ディーリアス 「村のロメオとジュリエット」 M・デイヴィス
流れるともない河。
まるで黄泉の国への入口みたい。
こちらは、少し前の秋。
岐阜の津屋川にて撮った写真です。
秋だから、土手に赤い花が咲いてます。
この風景を見たときから、この写真を撮ったときから、思い描いていた音楽がありました。
11月から、なんとなく悲しい気分で12月を迎えてしまった。
街にあふれるイルミネーションも写真に収めているけれど、どこか空しい。
公私ともに辛いことばかりだ。
音楽のみが私の慰みであり支えになっている。
今日は、しばらくぶりに英国音楽。
それも最愛の作曲家ディーリアス(1862~1934)のオペラ作品を。
「村のロミオとジュリエット」は、わたくしのとっておきの作品。
6つあるディーリアスのオペラ的作品を、気が付いたらこちらのブログでは一度も取り上げていなかった。
書くのがもったいないというか、文章にすると壊れてしまいそうで、何故か書くことができずにいた。
ディーリアスの音楽は、誰にも触れられずに、自分のものとして、そぉっとしておきたい類のものですからしてよけいに。
でも、ここにようやく気分が整いまして、この愛すべきオペラについて書いてみようと思い立ちましたのでございます。
心が疲れているとき、心がさらなる悲しみを求めている今こそ、このオペラを久方ぶりに聴いてみたかった。
「楽園への道」で知られるこのオペラの間奏曲は、ずっとずっと前から聴いていて、ディーリアス作品の中でも最上位に好きな曲だったのだけれども、その全曲オペラに接することができたのは、EMIが発売したディーリアス・アンソロジー集によって廉価盤化されたレコードによってだった。
80年代初めのことで、社会人になりたてのわたくしは、三浦淳史さんの名解説の施されたそれらのシリーズを密やかなる喜びとともに、すべて揃えていったのでした。
2枚組のレコードで初めて聴いたこのオペラ。
あの間奏曲が、こんな場面で流れてくるのか、と思いつつも、あまりに悲しく儚い筋立てと、その音楽にはらはらと涙を流したのでございました。
まだ20代の「さまよえるクラヲタ人」にございます。
1900年、ディーリアス36歳の時のオペラ4作目。
スイスのゴットフリート・ケラーの小説「村のロメオとユリア」を原作とし、ディーリアス自身が独語で台本を作成し、その英訳版は妻のイェルカ・ローゼンが行っている。
このイェルカ版は、英語が超堪能とはいえなかったセルヴィア生まれの彼女の手によるものだけあって、用語や記譜との乖離があったりして、演奏の際は大変だったらしく、1962年のディーリアス100年の上演には、新訳が施され、現在一般に聴かれる版となった。
初演は、1907年ベルリン・コーミッシュオーパー。
英国では、1910年コヴェントガーデンで、当然にビーチャムの指揮で。
スイスの田園情緒あふれる田舎町において、所領で揉める家と、その子供たちの愛を描いたオペラです。
ディーリアス 歌劇「村のロメオとジュリエット」
サーリ:ロバート・ティアー
ヴレンチェン:エリザベス・ハーウッド
マンズ:ベンジャミン・ラクソン
マーティ:ノエル・マンギン
サーリ(幼時):コリン・マンリー
ヴレンチェン(幼時):ウェンディ・イーソン
ヴァイオリン弾き:ジョン・シャーリー・クァーク
第一の農夫:ステーヴン・ヴァーコー 第二の農夫:ブリン・エヴァンス
第一の女:フェリシティ・パーマー 第二の女:メレヴィス・ビーティ
ジンジャーブレッド売り:ドーリーン・プライス
運命の輪の女:エレン・バリー 見せ物師:マーティン・ヒル
安物宝石売り:ポーリーン・スティーヴンス
気の荒い女:サラ・ウォーカー 貧乏角笛吹き:ポール・テイラー
せむしヴィオル弾き:フランクリン・ホワイトリー
第一の船頭:ロバート・ベイトマン 第二の船頭:ジョン・ノーブル
第三の船頭:イアン・パートリッジ
メレディス・デイヴィス指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ジョン・オールディス合唱団
(1971.10@キングスウェイホール)
全体は6つの場からなりたっている。
19世紀半ば、スイスのセルトヴィラ
第1場
左右に裕福な農家マンズとマーティの所領の耕作地がそれぞれ見え、彼らはそこで鋤を入れている。彼らの子供たち、サーリ(マンズの子)とヴレンチェン(マーティの娘)が、それぞれに父親の昼食を運んできて、ふたり仲良く丘の方へ遊びに行く。
そこへ、ヴァイオリン弾き(ジプシー)がやってきて、ふたつの農家がいつも狙っている土地の本来の相続者なのだが、放浪者で私生児ゆえに権利が主張できないと歌い、子供たちに、もしここに誰かが鋤を入れる時があれば気をつけなさいよと、諭す。
しかし、当の親たちは、休憩しつつもだんだんと、真ん中の土地をめぐって口論がエスカレートして告訴するぞと息巻き、子供たちの手を引いてそれぞれに別れる。
第2場
6年の歳月が過ぎ去り、マーティの家にサーリがヴレンチェン会いたさにやってくる。
両家はあれから訴訟しあい、全財産も失い落ちぶれてしまっている。
ふたりは、その晩に荒地で逢う約束をする。
第3場
荒地での逢引き。真紅のひなげしが咲き誇っている。
そこへヴァイオリン弾きがやってきて、「過ぎたことはもう問わない、一緒に広い世界を見にいかないか・・」と誘うが、若い二人は、そこにとどまり、昔のことを懐かしみ、愛を確認する。
そこへ、ヴレンチェンを探しにきた父マーティ。禁じていた相手に会っていたことに腹をたて、無理やり引っ立てようとするのを、サリーが制止し、サリーは思わずマーティを打ち倒してしまう。。。
第4場
がらんとした廃墟のようなマーティの家。
ひとりヴレンチェンが茫然としている。寝たきり同然になった父親をその郷里に送り出したのだった。
そこへサーリがやってきて、ふたりは抱き合い、二人ずっと一緒に遠くをさすらおうと誓う。
まずは夜明けを待って・・・・・。
いつしか二人は、眠りに落ち、古い教会で祝福され結婚式を挙げているのを夢の中で同時に見る。
教会の鐘の音とともに朝、目覚めたふたり。同じ夢に驚く。
街で開く賑やかな市に出向いてダンスでもしようと飛び出してゆく。
第5場
街の定期市。
物売りや見せ物が立ち、やたらと賑やか。
そこにやってきた二人だけど、何かを買うお金もなく、市を見てまわることに。
村から来た人々が、サーリとヴレンチェンの姿を認め、あれこれ噂話を始める。
最初は気がつかなかった二人も、人々の視線が自分たちに注がれるのに、いたたまれなくなり、サリーは自分が「楽園」という素敵なところを知っているからそこへ行こうとヴレンチェンとともに逃げるように向かう。
間奏曲「楽園への道」
第6場
美しい庭園と古びた田舎家。そこは居酒屋ともなっていて、その背後には川が流れ、干し草を積んだ小舟がつながれている。
そこには放浪者たちが集まっていて、例のヴァイオリン弾きから、自分の土地のこと、憎み合った親たちのこと、そして恋に落ちた子供たちのことなどを聴かされている。
そこへやってきたサーリとヴレンチェン。
自分や仲間たちと一緒に山へおいで、と誘い、放浪者たちも快く誘い、彼らはひとまず居酒屋で集うことに。
僕たちも、見捨てられ、追い払われた余計者・・・・
でも二人は、別の道を選ぶことに。
遠くから船頭たちの歌声がこだまする。
遠く白銀色の月、夢のように静かな川、ゆっくりとした流れ。
サーリは、小舟にヴレンチェンを乗せ、彼女は懐から小さな花束を取り出し、川に流す。
次いでサーリも乗り、船底の栓を引き抜き、ふたり干し草に身を横たえる。
ふたりを乗せた船はやがて、だんだんと沈んでゆく・・・・・・。
それを遠く見守るヴァイオリン弾きと放浪者たち。
船頭の声のみが虚ろに響くなか、音楽は一時盛り上がり、そして浄化されたように静かになって消えてゆく。
~幕~
もう何も言いますまい。
耽美的ともとれましょうが、過敏なわたくしには堪える内容のオペラなんです。
ここにつけられたディーリスの音楽は、もう徹頭徹尾、美しく儚い。
かの管弦楽曲を親しんだ方なら、おおよそ想像のつく内容かと思います。
しかし、感覚的にすぎて、茫洋としたとりとめのなさに戸惑う方も、歌が入ることでリアリティが生まれるので充分楽しめるのではないでしょうか。
第1場の親同士の話が喧嘩になってゆくところの激しさは、穏やかなディーリアスとは思えない激烈さ。
第2と第3の場の間奏曲は、私の好きな「高い丘の歌」にも似た詩情ただよう美しさ。
第3場のヴァイオリン弾きの歌は、味わいが深く、彼は歌う「いずれ君たちとまた、人生の丘道でまた会える」と。
4場への間奏がまた寂しく、荒涼とした雰囲気で、悲しみの二重唱も心打たれる。
そして、夢の中、教会へ向かう場面は、まるで「パルシファル」の聖堂の場面のようだった。
これらの中で、多くの人物が登場する市場の場面は、これもディーリアスお得意のダイナミックなひと場面。
人混みの中で、スポットライトを浴びたみたいになってしまう二人の描き方が巧み。
そして、その後の「楽園への道」は、二人の逃避行と休息の音楽だった。
あまりにも素晴らしく、泣かせる音楽。
そして気のいい放浪者たちもアクセントとなって、最後のふたりの入水は、美しすぎて、悲しすぎて、涙が溢れ出てしまう。
70年代初頭の、イギリス歌手をずらりとそろえた当録音を凌駕するものは、ヒコックスが録音を残さなかったこともあって、当分登場しないでしょう。
若きティアーと、今は亡きハーウッドの恋人たちは素敵なもの。
狂言回し的なシャーリー・クヮークのヴァイオリン弾きも味わい深く、ラクソンの親父ぶりもいい。
そして、ほんの一節二節しか登場しない端役に、ヴァーコー、パーマー、ヒル、パートリッジなども名手たちの若き日々の声が聴かれる。
M・デイヴィスは、ビーチャムのあとのこのオペラのスペシャリストで、オケもロイヤルフィルで、まさにもう、ディーリアスに奉仕したかのようなメンバーによる理想形。
よく晴れた日曜の昼下がり。
先日まで、赤く染まっていた公園の葉も、先日の強風で、すっかり散ってしまい、冬の装いとなりました。
ディーリアスの音楽に優しくつつまれて過ごしております。
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コメント
またまた、写真に惹かれ…
この川は、高校生の頃、友を訪ねて電車に揺られていく道中、付かず離れず見えていた川…
イギリスの作曲家というとエルガーぐらいしか知らなかったのですが、お蔭様でまた音楽の散策の楽しみが増えました。
投稿: 聖母の鏡 | 2010年12月 5日 (日) 23時25分
聖母の鏡さま、こんにちは。コメントありがとうございました。
この川は実にいい雰囲気がありました。
>つかずはなれず<
この静か流れの川を言い得ていて、いい表現ですね。岐阜はいろんな顔をした川が流れでますよね。
日本であって、そうでないような風景でした。
こんな光景にディーリアスという作曲家はぴったりなんです。
投稿: yokochan | 2010年12月 6日 (月) 19時35分
こんにちは。
これは何年か前どうしてもCDが手に入らず中古屋でレコード(輸入3枚組・フェンビーの解説録音付き)を入手しました。美しいハコ入りでかなり状態は良かったのですが、最後の一番盛り上がる所でスクラッチノイズが・・・(涙)。前の持ち主は最後しか聴かなかったのかな。ヴァーコーが農夫ってチョイ役のも何だか・・・(笑)。
投稿: naoping | 2010年12月11日 (土) 10時55分
naopingさん、こんにちは。
そう、このレコードは発出は3枚組で、フェンビーの語りが入ってるのですね。
このCDにも、フェンビー語り入ってますが、対訳なしのため、何言ってるかわかりません・・・。
しかし、最後の最後のノイズは残念ですね。
そう、楽園への道からあとしか聴かなかったんでしょうね・・・。
端役が豪華なのも時代を感じますね。
投稿: yokochan | 2010年12月11日 (土) 13時57分
TBありがとうございます。
同じ録音でお聴きになっていたとは、といいますか、わざわざ今回買い求めたのですが、手に入るものがこれしかなかったのが残念でした。
ディーリアスの不当な扱いが残念です。
もっとこれは舞台でも録音でも取り上げられるべき作品ですね。
首都オペラあたりでやってくれませんかね、トマやザンドナーイなんて取り上げるくらいですから。ぜひ期待したいですが。
投稿: yurikamome122 | 2012年7月14日 (土) 13時24分
yurikamomeさん、こんにちは。
このオペラの音源は、こちらのEMI盤と、あと独語バージョンのマッケラス盤がありますが、廃盤中。
そのマッケラスを基に、すてきな映画バージョンもあります。
それにしても、もっといろんな演奏で聴いてみたいですね。
一方で、ディーリアスは、このままひっそり佇んでいて欲しい類の音楽でもあるように思います。
その点、フィンジも同じですが、静かに楽しみたい存在でもありますね。
首都オペラは確かに、今年は有名曲のようですが、渋いところで攻めていって欲しいです。
投稿: yokochan | 2012年7月15日 (日) 11時32分
yokochan様
このアルバム、東芝音工から国内盤LPが発売されたのは、確かカラヤン&VPO、ベーレンス他のR・シュトラウス『サロメ』と同月新譜じゃ、なかったでしょうか。
話題性と言う面では『何と、不運な‥‥‥。』と、嘆息せずにはおられなかった気の毒なディスクでしたけれども、心ある聴き手の心を捉えて話さない、作品であり演奏ではないでしょうか。
投稿: 覆面吾郎 | 2024年8月16日 (金) 14時49分