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2011年4月

2011年4月30日 (土)

神社のにゃんにゃん

Sanukiinari_1

世間は連休。

みなさまいかがお過ごしですか。

わたしは、なにも変わらぬ日々。

そして、世間のにゃんこたちも、変わらぬ日々をのんびり過ごしておりますようで。

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都心の神社の境内に佇むにゃんにゃん。

麗しい色柄でして、初夏まじかの影をくっきり落とす、清涼な神社にいかにも相応しいお姿でございます。

こちらは、浜松町駅のすぐそば、讃岐稲荷神社。

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望遠で。
警戒して、目が細くなってますな。
尻尾の具合がよくわからん。

Sanukiinari_4

一歩踏み出すと、当然に、にゃんこは急いで姿を消してしまいました。

無人、いや、無猫の、それこそ猫の額ほどの境内は、ご覧のとおり、ツツジが鮮やかに咲いてます。
その足元には、力石なる大きな石が転がってますぞ。

Sanukiinari_5

江戸時代、漁師町だったこのあたり。
境内に力自慢があつまり、石を担いで競いあったそうな。
いったい、どうやって、と思うくらいにデカイ石ですよ。
ここは、始終通る場所だけど、よく見れば不思議な神社なのです。
それは、またいずれ。

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2011年4月29日 (金)

フィンジ 「地球が朽ちるまで」 ドナルド・カーシュ

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英国旗、ユニオンジャックであります。

英国で買った絵葉書で、オリジナルはキンキラなのですが、スキャンするとこんなです。

祝ウィリアム王子とキャサリンさんなのです。

ふと思ったこと、英王室の方々の姓は?
そう、ウィンザーなんですね。
じゃ、我が国の天皇は?
それがないんです。
そもそも、天皇以外の人を区別するために、与えられたのが姓だから、ということです。

ダイアナ妃の思い出は、わたしも深くもってますが、王子はよく見ると母親にそっくり。
英国の方々の興奮ぶりは尋常じゃないけれど、みんなユニオンジャックを身に纏ったりかぶったりしていて、日本の日の丸じゃ考えられないこと。
ずっと戦勝国だし、大国としての誇りもあって、自然にできることでありましょう。

その英国は基本はとても明るいけれど、行き詰まり感が常にあって、大国の悩みとして、英国病などと、言われてしまう。
そんな英国特有の陰りと憂愁。
音楽にもいつも感じることができます。

こんなときにも、わたしは、フィンジの歌曲を聴いて、英国を思うのでありました。

Finzi_rvw_britten_kaasch

ジェラルド・フィンジ(1901~1956)の歌曲集「Till Earth Outwears」(地球が朽ちるまで)」。
トマス・ハーディの詩による7篇の歌曲なのであるが、フィンジの死後、朋友ファーガソンと未亡人のジョーイとその息子クリストファーによって、分散して書かれたハーディ歌曲をひとまとめにしたもの。
まとめた形では、1958年に初演されている。

1.Let me enjoy the Earth(地球を楽しもう)
2.In Years defaced(長い年月のうちに)
3.The Market-Girl(市場の娘)
4.I look into my glass(鏡をのぞきこんで)
5.It never looks like Summer(夏のように見えない)
6.At a lunar Eclips(月食にて)
7.Life laugh anward(人生は前に向かって笑う)


どの曲も、ハーディの抒情的かつ思索的な詩を受けて、その内容に見事に即した、わたしたちがいつも心なごませ、優しい気持ちになるフィンジ・ワールドがそこにあるのです。

O not again

Till Earth outwears

Shall love like theirs

Suffuse this glen!

2曲目の「In Years defaced」で歌われるクライマックス。
地球が尽きるまで、愛するふたりを優しく覆ってください・・・。

愛らしい雰囲気の「市場の娘」、経る年月への不安を歌った「鏡をのぞきこんで」、幻想的で静かな歌心に心動かされる「月食にて」、最晩年1955年に書かれ、なにやら明るい気持ちになるけど、シャイな面持ちが愛おしい「人生は前に向かって笑う」。

ドナルド・カーシュ(Donald kaasch)は、アメリカのテノール歌手で、オペラでも活躍中で、メトや欧州各地のオペラハウスにも出演中のリリック・テノール。
やや歌いまわしが過ぎるところもあるももの、この人の声は、英国テノールの系統にあるといってよく、澄んだ歌声とシリアスな歌唱との絶妙な配分がとてもよろしい。
フィンジを歌うテノールは、エインズリーやパートリッジ、パドモアなど、みんな澄みきった悲しさが漂っているように思う。
彼らは、みんなバッハのエヴァンゲリストとしても素晴らしいし。
ピアノは、ピーター・ロックウッド

くめども尽きぬフィンジの音楽。
そして、その本領は歌曲にあり。
これからも取り上げてまいります。

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2011年4月28日 (木)

ヴォーン・ウィリアムズ 交響曲第5番 マリナー指揮

Yokohama_park3

横浜公園、そう、スタジアム前のチューリップ。
ベイスターズのことは、いまは置いといて、そう、「スーちゃん」のことを。

今夜、テレビで田中好子さんの追悼番組をやってまして、キャンディーズの伝説のラストコンサートの模様とからめて、スーちゃんの人となりを偲ぶ内容にになっていました。

これには泣きました。
飲みながら見てたことも手伝って、涙でぐちょぐちょになりました。
明るくて、自身が病気に冒されながらも、人のことを真っ先に考えて生きてきた彼女。

わたしより、ほんの少し上のキャンディーズ。
中学・高校・大学時代に大活躍の彼女たち。
1973年から1978年まで。
わたしも青春してました。

3人の中で、誰が好き?ということを、休み時間などに話題になっていたものです。
ランちゃんが一番人気で、次はスーちゃん、そしてミキちゃんが大好きな友達も結構いた。
当時からクラヲタだったけど、わたしは、スーちゃん派だった。
ワーグナーも、キャンディーズも春の祭典もビートルズもローリングストーンズもみんないっしょくたに聴いていた時代。

もう戻らないあの頃。
こんな風に、ましてほぼ同世代だった人が亡くなったりしてしまうと、切実たる思いにとらわれてしまう。
でも生きてる、生かされている自分は、これからも前に進まなくてはならないんです。
あの日以来、停滞ぎみの日々で、連休なんてなんにも面白くないけれど、がんばらなくっちゃ。

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ヴォーン・ウィリアムズ(1872~1958)の交響曲シリーズ。

何度も取り上げている、最愛の交響曲第5番を、これまたわたしの愛するサー・ネヴィル・マリナー指揮のセント・マーティン・アカデミーの演奏で。

9つの交響曲が多彩な顔をしているということは、これまで何度も書いてきたとおり。

英国音楽を愛するものとしては、優しい田園情緒に満ちたヴォーン・ウィリアムズのそうした一面をもっとも好きになるもの。
有名なところでは、「グリーンスリーヴス」「タリス」「ラザロ」「揚げひばり」、オペラのいくつかなどに加えて、交響曲のいくつか。
第1番から第3番まで。
とりわけ、3番の「田園交響曲」は、茫洋としたイギリス田園風景が思い浮かぶ素晴らしい名品。
その3番と、かなり近い雰囲気があるのが、5番。

1943年という世界大戦まっただ中に、何故にこのような平和で柔和な作品が残されたのだろうか。
この前の不協和音乱れ飛ぶ不穏な4番(1934)と、戦後作品とはいえ、闘争心と暗さみ満ちた6番(1947)というシャープでキツイ交響曲にはさまれた第5番が戦中だったことを思うと作曲者の心中を推し量りがたくなる。

ヴォーン・ウィリアムズは熱心なクリスチャンだった。
オペラに声楽曲に、宗教を背景とした作品も多い。
そして、今回、第5交響曲をじっくり聴いて、RVWが戦火の悲惨さを思いつつ、英国の自然、そして自らの宗教観を重ねてみたのではないかと思った。
アレルヤという、キャロルの旋律が随所に出てくるのだ。
お笑いではないけれど、「Mr.Bean」で、教会のシーンがあって、居眠りをしてしまうビーン氏なのだけれど、アレルヤ~のところだけ目を覚まし歌っていた。
その旋律なんです。

荘重で、まさに教会旋法を思わせる第1楽章。
スケルツォの2楽章。民謡調のパッセージが明滅する。
この交響曲の白眉といえる第3楽章の素晴らしさをどうお伝えしようか。
あまりに美しく儚く、切ない音楽。
ここに、純真な祈りの心も読み取れる。
例のアレルヤも何度もくりかえされる。
この楽章だけを取り出して、わたしは時おり聴くことが多い。
わたしが死んだら、この楽章をいくつものリクエストの中のひとつとしてかけてほしい。
宗教感・自然観・人間模様がRVWの中で昇華されたかのような素晴らしいシーンであります。
今日、二度目の涙を流すことになりました・・・・。
 そしてパッサカリアとして、快活に始まる終楽章も、後半は全曲を振り返りつつ、3楽章をとりわけ思いおこしつつ、浄化されたかのようにして澄み切った雰囲気で曲を閉じるのです。ここもまた、この曲の素晴らしさが身にしみるエンディング。

ヴォーン・ウィリアムズの交響曲では、この第5番が一番好き。

マリナーのじっくりと腰を落ち着けた丁寧かつ、心のこもった演奏は、タイムも40分あまり。
透き通るくらいの透明感に、やや薄めのオーケストラ。
ひたひたと、心に響いてきます。
こんな客観的でない、マリナーの優しい目線が、RVWの音楽にぴったりとあってます。
併録の6番は、うってかわってシャープな目線が光ります。

春だけど、もう初夏もまじかだけど、どこか悲しい連休前なのでした。

 RVW 交響曲第5番の過去記事

 「ノリントン&NHK交響楽団演奏会」

 「B・トムソン&ロンドン交響楽団」

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2011年4月27日 (水)

レスピーギ 「シバの女王ベルキス」 J・サイモン指揮

Marushin_1

急に思いだして、食べたくなりました。

何をおいても行ってみたいと思い、過去画像を。

「丸信ラーメン」です。(別館ブログはこちら
栃木県黒磯市が発祥。
そのお弟子筋の若い店主が、福島県田村市船引町で頑張るお店に、わたしはもう10年来行き続けてました。

郡山から国道288号で30分くらい。
磐越道の船引三春インターを出てすぐ。
そう、滝桜の三春町も近いんです。

原発の30キロ区域には入っていないのですが、いまこの店がどうなってるかとても心配です。
最初は、立ち寄るのに不安になるような店構えだった。
郡山から、浪江や小野町に月に何度も通った時期があって、昼食を食べそこねて、思いきって入ったのがこの店。

「いらっしゃい、お疲れさ~ん」と店主に元気に威勢よく声をかけられた。
お腹の大きい若い奥さんとふたりで切り盛りしてた。
そして、食べたラーメンが、驚愕のうまさ。

以来、通ってました。
いつしか、子供さんは、二人。
これまた元気な従業員も登場して、昼時は満員の人気店になっちゃった。

「目指せ、ラスベガス」という出店目標を掲げて、ともかく、おいしくて元気印。

Marushin2

二重スープといわれるラーメン。

丼の底に沈んだ「たまり」は最初静かなまま。
あっさりした塩系の手打ラーメンをそそるうちに、醤油ベースが浸透してくる。
このウマさのバリエーションを一度味わってしまうと、やみつきになる。
自家製チャーシューも最高に美味だった。

福島は、会津は喜多方。
中通りは、白河に郡山と、ラーメン王国なんですよ。
中と浜の中間に位置する田村地区の名店が丸信だと思います。
あと、小野町にも、バカ的、超大盛りのスンバらしい中華そばがありました。

どちらも、元気でいて欲しいですし、影響下にありましたら、再スタートを心から願っております。

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レスピーギ(1879~1936)の、バレエ組曲「シバの女王ベルキス」。
ローマ三部作ばっかりのレスピーギだけれど、その描写的でメロディアスな音楽は、ほかの作品にも共通していて、オーケストラの表現力の豊かさを大いに楽しめる曲ばかり。
同時に、世紀末作曲家としての豊穣さと、甘味な旋律の宝庫ともいえる作品もたくさんあるんです。

紀元前10世紀頃、悩み多き、南方シバ国の女王ベルキスは、叡智あふれるイスラエルのソロモン王のうわさを聴き、ソロモン王を訪問することにする。
その随行者のおびただしさと、捧げものの豪華さは、新旧聖書に書かれております。

この物語をもとに、フルオケ・合唱・独唱を要する1時間半のバレエ音楽をレスピーギは書いた。
わたしのようなヲタは、オリジナルバージョンを一度は聴いてみたいと思っているが、組曲バージョンでも、ローマ三部作と同じく、オーケストラ音楽の醍醐味をチョー味わわせてくれるおもろい作品なんだ。

 Ⅰ「ソロモンの夢」
 Ⅱ「戦いの踊り」
 Ⅲ「ベルキスの暁の踊り」
 Ⅳ「狂宴の踊り」

    ジェフリー・サイモン指揮 フィルハーモニア管弦楽団


映画音楽風で、ペルシャ風、アラブ風のエキゾティックなべたな音楽かもしれないけれど、わたしはこんな、まがまがしい音楽が大好き。
オーケストラで「雰囲気」を出すことにかけて、レスピーギはR=コルサコフやラヴェルと並ぶ達人だと思う。
打楽器や鍵盤楽器も多彩に取り入れつつ、神秘的な様相から、愛情あふれる甘味なか所。民族風な考証をもとにした的確な表現。官能的なまでの異国情緒。
そして、狂乱と熱狂が支配するまがまがしい最後の強烈なダンス。
いかにもラテンの血が炸裂したかのような熱狂ぶり。

あぁ、おもしろい。

でも、聴いたあとに、なにも残らない。

思えば、ローマ三部作もそうで、感覚は興奮するものの・・・

劇音楽を数々残したレスピーギ。
いくつかあるオペラを是非にも聴いてみたいと狙っております。

あの、丸信ラーメンは、食べ終わって、店を出ると、「行ってらっしゃいーーーー!」と背中に元気な声をかけてくれた。

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2011年4月26日 (火)

武満 徹 「波の盆」 尾高忠明指揮

Matsubagiku

路傍の花。
松葉菊?でしょうか。
おわかりになる方は教えてください。
誰かが植えたのでしょうが、力強いものです。
そして、花の色の美しさにはかないません。

Takemitsu_hosokawa_otaka_sso

季節はずれだけれど、あまりに美しい音楽なものだから。

武満徹(1930~1996)の「波の盆」。

83年の同名のテレビ映画のために書かれた武満徹の音楽で、その組曲。
その映画は、実相時昭雄が監督で、脚本が倉本聡。

いま「波」とかいうと、どうもあの思いがよぎってしまうのですが、ここでいう「波」は、この映画の舞台となったハワイの海。そして、そこから故国日本を思い、隔てる海のこと。
そして「盆」とは、8月のお盆。

開戦前、ハワイに移住して生活した日系1世。
しかし、2世である息子は、米軍に協力し、やがて実家のある広島に原爆が落下することとなる。日本や家族によかれと思った息子の行動が裏目に出ることとなったが、その息子を父は許すことができず、勘当したまま息子は死去。
時間は経過し、その息子の愛娘、すなわち孫が訪ねてくる。
嬉しいものの、わだかまりを捨てられない。
静かな海を見ながら、死んだ妻と語りあい、徐々にその心を開いてゆく。
ハワイ日系社会で、盆踊りが行われ、そこで息子と妻が踊る姿を見出す・・・・。
はじめて、息子の思いをわかったかのような思いの父・・・・。

どうも、このような内容なのです。
この映像は、いまやなかなか見ることができないが、ここにつけられた音楽を知ってしまった以上は、なんとしても観てみたいと思っている。

映画音楽の武満徹は、写実的で、旋律的。そしてとてもわかりやすい。
そしてその映画音楽の数は、あまりに多くて驚く。
亡き田中好子さんの、「黒い雨」もそうです。

本格クラシカルの分野でも、調性が戻り、静謐さはそのままに、明快で耳に馴染みやすい音楽となりつつあった。
 武満徹は、「水」を代表格に、自然をモティーフとした作品が多く、人間やその営みといったドロドロした世界とは一線を画していたように思います。
人間を語る場合でも、自然、ないしは人間を取り巻く何か(たとえば「無」)を通して。

こんなこと偉そうに書きつつも、わたくしは、武満作品を多くは聴いてないし、聴いても感覚的に流してしまう所作が多い。
これから歳を経たら、わかるようになるのかしら?

そんな思いはともかく、「波の盆」は調和のとれた美しい音楽の世界。
この作品をことのほか愛する、尾高さんのCDでは、6つの場面が組曲となっている。

 Ⅰ「波の盆」(Tray of waves)~ジャケットにはNami no Bonなのに
 Ⅱ「ミサのテーマ」 主人公の亡き妻
 Ⅲ「色あせた手紙」
 Ⅳ「夜の影」
 Ⅴ「ミサと公作」 妻ミサと主人公
 Ⅵ「終曲」


全編大半がアダージョないしは、アンダンテ。
癒しの音楽ともいわれるかもしれないが、この静けさをどう聴くか。
 映画を観てないから、あくまでイメージだけれど、大切なもの、親しいものを思い、辛いことや悔やまれることを、緩やかながら忘れてゆく、そんないじらしくも愛おしい気持ちを呼び覚ます音楽に聴こえます。
言葉にすることはできないくらいの美しさ。
でも、終始、のっぺりとしているわけでなく、「夜の影」では、まるでアイヴズのようにマーチングバンドが突如として乱入してくる。
その唐突さの対比が、また主人公の感情のわだかまりと移り変わりを思わせる。

シャンドスの海外盤ですが、尾高さん、自ら解説を書いておられる(英字)。
「なんと感情的な音楽なのでしょうか。指揮をしながら涙を隠すことができなかった。そして、ヴァイオリン奏者たちが、実際に涙を流しながらレコーディングをしたのです・・・・」

Ⅰであらわれる主要旋律が、ほぼ全編にわたって流れてます。

youtube等でも、聴けますので是非、この美しさを味わってみてください。

   尾高忠明 指揮 札幌交響楽団 (2000.5.8@札幌Kitara)

このCDには、ほかに同じ武満の「乱」、忠明さんの兄・惇忠の「オルガンと管弦楽のための幻想曲」、細川俊夫の「海の記憶(広島シンフォニー)」も収録されていて、それぞれにこれに素晴らしくも美しいのです。

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2011年4月24日 (日)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 金聖響 指揮

Minatomirai

雨の土曜日、月一回の神奈川フィル定期に行ってきました。
近未来風の光景は、みなとみらい駅へ続くコンコース。

前回の定期は、震災のすぐ翌日
あの日、あの時、そしてあの曲でなければできなかった壮絶きわまりない音楽体験だった。
マーラーの6番を聴きながら、脳裏にはテレビで見た津波のすさまじい映像が、何度も訪問したことのある東北各地の風景や人々が、それぞれに浮かんできて、それはもう生涯忘れることができない演奏会だったと思われます。
100人のオーケストラと700人の聴衆が一体となってしまったエモーショナルな出来事。

あれから40日。

同じマーラーでも、今回は不思議な明るさをともなった第7番。
救済から復旧。
そう、日常生活の復元へと向かう日本を後押ししてくれる音楽であり、そんな前向きになれる素晴らしい演奏が展開されたのでありました。

20110423

  バッハ   管弦楽組曲第3番より「アリア」

  マーラー  交響曲第7番「夜の歌」

     金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                コンサートマスター:石田泰尚
                   (2011.4.23@みなとみらいホール)

マーラーに入るまえに、弦楽だけで演奏されたバッハ。
心をこめた丁寧なアリア。
目をつぶって聴いていたら、あまりの美しさに悲しくなってしまって涙が出てしまった。

本編マーラーは、これまで聴いてきたこのコンビのマーラー演奏のトレンド上に位置する、素直で爽快なもので、神奈川フィルの持ち味の美音のシャワーを80分間にわたって浴びつくした思いであります。
7番を実演で聴くのは、これが初めて。
以前、若杉さんの演奏会のチケットを手にしながら、発熱でふいにしてしまった因縁の曲。
   
 CD で聴くのと大違いの、断トツの面白さ。普段お目にかかることのない楽器が、あちこちに出てくるし、ソロもたくさん、いろんな奏法もたくさん。
なんでもありのマーラーの典型みたいな曲だから、実際に目で見ながら聴くのが楽しい。

 素直な演奏だから、7番という曲の良さが今更ながらに、よくわかった。
番号を追って聴き進むことも、とても意義深くて、グループ分けできるそれぞれの番号が、グループを超えて互いに密接だったり、ターニングポイントになっていたり、というようなことも解ってくる次第だ。
声楽を伴わない純粋交響曲として、5、6、7番は仲間同士だし、旋律の関連性もある。
そして、7番にはその次ぎのオペラのような「千人の交響曲」への橋渡しが感じられるし、「大地の歌」「9番」、表現主義音楽、無調などへの扉も感じられる。
 そんなことを思いつつ聴くことができた。

幻想味豊かな第1楽章。テノール・ホルンの存在感にうれしくなりつつ、徐々にテンポと活力を上げてゆく場面のかっこよさにワクワク。
第1楽章からして大興奮のワタクシ。
野生的であり、神聖でもあり、柔和でもあり、激情的。
そんな音楽のジェットコースター的な起伏を、聖響さんは気負わずに自然に描いておりました。外から聴こえるカウベルの音は、ちょっと弱め。
 夜曲のはじめの第2楽章。夜の行進曲ともいわれるが、各楽器間の橋渡しが絶妙で、退屈しがちのこの楽章がとっても楽しく聴けた。
 暗い影が時おりサッとよぎるかのような不思議な舞踏曲のような3楽章だけど、中間部の木管の明るい響きはこのオケならではだし、明快なヴィオラソロ、チェロ軍団のおおらかな歌い口。いろんなことがあって、これまた面白くてしょうがなかったんです。
 夜曲ふたつめの第4楽章は、わたしの大好きな楽章。
寝る前にナイトキャップみたいにして聴くこともあります。
ここにおいて、神奈フィルの透き通るような美しい音色が最大に楽しめたのです。
できれば、この演奏を持って帰ってナイトキャップの定番としたいくらい。
石田コンマスの華奢だけれど存在感たっぷりソロに始まる、うっとりするくらいのセレナーデは、この日の演奏の白眉でありました。
こんなオケを指揮できる聖響さんも幸せそうにしてましたよ。
ちょっと遠めだったけれど、愛らしいギターとマンドリンの音色まで神奈フィル化していて、うれしい限り。
でも、そんなほのぼのムードの中にも、ときおり不安な表情が入り込んでくるのがマーラーらしいところ。
 一転、晴れやかムードにつつまれる第5楽章は、もう何も考えずに思い切り大突進。
何度も何度も、姿かたちを変えて繰り返されるロンド主題、その色分けを明確に描きわけるところまではいま一歩。
でも、こんな明るく輝かしい終楽章の演奏もあってもいい。
最後に、第1楽章のあの主題が、高らかに響きわたると、感動で、全身に鳥肌が立ってしまいましたよ。
痛快で、ワタクシも、ひとつ吹っ切れたような思いでございます。

ジャン!と終わって、ホールはブラボーの嵐。
力を使い果たしお疲れムードの指揮者とメンバーたちでしたが、充実・大満足の表情でした。

7番は、マーラーの感情やとりまく環境の要素、そのすべてのごった煮みたいな音楽だから、演奏によって聴こえ方が全然違ってくる。
聖響&神奈フィルの「7番」は、音楽にあまりのめり込まずに、適度に外側にいながらも、実に美しい音色で奇矯なマーラーの響きを包みこんでしまったような不思議に魅力あふれる演奏でした。
次に7番をやるときは、また違う顔を描きだすことでしょうね。

5月は、いよいよ「第9」です。
いまから期待と不安(?)の思いです・・・・。

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アフターコンサートは、ゲストにもいらっしゃっていただき、いつもの店で、興味深いお話を聞かせていただきながら、いつもと同じものを飲んで食べて、楽しく過ごしました。

そして2軒目は、野毛にある中華料理店で、紹興酒。

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しかし、よく食べ、よく飲むのであります。
正しき経済活動。
皆さま、お世話になりました。

 マーラー 7番の過去記事

「アバド&シカゴ交響楽団」

「テンシュテット&ロンドン・フィルハーモニック」

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2011年4月22日 (金)

バッハ マタイ受難曲 レオンハルト指揮

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葉桜と十字架。

今年のイースターは、暦の関係でちょっと遅めで、24日が復活祭。
そして、今日が聖金曜日。

前夜の木曜に、イエスは12使徒と最後の晩餐を行ったわけだが、最近それは水曜日ではないかとの説が出されたようだ。
当時のユダヤ歴でなく、太陽暦からだけで伝来してきたゆえの齟齬とするもののようだ。
それは、西暦33年4月1日のこと。

イエスの受難は、悲しむべきことで、幾多の音楽がここに寄せられてきたわけだが、その受難の悲しみも、二日後の復活という慶事があるからこそ成り立つ音楽だったであろう。
そもそも、復活を否定してしまったら、キリスト教自体が存在しえないのだから・・・。

こうした宗教の定説に、新説を持ち込むのはタブーだし、すぐに排斥されるのが常で、そうして人々の心の糧として生き残り、存在してきたのが宗教なわけです。

Oruban

普段は、それぞれが思う神様に手を合わせるわけであるが、今回のような人類史上に並び立つような震災や災害を目の当たりにして、いったいそれぞれの多様な神様は何をして下さっていたのだろうか・・・・。

想像だにできなかった自然の猛威を前に、神様も人間も、なすすべがなかった・・・・のか。

「主は奪い、そして与える。主の御名は誉むべきなり」
ヨブ記にあります。

そして「沈黙」の神は、語らない。

福島では、避難区域が策定され、生まれ育ち、暮らしてきた方々がその場所を失ってしまうこととなった。太古の国を追われた民族を思わざるをえない・・・。

御利益や守り神的な信仰を求める日本人には、なかなか理解しずらいキリスト教社会の神様への思いかもしれない。

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バッハ「マタイ受難曲」。

この極めて偉大な作品に対して、わたしは何を語ればいいのでしょうか。

頭を垂れ、ただひたすらに耳を傾けるのみ。

昔より、「無人島に持ってゆく1枚」といえば、多くの方が「マタイ」と答えておりました。

わたしも、そのひとり。

欲張りなわたしは、「マタイ」と対局にある音楽の一種として、「リング」と「トリスタン」と「パルシファル」の帯同も許していただきたい。
ついでに、フィンジとディーリアスのどれか1枚も許して欲しいデス。

同じバッハの「ヨハネ」も大いに心揺さぶる作品なのですが、「マタイ」の静に対して、「ヨハネ」の動。
独唱やソロの登場人物が活躍する「マタイ」に対し、合唱=群衆のドラマテックな存在が際立つ「ヨハネ」。
福音書の性格に応じたバッハの見方だったのかもしれない。
共観福音書のひとつがマタイであり、4つある新約の福音書の中で唯一独自な存在がヨハネ。
そう、ついでに思えば、「ルカ伝」を中心にイエス生誕のくだりに基づいたのが「クリスマス・オラトリオ」で、「マルコ受難曲」もバッハは残しているが、その楽譜は消失。

「ヨハネ受難曲」は、そんなに身がまえなくてもいつも聴けるけれど、「マタイ受難曲」は、姿勢を正して、特別な思いのもとに聴くような類の作品と自分で決め付けちゃってる。
「3時間全編が聴きどころであり、どこかを抜き出して聴くことなんてわたしにはできない。
だからよけいに早々に聴けない。

A)福音史家=エヴァンゲリストによる福音書の朗読

B)福音書の登場人物による福音書の朗読=語り

C)独唱者によるレシタティーボとアリア

 

D)合唱曲

E)コラール

この5つの組み合わせを基本に、それぞれにまたバリエーションがある。

多くの方と共通するかもしれませんが、わたしの愛する場面を列挙しておきます。

第1部

・冒頭の合唱「Kommt, ihr Tochter, helft mir klagen」(D)
 ~来たれ娘たちよ、われとも嘆かん~
 暗いけれども、荘重・荘厳。これから始まる厳しいドラマの幕開きに相応しい合唱。

・アルトのアリア「Buβ und Reu」(C)
 ~悔いと悲しみは~
 フルートのオブリガートソロをともなったアリア、
 人間だれしも罪を重ね、そして悔いるのであります。

・ソプラノのアリア「Bute nur ,du liebes Herz」(C)
 ~流れよわが血、いとしい御心~
 ここでもフルートをともなった淡々とした中にも悲痛な歌。

・ソプラノのアリア「Ich will dir mein Herze Schenken」(C)
 ~われ、汝に心を捧げん~
 最後の晩餐の場面。オーボエダモーレの掛け合いのもとに明るさまでも。
 イエス讃歌。

・ペテロの裏切りの預言 (A)(B)(E)
 この受難曲の最大のクライマックス「ペテロの否認」の伏線をなす部分。
 イエスが鶏が鳴く前に3度わたしを知らないというだろうと・・・・
 この場面の前後に「受難コラール」が置かれていて、いやでも感動が増す。

・テノールのアリアと合唱「Ich will bei meinen Jesu wachen」 (C)(D)
 ~イエスのもとに目覚めていよう~
 テノールの甘味なるアリアに、合唱が掛け合う。

・ソプラノとアルト二重唱、合唱「So ist men Jesu nu gefangen」(C)(D)
 ~かくしてイエスは捕えられたり~
 切迫した民衆と、捕縛を客観的なまでに歌う独唱者たちの対比

・合唱「O Mensch ,bewein dein Sunde Groß」(D)
 ~人よ、汝のおおいなる罪を悲しめ~
 涙が出てきてしまう。合唱というよりはコラール。
 悲しいくらいに美しく心に響く。

第2部

・アルトのアリアと合唱「Ach nun ist mein Jesu hin」 (C)(D)
 ~ああ、わがイエスは行っていまわれた~
 イエスを失った悲痛な喪失感ななかにも、イエスへの甘味なまでの愛。

・ペテロの否認 (A)(B)
 心配で師を追ってきたペテロのもとに女中が寄ってきて、この人も一緒だったと。
 群衆も加わり、3度否認してしまう。
 そのとき、鶏が泣き、イエスの言葉を思い出し、ペテロは外へでて
 激しく泣いた。
  淡々とした運びのなかに、追い詰められるペテロと、その後の涙。
 エヴァンゲリストのペテロの涙を代弁するような語り。

 そして、あのヴァイオリンのソロが始まる・・・・

 この人間の悲しみを射抜いたような素晴らしい場面に、幾度涙を流したかわからない。
 聖書を読んでも一番ぐっときてしまう。
 誰しもが、ペテロと同じなのだから。

・アルトのアリア 「Erbarme dich」 (C)
 ~憐れみたまえ、わが神よ わたしの苦い涙をお認めください
   心も、目も、ともに御前にひざまずき、激しくないております~
 
 なんという歌でありましょうか。
 ペテロの涙、それは、われわれ人間存在の涙なのです。
 父が死んだときも、この旋律が頭の中に流れました。
 そう・・・・、多くを語らずです。

・バスのアリア 「Gebt mir meinen Jesum wieder」 (C)
 ~わたしのイエスを返してください~
 ヴァイオリンの技巧的なソロが華麗なまでに聴こえるけれど、
 バスの歌は明るくもありながら渋いもの。

・ピラトの裁判 (A)(B)
 ピラトはイエスとかかわりになりたくなかったが、
 ユダヤ長老たちが群衆を扇動。
 「バラバ!!」「十字架に!!」
  という合唱の劇的かつ無慈悲な叫びにぞっとしてしまう。

・ソプラノのアリア 「Aus Liebe will mein Heiland sterben」(C)
 ~愛により、わが救い主は死のうとされてます~
 無垢で透明感ただようソプラノの歌。
 木管の背景は、無常感すら漂わせている。

・アルトのアリア 「Konnen Tranen meiner Wangen」(C)
~頬つたう涙が・・~
 単調なる弦楽器の繰り返しが妙に忘れられなくなる。
 アルトソロには、さほどの苦しみさや悲しみはないが、
 悲しみのそこはかとない表出が、歌手の聴かせどころのひとつかも。

・受難コラール
 5つあるこの曲の中の有名なコラールは、イエスが辱めを受け、
 耐えておられる場面のあとに歌われるものが一番長く、本格的。
 これもまた、涙誘う。。。

・バスのアリア 「Komm,sußes Kreuz ,so will ich sagen」(C)
 ~来たれ、甘き十字架~
 ヴィオラダガンバの古雅な調べに乗せてバスが、
 イエスと十字架への思いを歌う。
 前段の福音史家の語りでは、「十字架」の言葉を装飾的に扱っている。
 キリスト者にとっての、十字架は計り知れないほどの重みをもっている。

・イエスの死
 福音史家は、いよいよ神妙となり通奏低音にも緊張と神性が満ちてくる。
 イエスの言葉「エリ エリ ラマ サバクタニ」
 福音史家の訳「Mein Gott , Mein Gott warum hast du mich verlassen」
 ~わが神よ、何故に我をお見捨てになったのですか・・・~
 福音書の不思議のひとつ、ゲッセマネで血の汗を流すほど
 恐怖にあったのに、死を覚悟し、神に殉じたのに。
 バッハのこの部分の描き方は、あっけないほどだが、
 その静けさが深遠さをよびさます。

・受難コラール
 イエスの磔刑による死を悼むレクイエムのような曲調。

・バスのアリア 「Mache dich , Mein Herze , rein」 (C)
 ~わが心よ、おのれを清めよ~
 イエスを埋葬したあとの清涼感ただようバスの名アリア。
 不思議なほどに、すっきりした心情を歌いこんでいる。
 わたしも、歌いたい。

・独唱者と合唱 レシタティーボ
  大団円を迎えるかのように、物語を、イエスを回顧し、
  人間の戒めとして、イエスへの感謝を淡々と歌う。

 

・合唱 「Wir setzen uns mit Tranen nieder」
 ~わたしたちは、涙を流してひざまずき、
    お墓のなかのあなたに呼びかけます
   お休みください 安らかにと ~

 時が時だから、この最後の沈痛かつ慰めに満ちた合唱がこたえる・・・。

    Ruhe sanfte~安らかに お休みください

 

 この慰めに満ちた言葉が繰り返される。
 これこそ、バッハの人間への優しさであります。
 そして、それは、イエスの優しさでもあるんです。
 とかく、峻厳な音楽と思われがちだけれど、この受難曲には、
 何度も何度も躓いてしまう人間への愛情と、そんな悲しい存在の人間への
 優しさが満ちているのではないでしょうか。

 

    福音史家:クリストフ・プレガルディエン 
    イエス、バス:マックス・フォン・エグモント
    アルト:ルネ・ヤーコブス     
    アルト:デイビット・コルディエール
    テノール:マルクス・シェーファー 
    テノール:ジョン・エルウェス
    バス:クラウス・メルテンス    
    バス:ペーター・リカ

  グスタフ・レオンハルト指揮 ラ・プティット・バンド
                テルツ少年合唱団

「マタイ」といえば、リヒター。
それが染み付いているけれど、最初からリヒターだったわけじゃありませぬ。
この音楽をよく知るところになったのは、NHKが呼んだリリングとシュトットガルトの演奏がテレビやFMで何度も放送されたとき。
こんなすごい音楽だったんだ、と驚き、聖書も読んだ高校生。
その後に、リヒターにヨッフムだった。

古楽器演奏で初めて聴いたのが、レオンハルトの演奏。
これには、耳が洗われるくらいに感動した。
厳しいリヒターや、穏やかなリリングやヨッフムなどとも全然違う次元にある清らかで、混じりけのないピュアなバッハとでもいいましょうか。
劇的な場面も、さらりと流しつつ、実はとても心がこもっていて、一音たりともおろそかにしてないので、核心に踏み込んでいるように聴こえる。
先鋭でギスギスしたピリオド奏法とは遠いところで、バッハの音楽が息づいているのを感じる。
歌手も真摯なものです。

ことしのイースターは、なにか特別なものに感じ、マタイも大いに心に沁み入りました。

そして、スーちゃんも亡くなってしまった。
安らかに・・・・。

 

 

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2011年4月19日 (火)

ブリテン 「パゴダの王女」 ロイヤル・バレエ

Kandamyoujin2

厳かなる神田明神。
狛犬も勇ましく、こちらでは右側が口を開き、左側は閉じている。
獅子でもない犬でもない狛犬はよく見ると不思議な存在である。
沖縄のシーサーも守り手だから怖い顔してるけれど、エジプトのスフィンクスはもっと穏やかな顔。
昔、これに似ている上司がいて、女子社員はみんなその人を狛犬と呼んでました。
でも、とても優しくて、いい人でした。

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そして、本殿の手前、ここにも獅子がいましたよ。
獅子山だそうで。

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ブリテンの唯一のバレエ音楽「パゴダの王女」をDVD観劇。
3年前に、ブリテン自演のCDを取り上げました。
その時、何度も何度も聴いて、とても気に入ってしまったブリテン作品となりました。
オペラに比べて、バレエにはまったく疎く、舞台も一度も観たことがないわたくし。
白鳥の湖やロメ・ジュリさえも映像ですら一度も通して見たことない。
バレエは、もっぱら音楽として聴くのみ。
怒られそうだけど、パフォーマンスのたびに起こる拍手で音楽やドラマが寸断されるのが、どうも気にくわない。
また、鑑賞用の演奏と実際のバレエが振りつけられる演奏とは、どうも違うような気もするし。

しかし、大好きなブリテン作品となると別で、あの素晴らしい音楽がどのように演じ踊られるのか非常に興味があった。
ということで、1年前に購入したDVDをようやくにして開封したのであります。

1989年の上演の映像だから、映像が鮮度的に最近のものとは比べ物にならないけれど、洒落たよく出来た音楽に、カラフルな衣装、ユニークな振り付け、そして目覚ましいばかりのバレエのテクニックに目も耳も釘付けになりましたよ。
しかし、1.2幕と3幕とでは、オーケストラ・ピットの音が全然違うように聴こえるんだけど。
そう前半はどことなく曇っていたけれど、3幕では鮮やかな響きがする。

この作品に関しては、こちら以前の記事をご参照

    バラ姫:ダルシー・バッセル    イバラ姫:フィオーナ・チャドウィック
    王子 :ジョナサン・コープ     王様 :アンソニー・ダウエル
    道化 :シモン・ライス        北方の王:アンソニー・ドーソン
    東方の王:ブルース・サンソン   西方の王:マーク・シルバー
    南方の王:アシュレイ・ペイジ   そのほか

    振付:ケネス・マクミラン

  アシュレイ・ローレンス指揮 コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団

イギリスの名振付家マクミランは92年に、指揮のニュージーランド出身のローレンスは90年に、それぞれすでに亡くなっている。
ことにローレンスは、シュトットガルトバレエに伴って来日中の我が国で亡くなっていて、この舞台は何か運命的なものを感じてしまう、彼らにとっての「白鳥の歌」なのだ。

それはともかくとして、いかにもブリテンらしいクールでカッコいいサウンドに、チャイコフスキーやプロコフィエフ、ストラヴィンスキーなどのエッセンスが散りばめられ、日本も含む東南アジアの音楽への傾倒ぶりも伺い知ることのできる素晴らしい音楽なんです。
その音楽に、感情の細やかなな機微をバレエというパフォーマンスを通じて植え付け表出するさまに映像を見ていて驚嘆してしまった。
バレエ素人だから許して欲しいけれど、振付家の才能もあろうが、表現者としてのバレエダンサーたちにもびっくり。どうしてあんなことができるんだろう・・・・。

あらすじを前回記事からコピーして、このDVDに合わせて少し変更して、再褐しておきます。

第1幕

3

古代王国の宮殿、イバラ姫とバラ姫が住み、王位継承者の姉イバラ姫のもとに、世界中から求婚者が現れる。東西南北の4人の王である。

4

(王たちは、それぞれに自国の自慢のダンスを披露するが、猿と化した廷臣たちは、南方の王の激しいリズムに反応して、きゃっきゃっと動き回るのが面白い。)
北方は男性的でかつ紳士的、東方はしなやかで華奢、西方はハンカチを握りしめたおかまチックな雰囲気、南方はワイルドな原住民風。
(音楽の巧みな描写をそのままに、描き分ける振付の妙です。)

1

尊大で性格の悪~いイバラ姫は、彼らに好意を示さない。
彼女は、しかし美人です。

5

そこに心優しく美しいバラ姫が現れ、王たちも見とれる。
これを見た、イバラ姫は、怒りバラ姫をいびる。

6

「およこし!」 イバラ姫は、王様の王冠を取り上げてしまう。
そして、あらたな客人の訪問。なんと、4匹の蛙たち。蛙は箱を届に来て、これを空けることのできたバラ姫に、箱の中からバラの花が現れ、姫は受け取り、送り主の王子に会いにいくため黄金の網の中に入る。(このエピソードは今回の映像にはありませんでした)

第2幕

7

網が舞い上がり、道化に導かれて、空気・水・火の世界を旅するバラ姫。
やがてパゴダの王国に到着するが、その国の人々は身動きひとつしない。
姫が人々に触れると、回り出す。(このあたりもこの振付演出は違っている)
愛想よい人々の歓待を受けるが、目隠しをされる。

8_2

(火トカゲじゃないけれど)やがて、火トカゲが登場するが、そのトカゲの醜い皮を脱ぐと美男の王子で、ふたりは恋に落ち優美に踊る。

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しかし、目隠しを取ると再び火トカゲに戻り、姫を追いまわす。
(ここもそんな風に見えなかった)

第3幕

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かつての王国では、イバラ姫が王冠を手にして父王を追放し幽閉している。
裏切られた父は悔やんでいる。


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助けておくれ、と父王。
そこへ、バラ姫とそれを追う火トカゲがやってくる。

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イバラ姫は、そのふたりを命じて捕らえるが、バラ姫は火トカゲを助けてくれるように懇願し、抱きしめる。ここで、火トカゲは再び王子となり、王国は滅び去る。

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悪い諸国の王たちを立ち回りの末撃退する王子。

 王子とバラ姫、皇帝とバラ姫をかつて助けた気のやさしい道化は、パゴダの国に赴き、民衆たちも自由を得る。

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ここで愛と自由をたたえて、数曲ディヴェルティスマンが登場人物たちにより踊られ、王子と姫は愛を誓い、明るいフィナーレを迎える


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ブリテンのおしゃれなエンディング。
オペラでもいつも感じる、そのセンスのよさったらない。
若い二人の間から、ひょっこり顔をだす道化。
犬じゃないですよ(笑)

マクミランは、ブリテンの、そして作曲者死のあとはブリテン財団の了解を得て、内容を一部変更しているようである。

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マクミランが見出したというバッセルが、そのスラリとした長身としなやかな動き、眼差しの豊かさでもってダントツに光っている。

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その相方のコープ王子もすごい身体能力というかなんというかあきれてしまうほど。
あのトカゲのくねくねとした動きや、王子への早変わりの変貌ぶりなど見事なもんだ。
敵を倒し、道化を従える王子さま~

2

あと、王様のへろへろぶりも愉快かつ上手いもんだ。

来シーズンの新国のバレエオープニングは、この「パゴダの王女」。
観るかどうかわからないけれど、ビントレーの新演出だし、楽しみなものです。

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2011年4月18日 (月)

グリーグ&シューマン ピアノ協奏曲 アラウ&ドホナーニ

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黄色と白。
基本の色が花となると、その基本ゆえに、とても美しいです。
花の色は、かつては自然色だったけれど、いろいろ手を加えて、華やかな色合いも仲間いりするようになってきた。

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日曜日は、いつもお世話になっておりますyurikamomeさん作成の渾身のオーディオ機器のおひろめ会に行ってまいりました。
音楽を愛するお仲間がたくさん集まり、会場は盛況でした。
横浜の中華街にあります、シルクロード舞踏館というところです。
場所が場所だけに、会のあとは、推してしるべし。

右から、そのシステムの産国は、ヨーロッパ(デンマークとフランス)、真ん中が中国、左が日本とのことでした。
それぞれ聴き比べをさせていただきましたが、スケール感と鳴りっぷりのよさは30Kg以上もあるという右手のものが随一。でもエレガンスともいうべき雰囲気をも漂うところが欧州組ならではでしょうか。

わたしの家にあるシステムは、タンノイのばかでかいもので、30年選手ですが、コーンが破れてしまい、おろかにも中身を入れ替えてしまったら相当イマイチになってしまった。
そして、部屋を追い出されたわたくしは、ここ数年はヘッドホン生活。
ヘッドホンで、ワーグナーとか聴いてるんだから悲しいです。

そんなわたくし、演奏会以外に渇望を癒していただいたのが、昨日のパーティでした。
ちまちまと、ヘッドフォンで聴くのと段違い。
こうでなくっちゃ。
 そして、真ん中、中国も驚きの解像度。恐るべし。
日本の安定感と繊細さ。器楽やソロなどをしっとり聴くには一番かも。

いろんな音源を、素晴らしい音で楽しませていただきました。
どうもありがとうございました。
飲み物と、バケットもとてもおいしくいただきました。
奥様にも御礼申し上げます。

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アナログ時代の名録音を今日は聴きます。
グリーグとシューマンのピアノ協奏曲という、黄金カップリング。
「運命・未完成」、「メンコン・チャイコン」などと並ぶレコード時代のA面B面の組み合わせの王道でございます。
両方、哀愁ただようイ短調なところが名コンビをなしてます。

CD初期の頃のフィリップスの廉価盤シリーズは、ジャケットが??なのだけれど、いまや貴重な音源が含まれていて、この「グリ・シュー」もその1枚。
レコード時代のグロリア・シリーズのCD版だったけれど、30枚くらいしか出なかった。

クラウディオ・アラウドホナーニ指揮するアムステルダム・コンセルトヘボウの62年頃の録音。
珍しい顔合わせだし、なんといっても、60年代のコンセルトヘボウの馥郁とした音色とフィリップスの暖色系の録音が楽しめるのが大きい。
オケの音が少し丸みを帯びてもこもこして感じるのは経年のゆえしょうがない。
でも、このアナログチックな手作り感あるオーケストラの音色には抗しがたい魅力を感じる一方、ピアノの明晰かつ幅広いレンジを的確にとらえた録音にも驚きを感じる。
四半世紀前の録音とはとうてい信じがたい。
いまどきの、リアルで鮮明極まりない録音は、音を正確無比に伝えてくれるけれど、案外にその情報量は限定的で、聴きながら自分の頭のなかで補正したり、別なイメージを思い描きながらという聴き方になっているような気もする。

膨大で、これでもかというばかかりに押し寄せるCDやDVDの数々。
焦って、それらを手にしなくては気がすまない自分。
でも膨れ上がる未聴の音源に、自分の余生を顧みると不安を感じてしまう。
それでも、拡大拡張を繰り返す悲しい自分。

昨日、聴かせていただいた音響や、みなさんとの音楽談義を経て、今日聴く美しい録音をともなった音楽的な素晴らしい演奏。
なんだか、とっても考えてしまう。
技術・科学の発展とともに、音楽する、聴く心は、自分のなかで少しばかり形骸化し、退化してしまったのではないかと。
 刹那的になることはないのだけれど、いま聴く音楽を、いままで以上に大切に聴きたくなってきたわたくしにございました。

それにしても、アラウのじっくりと歩みを進めるかのような骨太なピアノが、ときに立ち止まり優しい表情や憂いを見せて聴かせる抒情は素晴らしい。
グリーグの第1楽章は、オーケストラのふわっとした合いの手も合わせて絶品なのです。
あと、シューマンの3楽章のどこまでも飛翔するかのようなモティーフの繰り返しを、アラウほど着実にしっとりと聴かせる演奏をほかにしらない。
ともかく、両曲とも素晴らしいんだから。
 ドホナーニの指揮も後年のドライでデジタルなものとは大違いで、情も血も通ったぬくもり感を感じるもので、コンセルトヘボウならではの音色がしているところが嬉しい。

某評論家先生のお言葉にあるとおり、「名演奏に名録音あり」!

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薄暮なので、ボケちゃったけれど、中華街にも「がんばろう日本」の旗がなびいてます。
「加油~「がんばれ!」のことだそうです。
油(ガソリンなど)をさして元気だせーーーっ、というような意味みたいです。
いいですね、わたしにはその油は酒やおいしい食べ物、そして
音楽なんですな

この日、二次会に伺ったのは四川料理の「新錦江」。
2度目の訪問なのですが、前よりもパワーアップして、さらにおいしくなりました。
そのパワーアップとは、辛さですよ。

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おいしい料理の数々は、→こちら別館にてご覧ください。

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2011年4月16日 (土)

ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」 オークレール

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神田明神のお隣にあった「神田の家」。
再建された昭和初期の一軒家。
古民家だけど、わたしのような人間には、これまた懐かしい風情。

両親や、そのまた親たちはこんな風な家々に住まい、昭和30年代終わり頃に、両親は一念発起して、住宅メーカーの住まいを手に入れた。
ダイニングがあり、洋室と和室が半分半分。
戦後の第2世代の勃興期でありました。

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その館の上には、わが世の春を謳歌する桜たち。
桜は、なにもしなくても、ちゃんと春が来ると咲くんです。
自然の摂理はこうして正しく機能するのに、あんな風に牙を剥くなんて・・・・。
人間の能力には限界があり、自然の力には底がない。
悔しい、悲しいけれどしょうがない。
折り合いを付けて生きてゆくしかないのです。

今日、栃木南部で起きた地震は、余震ではないらしい。
今住む千葉も結構揺れました。
備えも自己責任で怠らないようにしなくては・・・。

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春を超えて、初夏みたいな今日、土曜日。
東北も暖かったようです。
明日からはまた平年並み、しかも寒さも戻ってくるというから体調に気をつけなくてはなりませぬ。

そうはいっても、春乱慢。
その名も「春」、ベートーヴェンのスプリング・ソナタを聴きました。
ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調「春」です。
ベートーヴェン30歳の幸せな作品は、その前の4番と同時期に書かれた姉妹関係をなしている。
全編に伸びやかで、明るくて、屈託のない雰囲気に満たされていて、その柔和さに聴く者みんな和んでしまうこととなる。
「春」とは、のちに付けられたものとはいえ、よくいったものである。
間奏風の橋渡し風のスケルツォがとても短くて、それだけで第3楽章となっているところが面白いところ。

厳ついベートーヴェンより、こんな優しくて、明るい顔したベートーヴェンもいい。
第2楽章はことに美しい。

フランス生まれの女流ヴァイオリニスト、ミシェル・オークレール(1924~2005)の1950年代のレコードを復刻したアインザッツ・レーベルの音源にて。
その才能をティボーに愛され、若くして活躍したオークレール。
ともかく若やいでいて、美しいヴァイオリンの音色が、レコードの原音そのままに楽しめる。
フランスのベートーヴェンというに相応しく、クリュイタンスのベートーヴェンの緩徐楽章を聴くような思いを味わった。
ピアノはジェヌヴィエーヴ・ジョワ。
カップリングには、ティボーにも学んだシェリングが、そのティボーの指揮で録音した同じベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が収録されていて、そちらも清々しいものでした。

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2011年4月15日 (金)

アルヴォ・ペルト 「ヨハネ受難曲」 トーナス・ペルグリヌス

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代官山ヒルサイドテラスのとある一角。
日曜日に足を延ばして散策。
隣接する中目黒とあわせて、たいそうな人出でして、「自粛の自粛」ともいえる効果を醸し出してました。
公園では、花見も行われてましたよ。
春は、こうでなくっちゃぁねぇ。
人はたくさんいるのに、でも、どことなく静かなところが、日本人の気持ちの美しいところです。

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現代の受難曲のひとつ、エストニアのアルヴォ・ペルト(1935~)のヨハネ受難曲

人の心をえぐるような新約の受難の物語、そしてそれをテキストとした受難曲は、当然にシリアスな作品・・・、というイメージが植えつけられているのは、いうまでもなく、受難曲の代名詞ともいうべき、マタイとヨハネのバッハの作品が厳然と、そして超然とそびえているから。

このところ、聖金曜日の22日と、復活祭の24日にピークを合わせて、受難曲を金曜日に聴いてます。
最後は、当然に大バッハを予定しているのですが、無名作曲家のものをいれると無数にあるのですが、音源として聴けるものはわずか。
バッハを境に受難曲はバッハ前が聖歌風で情を極力交えず、淡々と、それも宗教改革の流れのなかで禁欲的な音楽が前提となっていたのではないかと思う。
いわば、教会音楽として、正しき信者を音楽でわかりやすく導くという使命のもとに。
 でも、バッハ後は人間存在を問うような強いメッセージ力を持った受難曲が多いのではと思われる。
偉大なる先達バッハゆえに。

現在ある作曲家、アルヴォ・ペルトの受難曲は、そんな厳しい受難曲の世界に、現代人の心の渇きを癒すかのような、全編アダージョともいえる抒情的な作品を問うたのでした。
しかし、ヒーリング・ミュージックなどと安易に言いたくない。
バッハをおそらくは強く意識しつつも、バッハ以前の素朴でシンプルな語りとも歌ともとれるような静謐な作品は、福音書の物語そのままに、いやでも真実味がある。

福音史家を男女4つの声部のカルテットとし、イエスは重厚なバス、ピラトをテノール、その他人物をソプラノ、カウンターテノール、テノール、バスのソロたち。
そして、ヴァイオリン、オーボエのソロに、通奏低音。
ルネサンス、バロックの時代のような構成で、歌詞はラテン語。
曲調は、聖歌風でグレゴリオっぽくもあり、ルネサンスのポリフォニー風でもあり、かつまたロシア聖教風のエキゾシズムも漂わせたり・・・・。
一口に言い尽せない、いろんな諸要素がシンプルなる響きの中に包括されている・・・。
ミニマル風の繰り返し効果もそこにはちゃっかりあって、妙に耳に残るし。
あとから来た人は得である・・・、ともいえちゃいそう。
わたしも、長くクラシック音楽を聴いてきたから、いろんなことを感じちゃう。

しかし、真摯極まりないこのペルトの音楽は、心安らぐとともに、妙に不安というか不満を植えつけてくれる。
この厳しすぎる日々、イエスの受難が、この安らかななる響きの中に安住してていいものだろうかと・・・・。
もちろん、そんなことを前提に書かれたわけではないのだし、それをここに求めるのは酷な訳だけれども、少なくとも、偉大なるバッハは万能で、その音楽、とくに受難曲とミサ曲は、厳しさと優しさとでもって、いついかなる時にも心に迫ってくるのであります。

受難曲のならわしどおり、冒頭に、「これ、ヨハネによる主イエス・キリストの物語なり」と歌われ、イエスが十字架上で「こと足れり」と息を引き取ったあと、「慈悲深き主よ、われらがためにアーメン」と調和の中で物語を完結します。
曲のなかでは、捕縛の場やユダの裏切り、ペテロの否認、ピラトとの問答なども劇的なメリハリは少なめに進行します。
なにも考えずに聴くと、癒し系でスルーしてしまうが、福音書でもいいし、テキストを見ながら虚心にお聴きになることをお勧めしときます。

ナクソス盤は、アントニー・ピッツ指揮する「トーナス・ペルグリヌス」というグループの演奏。
こうした曲が、しっかりした演奏で手に入るのはありがたいことでありました。

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前段の桜は、上を見上げると、このように、たわわに咲きほこっておりました。

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2011年4月14日 (木)

ドヴォルザーク 「伝説曲」 クーベリック指揮

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御茶ノ水方面に行ったものだから、久しぶりに神田明神に。
東京都心部の総氏神ともいうべき厳然たる格式を誇る神社。
場所柄、またそのご由緒から、平日でもスーツ姿の男性の参拝客が目立つ。
本社へ出張のサラリーマンが、立ちよる風情は、行き交うその言葉尻からもわかります。

ご覧のとおり、実に清々しい雰囲気。
空も真っ青ですよ。

この神社が、平将門の首が至近に祭られたことから、将門とゆかりがあり、大手町近辺でも将門恐るべしの地があります。
茨城の岩井(現板東市)の将門神社との関連もありで、ミステリアスな由緒がいろいろ語られてます。
その茨城のその地で、わたしはたいへん悲しくも忘れえぬ体験をしたのですが、それはここでは書くにあたわずです。
いまもって引きずってるかもですから・・・・・。

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境内の桜も満開。
怪しいまでの美しさにございました。

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朱の門と淡いさくら色は、絶妙の色の対比でございます。
そして、青空。

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神道の流れから、イエスの磔刑のジャケットということで、これはまたそぐわないのでありますが、今日はこのスターバト・マーテルの2CDの一方のカップリング、ドヴォルザーク「伝説曲」を。

わたしは、この曲が大好きなんです。
ドヴォルザーク40歳の1881年に、ピアノ二重奏曲として完成され、すぐに小規模オーケストラのための曲として編曲された。

全部で10曲からなる主題をもたない幻想的な組曲のような形態で、スラブ舞曲のようなリズム溢れる民族音楽でなく、そのスラブ舞曲にも内包されるリズムより哀愁メロディ優先の舞曲のようなものを集積した小品たちである。
伝説曲=レジェンド、とありながら具体性はなくって、リリカルで郷愁にあふれたメランコリックな小品の集まり。
 メロディメーカーとしてのドヴォルザークらしく、親しみやすい旋律が滔々とどこまでも流れ、やむことがないものだし、それが室内オーケストラによる軽めで透明感ある響き。
だから、とっても身近に聴こえて、どの曲も、暖炉のある部屋で、母親やお婆ちゃんの優しい物語をゆっくりと聴いているような感じなのだ。

どこがどうの、ということを10曲にコメントはできませぬが、ともかく10曲でひとつのイメージ。
それは、優しいメロディへの安心感でしょうか。
不安な日々、このようなシンプルでありながら、優しい包容力を持つ曲が、心に滲みるのでありました。

いくつかの録音がいまや出てます。
しかし、この曲、初の正規録音は、ラファエル・クーベリック指揮の珍しくもイギリス室内管弦楽団のDGのものでしょうか。
大昔、大学時代にNHKでBBC放送によるとみられる、このコンビのライブが放送された。
それを録音して、こんな素敵な曲があるのかと、何度も何度もカセットテープを流し続けた。その頃、ほどなくスタジオ録音されたこのコンビのレコードが発売されたものだ。
もう四半世紀になります。
まさに、レジェンド。
ドヴォルザークへの愛情に満ちたクーベリックのいたわるような指揮に、透明感と自発性あふれるイギリス室内管。
わたしにとって、この曲一番の演奏はゆるぎないです。

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おっ、境内のはるか向こうに、スカイツリーが。

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2011年4月13日 (水)

「THE PRETENDER」 ジャクソン・ブラウン

Shibuya

この場所がわかる方は、かなりのCDショップ好き。
ほんとの雑踏は、それも日本一ともいうべき人混みの坩堝は、もっと左側の方にあるけれど。
大学をこの街で過ごし、その頃からも、この街は若者の街だった。
いろんな思い出がここにあるし、ここに捨ててもきた。

いまや、ここに集まる若者たちの親のような年代になってしまい、わたしにとってこの街はまったく違う街であり、受け入れがたい街に変貌してしまった。
飲んで騒いだ店やその界隈もまったく姿を変えてしまったし、バイトした場所も新しいビルにとって変わったりして、訳のわからない言語を駆使する異邦人ばかりがそこにいる。
いや、異邦人はわたしなのかも・・・・・。

でも若者たちよ、この街に佇み、かつてあった思い出を懐かしみ、居場所を探すさまよえる私を優しく見守って欲しい。

Jackson_browne_the_pretender

わたしの大学時代とサラリーマン時代初期を支えてくれた歌が、ジャクソン・ブラウンの作品の数々。
根っからのアメリカのシンガーソングライターであるが、アメリカ人の両親のもと、1948年ドイツのハイデルベルクにたまたま生まれたということを度外視しても、わたしは、ジャクソン・ブラウンはアメリカのシューベルトではないかと思っている。
自ら詞を書いて、曲を作って、歌う、という中世の吟遊詩人ともとれるくらいの芸術家。
そして、シューベルトのように、ナイーブで歌心あふれ、未来を明るく歌い、そして切ないくらいに過去も懐かしむ。死の影すらただようこともある。。。。

ピュアで純粋な歌声がまた素晴らしくて、フレンドリーなものだから、一緒に歌いたくなってしまう。
いま、何枚のレコードやCDが作られたか知れないが、そのどれもに70年代から変わらぬJ・ブラウンの刻印がある。
アメリカの良心を背景にしつつも、フォークロックともいうべき、カントリーな曲調に哀感と郷愁がたっぷり詰まっていて、日本人の繊細な聴き手の心にもさりげなく迫ってくるたぐいの歌、それがジャクソン・ブラウンなんだ。

いまだから言えるけれど、恋に悩んだとき、失恋したとき、好きな人ができたとき、大学を去る時、社会人として戸惑いを覚えたとき、そしてまたそこで恋をしたとき・・・・・、そんなときにいつも、ジャクソン・ブラウンの歌があった。
わたしの、本流のクラシック音楽とともに長くあって、それと不思議に共存してきた感もあるんです。

こんな大事なアーティストをいままで文章にできなかった。

この国の誰もが、あの日以来変わってしまった世の中に戸惑い、そして自分ももしかしたら変わってしまったとみんな自覚しているのではないかと思う。
明日、なにがあるかわからない、そんな日々。
そして、その備えも人それぞれだけれど、みんなが生きてきた昨日までの日々は変えられないし、変えることが絶対にできない不変のもの。
それを、懐かしんで、大事に思うことのどこが悪いだろう。
おんなじことをまた繰り返すかもしれないけれど、わたしは過去に軸足をしっかり置いて、これから始まる明日をしっかり生きていこうと、そんな風にJ・ブラウンの歌を聴きながら思ったのです。

      THE PRETENDER

 フリーウェイのもと、その日陰に一軒家を借りよう
 毎朝、昼の弁当を詰めて 働きに出よう
 そして、日が暮れたら家に帰り 身を横たえる


 そしてまた朝の光が差し込んできたら、起き上がって同じことを繰り返す 
 アーメン  もう一度言おう、アーメンと
 

 僕たちが待っていた恋がもたらす変化
 それが、どうなってしまったか、知りたいんだ
 一時の気まぐれの夢だったろうか
 もっと大きな目覚めを呼び覚ます夢だったのだろうか
 時は過ぎ去るもの そう、結局は瞬きのうちに過ぎ去るものだから

 そしてまた朝の光が差し込んできたら、起き上がって同じことを繰り返す 

 アーメン  もう一度言おう、アーメンと

 愛を渇望しながらも、現実には生きるため稼がなくてはならない
 サイレンが歌い、教会の鐘が鳴り響き
 屑鉄屋が車のフェンダーを叩す ここでは退役軍人が戦いの夢をみながら
 信号待ちのつかの間にまどろみ、
 子供たちは無表情にアイスクリームベンダーを待ちうける

 そんな街 涼しい夕べを仮面を被ったように、さまよい歩くふりをしよう
 そう、わかってるんだ 希望も夢も
 始まり、終わるのはこの街なんだ・・・・・・・

 僕は幸せなバカになろう
 そして、まっとうな金を儲けるために奮闘しよう
 
 宣伝広告が狙いをさだめ 金を払ってくれるものの身と心に訴える世界で
 僕はあるものすべてを信じよう
 金を出せば買える物を信じよう
 真の愛がその競争相手であった世界で

 そこにいるのですか?
 こんな、偽りのさすらい人のために祈って欲しい
 最初は、若くて強かったのに
 結局のところ負けてしまった僕に

 こんな、偽りのさすらい人のために祈って欲しい
 そこにいてくれるの? 僕のために?
 こんな、偽りのさすらい人のために祈って欲しい
 支えて欲しい、こんなさすらいの自分を
                           (J・ブラウン)


PRETENDERは、偽善者や偽りの顔を持つ人物のこと。
人間だれしも、Pretennderなんです。
でも日々生きてかなくちゃなんない。
そして、みんな生かされている。
そんな、悲しいくらいに無情の歌。

このアルバムは、ほかにも、「The Fuse」、「Linda Paloma」、「Here come those tears again」、「The only chaild」などなど、名曲がぎっしり。
当時、妻が自殺してしまう不幸もあり、そんな影響や、残された愛息(ジャケットに登場)への思いなども内包してます。
アメリカという多民族国家を代表するかのようなジャケットの写真、白いTシャツを着て真っすぐ歩くJ・ブラウンが印象的。

今日、記事を書いて吹っ切れました。
ジャクソン・ブラウンの懐かしい歌をまた取り上げることとしましょう。

Syoheibashi2

今日、昌平橋から見た神田川。
桜の花びらが、きれいともいえない川面に流れてました。
右手は、旧昌平橋駅。
左手の石丸電気は閉店。ソフト館も閉店。
ヤマギワも閉店・・・。空きビルたくさん・・・・。
この街も、音楽好きを潤せた顔から急速に変貌してしまった。

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2011年4月11日 (月)

モーツァルト 「皇帝ティトゥスの慈悲」 ウェルザー・メスト指揮

Chidorigafuchi

まだ桜が咲く前の3月はじめの「千鳥ヶ淵」。
このお堀の先が皇居。
わたしは、ときどき海外のネットラジオで音楽を流しているが、ドイツの放送のニュースでも、日本の話題がのぼることが多い。
出てくる単語は、「ツナミ」「フクシマ」「エダノ」「ナオト・カン」など。
そして、ついに「カイザー・アキヒト」も登場した。
天皇にあたるドイツ語は、「Kaiser」ということになる。
意味合いは大幅にかわって、象徴としての天皇なんだけど、Kaiserとくると、より高貴で勇ましく聴こえるから只事じゃないね。
 でも、今回ばかりは、テレビに向かって玉音のごとく語りかけるお姿に、避難所を訪問されるお姿に、国民誰もが威厳と安らぎを覚えたに違いない。
役割が異なるとはいえ、おろおろする政治家たちとは大違い。

そして、日曜は、統一地方選挙。
静かな選挙戦ゆえ、再選と無難候補者の当選が目立ちます。
これもしょうがないねぇ。
地方の長や議員の方々には、言い逃れのできない立場という強い認識のもと、リアルな立場に立って行政を取り計らっていただきたい。
都の老獪も、常識の範囲のなかで、国をけん制しながら、強い権限を正しく行使していっていただきたい。

そして、月曜も止むことない余震が続いている。
ほんとにほんとにもう、勘弁してほしい。
余震域が南下してるのも気になる。


La_demenza_di_teto
モーツァルトの最後のオペラ「皇帝ティトゥスの慈悲」。
今日はDVD観劇。
モーツァルト最後の年、1791年の作品のうちのひとつ。
同年には、27番のピアノ協奏曲、その旋律の歌曲、アヴェベルム・コルプス、グラス・ハーモニカの作品、弦楽五重奏、クラリネット協奏曲、魔笛、レクイエム・・・・、などが書かれている。
これら晩年の作品には、死の影とともに澄み切った境地を映し出していて、わたしたち音楽好きの誰もがもっとも大切にしている音楽の数々だと思う。
 このティトゥスも、その晩年様式にあるといえるけれど、人気の点でいまひとつ。
そしてアリアとメロディの宝庫ともいえるが、どこかよそよそしい。
生真面目なオペラ・セリアということもある。
それと、動き少なめの単調なドラマにありか。
それが、ダ・ポンテやシカネーダのようなひらめきがない台本で増長しているかも。
でも、音楽は素晴らしく素敵なもの。
クラリネット協奏曲と同じフレーズも聴きとれる。
そして、そのクラリネットをともなうセストとヴィテーリアの二つのアリア、そして2幕のセストのアリアが絶品。

   ティトゥス:ヨナス・カウフマン   
   ヴィテーリア:エヴァ・メイ

   セスト:ヴェッリーナ・カサロヴァ 
   セルヴィリア:マリン・ハルテリウス

   アンニオ:リリアナ・ニキテアヌ  
   プブリオ:ギュンター・グロイスベック


 フランツ・ウェルザー-メスト指揮 チューリヒ歌劇場管弦楽団/合唱団
               演出:ジョナサン・ミラー
                         (2005.6@チューリヒ)

AC間もないローマ。実在のローマ皇帝ティトゥス・フラヴィウス・ヴェスパジャーヌスの物語。

第1幕

3
 
先代皇帝の娘ヴィテーリアは、現皇帝ティトゥスの妃になるものとばかり思っていたら、選ばれたのは異国の娘。嫉妬に怒ったヴィテーリアは、自分に思いを寄せる皇帝の親友セストをたぶらかせて皇帝暗殺を計画。

4

しかし、一転、異国の娘を去らせた報が入り、喜ぶ・・・、もつかの間今度は、セルヴィリアが選ばれる。またも怒るヴィテーリアは暗殺実行を指示。
彼女は、セストの妹で、これも皇帝の友アンニオのいいなずけ。
アンニオは耐え忍ぶも、彼女はティトゥスにアンニオとのことを直訴し、皇帝も納得。
二転三転して、ようやく妃にヴィテーリアが選ばれるも、すでに宮殿は暗殺グループが放った火によって大騒動に・・・・・。

第2幕
 
 殺されたのは影武者で、ティトゥスは無事。
実行犯として、セストが告発され元老院は猛獣場での処刑を言い渡し、ティトゥスは臣下のプブリオから処刑認可のサインを求められるが、親友を信じるティトゥスはセストとの面談を望む。
ふたりになり、真相を求めるティトゥスに動機を語らない頑ななセスト。
やむなく処刑を認めざるを得ないティトゥスだが、いまだに躊躇している。
自分のことを一切語らなかったセストに対し、良心と罪の呵責にとらわれ、自白する決心をするヴィテーリア。
一堂の前に出たティトゥス。
セストの処分を表明するが、そこにヴィテーリアが飛びだしてきて、自身の罪の告発をするので、ティトゥスは、二人による裏切りに、茫然とし意気消沈となり運命を嘆くが、意を決し、二人を許し、自分は慈悲に生きることを宣言して

 なんだか、いいんだか、悪いんだかわからない内容です。
妃ひとり選べず、こんな優柔不断でありながら、慈悲に生きた皇帝。
そんなティトゥスをうまく描いた演出が、このジョナサン・ミラーのもの。
ミラー演出は、いつも品があって、そして人物の掘り下げがうまいものだから、予想外の展開はないものの、納得感の残る舞台が多い。
新国のばら騎士やファルスタッフは名舞台。

5

時代設定を1930年代のイタリアに置き換え、ティトゥスと部下のプブリオは、民衆の前では軍服姿の軍人。
ほかの友人男性は、びしっとスーツ姿。
女性は、モード風ドレス。
みんなオサレなんです。
舞台セットも単品であるが、回廊をうまく使った美しいもの。
レシタティーヴォを語りで行ってドラマ性を高めている。

9

女が男を演じる今の時代には倒錯感あるこのオペラ。
誰が男で、誰が女かわからなくなる。
わたしの穿った見方かもしれないが、この倒錯感を演出にも巧みに持ち込んでみたのではないかと思う。
徹底して慈悲深い訳でもないティトゥスは、優柔不断で、ころころと心が変わる。
セルヴィリアを見つけると、猫なで声でその名を呼んだりして、観客の失笑を買う。
おまけに、美人でしっかりもののセルヴィリアにすっかり手玉に取られてしまう。
いつも、お傍に控えるプブリオがティトゥスを見る目が熱い。
セストの処刑のサインを強く求め、最後にその意に添いそうになると喜びを隠せない。
おまけに、妃候補のヴィテーリアの罪の暴露と、急転直下でアンニオとセルヴィリアを結びつけ、そしてセストとヴィテーリアをも結びつけるティトゥス。
ティトゥスは、プブリオに、「これでいいんだろよ、え?」てな仕草をする。
もしくは、「どうだ、見ろ、俺のお慈悲を」という風にもとれる。
厳格なる部下のブブリオは、こんな裁定がまったく気に食わない顔ともとれる。

なんともいろんな風に読み取れる最終場面なのでした。
悩み多き孤独な治世者の不運といったところでしょうか。

この上演は、適材適所、名歌手が集まりました。
なかでも、相変わらず顔が怖いけれど、完全に男役になりきったカサロヴァは、お得意の役に、これまた、すんばらしすぎの歌唱。
お顔が怒りや苦悩で歪んでしまう美女エヴァ・メイの真っすぐでクリアな歌唱。
おどおどと目線さえ泳ぐ名演技のカウフマン、力強さとリリカルな美声をこれでもかと堪能。
6

美人・美声のハルテリウス、すっきりくっきりのニキティアヌ、深みのある美声のバス、ロイスベック(今年バイロイトにタンホイザーのヘルマンでデビュー)。

2

メストのテキパキとしたスピーディで敏感かつ鋭敏な指揮に、チューリヒのオケが歯切れよく応えていてオケも聴きごたえ充分。
ウィーンに転出したメスト。
そのあとは、ガッテイとルイージ。
チューリヒ・オペラは、今後も安泰。

11

ところで、23時36分現在、11日月曜の震度1以上地震の回数はなんと「77」。
いつも微妙に揺れているようで、体がおかしい。
容赦ない自然に、なすすべもない。
余震も原発も、早く終息して欲しいです。

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2011年4月 9日 (土)

ラヴェル 「ダフニスとクロエ」第2組曲 アバド指揮

Hamamatsucho201104a

4月の浜松町のコスプレ小便小僧。
きれいにしてます。

Hamamatsucho201104b

桜を手に、防災頭巾でした。

関東にいて、震災は揺れを大きく感じ、家財が倒れた程度なのに、夢で地震や津波を見て、飛び起きることがある。罹災してないのに、ほんとうに申し訳ないことだ。
テレビの見過ぎと、何度も映し出される避難所の様子などに涙したりしてるからか。
 前にも書いたとおおり、東北は仕事の関係からも常に通い続けてきた地域だし、知り合いも多い。
 大槌町には何度も行って、結局は他社になったが成約寸前までの仕事があった。
あの時お会いした方は、わたしとほぼ同じ年で、学生時代を東京に過ごしたとのことで、とても話が合いました。
その大きな商業施設も、大破してました・・・・。
 スーパーには、普通に鯨とか鮫が売っている地域。
港や海沿いには、巨大な鉄門がそびえたっていました。
 ずっと南下して、浪江町と大熊町。
ここには、独立後、最近まで何度も通った施設がありました。
この地域の魚介もおいしい。なかでも、ほっき貝は甘くて大きくて名物。
大熊の「おばさん餃子」は、もう食べられないのか・・・。

いろんな思い入れが、それぞれの街や人にあるものだから、ああして夢を見たりしてしまうのかも。
いまや自分だけで、精一杯の状況ゆえのもどかしさもありますゆえ、なにも手助けができませんのでさらにもどかしい・・・・。

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夜寝たら、朝が誰にも来ます。
そして、すっきりとさわやかに、気持ちのいい目覚めをしたいもんです。

そんな朝を約束してくれそうな夜明けの音楽によって始まるのが、ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲
夜明け~パントマイム~全員の踊り、この3つからなる、1時間あまりのバレエ音楽の第3部がまるまる第2組曲となっているわけ。

バレエの前段で敵が逃げ去り、こうして清らかな夜明けを迎えるのだが、その静謐にして荘厳なる雰囲気は、エーゲ海の小島の朝を描いた絵画のよう。
つづくパントマイムも神秘的で、なんといっても主席フルートの一番の聴かせどころ。
そして最後は、爆発的な全員の踊り。
変拍子みだれ飛び、興奮の坩堝となってゆき、ライブならブラボー屋さん大活躍といったところ。

全曲には入る合唱は、組曲版だと入れることは非常に少ない。
アバドの録音では、カップリングのドビュッシーの夜想曲もあって、合唱入り。
1970年、ボストン響がRCAからDGに録音するようになった時の1枚。
30代の若いアバドのアメリカオケとの初録音だった。
発売された時もよく覚えてます。
メータ、小澤、アバドとの三羽ガラスは、当時メータが独走中。
アバドは、渋い曲やオペラでもって、それこそ一番地味な存在でした。

響きの明るさと、随処にみなぎる歌。いまのアバドと変わらぬ音楽造り。
この頃と同じ音楽の若々しさを、いまの円熟の先まで行きついたアバドが保ち続けていることが、いまさらにして驚異であります。
ボストン響との相性もばっちりで、その共演が、2枚のレコードしか残さなかったのが残念で、シカゴとも違ってヨーロピアンな音色が魅力なのでした。

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レコード芸術の広告。
ユニバーサルは、かつて日本グラモフォンだった。

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2011年4月 8日 (金)

シュッツ マタイ受難曲 フレーミヒ指揮

Ginza201104

数日前の銀座の夜。
まだそんなに更けてないのに、この暗さと人通りの寂しさ。
都心部は、昼の活気が戻ったような気がするけれど、夜は引きが早い。
歓迎会なども、一次会で駅近あたりでさっぱりと終えてしまうから、よけいに寂しいですな。

Ginza201104_a

夜の暗さは、わたしはこれでいいと思う。
でも、飲む元気とお財布の余力のある方は、自粛しないで暗い中でどんどん飲んで食べればいいと思う。
一方で、コンビニやスーパーなどで、アルコールも含めた飲料が品薄状態。
製造側が被災してたり原材料の流通が滞ったりしているから。
チェーン店や仕入れ力のある居酒屋や飲食店はなんとかいいが、個人のお店は食材が限られ、コストも上がっている。
風評食材もここに影響してるし。
身の周りの個性的でおいしい個人のお店が、客足も減り、メニューも減り、当面休商との張り紙がなされたりしてました。

震災後、もうすぐ1ヶ月、こうしてじわじわと、悪影響はまだ浸食中。
止まない余震もますます気がかりで、糸口がまた遠のいた気もしてしまう・・・・。

Schutz_matthaus

聖金曜日、復活祭は2週間後。
今日は、もうひとつの「マタイ受難曲」、ハインリヒ・シュッツ(1585~1672)のものを。
バッハのまさに100年前の作曲家、シュッツはドイツの合唱音楽の神様ともいうべき人である。
ドレスデンで活動をしたが、当時のドイツ宮廷はどこもイタリアからの流れに浸食されていたが、シュッツは敢然とドイツ語によるドイツ人のための作品を書き続けた。
ほかにも「ルカ」も「マタイ」も受難曲として残されているし、有名な「クリスマス・ヒストーリエ」のような名作もある。
1666年、6が3つ並んでますが、これは偶然として、シュッツ81歳、バッハのマタイに先立つこと、約60年まえの受難曲。

オケや器楽は含まず、無伴奏の合唱と独唱とによって淡々と進められる。
テノールの福音史家、バスのイエス、その他のソロ、民衆や複数宗教家、権力側などの合唱からなる。
バッハのように、コラールや、詩による合唱曲は、冒頭の序の合唱(これ、マタイによるイエス・キリストの受難の物語なり)と、最後のイエスと神を讃える合唱を除いてまったくない。
ここでは、それら2曲を除くと、福音書の言葉(物語)がそっくりそのまま朗唱風に歌い、語り継がれてゆく。
このあまりに、静謐で地味な音楽の進行に、正直耐えられないかもしれない。

シュッツの静的な受難曲は、バッハの心に突き刺さるような雄弁さに比べると、劇性が少なく、1時間あまりの間、辛いものがあります。
今回久しぶりに聴いて、やはり、その感はぬぐえない気持ちだけれども、この厳粛さと、70年代初めの東ドイツ、ドレスデンにおける古雅で厳格な音楽造りが演奏に反映されたこのCDの希少ぶりに、妙に感じ入った次第なのです。

当時のザ・エヴァンゲリストともいうべきシュライアーの清潔な歌唱が素晴らしいのです。
のちに、思い入れ強い歌唱に傾き、「うま過ぎ」の印象を与えることになるシュライアーだけれども、ここでは、ドレスデンの教会内の響きの中に、美しく端正に収まっているように感じる。
全体を統括するフレーミヒの指揮。
どこがどうという訳ではありませんが、ストレートにシュッツの音楽を、感情を排して再現してみせたというべきでしょうか。
マタイ書をなどを見ながら聴くことで、この静かな語り口の音楽が、自分のなかでドラマテックに展開する思いがありました。

  福音史家:ペーター・シュライアー 
  イエス:ヘルマン・クリスティアン・ポルスター
  ピラト:ジークフリート・ローレンツ
  ペテロ:ハンス=ヨアヒム・ロッチュ  ほか

   メルティン・フレーミヒ指揮 ドレスデン十字架合唱団
                    (73.3.10@ドレスデン、ルカ教会)

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2011年4月 7日 (木)

バーンスタイン 交響曲第3番「カデイッシュ」 バーンスタイン指揮

Zojyoji_2

夕刻だったので、明るさ不足ですが、増上寺の桜と境内から見た東京タワー。
急いで歩くと汗かいちゃうくらいの陽気。
えらい事が起きてしまってから、空を見上げたり、季節の変化を感じることがなくなってしまってました。
しかし、ここ数日の青空は眩しいし、顔が火照るくらに「おひさま」の威力を感じた。
自然の力は、人知を超えて恐ろしいけれど、でもこうしてメリハリのある季節を与えてくれる。
日本人は、苦難に耐えてこうした自然と昔から共存してきた。
われわれ民族の強さは、こうして自然にも鍛えられてきたんですね。

Zojyoji_1

そんな自然に感謝するとともに、その無慈悲さにも怒りを覚えてしまう。

増上寺境内には、子供の無事成長・健康を願う千躰子育地蔵尊があります。
すごい数のお地蔵さんが並んでますよ。
この先は、徳川家の墓所があります。
かたかたと廻る風車を見ていると、寂しい思いと優しい思いとにとらわれたのでございました。

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今日は、作曲家バーンスタインが残した作品のなかで、もっともシリアスな作品のひとつ、交響曲第3番「カディッシュ」を自身の指揮で。

3つあるバーンスタインの交響曲は、いずれも生真面目かつ厳しい内容だが、純粋なオーケストラ作品でもなくて、1番は声楽つき、2番はピアノソロつき、そして3番は、語りと大規模な声楽つき。
「カディッシュ」の意味は、「聖なるもの」といった意義で、ユダヤ教では礼拝の祈りの際に、必ず唱える神聖なる言葉であるとともに、死者を追悼し唱える言葉でもあるといいます。
アーメンより、はるかに重みのある祈りの言葉であることは、厳格なるユダヤ教ゆえに、容易に想像できます。

この極めて「聖なる」言葉を、交響曲のタイトルにしたことに対し、初演当時、やはり厳格なる宗派から反対があがったともいわれる。
1963年の作曲時、忘れもしないケネディ暗殺事件があり、その死へのレクイエムとされた。

そして、われわれにとって忘れられないのが、1985年の8月、広島にやってきたバーンスタインは、平和記念コンサートとして、この曲を演奏し、NHKでも放送されたが、いまでもそのビデオはノイズだらけながら手元にある。
その迫真の演奏は、広島という地でのシテュエーションとともに、映像でみるバーンスタインの祈りに満ちた没頭感あふれる姿とあいまって、涙があふれるくらいの感銘をあじわったものだ。

この音楽は、追悼という意味や内容というよりは、神との対話と、和解がドラマティックに描かれたものだと思う。

神により選ばれた民とするイスラエルの民。しかし神に失望をあたえ怒りも買い、艱難辛苦を味わう。
その神の矛盾に対する激しいくらいの祈りと懺悔。
主として語り手によって劇的に、ときにはシャウトするくらいに語られるところは、時にジャジーな歌いぶりの合唱、そして手拍子なども伴って、極めて迫真的な音楽である。
 そして、3部ある曲のちょうど中ほどには、平和を与えたまえというに祈りとともに、安らぎたまえという子守唄がソプラノソロで歌われる。
この歌のリリカルな美しさは、心に滲みいります。メロディストとしてのバーンスタインならでは。
 神との関係修復を強く望み祈る語り手。
そして、これまで子守唄以外、厳しい曲調が続いたが、少年合唱が神の功績をたたえて明るく歌い始め、神と人間の和解を思わせる。
最後のフィナーレは、その後アダージョから始まり、平和な雰囲気を醸し出しつつ、語りが神と人間の一体化と互いに再び新たに歩まんと感動的に語る。

 「Recreate each other, recreate」

その静かな感動の高まりの頂点で、歓喜の爆発として、合唱とソプラノソロによって神の賛美がゴスペルチックに歌われ曲を閉じる。

この音楽は、希望と平和の讃歌だと思います。
CDで音だけで聴いても、相当の感銘を受けることとなります。

  S:モンセラット・カバリエ   語り手:マイケル・ワーグナー

   レナード・バーンスタイン指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
                     ウィーン・ジュネス合唱団
                     ウィーン少年合唱団
                       (77.8@マインツ)

DGへの録音は、CBSへのものに続いて2度目。
カバリエの歌声の美しさには目をみはります。
録音のよさもあって、バーンスタインの唸り声もリアルに聴こえます。
佐渡裕の演奏は未聴。
スラトキンのものをあと持っているが、どうもバージョンが違っていて、よく聴き比べなくてはと思ってる。

あぁ、こうしていま書いているときに、かなり大きな地震がありました。
あのときのように長い揺れ。
もう勘弁してくれぇ。

被災地と原発に何事もありませんように。

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2011年4月 6日 (水)

「明日に架ける橋」 サイモン&ガーファンクル

Tokyotower201104

はやくも、空に泳ぐ鯉のぼり。
今日、4月6日、東京タワーの足元です。
客先訪問の帰り撮影です。
333匹います。
毎年、大船渡のさんま祭りを催しているとのことで、横断幕にも意気を感じますね。
よく見ると、東京タワーのキャラクター、のっぽん君も交じってますぜ(笑)。
たくさん写真を撮りましたのでね、また公開することとしましょう。

春が急激に来ました。
東北にも来てます。

Sg

「S&G」といって、この彼らをすぐに思い起こす方々は年々減ってます(と思う)。
ビートルズと並ぶ60~70年代初めの音楽グループの巨星でしょうか。
ビートルズは、ヨーロッパ、それも英国。
かれら、「サイモン&ガーファンクル」は、アメリカ。
それも、ニューヨークというその時代では、世界一の大都市かつ何事も最先端の都市から発祥したグループは、都会人の寂しさと孤独、そして南北を超えてアメリカの多民族と広大な国土を感じさせる、そうフォークソングという、いわば民族音楽ともいえる歌を数々作りだした。

わたしの世代にとっては、ビートルズがやや先んじて、そのあと、中学時代にS&Gが来て、英米両方のクラシック以外の音楽を、ほんとうに心から、友達や姉弟で楽しんだ。

そして、こんな時に聴く「サイモンとガーファンクル」
クリーンで、グリーン。
無垢で、ナチュラル。
勇気と元気をもらえる。
効能たっぷりの歌に音楽なのでした。
  
海とか橋とか、いまこのときに、この曲の歌詞にある、それらの単語はこの大震災の中にあって微妙なフレーズでありますが、本来は、この歌詞にあるとおり、安らぎや安心感の対象でもあった。
それが、たった1日でもって覆されてしまった訳ではあるが、サイモンとガーファンクルが、ここに歌い込んだのは、愛情を込めた恋人や隣人への博愛の心。
この透き通る名作がいまこそ身に、心に滲みるのでありました。

この詞のなかの、僕や君を、自分や身近の人、知らない方に置き換えることを、いま日本の世界のだれもがしてます。
すぐできることです、そして、これからしようとする方々もたくさん。
人間、捨てたもんじゃないです。
 
 

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2011年4月 3日 (日)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ドホナーニ指揮

Zojyouji1

4月2日の芝増上寺。
しだれ桜が満開でした。

Zojyouji3

その下から仰ぎ見て。
空も含めて4月の淡い色調です。
お花見の宴会のなくなってしまった桜の季節なのです。

そりゃそうと、昨夜はテレビでK・クライバー特集をやっていて、貴重なバイロイトの穴倉での指揮ぶりや、垂涎の伝説の来日公演などをやってまして、見入ってしまいました。
そして、今朝は「題名のない音楽会」で、エマヌエル・パユ殿が超絶フルートを吹いてまして、バックはお馴染みの顔ぶれの神奈川フィルが登場しておりました。
どちらの番組でも、地震発生の速報テロップが入ってます。
まだ続く余震は、その範囲が広く予断を許しませんが、椅子に腰掛けていても、なんとなくいつも揺れている気がして気持ち悪い・・・。

Meistersinger_dohnanyi

自粛ムードのなか、飲んでばか騒ぎしなければ、お花見くらいはいいと思うんだけど。
で、今日は音楽で歌合戦といきます。
ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。
歌合戦といっても、お祭り騒ぎじゃないけれど、けしからんことに、優勝にひとりの娘を賭けてしまう不届きな内容。
そこには笑いも、純愛も、抱擁力ある博愛も、親の愛情も、嫉妬も、それぞれたくさん詰まっていて、後期ワーグナーの劇作の練達ぶりは冴え渡っている。
歌合戦とはいいながらも、ノミネート歌手は、すっとこどっこいのベックメッサーと身分違いのよそ者ながら娘のハートを射止めちゃったヴァルターの二人だけ。

 もうひとつのワーグナーの書いた歌合戦は、「タンホイザー」で、正式には「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」となっているくらいで、本職の吟遊詩人たちと異端児タンホイザーとの合戦となる。

ともに異なる歌合戦だけど、中世ドイツを舞台として好んだワーグナーは、歌合戦というお祭りがお好きだったわけ。

14種に膨れ上がった手持ちのマイスタージンガー音源から、今日はもう10年くらい前に購入したウィーン国立歌劇場の75年ライブを。
これ、キャストがすごいんですよ。

  ザックス:カール・リッダーブッシュ    ポーグナー:クルト・モル
  フォーゲルゲザンク:カール・テルカル  ナハティガル:ハンス・ヘルム
  ベックメッサー:ペーター・フォン・デア・ビルト 
  コートナー:ライムント・ヴォランスキー
  ツォルン:ハルスト・ニッチェ  アイスリンガー:アントン・ヴェンドラー
  モーザー:エーヴァルト・アッハベルガー 
  オルテル:ハラルト・プレーグルヘーフ
  シュヴァルツ:アルフレット・シュラメク 
  フォルツ:アロイス・ペルナールシュトルファー
  ヴァルター:ジェイムズ・キング  ダーヴィット:ハインツ・ツェドニク
  エヴァ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ  マグダレーネ:ゲルトルート・ヤーン
  夜警:ペーター・ウィンベルガー


   クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
                       ウィーン国立歌劇場合唱団
                     (1975.10.21@ウィーン)


マイスターたちはそうでもないけれど、主要どころがほかの正規盤にくらべてまったく遜色なく、70年代の理想的な布陣だ。
わたしが最高のザックスと思っているリッダーブッシュは、同時期のバイロイトライブとともに、まったく素晴らしくって、最初から最後まで深く美しく高貴で、かつ若々しい安定した歌唱。
もう少し長生きしてくれて、グルネマンツや、もしかしたらウォータンも歌ってくれたらよかったのに、と今更ながらに思ってしまう。
ふたつのモノローグは美声が堪能できる名唱だし、最後の「親方たちを蔑んではならぬ」では、オケとともに白熱の高揚感が味わえ感動しまくり。
そして、そのリッダーブッシュとクルト・モルの共演がまた珍しい。
モルは息の長い歌手で、この頃出始め。今と変わらぬ味わい深い歌声で親ばかポーグナーを聴かせてくれている。
 そしてですよ、ジェイムズ・キングのヴァルターが全曲聴けるのは、いまのところ、この盤だけではなかろうか。
近々、メトのライブが出るようだが、そちらは72年もので、シッパースの指揮も期待。
で、キングのヴァルターなんだけど、どう聴いても、どこからどこまでもJ・キング。
馴染みすぎたジークムントであり、皇帝でありで、あんまり器用でないキングのストレートな力強い歌唱は1幕の試験の場では、悲壮感さえ感じるところが面白い。
最後は英雄的なヴァルターなところが、キングならでは。
 それと、ヤノヴィッツの女性的で、少しクリスタルな輝きを持ったエヴァもよく、言葉もその歌唱も極めて明晰。
カラヤンがザルツブルクの舞台では、ヤノヴィッツを起用しながら、録音では、よりリリカルなドナートを使ったところが面白いところ。
 ツェドニクの上手いダーヴィットや、ウィーンで活躍したヤーン(彼女の名前は、ヘロディアス役によく見かけます)の優しい歌唱も光ります。
オランダの歌手、デア・ビルトのベックメッサーは過剰なブッフォ感がなく、生真面目さすら感じる端正なもの。ユニークでした。
調べたら、このバリトンは、宗教曲を得意にしていて、ヨッフムやリヒターとの共演も多かったみたい。47歳で亡くなってます。残念ですね。

こんな風で、歌手陣の魅力にあふれたこのライブ。
マゼール登場前のウィーンのドイツものは、ドホナーニとシュタインが、その多くを担っていて、ことにドホナーニはウィーンフィルとのレコーディングもこの頃多くて、77年には、ベームとともに日本にやってきた。
スタジオだと、ドラスティックにすぎて面白みに欠けることもあったドホナーニ。
ライブだと熱いです。
ハンブルクオペラの来日で、2度ほどそのオペラ指揮に接したことがあるけれど、的確無比の統率感に加え全体を見通して歌手も舞台も盛り上げてゆく手腕はたいしたものだった。
 ここでは、オンぎみに録られたオーケストラの音が生々しく、多少のトチリなどはお構いなく、流れ重視にぐんぐん熱く推し進められる演奏が、ハ長調のマイスタージンガーに相応しい。
最終幕では、テンポを落として堂々たるエンディングを迎えることになる。

誉めつくしちゃったけれど、元気を失っていたワタクシに一喝くれたワーグナーであり、民衆劇マイスタージンガーの名演奏でございました。

バイロイトのウォルフガンク演出では、ドイツの危機を環境問題に置き替え、緑豊かなな丘と森の危機を訴えるものとした。
かつてヒトラーは、この楽劇を国威高揚の道具とし、事実、最後のザックスの感動的なモノローグの歌詞は、そうした意味をも内包しているが、あの日以来、日本を襲った数々の艱難を思うに、それをバネにして立ち上がる勇気と気力をこのハ長の音楽はわれわれに与えてくれると思う。

マイスタージンガーの過去記事

  バレンボイム指揮 バイロイト99年盤DVD
  バンベルガー指揮 フランクフルトオペラ抜粋盤
  ベーム指揮 バイロイト68年盤
  ハイティンク指揮  コヴェントガーデン97年盤
  
クリュイタンス指揮  バイロイト57年盤
  ヴァルヴィーソ指揮 バイロイト74年盤
  ベルント・ヴァイクル アリア集

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しだれは早いけれど、こちらはまだ蕾もある一般桜。
今日日曜は、また寒いから桜も戸惑ってますな。
そして、球春甲子園は、東海大相模が優勝。
出身県だし、親類も同行出身に多いものだから嬉しい。東日本だし。
自粛しないで、素直に喜んでいいんですよね。
プロの方の横浜より強いかもです。
迷いのない、俊敏で洗練されたチームでした。

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2011年4月 2日 (土)

ペンデレツキ ルカ受難曲 

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ペンデレツキ(1933~)の「ルカ受難曲」を聴く。

今年の受難節は始まっているけれど、肝心の受難の日および、復活祭(イースター)は、月の満ち欠けの関係で、聖金曜日(キリストが磔刑に処せられた日)は4月22日。
その復活、イースターは、24日の日曜日となっております。
いつもより遅い受難と復活の日。

今年は、なぜか、わたしたち日本人には相応しいような気がします。

春の訪れは遅いけれど、世界中が、日本の苦難を思い行動し一緒に祈っていただいてます。
その思いは、宗教を、国を越えて。

ポーランドのペンデレツキは、アウシュヴィッツに近いデンビツァの生れ。
ユダヤ人ながら熱心なカトリック教徒。
ポーランド人の多くは、子孫をひも解くとほとんどがユダヤ系といいます。
ヨーロッパにわたったユダヤを「アシュケナジ」と呼ぶことは、本で読んで知りました。
そう、ウラディーミル・アシュケナージは、父方がユダヤ人なのです。
その彼らユダヤ人が、いかに迫害を受けてきたかは、あのちょび髭のくそ総統ばかりのせいでもなく、数千年の歴史が刻んできた史実にあるのだけれど、それは聖書を読めば、あらかた理解できる。

旧約は、ユダヤ教の聖典にも等しく、さらに聖職者ラビの権威が聖典化したタルムードなどは、鬱陶しいくらいに人の所作までをも規定している。
新約は、イエスそのひとの物語であり、イエスが説いた愛の伝道の書であります。

マタイ、ヨハネ、マルコ、ルカの4つの福音書に数種の書簡集からなる。

物語性の強い福音書から、イエスの死の場面をピークとする音楽物語を受難曲といっていいかもしれない。
J・S・バッハばかりが有名だけれども、受難曲の数は本当に多い。
しかし、バロック時代が圧倒的に多く、次いで近現代。
ロマン派はまったく少ないジャンルなのです。

1966年に初演された、ペンデレツキのこの受難曲は、偉大なバッハの二つの受難曲を意識して、それらと異なる「ルカ福音書」をベースとすることとした。
大オーケストラと合唱、独唱によるものだが、ルカ以外にも、マタイで描かれている場面を代用したり、ヨハネや詩篇、悲しみの聖母などの挿入もある。
原語もラテン語とギリシア語を使うなど、独創性が目立つ。
そして、音楽はこの時期のペンデレツキならではの、トーン・クラスターや炸裂する打楽器群、叫びや口々に言葉を叫じあう合唱など、凄まじいばかりの緊張感に満ち溢れたものである。

エアヴァンゲリストは、文字通り語り手。
イエスはバリトン、人々がバス、祈りの声をソプラノ、群衆を合唱。
このような役回りが、時にフレキシブルに扱われている。

バッハの作品では、泣き所のひとつである、「ペテロの否認」の場面ももちろんあるが、このペンデレツキ作品では、意外なまでにあっさり通りすぎてしまう。
これもバッハに対する敬愛の証しでありましょうか。
それと、解説書にも書かれてますが、十字架上のイエスの言葉「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」~神よ、何故、わたしをお見捨てになったのですか~は、捕縛前のゲッセマネの園での祈りで発せられる。

全体は受難と死の二つに分けられていて、約70分。
聴き手に非常な緊張を強いる音楽が連続するが、最後の最後には、イエスの死、そして神への感謝にて、壮麗かつ希望に満ちた雰囲気で曲を閉じる。

言葉があることで、ある意味わかりやすい音楽といえます。
イエスを追いつめる群衆心理や裏切りの場面など、そら恐ろしい不気味な場面も続出しますが、ソプラノによる独唱の無垢な雰囲気や、イエスの神々しい語りや祈りなどは胸を打ちます。

奉じる宗教に関係なく、人間の根源の悲しさも感じます。
わたしにとって、バッハとともに味わっていきたい受難曲となりました。

     S:シグム・フォン・オステン  Br:スティーヴン・ロバーツ
    Bs:クルト・リドゥル      朗読:エドワード・ルバシェンコ

   クシシュトフ・ペンデレツキ指揮 ポーランド国立放送交響楽団
                       ワルシャワ国立フィルハーモニー合唱団
                       クラクフ少年合唱団
                         (1989.12@ワルシャワ)

われわれが作りだした電気を生みだすありがたかった存在から難を受けようとは・・・
グーグルアースを見ていたら、崩壊してしまった原発の様子がまるわかりでした。

Fukushima_1_2 Fukushima2_2

さらに北上して見てゆくと、津波の傷跡が広範囲にわたって認めることができます。
座礁した船や、海上の瓦礫までも・・・・。
かつて訪れた場所ばかり。見ていて泣けてきた。

そして、今日、海上を漂う屋根のうえに、漂流する犬が発見され、保護されました。
http://www.asahi.com/national/update/0402/TKY201104020326.html
健気なその姿に、とてもうれしくなりました。
ご主人と再会できることを願ってやみません。

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2011年4月 1日 (金)

和歌山「紅しだれ」&「ウィーン、わが夢の街」

Wakayama7

今週の火曜日(29日)の紅しだれ桜。
和歌山城の御門の脇で満開でした。

今年は、不幸にも桜が足踏みする寒さが続きますね。
でも、4月をむかえた今日あたりから、開花の便りが東西で聞かれるようになりました。

Wakayama1


「紅しだれ」というと、紅葉の赤い豊満な紅葉も言いますから、桜を紅しだれの前につけなくっちゃ。
どちらも、日本のもっとも美しい、「春」と「秋」の鮮やかな色どりを司るもの。

Wakayama3

アップにすると、こんな風に、白と濃いピンクがあい混じる美しさ。

一昔、カップのアイスクリームで、ピンクとイエローとホワイトのマーブルのアイスがあった。
イエローは、蜂蜜だったんだ。
これは、子供心に、ホント、おいしくって、毎日でも食べ飽きないアイスだったなぁ~

Wakayama5

門から昇ると、そこは和歌山城天守閣。
紀州御三家の堂々たるお城。
まだほころんだばかりの桜の背景です。
「暴れん坊将軍」は、紀州の吉宗だけど、テレビでは、壮麗な姫路城がつかわれている。
少しばかり質素に感じる紀州和歌山城です。

Wakayama4

桜前線、北上中。

東北にはまだ間があります。
そして、木々も無情な地域の皆さんに、こんな桜の画像が届けばいいと思ってます。
何もできない私ですからして。

近場の春を、これからもお届けしたいと思います。

写真をマイフォトにいくつかアップしました。
左のバナーをご覧ください。

Schwarzkopf_operetta

わたしどもの世代にとって、エリーザベト・シュヴァルツコップは、憧れのような存在。
母にも似た安心感と包容力を持つ歌唱。
同じドイツでは、ヴァルナイやニルソン。
イタリアでは、カラス、テヴァルディ、モッフォたち。
その次の世代のわたしにとってのお姉さん歌手たちも独伊仏と続いてます。

シュヴァルツコップの、少し揺れぎみの歌唱は、FDと同じく、言葉と音楽を強く結びつけた考え抜かれた芸術作品。
その丁寧すぎる歌は、時に、わたしの心にどこまでも付きまとうようで、時代的にも少し前のものとして感じてしまうことも正直あった。

でも今日、久かたぶりにとりだしたオペレッタからのアリア集を聴いて、むしろ爽やかで上品な歌が、不思議と疲れた心身をそっと包み込むような心地よさを味わわせてくれたのでありました。

そして、最後に添えられた、ジーツェンスキー「ウィーン、わが夢の街」でもって、大いに心が解放され、いまあるこの地、このひと時が愛おしく思えるのでありました。
思いれたっぷりに普通は歌われる曲。
でも、シュヴァルツコップは、快速でいともすっきり鮮やかに歌ってくれちゃうのでした。
だから、よけいに愛らしく、さりげなく古里=愛なのです。

ウィーン讃歌のこの曲は、単独の作品で110年くらいまえの素敵な歌。

ウィーンに生まれ、その街が好き好きでならない。
そんなウィーンっ子の歌。

 わたしの心と魂は ウィーンに雨が降っても太陽が照ってもウィーンだけに夢中
 わたしは、ウィーンの隅々まで知っていて 
 昼間の、そして夜のウィーンはなおさら我が家もどうぜん。

 本当のウィーンを知っている人々は 老いも若きも冷淡な人は一人もいない
 どうしても美しいウィーンを 離れることがあったなら
 悲しさがとめどもなくこみあげてくる

 すると遠くから私の心をかきたてる歌が耳の奥に聴こえてくる

 ウィーンよ おまえだけがいつまでも
 わたしの夢でいてほしい
 そこには昔ながらの家並みがあり
 かわいい娘たちが行き交ってる

 ウィーンよ おまえだけがいつまでも
 わたしの夢でいてほしい
 わたしが幸せでいられるのは
 ウィーンよ わたしのウィーンだけ

 好むと好まざるとにかかわらず でもなるべくなら遠く
 わたしもこの世を去るのが定め
 恋とも ワインとも お別れしなければならない
 生あるものは滅びるのが世の習いだから

 あぁ、そうなったらそれでもいい
 足で歩かなくても わたしは天へと飛んでゆき
 そこに腰を落ち着けて ウィーンの街を見下ろすと
 シュテファン寺院が下からわたしに挨拶する

 すると遠くから私の心をかきたてる歌が耳の奥に聴こえてくる

 ウィーンよ おまえだけがいつまでも
 わたしの夢でいてほしい・・・・・・・・・

     
(訳:小林一夫)

たぶんに世紀末的で刹那的な意味あいもあります。
でもですよ、だれもがもつ、ふるさと、わが街。
どんなことがあっても、そこを離れたくないし、ずっと近くでながめていたい。
街も人も、分かち難いのです。
心が痛く、そして新しい街を一時にせよ心から提供する人々に、心底から感動し、人間の崇高さに感じいる毎日です。

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