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2011年2月

2011年2月27日 (日)

R・シュトラウス 「サロメ」 二期会公演

Uenobunka

上野文化会館のロビーって、こんな風だったっけ。
ユーゲントシュティール風であります。

Salome2011

そして、二期会公演、R ・シュトラウス「サロメ」を観劇。
みどころは、なんたって、ペーター・コンヴィチュニーの演出。
刺激的で、一瞬たりとも目の離せない舞台に、歌唱でしたsign01

2009年のネーデルランドオペラのプロダクションで、指揮のルテスも、そのときと同じという。
言葉と音楽に応じた掘り下げが深いコンヴィチュニー演出だから、指揮者とのコンビネーションも大事。
地味だと、思ってたゾルテスだけど、この起用は万全だった。

  サロメ:大隅 智佳子 
     ヘロデ:片寄 純也
  ヘロディアス:山下 牧子    ヨカナーン:友清 崇
  ナラボート:大川 伸之     ヘロディアスの小姓:田村 由貴絵

  ユダヤ人:高田 正人          ユダヤ人:菅野 敦
  ユダヤ人:新津 耕平      ユダヤ人:加茂下 稔
  ユダヤ人:畠山 茂       ナザレ人:北川 辰彦
  ナザレ人:櫻井 淳       兵士  :井上 雅人
  兵士  :倉本 晋児       カッパドキア人:千葉 裕一

   シュテファン・ゾルテス指揮 東京都交響楽団
                   (2011.2.26@東京文化会館)

なにをやらかすかわからないコンヴィチュニー。
幕開け前でも演出が始まっいることもあるので、少し早めに上野の文化会館に出向いた。
でも、今回は、会場は、普通で、えんじの幕も閉まったまんま。
今日の千秋楽、客席は、空席が目立ったけれど、ほかの日はどうだったのでしょうか?
こんな面白い舞台が見られるのに、もったいないことです。
ともかく、舞台の隅から隅まで動きが満載で、字幕を追ってると、細かな動作を見逃してしまう。
同時進行する各々の出来事が、それぞれに絡みあっているし、台詞にも注意をはらってないと、重要なメッセージを見逃してしまう。

サロメの最後の長大なモノローグの言葉ひとつひとつが、この演出の解釈のカギとなっているようだ。
ヨカナーンの血に染まった首を前に歌う狂喜の女の強烈な歌ではなくて、ここでは、恋する女のラブソングであった!
こんなこと書くと、舞台をご覧になっていない方々は、??でしょうね。
わたしも、正直、そう来るとは思いもよらなかった。
最後の、その衝撃の結末に向けての、舞台の様子を、記憶が消えないうちに残しておきます。
※画像は、二期会のHPとネーデルランドオペラのHPから拝借しました※

Salome1
時代は、イエスが活動していた聖書の時代から、現在ないしは、ほど遠くない近未来。
閉鎖状態の密閉空間の部屋で、天上は少し崩壊しており、それでもシェルターは万全でどこにも窓もないし、出口もない。
真ん中に長いテーブルが配置され、まっ白いクロスでおおわれていて、酒の瓶やグラスが散乱している。
白いスーツは、どうもヘロデ王らしく、ヘッドホンで音楽を聴きながら、ノリノリの様子で、周囲はまったく眼中にない。
テーブルの真ん中には、白い袋をかぶった男。(ははぁ、ヨカナーンだな)
左手のソファには、けだるい様子のサロメ。黒ずくめのスポーティな出で立ち。
ナラボートをはじめ、ユダヤ人、カッパドキア人、ナザレ人、兵士たちはみんな黒づくめのスーツ姿。
小姓は、アメリカンダイナーのウエイトレスのようなかっこ。
ナラボートは、サロメに熱い視線を送るが、彼に思いを寄せる小姓は気が気でない。
王様は、ずっと音楽に合わせて踊ってるし、ナラボートは小姓に口で・・・あれをさせちゃってるし・・・・、白いクロスの中からは、ヘロディアスとカッパドキア人(誰かわかんない)がその行為の最中だし、白い袋をかぶったまま、ヨカナーンは警告を行うし、その警告の強い歌にほかの人々は、手を叩き、大歓声・・・。
もうめちゃくちゃでござりまするがな。。。。
いつも5人そろって書物を見ながら議論しているユダヤ人をはじめ、登場人物は全員、最初から最後まで出ずっぱりで、始終性行為に及んだり、酒を飲んだりしている。
要は堕落しきった人間たちなのである。

わからなかったのは、恋敵サロメを、小姓がナイフで刺してしまい、倒れたあとも執拗に刃をたてている。
あれ、サロメ死んじゃった。
と思ったら、全員が群がり、その肉をむさぼるシーンがあった・・・・。
これは、いったい??

露骨な性描写は、終始行われいて、ヨカナーンの姦淫を咎める警告も空しく響くほどに、ヘロディアスは、多数の男たちと複数プレイに及んでいる始末。
この間でもヘロデは、まったくわれ関せずの状態で、参加しても自慰行為のみなところが・・・・。

Salome_172_web
サロメは「いい気持ちだわ、月を見てると・・・」と歌うその眼の先は、ワインボトルにくくり付けられたチープな白い風船。
それを、ナイフで割ってしまうサロメ。
こんな混沌とした状態がずっと続く。
テーブルに全員が一列に腰掛けると、真ん中はヨカナーン。
女性3人を除くと13人いる。
イエスを囲んだ最後の晩餐を思ってしまった。
 ヨカナーンを見たいとナラボートに迫るサロメは、小姓の服を脱がせながら、さも彼女を餌にしようとするがごとくで、結局念願かなってヨカナーンの袋をはぎ取ることになる。
一段と強く警鐘を歌うヨカナーンは、ヘロディアスの淫らな行為を侮蔑するし、一方のサロメは、無邪気にヨカナーンに迫る。
混乱を来たし、ナラボートや小姓も交えるが、小姓は、ヨカナーンに向かって酒ボトルを振りあげたら、間違えてナラボートに命中。
バタンキューである(笑)
「おまえの髪の毛は、まるで葡萄の房・・・」と歌うとき、サロメはハサミを持ってきて、ヨカナーンの髪を切ろうとする。こんな感じに、セリフにその都度敏感に反応して描写が細かいのだ。
結局、サロメへの思いを羨んだナラボートは、ふらふらとやってきたヘロデ王によって射殺されてしまう。
ヨカナーンは、死体に口づけを行うと、その横に伏せてしまうという意味不明の行為。
生き帰させるのかと思ったら??
ほかの男たちが、群がってきて、死んだナラボートのズボンを下ろしてお尻を出してしまい、あらやだ、みんな順番に○○掘ってるじゃありませんか・・・。
王様も喜んで、恍惚として腰を動かしてるし。。。
もう、ここまで見せなくてもいいじゃないか・・・。
でも、コンヴィチュニーの徹底ぶりは、これでもかと言わんばかりで、退廃に行きついた社会のブザマな様子を動物のような性描写で表出してみせているのだ。
ちなみに、死者の血にすっとこどっこいのヘロデが、足を滑らせる件も、ちゃんと描かれている。

サロメに酒を告ぐように、果物を食べるように(この時、バナナをむき出すものだから、またなんかするかと思ったらそうでもなかった)、ここに座るように、あと、何するんだったかな?というボケな言葉に、あれを持って来いと命じたのは、予想通り、「ヤク」でございました。手にゴムバンドを巻き、小姓に火を起こさせヤクを調合しているんだ。

Salome3

ヘロデの望みに応じて、強烈なリズムで7つのヴェールのダンスが始まる。
サロメは、ヨカナーンの脱ぎ捨てた白いジャケットを来ていて、下は黒いタンクトップ。
シルエットで、壁に影が怪しくうごめくが、そのダンスは淫靡でもなんでもなく、健康的でモダン。テーブルでそれを見物する15人の人物。
白いクロスを引っ張りだして、それを持ちながら踊り、見物人の後ろにまわって踊りを指示すると、みんながそれぞれに踊りだす。
サロメひとりじゃなくって、全員が、てんでバラバラに踊る。
こんな滑稽な「7つのヴェールの踊り」は見たことない。
サロメは、壁にドアの絵を書き、そこをこじ開けようとするがそうはいかない。
ほかのメンバーもみんな同じことをする。
最後は、テーブルの下から、白いドレスの少女が出てきて、サロメの手を取って退場(だったかな?)。ほかの皆さんは、そこにぶっ倒れた。
出口のない閉塞状態からの脱却を図ったあげくである。

ダンスの報酬に、ヨカナーンの首を求められ、それ以外の代償を求めるようにとの王は、倒れた人々の服から宝石や金を巻き上げて差しだしたりするし、ヘロディアスも札束などをくすねてまわってる。
そして、またヤク切れのヘロデは、茫然と座っているヨカナーンに薬の調合を手伝わせている。
でも、そのヨカナーンに目を付けたヘロディアス。ズボンを脱がせ、喜びの声を上げ、彼に跨り、そしてまたしてもはじめてしまうのでありました・・・・。

それを見たサロメの嫉妬と怒りは、ひとりの娘のようであった。
そして希望の適ったサロメに、銀の盆に載った首が出てくるかと思いきや、ヨカナーンの首の作り物は、舞台前面にいつのまにか転がっていて、そのいかにもわざとらしいフィギア首を抱いて歌うサロメの横には、椅子に腰かけたヨカナーン。
あの禍々しい首は上から吊り下げが降りてきて、そこにくくりつけると、舞台天上にのぼっていって消えちゃった。
「わたしを見ていたら、愛したはず。愛の神秘は、遥かに大きいわ、死の神秘よりも・・・」
ここを歌うサロメ、とっても美しい歌だったし、オーケストラもぐっと音量を落として、歌声を浮かびあがらしていた。最高の場面であった。

舞台奥では、ヘロディアスが何故かかいがいしく、乱れた舞台を後片付け。
ヘロデとともに、夫婦そろって座ってグラスを汲みかわしていて、あの娘は怪物だ、いやさすがは私の娘などと、ホームドラマ風に褒め合っている。

サロメとヨカナーンは、幕を二人で仲良く閉じてしまう。
やがて、ふたりステージ前に出てきて、「わたしは、接吻したわ、あなたの口に・・」と歌い、本来なら圧倒的なフォルテとなるところだが、オーケストラはちょっと弱めで、むしろ明るい色調。
ふたりは、仲良く足早に退場。愛が成就してしまったのでありました。

幕が閉まったまま、音楽は後奏へと入り、ヘロデの最後の一言はどうなるんだ、と思っていると、客席前方の男性が、やおら立ち上がり、日本語で、「あの女を殺せ!!」と叫びました。横の連れのご夫人は、必死にとどめておりました・・・・・。
こうして、あの激しいエンディングは、こんな終りかたはケシカランという怒れる観客によってトドメを刺されたのでございました。


拍手に戸惑いながらも参加したわたくし。
なんだか、狐につままれたみたいでしたよ。
カーテンコールの中、あの観客の方は、大声で文句を言いながら、一般観客が拍手するなか、ホールをあとにしておりました。

やられましたねぇ。またもや、コンヴチュニー・マジックに。

Salome_223_web

あの登場人物のひとりの観客は、われわれ聴衆の気持ちを代弁するものだし、ドラマの退廃したシチュエーションは、いまわれわれが置かれている、閉塞感あふれる社会とそのシステムがもたらす心の中の無秩序そのものでありましょう。
もともと、このドラマやシュトラウスの音楽が持っていた側面を鮮やかに、徹底的なまでに描きだしてしまったコンヴィチュニーに容赦のないプロ魂を見る思い。
生ぬるさなんて、これっぽっちもなく、露骨な性描写や、暴力行為もこれだけ明快に見せられてしまったら、ドラマの必然として受け入れるしかない。
そこまで見せつけておいて、最後の希望の結末。
本来少女であったサロメとヨカナーンは、この閉塞社会から愛を得て飛び出すことに成功したわけだ。
サロメの音楽、こんなに深いものがあるとは思わなかった。

大隅さんのサロメが、期待通りまったく素晴らしくって、最初から最後まで役に没頭しきった大胆な演技で見ごたえがあり、声の方も相変わらず通りがよくってハリもあって、技巧的にも万全で、愛をどこまでも求めたひとりの女性を歌いこんでおりました。
ほんと、見事でした。
片寄さんのシュールなヘロデもよかった。この人の声はなかなかでした。
ヘロディアスの山下さんの美しいメゾの声。いやらしい感じと、どこか母親っぽい仕草などもよく出てました。この演出ではなにかと大変だったことでしょう。
「カプリッチョ」で素敵なオリヴィエを演じた友清さんのヨカナーン。
力強さはなくって、どちらかというとインテリな預言者みたいな役回りだったから、ちょっと声は弱めでも、真摯な歌声はとても好感を持ちました。
気の毒なナラボートは以外なほど力強い声の持ち主だった大川さん、ずっと出ずっぱりで大活躍の小姓の田村さんの複雑な役回りながら、そのうまさは際立ってました。
その他の役柄も、新国などでお馴染みのみなさんが、しっかりとしていて、それぞれに多彩な演技を要求されるこの演出の中で存在感を持ってました。

ダイナミックで大胆な音楽を期待すると、軽く裏切られてしまうショルテス指揮の東京都交響楽団。
音を抑えつつも、歌い手と舞台を掌握しつつ、的確な指揮にオーケストラだった。
色気や官能は控えめ。もっと鳴らしてもいいとも思ったけれど、明快でよかったのではないでしょうか。

終演時間は15時40分。
まだまだ明るい。
気分的に、夜でなくって、ほんとよかった。

ネーデルランドオペラのサイトで、映像が少し見れます。→こちら


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2011年2月25日 (金)

R・シュトラウス 家庭交響曲 サヴァリッシュ指揮

Beefst1

少し前、ビーフシチューを作りましたよ。
暇とお金の余裕があれば、赤ワイン煮込み風にじっくりと作ると堪らないのですが・・・。
その下地で使ったおんなじワインを飲みながら、フランスパンなどをかじりながら、いただくと、もう、最高の幸せが味わえるんですよ。
小ぶりな玉ねぎを、そのまんま入れましてね、これがまた甘くて最高なんざますよ。
冬ならではの野菜のおいしさも味わいます。
だから、今日みたいに、暖かくなっちゃうと、ちょっと残念というか、焦りを感じてしまうんですな、これが。

Curry

もう一品。
カレー鍋をやってみた翌日。
ちなみに、そのカレー鍋。
スーパーで、そのもとを買ってきて、野菜と肉を突っ込んで煮るだけ。
そうとう、うまいですよ。

で、余った具材とスープに、翌日さらに、キャベツの芯の方のところや葱の切れはし。
要は、冷蔵庫にあった野菜の残りを投入して、冷やゴハン(いつも余りを平たくしてラップで保存しときます)を入れてさっと、煮込みます。

仕上げに、粉チーズをまぶして、カレーリゾット(カレー雑炊)となるんです。
冬だけでなく、年中食べたくなるナイスなお味でございますよ。

いずれもいまや家庭料理ですな。

Strauss_domestica

今日は、R・シュストラウス「家庭交響曲」を。
シュトラウス(1864~1949)の39歳の作品で、すなわち1903年。
若いけれども、今人気の、大方の管弦楽作品をすでに書き尽してしまっていた。
オペラでは、2作目の「火の欠乏」を書き終えたところで、次作オペラは1905年の「サロメ」となるところ。

年代にこだわったのは、世紀末であり、紀の変わり目にR・シュトラウスがどんな作品を書いていたかということ。

聖響&神奈川フィルのマーラーチクルスに魅せられています。
毎月、ヨコハマでマーラーが、番号順に美音で聴けるのであります。
集中して聴くということは、マーラー漬けになるとともに、その時代、そう世紀末の様相にもい目がいくことになります。

マーラー(1860~1911)51年という短い生涯における交響曲作曲の時期というのは、案外に短い。
番(1888/28歳)、2番・3番(1896/36歳)、
4番(1900/40歳)、5番(1902年/42歳)、6番(1904年/44歳)
7番(1905年/45歳)、8番(1906年/46歳)、
大地の歌(1908年/48歳)、
9番(1909年/49歳)、10番(1911年)


28歳から50歳まで。
しかも、2番以降を見た場合、36歳から50歳までの14年間に9つの完成された交響曲を書いたわけだ。
しかも、この間、マーラーは指揮者としてオペラにコンサートに、ポストを持ちつつ、欧米の主力で活動していたわけで、モーツァルトのオペラから、当時の現代作品までを取り上げていたのだから、実にスゴイことじゃないですか。

そんな、マーラーの創作年代と、瞬間的に同時代作品を、しばらく特集して聴いてみようと思った。
いまだ興奮冷めやらぬ第5交響曲が響き渡ったのが1902年。
ちなみに、日本は、明治35年ですよ。

この年生まれた音楽は、たくさんあります。
日本では、滝廉太郎の唱歌や山田耕作の活動時期。
そして、明日、「サロメ」を観劇することで、真っ先に選んだR・シュトラウスには、1902~3年の作品として、「家庭交響曲」があったのでした。
マーラーとシュトラウス。直接的なイメージは捉えにくいのだけれども、指揮者マーラーは、シュトラウス作品を積極的に取り上げ、大いに評価していた。
この時分は、豊穣で、屈託なく明るいシュトラウスサウンドが満載。
歌に託した深い心理描写を、透明感ある響きの中に表出することになるのは、オペラの世界で、もう少しあとのこと。
ここでは、技巧的なまでに精妙の限りを尽くしたオーケストラの人工美が光る。
微に入り細に入り、人間の情とあらゆる出来事を描き尽してやまない。
実に雄弁。
 マーラーの屈折した、感情の振幅の大きな巨大オーケストラサウンドとはまったく異なるように思う。
こちらも人間の情を描いたといううえでは、実に雄弁ではあるが、シュトラウスのように明快でわかりやすいという訳ではなく、マーラー個人の内面性があまりに強い。

すべてにおいて幸せなシュトラウスに、アルマを得ることにながらも、いろんな意味で人生に、疑心暗鬼の道をひた走っていると思っていたマーラー。
まんまそれが、この1902年のふたりの音楽の違いでありましょうか。

わたしは、どちらも好きですよ。
傍から見ると、呑気に見えていながら、心は実は海のように荒れて揺れ動いている。実は自分。
シュトラウスとマーラー。
私の内面、そんな対比でしょうか。

サントリーホールでの1993年のライブの、サヴァリッシュフィラデルフィア管弦楽団の演奏は、極めて明快・明晰・明瞭なもので、どこにも曇りなく、晴れ渡っている。
この曲は、これでいいのでしょう。
オケがバイエルンか、ドレスデンだったら、という贅沢な希望も捨てきれませんが、フィラ管の巧さとヨーロピアンな響きは魅力ですし、サントリーホールの耳に馴染んだトーンも親しみを感じます。

明日も、シュトラウス。
明後日は、時代はほんの少し戻って英国ものです。

マーラー5番=1902年がキーワード。


家庭交響曲~過去記事

「プレヴィン&ウィーンフィル」

「プレヴィン&NHKSO」

「カラヤン&ベルリンフィル」

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2011年2月24日 (木)

博多経由、広島なう

Hakata1

久方ぶりの博多。
よからぬ専門ビルが際立ちますが、この中州の夜景はいつも美しいのでした。
川沿いの屋台は、観光向けだし、中州もそんな感じが強くって、地元の方にお連れいただくのが一番。

→博多弁変換flair

>久方ぶり博多なん。
よからん専門ビルの際立ちます、こん中州ん夜景ば、いつでん美しいけんね。
川沿いん屋台な観光向けやし、中州もそげな感じの強くっち、地元ん方にお連れいただくんのいっちゃんや。<

Hakata2

この日はちょっと小ぶりだってけれど、透き通った生き造りは、甘味で最高なのでした。
食べたあとの天ぷらは、極上なり。

>こん日はちょー小ぶりばばってん、透き通った生き造りんな甘味で最高やけんばい。
べたっちゃんあと天ぷらな、極上ばい。<


Hakata3

で、ラーメンですな。

>で、ラーメンたい<

大急ぎの博多だったけれど、人も食も相変わらずよくって、いつかまた仕事抜きでのんびり来てみたいものです。

>大急ぎん、博多やったばってん、人もも相変わらずちゃくっち、いつかまた仕事抜きでゆたっと来てのごたぁもんやけど。<

Hiroshima1

こんどは、広島の繁華街へ。
いかにも風な銀行の先は、お好み村。
ビルがまるまるお好み焼き屋さん。
こちらも、現地人の案内でスルーして、地元風なお好み焼き屋さんへ。

→広島弁変換flair

>こんどは、広島の繁華街へ。
どがぁにも風な銀行の先は、お好み村。
ビルがまるまるお好み焼き屋さん。
こちらも、現地人の案内でスルーして、地元風なお好み焼き屋さんへ。<
(あんまし、変わんないね)

Hiroshima3

美しき広島焼き。
もう言葉は要りませんね。
ちなみに、おのみっちゃんの、尾道焼きと、広島焼きはどう違うんですか?
と聞いたら、
同じです、とのお答えでした。

>美しき広島焼き。
もう言葉は要らんのぉ。
ちなみに、おのみっちゃんの、尾道焼きと、広島焼きゃぁどう違うんか?
ゆぅて聞きおったら、
同じじゃ、とのお答えじゃったんじゃ。<

Hiroshima4

4/1カット。
どうです?
うまそうでしょ。
ビールがんがん飲めますよ。

>4/1カット。
どうじゃ?
うまそうじゃろ。
じぇけビールがんがん飲めるけん。<

Dome1

食事後、ホテルまで、東京から同行したお客さんと一緒に夜の原爆ドームに。
65年前の出来事。
その年月の経過を過去のものとするのか、早い月日の経過とみるのか?
まわりに立つマンションなどを見ると、人の一生よりもまだ短い65年という年月と、文化文明の進化ぶりの対比が、とても空しく感じられてしまった。

>食事後、ホテルまで、東京から同行したお客さんと一緒に夜の原爆ドームに。
65年前の出来事。
その年月の経過を過去のもんとするんか、早い月日の経過とみるんか?
まわりに立つマンションやらを見ると、人の一生よりもまだ短い65年っちゅう年月と、文化文明の進化ぶりの対比が、ぶち空しゅう感じられてしもぉた。<

Dome2

そんな思いをよそに、こうして真近にみると、そのリアリティに、時間の止まったような感覚を覚えてしまう。
この上空600mで、あの爆弾がさく裂した。

人類として、人間がその半鐘として永遠に残し、記憶すべきスポットに思います。

>そがぁな思いをよそに、こうして真近にみると、そのリアリティに、時間の止まったような感覚を覚えてしまう。
この上空600mで、あの爆弾がさく裂したんじゃ。

人類として、人間がその半鐘として永遠に残し、記憶すべきスポットに思いますけぇの。<

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2011年2月22日 (火)

マーラー お願いランキング!

Mahler

ワーグナーに続いて、お願いランキングで遊んじゃいます。

萌え萌えお願い戦士とマーラー。
なんだかマッチングしてるぞ。

①CDランキング(DVD除く)

 交響曲第1番「巨人」  バーンスタイン(NYPO)、アバド(CSO)
 交響曲第2番「復活」  アバド(CSO)、メータ(VPO)、小澤(BSO)
 交響曲第3番       アバド(VPO)、ハイティンク(CSO)、バーンスタイン(旧)
 交響曲第4番       ハイティンク(83)、アバド(VPO)、バーンスタイン(旧)
 交響曲第5番       アバド(CSO)、メータ(LAPO)、レヴァイン
 交響曲第6番       アバド(CSO)、バルビローリ(NPO)、ベルティーニ
 交響曲第7番       アバド(BPO)、レヴァイン(CSO)、バーンスタイン(旧)
 交響曲第8番「千人」  ショルティ、バーンスタイン(旧)
 交響曲第9番       ジュリーニ、バーンスタイン(BPO)、アバド(BPO)
 交響曲第10番      ハーディング、ザンデルリンク
 交響曲「大地の歌」   クレンペラー、バーンスタイン(IPO)、シノーポリ

②実演ランキング

 交響曲第1番「巨人」  アバド(LSO)、ドラティ(読響)、ルイジ(VSO)
 交響曲第2番「復活」  ベルティーニ(都響)、金(神奈フィル)
 交響曲第3番       金(神奈フィル)、ヤンソンス(RCO)、ベルティーニ(N響)
                 小澤(BSO)
 交響曲第4番       プレヴィン(N響)、金(神奈フィル)
 交響曲第5番       アバド(LSO)、マゼール(VPO)、ベルティーニ(都響)
                 ショルティ(CSO)
 交響曲第6番       アバド(ルツェルン)、ハイティンク(CSO)、若杉(N響)
 交響曲第7番       なし
 交響曲第8番「千人」  コシュラー(都響)、現田(藤沢)
 交響曲第9番       バーンスタイン(IPO)、エッシェンバッハ(フィラ管)
                ベルティーニ(都響)
 交響曲第10番     飯森(TSO)のみ
 交響曲「大地の歌」   なし

  ※7番と大地は、ライブ経験なしという悲しさ。
    7番は若杉さんのチケットがありながら、発熱で行けず、大地も若杉さんのものを
   ニアミスで逃してしまった。
   実演はどれもこれも思い出満載。
   その時の自分のシテュエーションとともに。

③好きな番号ランキング

  9→8→3→6→5→7→4→2→1
  あっ、大地の歌はどこに? 6と5の間かな?
  あっ、でも2番はもっと上かな?
  あっ、7番もいいし、いま聴いてる5番はもっと上かな?
  あっ、歌曲はどこいった?
  
  決められましぇん。ランキングなんてできません。

④好きなマーラー指揮者(だと思う人)ランキング

  第1位  アバド(3度目の全集まじか)
  第2位  バーンスタイン(なんだかんだで)
  第3位  ハイティンク(ブルックナー兼務)
  第4位  ベルティーニ(もっと長生きして欲しかったぞ)
  第5位  クーベリック(まだ全部聴けてないけど)
  第6位  レヴァイン(昔の)

 テンシュテット、シノーポリ、インバルはよく聴いていたけれど、いまは嗜好が変化してしまった。
ショルティをあらためて聴き直してみたいのと、T・トーマスを聴かなくてはと思ってる。
金さん、シュテンツ、ヤンソンスの期待。
ゲルギエフとジンマンは・・・・、いいや。

⑤マーラーオーケストラ ランキング

  第1位  シカゴ交響楽団
  第2位  コンセルトヘボウ
  第3位  ベルリンフィル
  第4位  ルツェルン祝祭管弦楽団
  第5位  ウィーンフィル
  第6位  ニューヨークフィル
  第7位  バイエルン放送交響楽団
  第8位  ロンドン交響楽団
  第9位  ドイツの放送オケみんな
  国内   東京都交響楽団  
        神奈川フィルハーモニー(希望枠)
 
⑥好きな楽章ランキング

  第1位  3番の6楽章(愛が語っちゃうんだもん) 
  第2位  8番のⅡ部(長い・オペラみたい・歌ってみたい)
  第3位  5番のアダージェット(甘ぁ~い)
  第4位  4番の3楽章(天国に近づいちゃう)
  第5位  大地の歌/告別(さようなら、お別れだけが人生さ)
  第6位  9番の終楽章(消えてしまいたい・・・・)
  第7位  5番の終楽章(燃えーーっ、爆発だ)
  第8位  6番の終楽章(悲劇の一撃を全身で浴びたいぞ)
  第9位  2番の終楽章(かっちょイイぞぉ~)

 これもまた悩みますな。
 10番のアダージョと終楽章もセットで素晴らしいし、
 7番の夜曲も寝る前に聴くのに最高。
 
なんだかんだで、キリがないぞ、マーラーのお願いランキングは。
耳にタコができるくらい聴いてるけれど、聴くたびに発見と感動があって、いま聴くその時の演奏が最高に思える。

またいずれ、お願いランキングで遊んでみよ~っとnote

 

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2011年2月20日 (日)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 金聖響 指揮

Minatomirai1

だんだんと、春の近づくのを感じる土曜の昼下がり。
神奈川フィルの定期公演の日でした。
横浜駅東口からのんびり歩いて、みなとみらい地区に。
このずっと先がクィーンズモールの中庭。
みなとみらいホールもすぐです。

Minatomirai2

いよいよ中盤の佳境に入った、聖響&神奈川フィルのマーラー・シリーズ
最大の人気曲にして、マーラーの交響曲のターニング・ポイントともいえる第5番。
ここからは声楽がなくなって、オーケストラだけの純粋交響曲ながら、マーラーの心情はますます複雑に。

Kanagawaphill201102

    モーツァルト   ヴァイオリン協奏曲第4番

              Vn:南 紫音

    マーラー     交響曲第5番 嬰ハ短調

       金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                      (2011.2.19@みなとみらいホール

手始めは、モーツァルト
大曲を後に控えて、小手ならしのように聴こえてしまったのは、ちょっと地味な4番のせい?
ソロの南紫音さま。とってもいい名前です。
モーツァルトに相応しく、ともかく清々しいヴァイオリンでキリリとしていて、どこか微笑みも忘れないすてきな音楽を聴かせてくれましたね。
聖響さんとときおり微笑みつつアイコンタクトしてたし、オケの皆さんもリラックスしていたのがよくわかりました。
喜遊的な曲だから、あれこれ考えずに素直に聴けたし、この演奏でよかったのではないかしら。
メインは・・・、次という聴き方になってしまったけれど、マーラーを聴く前に肩の力が抜けたような気もしましたね。

休憩時間にアルコール注入。
いやでも、マーラーの第5に対する期待と思い入れが高まる。

この曲を聴いて35年。
マーラー受容歴のなかでも長いですが、80年代、狂ったように聴きまくり、実演経験もやたらとある曲。
でも、聴き過ぎてかえって遠ざかっていた曲でもありながら、ここ数年でまた熱が戻ってきたかのように聴きまくっている曲なのだ。
終りよければすべてよし。
最終楽章の晴ればれとしたエンディングを聴いてしまうと、それまでの艱難辛苦は嘘のように消え去ってしまう。
実演におけるこの曲の良さは、そこにあって前半にどんなことがあっても最後で挽回することができるし、聴き手も熱狂の渦におのずと巻き込まれてしまうのだ。

まさに、そんなマーラーの第5の特質にぴたりとはまりこんだのが昨日の聖響&神奈フィルの演奏。
終楽章のロンドフィナーレは、手に汗にぎり、ドキドキのしまくりで、ジェットコースターに乗せられアップダウンにはらはらしながらも、めくるめく超感動的な晴れやかななエンディングを迎え、わたくしも興奮の坩堝に誘い込まれたのでした。
金さんの若さ爆発で、汗だくで、もう夢中になりながらの指揮ぶりは、正直、ワタクシも驚き、そして心打たれましたよ。
こうでなくっちゃ。
音楽にいれこみ、すっかり入り込んじゃってるんだ。
石田オレさまコンマスも、終楽章は、何度も腰が浮いて、ほぼ立ち上がり状態!
オケの皆さんもノリノリの大熱演でございました!

終りはこうして超素晴らしかった。

でも、わたしのわずかな不満は、1と2のふたつの連続するシリアスな楽章と奇矯な3楽章。
マーラーの切実でペシミステックな音楽に、どこか外側から対峙しているように聴こえてしまった。
5番あたりから感じる死の影と、人間存在の弱さの表出といったものを感じ取ることができなかったから。
でもそれは極めて贅沢なはなしで、いまある聖響さんが神奈川フィルと一体化しつつあるという結実を思うと、まったく喜ばしくも素晴らしい演奏で、時を経ればきっともっと深化するに違いない部分なのかもしれない。
前から思っているとおり、熱いけれど、少し醒めたところのあるマーラーが、彼らの持ち味なのだし。

それにしても、マーラーの5番はどこもかしこも素晴らしい曲だ。
実演で、奏者の皆さんが必死に、そして気持ちよさそうに演奏している姿をつぶさに見るにつけ、そう思う。
冒頭トランペットは見事に決まったけれど、この曲のライブによくあるように完全始動まではやや時間を要する。
2楽章の後半の弦の熱いユニゾンは全員、体を揺らしながらの大熱演。このシリアス場面昔から大好きなんだ。
3楽章の長大なスケルツォは、オケの各パートの名技性が光った。
ホルン(森さん)の艶やかさ、柳瀬さんと山本さんの中声部の存在感と、そこに第2Vnの小宮さんも加わったピチカートの思わぬ強靭さ。
3番の3楽章もそうだけれど、この曲の3楽章は長くて、繰り返しの連続もあるからとりとめがなく、かつ名人芸も披露しなくちゃなんない。真ん中だし息切れしちゃうし。
難しい楽章です。
聖響さん、小細工せずに、よくまとめてましたが、前後のバランスにおいて将来ひと工夫が必要でしょうか。
4楽章は、神奈フィルの弦の美音を真近で聴いて、どこまでも、いつまでも浸っていたくなるような美しさでございましたね。
管はお休みだけど、皆さん一緒になって仲間の奏でるアダージェットに聴き入ってました。
そして、終楽章は先のとおり。
最後まで、オケのどのセクションもよく聴こえ、見通しがよくクッキリした響きで、これは神奈フィルの美点でありましょう。
エンディングとともに、大ブラボーの嵐でございました。

終楽章の興奮のまま、アフターコンサートでは、横浜発の美味しいビールを飲みまくり。
皆さん、毎度お世話になりました。
二次会のビールもまた、趣きが違っておいしかったです。

Yokohama_umaya1_2

前回もお連れいただいた、「駅(うまや)の食卓」。
醸造所で飲むんです。
何種類いただいたかわからない。

Yokohama_umaya2

県内産の食材ばかりを使った料理も、どれも優しく麦酒に合います。

Yokohama_umaya4

なんてきれいな泡でしょ。

マーラーはきれいなばかりじゃなくって、人それぞれに、どこか引っかかるトゲのようなものをもっている音楽だと思う。
その感じ方は、まちまち。
そのへんとところを、このあとの番号あたりから聴かせて欲しいし、自分としては、聴きとってみたいと思っております。
連続してマーラーを聴く楽しみは、そのあたりにもあるし、演奏者と聴き手がマーラーを通してつながってゆくことにもなるのだから・・・・・。



        

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2011年2月19日 (土)

ショスタコーヴィチ 交響曲第14番「死者の歌」 ロストロポーヴィチ指揮

Onuma3_2

殺伐とした北国の冬景色。
その先は湖だし、なんにもなくって怖いくらい。
でも、雪は溶け、春は着実にやってきている。

Onuma1 

氷も溶けて、季節はなにもしなくてもめぐってくるんですな。

しっかし、いまのどっかの我が国は、もうお先なし、っていうくらいに先が見えない。
幕末と同じように、気がつけば列強に周囲を脅かされ、政治は末路をたどるばかり。
そして、市民生活は爛熟と荒廃の混在。

Shostakovich_sym14_rostoropovich

ショスタコーヴィチ交響曲第14番「死者の歌」。
「死」のことばかりを歌いこみ描きだした、ある意味徹底した音楽。
でもこれが交響曲といえるかどうか、いつも首をかしげてしまう。
男女ふたりの独唱を要し、それぞれが独唱をつとめる11の楽章からなる連作歌曲のような存在。

マーラーの「大地の歌」、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」などと同じような仕組みながら、正規の番号交響曲として位置付けたのはショスタコーヴィチだけ。
マーラーは、死もそのひとつとして意味するかもしれないが告別を大きなモティーフとし、ツェムリンスキーはずばり、男女の愛を描いた。
だがしかし、ショッタコーヴィチは、「死」。
それもさまざまな局面における死を描き尽している。。。

その死の先には、なにもなく、救済の信念のかけらもない。
ご丁寧にも、作者自身が述べている。
「死は始まりでもなく、正真正銘の終わりであり、その先には何もない。何も起こらない」
・・・・・そこまで、言う?
なんて絶望的な人なんでしょう。

1969年に昨年亡くなった、バルシャイの指揮で初演されたが、わたしのクラシック聴き始めの年で、音楽雑誌のニュースでこの暗い作品の初演の記事を読んだ記憶があるし、翌々年にバルシャイのレコードが発売されたときの新世界レーベルの広告もその暗さにおいて、よく覚えている。
1969年は、アポロによる月面着陸の年で、翌年の大阪万博にその時持ち帰った月の石が展示されたのも、遠くない記憶であります。
ベトナム戦争は末期、米ソ、それに中国がソ連との駆け引きのカードとして登場してくる時分。いまの経済大国中国が信じられない頃で、日本はGNP2位を誇り、高度成長まっただ中。

一方のソビエト連邦は、ブレジネフ体制下にありアメリカとの冷戦と宇宙競争の最中ながら、官僚体制の腐敗と劣化も進行中。
革命や戦争を身をもって体験してきたショスタコーヴィチは、音楽側での体制側にいたのかもしれないが、自身の死も見据えて、あとのない絶望的な死に対して期待を抱いていたのではなかろうか。
ここまで思いつめていたショスタコーヴィチが、約2年後、パロディと諧謔と深淵が混在する不思議な15番の交響曲をその最後の交響曲とするのである。

ガルシア・ロルカ、アポリネール、ブレンターノ、リルケ、キュッヘルベケルらのいずれも死にまつわる詩。

     S:ガリーナ・ヴィジネフスカヤ   Br:マレク・レシェティン

    ムステゥフラフ・ロストロポーヴィチ指揮モスクワ室内管弦楽団
                              (73.2@モスクワ)

バルシャイ以来、この曲の音源は数々あるが、わたしが初めて買ったレコードがこのロストロポーヴィチ夫妻のもの。
本格指揮演奏としては、初期の方だが、その熱気と表現意欲の凄まじさにはすでに古くなってしまった音源を聴いても驚愕である。
響きが隅々まで切実で、あまりの容赦ない厳しさにおののいてしまう。
指揮棒一本で、こんな強烈な表現ができるということに、ロストロポーヴィチ自身がびっくりしながら演奏してるみたい。
この演奏は、わたしに非常な緊張を強いる。
ハイティンクやオーマンディ、サヴァリッシュ(N響ライブ)でCD以降は馴染んできたけれど、それら西欧風の洗練さを少し帯びた演奏にくらべ、ロストロポーヴィチは原色であり、切実さにおいて、その死の描き方がまるで実体験のように隣り合わせなところがすごい。
一度聴くと、しばらく敬遠したくなって、やはりハイティンクや、新しいところではヤンソンスあたりが純音楽的で聴きやすい。

夫人のヴィジネフスカヤも切羽詰まった歌唱で、これはもうマクベス夫人のようだった。
いかにもロシア的な歌唱ながら、その高音は、久しぶりにきいてクールでありながらとても美しいものだった。
レシェティンのほの暗いバリトンも聴きごたえあり。
この初演組の二人の歌唱は、この作品のソプラノとバリトンの中で、一番素晴らしいのではないか。

今回は、楽章のひとつひとつの印象と、その詩については書きしるす気がおきなかった。
夜遅くに、何度も何度も聴いてると、救われない思いにとらわれ、いい夢見れなくなりそう。
ショスタコの交響曲のなかでは、4番、13番と並んで、いちばん気になる存在が14番。
今度は、詩に内容と、個々の音楽について、もう少し書いてみたいと思います。

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2011年2月18日 (金)

ブリス カラー・シンフォニー(色彩交響曲) ハンドレー指揮

Hamamatsutyo2m2

浜松町駅の小便小僧。
これも毎月変わります。
2月バージョンを遅ればせながらパシャリ。
いかにも冬の出で立ち。

Hamamatsutyo2m1

1年の中で、2月は一番地味かも。
あとは、6月とか9月も。

このコスプレは、有志によって毎月行われていて26日頃に模様替えするみたい。
わたしたちに和みを与えてくれる、ありがたい活動です!

地味な2月に色鮮やかなタイトルの交響曲を。

Bliss_colour_sym_handley

愛する英国音楽のシリーズ。
本ブログメインのシリーズのひとつです。

今日は2度目となりますが、アーサー・ブリス(1891~1975)のカラー・シンフォニー色彩交響曲を。
ブリスは、指揮者としても活躍した人で、1964年のロンドン交響楽団の来日公演に随行して自作の「チェックメイト」(本CDにも入ってます)を指揮している。
このときの指揮者が、デイヴィスとケルテスだからまたスゴイですな。

ブリスの音楽は、その年代からしたら保守的かもしれないが、英国音楽の人々からしたら、モダーンでシャープな響きを身上としていて、ひとくちにいうとカッコイイ。
ストラヴィンスキーに影響を受けたともされ、この交響曲でもリズムの扱いや大胆な追い込み具合などにそうした局面は感じるが、わたしにはやはり先輩エルガーやRVWの正しき継承者としての側面も強く感じる。
漂う気品と、洒脱なユーモア、哀感と憂愁。
わたしたちが英国音楽に持つイメージは、すべてしっかりとここに刻みこまれている。

ブリスはこうしたモダンな作風で、数々の映画音楽も残していて、それもまたカッチョイイんだ。SF、歴史大作などたくさんあります。
それと、この時代、ふたつの戦争に苛まれた宿命のように、反戦と死者への癒しの音楽をいくつか残していて、それらは難解だけれど、とても深い音楽で、いまいくつか聴いてます。「モーニング・ヒーロー」や「羊の群れは野に安らう」などがそう。
いずれしっかりとご紹介したいと思います。

さて、ブリスの作品の中でも聴きやすく、耳になじみやすいのが、こちらの「色彩交響曲」。
1922年の作品で、4つのしっかりと性格付けられた楽章からなる交響曲。
「Purple」「Red」「Blue」「Green」=「紫」「赤」「青」「緑」
これらの色をイメージした楽章。
そのイメージは、以前の記事からそのまま転用します。

「紫」はアメジスト・王室の威厳・壮麗・死、
「赤」はルビー・ぶどう酒・喧騒・高炉・勇気・マジック、
「青」はサファイア・深海・空・忠誠・メランコリー、
「緑」はエメラルド、希望、若さ、喜び、春、勝利・・・・

さて、そのイメージは、ちゃんと音としてわたしたち日本人に伝わるでしょうか。
その色に思う日本人の感覚と英国人は、どうも違うみたい。

でも色は抜きにして、ブリスの痛快で鳴りのいいサウンドは本当に楽しめる。
そして英国音楽好きとしてはたまらないのが、3楽章「青」の抒情と、じわじわと盛り上がり次第に決然とした表情を帯びてくるところ。この曲、最高の場面です。
1楽章「紫」はエルガーのように哀愁をともなって開始され、遠い栄華を偲ぶかのよう。
スケルツォ楽章のふたつめ「赤」は、快活でまっすぐに突き進む様が頼もしい。
終楽章「緑」は、最初は恐る恐るの不安な開始ながら、徐々に力を増して、やがて驚くほどの明るさに包まれドカンと終わる。

○○戦隊だと赤が主役で、黄色や黒、女性役のピンクなども加わり、それぞれが個性豊かななのだが、この交響曲はそれらの色使いともまったく違うのですな。
わたしの中では、主役は「青」でした。

ハンドレーのつくり出すダイナミックでかつ、あふれる熱さをともなった抒情はいつもすばらしく、自国の音楽をこんなにも自信にあふれて演奏できることに、羨望すら感じてしまう。
早くに亡くなったことが残念。
ハンドレー、トムソン、ヒコックスと英国指揮者はみんな早世です。
アルスター管も味わいが濃くてよいです。

以前の記事
「チャールズ・グローヴズの色彩交響曲」

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2011年2月16日 (水)

ヴォーン・ウィリアムス 交響曲第4番 ハイティンク指揮

Q

このグラスを知っている方は、きっと私と同世代。
会社に入ったころ(80年代はじめ)、にサントリーから発売された、ウィスキー「Q」についてきたQグラスなのです。
ライト&スムージーという、極めてアメリカンなお題目の口当たりのよいウィスキーでして、軽く一本いっちゃったもんです。
バブル前の、軽~い社会風潮にあった世の中でしたねぇ。
わたしのような、のほほん世代がたくさん生まれたのですねぇ。
ほほほ。

でも、今日はうってかわってシビアな曲いきますぜ。
世の不合理と厳しさを訴えるかのような音楽です。
そして、ワタクシも、チューハイなんぞというしちめんどくさい酒は飲まずに、ビール、日本酒、ウィスキーならアイラモルトのロック。
厳しくなったもんだ。
でも、体にも警鐘が鳴りつつありますなぁ・・・・・。

Rvw_sym3_4_haitink


久しぶりの再開は、ラルフ・ヴォーン・ウィリアムス(1872~1958)~RVWの交響曲シリーズ。
これまで、いろいろと取り上げてきたし、番号順に聴いてゆくことも、いくどかやってみたけれど、9曲あるRVWの交響曲は、曲によって多様な顔を示していて、その特徴を的確にとらえるのはなかなかに難しく、いきなり聴かされて、これは何番の何楽章とまでいいきれることが自分ではこれまでのところない。
1,2,3,5,7は得意なのだけれど、4,6,8,9がいまひとつ自信がない。
2を除く偶数番号だし、いずれも純粋なるオーケストラだけの交響曲で、30分前後の長さにおいても共通。

合唱入りの壮大な海の交響曲たる1番。
ロンドンを主人公にした描写的な2番。
田園交響曲たるノスタルジックな3番。
3番にも近い、茫洋たる英国自然を描いた5番。
映画音楽にも近い、南極交響曲の7番。

そしてほかの、厳めしい顔をしたRVWの4つの番号交響曲。
これらのギャップは聴き手には大きい。
さきの5つの交響曲に比して、まだまだ馴染みを持てていないことをここに告白しておきます。
「9」という宿命的な番号を書いて終わったRVWだけれど、長生きして晩年まで書き続けたので、これ以上はなかったかもしれないし、9番の内容や奇数番号への思いこみのなさなども含めて、もはやベートーヴェンを意識する影はまったくない。(そりゃそうですね)

第4交響曲は、1934年の作品。
RVWの創作活動は、その人生でまんべんなく行われたが、もっとも充実していた時期。
重要なオペラ作品もいくつか書かれている。
あの美しく抒情的な第3交響曲が1921年。
13年の隔たりは、この交響曲に横溢する不協和音によってあらわされる。
前作は第一次大戦が終了して復興の時期。
そして、この4番は、ヒトラーが総統に就任し、いよいよきな臭くなってきた、まさに不安の時代。
それを完全に意識しての、大胆な和声と不安をあおる不協和音でもなくって、作者は「そのときのヨーロッパの外況を描こうとしたものではなく、その時、わたしに宿ったものをそういうように書いたにすぎない」と意味慎に発言している。

でも後世のわたしたちが、こうしてCD音源を前に何度も聴き、ネットで時代背景などを調べるにつけ、あの時代の重苦しい雰囲気は確実に曲に、そして作者になにかをもたらしていたと思う。

いきなりシビアな音響で始まる第1楽章。
劇的なそうした場面と、後半の静かな定年に満ちた暗い雰囲気の対比がおもしろい。
第2楽章は、抒情的だけれど、かなりシャープな感じで厳しい。
スケルツォの3楽章もかなり劇的。RVWらしい、ペンタトニックなムードも充分に出しつつ、曲は連続してさらに厳しい4楽章に突入して、何度も何度も同じ主要主題が繰り返しフーガのように展開され、興奮を呼び覚ます。そして曲は最後、唐突に爆弾が落ちたかのように終わってしまう。

EMIに入れたハイティンクの全集は、多くあるRVW交響曲のなかでも、その多様性の鮮やかな描き方とシンフォニックな捉え方で、極めて立派な威容を誇っていて、マーラーと同じく、なんでもありの手法のRVWを、あくまで交響曲として譜面ありきの演奏に徹しているかのようだ。
このややこしい、4番や6番、8番や9番も、ハイティンクのもとで純粋な交響曲としてすっきりと自立している。
そう、あとロンドン・フィルのくすんだ音色と重厚な響きが指揮者と、そして曲に最高にマッチングしているのです。

Q2_2 

乾杯wine

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2011年2月15日 (火)

ベリリオーズ 幻想交響曲 クリュイタンス指揮

China_town1

雪降る中華街。
休日の金曜に行ってきました。
ご近所の方にご案内いただき、今回も毎度珍しいお店へご案内いただき、遅くまで楽しんじゃいました。
その時の飲食状況は、いずれ別館にてご案内。

China_town2

こんな遅くまで中華街にいたのは久しぶり。
お店の灯がみんな消えちゃった。
あの灯りが消えると、どこにでもある街と変わらないのですな。

Berlioz_sym_fantastique_cluytens

今週は、しばらく絶えていたシリーズを。
まずは、月一幻想。
ベルリオーズ(1803~1869)の幻想交響曲です。
シューベルトと6歳しか違わず、メンデルゾーンの6歳先輩。
これを思うと、ベルリオーズの革新性と独創性がよくわかる。
ついでにいうと、リストは8つ、ワーグナーは10歳下。
そしてこの幻想は、1830年、27歳の作品だから畏れ入る。
第9初演からまだ6年。
これを聴いた当時のパリっ子たちはびっくりしたでしょうな。
当時のパリはオペラ上演が世界的にも高水準にあり、ロッシーニやマイヤベーアたちも活躍していた。
そしてそこにはショパンもいたはず。
で、この1830年というのは7月革命が起きていて、有名なドラクロワの自由の女神の絵画のものであります。
ともかく、なにかと劇的な1830年だったのですな。

今日の演奏は、アンドレ・クリュイタンスがロンドンでフィルハーモニア管弦楽団と録音した名盤で。
なにゆえにパリ音楽院とでなく、フィルハーモニアということになったか不明なれど、このオケは実にうまいし、クセのない響きがスマートで心地よくクリーンな雰囲気である。
いまから50年以上前の録音ながら、その音楽に古臭さ一切感じることはなく、あの固定観念の歌い方などエレガントでかつ気品にあふれていて、まさに大人の幻想なのだ。
当然にワルツも優美だし、野の風景も優しい自然に溢れていてゆったりした気分になれる。
柔のイメージ一辺倒でなく、各フレーズをメリハリゆたかに、そして味わいもゆたかに歌わせているので、意外なほどにドラマテックな音楽にもなってます。

来日公演のライブは燃え燃えで、すごいことになってますが、このフィルハーモニアとのスタジオ録音は、安心して身をまかすことのできる大人の音楽にございます。
さぁ、寝る前に「野の風景」をもう一回聴いときましょ。

Berlioz_fantastique_cluyt

わたしのCDは、セラフィムの廉価盤でいまいち。
でもオリジナルは懐かしくも雰囲気ゆたかです。

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2011年2月14日 (月)

「あの頃のまま」 ブレッド&バター

Oiso_6

このところ毎度出してます湘南海岸。
こんな光景を子供の頃からずっと見てきました。

Oiso_4

相模川河口あたりは、サーフィンのメッカ。
このあたりに座って、よく眺めたものでした。
音楽は、クラシックならば、ドビュッシーの海とか、ディーリアス、そしてなぜかシベリウスなんか聴いて。
でも、よく聴いたのは、そして、お家に帰って大音量で聴いたのが、ブレッド&バターや南佳一や杏里。なんだかベタですがね、そんな世代なんですよ。

今日テレビで、青春の歌なんてのをやってたもんだから、そしてそこにブレッド&バターの二人が出てたもんだから、懐かしくって久しぶりに聴いてみました。

Breadbutter

テレビに出てきたこの兄弟二人のペアグループ。
私の思い出と異なり、思い切り歳を経てしまっていた・・・・。
彼らの歌は、若い頃の思い出や、学生時代からの卒業を歌い込んだものが多くて、センチメンタルで切なく、シャイな思いを託したものが多い。
正直なまでにその感情を歌ってしまう。
彼らの歌とサウンドに、どれだけ共感し、心が動かされたかわからない。

でも、そんな思いは、大人になるといつしか忘れて置いてきてしまい、日々の忙しさにまぎれてしまうんだ。
現実は厳しいもので、ブレッド&バターの歌の世界は遠い過去として懐かしんでいる場合じゃない・・・・。

しかし、ブレバタはブレバタ。
彼らの歌を久しぶりに聴いて、彼らは、自分と同じく年老いたとはいえ、確実に自分たちの思い出をすっかり歌いだしてくれたし、いまも心のどこかにあるわだかまりと、悔恨をすっかり浮かびあがらせてくれる。
もう、涙がでてきてしまう・・・。
誰しも、大人になりたくない。
でも打算だけでは大人になりたくない。
いつまでも、心に自分の生きたかった想いを抱いておきたい。。。。。

 
 去りゆく若い時間をひとり止めているようで
 うらやましいやつだよとはじめて笑ってくれた

 ・・・・・・・

 ネクタイ少しゆるめ、寂しげなきみが 馴染みの店に腰据える夜は
 陽焼けした両足を投げだしてぼくも
 Simon & Garfunkel ああ 久しぶりにきく

 人生のひとふしまだ 卒業したくないぼくと
 たあいない夢なんてとっくにきりすてたきみ

 For yourself For yourself そらさないでおくれ その瞳を
 人は自分を 生きてゆくのだから・・・・・

                (呉田軽穂 作詞作曲)


岩沢兄弟の作ではなけれど、だれしも経験したかもしれない一時代への訣別と後悔。
それを海をという、なんでも飲みこんでくれる悠久の存在がそこにあることでその思いを癒してくれる。

実家に向かう車中、何度も何度も聴いたブレバタ。
子供たちが生れて、なかなか聴くことはなかったけれど、彼らが自立も近いいま、ひとり車を運転することが多くなった。
そしていま、また懐かしの歌を車でひとり聴くことが増えた。
歳はめぐり、その感情もまためぐってくる想い。

ブレバタやそのあたりのわたしの懐かしの歌。
文章にするのがどことなく恥ずかしかったけれど、今日こうして書いてしまった。
これからこの周辺をまた聴いて、その思いを残していこうと思います。
クラシックではないので、その共感はここでは得られないかもしれないけれど、なんだかとともすっきりしているクラヲタ人なのでした。

そとは雪ですsnow

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2011年2月13日 (日)

ドリーブ 「ラクメ」 プラッソン指揮

L_india3

これは、カレーです。
この店は何でも生クリームと小葱をかけてしまうけれど、ビジュアル的には悪くない。
3つ揃うと不可思議な光景で、いかにもエスニックな感じですな。
手前から「エビ」、右が「チキン」、奥が「野菜ボール」。

L_india6

ナンでかいです。
田町と芝の2か所にある「RHYMES INDIA」というお店です。

Delibes_rakme_dessay_2

今日は、フランスオペラだけど、インドが舞台のエキゾティックなオペラ、ドリーブ「ラクメを聴きましょう。
レオ・ドリーブ(1836~1891)は、フランスの作曲家で、劇音楽に多くの作品を残した人。
「シルヴィア」や「コッペリア」は有名ですな。若い頃は敬遠していたけれど、聴いてみたら、ニュースで使われていたりしてて、とても親しみ深い音楽だった。
そして、オペラでは何といっても「ラクメ」が代表作。
美しい旋律が散りばめられた、儚くも悲しいオペラ。
ほかにもかなりのオペラが書かれているが、まったく目にすることはなく、CDショップの棚では、ディーリアス(Delius)とお互い一緒くたになってしまう、ちょっと気の毒なドリーブ。

西洋から見たエキゾチシズムの典型ともいえる内容で、思えば「蝶々夫人」とともに西洋優位の頭にくる内容ではありますが、そこは音楽を無心に聴くことでよしとしましょう。
もう30年以上も前、雑誌で、サザーランドの濃い目のジャケットの「ラクメ」というレコードを見て、怪しげなオペラに思い続けてきて、長じて、まさかこんな風に親しく聴くことになるオペラだとは思わなかった。

  ラクメ:ナタリー・デセイ       ジェラルド:グレゴリー・クンデ
  ニラカンタ:ホセ・ファン・ダム   マリカ  :デルフィーヌ・エイデン
  フレデリック:フランク・ルゲリネル エレン :パトリシア・プティボン
  ローズ :クセニア・コンセク    ベントソン夫人:ベルナデッテ・アントニ
  ハジ :シャルル・ビュルル    ほか

  ミシェル・プラッソン指揮 トゥールーズ・キャピタル管弦楽団/合唱団
                           (97.7@トゥールーズ)

ナタリー・デセイ様のタイトルロールに目がいってしまうのは当然として、ここでは、わがパトリシア・プティボンが、ちょい役で出てます。
英総督の娘で、ラクメと恋に落ちるジェラルドの許嫁役で、ちょいと我儘なお嬢です。
耳にすっかり馴染んだ彼女の声は、少しの場面でもすぐにこちらは反応してしまいます。
残念ながら姉筋のナタリー様との2ショットがないこと。

このオペラのあらすじは、いろんなところに書かれてますので、しかも荒唐無稽の薄い内容なので、ここでは超端折って。。。

ところはイギリス占領統治下のインド。

第1幕 バラモン教寺院の庭園
 バラモン教高僧ニカランタはイギリスの横暴に怒り心頭。神聖なる祈りを巫女たる娘ラクメに託す。ラクメはマリカとともに、美しい花を愛でて愛らしい二重唱を歌う。
外では、士官のジェラルド、フレデリック、エレンとローズ、そして家庭教師のベントソンの5人がいて、インドと英国をあーだこーだ言ってるが、ここはヤバイから行きましょうということに。でも、エレンが美しい宝石を見つけてしまい、ジェラルドはそれをスケッチして、アクセサリーを作り、エレンに送るために、そこに一人残る。
 ラクメが戻ってきて、人の気配を感じ、そこでジェラルドと出合ってしまい、ふたりは易々と恋に落ちる。
父の帰還に、ジェラルドを逃がすが、親父は垣根を破って侵入した異教の輩を絶対逃すまい、殺してやると息巻く。

第2幕  街の市、広場
 賑やかな街の市場。英国の5人組が出てきて楽しんでる。そこでは巫女や現地人、ペルシア人たちの踊りが繰り広げられる。
そこへ、ニカランタと歌手に扮したラクメが登場。親父はラクメに歌を歌わせ、先の侵入者を炙りだす腹積もり。
超有名な「鐘の歌」を歌うラクメ。
見事引っかかったジェラルド。もっと歌えとニカランタ。だんだんとトーンが落ちるラクメ。
軍隊の行進がやってきてまぎれて逃げるジェラルドに追うニカランタ。
でもまた戻ってきて、呑気に、いや美しい愛の二重唱を歌うジェラルドとラクメ。
ラクメは、自分の秘密の場所が森にあるのでそこで暮らしてという。
そこへ、今度はバラモン僧の行進がやってきて、雑踏と化し、ジェラルドはナイフの一撃を受けてしまう・・・。

第3幕  森の中のラクメの隠れ家
 ジェラルドは致命的な怪我が癒えて目をさますとそこはラクメの隠れ家。
献身的な看護で、命を取りとめたことを聞かされ、感謝するジェラルド。
聖水を飲んで(教徒になること)ここでずっと暮らそうというラクメに、最初は躊躇するもののそうと決意するジェラルドを残し、ラクメは聖水を汲みにゆく。
そこへ、友人のフレデリックが現れてインドとの戦争も始まるし、自分の立場を思いだせと言われる。
ラクメは、聖水を汲んで戻ってくるが、どこかよそよそしいジェラルドの様子にラクメはすべてを察し、自分は毒草のダチュラを服用して聖水を飲み、のこりの聖水を彼にも飲ませる。
死は二人を引き裂くことはないの、私の生をあなたに差し上げます、あなたの腕の中で・・・・と遠ざかりゆく意識の中で歌う。
父ニカランタが飛んできて、にっくきジェラルドをみとめるが、ラクメは、今や彼は聖水を飲みました、私は犠牲となって死ぬのですと・・・・。
こうなると親父も手の出しようがなく、彼女は永遠の命を手にいれたと、高揚してラクメを讃えて歌う。
ジェラルドはただ、アー、というのみ。

               ~幕~

なんともいえない内容です。
モーツァルトやハイドンの時代はトルコに、のちのち19世紀後半からは中近東やインド、世紀末前後ではシナや日本の東南アジアといった具合に、ヨーロッパの先進の方々は東洋への興味や憧れをドラマや音楽に託してきた。
・・・けれども、どうもその趣味性が表面的で、西洋人の視点でしか見ていない一面的なものに終始していまいがち。
そして、それらは女主人公とその仲間は高潔で近寄りがたく、そのくせ女主人公は容易く恋になびいてしまうところが悲しい。
男の目線で書かれた原作に音楽ゆえか。
そのあたり、プッチーニは甘味な旋律の中に、シャープな鋭い目線を織り込ませていて、複雑多岐な優れたオーケストレーションの妙を持って、そこに深い感情表現をにじませ、長く聴くにたる劇作としてのオペラを残した。
対するドリーブは、旋律の宝庫であり、各種伝統に根ざしたお決まりの手法がしっかりとはまっているのを感じる。
しかし、素材選びでは、エジプトを舞台としながらもアイーダでは祖国愛を歌いあげたヴェルディのように求心力が不足していて、インド×イギリスという、この作品の内蔵する対立軸が気まぐれすぎるジェラルドの存在によって軽く感じてしまう。
そして、インドの側であるニカランタが常に怒りまくっているのはいいとして、肝心のラクメがそんな男をひと目見ただけで、すぐさま自分の生い立ちを忘れて禁断の恋に陥ってしまうのも、どうにも性急すぎる。

こうして書けば書くほどたくさん矛盾や浅さがあるこの「ラクメ」だけれど、そこここに置かれたアリアや重唱の美しさゆえに、独特の存在を誇ることができるものと思う。
花の二重唱の夢見心地の美しさは、全体の劇性にどれだけ奉仕してるかは疑問だけれども、それだけで素晴らしい名旋律。
1幕のジェラルドのアリア、ラクメのヴァイオリン独奏を伴った素敵なレシタティーボ。
2幕の父ニカランタの独唱、そしてラクメの「鐘の歌」、ハジの献身的なアリアなんてのもあります。そのあとの、主役二人の愛の二重唱。
3幕は、ふたつの愛にまつわる二重唱。そのふたつで揺れる男の心情は違ってきている。
悲しいラクメです。
自決に及んだラクメのセンチメンタルな終幕は、悲しすぎるほどに普通すぎて、あのドラマテックな日本の蝶々さんに遠く及ばない・・・・。

エキゾチックなムードがたくさん溢れていることと、お得意のバレエ音楽も巧みに挿入されていることなどが、ドリーブらしい特徴とはいえる。
けれど、なんだかんだいって文句つけちゃうのは、そこにドラマとそれに付随した抜き差しならない音楽が欠けているような気がしたから。

Dessay
その空虚さを救っているのが、デセイ様と、ファン・ダム、そして指揮のプラッソンです。
ナタリーの高域の美しさは、まったく空虚人工的な要素がなくって、人間的な温かさをもっていて、そこに鋭いくらいの感情表現が入るから、まったく無敵。
お人形さんみたいなラクメが、意思をもって息づいている。
有名な「鐘の歌」は、そのシテュエーションが、親父に強要されて歌う歌とは思わなかった。
デセイは、そうした不安感と、一方で恋する人に会える喜び、その感情に揺れる女性の歌をしっかりと、このオペラの中のひとつのアリアとして息づかせることができている。
 ベテランのファン・ダムの味のある親父ぶりは、厳密な高僧というよりは、ひとりの父親とみたいで共感できるし、最後のあっけない終りも、ファン・ダムによって救われているのかもしれない。
 そして、そう、プラッソンなくしては、こうしたフランスオペラの甦演はありえないのでした。
自然にかもし出すおフランスの香りと、いきいきとした表情づけ。
本場トゥールズのオケともども一体となった定番ともいえる耳洗われるフランスの正統サウンド。いいんです。

わたくし肝心のプティボンは、ほんとちょっとだけ。
恋敵役なのに、ドラマに何の影響も与えないなんのことない役。
ちょっと不満ですが、原作ゆえしょうがないですな。
彼女も、アリア集で、ラクメを歌ってます。
その彼女は、あくまでアリアとしての局面でしかラクメを捉えていないかもしれない。
歌手たちも、全曲で役作りをするのと、アリア集で歌うのとは違うもの。
その違いを聴くのもまた、ファンたる楽しみでありますね。

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2011年2月12日 (土)

R・シュトラウス 「影のない女」 ハイティンク指揮

Tokyotower2

枯れ枝が寒々しい東京タワーの足元から。
首都圏は積雪への警戒がかなり出されたが、全然なし。
昨日から水っぽいみぞれまじり。
でも、寒かったですな。

Tokyotower3

さて、このところ公私ともに忙しくって、なかなかPCの前に座れない。
そこで、今日はちょっと手抜き。
というか、すごい発見をして、少しずつ聴いてきた音源をご紹介。

ハイティンクの指揮する、R・シュトラウス「影のない女」なのです。
ハイティンクのオペラ録音は、相当数にのぼるけれども、R・シュトラウスの正規録音は、「ばらの騎士」と「ダフネ」、「アラベラ」(映像)の3つだけ。
しかし、コヴェントガーデン時代の「影のない女」のライブ音源があったのです。
1992年の上演。
気になるそのサイトは、こちら「Opera Today」 です。
3幕まるまる全曲ストリーミング配信されてるんです。
これを発見し、わたくしは喜々としてダウンロードして自家製CDRを作成しましたよ。
放送音源のようで、音質はばっちりの優秀録音。
ド迫力のシュトラウスサウンドが楽しめるんです。
「影のない女」好きのそこのあなた、必聴ですよ。

Tomowasintow_frosch_2

  皇帝 :ポール・フライ          皇后 :アンナ・トモワ=シントウ
    バラク:フランツ・グルントヘーバー  バラクの妻:グィネス・ジョーンズ
  乳母 :ジェーン・ヘンシェル      霊界の使者:ロバート・ヘイワード
  宮殿の門衛:ジュディス・ハワース 若い男 :ペーター・ブロンダー
  鷹の声:ジャックリーン・フューゲル 天上からの声:ジリアン・ナイト
  バラクの兄弟:ダニエル・ワシントン、ロドリック・イェール
           アンソニー・ローデン


   ベルナルト・ハイティンク指揮
           ロイヤル・コヴェントガーデン管弦楽団/合唱団
                    (92.11.16@コヴェントガーデン)


80~90年代を代表する素晴らしいキャスト。
バイロイトのローエングリンだったP・フライ。軽めの声ながらクセのない美声と、以外なほどの力強さとシュトラウス向きの透明感があるテノール。
トモワ=シントウの皇后はそれだけでも貴重。
情に満ちた歌唱は、非人間から同情することのできる血の通った女性に変わってゆく皇后を見事に歌いこんでいると思う。
グルントヘーバーの特徴的なバラクは熱い男だった。
そして、なんたって、G・ジョーンズのバラクの妻。
私にとって懐かしいハンブルクオペラの来日公演で聴いたジョーンズの素晴らしいバラクの妻。圧倒的な声は、92年のこの時でも健在で、好き嫌いはおありでしょうが、私は彼女の生の声を何度も経験してしまっているし、長く聴いてきているので、あの声には快感にも似た感銘を覚えるのです。
とりわけ素敵なのが、中音域から下の方。デイムに相応しい気品があります。
乳母は、昨年の新国でもすごかったヘンシェル

そして、ハイティンク向きのオペラだけに、シュトラウスの錯綜する大オーケストラサウンドを的確に聴かせてくれる手腕ななみのものではない。
温厚なハイティンクが、ずばり燃えてます。
後半に行くにしたがって舞台が緊迫し、オーケストラピットから立ち上るサウンドが輝きを増してゆくのがわかりますよ。
3幕なんて、ジョーンズとシントウ二人の熱唱も相まって、涙を堪えることが不可能なくらいの超素晴らしい名演なのだ。
今も繰り返し、皇后がたどり着いた清涼な地の透明感あふれるヴァイオリン独奏を伴った場面と、そのあとの感動的な否認の場を聴いてます。あぁ、涙も枯れそう・・・・。

Die
演出は不詳なれど、舞台装置はポップなディヴィット・ホックニー。
きっとこの音源は、コヴェントガーデンライブとして正規発売されるのではないでしょうか。
もったいないくらいの名演をタダで聴いてしまいました。

「Opera Today」をさらに探究してみると、驚きの音源がたくさん。
サヴァリッシュの69年ローマの「リング」などは氷山の一角。
びっくらこいたのが、コバケンがローマで振った「ルイザ・ミラー」なんてのもありましたよ。
みなさん、お宝を探してみてください。
そしてなくなってしまわないうちに聴いときましょう。

過去記事

 サヴァリッシュ&バイエルン放送響」

 ショルティのDVD&ドホナーニ/ハンブルク歌劇場来日公演


 「影のない女」幻想曲 スウィトナー

 「カラヤン&ウィーン国立歌劇場」

 「新国立歌劇場公演①」

 「新国立歌劇場公演②」

 「影のない女 所有音源つまみ聴き」

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2011年2月10日 (木)

「ARMIDA」 アンネッテ・ダッシュ

Kihachi

キハチロールのひとつ、トライフルロールでございます。
美味しいという言葉以外のものを思い浮かべることができないスゥイーツcake
こんなのを奮発して買って帰った日には、獲物に群がるハイエナがごとく、数分で家人の胃袋に収まってしまいます。

Kihachi3

なんて、美しいのでしょう。
宝石のように散りばめられた色合いのいい果実。
とけてしまいそうなスポンジロール生地に、味わい深いクリームが果実の甘さを引き立てるのです。
酒も、甘いのも食べ尽くすワタクシ。
こんなの1本食べちゃうかも。
ウィスキーのあてにも最高ですよ、ふふっlovely

Annette_dasch_armida

今週は、なにげに、私の好きな女声歌手を聴いているんざますよ。

今夜半から関東も雪の報が出されているけれど、関東で雪の降る前はどこか暖かったりして、今日もそう。きっと降って、積もったりするんでしょうな。
神奈川の海側に育った自分だけど、それでも子供時代は、始終雪が積もったもの。
雪でご苦労されていらっしゃる地方のみなさまには申し訳ございませんが、雪を何だか期待しちゃうのですよ。
そんな思いを抱きつつ聴くバロックならびに古典のオペラのアリア。
歌うのは、ベルリンっ子のアンネッテ・ダッシュ
モーツァルトのアリア集と昨年のバイロイト・デビューのローエングリンをすでに記事にしました。
モーツァルトでは、ストレートボイスが気持ちよく、曲者ノイエンフェルス・ローエングリンでは、ネズミ軍団に、矢射られてしまうエルザを自立する女のように歌いこんでいました。

アンネッテの声は、なかなかに力強いもので、モーツァルトではほぼすべての主役級、ウェーバー、ワーグナー、シュトラウス系の主役級をほぼ網羅するものと思われる。
そしてリリコ・スピント系プラスのコロラトゥーラの力量も併せ持った多彩なもの。
今回のCDは、モーツァルトより前の本格デビューのものだが、グルックやヘンデル、ハイドンといったバロック・古典をキリリと歌っていて、そのあとのモーツァルト、そしてワーグナーのエルザと、こうして幅広いジャンルへの適性を確認できることとなった。

イタリアの詩人タッソー(あのリストの交響詩の人)「解放されたエルサレム」に出てくる「アルミーダとリナルド」の物語を題材にしたオペラのアリアを集めた1枚。
とても知的なプロダクションなのです。
魔性の女ともいわれるアルミーダは、数々の男をその虜にしてしまう。
エルサレムのキリスト教陣営に飛び込んだ彼女は、その戦士たちを夢中にさせてしまい、戦意衰えメロメロになってしまう。
これはイカンと英雄リナルド。リナルドはそんな女には目もくれず、アルミーダは意地でもリナルドを落とさんとし、ついにには恋に落ちてしまう・・・・。

この劇作は、数々のオペラやオラトリオを生みだした源泉。
リュリ、ヘンデル、ヴィヴァルディ、グルック、ハイドン、ロッシーニ、ヨメッリなど。
リナルドでは、これまたヘンデル、ブラームス。
タンクレディも関係していて、モンテヴェルディやロッシーニ。
ほんと、たくさんです。

アンネッテ・ダッシュは、このアルミーダにまつわる作品の中から、グルック、ヘンデル、ヨメッリ、ハイドンらの作品を集めて歌っている。
実は、2年前のパトリシア・プティボンのアルバムでも、「アルミーダ」はグルックとハイドンの作品を対比して歌っていた。
2007年のほぼ同じ時期の試み。
昨今のクレヴァーな歌手たちは、たんに有名アリアの垂れ流し選曲はあまり行わず、こうした一貫性ある知的なプログラミングを行うものです。

 グルック 「アルミーダ」
 ヘンデル 「リナルド」
 ヨメッリ  「捨てられしアルミーダ」
 ヘンデル 「捨てられしアルミーダ」(カンタータ)
 ハイドン  「アルミーダ」

    S:アンネッテ・ダッシュ

  デイヴィッド・サイラス指揮  バイエルン・カンマーフィルハーモニー
                          (2007.4.20@ミュンヘン)


先のプティボンのアルバムで耳になじんだ曲もあり、とても聴きやすい1枚。
そもそもアルミーダが魔女にたとえられることなんか、こんな素敵なアリア集を聴くかぎり、想像もつかない。
普通に可愛い女性だし、ときに感情の高ぶりを示すことはあるにしても、いにしえのバロック・古典の時代における感情表現は表面的にはおとなしめ。
このあたりをいかに、いまあるわたしたちの世の中、すなわちリアルな感情表現、何でもありの時代の耳に、どう響かすか。
プティボンさまには、そのコケットリーなまでの小悪魔表現にて、わかりやすく自在に歌ってみせてすっかりアルミーダに魅惑されてしまったわけ。

で、アンネッテさまは、もう少し大人というか、お隣のお姉さんみたいな落ち着きある表現にて、逆に親しみあるアルミーダを歌いこんでくれた。
グルックのものは、フランス語で書かれているから、しっかり歌うように聴こえてよけいにそう感じる。(あっちの、パトリーの方は、自国の言語だから自由自在)

期せずして、私のアイドル、独仏の違いが楽しめてしまった。
ダッシュには、今後、ドイツオペラ系の先達が歩んだ道が期待される。
モーツァルトは当然に、ワーグナーにおいてはエリーザベト、エヴァ、ジークリンデ。
シュトラウスにおいては、マルシャリン、アラベラ、アリアドネ、ダフネ、伯爵令嬢・・・。
とっても楽しみなアンネッテ・ダッシュなんです。

ここで指揮をしてるのは、新国でポネル版「チェネレントラ」(素晴らしかったカサロヴァとシラクーザ)を指揮したサイラスでした。

Lohengrinneuenfels1

ローエングリンでカウフマンと。

Dasch

ドイツでも、テレビでひっぱりだこみたい。
新国にも来ていたのは不覚のことだったけれど、今度はいつ来てくれる?

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2011年2月 8日 (火)

オルフ 「カルミナ・ブラーナ」 ハーディング指揮

Keyakizaka4

夕刻の六本木ヒルズ。
最近、通いだした客先の帰り道。
散歩しながら、麻布十番を抜け、三田、田町と、いい運動なのです。

Orff_carmina_burana_harding

なんだか、ジェームス・ディーンみたいなジャケット。
すっかりお馴染みとなったダニエル・ハーディング
御歳35歳。若い、若い。
ベルリン・フィルを初指揮したのが21歳。
ラトルとアバドに認められ、その影響も大きく受けているハーディングを、聴いたのは1度だけ。
2006年にマーラー・チェンバーと来日した時のもの。その記事はこちら
その時は、アバドがルツェルンとやってきて、生涯忘れ得ぬマーラーを聴かせてくれたときで、ルツェルンに参加していたメンバーがそのまま日本に残り、ハーディングを迎えての演奏会だったのだ。
だから、あのルツェルンの神が舞い降りたかのような、アバドの執念が乗り移ったかのような興奮をオケの主力が引きずりながらであったはず。
モーツァルトの後期3曲を、痛いほどの緊張感と、その真反対のリラックスムード、そして爽快さ、疾走感・・・、ありとあらゆる感情がびっしりと詰まった表現力豊かな演奏だった。
演奏後は、さすがのハーディングもへとへとだった。

まだ30歳だったこのスゴイ男は、ますます活動の場を広げている。

そして、昨年2010年にバイエルン放送響に客演し、オルフの「カルミナ・ブラーナ」を指揮したライブが、もう年内にはスピード発売された。
わたしは、即買いでしたよ。
なんたって、パトリシア・プティボンが歌ってるんですからね。

       S:パトリシア・プティボン
       T:ハンス-ウェルナー・ブンツ
       Br:クリスティアン・ゲルハーヘル

     ダニエル・ハーディング指揮 バイエルン放送交響楽団
                       バイエルン放送合唱団
                       テルツ少年合唱団
                     (2010.4@ミュンヘン・ガスタイク)


でも、封を切ったのは今宵。
なんだか、カルミナを聴く気がずっとしなくて・・・・。
去年6月に聴いた現田&神奈川フィルのビューテフル&ゴージャス演奏が忘れられなかったのもひとつの要因だし、この原始的かつ単純、オスティナート効果丸出しの音楽を1時間聴くことは、そう何度もしたくないことなのだ。
プティボンのところだけ聴こうかとも思ったけれど・・・・。

ようやく聴いた全曲。
私のもっとも気にいった場所、そしてもっとも心動かされたのは、やはり、プティボンの歌う第3部の「In trutina」と、そのあとひとつおいて(ここでもヤマモリ云々と歌うプティボン、バリトン・合唱のユニゾンだけど、ユニークな彼女は目立ちます)の「Dilcissime~愛しいお方」のコロラトゥオーラの名技と無垢なるお声。
短い出番だけど、どこを取っても、聴いてもパトリシアさま。
彼女の声、だんだん強くなってきたと思う。
しかし、かつての羽毛のようなしなやかさが若干後退したかもしれない。
それを彼女の進化と捉えたい・・・・・・。
そろそろ、新盤も期待したいし、今の彼女を、もっと別な形で聴いたみたい。

プティボンばっか、書いちゃったけれど、ゲルハーヘルは、こうした歌はまったく上手いし、青年風でよろしい。でも真面目すぎかも。
ブンツというテノールの酔っ払い具合は、正しい居酒屋の様子(?)

それで、ハーディングなのであるが、どこか遊びというか、泥臭さがないのよね。
キレイごとすぎるんだ。
ライブなのに完璧な仕上がりで、どこにも難点がない。
でも難点がないところが、ちょっと不満。
もっと切羽つまっていたっていいし、はちきれる若さの爆発があってもいい。
バイエルンのオケの高い機能と、精緻さも、ここでは良すぎるように感じる。
なんだか、誉めてるんだか、けなしてるんだかわかんないけど、要は立派すぎる演奏なんだ。
だから、音は素晴らしく、現代的なパーフェクトな演奏という意味では文句なし。

でも、好漢ハーディング君、もっと踏み外してもよかったかも。
そんな風に、悩んだ風にジャケットに収まってないで、もっと暴れてみてよ。
今日は、多忙のせいか気が乗りきれずに聴いたせいもあるかもしれず、再度、気分のいい時に晴れやかに聴いてみたいですな。
また印象が変わるかもしれませぬ。

新日フィルとの共演も多く、定期的に聴けるようになったハーディングだから、この耳で確かめてみなくちゃいけませんね。

Keyakizaka3

ちょっと位置を変えて、けやき坂の望む。

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2011年2月 6日 (日)

メユール 「ストラトニス」 クリスティ指揮

Akasaka_sakasu1

クリスマスが終わると、げんきんな日本はツリーはともかく、イルミネーションも引っ込めてしまうから正月ムードが終わると街はまったく寂しい。
でもこちらは嬉しい輝きが。
赤坂サカスです。
この先はTBS。
六本木もそうだけど、放送局のおひざ元はキラキラしてます。

Akasaka_sakasu2

日曜はオペラを聴きます。
短めだけど、私のアイドル、パトリシア・プティボンがちょろっと出演してます。
タイトルロールなんだけど、出番は少なめ。

Mehul_straronice

エティエンヌ・ニコラ・メユール(1763~1817)は、モーツァルトと同時代のフランスの作曲家。
解説書を参考に、少しご紹介。

古典派のくくりになるのだろうけれど、グルックの指導を受け、オペラやバレエ作品を得意として24作ものオペラを残している。
器楽・管弦楽作品もそこそこあって、最近ではその交響曲が、ミンコフスキが録音して話題となったりしていて、ハイドンやモーツァルトとも異なる斬新な響きの作品となっているようだ。
1792年、パリのコミューク座で初演された「ストラトニス」は、いま聴けるメユールの唯一のオペラかもしれない。
仲のよかった作曲家ケルビーニも、この作品を大いに評価し、先に亡くなったメユールの才能に対しても絶賛の評を数々残しているようだ。
フランス革命さなかのメユールのコメディ・イタリェンヌ(オペラ・コミーク)は、のちのベルリオーズや、ウェーバー、ワーグナーなどにも影響を与えているという。
1幕もので約1時間。

  ストラトニス:パトリシア・プティボン  アンティオコス:ヤン・ブロン
  セレウコス:エティエンヌ・レスクゥワ  エラシストラトス:カール・デイモント

    ウィリアム・クリスティ指揮 カペラ・コロニエンシス
                     コロナ・コロニエンシス
                         (95.4@ケルン)


紀元前300年頃のセレウコス統治下のシリア。
ここで言う、セレウコス王は、セレウコス1世ニカトル。
その息子である王子アンテオコスは、アンティオコス2世テオス。
王の妻がストラトニスで、王子からしたら継母。
エラシストラシスは、後世に名を残した名医。
こんな4人が登場人物。

病に伏せるアンティオコスの寝室。
友人たちが、お見舞いにやってきて、アンティオコスを元気づけている。
方や、アンティオコスは、「もう、だめ、死にそう、いっそ死んだ方が楽」と嘆きにくれ、シリアスかつ美しいアリアを歌う。
そこに父セレウコスがやってきて、息子を励まし、名医がやっくることを告げ、さらに、自分は今日、ストラトニスと教会に行き幸せになるのだ。おまえもきっとよくなる。
愛する息子よ、早く元気になってと歌う。
しかし、息子は相変わらず、死ぬ死ぬ言ってる。

そこへ、親父のフィアンセ、ストラトニスがやってくる。
親父は、母として、息子を慰めて欲しいと言うと、彼女もわたしもそのつもりなのですと。
名医の到着の知らせに、親父セレウコスは出て行く、若い息子と義母のふたり。
「どうしたのか話して」という彼女。そして、「わたしのことを言わないで・・・」という意味深な言葉を残して去る。
「彼女のことは、私を苦痛のうえ、敏感にする」と息子はいい、今後一切黙っていようと思うようになる。
 やがて、到着した名医エラシストラシス。
「なんにもない、話すことない、うそなんかないよ」と息子はすげない。
医師は、息子の手をとり、その熱さに驚く。
いつからそうなの?とかいろいろと問診を受けるアンティオコス。
「あなたは、情熱の苦しみに囚われている・・・」と断じる医師。
ここで、あーでもない、こーでもないの医師と患者の二重唱。
 そこへ、ストラトニスがやって来て、部屋の前で、希望と怖れへの思いと、部屋に入ることへの気後れを歌う。
彼女を認めると、医師はアンティオコスの手を取り、その鼓動が早まるのを診て確信する。
医者は席を外し、二人になると、愛を語りだす。
医者はすべてを理解し、このオペラの中でも以外にも素晴らしいバリトンのアリアを歌う。
二人を別室に移動させた医師。そこに、これより教会に向かわんとする喜びの父がやってくるが、医師は一計を案じ、セレウコスに、アンティオコスが医師の妻を自分が結婚する前に見染めていたらしい・・・と話す。それが病の元と。
最初はけしからん、許さんなどとしていたセレウコス。
若い二人を呼んで寄こし、最初は不機嫌に、二人に自分に従うか!
と厳しく言い、二人も観念し、父を、夫を慕い従いますと語る。
しかし、セレウコスは、息子に、さぁ、愛するストラトニスの手を取りなさい、父以上の愛情を注いでくださいとして、自分は退き、彼女と一緒になることを命じる。
喜びのうちに、幕・・・・。

歴史上の史実で、セレウコスは実際の妻を息子に譲り、自分は引退して王位も渡す。
アンティオコスはその後、名君として善政をひくことになる。
いまの世では考えられない不実なことだけれど、大昔はありの世界だったようです。

実はこのオペラ、1時間のうち3分の1が語りなんです。
そして、頭にくるのが、わたしのパトリシアさまは、ソロがひとつもなく重唱のみ。
タイトルロールなのに。ほかの3人には、ちゃんと立派なソロがあるのに・・・・。
アンティオコス役のブロンのリリカルな歌は素晴らしいです。
でも、欲求不満がつのるのですよ。
おしゃべりだけすから。
でもちゃんと、プティボンの声、しかも麗しいフランス語を味わえますから。
急速なシンフォニアから、静やかな合唱、抒情的なアリアや、劇的な重唱。
音楽は、なかなかに素晴らしいのでした。

クリスティ門下生の歌の素晴らしさはさることながら、先生のクリスティのイキの良い弾んだ音楽は、音だけで聴くこのアンバランスなオペラに、しっかりとしたメリハリを与えてくれて、語りのあとの音楽が待ち遠しく、そして鮮度が高く感じられる。
室内オペラみたいなもんだから、実際に上演しても動きが少なく、効果が上がりにくいかもしれない。
映像のみで、メノッティみたいなオペラとともに、心理劇風に制作してみたら面白いかもしれないメユールでした。

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2011年2月 5日 (土)

ワーグナー お願いランキング!

Otameshi

ご存じ、テレビ朝日の「お願いランキング」
「お願い戦士」です。
ワルキューレならぬ戦国女戦士に囲まれても、リヒャルトさんは、しかめっ面ですよ。

世の中、いまやなんでもランキング。
ランク付けする方は気楽でいい。
でも、される側はたまったもんじゃない。

ネットの普及で、われわれ素人もどんどん情報発信ができるようになった。
かくいうワタクシも、しまくりですよ。
とにかく、人さまを気遣い、あたたかな記事を書きたいと思いますね。

それにしても、この「お願い戦士」たち、萌ぇ~っですな(笑)

さて、今宵は多忙な土曜につき、手抜きでワーグナー・マイ・ランキングです。

ワーグナー作品の演奏で、各作の私のベスト音源をご紹介。

「妖精」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・サヴァリッシュ&バイエルン放送
「恋愛禁制」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・サヴァリュシュ&バイエルン
「リエンツィ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ホルライザー&ドレスデン
「さまよえるオランダ人」・・・・・・・・・・・・・・・・・ベーム&バイロイト
「タンホイザー」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ショルティ&ウィーンフィル
「ローエングリン」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ケンペ&ウィーンフィル
「トリスタンとイゾルデ」・・・・・・・・・・・・・・・・・ベーム&バイロイト
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」・・・カラヤン&ドレスデン
「ニーベルングの指環」・・・・・・・・・・・・・・・・ベーム&バイロイト
   「ラインの黄金」・・・・・カラヤン&ベルリンフィル
   「ワルキューレ」・・・・・ベーム&バイロイト
   「ジークフリート」・・・・カラヤン&ベルリンフィル
   「神々の黄昏」・・・・・ショルティ&ウィーンフィル
「パルシファル」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・クナッパーツブッシュ&バイロイト

次いで、数あるFM放送音源

「さまよえるオランダ人」・・・・・・・・・・・・・・・・・D・R・デイヴィス&バイロイト(80)
「タンホイザー」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ティーレマン&バイロイト(2005)
「ローエングリン」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・デ・ワールト&バイロイト(79)
「トリスタンとイゾルデ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・クライバー&バイロイト(74)
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」・・・サヴァリッシュ&バイエルン(79)
「ニーベルングの指環」・・・・・・・・・・・・・・・・P・シュナイダー&バイロイト(85)
「パルシファル」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・シュタイン&バイロイト(80)

さらに、上演体験。

「さまよえるオランダ人」・・・・・・・・・・・・・・・・・ボーダー&新国
「タンホイザー」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・アルブレヒト&ハンブルク
「ローエングリン」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・飯守&東京シティフィル
「トリスタンとイゾルデ」・・・・・・・・・・・・・・・・・アバド&ベルリンフィル
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」・・・サヴァリッシュ&バイエルン
「ニーベルングの指環」・・・・・・・・・・・・・・・・R・コボス&ベルリン・ドイツ・オペラ
   「ラインの黄金」・・・・・トーキョーリング
   「ワルキューレ」・・・・・バレンボイム&ベルリン国立
   「ジークフリート」・・・・トーキョー・リング
   「神々の黄昏」・・・・・若杉&東京都響
「パルシファル」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ホルライザー&ウィーン

しかし、どれもこれも、悩めるランキング。
しかし、音源はとくに古めですな。
70年代男なもんで、ことにワーグナーにとりつかれた音源はその当時のものばっかり。

みなさんも、お願いランキングいかが?

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2011年2月 4日 (金)

アルヴェーン 交響曲最4番「海辺の岩礁から」 スヴェトラーノフ指揮

Oiso4

今年初めの湘南海岸。
海、山、夕焼け。
わたくしの大好きなシテュエーションにございます。

まいど書いてしまうことで恐縮ですが、こうした自然のおりなす光景を見るにつけ、私の脳裏にはその景色に見合う音楽が心象風景として浮かび上がり、こだまするのです。

音楽と風景・心象はきっても切れないもの。
でも、ベートーヴェンやブラームスの交響曲を聴いて、田園を除いて何か風景が思い浮かぶでしょうか。
「けしからん」、とお思いでしょうが、相当な年月、クラシック音楽を聴いてきて、古典派よりはロマン派、ロマン派よりは、民族・後期ロマン派などを親しく聴くようになっている自分なんです。
もちろん、バッハもほかのBも、Mもロマン派軍団も好きなわけですが、より近い世代の音楽を喜んで聴いているさまよいヲタ人なのでございました。

Alfven_sym4_svetlanov

北欧シリーズ、最後は、スウェーデンのアルヴェーン(1872~1960)です。
交響曲第4番「海辺の岩礁から」
長命なアルヴェーンは、作曲家のみならず、絵描きとしても優秀で、自国の風物に即した作品をたくさん残していて、スウェーデン狂詩曲などは誰しも知る名作になっております。

5つある交響曲の4つめ。
私はともかくこの曲が大好きで、ブログエントリは3度目。
レコード時代末期、81年頃、ウェステルヴェリイの指揮によるレコードを衝動買いした。
ひとつには、北欧通の大束省三氏の素敵な解説によるところも大で、実際の音が見事な解説によって、まだ見ぬ北欧の海を意識させることとなった。
真夏に買ったそのレコード、暑い日のクールダウン効果を意識して夏夜によく聴いたもだった。
CD時代以降も、ヤルヴィ、ヴィレンなども加え、北欧各国の色を味わえるようになったが、肝心のスウェーデンの本場ものは、かのレコードのウェステルヴェリイのみ。
いまの音楽不況にあっては、こうした曲のローカルな演奏はなかなか味わえなくなってしまった。

ソヴィエト・ロシアの盛衰のなかで、スヴェトラーノフの音源は、両期にまたがってふんだんにあって、いまだに驚きの音源が次々に出てくる。
西側に早期に出て没してしまったコンドラシンとは大きな違いかもしれない。

そんなスヴェトラーノフの珍しいレパートリーがこのアルヴェーン。

スウェーデン人としての民族派以上に、アルヴェーンは、後期ロマン派的な風潮をずっと引きずっていて、1918年完成の第4交響曲でも、まるっきしツェムリンスキーと思うような、濃厚ロマンティシズムとエロティシズムをたたえているのであります。
ちなみに、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」が、1923年で5年後。
グレの歌の作曲開始が1911年の7年前。
いかにアルヴェーンの音楽が、その時代と最新の風潮に組み込まれていたか。
「トリスタン」の影響下にまともにあった。
「海と男と女」はトリスタンの破滅的な愛と、海の孤独の蒼茫たる母体的な世界。

その他、この曲の来歴と内容は、過去記事をご残照ください。

3度目の再褐として、作者アルヴェーンのお言葉。

「この交響曲は二人の人間の愛の物語と関係があり、象徴的なその背景は外海へ転々と広がる岩礁で、海と島は闇と嵐の中で、互いに戦いあっている。
また月明かりの中や陽光の元でも。
その自然の姿は人間の心への啓示である。」


スヴェトラーノフの、容赦のない濃厚攻撃に、タジタジとなりつつも、いつしか、その独特の世界に引き込まれてしまっている自分。
いやですよう、スヴェトラおじさんと、エッチな音楽のアルヴェーンが、完全にタッグを組んでしまったら。
もうどうしようもないんだから。

アァー、とかしか歌わない二人の独唱も濃いです。
本場スウェーデンのストックホルムフィルの爽快さもにじませた演奏が、懐かしく思える、スヴェトラーノフロシア国立交響楽団の凄まじくも、濃い口のアルヴェーンでごあいました。

この曲は、大推薦なのですが、間違ってもスヴェトラさんのCDでお入りになりませぬよう。
でも、哀愁でまくり、思いきり抱きしめられちゃうような、こんなアルヴェーンもありかもです。
89年、モスクワでの録音。

フィンランドはクールで寒々しく、厳しい自然と対峙。
ノルウェーは自然とうまく妥協しながら、大らかな民族意識をにじませている。
スウェーデンは洗練されつつも、陽気でかつ狡猾、自己主張に隙がない。
こんな風に感じます。あしからず。

三国ともに味わい深く、楽しみは尽きない。

有名大作曲家も聴きつつ、こうした各地・各所の作曲家、当然に日本作曲家も含めて聴きながら、音楽の受容の幅と世界感を深めていきたいと思うのです。


 「ウィレン&アイスランド響」

 「N・ヤルヴィ&エーテボリ響」

Oiso5

西から身を転じ、東を望む。
遠くに江の島。三浦半島です。

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2011年2月 3日 (木)

シベリウス レンミンカイネン組曲 ヤルヴィ指揮

Inawashiro

猪苗代湖を望む図。
鴨だらけ。
今回も、過去画像から。一昨年の2月の終わりごろ。
暖冬がしばし続き、北国では雪不足に悩んだものだが、今年は豪雪ときて、ちょうどいい加減がない。

Inawashiro1

従来の自然の摂理を超えた容赦ない自然の変貌ぶり。
人間がもたらしてしまったツケかもしれませぬ。
九州の噴火もとどまらず、嫌なのは、関東に大きな地震がないこと。
繰り返しという原理からすると、関東に限れば、元禄→天明→安政→関東と、サイクル的に起きていたものが、その後に間がかなり空いているから、なんか、いゃぁーーな気がするんです。
日本がいま陥っているマイナス・フラストレーションからしても・・・・・・。

Sibelius_lemmimkainen

不吉なことは、とりあえず置いといて、今日の北欧は、大御所シベリウス(1865~1957)とまいりましょう。
シベリウスの音楽こそ、大自然、そしてその大自然と人間との営みを感じさせるものはないと思います。
北国・北欧の厳しいけれど、美しい自然。
わたくしのように、まだ見ぬかの地の風景や、風物を想像したり偲んだりするのに、シベリウスの音楽はまさに「耳で聴く北欧」なのであります。

そんな観光大使のようなシベリウスの典型的な作品は、交響曲と並んで表題的な交響詩のジャンルなのです。
「フィンランディア」に代表されるそれらは、ホント素晴らしくて、聴いているだけでクールな清涼作用と熱い民族色にほだされるのだ。

今日は、有名な「トゥオネラの白鳥」もそのひとつとして組み込まれた、連作交響詩、「レンミンカイネンを聴きます。
シベリウスといえば、毎度おなじみのフィンランドの叙事詩「カレワラ」。
その物語の一部を題材とした「レンミンカイネン」という男の数奇な人生を4つの交響詩にした組曲がこちら。
かつては「4つの伝説曲」と呼ばれ、わたしなどは、その呼び名で親しんだが、昨今は「レンミンカイネン」組曲とされていて、原作に近い表記のようだ。

 「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」
 「トゥオネラの白鳥」
 「トゥオネラのレンミンカイネン」
 「レンミンカイネンの帰郷」


この4つの交響詩。
2番目の白鳥のみが有名。あとは4つめの帰郷がバルビローリやカラヤンが録音したりしてるくらい。
4つを1枚のレコードやCDに収めている演奏もそこそこあるけれど、なかなかに聴く機会は少ないのかも。

物語は荒唐無稽・噴飯もので、そう言ってしまうとかの地の方々に怒られそう。

 「レンミンカイネンは踊りの得意なサーリの娘のひとりに恋し、求愛し断られつつも結ばれ、お互いに条件を出し合う。
彼は戦いに赴かないこと。彼女は踊らないこと。レンミンの母は嫁を迎えて大喜び。
ところが、彼女は禁を破って踊ってしまう。
それを見たレンミン君は、怒って違う妻を探しにポヒョラに出向き、ころあいの彼女を見つけるが、求愛の条件をいくつか出され、そのひとつがトゥオネラ川に浮かぶ白鳥を射ること。
その川に出向くも、レンミン君の敵対勢力によって、水蛇をけしかけられ、哀れ心臓を噛まれ死んでしまい、黄泉の国たるトゥオネラでバラバラにされてしまう。
 それを嘆いたレンミン君の母は、息子の体を大きなクマデで集め、特殊膏薬も処方し祈りの末、息子の蘇生に成功する。
生き帰った息子レンミン君は、またもやポヒョラに向かって新妻を得ようとするので、健気な母が大いに諭して、改心した息子は故郷に向かって帰還する・・・・という、どーしようもないお話。」

母は偉大なり。息子はダメなり。

シベリウスの書いた幽玄で勇壮かつ幻想的な音楽からは、こんなおバカ息子や残酷なシチュエーションはうかがえない。
あの「トゥオネラの白鳥」は、黒く沈んだような静的な湖に浮かぶ白鳥が、まるで映画のシーンのように瞼に浮かぶ。
どこに正妻とは別の女性を得ようと、無垢なる白鳥を狙うおバカ息子の姿を感じえようか。

北欧神話は、ワーグナーも没頭したとおり、「オランダ人」や「リング」にあるとおり、身勝手な男たちと、それに献身する強い(!)女たち、という要素がどうもあるようだ。

まぁ、そんなことは別として、この内容や素材は、サブ・インフォメーションとして、フィンランド・北欧を思いながら、この素晴らしいシベリウス作品を聴くのがよろしいかもしれない。

全編クールで、力強く、かっこいい音楽。ロマンテックでもあります。
交響曲第1番よりも前の作品。
「カレワラ」をもとに、オペラの創作も検討していた時期で、結局、自身はオペラという劇作品ジャンルに適正なしとして、この連作交響詩に姿を変えたいう。

ネーメ・ヤルヴィエーテボリ交響楽団のシベリウスは、巧まずしてシベリウスの真髄を音にしてくれていて、安心して身をゆだねることができる。
クリアーな弦に、若干鄙びて憂いも帯びた木管、力強い金管。
BISに入れた、かれらのシベリウスは私にとって指標のひとつであります。

この曲、ホルスト・シュタインが得意にしていて、N響でも演奏してそのCDRを愛聴してますが、スイス・ロマンドとの録音は廃盤。欲しいです。
あとは、オッコ・カムとフィンランド放送響のDG盤に、オーマンディ盤なども欲しい!

実にいい曲ですので、未聴の方は是非ともどうぞ。

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2011年2月 1日 (火)

スヴェンセン 交響曲第1番・第2番 ヤンソンス指揮

Shonai

過去画像庫から。
メロンの巨大オブジェ。
しかも雪景色の中ですよ。

Shonai2

しかも、こんなに精巧で色も鮮やか。
おいしそうでしょう。

これは、山形の庄内空港の入り口あたりにあるんです。
今年は、もっと雪が深いと存じますが、庄内地方は山形でありながら、新潟と秋田の両県に似た日本海側の要素もたくさんあって、北前船で栄えた商業アリアでもあるんですな。
酒田と鶴岡がその代表格の街。
「おくりびと」も、ここがモデルになってます。

東北にありながら、高速が整備されるまでは、冬場は月山超えが車では不可能になるので、仙台よりは東京から行った方が近かった。
いまは雪でたいへんなことと存じますが、冬の今こそ、行ってみたい街々のひとつです。

Svendsen_sym

今週のお題は、北欧
寒いけれど、きりっと爽やかな印象を持っている地域です。
われわれ音楽好きとしては、北欧といえば、「ノルウェーのグリーグ」と、「フィンランドのシベリウス」がその存在として双璧にございましょう。
その音楽と、北欧の風物が見事にイメージとして、われわれの中に存在しているのですから。

そのグリーグが唯一残した交響曲を前回は聴いたのですが、そのグリーグがその交響曲を、ほぼ同年代の自国ノルウェーの作曲家スヴェンセンの交響曲第1番を聴いて、その出来栄えに、自身のドイツロマンテック系作風から抜け出せない限界を感じて封印してしまったといういわくの経緯を持つスヴェンセン作品なのです。

スヴェンセン(1840~1911)は、ノルウェーの作曲家で、今年、没後100年。
グリーグとはほぼ同年代ながら、人気の点ではまったく及ばない点が気の毒な人。
前回書いたとおり、グリーグはロマンと後期ロマンの狭間で民族主義にもうまく折り合いをつけたノスタルジックな作曲家であったのだけれど、スヴェンセンは、今回の2曲の交響曲に聴くかぎり、民族主義的要素はやや弱め。
ドイツ正当の構成重視のかっちりした形式を重視し、その中に北欧テイストをほのかに滲ませるといった印象を受けた。
グリーグが、1番の交響曲を聴いて、自分の作品がドイツロマン派交響曲の亜流と恥じて引っ込めてしまったのが、どうにも解せないのであります・・・・。

それはともかくとして、スヴェンセンが残したふたつの交響曲は、ともに4楽章構成で、ソナタ形式も踏まえた楽章を中心に、2楽章はゆるやかな緩徐楽章、3楽章は舞曲風の楽章、4つめのものは、盛り上がりを意識した躍動感あふれるもの。
1番と2番ともに共通した事項である。

しかし、1番は自国を出て、ライプチヒで勉学していたおりのもので、1866年頃、意欲と
活力にあふれた、いかにも漲る才気を感じさせる作品で気持ちがいい。
一方の2番は、その10年後、ノルウェー時代の76年頃と推定されるもので、その間の年月を感得させる成熟ぶりを示している。
それぞれの楽章の配置と大まかな特色は同じながら、それぞれに彫りが深くなり、オーケストラも無駄なくすっきりと、そしてバランスよく鳴っている。
ことに2楽章のアンダンテ・ソステヌートは1番のそれ(アンダンテ)に比べて、抒情の夢心地具合が高まっていて、この楽章だけでも単独で1日の終わりに聴いてみたいと思わせる曲なのです。
すべてにおいて、2番が勝っているかというと、自分的にはそうでもなく、1番の素朴さと若々しさは魅力で、2番には、まだその先がるのではと思わせる途上的な何かを感じる。
結局、その先が交響曲においてはなかったスヴェンセンなのでありますが、その後もオーケストラ曲を書き続けているので、また聴く機会をとらえて確認してみたい。

スヴェンセンは、その後、デンマークのコペンハーゲンに移動し、そこで活躍し没していて、コペンハーゲンの王立劇場の指揮者も長く勤めている。
その任期のあとは、ニールセンが継いでいて、ニールセンとスヴェンセンにも、非公式ながら師弟関係と音楽の影響具合も認めることができるわけ。

スヴェンセン・グリーグ・ニールセンとつながりがる、北欧関係なのでした。

今日の演奏は、作曲者ゆかりのオスロ・フィルハーモニーを指揮した、マリス・ヤンソンスのもの。
構成感よりは、流れとわかりやすい旋律運びを重視したマリスの指揮。
やがて来る春をも思わせる爽やかな演奏なのでありました。

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