マーラー 「亡き子をしのぶ歌」 リポヴシェク&アバド
ヒルズとテレビ朝日の遠く先に満月見えました。
テレ朝のガラス面には、相棒見えます。
はて、あの先の建設中のビルはなんでしょうかね。
こんな東京の眺めも美しい。
月、拡大
マーラーは、リッケルト歌曲集と同時に、交響曲第5番を、そしてそのあと同時期に、交響曲第6番と歌曲集「亡き子をしのぶ歌」を作曲している。
ともに、1904年の完成。
世紀が完全に20世紀になったわけだが、世紀末ムードはますます変わりなく、間もなく来るという期待と興奮から、退廃と絶望色が強まっていく訳であります。
明確な線引きはないけれど、これをまたいだ作曲家たちは、その音楽にその影響を残しているわけであります。
覚えてますか?、われわれも次の世紀末を体験してるわけですよ。
2000年問題とか、進化・デジタル化した社会問題もあったけれど、21世紀に突入するときの興奮と期待感。
しかし、突入後のがっかり感と、何も起こらなかった感。
それは今も続いてるし、ますます、政治への虚脱感と、ボーダーレス化した国際間における日本の「疎さ」の実感。
いまもまだ次の世紀末感を実体験中なのであります。
100年前の世紀末は、マーラーさまにお任せしましょう。
そのマーラー、お気に入りのリッケルトは、16日間で、二人の娘を亡くしてしまうという悲劇を自ら体験した詩人で、そんな思いと八つ当たり的な辛い悲壮感がその詩に滲みでている。
結婚したての、幸せの絶頂のマーラーがアルマと娘を授かっていた時期に書いたのが、この歌曲集と6番の交響曲。
いったい、どんだけ不幸好きなマーラーなんでしょうか。
いいとこ出のアルマは、そんなことしてるなんて知らなかったのではないか?
3年後、娘マリアは死んでしまい、グスタフ自身も心臓の病を知ることになるわけだ。
こんな不幸を、一杯に背負って、もがきつつ、名指揮者・先端作曲家としてユダヤ人として活躍したマーラーはスゴイのであります。
Ms:マリアナ・リポヴシェク
クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(92.9.3@ベルリン)
1.「いま太陽は明るく昇る」
昨日のことなど、なかったように、太陽がまた昇る。
その不幸は、わたしにだけ訪れた・・・
冒頭から暗いです、落ちてます。
半音階の下降音がさらに腑に落ちない悲しみに拍車をかけてます。
2.「今、私にはわかるのだ、なぜあの暗い炎を」
わたしたちは、あなたのそばにいたかったの・・・・
もうじき、遠くへいってしまうから、よく見ていてね
この瞳は、来るべきときには星になってしまうのだから・・・・
あぁ、もうやめてよ。なんてドラマのような涙誘う詩なんでしょう。
音楽は、甘美なまでの優しさの境地に誘ってくれます。
ホルンが、ハープが、あまりに儚いです。
3.「おまえの母さんが」
おまえの母さんが戸口から入ってくるとき・・・
いつもわたしが視線をくぐらせるのは、
敷居の、ずっと近いところなんだ
おまえのかわいい顔がそこにありそうなので・・・
娘のありし日をいつまでも思い続ける父親は悲しい。
イングリッシュホルンの淡々とした調べではじまるこの歌は、
切々と悲しみに覆われてゆくような音楽で、マーラーさん、新婚で
これはイカンだろうと思ってしまいます。
4.「よく私は考える」
子供たちは散歩にでかけただけ・・・。
また帰ってくるだろう・・・・
あの子たちは、ただわたしたちより一足先に出かけただけ
だったら、わたしたちも、もうそろそろあの子たちを追って
あの高みへいってみよう
あの高いところでは、晴れて美しい
だんだんと、その死を受容し、さらに自らを高みへあげようとする親たち。
音楽は平易な様相で、メロディアスながら、詩に敏感に反応したかのような
心刺す深い内容を帯びてます。
5.「こんなひどい嵐の日には」
こんな嵐うなる日には、子供たちを外に決して出しはしなかった
・・・・・、こどもたちは母の家で眠るように
神の御手につつまれて憩いについているのだろう
子供たちは、母の家で眠るように憩いについているのだ
悔恨にくれる親の心境と嵐の様子が、マーラーらしい、
ある意味カッコよさでもって描かれているが、最後は浄化の世界が!
マーラーを愛するアバドだが、「亡き子をしのぶ歌」は、もしかしたらこの1枚だけかも。
角笛とリッケルトは、再三取り上げるのに、「さすらう若人」と「亡き子」はそうじゃない。
アバドに聞いてみたい不思議のひとつです。
ベルリン時代の、統一テーマに基づいた総合芸術の一環としてのシーズンプログラミング。
このCDは、ノーノの反ファシズム・コミュニシズムにもとづく反体制的なモットーを持った作品とカップリングされていて、アバドならではの理想平和主義の思いが込められている1枚なのだ。
「亡き子」には思想はついてこないが、その根底には、リッケルトの無情すぎるリアルな詩につけたマーラーの深い同情と共感、そして無垢な子供という存在への愛情が満ち溢れていると思う。
女性であり妻のアルマからしたら、まだ見ぬ子供に結び付けてしまったことで、許さざるべからず的内容かもしれないが、ここで言う「子供」はマーラーの存在そのものの裏返しなのかも・・・・。
そしてみずから、ナイーブでシャイな子供時代の思いを表明しているアバド。
マーラーへの親近感をずっと持ち続けている。
ここで歌うリポヴシェクは、ユーゴスラビア出身で、録音当時、分裂と戦火に揺れていた。
そんなことも総合して、このメッセージ性の強い演奏会のライブCDがなりたっている。
100年たっても変わらない世紀末があり、次のものは自分は当然に経験できないかもしれないが、その世紀末が平和に繰り返されることを願ってやまないのでありました。
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