シェーンベルク 「グレの歌」 アバド指揮
今日、6月26日は、敬愛するクラウディオ・アバドの78回目の誕生日です
病に倒れながらも、音楽への不屈の愛情でもって、復活を遂げてきたアバド。
気どらず、謙虚で無欲な姿勢はずっと変わらず。
誰もがうらやむ大きなポストにしがみ付くことなど一切せず(誰かと大違い)、あっさり投げだしてしまい、若者たちとの共演や指導に心血をそそぐマエストロ。
大巨匠と呼ぶに相応しいけれど、そんな言葉が似合わない、アニキのようなクラウディオ。
いつもニコニコしてます。
アバドのファンになって、これで39年。
無為に歳を経てしまった私に比べ、どんどん進化して高みに昇ってゆくかのようなマエストロ。
「大地の歌」や「ライン」、ショスタコーヴィチなどへの果敢な取り組みも継続中。
羨ましいくらいの若さ、いや、それは私などの元気不足の中高年には、見習わなくてはならないクラウディオの気力の高さでございます!
マエストロ・アバドの誕生日に選んだ音楽は、シェーンベルクの「グレの歌」。
広大なレパートリーのアバドが得意とするところを羅列すると。
ドイツ・オーストリア系の古典・ロマン派、ロッシーニ・ヴェルディとワーグナーのオペラ、ブルックナーとマーラー、新ウィーン楽派、ムソルグスキー中心のロシアもの、現代もの。
こんな感じでしょうか。
なかでも、若い頃からずっと指揮し続けているのが、マーラーと新ウィーン楽派の音楽ではないでしょうか。
マーラー、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク。
ツェムリンスキーをやってくれないけれど、世紀末を彩るこの流れは、わたくしも最も好む音楽エリアでございます。
アバドが「グレの歌」を取り上げたのは、1988年。
ECユースオケとマーラー・オケの混成という若者オケを振ってのもので、FM放送もされました。
そして、そのあと、92年にウィーンで演奏。
この曲にとって待望のオーケストラ、ウィーンフィルを指揮してのライブ録音の登場は、白日のもとに晒されたかのような明晰なブーレーズ盤ぐらいしか知らなかった私にとって、大いなる歓びだった。
潤いとしなやかな歌と、ウィーンフィルならではの甘い響きにあふれたこの演奏に、身も心もすっかり夢中になってしまったのでした。
ヴァルデマール:ジークフリート・イェルザレム
トーヴェ:シャロン・スウィート
山鳩 :マリヤナ・リポヴシェク
農夫:ハルトムート・ウェルカー
道化クラウス:フィリップ・ラングリッジ
語り:バルバラ・スコーヴァ
クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
アルノルト・シェーンベルク合唱団
スロヴァキアフィルハーモニー合唱団
(1992.5 @ウィーン・ムジークフェライン)
以前の記事から引用。
>そのまんま「ワーグナー」である。
第1部のヴァルデマール王と乙女トーヴェの愛の二重唱は、トリスタンそのものの官能の世界。
テノールとソプラノで交互に歌われる9つの歌は、ツェムリンスキーの抒情交響曲との類似性も見られる。
山鳩が王の妻の嫉妬で、トーヴェが殺されたことを歌う。
鳥の登場は、ジークフリートの世界。
第2部は短いが、王の恨み辛みのモノローグ。
そして第3部は、怒りで荒れ狂う王の狩の様子。これはまさにワルキューレ。
そして王に付き従う道化は、性格テノールによって歌われるとミーメそのもの。
最後は、シェーンベルク独特のシュプレヒゲザンク(語り)により、明るさがよみがえり、光り輝く生命の始まりが語られると大合唱による大団円となる。<
後期ロマン派最後の輝きともいえる濃厚な世紀末ムード。
大規模きわまりない大オーケストラは、その作曲のために、48段の楽譜を必要としたともいわれる。
デンマークの詩人、ヤコプセンの原作の独訳がベース。
1900年に取り掛かり、翌年に半ば完成。この頃の作品は、浄夜とペレアス。
長い中断を経て完全に出来あがったのは、1911年のことで、その頃はもう作風が変わっていたはずだが、濃厚ムードを変えることなく、調性ありの豊満サウンドを作りあげた。
初演は、フランツ・シュレーカー!
2時間近くの大曲は、聴くほどに快感と満足感を覚える。
そして、ワーグナー以降のオペラのひとつともとれるので、ツェムリンスキーやシュレーカーのオペラ作品にも通じるロマンテックかつ、痺れるような甘味さも。
ヘルデンテノールが大活躍するので、テノール好きにもたまらない。
イェルザレムのヴァルデマールは、ブーレーズ盤のトーマスとともに、最高の出来栄え。
ヒロイックで悲壮感あふれるこの役柄をしっかり歌い込んでいるが、どこかクールで醒めたところがいい。。
それと好対照の性格テノールの道化役は、アバドお気に入りのラングリッジ。
光ってます。ラングリッジは、亡くなってしまったのですね。
トーヴェのスウィート、山鳩のリポヴシェク、農夫のウェルカー、いずれもワーグナー歌手ながら度を越した歌い過ぎもなく、何度も聴くに適度な歌唱かもしれない。
合唱の精度も高く、混成部隊とは思えない。
当初、違和感を感じたスコーヴァの語り。
シュプレヒ・ゲザンクの語りは、男声によるものが大半で、それに慣れた耳には、女声版は、少しキンキンと響きすぎて、辛いものがあった。
でも、慣れてしまえば、いや、よく聴けば、これほどに微に入り細に入り、細やかな語りを聴かされてしまうと、その説得力の方が違和感に勝るというもの。
どこかイってしまったかのような感じで始まるが、演劇性の高いスコーヴァの語りは段々と熱を帯びて、そして浄化してゆくのがよくわかるようになった。
その語りのあとに訪れる混成8部による大讃歌の解放感と煌めきが、とても活きて聴こえる!
これら豪華布陣を統括するアバド。
音量のレベルの幅がやたらと大きく、それらが明快で、強大なフォルテも澄んでいるし、最弱のピアニシモの美しさもアバドならでは。
冒頭の前奏曲、絡み合う木管と弦、そして柔らかなトランペット。
この出だしがとんでもなく好き。
ウィーンフィルの魅力が早くも満載の場面で、抑制の効いたアバドの知的な指揮が光る。
そのあと続く、濃厚な二重唱の背景も同様に、アバドはオケを抑え気味に、響きの美しさに注力して、そう、アバドのユニークな新時代のワーグナー演奏のように明晰な歌を信条とする音楽となっている。
いくつかあるオーケストラによる間奏や前奏もシビレルほどに美しい。
いまに至るまで、単独で何度も取りあげている「山鳩の歌」は、淡々としたなかに鎮魂の哀歌と怒りがみなぎるが、アバドの演奏では、ここにマーラーを感じることもできる。
そして、最後の大団円。
徐々にクレッシェンドしていって、眩しいくらいに高揚するさまが、最高に素晴らしい。
仰げ 太陽を 天涯に美しき色ありて、東に朝訪れたり。
夜の暗き流れを出でて 陽は微笑みつつ昇る
彼の明るき額より 光の髪は輝けり!
夜が主体の物語が、最終で一転、輝かしい太陽の朝となる。
いまの気分にぴったりの明るい未来あふれる結末を、アバドは素晴らしく演出してくれました。
過去記事
「ブーレーズとBBC交響楽団のCD」
「俊友会演奏会」
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コメント
いつとりあげるのか楽しみに待っていた「グレの歌」。
今年は、東フィルが演奏するのを楽しみにしていましたが、流れてしまったこの大作。以前、東響+京響の演奏で実演に接してから、第一部こそ「ちょっと・・・」のところはあるものの、後期ロマン派の傑作であることを強く認識しました。マーラーの第8と同じく、CDなどで聴くだけで「良さ」が分からない音楽ですね。
アパドの指揮は、第3部の道化を女声でやってくれているところがイイ!まるで「ピエロ・リュネール」の世界に入り込んだかのような気持ちになりますが、今でも男声でやるより女声のナレーションが最高です。敢えて女声にしたマエストロの慧眼、さすがでございます。
投稿: IANIS | 2011年6月26日 (日) 13時56分
IANISさん、こんばんは。
グレ・リーダーはたくさん聴いてきましたし、音源もたくさん集めてしまいました。
そんな中で、アバド盤は特別なものゆえ、大切な時にしか聴かずにおりまして、記事にするのが遅くなりました。
東フィルの演奏会が中止になったのが残念至極です。
広大なレンジをようするこの曲は、実演で聴くに限りますが、抑制の効いたアバド盤は、DGのウィーン録音のよさもあって、音盤で聴ける最上のグレだと思います。
女声の語りも、慣れました。
演劇性の強さは、アバドならではで、まさに慧眼でございますね!
投稿: yokochan | 2011年6月26日 (日) 22時04分
こんばんは。グレの歌。結構ですな!(とこの口調、50を過ぎたら普段の会話でも使っていることに気がつきました^^;)アバドの演奏はまだ聴いていないという不勉強ぶりです。。。小澤征爾のレコードにわざわざサインをしてもらったくらいなのに、どうしてもこの曲を好きになれていません。いかんなー。おじさんはシェーンベルクが楽しくない。(ファンのみなさんごめんなさい)おじさんはいろいろムズカシイお年頃なのです。小沢の演奏もよいと思えてないのにサインされた関係上レコードはすごく大切にしています^^
投稿: モナコ命 | 2011年6月27日 (月) 22時01分
モナコ命さま、こんばんは。
グレの歌、素晴らしいですなぁ。
(わたしの日常言語は、いまや大学生の子供も使用してます)
小澤盤もすっかり名盤です。
直筆のサイン、羨ましいですな!
マーラーの千人と並んで、小澤さんが、一時期、繰り返し指揮をしていた作品です。
むずかしい年頃は、あたくしも、一緒ですが、グレの歌はやたらめったら好きなんです。
ほかの演奏などもお聴きいただければと思います。
投稿: yokochan | 2011年6月28日 (火) 22時11分
過去記事に失礼致します
幾何学的な面白さに惹かれて、“道化”の箇所ばかり聴いておりましたが、“グレの歌”に関する、愛情溢れた一連の記事を読ませて頂き、あらためて第一部から聴いてみよう、そんな気にさせて頂きました。あらためて、有り難うございます。
投稿: Booty☆KETSU oh! ダンス | 2013年2月 6日 (水) 18時27分
Booty☆KETSU oh! ダンスさん、こんばんは。
「グレの歌」は全編、最初から最後まで大好きなのですが、やはり冒頭のキラキラした開始部がたならなく好きです。
モーゼとアロンは難物ですが、このトリスタン的なオペラティックな世界には魅惑されてやみませんね!
投稿: yokochan | 2013年2月 6日 (水) 23時34分
夜分に申し訳ございません。
ここ何日か、第一部を久しぶりに聴き直しておりました。私自身、クラシックを聴く感性が、やはり鈍いのかもしれません。第一部の重厚な和声が、その長大な時間と共に、まんま巨大な一枚岩としてのしかかるような重さに…ギブアップでございました。又、数年後位に、再チャレンジしたいと思います。
投稿: Booty☆KETSU oh! ダンス | 2013年2月 9日 (土) 02時15分
Booty☆KETSU oh! ダンス さん、こんばんは。
そうですか、重すぎましたですか。
この曲の大半、特に前半は、ワーグナーの世界です。
そうおっしゃらずに、ゆっくりとご確認ください。
投稿: yokochan | 2013年2月 9日 (土) 22時52分
有り難うございます。
そうですね。あせらず、ゆっくりと、時間をかけて味わってみたいと思います。
投稿: Booty☆KETSU oh! ダンス | 2013年2月 9日 (土) 23時19分
つい先日、このCDが、SHM-CDとして復刻。昨日、秋葉原のタワレコにて発見。思わず衝動買いして今朝と離婚で聴きましたが、管楽器が、ヴィーンフィルらしくオルガン風に融け。バロックオルガンの音色というよりは、20世紀初頭のフランスロマン派オルガンのような感じも好ましいです。女声のシュプレヒ・ゲザンクも私にとっては好ましいものでした。
ヴァーグナーも感じますが、精緻でクリアな音質ゆえにでしょうか、後のコルンゴルト、シュレーカー、ハリウッド音楽へのつながりも感じました。シュレーカー 室内交響曲のような音色の重なりもあり、シュレーカーは、喜々として初演をされたのではないでしょうか。温室チェックにも好適ですね。
声がないと、映画のBGMと間違えてしまいそうです。この演奏はとりわけそう感じました。サイモン・ラトルは、実際に、「トムとジェリー」の音楽を作曲したスコット・ブラッドレーといった作曲家はグレの歌のスコアを携えていたというエピソードを書いていて。
近年だと、ミヒャエル・ギーレンのライヴ録音が欧米では賞総なめで、youtubeで聴いた印象もよかったのですが、グレの歌でヴィーンフィルの特質が味わえるCDということで、これからも根強い人気があるのではないでしょうか。
この演奏を聴くだけで、クラウディオ・アッバードの偉大さがわかるような気がします。今回生まれて初めてアバドのCDを買いましたが、追悼の意味も込めて聴き、ブログにも綴りました。
投稿: Kasshini | 2014年7月23日 (水) 10時54分
Kasshiniさん、こんにちは。
ご返信、やたらと遅くなりました。
音もよくなって、お値段も安くなって、しかもオリジナルジャケット。
いい時代になりました。
グレの歌は、古くはストコフスキーのSPから、いま、新しいところでは、サロネンやヤンソンス。
すっかり、人気曲として定着しました。
そんななかで、アバドがウィーン時代に取り上げてくれたときは、FM放送も含めて、そのすべてを録音しました。
解釈のスタイルは、変わらず、透明感と歌の豊かさが、この膨大な音楽をとても聴きやすく、そして美しく響かせておりました。
昨年の最後のルツェルンでも、山鳩の歌を喜々として指揮しておりました、その姿が忘れがたいです。
ブーレーズ盤と並んで、一番好きなグレリーダーです。
あと、最近聴くのは、ギーレンとサロネンですね。
投稿: yokochan | 2014年7月29日 (火) 19時23分
あれから毎日、アッバード指揮ヴィーンフィル演奏のグレの歌を聴いています。
出会いは、中学校2-3年、故郷の図書館で聴いた小澤征爾の演奏でしたが、感銘を受けることはありませんでした。社会人になってから、暮らしている街の図書館で借りたインバル盤、ラトル盤で聴いていましたが、ここまで夢中になって聞くのは生まれて初めてです。この期間で、すでに20回、終曲に至っては、40-50回はこの演奏で聴いているでしょうか。
先日購入したギーレン盤は、オケと指揮者の経歴を考えると、アンサンブルの乱れも乱れるし、少々あざとさを感じる緩急にとまどっています。アッバード演奏に出会う前、youtubeでギーレン盤の終わりを聴いたときは、インバル、ラトル盤よりも素晴らしいと思っていたのに、でした。
さて、ラトルが「ダフニスとクロエ」を演奏するようにと言わしめた冒頭、間奏曲~山鳩の歌も好きですが。ラヴェルを当時ほとんど知らないのに、そういうオケの扱い方をするところに、シェーンベルクの慧眼を見る思いです。
個人的に気に入ったところは、第3部 道化のクラウスが歌う歌。ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第14番第5部のようなスケルツォ風で、時折長調の中に悲哀に満ち溢れた3拍子の調べが印象的でした。グレの歌では随所にそうした悲哀に満ちた長調の3拍子が出てきますが、この場面はとりわけその中で最も印象的でした。
1番は、最後のオーケストラ前奏~スコーヴァの語り~仰げ 太陽を。この最後の幕切れは、当時のオペラ作曲者にも影響があるのかなと思いながら聴いています。オケの色彩感や、輝かしくメロディアスな終幕といった辺りに。彼らの多くが、一度埋没したのは、弾圧と類似する作品として一括りにされてしまった影響もあるのでは、とも思えてきます。シェーンベルクは現代音楽の元祖として良くも悪くも学者に位置つけられたことで、その初期の作品も、生前から今に至るまでヴァーグナー以降のドイツ・ロマン派では常に名前が消えなかったことは、幸いであったことでしょう。グレの歌の最後を聴くと、シェーンベルクも、コルンゴルト、ラフマニノフ、プロコフィエフに劣らないメロディーメーカーに思えてきます。よく聴くと、全曲随所にほぼ12半音使い切ったメロディーも聴こえていますが。
私は、いつか富士山に登り、御来光の時にこの最後のオーケストラの前奏から時刻を逆算して仰げ 太陽をでタイミングが合うように聴こうと考えています。というのは、シェーンベルクが山登りをして御来光を見た時にこの辺りを構想をしたからです。前座はマーラー交響曲第8番第2部を考えています。
昨年の最後のルツェルンでの山鳩の歌、ニコ動で観ました。こちらも素晴らしかったですね。
私の見た限りだと、評論家で押しの声は見たことはなく、女声の語りが好き嫌いが分かれる点ではありますが、ネット上のブログでいろんなコメントを見ていますが、この演奏が好きな人が非常に多い印象があります。
サイモン・ラトルは、この歌の最後は、西洋音楽で最も輝かしく美しい音楽の1つと述べていたと記憶しますが、ギーレン盤、何よりもこの演奏で聴くとより実感します。
私にとってこの演奏は、アッバード、ヴィーンフィルコンビの最高の演奏に思えてきます。
投稿: Kasshini | 2014年8月 4日 (月) 13時53分
Kasshiniさん、こんばんは。
充実のコメントありがとうございます。
この長大な作品を、実はまだ把握しきっていないと、自分では思ってます。
すべての音の流れや展開は把握してますし、メロディも掴んでますが。
そのあたりの中途半端ぶりが、こうした作品のゆえなのかもしれませんが、でも、ともかく、すみからすみまで、大好きな曲です。
コメントのお返しにはなっておりませんが、あいすいません。
アバドが、この録音を残してくれたこと、感謝以外のなにものもございません。
投稿: yokochan | 2014年8月 8日 (金) 23時53分
管理人様へ:
これも私が熱愛する曲である「グレ」において盛り上がっている記事を発見したので、ご迷惑も顧みず掘り起こさせていただきます。
ラトルの発言であるラヴェルとの関連性について云々は、既にしっかりコメントされており、失礼いたしました。たしかにシェーンベルクとラヴェルは同世代人であり、プロがスコアを熟読するとあのような発言になっても不思議ではないと思います。ですが、「グレ」の特に第一部はワーグナー円熟期の作品のまさに延長上にあるという感覚でブーレーズ盤LPを聞き始めた私としては、どうにも違和感を感じてしまいます。つたない記憶をたどるとブーレーズ盤LP発売時のソニーの触れ込みは「ロマン派の終焉に咲いたもう一つのトリスタン」とか「トリスタンの陶酔とパルジファルの神秘の融合」といったようなもので(うろ覚えです)、単純な私はこれに引きずり込まれてしまったものでした。
これも一種の刷り込みと思っていますけれど、「グレ」の特に第一部はこうした感覚で聴いているため、期待を持って購入したアバド盤には肩すかしを食らわされた感じがしました。ですが、そこは大編成の曲の扱いに長じているアバドのこと、CD2枚目(第二部と第三部)に入るとようやく気合いが入ってきたかなという思いで聴き進みました。ところが、当時から意見の割れている女性が担当する終盤の語りを耳にし、妙な気分になってしまいました。これまたブーレーズ盤におけるG.ライヒの名人芸(LPにおける解説において林光氏絶賛、という記憶です)に刷り込まれてしまったためか、いまでもアバド盤の語りの箇所を積極的に聴く気になれません。ということで、残念ながらアバド盤「グレ」は私の愛聴盤になりませんでした。
ブーレーズ盤「グレ」の記事において触れたとおり、私における「グレ」の愛聴盤は度合いの順にブーレーズ>ギーレン>ケーゲルとなります。共通する傾向として、第一部を遅めのテンポで思いを込め、時に陶酔的に指揮しているという印象があります。こう述べると、特にブーレーズについて「陶酔的?」と突っ込まれそうです。この時期のブーレーズは確かにクールで分析的というイメージが強いですが、これに対しては、LP発売時に某評論家がブーレーズの指揮ぶりは変貌しつつあるという主旨で「ここにおいてブーレーズは、今日はこんなに美しい音楽を、こんなに素晴しい作品を演奏できるんだという思いで自信に満ちて指揮しているように感じられる」と述べていたのを思い起こします(これも若き日のつたない記憶です)。陶酔的かどうかはさておき、このような演奏家の強い思い入れが、私が一聴してこの演奏に魅入られてしまった要因の一つになったのではと考えています。
指摘されているギーレン盤におけるアンサンブルの乱れについて、凡庸な私の耳においては気になりませんでした。サロネン盤はギーレン盤と同じくSACDで発売され録音良好と思われますが、データによると快速系の演奏で私の好みから外れると推測されるため、未聴です。本盤についてどなたかさらにコメントいただけると幸いです。
以上、連続して長いコメントになったことをご容赦ください。
投稿: ハーゲン | 2019年1月10日 (木) 12時18分