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2011年11月

2011年11月30日 (水)

R・シュトラウス&ラフマニノフ チェロ・ソナタ

Hanayamapark11

今年の紅葉は、いつまでも暑かったり、暖かったりしたせいか、どうもキリッとした色じゃありませんでしたが、それでもこんな水辺の色合いはきれいなものです。

Strauss_rachmaninov_vc_sonata

今日は、美しいチェロ・ソナタをふたつ。

R・シュトラウスラフマニノフという、わたしの大好きな作曲家のチェロ・ソナタがカップリングされた素敵な1枚を。
晩秋に相応しい、メロディアスで抒情あふれる桂曲たち。

そして、これにはわたくし、ジャケットに惹かれた部分もございます。
アール・ヌーヴォ風の装飾と文字、それとベックリンの象徴的な絵画。
どちらも世紀末。
シュトラウス(1864~1949)もラフマニノフ(1873~1943)もともに、その世紀末を生きた作曲家たち。

1883年、シュトラウス19歳のチェロ・ソナタは、彼がまだ学生時代のもので、前年にはヴァイオリン協奏曲を書いているし、勉強中の人とは思えない早熟ぶりを発揮していた。
自身は、型にはまった勉学を嫌い、父親(宮廷オケのホルン奏者)の尽力もあり、同じオケに移籍したチェコの有名なチェリスト、ハヌシュ・ヴィハーンとの出会いから、この若々しいソナタは生れた。
シュトラウスはヴィハーンの奥さんが好きになり、かなりヤバイことになったらしい。
のちに、シュトラウスは、ドーラ・ヴァイスと正式に結婚するとき、ヴィハーンの奥さんとの手紙の数々を焼き尽したという。
まったく、若いリヒャルトは、もうひとりのリヒャルトと同じくして、人妻好きなのでした。
ちなみに、ヴィハーンは、ドヴォルザークの協奏曲を献呈された人であります。

3つの楽章は、若々しさとともに、大人びた表情も見せる、歳に似合わない趣きを持っていて、第2楽章の落ち着いた嘆息をも感じさせるムードは、さながらシューマンのようでありました。
快活な前後の楽章は、後年のバリっとした管弦楽作品をも先取るような明朗な音楽。

もうひとつの、ラフマニノフのチェロ・ソナタは、1901年28歳のときの作品。
モスクワにて、ボリショイ劇場の指揮者をつとめる傍らの作曲で、交響曲第1番の失敗による深い傷も、かのピアノ協奏曲第2番などで、すっかり癒え、好調ななかにかかれたのがこの曲。
4つの楽章、30分を超える規模の音楽は、もう完全にラフマニノフしてます。
作曲者自らがピアノを弾いての初演。
そして、ここではピアノがかなり雄弁でして、われわれが普段聴くラフマニノフのピアノのソロ作品そのものずばりで、そこにつつましながらチェロのソロが乗っかってる、という按配に聴こえます。
いや、もちろんリリシズム豊かで、泣き節が随所に聴かれるチェロも、ほんと素晴らしいのですよ。
交響曲第2番との類似性も感じました。

暗く手探りのような開始のなかから、徐々に姿をあらわして、盛り上がってゆく第1楽章。
スケルツォ風で、少しばかり野卑な感じの第2楽章。
そして、この曲の目玉であり、圧巻は第3楽章のアンダンテ。
ピアノのデリケートな導入に続いて、チェロが歌いに歌いまくります。
このロマンテックな風情といったらありません。
極甘のとろけるようなデザート・スゥイーツです。
ラフマニノフを聴く喜びはここに尽きます。
短めな楽章なところがちょっと残念。
第2協奏曲の終曲のような終楽章。
早い快活な部分と、抒情あふれ、思わず一緒に口ずさみたくなるような旋律とが交錯します。

なんて素敵な曲なのでしょう。

シュトラウスとラフマニノフ。
どちらも、滴るようなチェロと明朗なピアノが聴ける名作に思いました。

今日のチェロは、かつてのバイエルン放送響の主席ヴェルナー・トーマス=ミフネとアルゼンチン生れ、アルゲリッチと同門のカルメン・ピアッツィーニとの共演。
ちょっと地味な感じだけど、堅実でおおらかなトーマス教授のチェロ。
そして、ラフマニノフがとりわけ耳をそばだてるほどに素晴らしかったピアッツィーニ女史のピアノ。
このコンビのサン=サーンスもあるみたいです。

晩秋&初冬の夜に聴く、チェロ・ソナタふたつでした。

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2011年11月27日 (日)

ブラウンフェルス 「鳥たち」 ツァグロセク指揮

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六本木ヒルズのけやき坂。

イルミネーションが真っ盛り。

「Snow & Blue」・・・・毎年、冬を彩る美しさなのでした。

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ヴァルター・ブラウンフェルス(1882~1954)のオペラ「鳥たち」。

デッカの退廃音楽シリーズのなかの1組、某塔ショップで以前に格安で購入し、ニンマリしていたところ、先ごろ、コンロン指揮によるDVDが発売され驚愕したものです。

退廃音楽とは、1930年代のナチス政権発足による芸術弾圧の一環で貼られた作曲家たちの音楽へのレッテル。
退廃でもなんでもなく、素晴らしい音楽なのに、ユダヤ系の出自、政治的であること、敵国音楽のジャズっぽいところであること、無調や十二音などの現代音楽であること・・・・などへのナチスの因縁付けでありました。
そのために、失われた作品や命を落とした作曲家なども多く、まったくケシカラン話である。
一方で、純正ドイツ国の音楽は守護され、ワーグナーがその代表格なところが、喜んでいいのか悲しんでいいのか、なのです。

ブラウンフェルスの退廃カテゴリーは、ユダヤ系ということ。
同カテゴリーには、メンデルスゾーン、マーラー、シュレーカー、シェーンベルク、コルンゴルトなどなど。
 有名な法律家・翻訳家を父と、リストやクララ・シューマンとも親しかったシュポーアを祖父に持つ母。ブラウンフェルスは、当然のように音楽の教育を受け順調に育っていったが、ミュンヘンの大学で法律と経済学へと方向転換してしまう。
しかし、そこでモットル指揮の「トリスタン」の上演に接し、またもや音楽へと逆戻り。
こんどは、ウィーンでピアノを学び17歳でピアニストデビューを飾る。
同時に作曲をモットルとトゥイレに学んで、作曲家としてドイツ各地で頭目をあらわしてゆくが、1933年に、自身はカトリックの信者であるという抗議にも関わらず、ヒトラーから半ユダヤということで、公職をはく奪され、その音楽も演奏禁止とされてしまう。

オペラを10作、管弦楽・室内楽・器楽・声楽と広範にその作品を残したブラウンフェルス。
「鳥たち」は、1920年にミュンヘンで初演された3番目のオペラで、その時の指揮は、ここでも(前週のコルンゴルトと同様に)ブルーノ・ワルターであった。
そのワルターも、そしてアインシュタインまでもが、この作品の素晴らしさ・美しさを讃えているのでありました(解説書より)

原作は、紀元前414年にギリシアの劇場で演じられた、アリストファネスの「鳥」という喜劇。これをブラウンフェルスが自身で台本を書きあげ、作曲したもの。
アリストファネスを読むことはないけれど、ここでは、鳥と人間、そして神様の物語として、彼らが登場する寓意劇となっている。
「アリストファネスによる2幕の抒情幻想劇」というサブタイトルがついてます。

    ブラウンフェルス 歌劇「鳥たち」

  ナイチンゲール:ヘレン・クォン    
  ホーフグート:エントリヒ・ヴォトリヒ

  ラーテフロイント:ミヒャエル・クラウス 
  ミソサザイ:マリタ・ポシェルト

  ヤツガシラ:ヴィルフガンク・ホルツマイアー 
  ツグミ1:イリス・フェルミリオン

  ツグミ2:ブリギッテ・ヴォルハウス   
  プロメテウス:マティアス・ゲルネ

  ワシ、ゼウス:ヨーハン・ヴェルナー・プライン   
  ほか、フラミンゴ、鳩、ツバメ、カッコウ、ワタリガラス
  などなど多数ご出


 ローター・ツァグロセク指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団
     (1994.12@ベルリン、イエス・キリスト教会)

前奏曲とプロローグ

 
 このオペラの美しい主旋律による印象的な前奏曲のあと、前口上のように、ナイチンゲールが登場して、コロラトゥーラを駆使しながら、幸福で、優しい愛に満ちた鳥たちの世界へようこそ、と歌う。

第1幕
 
 二人の人間、カラスを誘われたラーテフロイント(忠実な友)と、黒からすを手にしたホーフグート(よき希望)が山を登ってきて、リックを降ろして食事にしようと決め込む。
ラーテフロイントは、芸術の退廃ぶりに嫌気がさして、ホーフグートは傷心を忘却するため、この地にやってきた。
そこへツグミが飛んできて、人間に驚くが、ツグミの師であり、鳥たちの王であるヤツガシラが起きてしまう、と語る。おっとりと目を覚ましたヤツガシラ。
かつて、自分も人間であったと歌う。
ヤツガシラはかつて、鳥たちそのものが、かつてのように王を欲しておらず、憂いに沈んでいる。
そこで、ラーテフロイントは、鳥たちの城塞を築き、地上と空の間にに位置させ、神々と人間をつなぐ役割をすればいい、そして、つなぎ役として両方から手数料として税金を取るようにすればいいじゃない、というとんでもない提案をするものだから、ヤツガシラは大喜び。
鳥たちをすべて、集めようということになり、ナイチンゲールを無理やり起こし、その美声でもって、さまざまな鳥たちを終結させる。
 鳥たちは、二人の人間に懸念をいだき、攻撃を仕掛けようとするが、ヤツガシラから、彼らは友人であり、話を聴くように、ということで静まるが、ワシだけは敵対的。
ラーテフロイントは、かつて、地球が出来たときは、神様と鳥たちしかいなかった。
そこへ人間が来て、犬や仕掛けでもって、鳥たちを捕まえ、籠に押し込むようになった。
だがいまこそ、と先の計画を持ち上げ、大喝采を受ける。

第2幕

 春はじける季節、月明かりのなか、ナイチンゲールが歌い、ホーフグートは夢見心地に朦朧としたなか、二人(鳥と人間)の甘~い二重唱となる。
やがて誘いに応じ、ナイチンゲールは木から降りてきて、彼の腕にとまり、最後には優しく口づけをする。うっとりしまくるホーフグート。
草木や花々の歌までも聴こえる。この歌を聴いたものは、生涯忘れることができない・・・・と。ナイチンゲールは飛び去り、ホーフグートは地面に取り残される。

一方、完成なった鳥たちの城塞。
ヤツガシラとラーテフロイントは、大満足。
折りから、この城で初の催し、ハトの結婚式が始まる。
少し古典派風の、いかにも鳥っぽい明るい舞踏曲が始まる。
しかし、不穏な雰囲気の報が、招待客の鳥たちからもたらされる。
そこに現れたのは、プロメテウス。
最初は、そんな偉い神様とはつゆしらず、あんたは誰?と問い詰め、ちゃんとお代を払ってくださいよ、と言うラーテフロイントと鳥たち。
次第に正体がわかり、プロメテウスは、天のゼウスが目覚めたら、こんなことやってると大目玉を食らうぞ、今のうちだから、さぁ止めなさい、と忠告。
しかし、ラーテフロイントはと鳥たちは、俺たちは強いのだから、この際戦争だぁ、と取り合わない。
少しビビるヤツガシラ。
 ワシが飛んできて、わしは、ゼウスを見たぞ、その目が強く瞬くのを・・・と警告。
その時、突風吹き荒れ、ゼウスと東西南北の風たちの声がこだまし、ついに「下れ!」のゼウスの一言で、雷鳴と大嵐が起こり、城塞は崩壊。
 嵐の後には、爽やかな青空が広がります。
ホーフグートと鳥たちは、ゼウスの偉大さと全能ぶりを讃え、感謝を捧げる。
鳥たちは、みんな飛び去り、残された人間ふたり。
あ~ぁ、全部終わっちまった、とラーテフロイント。
人間社会に帰ろうということで、支度をはじめ、まずラーテフロイント。
俺は、雨に打たれてこんなにびしょぬれ、羽がある鳥たちはいいなぁ、といいつつ最初に下山。
そのあと、ホーフグート。あの月夜のナイチンゲールの歌を忘れることができず、未練を残しつつ、涙をたたえながら去るのでした。
最後に、またナイチンゲールの歌声が響き、静かに曲は終わります。

             


アリストファネスの原作との違いは不明ながら、神をも恐れぬ人間の振る舞いを鳥を戯画化して描いた、昨今の日本の雰囲気には、ちょっとばかり耳の痛い物語に感じました。
オペラだから、男女の愛も描かれなくてはならないし、バレエも入っているから、その常套手段の使い方も心憎いところ。
そして、肝心のその音楽。
 ともかく美しく、甘味で、キラキラとしております。
聴く前は、捉えどころなく手ごわいのでは、と危惧しておりましたが、完璧にワタクシ好みの音楽。
シュトラウスやシュレーカー、コルンゴルトがお好きなら、絶対にお勧めの類の音楽であります。
 ワーグナーの影響も各所にあって、鳥たちの歌や、羽ばたくところなどは、「ジークフリート」の世界だし、2幕のナイチンゲールとホーフグートの二重唱は、トリスタン的な濃厚かつクリスタルな世界なのでありまして、陶酔してしまいました。
それと、コロラトゥーラ満載のナイチンゲールの歌は、後のシュトラウスの「ダフネ」をも思い起こしました。
 最後のしみじみとした幕切れもよろしゅうございました。

ちなみに、1920年。
シェーンベルクは無調の時代で、12音間近。ベルクは、ヴォツェック前。シュレーカーは、オペラ作曲家としてモテモテ。コルンゴルトも「死の都」の年で大活躍。
そして、R・シュトラウスは、「影のない女」まで書きあげているも、まだ先にいくつものオペラを残す。

シュトラウスの作品の数々が、埋もれることなく今にいたるまで人気作品であることは、その音楽が素晴らしいことに加えて、ナチスとの折り合いをうまく付けていたから。
そんなシュトラウスも、相棒台本作者をユダヤ排斥で失ったり、いろいろと腹にすえかね、政権批判を繰り返した男気もあるのでした。
 いずれにせよ、政治が音楽に与える影響は、いつの世も大きいものです。

この退廃音楽シリーズのメイン指揮者のひとり、ツァグロセクベルリン・ドイツ響の緻密かつ雰囲気抜群の演奏は、文句ないです。
もっと濃厚にしてしまうと、何度も聴く気が失せてしまうのですが、このぐらいのすっきりぶりが、初音源としてはよいのかもです。

クォンの鈴音のような透明感あふれるソプラノには参りました。
そしてお馴染みのヴォトリヒは、悲劇性ある役柄よりは、こうした甘口の役のほうがいいみたい。
クラウスの少しコミカルなバリトンや、名リート歌手のホルツマイヤーゲルネが聴けるのも贅沢なものです。

ブラウンフェルスの音楽、今後も継続して聴いてまいります。

Keyakizaka2

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2011年11月26日 (土)

シベリウス 交響曲第1番 外山雄三指揮

Yuurakucho1

有楽町駅から外堀通りの銀座口にかけて、今年もきれいなイルミネーションが施されました。

去年は普通の電球色にパープル(ピンク)という配色でしたが、今年はレッドですよ。

いろいろ撮りましたので、またこちらの画像は登場させていただきます。

Sansyuuya1

おもわず、にっこり・ほっこりしてしまう出汁の効いた「鳥どうふ」。

ともかく、おいしいんだから。

横浜からyurikamomeさん   が、仕事でいらっしゃって、一杯(いっぱい)飲みました。

場所は、銀座の取り残された異空間大衆居酒屋「三州屋」。

もう何度も行ってますが、いつも満杯。

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ともかくネタが大きいし、味がよろしい。

プリップリの海老フライは、尻尾まで身がギッシリ。

肉厚(ほぼ2cmはありますでしょうか)のアジフライ。
この店の名物、おおぶりの牡蠣フライ。
鮮度高いお刺身。サザエの壺焼き・・・・・。

そしてたくさん飲みました。

神奈川フィルのことを中心に音楽のこと、世相のこと、美味しいお酒と食べ物で、ネタは尽きないのでした。

今回は2階の座敷に通され、4人掛けテーブルを2組の男子で相席。
いつのまにか、いっしょくたになり、この店の「キモ」であります、オバチャンを肴に爆笑しながらの飲み会となりました。
銀座にいることを完全に忘れてしまう庶民的雰囲気。
相席の方々とは、何故か半年後にまたお会いしましょう、ということになりました。

その後は、yurikamomeさんと、ウィスキーを飲んで、賑やかな有楽町から帰宅しました。
どうもお世話になりました。

Sibelius_frank_kanagawa

ということで、今日は神奈川フィルハーモニーのCDを。

某ショップで発見、あれっ、こんなのあるんだ、で即お買い上げ。

シベリウスの交響曲第1番とフランクの交響曲という、不思議な組合わせ。

指揮は、このオーケストラの1992~96年にかけての音楽監督、外山雄三さん。

1994年6月@神奈川県立音楽堂です。

神奈川フィルを聴くようになったのは、まだここ数年だけれども、なんだかずっと聴いてきたような気がする。
でも、過去の監督や常任の演奏をこうしてCDで聴いたりすることができると、やはり私はまだ神奈フィル初心者なのだと思ったりもします。

40周年記念にいただいた冊子を眺めることが多いけれど、過去演奏記録などを見ながら、あれこれ想いをめぐらすのも楽しい。
それによりますれば、今日のCDのプログラムは。

 ①柴田南雄「ディアフォニア」、リスト「ピアノ協奏曲2番」(横山幸雄)、フランク

 ②武満徹「地平線のドーリア」、モーツァルト40番、シベリウス

外山さん治世下は、ほかの客演指揮者もふくめて、日本人作品が演奏される機会がとても多かったようだ。
オーソドックスだけれど、そうすることで、特徴付けが明確となり、なかなか積極的には聴くことのない日本人作曲家への興味もわくというもの。

テレビやラジオで知る温厚そうな外山さん。
だがしかし・・・、結構厳しいのだそうな。

まぁ、それはともかく、ビルダーして神奈フィルに明確な足跡を残したことは明らかです。

このシベリウスも、ことにフランクでは、まったくこれといった特徴や耳をそばだたせる何かがあるわけではないけれど、ともかく安定感と普通さの正しさとでもいいましょうか、よけいなことを何もせず、音楽をストレートに聴かせる演奏なのでした。

危惧した、音楽堂のデッドな響きが、ここではあまり感じることがなく、生々しさと適度な響きが、潤いが大切なシベリウスやフランクにプラスとなっているようだ。
逆にストレートすぎて、ここをもっとこう歌って欲しいとか、立ち止って欲しいとかいう箇所はたくさんあるし、さらにシベリウスの終楽章では大仰さを感じたりと、わたしの好きなシベ1の演奏スタイルじゃないのも事実。
 いまの神奈川フィルの、華奢でスリムでビューティフルな響きの片鱗は、しなやかな木管と叫びすぎない金管、そして少し薄目の弦に聴いてとれる。

山田一雄、外山雄三、手塚幸紀、佐藤功太郎、現田茂夫、ハンス・マルティン・シュナイト、そして金聖響と続く神奈フィルの指揮者の系譜を思い起こしつつ、ジャケット写真のオーケストラメンバーを拝見しながら聴くシベリウスとフランク。
お馴染みの方々もたくさん確認できます。
今の神奈フィルの顔の石田&山本コンビは、ここにはいません。

その時代の神奈フィルを聴いたことがないのに、なんだか懐かしい思いで聴きました。

願わくは、この幻想的なシベリウスの1番を、現田さんか、尾高さん、または大友さんの指揮あたりの神奈川フィルで聴いてみたいものです。

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2011年11月25日 (金)

クリスタ・ルートヴィヒ オペラアリア集

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皇居を背中に、東京駅丸の内口を真っすぐに望む。

行幸通りです。

その名のとおり、天皇が行幸する通り。

このビルの谷間を通って、風が皇居にむかって流れるように吹くという都市設計にもなっていて、晩秋の昼下がり、とても気持ちがよいのでした。

Christa_ludwig

わたしの世代にとって、憧れであり、かつ親しみあるメゾソプラノ、クリスタ・ルートヴィヒ
1928年ベルリン生まれ、1994年に惜しまれつつも歌手生活を引退。
舞台映えのする美人だったし、お茶目なところもあるルートヴィヒ。
その実演に接することができなかったのが残念。

クレンペラー、ベームやカラヤン、バーンスタインのオペラや声楽のレコードには必ず名を連ねていた名歌手。
だから、わたしの音源には彼女の歌がいっぱい。

聴かずとも、その声が脳裏にこだまするほどに、慣れ親しんだ歌手。
レパートリーも広大で、ルートヴィヒによって刷り込まれた作品もたくさん。

マタイにロ短調、ドラベッラ、第9、アダルジーザ、デリラ、作曲家、バラクの妻、オクタヴィアン、元帥夫人、クイックリー夫人、エボーリ姫、ブランゲーネ、クンドリー、ヴェーヌス、ヴァルトラウテ、オルトルート、マグダレーネ、フリッカ、大地の歌、復活、亡き子、ヴェルレク、・・・・・、あぁまだあるかしら。

ともかく、ほとんどすべて聴いてるし、決定盤ともいうべきアルバムには必ず登場していたルートヴィヒ。
気品と格調高い歌は、悪役を演じてもキリリとしていてカッコよかったルートヴィヒ。
端役を歌っても、一言発するだけで、それとわかるから輝いてしまう。
過度の歌い回しもなく、真っすぐの声質による暖かい歌声だった。
人によっては、ヴィブラートを気にするかもしれないが、それもまたルートヴィヒの特徴でもある。
ソプラノの領域も楽々とこなし、元帥夫人は酸いも甘いもきき分けた深みある味わいある歌唱でした。
バッハやマーラーを歌うとき、適度な感情移入がひたひたと聴く者の心にしみ込んでくるような名唱でありました。
クレンペラー・カラヤン・バーンスタイン、3種ある「大地の歌」はいずれも絶品でございますね。
そして、ワーグナーのメゾ役はすべて聴くことができるのではないかしら。
なかでも、ブランゲーネは、もうもう絶対に、ルートヴィヒの右に出る人はいまもっておりません。
2幕、愛にふけるトリスタンとイゾルデに、優しく甘く警鐘を鳴らすブランゲーネの声は、私の中では、ブランゲーネ=ルートヴィヒとなってしまっているのでございます。

彼女の1964年録音のオペラシーンを歌った音源が復刻されております。

 1.R・シュトラウス 「エレクトラ」 オレストとの二重唱

 2.    〃    「ナクソスのアリアドネ」 アリアドネのモノローグ

 3.    〃    「影のない女」 バラクの妻のモノローグ

 4.グルック    「タリウスのイフィゲニー」

 5.ロッシーニ  「セビリアの理髪師」 今の歌声は

 6.ワーグナー 「神々の黄昏」 ブリュンヒルデの自己犠牲

   
   メゾ・ソプラノ:クリスタ・ルートヴィヒ

   Br:ヴァルター・ベリー Ms:ジークリンデ・ワーグナー
   A:長野羊奈子

  ヘインリヒ・ホルライザー指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
                     (1964 @ベルリン)


シュトラウスのオペラ好きにはたまらない、すごいラインナップにてございましょう?
さらに、ウィーンでのラストコンサートライブと組み合わせた2枚組のCDの余白には、ベリーの歌うオックス男爵のワルツとルートヴィヒのアンニーナという珍しい聴きものが挿入されております。

ここでルートヴィヒは、メゾでない役柄を大胆にも歌いこんでます。
弟オレストとの情熱的な再会を歌うエレクトラは、ドイツ語のディクションの素晴らしさと迫真の声に感動しました。
 そして、作曲家ではなく、嘆きのアリアドネを歌うそのかたわらには、のちの若杉弘さんの奥様、長野羊奈子さんがニンフ役で出てます。これまたスゴイ記録です。
 そしてドラマテック・ソプラノの最高峰の役柄ブリュンヒルデにも挑戦してます。
叫ぶようなところが一切なく、レンジの広い余裕の落ち着いた歌唱を楽しめました。

メゾの歌としては、なんといっても、というか、このCDのなかでも一番の名唱がバラクの妻。
離ればなれとなり、自己の不義理を悩むバラクの妻の張り裂けるような思いを、感動的に歌いこんでおりまして、わたくしには至高の10分間でした。

あとドイツ語のロジーナは珍品で、これは歌い口もふくめてちょっと無理がありましたね。

ルートヴィヒの幅広いレパートリーと芸の深さ、そして絶頂期の素晴らしい声を味わえる貴重な1枚です。
あと、当時の旦那ベリーの暖かな声もいつも通り。

ホルライザーベルリン・ドイツ・オペラの完璧なるオペラのピットから鳴り響くサウンドは、いまや貴重なものといっていいかも。
雰囲気ありすぎですよ。

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2011年11月24日 (木)

チャイコフスキー 交響曲第3番「ポーランド」 ヤンソンス指揮

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前にも出しました、皇居の和田倉堀。(ジュリーニの悲愴)

今度は、違う方角からで、ここにも一羽の白鳥が佇んでおりました。

都会のど真ん中の静謐な光景。

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場所柄、外人さんが多い。
わたしが、写真を撮っていたら、みなさん足を止めて写真を撮りだしてしまい、外人さんに囲まれてしまったのでした。

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チャイコフスキー 交響曲第3番ニ長調「ポーランド」

今日も、チャイコフスキーを聴いてしまう。

1875年、35歳の作品。もうすでに、「白鳥の湖」「ピアノ協奏曲第1番」「エフゲニ・オネーギン」などの名作を書いていた。
チャイコフスキーの交響曲の中で、唯一の長調で、そんなに明るいわけではないけれど、舞曲風の伸びやかな音楽にあふれた素敵な作品であります。
「ポーランド」の名前も、終楽章のポロネーズのリズムからきているそうな。

この交響曲、わたしには、バレエ音楽のように思えてならない。
明るさ、しなやかさ、そしてリズム。
楽章も5つあって、ほかの交響曲のような起承転結的なまとまりに欠けるように思うし。
恥ずかしいお話をひとつ。
この曲をレコードで初めて聴いたとき。ハイティンクの演奏だった。
盤面を確かめることなく聴き始め、全曲聴き通したら、どうも完結感がない。
そうです、B面→A面と聴いてしまったのでした。
くそっ、ともう一回、今度はちゃんと聴いたのです。
そんだけ、5つの楽章のメリハリが均一に感じて違和感なく聴いてしまった訳です。
いまなら、そんな思いは解消してますがね。

4~6番はともかくとして、ロシアの大地と民族色も匂わせる1~3番の魅力もチャイコフスキーの交響曲を聴く楽しみ。
深刻ぶらずに、適度にメルヘンを感じさせ、冬に聴くに相応しい交響曲。
構成感よりは、旋律重視のメロディアス・シンフォニーたち。
幻想的でロマンティックな1番、ロシア国民楽派的存在の2番、バレエ音楽のような3番。
そんな風な印象を持ってます。

ヤンソンスオスロフィル時代に録音した全集から。
1886年、43歳の若さあふれる指揮ぶりは、早めのテンポのなかに、リズム感あふれ弾みまくる音楽づくりと、思い切り旋律を歌わせた恰幅のよさに、この頃のヤンソンスの姿をみてとれる。
86年レニングラードフィルと来日したとき、一晩でショスタコの5番とチャイコの4番を演奏し、それがFM放送で流された。
いまでも大切なCDR化音源ですが、このスピード感あふれる情熱のかたまり的な演奏はすさまじいものでした。
片面45分づつの90分テープに余裕で収まる2曲。さらに、80分のCDRにも、ぴたりとおさまったこの2曲。

そんなヤンソンスの、いまの円熟ぶりを聴くと、瑞々しさと疾走感がとても眩しいチャイコフスキーでした。
オスロフィルの高域の澄んだ、北欧風の音色もまたうれしい。

なんだかんだで、チャイコフスキーはいいもんです。

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2011年11月23日 (水)

チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 ジュリーニ指揮

Imperial_palace

内堀通り沿いにある和田倉堀。

九段下の合同庁舎に行き、帰りは東京駅までお堀沿いを歩きました。

左手は、建て替え工事中のパレスホテルですね。

そして静かなお堀に白鳥一羽。

水面に、大保険会社や銀行系のビルの姿が映えてます。

会社の同期生が、そういえばパレスホテルで式を挙げ、由緒正しいホテルで、これまた美味なるお料理をいただいたことがあります。
もう数十年も前のことでありますが、キャビアやトリュフなるものを初めて食べたのでした。

年代的に、いまや葬式ばかりだけど、誰かわたしを、ずっとご無沙汰の結婚式に呼んで。
飲んで食べたいだけだけど・・・・。

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チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」

「悲愴」を聴こうとは思わなかったけれど、CD棚を眺めていて、ふと手にしたのが、ジュリーニのCD。
ジャケットの指揮棒を握りしめ、音楽に入り込んでいるジュリーニの指揮姿を見つめて、何も考えずに即、CDプレーヤーにセット。

あぁ、なんて、歌にあふれた「悲愴」なのだろう。

46分42秒間、まんじりとしないで聴き入りました。

1981年に海外盤で発売時即購入して、もう30年にもなる。

当時の再生装置では、アンプのみがいまも現役で、その他は引退して、視聴環境もヘッドホンのちまちま聴きという寂しい状況になってしまった。

でも、ほんとうに、もしかしたら20年ぶり以上で聴く「ジュリーニの悲愴」は、私のなかで、だいぶ印象が変わって聴こえた。

少しゴツゴツして響き少なめの固い演奏に思っていた。
 でも、久しぶりの「ジュリーニの悲愴」の印象は、豊かな歌と高貴さ、そしてロサンゼルスフィルならではの、明るめのサウンドが、耳にとても心地よかったのでありました。
少しテヌートぎみに粘りながらの歌わせかたもジュリーニならではで、それが重々しくならないのも、ジュリーニたる由縁。
毅然とした音楽への取り組みが、オーケストラを熱くしてゆき、それぞれの楽章のピーク時には全員一丸となった誠実きわまりないクライマックスを築き上げる。

変にへそ曲がりなところがって、ロシア系の演奏はあまり聴きません。
かのムラヴィンスキーの演奏も、5番のライブは聴いたけれど、CDは、ろくに聴いてません。
ヨーロッパ系のチャイコフスキーやラフマニノフが好きなのです。
「悲愴」は、アバドとウィーン・フィルが一番。
あと、ハイティンク、バルビローリ、小澤(パリ)などを好んで聴いてきた悲愴。
ジュリーニもそれらの系譜にある、わたし好みの美麗さとさっぱり感、そして歌を持つ演奏であることを、いまさらながらに認識しました。

オケがシカゴだったら、という思いはあるにせよ、ここで聴くロスフィルの少し乾いた明るめの音色は捨てがたい魅力を感じますね。
同じロスでも、メータのデッカ盤は、もっとゴージャスでオケもとてもうまく聴こえるとろが面白いところ。

衝動的に「ジュリーニの悲愴」を聴いたのでした。

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2011年11月20日 (日)

コルンゴルト 「ヴィオランタ」 ヤノフスキ指揮

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芝浦口からレインボーブリッジに登って品川方面を覗いてみました。

都心のウォーターフロントは、いまや高層マンションだらけ。

地震以降も、予想に反して大人気といいます。

海辺に住むことは、私も望むところでありますが、高層ビルはちょっとおっかないな。

やっぱり、砂浜がなくては、海じゃないし。

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エーリヒ・ウォルフガンク・コルンゴルト(1897~1957)のオペラシリーズ。

ユダヤ系であったコルンゴルトの神童ぶりとその栄光、そしてナチス台頭による亡命と忘却は、これまで何度も書いてきましたので、過去記事やwikiなどをご参照ください。

わたしの誕生月の11月のちょうど1年前に失意のうちにアメリカで亡くなってしまったコルンゴルトは、まだ60歳だった。
もう少し長生きをしていれば、ウィーンでの復活や、アメリカでのレコーディングなどを享受できたかもしれない。
濃厚・甘味なロマンティシズムの極致は、時代遅れのR・シュトラウスばりの後期ロマン派とのレッテルを貼られて忘れ去られてしまった晩年なのだが、いまや、マーラーやR・シュトラウスの大規模豊麗サウンドにすっかり慣れてしまった現代の聴き手からすれば、コルンゴルトの音楽はまったくすんなりと受け入れられるはずだ。
 しかも、われわれは数々の名作で、ハリウッドやディズニーの映画音楽に親しんでいるから、そのルーツが実はコルンゴルトの映画音楽にあるという一面も忘れてはなりません。

5つあるコルンゴルトのオペラ作品。
「ポリュクラテスの指環」(1914/17歳)、「ヴィオランタ」(1915/18歳)、「死の都」  (1920/23歳)、「ヘリアーネの奇跡」(1927/30歳)「カトリーン」(1937/40歳)

いうまでもなく、「死の都」が一番有名で、RCAのラインスドルフ盤がかつての火付け役となって、コルンゴルト・ルネサンスに一役買ったけれど、いまや数種の映像と音源が手に入る状態となっております。
しかし、それ以外の4作は、それぞれ唯一つの音源のみでもって今日にいたっております。
アナログ時代末期にCBSが録音した「ヴィオランタ」は、そのレコードが発売されたときに、ワーグナーやシュトラウス歌手を集めた豪華な配役と、リングの録音で名を上げたヤノフスキの指揮でもって、私の興味を惹いたものでした。
そして、美しい、でも少し劇画チックなジャケットも気になったところでして、その時は、どんな曲だろうと思いつつも購入することはありませんでした。
ラインスドルフの「死の都」も同じでしたね。
CD時代になって、CBSがオペラ音源を豪華なボックス装丁にて数々発売したなかにも、この「ヴィオランタ」は入ってまして、その時もスルー。

コルンゴルトに魅せられてから、そのオペラすべてを聴くという試みのなかで、当然に「ヴィオランタ」を入手しなくてはなりません。
そして、2年前にamazonで、そこそこのお値段で貴重なる新品を購入。
以来、ほかのコルンゴルト作品と同じように、宝物のように扱い、聴いてまいりました。

いよいよ、「ヴィオランタ」を取り上げます。

 

若きエーリヒは、ウィーンで活躍していた音楽評論家の父ユリウスの尽力や政治的な活躍を得て、神童として順風満帆の日々。
ウォルフガンクという名前じたいが、そう、モーツァルト親子を思わせますね。
まったくその通りをねらった父ユリウスだったのです。
ウィーンの台本作家ハンス・ミューラーに書かせたイタリア・ルネサンス期の物語ふたつ。
ひとつは、フィレンツェの有名な改革者サヴォナローラのもの、もうひとつはベネツィアを舞台とするヴィオランタの物語。
当時、イタリアでは、プッチーニが巨匠の名を欲しいままにし、ヴェリスモオペラ全盛期。
生々しいドラマとして、ヴィオランタが選定され、作曲されることとなった。

ザルツカンマーグートでの避暑中にあらかた書きあげたこのオペラ。
そこでのピアノによる試演には、シリル・スコットやグレインジャーも立ちあっていたそうな。
英国周辺音楽好きとしては、うれしい時代の符合です。
そして、前作「ポリュクラテス」の時と同じく、ブルーノ・ワルターの指揮での初演を企画。
1916年3月、ウィーンの国立歌劇場での初演は、人気ソプラノ、マリア・イエリーツァの主役もあいまって、大成功に終わったといいます。

当CDの解説には、そこに居合わせたカール・ベームのこの録音に寄せたコメントも載せられておりまして、なんと、ベームがコルンゴルトと親しい友達だったことや、ダルムシュタットで、この作品をベームが指揮して、そこでも大成功を得たことなどが書かれておりました。

ともかく、亡命前のコルンゴルドは、クラシック作曲家として、若い日々に大成していたとうことが充分にうかがわれます。
ゆえに、亡命後は映画音楽の作曲家として成功しつつも、戦後は本来のクラシック音楽家として顧みることさえされず、消えていったコルンゴルトの心中たるやいかばかりでしたでしょうか。

  コルンゴルト 歌劇「ヴィオランタ」

   シモーネ・トラファイ:ヴァルター・ベリー  
   ヴィオランタ:エヴァ・マルトン
   アルフォンソ:ジークフリート・イェルザレム
   ジョヴァンニ・ブラッカ:ホルスト・ラウベンタール 
   バルバラ:ルート・ヘッセ
   バイス:ゲルトラウト・シュトコラッサ    
   マッテオ:マンフレート・シュミット
   第1の兵隊:ハインリヒ・ウェーバー   
   第2の兵隊:パウル・ハンセン
   第1の給仕:カリン・ハウターマン     
   第2の給仕:レナーテ・フレイアー

  マレク・ヤノフスキ指揮 ミュンヘン放送管弦楽団
              バイエルン放送合唱団
       録音監督:ジョージ・コルンゴルト
               (1978年@ミュンヘン)


時は、15世紀ベネツィア。
ベネツィア共和国軍の司令官、シモーネ・トラファイの邸宅。
バルコニー形式となっていて、街と運河が見渡せる。
このCDジャケットの絵、そのまま。
そして、そのままの物語。


「ベニスといえば、謝肉祭。そのカーニヴァルその日。
外からは、賑やかな人々や船乗りたちの歌が聴こえる。
給仕たちや、シモーネ配下の兵隊たちが、若くて美しい女主人ヴィオランタの姿が見えないことや、彼女がずっとふさぎこんでいることなどを話題にしている。
そんな中のひとり、マッテオは彼女に惚れていると、みんなに揶揄されたりしていているが、バルバラとマッテオはヴィオランタの妹の悲劇が尾を引いていると話す。
 そこに、シモーネが帰ってきて、騒がしい皆をたしなめ、ヴィオランタの所在を問いただす。皆が去ったおと、画家のブラッカがやってきて、女をたくさん従えた、あのアルフォンソがベネツィアにやってきた、と報告するので、シモーネはヴィオランタがアルフォンソと会いはしないかと、心配する。
 すると、当のヴィオランタが静かに帰ってくる。
二人きりになり、優しいシモーネに、少しづつ話始めるヴィオランタ。
街でアルフォンソに会ったこと、妹が彼に振られて傷心のあまり自殺してしまったことへの怒り、その当の本人アルフォンソへの怒りを歌う。
そして、ここへ呼び出したから、わたしがあの船乗りたちの歌を歌ったら、部屋に入ってきて彼を殺して!
えーーーっと、大声をあげて躊躇する夫へと実行を迫る。
私を愛してるならやって、のお願いに、すっかりその気になったシモーネは、別室へと隠れる。

ひとりになったヴィオランタ。
アルフォンソを待ちうけながら、カーテンを締める。
外に、船のつく気配と、甘い歌声。
カーテンを引き、ついに登場のハンサムボーイ、アルフォンソ。
一曲歌いましょう。いいの、それが最後の歌になるから・・・と断るヴィオランタ。
わたしを知らないの? え?
ネリナは、わたしの妹よ! え、まさか!
あなたはここで死ぬのよ!
こんなやり取りのあと、アルフォンソは、神妙に、そして愛情をこめて、このオペラ最高のモノローグを歌う。
あなたは私を殺すにしても、聴いてほしい。わたしは、ネリナを心から愛していた。
あの日以来、母はわたしを追いやり、家もなく安らぎもなく心休まる日々はなかった・・・・。

アルフォンソは、ヴィオランタの目にかつての恋人を認め、熱烈に愛情を告白。
ヴィオランタも、初めて会ったときから愛していたの、と熱き二重唱となる。
そこへ、シモーネのヴィオランタを呼ぶ声。
何度も何度も呼び、アルフォンソは、例の歌を歌ってシモーネを呼び、いまのわれわれのことを話そう、わかってくれるさ、と。
ヴィオランタは、動揺しながらも、どぎまぎとした様子で船乗りの歌を歌うと、シモーネがどれどれと入ってくる。
 手を取り合った二人が、実は愛してま~す、と言うものだから、怒り心頭に達し、アルフィンソに襲いかかる。
その時、ふたりの間に身を呈して入ったヴィオランタは、シモーネの刃を受けて倒れる。
悲しむシモーネ。
わたしは、罪と恥から、これで解放されたの・・・・、と微笑みつつ事切れるヴィオランタ。」

            

急転直下の展開と殺人による死の結末。
しかも単幕74分。
解説にもありますが、ジャーマン・ヴェリスモと呼んでいいかもしれません。
筋だけを読むと、何だかなぁ~になってしまいますが、ここの展開するコルンゴルトの音楽の素晴らしさは、ドラマの稚拙さを補ってあまりあります。
 そう、17~18歳の若者にしては、驚くべき愛憎劇と人間心理の把握。
そこに付けらたあまりにも巧みな音楽構成。
ことに、最後の大団円で、死の淵にあるヴィオランタのセンチメンタルな別れと、その背景ではオーケストラが次いで合唱が、カーニバルの喧噪を遠巻きに描くという二重構造。
 アルフォンソを待ちうけ、バルバラに髪を梳いてもらい、子供の頃のおとぎ話をする場面。
ここがとてもキレイなのですが、そう、「オテロ」の死を前にしたデスデモナのシーンを思い起こしてしまう。
そして、ライトモティーフの効果的な使用も音楽をより明快なものにしていると思う。

当時の大ベテランと、新進歌手の組み合わせ。
ベリーヘッセ、ラウベンタールといった特徴あふれるしっかりした歌唱のベテラン勢。
主役ふたりは、本格活動を始めたばかりの旬の歌手。
イェルザレムは、まだヘルデン級でなく、リリカルさも残る新鮮な歌いぶりで、少しばかり青臭いところが、この夢中な役柄に合ってます。
マルトンは、シモーネに殺しの計画を語る訥々としたところから、ブリュンヒルデ級の怒りの歌唱までさすがと思わせるドラマテックな歌唱。
アルフォンソとの甘い二重唱もいい。
 当時だったら、コロとシントウのコンビもよかったかも。
いまなら、フォークトとダッシュ。

そして、ヤノフスキの指揮するミュンヘンの放送オケが実にうまくて、キラキラしてます。
この作品が、ドイツオペラの系譜にしっかり位置していることがよくわかります。

コルンゴルトのオペラ 過去記事

  「ポリュクラテスの指環」 ザイベル指揮

  「死の都」 ラニクルズ指揮

  「カトレーン」 ブラビンス指揮

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2011年11月19日 (土)

結婚式に・・・・もう一度、お願いランキング

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まだ肌寒い春に・・・、の、ような桜のアップ写真ですが、これはこのところ掲載してます、群馬のフユザクラ。
年に二回もお花見が楽しめるなんてエエですなぁ~

そして、そう何回もしない方がいいかも、でも、またやってみたい、けれども人のなら何度出ても楽しいのが・・・・・・結婚式ですな。

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ピンクリボンをあしらってみました。

お願い戦士たちも、ますます萌えぇ~ですな。

前回「死んだら」企画を出したところで、今回のお願いランキングは、「結婚式に流したいクラシック音楽」ということで。

いまを去ること、ウン十年前、ワタクシの結婚式では、お好きな音楽を流してもいいですよ・・ということになり、わたくしが音楽担当ということで、好き勝手やらせていただきました。
ただひとつ言えることは、最初こそ、ジャ~~ン!と、式場に盛大に鳴り響いて、おぉーーってなことになりましたが、宴も進み、酒も進むと、流れている音楽なんて、まったく関係ない。
おまけに、注ぎにきて、そこで一緒にイッキ飲みを強要する会社の連中ばかりだったから、死ぬほど飲まされてしまって、ヘロヘロになったわたし。
なにがなんだかわからずに、終宴の父の挨拶になってしもうた。

そんなムチャクチャな式でしたが、心ある人(?)は、「○○さんらしい、いい式に、音楽でしたね」と言っていただいたので、とっても嬉しかったりしましたね。

まずは、その時の選曲をここに、式の順番に記憶をたどって書いてみます。

①ワーグナー 「ローエングリン」~結婚行進曲 ケンペ

②ショパン ピアノ協奏曲第2番~2楽章 ポゴレリチ

③ラヴェル ピアノ協奏曲~2楽章 アルゲリッチ

④プッチーニ 「蝶々夫人」~ハミングコーラス シノーポリ

⑤ディーリアス 「村のロメオとジュリエット」~楽園への道 バルビローリ

⑥ラフマニノフ 交響曲第2番~2楽章 プレヴィン

⑦マーラー   交響曲第3番~愛が私に語ること アバド


こんな感じでした。
この間、かみさんの好きな曲や、ユーミン、ビージーズ、N・キング・コールなども。

亡き父が、最後に出口に立ち、訥々とご出席の皆さまに挨拶を述べたときの、最後のとっておきの音楽が、⑦のマーラーでした。
わたくし、感極まって、はらはらと泣いてしまったのでした・・・・。

父の思い出とともに、人生で忘れられないシーンのひとつであります。

そんな新鮮な結婚も、いまや・・・・・・・・(無言)。

いま、もう一度、結婚式をあげるなら、お願いランキングぅ。
ランクは順不同です。

①ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲

②R・シュトラウス 「ばらの騎士」 前奏~銀のバラの贈呈~終幕

③モーツァルト 「フィガロの結婚」 全部のアリアを垂れ流し

④チャイコフスキー 交響曲第5番 2楽章

⑤シューマン ピアノ協奏曲 2楽章

⑥ディーリアス 「夏の庭園で」

⑦バッハ カンタータ「心と口と行いと生きざまをもって」

⑧プッチーニ 「蝶々夫人」 二重唱

⑨RVW 「揚げひばり」

⑩コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲

☆☆☆マーラー 交響曲第3番~「愛が私に語ること」


長すぎの式になりそう。

初回の自身のランキングも、実は我ながら素晴らしくて、どちらも捨てがたい。
そして、マーラーの3番はテッパンですな

いじれにせよ、幸せな音楽は聴く人も幸福な気持ちにします。
死んでも、生きても、きっと音楽は常に自分と共にあると思います。

これから、ご結婚の若い衆、音楽婚、企画しますよ(笑)

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2011年11月17日 (木)

ヴォーン・ウィリアムズ 南極交響曲 ボールト指揮

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さすがに行ったことない「南極」ですよ。

Google earthをよく利用してますが、これもさすがに南極を見てみることはなかった。

街並みが手に取るようにわかる画像は、これまたさすがにありません。

ともかくデカイ。この氷の塊が溶けたら、とんでもないことになることがよくわかりました。

この未知の大陸に人間は100年前から何度もトライしていて、いまや各国が基地を設けて研究にいそしんでおります。
そのなかでも日本の昭和基地は歴史も古く、実績も豊かで心強いですな。

昭和基地のブログを発見しましたよ。 →昭和基地NOW
珍しい写真がたくさん掲載されてまして、地球は未知でかつ広く、そんな地に日本人同胞が頑張っていると思うと心強くなりました。

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レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(RVW:1872~1958)の交響曲シリーズ。

交響曲第7番、「南極交響曲」。

番号付き交響曲だけれど、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲は標題付きのものだと、番号で呼ばずに、標題で呼ぶことが多い。
「海の交響曲」(1番)、「ロンドン交響曲」(2番)、「田園交響曲」(3番)、そして「南極交響曲」です。

南極○号というと、とんでもないことになるけれど(笑or18禁)、南極第7交響曲というと、いかにもスペクタクルでミステリアスな感じであります。
実際、このR・シュトラウスばりの、標題性豊かで、写実的な交響曲は、まるで「アルプス交響曲」の南極バージョンのような感じなのです。
オルガンがギンギンに鳴って大氷河の絶景を思わせるし、ウィンドマシンも極めて寒々しい効果をあげている。さらに、ひょこひょこ歩きのペンギンまで模写されてるんだから。

多彩なRVWの9つの交響曲のなかでも、交響詩的かつ映画音楽風。
それもそう、「南極のスコット」という映画につけた音楽をベースに自身で5楽章編成の交響曲に編み直したものだから。

ちょっと手抜きをして、過去記事をそのままコピーしておきます。

>作曲者は「SINFONIA ANTARTICA」というイタリア語の表示を与えた。1951年、80歳という年齢での作品で、驚くべき創作意欲である。
ベースの映画は、1912年に南極点を目指したイギリス、スコット隊の遭難の悲劇を描いたものらしい。一度音楽付きで観てみたいものだ。
 ちなみに、スコット隊に先んじること1ヶ月前には、ノルウェーのアムンゼン隊が南極点に到達している。アムンゼン隊は極点のみをひたすら目指し、スコット隊は途中、学術的な研究や観察を経ながらの進行ゆえに差と悲劇が生じたと言われる。

肝心の交響曲は、大編成のオーケストラによる「南極」の描写音楽という要素に加えて、大自然に挑む人間の努力やその空しさ、最後には悲劇を迎えることになり死を悼むかのような悲歌に終わる。こんな一大ページェントなのだ。
 シュトラウスのアルプス交響曲のような楽天的な派手さはなく、常にミステリアスで、悲劇性に満ちた交響曲になっている。
描写の部分では、氷原を表わすような寒々しいソプラノ独唱や女声合唱、滑稽なペンギンや鯨などが表現される。怪我をした隊員が足手まといになることを恐れ自らブリザードの中に消えてゆく・・・、こんな悲しい場面もオーボエの哀歌を伴って歌われている。
 最終楽章では、大ブリザードに襲われ壊滅をむかえてしまう。嵐のあとは、またソプラノや合唱が寒々しく響き、全く寂しい雰囲気に包まれる。ウィンドマシンの音が空しく鳴るなか曲は消えるように終わる。<

ここに記したように、大自然に挑む人間の営みの偉大さと、空しさが、RVWの練達の筆致でもって描かれております。

この曲の演奏は、プレヴィンとロンドン響の明確でわかりやすい演奏がいまもってNO1と思ってます。
それと、ハイティンクの楽譜に忠実な壮大な演奏と、ブライデン・トムソンの勇壮なる男性的な演奏。
そして、今宵久しぶりに聴いた、サー・エドリアン・ボールトの指揮するロンドン・フィルの毅然とした演奏も極めて素晴らしいのです。
スコット隊の使命感と到達後戻ることのできなかった彼らへのレクイエムのように、悲しみと哀感に溢れた名演であります。
プレヴィン盤では、オリジナル通り、ナレーションが入ってじつに雰囲気豊かなのでありますが、ボールト盤は寒々しいノーマ・バロウズのソプラノと合唱だけで、却って背筋が凍りつくような効果をあげております。

寒くなったここ数日。
これ聴いて、確実に体が冷えてしまったです。
風呂入って寝よっと。

希望が無限なように思われる苦難を耐え忍ぶこと。・・・・ひるまず、悔いることなく、全能と思われる力に挑むこと。このような行為が、善となり、偉大で愉しく、美しく自由にさせる
これこそが人生であり、歓喜、絶対的主権および勝利なのである」(シェリー詩)
1楽章の引用句。

「私は今回の旅を後悔していない。我々は危険を冒した。また、危険を冒したことを自覚している。事態は我々の意図に反することになってしまった。それゆえ、我々は泣き言を言ういわれはないのだ。」  
遭難後、発見されたスコット隊長の日記。
終楽章に引用された一節。

※プレヴィンの記事、レコード解説より

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2011年11月16日 (水)

ビル・エヴァンス 「POTRAIT IN JAZZ」 

Otemachi

寒いです。

都会の真ん中の歩道の脇もこんな風に、銀杏の落葉が落ちて、いい感じになってます。

今年は暑かったせいか、葉の色づきがいまひとつのようで。

紅葉を愛でるまもなく、季節は冬に突入でしょうか。

被災地にも厳しい冬となってしまうのでしょうか。

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こんな名作、いまさら取り上げるのも気がひけますが、本日はジャズ分野から、ビル・エヴァンス「ポートレイト・イン・ジャズ」を。

秋から冬にかけての季節に聴くのに最適の音盤のひとつ。

まず、ジャケットがいい。

小学生からのクラヲタでありながら、中学生でビートルズに芽生え、高校生でブリティシュルロック、大学生で軟弱にAORや日本の歌に共感し、社会人となって大人酒をたしなみながらはまったのがジャズ。
なかでも、ビル・エヴァンスはそこそこレコードを揃えました。
まだCDが本格登場する前だったから、そのジャケットの数々は、スピーカーの上のジャケットスタンドとして、壁掛けのインテリアとして、その音とともに、大いに楽しんだのでした。
そうしたなかでも、最高位に素晴らしいジャケットがこのビル・エヴァンス。
いまでも、充分通用するかっこよさ。
神経質そうなビルの髪型とメガネ、そしてタイとシャツ。

スタンダードナンバーを集めた魅力ある選曲は、永年のリスナーも、初心者も、みんな虜にしてしまうようなスマートでかつ抒情的な演奏。
異論あるかもしれませんが、わたしにとって、このアルバムは、ジャズの平均律(バッハ)みたいな存在です。
1959年という年代の録音も聴いててうれしいものです。
少しデッドですが、雰囲気あふれる録音は実に親密な感じで、小粋なバーで、カウンターでひとり腰かけながら、ウィスキーグラスを傾ける、そんな雰囲気にぴったり。
CD化にあたって、モノラルによる異なるバージョンが収録されてます。

 1.「降っても晴れても」  
    Come rain or come shine

 2.枯葉(2バージョン)
    Autum leaves

 3.ウィッチクラフト
         Witchcraht

 4.ホエン・アイ・フィール・ラブ
        When I fall love

 5.ペリズ・スコープ
        Peri's scope

 6.恋とはなんでしょう
       What is this thing called love?

 7.スプリング・イズ・ヒア
       Spring is here

 8.いつか王子様が
       Someday may prince will come

 9.ブルー・イン・グリーン(2バージョン)
       Blue in green

         Pf:ビル・エヴァンス
    
    Bs:スコット・ラファロ

    Ds:ポール・モチアン

           (1959.12.28@ニューヨーク)


冒頭の曲が始まるだけで、もうそこはシャープでキレのいいビル・エヴァンスの世界。
トリオのメンバーは、その後何度も変わったけれど、この頃の初期メンバーが、シャープさとアナログ的な温もり感でもって一番いいと思う。

枯葉はこんな風に聴くと、歌付きの女々しい曲とまったく違って聴こえます。
でもわたしは、冒頭の曲と④、⑦が渋くって好き。
この人の、少し湿っぽいピアノが心に響いてきて、お酒も愛おしく思えるから。

クラシック音楽好きの方なら、ビル・エヴァンスのピアノは絶対共感いただけると思います。

過去記事

「ビル・エヴァンス I will say goodbye」

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2011年11月15日 (火)

ブルックナー 交響曲第2番 若杉弘指揮

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群馬県藤岡市にある桜山公園から。

今月の初め、親類のお墓参りに行って立ち寄った場所。

紅葉と冬桜が一緒に味わえる素晴らしい光景でした。

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遠くに山々を望み、手前は冬も近いのに桜。

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ブルックナー交響曲第2番ハ短調

何度か表明しておりますが、ブルックナーの交響曲のなかでも、地味でひっそりと佇む風情の1,2,6番の3つが大好きです。
5番や後期の作品は、それはそれは素晴らしいのだけれど、感動しなくてはならいから、かえって聴くのに構えてしまう。
その点、これら日陰者3兄弟は、さらりとしていて、普段聴きができる。

だからその演奏も、やたらと立派でなくていい。
カラヤンやショルティの都会的演奏ではもっとも困るし、極度に厳しくてもいけない。
ウィーンフィルの美音は魅力だけれども、もっと鄙びていた方がいい。

変なこだわりが過ぎると、後で、つじつまが合わなくなっちゃうからやめときます。
私が抱く3兄弟のイメージを述べたまでです。
いずれも、抒情的で野辺や山々自然の光景を思わせる緩徐楽章を持っていて、それらがともかく美しくって、私はそれがまた大好きなんです。

そして、48歳、壮年期の2番。
ハ短調という調性ながら、この曲には平和で伸びやかな歌が溢れる明るい音楽に思える。
特に1楽章と2楽章がいい。
金管による信号風のリズムを伴ったファンファーレは1楽章全体を支配するほか、終楽章でも活躍するが、対する第3主題が実に麗しくて気持ちがよい。
深呼吸したくなる。
同様に、自然観と神への感謝に満ちた2楽章があまりにも素敵。
大昔のヨーロッパ旅行で車窓から見たスイスの町。
教会の尖塔があり、路角にはイエスの像や十字架があり、斜面には花々が溢れている。
遠い山には白い雪。
そんなイメージをずっと持ち続けているのが、ブルックナーの緩徐楽章の世界。
とりわけ、この2番と6番、そして1番が素晴らしいのです。
この2番の残りのふたつの楽章は、前半に比べると少しばかり弱く感じますが、それでも充分にブルックナー的で、かつ地味さ加減がよろしいのであります。

今日の演奏は、若杉弘さんが、92年にザールブリュッヘンにて録音した演奏。
これは素晴らしいです。
わたしが欲するこの曲のイメージを過不足なく描いてくれてます。
無為の勝利とでもいいましょうか、楽譜に真摯に対峙して、自然体で演奏したらこうなった、という感じです。
若杉さんのブルックナーやマーラーは、こんな風な肩肘はらない平常心の演奏が音楽のよさをくっきりと浮かび上がらせるところに魅力があると思うのです。
オーケストラが、的確で細やかな指揮に、何の苦労もなく反応して気持ち良さそうに演奏しているのがわかります。
ザールブリュッヘン放送響は、この演奏と併行するかのように、スクロヴァチェスキと全曲録音を同じレーベルにしましたが、わたしには、若杉さんとそうして欲しかったと思えてなりませぬ。
2番のほかには9番のみしか残さなかったこのコンビ。
その第9は、晩年の東京フィルとの感動的な名演がCD化されております。
それと、N響とのブルックナー全曲演奏も一部しかCD化されずじまいで、同時に演奏されたメシアンとともに、是非とも音源化していただきたいものです!

ブルックナー 交響曲第2番の過去記事

 「ジュリーニ&ウィーン交響楽団」

 「ヴァント&ケルン放送交響楽団」

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2011年11月13日 (日)

ヴェルディ 「ルイザ・ミラー」 クレヴァ指揮

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明治~大正にかけての、とある館の一間から。

とあると申しましたが、画像ストックから、以前訪問した、青森の金木町にある太宰治の「斜陽館」なのです。
当時の大地主・津島家に生まれた太宰治。
才覚ある人々を輩出したこの家の歴史も垣間見ることができました。

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窓の外は、折りから降り出した雨模様の庭園。

美しいのであります。

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ヴェルディのオペラ「ルイザ・ミラー」を。

26作(改作を除く)あるヴェルディの歌劇のうち、14番目の作品は、中期様式の始まりともいえる存在で、ひとつ前が「レニャーノの戦い」、ひとつ後が「ステフェリオ」とそのあとの「リゴレット」、「トロヴァトーレ」「トラヴィアータ」と名作が続く。
ズンチャッチャと番号形式のアリア中心の前期、オーケストラがより雄弁になり祖国愛から心理ドラマへの傾倒を深めつつある中期、音楽と人間ドラマとの深い融合と歌とオーケストラとの高次元な高まりの後期。

どうしても、後期作品ばかり聴いてしまうのは、ヴェルディファンに怒られるかもしれませんが、同時代の北のワーグナーとの対比において、わたし的に互角に聴けうるのは後期作品だと勝手に思っているからであります。
ワグネリアンから見たヴェルディゆえに、ひとえにお許しください。
事実、26作中、まだ半分の13作品しか音源は揃えておりません。
レコード時代、フィリップスがガルデッリの指揮で進めた前期~中期の録音の数々。
いつか聴きたいと思いつつも、結局は、オペラの題名と存在を覚えるだけで終わってしまって今日にいたってます。
いつかは、ワーグナーやシュトラウス、プッチーニと同じように、全曲コンプリートしたいと願うヴェルディ作品であります(モーツァルトも!)。

「ルイザ・ミラー」は、前期中期の橋渡し的な性格を有しつつ、有名なアリアや耳にうれしいヴェルディならではの弾むリズムに、伸びやかな旋律の数々。
そして劇的なオーケストラの扱いなどに、中期の幕開けを感じます。
それらが、まだ散漫に成り立っている印象もなくはないが、やはりヴェルディはヴェルディ。
聴いていて、人の気持ちにすぅーっと入ってきて、心掻き立てる歌とリズムでもって、いつの間にか夢中にさせてしまう魅力を持ってます。
ワーグナーの魔性とまた違った、ヴェルディのあらゆる人に訴えかける力であります。

原作は、ベートーヴェンの第9のフリードリヒ・フォン・シラーの「たくらみと恋」。
悪計によって富と地位を得た新興勢力と、やや落ち目の退役軍人の家庭。
それぞれの出自の若い男女の悲恋の物語であります。

1849年、ナポリ・サンカルロ劇場にて初演。

17世紀 スイスのチロル地方。

第1幕  

 第1場 村の街角

 今日は、ルイザの誕生日で、人々がそのお祝いに集まっていて、その美しさを讃えている。でも、ルイザは浮かない顔で、愛するロドルフォが来てくれないことを語り、父ミラーは、その背景のわからない男に不安を覚える。
ルイザは、彼と会ったときのときめきを歌う。
そこへ、当のロドルフォがやってきて、父ミラーとも挨拶し、恋人同士・村人・父ミラーがそれぞれの思いを歌う重唱となり、やがてミラーを残し教会へ消えてゆく。
 次に現れたのは、ヴァルター伯爵の秘書官ヴルムで、彼はミラーに対し、あなたの娘を愛してます、以前の約束どおり結婚させて欲しいと語るが、ミラーは、わたしは父親として子供の気持ちを優先したいとアリアを歌って答えるものの、ヴルムは、実はあの男(ロドルフォ)は、ヴァルター伯爵の息子なのですよ、と打ち明けて立ち去るので、ミラーの不安な心境はより複雑になる。

 第2場 ヴァルター伯爵の城の中

 伯爵にヴルムが、ロドルフォが村で娘と恋仲になっていると告げるので、よし、わたしが話してみようとなる。ヴルムが去った入れ替わりにやってきた息子に、ヴァルター伯は、同じ屋根のもと一緒に過ごしていた従妹のフェデリカと結婚するようにと命じる。
彼女は未亡人となり帰宅してきている。
フェデリカと久しぶりの対面に、少年少女時代の館での日々を語るも、ロドルフォは、神の前に嘘はつけないとして、実は愛する人がいると語り、フェデリカは嫉妬心を強くいだく。

 第3場 ミラー家の部屋

狩りの帰りの人々の歌声が聴こえる。狩りのあとに来る約束のロドルフォを待つルイザ。
父ミラーは、彼女にロドルフォはカルロといい、ヴァルター伯の息子であることを告げ、さらに城では結婚の準備が進められていると語るので、ルイザは蒼白となる。
 そこへ、ロドルフォがやってきて、名前は変われど、自分の愛する気持ちに変わりはないと父娘に熱く語る。
さらにそこへ、ヴァルター伯が入ってくるので、驚く一同。
ヴァルター伯は、財産目当ての結婚話で騙したとして、ミラー親娘の逮捕を警官に命じるので、ロドルフォは剣を抜き、体を張って阻止しようとして、さらに、父親に対し、あんたの成功の秘密をばらしてやる、とすごむので、やむなく父親一行は退却する。

第2幕

 第1場 ミラー家の部屋

 村人がやってきて、ルイザに一人の老人が警察に連れていかれるのを見たと話すので、ルイザは父親の捕縛を確信する。
そこへヴルム登場。ヴルムは、父親を助ける方法があると言って、手紙を口述してルイザに書かせる。それは、ロドルフォを愛していなかったこと、そして財産目当てであったこと、という内容のもので、書きながらルイザは苦しい胸の内を歌う。
さぁ、あとひとつ、とアコギなヴルムは、城に一緒に来て、ある婦人に、わたしは、ヴルムを愛してますと話せと父ミラーの助命と引き換えに強要するのであった。

 第2場 ヴァルター伯の城の一室

 伯爵は、盲目の愛に走った息子を思っている。そこへ、ヴルムがやってきて、先代の伯爵の従兄を二人して暗殺したことをロドルフォが感づいているのではと、不安になり恐れている。伯爵は、大丈夫だ、おまえは守ってやると約束する。
それより、ルイザはどうした? 万事うまくいっている、いまここに来てるし・・・・。
 フェデリカが入ってきて、ルイザとご対面。
ヴルムは、父親がどうなってもいいのかね・・、とルイザに耳打ちし、フェデリカの愛している人は?の問いかけに、ルイザはヴルムと答える。
そのときの、苦しそうな様子を見逃さなかったフェデリカが、さらに食い下がって問い詰めると、あらためて、ヴルムとの返事をもらい喜々とするフェデリカであった。

 第3場 城の庭園

 ロドルフォのもとに、農夫が一通の手紙を持ってくる。
ロドルフォにと、ルイザから預かったものとのことで。
手紙を読み、ヴルムを呼ぶようにと農夫に頼み、そして、ルイザの直筆の言葉に愕然とし、裏切りをなじるロドルフォ。
悲しんで、そして楽しかった日々を思って、あまりに美しく素晴らしくも有名なアリア「静かな夜には」を歌う。
 ヴルムがやってくるが、ロドルフォは、ここで俺たちは死ぬのだ、と決闘を申し出てピストルを構えるが、へたれのヴルムは空にむかって発砲して逃げ去る。
その音を聞いた父ヴァルター伯と人々が出てくるが、ロドルフォは、父さん私は裏切られたよ、と語り、父はそれでは変わりにフェデリカと結婚したらいいと提案し、気持ちの切り替えにもなるしと、ロドルフォは、了承してしまう。

第3幕 ミラー家

 悲しみに沈むルイザを慰めようと、村娘ラウラと人々がやってくる。
教会では、ロドルフォとフェデリカの結婚式が行われているが、そんなことは彼女に言いようがなく、彼女はデスクで手紙をしたためている。
人々が去ったあと、父ミラーがやってきて、自分を救うため犠牲を払ったことをヴルムから聞かされて、娘を優しく慰める。
ところが書いている手紙の中身を見て愕然とする。
それは、ロドルフォに宛てた遺書のようなもので、ミラーは涙ながらに老いた父をひとりにしないで欲しいと懇願し、ルイザも神にそむいたことを反省し、それならばと、生まれ故郷のこの住みなれた村を離れましょうと提案し、父娘は貧しくとも見知らぬ土地への思いを歌う。外では教会のオルガンが響き、この音色もこれが最後とルイザはひとり思う。
 ロドルフォが静かに執事とともにやってきて、父とヴルフをここに呼んでくるように、と命じて、自分は隠し持った毒薬を秘かにテーブルの飲み物の中に入れる。
ルイザは、ロドルフォの出現に驚き、手紙を書いたことを認め、そして喉の渇きを覚えたロドルフォに先の飲み物を注ぎ、彼は飲み、残りを彼女に飲み干すように言うが、ここでは彼女は拒む。
ルイザの裏切りをなじるロドルフォ。この飲み物には毒が入っていると語るロドルフォ、彼女は、手紙はヴルムに書かされたことを告白し、カップを飲み干す。後悔するロドルフォ。
人の気配にやってきたミラーはこのありさまに愕然とし、二人は自分たちを天国が受け入れてくれると歌い、ミラーは娘よ待ってくれ、と悲しみに暮れる3重唱となる。
父の腕のなかで事切れたルイザ。そこへ大挙して飛び込んできた父親一行。
最後の力をふりしぼり、罰を受けよと、ヴルムを刺殺し、父にはこれがあなたの罰だ、と叫んで、ルイザの傍らに倒れる。

                幕
 
  ルイザ:アンナ・モッフォ              ロドルフォ:カルロ・ベルゴンツィ
  ミラー:コーネル・マックネール    フェデリカ:シャーリー・ヴァーレット
  ヴァルター伯爵:ジョルジョ・トッツィ  ヴルム:エツィオ・フラジェッロ
  ラウラ:ガブリエレ・カルトゥラン    農夫:ピエロ・デ・パルマ

   ファウスト・クレヴァ指揮 RCAイタリア・オペラ管弦楽団
                         〃      合唱団
                            (1964@ローマ)


あれよあれよと進むスピーディな物語の展開に、ストーリーだけを読むと、荒唐無稽に思えるけれど、ヴェルディの音楽は聴けば聴くほどに素晴らしい。
ロドルフォの高名なアリアを筆頭に、大きなものではないが、各人物たちにも素敵なアリアが随処にあって聴きごたえあります。

悪漢は、後年のものほど音楽が悪人らしさを後押ししていないように感じるし、悲劇の掘り下げも同様にまだ未完成の感ありだけれど、ヴェルディお得意の母亡き父娘の愛情劇は、とても麗しく、3幕などは涙が出そうになる。

わたしのCDは、古目のRCA録音で、当時、このメンバーでたくさんのイタリアオペラ録音がなされています。
モッフォの美人ジャケットが目立つけれど、その歌は少しばかり声の衰えを感じます。
蝶々さんやミミは、奮い付きたくなるほどに素敵なのに、このルイザは陰りが多過ぎるような気もします。でも、悲しみの色合いがほどなく出てくるその歌声には、わたしはとても魅力を感じます。薄幸の女性、それも、可愛い系でない大人の雰囲気の歌声。
そんな素敵なモッフォさまでございます。

そしてこの音盤のなんといっても目玉は、ベルゴンツィの耳洗われるようなスタイリッシュで気品に満ちたテノールなのです。
これぞヴェルディというべき、絶品の歌唱に、思わず嘆息し、わたしはあの名アリアを聞きながら、窓の外の秋空を眺めたものです。
まだ存命の息の長い歌手生活を送ったベルゴンツィ。
いつまでも元気にいて欲しいと思います。

マックネイルの暖かなバリトンと、ヴァーレットの少しハスキーなメゾが印象的。
トッツィフラジェルロも当時の低音歌手たちの充実ぶりが偲ばれる歌唱でした。

クレヴァはメトを中心にアメリカで活躍した人で、キビキビとしたオーケストラと歌心は十全なものでありました。
この人が振った、カタラーニの「ワリー」を近々取り上げる予定。
あと、わたしはまだ未聴のマゼールの指揮のDG盤が聴いてみたい。

以上、ヴェルディでした。
 

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2011年11月12日 (土)

ブラームス ピアノ協奏曲第2番 ポリーニ&アバド

Sarubia

青春してます、ってな感じのサルビアの花の群生。

この花の真ん中のところを引き抜いて、吸ってみると甘い蜜のような味わいです。
子供の頃によく吸ったもんです。

「サルビアの花」という歌をご存知でしょうか?

70年代に流行った曲ですが、誰が歌っていたか明確な記憶がない。
調べてみたら、いろんな歌手が歌った共作だっと。
女声でよく聴いた覚えがあるんですが、甲斐よしひろの記憶もあります。
男の失恋ソングで、かなり女々しい内容だったですがね、甘酸っぱい思い出も付きまとってます・・・・。

Brahmas_pianoconcert2_pollini_abbad

ブラームスピアノ協奏曲第2番変ロ長調

中年のブラームスが交響曲第2番と同じころに書き始めた幸福な雰囲気の協奏曲。

わたしがこの曲にハマり込んだのは、ある昔の5月のこと。
リヒテルとマゼール&パリ管のレコードが発売され、放送で聴いた。
そして、ワイセンベルクが来日して岩城&N響と共演した演奏会をテレビで見た。
ついで、名盤バックハウスとベーム&ウィーンフィルのレコードを買い、すり減るほど聴いた。
ものすごく好きになった協奏曲。
高校生の頃でした。

そして、大学生になり、ついに登場したポリーニアバド盤。
アバドファンとしては待ち望んだレコードでありました。

以来、この演奏がバックハウスと並んで、最高のブラームスの2番の協奏曲のものとなりました。
同郷のイタリア人と、アルプスを挟んで、北側にあるウィーンのオーケストラが奏でるブラームスは、陽光にあふれ、一点の曇りもありません。

若書きの1番のいかつい協奏曲にくらべ、自由な気概に満ち、のびのびしたここで聴くブラームスの音楽は、若い頃も今も、聴くわたくしの心を解きほぐしてしまう。
ポリーニは最近ご無沙汰ぎみで、このブラームスの録音の頃は、出るレコードを次々に購入していったし、そもそも寡黙な録音スケジュールだったから、その録音発表が待ち遠しい演奏家のひとりだった。
キレのいい打鍵と明晰な音色と集中力に飛んだ研ぎ澄まされた感性。
技巧の凄まじさを感じさせずに、どんな難曲をも冷徹なまでに、スラスラと弾いてしまう。
音楽への真摯な打ち込みぶりが、感動を呼び起こしてしまう。
けれども、歌への傾斜や憧れもすごく感じていて、ロッシーニのオペラの指揮にも挑戦したくらいで、朋友アバドとの共演では、ソロにはない、解放感を感じるのは私だけだろうか。

ルツェルン祝祭とアバドとの来日公演で聴いた、このブラームスの2番。
ミスタッチも多くて、散漫な前半で、えっ?これがポリーニ?と自問のブラームスだった。
しかし、3楽章からまるで別人のように、いやそれこそがポリーニというべきか、音に生気が帯び出して、サントリーホールを神々しいくらいに陽光にあふれた輝かしいブラームスの音色で満たしてくれた。
そのきっかけは、チェロのソロのブルネロの涙が出るほどに美しく生き生きとした演奏からだった。
そのあとは、推して知るべしの、オケと指揮者、ピアニストとの信頼し合った仲間同士がお互いに聴き合いながらの歌の交歓。
ホント素晴らしかったんです。

CDは、このときの3楽章以降の演奏そのままの、演奏者全員が乗りまくり、ブラームスの幸福感を思いきり紡ぎだしたような演奏が73年のウィーンのライブ録音。
この曲が、第2交響曲と同類であることを強く感じさせ、ウィーンならではの訛りや柔らかさもしっかりと刻まれた記念すべき名演奏であります。

同じウィーンでも、バックハウスとベームの演奏は「秋」のブラームスなのに、ポリーニとアバドは、「春」を感じさせる演奏なのかもしれません。

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そしてこちらは、その時のライブ映像。
ポリーニもアバドも、そしてウィーンフィルの面々も、み~んな若いし、かつ世代交代済み。
そして、きっとこの時は、わたしも!
変わらないのは、ムジークフェラインザールの美しいホールのみ。

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痩せて神経質そうな青年風のポリーニに、いま見ればふくよかで情熱的な指揮ぶりのアバド。
1976年のCDと同一音源を映像で観て聴いてみると、若やいだブラームスの印象がさらに深まる。
50分間の4つの楽章にわたり、超絶的な技巧を駆使しまくるこの難曲を、ポリーニがいとも鮮やかに、そして冷静に弾き分けるのは、耳で聴くよりも映像で観る方が感銘と驚きが深い。
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この人の強靱な打鍵でありながら、威圧的にならないピアノは、さながらミケランジェロの彫刻のように、明晰かつ力強い。
そしてその明晰さは、ブラームスに地中海の曇りひとつない明るさをももたらしてくれる。
大振りの若いアバドも、その指揮ぶりにも関わらず、出てくる音楽はいたってまともで、その鋭利な明るさにおいて、ポリーニとの同質性を貫いている。
そして、ウィーンフィルです。
3楽章のチェロは、シャイヴァイン。
75年の来日公演で、キュッヘルとのコンビで、ブラームスのドッペルコンチェルトを弾くムーティの日本デビューを聴いた。
威勢溢れるムーティと落ち着きある美音を貫いた二人のソロが今でも印象に残ります。

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この音源と映像は、わたしの好きな最高の演奏として、これからも聴き続けることになるでしょう。

Brahms_pino_concert2_pollini_abbado

約20年後の1995年、今度はオーケストラをベルリンフィルにかえて、二人はライブでの再録音を行った。
アバドはその間、ブレンデルとも録音している。
76年録音のあとに、こちらを聴くと、構えが大きくなり、フレーズのひとつひとつに余裕と自信が感じられる。
より大人の演奏、そう、春じゃなくて、秋の気配を感じるブラームスになっている。
幾分、訳知り顔になったぶん、若さと面白さが後退し、渋さや透明感が増した感あり。
こちらもいい。
でも、1回目の演奏への愛着と、自分の若い時分への思い出も相まって、ウィーン盤にこそ、数あるポリーニ&アバドのコンビの演奏の最良の姿を見てとれるものと思います。

あぁ~、あの頃に戻りたいな。

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2011年11月11日 (金)

レスピーギ 「教会のステンドグラス」 ロペス=コボス指揮

Takatsuki

ある教会の扉の上にあったステンドグラス。

キリストは最後の晩餐で、弟子たちに「パンは自分の体、葡萄酒は自分の血として、分け与えた」。その葡萄が豊かに実ること、そして麦は、そう、パンの種であります。

「麦と葡萄」とは、キリスト教にとって大事な象徴なのであります。

Respighi_church_windows_cobos

レスピーギの4つの交響的印象「教会のステンドグラス」。

ローマ3部作がやたらと有名で、その他はそうでもないレスピーギ(1879~1936)は、その年代的にも 、世紀末をはさみ、わたしのもっとも好む世代の作曲家のひとりであります。
オペラもたくさん書いているので、聴いてみたいのだが、その音源がなかなか入手しにくい。
素敵な歌曲もたくさんあるし、オーケストレーションの達人だから、その歌劇はきっと面白いに違いない。

ローマ3部作を書いていた狭間の、1925年の作品ながら、4つの曲からなる初めの3つは、22年に書かれたピアノ作品「グレゴリオ聖歌による3つの前奏曲」にオーケストレーションを施したもの。

レスピーギお得意のグレゴリオ聖歌の引用や教会旋法、そしてお馴染みのカラフルでダイナミックなオーケストレーションの極みが、余すことなく味わえる作品であります。
4つの曲に、聖書や教会にまつわる情景が標題付きで描かれていて、それらを知り聴いてもよし、知らずとも精妙かつ華やかなオーケストラサウンドが楽しめる具合になっています。

教会へ行くと、左右の壁にステンドグラスや絵画が飾られております。
それらは、イエスの受胎告知から降誕、成長と布教、受難と十字架、復活と栄光などが順番に物語として、いわば文盲だった昔の人々向けに絵本としての機能を果たしていたわけであります。

レスピーギのこの曲は、そうした物語的なステンドグラスという訳ではなく、それらからチョイスされた出来事が音楽化されているのです。

エジプトへの逃亡・・・・ヘロデ王が救世主誕生を恐れ、2歳以下の英児を皆殺しにしようとしたため、ヨゼフとマリアとイエスはエジプトへ逃れる。
 エキゾテックな雰囲気と逃避行の物憂さを感じますな。

大天使ミカエル・・・・守護聖人ミカエルは、反キリストへの戦いの守り神であり、悪魔サタンとの戦いをここでは描いております。
ミカエルは、ミサ曲やレクイエムを聴いてると出てきます(たしか・・・)。
レスピーギパワー炸裂の大サウンドに酔いしれ、ドラの一撃を待ちうけましょう。
実際、今日のCDのテラーク録音は凄まじい音響であります。
そして、ハリウッドの大スペクタル映画のようで、チャールトン・ヘストンやビクター・マチュアが出てきそうですよ。

サンタ・キアラの朝の祈り・・・・アッシジの聖フランチェスコといえば、メシアンの最後の大作オペラですが、そのフランチェスコと一心同体であった聖女がキアラ(クララ)。
清貧に生きた聖女のつつましい祈りが、美しく静的に描かれております。

偉大なり聖グレゴリオ・・・・グレゴリウス1聖は、そうグレゴリオ聖歌の人。
音楽の面から言っても、典礼を整備完結して教会に偉大な足跡をのこした点や文筆活動からいっても、大グレゴリウスと呼ぶにふさわしいお人。
音楽も威容さを表出していて、オルガンも重厚にズンズンなるし、グレゴリオ聖歌も神々しく、そして分厚くティンパニを伴った金管で響き渡る。

レスピーギを聴くことは、一種の快感でもあります。
そして、オーケストラがうまくて、録音がよければ文句なし。
今回は、ヘスス・ロメス=コボス指揮のシンシナシティ交響楽団の93年録音にて。
申し分ない演奏にて、今日は3度も楽しんでしまいました。
ジャケットも美しいです。
コボスはスペイン人だけど、レスピーギを得意にしていて、一方でブルックナーの権威でもあるという、熱き血と知的スマートさを兼ね備えた才人指揮者です。
コボスのリングを聴いたのは、もう20年以上も前だけれど、シンシナシティとのコンビはなかなか実りあるものだった。
いまはマドリード中心に活躍中みたい。
HPで、その指揮ぶりがいくつか視聴できます。→こちら

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2011年11月10日 (木)

ラフマニノフ 交響曲第2番 スラトキン指揮

Miysukoshi201111

もう始まりました。

そう、クリスマスですよ。

こちらは、今日、日本橋の三越です。

神田で客先訪問のあと、中央通りを八重洲まで歩き、東京駅から帰ろうと思い散策中に発見。
イルミネーション好き、夜大好き、冬大好きのさまクラおやじの心くすぐる素晴らしいツリーでございました。しかも左右ダブルよ。

今年の冬の街は寂しいものになるだろうと予感していましたが、これも省電力のLEDのおかげでありましょうか。
急に寒くなってきました。
もし、今年の冬が本格的なものだったら、また節電嵐が吹き荒れましょう。
今度は用意万端かもしれませぬが、イルミネーション自粛なんてことのならないように、いまある、早めのイルミをどんどん楽しんで、画像に残しておきたいとおもってますよ。

ただでさえ、寂しく暗い冬の夜だから、キラキラしてた方が、心が前向きになりますからね。

Rachmaninoff_sym_slatkin

わたしのブログでは、毎度お馴染み、ラフマニノフ交響曲第2番

もうむちゃくちゃ好きなんだから。

若き日々、冬のひとり暮らしの新宿のアパート。
炬燵にちじこまりながら、ホットウイスキーを飲みながら、エアチェックしたヤン・クレンツ指揮ケルン放送響のこの曲の演奏をそれこそ何度も何度も聴いたものです。

海ある郷里への望郷と、都内の殺伐とした生活と、慣れない会社生活。

ラフマニノフの思いと同化してしまっていた、ワタクシにございましたね。

人はみなそれぞれに、音楽への思いを、そんな風に、いろんなカタチで持っているんですね。
クラシックも演歌もロックもなにもかも。

それにしても、クレンツのあのライブ録音は伝説的ともいえる名演じゃなかったのかしら!
プレヴィンとロンドン響の70年代の来日公演のNHK放送で知ったこの曲。
そのプレヴィンのレコードは別格として、クレンツ指揮のものは、いまでも甘酸っぱい思いとともに、記憶の中で生き続けております。

そして、同様に、N響に客演を継続していた頃の、レナート・スラトキンのそのN響との演奏も、本当に素晴らしいものだった。
あの冷静なN響が、熱く、そしてリズミカルに爆発しておりました。

そのスラトキンが70年代半ば、五大オーケストラが君臨するアメリカのオーケストラ地図を塗り替えてしまった名コンビ、セントルイス交響楽団と録音したCDを久しぶりに聴いてみました。
スラトキンの若い頃の持ち味は、カルロス・クライバーばりの弾けの良さと、歌い回しの大らかさの一方での、知的な音楽作り。
ハイドンから現代音楽までを、わかりやすく、明快に聴かせる指揮は、今もかわらない。
そんなスラトキンの人柄と音楽性が、手兵とともに、ラフマニノフを望郷の淵から救い出してしまったような明るく前向きな第2交響曲の演奏なのであります。

この推進力と活気、そして歌と情熱にあふれたスラトキン・ラフマニノフに、今宵はあの若き日々を思いつつも、次のステップに踏み出しつつある中高年の自分に対するエールを感じ取った次第にございます。
11月は、わたくしと、さまクラブログの誕生月でもありますゆえ、心強くなるような思いでいっぱいです。

ちなみに、いまのスラトキンの手兵デトロイトとの再録は、まだ聴いておりません。
是非にも聴かなくちゃなりません。
BBC響とのコンビが本当は一番素晴らしかった英国音楽マニアのスラトキンですが、次は準・メルクルのあと、リヨンのオーケストラの指揮者に就任予定とのこと。
なんだかなぁ、の感じですが、アメリカのメジャーは、同国人指揮者には厳しいのでしょうか。
もったいないですな。シカゴでもフィラ管でも、そうそうボストンとかも、こんないい指揮者がいるんですからねぇ。

Miysukoshi201111_a


ラフマニノフ 交響曲第2番 過去記事

「サー・マリナー&シュトッゥトガルト放送響」
「現田茂夫&東京大学音楽部管弦楽団」
「プレヴィン&ロンドン響」

「ハンドレー&ロイヤル・フィル」
「現田&神奈川フィル」
「尾高&東京フィル」
「尾高&BBCウェールズ」
プレヴィン指揮 NHK交響楽団」 
大友直人指揮 東京交響楽団
ロジェストヴェンスキー指揮 ロンドン交響楽団」
ヤンソンス指揮 フィルハーモニア管弦楽団」
ビシュコフ指揮 パリ管弦楽団

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2011年11月 9日 (水)

ベルリオーズ 幻想交響曲 ノリントン指揮

Hamamatsucho201111_a

11月の浜松町駅小便小僧。

今月は、秋の火災予防運動に連動して、明治期の出動用消防服をまとってます。

そして、周辺にお漏らししちゃってます。

Hamamatsucho201111_b

一見、アラビアのロレンスかと思いましたよ。

Hamamatsucho201111_c

今月はアップ画像につき、モザイク入りにて候。

では、また来月に(もう、次12月! なのに、この季節感のなさ)

Berlioz_sym_fantastque_norington

月イチ、幻想。

ベルリオーズ幻想交響曲を、毎月、小便小僧とともに聴いております。

毎月聴いていて、飽きないどころか、次が楽しみになってきているくらいで、ネタもまだまだ尽きそうにありません。

今月の幻想は、ピリオド系のノンヴィブラート奏法によるものを。

いったいに、ベルリオーズは破天荒なイメージの強すぎる危ないニイサンだったから、ギンギンにロマン派真っ最中の人という認識が強すぎるが、何度も書くとおり、ベートーヴェンの第9より6年後の1830年の作品。
ワーグナーは、まだ10代のティーンエイジャーだった。
だから、現代フルオーケストラ作品の典型という訳でもなく、当時のことを考えたら、古楽奏法は見当はずれでもない。
当ブログでは、ミンコフスキの鮮度高い鋭敏な幻想を聴いてます。
ここまで書いて、ノリントンのベルリオーズに関するノートを発見して読んだら、おんなじこと書いてありました(というか私がおんなじこと書いたのか?)。

ガーディナーよりも前に、ロンドンの手兵で録音しているサー・ロジャー・ノリントンが、もしかしたら、ピリオド系初の幻想だったかも。
昔にはない忘れ去られた演奏方式が、こうして普通に聴けるようになった現在。
賛否はありましょうが、よき演奏で、その必然性と説得力があれば受け入れは全然OKで、音楽ジャンルがひとつ広がったような喜びも感じます。
70年代初めまでは、こうしたやり方がなかったから、いまの若い聴き手の方々は、選択肢もたくさんあるし、音源は安くて入手しやすいなどなど、とても羨ましい境遇だと思うのであります。


モダン楽器で、奏法と配置のみを古楽に置き換えるというやりかたは、折衷かもしれないが、ここまで徹底されると違和感は感じない。
ノリントンはベルリオーズは、巨大編成のオーケストラを想定していたとして、当CDのリブレットにシュトゥットガルト放送響のメンバーがこぼれんばかりにステージにのっている写真が掲載されております。
ハープは4台で、2台づつを両脇に配置。
対抗型で、左から第1ヴァイオリン・チェロ・ビオラ・第2ヴァイオリン。
管は、フルート・オーボエ、その横がなんとトランペット。
その上に左から、ホルン・クラリネット・ファゴット。
さらにその上舞台奥、ずらりとコントラバスが8本。
トロンボーンとテューバはどこ行ったかというと、右手、第2ヴァイオリンの後ろにいます。
打楽器は、左右に。2基のティンパニも左右でステレオ効果ばっちり。

この配置を頭にいれておいて、このCDを聴くと、なるほどそんな風に聴こえます。
楽器の片寄りが少なく、全体にうまいこと溶けあって聴こえるから不思議なもので、こんな大編成なのに威圧的な響きがまったくなく、音量はむしろ控え目に聴こえるのは、配置とヴィブラートのないことによるサラサラ透明感を感じさせることに起因している。
ノリントンも語っているが、この曲から後期ロマン派風の甘ったるさや、多くの人が感じるベルリーズの狂気を取り去って、古典としてのベートーヴェンよりの演奏にしてしまったと感じとれる。
 テンポはインテンポで、1楽章の恋愛の兆しには爽やかさが目立つし、2楽章のワルツは優美というよりは取りすました古典舞踊のよう。
ネコが鳴くような妙なフレージングだし。。。
最近お気に入りの3楽章の野の風景は、淡々とした田園情緒にあふれ、これは実によい。透き通るような抒情といえよう(!)
断頭台もずいぶんとゆっくりとした足並みで、切迫感がまったくなく呑気なもんだ。
終楽章のヴァルプルギスの夜も、そんな感じで始まるが、ノンヴィブラート奏法が妙に不気味さを醸し出していて、少しエロティックであったりする。
しかし、最後の最後に猛然たるアッチェランドが待ち受けていて、俄然興奮することとなる。
ライブ録音ゆえ、聴衆の驚きの拍手も収録されております。

正直、好みの幻想ではないけれど、お茶漬けをさらさら食べていたら、最後にやけどしちまったような印象であります。
まったく人を食ったようなノリントンおじサンなのである。
たまにはこんな幻想もよいかも。

サー・ロジャーは、13年続いたシュトゥットガルトを辞めてN響との活動に力を入れたりで、客演活動が主体となるのでしょうか。
面白いこと、もっともっとやって欲しい指揮者であります。
シュトゥットガルトの後任は、40歳の若いフランスのステファヌ・ドヌーヴ。
ロイヤル・スコテッシュ管との兼任という注目の才人です。
名前がいいですなぁ。日本にも何度か来てるみたい。
ドイツの放送オケは面白い!

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2011年11月 6日 (日)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 クライバー指揮

Hanayamapark6

群馬県藤岡市の桜山公園。

冬桜がたくさん咲いてまして、おりからの紅葉と一緒に楽しめるのでございました。

バカチョンカメラでは、紅葉の赤はまったく捉えることができませんが、桜と紅葉、雰囲気はいいでしょ。

Tristan_kleiber_milano

ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」。

いったい何度取りあげてるのでしょうね。

過去記事を調べたら18回も取り上げてますよ。

ワーグナーの記事だったら、おそらく100以上は軽くありますな。

ワーグナーに魅せられて、39年あまり。
長いお付き合いです。

ほんの一音聴いただけで、それがどのオペラか、どのヶ所か、すぐにわかると思います。

その能力をもっと他に活かせと自分にいいたいくらいですが、好きなものはしょうがないですな。

ワーグナー、英国音楽、アバド

この3つが、長年聴き、追いかけてきた、わたしのクラシック音楽の基本中の基本。

それに、オペラ全般と、R・シュトラウス、後期ロマン派~世紀末、ハイティンク・マリナー・プレヴィン。こんなフェイヴァリットを加えてのわたくしの音楽人生後半でございます。

明日、6周年目を迎える当ブログも、こんな風に要約してしまうと、とても偏りがあります。

クラシックに目覚めたことは、当時の入門ルートを常設どおりに通過し、清く正しいクラシック愛好家だった。
もう戻れない過去かもしれないけれど、あの時代を懐かしく思う気持ちは日に日に高まってますね。
古い音源を探し出して聴いて記事に昔話を残す。
そんな喜びも、ブログの楽しみでありますし、人知れぬ曲をお披露目したいという密やかな楽しみもブログならではなのです。

前置きが長くなりましたが、19回目の「トリスタン」は、カルロス・クライバーの指揮によるライブ盤で。

  ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

  トリスタン:スパス・ヴェンコフ   
      イゾルデ:カタリーナ・リゲンツァ

  マルケ王:クルト・モル       
      クルヴェナール:ジークムント・ニムスゲルン

  ブランゲーネ:ルジャ・バルダーニ 
      メロート:ジャンパオロ・コラッディ

  牧童:ピエロ・デ・パルマ      
      舵取り:ジョヴァンニ・フォイアーニ

  若い水夫:ワルター・グリーノ

 カルロス・クライバー指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団/合唱団
       
           演出:ウォルフガンク・ワーグナー
           (1978.12.4@ミラノ・スカラ座)


カルロス・クライバーの「トリスタン」といえば、DG正規のドレスデン盤がいやでも有名。
有名すぎて、記事にしてないけれど、コロとプライスのユニークな主役たちが素晴らしく、ドレスデンの音色とやる気に満ちたサウンドも火のうちどころがないのだが、全体にどこかキレイすぎるきらいもある。
それは、きわめて贅沢な思いで、天にむかって唾するようなものだけれど、ライブのカルロスのトリスタンに勝るものはないとの思いが捨てきれない。
FMで聴いた、バイロイトのライブの白熱の素晴らしさ!

1974年にバイロイトデビューしたカルロスは、76年まで3年間「トリスタン」を指揮した。
最後の年は、シュタインと分けあって、以降は降りてしまった。
いずれもカセット録音をしたものの、失敗をくりかえし、74年の一部のみが今残るのみ。
このバイロイトでの上演では、カタリーナ・リゲンツァがすべてにわたって完璧なイゾルデとして君臨していて、カルロスも大満足であったと思う。
しかし、トリスタンに人を得ることができず、ヘルゲ・ブリリオートのトリスタンは、聴いていてハラハラしたし、心もとないこと極まりなかった。
3年目に、スパス・ヴェンコフがブルガリアから彗星のごとくあらわれ、これでようやく理想的な「トリスタン」上演となったのに、翌年からカルロスは降りてしまった。

Tristan_kleiber_milano_1

こちらは、バイロイトの初舞台74年の非正規ライブ。
一応ステレオ録音で、そこそこ鮮明ながら、テープ録音による音の揺れがときおり目立つ。
しかも、ブリリオートの声がなおさら不安定に聴こえるけれど、思ったほどひどくない。
しかし、そんな中でも、リゲンツァのピンと張り詰めた声は揺るぎなく聴こえるし、ミントンのブランゲーネ、マッキンタイアのクルヴェナール、定番モルのマルケは、極めて魅力的。
鋭敏かつドラマテックなクライバーの指揮もまったくもって素晴らしい。
 75年のヘルミン・エッサーのトリスタンによるものか、理想的には76年のヴェンコフのトリスタンを、是非とも正規音源化して欲しい!!

78年上演のスカラ座のトリスタンは、スカラ座としても1964年以来14年ぶりの上演で、演出は当初、パトリス・シェローが予定されていたものの、キャンセルとなり、ウォルフガンク・ワーグナーの穏健で伝統的な演出にとって代わった。
シェローは、76年のバイロイト100年リングで物議をかもしながらも、この頃は演出の潮流を変えてしまった名演出として認知されていたので、カルロスとの組み合わせは興味深いものだったのだが。

ここで聴くカルロスの作り出すライブ・トリスタンは、実に熱く、怪しく、そして悩ましい。
繊細な弱音から、強靭な強音まで、音域の幅が極めて大きく、伸縮自在に指揮するカルロスの指揮姿が脳裏に浮かぶ。
速いテンポでぐいぐい進む前奏曲、盃を交わし激変する2人から岸に到着する場面のスリリングな興奮。
情熱に満ちた2幕の前奏と、駆け着ける切迫した愛に、濃厚かつ美しい二重唱。
そして後半の落胆ぶりと悲哀。
ヴェンコフの素晴らしいトリスタンと相まって、没頭感あふれる第3幕。
昇天するがごとくの神々しい愛の死。
スカラ座のオケの高性能ぶりと、明るめの音色がこうしたワーグナーに相応しい。

リゲンツァのイゾルデとブリュンヒルデは、ちゃんとした録音で復刻しておいて欲しいものだ。かつて、ニルソンがその引退にあたって、わたしのあとは、リゲンツァとリンドホルムがいるから大丈夫、と語ったことがあった。
リゲンツァのイゾルデは強靭で怜悧な先輩ニルソンのものとは違って、親しみのもてる女性的な存在を透明感あふれる声でもって歌いだしている。
彼女の情感豊かな優しいイゾルデは、気品もあり、とても好きなのであります。
何度も自慢しますが、ベルリン・ドイツ・オペラの来日公演のリング通し上演で、リゲンツァのブリュンヒルデとコロのジークフリートを観劇したことが、いまや夢のようであります。

ヴェンコフのトリスタン。このブルガリア生まれのヘルデンテノールは、法律家・ヴァイオリニスト・バスケットボール・チェス、それぞれの名手という変わり種で、東側から彗星のように現れた遅咲きの歌手でありました。
肉太のヘルデンではなく、知的でかつ真摯な歌い口と、思いもかけない爆演歌唱する人で、トリスタンでは3幕にピークを築いていて、カルロスともども白熱の舞台となっている。
この人も何度か来日しているが、ウィーン国立歌劇場のトリスタンで予定されていながら、体調不良で来日せず、聴けなかった思い出があります。

モルの深みのあるマルケは安定感抜群。
ニムスゲルンのクルヴェナールは珍しいですな。なかなかいいです。
バルダーニはカラヤンとの共演も多かったザグレブ出身のメゾで、こちらも豊かなメゾでした。
イタリア・オペラの名脇役、ピエロ・デ・パルマが牧童を歌ってるのがスカラ座らしいところ。

モノラル録音で、聴衆の咳やイタリアらしいおしゃべりも気になるし、声が遠いものの、鮮明な音で、視聴に支障はまったくない。
聴衆が、幕を追うごとに熱狂してゆくのがよくわかります。
アバド時代のスカラ座の充実ぶりもうかがえる、カルロス・クライバーのトリスタンでありました。
スカラ座は、アバドのあと、ムーティ、そしてバレンボイムが音楽監督就任とのこと発表されましたな。どこもかしこもバレンボイムとなりつつある超人ぶり。
でも、これでアバドのスカラ座復帰がますます実現しそうな感じです。

 クライバーのトリスタン 演奏タイム

              Ⅰ      Ⅱ       Ⅲ
  バイロイト74   77分    76分     74分
  スカラ座78    74分    77分     72分
  ドレスデン80~  77分    79分     76分

    ※ライブでは、感興にあわせて、自在な演奏となっていることがわかります。
    ちなみに、手持ちの最短と最長は。

  ベーム66     75分    72分     71分
  バーンスタイン  92分     80分     83分

 トリスタンとイゾルデ 過去記事一覧

 大植バイロイト2005
 アバドとベルリン・フィル
 
バーンスタインとバイエルン放送響
 P・シュナイダー、バイロイト2006
 カラヤン、バイロイト1952
 
カラヤンとベルリン・フィル
 ラニクルズとBBC響
 バレンボイムとベルリン国立歌劇場公演
  レヴァインとメトロポリタン ライブビューイング
 パッパーノとコヴェントガーデン
 ビシュコフとパリ・オペラ座公演
 飯守泰次郎と東京シティフィル
 ベームとバイロイト1966
 ジョルダンとジュネーヴ
 ティーレマンとウィーン国立歌劇場
 沼尻竜典@びわ湖
 サヴァリッシュ、バイロイト1957
 大野和士@新国立歌劇場①
 大野和士@新国立歌劇場②

 

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2011年11月 4日 (金)

わたしが死んだら(?)・・・お願いランキング

Hanayamapark2

色づく紅葉。

親類の墓参りに群馬に行ってきました。

紅葉と桜、珍しい光景が望めましたので、順次画像UPしますね。

Onegai_runking_2mono

こんなこと、書いたものだろうか、と思ったりもしたけれど、この際だから残しておきます。

もう数十年もたってしまった父の死だけど、いまだに夢には元気な姿で出てくる。

思い出の中に、心の中に、しっかり生きてる肉親や親族。

死とはそういもので、残された人は、それぞれにその思い出として心のなかに、亡き人を受け入れてゆくのでありましょう。

 告別の儀式も、時代の様相や変化で、形式から、より自由で、故人の遺志や家族の思いを尊重したものになってきました。
わたしの知り合いは、音楽葬なるものをプロデュースしようとしてるくらい。

音楽好きは、私が死んだ時はこれを・・・とよく口にしたりしますね。
若杉弘さんの、お別れ会に立ち会ったときは、フォーレのレクイエムの最終曲「楽園にて」が流されました。
若杉さんは、生前、奥様に、「お別れの時は、この曲もいいよね」と語っておられたとか。

そこで、今回は、ワタクシ、さまよえるクラヲタ人が、いずれ死んだら、死出の旅路に流して欲しい音楽をランキングいたします・・・・。

お願いランキングの萌え燃えのお願い戦士たちも、本日ばかりはモノクロームに沈んでおります。
右手の透けて見える幽霊戦士がいかにもの雰囲気でざ~ますな、これがまた。
おっ、左手は新顔の武装戦士じゃん。

死んだときに流す曲、といっても、どういうシテュエーションだろ?
式は楚々と、大掛かりにせず静かに。
いや、式などどうでもいいから、誰聴くともなく、音楽を1日ずっとかけて欲しい。
そんなときに、死んだ自分はその音楽を聴けているのだろうか、永遠に不明の謎ながら、これが最後というイメージも持ちながら、選択してみた音楽。

だから、レクイエムばかりでなく、自分への癒しの音楽や、本当に好きな音楽、しかし華美でなく静かめな曲、という感じになりました。
思いつくままに選んだら70曲にもなっちゃった。
それをさらに厳選して、10曲に。
死んだときのことを考えて、なんでこんな断腸の選択をするのか、ばかばかしくなってきたけれど、まぁ、ご参考までにご覧くださいまし。

①R・シュトラウス 「最後の4つの歌」

②フィンジ  「エクローグ」または「クラリネット協奏曲」

③ディーリアス 「村のロメオとジュリエット」~楽園への道

④バッハ 「マタイ受難曲」~ペテロの否認とコラール、最後の合唱

⑤フォーレ 「レクイエム」~ピエ・イエズス

⑥ワーグナー 「ワルキューレ」~ウォータンの告別

⑦モーツァルト ピアノ協奏曲第27番

⑧マーラー 交響曲第4番~3,4楽章

⑨エルガー 交響曲第2番~2楽章

⑩プッチーニ 「修道女アンジェリカ」~母もなく&間奏曲


うーーーむ。

これには困った。
捨てがたい音楽がありすぎ。
10曲はキツイよ、お客さん。

というわけで、参列者や家族も去ったあとに、だらだらと音楽は続くのでありました。

⑪プッチーニ 「ジャンニ・スキッキ」~わたしのお父さん

⑫R・シュトラウス 「カプリッチョ」~月光の音楽・終曲

⑬ハゥエルズ 「楽園讃歌」

⑭ヴェルディ 「レクイエム」全曲!

⑮マーラー 「大地の歌」~告別

⑯ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」~愛の死

⑰ワーグナー 「パルシファル」~聖金曜日の音楽

⑱シューベルト 「未完成交響曲」

⑲シューベルト 「冬の旅」

⑳ディーリアス 「夏の歌」


あぁ、こうしてそれぞれの曲を思いながら書きこんでると、それぞれに愛着と憧憬を感じ、今さらながらに、生への未練と執着を覚えてゆく。

こんな素晴らしい音楽たちに囲まれて、わたくし、死んでなるものか。
死ぬまで生きるぞ!
とかいう具合に気合が入ってしまったのでございました。

ばかですねぇ~

でも、こうしたランキングという楽しいお遊びツールにかこつけて、いざというときの備忘録を作っておくのも一興かと存じましたね。

思えば、このブログで何度も取り上げている音楽ばかり。
自分の好きな曲が、その時の曲になるのでしょう。

皆さまは、その時の曲、どんな曲ですか?

(未練たっぷりにわたくし、ブラームスのドイツレクイエム、ばらの騎士の伯爵夫人のモノローグ、コルンゴルトのオペラの数々、シュレーカーの烙印、RVWの揚げひばり、交響曲3&5、新世界のラルゴ、アルウィンのリラアンジェリカ、ベルクのヴァイオリン協奏曲・・・・とまだまだしつこく人生に執着中)

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2011年11月 1日 (火)

ブライアン 交響曲第3番 フレンド指揮

T38syokannbetsu_ishikari

札幌T38から見た札幌北東部。
石狩方面に、海は日本海、遠くは暑寒別岳のふもとあたり。

雄大です。

いいなぁ、北海道。

Brian_sym3_friend

英国の怪しいまでの交響曲作曲家、ハーヴァーガル・ブライアン(1876~1972)。
交響曲第3番を。

こちらの記事は、もう1カ月も前に書いてありまして、公開の機会をうかがっておりました。
渋すぎ・無名すぎで、敬遠されそうだし、そんなのばっかり続いても、と思いながらも、本日HMVのサイトで、プロムスでの「ゴシック交響曲」ライブが発売とのニュースを見て、これはこれはと、文字通り、おっとり刀で記事公開をクリックしました。
まぁ、敬遠せずに、ブラインさんに、ご興味を持っていただければ幸いであります。

さて、
長命のブライアンさん、32曲の交響曲を残したが、51歳以降にそれらが書かれたというから驚きで、しかも80代に12番以降、90代に25番以降、といった具合に恐るべし創作力を誇り、われわれ中高年も勇気づけられる絶倫シンフォニストなのであります。
 しかも、一番有名な第1番が「ゴシック」と名付けられ、全編140分以上の最長交響曲ギネスを保持しているのでした。
この曲は、かつて記事にしてまして、なかなかに面白い視聴でした。

数でいえば、指揮者兼任のセーゲルスタムがWIKIベースでは、なんと244曲と現在進行中の途方もない、とんでもギネスがあるけれど、ブライアンの爺さんになってからのハイペースぶりと、巨大さはまた特別なものがあります。

もちろん、そのすべてが巨大なものばかりではなく、シンフォニエッタ級の小ぶりな作品もあるし、大きなものありです。
そして、音源として耳にできるものは、本当に限られていて、わたしが先の「ゴシック」とともに持っている今日の「3番」と、マッケラス指揮の3曲(EMI)。あと、さすがのナクソスが数枚といった具合に、その全貌を確認するには程遠いブライアンおじさんなのです。

超大作1番「ゴシック」を1919~27年という年月をかけて完成させたブライアンは、次の2番を、オペラを経て1931年に完成。
そちらはシンプルでオーソドックスな交響曲だそうな。
次いで、同年とりかかり、ハイスピードで書き上げ1932年に完成させたのが第3番。
こちらは、マーラーばりの巨大な編成による4楽章交響曲。
2台のピアノが活躍する協奏交響曲のような一面を呈した楽章もあるから、この曲に要するオーケストラ人員は総勢120名。
ハイコストで、無名、無冠、未知作曲家ということで、日本などではまずは演奏会にかかることのありえない曲のひとつでありましょう。
4管編成、しかもそのほとんどが掛け持ち、一例をあげれば、フルート4はピッコロ4だったりするので、楽員以外に、楽器を揃えるのも大変。
ピアノ2台、チェレスタ、ハープ、オルガン、ティンパニ6(奏者2)、ドラム各種・・ともかくその他云々多数。
要は1番から合唱を抜かしただけの、巨大ぶり。

でも、この曲から発せられる音や響きは、きらびやかでも派手なものでもなく、超渋くて、最初は聴き手を拒絶するくらいの難解さ。
このCDを手にして、もう15年くらい経つけれど、このようにして記事にしなくては、何度も聴くことがなかった。
それこそ、ブログの効能で、しっかり聴かなくては人さまにお教えできないから、一生懸命聴くわけで、こうしたたぐいの曲は、何度も何度も数日、数か月をかけて聴いて、理解しものにしてゆくのであります。(その間、有名曲からご無沙汰になるのは必定で、逆に、有名曲に帰ったときに、とてつもない感銘と新鮮さを享受できるわけでもありますな)
 そうしてここ数カ月、聴き続けたブライアンの交響曲第3番。
55分の巨大さと、抒情と雄軍さから、ブライアンの「英雄交響曲」なんて言われちゃったりするみたいで、解説書に書いてありました。

 1楽章 アンダンテモデラート    20分
 2楽章 レント センプレマルカート 14分
 3楽章 アレグロ ヴィヴァーチェ   8分
 4楽章 レント ソレンヌ        19分

このCDでは、長い各楽章にさらにトラック分けが刻まれていて、そのトラックを見ながら聴いていると、全部で21トラックあるものだから、曲想がとりとめなくつながっているようで、訳がわからなくなってくる。
楽章の区分けは実際明確なのだけれど、本当に真剣に聴いていないとだめ。
先のゴシック交響曲でも感じたが、とりとめのなさが全編覆っているため、断片的に、英国風な印象的な旋律が出てきたり、ハリーポッター風のマジカルな雰囲気になったり、怪しげな曲想に転じたり、舞踏曲風になったり、シリアスな英国病風になったりと、諸所さまざまな顔付きの音楽が次々に展開する場面に戸惑うこととなります。
 実は、これこそがブライアンの魅力なのだと思ったりします。
マーラーもごった煮風だけれど、その巧みな構成感と明確な旋律線でもってその個性は、圧倒的なまでになっているけれど、ブライアンにはそのハッキリ感がありません。
そしてそれこそ英国音楽であり、エルガー以来の英国交響曲の系譜に連なるものと思う。

ピアノが活躍する1楽章は、ときおり英国音楽好きなら感嘆してしまう味のある旋律も登場。
緩徐楽章たる2楽章。まったくとっつき悪い。
でもかなり深刻で後半のマジカルなまでの盛り上がりはなかなかですぞ。
スケルツォとしての3楽章は、舞踏曲。ウィーンを意識して書いたらしく、とてもメロデイアスでとろけるような中間部が魅力でして、この旋律は最近、脳裏にこびり付いてやまず、電車に乗っててふとした拍子に出てきたりします。
重厚な終楽章は、ドイツ・ハイデルベルク大学の教授でゲーテやシェイクスピアの研究に費やしたF・グンドルフが作曲中に逝去したため、その死を思って書いたと、友人のバントックに書いている。(そもそもその人事態が地味)
ブラームスやベートーヴェンのように大勝利とはなりませんが、重く暗い曲調から始まりそのまま、全曲の帰結としてに壮大な終結へと、と少し見える明るさを垣間見せつつ曲を閉じるのでした。

なんだか、ブライアンのスペシャリストになりつつある英国指揮者フレンドさん。
見知らぬ曲や渋い曲ばかりをレパートリーに持ちながらのオペラ通。
BBC響の重厚さと敏感さを活かしつつの半端ない見事な指揮ぶり。
全曲録音に挑んで欲しい!

充足感を得られそうで、得られないもどかしさ。
それもブライアンの魅力か。
何度も聴いて、ようやく楽しめるようになりましたが、その感はずっとつきまといます(笑)。
さてさて、お暇な方と、チャレンジ精神をお持ちの方は、「ゴシック」とブライアン・エロイカ「3番」をお聴き下さいませ。

過去記事

「ブライアン 交響曲第1番 ゴシック 」

こちらは、ともかく長いです。
第9を2回、マーラーの3番とモーツァルトやハイドン1曲分。
さまよえるオランダ人やトスカよりも長く、蝶々さんより少し短い。
あーー何だこれ。
寝ても覚めてもやってます。
記事のコメントでも書きましたが、トイレ行こうが風呂入ろうが、メシ食おうが、ずっとやってます的な交響曲なのでした・・・・・・

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