シュレーカー 「音楽箱と王女」 ヴィントフール指揮
六本木の夜。
六本木の顔は、かねては華やかだった交差点周辺。
いまもそれはそれは賑やかだけれども、商業施設によって分散し、ヒルズとミッドタウンに多くの人や車が流れている。
2月のバレンタインの頃まで、けやき坂のイルミネーションは続いてます。
クリスマスが過ぎても、まだイルミしてるこちら。
クールなトーキョーが味わえます。
車の中から、こんな感じ。
フランツ・シュレーカー(1878~1934)のオペラシリーズ。
9作中の第3作目、「Das Spielwerk und die Prinzessin」。
さて、この独語の邦題をいかにすべきか?
Spielは、おもちゃとかゲーム、Werkは、お仕事。
ますますわからんぞ・・・。
Wikiなどのネット上では、「おもちゃと姫君」なんて訳されているけれど、CDのリブレットの英訳では、「The music box and the princess」となっている。
これを素直に和訳すると、「音楽箱(オルゴール?)と姫」なんてことになる。
オペラタイトルは、そのオペラのイメージの第一印象だけに、これじゃメルヘンチックになってしまいかねない。
ツワモノ、シュレーカーとメルヘン調とはすぐにはかみ合わないし、事実、このオペラの音楽は、わたしたちにとってお馴染みの、甘味で濃厚、夢幻的かつ悪魔的なシュレーカーの音に満たされているわけなので、どうもそれらの邦訳はそぐわない気がするのだけれども・・・・。
かつてレコ芸の長木先生は「からくりの鐘と王女」とつけておりました。
それはそれで、オペラの筋立てに即した素晴らしい題名かとも思います。
でも、わたしは、「音楽箱と王女」といたしました。
リブレット英訳を見てるとBOXばかり出てくるし、そもそも、その「おもちゃ」なるものは、音楽に共鳴して得も言われぬ響きを奏でるのだ、とあります。
そうした「からくり箱」、そしてなんとなく曖昧なままで、ということで。
なにか気のきいた名前があれば教えてください。
前段からして、長くなってしまった。
かようにして、シュレーカーの作品たちは、その素晴らしい音楽に反して、作品の背景理解がなかなかに難しく、劇内容と台詞も複雑で、英訳されたリブレットを見ていてもさっぱりとわからない。
音楽の方は、ずっと聴き続けて1年あまりで、すっかり耳になじんだのだけれど、対訳に悪戦苦闘すること数日。
適当に脚色して、ここにその概略を残します。
前作「はるかな響き」が、1912年の初演・大成功で、ウィーンでも認められ、ウィーン音楽院教授に迎えられたシュレーカー。
翌1913年2月には、シェーンベルクの「グレの歌」の初演指揮をウィーンで行うなど、同地での活動のピークを徐々に築きつつあった。
同年、フランクフルトとウィーンにおいて、この「音楽箱と王女」を初演。
しかし、おもったほどの成功は得られず、当時の音楽批評家のジュリアス・コルンゴルト(あのコルンゴルトの親父)のアンチ・シュレーカー報道でスキャンダル化してしまった。
のちの1915年、シュレーカーは、このオペラを縮小改編して、1幕ものの「Das Spielwerk」として書きなおし、1920年にワルターの指揮で演奏されて成功をおさめている。
このように、シュレーカーをとりまく人物たちは、お馴染みの名前の人々ばかりで、彼の弟子筋も同じく有名人ばかり。
シュレーカーだけが埋もれた存在となってしまった。
つくづく、ナチスという存在が疎ましい。
この作品の唯一の音源は、1913年の初稿版によるもので、キール劇場におけるライブ。
マイスター・フローリアン:トーマス・ヨハンネス・マイヤー
王女:ユリア・ヘニング
旅の職人:ハンス・ユルゲン・シェーフリン
ウォルフ:マティアス・クライン
リーゼ:アンネ・カロリン・シュルテル
城の執事:ハンス・ゲオルク・アーレンス ほか
ウルリヒ・ヴィントフール指揮 キール・フィルハーモニー管弦楽団
キール歌劇場合唱団
(2003.1@キール)
プロローグ
ここでは4人の男たちがかつて、この街で起きたことを語らんとするが、いずれも問わず語りで、神のみぞ知る・・・・と。
第1幕
夜明け、親方フローリアンの職場のドアをたたく女ひとり。
彼女は、離縁した親方の妻リーゼ。
道に若い男が倒れている、それはあなたと私の息子よ、と叫ぶ。
しかし、フローリアンは、私に息子などいない、頼むからもう行ってくれ。ととりあわない。
(リーゼは、なかば錯乱していて、かねて王女の恋人だった息子がいなくなってしまったことで、王女を恨んでいる)
で、その倒れていた若い男は、旅の職人で、城近くで、執事に会うが、執事からは、この街はよろしくないから、早く出ていった方がよいと忠告される。
職人は、聴いてくれとんばかりに笛を取り出し、シンプルな調べを奏でる。
すると、あたりから鐘が鳴り響き、えもいわれぬ雰囲気になる。
親方フローリアンは喜びが数年ぶりに戻ってきたと、執事は古い音楽箱が鳴り響いたことに感謝し、さっそく城に報告に行く。
フローリアンはその職人に語る。
王女には、ヴァイオリンを奏でる若い恋人がいた。それは彼の息子だった。
彼は、誰にも真似することのできない美しい音色でもって、フローリアンの作った音楽箱を春の歌のように共鳴させることができる唯一の男だった。
王女と息子は、その音楽と不思議な箱でもってお互いにのめり込み、若い日々を浪費するがごとく狂乱の宴へと没頭してしまうようになった。そして、親方はそんな息子を追放してしまった。
音楽箱を、自分の妻の手引きで、弟子のウォルフが細工したから、このように人を惑わす響きを出すようになってしまったからである。
いまや、こうして清らかな音を取り戻したということは、自分が必死に調整したからであると。
フローリアンは、若い職人の旅の疲れをねぎらい自宅で歓待する。
王女があらわれる。そこへ敷物を敷きなさい、豪勢な食事も出しなさい・・と贅沢な注文ばかり。執事は、じつはよろしきお知らせでして、今朝ほど若い男が。。云々と語るも、うつろな王女は耳を貸さない。
でも王女もこの時を待っていた、死だけが私の充足・・・と歌う。
今度は、王女とウォルフの会話。
あの箱のお陰でこんなことになってしまった、あの箱に今宵、真鍮をかぶせてしまうのです。
それは、わたくしが・・・とウォルフ。
ウォルフの姦計に心も体も、騙されてしまう王女であった。
第2幕
朝、親方のところに泊まった若い職人は、前夜に見た不思議な夢をかたる。
「女王(Queen)の大祝賀会に自分は舞踏の曲の演奏をするために招かれ、笛を吹いたのだが、彼女は生まれたままの姿で、それを問うと、何故?と笑って悲しい目をした・・・・・。」
朝、外へでて、笛を吹く職人。またしても芳しい響きが。
そこへ、ほうほうの体で、王女がやってきて苦しそうにしている。
これは大変と、介抱し、水を飲ませてあげる職人。
語るうちに、王女は、ここから自分を連れてどこか遠くへ連れて行って欲しいと懇願するが、職人は、今日が済めば明日にでも、と語る。
彼は、彼女が王女であることを知らないのである。
今日は、病気の王女を癒しにいくからと。
彼女は、そいつは悪魔だ、老親方もそうだ・・・と訳わからないことを口走り、これには職人も混乱。
しかし、彼は、王女を救いたいのだ、彼女のために死んでもいいとまで、語る。
それが終わったら、一緒に逃げてくれる?と王女。
そう、あたりまえさ、君を愛している。必ずやりとげるさ、と職人。
彼女は、去り際に、それはきっとできないわ、と呟く・・・・。
夜、4人の男たちが死んだ男を親方フローリアンの家の前に運んでくる。
ウォルフは、なにも自分たちの祝賀の晩に死体なんてと怒るが、男たちは、死者をその父のもとに届けにきた。彼は天に昇るため、そして彼のヴァイオリンを弾くことになろう・・・と。
次の場への間、この横たわる男は起き上がり立ち去り、空は雲が立ち込め、城はあざやかなイルミネーションにおおわれ、鐘が鳴り響く。
楽しげな音楽に乗り、市民たちが繰り出してきて、それは酔っ払いもまじって乱痴気騒ぎとなり、やがて魔女は誰だとか始まり、王女を殺せと言い始め、城に殺到する。
ウォルフは、彼女に罪はない、悪いのはあの親方で魔術師だとするからまたややこしい。
さらに、リーゼは、悪いのはあの女、母たちよ、息子たちを守りなさいと、これまた煽るようなことを言い、王女は怖れおののき、わたしの人生には何の意味もなくただ死にたいと語るも、リーゼの王女へのなじりは、息子の死体を見てしまった故に激しさを増すばかり。
そこへ、執事にいざなわれて若い旅の職人が混乱のなかに登場し、王女を紹介され、それが今朝あった彼女とわかりびっくり。
わたしにはできるとして、職人は笛を取り出し吹き始める。
すると、おなじみのえも言われる雰囲気が醸し出され、虚ろな病魔の王女は様子が一変。例の音楽箱も神々しく響きはじめ、市民たちも神妙になり踊りだす。
そして、フローリアンの家では箱に合わせて、死んだ息子もヴァイオリンを弾きだすのが見える・・・・。
王女と職人のふたりは、城近くの丘に登りつつ、この晴れやかな日に、旅立つ喜びを歌い合い熱い二重唱となり、城の中に消えてゆく。
フローリアンは、市民よ待ってくれ、聴いてくれ、息子がいまヴァイオリンを弾いているのだ、死がいま音楽を奏でているのだ・・・・と錯乱状態。
ウォルフに扇動されて松明をもった人々があわられ、松明を投げつけ、親方の家は燃える。
ウォルフは、王女はどこだ?せっかくの祝宴が、おまえの恋人はここだ。。。とこちらも混乱。
やがて、城が朝日に浮かびあがり、音楽箱も鳴りをひそめる。
が、しかし、鐘の音だけは、街に降り注ぐようになり続けるのであった。
それを聴いたフローリアンは、狂気の笑みを浮かべ、傍らにはリーゼがうなだれいて、「聴こえるか?聴いたか?」と。
人々は、そんな親方には目もくれず、ひざまずいて祈ります。
「おお、主よ、わたしたちの罪ゆえ、お慈悲の道のすべがないのを知りました・・・・」
~幕~
どうも、よくわからない内容。
かなりの誤訳・作文はお許しを。
こうして書いてて、「パルシファル」と「マイスタージンガー」を思い起こした。
職人は無垢なるパルシファルと歌合戦に臨むワルター、親方は、グルネマンツとザックス。王女は、アンフォルタスとクンドリーとエヴァ。
ウォルフは、クリングゾルにベックメッサー。
リーザはクンドリー。
(おまけに彼女たちは二面性を併せ持っていることで共通)
このオペラの台本の冒頭には、ニーチェの「ツァラトゥストラ」の真夜中の歌の一部が、シュレーカーによって引用され、記載されている。
「だがすべての快楽は永遠を、深い永遠を欲する」と。
そう、マーラーの第3交響曲で歌われる深いアルトの独唱、永劫回帰の思想。
人間の欲望の尽きることのない性(さが)とそれへの肯定感を、シュレーカーはいつもその独特なドラマの選択によって描いている。
いままで聴いてきたオペラでは、それは、ついついイタいことしてしまう女性たちによってあらわされてきた。
ここでも、王女と、親方の元妻たちがそう。
この筋の内容の考察は、まだまだ足りないと思うし、もしかしたら考え違いかもしれない。
また改めることもあるかもしれない。
しかし、シュレーカーの私にとっての素晴らしい音楽は変わりがない。
ふたつの幕の2番目の置かれた前奏曲のような間奏曲は、単独で聴いてもまったくシビレるほどで、これまで聴いてきた彼のオペラの間奏曲や前奏曲たちと並べて、機会あるごとに聴いている曲なのだ。
甘い歌に、熱い二重唱、邪悪なモティーフを伴ったクレド、民衆のはちゃむちゃ・ハーレムサウンド・・・・、どのオペラにも共通のシュレーカー流儀。
濃厚かつ甘味なる世紀末サウンドの典型。
ワーグナー、マーラー、シュトラウス、ツェムリンスキー、新ウィーン楽派、コルンゴルトと来て、当然の帰結としてたどりいたシュレーカー。
そのほかにもその周辺作曲家はたくさんいるけれども、こうして聴くほどに、自分の波長にぴたりと合っていることを痛感する。
キール・オペラの面々は、実にしっかりしたキャラクター作りでもって、万全の歌を聴かせてくれた。
新国でもヴォツェックとマンドリーカで、お馴染みになったマイヤーはことに立派で印象的。
エキセントリック感もある王女のヘニングと、リリカルなシェーフリンも気に入った。
リーゼのシュルテルの存在感もすごいもので、ウォルフ役はその点、少し弱かったかも。
ヴィントフールは、この手の知られぬオペラをよく取り上げてくれていて、以前、シュトラウスの「ダナエの愛」をここでは記事にしております。
ベルリン・ドイツ・オペラでも活躍中の実力派のようです。
これにて、シュレーカーのオペラは4作目。
あと、音源が手に入ったものふたつを用意してあります。
年内にいけるかな?
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