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2011年1月20日 (木)

ツェムリンスキー 交響曲第2番 シャイー指揮

Iketani

ほんわか、日本蕎麦。
この時期、あったかい蕎麦が滲みますなぁ。
山菜蕎麦なんです。
薬味に柚子なんぞを、ちょろっと乗っけて、ずず、ずぃ~っとすすります。
もう、鼻孔が広がり、ほゎ~んとした気分になります。

Zemlinsky_sym2_chailly

アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871~1942)。
今週は、週末の神奈川フィルのマーラーを見据え、それから、年末の新国トリスタンの系譜をたどるようなかたちで、ワーグナー、マーラー後のウィーン・ドイツのユーゲント・シュイティールの音楽を聴いております。
いわゆる、爛熟・退廃系の世紀末音楽なのであります。
さまよえるクラヲタ人のもっとも好むところなのです。

同じような時期に、同じ場所で活躍したから、お互いに知り合いだったり、親戚だったり、反目しあったりで、関係がともかく深い作曲家たち。

マーラーが世代的にも、一歩抜きんでている。
もし、マーラーが51歳を前に、あんなに早く死ななければ、世紀末における音楽はもっと異なる様相を経ていたかもしれない。

だが、マーラー後の、ユーゲント・シュティールの核は、今回のツェムリンスキーだったかもしれない。
アルマ(マーラーの奥さん)の先生であり、シェーンベルクの義兄でもあり、義弟を中心とする新ウィーン楽派の師でもあった。
音楽の指導者、作曲家、指揮者というマルチな存在でありつつも、やはりユダヤ系ということが災いとなり、のちに亡命生活を余儀なくされ、その名前も失われてしまった。

シュレーカー、コルンゴルト、ツェムリンスキー。
同じ運命をたどった作曲家3人を、今回まで聴いたわけです。

コルンゴルトは、保守系のロマン主義を生涯保ったが、あとのふたりは、その生涯において、初期と盛期では、その作風が全然違う。
なかでも、ツェムリンスキーは、別人のような変貌ぶり。

1800年代までの数年は、ごたぶんにもれず、ワーグナーの洗礼は受けつつも、なんとブラームス派としての活動で、古典派風のカチッとした型をふまえつつ、ブルッフのようなロマンあふれる音楽を書いた。

1900年、そう、20世紀からは、マーラーの後継者としてはっきり表明したかのような、表現主義的で、和声も思いきり拡張した豊満な音楽を書くようになった。
「人魚姫」と「抒情交響曲」から入門したツェムリンスキーだから、それがツェムリンスキーとばかりの印象を持っていたのが10年以上前。

今回の、シャイー指揮による交響曲は、作曲者の像のジャケットがそれ風だし、指揮が人魚姫のシャイーだったから、二匹目のどじょうのつもりで、喜び勇んで購入した1枚。
 だがしかし、その期待は裏切られ、そこに鳴り響く豊穣なる音は、後期ロマン派のそれでなく、ブラームス風の古典の姿をまとった懐古調ロマン主義音楽だった。
これには、裏切られたと思った。
もっと、濃厚・ギンギン・甘味料過多の音楽を期待していたのに。

その後、ツェムリンスキー前後の人々や、その人生などを聴き知るにつれ、この中途半端な立ち位置の交響曲が普通に聴けるようになってきた。
ブラームス楽派として万全を期した大作であると同時に、その派閥からの脱却はシェーンベルクとの友好関係にもよることが多く、その脱却をはかるべき最後の作品的な存在なのでもある。
この曲と、人魚姫を、同じシャイーベルリン放送響で聴くとき、その客観的・知的解釈ゆえ、当時を映す表裏一体的な音楽と捉えることができる。

J・コンロンとともに、シャイーは、こうした時期の二局面をとても見事に描き尽した指揮者なのであります。
ツィムリンスキー編曲のブラームス作品のよう。
それから、先にあげたブルッフのようで、ハンス・ロッド、ベルワルド、スタンフォード、パリー、こんな人々の感じも呼び覚ますツェムリンスキーの初期作品なのでありました。

1897年の作品、全4楽章は、とてもきっちり。
アレグロ→スケルツォ→アダージョ→パッサカリア
ことに終楽章は、ブラームスの4番のそれをオマージュしているそうな。

シャイーのスリムでかつ歌謡的な解釈は、こうした音楽への適正ばっちりで、ベルリン放送響との相性も含めて、一番よかった時期のひとつだったんじゃないかしら。

わたしには、思いのほか、ゆるすぎるツェムリンスキーの初期作品でございました。
でも、このお蕎麦のように、妙にほのぼのとしてしまう日常感あふれる音楽でもありました。

Iketani2

関東のつゆは、こんな風にまっ黒け。
これで馴染んできたんです。

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コメント

この曲と、フックスの交響曲第3番を聴いていました。
ともに、軽くて素朴、ブラームス風だけど、とてもメロディが美しい作品のように感じました。ブラームスよりもメロディを重ね合わせながらも、レーガーのシンフォニエッタと比べると、それほどでもないといったような。
歴史を見ると、ヒトラーの頃に、なぜかフックスも演奏禁止になっている様です。これは、ユダヤ系と言う言葉が出ていないので、不思議です。このあたり、市内の図書館で調べようと思っています。
ここからは、後に叙情交響曲やシンフォニエッタを書いた、ユーゲント・シュティールの指導者は、イメージしがたいですね。

この頃、時代を先取りした作品としては、ブルックナーの第九、そしてシェーンベルクの浄められた夜が挙がるので、その古風ぶりに驚きました。和音もレーガーと違い古風ですので。

純粋で美しい作品ですね。このメロディの叙情性は、晩年まで生きているように思えてきますね。

投稿: Kasshini | 2012年12月16日 (日) 14時46分

しばらくこの曲から遠ざかってまして、印象はおぼろげですが、古風な造りということだけは覚えてます。
ブラームスと新ウィーン楽派をつなぐのはツェムリンスキーですね。
この作曲家も、シュレーカーと同じく、興味の対象なのですが、こちらでも体系的な把握がいまだあいまいです。
また聴き直してみようと思います。

投稿: yokochan | 2012年12月17日 (月) 00時50分

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