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2011年7月

2011年7月30日 (土)

コルンゴルト 「真夏の夜の夢」 アルブレヒト指揮

Tokyotower210110719_2

今さらながら、なでしこジャパンの優勝記念の東京タワー。
7月18日のものです。
いい感じ。

その一か月前、松山に出張したとき、ワールドカップ遠征前の親善試合対韓国戦が行われる前日でした。
同じホテルで、わたしは気がつかなかったけど、ロビーには佐々木監督、そして何げにエレベーターで選手たちと一緒だったり、街かどの交差点で、小柄で可愛い選手も見かけました。
ブレイク前の彼女たち、ほんの1か月まえの、6月17日でございました。

Tokyotower210110719a

こんなブレブレの失敗作。
少し手を加えてみました。
でも、見るに堪えないですね・・・・。

新潟・福島の豪雨。
被害にあわれた方々にお見舞い申し上げます。
どうなってしまった地球。

Korngold_midsummer_night

「真夏の夜の夢」・・・、といえば、シェイクスピアであり、音楽はメンデルスゾーンが一番高名で、あと、パーセルとブリテンも名作です。

今宵取り上げたのは、エーリヒ・ウォルフガンク・コルンゴルト(1897~1957)。

とはいっても、ひとひねりあります。

舞台芸術家マックス・ラインハルト(1873~1943)の映画「真夏の夜の夢」のスクリーンミュージックなのです。
ラインハルトは、ユダヤ系オーストリア人。
ドイツ・オーストリアでは、演出家として大活躍。
いまあるザルツブルク音楽祭の創始者ということで、当時のラインハルトの立ち位置がおわかりと思います。
そのラインハルトが、アメリカで仕事中、ナチスが政権を握り、ラインハルトはヨーロッパに帰ることができなくなった。
そして、亡くなるまでアメリカで活躍した。

その経歴をみるにつれ、われらがコルンゴルトと同じことにお気づきかと思う。
概ね、ドイツ・オーストリアにいたユダヤ人たちは、こうしてアメリカに活路を開き、そして名前を失ってゆく人たちも多かったわけだ。

1936年の初映画作品。
そしてラインハルトが、背景音楽の作曲に要請したのがコルンゴルトだった。
コルンゴルトは、同名のメンデルスゾーンの音楽を基本として、2時間あまりのメンデルスゾーンへのオマージュともいうべき素敵な作品をつくりあげた。

Botom

映画の内容は、原作にほぼ忠実みたい。
いたずらオベロンと妖精の夫婦、人間界の男女4人、素人街の演劇団たちの繰り広げるコメディ。
その映画に、メンデルスゾーンのたおやかな音楽はぴったり。

一聴して、ほぼメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」そのものなので困惑してしまった。
でも、解説も読み、何度か聴くうちに、これはやはりコルンゴルトだと思うようになった。

コルンゴルトが、この作品に用いたメンデルスゾーン作品は、「真夏の夜の夢」~序曲、スケルツォ、夜想曲、結婚行進曲、「スコットランド交響曲」「宗教改革」「歌の翼に」「新しい恋」「無言歌~子守唄」「遠く離れた人に」「無言歌~月、ヴェネチアの舟歌、眠れぬままに」・・・。
これら多彩なメンデルスゾーン作品を、大オーケストラと一部、合唱とソロを伴うファンタジックなコルンゴルト作品に仕立て上げたのであります。
最後は歌曲「leise zieht durch mein gemut」という名曲が流れます。
これは、なんとなく、映画「ホーム・アローン」の音楽に似てますな。

Midsummer

 旋律はメンデルスゾーンでも、そのサウンドはキラキラかつ優美なコルンゴルト。
サキソフォーンなどの楽器まで投入して、面白い響きもかもし出してます。
各作品は、お互いにブレンドされ、独特の作品になっているのです。
そして、とても幸せな気分になれるのは、これはまたメンデルスゾーンならでは。
何度も聴いて、無類に面白くなってきました。

G・アルブレヒト指揮するベルリン・ドイツ交響楽団
アルブレヒトさん、こういうのほんと好きですね。

多彩でナイスな、コルンゴルト・ワールドでした。

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2011年7月29日 (金)

シューマン 幻想曲 ペルルミュテール

Rose

淡い紫に見えるばら。

ふと見つけて、必死にカメラを構えました。

ばらの花は怖くて、美しい。
でも、それに惹きこまれる自分はもっと怖い。・・・(笑)。

7月29日(金)は、企業の役員・役職クラスにとって、その卒業の日であった方々も多かったのではないでしょうか。

今日、訪問した先様の方は、本日で最後だと淡々とおっしゃいました。
その会社で受け付けをしようとしていたら、これまた散々お世話になった客先の社長とばったり。
その方も、実は今日が最後で、その某会社会長にお呼ばれしてらっしゃいました。
雲の上のような方々に非公式で出会い、瞬間、そのお寂しさを感じとることができました。

某湾岸地区の高層ビルの出口には、黒塗りの車が待機してました。
自分の仕事にも密接に関わっていただいた方々のご卒業。
わたしは、いまや会社勤めではありませんが、世代交代の流れを切実に感じとることができます。
まして、こんな不確定な日々なのですからね。

お天気もさらに増して不可思議。梅雨はまだ終わってなかったのか?

梅雨も、盛夏も、晩夏も秋も、もしかしたらいっしょくたで、日本的な緩やかな切り替わりなんぞ、もうなくなってしまったのではないのでしょうか。

のっぺりした、日本の四季なんて、考えたくもないですよ!!
感情もまた機微がなくなってしまいました・・・・・。
失敗の許されない、抜き差しならない会社生活なんて誰が想像したことでしょうか。
わたしが学卒の頃も就職難でしたが、会社生活は、そりゃ楽しいものでしたよ。
植木等みたいな人が、そこらじゅうにいましたもんね。
 そして、いまは独立のわたくし。
失敗やそそうは、即、自分の命と引き換えであります・・・、キビシイーーsweat02

Schuman_fantaisie

侘びしい前段を書いてしましました。

そんな日々の中に、感情の濃淡や人間的な喜びを与えてくれるのが音楽。

今日は、シューマン(1850~1856)の155回目の命日。

いつもお世話になってます、ビール仲間(?)のはるりんさんから、お教えいただきました。
手術を施され、順調回復中のはるさん、また、皆さんとビールジョッキを傾けるのは、もう少し先になりそうですが、今日はロマンティーシュなシューマンのピアノ曲を聴きましょう。

「幻想曲」ハ長調op17

数あるシューマンのピアノ作品のなかでも、もっともロマンティックで、かつ形式的にも3つの楽章を得て、バランスのよい構成とあふれ出る抒情に満たされた名曲。
よくいわれるように、ベートーヴェンの最後期のソナタの透徹感に、ロマンの芳香を加えてしまったような夢見心地と現実に狭間に遊ぶかのようなシューマンならではの音楽。

いまを去ること、35年以上前の高校時代。
FMの午後のリサイタルで初めて聴いた。
ピアノ音楽や室内楽のレパートリーを広げるのに、そのFM放送はとても貴重で、録音しては曲を覚え、そして音盤購入へと向かっていった。

ポリーニ、アルゲリッチ、ブレンデルなど有名どころをみんな聴いたけれど、不思議なもので、いまやあのFM放送が懐かしい。
モノラルだったはずだけど、日本人若手演奏家が全身全霊をかけて演奏する、その番組。ともかくいい時代だった。
貴重な音楽放送をいくつしむように聴いていたものです。

そんな、感覚的に遠くで鳴っていたピアノ。
それに雰囲気近い音像。

ウラド・ペルルミュテール(1904~2002)の奥ゆかしい、でも知的な演奏が、いまこうして聴いても昨今の優秀なピアノ演奏に比べても、味わいの点でまったく遜色がなく、明快で剛毅な打鍵と、柔らかでシューマネスクな少し曖昧チックな響きが、見事なバランスをもって聴かれることに感銘をおぼえてしまう。

1950年代前半のモノラル録音。
EINZATSレーベルの雰囲気豊かな復刻盤です。
(そしてCD解説は、こちらもいつもお世話になっておりますブログ仲間のN(R)さんでございます)

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2011年7月28日 (木)

マーラー 交響曲第9番 ノリントン@プロムス

Header

英国では、プロムスです。

バイロイトに気をとられ、いくつもの気になるコンサートをすでに逃してしまった・・・・。

極めて残念だったのが、「ブライアンの交響曲第1番”ゴシック”」。
この謎めいた巨大な交響曲が演奏会にかかることじたいがとてもレアなこと。
しかも指揮は、こうした曲にやたらと適性のあるブラビンスに、好きなソプラノ、スーザン・グリットンだったんだ。
自慢じゃないけど、ナクソス盤を聴きまくり、すっかり手の内に入っていた音楽。
佐村河内音楽にすっかり度肝を抜かされて、過ごした日々に、手が回らなかったプロムス。

7日間許されたストリーミング放送。
もう聴けないのも含めて、気になるコンサートを列挙しときます。

7月
 15日 ヤナーチェク グラゴル・ミサ ビエロフラーヴェクBBC

 16日 ウィリアムテル パッパーノ
 
 17日 ブライアン ゴシック交響曲 ブラビンスBBCウェールズほか

 20日 ドヴォコン、わが祖国 ビエロフラーヴェクBBC

 25日 マーラー  第9   ノリントン シュトットガルト

 30日 ウォルトンV協、アレクサンドルネフスキー ミドリ、ネルソンス

 31日 オール・ラフマニノフ  ノセダ

8月
  2日 エルガー Vn協 タスミン・リトル、グレンジャー A・デイヴィス

  5日 復活  ドゥダメル シモンボリバル


  6日 N・ケネディ バッハ無伴奏

  7日 シベ6、ニールセン不滅 オラモ スコテッシュ

 10日 カラビッツ  ラフ2 ~注目の若手

 14日 ビエロフラーヴェク オール・ブリテン 春、ミゼリコム、ダ・レクイエム

 16日 リットンRPO バックス2番

 17日 サロネン PO ペトルーシュカ、フランチェスカ、タコVn1

 19日 ハイティンECO ブラ3、P1(アックス)

 22日 ビエロフラーヴェクBBC ブラ1

 24日 C・デイヴィス MJO チャイコ4

9月
  1日 メータ IPO ウェーベルン、Rコルサコフ

  4日 C・デイヴィス LSO ミサソレ

  5日 ホーネック PSO ブラウンフェルス、ベト4(グリモ)、チャイコ5

  6日   〃        リーム(ムター)、マラ5


  8日 デュトワ フィラデルフィア フィンランディア、ラフマニノフ、ヴァルス

  9日 ガーディナー 魔弾の射手(ベルリオーズ編仏語版)

 10日 ラストナイト  黄昏自己犠牲(ブロック)、リスト1(ラン) ガードナー


今年は、常連のベルリンフィルも来ないし、外来オケは少なめ。
でも、英国オケがふんだんに聴ける。
渋いけど、クラヲタにはたまらん内容。
ビエロフラーヴェクのいぶし銀サウンドがBBCにますます定着した感ありです。
書いた以上は、忘れずにチェックしていきたいと思います。

そして、今日は、マーラーの交響曲第9番を、ノリントンとシュトットガルト放送響のコンビで。

Norrington_2

すでにCDにもなってる、このコンビのマーラーの一環。

わたしは、1番のみ来日公演で聴いたことがって、それなりに快活で軽快、面白い演奏だった。
それ以外の番号に取り組み、それらは賛否両論の様子。
そして、初めてサー・ロジャーの第9を聴くことになりました。

2楽章と3楽章は、勢いと流れで、すいすい聴けちゃう。
でも最初と最後の楽章、とくに終楽章はあまりに奇異に聴こえる。

ノン・ヴィブラートによる軽めのすっきりサウンド。
よくも悪くも、バーンスタインや趣きは違うけれどジュリーニのどっしりと、かつ、弦を鳴らしきったような思い入れを伴う演奏と正反対の響き。
 でも、こんなの初めて聴いた!
マーラーの9番となると、聴く方も身構えて、そこにどっぷり漬かって感動してやろうと身構えて聴いてしまうもの。
そんな聴き方に、すっかり肩すかしを食らわし、ここぞという場面も、あまりにあっけなくスルーしていってしまうという徹底ぶり。
えっ、うそだろ、ってなもんですよ。
終楽章が特に徹底していたが、それは全編に言えたこと。

マーラーの第9が、かくあらねば、という必然はまったく存在しないわけだけど、この曲が生まれてまだ100年。
その間に演奏されてきた歴史と受容歴はどうなるんだろ。
マーラーにこの手法は必要だったのだろうか?
この先にもう見えている、ウェーベルンやシェーンベルクとの兼ね合いも不確かに感じてきてしまう。

でも、そんなことは抜きにすると、このマーラーは、とても面白い。
室内楽みたいに緻密だし、繊細。
各楽器が、奏者一本に聴こえる。

ロンドンのアナウンサーは、彼らの音を評して、「シュトットガルト・サウンド」と言っておりました。

ドイツのオペラ・シーンが、先端をゆくかどうかわからないけれど、なんでもあり的、また過去の潔い否定から成り立っているのと同様に、オーケストラ・シーンでもなんでもありの世界が乱立している。
アメリカは、伝統がないゆえに保守的。
英国は、さらにフレキシブル。
伊仏は、微妙に中途半端?

ともあれ、海外のいまの音楽が楽しめるネット社会に感謝であります。

  

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2011年7月26日 (火)

ワーグナー 「タンホイザー」 バイロイト2011

Tanhauser_1_2

あらら、またまた、いや~な感じ・・・・。

バイロイト音楽祭2011が、7月25日から始まりました

画像は、バイエルン放送のネットから拝借しております。

おなじみ、ハンガリーのバルトーク・ラジオ
1ヶ月間、わりと高音質でストリーミング放送してます。
昨夜は早速ライブ収録して、音源化しました。

今年は、4部作リングがお休みで、その準備期間が2年、すなわち、リングなしの年が2年あって、その1年目。
再演の多くに混じって新演出と合わせて、5演目が楽しめる年になってます。

そして、その新演出は、セヴァスティアン・バウンガルテンによる「タンホイザー」。
バウンガルテンは40代前半の若手で、ベルクハウスやウィルソンの助手をつとめながら学んで、ベルリンを中心に頭角を現した人(らしい)。

上の画像は、歌合戦の場面のようです。
カラフルだけど、色とりどりのタンクに、地下秘密工場のような様相。
なんで、こんなところで、歌合戦すんの?
企業の社内催しみたい。

Tanhauser_2

ヴァルトブルク城が地下工場とすると、ヴェヌスブルクは牢獄。
しかも中には、怪しげな半獣たち・・・・。
なんじゃこりゃ??

Tanhauser_3

人々は、こんなタンクにすがって祈ってる。
このタンクには、曜日が書かれてる。
そして、アルコール化合物との表示も・・・・・?
ドイツの報道では、これはバイオガスのプラントと書かれてます・・・。

Tanhauser_4

だから、一般人と違う姿恰好をした本来の騎士たちは、工場経営陣でしょうか。

背景のマリアの絵には、「Kunst Liebe」と書かれてあります。
芸術愛、芸術への愛、愛の芸術・・・・。
それこそが孤立するタンホイザーの使命か?

Tanhauser_5

おそらく、最後の大団円。

檻の上に倒れしは、タンホイザーなり。
その上部には、経営陣とマリアと化したエリザベート(蘇りか!)
下には市民とバイオの犠牲者の半獣なり。
真ん中に控えしは、ヴェーヌスなりや。

身ごもってカエルのような腹ぼてだったヴェーヌス。
(実際、おたまじゃくし=独紙では精子、のような物体が出てましたぞ・・・悲しいよ、なんでそうなの?)
目出度く、おそらく、ご出産。

バイオハザード・タンホイザーかい?

舞台写真から、あれこれ想像。
もうやだ、こんなの。

昨年のノイエンフェルスの方がずっとファンタジーがあります。
これじゃ、まるであの、くそシュルゲンジーフと一緒だよ。

Tanhauser_6

限られた情報だけで、決めつけてはなりませんが、好きになれない昨今のいや~な演出のひとつですな!

バイロイトのサイトをずっと見ていて、演目のサイトのモティーフにラッパのような画像が昨年来、出ていたのだけれど、これは楽器じゃなくて、「じょうご(ろうと)」だったのね。
薬品をこぼさず、別容器に注入する道具ですよ。
空しい・・・・・。
ときおり、その器具らしきものが転がる音がしてます。

まだ決めつけちゃいけませんがね、音楽をいかさない舞台はいけません。

こんなんなら、なにもバイロイトでやることはねぇだろうよ。
ドイツなら、どんな劇場でも、いまどきこんなだし。

 領主ヘルマン:ギュンター・グロイツベック タンホイザー:ラルス・クレーヴマン
 ウォルフラム:ミカエル・ナジ    フォーゲルヴァイデ:ロータ・オディニウス
 ビテロルフ:トーマス・イェサッコ  ハインリヒ:アルノルト・ベヅゥィエン
 ラインマル:マーティン・シュネル  エリザベート:カミラ・ニールント
 ヴェーヌス:ステファニー・フリーデ 牧童:カーチャ・ステューバー

  トマス・ヘンゲルブロック指揮バイロイト祝祭管弦楽団
                    バイロイト祝祭合唱団
                    合唱指揮:エーベルハルト・フリードリヒ
   演出:セヴァスティアン・バウムガルテン
                    (2011.7.25@バイロイト)


初登場ばかりの歌手に指揮者。
ところが、われわれ日本のオペラファンには、おなじみの歌手ばかり。
新国の目利きのよさと、バイロイトをはじめとする欧州オペラハウスとの連携ぶりを評価したくなる。
グロイツベルク、ニールント、フリーデが新国組。

今回のオープニング視聴では、ニールントの清々しさと安定感が光り、クロイツベルクとフリーデはやや不安定。
緊張や暑さによる体調不良もあるかもしれない。
西部の娘、ムツエンスク・マクベス夫人、バラクの妻、と新国を震わせてきたフリーデの不調は残念です。
ニールントは、新国の舞台では大人のマルシャリンの素晴らしい歌唱に演技だったが、ここバイロイトでは清純な歌い口が心を打つ。
 そんな彼女、というかエリザベートも3幕では、血みどろになってます・・・・・orz

ロックも本国では歌うスゥエーデンのクレーヴマンは、やや一本調子。
その声は、同じタンホイザーを歌った、リチャード・ヴァッサールを思い起こす。
この人、乗り始めると、すごそうで、その片鱗を2幕のやぶれかぶれのヴェーヌス讃歌、3幕のローマ語りで確認できましたよ。
ナジ(Nagy)のウオルフラムのいい人ぶりと美声がよい。
この人、活躍しそうです。

歌手たちは、プロダクションを重ねて、落ち着いてゆくことでしょう。

そして、注目はヘンゲルブロックの指揮!
この人はいい。
古楽と現代音楽で着実な足場を築きあげ、いまついにワーグナーに挑んだ。
北ドイツ放送響の主席となったヘンゲルブロックの、古楽から現代音楽までを、豊かな知性に裏付けられた自然で生き生きとした解釈が、きっとこれから音楽界を席巻するのではと思わせる。
 全編にわたって、新鮮無垢なワーグナー。
弾むモティーフに、息づく歌に、適度に早めの速度感。
内声部までもよく聴こえる透明感。
いいです。
過去記事で、ヴォジーシェクの交響曲バッハのマニフィカトを絶賛しました。

ちなみに、ドレスデン版にパリ版を交えた折衷版。

こうして、ネットで音楽だけ聴いてる分にはいいんだけれど、舞台の様子を画像にしても知るにつれ、あれこれ想像して、文句つけたくなる昨今の演出。

普通じゃいけないんですか?
なんで、そうしなくちゃいけないんですか?
ワーグナー家以外の演出導入の初期、G・フリードリヒの「タンホイザー」はものすごい反発にあった。
人々にナチスを思わせる軍服を着せてしまい、そこからのアウトローたるタンホイザーを描いた。でも、それくらいはいまや生易しいもの。

3.11を経た私たちには、もしかしたら片腹痛い内容なのかもしれない。
同じ終末からの蘇生では、シェローやクプファーのリングがかつて雄弁に存在している。
バウムガルトナー氏の意図を映像でもなんでもいいから観てみて、知ってみたいものだ。

昨年のネズミ・ローエングリンが今夏放映される。
去年の課題と疑問が、1年越しにしても確認できることはありがたいことであります!

このタンホイザー、1・2幕ではおとなしかったけれど、3幕終了後、威勢のいいブーイングが飛び交っておりました。

なんだか、聖地もチープになっちまったなぁ・・・・・。

追記)26日に記事を起こしたとき、エリーザベト役のニールントと、メルベトを勘違いしてました、修正しました。

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2011年7月24日 (日)

レナータ・スコット ヴェルディ・アリア集

Floribunda

たくさんあります、バラの種類。
低木種で、ほのかに良い香りでした。
調べたけれど、マリアンデールでしょうか。


Scotto_verdi

レナータ・スコット(1934~)。

彼女の名前と、その歌声、そしてステージでの仕草やお姿は、私のような世代や、それ以上の日本のオペラ・ファンには、親しみと愛着、そして憧憬をもって思い起こされる名前です。

50年代にカラスの代役として燦然とデビューし、舞台とレコーディング両面で大活躍。
当時の若々しい音源もふんだんに残されてます!

Scott2

その後、一時の不調時を経て、73年にNHK招聘のイタリア・オペラ団にて、ヴィオレッタを若きカレーラスと共演。
このときが、わたくしのスコット・デビュー。
テレビで何度も観ました。
小柄で、どこにでもいそうな身近な女性としてのスコットの演じ歌ったヴィオレッタは、青臭いカレーラスとの対比において、最初は無邪気、でもブルスカンティーニの味わい深いジェルモンの説得を経て、ひとりの愛する女性として目覚め、毅然と、でも悲しみを隠しながら辛い別れを受容してゆく。
いまでも覚えてます、素敵なヴィオレッタ。

それと、同じ年の演目の「ファウスト」。
同じテレビ観劇ですが、ヴィオレッタにも通じるマルガレーテ。
おぼこ娘のような無垢なスコットが、最後は聖母マリアのような女性として、愛する人を助けようとする力強さに満ちてました。
クラウス、ギャウロウ、サッコマーニといった超強力キャストによる、日本のオペラ史上に残る名舞台だったのではなかったでしょうか!
ファウストは、この演奏でなくてはデメになってしまった。

その頃から、すぐれた自己管理をともないながら、声に重さも増して、スピント系の強いロールも歌うようになった。
数々の録音がなされました。

フレーニと重なるキャラクターで、ともに舞台に録音にひっぱりだこでありました。
ふたりとも、愛すべきソプラノ。
ふたりの共演盤もかつてありましたが、廃盤は残念。
わたしたち日本人が大好きな歌手ふたりです。
スコット(1934)、フレーニ(1935)、ともにいつまでも元気でいて欲しいです。

   ヴェルディ アリア集

 「ドン・カルロ」~「泣くな友よ」、「世のむなしさを知る神よ」

 「アイーダ」~「勝って帰れ」

 「仮面舞踏会」~「わたしの最後の願い」

 「エルナーニ」~「一緒に逃げて」

 「群盗」 ~ 「おお、お父様」

 「マクベス」~「日の光が薄らいで」、「消えてしまえ、呪わしいしみよ」

   レナータ・スコット

 トーマス・フルトン指揮 ブタペスト交響楽団
                 (1983.9@ブタペスト)


正直、声のピークは過ぎ、全盛期の彼女の声を知る身としては、少しばかり辛いものがあるが、毅然としたたたずまいに、それぞれの役柄の心情を深い情感をたたえながら歌い込む味わい深さは格別のものがあります。
 悔恨に暮れるイタイ女性ばかりを選んだ渋い演目であるがゆえに、スコットの酸いも甘いも噛み分けた歌唱は、そんなヴェルディ作品にぴったり。

作品の素晴らしさもあって、エリザベッタ(ドン・カルロ)とアメリア(仮面舞踏会)に感銘を受けた。
そして、マクベス夫人までも歌うようになった後期活動期のスコットに驚きとともに、少しばかりの悲しさも覚えてしまった。
完全にメゾの領域で、ドスも効かせて歌うスコットの声は、かつてのイメージをくつがえすほどに強烈だった。
一語一語に慎重に解釈を施す入念さと、全体を見通す自然な流れ。
スコットは相変わらずクレヴァーな歌だけれど、このマクベス夫人には驚きだった。

こんな風に、スコットは歳を経てもとどまることなく進化していました。
若い頃の耳洗われるようなベルカント歌唱から、後年の味わいを伴った劇的歌唱まで、ひとりの大歌手の足跡を尊敬の念を持って受け止めたい。

そして、一方こちらは終わってしまいました。

Non_digi

さよなら・・・・・。

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2011年7月23日 (土)

ルネ・コロ singt ワーグナー&シュトラウス

Yuri

とある公園でみかけたユリの花。

このあたり、ユリの甘い独特の香りに包まれておりました。
一本でも存在感ありまくりの香り。
ちょっと間違えると毒々しい。

けれど、夜にほのかに香ってきたりしたらもう、ロマンティックな気分になっちゃう。

そう、ワーグナーR・シュトラウスの夜の音楽を聴きたくなる。

Rune_koro_wagner_strauss

ルネ・コロ

もう引退してしまったけれど、たゆまぬ自己統制で長い歌手生活を送ったテノールのひとりだ。
もっと歌えると思ったけれど、潔く身を引いた。
でも、最後のオペラ公演といわれた人生に疲れてしまったような名舞台「タンホイザー」を観劇したけれど、その後、またやってきて、フォルクスオーパーの「こうもり」に出演していたが、これは未観劇。

コロは、私のワーグナー受容とともにその経歴もずっと同じくしていて、デビューから引退までを見守った歌手のひとり。
何度も書きますが、ワーグナー好きになったのは1972年頃。
コロのデビューのひとつ、ショルティの「魔笛」や「タンホイザー」「パルシファル」「千人交響曲」、カラヤンの「マイスタージンガー」「メリーウィドー」、スウィトナーとの「ワーグナー集」、・・・・、70~72年頃の録音を次々に聴きまくった。
甘い声ながら、ワーグナーを力強く、一点の曇りひとつなく歌うコロの美声に酔いしれたのだ。
その頃の録音に、イタリアオペラの二重唱をオジェーと歌ったものがあるが、まったく発売されることがなく、いまに至っている。

その後、巧みな声のコントロールと神経質なまでの自己鍛練でもって、重たいワーグナーのロールを手掛けるようになったコロは、私たちワーグナー・マニアにとって希望の光であり、神様的存在となった。
払底していた、ヘルデン・テノールに、P・ホフマンやJ・イェルサレム、シュンクなどが登場し、嬉しい時代を築き上げた80~90年代。
その橋渡しと牽引役は、ルネ・コロだった。

こんな思い出話を書きだすと止まりません。

コロが来日すると、ほとんど聴いてました。
唯一聴けなかったのが、「トリスタン」と先にあげた「こうもり」。
おかげさまで、「タンホイザー」「マイスタージンガー」「リング」「パルシファル」を体験することができ、それらのタイトルロールのコロの歌と演技は、いまだに脳裏にしっかりと焼き付いております!

オールマイティのドミンゴが、ワーグナーのテノール役をほぼすべて録音している(ジークフリートだけは抜粋)が、ルネ・コロもほぼ同じ。
唯一ないのが、ジークムントの全曲。
かつて若き日に録音したスゥイトナーとのアリア集に収録されているが、「父が約束した剣」と「冬の嵐は去り」の2曲のみ。

その欠落を少し補う企画が、1992年に録音された今日のCD。
ワーグナーとR・シュトラウスの、夜にまつわる曲を集めた1枚。
しかも、ティーレマンが指揮をしております。

 ワーグナー 「ヴェーゼンドンクの5つの歌」

         「トリスタンとイゾルデ」第3幕~トリスタンの夢

 R・シュトラウス 4つの歌曲~「誘惑」

 ワーグナー 「ワルキューレ」第1幕
          「父の約束した剣」、「君こそは春」(ジークリンデ)~
          「冬の嵐は去り」

 R・シュトラウス 「4つの最後の歌」~「夕映えに」

     テノール:ルネ・コロ

     ソプラノ:イングリット・ハウボルト

  クリスティアン・ティーレマン指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
                 (1992.11@ベルリン・イエスキリスト教会)


歌うならば根こそぎ。
そう、男声歌手によるものとしては珍しい「ヴェーゼンドンク」と「4つの最後の歌」。
コロの美声と、考え抜かれた緻密でかつ繊細な歌唱は、普段聴きなれた女声によるものと比して、まったく違和感がなく、むしろ新鮮な輝きと味わい深さを感じさせてくれる。

名歌手が、言葉のひとつひとつを噛みしめながら歌うと、時に息が詰まるようで、そして時に白けてしまうものだが、コロの声は、毎度聴きなれた甘さと厳しさのバランスの取れたものなので、最初から最後まで気が抜けず、そして親しみをもって聴くことができる。

ジークムントにしては、ちょっと入念にすぎ、老獪だが、これもまた「コロのジークムント」として印象深いものであった。
そして、トリスタンの迫真の歌唱は、クライバー盤より12年を経て、場数を踏んだ安定感と空しさ、そして悲しさまでをも巧みに歌い出していて、久方ぶりに聴いたワタクシは、疲れ切った自分と重ね合わせてしまい、そら恐ろしいほどに同感してしまった。
やけくそにならない、なりきれない冷静なトリスタン。
それでいて、疲労と悲しみ、そして悲哀に溢れたトリスタン。
ほんの9分程度のこの場面に、いまのワタクシは大いに入れ込んでしまった!

そのトリスタン的世界を、しっかりと歌い込んだのがコロの「ヴェーゼンドンク」歌曲集。
なんて、悲しくって、寂しいのだろう。
憧れも、ここでは寂しいです。

最後は、シュトラウスの人生の夕暮れの境地を淡々と歌ってくれます。

ティーレマンの指揮は、実に雰囲気よろしく、コロの歌の邪魔をせずに神妙に同化しているように聴こえました。
そして、オケが実にうまかった!

真夏だけど、夜や夕暮れの寂しさ、悲しさを、まるで人生のように歌っているルネ・コロの名唱でございます。

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2011年7月20日 (水)

交響曲第1番「HIROSHIMA」 大友直人指揮

Hiroshima_3

広島の原爆ドーム。

東日本大震災前に訪問したときのもの。

仕事仲間がいるため、広島はよく訪れる。

夜においしい酒や瀬戸内の魚、お好み焼きを楽しんでホテルに帰って終わってしまう出張が多いけれど、早朝や、夜間にほんの少し足を伸ばせば、川沿いにこのドームや平和記念公園がある。

初めて見たときの衝撃は忘れられない。
残骸がそのままに、鉄骨も溶けて折れ曲がったままに・・・・。
でも、記念館にはまだ行ったことがない。
そこへ行くと、人生観が変わるほどの衝撃を受けるという。
広島の仲間も黙して語らない。
親から聞いたという話も、そのごく一部しか語ってくれない。

アウシュヴィッツとヒロシマ。
人類が自らを傷つけ、殺傷してしまった悲しみのメルクマール。

こんなことを考えながら、CDの再生ボタンを押すこと、今日5回目。

Samuragochi_sym1

本日7月20日。

日本中で、多くの人々が待ち望んだこのCDをその装置に仕込み、再生していることだろうか。

今年、4月11日と12日に録音された震災後まもない時のスタジオ録音。
その録音中に、最大級の余震があり、ホールは大揺れしたとあります。
最終場面にさしかかりつつあったその演奏、指揮者・オーケストラの皆さんは、音楽に没頭するあまり、その大きな揺れも飲みこんでしまい、迫真の大フィナーレを成し遂げた。

交響曲第1番「HIROSHIMA」。

大友直人指揮する東京交響楽団の演奏。

震災後、不合理の悲しみに浸っていたわたくしの記事にいただいたコメント。
被災された方からのそのコメントで、「佐村河内の交響曲」をご教授いただき、初めてその名前を知ることとなりました。
ネット上で確認した、テレビ番組の佐村河内特集と交響曲の一部。
衝撃とともに、魂を揺さぶられ、突き動かされるように記事にもしました。
(「佐村河内守のこと」)

残念ながら、テレ朝の無慈悲なる申し立てにより、youtube映像は見ることができなくなってしまいましたが、あの番組を見れば、作曲家佐村河内氏の人となりが、よくわかったものと思います。
著作権のことは重々理解しますが、初CDの発売に及んでのこの取り消しは、とても残念で、かつ心狭きことに思います。
報道番組の一特集でしたが、是非にも再放送されることを切望いたします!

佐村河内氏は、被爆してしまった両親のもとに、1963年に広島に生まれ、母親の厳しいピアノのレッスンを受け、早熟の才能を開花。
喧嘩も強く、やんちゃな少年時代を、読書家の寡黙な父、絵画の才のあった弟とともに過ごし、作曲家として交響曲の道を志すようになった・・・。
しかし、幾多の試練が氏を襲う。
耳鳴り、弟の事故死、独力での東京での音楽修業、食べるための土木工事、やがて耳の疾患は全聾、そして猛烈な耳鳴りへと悪化。
そんな中でも、ハンディを明かすことによる同情を嫌い、ひた隠しにした、その労苦。
映画音楽での成功と、ボランティアに投じることで知り合った盲目運命を背負った少女「しお」。
彼女との出会い、真の心の交流から、強いインスピレーションをえて、これまで何度も挫折していた交響曲に取り組むこととなった・・・・。

常人では想定できない、壮絶きわまりないその生きざま。

そして、その試練の数々をどん底から這い上がるようにしてクリアしてゆく超絶的な精神力と驚異的な才能。
天才と呼ぶにふさわしい人物に、神がさまざまな苦しみを与えて、その精神を錬磨していった。
現在にある脅威の孤高の人、それが佐村河内守。

その音楽を聴くとともに、氏の半生を記したその著作を読まれることもお勧めしたい。

Samuragochi_sym1_book

3つの楽章、全曲70分を超えるこの大交響曲を、わたしは、どのようにご紹介したらいいかわからない。
自身で書いた音楽をその耳で聴くことができない。
演奏されても、どのように響いているか確かめることもできない。
その悲しさたるやいかばかりであろうか。

佐村河内氏は、それを乗り越え、自分の脳裏にある音楽の響きを完璧極まりないかたちで、譜面化したのだ。
それだけで、涙が出るほどの感銘を覚えるのに、今回、こうしてその交響曲の全曲を申し訳ないがよく聴こえる自分のふたつの耳で確認できる喜び。

なんと素晴らしい音楽なのでしょうかsign03

3つの楽章が、「運命」「絶望」「希望」と、記されていて、それはまさに、ベートーヴェンに端を発し、音楽史上の作曲家たちが交響曲に刻みつけてきた方程式だ。
そんないわば、交響曲の常套を、いまの難解な時代に惜しげもなく開陳してみせる、そのあまりにも明確かつ、感動的な手法が疲弊しきった私たちの心に真っすぐに飛び込んでくるのだ。
あぁ、これだ、こんな音楽を待っていたのだsign01
わたしは、そう確信した。

前の記事で書いたこと、マーラー、ブルックナー、ショスタコ、ワーグナーと名を連ねてみた。
確かに、そうである。
でも、そんな○○風なんてことを思いながら聴いても、わたしたちは、佐村河内の絶対的な音楽の前にすべての先達の響きが色を失ってしまい、魂に突き刺さるような強烈な感銘になすすべを失うのであります。

3つの楽章の詳細を、ここでは書くにはあたいません。
いずれまた、書くことになるかもしれません。
動機はずべて関連づけられ、思いつき的なフレーズはひとつもありません。
緻密に構成された全体像を巨視しつつ、個々には完璧極まりない仕組みがなされている。
天才の筆致は、言葉においてはなすすべなく、その音のひとつひとつに頭を垂れるのみ。
爆撃の激しさと、その後の廃墟の空しさ、そして巻き起こる希望のひとすじの光が太く、輝かしくなってゆく。
3楽章が圧倒的に素晴らしい。

佐村河内氏の言葉(再褐)

「自分の音楽を通じて、ひとつの闇(やみ)ってものを感じてもらって、その後にくる『小さな光の尊さ』というものを感じてもらいたい・・・・・、日常の他愛ない幸せを、本当に輝いて、尊いんだと感じるはず。それを音楽で継承していきたい」

さらに、氏が、少女「しお」との心の交流をへて達したひとつの心情

「苦しみ闘う人々の支えになる音楽・・・・それは、誰よりも苦しみ闘ったものの手からしか、生れえないのだ! そんな音楽をなしえたいと望むのなら、その『闇』に満足し、そこにとどまれ!」

氏が「闇のなかの心の耳」で聴いた神の声といいます。

心の中で聴く音楽。

わたしたち日本人は、あの日以来、あの日までの日々が失われてしまったようになってしまいました。
でも、それまでの日々は、あの日のために準備されてきた長い日々だったのかもしれません。
そうじゃない人々もいるかもしれませんが、みんな立ちあがり明日を生きています。
 そんなわたしたちに、心に強く、優しく問いかけてくる、佐村河内交響曲。

多くの方々に何がなんでも聴いていただきたい。

何度目かには泣いてしまうかもしれませんsweat02

やがて、間違いなく、心で聴くことができますnote

Hiroshima_2

大友さんと東響の神がかった透徹感ある演奏にも大いに敬意を表したいと思います。

レコーディング・ドキュメントはこちら

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2011年7月18日 (月)

ヴェルディ 「ナブッコ」 シュタイン指揮

Nantsutei_1

うまいぜベイビー!、の「なんつっ亭」。
真っ黒いのは、マー油。熊本ラーメン。
でもお味は優しいとんこつ味。
わたしの実家からそんなに遠くないとこにある秦野の本店。

Nantsutei_2

暑いときも、力強いラーメンはうまいね。

Verdi_nabucco_stein

ヴェルディ
(1813~1901)の初期オペラの傑作「ナブッコ」。
旧約聖書中にその素材を求めたオペラで、バビロニアの王、ネブガドネザルのこと。

序曲も有名だが、このオペラの代名詞は、合唱「行け、わが想いよ、黄金の翼にのって」でありましょう。
故国を思う人々の気持ち、オペラではヘブライ人たちがバビロニア捕囚を受けて、約束の地を思って歌う。
これには、アルプスをはさんで隣合わせだった大国オーストリアの支配を、ことに北イタリアが受けていたことから、聴衆の熱狂的な支持を受け、いまもってイタリア愛国心の象徴のような音楽になっている。
 
そして、こうしてオペラの素材やその中に、イタリアへの愛を常に込めたヴェルディは、ゲルマン至上だったワーグナーと違って高潔の人物として伺われる。
でも、ともに同年生まれのオペラの神様。
ヨーロッパでは、それぞれの国のかたちがその線引きとともに、民族意識も伴って固まりつつあった頃。
ワーグナーもドイツでは市民として革命に身を投じていたわけで、両巨頭ともにその民族と国を愛していたわけであります。

実は、今日のCDは、ドイツ語歌唱によるヴェルディのハイライト盤なのでありました。

「バビロニア王は、ヘブライの国(ユダヤ人)エルサレムを責めるが、司祭ザッカリアは、ナブッコの娘フェネーナを人質にとっているからと安心していた。
でも、フェネーナと恋仲のイスマエルが彼女を助けてしまい、神殿は壊され人々はバビロニアに幽閉されてしまう。
一方、ナブッコのもうひとりの娘アビガイッレは、奴隷の母を持つ出自を知り、暗い野心を抱く。一方のフェネーナはユダヤに改宗してしまうので、父ナブッコは怒り、いまやユダヤの王は私であり神だ、などと言うものだから、本当の神様に雷の一撃を受けて倒れてしまう。
父が弱っている隙に、アビガイッレが実権を握ってしまい、ユダヤ人の処刑を行おうとする。これを知ったナブッコは、娘フェネーナもその中にあることを知り、神にこれまでの唯我独尊を悔い祈りを捧げ、ユダヤ人たちの救出に向かう。
彼が、バビロンの神々の偶像破壊を命じると、ひとりでに崩壊し、ユダヤ人たちの解放を宣言する。アビガイッレは許しを乞い自決。
ナブッコを称えて幕」


  ナブッコ :トマス・ステュワート  アビガイッレ:リアーネ・ジィーネク
  フェネーナ:イヴリン・リアー    イスマエル:シャーンドル・コンヤ
  ザッカリア:マッティ・タルヴェラ  

   ホルスト・シュタイン指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
                   ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
                         (録音1964?)


ワーグナー歌手と指揮者にオーケストラを並べてみました。みたいな。
「ワルキューレ」のようです。
ウォータンに、勇ましい戦乙女、息子に娘、そしてフンディンク。
子音が少し気になりますが、ドイツ語は、あまり違和感ありません。

「行けわが想いよ・・・」は、流麗でジワジワ熱くなるイタリア語にくらべ、生真面目で固く、より内面的な印象になり替わっているのが面白い。

「Va, pensiero, sull'ali dorate」→「Zieht, Gedanken, auf goldenen Flugeln」

こんな感じですよ。

ステュワートの娘を思う歌と、劇内での変貌ぶりは持ち前の美声でとても同感できるし、タルヴェラのチェロのオブリガートソロを伴ったアリアも素晴らしいものだ。
ほかは、まずまず。
コンヤはイタリア歌唱の方が歌いやすそうに聴こえた。

そして、驚きはシュタイン指揮する、明るく朗々としたオーケストラ。
ヴェルディでもプッチーニでも、チャイコフスキーでも器用にこなしてしまうシュタインだったのでした。

DGの独語オペラシリーズ。
以前は、ヴィントガッセンとFDの「オテロ」を取り上げました。
ほかにも珍品がいくつか出てましたが、なかなか手に入りません。

独語「オテロ」

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2011年7月16日 (土)

ワーグナー 「ローエングリン」 フルトヴェングラー&ティーチェン

Ohisama

えっ! なんですってsign02

未デジ化進行中?

地デジ化された方は、こんな画面見たことないでしょう。

この差別的かつ、ばかにした画面がこのひと月くらいずっと出てるんです。
字幕も見えない、同じ受信料でこの差別待遇。
ほんとに頭にくる。
アンテナや導入工事が、さばけずに、予定ズレズレらしいじゃないですか。

震災と同時に、被災地と同じく延期すべきだった総地デジ化。
事務所の空調が不具合で、大督促して来てもらったら、この暑さでてんてこ舞いとのこと。
でも、同時に地デジ工事に追われて大変で手が回らないとのこと。
設備屋さんも電気屋さんもいっしょくたに大忙し。

ほんと、ばかです、この施策。

だからという訳じゃないですがね、我が家はリビングのみ地デジ。
お父さん部屋兼息子部屋は未デジ(でもCATVなので、延命処置あり)
事務所は完全未デジ。

24日に、どのように絶滅するかとくと見てやろうという寸法ですよ、へへっ。

ともかく、あたまにくる。
この切り替え時に、急激に電力負荷がアップして、電力不足になるとか、なんとかあるんじゃないのかと、また思ったりもしてます。
これまでの節電要請がどうも怪しい・・・・。

さぁ、時代は大いに遡って、アナログ。
電気的録音の初期の1936年のバイロイト音楽祭の一節。

Lohengrin_furtwengler

第三帝国時代、まっただ中のバイロイト。
1931年から1944年に渡ってナチスの暗い影とともにあった。
その1931年の公演記録を調べると、トスカニーニがタンホイザーとパルシファルを指揮して、フルトヴェングラーがトリスタンを指揮している。
世紀の大指揮者ふたりが、バイロイトでまみえている。
だがしかし、トスカニーニはこの年をもって、バイロイトに登場することはなくなる。。。。

1936年は、ベルリン・オリンピックの年で、ヒトラーの国威高揚作戦にも巧みに使われたわけであるが、そのオリンピックの開会は8月1日。
普通なら、バイロイト音楽祭開催中ということになるが、この年は、音楽祭を前半後半のふたつに分割し、その間にオリンピックを入れたのだった。
 スポーツと音楽、まとめて我がものとしようと欲した独裁者恐るべし。

この年の演目は、ローエングリン、リング、パルシファル。
指揮は、フルトヴェングラーとこの頃のバイロイトの演出家兼指揮者ハインツ・ティーチェン。

今日のCDは、音楽祭前半担当のフルトヴェングラー、後半のティーチェンのふたつのローエングリンの第3幕を中心とした抜粋が収められている実に興味深いもの。
そのふたつの間には、R・シュトラウスがベルリン・オリンピック開催にために作曲した「オリンピック讃歌」も、当時の録音で収録されているという念の入れよう。
こうして、わたしたちは、75年前のドイツの、ちょっとイケナイ世界を音で垣間見ることができるわけだ。
でも、社会がいけなくても、その音楽に罪はなく、両方の演奏とも、とてつもなく素晴らしいのであります。

  ローエングリン:フランツ・フェルカー エルザ:マリア・ミュラー
  テルラムント:ヤーロ・プロハスカ  オルトルート:マルガレーテ・クローゼ
  ハインリヒ:ジョーゼフ・フォン・マノヴァルタ

       バイロイト祝祭管弦楽団 合唱団
                 演出:ハインツ・ティーチェン


 指揮:ウィルヘルム・フルトヴェングラー(1936.7.19)~放送録音

  ハインツ・ティーチェン(1936.8.20~29)~劇場でのテレフンケン録音

ノイズは多いですが、思いのほか良好な音で、とくに後半のテレフンケン録音はかなり鮮明であります。

前半は、やはりどこをとってもフルトヴェングラー。
婚礼の歌の中間部のうねり具合、ねっとりとした愛の二重唱などはトリスタンの世界。
ラッパとともに、勇ましい群衆終結の場のスピーディかつ高揚感ただよう表現。

いまのスマートな演奏からしたら時代がかって聴こえるが、わたしのような人間の耳と心を引きつけてやまないスゴザがある。

一方のティーチェンが、思い入れ少なめのストレートな解釈に聴こえるのも面白いところ。
不思議なことに、曖昧模糊とした世界でなく、明快なローエングリン。
しかも、最後のローエングリンの別れの場面は、完全版でございました!

そして、歌手がとても素晴らしい。
戦前から50年代初めに活躍したヘルデン、フェルカーが気に入った。
もっさり感のないすっきりした声は、それでいて力強い(写真で見るとオッサンですが)。
バイロイトの貴婦人、ミュラーの気品も素敵なものでした。

というわけで、今日は75年タイムスリップして、ヒトラーももしかしたらそこにいたバイロイトに遊んでみました。

2011バイロイト音楽祭開幕まで、あと9日。
ちぇっ、地デジの次じゃねぇか!

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2011年7月15日 (金)

ベルリオーズ 幻想交響曲 マルティノン指揮

Hamamatsucho_2

7月の小便小僧。

これまで、自粛や防災ムードだったコスプレも、夏休みムードを先走り全開。

Hamamatsucho_3

ひまわり小僧、いや、ひまわり君でしたよsun

Tシャツにキャップ。
今回は、ぞの小僧ぶりが引き立ち、とっても似合ってますよ。
勢いも、いつにも増して元気で超よろしい。

Berlioz_matinon

7月の「ベルリオーズ 幻想交響曲」は、ジャン・マルティノンの演奏で。

1973年のEMI録音。
エラートからEMIにも録音しはじめたしたマルティノンが、次々とフランスものを自国のオケと録音しはじまたころ。
サン=サーンス、ビゼー、ドビュッシー、ラヴェルなどと並んで、幻想とレリオのみだがベルリオーズも、われわれ愛好家にとって、フランスの本場の香りを感じさせる一連の名録音だったのです。

74年に国内発売された時のジャケットがこちら。

Berioz_2


こんな感じのセンスあふれるジャケット。

録音はのっぺりと感じられたが、その演奏は、このジャケットのように、瀟洒でエレガント。
そして勢いやダイナミズムにも事欠かないトータルバランスのいい幻想。

全曲で54分。
ゆったりと構えながらも、歌い回しが実にうまくて、心地いいものだからもっと早く進行しているように感じてしまう。
同じアルザスの血を引くミュンシュと比べて、ドイツ的要素が少なめなので、晩年のフランスのオケとの一連の録音は、わたしたちが思い描くおフランスの音楽の理想プラス、少しエッジの効いたシャープさが加味して、独特の魅力に溢れているように思います。

国際化の名のもと無国籍化しつつあったパリ管のカラヤン、ショルティ時代に、フランスの息を吹きこんだのもマルティノン。
 同時に、一歩後退してしまった、フランス国立管を、フランス国立放送管弦楽団の時代からずっと指揮し続け、機能性と香り高い芳色を植えつけたのもマルティノンではなかったでしょうか。
コンサートホール録音の、ベルリオーズ「キリストの幼児」は、ほんとに美しい演奏でした。

そんなコンビの、幻想の当時のもうひとつのウリは、コルネットの追加。
作曲後14年を経て、第2楽想のワルツに、コルネットのオブリガートを加えた。
のちに改訂したおりには、そのコルネットは省かれてしまった。
その場面を再現しているのがマルティノンの演奏。
当時は、初に近い(?)録音採用だったから結構話題になりました。
レコード調達はしなかったものの、FMで何度か聴いて、その浮き上がった雰囲気に否定的になった。
その後、普通にこのバージョンも取り上げられるようになり、アバドでさえそうだったけれど、このマルティノン盤ほどの、突出したイメージを抱くことはなかった。
いま聴いても、ともかく目立つし、耳触り。

でも、考えようによっては、その異常さが、幻想交響曲の登場人物の心理を語っているようで、その前、第1楽章の熱に浮かされた場面、そのあと、田園におけるあまりに自然回帰の清々しさとの明確なる心情対比が、優美なだけのワルツに比べて明確になったような気がする。
それだけに、マルティノン幻想の第3楽章の田園風景は、ことのほか美しく優美なのであります。
 もちろん、じっくりしあげた断頭台とヴァルプルギスの熱狂も巧みで、熱いものです。
フランスのオーケストラの、60~70年代の個性が大いに楽しめるのも魅力。
鄙びたくらいの独特の管に、薄めだけど小奇麗な弦、うるさくなくてマイルドな金管・・・、素敵なものです。

7月の幻想も、暑さにめげず、気分よろしい爽快なものでした。
来月は、またフランスの指揮者でまいりましょうか!


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2011年7月13日 (水)

ストラヴィンスキー 「春の祭典」 シモノフ指揮

Mikotsuru

思わず、吹き出しますsign02

音楽もたくさん聴いてくると、思わずそうしちゃう演奏もあるよね。

え、違う違う、これ、お酒ですよ。

Mikotsuru2

でも、こんなポップなラベル。
あわあわ、と吹き出してきて、思わず、ボトルにお口で栓をしてしまいましたよ。

Mikotsuru3

日本酒です。
下諏訪の菱友醸造の「御湖鶴(みこつる)」。
純米活性にごり酒なのでした。
東京駅の駅ナカの「はせがわ酒店」にての試飲販売にて、まんまとはまって購入。

暑い日々に、この強い発砲性とすっきりとした純米独特の酸味。
おいしくて、30分もしないで完飲。
女性にも受けますね、これは。
でも、調子よく飲めるので、酔いますよ、お客さん。。。。。

Stravinsky_the_rite_of_spring_simon

いや、それにしても暑いです。
暑さに疲れちゃいます。
暑さはあと2カ月くらい、9月下旬まであるけれど、8月のお盆過ぎには、朝晩が急に過ごしやすくなります。
それまでの辛抱。
嘘つきっぽい、電力供給予測なんて、ほんと、何を信じたらいいんだろ。

暑いから、暴力的に、そしてうっとうしい音楽を。

ストラヴィンスキー「春の祭典」。
先週、「ペトルーシュカ」を聴きましたが、やはりこちらも。
変拍子と不協和音吹き乱れる難解音楽のかつての代表も、いまや耳が完全に慣れてしまって、鼻くそほじりながらホイホイと聴けちゃう音楽になっちまった。(注:実際には鼻くそは掘ってません)

高校の音楽の授業で、先生がこの曲のレコードをこれ見よがしにかけた。
当然にこの曲が手中に入っていたワタクシは、へでもなくすらすらと聴いた。
でも、その時は未聴だったマルケヴィチの演奏で、当時メータやアバドのハルサイに慣れていた自分には、ちょっと古風な演奏に聴こえたものだ。
そして、ほかの生徒諸氏は、まったく無反応。
クラシック音楽、十羽ひとからげ(ちなみに、のちに十羽ひとからあげ、と呼ぶ人に出会いました・・・)の当時の無関心生徒さんには、モーツァルトだろうがハルサイだろうが、関係ねぇ的なことだったのでございましょうね。
 若い先生は、悔し紛れに、意地になって、「へたなロックや、ジャスを聴くよりは、この曲の方が、よっぽどマシだと思いますよ!」なんて、それこそ十羽人唐揚げ的な発言をして、その場をシラケさせておりました。

クラシックに興味のない人には、「春の祭典」がどんなに、びっくらこいた凄い曲といっても、わからないのであります。

そして、ハルサイに慣れ切った現在=にゃう(NOW)。
アマチュアオケもすらすら演奏しちゃうし、指揮者も軽々と指揮してしまう。
そして、豊富な音源。

そんな中から、最安値音源をチョイス。

駅ナカでは、酒も買えるが、ロイヤルフィルのCDも買える、いまや便利な改札圏内の世界なのだ。
ロイヤルフィルのシリーズは、多くの方がたくさん書いてらっしゃいますが、わたしもごたぶんにもれず、ハンドリーやシモノフのものを中心に集めました。
税込315円也は、かなりイマイチのジャケットを我慢しても、充分に満足できる。
飲み屋の生ビールより安いんだもん。

爆演とお笑系パフォーマンスの代表格、ユーリ・シモノフ
1970年のボリショイ劇場来日公演で、ロジェストヴェンスキーとロストロポーヴィチというふたりの個性豊かな指揮者とともに来日したときは、痩せた紅顔の青年だった。

  →Simonov (再褐ですが)

数年前に、モスクワフィルとの来演で、チャイコの白鳥の湖と5番を聴いたときに、度肝を抜かされた。
ともかく大音量で、それを微に入り細に入りコントロールする技量と、その時のおかしな仕草。
いま思い出しても「吹き出します」。(笑)過去記事こちら

そのイメージのままに、この「春の祭典」を聴くと少し肩すかしを食いました。
ひとつには、この人はライブで乗る人だということ。
アンコールを懐中時計を出しながら嫌々といった風情で何発も連発する興の乗り具合でわかるように、聴衆と一体化を感じながら指揮するのが好きなんだろうと思います。
そして、同様なことがオペラ指揮者だということ。
その場でおきるいろんなことに対応しながら、ひとつにまとめ上げてゆく苦労と楽しみを知悉しているんだと思うから、スタジオでは乗り切れない。

そんな思いを抱きつつも、このハルサイは充分に個性的であります。
ひとつは、重量感。
イギリスのオケ、それもロイヤルフィルから、腰の据わった重心の低い響きを導きだしております。
重戦車級の突進・突撃は聴いていて、野暮ったいけれども快感だったりします。
それとひとつは、歌わせ方の魅力。
静かな場面での情のこもり具合が、かつてのロシア・ソ連組のこってり感とは違った、音楽の在り方として無理がなく汎用性にも欠かないところがいい。
そして、最後に、やるときゃやる!
決めどころは、大見えきっえ、仁王立ち。
エンディングもドッカンときましたよ!

夏のハルサイ。
吹き出すハルサイを求めて、皆さん、いかがでしょうか。
その定番は、おげれつな、Mさんがお上品なVフィルさまたちに鞭をくれて、ヒイヒイさせてしまったあの1枚でございましょうかねぇ・・・・。

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2011年7月12日 (火)

アダムス ハルモニウム デ・ワールト指揮

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まだ桜咲くころ、御茶ノ水の聖橋からの1枚です。

地下鉄丸ノ内線に乗ってると、地上の光で眩しくなる場所がいくつかあります。
そんな瞬間のひとつが、ここ御茶ノ水駅。
その上は、中央線の快速と、総武線の各駅のJR御茶ノ水駅。
この3本がうまく捉えることができましたよ。

このあたりは、東京でも山と呼べる場所かもしれません。
御茶ノ水には、懐かしい思い出もたくさんあります。
同じ思いの方々もたくさんいらっしゃることと存じます。

Adams_harmonium_waart

ジョン・アダムス(1947~)の「HARMONIUM~ハルモニウム」。

さむよえるクラヲタ人が、アダムスを取り上げるのは、ヴァイオリン協奏曲に続いて2回目。
繰り返しのシンプルな表現が生み出す、五感を呼び覚ますような不思議な快感。
ミニマルミュージックは、ネットラジオなどを聴いてると、英米の放送局で繁茂に流されております。
フィリップ・グラスは、もっと内向的で室内的だけれど、アダムスは音がより外へ向かっているし、フルオーケストラによる快感と、オペラをもものする豊かな劇性ゆえに、その音楽のドラマティックな展開に興奮を覚える、そんな作曲家であります。

2部からなる、大オーケストラと合唱のための作品。
合唱作品といってもいいかもしれない。
和音や調和といった意のタイトル。

Negative Love or The Nothingと副題がついてる。
直訳すれば、「無為の否定的な愛または無」ということでしょうか。
1980年の作品で、このCDと同じくエド・デ・ワールト指揮のサンフランシスコ交響楽団によって初演されている(当録音は84年)。

ふたつの部からなり、2部は、さらにふたつに分けられる。
Ⅰ)、「Negative Love」。
17世紀英国の詩人ジョン・ダン(John Donne)の詩によるもの。
アダムスは、愛の瞑想を表現したものと言っております。
神秘的な出だしのあと、mumumu・・・・と合唱のハミングが徐々にクレッシェンドしていって何度も繰り返され、はやくもアダムス・ワールドが全開。
しかし、これはハミングじゃなくって、NO!それが変化してNE、NE・・・、となりNeverとなってゆく。

Ⅱ)の最初は、「Because I could not stop for Dearh」~私が死のために立ち止まることは行かなかったので~
2部と3部のいずれも、米19世紀の奔放な女性詩人エミリー・デッキンソンの詩。
時間が拘束されたかのようなイメージの連続を表現しているのだそうな。
 
Ⅲ)そして、大きくはふたつめが第3たる「Wild Night」嵐の夜
そのタイトルの絶叫がすさまじい。
ⅠとⅢのイメージを融合。作曲者自身述べるように暴力的でセクシャルなものとも・・・。
Ⅰは男の愛、Ⅱは死、Ⅲは女の愛。

う~む、凡人のわたくしには、これらの詩のイメージと、ここでなってる繰り返しの音楽の意味するところがわからない。

だから、アダムスのカッチョよくも、少しセクシーで、かつ抒情的なこの音楽を、耳で聴く快楽として捉えて楽しむようにしている。

ところで、わたくしは、この曲の日本初演を聴いております。
岩城宏之と新日本フィルの演奏会でして、初なのにやたらと楽しくて、興奮して、mumumuが耳について、前半のブラームスの4番が霞んでしまったのを覚えております。

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2011年7月10日 (日)

モーツァルト 「フィガロの結婚」 アバド指揮

Matsuyama_castle

東西を問わず、殿様がおわすのは、お城。

攻撃に強く攻めずらい場所に城築。

ここは松山城。
街の麓から見ると、そこまでの道のりも険しく、難攻不落に感じる。
その出で立ちも美しい。

Matsuyama_castle5

お城までは、いまやロープウェイで行けちゃう。
でも、運動不足兼二日酔いのワタクシは、いくつかある徒歩ルートのうち、一番険しい道のりを選らんじまった・・・・・。
登城は、風呂上がりのような汗みどろのオッサンになってしまいました。

すがすがしい、お姿の松山城。

Matsuyama_castle3

お城のその足元には、こんなオッサンが待ってました。
「誰っ?」、「殿様だよ~う」

Mozart_le_nozze_di_figaro_abbado_sc

梅雨明けの日曜日、外は猛暑、空は真っ青、影は真っ直ぐに落ちている。

モーツァルト「フィガロの結婚」を。

物語の前段、「セビリアの理髪師」では、いやらしい後見人から、自由な市民フィガロの力を借りて愛するロジーナを救いだした、好漢アルマヴィーヴァ伯爵。

数年後の舞台が、「フィガロの結婚」。
ロジーナとアルマヴィーヴァとの夫婦関係も隙間風が吹きまくり、一方、家臣となった快活なフィガロは、相思相愛の可愛いスザンナを見つけ、婚姻も秒読み。

貴族の特権を市民が覆し、男社会に女性が反撃を喰らわす。
あまりに有名なこの物語。
ダ・ポンテとモーツァルトが込めた革新のドラマと音楽が、初演後230年以上経過しても、永遠に輝き続け、世界のどこかで、必ず上演されている名作たるゆえんは、こうした生き生きとした市井の機微をしっかり捉えているから。

今日は、アバドスカラ座時代のライブ録音で。

 アルマヴィーヴァ伯爵:ヘルマン・プライ  伯爵夫人:ミレッラ・フレーニ 
 ケルビーノ:テレサ・ベルガンサ       フィガロ:ホセ・ファン・ダム
 スザンナ:ダニエラ・マッツカート    マルチェリーナ:ステファニア・マラグー
 ドン・バジリオ:ミルト・ピッチィ      ドン・バルトロ:パオロ・モンタルソロ
 バルバリーナ:マリア・ボルガート   アントニオ:レオナルト。モンレアーレ
 ドン・クルーツィオ:フランコ・リッチャルディ

   クライディオ・アバド 指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                    ミラノ・スカラ座合唱団
                合唱指揮:ロマーノ・ガンドルフィ

                (1974.4.22@ミラノ・スカラ座)

大巨匠となったいまでこそ、アバドのモーツァルトは定番で、しかも進化し続けているわけだが、若い頃は、そのモーツァルトには非常に慎重で、レコードもグルダと組んだピアノ協奏曲が初で、それが74年のこと。
ロッシーニ指揮者であり、モーツァルト指揮者ではなかった。
そのアバドが、満を持して、スカラ座の音楽監督時代に初めて取り上げたのが「フィガロの結婚」でありました。
アバドの動向を常にウォッチしていたわたくし、当時の情報源は音楽雑誌しかありません。
アバドがフィガロを取り上げるということで、どんなだったろうと、レポートを楽しみにしておりましたが、レコ芸やFMファンで、その「アバドのフィガロ」が不評だった、との報を読んで、とてもがっかりしたものでした・・・・。
記憶によれば、テンポの遅さと生気のなさ、のようなことだったと思います。
 それ以来、アバドはモーツァルトのオペラにまた距離を置くようになってしまい、ウィーン国立歌劇場の音楽監督になるまで、引っ込めてしまいました。
その後の、アバドのモーツァルトの素晴らしさは、皆さまご存じのとおりでございますね。
何度か手掛けている「コシ」の録音を、ここでは切望しておきます。

さて、いまから37年前の「アバドのフィガロ」。
残念ながらモノラルの放送音源ながら、音は明瞭で、歌もオケもよく聴こえます。
 そして、確かにテンポはゆったりめ。
序曲からしてそうだが、全体の軽妙なアンサンブルの個所もわりとじっくりと仕上げているからよけいにそう感じる。
一方で、場や幕の終結部分になると、たたみ込むような快速調となって、ライブの感興あふれる若々しいアバドならではの場面も見受けられる。
少しチグハグかもしれないが、アバドは、スカラ座の、そしてイタリアにおけるモーツァルトのオペラ上演の伝統に一石を投じたかったのではなかろうか。
ブッフォ的な一面を強調しがちなイタリアでのモーツァルトに、革新的な人間ドラマとしての側面を強調しようとした。ゆえに、ときにシリアスな雰囲気もあります。
その点が、少し生真面目すぎた、若き日の「アバドのフィガロ」。
後年のものは、モーツァルトの音楽を自然に語らせることに成功し、そこに微笑みや悲しみが表出されるようになった。
さすがのアバド。

歌手の布陣の面白さも、こうしたアバドの思いがあらわれているようだ。
フィガロとスザンナでお馴染みの、プライフレーニが、伯爵夫妻。
どうしてもプライには、「もう飛ぶまいぞ・・」と歌って欲しいところだけど、その伯爵も慣れれば妙に親しみある存在で悪くない。
フレーニは、文句なし。ほんとうに、存在感ある声。
フレーニが一声発すると、舞台が締まる感じ。
 それとベルガンサの美声のケルビーノ。
当時としたら、フォン・シュターデを聴きたかったけれど、重い役に移ってゆく前の当時のベルガンサの艶のある声はとても魅力的なのでした。
 ファン・ダムのフィガロは相変わらずうまい。でもちょっと声が重いか。
プライとの対比において、どっちがフィガロかわからなくなってしまう・・・・。
 それと、マッツカートのスザンナ。
彼女は、当時スカラ座で活躍したソプラノで、明るく陰りない歌声の持ち主で、とても気に入りました。調べたら美人だし、まだ活躍しているみたい。
正規音源は少ないけれど、探せばいろいろありそうです。

アバドの懐かしいフィガロを聴いて、暑いなか、想いは70年代半ばに飛んでいったオッサンひとり。
まだ冷房をつけずに、冷房のないバイロイト祝祭劇場状態であります。

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2011年7月 9日 (土)

フランコ・ボニゾッリ~ナポリ・カンツォーネ

Tomatobesi

さまクラ、野菜料理。

野菜のトマト煮込み。

手近の野菜を手当たりしだいに煮込みます。
ホールトマトの缶詰をぶち込みます。
塩コショウ、ケチャップで味を調えます。
最後に、醤油をちょろっと入れてみます。

玉ねぎの甘さと、とろみが決めてなので、形を崩しませんように。

キリリと冷えたビールに、最高の一品です。

Tomatobesi_curry1

この煮込みに、カレー・ルゥを入れて、トマト煮込みカレーです。

100円の冷凍エビピラフと合わせてみました。

もう、最高じゃんhappy02

Tomatobesi_curry2

夏は、カレーにトマト、そして野菜だぁ。

肉がなくても、トマトがあればOKじゃん。

ほのかに酸味ただよう辛さ。
野菜の甘みも引き立ってましたよgood
うんま~いlovely

Bonisolli

夏は、まだ始まったばかりなのに、くそ暑い。

そんな暑苦しさを増長するような、濃ゅーーいオジサンの歌を。

ジャケットだけで、引いちゃうでしょ。

でも、このオッサンの解放的で、野放図な歌は、暑さを上書きしつつも、それを忘れさせてくれるシンプルな快感がありまして、いつしか一緒になって大口あけそうな心地よい歌なのですよ。

このオッサンは、「フランコ・ボニゾッリ」さんとおっしゃいまして、1938年北イタリア・トレントに生まれ、2003年に惜しくも去ったイタリアン・テノールでございます。

テノール・ばか、その典型です。

豊かなバリトンの領域の声に、とてつもなくよく伸びる高音域。
それを自身が、強く意識してたし、パフォーマンス的に受けを狙う歌唱を披歴したものだから、一度、その歌声に生で接してしまうと、音楽的にいかがなものと言われつつも、すべてが許されちゃう愛矯ある存在だった。
 コレッリとデル・モナコ、それにパヴァロッティを足して、それに破滅的な「いてまえ」路線を加味してしまった歌声は、超強力であるとともに、破綻と隣り合わせ。
そのスリル感が、また全身全霊のテノールを聴く喜び。

わたしは、二度ほど聴いたことがあって、いずれも、そんな「いけないスリル」を味わい、快感に酔ってしまったことがあります。
ガラコンサートでのこと。
トロヴァトーレ、トゥーランドット、リゴレット、だったかな。
大柄なボニゾッリ氏、いずれも、指揮者が完全に歌手にのみこまれ、必死に合わせてました。
 ハイCを朗々と、どこまでも、いやっていうくらいにのばしまくり、アリアとしての形式もへったくれもなく、ともかく、気分のおもむくがままに、高音をふんだんに垂れ流してくれた。
われわれ聴衆は、興奮の坩堝で、アンコールをせがみ、そして、本編以上に野放図な高音を惜しげもなく垂れ流してくれて、大馬鹿ブラボーの大洪水大会だったんだsign02
ばかだねぇ~(笑)

でも、いまや、ボニゾッリのような歌手は絶滅してしまった。

ドミンゴを代表とする、知的で完璧、自身を巧みにコントロールする頭のいい歌手ばかりの世の中になってしまった。

絶滅品種のボニゾッリ。

ナポリ民謡の1枚が、ドイツのオルフェオレーベルから出ていること自体が面白い。
フレッシュなトマトをかじったら、思わず、着ていた白いシャツを汚してしまったような、そんな、笑いながら、あれっ、勘弁してよ、的な歌が次々に歌われます。

①O sole mio!
②Ti voglio tanto bene~世界でただ一人君を愛す
③Vaghissima sembianza~限りなく優雅な絵姿
④Musica proibita~禁じられた音楽
⑤'Na sera 'e maggio~五月の夜
⑥'O paese d'o sole~太陽の地
⑦Non ti scordar di me~忘れな草
⑧Mattinata~マッティナータ(レオンカヴァッロ!)
⑨Serenata~サレナータ
⑩Santa Lucia luntana~はるかなるサンタ・ルチア
⑪'A vucchella~かわいい口元
⑫Core 'ngrato~カタリ、つれない心
⑬Marecchiare~マルキアーレ

    T:フランコ・ボニゾッリ

    エルヴィオ・モンティ指揮

    ローマ・音楽ユニオン・オーケストラ
    ナポリ・マンドリン・アンサンブル
              (1983.4@ローマ)


だれもが、心震わせる有名ナポリターナばかり。
さすがにレコーディングだから、大人しく歌っていながらも、ちょいちょいと、足を踏み出して破天荒ぶりを披歴してますボニゾッリ兄貴。

先達たちとは、異なる個性。
うまいけど、下手くそ。
暑い歌声にその個性は健在。
さすがのものでありました。
マッティナータの明るい陽光にさらされた天真爛漫ぶりが素敵なもの。
でもパヴァ様のように明るくなく、悲壮感が少し漂うところがヒロイックでもあり、テノールへの憧れもそそるものでした。

70年代なかば、何故か、カラヤンにご指名を受けて、トロヴァトーレを歌い、EMIにレコーディングがなされた。
あきらかにひとり浮きまくる、そんなボニゾッリ兄貴がいとおしい。
いろんなエピソードも満載の兄貴!
選んだカラヤンが悪い(笑)。

力強い兄貴の歌に、身も心も奪われ、いやなことすべてを忘れることができた80年代半ばが、私には、とてつもなく懐かしい。。。。
元気だった日本の一員として、走ってましたよ、わたしもね。

過去関連記事

「レオンカヴァッロ ラ・ボエーム ワルベルク指揮」

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2011年7月 7日 (木)

ストラヴィンスキー 「ペトルーシュカ」 サロネン指揮

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さまクラ、簡単野菜クッキング。

チョーかんたんな、野菜炒めでござる。

野菜を常備しておくにこしたことはありませんが、お一人さまや、少人数では余らせてしまいます。そんなときに、片っぱしから炒めてしまうのも一手。
野菜を買うのが面倒なら、いまやコンビニに少量で野菜のミックスが売ってますな。
88~128円くらい。
一人なら、これをそのまま。お肉があればなおよろしい。

塩コショウして、出来れば、中華ダシ(顆粒のガラスープがあれば万能)を少し加えて、一気に炒めます。
 そして、大根おろし、そしてポン酢。
これに付けて食べるんです。

Yasaiitame2_2

さっぱりとした、おろしポン酢に、薄めの中華味の野菜炒め。

これ、もう、最高ですぜ、皆の衆!
わたしは、もうこんな風にして食べて、30年ですぜ。
ビールもいいけど、ご飯が進みますぜよ。

100円ちょっとでできちゃう。
大根は日持ちするから、常に冷蔵庫に常備してね。
おろし蕎麦や、缶詰の水煮にかけてもばっちりの食材なんだから。

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ストラヴィンスキーバレエ音楽「ペトルーシュカ」。

手軽に聴ける組曲版の「火の鳥」、オケの練習曲のようでもあり、耳や脳への刺激的快感、「春の祭典」、歌謡性と生気に富みながら、どこか寂しい悲哀を感じさせる「ペトルーシュカ」。
名曲揃いのストラヴィンスキーの3大バレエ。

「ハルサイ」が一番好きと、堂々といってのけることができるけれど、「火の鳥」よりは、「ペトルーシュカ」の方が数等好きという声は、ちょっと小さめ。
でも、わたしは堂々とそうなのです。
「ハルサイ」もいいけど、同等に「ペトルーシュカ」も大好きなんです。

恋をしたわら人形(ピノキオ)は豊かな感情をもって、自らの悲哀を最後は亡霊となって人々の前に現れる。

いじめられっ子が、最後は霊や憎しみの返礼として復元し復讐する。
いまや、チープなオカルト映画みたいだけれど、わたしのような世代には、そんな恐ろしい映画やドラマが流行ったものだ。

ペトルーシュカは、サーカスという、これまた哀感あふれるシテュエーションの中に生きた悲しみの存在。
そのシテュエーションは、外部からは華やかな世界だけれど、内部は悲喜こもごも、嫉妬や差別の横行する辛い世界。
ペトルーシュカは、人間社会への警鐘でもありましょう。

最後、ペトルーシュカは、霊となって怒りもあらわに登場。

でも、今日は7月7日。
星になりましたとさ。。。。


エサ・ペッカ・サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団の演奏。
作曲家として、ブーレーズと同じようなレパートリーを築き上げたサロネン。
でも、大好評だったロスフィル時代、ブーレーズ系ばかりか、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー、マーラー、ブルックナー、ショスタコ、プロコなどなど、普通のオケプロを手掛ける一方、自作や現代ものもさらっと取り上げる凄さがあった。
保守的なアメリカでそうであったくらいだから、自身おなじみのフィルハーモニアに復帰してからは、さらのその大胆なレパートリーと演奏に拍車がかかっていると思う。
自主制作レーベルの、マーラーやシェーンベルクは素晴らしいものだ。

メリハリのばっちり効いた凄演。
祭りの頂点では、文字通り、聴く側も、興奮の坩堝と化してしまう、勢いと若々しさがある。
でも、それは、空しさの裏返し。
華やかさと悲しさの両極端を、人間味ゆたかに、しかも今風のスリムさとクールさをもって描きつくしたサロネンです。

N響に来演してこの曲を指揮したサロネンを聴きました。
ショスタコのP協、バルトーク・マンダリン、ペトルーシュカというスンバらしいプログラム。
もう、興奮の坩堝でございました。

サロネン。
ラトルの次になるかもです!
どうでしょうか。

あと、思い出の「ペトルーシュカ」ライブ演奏。
ブーレーズ&ニューヨークフィル(バーンスタインの横で聴きました)、井上ミッチー&新日本フィル、サロネン&N響、ヤンソンス&コンセルトヘボウ。

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2011年7月 6日 (水)

ビゼー 「アルルの女」 マリナー指揮

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さまクラ、夏のクッキングシリーズ。

暑い夏に、力をつけましょう。
野菜もとれる簡単料理。

まずは、定番「ブタキムチ」。
当然に、ビールを飲みます。
ご飯にもばっちり。

Butakimuchi2

色も鮮やか。
うれしくなる暖色系ですな。

中火のフライパンに、豚バラ肉を一面にひきつめます。
そのうえに、キムチを一面にひきつまめす。
お好み次第で、たっぷりどうぞ。
そこへ、荒く溶いた卵をゆるゆると流しこみます。
あとは、ふたをして卵が固くなるまえに火を止めて、余熱で温めて、これまた卵の様子を、お好みの具合で盛りつけましょう。

調味料は不要。
キムチの味だけで、異常なくらいのうまさ。

夏にキムチ、最高ですな!
唐辛子は、秀吉&清正が、かの地に持ち込んだとされているけれど、諸説あって不明です。こんなことで争いたくない、素晴らしい食材でございます。

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ぶたキムチとはあまりに関係ないけれど、今日は名曲。

ビゼーの「アルルの女」。

なんもいうことのない名曲。
そして、時おり無性に聴きたくなる。
名曲でも、そんなに何度も聴きたくない、遠ざかっていても大丈夫な曲と、しばらく聴いていないと、ある日、急に聴いてみたくなる曲がございますね。

「アルルの女」は、わたしには、そんなたぐいの名曲のひとつなんですよ。
フェチ曲とはまた違う意味でね。

30分というちょうどいい具合の長さ。
簡単に味わえる異国情緒、それが陽光あふれる南フランス。
抒情と劇的な場面とのちょうどいいバランスと華々しいエンディング。
並々とこぼれ、溢れだす名旋律がくどくなく、ふと思い出すような親しみにあふれている。

こんな印象が、つかず離れずの名曲たる由縁でありましょうか

ビゼーは、37歳の早世だけれど、こうした曲やオペラ「カルメン」を聴いてしまうと、天性の劇作家という風に思う。
もう少し長く生きてくれれば、フランスのワーグナーのようになったかもしれませんねぇ。
ビゼー(1838~1875)、ワーグナー(1813~1883)、ヴェルディ(1813~1901)。

いつくかあるCDから、定番クリュイタンス、アバドやバレンボイムと並んでお気に入りなのが、サー・ネヴィル・マリナー指揮のロンドン交響楽団の演奏。

これは、素晴らしい。
ともかく、どこからどこまでも清々しく、音楽にいい風が吹き抜けている。
この風の吹き具合が実は、とてもよろしくって、うまく聴かせてやろうとか、劇的に構えたりすることがなくって、どこまでも自然体なので、受取るわたしたちにも、すっきりと爽やかな風として感じることができるのです。
 同じロンドン響を振ったアバドは、このマリナー盤の少しあとの録音。
あちらは、ビゼーの人間ドラマにまで踏む込みつつ、音の美しさを磨き上げた演奏だった(ゴッホの素晴らしいジャケット!)。
どちらの個性、それに応えるロンドン響も素晴らしいです。
 そして、アナログ録音最末期のフィリップスの名録音(78年)。
ちなみに、EMIへのアカデミーとの再録音はいけないことに、未聴なんです。

あぁ、気持ちがいい。
音楽を聴く楽しみは、こうでなくっちゃ。

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2011年7月 5日 (火)

プッチーニ 「RITOROVATO~発見」 ドミンゴ

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ひときわ、あざやかなアジサイを見つけましたよ。
ほんと、美しいです。
くそ暑いのに。

Puccini_pitrovato_domingo 

70を数えて、いまだに衰えを知らないプラシド・ドミンゴ

70年代、オペラに目覚めてから、ずっとドミンゴはともにある存在。
当時は、大物では、デル・モナコ、コレルリ、ステファーノはもう最盛期が過ぎ、モナコは事故で半ば引退、ベルゴンツィのみが踏ん張ってました。

その頃からずっとドミンゴしてる。
それの長命がすごい。
わたしはどうかと思うが、ワーグナーも制覇し、バリトンのロールや、指揮までも。
まったくすごい人。

そして、大方の役柄を歌い尽くし、未知のヴェリスモ作品も録音として残してくれるいま。
そんななかのひとつが、プッチーニ(1858~1924)の発見作品。
プッチーニは、劇作はともかく、台本の出来栄えにともかく、やたらとこだわり、そのために作者を何人も替えたり、作者と険悪になったりの生涯だった。
同じく、自身の作曲においても、いくどか試行を繰り返し、書き改めた場面・アリアも多々ある。
ゆえに、厳選された、いまあるオペラの数々が、完璧きわまりない存在となっているのでありますが、プッチーニ好きとしては、書き捨てられたオリジナルや、発表されなかった場面を聴いてみたくなるのが心情。

そんな思いを叶えてくれるのが、主としてドミンゴが歌うDGのプッチーニ「RITOROVATO」と題された1枚。
イタリア語で、「発見」だそうです。
プッチーニの権威、Michael Kayeマイケル・ケイと指揮者ヴェロネージの共同作業は、幾多のプッチーニ作品の復元をなし、その成果をドミンゴが選曲してこのCDとなった。
豪華メンバーなところが驚きでもあります。

       S:ヴィオレタ・ウルマーナ
       
       T:プラシド・ドミンゴ
 
       S:アンナマリア・デルオステ   T:アルフレッド・ニグロ
       T:セテファノ・セッコ

   アルベルト・ヴェロネージ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                      ウィーン国立歌劇場合唱団
                     (2008.@ウィーン・ムジークフェライン)


何故か、ウィーンフィル!
それもスタジオ録音であることがこの手のCDには極めてゴージャス。

トッレ・デル・ラーゴのプッチーニ音楽祭の音楽監督で、イタリア各地にオペラ指揮者として活躍するヴェロネージ氏。
東京でも指揮しているみたいだけど、全然知らなかった。
ドミンゴと組んで、プッチーニの初期オペラや、未開のヴェリスモ作品を録音しつつある、頼もしい存在なのだ。
その彼が指揮するウィーン・フィル。
たしかにウィーン・フィルの響き。
柔らかく、丸っこい音色は、強奏でも刺激的になることなく、美しく歌謡性に富み、どこまでも愛らしく響く。
ヴェルディもプッチーニも、イタリアのオーケストラ以上に、生き生きとした歌を通わせることのできるウィーンフィルは、やはりベルリンフィルともまた別次元のオーケストラだ。
ドレスデンのイタリアオペラも実は、同じようなことを感じてる。

①交響的前奏曲(1876年)

②「つばめ」~「Ed ora bevo all'amor」(1920年第2稿)

③「蝶々夫人」~「名誉を守ることができなければ」(1904年オリジナル稿)

④「エドガール」~「Sia benedetto il giorno」(1889年手稿)

⑤「エドガール」~第1幕への前奏曲(1892年稿)

⑥「マノン・レスコー」~「ただ一人、迷って」
            (一人寂しく捨てられて)(1893年オリジナル稿)
⑦「マノン・レスコー」~第3幕への前奏曲(1892年稿)

⑧「西部の娘」~「ああ、誰かあの金を盗ろうとすれば」
                        (1910年最初に出版された版)
⑨「室内オーケストラのためのアダージェット」(1881-1883年)

⑩「修道女アンジェリカ」~
   「小さな胸(茎)に数滴の毒を含んだ友の花」(1918年オリジナル稿)
⑪「つばめ」~「Parigi e la citta dei desideri」(1920年第2稿)

⑫「エドガール」~「Evviva le coppe colmate! -
               La coppa e simbol della vita」(1889年手稿)


全12曲、「蝶々さん」と「マノン・レスコー」を除いてはいずれも渋いところばかりだけれども、プッチーニ好きは、「ロンディーヌ(つばめ)」「エドガール」「アンジェリカ」を愛してやまないはずだ。

ここに聴ける初稿や書き改めの部分と、いま聴く最終出版の場面との対比は、個々にやろうとすると、それはそれはプロじゃないと手に負えません。
というか、音源で比較すれば、容易なことなれど、わたくしとしては、プッチーニの甘味かつ美しい音楽が、ウィーンの音色で滔々と聴けること、そして、好きな作品たちの、聴きなれた部分との、少し違う…的な聴き方で大満足なのです。
(ひまなときに、個々の対比をやってみたいです)

ブルックナーの交響曲を魅力を、有名作を聴いたのちに、1番、2番や6番に見出すのと同じく、プッチーニの魅力は、「ヴィッリ」、「エドガール」や「つばめ」、「西部の娘」、「三部作」などの諸作に大いに感じるようになることは、皆さん、難しくないです。
 台本との相性や、ほんの少しの霊感不足で有名作との差が出てしまった。
でも、プッチーニの輝くばかりの旋律線の美しさと、マーラーやシェーンベルクに通じる分厚いなかにも透明感あふれるオーケストレーションの見事さ。
これらの断片だけ聴いても、充分に味わえます。


実は、ドミンゴの登場は、「エドガール」と「つばめ」だけであるが、それらの味わい深い、そしてバリトーナルな深い声は、その音楽に奥行きを与えている。
ワーグナーやマーラーに親しみを持っているウルマーナの歌唱も、意外や大人しく、つつましく、好感が持てます。

オケだけの①⑤⑦⑨が、それこそ絶品。
プッチーニのオーケストラCDは、ことごとく集めて愛聴しているが、それらにはなく、微妙にことなるこのCDの演奏は、ウィーンフィルの音色とヴェロネージの鮮度高い指揮でもって、輝いております。

久しぶりのプッチーニ。
全作品、また順次聴きたくなってきた。
ワーグナーとR・シュトラウス、プッチーニは、弊ブログにて全オペラ取り上げたけれども、第二弾をやってみようかしら。

       

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2011年7月 3日 (日)

ワーグナー 「パルシファル」 ヨッフム指揮

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いまどきの野辺の花がこんな感じで集まってましたよ。

どうですか、この自然の織りなす色彩。
グリーンに黄色に青に淡い紫。

喩えは、「野のユリ」ですが、イエスは、栄華を誇ったソロモン王でさえ、その花ほどに、着飾ってはいなかった、そして、その花は働きもせず、何もしないと、諭しました。
人間の築き上げたものは、所詮栄枯盛衰、限りあるもの・・・ということにございましょう。

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ワーグナー 舞台神聖祭典劇「パルシファル」

第3幕は、聖金曜日の設定で、悪漢から聖槍を奪還し、艱難のあげく、それをもとあるべきところへ運んできたパルシファル。
そのパルシファルを称え、聖金曜日の奇跡と歌う隠者グルネマンツは、自己を苛むパルシファルに対し、野辺の花々の微笑みを歌う。

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そのパルシファルの聖者としての初の仕事は、クンドリーへの洗礼。
聖水の洗礼を受け、はらはらと涙するクンドリー。
かつて、魔性の域に住みながら、奉仕することで救いを得ようとしていたクンドリーは、ヴェーヌスであり、ヘロディアスであり、マグダラのマリアである。

クンドリーも、アンフォルタスと同じくして、永遠に救われない苦悩にあえぐ。
かつてのキリストに対する罪。前者は、キリストを嘲笑、後者はクリングゾルの毒牙にかかり溺れてしまった罪。
 二人を救うのは、「同情によって智を得た、鈍き愚者」。
それがパルシファル。

その元愚者によって救われるアンフォルタスは生き、クンドリーは最後はこと切れてしまうが、クンドリーは死による自身の救済を得たわけで、最近の演出では、死なずに、みんな最後に未来を称えたりするものもある。
わたし的には、死んで欲しいし、アンフォルタスも逝っちゃって欲しい。

いずれにしても、「パルシファル」の登場人物の中で、一番興味深いのがクンドリーなのであって、その二面性ゆえに、カラヤンなどは、ふたりの歌手で演じ分けをさせたこともあったくらい。
でも、これは無理があって、1幕と3幕は歌う個所があまりに少なく、出ずっぱりの2幕とのバランスが悪すぎるから歌手の力量の差が出過ぎてしまう危険もあって、もうそんな冒険はしないのが普通となった。
「タンホイザー」では、逆にヴェーヌスとエリーザベトを同一歌手で演じることもあって、歌手の負担は大きいが、パルシファルの場合よりも意義は大きくそちらは大賛成。

Parsifal_2a  

戦後新バイロイトの代名詞ともいえるヴィーラント・ワーグナーのパルシファルは、1951年から1973年まで続いたロングラン演出だが、クンドリー役を見てみるとその変遷がおもしろい。

クンドリー役の変遷。
マルタ・メードル→アストリッド・ヴァルナイ→レジーヌ・クレスパン→イレーネ・ダリス→
パーボ・エリクソン→ヴァルナイ→クリスタ・ルートヴィヒ→アミー・シュワルト→グィネス・ジョーンズ→ルドミュラ・ドヴォルジャコヴァ→ジャニス・マーティン

クレスパンまでは、往年の名歌手で、その後は無名で、名を残さなかった人もいて、ルートヴィヒが1年だけ(このあたりはザルツブルクのカラヤンとの絡みもありそう)で、60年代後半からの小粒化は否めないところ。
肝心のクナの正規盤が、クレスパンではなくダレスなところが残念だが、ブーレーズ盤にわたしの好きなジョーンズの名唱が残されたのは嬉しい。
このあとのクンドリーの定番は、80年代のマイヤーまで待たなくてはならない。

そして、指揮の変遷。
なんといっても、ハンス・クナッパーツブッシュの専売特許。
クレメンス・クラウスが1年振った時があるが、亡くなるまでヴィーラントのパルシファルとともにあった。
その後は、クリュイタンスとブーレーズという正反対のラテン系指揮者にゆだねられるが、最後はシュタインを経て、オイゲン・ヨッフムが受け持つことになり、このヨッフム指揮をもってヴィーラントの演出はバイロイトにおいて姿を消すこととなった。

73年の最後のパルシファルをわたしは3幕の一部のみFM録音していて、それが実はパルシファルの刷り込み演奏なのです。
そして、71年版ですが、手に入れたのがGM(ゴールデン・メロドラム)盤。
ずっと聴きたかったパルシファルのひとつ。
しかし、録音はモノラルで、フラッターノイズもあり70年代とはとうてい思えないラジカセ的サウンドでかなり残念。
それでも音自体は鮮明で、待望の「ヨッフムのパルシファル」をしっかり確認できる。

 ヨッフム71          Ⅰ(103分) Ⅱ(63分)  Ⅲ(72分)

 クナッパーツブッシュ61 Ⅰ(116分) Ⅱ(68分)  Ⅲ(73分)

 ブーレーズ70       Ⅰ( 94分) Ⅱ(59分)  Ⅲ(65分)

ご覧の通りのタイミング。
ゆったりと悠久の時間が流れるクナッパーツブッシュと、その反動ともいえるキッパリとしたブーレーズ。
その中間に位置する演奏時間からみるように、ヨッフムの穏健で堅実な音楽造りが、そのままパルシファル演奏にも反映されている。
遅からず、速からず感じたホルスト・シュタインの堅牢な演奏にタイム的には近い。

いにしえのワーグナー演奏の曖昧模糊な世界からすると、その音色は明るめでくっきりしてる。
南ドイツ出身のヨッフムのブルックナーやバッハのような暖かく、こだわりの少ないおおらかさ、そんなイメージのパルシファルでありました。
DGのマイスタージンガーもまさにそう。
良きドイツの香りや響きだけれど、それは古臭くもなく、無国籍でもない「ドイツ」。
わたしにとって、あのおいしいビールがあって、教会が真ん中にあって、郊外は森に囲まれた街がある、そんな「ドイツ」のイメージがそう。

オペラティックな雰囲気のよさもさすがのもの。
第3幕の聖金曜日の場面の音楽の高まりは、最高の感銘をもたすもので、ここばかりをかつてのエアチェックテープで聴いてきたものだから、今回、その刷り込みヨッフム盤ということで、涙ぐむほどの感動を味わった。
そして、最後のパルシファルの「役立つのはただひとつの武器」で、その最後の言葉、「öffnet den Schrein!」のSchreinを長くのばしてきれいに響くように歌わせるのは、ヨッフムの指示かも。
73年のキングの歌い方もそうだった。
これもまた、続く聖なる合唱とともに、感動的な場面であった。

 アンフォルタス:トマス・ステュワート ティトゥレル:カール・リッダーブッシュ
 グルネマンツ:フランツ・クラス    パルシファル:シャーンドル・コンヤ
 クリングゾル:ゲルト・ニーンシュテット クンドリー:ジャニス・マーティン
 聖杯守護の騎士:ヘリベルト・シュタインバッハ、ヘインツ・フェルドホフ
 小姓:エリザベス・シュヴァルツェンベルク、ジークリンデ・ワーグナー
     ハルトマン-グニフェク   ハインツ・ツェドニク
 花の乙女:ハンネローレ・ボーデ、エリザベス・フォルクマン
        インゲル・パウスティアン、ドロテア・ジーベルト
        ウェンディ・ファイン、ジークリンデ・ワーグナー
 アルト独唱:マルガ・ヘーフゲン

   オイゲン・ヨッフム指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                  バイロイト祝祭合唱団
      合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ
      演出:ヴィーラント・ワーグナー
      演出補:ハンス・ペーター・レーマン
                (1971.7.24@バイロイト)

                 
70年代を代表する歌手たち。
多国籍な顔ぶれもバイロイトならではで、いずれの歌手たちも、ワーグナー歌手として、数々の録音に登場してます。
小粒感は否めないが、美声と豊かな表現力は、50~60年代の個性豊かな歌手たちとは異なるもの。
ステュワート、リッダーブッシュ、クラス、ニーンシュテットの低音4人が、そうして素晴らしい。
クラスのみが、存命だけど、早くに引退してしまったこのなめらかで若々しい歌声のバスは、私はかなり好き。
コンヤのパルシファルは、硬質で生真面目な印象が同情により目覚めた後半以降がよろしい。アンフォーールターースの一声は目覚めの一発、強力です。
おバカさんを演じるには、今夜(コンヤ)は難しい。
J・マーティンは、声域が広く、マイヤーと同じく、ジークリンデやイゾルデも歌えるソプラノ・メゾで、なかなか若々しく女性的ながら、やや大味で、高音が少し耳につく。
ちゃんとした録音では、このあたりは解消されそうで残念でありますが。
端役に、大ベテランや後に活躍する歌手の名を見出すのもバイロイトならでは。

66年に亡くなってしまったヴィーラントの意匠を引き継いだのは、ペーター・レーマンとハンス・ホッター。
かつての抽象的演出がむしろ想像力豊かで、音楽に没頭できて、懐かしい。
ヴィーラント演出の映像は、そのさわりくらいしか見ることができないけれど、73年のパルシファル最終公演のオルフェオによる音源化を切に望みます。
アダム、キング、マッキンタイアらが出てました。

今月は、いよいよ、バイロイト音楽祭の開幕。
文字通り、汗だくでネット中継を待ち受けましょう。

リングのない今年、オランダ人以外の作品が上演される。
そして、今年の新演出は、セヴァスティアン・バウンガルテンSebastian Baumgartenという若い人で、ベルクハウスやウィルソンのアシスタントを務めて学び、近時ドイツ系の劇場で徐々に名を上げてきている人。
こんな人→Baumgarten1
今回も過激(奇抜?おもしろ?)になるのでしょうか?
 そして、指揮は古楽もなすヘンゲルブロックなところが最大の楽しみ!
歌手も初登場の旬の人ばかり。
ウォルフガンク亡きバイロイトは、新鮮な実験劇場的な様相を取り戻しつつあるのだろうか?

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2011年7月 2日 (土)

神奈川フィルハーモニー お願いランキング

Onegai_runking

ワーグナーマーラーに続いて、お願いランキング第3弾をやります。
(テレ朝サイトより拝借の図)

萌え燃え戦士たちのお願い聞いて!

神奈川フィルハーモニー・バージョンだよnote

萌えっーーー、っの彼女たちが、神奈川フィルハーモニーで聴きたい曲を10傑選ぶわよっscissors

Kanaphill_2011

神奈川フィルハーモニーを聴きだして、そんなに長くはないけれど、ずっと昔から聴いてきたような気がする。
1970年創立。わたしのクラシック歴と、ほぼ同じくらいの歴史。
神奈川に育ちつつも、成人後、神奈川を出てしまったわたくしの、後悔のいくつかのひとつが、神奈フィルと、もっと早くに出会い、応援してこなかったこと・・・。

ブログを始めて、そのおかげでお勧めいただき、以来ぞっこんとなった神奈川フィル。
郷土意識と、それに加えて、予想外に素晴らしいオーケストラとの出会い。
ドイツ魂とそれをも飲みこみ、美しい音に収斂してしまう独特の個性。
それは、現田、シュナイトという、名伯楽にも開眼するということの裏返しだった。
オケにとっては、辛口だったシュナイト翁の持つ、奥深いヨーロッパの伝統。
それに加え、現田さんの、オペラの呼吸。互いの音楽を聴きつつ築く共同作業。
そして、明るい輝かしいサウンドの構築。

そんな個性を殺さずに、先端マーラーの真髄をさりげなく聴かせてくれた聖響さん。

じつに、いい流れです。

でも、個性ある響きゆえに、絶対に聴いてみたい音楽を、頭のなかに思い浮かべることができます。
そんな私のランキングです。
私の嗜好が第一に反映されてますのであしからず、です。

また、これまで聴いて、堪能してしまった曲は除きました。
でも、それらも何度も聴きたいっす。
一例をあげれば、マーラーのすべて、ラフマニノフの第2交響曲、チャイコの5番、ブラームスとシューマンのすべて、新世界、幻想、エルガーの交響曲、グリーグ、プッチーニ・・・などなど。

以下、指揮者はというと、ご想像にお任せします。

 ①マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」

 ②ワーグナー 「ニーベルングの指環」オケ版

 ③ツェムリンスキー 「人魚姫」

 ④コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲(Vn:石田泰尚)

 ⑤ホルスト   「惑星」

 ⑥スメタナ   「我が祖国」

 ⑦R・シュトラウス 「アルプス交響曲」(または家庭交響曲)

 ⑧メシアン   「トーランガリラ交響曲」

 ⑨モーツァルト 「ポストホルン」デレナーデ

 ⑩レスピーギ  「ローマ三部作」


以上が10傑。

でもずるいワタクシ、もう少し追加。

 「ショスタコーヴィチ4・6・15番」、「シェーンベルク ペレアスと浄夜」、「ペトルーシカ」、「メリー・ウィドー」、「シベリウス1番」、「ベルクとバーバーのヴァイオリン協奏曲(石田さん)」、「ドヴォルザーク 8番とチェロ協奏曲(当然に山本さん)」、スクリャービン「法悦の詩」、「アルルの女(わたしは聴いてない)」、「ラヴェルのすべて」・・・。

もっとありますが、聴衆をつなぎとめるにも、このあたりが限界。

名曲路線と、うまく組み合わせて、その持ち味を発揮して、クラヲタ君の気持ちにも応えて欲しいと思います。

お客さんの入りに直結する収入。
冒険は辛いし、決しずらいと存じます。
でも、在京オケでは、ある意味普通に聴ける曲でもあります。
冒険ではなく、いまの音楽ファンの嗜好でもあるとも思います。

神奈川フィルの持ち味は、競争厳しい在京オケに比べて、遜色ないものですから、東京オケに向かうファンを獲得することが必須。
そのためにも、コアなファンを定着させることが大事だと思いますし、その上に、名曲やソリストに魅かれるファンを加えてゆけばよろしいかと存じますが、いかがかと。

ともかく、神奈川フィルハーモニーを聴きましょう!
きっと、あなたは虜になってしまうでしょう!

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2011年7月 1日 (金)

スーク 「アスラエル交響曲」 ノイマン指揮

Tomyankun1

スーパーで、その素が売っているので、買ってきて制作してみました。

「トムヤンクン」スープです。
パクチーが苦手なので、青物がなく、見栄え悪いです。

暑苦しい日にこそ、汗みどろになりながら、食す、アジアの一品。

クセになる、トムとヤムとクム。

Tomyankun2

残ったトムヤンクンに、具材をあらたに投入して、ナンプラーもさらに増し、生クリームも増やして、「トムヤンクンラーメン」の出来上がり。

これ、マジ、うまいヨ。

アジアの食も熱いヨ。

Suk_asrael_sym_neumann

アジアめしには、まったく関係なけれど、一度味わうと、探求したくなり、はまってしまう音楽。
わたしにとって、そんな類の存在となりつつある、チェコの作曲家ヨゼフ・スーク(1874~1935)。

世紀末作曲家と数えていいスーク。
ドヴォルザークの娘婿にして、名前をついだおなじみのヴァイオリニストの祖父。

敬愛する偉大な義父のもとに、国民楽派てきな音楽を書き続けたスークだが、今回の「アスラエル交響曲」あたりを境に、グッとその時代に密着した先端音楽に舵を切り替えた。
以前より書いてますが、マーラー、シュトラウス、シェーンベルク、ドビュッシー、ディーリアス、ツェムリンスキーなどに類する曲調。
そして、わたしに耳には、アーノルド・バックスの大自然をシャープに捉えた音楽にも通じて聴こえる。
 ともかく、そちらのたぐいの音楽には、むちゃくちゃ嬉しくなってしまうワタクシです。

これまで、弊ブログでは、来年のバイロイトリングと、K・ナガノ後のバイエルンを任された、キリル・ペトレンコの指揮による2枚を取り上げてきました。

そして、今回、チェコの大家、ヴァーツラフ・ノイマンチェコフィルハーモニーによるスークを取り上げることとなりました。
まさに本場の演奏。
でも、音楽はドヴォルザークの延長ではなくって、マーラーの延長として捉えられたスーク演奏。

「アスラエル交響曲」は、1906年の作品で、スーク32歳。5楽章からなる大きな曲。

この交響曲は、スークにとって先に記したとおり音楽的なターニングポイントになったが、それ以上に、そしてそれと不可分に、自身の境遇に巨大な出来事がふりかかった。

義父ドヴォルザークの死が1904年。
そこで一念発起して、大交響曲を書くべくとりかかったのが、この作品。
そして、1905年、愛妻、すなわちドヴォルザークの娘オティリエが急逝してしまう。
1898年に結婚したばかりで、若い妻を亡くしてしまったスークの相次ぐ悲しみへの落胆ぶりは大きく、3楽章までを完成していた、この交響曲に「アスラエル」という題名をつけることとなった。
その意味は、「死者の霊にともにある天使」のこといをいうそうであります。

だから、4楽章の深い抒情に彩られた美しさと悲しみを感じさせる音楽は絶品で、濡れたようなヴァイオリンソロが素晴らしい。単独でも、ときおり聴いている楽章です。
 義父の死を悼んでの前半は、宿命的な運命が厳しく描かれ、第1楽章では、そんな中にも懐かしいフレーズや自然賛歌も歌われる。
幻想風な葬送の音楽、第2楽章は月の明かりを感じさせる義父の「ルサルカ」のように感じたし、葬送の淡々としたところは、ショスタコみたいに無感情だったりする。
 「死の舞踏と甘味な追憶」とされた3楽章はスケルツォ。
そして、愛妻の死の悲しみを思いつつ書いた4楽章に続く、終楽章は、ティンパニの意を決したかのような連打で始まり、現実を受け止め、前に向かわんとする意思力と、不思議な明るさをもたらせつつ静かに大曲を閉じる。

充実の50分あまりの大交響曲。
何度聴いても、まだ全貌は測りがたいものがあるが、私には尽きせぬ魅力をもって迫ってくる音楽。
マーラーの死の前の作品。

ノイマンとチェコフィル
渋さとオーケストラのふくよかな美音が、スークの世紀末ムードにぴったりで、ウィーンやベルリンとも違った一流のマーラーオケであることに納得できる。
ノイマンの柔軟な指揮ぶりと、時に鋭さを持ち合わせるところは、すすがのもの。
鋭利さと、大人の味わい深さのノイマンです。



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