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2011年5月

2011年5月31日 (火)

ベルク ヴァイオリン協奏曲 パイネマン&ケンペ

Tokyotowerrose_2

ライトアップを再開した東京タワー。
週末は、ダイアモンドヴェールをおとなしめに、平日は腰から下を通常モードで。

夏バージョンになると白い光になるはず。
でも、この方が暖かみと落ち着きがあっていい。

芝公園のバラと一緒に。

Kempe_bbc

最愛のヴァイオリン協奏曲のひとつ、アルバン・ベルクの作品。

レアな組み合わせの1枚。
ドイツの女流エデット・パイネマンルドルフ・ケンペの指揮するBBC交響楽団
1976年のロンドン・ライブであります。

タワレコが復刻したDGに入れたドヴォルザークの協奏曲が人気を呼んだパイネマン。
わたしは、そちらはまだ未聴なわけだけど、パイネマンの名前だけは以前から知っていた。
レコード時代に、そのドヴォルザークのジャケットを店で見ていたし(買わないところがなんですが)、アバドの音源収集の中で、アバドが指揮したバッハの協奏曲のソリストをつとめている音源があることを発見していたけれど、その真偽のほどがわからない故に(アバドかどうか?)。
だからどうも謎というか幻っぽいヴァイオリニストに感じていた(聴いたことないのに)。

そして、ようやく聴いたのが、ベルクだった。

「ある天使の思い出に」 とスコアに記された、この甘味かつ陶酔的、そして宗教色や民族色も漂わせた協奏曲の魅力に、わたしはもうながらく取りつかれている。
精緻に、巧みなまでにイメージや仕掛けがその構成のいたるころに施されたベルクの作品の数々。
この協奏曲も例外でなく、アルマの娘マノンのこと、自身の恋のことなどを回顧しつつも、それらを綿密なる筆致でもって十二音技法による協奏曲の形式に封じこめた。

そんな巧みの作品を、パイネマンは繊細な音色のヴァイオリンでもって美しく弾いていて、これまでいろいろと聴いてきたベルクの中でも一番女性的で、透明感あふれるものであった。
これを聴いちゃうと、チョン・キョンファとかムターなどは、情が濃すぎて聴こえてしまう。
パイネマンは外に向かって音が放射してゆくのでなく、あくまで内向きに、感情の機微も控えめに捉えているように聴こえ、わたしはこの「控えめ」なベルクがいたく気に行ってしまったものだ。

ケンペのベルクというのも珍しいかも。
もちろんオペラ指揮者だから、ベルクはもちろん指揮していたはず。
広範なレパートリーを持ちながら、レコーディングに恵まれなかったので、こんなライブ録音が出てくると嬉しい限り。

ロイヤルフィル時代にグラゴルミサの録音があった、カップリングのヤナーチェクのシンフォニエッタは貴重だし、まして、英国もののティペットなどは驚きだ。
いずれも、ケンペらしい堅実でゆるぎのない真面目な演奏だし、ベルクもパイネマンを支える呼吸ゆたかな表情がとても新鮮に感じた。
ロンドンでの活動は、コヴェントガーデンとビーチャムのあとのロイヤルフィル。
その後が、晩年最後のポスト、BBC響だったけど、任期を残して亡くなってしまう。
いつも思うけれど、70年代亡くなったケンペとケルテスがもっと存命だったら。

Tokyotowerrose_3

 ベルク ヴァイオリン協奏曲の過去記事

 「シェリング&クーベリック」

 「ブラッヒャー&アバド」

 「渡辺玲子&シノーポリ」

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2011年5月29日 (日)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 金聖響 指揮

   Yokohama_ookariver

雨の土曜日。

大岡川から、雨にけむる「みなとみらい地区」を望む。

こういう天気の日は、楽器のコンディションを本番に向けて保つのがたいへんでしょうね。
まして、長大で全曲にわたって緊張感が満ちている大作を演奏するのだから。

Img

     マーラー 交響曲第9番 ニ長調

   金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
              (2011.5.28@みなとみらいホール)


ついに「第9」にたどりつきました。
聖響&神奈川フィルのマーラー・チクルスは、昨シーズンからこれで、2番から8番を除いて、9番まで、7曲を聴いてきたわけです。
マーラーのなかでも、「第9」は、次の第10があるにしても、行き着いたひとつの道標みたいなところがあって、演奏する側も、聴く側も、思いきり入れ込んで、特別な思いで迎える曲だと思う。

今回のチクルスで、聖響&神奈フィルは、その絆を深めるとともに、マーラーを通じて、お互いの共同作業たる音楽創造にひとつの成果をあげることに成功したのではないでしょうか。
指揮者は、オーケストラの美点を引きだし、オーケストラは指揮者の率直さをそのまま音にするといったシンプルだけど、もっとも大事な図式。

それは、われわれ聴衆も同じで、ずっと聴いてきて、無理をしてるとしか思えなかったピリオド奏法に困ったこともあったけれど、マーラーを聴き続けたいま、またこのコンビの古典やロマン派を確認してみたいと思っていたりする。

そんなひとつの到達点が見えたような「第9」でした。
そして、わたしは毎度ながら、感動で涙を止めようがなかった。

マーラーの第9の存在を知ったのは、古いもので、バーンスタインとニューヨークフィルが万博の年の真夏に、この見知らぬ曲を演奏してから。
小学生だったから、その演奏会を聴けるわけはなかったけれど、レコ芸で白の夏用スーツで演奏するこのコンビの写真をみたり、吉田秀和氏のブルックナーと対比した記事などを読むなどしていったいどんな音楽かと想像を巡らせていたものです。
 以来、この曲はバーンスタインとは切ってもきれない存在になってしまい、後年、イスラエル・フィルとの演奏会でついにバーンスタインのマーラー第9に接し、とてつもない感銘を与えられることとなった。
それは、まるで、峻厳なユダヤ教の儀式に参列しているかのような呪縛感の強いものだった・・・・・。

それ以前もあとも、この曲は何度も聴いてきているが、聖響&神奈フィルの第9は、それらの中にあって、もっとも自分にとって身近に、そして優しくフレンドリーに微笑みかけてくれるような演奏だったのです。
みなさん、厳しい表情や熱のこもった表情で演奏していらっしゃるけれど、そこから立ち昇る音は、慣れ親しんだ神奈フィルのスリムで洗練された美音。
ここには情念や、死への観念などは弱めで、マーラーの書いた音符が次々に美音によって惜しげもなくホールを埋め尽くし、滔々と流れるのでありました。
踏み込みが足りない、表層的だなどというご意見はありましょうが、わたしは、こんな感覚のマーラーがあってもいいと思うし、音色の美しさにおいて、これはもう充分に個性的だと思うのだ。

だから、うなりむせぶような弦に身も心も投じたくなる終楽章は、明朗で透明感がまさり、波状的にむかえるクライマックスも冷静に音の美しさ、音楽の美しさのみに耳を澄ますことができた。
この終楽章は、ほんとうに素晴らしくって、石田コンマスのリードする神奈フィルの弦の能動的な存在感ある響きが全開で、感動で胸を熱くしながらの25分間でした。
ヴァイオリン群の変ハ音の引き延ばしの場面は、いつも夢中になって息を詰めてしまうのだけれど、ここではごく自然に、そのシーンをむかえ、淡々と美音が引き延ばされるのを見守ることができた。
何度も書きますが、ともかく美しい。

ホール入りしたときから、ははぁ、あれをやるなと思った、アバドの二番煎じの照明落とし。
ライブ録音が入っているので、拍手封じにも効果的だし、集中力がいやでも高まる仕掛け。
そして、マーラーの常套句「死に絶えるように」と記された最終場面は、文字通り消え入るように、後ろ髪引かれるように、静かになってゆく。
私は、これまでの自分のこと、そんなこんな、いろんなことが脳裏に浮かび、切なくなってきて、終わって欲しくない思いも抱きながら、涙があふれるにまかせ、音が消え入るのに集中した。

指揮者も奏者も動きを止め、永遠とも思える沈黙がそこに訪れたのです。

そこには、まだ次がある、この先も違う世界がある、とのマーラーの、そして演奏者たちの優しいメッセージがあるかのようでした・・・・・。

辛い毎日ですが、そんな希望の光をもらいました。

優しい歌に満ちた第1楽章。
その最終部分、コーダに至るまで、音楽の様相は、彼岸のあっちの世界に漂うようで、ソロの皆さんの精妙さに聴き入り、そこにウェーベルンの顔を思い浮かべることもできた。
 聖響さんのリズム感の豊かさが光ったレントラー風の第2楽章。
ビオラソロも華奢だけど、全曲にわたっていい音色でした。
そして疾走感あふれるロンド・ブルレスケでは、どんな強奏でも音が混濁せず、見通しがよい。
マーラーシリーズで、大活躍のトランペット氏の柔らかな音色による中間部は、まるで一条の光が差し込むかのようでした。

今回の第9は、奏者個々云々というより、オーケストラ全体のまとまりのよさを強く感じた聴き方となりました。
1番を残しますが、聖響さんの適正もあり、このマーラー・チクルスは大成功ではなかったでしょうか。
10番と「大地の歌」、そして「千人」もいずれ取り上げて欲しい。
そして、またいずれ機会を得て、聖響&神奈フィルのマーラー特集を希望します。

在京では味わえない、神奈川発のユニークなマーラーなのですから。

コンサートのあと、「会員の集い」が行われました。
デュカのペリのファンファーレが奏され、会は始まりましたが、深遠なマーラーのあとでは、ちょっとぶち壊しの輝かしさ。
無音でよかったのでは・・・。
黒岩知事も登場され、応援メッセージを披露されました。
マーラーを聴くと、お腹が空いて、聴いてる間にお腹がなってしまう。
(ところで、わたしの後ろの席から、静かな場面で、ゴワッーーッという安からかオヤスミのお声が発せられましたが、ライブ録音大丈夫ですかねぇ(笑))
空腹で、発泡酒を2本もいただいちゃったものだから、ほろ酔いになりましたよ。
理事方からの話、聖響さんの話、副指揮者伊藤氏のポーランドのコンクール2位入賞の話、TVKの大盤振るまい、管楽アンサンブルなど、ほゎ~と聴いてすごしてしまいました。
それほどに、マーラーが忘れがたかったわけ。

Umaya2_4

本格アフターコンサートは、「驛の食卓」にご案内いただき、新作のおいしいビールなどを飲みまくり。
いつもお世話になってます、IANISさん にも参加いただき、楽しいひと時にございました。


Umaya

ところで、ニューヨークフィルのサイトで、同団のアーカイブのひとつとして、バーンスタインの書きこみのある、マーラーの第9のスコアが全曲閲覧できます。(→こちら
65年のライブ音源も併せて聴けます。
すごいもんです。

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2011年5月28日 (土)

ウェーベルン 「夏風の中で」 ヤンソンス指揮

Azuma_skygreen

このところのわたくしのトレンドは、早起き。
朝7時くらいの、とある小山の山中にて。

というか、夜中に目が覚めて眠れなくなるのが多いので早く寝て、朝早くに、いつもの山に出かけたんです。

緑が眩しいですよ。

先週の土曜日の神奈川の実家近くにて。

この先の山の頂きで、海と富士山を望み、かなり癒されましたぞ。
その画像は、またいずれ。

Azuma_skygreen_2

鳥居にかかる「もみじ」の緑も清々しい。

一週間後の土曜日も、早く目が覚めてしまった。
台風の影響モロでして、雨の一日になりそう。
先週のおてんとうさまが懐かしく、爽やかな暑さも恋しい。
梅雨に入ってしまいました。

Jansons_siberius_britten_webern

このところ、世紀末ウィーンやその後の音楽を続けております。
神奈川フィルのマーラー・チクルス、その最後にして最大の演目、第9が視野にあるものだから、その前後の音楽シーンを確認してます。

そして、台風来ちゃってますが、夏の音楽を。

ウェーベルン(1883~1945)の「夏風の中で」。

夏風とかいうと、日本のうだるような夏の熱風を思うけれど、ここでいう夏風は、ドイツ・オーストリアのアルプスにほど近いあたりの、夏に吹く一陣の爽やかな風、といったイメージ。

「Im Sommerwind」大オーケストラのための牧歌

Bruno Willeの詩を読んで・・・とも副題されております。
ブルーノ・ヴィレ(ワイル??)の「Juniper Tree」という作品だそうで、その内容は調べきれませんでした。
お金持ちの家に生まれたウェーベルンは、別荘にてその詩を読み、そして同世代のオランダの画家Mondorianの抽象画に移行する前のナチュラルな風景画にインスパイアされたともいいます。
 どんな絵だろうと調べた。
ウェーベルンのこの「夏風」(1904)以前のモンドリアンの作品がなかなか見つからなかったけれど、推察するのこんな感じでしょうかね。

Mondrian2


ウェーベルンの作品番号1は、「パッサカリア」だけれど、それ以前の番号なしの作品も多くあって、その中のひとつがこちら。
1902年にウィーンに旅行し、そこでマーラーの「復活」に心動かされ、ついにはかの地で学ぶことになり、1904年にシェーンベルクに師事するころに書かれたのが「夏風の中で」。
作品番号なしは、生前、出版されなかったから、この曲の初演も1960年代に入ってから。
ブーレーズの1回目のCBSへの全集には収録されておりません。

のちの表現主義的な作風を経て、無調・十二音と進んでゆく緻密でシャープなウェーベルンからすると、この音楽は、ずっとロマンティックで、後期ロマン派の流れに位置した聴きやすいもの。
マーラーの抒情的で牧歌風な様相と、R・シュトラウスばり爛熟大オーケストラサウンドの両方が味わえる。
初夏に聴くに相応しい、爽快で心と頭に気持ちいい風が吹き抜けるような桂品にございます。

いろいろ出てますが、今日は、ヤンソンスバイエルン放送響の南アルプスの草原のような演奏で。

気温も上がらず、雨が続きます。
全国のみなさま、くれぐれも、夏風邪などをおひきになりませぬよう。

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2011年5月26日 (木)

コルンゴルト シンフォニエッタ アルベルト指揮

Baget_shibashi

美しいでしょう、おいしそうでしょうlovely

野菜とツナとハムとチーズ。
色どりまでも麗しい。

バゲットサンドです。
私の職場の近くのパン屋さんの一品でして、これで270円ざぁますわよ。
ランチは、これとコーヒー一杯あれば充分。
でも、食いしん坊のわたくしは、さらにトーストしたブレッドサンドなんかも食べちゃって、お腹一杯にしてしまう。
これも、経済活動と自己暗示にかけるのだからしょうもない・・・・。

こうした手作りパンを避難所の皆さんに届けたいな。
パン焼き機などが、避難所にあればいいのに。

おいしい思いをして申し訳なく思います・・・・。

Korngold_1

エーリヒ・ウォルフガンク・コルンゴルト(1897~1957)を久しぶりに。
神童の名を欲しいままにしながら、政治や時流に翻弄され失意のままその名を埋れさせてしまった才人。
10歳に満たない少年時代から作曲してたし、何よりも、親父の音楽ジャーナリストのユリウス・コルンゴルトが、かのアマデウスに因んで付けたのがウォルフガンクなんだから。

2007年の記念の年に来日して、シティフィルでコルンゴルトの交響曲を指揮したアルベルト
そのコンサートは、仕事でチケットをフイにしてしまった。
(仕事のないような日々、いまなら考えられないこと・・・・。)
そのコルンゴルトや世紀末系、ジークフリート・ワーグナーなどのレア音楽の専門家アルベルトが、CPOに管弦楽曲を数枚録音していて、その第1弾がこちら。

 バレエ音楽「雪だるま」 から

 「劇的序曲」op4

 「シンフォニエッタ」op5

      ヴェルナー・アンドレアス・アルベルト指揮
                   北西ドイツフィルハーモニック


 

爽やかなまでの爽快さと、R・シュトラウスばりの爛熟オーケストラサウンドをコンビネーション化した少年期コルンゴルトの音楽。
シュトラウスや、マーラーやツェムリンスキー、その時代の先輩たちからアドバイスや影響を受けつつもすでに完成型にあったその音楽スタイルは、のちの作品以上にハリウッド風であるところがおもしろい。
「雪だるま」の全曲CDは、いまだ未入手なのだけれど、こうして数曲聴いてみると、後の充実期のコルンゴルトのメロディが先走って登場してるし、若気のいたりみたいな、超甘々のとろけるような旋律も出てくる。
甘味さだけが残ってしまうところが、のちのほろ苦さも感じさせるようなオペラ作品の比ではないけれど、コルンゴルト好きにはたまらない瞬間が続出。

劇的序曲は、のちの大交響曲に似てる。

そして、シンフォニエッタといいつつも、4つの楽章からなる43分の大作は、素直に美しくて、可愛く甘いミルクチョコレートみたいな音楽。
低音軽め、中音から上っかわだけの響きで勝負したような、耳当たりの良さが光るソフィスティケート・ミュージック。
驚きの15歳の作品。
後に妻になったルイジが夫から聞いた話では、その頃のコルンゴルトは日に12時間は、作曲し、音楽に打ち込んでいたそうな。
寝るか食事するか、最低限の営み以外は音楽漬けだったというから、なんだか気の毒な気もしますが、いまこうして若書きの幸せに満ちた曲を聴く限りは、作者の明るく前向きな心情と満ちあふれる若さが感じ取れて、むしろ羨ましく感じてしまうのだ。

「Motiv des frohlichen Herzens」=「Theme of the Happy Heart」とされたテーマ。
活気あふれるスケルツォの第2楽章の中間部で現れる緩やかで抒情に満ちた部分。
室内楽風な様相になり、新ウィーン楽派の流れを感じさせる特筆すべき個所かもしれないし、その豊かな歌はシュトラウスそのもの。
 映画のラブシーンみたいな3楽章はお休みまえにどうぞ。
シリアスながら、幸せハートが打ち勝ってしまう終楽章。

軽く聞き流すこともできる口当たりのよい音楽だけれど、若いコルンゴルトが、老シュトラウスにおおいなる尊敬を持ちつつ意識して書いたシンフォニエッタ。
恵まれた環境に育った、天才のぼんぼんの音楽は屈託がなく、明日も、何気なく聴いてしまいそうな音楽なんです。
しかし、そんなコルンゴルトにも、長じて厳しくも悲しい明日が待ち受けているのでした・・・・。
身につまされてしまいます。

そして、明日もおいしいパンが食べれれるといいと思ってます。

Sand_shibashi
                      

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2011年5月24日 (火)

シュレーカー 「ロマンティックな組曲」 ムント指揮

Shiba_park

夜の公園。

このところ、天候・気温の変転が激しいのだけれど、暖かい晩にふらふらと、さまよえるワタクシにございました。

あの日以来、感情の機微も大きく揺れるようになってきてて、以前にも増して涙もろくなっていると思う。
と同時に、ふりかかる不合理・不条理の数々に、なすすべなく、その怒りをどこへぶつけていいかわからず、またそれを押し殺しているものだから、その抑圧にそろそろ耐えきれず、変調を来たしかねない時期になりつつあると思う。
 
 夜、快調に眠りにつくのですが、夜中に目が覚めてしまう。
それから、寝ようとしても、うとうと眠りで、時計とにらめっこ。
しまいには、日曜日、余震がきたりして、「キターーッ」とばかりに本格的に目覚めてしまう。
だから、昼から夕方にかけて、無性に眠くなり失態をおかすこともあるんです。

このところ、どうもこんな繰り返しなんです。

私的なことですが、こんな風に書いて曝すことで、気を紛らわそうとしてます。
どうぞ、あしからず、です。

でも、音楽があるから救いですよnote
大丈夫です。

Schreker_romantic_suite

ランツ・シュレーカー(1878~1934)のシリーズ。
しばらくぶりに取り上げます。

シュレーカーの人となりは、過去記事をごらんください。

世紀末を完全に挟んで生きた作曲家で、ドイツを中心に作曲・指揮・教育者として順風満帆の時を過ごしたけれど、1920年台以降、ナチス台頭とともに下降線をたどり、ついには退廃音楽のレッテルをいただき要職を解雇され、失意のうちに静かに世を去り、以来、忘れられてしまったシュレーカー。

9作品あるオペラのうち、6作品までは聴いているが、残り1作は入手困難。ほかは、音源なしの状態。
オペラ以外は、小品が多いなか、それらも音源は限られていて、寂しいものだ。

おそらく、今後も期待できないシュレーカー作品のレコーディングだけれど、一番入手しやすい1枚をご紹介。

旧マルコポーロ盤、現ナクソスのこちらは、最後のオペラ的作品になるはずだった「メムノンへの前奏曲と、比較的初期の作品「ロマンティックな組曲」。
エジプト時代に題材を求めた「メムノン」は、晩年の作品で怪しげなムードをもちつつも聴きやすい音楽であるが、わたしなどは、実はもっと何かを求めたい少し中途半端な雰囲気。
オペラ全体があればまた違ったかもしれない。

1902年の「ロマンテッィクな組曲」は、4編からなる1902年の作品。
3つ目の「間奏曲」のみが1900年に先だって書かれたが、いずれもオペラで言うと、初作の歌劇「炎~Flammmen」の前にあたる。
実は、その「炎」は、室内オケを使いシュトラウスの大幅な影響下にあることを感じさせるものだった。
でも、この組曲は、あとの「遥かな響き」の先取りを予感させるし、シェーンベルクやウェーベルンの表現主義的なそれこそ甘味なるロマンティシズムを感じさせる桂品なのだ。

 Ⅰ.「牧歌」
 Ⅱ.「スケルツォ」
 Ⅲ.「インテルメッツォ」
 Ⅳ.「舞曲」

27分ぐらいの「ロマンティックな小交響曲」と思ってください。
先に記したような新ウィーン楽派っぽい部分は1楽章。
ウェーベルンの「夏風・・」風で、魅惑的な曲です。
 そしてスケルツォは、大先輩シューベルトを思わせる爽快なもの。
最高の聴かせどころは、インテルメッツォ。
北欧音楽のようなメルヘンと自然の調和のような優しい雰囲気に包まれます。
最後の舞曲は、快活で前への推進力ある、シンフォニエッタの終楽章的存在に等しい。

日本でもおなじみ、ウーヴェ・ムントが指揮する低部オーストリア音楽家管弦楽団
ウィーンは地元指揮者になかなか厳しく、他国での活躍が目立つムントさん。
N響や京響でも親しいけれど、先輩グシュルバウアーと同様に、少年合唱団の出自でもあり、同じく、ウィーン以外の南欧での活躍も目立つ存在。

オケは変な名前だけれど、ウィーン・トーンキューンストラ
ウィーン周辺の数あるオケの中で、地味な存在だけれど、ムントやのちのルイージなどに鍛えられ、現在、家系指揮者クリスティアン・ヤルヴィが主席で、ますますユニークな存在になっていると思う。
かつてはおなじみワルベルクもここで活躍してました。

そんなコンビのシュレーカー。
オケの柔らかい響きに巧みな遠近感と繊細さを誇るの木管と金管。
強奏の少ない、なだらかな音楽に感じたけれど、どこをとっても、後々のシュレーカーそのひとのドラマ性の存在と、鋭い視線に満ちたシニカルさを感じることができる。

万人向けの作品(某先生みたいだ)ではないけれど、ベルリンフィルあたりの明るくバリっとした響きで聴いてみたい気もします。
今回の演奏が、少しばかりローカルっぽいものですから・・・・。

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2011年5月22日 (日)

ヴァイル 「三文オペラ」 マウチェリー指揮

Shinjyuku_gard

ここ、どこだかわかりますか?

新宿のガード下の通路であります。

上は、JR。東口から西口の端への連絡通路で、東からここを抜けると、そこにはペットショップや怪しげなショップがあり、そして、「思い出横丁」があるんです。
それらは、昔も今も変わらないけれど、この通路はご覧のとおり、こんなにきれいになっちゃった。
昔は、暗くて汚くて、夜などはちょっと恐怖を感じるくらいだったし・・・・。

Omoide

思い出横丁のディープな様子。
いくつか筋があって、店からオジサンたちの背中がはみ出してますよ。

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クルト・ヴァイル(1900~1950)の「三文オペラ」。

世紀末にドイツに生まれ、ユダヤ系ゆえに戦争・ナチスに翻弄され、アメリカに移り、終焉の地もアメリカ。
劇作家ブレヒトとの共同作業も多く、ふたりセットでナチスから睨まれていたという。

1928年の「三文オペラ」は、英国のジョン・ゲイの「ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)」(ブリテンも焼き直ししてます)を元に、ブレヒトが台本化し、ヴァイルが作曲をした音楽劇。
それは、オペラのようで、ミュージカルのようでもあり、わたしにはどちらかというと縁遠い存在だった。

しかし、わたしの大好きな二人の大ワーグナー歌手、ルネ・コロヘルガ・デルネッシュが登場しているとあって、かつて購入したのがこれ。
でも、それっきりで数十年ほったらかし。
久しぶりにCDトレーに乗っけてみましたよ。

面白かった!

日本の劇団が有名俳優で始終上演しているのは、劇が主体で、音楽がそこにあるというあり方。
このCDは、当然に音だけだし、セリフや語りの進行もあるものの、クラシカル畑の歌手が歌っていることもあって、音楽があくまで主体。
前者がブレヒトの風刺的・諧謔的な台本に演出家が腕を競うのに対し、後者は、ワーグナー、マーラー、新ウィーン楽派などのドイツ・オーストリアの音楽の流れに則って反映したベルリンの音楽シーンのひとコマを確かな演奏で記録したもの、といえるかもしれない。
有名なナンバーが、セリフや場面説明の語りを交えながら、次々に歌われる。
歌好きにはたまらない。

そういう意味で、聴きごたえがあったし、かつてと異なり、ヴァイルの本格クラシック作品、交響曲や協奏曲などを経験してきているために、わたしの感じ方も変化しているわけだった。

 メッキース:ルネ・コロ           ピーチャム:マリオ・アドルフ
 ピーチャム夫人:ヘルガ・デルネッシュ ポリー:ウテ・レンパー
 ジェニー :ミルバ             ブラウン:ウォルフガンク・ライヒマン
 ルーシー:シュザンヌ・トレンパー    語り:ロルフ・ボイゼン

  ジョン・マウチェリー指揮 RIASベルリン・シンフォニエッタ
               RIAS放送合唱団
                     (1988@ベルリン)

ロンドンのソーホー地区で、街を牛耳るメッキース(メキ・メッサー)は、超女好きで盗みもするし、かつては娼婦の紐だったりの人物。
その彼が、ある日可愛い娘、ポリーにひと目ぼれ。そして、二人は即結婚。
ところが、貧民街の商売の総元締めの娘の両親ピーチャム夫妻は、とんでもないことと、ロンドン警察警視総監ブラウンに、女王の戴冠式パレードに貧民たちを送りこんでむちゃくちゃにしてやるぞ、と脅し、メッキースとは軍人仲間で裏切ることのできないブラウンも渋々協力することにし、メッキースは逮捕されてしまう。
 ところが牢獄の前で、ポリーとかつての愛人とがさや当てがもとで大げんか。
その騒ぎに乗じて脱獄してしまうメッキース。
しかし、逃げ込んだ娼婦の裏切りで再逮捕。処刑も決定。
しかし、急転直下、女王の使者が登場し、メッキースの恩赦と世襲貴族・豪華館・終身年金1万ポンド与えられるとの報が下り、全員で皮肉に満ちた歌を歌い唐突に劇は終わる。
 
 「不正を追及するな やがて不正だってひとりでに凍死するさ、
 世の中は冷たいからね
 嘆きの声の響きわたるこの嘆きの谷の
 世の中の暗さと、冷たさを考えてもみろ」

劇中、不穏な発言や皮肉のまじったセリフの歌がいっぱい。
いつの世にも通じるところが、面白い。

そして、コロデルネッシュの歌は、クラシックを日頃聴いてる私どもには、順当なくらいに立派。トリスタンとイゾルデ、ジークフリートとブリュンヒルデみたいだ。
ジークフリートが山上で目覚めよ!と歌うのと同じような場面もありましたよ(笑)
そして、メゾに転向してもデルネッシュの輝ける存在感は変わらず。

ミルバのイキのいい歌と声による演技、レンパーの可愛い雰囲気、トレンパーの芸達者ぶり。
マウチェリーはこの手の音楽は抜群にうまいけれど、あんまり指揮や解釈のしがいがあるような音楽にも思えなかったのも事実で、ほかはどうなってるのか聴いてみたいもの。

このCDは、デッカの退廃音楽シリーズには入っていないけれど、その系統にあるといってもいいかも。
あのシリーズは廃盤。いくつか集めたけれど、輸入盤ばかりで、歌詞がわからない。
タワレコあたりで復活しそうな予感あり。

Beer

そして、ある日、さんざん飲まされて、ひとり取り残され、さまよう新宿駅。
思い出横丁へ突入し、「若月」で、カウンターに座るなり、わたくしは言葉三つ。

「餃子、ラーメン、ビール」。

メッキースとピーチャム夫人の歌にありました。

「まず飯だ、道徳はその次ぎだ up

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2011年5月20日 (金)

エルガー ヴァイオリン協奏曲 ズッカーマン

Rose_1_2

いまが、さかりのバラです。

インドに行ってきた仕事の先輩が、あちらで、ローズエキスを買い占めてきたそうな。
インドで、バラ?
っていうのも、イメージがなかったけれど、もともとバラの原産は、ネパールとか中国の西部といいます。
加えて、ヨーロッパ、特にイギリスの植民地時代にも、欧州での需要を担う生産地帯だったわけです。
バラの畑も、ものすごい膨大な規模だったそうですよ。
そして、ともかく安い。
純度100%で、一本数百円ですと。

ドリーブのオペラ「ラクメ」でも、バラの園が出てきますな。

Elgar_vn_con_1

久しぶりの更新です。
書きだめた記事や、未完のものはいくつかあるのだけれど、その日その時の気分で印象や画像が異なってくるので、それらは、ゆるりゆるりとまいります。

今日は、エルガーヴァイオリン協奏曲
この協奏曲も、わたくしは大好きでして、最近はそうでもないが、かなり集めてしまった。
10種類くらい持ってるでしょうか。
しかも、大曲なのに、同じ奏者が2度録音しているのが、ズッカーマンとN・ケネディ。
どちらの奏者の新旧も好きですよ。

ズッカーマンは、バレンボイム&LPOと、スラトキンセントルイス響
ケネディは、ハンドリー&LPOと、ラトル&バーミンガム。
いずれも、エルガーを得意とする指揮者との共演。
4種ともに、わたしの愛聴盤。

1910年、英国に生まれた初の成功したヴァイオリン協奏曲。
マーラーの死の前年。
そのマーラーの晩年の音楽からくらべると、このエルガーの協奏曲は、ブラームスにその古風なロマンティシズムという点において近いし、クライスラーに献呈されているくらいだが、その音色というかテイストは、ノーブルで憂愁にも満ちた「英国のエルガー」の香りに満ち溢れた素晴らしいもの。

50分の長大な協奏曲で、1楽章17分、2楽章13分、3楽章20分。
各楽章もそれぞれ長くて、2+1の交響曲の規模にも匹敵するものの、この作品が一度好きになると、陶酔したように聴き入ってしまうことになる。
 高貴で優美、かつ情熱にも満ちた第1楽章、抒情のしたたりに思わず目頭が熱くなってしまう第2楽章。
そして、ソロの早いパッセージが連続しスリリングな第3楽章。
それが、最後には、1楽章の冒頭の高貴な旋律が回帰してきて、感動の高まりは最高潮となる。エルガーのいつものパターンを、ここでも涙ぐみながら味わうわたくしなのです。

録音の取り方にもよるけれど、ちょっとスリムなズッカーマンのヴァイオリン。
優しく親しみやすい音色に、抜群の技巧の冴え。
若くから活躍してるズッカーマンは、まだ60歳ちょっと。
先ごろは、宮崎音楽祭のために緊急来日してくれたみたいです。
指揮もするズッカーマン、DGにロスフィルを指揮したブランデンブルク協奏曲があったはずで、なぜかそれが聴きたくてしょうがない。

英国音楽を得意とするスラトキンもいいもんです。
オケがロンドンのオケだったら、という思いもありますが。
1992年のRCA録音。

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2011年5月15日 (日)

ベルリオーズ 幻想交響曲 ミュンシュ指揮

Shoubenkozou201105

お待たせしました、月イチ小便小僧。
浜松町駅の端っこ。
5月は、お節句モードでした。
月末まで、まだやってます。
水溜めから勢いあまって、お漏らししちゃってますよ。

Shoubenkozou201105_a

鯉のぼりに、金太郎に兜。
そして、日本への応援旗。
もりだくさんです。

そして、勢いありますなdown

Berioz_symphonie_fantastique_munch_

そして、こちらも勢いじゃ負けてませんし、とても死を1年後に控えた76歳の指揮者によるものとは思えない燃えた「幻想」を。

月イチ「幻想交響曲」シリーズ。
ベルリオーズの幻想が、ベートーヴェンの死後3年後、第9の6年後、1830年。
しかも27歳いうのがなかなかにすごいこと。
そして、ファウストやロメオ、キリストの幼時、レクイエムなど以上に、最近は、ベリリオーズのオペラに開眼してきている。
トロイ人のような、長大な作品が魅力で、時間がないだけに困ったことになってきております。

「幻想」歴は長いけれど、はじめて聴いたのは誰の演奏だったか思いだせない。
モントゥーか、ミュンシュか、小澤か、だったかだけれども、一番強烈な印象を与えられたのは、ショルティとシカゴの剛毅な演奏。
シカゴの鋼鉄のような強靭な音塊にたじたじになったもんだ。
同時期に出たカラヤンの再録音も、目覚ましい録音で、ベルリンフィルのビッシリした豊饒サウンドに魅惑された。
それらは、きっといずれこのコーナーで取りあげるものと思う。

そして、定番ともいえる、ミュンシュの幻想に入っていったのは、その後のこと。
最初は、ボストンの1回目、次いで62年の2回目、そしてパリ管との67年もの(ハンガリーは聴いてないです)。
いやぁ、これらの幻想の一直線ぶりと、自信に満ちた自在さぶりには参りました。
私的には、ボストン2が、少しばかりヨーロピアンな感じがして好きなのでありますが、パリ管より、ほんの少しばかり大人しめに感じるところが面白いのです。
パリ管創設間もないこの録音は、同時期のブラームスとともに、オケも指揮者も気概に満ちたやる気満々の演奏をまともに捉えていて、あのEMI録音なのに、録音ホールが曲の進行とともに、熱気を帯びていって音の密度があがってゆくような感じになってるのがスゴイ。
いうまでもなく、最終楽章が興奮の坩堝なのだけれど、音がどこまでも輝かしく、小手先を弄さずに巨大なクライマックスを築き上げるさまが圧巻。
最後の和音を、こんなに延ばす演奏は、このミュンシュ&パリ管が随一かも。
 全曲のいたるところに、長年、幻想を振り続けてきた自信と、気合いが感じられ、思わず、ハッとする歌わせ方や絶妙な間の取り方などを感じることができる。
そんな中で、第3楽章「野の情景」の抒情と情熱、その分裂の交錯は、ベルリオーズの音楽の本質を突いた素晴らしい聴きもの。
久しぶりに、ミュンシュ&パリ管の「幻想」を聴いて、この楽章に強く感銘を受けた次第でありました。

さぁ、来月は、どんな「幻想」が聴けますでしょうか。

「幻想交響曲」一覧

「ミュンフン&バステューユ」

「クリュイタンス&フィルハーモニア」

「アルヴィド・ヤンソンス&レニングラードフィル」

「マリス・ヤンソンス&バイエルン放送響」

「プレヴィン&ロンドン響」

「サヴァリッシュ&スイス・ロマンド」

「小澤征爾&ボストン響」

「ミンコフスキ&ルーブル、マーラー・チェンバー」

「パスカル・ヴェロ&神奈川フィル演奏会」

「ハイティンク&ウィーンフィル」

「アバド&シカゴ響」

「メータ&フィレンツェ五月祭演奏会」

「マリス・ヤンソンス&バイエルン放送響演奏会」

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2011年5月14日 (土)

プフィッツナー 「パレストリーナ」より ティーレマン指揮

Kanda_myoujin_7

キリスト教社会を背景とする西欧社会のクラシカル音楽。
日本の神社仏閣を崇める社会とは、趣きを異にするけれど、求道と救いを求める人々の心は一緒。

しかし、こちらは御利益の神様。
こちらは、神田明神の少彦名命(えべす様)を中心に造られた像でございます。
いうまでもなく、七福神のおひとり、商売繁盛の神様です。
イルカやくじらが、昔から大漁をもたらすとされ、えべす様も海のかなたからご来臨されたとの言い伝えから、こんな心躍るような像が造られたのであります。
芸大の学長さまの作と、あります。

願わくは、東北・関東の海に活況が戻りますことを!

Pfitzner_thielemann

今日は渋いところを。

ドイツ最後のロマン派。
いや、世紀末にあって、ロマン派の残滓を守り抜いた人。
ハンス・プフィッツナー(1869~1949)の歌劇「パレストリーナ」の3つの前奏曲。

R・シュトラウス(1864~1949)と完全に同一時期に活躍し、当時はドイツ国内で人気を二分するほどだったが、今やみなさま知るとおり。
声楽作品やオペラを中心に、交響作品や協奏曲もかなり残しているものの、その作品はあまり顧みられることがない。

二人の作曲家とも、ナチスドイツの治世のまっただ中に生き残った訳で、当然にユダヤ系じゃないところなのだけれど、シュトラウスが生真面目ながらも多くを語らず、時には批判もあえてしまくり、ついにはそれがバレて失脚してしまうのに比べ、プフィッツナーは、反ユダヤ的な主張やそう思わせる作品までも、堂々と正直に発表しまくった。

シュトラウスが、耳当たりよく、華やかですぐれた台本を得て、大衆にもわかりやすい機微にあふれたオペラをたくさん書いたのに、プフィッツナーは、その素材自体が渋くて難解なもので、その長大なオペラ作品を聴くのには難渋してしまいそうだ。

その代表作「パレストリーナ」には、クーベリック、スウィトナー、カイルベルトといった指揮者たちの全曲盤があって、いつかは制覇すべき作品と思っている。
しかも、映像で、シモーネ・ヤングもあるらしい(おそるべしヤング女史)。

16世紀のイタリアルネサンス期の作曲家パレストリーナそのひとが主人公。
時代柄、宗教音楽作曲家として活躍し、ポリフォニー様式を極めた人で、同時により自由なマドリガーレをも極めた。
宗教と世俗との両立に悩んみ、そんな葛藤が、プフィッツナーの、このオペラに描かれているといいいます。
オペラの全貌を把握するまでは、即断できませんが、比較的演奏される、ここに収めらた1幕から3幕までの3つの前奏曲は、一聴、とっつきは悪いものの、何度か聴き重ねるうちに、渋さとともに、豊かな旋律に溢れていることに気がつく。

真ん中の第2幕の前奏は、宗教会議場の場面に先立つもので、そちらは、快活ながらも少し尊大で、むしろ取りつく島もないくらいに厳しい雰囲気なんだ。
先立つ第1幕の前奏曲は、まるで「ロード・オブ・ザ・リング」のような、悠久の旅と孤高の心持を思わせるかのような、少しばかり切ない音楽。
最後の3幕前奏も、おおむね緩やかで内省的なもので、パレストリーナの静かな心境を映し出すかのような素晴らしい音楽で、このまま終幕は、どんなにか透徹した世界になるのだろうか、と想像するだに感動が走る。

3つの前奏曲が、緩旧緩というパターンになっていて、繰り返し言いますが、渋いのですが、音楽の純粋さが並々とあふれ出てきてます。
政治的・心情的なことがどうのこうのを、まったく感じることなく、旋律の美しさと、これらの音楽の持つピュアなあり方を普通に受け止めればいいのです。

ちょっと晦渋派だけれど、滔々と流れる旋律線の魅力にだんだんと気付かされることとなるプフィッツナーなのでした。

ここで指揮する若きティーレマン
ベルリン・ドイツ・オペラ管との95年の録音。
硬派なティーレマンならではの選択で、カップリングもR・シュトラウスなところがよろしい。
このCDは、大オーケストラサウンドを楽しむというより、歌いまわしの豊かさを味わうべきもの。
二人の作曲家の接点もしっかりと感じとれます。
シュトラウスの初期オペラ作品と、プフィッツナーの音楽にある共通項も多分に感じ取れます(晩年のカプリッチョだけ異質)。
それは、ワーグナーとドイツ・ロマン主義でありました。

そりゃそうと、若いね、ティーレマン。
この頃もきっと、しましまラガーシャツだったんでしょうかねぇ。

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2011年5月13日 (金)

アレグリ 「ミゼレーレ」 タリス・スコラーズ

Tokyotower20110513

本日5月13日、21時頃の東京タワー。
自粛と節電でライトアップが止まっておりましたが、11日から13日まで、「哀悼の光 ダイヤモンドヴェール」ということで、白色のライトをまといました。

上と下は点灯せず、しかも電力量も減らし通常の半分といいます。
東京タワーのサイトには、通常時との電力消費が対比されて表示してあります。
何事も、こうして使用電力を明示して、理解を請わないとならない世の中になったのであります。
節電ビジネスも数々登場し、節電コンサルタントの講演会などは大盛況。
3月10日までは、誰が、日本がこんな風になると予測しえたでしょうか。
しかし、本来的には、節電節約は正しきこと。

2ヶ月間、真っ暗だった東京タワーに明かりが灯り、明日からもまた通常より使用電力を減らして点灯してゆくといいます。
少し、寂しさが晴れた気持ちもしますねぇ。

そして、この哀悼のヴェールとともに、わたしも音楽で、哀悼の意を表明したいと思いました。

Allegri_miserere

ルネサンス末期~バロック初期の狭間のローマの作曲家グレゴリオ・アレグリ(1582~1652)の「ミゼレーレ」
パレストリーナの流れをくみ、聖職も兼務した敬虔なアレグリの代表作。
というより、これしか知らない。

この曲は、いっとき流行りました。
英国BBCの通俗曲ばかりあつかうサイトの放送で、数年前、始終かかっていて、おぼえてしまった。
Classic FMというキー局だけど、ラフマニノフやブラームス、アダムズやグラスのミニマルミュージックもさかんに流していたのがおもしろい。
映画にまつわる音楽、ということでしょう。

「ミゼレーレ」とは、レクイエムやミサ曲に必ず出てくる言葉。
いずれも、哀感がこもり、切々とした歌と音楽が伴っております。
「救い給え」という意。
旧約の詩篇51篇の部分であります。

~神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。~

人間が罪を告白し、悔い改めを表明し、神に救いを求めるわけであります。
そして、キリストがその人間の罪を一身に背負い十字架に架けられ、生贄となったがゆえに、イエスを通じて神に語りかけるのがキリスト者なのです。

4声と5声の2団の二重合唱による、静謐でシンプルな音楽は、単調なまでに淡々として何事も動きが少ない。
一心不乱に告解をして熱っぽくなることは一切なく、静かな心乱すことのない祈り。
だからかえって、誠実な祈りとして心に迫ってくる。
キリスト教と遠い方であっても、この祈りの心情は不変でありましょうし、仮に、この曲が神社やお堂で流れたとしても、全然違和感がないのではないでしょうか。

ピーター・フィリップス指揮するタリス・スコラーズの録音は、ふたつの声部が少し距離を置いて、それぞれがこだまのように響き合うさまが、録音によってよく捉えられているし、完璧なウマさが無垢な歌声にとって変わって聴こえるまでに、研ぎ澄まされている。

モーツァルトが、この音楽を聴いて、記憶をもとに写譜を残したという話もあります。

ここに、タリス・スコラーズの映像がありましたので。



もう1枚、別の場所から。

Tokyotower20110513b

暗過ぎ?
でも、これでいい。

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2011年5月11日 (水)

ワーグナー 「にわとこの花のかぐわしさ」~マイスタージンガー

Elderflower1

震災から2か月目の今日。
台風と前線の影響で、関東も午後からしっかりとした雨。
夏日の昨日と10度以上違うこの気象。
いったい、どうなってるんだ、と、手のほどこしようのない気象や自然現象に憤りを感じてみたところで、どうしようもない。

わたしを神奈川フィルに導いてくださり、ブログでもひとつの指標として日々更新されていらっしゃったyurikamomeさん、昨晩、そのブログを停止します、との報を受けて、すっかり動揺してしまいました。
ブログを通じて、お知り合いとなり、いまでは、定期的に盃を交わす間柄です。
残念ですが、yurikamomeさんが、熟慮のすえ、決断されたこと。
決断を尊重したいと存じます。

事情は、まったく異なるかもしれませんが、わたしも、実は偶然にも、ここ数日考えていたことが、ブログの継続。
わたしを取り巻く環境、日々変わっております・・・・。
辞める下準備も実はしました。

厳しいですが、でも、気持ちが続く限りやってみようと思いました。

Elderflower2

晴れてた連休に、都内で見つけたこの花。
やたらと芳しい香りで、思わず立ち止り、しばし佇み、そして通り過ぎて、さらに香りの記憶を呼び覚まされ、再び舞い戻り、写真を撮りました。

帰ってからネットで調べましたところ、やはり、想像どおり、「にわとこ」でございました。
エルダーフラワーは、ヨーロッパでの初夏ではおなじみの草木で、薬草や飲料水のテイストとして定番。
甘い香りが、周囲にただよってました。

そして、ワーグナー・ファンとしては、中世ドイツの街の市民の物語「ニュルンベルクのマイスタージンガーで、ハンス・ザックスの庭先に咲いて、芳香を漂わせているのもこの花。

ハンス・ザックスが、この木の下で、夜、靴職人としての職務に励みながら、昼間に出会った、若者の斬新かつ心を打つ進取の歌に心乱されつつも、「でも、おれは、あれはあれで気にいったぞ!」と同調し、応援してゆく気持ちを歌う。

ワーグナーのすごいところは、劇そのものの持つ深さと訴求力。
そして、そこにある人物たちの強い個性に、われわれ普通の一般人でも共感や反発心を持ちうる描き方だということ。
そこに、強烈な音楽が付随する。
歴史上の人物ザックスに、ワーグナーがつけた人格者としての個性は、その音楽にしっかり反映されていて、オペラの役柄で、わたしたちが、なりたいと憧れる人物のひとつとなっている。



こちらは、ベルント・ヴァイクルのザックス。

バイロイト音楽祭のウォルフガンク・ワーグナーの具象的な演出で、マイスタージンガーの舞台に相応しい美しい舞台。
背景には、ちゃんと「にわとこ」がありますよ。


ブリリアントな声もよろしく、見栄えもいいヴァイクルのザックス。
バイエルン国立歌劇場の来演で実演に接し、その後かぶりつきで、飯守先生の指揮でリサイタルを聴き、新国では自身の演出を観劇し、で、ともかく「マイスタージンガー」においては、ヴァイクルは私にとって、一番親しい存在なんです。

あと、最高のザックスと思っているリッダーブッシュと、実演もカラヤンCDも素晴らしいテオ・アダム、この3人がザックスのわたしのベストでしょうか。

この2幕のモノローグでは、新しい芸術の勃興を感じ取り、それを積極的に受け入れようとする心意気を歌う。

そして、第3幕にもある長いモノローグ。
そこでは、新しいものを受け入れるには、自身の密かな愛情も押し殺し、影にまわって、新しい世界を導く手助けを、自らがなす決心を歌う。

新しいもの、革新を行うには、これまでの定番や成功者が不利益を被るもの。
当然に彼らの抵抗がつきもの。
それを打破せんとする若者の後押しをする旧世代の人物も影ながら存在する。

いつの時代にも、このような図式はあてはまります。

いまの危機状態の日本にも、そうあって欲しいと思います。
いくつもの革新的な考えや、メソッドが確実にあるのに、それらは必ず潰され消されてしまう。

ワーグナーの作品には、こんなふうに、その作品に深いメッセージ力が必ず込められているのです

「ベルント・ヴァイクル オペラアリア集」

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2011年5月10日 (火)

「LET IT BE」 ザ・ビートルズ

Tokyo_towar_rose_1

薔薇と東京タワーです。

Let_it_be_1

ビートルズの名盤、「Let It Be」です。

ポール・マッカートニーの結婚を祝してheart04

そして、いまの日本にup

1970年の発売のビートルズ最後のアルバム。
作品的には、これまた超名作の「Abbey Load」の方が後になるけれど、個性と才能あふれるメンバーたちがぎくしゃくしてしまった。

わたしは、中学3年でビートルズに目覚めたけれど、奥手で、まわりにはファンが一杯。
でも、第9や春の祭典や惑星、ディーリアスやリングを聴きながらビートルズを聴くヤツはいなかった。
いま思えば、逆にこんなわたしも、クラシックを友達に影響を与えることができていたようで、1000円の廉価盤を融通しあっていたもんだ。

そして、忘れもしない中学3年の冬休み。
ビートルズの映画3本だてを、東海道線に乗って、有楽町まで友達と観に行った。
「ビートルズがやってくる、ヤァ!ヤァ!ヤァ」、「HELP!」「LET IT BE」。
モノクロの渋い1作目、インド風エキゾティックで怪しげでドラッキーなヘルプ、そして4人がよそよそしいけれど、無口に音楽のみを求道してゆく姿とロンドンの街が印象的なレット・イット・ビー。
その後もテレビで何度も観たけれど、この時のスクリーンの4人は、ずっとずっと印象的に覚えております。
(ちなみに、この映画鑑賞のあと、銀座のヤマハに行って買ったレコードが、ブーレーズとニューヨークフィルのワーグナーだった)

この映画のサントラがこのアルバム。
ビートルズのアルバムで何が好き?と聞かれたら、口では「アビーロード」か「サージェントペパーズ」と言ってしまうかもしれないけれど、本心ではこの「レット・イット・ビー」かもしれないです。
ともかくレコードの溝が擦り切れるほど聞きまくり。

1.Two of us
2.Dig a pony
3.Across the universe
4.I Me Mein
5.Dig it
6.Let it be
7.Maggie mae

1.I’ve got a feering
2.One after 909
3.The long and winding road
4.For you blue
5.Get back


全部くまなく聴いていたけれど、やはり始終、針を落とすのは、A面の6とB面の3。
「Let It be」 と 「The long and winding road」でしたね。
いまでも、カラオケで歌っちゃったりしますよ。

このレコードは、生々しくシンプルなバンドをバックにしたサウンドで、それはあの映画の、たとえばアビーロードスタジオかどこかの屋上で大音量で演奏した場面そのものの雰囲気だったりする。その場面では、ロンドンのあの山高帽の警察官が屋上までやってきて困った顔をするなかで、平気で歌う4人組が、そのまま映されていた。
それこそ、Get Backでしたな。

聴きまくった2曲以外も、みんな大好き。
ジョンの不可思議な魅力の「Two of us」に、「Across the universe」
ポールのシャウトする若々しい声が素晴らしい「I’ve got a feeling」。
4人の中で、一番好きだったジョージの歌う「I me mine」とカントリーなタッチだけど哀愁あふれる「For you blue」。

そして、オーケストラ付きの「The long and winding load」は、思わず指揮してましたよ。
中学生ながら、この長くて曲がりくねった道ということは、これから歩む人生のような気がして、思わず目をすぼめて遠くを見てしまうような気分にさせてくれましたね。

「Let it be」、さきのロングアンド・・とともに、いくつかバージョンがあって、わたしは、LPのものがいまだに好き。

「Let it be」~なすがままに・・・・

このフレーズを何度も何度も口ずさみました。
なすがままに、なるようにしかならない。
こんな言葉が今もって心に響きます。

本来、原点回帰=シンプルなロック回帰を目論んでいたメンバーだけれど、その思いに反し、契約の問題やプロデューサーの関係などでアコーステックなバックを追加せざるをえなかったという。
そういう意味では、わたしが好んだ2曲以外の方がリアルな彼らの望んだサウンドかもしれない。
そして、それを汲みした音源が2000年代になって発売されたこともご存じのとおり。
タイトルに、NAKEDと付いたそのCDも購入したけれど、これはこれでよいのですが、曲順も違うし、慣れしたんだLPとどうも違う。

いずれにしても、ジャケットとともに、永遠のビートルズを私に刻みつけてる音源は、当初のものなんです。

Let_it_be

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2011年5月 8日 (日)

「サウンド・オブ・ミュージック」 フォン・シュターデ

Yokohama_park_a

チューリップ畑。
人工的なありかたかもしれないが、この愛らしい花々の連なりには、どんな人でも心が明るく、朗らかになるのではないでしょうか。

その球根の取引をめぐって、かつてバブルを創成したのは、みなさまご存知のとおり。
しかし、美しい、色とりどりのこの花は、そんなことを思わせもしない。
ウィーンのニューイヤーコンサートに、毎年早々と、いろどりを届けるのはオランダ国から。

Sound_of_music_stade

「サウンド・オブ・ミュージック」

ロジャース&ハマースタインの名作ミュージカルとミュージカル映画。
ジュリー・アンドリュースのあのミュージカル映画が、あまりにも有名で、劇団四季でも公演が始まりましたが、どうしてもそちらの映画の方がこの作品の代名詞的な存在になってる。
オーストリア・アルプスの美しい自然やザルツブルクの街がふんだんに登場する、映画の主役のような存在。
そして、やはり本当の主役、デイム・ジュリー・アンドリュースの優しく暖かな人柄にあふれた歌と演技が、このミュージカルの代名詞みたいになってる。

わたしは、テレビでしかこの映画は見たことがないけれど、中学生だった私の姉は、映画館で観て、完全にはまってしまい、サントラLPも即お買い上げになって、何度も何度も聴いていたものだから、クラヲタ少年だった私も、この音楽をすっかり覚えてしまったもんだ。

耳にこびりついてる、デイム・ジュリーの歌声を果たして払拭できるか・・・・。

わたしの若い頃のアイドルのひとり、フレデリカ・フォン・シュターデが、マリアを歌ったCDを初夏のような陽光眩しい日曜日に聴きました。

 マリア:フレデリカ・フォン・シュターデ トラップ大佐:ホーカン・ハーゲゴール
 修道院長:アイリーン・ファーレル   エルザ男爵夫人:バーバラ・ダニエルス
 マックス・デトワイザー:レヴィス・デール・フォン・シュランブッシュ
 ロルフ・グルーバー:ニール・ジョーンズ リーズル:ジーン・メンケ  ほか
 子供たち

  エーリヒ・クンツェル指揮 シンシナシティ・ポップス・オーケストラ
                   五月祭コーラス
                      (1987.12@シンシナシティ)

このCD、オリジナルのミュージカルにかなり忠実に聴こえ、クラシカルのメンバーだからといって、そんな風に堅苦しくオペラっぽくもなっていないところがいい。
お馴染みのナンバーが、テラークの名録音でもって、次々と溢れだしてくるのを素直に楽しめばいい。

Stade

そして、フリッカの耳をくすぐるような心地よい美声を聴く歓び。
ジャズやミュージカルも得意とした彼女。
声域も広い彼女だけど、無理をせずに、メゾの音域でもって、フリッカならではのチャーミングなマリアを歌っていて、とても素敵なのであります。
少しばかり健康的にすぎるきらいもあるが、曲が曲だし、オケやレーベルがアメリカンなコンセプトだから、これはこれでよろしい。
やはり、フリッカの中音域は魅惑的。
このフレンドリーな声を聴いてると、何故か、彼女のケルビーノを思いだしてしまった。

トラップ氏を歌うハーゲゴールも、これまた爽やかさとナイスな人柄で売りだしたバリトン。
魔笛の音楽映画でパパゲーノを歌って大ブレイクした人。
そのまま人のいい優しげな大佐でして、エーデルワイスは、一緒に口ずさみたくなるような歌です。
去年亡くなった伯父が、この歌が大好きで、姉の披露宴で歌っていたっけ・・・・・。

懐かしい、アイリーン・ファーレルが味のある聴かせてくれるのも嬉しいです。

鳥がさえずり、渓流のせせらぎ、フリッカの爽やかな歌声から始まる「サウンド・オブ・ミュージック」を聴いて、つまらなかった連休が少しは晴れました。

フレデリカ・フォン・シュターデの過去記事

「My Funny Valentine」

「オーヴェルニュの歌」

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2011年5月 7日 (土)

ワーグナー 管弦楽曲集 ジークフリート・ワーグナー

Zojyouji1_2

5月6日の増上寺と東京タワーです。
なんだかんだで、わたしは連休はナシ。
半分気楽だけど、ずっと仕事してました。

今年のGWは、まったく狂ってしまった。

でも季節は、ちょっと遅れつつも、確実にめぐってきます。

人間の営みは、変転はあっても規則正しい自然の前にあっては、いかにもせせこましく、小さなもの。
それにもまして、天変地異的なこともあるわけだから、もう、どうあがいても、どうしようもないです。

Swagner_wagner

息子が父の作品を指揮をする。

親にとって、子にとって、こんな幸せなことってあるでしょうか。

そんな貴重な音源があるんです。

リヒァルト・ワーグナー(1813~1983)の長男、ジークフリート・ワーグナー(1869~1930)。
ワーグナーの二人目の妻、リストの娘・ビューローの元妻のコジマとの間に生まれた正式な長男がジークフリート。
自身の作品の人物と、私生活上の娘や息子の名前がいっしょくたになっていた、いかにもな、リヒャルトは、エヴァやイゾルデ、そしてジークフリートをその子供たちに命名した。

そんな、親の七光り的存在のもとに、現在にいたるまで、まったく顧みられることのない、ジークフリート・ワーグナー。
本人も、きっと、不死身の英雄の名前を戴いてしまい、しかも大ワーグナーの御威光もあって、やりにくくてしょうがなかったのではないでしょうか。

 ジークフリートは音楽の素養を充分に受けつぎつつも、自身の判断で建築家を志し、世界中の建築物を観てまわり、東南アジアまでもやってきて、かの地(シンガポール)を大いに大いに気に入り、そこで西洋音楽の道を次ぐことを決心してしまうことになる。
偉大な父を亡くしてからのはなし。

いらい、演奏家として父の作品の指揮。
そして、作曲家として19のオペラ作品や、交響作品などを書き、バイロイト音楽祭の総帥として、そして指揮者・演出家として、妻のヴィニフレートに継ぐまで、ワーグナー家のバイロイトにおける基盤を確立させた重要かつ重大人物なのだ。

その作品は、いまではまったくネグレクトされているけれど、弊ブログでは、かつてバリトンによるオペラアリア集を取り上げた。
同様のCDは、ソプラノアリア集、オペラ序曲・間奏曲集、交響曲などに加えて、オペラの全曲をいくつか、わたしも所有し、暇にまかせて聴いておりますが、なかなか記事にするきめてがないところがなんとも・・・・・。

そのあたりは、またいずれ。

今回は、ジークフリートが指揮をした、父リヒャルトの作品の一部を、そこそこ良好な音質でもって聴いてみるのであります。
オランダ人から、パルシファルまで、マイスタージンガーを除く作品の一部が演奏されている。
いずれも、1920年代後半の演奏で、61歳で亡くなってしまった、ジークフリート50台半ばの充実期のもの。


「さまよえるオランダ人」序曲、2幕前奏 ベルリン国立(25)
「タンホイザー」 第2幕前奏          〃    (27)合唱なし
「ローエングリン」 第1幕前奏       ロンドン交響楽団(27)
ラインの黄金」  終幕           ベルリン国立(27)
「ワルキューレ」  騎行、ウォータンの告別 〃 (26,27)歌手なし
「ジークフリート」 2幕間奏曲       ベルリン放送(29)
「神々の黄昏」  ラインの旅            〃  (〃)

「トリスタンとイゾルデ」 前奏曲と愛の死 ベルリン国立(26)
「パルシファル」 花の乙女の場面  ベルリン国立(25)M・ローレンツ
           3幕前奏曲     バイロイト音楽祭(27)
           聖金曜日の音楽  ベルリン国立(26)
            〃      バイロイト音楽祭(27)ヴォルフ、キプニス
「ジークフリート牧歌」         ロンドン交響楽団(27)
「忠誠行進曲」                〃      (〃)

 
よくこれだけの音源を集めたものです。
ジークフリートのバイロイトでの指揮活動を見ると、1896年から始まっており、母コジマの演出。
そして、自身が演出も兼ねるようになるのが、1908年から。
第一次大戦の影響で10年間の劇場休止後は、指揮は少なめで、演出と劇場運営、そして作曲に専念していて、トスカニーニやフルトヴェングラーの招聘を企画したものの、その実現を待たずに、母コジマの死の4ヶ月後に亡くなってしまう。

ナチスが徐々に台頭を始めたころのこれらの演奏。
ジークフリート亡きあとは、バイロイトは、ヒトラーの政治利用の場とされて、ワーグナー家には暗雲が垂れこめてくるわけだ。

これらの演奏を聴いて思うのは、古いのは録音だけで、演奏様式は、一部をのぞいて、さほど古臭さを感じないことだ。
茫洋とした霞みがかかったような神秘感や、重たいだけの重厚感、時代がかった見栄のはりかた・・・・・。これらとは無縁に聴こえる。
ちょっと古臭い一部とは、トリスタンで、微妙なポルタメントが気になるところだが、スマートですっきりしたトリスタンに慣れた耳からすると、音の重ね方やねっとり具合がとても新鮮に感じたりもするから、わたくしもげんきんなもんです。
 ローエングリンにおける、気品と崇高さは、父や爺さん(リスト)がきっと好んだであろう響きに感じる。
パルシファルの花の乙女の場面の快速ぶりも面白くて、乙女たちが着いてゆくのにレロレロになっちゃってる。
そしてここでは、マックス・ローレンツのパルシファルがちょこっと聴ける。
そのあとの、聖金曜日の音楽が、ベルリンとバイロイトとどちらの演奏も美しくも素晴らしいものだった。
 生れて間もなかった時に「階段の音楽」として演奏されたジークフリート牧歌は、ロンドンでの録音だが、とても優しく、テンポの揺らし方や愛情を込めた表情などに、この音楽に格別の思いを抱いて指揮しているのがよくわかる。
父と母の子守唄みたいな、直伝のジークフリート牧歌に、この録音が残されていることを、われわれワーグナー好きは感謝しなくてはなりません。

R_wagner_2 Swagner_wagner_2 Wieland_wagner_2 Wolfgang_wagner_3

ワーグナー家三代。
大リヒャルト、ジークフリート、その子ヴィーラントとウォルフガンクの兄弟。
みんな似てます(兄弟写真だけ、向きが違うので、反転させました、ごめんなさい)。

Catharinaeva

そして、いまのバイロイトの運営を引き継いだエヴァとカタリーナのウォルフガンクの二人の異母娘。
ワーグナーの血は、個性豊かに脈々と受け継がれております。

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2011年5月 6日 (金)

ブルッフ 交響曲第1番 マリナー指揮

Azeria

陽光眩しい5月はツツジであります。
いつもこの時期満開の自宅の団地の斜面。
今年は、一進一退の冬と春のせめぎ合いで、初夏っぽくもないし、ちょっと開花が遅くて、まだ満開じゃないです。
地震で植物もびっくりしちゃったかもです。

ツツジ=アゼリアが発する甘くて、香ばしい香りといったらありません。

Buruch_marriner

ロマン派の豊かな香りあふれる名作コンチェルトといったら、ブルッフ(1838~1920)のヴァイオリン協奏曲。
長生きしたブルッフは、たとえば、ブラームスより5年後輩、マーラーより22年も先輩だけれども、そのマーラーより8年長く生きた。
そんな活躍年代を思えば、ブルッフの音楽や人がなんとなく見えてくるようです。
そしてなによりも、ワーグナーが生きて、大いなる影響力を音楽家たちに及ぼしてた時代。
ワーグナーの濃厚なロマンティシズムと分厚い管弦楽法も当然に受け継いでいるものの、やはりブラームスに近いその響き。

ヴァイオリン協奏曲第1番と、スコットランド幻想曲、そして「コル・ニドライ」ばかりが有名で、そのほかの作品はまったく顧みられることがないといっていいブルッフ。
いつも気になりつつ、真剣に聴いたことがなかった3曲ある交響曲のうちの第1番を、わたしの大好きな指揮者のひとり、サー・ネヴィル・マリナーの指揮とアカデミーのCDで聴くことができました。
しかし、カップリングのパメラ・フランクの弾く協奏曲がメインのように扱われていて、ジャケットも彼女のポートレートになってる。
その協奏曲も桂演なのであるが、カップリングの交響曲と北欧情緒に溢れたスウェーデン舞曲のふたつが、実に素敵な曲なのであります。

35分くらいの、中規模な作品。
正統な4楽章形式で、メンデルスゾーンっぽいロマンティックで朗らかな明るい楽想の連続する交響曲。
ワグネリアン指揮者ヘルマン・レヴィから、オペラや合唱曲ばかりでなく、その豊かなイマジネーションで交響曲も書いてみたらとの勧めを受けて作曲された。
1868年の作で、1番の協奏曲の1年後。
ブラームスに献呈され、そのブラームスからも素晴らしい作品とお誉めをいただいた。

短い導入的な前奏を経て始まる第1楽章は、少し捉えどころがない。
暗から明・勝利へと続くベートーヴェン以降の交響曲のあり方をしっかり踏襲していて、荘重で慎重な出だしだが曲調は緩やかで明るい。
 おっ、これは「真夏の夜の夢」そのものじゃん、と感じる第2楽章のスケルツォ。
中間部の4拍子の旋律がやたららと印象的で、この曲を聴き始めてからというもの、何度も頭に浮かんでくる。少しかっこよくて、とても気に入った楽章です。
 次いで始まる第3緩徐楽章は、憂愁の雰囲気が、これまたスコッチ交響曲なんです。
この沈鬱としたムードと抒情は、かなり深いものがありますが、たった5分で終わってしまうのが残念。
そして、曲は休みなく、終楽章のフィナーレに続くが、これはまさにあの協奏曲の終楽章と同じ様相を呈している。健やかで伸びやかな終楽章。
なんて、気持ちのいい音楽なのでしょう。
春の日差しをいっぱいに浴びて深呼吸するみたいな感じですよ。

そして、わたしの愛するマリナー卿が、わが意を得たりともいうような、爽快きわまりない演奏を手兵のアカデミーと繰り広げているんです。
最後の緩やかななエンディングなど、マリナーの指揮姿が思い浮かぶような気がします。
ほかの2曲の交響曲もなんとしても録音していただきたいマリナー卿なのでした。
そして、ブルッフのオペラ作品なんぞ、是非とも聴いてみたいものです。

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2011年5月 4日 (水)

うつくしま 福島

Bandaisan

福島県の顔のひとつ、「会津磐梯山」。
一昨年の初春に撮影したもの。
子供の頃、こんな風景のCMがあって、「エンヤー、会津磐梯山は宝の山よ~」 という民謡が流れる、会津の日本酒のものだった。
子供心に、なんてきれいな山なんだろう、なんて雪深いんだろうと、遠くにある磐梯山を思ったものだ。

この福島県が、いま、いわゆる4重苦にさいなまれれている。

大好きな福島県を勝手に応援しようという企画です。

Inawashiro

磐梯山の南に位置し、会津若松と郡山の中間点にある「猪苗代湖」。
日本で4番目に大きい湖。
湖畔には、野口英世の生家と記念館があります。
デジカメがまだなかった頃、子供を連れて、裏磐梯に旅行したものです。
そして、こちらは、スキーのメッカですね。

Onahama

転じて、こちらは海です。
いわき市の小名浜港。
静かな、この港にも津波が押し寄せました。

福島は、「海・山・湖」と美しい自然がそろっているのです。

そして、もうすでにおなじみとなりました、3つのエリア。
「中通り」、「浜通り」、「会津」。
それぞれ、わたしが食べた美味しいものを、多くは再褐ですが、ご紹介。

Fukushima1_2

まずは、ラーメン。
わたしの好きな「白河ラーメン」の数々。
白河は、北関東との境に位置する東北の玄関口で、中通り。
醤油ベースのあっさりスープに、平打ちのコシの強い麺。
シンプルだけど、豊富な具材。
左手上から時計回りに、「朝日屋食堂」「あずま食堂」「大正」「いまの家」。

Panelimg2

次いで、会津。
山の恵みと豊富な水。

会津は馬肉文化圏。モモなどの赤身が多く、辛味噌をつけて食べます。
そして、全国区に有名な「喜多方ラーメン」。
「松食堂」であります。
それと、わたしの好きな牛乳が「べこの乳」。
車で出張したときなどは、ヨークベニマルで、馬刺しとべこの乳を買って帰ってました。
 最後のは、車で峠超えしたときに食べた、味噌けんちんうどん。

あと、会津は蕎麦ですよ!
デジタル画像を持ってないので、ここではありませんが、坂下という町で食べた「水蕎麦」が清涼でうまかった。
何も汁をつけずに、水に浸った蕎麦を、ネギ一本を使って食べるんです。
有名な親父の店で、あれこれやたらと話してくれましたなぁ。

Panelimg4_2

そして、また中通りに戻ります。
福島土産といえば、これ。
「ままどおる」と「エキソンパイ」。

その右は、郡山の「大番」というラーメン屋さんの味噌ラーメン。
ヒラヒラの麺がユニーク。
キタナミシュランちっくな、入店をためらう雰囲気のお店だったけど、味はgoodで、満席。

わたしの大好きな「丸信ラーメン」。田村市にあります。
そして、郡山には、ある会社の本部があって、何度足を運んだかわからない。
帰りは、いつも駅ビルにある「みちのく」という店で、馬刺しをつまみに福島の地酒「榮川」を一杯。

Panelimg3

浜通りの中心は、いわき市。
いくつもの市や町が合併してできた面積も大きな市。
上野から常磐線で行きます。
ときには、車で行ってしまうこともありました。

いわきには、湯本という温泉地もあるし、常磐ハワイアンセンターも有名ですな。
いわき駅周辺に宿泊したとき、街をさまよって、入り込んだ横丁の浜料理のお店で食べた煮付け。地元の方々に囲まれ、いつのまにかこちらも浜言葉を。
会津・中・浜で、言葉が少し違うみたいです。

湯本方面で見つけた「北石」という手打ち蕎麦やさん。
鴨汁蕎麦を頂きました。

で、ホッキ貝の握り。
いわきの寿司屋さんで。宮城の南部から福島は、ホッキ貝がよく漁れる。
原の町には、ほっきめし弁当もあったけれど。
そして、いわきでも食べますラーメン。
小名浜の支那そばや「かくれんぼう」の醤油チャーシュー。
この肉の下に、野菜やナルトが隠れておりました。

Panelimg5

あとは福島詰め合わせ。
上ふたつは、大熊町にある「おばさん餃子」。
文字通り、おばさんがやってるお店、原発から本近くなので、いまは避難されてらっしゃることと思い、心が痛みます。
ともかく、ウマい、安い、ボリューム満点。
ご飯を、白いのにする?たまごチャーハンにする?なんて聞いてくる店あります?
大振りな餃子もぷりぷりジューシー。
また行きたいなぁ~。

会津の名物のひとつに、ソースかつ丼もあります。
胃袋がひとつしかないので、あちらではまだ食べたことがないのです。
土産物のお菓子ですが・・・・。

そして、フルーツ王国福島。山梨と双璧。
とりわけ「桃」!

それから、当然に、日本酒。
名倉山、大七、榮川、奥の松、飛露喜、花春、会津ほまれ、三春駒、磐梯山、国権、会津娘、末廣、奈良萬・・・・・、ともかくたくさん。
音楽好きなら、喜多方に「蔵粋(くらしっく)」という酒がありまして、モーツァルトを聴かせながら熟成させてます。
なんだか、とってもうれしいじゃないですか。

食いしん坊目線から見た福島の魅力。
まだまだ、尽きない魅力にあふれてます。

連休がまだ続く方、是非にも福島へ。
風評被害なんてのに負けるな福島!
わたしも、飛んでゆきたい、福島へ。

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2011年5月 3日 (火)

モーツァルト ディベルティメント K563 クレーメル

Yae_1

遅咲きの八重桜です。
鮮やかピンクに、背景の空は春らしく雲もまじえた青空だったんです。
絵のような写真が撮れました。

秋や冬だと、この空は、雲もなく、澄み切った青空だったかもしれません。
春から初夏の空は、どこか移り気で、最近などは気象の変転でもって、数分先がまったくわからない空模様になってます。

Mozartdivertimento_563

モーツァルトの後期の名作のひとつ、ディベルティメント変ホ長調k.563。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの3本の弦のための作品。
後期といいながら、モーツァルトはまだ33歳の1788年。
後の魔笛を頂点とするフリーメイソンにもかかわる作品ともいわれていて、三角形を思わせる3つの楽器とフラット3つの調性による調和。
しかし、ご存知のとおり、1971年、あと3年のちに世を去ってしまうから、晩年といえばそうともいえる頃の作品。
あのジュピター交響曲の一か月あと。

いったい、わたしたち、一般的でごく普通の男たちは、その年代に、何をやって、何を思っていたろうか。
その時分が晩年だと、自分でもしわかったとしても、モーツァルトみたいなわけにはいかないのが、われわれ凡人たる所以。
いやもし、あと少しの命とわかったら、人間変われるのでしょうか・・・。

こんなことを、うつらうつらと考えてしまうモーツァルトの後期作品。
あるようでない、変わった編成だけれど、モーツァルトの手にかかると、あって当たり前的な3つの声部の弦楽器によるえもいわれぬ美しい響きの融合。
6つの楽章は、いかにもモーツァルトのディヴェルティメントやセレナードといった作品と同列の愉悦と伸びやかな明るさに満ちた音楽になっているのであるが・・・。

わたしは、本CDを1991年の没後200年に購入して以来、久方ぶりに聴いてみて、この音楽はまるでシューベルトみたいだと思った。
シューベルトも早世の天才だし、その音楽には、いつも死の影がつきもの。
抒情的な歌に満ちたこの作品。
シューベルトもこの作品を聴いたのでしょうか。

全曲の中で、一番長い第2楽章のアダージョ楽章が、とてつもなく素晴らしい。
変奏曲形式のひとつであり、天国的でありながら、死と隣り合わせみたいな危うい雰囲気も感じられる。
変ホの歌心あふれる1楽章と、古典的で明快なメヌエット形式の3楽章の間に位置するこの第2楽章の澄み切った深さははかり知れない。
次ぐ4楽章はれっきとした変奏曲。明暗が入り乱れる楽想の推移に驚きを禁じえない。
この曲ふたつめのメヌエットは優美な第5楽章。
そして、なにごともなかったかのように美しくも旋律的で魅惑的な6楽章のアレグロ。


モーツァルトの数ある作品の中でも、このディヴェルティメントほど、くめども尽きぬ味わいと、どこか醒めたような寂しさを持った音楽を知らない。
相応に歳を経て聴いてみて、この音楽の深みに驚き、戸惑ってしまった。

クレーメル、ヨー・ヨー・マ、カシュカシュアンの3人による完璧な演奏。
ちょっと出来過ぎかもしれませんが、曲のよさがストレートに伝わってくる。
この1枚しか持ってないけれど、グリュミューやパスキエのものを今度は聴いてみたいと思っております。

ちなみに、このクレーメル盤の余白には、これまた辛くなるような「アダージョとフーガK.546」がおさめられております。

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2011年5月 1日 (日)

ヴェルディ 「リゴレット」 ルイージ指揮

1

ヴェルディ「リゴレット」をDVD観劇。
2008年のドレスデン・ゼンパーオーパーでの上演。
ファヴィオ・ルイージがまだ音楽監督の時期のもので、演出は、いつも無機的かつ近未来的な舞台設定を行う、ニコラウス・レーンホフ

Rigoletto_dresden

  マントヴァ公:ファン・ディエゴ・フローレス リゴレット:ジェリコ・ルチッチ
  ジルダ:ダイアナ・ダムラウ    スパラフチレ:ゲオルク・ツェッペンフェルト
  マッダレーナ:クリスタ・マイヤー モンテローネ伯爵:マルクス・マルカールト
  チェプラーノ伯爵:マルクス・ブター チェプラーノ夫人:キョンホエ・カン
  マルロ:マティアス・ヘンネベルク  ボルサ:オリヴァー・リンゲルハン
  ジョヴァンナ:アンジェラ・リーボルト ほか


 ファヴィオ・ルイージ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
                  ドレスデン国立歌劇場合唱団
  演出:ニコラウス・レーンホフ
                    (2008.6 @ドレスデン)


美声を集めた豪華な配役。
イキのいい指揮と雄弁なオーケストラ。
映像なくしても、音だけで充分楽しめる。

DVDをこれから買おうという方は、以下は見ないで、読まないで。

まずは、レーンホフのドラマは別読みしてないまでも、不可思議な舞台の様子を簡単に。

1幕1場
 
 2
 
短い悲劇的な前奏曲が始まると同時に、奈落からリゴレットがせり上がってきて、道化の衣装と化粧を始め、前奏曲終了時に、幕がさっと開き、マントヴァ公の館。
夜会の紳士淑女たちは、鳥やトカゲ、蜘蛛などの被り物の胡散臭い集団でちょっと気色悪い。
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そんな中で、マントヴァ公のみが生身の人間で、高慢な雰囲気で「あれか、これか」を歌う。
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チェプラノ伯爵をからかったあとの、みんなのダンスはまるでディスコダンス。

2幕2場
 
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不安なリゴレットの背後に現れたスパラフチレは、細身で長髪、鎖のついたスリムパンツのパンクな野郎。いかにも悪そう。
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ジルダの部屋は、ブルーのキレイな色合いだけど、いかにも閉塞感ただよう幽閉部屋。
そして、さすがはレーンホフで、ここでワーグナーが歌い演じられてもおかしくない、トーキョー・リングっぽい雰囲気。

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女中の招きで侵入したマントヴァ公は、声も姿も身のこなしも、いかにもチョー軽い。

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完全に寝ながら、しまいにはベットに布団かぶってお休みなさいの態勢で、名アリア「慕わしい名前」を歌うダムラウは、まったくスゴイのだった。
どうして、あんな格好をしながら、声が崩れず凛々とした声が出せるのだろう。
 怪しい廷臣たちは、下から上からはしご階段をかけて、ジルダを誘拐し、その梯子のたもとには、何にもしらないリゴレット。

2幕

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悲劇一色のジルダを失ってしまったマントヴァ公の名アリアは、フローレスの面目躍如たる名唱。
しかし、悪い廷臣たちがやってきて、かどわかしは身内の仕業とわかると、大喜びしてテーブルの上に乗ってしまう軽~い殿様に逆戻り。
そして、その悪いやつらは全員、悪魔のかぶりもの。
よく絵画などで、二本角を生やして槍もってるあの悪魔がうじゃうじゃ。

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そこへリゴレットがやってきて、これまた名アリア「廷臣たちよ」を歌うが、実行犯のふたりやほかの連中はあざ笑うばかりだが、やがて、リゴレットの娘とわかると、悪魔にも少し同情のそぶりが窺えるようになる。実行犯のふたりは、悪魔の被りものを投げ捨てるが、それでも態度は冷たく、どうしていいかわからず去る。
ルチッチの暖かい熱唱は悪魔でなくとも、わたしたちの心を打ちますし、ルイージの指揮するオケの熱さといったらないです。
 そこへ、ジルダがよろよろと出てくるが、ご丁寧にも、彼女はある部分が血に染まってます。なにも、そこまで具象的にしなくても・・・・・。
リンチを浴びたかのような、娘をかどわかされた先輩モンテローネも血みどろ。
そして、親子ふたりの素晴らしい二重唱で、いかにもヴェルディらしい興奮のうちに2幕を終える。

3幕

 暗いスパラフチレの館。軍人に扮した殿様役のフローレスは、この姿こそ、見慣れた姿(笑)。
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女心の歌を、それこそ鼻歌まじりに、難なく歌ってしまう。
親子が覗き見をする中で、マッダレーナを誘惑するマントヴァ公。
マッダレーナ役は、大型で、殿様はデ○専なのか。
いや、そちらも好きなのだ、と思わせる(笑)

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いやだわ、殿様、やたらと触りまくってるじゃん(そういえば、1幕の珍獣のメスもやたらと触りまくってた~しかし、ダムラウには控えめ・・・)

四重唱では、それぞれの思惑を歌うわけだが、マントヴァ公はやがて、のぞき見をしてるはずのジルダのところへやってきて、彼女に向かって歌い抱きしめることになり、あとでアレっみたいなことになってるし、すっかりその気になったジルダもやがて父親のもとに抱きしめられることになるが、その彼女も相手が父で、アレってな顔になってしまう。
このあたり、父親を裏切ってしまい、浮気者とわかりながらも、公を慕う姿をわかり過ぎるくらいに描いてます。

嵐がやってきて、ときおり響く雷鳴。

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その光で、舞台の背景にはミケランジェロ風の地獄絵がチラチラと浮かび上がる。
舞台前面には、リゴレットの道化衣装がずっと置かれたままに。

やがて、殿様の身代わりになった娘と対面するリゴレットだが、その悲しい父娘の悲しい別れのあとに・・・・・・。

      ~幕~

伯爵の取り巻きは、みんな非人間。
というか地獄に落ちた人やその執行役なのか。
具象的でありながら、描かんとするところは抽象的。
全部観てないけれど、同じレーンホフのシュレーカーの「烙印を押された人々」の舞台の雰囲気に似ている。
レーンホフの舞台映像は、古くはミュンヘンのリングからお馴染みだけれど、どうも求心力がないというか、言わんとする核心が掴めないような気がいつもする。
メタリックでシャープな舞台は、登場人物を冷たく見据えていて容赦ないようにも感じる。

主君にも、愛娘にも裏切らたリゴレットの孤独。
しかも、地獄の使者が彼を待っているという悲しい結末(たぶん)。
なんだか、悲しみのオペラが、なおさら救いのないドラマとなって迫ってくる。
ヴェルディの歌と劇性に満ちた音楽とは、どこか乖離しているようにも感じました。

しかし、歌手たちは、素晴らしい。
わたしは、はじめて聴いたけれど、ルチッチ(セルヴィア生まれ、あのマタチッチと同じ語感)のバカでかい存在感ある声と、その迫力にありながら滑らかなバリトンがよかった。
クマさんみたいな愛嬌ある雰囲気だけれど、この人の声は本物に思った。
ヴェルディ・バリトンとしてこれから活躍しそうな人です。
 そして、ダムラウの繊細で、どこまでも美しいソプラノは定評通り。
超人的だけれど、血の通った暖かさとしなやかさが耳に心地よい。
 あと、フローレスは、最初はマントヴァ公として異質に思ったけれど、段々とその美声とメカニカルなほどのテクニックにまんまとはまってしまうことになる。
でも何度も聴きたくない無慈悲なほどのマントヴァ公で、かつて親しんだパヴァロッティのような味わいからは程遠い。
ほかの諸役も素晴らしいです。

そして、ルイージのドラマティックで、歌心と起伏に富んだ指揮が、情感とドラマ性に満ちたさらに素晴らしいものだった。
血のたぎるような中期ヴェルディの熱血と、感情の高まりを見事に表出しているけれど、同時に冷静さも失わず、舞台とピットとの融合を統率している。
根っからのオペラ指揮者です。
ドレスデンの克明な音色で聴くヴェルディも味わいあるもの。

不思議だけれど、面白いリゴレットでした。
でも、音楽のみ聴いてもよかったかも。

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