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2011年8月

2011年8月31日 (水)

「夏の音楽」~ディーリアスほか

Haneda_sky

夏の空。

今日で8月もおしまい。

明日から9月ですよ。
早いですねぇ。
台風来ちゃうし、地震も日々あるし、そして暑いし・・・・。
政治も変動しっぱなしだし。

まったく落ち着きならない「夏」でございました。

Haneda_sky2

羽田空港から飛び立つ飛行機。
こちらは、JAL側第1旅客ターミナル。

皆さまは、この夏、旅をされましたか?

わたしは、今年もナシ。
近い実家に帰っただけ。
でも一番の休息なんです。

実家の風呂に、ヒグラシの鳴き声を聴きながら入って、出たら「ビールもらおか」と言って、胡瓜や谷中生姜を金山時味噌なんぞを付けてツマミにしながら、グィ~っと一杯あおる。
幸せの一字。

Summer

8月の終わりに、夏の音楽を集めた1枚を。

朝晩は、風も涼しく、本当に心地よくなってきました。
お盆を過ぎるとてきめんに風が変わる。
四季の移り変わりのひとコマ。

温暖化が進むなか、日本の四季の区分はまだしっかりあります。
こればっかりは、なきゃ困る。
日本の風土、日本人の気質をはぐくんできた4つの季節ですからね。

欧米にも濃淡ありますが、夏はしっかりあります。

いろんな素敵な音楽が残されてますな。

1.「夏は来たりぬ」14世紀カノン
    セント・ジョージ・カンツォーナ

2.ヴィヴァルディ 「夏」 四季より
    J・L・ガルシア イギリス室内管

3.ディーリアス  「夏の歌」
    ヒューズ指揮フィルハーモニアO.

4.コーツ  「夏の歌」
         B・R・クック(バリトン)

5.ガーシュイン 「サマー・タイム」
    ウェイ(ヴァイオリン)

6.プロコフィエフ  「夏の日」
    ホセ・セレブリエール指揮スコテッシュ・チェンバーO.

7.ロドリーゴ    「夏の協奏曲」(ヴァイオリン協奏曲)
    M・グッドマン(ヴァイオリン) セレブリエール指揮RPO

8.ベネット     「夏の音楽」
    ケネス・スミス(フルート)

9.リード  「Victorian Kitchen Garden Suite」~「夏」
    エンマ・ジョンソン(クラリネット) S・カンガ(ハープ)


英国のレーベルだから、イギリスものを核にすえ英国系の演奏家たちで固めた各国の夏の音楽。

なんといっても、わたしの大好きなディーリアス「夏の歌」が素晴らしい音楽だ。
夏に、この音楽をこれまで何度聴いてきたかわからない。
手に入る演奏はほぼ聴いてきた。
ヒース茂る海を見渡す高い断崖から見る壮絶な夕暮れ。
そんな光景を思い浮かべながら。
そして、実家のかつて音響設備があった自室から、夕闇に染まってゆく富士の頭を眺めながら聴くディーリアスの音楽の数々。
「高い丘の歌」とならんで、一番大好きなディーリアスの音楽。
フィルハーモニアのノーブルな音色がいい。

中世の有名なカノンや、おなじみの赤毛の司祭の「夏」。
物憂いガーシュイン、少しクールで愛らしいプロコフィエフの短い組曲。
スペイン・中南米チックなロドリーゴのヴァイオリン協奏曲。
フルート好きなら聴いたことあるベネットの小組曲に、最後は涼しげなクラリネットとハープのデュオ。
 そして、このCDのなかばにある、コーツ「夏の歌」が印象深かった。
ライト・ミュージックの大家、エリック・コーツの歌曲なんて、はじめて聴いた。
短いけれど、これがまた実に素敵な歌なのでした。
シンプルで優しげなメロディラインは、とても親しみやすく、そしてちょっぴりシャイな雰囲気。英国独特の軽めのバリトンによる歌唱もいかにも相応しいものでした。

というわけで、本日は、カレンダー上、行く夏を惜しんで「夏の音楽」で8月にお別れをしてみました。
明日から、新学期の学生さんも多いでしょう。
気分一新、いきましょう!


  

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2011年8月28日 (日)

ワーグナー 「ローエングリン」 バイロイト2011

Lo_a

バイロイトにおける「ローエングリン」のパブリック・ビューイング。
気持ちよさそうですな。
ビールなんか飲みながら、あの、ねずみ王国のローエングリンを楽しむなんてね。

NHKで生放送されたものも、録画も観ることもできなかったけれど、オンデマンド放送をお教えいただき、無事観劇することができました。

今日の記事は画像多めの長文です。

第1幕

Lo_2011a

夢幻的な前奏曲の流れるなか、ローエングリンは閉鎖空間から出ようともがいている。
エルザの夢の中なのか、モンサルヴァートの古い世界の中なのか・・・。

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告発を受けたエルザは、背中に矢を射られてしまっている。
主要登場人物以外は、みんな「ねずみ」。
これがまぁ、よく出来てる。
手もネズミ手袋つけてるし、足もそうだし、立派な尻尾もうまく床にペタリと付くようになってる。
最初はあまりに奇妙だけれど、慣れるとその仕草が可愛く思えてくる。

王様は、威厳がまったくなく、終始おどおどしていて、カップルがいちゃつくのを粗末なプランターごしにのぞき見したりしちゃうし、ローエングリンとテルラムントの戦いの場を作るときも、コケたりしちゃう(笑)。
スポークスマンの式武官の方がしっかりして見える。
某官房長官か。

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ローエングリン登場の場になると、ねずみさんたちは、ネズミ衣裳を尻尾つきのまま大急ぎで脱いでしまう。

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ローエングリンを運んできた、というかローエングリンが従えてきたのは、棺桶のようなものに入った白鳥のレプリカ。
天井にはネズミの尻尾。

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ねずみだった連中が帽子をとると、ほれ、ご覧の通り、カトちゃんでしたよ。。。

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最後は、上から毛むしられた白鳥が降りてきて、王様、ご覧の通りの驚きぶりで、幕。

第2幕

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闇(悪)の世界の第2幕前半。
ネズミたちが、泥棒したり、盗んだ金を数えたりしてる、ほんとの悪い連中をあえてわかりやすく。去年のこの場面での客席の笑い声が、ようやくわかった(笑)

「夜が明けたら・・・」、普通は朝ですが、この人たちには朝は来ない闇の住人。
ペトラ・ラングとトマッソンのご夫婦。ド迫力でございます。

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情に絆されて優しく歌うエルザの後ろでは、オルトルートは白鳥の置物に馬乗りになっていたぶってますよ。

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聖堂への入場を祝う人々、いや、ねずみたち。
カラフルなもんだ。
でも頭はカトちゃんだけど。

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う~ん、君の尻尾は素敵だねぇ・・じゃねぇっちゅうの。
台詞とやってることがまったくそぐわない、笑い誘うローエングリン。

 

Lo_2a

 

清楚な白の白鳥のようなドレス。
手には、もしかしたら毛むしられた白鳥の羽の扇子。

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一方、黒のオルトルートは、ついに本性あらわし、エルザにくってかかる。
こわぁ~

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こうして、エルザにむりやりチュウして、疑いの毒を注入完了。

Lo_2d

ごらぁーー、てめぇ、エルザになにしてやがんだ。
とすごむローエングリン。

Lo_2e

こうして、ネズミと左右の悪いご夫婦に見送られて祭壇を進むローエングリンとエルザ。

Lo_2f

尻尾はこんなんです。ふふっ。

Lo_2g

ところが、祭壇の十字架は、ガスマスクをつけた実験君みたいな作業員に壊されてしまうのであります。
この連中、始終出てきて、ネズミをとっ捕まえたり、悪の夫婦をしょっ引いたりと、このドラマに影の支配者がいることを匂わせるよな存在なのであります。

Lo2011b

ローエングリンは、その十字架を奪い返し、自ら十字を造りかかげます。
エルザは気持ちがもうどこかへいってしまったようで、まるで白鳥のような仕草をしたりするのでありました・・・・。

第3幕

Lo_3a

結婚行進曲は、ノリが良くて、ピンクちゃんも加わって踊ってます。
演奏もこんなリズミカルで弾んだ結婚行進曲は初めて。

Lo2011c


ネズミの間をにこやかに進むふたりは純白。

Lo_3c

ベッドルームでは、エルザの禁断の問いへの準備が着々と整ってゆく。
トドメは、白鳥のお迎えの幻影。
ベッドの間から、棺桶とその中には、むしられた羽。
忽然と出てきて、整然と戻ってゆき、ベッドはもとのまま。
すごいマシーンです。

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ネズミに扮したテルラムントの急襲を受け撃退。
そして、エルザよ、何てこと言ってくれたのよ!

あら、言っちゃった・・・のエルザ。

Lo_3g

こうして、スクリーンによるこれまた具象的かつ笑えるネズミ映像もふんだん。

ネズミ軍団の大群は、ちょっとキモイ漫画映像。

国王による軍への叱咤激励だけど、やはり頼りなく、走り疲れて、骨になっちゃって、その骨も朽ちてボロボロに。。。。。

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喪に服したかのようなエルザ。
そして後ろにはカトちゃん。

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そうです、ネズミたちはその頭部を外して、それらをピストルで撃っちゃうんです。
ネズミと自ら決裂か・・・・。

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ローエングリンの衣裳も黒っぽくなりました。

いよいよグラールの物語ですな。
そして後ろには、カトちゃん。

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フォークト・ローエングリンかっこええですな。
バイロイトのローエングリンの歴史に名を残すフォークトの名唱となりました。

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エルザは服を脱いじゃうし、ざまぁみろ、とばかり出てきたオルトルートは、こんどは白い衣裳となって入れ替わり。
しかも、そのお化粧の半端なくすごいこと。

わたし、こんな指環が欲しかったの・・・・、とエルザは白鳥の迎えが来た悲しみのローエングリンをほったらかし。
ローエングリンの遺品をそそくさと頂戴して足元に。

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白鳥の絵のついた卵のかたちの中からは、これまたキモイ胎児が臍の緒を引きちぎりながら出てくる。
つくりものかと思ったら、女の子かなにかが被りもので演じてるからリアルに動くんですよう・・・。なにもそこまで・・・。

ブラバント公の出現とともに、全員ぶっ倒れて、ローエングリンのみが舞台前面に歩みを進めて幕となるが、指揮者ネルソンスによってかなり引っ張られる最後の和音が鳴り終わっても、ローエングリンは歩みを止めず、幕も降りないからしばらく拍手はなし。。。

              

 

 ローエングリン:クラウス・フローリアン・フォークト
 エルザ:アンネッテ・ダッシュ
 テルラムント:トマス・トマッソン   
 オルトルート:ペトラ・ラング
 ハインリヒ:ゲオルク・ゼッペンフェルト 
 式武官:サミュエル・ユン
 そのほか

   演出:ハンス・ノイエンフェルス
  
  アンドリス・ネルソンス指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
                合唱指揮:エーベルハルト・フリードリヒ
                    (2011.8.14 @バイロイト)


お騒がせノイエンフェルスの演出に何を読めばいいのだろうか?
パロデイの権化と化したノイエンフェルス演出。
何度も気になるところは確認したけれど、細部にこだわって観ると全体像がつかめないし、さりとて細部がとても巧妙に演出されていて、歌手の表情ひとつひとつにも意味があるようで、はたまたないのか・・・・・。
 わたしには、まったく読み解けないし、オンデマンドではインタビューやドキュメントが欠落していたのでさっぱりわからない。
だから、気になった点だけを羅列しときます。

①「ローエングリンはどこから来て、どこへ去ってゆくのか」
  閉鎖空間から抜け出そうともがき、あらわれたのがネズミと正邪の世界。
  ネズミを解放したのか?
  いや、あらゆる人を不幸にしてしまったのか?
  最後は、通常、悲しい背中を見せて去るローエングリンが、ここでは舞台前面、
  観客に向かって進んでくる。その顔は無表情。

②「神聖・威厳・地位・伝説の徹底軽視」
  輝かしい甲冑姿と剣と楯はローエングリンにはなく手ぶらの白シャツの兄さん。
  剣と楯は、事前に準備されていて軽々しい。
  王様の軽さは前述のとおり。
  歌われる言葉と、人物の言動の乖離が激しい。
  フリーターのようなローエングリンからは、聖杯王の息子は想像できない。

③「正と邪の対比」
  これまでのどの演出がそうであったように、ローエングリンとエルザは白系の衣装。
  テルラムントとオルトルートはグレー~黒系の衣装。
  ところが、3幕においては、その衣装カラーが逆転。
  エルザにおいては喪服。
  エルザに禁断の問いをさせることによって、正邪というより勝者敗者の立場が逆転。
  ところがノイエンフェルスのパロディは、オルトルートに白いドレスを単純に纏わせる
  ばかりでなく、2幕のエルザの白鳥ドレスならぬ、わたしには、アヒルのコスプレに
  見えた。がに股で、カールした長いまつげ。これはいったい?

④「ブラバントの後継者」
  呪縛が解けた弟は、少年として舞台奥から飛び出してくるのが通常。
  しかし、あれですよ、今回は卵から出てきた胎児。
  なんで胎児やねん。
  みんな死んじまって、再生か?
   ローエングリンは、また違うステージ(世界)へと旅立つ・・・・か?

⑤「すっきりステージ」
  いろんなものが登場するけれど、舞台背景はすっきりと、メタリックでモノトーン。
  簡潔なものです。
  画像で見る限り、今年の「タンホイザー」や、前回の「パルシファル」は舞台中
  ごちゃごちゃ。
 (そういえば、シュルヘンジーフは去年、亡くなってるんですねぇ)

⑥「ねずみ社会」
  もっとも目を引いた奇抜な存在。
    着ぐるみ系を多用するノイエンフェルスだけど、バイロイトでネズミ出しちゃうところが。
  ブラバント国の一般市民がねずみ。
  そして、それを管理したり駆除したりする謎の実験君たち。
  人間個性を失いちょこまかするネズミたちが歌うワーグナーの台詞は、空しいまでに
  かみ合わず、皮肉の極み。
  ローエングリンの登場のたびに、頭を脱いだり、手や足が戻ったりで、それが彼の
  影響なのかどうかもさっぱりわからない。
  昨年は「ハーメルンの笛吹き男」かとも思った。
  ネズミ退治(解放)に来た男が、市民から裏切られ復讐しちゃうという・・・・。
   でも、違うんだよなぁ。
  ネズミである必然性がまったくなく感じる。
  わかりません。

まだまだ謎はあるけれど、書き切れないし、そもそも理解を超えているので、この辺でオシマイ。
昨今の演出は、感じたままを受けとめればいいと思うくらいでないと、演出家の趣味趣向に惑わされて終わってしまう。
 音楽の本筋を邪魔していないだけ、このローエングリンはましだったかもしれない。
初めて、その舞台に接する方も、それなりに楽しめたかもしれないが、やはりト書きに忠実な普通の舞台をまず観ることを望みたい。
劇場で、こんな舞台しか観れなくなってしまったら、オペラはオペラじゃなくなっちゃう。
 
 演奏については、申し分ない出来栄え。
ネルソンスの活気あふれる演奏はなかなか堂に入ったもの。
そしてフォークトは、コロ、ホフマンと続いた70年代以降のローエングリンに並んだのではないだろうか。
アンネッテ・ダッシュの強い声も素晴らしい。
ほかの歌手も素敵なものです。


          Neko1_2 どうせなら猫も。     

 

 

妙に可愛いネズミたち、映像で少しだけ確認できます。

 

 

しわがれ声のノイエンフェルスのインタビュー。
2010年のカウフマンの声は、フォークトと驚くほど異なる野太いもの。
アンネンッテ・エルザとのマッチングは、フォークトに軍配。

Lo_b

先のライブビューイングは、ご覧のとおり、大雨。
ドイツでも天候不順なんですな。
ネズミの大粒の涙か。。。。

本日の記事、長過ぎ、他サイトの引用多めであいすいません。

 

 

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2011年8月27日 (土)

ワーグナー 管弦楽曲集 ショルティ&シカゴ

Namashirasu_1

生しらすで一杯。
生姜醤油でいただきましょう。

お盆に神奈川の家に帰ったとき、スーパーで普通に売っていたものです。
小田原で揚がったもの。
お値段、なんと189円。
海の恵みを、実家に帰ったときほど感謝したくなる時はありませんよ。

お酒は、秦野の地酒「白笹つづみ~弘法山」。
丹沢山系の美しい水が湧く秦野は、お酒や蕎麦がおいしい。
ついでにラーメンもおいしい。
「なんつッ亭」の本店もあります。

Namashirasu_2

つぶらな瞳で見つめられるけれど、一気にすくって食べちゃう。
甘くて食感もよし。
爽やかな生しらす。
キリリと冷えた辛口の日本酒にぴったりでした。

Wagner_solti

さわやかさとは遠い、いや、こってり濃厚じゃないけれど、音楽演奏という行為の行きついた先のひとつが、ショルティシカゴ響

野放図なまでの音の洪水に、ただただ感心し、果てをも知らぬ威力みなぎるオーケストラの底力に平伏するのみ。
ワーグナーなものだから、よけいに感じるスゴさ。
一曲一曲、どこもかしこもそう。
これが長大なオペラだったら、ちょっと辛いかもしれん。
実際、彼らの「オランダ人」全曲は、あっけらかんとしすぎていて、暗い宿命や闇の部分がなおざりにされた感があって、わたしのファーストチョイスにはならない演奏。
「マイスタージンガー」は、敬遠中。

ということで、ショルティのワーグナーは、ウィーンフィルあってのものと思っていて、シカゴとのものは少し距離を置いてます。
というか、オペラ全曲がふたつと、この管弦楽曲集のみだけど。

 1.「さまよえるオランダ人」序曲
 2.「タンホイザー」序曲
 3.「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
 4.「トリスタンとイソルデ」前奏曲と愛の死

   サー・ゲオルク・ショルティ指揮 シカゴ交響楽団
               (1972~77年 @シカゴ)


うますぎるし、輝かしいばかりの明るさはテカテカとしすぎていて、陰りが少ない。
特に神妙にふるまいつつも、それを強く感じてしまう「トリスタン」は健康的にすぎる。
同じシカゴを指揮したバレンボイム盤は、粘りと不思議な複雑さがあって妙によかった。
 よりオペラのベテランで、ヨーロッパでたたきあげのショルティ。
シカゴという強力な武器を得て、ザッハリヒなショルティはその機能と万能性を大いに気に入り、アメリカの新天地で新境地を築き上げた。

ショルティ&シカゴを聴くとき、どうしてもその威圧的な音響と、鳴りのよすぎるデッカ録音もあって、こんな風な印象の書き方になってしまう。
でも、ここにある完璧なまでのスコアの再現音楽。
カラヤンのような色やうねりがなく、そこにあるのはワーグナーのスコアのみ。
ただそれが、一部の隙もなく明快なだけなのだ。

そんな風に聴いた今日のワーグナーは、しばらくぶりだったし、このところバイロイトのスリムなワーグナーばかりを聴いてたものだから、やたらと耳のご馳走だった。

試みに、ショルティがウィーンフィルを指揮したワーグナー集も聴いてみた。
やはり、あちらはオペラのオーケストラ。
ショルティも一筋縄じゃいかないから、手綱を緩めてるからオケの持ち味が滲みでてる。

どちらも、ワーグナー。

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2011年8月24日 (水)

チャイコフスキー 交響曲第4番 バーンスタイン指揮

Yasukuni_1

まるで、ヨーロッパの大きな庭園に続くかのような通路。

でも、これ靖国神社なんです。

社会人になった頃は、会社が九段下にあって、靖国神社はすぐそば。
7月の御霊祭は終業後よくいったものだ。
今や信じられないことだけど、出し物小屋が出て、お化け屋敷もどきの「ろくろ首」や「蛇女」なんて、怪しくもまがまがしい昭和の看板が溢れておりましたね。

九段下・竹橋・神保町・飯田橋あたりが、若い頃の根城でございました。
ちょっと路地入るとレトロな店がたくさんありましたよ。
映画館もありましたねぇ~
いまや絶滅に瀕してます。

Yasukuni

その先に立つのが「大村益次郎」の像。

日本の陸軍の創設者ということで、ここに立ってるのだけれども、わたしは、そんな強面の益次郎よりは、半農半医のように若い頃を育った「村田蔵六」としての、医師、蘭学者、兵学者としての存在の方が好きだ。

長州の村田蔵六を主人公にした、司馬遼太郎の「花神」を大河ドラマで観たのは、1977年。大学生になったばかり。
長州・薩摩・土佐・幕府・新撰組・会津・・・、それらの相関図がこのドラマでとてもよく理解できた。
眉毛を濃く太くした中村梅乃助の名演技。恋仲のシーボルトの娘イネの浅丘ルリ子。
高杉晋作の中村雅俊、吉田松陰の篠田三郎、山県有朋の西田敏行・・・・。
ともかくいまにして思えば名優たちが、幕末の個性ゆかたかな人物像を鮮やかに演じてました。

音楽も、いまだに脳裏に残る素晴らしいものでして、林光の作曲、山田一雄指揮のN響のものでした。
懐かしい名作でございます。
ついてに申さば、「勝海舟」と「翔ぶがごとく」、「徳川慶喜」あたりが大河ドラマ幕末ものの大名作でございましょう。
いずれも男のドラマでしたので、女性の方々からは異論もございましょうが・・・・。

昔話が得意なもので、お若い方、あいすいませんねぇ。

Tchaikovsky_sym_4_bernstein

チャイコフスキー交響曲第4番レナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルハーモニックの演奏で。

1989年10月の録音。
聴く前からイメージできる濃厚・情念むき出しのバーンスタインの晩年様式で埋め尽くされた演奏。
冒頭のホルンの咆哮からして、ためにためた思い入れ強いもの。
しかし、同時に早いところは普通か、むしろ早く、遅いところを遅く、フレーズの橋渡しも入念にじっくりと・・・・、そうしたことで全体がねっとりと仕上がる一方、スピード感にも欠けていないので、聴いていて辟易とせず、思わぬ興奮状態に巻き込まれることとなる。

1楽章の終結部のものすごいアッチェランドと最後にいたる大見栄。
終楽章の興奮・酩酊状態のやぶれかぶれ戦法。
レニーの面目躍如たる場面。

そしてその半面が2楽章に12分もかけた耽美的かつ情熱的な2楽章。
通常9分ぐらいのこの楽章です。
オケも大変です。

ちなみに、この曲で割とじっくり型のハイティンク盤とのタイム比較

               Ⅰ    Ⅱ    Ⅲ    Ⅳ    
 ハイティンク      18分  9分   5分   8分   約40分

 バーンスタイン     21分 12分   6分   9分   約48分

こんな感じです。
ヤンソンスの若い頃の演奏は38分くらいだった。
通常は40~42分くらいの長さだから、バーンスタインは異常に長い。
もっとすごいのが同じDGへの「悲愴」ですな。
 でも聴いてると、独特の陶酔感あるムードに飲まれてしまって48分という長さは感じることはない。
アゴーギグが巧みなのと、ものすごい熱狂の渦が待っているし、それを期待しているから、少し奇矯でも全体を取り戻せるから・・・、バーンスタインならではです。

マーラーを代表格に、80年代以降は、音楽をバーンスタイン側に引き寄せすぎてしまい、作曲者の言葉より、バーンスタインの言葉の方が聴こえ過ぎてしまった感がある。
でも、わかってはいてもいいものである。
いいものであった。
また暑くなってきたこの8月の終わりに、バーンスタインに引きずりまわされ、翻弄され、でも最後は、Oh!レニー!とニンマリ思わざるをえなかった。

レニーのチャイコフスキー4番は、同じNYPOで、あと2つ録音があるはず。
58年と70年のCBS盤。
あともしかしたらニューヨークスタジアム響とのごく若いものも、あったような・・・。
そのうち、70年録音はFM録音そして何度も聴いていた。
これが実は覇気に満ちた爽快な演奏だった。
是非復刻してもらいたい1枚であります。

そりゃそうと、4番はたまに聴くとむちゃくちゃ面白い曲ですわ。
わたしの愛聴盤は、あと先にあげたハイティンク、アバド(ウィーン盤)、プレヴィン、小澤などのスマートなヨーロピアン系が多いですな。

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2011年8月20日 (土)

ドビュッシー 「海」 カンブルラン指揮

Kanazawa

ある年の夏の終わりの海。

われながら、完璧な構図に思います(自慢しちゃってますな)。

空と渚と夕日の微妙な雰囲気。

わたしは、こんな詩的な構図が大好きなのです。

こんな景色を眺望すると、いつも脳裏にはそれに応じた音楽が鳴り響きます。
ディーリアスやグリーグ、バックス、シベリウス、ドビュッシーなどなど。

Debussy_cambreling

ドビュッシー交響詩「海」。

日本の浮世絵からインスパイアされた海の情景の音楽。
その音楽に、わたしたち日本人は、どれだけ印象派という、曖昧で、そこはかとない雰囲気を感じ、同感してきただろうか。
ワーグナーに感化された時期も経て、絵画をはじめとするフランス印象派芸術の流れを音楽面で実現化したドビュッシー。

そのドビュッシーの作り上げた音楽の世界が、濃淡は濃い目で克明に、交わりは微妙に薄く、かつドラマテックな具合があざやかに・・・・・、こんな具合にオーケストラによって描き尽されるのを今日のCDほど明確に聴くことはないかも。

シルヴァン・カンブルラン指揮の南西ドイツ放送交響楽団による、ドビュッシー・チクルスのなかの1枚。

読響の指揮者になってからのカンブルランは、実はまだ聴いたことがないのだけれど、フランクフルト時代やバーデンバーデン(南西ドイツ)の指揮者として、FM放送では、すっかりおなじみだったし、モルティエ治世下のザルツブルクの影の音楽監督としての存在には、ずっと気になっていた人。
近現代ものやオペラが大得意のカンブルランは、作曲をしない同じフランス人のブーレーズみたいな存在として感じていて、近代フランスものから、後期ロマン派、新ウィーン楽派を中心レパートリーとする、そのプログラミングがはなはだ魅力的な指揮者なのです。

ともかく音がはっきりした「海」。
ドイツの機能的な放送オーケストラなものだからよけいにそう感じる。
ロスバウトやブール、そしてギーレン。
歴代ツワモノ指揮者たちがつとめた南西ドイツ放送響(いまは、バーデンバーデン・フライブルクSWR交響楽団というピンとしない名前になってしまった)のイメージに、カンブルランの明晰で明るい色調を加えて克明にした感じの「海」。

ともかく白日のもとにある、一日の移り変わりのはっきりしたこちらの海の情景は、とてもユニークでかつ面白い聴きものでした。
 楽器ひとつひとつが、浮き上がって見えて聴こえる。
普段埋れてしまうフレーズや、ちょっとした橋渡し的な場面も、聴いたことないような感じに浮き彫りにされる。
最後のクライマックスは、たたみ込むことなく、じっくりとした盛り上げを築きあげるだけに、極めて着実な海の終焉を迎えることになる。
「海」フェチですので、たくさん音源を集めてますが、それらのなかでもユニークな存在。
 
思えば、読響はいつも実力派の、いい指揮者を引っ張ってくるものだ。
オペラも日本で振ってもらいたいカンブルラン。
南西ドイツのあとは、シュトットガルト歌劇場の指揮者となる予定。
こちらは、ライトナー、カルロス、ツァグロセクなどが歴代で、きっとカンブルランもこの劇場で名を残すものと思われるし、ワーグナーへの挑戦も大いに期待できる。

「幻想」とともに、「海」もシリーズ化しようかな。
あと、「フランクの交響曲」も。

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2011年8月18日 (木)

ひとんちの、にゃんにゃん・・・

Hadano_nyanko1

か、かわゆすぎる・・・・・。

大人で、オヤジなわたくしも、メロメロにしてしまう、にゃん太56号。

あのね、きみ、なにも肉球をまで全開丸見えにするこたぁないだろう。

Hadano_nyanko2

なははぁ、こちらは金89,000円というリアル価格のついてしまった、どこか哀愁さそうにゃんこ。

Hadano_nyanko4_2   

きみ、きみぃ~

素敵な飼い主さんに出会えるといいねっ。

あたしは、そんなに見つめられても、いまはムリだからさ。

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2011年8月17日 (水)

ホルスト 「This have I done for my true love」~パートソング集

Azumayama201108_1

いつもの山のうえ。

盆休みに神奈川の実家に行ってきました。

暑いお盆でした。

朝早く起きて、汗だくになりながら登頂。

木陰が涼しげ。

向こうは相模湾。

Azumayama201108_2

速咲きのコスモスが五分咲き。

強い日差しに耐えて薄色ですがきれいに咲いてましたよ。

夏は空と海の境界線も曖昧。

当然に富士山も見えません。

Azumayama201108_3

秋が待ち遠しいけれど、去る夏も寂しいものがあります。

Holst_partsong

グスターヴ・ホルスト(1874~1934)のパート・ソング集。

ホルストといえば、「惑星」。
それのみの印象で終始してしまい、「惑星」以外は「セントポール組曲」ぐらいで、ほかはなかなかに聴くことをしない聴き手が大半。

「惑星」も大好きな英国音楽のくくりとして捉えているので、そのホルストの他作品も結構聴いてきたわたくし。
オーケストラ作品、器楽曲、オペラなど。
なかでも、合唱作品には素晴らしいものがたくさんあります。

パートソングは、英国でいう無伴奏の合唱作品で、世俗的な歌から聖歌風のものまで、気の置けない家族や仲間で、つつましく親密に歌う合唱作品をいうのです。
エルガーやディーリアス、RVWなどに素敵な作品があるほか、ホルストもたくさん残しております。

ステファン・レイトン率いる、ホルスト・シンガーズの1枚。

 1.Ave Maria
 2.Of one that is so fair and bright
 3.A Welcome Song
 4.Jesu, Thou the Virgin-born
 5.Terly, terlow
 6.Lullay my liking
 7.Bring us in good ale
 8.Diverus and Lazarus
 9.This have I done for my true love

10.
Songs from ”The Princess” 全6曲~女声合唱

11.O spiritual pilgrim
12.My sweetheart's like Venus

13.ふたつの東国の絵~春、夏

14.Light leaves whisper
15.In youth is pleasure

16.6つの合唱のためのフォークソング


これらの中で、本国英国で人気のある作品が、本CDのタイトルにもなっている、9.This have I done for my true love。
聖霊降臨祭に際して書かれた宗教的なテイストの曲で、真摯な内容と篤い思いが、爽やかに融合した美しい合唱曲。

ほかの諸曲、そしてまたホルストの音楽にいえることであるが、朋友RVWとともに行ったケルトやスコットランドを含む全英にわたる民謡収集の成果と、没頭したサンスクリット系の文化。
これらが、どこかローカルな雰囲気のよさと、東洋的なエキゾシムとなって、ホルストの音楽に滲みでてくる要素なのです。

熱い夏に、これらの雰囲気を伴ったホルストの無伴奏合唱曲を聴いていると、数度はクールダウンできます。
おまけに、4と5の曲には、オーボエとチェロが哀愁を感じさせるようにソロ伴奏として合唱に付きまとってます。
なんて、いい雰囲気なんでしょう。
愛らしくも、哀しい。

それから、13では、ハープが伴奏です。
こちらの涼しげで清らか響きに、英国の庭園にて、大きく影を落とす木陰で涼しい飲み物で喉を潤す自分を思い浮かべることができました。

女声だけによるパートソングも、とても心和む爽やかなものです。

英語の美しさも存分に味わえます。

わたしも歌ってみたい、と思わせる素敵なホルストのパートソングでした。

「惑星」以外のホルスト 過去記事

 「雲の使者 ヒコックス指揮」

 「エグドン・ヒース プレヴィン指揮」

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2011年8月15日 (月)

ヴェルディ レクイエム アバド指揮

Tokyo_catedral_3

 

東京カテドラル聖マリア大聖堂の堂内。

数々のブルックナー演奏や、宗教音楽がここで演奏され、ヨーロッパの教会なみの豊かな響きでわたしたちを魅了してきました。

誰もいない聖堂内で、わたくしはひとり佇むのでした。

心に去来する様々な思い。

こういう場では、それらが研ぎ澄まされ収斂してゆくように感じます。

Verdi_requiem_abbado_wpo

8月のお盆の頃は、ヴェルディ「レクイエム」と決まっております。

あとは「戦争レクイエム」で完璧です。

自分のなかでは、レクイエムの最高傑作は、ヴェルデイです。

レクイエムという典礼ミサが持つ、怒りと優しさと癒し。
それらを、劇性と流麗な歌と美しい旋律でもって完璧に描きつくしたのがヴェルデイのレクイエム。

そして、ヴェルデイのレクイエムの最高の演奏と思うのが、クラウディオ・アバドとミラノ・スカラ座のもの。
次点は、カラヤンとベルリン・フィルです。
ついで、ジュリーニ(PO)、トスカニーニ、アバドの他盤、バーンスタイン、シュナイト、ライナー・・・・などなど。たくさん聴いてますし、みんな捨てがたい。

アバドは3回録音してます。

スカラ座(1979年) DG
ウィーン・フィル(1991年) DG
ベルリン・フィル(2001年) EMI


アバドには、完全に手中に入った音楽なのです。
60年代もスカラ座やロンドンで演奏してます。
そして、81年には日本で、ふたとおりの歌手で2回演奏してくれました。
これはまぁ、あまりに素晴らしい伝説の名演だったのです。

ほぼ10年単位で、勝負年のようにして、その時の持てる最良のポジションで、挑み録音してきました。
ベルリン時代から、ほぼ10年を経た今、ルツェルンでのあらたな「ヴェルレク」に期待が高まりますが、マーラーが一巡してからなのでしょう。
予想では、2013年とみておりますが、いかに。
または、復興支援「ARK NOVA」のかたちで、演奏するかもしれません。
当然に、アバドの来日も!

3つの「ヴェルレク」の特徴を簡単に記してしまうと、それはその時の保持タイトルと独唱者の選択にあらわれております。

 

スカラ座・・・・純正イタリアの輝かしいけれど、いちぶの隙もない完璧なヴェルデイ。
スカラ座でいつも競演してる歌手と同じ生れ故郷の空気をともにしたオケとコーラス。
研ぎ澄まされた緊張感が素晴らしい。

ウィーン・・・ウィーンの音楽監督として、イタリアオペラ以外にも手腕を発揮。
勉学をした第二の故郷のオケは甘く、歌心も独特のオペラの呼吸がある。
歌手たちは、ワーグナーやモーツァルトも歌うオールマイティ歌手。
なかでは、ひとりカレーラスが生真面目ながら心洗われる真摯な本格派。

ベルリン・・・・響きが豊かすぎて拡散してしまう録音のせいもあり、アバドの求心力もやや及ばない感あり。
それでもそれは贅沢な注文。
明るく透明、かつ集中力の高い90年代のアバド。
若い歌手たちは、フレッシュで、国際色豊か。

こんな感じです。

ウィーン盤の魅力の一端は、ウィーンフィルという自主性に溢れたオーケストラの魅力。
ムジークフェラインのまろやかで、丸っこい響きも伴って聴くウィーンフィルのヴェルディはとても魅力的。
ディエスイレの強烈なダイナミズムも、少しも威圧感がなく、耳にうるさくない。
腹にズシンと響く太鼓の音を期待すると裏切られます(アバドは全部そうです)。
しかし、その劇的なフォルテには、オペラの一場面のような展開が伴い、そのあとにくる、たとえばラクリモーサの涙滴る悲しみなどは、一転あざやかなまでの対比の妙があります。
ウィーンと蜜月だった頃のアバドの純真無垢の指揮ぶりが目に浮かびます。
スカラ座やベルリンと同じく、柔のヴェルディです。

   S:チェリル・ステューダー  Ms:マリアナ・リポヴシェク
   T:ホセ・カレーラス      Bs:ルッジェーロ・ライモンディ

  クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
               ウィーン国立歌劇場合唱団
          (1991.10@ウィーン・ムジークフェライン)


好調だったステューダーは、フレーニとの録音がアバドには残されなかっただけに、その渇望を癒してくれるリリカルな素敵な名唱。
リポヴシェクのコクのある深い歌もよく、実にうまいもの。
カレーラスは前述のとおり。輝かしさよりは真摯さが先立つ。
お馴染みライモンディは、その声を聴くだけで、スマートなあのお姿が目に浮かぶ。

合唱は、スカラ座のそれを思わなければ完璧。
スカラ座のヴェルディが凄過ぎるのです。

それにしても、アバドのつくり出すピアニシモの美しさは比類がありません。
音楽に全霊を尽くすアバドの祈りに満ちたヴェルディのレクイエム。
今年も終戦の日を迎えることとなりました。

 

過去記事 ヴェルディ「レクイエム」

 

「アバド&ミラノ・スカラ座」

「バーンスタイン&ロンドン響」

「ジュリーニ&フィルハーモニア」

「リヒター&ミュンヘン・フィル」

「シュナイト&ザールブリュッヘン放送響」


       

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2011年8月13日 (土)

バッハ ゴールドベルク変奏曲 P・ゼルキン

Aqua

涼しげな水槽をパシャリ。

ほんと、暑いですな。

歳とると、温度調節のためか、やたらと汗をかきます。
寝てる間も、スゴイ汗。
もうやだ、オジサンなんだからもう。
水枕で寝てるような錯覚に陥るくらいにジャブジャブ(笑)

それでも夢見ながら寝てるから呑気なもんです。

夏の夜の夢は、自分でも不思議なものばかりで、ミステリアスです。

Bach_goldberg_serkin

眠れぬ夜の、なぐめの音楽、バッハ「ゴールドベルク変奏曲」。

わたしなんぞは、これを肴に、どんどんグラスのピッチが進んでしまうので、ますます眠りから遠ざかってしまう魔の音楽。

でも、飲みもひと段落して、寝巻に着がえて、歯も磨いて、顔も洗って、準備万端眠りに入りますという時に、タイマーをかけて流し聴きするとき、脳波は安定し、ゆったりと安眠ムードに陥るのであります。
そんな意味でも、慰めの音楽。
そして、タイマーなどをかけずとも、主題のアリアだけを聴くだけで、眠りへの臨戦態勢は整い、安らかなる安眠へと誘ってくれるのでありました。

繰り返しを伴うと60分間。
バッハの考え抜かれ、練りに練られた巧みな構成は、聴いているとわからないくらいに流れのいいものであるが、音楽書や解説などでひも解くと、その緻密な出来栄えに驚きを隠せない。
 最初と最後に置かれたアリア(主題)。
それに基づく30の変奏曲。
その変奏曲も、中間部のフランス風序曲の華やかな存在をピークに、2部から構成され、前半、後半も数字の倍数でカノンや舞曲などの形態をとるなど、緻密に造られているから驚き。

チェンバロでも、ピアノでもどちらも全然素晴らしい。
ピアノ音楽としても厳然として存在しているところがバッハの音楽の偉大なところ。

チェンバロなら、ヴァルヒャとリヒターとレオンハルト。
ピアノなら、新旧グールドとペライア、そして、本日久しぶりに聴いたピーター・ゼルキン盤がお気に入り。

P・ゼルキンの3度のゴールドベルクは94年の録音で、それ以前のふたつは、わたしは未聴です。
先鋭で神経質なイメージの強かった息子ゼルキンは、偉大な親父の背中の反動としてあった時期も若いころがあった。
しかし、内面重視、複雑な様相を呈するピアニストとして、より深みに達する表現に到達しつつあったのがこの94ゴールドベルクで確認できる。

音の明確な際立て方は、鮮やかなタッチと怜悧なまでのピアニズムでもって、ますます引き立ってきているようだ。
でも随処に感じられるゆとりと、一音一音への思い入れが感じられ、全体のイメージとしては、先鋭から内面重視+普通さ、へとシフトチェンジしたみたいだ。

グールドは、その息遣いに、聴く側も引き入れてしまい有無を言わせずの部分があるが、ピーターのピアノは、聴いて、一緒に息づくことができる、そんな呼吸のよいゴールドベルクなのでした。

ピーター・ゼルキン、今年64歳になります。
新譜は少ないけれど、まだまだ今後注目のピアニストです。
この8月の真夏に来日も予定されてます。

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2011年8月11日 (木)

ベルリオーズ 幻想交響曲 カラヤン指揮

Hamamatsucho_201108_a

8月の小便小僧はシンプル。

Hamamatsucho_201108_b

暑過ぎだからこれでいい。

帽子、海パン、浮き輪、タオルに放水。

Berioz_symphonie_fantastique_karaja

8月のベルリオーズ「幻想交響曲」は、カラヤンべルリン・フィルの巧みな演奏で。

カラヤンはフィルハーモニア時代と合わせて3回、幻想を録音している(はずです)。
長く60年代のDG録音が有名であったが、74年にあらたな録音会場となったフィルハーモニーザール、俗にいうカラヤン・サーカスにて収録した本盤がいまや、カラヤンの幻想の定盤。
その後の再録音はないが、この鳥の顔のジャケットとともに、わたしの高校時代の思い出のひとつでもあったわけ。

ともかく録音が素晴らしく良かった。
イエスキリスト教会での録音は、流麗さと響きの良さが、まさった感があるが、フィルハーモニーでの録音は、音の粒立ちが明確で分離も鮮やか、そして芯の通った力強いピラミッド型のオーケストラが眼前に展開するのを聴くことができる。
幻想には、名録音が多いが、このカラヤン盤もアナログ絶頂期の名録音に思う。

思えば、DGには幻想の名演・名録音が多い。
小澤(BSO)、こちらのカラヤン、バレンボイム、アバド、レヴァイン、チョン・ミュンフン、ミンコフスキ・・といった具合です。

このカラヤン盤。
オケの嵩にかかったような威力はものすごいものがありまして、最弱の繊細なピアニシモから、強大なフォルテまで、いくつもの段階が用意されてまして、聴き手は、その繰り出される魔法のような響きの引き出しの数々を畏れいりながら拝受する仕組みでして、いながらにして、カラヤン・サーカスの見事な出し物を次々と見物することができるのでした。
 今日、ワタクシは、ビール片手に、「あらま」とか、「ほほう」とか、「やっぱりね」とか言いながら、カラヤンの幻想に舌鼓を打ったのでございます。

いつも書きますが、オジサンになってわかってきた、3楽章「野の風景」の美しさと味わい深さ。
カラヤンも聴かせますなぁ。
ともかく、微に入り細に入り、お上手。
かゆいところに手がとどき、誰かが孫の手でもって、背中を掻いてくれちゃう式ざぁます。
媚を売ったような歌い回しが、さわやかな野の情景からは少し離れて聴こえるが、これはこれで、ともかく芸術品級のうまさ。
次の断頭台とあわせて、ティンパニや打楽器にも音色があります。

最後の狂乱、ともかくこのコンビの的確無比なミサイル攻撃をしばし浴びることとしましょう。
もう、快感きわまりない、耳のご馳走なのです。
そこに何があるのかは、この際、置いといて、でも、立派で完璧きわまりない音楽創造芸術品であることには違いありません。
鐘の音は、実際の教会のものを集めて編集したらしい。

カラヤンのすごいところのひとつは、こうした贅沢によりをかけた完璧さにあるのです。
そして覚めたところが一切なく、そこに夢中さを感じるんです。
カラヤンの真髄はオペラにこそありますが、どんな曲を取り上げても真剣勝負の大一番を繰り広げてくれるプロ中のプロの「芸術家」だったのでありました!

久しぶりに聴いた「カラヤンの幻想」に大いに耳と心を動かされました次第です。
昔と違う聴き方もできて、元気がでました。

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2011年8月 9日 (火)

「English Landscapes」 マーク・エルダー指揮

Narita

稲、真っ盛り。

畦道は、稲の香りでむせかえるようです。

所用で行った成田の某所。
暑くて、タオルハンカチが何枚もないとだめ。
館山では、早場米が刈り入れられたけれど、東・南関東の米はいったいどうなるんでしょう。

こうした日本の田園風景も危機なのか。
へたすりゃ、ここに太陽光パネルや風車が立ち並ぶ、ぶち壊しの風景になってしまうのか。

そんなの許せないし、見たくない。
でも、場所によってはそうなってしまうのでしょう。
新たな自然破壊と生態系への影響負荷となるのでしょう。
人間中心に考えるとそうなるのだし、飽和してしまって、行き詰ったいまの人間社会の行き着く果てでありましょうか。

同じ島国、英国の風景も緑に溢れて劇的で美しいものです。

Eng03

そのロンドンで暴動がおこり、周辺都市に広がっている。
ニュースで知り、英都でまさかそんなことが、と思った。
事の発端は、黒人男性を警察官が射殺したことで、その追悼集会から暴発したらしい。
ヨーロッパの老舗大国は、マイノリティや格差民族が厳然といるので、あのあたりからの不満の噴出によるもの。
それらが連鎖して、経済格差や政策への不満として広がっていった。
特定の場所を襲撃してゆくという組織的な活動にもなりつつあるようだ・・・・。

これらはいったい・・・。

先進も後進も社会主義国もまったくありまえん。
世界同時苦境(不況)の大連鎖に陥ったのでしょうか。

これって、マジやばいことだと思います。
アメリカの大沈没に中国の相変わらずの隠蔽体質とメッキ主義。
政治不信と震災・人災から立ち上がれない日本。
不安な中東にアフリカ・中南米。
消去法で、残る安全地帯はどこにもありません。

少し酩酊状態で書き散らす記事。

とんでもない8月になるような気がします。

役人や大企業の方々も、安閑としてはいられなくなります。
中小企業はこれ以上ないくらいに厳しいです。
わたしのまわりでも破綻する人や、少し前には命を絶つ人も出てきてます。

身を軽くして、持つ人生から持たない人生に、ダウンサイズしながら捨て去り人生も必要なのかもしれないと思いつつあります。
もうなにもかも充分に満ちたりでるのですから、これ以上の便利や、かっこいい人生はいらないかもです・・・・。

なんか、爺さんの心境になってきました。

English_landscapes_elder

本題の音楽にやっとたどりつきました。

英国の風景、と題する1枚。

英国音楽好きにとって、心から愛する作曲家と、その詩的で素敵過ぎる作品が1枚に収められたもの。
しかも、オーケストラは英国の良心ともいうべきハレ管弦楽団に、マーク・エルダーの指揮。

 バックス    「ティンタジェル」

 ヴォーン・ウィリアムズ 「揚げひばり」

 フィンジ    「散りゆく葉」~オーケストラのためのエレジー

 ヴォーン・ウィリアムズ 「ノフォーク・ラプソディ」

 ディーリアス  「川の上の夏の夜」

          「春はじめてのかっこうを聴いて」

 エルガー    「夏の激流のように」

 アイアランド  「丘」」

   マーク・エルダー 指揮 ハレ管弦楽団/合唱団
        ヴァイオリン:リン・フレッチャー
                       (2005.11@マンチェスター)


ハレ管の自主制作CD。
マーク・エルダーは、2000年来、歴史あるハレ管の常任指揮者をつとめており、ハレ管も、久方ぶりの英国指揮者のもと、かつてのバルビローリ時代の復興を思わせる、自国音楽の再生に取り組んでいる。
バルビローリのあと、ロッホラン、スクロヴァチェスキ、K・ナガノと続いたのちのエルダー。

エルダーは当初、オペラ指揮者の印象が強く、イングリッシュ・ナショナル・オペラの指揮者として少しばかり先鋭なイメージを抱いていた。
バイロイトにいきなり登場して、ウォルフガンク・ワーグナーの新演出の「マイスタージンガー」を81年に34歳にて指揮をしたが、劇場の特性を読み込めず1年で、ベテラン、シュタインと交代。
そんな経験も経て、オペラでジワジワ実力をつけ、いまや英国楽壇の雄のひとりです。

どちらの曲もしみじみと、味わい深く、自国ものを慈しみながら丁寧に演奏していることが聴いてとれます。

シャープで絶海の古城を思わせるような名品ティンタジェル。
バルビローリやB・トムソンの超名演と並び立つ素晴らしい演奏。

有名すぎる「揚げひばり」は淡々としたつつましい仕上げ。
フィンジの「落ち葉」は、真夏に聴くと、先取りの秋の悲しさが満載。
早く秋がこないかな・・・・。
どうように、メロディアスなRVWのラプソディには嘆息してしまい、ディーリアスの高名な小品では、ここにこそ、日本の季節の風物とオーヴァーラップする親しみと忘れられた日常を脳裏に思い描くのだ。
エルガーとアイアランドのふたつの無伴奏合唱作品。
実に爽やかで気品に溢れてます。英語の美しい語感も本場のものに感じちゃいます。

以上、素敵すぎる英オムニバスCDでございました。

大好きな英国。

頼むから暴動なんかやめてちょーだい。
 

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2011年8月 7日 (日)

ディーリアス 「コアンガ」 グローヴス指揮

Himawari

ギラギラした夏がまた戻ってきた?

豪雨は終息したけれど。

農作物、特に米に対する影響が心配。
日本の食が、天災と人災で危険にさらされている。
そして、やがて水も。

安全な「食と水」。
この基本が損なわれる事態が起きつつあるように思う。
何事もままならない政治や行政に任せておけない。

この写真は数年前の東北のある場所。
淡い色あいでした。

Delius_koanga

ディーリアス(1852~1934)のオペラ「コアンガ」。
6つあるディーリスのオペラ作品の中で、3つ目。
「イルメリン」「魔法の泉」「コアンガ」「村のロメオとジュリエット」「赤毛のマルゴー」「フェニモアとゲルダ」の6つ。

いずれも、その間奏曲や劇中曲が有名で、管弦楽曲集には必ず入ってますので、お聴きになられている方も多いのではないでしょうか。
そのオペラ全曲となると、「ロメ・ジュリ」が比較的上演されるのみで、CDも極めて少ない。

1897年、ディーリアス35歳、パリにての完成。
ドイツ人の両親のもと、裕福な実業家の家に育ったフレデリック・ディーリアスは、音楽三昧の日々ながらも、実業を継がせたい父親の命や、そこからの逃避というチャンスを活用してフロリダのオレンジ・プランテーションの経営実務を行うこととなった。
そこで、アメリカの黒人たちの歌やバンジョーの音楽に大いに心魅かれ、後々にそれらを思いおこしながら、いくつかの作品に結実していった。
「フロリダ」組曲、「アパラチア」などと並んで、この「コアンガ」もそうなのであります。

全3幕、110分あまり。
いつもの優しくて、ノスタルジーに富んだディーリアス・サウンドに、雰囲気あふれる異国情緒も合わせてふんだんに楽しめます。

 

台本C.F.ケアリー

18世紀なかば、ルイジアナのミシシッピにあるプランテーション。

プロローグ

 年老いた奴隷アンクル・ジョーが、さとうきび農園の若い女性たちに、「コアンガとパルミラの物語」を話して聞かせることに。

第1幕

 パルミラは、農園のオーナー、マルティネスの妻クロティルダのメイド。
彼女は、傷心の想いで眠ることもできない。
朝となり、オーナーの農場監督者ペレツに仕事に追い立てられる奴隷たち。
かれは、パルミラにいつも、言い寄っていて、この日も、どんだけ待たせるんだ、と言う。
そこへ、オーナー・マルティネスがあらわれ、パルミラを引き留めると、鎖に繋がれた、新入りの奴隷がつれらるてくる。
コアンガ、アフリカの王子でブードゥー教の聖職者。
かれは、祖国を想い、この境遇に復讐を誓っている。マルティネスは、優しいバルミラに引き合わせて、彼の気持ちを和ませ仕事に向かわせようとしたのだ。
こうしてお互いに魅かれあうようになったコアンガとパルミラ。
横恋慕のかたちとなったペレツは、オーナーの妻に不平を言い、なんとかして欲しいと訴える。
妻クロティルダは、パルミラの出生の秘密を知っていて、それゆえにペレツに同調する。
その秘密とは、パルミラが彼女の異母姉妹であること・・・・。

 

第2幕
 
 農園主の誕生日と、コアンガとパルミラの結婚式。
ペレツは、クロティルダに文句を言い、彼女もこれは阻止せなばという。
自分と同じ父親の血を持つパルミラが奴隷の妻になることが許せない。
彼女らの出自をペレツに語り、彼はそれをパルミラに話して説き聞かせること、うまくいけば彼女はこのままクロティルダの元で奉公させることなどを約束。
 ところが、ペレツが彼女の出生のことを話して思いとどまらせようとしても、パルミラのコアンガへの思いは変わらない。
王子でありブードゥー教聖職者なのだからと。
 おめでたい席を祝して、奴隷たちの踊りが披露される。
有名な「ラ・カリンダ」であります。
ふたりは愛を誓いあいます。

ところが、パルミラはペレツによって誘拐され、行方知れずとなってしまう。
彼女がいなくなってしまい、コアンガが猛然と探しまくり、農場主にも食ってかかる。
ふたりは、掴みあいの争いとなり、思わずコアンガはあるじに怪我を負わせてしまう。
 コアンガは、ブードゥー教の神に祈り、嘆き、密林へと逃げてゆく。

第3幕

 密林の中の広場。
コアンガとブードゥー教の聖者ランクワンが、焚き火のもと、儀式を行う。
互いに傷つけ、その血でもって行う古代の儀式と男たちの踊り・・・・。
コアンガは、パルミラのことを思い、朝の一番星に彼女のもとへといざなってくれるように祈る。
 一方、農場ではマルティネスがクリスチャンもブードゥー教も同じと説き、奴隷たちを仕事に向かわせる。
ペレツはパルミラに相変わらず言い寄り、コアンガは絶対に来ないという。
そこへ、コアンガがやってきて、ふたりは戦いとなり、パルミラに励まされ、コアンガはペレツをやっつけてしまうが、他の敵手に打たれてしまう。
 パルミラの元に、横たえられたコアンガ。
やがて、コアンガはパルミラを認め、神に彼女の加護を頼み、古里を思いだしつつ、そして復讐の念も抱きつつも亡くなってしまう。
パルミラは嘆き悲しみ、自分もコアンガとその地所の元にあること、神々を念じつつ、自分の胸を刺し貫くのでした・・・・。

雲がこの場面を緩やかに覆っていきます。

 

エピローグ

 こうしてアンクル・ジョーの話が終わり、若い女性たちは、悲しみに涙します。
朝焼けのなか、彼女たちは歌う「柔らかな5月の朝、ほんとうの恋人たちが、幸せを見つけられることを願いましょう・・・・」

                   

 ディーリアス 歌劇「コアンガ」

  コアンガ:ユージン・ホルムス  
  パルミラ:クラウディア・リンゼイ
  メルティネス:ライムンド・ヘリンクス  
  ペレツ:キース・エルウェン
  コルティルダ:ジーン・アリスター    
  ランクヮン、アンクル・ジョー:サイモン・エステス

 サー・チャールズ・グローヴズ指揮 ロンドン交響楽団
                 ジョン・オールディス合唱団
         (1973.9@ロンドン、キングスウェイホール)


キャストは、主役ふたりが黒人歌手です。
そして、のちのワーグナー歌手、サイモン・エステスの名前もあります。
歌手たち、みんな、心から共感して歌っていて感動します。

悲しく、さみしく、儚い運命に彩られた物語に、ディーリアスが書いた音楽は、美しく優しい眼差しに溢れております。
有名なラ・カリンダが2幕では出てきますが、全般にメロディアスな音楽なので、初めてでも聴きやすいのではないでしょうか。
ちなみに、ラ・カリンダはかつての昔、ライプチヒで上演されたときに、あまりに不道徳なダンスであったため、演奏禁止にされたとあります。信じられませんねぇ。

バンジョーの音色に、遠くの合唱も聴かれ、物憂い川辺の夏の夜の雰囲気がとても出ております。
歌詞を伴わない、ハミングによる合唱や、たゆたうような旋律線もおぼろげなオーケストラ。
まさに、ディーリアスの世界が満載です。

ディーリアスの使者のような存在だったグローヴス卿がこのオペラの録音を残してくれたことに感謝です。

「コアンガ」のことが詳細にわかるサイトがありました。
ここでは、1970年のワシントンでの上演のライブ音源が全曲聴けます。
「The Music of Frederic Delius」です。素晴らしすぎ。 
 

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2011年8月 6日 (土)

もう一度、HIROSHIMA交響曲

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8月6日、広島に原爆の投下された日。

66年前の出来事はまだ風化されません。

Hiroshima_dome_3

今年は、未曾有の大震災と原発の破綻事故とで、広島と長崎がより迫真的にわれわれに迫ってきた年。

わたしたちの、生活感・人生観を書き変えてしまうことにもなった大震災。

そして、音楽界はいくつものキャンセルに加えてチャリティコンサートの渦。
おかげで聴かれなくなってしまった曲目も多い。

記念年でいうと、マーラーは、多面的だし人気もあるので不変。
でも、リストは地味すぎて、埋没してしまいそう。

Hiroshima_dome_1

しかし、今年7月20日に、突如としてあらわれた巨大な彗星のような1枚のCD。

発売以来、その80分の大曲を何度聴いたことでありましょう。

原爆の日の今日、3度聴きました。

それは、平和記念公園での某首相の虚しいスピーチなどよりも、はるかにずっとずっと、人の心を揺り動かし、そして悲劇の暗さと平和への力強い推進力とメッセージに満ちあふれたものなのでした。

被爆2世にして、全聾の作曲家は、奇跡に値する天才的な作曲家でもあった。
努力と希望をその力に変えてしまい、聴く人、その書籍を読む人すべてに、明るい未来の見える力を与えてくれる。

後期ロマン派、そしてそれを超える異次元の作曲家が、こうして日本に厳然と存在することを、世界に向かって発信したい。

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原爆ドームの周辺は、都市開発が進み、マンションも立ち並んでいる。

この川に何人の人々が熱さと苦しみで飛び込んだことでしょう・・・・。

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まだお聴きでない方は、是非とも一聴を。

わたしは、震災のすぐあとにこれを知り、あの津波の悲劇的な映像をオーヴァーラップさせながら、この壮絶な音楽を聴きました。
でも、最後は、本当に心の底から感動を味わえます。

それは、原爆のふたつの街の今すでになった復興と、いま進みつつある被災地の復興に、力強い輝きをもたらす輝かしい感動なのでした。

しかし、現実は厳しい。
復興を阻む、戦後日本の体制と政治のあり方。
国も地方も、いまの政治家と役人たちに任せておいたら沈没してしまう。

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2011年8月 5日 (金)

「バイロイト音楽祭2011」 勝手に総括

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バイロイト祝祭劇場の様子を、Google Earthで見てみました。

憧れの聖地です。

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衛星写真から俯瞰すると、劇場はこんな感じ。
下は鉄道。
まさに緑の丘の上にあります。
街じたい、こじんまりした、いい雰囲気のバイロイトでございました。
死ぬまでに行けるかなぁ・・・・。

へんてこな「タンホイザー」新演出からスタートした2011年バイロイト音楽祭。
かつては、音楽の模様はその年の暮れのNHKFM放送まで待たなくてはならなかったが、いまやリアルタイムで確認できることに。

このままだと、暮れは忙しいし、年末バイロイトは自分的には衰退してしまうかも・・・・。
40年近く続いた自己の慣習ゆえに、なんともいえない心境であります。

さて、「タンホイザー」以外のプログラムを流し聴きしましたので、上演順に、そのレヴューをチョー簡単に。

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「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

「いつも、どうも曾孫がお世話になっております。」・・・・・
とおっしゃっております。

大ワーグナーの曾孫カタリーナの演出は、もういわずもがなのカリカチュア的・自己批判的過激演出。

どうもいかんです。

相変わらずのブーイングに、彼女も慣れ切って、さらなる上を違った意味で志すことでありましょう。
とほほ。

歌手は一新。
そしてかなり頼りなく、気合をいれたくなる。
バレンボイムの秘蔵っ子ブルクハルト・フリッツのワルターは、甘すぎで個性薄。
ローエングリンにシフトしたフォークトの方が甘いけど個性的だった。
ザックスのJ・ルーザーフォードは、2年目だが若々しいのみで頼りない。
唯一、おなじみのカウネのエヴァのみ、しっかりした歌です。
ヴァイグレの指揮は、濃淡が以外と豊かで、味つけもよろしく、かなり良くなってきてます。

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「ローエングリン」

ノイエンフェルスのねずみちゃんローエングリン。
NHKでライブ中継されますが、どうも録画できそうにありません。
DVD化を待ちましょう。
ブーもありましたが少なめで、聴衆はタンホイザーとマイスタージンガーに疲れてしまったのでしょうかね。

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あらら、わたしのアンネッテちゃんが。

音楽のほうは、かなりいいです。
まず、わたしのアイドル存在、アンネッテ・ダッシュの迫真的なエルザが素晴らしいです。
生真面目さと、不思議ちゃんがミックスしたような心に迫る歌です。
アンネッテちゃん、ダブルキャストで、後半は降りてしまいそうです。

そして、お騒がせカウフマンが降りてしまい、フォークトにお鉢が回ってきた。
ローエングリンを歌いこんできた自信と、美声がより磨き抜かれ、なかなかの騎士ぶり。
ユニークな白鳥の騎士の登場でした!
テルラムント夫妻も今年は切り替わった。
トマッソンにP・ラング。どちらもおなじみ。そして良いと思います。
去年のヘルリツィウスも素敵だったのですがね・・・・。
ネルソンスの指揮、今年は格段に落ち着きと輝きを増して、いいと思いますね。
全曲終了後の空白の沈黙が気になります・・・・。

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「パルシファル」

過激がウリのヘルハイム演出も、いまや、バイロイトではごく普通みたい。
オカマチックでもっこりのクリングゾルの画像が妙に脳裏に残り、ベニスに死すみたいな少年や天使が、イエスみたいなアンフォルタスが見え隠れする舞台。
これはよくわかりません。いまだに映像も出てません。

こちらも配役がよく変わります。
常連組では、グルネマンツのクワンチュル・ユンの安定感と美声が相変わらずひきたつ。
この人、この劇場になくてはならぬ人になってしまいました。
パルシファルのサイモン・オニールはニュージーランド出身の期待のヘルデンで、これまたバレンボイムの影響下にある人。
そんなにヘルデンじゃなくて、リリカル。威勢はいけど一本調子。
その具合が、なかなかに考えなしでよろしい。
これまでに聴いたことなかったイタリアオペラみたいなパルシファル。
ドミンゴなんかより、ずっと好きだな。
我らが美穂子さまのあとを継いだマクリーンのクンドリーは予想外に豊かなメゾの音域を聴かせてセクシーでよかった。
 そして、ガッテイの麗しいくらいに流麗で軽やかスマートなパルシファルも完成系に近づいてきた。
来年あたりライブ録音して欲しいもの。

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「トリスタンとイゾルデ」

これはまだちょい聴きのみですが、音楽面での安定感と説得力は今年の演目のなかで群を抜いてます。
シュナイダーの指揮は、年々重厚感を増し、早めのテンポが信条のシュタインのような音楽造りが、徐々にそのテンポも増して遅く重くなってきた。
いまや、もっとも信頼できるワーグナーやR・シュトラウス指揮者のひとりです!
スミスとテオリンのトリスタンとイゾルデ。
なにもいうことはありませんね。
演出は、ファンタジー不足ですが、定番と化した安定的な充実演目となりました。
2005年、大植英次指揮で始まった、このトリスタンは、たぶん今年でお終い。

来年は、音楽監督的存在のティーレマンの「さまよえるオランダ人」。
そして2013年は、演劇系(と思われる)カストール(Frank Castorf)の演出、次期バイエルンの指揮者キリル・ペトレンコによる「ニーベルンクの指環」。
2014年は、フィリップ・ジョルダン指揮の「パルシファル」
さらに2015年は、カタリーナ演出・ティーレマン指揮の「トリスタン」と続きます。

きっと、へんなだろうな・・・、という演出への思いだけが先にたつけれども、やはりバイロイトは特別な場所。
劇場のソノリティ豊かなサウンドをネットを通じてでも確認でき、拍手にブーに足踏み。
それらの聴きなれた音を、是が非でも現地確認したく思います。

それを目標に生きているといっても過言ではない、このつまらない日本の日々。

おバカなワグネリアンは、明日も夢見て生きるのでございます。

以上、終わり。

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2011年8月 4日 (木)

シェリル・ミルンズ オペラアリア集

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男は黙って缶ビール。

缶ビールから、冷えたグラスに注いで、もやしキムチをあてに、ぐいっと一杯。

くぅーーーっ、たまらんばい

某麻布ラーメン店にて。

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男の役は、バリトンがかっこいい。

そして歌うにも、歳を経るにしたがって、テノール音域はまず厳しく、バスも同様。
バリトン音域が、普通に話す音域なのでオジサンにはちょうどいい。

バス・バリトン音域のアリアについては、かつてこんな記事を書きました。

男の世界、バリトン。
嫌な役柄も多いけれど、男は顔で笑って、背中で泣く。
悲しみを背負って、見た目は労ともしない。
そうありたいです・・・・。

わたくしの場合、涙もろいもんで、顔も背中も泣いちまいます。。。。

Sherrill_milnes

シェリル・ミルンズ
はアメリカ生れのバリトン。
もう76歳になりました。
アメリカ系のバリトンに共通の、マッチョでブリリアント、大音量(大は小を兼ねる的)の気持ちのいい典型的存在。
でも、ミルンズはそんな系統にあっても知的でスタイリッシュな歌と演技に秀でた存在で、過去のアメリカン・バリトンと異なる存在だった。
ドイツものだって、巧みに歌ってましたし。

6歳若いドミンゴとの共演も多くて、ともにRCAレーベルの看板スターだったりもした。
70年代は、大量にオペラ録音がなされたから、レーベルと指揮者間で、人気・実力歌手の奪い合いが多々起きました。
イタリアオペラのバリトン部門では、ミルンズとカプッチルリのふたり。
それ以外の各声部でも、好敵手同士のレーベルごとのぶつかりあい。
ほんと、いま思えば贅沢な時代でした。
そのかわり、レコードはともかく高かった。
オペラは、3枚組。6000円から7500円でしたからね。

今日のミルンズのCDは、1981年、ミルンズの全盛期の録音。
メキシコでの珍しい録音です。

 レオンカヴァッロ 「道化師」~ご覧ください皆様方

 ヴェルディ 「ラ・トラヴィアータ」~プロヴァンスの海と陸

        「オテロ」~クレド

        「ドン・カルロ」~ロドリーゴの死

       シェリル・ミルンズ

   フェレーラ・デ・ラ・フュエンテ指揮 ハラパ交響楽団
                       (1981@ハラパ XALAPA)


ミルンズお得意の定番。
曲数少ないのが難点ですが、いずれもある全曲録音よりずっと後年のものなので、その歌い口のウマさと、巧みな描写に感心。
それが鼻につくようなことなく、おらかな歌心あふれる心地よさを伴い、心から同化できる名唱なのでした。
声の威力あるふれる歌手が、それを抑えながらに、心をこめて丁寧に歌うさまは、豊富な人生経験とステージ体験に裏付けられたゆとりと味わいを感じさせるものだ。
 曲が好きなこともあり、パリアッチのカニオが、シニカルさも歌い込んだ素晴らしい名唱。
カニオは、ミルンズ。
わたしの刷り込みみたいだから、一緒に歌ってしまいます。
カラオケで、これ歌いたいです。

父親ジェルモン、極めつけ・憎っくきイアーゴ、友愛の象徴ロドリーゴ、とヴェルディの代表的なバリトンロールが、ミルンズの朗々とした豊かな美声で楽しめました。

メキシコ・ベラクルス州にあるパラパ響なるオーケストラは、かなりまっとうでした。
調べたらなかなかに歴史あるオケでして、発足時はソンブレロ姿のようですよ!
こちらを見てくださいよ
世界は広いですな。

このCDの初めと最後は、ライブでの序曲。
「どろぼうかささぎ」と何故か「タンホイザー」。
メキシコシティのミネリア交響楽団(orquestra sinfonica de mineria)のライブ。
このオケもなかなかうまい。
けれど、弦薄め、管明るすぎ、鳴りもの派手。
おもしろいワーグナーでございました。

大好きなミルンズの歌声が楽しめ、おまけにメキシカンなところが面白いCDでした。

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そうそう、かの女子指揮者「アロンドラ・デ・ラ・パラーラ」が、9月に来日しますね。
オケはジャパン・ヴィルトゥオーゾ・シンフォニー・オーケストラ。
メキシコものに、エロイカ。
NTT系の招待コンサート。
応募しましたが当たりますかどうか。

今日は、シェリル・ミルンズだけど、メキシカンでもありました。

ミルンズの過去記事

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2011年8月 2日 (火)

「I Will Say Goodbye」 ビル・エヴァンス

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疲れました。

弱音も吐きたくなるいまの厳しい世の中。

でも、振りかえると、自分の足跡ってしっかり残ってるんです。

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ビル・エヴァンス(1929~1980)の「I Will Say Goodbye」

わたしが、ジャズに一時のめり込んだのは、大学の終わりごろから社会人になったころ。
クラシック、ロック、ポップス、ニュー・ミュージックと音楽の幅を広げて、最後にたどりついたクラシック以外の大人のサウンド。
もう、かれこれ30年です。

でも、ジャンルはかなり絞り込まれて、いまや聴くのはピアノばかり。
そして、ビル・エヴァンスが大好き。
聴き始めたころに、心臓麻痺で亡くなってしまった。

ストイックなまでの前期スタイル。
その代表は、あの有名な「PORTRAIT IN JAZZ」。
秋に聴きたくなる渋いサウンドは、わたしにとってのビル・エヴァンスの代名詞。

そのスタイルをいくつか変転させていって、最後期の作品が、「IWill Say Goodbye」。
わたしにジャズを教えてくれた友人は、ビル・エヴァンスは水っぽい、というけれど、わたしは、それは抒情に溢れた考え抜かれた即興型と思っている。
クラシック人間からみれば、シューマンのような存在。
ロマンテックであり、複雑な心情ものぞかせる・・・・。

シンプルな前期作風からすると、その思いは複雑で、立ち止りぎみであるけれど、ともかく幻想的で歌に満ちていて、わたしなどにはとても聴きやすい音楽。
タイトルの曲は、LP冒頭と中間に2度演奏される。

レコード時代にもすり減るほど聴いたナンバーだけど、後ろ髪ひかれるような、悔恨と別れの切なさに満ちた名品なのだ。
マーラーの「大地の歌」です。

エヴァンスの死の3年前の録音。
レーベルを移ることで、お別れの気持ちで書いたらしいが、その3年後に、自身が人生に別れを告げようとは・・・・。
そんな思いにも答えてくれる、ちょっとおセンチな音楽。
ミシェル・ルグランの作品というのも、さもありなん。

ほかの曲も、とても美しく、センスあふれる名曲ばかりです。

残り少なくなったボトルの中の琥珀色を眺めながら・・・・・・。

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