アルヴォ・ペルト 「ヨハネ受難曲」 トーナス・ペルグリヌス
代官山ヒルサイドテラスのとある一角。
日曜日に足を延ばして散策。
隣接する中目黒とあわせて、たいそうな人出でして、「自粛の自粛」ともいえる効果を醸し出してました。
公園では、花見も行われてましたよ。
春は、こうでなくっちゃぁねぇ。
人はたくさんいるのに、でも、どことなく静かなところが、日本人の気持ちの美しいところです。
現代の受難曲のひとつ、エストニアのアルヴォ・ペルト(1935~)のヨハネ受難曲。
人の心をえぐるような新約の受難の物語、そしてそれをテキストとした受難曲は、当然にシリアスな作品・・・、というイメージが植えつけられているのは、いうまでもなく、受難曲の代名詞ともいうべき、マタイとヨハネのバッハの作品が厳然と、そして超然とそびえているから。
このところ、聖金曜日の22日と、復活祭の24日にピークを合わせて、受難曲を金曜日に聴いてます。
最後は、当然に大バッハを予定しているのですが、無名作曲家のものをいれると無数にあるのですが、音源として聴けるものはわずか。
バッハを境に受難曲はバッハ前が聖歌風で情を極力交えず、淡々と、それも宗教改革の流れのなかで禁欲的な音楽が前提となっていたのではないかと思う。
いわば、教会音楽として、正しき信者を音楽でわかりやすく導くという使命のもとに。
でも、バッハ後は人間存在を問うような強いメッセージ力を持った受難曲が多いのではと思われる。
偉大なる先達バッハゆえに。
現在ある作曲家、アルヴォ・ペルトの受難曲は、そんな厳しい受難曲の世界に、現代人の心の渇きを癒すかのような、全編アダージョともいえる抒情的な作品を問うたのでした。
しかし、ヒーリング・ミュージックなどと安易に言いたくない。
バッハをおそらくは強く意識しつつも、バッハ以前の素朴でシンプルな語りとも歌ともとれるような静謐な作品は、福音書の物語そのままに、いやでも真実味がある。
福音史家を男女4つの声部のカルテットとし、イエスは重厚なバス、ピラトをテノール、その他人物をソプラノ、カウンターテノール、テノール、バスのソロたち。
そして、ヴァイオリン、オーボエのソロに、通奏低音。
ルネサンス、バロックの時代のような構成で、歌詞はラテン語。
曲調は、聖歌風でグレゴリオっぽくもあり、ルネサンスのポリフォニー風でもあり、かつまたロシア聖教風のエキゾシズムも漂わせたり・・・・。
一口に言い尽せない、いろんな諸要素がシンプルなる響きの中に包括されている・・・。
ミニマル風の繰り返し効果もそこにはちゃっかりあって、妙に耳に残るし。
あとから来た人は得である・・・、ともいえちゃいそう。
わたしも、長くクラシック音楽を聴いてきたから、いろんなことを感じちゃう。
しかし、真摯極まりないこのペルトの音楽は、心安らぐとともに、妙に不安というか不満を植えつけてくれる。
この厳しすぎる日々、イエスの受難が、この安らかななる響きの中に安住してていいものだろうかと・・・・。
もちろん、そんなことを前提に書かれたわけではないのだし、それをここに求めるのは酷な訳だけれども、少なくとも、偉大なるバッハは万能で、その音楽、とくに受難曲とミサ曲は、厳しさと優しさとでもって、いついかなる時にも心に迫ってくるのであります。
受難曲のならわしどおり、冒頭に、「これ、ヨハネによる主イエス・キリストの物語なり」と歌われ、イエスが十字架上で「こと足れり」と息を引き取ったあと、「慈悲深き主よ、われらがために、アーメン」と調和の中で物語を完結します。
曲のなかでは、捕縛の場やユダの裏切り、ペテロの否認、ピラトとの問答なども劇的なメリハリは少なめに進行します。
なにも考えずに聴くと、癒し系でスルーしてしまうが、福音書でもいいし、テキストを見ながら虚心にお聴きになることをお勧めしときます。
ナクソス盤は、アントニー・ピッツ指揮する「トーナス・ペルグリヌス」というグループの演奏。
こうした曲が、しっかりした演奏で手に入るのはありがたいことでありました。
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