュオーパー。
英国では、1910年コヴェントガーデンで、当然にビーチャムの指揮で。

スイスの田園情緒あふれる田舎町において、所領で揉める家と、その子供たちの愛を描いたオペラです。

  ディーリアス 歌劇「村のロメオとジュリエット」

 サーリ:ロバート・ティアー      
 ヴレンチェン:エリザベス・ハーウッド

 マンズ:ベンジャミン・ラクソン   
 マーティ:ノエル・マンギン

 サーリ(幼時):コリン・マンリー   
 ヴレンチェン(幼時):ウェンディ・イーソン

 ヴァイオリン弾き:ジョン・シャーリー・クァーク
 第一の農夫:ステーヴン・ヴァーコー 第二の農夫:ブリン・エヴァンス
 第一の女:フェリシティ・パーマー   第二の女:メレヴィス・ビーティ
 ジンジャーブレッド売り:ドーリーン・プライス
 運命の輪の女:エレン・バリー     見せ物師:マーティン・ヒル
 安物宝石売り:ポーリーン・スティーヴンス
 気の荒い女:サラ・ウォーカー     貧乏角笛吹き:ポール・テイラー
 せむしヴィオル弾き:フランクリン・ホワイトリー
 第一の船頭:ロバート・ベイトマン   第二の船頭:ジョン・ノーブル
 第三の船頭:イアン・パートリッジ

    メレディス・デイヴィス指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
                 ジョン・オールディス合唱団
              (1971.10@キングスウェイホール)


全体は6つの場からなりたっている。

19世紀半ば、スイスのセルトヴィラ

第1場
 左右に裕福な農家マンズとマーティの所領の耕作地がそれぞれ見え、彼らはそこで鋤を入れている。彼らの子供たち、サーリ(マンズの子)とヴレンチェン(マーティの娘)が、それぞれに父親の昼食を運んできて、ふたり仲良く丘の方へ遊びに行く。
そこへ、ヴァイオリン弾き(ジプシー)がやってきて、ふたつの農家がいつも狙っている土地の本来の相続者なのだが、放浪者で私生児ゆえに権利が主張できないと歌い、子供たちに、もしここに誰かが鋤を入れる時があれば気をつけなさいよと、諭す。
 しかし、当の親たちは、休憩しつつもだんだんと、真ん中の土地をめぐって口論がエスカレートして告訴するぞと息巻き、子供たちの手を引いてそれぞれに別れる。

第2場
 6年の歳月が過ぎ去り、マーティの家にサーリがヴレンチェン会いたさにやってくる。
両家はあれから訴訟しあい、全財産も失い落ちぶれてしまっている。
ふたりは、その晩に荒地で逢う約束をする。

第3場
 荒地での逢引き。真紅のひなげしが咲き誇っている。
そこへヴァイオリン弾きがやってきて、「過ぎたことはもう問わない、一緒に広い世界を見にいかないか・・」と誘うが、若い二人は、そこにとどまり、昔のことを懐かしみ、愛を確認する。
そこへ、ヴレンチェンを探しにきた父マーティ。禁じていた相手に会っていたことに腹をたて、無理やり引っ立てようとするのを、サリーが制止し、サリーは思わずマーティを打ち倒してしまう。。。

第4場
 がらんとした廃墟のようなマーティの家。
ひとりヴレンチェンが茫然としている。寝たきり同然になった父親をその郷里に送り出したのだった。
そこへサーリがやってきて、ふたりは抱き合い、二人ずっと一緒に遠くをさすらおうと誓う。
まずは夜明けを待って・・・・・。
 いつしか二人は、眠りに落ち、古い教会で祝福され結婚式を挙げているのを夢の中で同時に見る。
 教会の鐘の音とともに朝、目覚めたふたり。同じ夢に驚く。
街で開く賑やかな市に出向いてダンスでもしようと飛び出してゆく。

第5場
 街の定期市。
物売りや見せ物が立ち、やたらと賑やか。
そこにやってきた二人だけど、何かを買うお金もなく、市を見てまわることに。
村から来た人々が、サーリとヴレンチェンの姿を認め、あれこれ噂話を始める。
最初は気がつかなかった二人も、人々の視線が自分たちに注がれるのに、いたたまれなくなり、サリーは自分が「楽園」という素敵なところを知っているからそこへ行こうとヴレンチェンとともに逃げるように向かう。

間奏曲「楽園への道」

第6場
 美しい庭園と古びた田舎家。そこは居酒屋ともなっていて、その背後には川が流れ、干し草を積んだ小舟がつながれている。
そこには放浪者たちが集まっていて、例のヴァイオリン弾きから、自分の土地のこと、憎み合った親たちのこと、そして恋に落ちた子供たちのことなどを聴かされている。
そこへやってきたサーリとヴレンチェン。
自分や仲間たちと一緒に山へおいで、と誘い、放浪者たちも快く誘い、彼らはひとまず居酒屋で集うことに。
 僕たちも、見捨てられ、追い払われた余計者・・・・

でも二人は、別の道を選ぶことに。
遠くから船頭たちの歌声がこだまする。
遠く白銀色の月、夢のように静かな川、ゆっくりとした流れ。
サーリは、小舟にヴレンチェンを乗せ、彼女は懐から小さな花束を取り出し、川に流す。
次いでサーリも乗り、船底の栓を引き抜き、ふたり干し草に身を横たえる。
ふたりを乗せた船はやがて、だんだんと沈んでゆく・・・・・・。
それを遠く見守るヴァイオリン弾きと放浪者たち。
船頭の声のみが虚ろに響くなか、音楽は一時盛り上がり、そして浄化されたように静かになって消えてゆく。       
           ~幕~

もう何も言いますまい。
耽美的ともとれましょうが、過敏なわたくしには堪える内容のオペラなんです。

ここにつけられたディーリスの音楽は、もう徹頭徹尾、美しく儚い。
かの管弦楽曲を親しんだ方なら、おおよそ想像のつく内容かと思います。
しかし、感覚的にすぎて、茫洋としたとりとめのなさに戸惑う方も、歌が入ることでリアリティが生まれるので充分楽しめるのではないでしょうか。

第1場の親同士の話が喧嘩になってゆくところの激しさは、穏やかなディーリアスとは思えない激烈さ。
第2と第3の場の間奏曲は、私の好きな「高い丘の歌」にも似た詩情ただよう美しさ。
第3場のヴァイオリン弾きの歌は、味わいが深く、彼は歌う「いずれ君たちとまた、人生の丘道でまた会える」と。

4場への間奏がまた寂しく、荒涼とした雰囲気で、悲しみの二重唱も心打たれる。
そして、夢の中、教会へ向かう場面は、まるで「パルシファル」の聖堂の場面のようだった。
これらの中で、多くの人物が登場する市場の場面は、これもディーリアスお得意のダイナミックなひと場面。
人混みの中で、スポットライトを浴びたみたいになってしまう二人の描き方が巧み。
 
 

 そして、その後の「楽園への道」は、二人の逃避行と休息の音楽だった。
あまりにも素晴らしく、泣かせる音楽。
そして気のいい放浪者たちもアクセントとなって、最後のふたりの入水は、美しすぎて、悲しすぎて、涙が溢れ出てしまう。

70年代初頭の、イギリス歌手をずらりとそろえた当録音を凌駕するものは、ヒコックスが録音を残さなかったこともあって、当分登場しないでしょう。
若きティアーと、今は亡きハーウッドの恋人たちは素敵なもの。
狂言回し的なシャーリー・クヮークのヴァイオリン弾きも味わい深く、ラクソンの親父ぶりもいい。
そして、ほんの一節二節しか登場しない端役に、ヴァーコー、パーマー、ヒル、パートリッジなども名手たちの若き日々の声が聴かれる。

M・デイヴィスは、ビーチャムのあとのこのオペラのスペシャリストで、オケもロイヤルフィルで、まさにもう、ディーリアスに奉仕したかのようなメンバーによる理想形。

よく晴れた日曜の昼下がり。
先日まで、赤く染まっていた公園の葉も、先日の強風で、すっかり散ってしまい、冬の装いとなりました。
ディーリアスの音楽に優しくつつまれて過ごしております。

Tsuya3   

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2010年12月 4日 (土)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 現田茂夫指揮

Dogyard

横浜ランドマークタワーのドッグヤード。
周辺やクィーンズスクエアには、美しいイルミネーションがたくさんあって、イルミ好きのワタクシですから、たくさん写真を撮りました。
でも、それらはまたの機会に。
今回の演奏会の曲目や、諸々鑑みて、華美なものは相応しくないと思いまして。。。

Kanagawaphill201012

    團 伊玖磨  管弦楽のための幻想曲「飛天繚乱」

    サン=サーンス  チェロ協奏曲第1番

            チェロ:遠藤 真理

    フォーレ      レクイエム

          S:幸田 浩子   Br:山下 浩司

       現田 茂夫 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                 神奈川フィル合唱団
                 合唱指揮:近藤 政伸
                     (2010.12.3@みなとみらいホール)

現田さんらしい、いいプログラムです。
今シーズン、期待してたコンサート。しかもマーラーばかりだからよけいにそう。
フランスの作曲家ふたりに、日本人作曲家。

奇異な取り合わせと思いつつも、初聴きの團伊玖磨作品であったが、これが面白くて、そこにドビュッシーやラヴェル、ルーセルらのフランス音楽テイストを感じ取ったのであります。さらに近代北欧系の雰囲気も。そして当然に日本の和テイストも。
18分のなかなかの大曲で、編成も打楽器多数の大所帯。
オケがガンガン鳴ったのはこの曲のみ。
そうした場面も爽快だったけれど、印象に残ったのは最後の方の、フルートソロによる長いソロ。優雅に舞う天女でしょうか、山田さんのソロが美しすぎ。
あと、弦楽器奏者たちが楽器を抱えて、それこそギターのようにつま弾く場面。
都合3度ほど出てきたけれど、これは見ていて楽しかったし、奏者の皆さんもなんとなく楽しげ。そう、石田コンマスも大真面目にやっておりましたよ。
 こうした曲は、現田さんはうまいもんだ。

そのあとは編成が少なくなってのサン=サーンス
人気と実力を兼ね備えた遠藤真理さん。
初に聴きます。
出てきたのは、小柄な可愛い女性でしたが、その第1音からグイッと引き込まれる深い音色。
まさに中低音域の楽器、純で無垢なチェロそのものの音色に感じる。
現田&神奈フィルの軽やかで小粋な背景に乗って歌う第2楽章は、もっとも素敵な場面だった。
敢然としたテクニックも見事なものだが、緩やかで抒情的な場所での歌い回しに彼女の素直なチェロの良さを見出す思い。
いい演奏でした。9月にN響でも聴いたけれど、そちらよりずっと自分に近いところで響いてくれたサン=サーンスに、曲のよさもようやくわかってきました。
元気に曲が閉じると、これまた元気にブラボーが、わたしの斜め後ろから飛んできました。
おじさん、やるね。と同時に少し不安に・・・・。

休憩後は、フォーレ
演奏会で聴くのは初めて。
オーケストラはさらに編成が少なくなり、打楽器はゼロ。
オルガン参加はもちろんながら、弦の配置もがらりと変わった。
左手から第1ヴァイオリン、ヴィオラとその奥に第2ヴァイオリン、そして一番右がチェロ。
ヴィオラとチェロが活躍するこのレクイエム。
その配置からしても、オーケストラもオルガンの響きそのものを意識したものといえるのでしょう。
そのあたりの渋くて、かつ神々しい雰囲気が、いつものこのコンビらしからぬ響きから立ち昇るのを感じ、この曲を愛してやまないわたくしを冒頭のイントロイトゥスからして、祈りの世界へと導いてくれました。
最初の方こそ、合唱が決まらず、ざらついたけれど、喉が温まるとともに精度も高まり、滋味あふれるフォーレの世界を、オケの皆さん、独唱者ともども、心の底から感じながら演奏してます。
それを束ねる現田さんは、動きも少なめで、まるで音楽に奉仕しているかのように、静かな指揮ぶりです。
こんな現田さん、初めて見た。

宗教曲としての存在や、癒し的な慰めの音楽としての「フォーレのレクイエム」。
そいう意味では、今回の演奏はちょっと違う次元にあるように感じた。
どこまでも音楽的に美しく鳴り響き、それが結果として、純粋に優しい気持ちで人の心をつつみこんでくれたような結果となったのでは。
以前に、この曲を取り上げたとき、フォーレの音楽の持つ陶酔感というようなことを書いたけれど、そうした感じはちょっと薄めで、音楽の美しさのみで勝負した感があり、いつものビューテフルな現田サウンドではなく、淡い薄口の音色に、なんだか日本人的なものを感じてしまった。

しかしこのレクイエムは、どうしてこんなに美しいのだろう。
最初からうるうるしながら両手を握りしめて聴いていたけれど、ピエ・イエズではこらえ切れずに涙ひとしずく。
最後の、イン・パラディスムでは、天から降り注ぐかのようなオルガンとハープ、女声合唱の調べに、先に亡くなった伯叔父ふたりの安らかな顔や、昨年同じく亡くなった従姉のお顔、そのほか親しかった人々の姿がまぶたに去来して、そして唯一元気な母を思ったりして、もう涙が止まらなくなってしまいました・・・・・。
情けないくらいに涙もろい最近のワタクシでございます。

幸田さんのピエ・イエズは、声の微妙な揺れが少し気になったけれど、相変わらずピュアで美しいです。存分に泣かせていただきました。
そして素晴らしかったのは、山下さん。ホスティアスとリベラ・メ。
どちらも、まろやかで優しい歌を聴かせてくれました。
山下さんは、昨年の「カプリッチョ」で見事な劇場支配人を演じ歌ってました。
注目のバリトンです。

天国的な最終章が静かに終わって、ホールはしばしの静寂。
ほんとうはこの曲には拍手は相応しくないんだけれど、演奏者を讃えなくてはなりませぬ。
少し遅れて、わたくしも拍手に参戦。
ところが、さっきのおじさんブラボーが出ましたよ。
ちょっとやめて欲しかったな。

終演後、yurikamomeさんから、現田さんのお母様が亡くなったとのお話をお聞きしました。それを聴いて、指揮をしていた現田さんの後ろ姿を思い出し、これまた涙があふれそうになりました。謹んでお悔やみ申し上げます。

Kirin

終演後のアフターコンサート。
いつものメンバーに新しいお顔も加えて、いつもの店で、いつものものを食べる。
でもこの夜は、しっとりと日本酒を飲みたい気分。
ピザをつまんで日本酒を飲むという試みに、いたく満足の「さまよえるクラヲタ人」なのでした。
みなさま、お世話になりました。

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2010年12月 2日 (木)

ペーター・ホフマンを偲んで

Lohengri_hofman_2

わたしたち、ワーグナー好きにとって忘れえないテノール、ペーター・ホフマンが亡くなりました。
11月30日、バイエルン州ゼルプ市の病院、肺炎にてと報じられております。
享年66歳。

この報を、昨日、わたくしは知らず、今朝、コメントいただいた方と、いつもお世話になっておりますこちらで知り、愕然としました。
難病と闘い抜いた末、風邪によって肺炎となっての死。
まさにジークムントのように、戦いの末に、召されてしまいました。

euridiceさんの備忘録の記事と、そちらに掲載されておりますホフマンの死にまつわる本国の記事をどうぞご覧ください。
わたしは、涙が出てしまいました。
バイロイト音楽祭のHPでのホフマン紹介欄には、没年が載ることとなりました。

歌手生命は短いものですが、ホフマンの場合は、まだまだ絶頂期に病をえて舞台から去らざるをえなかった。
いつも愛着をもって聴いてきた歌手たちが、この世を去ってしまうと思うこと。
彼ら・彼女らが、歌わなくなって・話題にのぼらなくなって久しい時分に、思い出したように訃報に接してしまうものだから、その歌手の現役時代を若き日々に聴いてきた自分の体験とすり合わせた場合の、今との時間の空白の喪失感は、かなり大きなものと感じます。
うまく言えませんが、要は自分も確実に老いていってるということの寂しい裏返しなのでしょうか。

ホフマンの声を初めて耳にしたのが、1976年のバイロイト音楽祭100年の記念碑的な「リング」上演においての「ジークムント」でした。
当時、革命的だったシェローの演出にばかり話題が集中し、FMで聴いたときは、激しいブーイングばかりに耳がいってしまった。
しかし、混乱した舞台とまだ手探りのブーレーズの指揮というなかで、音源だけでも一際輝いていたのが、ホフマンそのひとだった。
 わたしは、歌手では、コロとトーマスがそれぞれ分担してジークフリートを歌うというので、そちらばかりを期待していたが、結果はさんざん。
シェロー・リングでの立役者は、ホフマンとツェドニク、マッキンタイアにジョーンズだった。

以来、ずっとバイロイトでの活躍は聴いてきました。
ワーグナー以外も、クラシック以外もありますが、やはりわたくしにとって、ホフマンは不世出のジークムントなのです。
もちろん、パルシファルもトリスタンも、ローエングリンも素晴らしいのですが、孤独の雰囲気と悲劇の色濃いジークムントがホフマンと切ってもきれない役柄なのです。

今日は、ホフマンのジークムントを聴いて、ありし日を偲びたい。
ジークムントの登場する1幕と2幕をつまみ聴く。

Walkure1_mehta
1幕は、1985年、ニューヨークフィルの演奏会のライブ。
エヴァ・マルトンに、マッティ・タルヴェラという申し分ない組み合わせ。
指揮は、ズービン・メータ。
演技が伴うことなく、歌にも格段のゆとりと力強さがある。
ずっと歌い込んできたジークムント役。心情をしっとりと、そして細やかに歌い込んでいる。
メータの指揮が少しきれいごとすぎるかもしれないが、ドイツのオーケストラとは異なる軽さのようなものを感じるのは私だけ?
当時まだ存命だった、バーンスタインとやったら、いったいどんな風になったろうか・・・・。

Walkure_boulez
そして2幕は、シェロー=ブーレーズのバイロイト盤。
1980年のこのプロダクション最終年度。
NYPO盤の1幕と比べると、劇場での演技を伴った歌唱ゆえに、より劇的で自在さがある。
熱さとほの暗さ、声のスピントの按配など、いずれもこちらの方が素晴らしい。
そして、2幕のジークムントは、あまりに切ない。

Walkure_boulez1a
ジークリンデと逃避行から、元気一杯のブリュンヒルデから死の宣告を受けてしまうが、愛する人を体を張って守ることに、ブリュンヒルデの強い同情を得る。
しかし、喜びも束の間、探し求めた父に剣打ちすえられ、敵の槍に屈してしまう・・・・。
なんと悲しい存在なんだろうか。
ホフマンの歌声で、こうした場面を聴くと、心が痛くなってしまう。

映像で見るとさらに辛い。
シェロー演出では、残酷なまでに、何度も槍を突き立てられるジークムント。
そして、父ウォータンの腕の中に倒れ込む・・・・。
何度見ても涙が出てしょうがない。

Hofman

ペーター・ホフマンは、いま、ウォータンの腕の中、ヴァルハラの英雄の席に列せられたのでありましょう。
そこには、メルヒオールも、ローレンツも、ヴィントガッセンも、キング、トーマス、歴代のワーグナー・テノールたちが盃をたむけていることでしょうか。

ペーター・ホフマンが天に召され、その魂が安らかなることをお祈りいたします。

過去記事

「バーンスタインのトリスタンとイゾルデ」
「ホフマン、ワーグナーを歌う」
「ブーレーズのワルキューレ」
「レヴァインのパルシファル」
「ハイティンクの魔笛」
「バイロイトのローエングリン」

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2010年12月 1日 (水)

オペラ・アリア集 アルフレード・クラウス

Mituikurabu

今日から12月。
でも秋空のようなこの風景。
わたしのような、さまよい人にとってまったく縁のない三井倶楽部。
旧三井の迎賓館で、三井グループ社員の方なら利用できるらしいすよ(モヤモヤさまぁーず風に・・・)

Shibapark

まだ散らない銀杏。
美しいのであります。

Faust

今日のテノールは、アルフレード・クラウス(1927~1999)。
スペイン出身、ドミンゴやカレーラスの大先輩。
でも、ベルカント系とフレンチにほぼ特化した、極めて折り目正しい大歌手。

わたしは、残念ながらその歌声を実際に聴くことができなかったけれど、厳しい自己管理と錬磨により、晩年まで現役を貫いた、息の長い歌手でもありました。
わたしのクラウスの思い出は、これまた、NHKのイタリアオペラ。
50年代から8回続いたNHKのこの招聘が、日本のオペラファンをいかに増やし、その渇をいやしたことか。おおらかな時代だったけれど、ともかくみんな本物に貪欲だった。
いまのあふれかえるばかりの、コンサートラッシュが信じがたい世の中でした(しみじみ)
でも、私たちは、新国というオペラハウスを持つことになったんだから、こちらはもう当時からしたら夢のようなことなんですね。
で、クラウスにテレビやラジオを通じて接したのは、73年のイタリアオペラ公演。
多目的NHKホールの、オペラのこけら落としの一環。
グノーの「ファウスト」でした。
イタリア・オペラじゃなくて、フランス・オペラだったのは「カルメン」以来かも。
グノーのオペラの美しさに驚いたのもさることながら、クラウスの美声と気品。博士から若人、そして恋する一途な悩める男も見事に演じ、歌ってました。
そして、ギャウロウ、スコットといった絶品の共演者に、サッコマーニというバリトンが人気を呼んだ素晴らしい公演だった。
その映像、いまでも完璧に覚えてますよ!

その前の71年には、ドニゼッティ「ラ・ファヴォリータ」のフェルナンドで登場し、これは絶品と伝説化しておりますが、わたくしは写真では見たけれどまったく聴いてませぬ。

その後のオペラ録音は、どれもクラウスならではの貴族的な品格と完璧なフォルムが伴った忘れ難い名作ばかり。

Alfredo_kraus

今回は、1994年のスタジオ録音によるオペラアリア集を聴きます。
この年クラウスなんと、66歳。
どこからどこまで、そんなお歳は微塵も感じさせないハリと艶に満ちあふれてますよ。
そして驚異的なまでの超高音域。
唖然とします、身がきりりと引き締まります。
こんな素晴らしい声を聴いてしまうと、これからの人生、まだまだ頑張れるって思ってしまうのです。
身だしなみに気を使い、常にダンディで、周りに気を配り、そして自分に厳しく、自己を完璧に律することで、その声を末永く維持できた希有の名歌手。
飛行機で世界中飛びまわり、人気ロールを次々に取り上げ声をみるみる失ってしまう今の歌手たち。ビジュアルで補う方向になりがち。
でも、クラウスは、自分の声を知悉し、役柄も出演も絞り、息の長い大歌手となった。
その声は、とても美しく透明であるとともに、極めて人間的な温もりを感じさせ、歌が生身の人間のものであることを強く意識させる。
そして、何度も言うようだが、そこに感じる貴族的ともいえる気品=品格の高さ。
それは、抜群の様式美も持っていて完璧でありながらも、はかない大理石の彫刻美術のようでもある。
ついつい、背筋を伸ばしてしまう。

 1.オッフェンバック 「ホフマン物語」~昔々
 2.チレーア      「アルルの女」~ありふれた話
 3.ドニゼッティ    「ルクレツィア・ボルジア」~ここを去らねばならぬ
 4.ドニゼッティ    「連隊の娘」~ああ、わが友らよ、僕の心にとって
 5.グノー       「ファウスト」~清らかな住まいよ
 6.ドニゼッティ    「ドン・セバスティアーノ」~一人この世に捨てられ
 7.ラロ        「イスの王様」~この番人たちは・・・
 8.ドニゼッティ    「ラ・ファヴォリータ」~あまりに清らかな天使よ
 9.マイヤベーア   「エジプトの十字軍騎士」~エジプトの民よ
10.ドリーブ       「ラクメ」~妙なる妄想が生んだ幻よ
11.R・シュトラウス   「ばらの騎士」~なびくまいと心を武装し


       T:アルフレード・クラウス

   カルロ・リッツィ指揮ウェールズ・ナショナル・オペラ管弦楽団/合唱団
                            (94.1.20@英スウォンジー)


「連隊の娘」の超絶アリアなどもう完璧で、唖然としてしまうが、いまひっぱりだこのフローレンスが機械のように感じてしまうから、どうもしょうがない。
そして、嬉しいことに思い出の「ファウスト」や「ファヴォリータ」が、文字通り清らかで情熱的な歌で聴けること。
チレーアの情熱と儚さも、とうていその年齢からは推しはかることのできない素晴らしいもの。
次々に歌われる、クラウスの至芸に、まさに人間国宝級の歌を聴くような気持ちで感嘆するのであります。
最後のおまけは、私向けに「ばらの騎士」ですよ。
このなんのことはない、舞台に花を持たせただけのようなシュトラウスお得意のイタリア人起用の曲が、浮ついたところが一切なく、なんと神々しく歌われるのでありましょうか。

テノールを聴くという耳のご馳走に加えて、歳を経てゆくという人生の重みをも感じ味あわせてくれるクラウスの名唱にございました




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