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2011年2月13日 (日)

ドリーブ 「ラクメ」 プラッソン指揮

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これは、カレーです。
この店は何でも生クリームと小葱をかけてしまうけれど、ビジュアル的には悪くない。
3つ揃うと不可思議な光景で、いかにもエスニックな感じですな。
手前から「エビ」、右が「チキン」、奥が「野菜ボール」。

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ナンでかいです。
田町と芝の2か所にある「RHYMES INDIA」というお店です。

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今日は、フランスオペラだけど、インドが舞台のエキゾティックなオペラ、ドリーブ「ラクメを聴きましょう。
レオ・ドリーブ(1836~1891)は、フランスの作曲家で、劇音楽に多くの作品を残した人。
「シルヴィア」や「コッペリア」は有名ですな。若い頃は敬遠していたけれど、聴いてみたら、ニュースで使われていたりしてて、とても親しみ深い音楽だった。
そして、オペラでは何といっても「ラクメ」が代表作。
美しい旋律が散りばめられた、儚くも悲しいオペラ。
ほかにもかなりのオペラが書かれているが、まったく目にすることはなく、CDショップの棚では、ディーリアス(Delius)とお互い一緒くたになってしまう、ちょっと気の毒なドリーブ。

西洋から見たエキゾチシズムの典型ともいえる内容で、思えば「蝶々夫人」とともに西洋優位の頭にくる内容ではありますが、そこは音楽を無心に聴くことでよしとしましょう。
もう30年以上も前、雑誌で、サザーランドの濃い目のジャケットの「ラクメ」というレコードを見て、怪しげなオペラに思い続けてきて、長じて、まさかこんな風に親しく聴くことになるオペラだとは思わなかった。

  ラクメ:ナタリー・デセイ       ジェラルド:グレゴリー・クンデ
  ニラカンタ:ホセ・ファン・ダム   マリカ  :デルフィーヌ・エイデン
  フレデリック:フランク・ルゲリネル エレン :パトリシア・プティボン
  ローズ :クセニア・コンセク    ベントソン夫人:ベルナデッテ・アントニ
  ハジ :シャルル・ビュルル    ほか

  ミシェル・プラッソン指揮 トゥールーズ・キャピタル管弦楽団/合唱団
                           (97.7@トゥールーズ)

ナタリー・デセイ様のタイトルロールに目がいってしまうのは当然として、ここでは、わがパトリシア・プティボンが、ちょい役で出てます。
英総督の娘で、ラクメと恋に落ちるジェラルドの許嫁役で、ちょいと我儘なお嬢です。
耳にすっかり馴染んだ彼女の声は、少しの場面でもすぐにこちらは反応してしまいます。
残念ながら姉筋のナタリー様との2ショットがないこと。

このオペラのあらすじは、いろんなところに書かれてますので、しかも荒唐無稽の薄い内容なので、ここでは超端折って。。。

ところはイギリス占領統治下のインド。

第1幕 バラモン教寺院の庭園
 バラモン教高僧ニカランタはイギリスの横暴に怒り心頭。神聖なる祈りを巫女たる娘ラクメに託す。ラクメはマリカとともに、美しい花を愛でて愛らしい二重唱を歌う。
外では、士官のジェラルド、フレデリック、エレンとローズ、そして家庭教師のベントソンの5人がいて、インドと英国をあーだこーだ言ってるが、ここはヤバイから行きましょうということに。でも、エレンが美しい宝石を見つけてしまい、ジェラルドはそれをスケッチして、アクセサリーを作り、エレンに送るために、そこに一人残る。
 ラクメが戻ってきて、人の気配を感じ、そこでジェラルドと出合ってしまい、ふたりは易々と恋に落ちる。
父の帰還に、ジェラルドを逃がすが、親父は垣根を破って侵入した異教の輩を絶対逃すまい、殺してやると息巻く。

第2幕  街の市、広場
 賑やかな街の市場。英国の5人組が出てきて楽しんでる。そこでは巫女や現地人、ペルシア人たちの踊りが繰り広げられる。
そこへ、ニカランタと歌手に扮したラクメが登場。親父はラクメに歌を歌わせ、先の侵入者を炙りだす腹積もり。
超有名な「鐘の歌」を歌うラクメ。
見事引っかかったジェラルド。もっと歌えとニカランタ。だんだんとトーンが落ちるラクメ。
軍隊の行進がやってきてまぎれて逃げるジェラルドに追うニカランタ。
でもまた戻ってきて、呑気に、いや美しい愛の二重唱を歌うジェラルドとラクメ。
ラクメは、自分の秘密の場所が森にあるのでそこで暮らしてという。
そこへ、今度はバラモン僧の行進がやってきて、雑踏と化し、ジェラルドはナイフの一撃を受けてしまう・・・。

第3幕  森の中のラクメの隠れ家
 ジェラルドは致命的な怪我が癒えて目をさますとそこはラクメの隠れ家。
献身的な看護で、命を取りとめたことを聞かされ、感謝するジェラルド。
聖水を飲んで(教徒になること)ここでずっと暮らそうというラクメに、最初は躊躇するもののそうと決意するジェラルドを残し、ラクメは聖水を汲みにゆく。
そこへ、友人のフレデリックが現れてインドとの戦争も始まるし、自分の立場を思いだせと言われる。
ラクメは、聖水を汲んで戻ってくるが、どこかよそよそしいジェラルドの様子にラクメはすべてを察し、自分は毒草のダチュラを服用して聖水を飲み、のこりの聖水を彼にも飲ませる。
死は二人を引き裂くことはないの、私の生をあなたに差し上げます、あなたの腕の中で・・・・と遠ざかりゆく意識の中で歌う。
父ニカランタが飛んできて、にっくきジェラルドをみとめるが、ラクメは、今や彼は聖水を飲みました、私は犠牲となって死ぬのですと・・・・。
こうなると親父も手の出しようがなく、彼女は永遠の命を手にいれたと、高揚してラクメを讃えて歌う。
ジェラルドはただ、アー、というのみ。

               ~幕~

なんともいえない内容です。
モーツァルトやハイドンの時代はトルコに、のちのち19世紀後半からは中近東やインド、世紀末前後ではシナや日本の東南アジアといった具合に、ヨーロッパの先進の方々は東洋への興味や憧れをドラマや音楽に託してきた。
・・・けれども、どうもその趣味性が表面的で、西洋人の視点でしか見ていない一面的なものに終始していまいがち。
そして、それらは女主人公とその仲間は高潔で近寄りがたく、そのくせ女主人公は容易く恋になびいてしまうところが悲しい。
男の目線で書かれた原作に音楽ゆえか。
そのあたり、プッチーニは甘味な旋律の中に、シャープな鋭い目線を織り込ませていて、複雑多岐な優れたオーケストレーションの妙を持って、そこに深い感情表現をにじませ、長く聴くにたる劇作としてのオペラを残した。
対するドリーブは、旋律の宝庫であり、各種伝統に根ざしたお決まりの手法がしっかりとはまっているのを感じる。
しかし、素材選びでは、エジプトを舞台としながらもアイーダでは祖国愛を歌いあげたヴェルディのように求心力が不足していて、インド×イギリスという、この作品の内蔵する対立軸が気まぐれすぎるジェラルドの存在によって軽く感じてしまう。
そして、インドの側であるニカランタが常に怒りまくっているのはいいとして、肝心のラクメがそんな男をひと目見ただけで、すぐさま自分の生い立ちを忘れて禁断の恋に陥ってしまうのも、どうにも性急すぎる。

こうして書けば書くほどたくさん矛盾や浅さがあるこの「ラクメ」だけれど、そこここに置かれたアリアや重唱の美しさゆえに、独特の存在を誇ることができるものと思う。
花の二重唱の夢見心地の美しさは、全体の劇性にどれだけ奉仕してるかは疑問だけれども、それだけで素晴らしい名旋律。
1幕のジェラルドのアリア、ラクメのヴァイオリン独奏を伴った素敵なレシタティーボ。
2幕の父ニカランタの独唱、そしてラクメの「鐘の歌」、ハジの献身的なアリアなんてのもあります。そのあとの、主役二人の愛の二重唱。
3幕は、ふたつの愛にまつわる二重唱。そのふたつで揺れる男の心情は違ってきている。
悲しいラクメです。
自決に及んだラクメのセンチメンタルな終幕は、悲しすぎるほどに普通すぎて、あのドラマテックな日本の蝶々さんに遠く及ばない・・・・。

エキゾチックなムードがたくさん溢れていることと、お得意のバレエ音楽も巧みに挿入されていることなどが、ドリーブらしい特徴とはいえる。
けれど、なんだかんだいって文句つけちゃうのは、そこにドラマとそれに付随した抜き差しならない音楽が欠けているような気がしたから。

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その空虚さを救っているのが、デセイ様と、ファン・ダム、そして指揮のプラッソンです。
ナタリーの高域の美しさは、まったく空虚人工的な要素がなくって、人間的な温かさをもっていて、そこに鋭いくらいの感情表現が入るから、まったく無敵。
お人形さんみたいなラクメが、意思をもって息づいている。
有名な「鐘の歌」は、そのシテュエーションが、親父に強要されて歌う歌とは思わなかった。
デセイは、そうした不安感と、一方で恋する人に会える喜び、その感情に揺れる女性の歌をしっかりと、このオペラの中のひとつのアリアとして息づかせることができている。
 ベテランのファン・ダムの味のある親父ぶりは、厳密な高僧というよりは、ひとりの父親とみたいで共感できるし、最後のあっけない終りも、ファン・ダムによって救われているのかもしれない。
 そして、そう、プラッソンなくしては、こうしたフランスオペラの甦演はありえないのでした。
自然にかもし出すおフランスの香りと、いきいきとした表情づけ。
本場トゥールズのオケともども一体となった定番ともいえる耳洗われるフランスの正統サウンド。いいんです。

わたくし肝心のプティボンは、ほんとちょっとだけ。
恋敵役なのに、ドラマに何の影響も与えないなんのことない役。
ちょっと不満ですが、原作ゆえしょうがないですな。
彼女も、アリア集で、ラクメを歌ってます。
その彼女は、あくまでアリアとしての局面でしかラクメを捉えていないかもしれない。
歌手たちも、全曲で役作りをするのと、アリア集で歌うのとは違うもの。
その違いを聴くのもまた、ファンたる楽しみでありますね。

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コメント

愚生はこのオペラ、サザランド、ヴァンゾ、バキエ他ボニング指揮のDecca盤‥425-485-2という番号です‥で馴染みました。確か今は無き、大月シンフォニアで、買ったような記憶がございます。
で、『一組在れば良いかのう‥』と思い、プラッソン盤には手を出さなかった訳ですけれども、貴ブログを拝見し、『やっぱりこれも耳にしてみたいなぁ。』と言う気持ちが沸き上がって来ました。ボニング盤は当時Deccaが標榜していた、ソニックステージなる擬音の演出が、ラクメが『鐘の歌』を披露する、第2幕の市場のシーンで群衆のざわめきで為されていました。主要3役も粒が揃っていて、立派な出来であったと思います。プラッソン盤は、ニラカンタ役がかつてカラヤンに重用されていた、ベルギーのバス-バリトンのジョゼ-ファン-ダムですね。巧みで流暢なフランス語歌唱で、しっかりとドラマを引き締めていらっしゃる事でしょう。アメリカのテノール、グレゴリー-クンデはあまり馴染みのない方ですが、どのような歌いぶりか期待が募ります。デッセイの素晴らしさは、まず裏切られる事はないでしょう。

投稿: 覆面吾郎 | 2019年5月19日 (日) 08時34分

ボニングのラクメは、レコード時代、サザーランドのおっかない写真がジャケットとなっていて、ちょっとトラウマとなってます。
フランスオペラは、あまり聴かないのですが、デセイとプティボンで、このCDを購入したようなものです。

投稿: yokochan | 2019年5月20日 (月) 08時43分

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