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2011年12月

2011年12月31日 (土)

R・シュトラウス 「最後の4つの歌」 デラ・カーザ

Marunouchi_3

今年も、この曲でおしまいにする日が来てしまいました。

例年にも増して、あっ、という間の1年間。

あの日のことは書きますまい。

あの日を境に、変わってしまった日々。

わたしにも容赦なく影響はありました。

会社員でないので、まったく堪えました、そして堪えてます・・・・・。

Marunouchi_1

例年、多くのコンサートやオペラに行き、楽しんできましたが、今年は数えるほどしか行っておりません。

定期会員の神奈川フィル以外は、さっぱり。

そんな中で、2011年、一番心に残る演奏は、金聖響神奈川フィルマーラーの交響曲第6番。

3月12日の午後2時から。

震災の翌日に、たぐいまれなるシテュエーションのなか、演奏者も少ない聴衆も異常極まりない状況と感情の中で、なしとげてしまった奇跡の6番。
アバド&ルツェルン、ハイティンク&シカゴ。
生涯忘れえぬ6番に、また凄まじい6番の記憶が刻まれることとなりました。

コンサートやオペラに行かなかったのは、自らそれを封印したのと、明らかな経済的な理由によります。

多くの方々のレビューを涎を流しながら盗み読みするばかり。
でも、もう慣れましたよ。
膨大な音源を、この先見えてきた人生、いかに向き合うかも考えると、どんどん聴くしかない。

弱音は今年まで。

音楽とともに、頑張りますよ。

Marunouchi_2

写真は、丸の内のフラワー・ファンタジア。

美しい地球をイメージしたかのような球体が多かったです。

Della_casa_strauss_1

R・シュトラウス「最後の4つの歌」

毎年、12月31日は、この曲の記事で締めくくります。

シュトラウス最晩年の澄みきった心境。

しかし、かくしゃくたるシュトラウスは、これが最後だとは思っておらず、まだまだ創作意欲に富んでいた。
元気なお爺さん、かくありたいものです。
老いては、作曲なんてできないもの。すごい活力と、やはり才能です。

「かくも深く夕映えのなかに、私たちはなんとさすらいに疲れたことだろう、これがあるいは死なのだろうか」

いつも引用するアイフェンドルフの詩が、今年はとりわけ堪えるし、深く共感する。

わたしの大好きな夕暮れ。そこに感じる刹那的な美しさは死への甘き憧れと諦念。

その後にくる生への希望を感じさせるのもR・シュトラウスならでは。

美しすぎる夕映えは、希望の朝を用意する手立てだった。

Della_casa_strauss

そして美しすぎる、最高のシュトラウス・ソプラノのひとり、リーザ・デラ・カーザ

カール・ベームウィーン・フィルという最高の伴侶を得て、彼女がこの絶美の曲に、最高の歌声を残してくれた喜び。

デラ・カーザは1918年生まれで、まだご健在。
スイス生まれで、ウィーンで大活躍し、ウィーンのプリマとして50~60年代に一世を風靡した彼女。
シュトラウス本人からも、評価を得ていた彼女は、アラベラ、マルシャリン、ゾフィー、アリアドネ、マドレーヌ、さらにはサロメやクリテムストラなどのヘヴィーな役も歌うことのできた、マルチ・シュトラウス歌手。
モーツァルトも当然に素晴らしい。

クリアーで、まっすぐな歌唱は、後年のヤノヴィッツやシントウの先輩にあたるような気品とクリスタル感あるもの。
高貴さと一本筋の通った凛とした魅力あふれる彼女の歌声に、いつも痺れてしまうワタクシです。
モノラルの録音が、雰囲気がとても豊かで、そしてウィーンフィルの訛りもとても近くに聴こえて陶酔境に誘われてしまうようだ。
ベームもまた、デラ・カーザを評価して、共演を重ねた指揮者。
聴き慣れた4つの曲の配列とは異なりますが、そんなの関係ない名唱・名演。

麻薬にも似た、怪しく危険なこの1枚のさらにスゴイところは、デラ・カーザの「アラベラ」「アリアドネ」「カプリッチョ」が聴けるところ。
ショルティやカイルベルトで泣けるほどの名唱がステレオ音源で聴けるけれども、モノラル時代のこちらのデラ・カーザの滴り落ちるような魅力的な声はどうしようもないほど素敵。
アリアドネもいいし、そして、音楽があまりにも素晴らしい「カプリッチョ」で、わたしはデラ・カーザの魅惑の声とシュトラウスの儚いまでに彼岸に行きついてしまった音楽に、思わず涙するのでした。

美しいこと、それは素晴らしいことです。

2011年、いい年ではありませんでしたが、これにて終了。

どうもありがとうございました。

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2011年12月30日 (金)

ワーグナー 「神々の黄昏」 フルトヴェングラー指揮

Raibow_brdg_4

レインボーブリッジを歩いてみました。

下は海だし、横は車がビュンビュンだし、風は強くて寒いし、正直恐ろしかった。

対岸のお台場が見えますの図。

Raibow_brdg_5

反対側に目を転じますと、東京タワーが輝いておりまして、そのまわりをビルが取り囲んでます。

極限まで成長しきった大都会は、立錐の余地もないほどに開発の手が及んでおります。

人間の手で街がここまで成長してしまうことの脅威を最近感じます。

そこまで誰も求めてないと思うのに・・・・。

Gotterdammerung_furtwangler

ワーグナー 序夜と3日間の舞台祝典劇「ニーベルングの指環」。

第3夜は、楽劇「神々の黄昏」。

今年不幸にして起きてしまった震災は、自然の前の人間の無力さ、そして連鎖して起きなくてもいいのに引き起こされてしまった原発事故は、これまでその利便性を享受してきたものが凶器にもなるというその反動を、それぞれ思い知ってしまうこととなった。

今年、世界中で引き起こされてしまった負のスパイラルはとどまることを知らず、それが個人個人それぞれにまで実感されるような世のなかとなってしまった。

こんな年の最後に聴く、ワーグナーの「ニーベルングの指環」は、人間(神々)が欲望から手を出してしまった指環ゆえに、愛も滅び、自らも滅んでしまうという物語が皮肉なまでに符合して感じ、聴こえる。

起承転結の「結」は、ビュンヒルデの自己犠牲。
そうワーグナーが至上としてきた女性による自己犠牲による救済の結末で、黄金はラインの川の底に返還され、神々の城は崩れ落ち、アルベリヒ一族も崩じ去り、ギービヒ家もしかり。壮大な劇の登場人物すべてが消滅してしまう。
「もう、終わりにしましょうよ」と、世の終わりの引き金を引いたのが、ブリュンヒルデだったのである。

ブリュンヒルデは、最後まで愛を断念しておらず、ジークフリートへの愛を歌いつつ最後を迎え、「ワルキューレ」から一貫して「愛の人」であったから、思えば「リング」の結末は「愛のによる浄化の勝利」でもあるわけ。
この勝利による「結」の部分は、ひとまずの落着であって、「結」のあとには、また「起」が待ち受けている。
すなわち、「黄昏」のあとには、「ラインの黄金」があって、また闘争が始まる。
人間は、こうして懲りない存在なのである、という解釈がいまや一番説得力がある。
「終わりはまた始まり」といった、歴史の繰り返し。
輪廻的な、東洋思想とはまた違った人間の業が繰り返されるというような意。

いづれにしても、「リング」は始まりも終わりもなく永遠の物語に思う。

あとひとつ、五行説というのがあって、「木」「火」「土」「金」「水」が万物の元にあるとの思想。中国の思想であるが、西洋の4大元素ともまた異なるもの。
いずれもが生と剋の関係をなしていて、思えばこの5つも、「リング」のなかで重要なモティーフとなって登場している。

「木」は、トネリコの木で、ウォータンの槍や知識のもとであり、武器を生みだすもとだったし、最期には城を焼き尽す元となる。

「火」は、ブリュンヒルデの山を覆い、最後には世界を焼き尽し浄化した。

「土」は、地上と地下を隔てる世界、すなわち闘争の舞台。ジークフリートはその土を後ろでに投げた。

「金」は、そう、黄金。富と野望の象徴。

「水」は、ラインの清らかな流れ。火が焼き尽した後を清めた。

   ジークフリート:ルートヴィヒ・ズートハウス 
   ブリュンヒルデ:マルタ・メードル

   グンター:アルフレート・ペル      
   ハーゲン:ヨーゼフ・グラインドル

   グートルーネ:セーナ・ユリナッチ   
   ワルトラウテ:メルガレーテ・クローゼ

   アルベリヒ:アロイス・ベルネルストルファー
   第1のノルン:マルガレーテ・クローゼ

   第2のノルン:ヒルデ・レッセル=マイダン   
   第3のノルン:セーナ・ユリナッチ

   ウォークリンデ:セーナ・ユリナッチ      
   ウェルグンデ:マグダ・ガボリ

   フロースヒルデ:ヒルデ・レッセル=マイダン

 ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮イタリア放送交響楽団/合唱団
                     (1953.11 @ローマ)


独断のあらすじ

プロローグと序幕、ともかく長い。マイスタージンガー3幕、パルシファル1幕と並んで、ワーグナー3巨大幕。
3人のノルンは、ウォータンの近況や今後の見通しなどを綱を編みながら語るが、この部分はいらないかも。ところが、ウォータンを父と呼んでいるいるので、ここでも好色の神は女子をなしている様子。しかし、母やエルダだから、ワルキューレとの関係は?
 夜が明けると、新婚家庭は、ドラマテックソプラノとヘルデンテノールの凄まじい声の応酬による旅立ちの別れ。
おせっかいの世直し干渉修行に出たジークフリートを風の便りに、というかどうして知ったのかハーゲン。
狙いをつけて、新興国の主ギービヒ家へ招き入れ、忘れ薬を飲ませてしまうが、無防備で呑気なジークフリートは、ブリュンヒルデを思いながら一気飲みし、飲みほしたら即忘却。
わたしも欲しいぞ、忘れ薬
美人だかなんだか不明のグートルーネに惚れてしまうスットコどっこいぶり。
義兄弟の契りをいとも簡単に結んだグンターに、ミーメ制作の隠れ頭巾で変身。
わたしも欲しいぞ、隠れ頭巾

夫の留守を守るブリュンヒルデのもとには、妹がやってきて、姉妹の麗しい再会となるが、新婚指環をラインに返してと言われて、大ゲンカとなり妹は追い出されてしまう。
没落の父なんて、関係ナイ。

そこへ、変身したジークフリートがいとも簡単に火を乗り越えてやってきて、あわれブリュンヒルデはとっつかまって連れ去られることに。
この時、なぜ、指環を略奪し、それを死ぬまで自分の指にしていたか不明のすっとこジークフリート。

死んだはずのアルベリヒが出てきて、眠っているハーゲンと夢の中で会話。
わたしの亡父もよく夢に出てきますが、会話はできません・・・・・。
祭りの支度を家臣たちに命じ、大騒ぎのなか、ジークフリートは本物のグンターと入れ替わりトンボ帰り。
やがて帰ってきたグンターとブリュンヒルデ、ジークフリートとグートルーネの結婚式は、急に怒りに目覚めたブリュンヒルデが大騒ぎして、ごちゃごちゃに。
呑気で陽気なジークフリートを外しておいて、騙された正妻と騙されたと思っている新朗とペテンの王国の新しい主3人で、ジークフリート殺害の企画を決定。

リング最後の幕になって、「ラインの黄金」の冒頭のような原初の響きが戻ってくる。
ラインの娘たちに相対するのは、今度は今の指環の持ち主ジークフリート。
女も知り、すこしイケナイ大人になった呑気なジークフリートは、娘たちにちょっかいだしたりするが、弄ばれ、却って指環は持ってなさいと度胸あるところを刺激されて頑なになってしまう。自分が強い、1番と思いこんでいる強い国の人も、やがてそのお人よしゆえに、足をすくわれることになる・・・・。
狩りの成果は丸坊主、でもかつての英雄談義を聞かせておくれとせがまれて、記憶呼び覚まし酒を飲んで、戻りつつある記憶をひも解くジークフリート。
わたしも、欲しいぞ記憶呼び覚ましドリンク
やがて、ブリュンヒルデとの出会いに及んで、みんなびっくりも束の間、ウォータンの偵察部隊のカラスを見送った弱点の背中をハーゲンにブスリと殺られてしまう・・・。
育ての親や恐竜巨人族などを殺してきた無邪気な殺戮者ジークフリートは、因果応報、指環の祟りでもって倒れるのでした。
ここで、ハーゲンは指環を盗んでしまえばよかったのに。。。
 崇高なる葬送行進曲のあと、亡骸を前にギービヒ家は内部分裂。
死んだはずのジークフリートのオカルトチックな動きに悲鳴もわき、そこへ出ましたるは、幕引きの女ブリュンヒルデ。
ことの顛末を引き起こした父ウォータンにお小言を述べ、そしてジークフリートへの変わらぬ愛とその無邪気な英雄を讃えて歌うブリュンヒルデはかっこよすぎる。
火と水により、世界は浄化され、またあらたな一歩が踏み出されることとなるのでした。

                  

「神々の黄昏」の音源は、フルトヴェングラーを選択。

フルトヴェングラーの「リング」が、EMIから彗星のように出現したのは72年頃だったでしょうか。
ローマ交響楽団という謎の楽団が最初にリリースされたときのオーケストラ名だった。
1953年に、ローマ放送局において1幕1幕個別に演奏会形式で上演されたもので、各幕の終わりにはイタリアっぽい聴衆の盛大な拍手が入っている。
フルトヴェングラーはEMIに、この放送録音を正規に発売することを望んだが、EMIは、フルトヴェングラーのリングを、ウィーンで録音することを企画し、54年に「ワルキューレ」の録音が実現したものの、フルトヴェングラーの死によって途絶えてしまった。
 当時、リングのレコードが死ぬほど欲しかったクラヲタ少年が、モノラルでローマのオケのリングなど選ぶはずもなく、絶対カラヤンと思いこんでいた矢先に、ベームのバイロイトライブが、これまた忽然と発売されることとなり、そちらに飛びついたわけなのです。

83年、こんどは、チェトラから、フルトヴェングラーのスカラ座のリングが登場することなった。このときは、もしかしてステレオ?なんてことも噂されたが、ちゃんとモノラル。
わたし、ハイライト盤で我慢。
後年、全曲盤を揃えたが、ローマのオケより数等上のスカラ座オケのワーグナーに新鮮な感銘を覚えたのでした。

ローマの放送オケは、ときおりヘマをするけれど、フルトヴェングラーの下で、だんだんとワーグナーの真髄が指揮者から乗り移ってきて、極めて情熱的な演奏を繰り広げるようになる。
それが一番味わえるのが、この「黄昏」のそれも第3幕。

ジークフリートの死から、凄まじいまでの気迫に溢れた演奏となり、ブリュンヒルデの自己犠牲の場面では、もう感動が止まらない情熱急行列車となっているのだ。
フルトヴェングラーの凄いところは、こんなところにあるんだろう。
最後の大団円は、神々しいまでの素晴らしさ。

ズートハウスは、昨今のスマートなヘルデンからすると、少しばかり昔のカロリーオーバーな声だけれど、さすがに力強く、声とするとイェルサレムに似ていると今回思った。
そして、メードルのブリュンヒルデは素晴らしい。
少しフラットなところもあるものの、女性らしい優しさもともなう素敵なブリュンヒルデ。
メードル・ヴァルナイ・ニルソンと、50~60年代は、素晴らしいブリュンヒルデとイゾルデに恵まれていたものだ。
グランドルの憎々しいハーゲンも定評あるもので、ユリナッチのグートルーネやレッセル=マイダンの端役も素敵なもの。
しかし、グンターとアルベリヒの歌唱はちょっと時代めいてました。

このローマのリング、最近SACD化されて、素晴らしい音になったそうで、なんと28,000円もしちゃう。贅沢はとどまるところを知らないものです。

以上、「リング」終了しました。

「神々の黄昏」過去記事

「ブーレーズ&バイロイト」

「クナッパーツブッシュ&バイロイト」

「カラヤン&ベルリン・フィル」

 

「エヴァンス&尾高忠明~抜粋」

「ショルティ&ウィーン・フィル」

 

 

 

 

 

「ミトロプーロス&ニューヨーク・フィルの第3幕」

 

 

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2011年12月29日 (木)

マーラー 交響曲第9番 アバド指揮

Hills_7

六本木ヒルズから、けやき坂を望み、東京タワー。

この景色が大好きなんです。

頑張れ東京タワーって感じ。

Hills_8

東京という大都会を半世紀に渡って見守り、ともに生きてきた東京タワー。

この風情と風格は、どんなに高くモダンなスカイツリーが出来ても越えられるものではありません。

Mahler_sym9_abbado_vpo

六本木写真との色合いの符合に、ご満悦の、わたくし、クラヲタ人。

最愛のマエストロ、クラウディオ・アバドの指揮で聴く「第9交響曲」。

マーラー 交響曲第9番ニ長調

いまや泣く子もだまる9番は、このマーラー。

毎度の昔話。わたしがマーラーの9番を意識し始めたのは、1970年のバーンスタインとニューヨークフィルの万博来日公演。
演奏会なんていくことは夢の夢だった小学生。
レコ芸で、この曲を指揮する、白い燕尾服姿のバーンスタインとNYPOの写真や吉田秀和氏の評論を見たり読んだりして、マーラーって誰、ベートーヴェン以外の第9はいったいどんななんだ?  とむちゃくちゃ好奇心にかられて眠れなくなった。
その後、サワリの部分をCBSソニーのサンプルレコードで聴いたり、森正さん指揮するN響の演奏をテレビでちょい見したりて、薄ぼんやりと聴き始めたのが71年頃。
そして、同じ頃、FMで放送されたコンドラシンとモスクワフィルのレコード演奏を録音して、ついに全曲を確認。
そんな純情なマーラーの9番体験を経ているのです。
当時は、レコードが出ていたのは、バーンスタイン、ワルター、ハイティンク、クレンペラー、クーベリック、コンドラシン、バルビローリ、ショルティくらいだったから、いまや山のように出ている音源を見るにつけ、隔世の感ありありです。

鳥の羽根の統一ジャケットで、1枚1枚愛おしむように集めてゆく喜びを与えてくれたアバドのマーラー・シリーズ。
76年の2番から始まって、アナログからデジタルに録音方式も変わり、オーケストラもシカゴとウィーンを使い分けるという贅沢なシリーズは、9番を前に止まってしまった。
いまもって唯一の録音8番も、さらにブランクがあるのだが、9番を前にしたアバドの黙考ぶりは、単にマゼールがウィーンフィルを使って先に録音してしまったというばかりではないと思った。
87年のウィーンムジークフェラインでのライブ。
長く務めたスカラ座の音楽監督と決裂し、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に86年に就任
したばかりの頃。
ウィーンとのさらなる蜜月の始まりに、モーツァルトやベートーヴェン、新ウィーン楽派などを集中的に演奏し、ウィーンの街とも一体化していったアバド。
そして、ついにマーラーの9番を指揮する時がやってきた。
この演奏はNHKFMでも放送され、私はバーンスタインとベルリンフィルのときと同じように、とっておきの高級カセットテープを用意して、万全のエアチェック体制でスピーカーの前に待ち受けたのを昨日のことのように覚えている。

その後、ベルリンフィルとの再録音(99)、マーラー・ユーゲントとの映像(04)、ルツェルンでの映像(10)と4つのマーラー9番を残しているアバド。
それぞれに、素晴らしく、とくに直近のものは神が舞い降りているが、それでも忘れ難くも大いに愛着があるのはウィーン盤(87)であります。

この偉大な交響曲に初めて挑む初々しい新鮮さと、慈しむがごとく丁寧な指揮ぶり。
甘やかなウィーンフィルの音色を受けて、3番や4番のときのように、オーケストラと幸福な一体感を感じる。
この次にくる新ウィーン楽派やツェムリンスキーが切り開くユーゲントシュティール様式の先がけを、このアバド&ウィーンフィルの演奏では確実に聴きとることができる。
濃密でありながら、若々しい稀有なマーラー演奏は、この時期のアバドならでは。
後年のアバドのマーラーの9番は、さらなる進化をとげて、演奏するひと、指揮するひと、それぞれの存在すら忘れさせてしまいような無の境地ような透徹極まりない演奏へと近づいてしまったのでした。
いまのわたしには、2010年のルツェルン演奏を記事として取り上げるには畏れ多い気がしてできません。
というか、言葉にできないのです。

ということで、9番ミニシリーズの最後は、アバドとウィーンフィルの最上の姿が味わえるマーラーでございました。
この演奏で聴く、最後の死ぬように・・のピアニシモは、優しいいたわりと、明日への希望の微笑みを感じるのです。

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2011年12月28日 (水)

ブルックナー 交響曲第9番 アバド指揮

Hills_a_2 

こちらは六本木ヒルズ。

下から見上げてみましたの図。

Hills_b

そして、その足元の毛利庭園には、時計の文字盤のイルミネーション。

今年もあと3日を残すのみ。

1

ブルックナー交響曲第9番

ブルックナーのなかでも8番と並んで、格別な存在ゆえに、そう何度も、そして気軽に聴くのがはばかれるたぐいの交響曲。
未完ながら、もし完成していたら、8番をしのぐとんでもない音楽になっていたことでありましょう。
テ・デウムを後に演奏したり、終楽章の補筆完成版もそこそこ出ているが、わたしには、そのいずれも興味がありません。
というか、ブルックナーの9番は、3楽章までで、ほぼ完成系と耳にしみ込んでいるので、それ以上は完全なる竜頭蛇尾。
いまさらの感、ありなのです。
マーラーやエルガーらの補筆完成交響曲の存在価値はご当人の意図するところとどこまで符合しているかは不明なれど、それらの完成度の高さと、鑑賞に足るべく素晴らしさはいうもでもありませぬ。

だから、今後もブルックナーの9番は、3つの楽章のみ。

今日の第9も、アバド

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アバドのブルックナーの9番は、ウィーンフィルとのDG正規録音が1996年。
ルツェルンではまだやってません。
同年の96年には、ベルリンフィルの定期でも取り上げております。
その時の映像が、今回のもので、NHKが生放送したもの。

ウィーン盤はライブながら、流れ重視のきれい系の演奏で、なかなかにユニークな9番で、これはこれで大好きな演奏です。

しかし、このベルリンフィルとの演奏会の尋常でないハイテンションぶりはいががいたしたものだろうか!!!

まるで一期一会のような、ここでしか出会えないコンビの熱血的な熱い演奏。

アバドのことならほとんど知ってる私でさえ、こんなアバドの演奏は聴いたことがないくらい。
病に冒される前の、気力最充実気。
ベルリンフィルが、そんなアバドの気をまともに受けて、その持てる力をフルにびっしり発揮しまくってるのが音と映像でありありとわかる。
月並みの言葉しか浮かばないけれど、ともかくすごすぎる演奏なのだ。

アバドならではの歌い回しは、1楽章と3楽章の第2主題の美しい、まるでアリアのような旋律が涙がでるほどに、なみなみとした情感に溢れていて感動的。
それに対する、崇高で高貴なそれぞれの楽章の主要主題は、神がかって感じるほどの充実ぶり。
2楽章のスピーディーな気迫もすごい。

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いつも一生懸命に演奏しているプロ中のプロのベルリンフィルのメンバーが、身を乗り出し、スコアと指揮者に食い入るように没入しがらの夢中の演奏ぶりも、ことさらにすごい姿に感じる。
ゆったりと、そして緊迫感を持ちながら、最終の壮麗な結末を迎える終楽章は、視聴していて完全没入。
口を開け、阿修羅のような顔になっているマエストロ・アバドの姿。
カタルシスのあと、平和が訪れ、ブルックナーの音楽が神のもとに収斂してゆくとき、アバドの顔にも柔和な表情があらわれる。

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ドイツ系の定番ブルックナーばかりがもてはやされるけれど、アバドのブルックナーなんて??、という方々に是非、このライブは黙って聴かせてみたい。

是非とも音源化を望まん。

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2011年12月27日 (火)

ベートーヴェン 交響曲第9番 アバド指揮

Hills_c

いろいろあった、そしてわれわれ日本人にとって辛い年だった2011年の終わりまで、あと数日。
年の変わりを意識しなくても、次の日、すなわち夜のあとには日の出は、必ずやってくるわけで、ことさらに騒ぎ立てる必要はないのだと思うが、日本人は暦や季節の変わり目を、とても大事にしてきた民族。
他国では、他国なりの変わり目があるのだろうけれど、少なくともキリスト教社会にあっては、クリスマスとイースターが最大のイベントで、そのふたつが中心となった生活習慣となっている。
クリスマスも、その年一杯から、1月の初めまで、教会歴にしたがって祝いのムードがあるのだけれど、日本は、26日になると、クリスマスムードは完璧なまでになりを潜めて、新年を迎えるムードに一変してしまう。

そして、日本の音楽界は12月後半は、第9一色。
第9しかやってないし、クラシックを日頃聴かない人までも、第9になっちゃう。
第9が、日本人大好きのベートーヴェンの最後の交響曲だし、お馴染みの歓喜の合唱だからしてゆえ。

とはいえ、そんな私にも、この第9には、この時期の雰囲気が染み付いております。

Beethoven_sym9_abbdo_vso

ベートーヴェン交響曲第9番

第9というと、ベートーヴェンで。
同じ第9でも、まさか「新世界」を第9と呼ぶひとはいないし、ブルックナーやマーラーのタイトルなしも、「ダイク」でなく、9番(きゅうばん)と呼ぶように思う。

まさに、ザ・ダイクは、ベートーヴェン。

今日の第9は、クラウディオ・アバドが超めずらしくも、ウィーン交響楽団を指揮したライブ音源で。

    S:マーガレット・プライス     MS:ヘルガ・デルネッシュ
    T:ジークフリート・イェルサレム B:ゴットフリート・ホルニク

        クラウディオ・アバド指揮 ウィーン交響楽団
                         ウィーン・ジンクアカデミー
                       (1981.1.1 @ウィーン


非正規盤ですから、多くの方にお勧めはできませんし、なによりいまや入手が難しいかもしれません。
放送音源からのダビングに思われますが、れっきとしたステレオ録音で鮮明です。

アバドの4種類(うちひとつは映像兼用)ある第9は、ウィーンフィルとのライブが85年。
ついでベルリンフィル・ザルツブルクライフが96年。
ベルリンフィルDG全集盤が2000年(ローマ映像の音源化では同一音源)。
さらに、ベルリンフィルとのヨーロッパコンサートの映像ライブが同じ2000年。

ウィーンフィルとベルリンフィルという2大オーケストラでベートーヴェン全集を残したこと事態が偉大なことだけれど、第9だけでもこれだけ。
しかも、従来ブライトコプフ版とベーレンライター版のふたつがあるというのも、アバドならでは。

そして、アバドの第9としては一番古い1981年の記録が、今日のウィーン交響楽団盤。
ウィーンのニューイヤーコンサートは、いうまでもなくウィーンフィルのものが世界基準だけれども、コンツェルトハウスでは、ウィーン交響楽団が毎年、第9を演奏している。
80年にはベームが指揮してNHK放送もされたけれど、81年にはアバドが指揮をしていたようで、当時はまったく知る由もなかった。
そもそもアバドがウィーン交響楽団を指揮したことってあったのかしら??

81年の元旦は、ムジークフェアランではマゼールがヴァイオリンを弾きながらのニューイヤーコンサート。
アバドは、ウィーンフィルのパーマネントコンダクターだったけれど、マゼールの登場で少し縁が遠くなり、ますますロンドン響やスカラ座との蜜月を深めていった時代。

ウィーンの楽団らしい柔らかい響きを生かしつつ、正攻法の堂々たる第9演奏になってます。
数年後のウィーンフィル盤と、タイム的にもほぼ同じで、アバドらしい全編くまなく目の行き届いた仕上がりのきれいな、しかもライブとは思えない精度の高い演奏。
まだ40代のアバドの若さと、それに似合わぬ悠揚たる落ち着き。
ベーレンライターという版の違いはあるにしても、性急な感を与えつつも、大胆明晰なベルリンの後期の演奏と比べて、はるかに落ち着きがある。
当時のベートーヴェン演奏の高度なまでのスタンダード演奏といえるかもしれない。
 そして、第3楽章のオペラティックなまでの歌心に溢れた人声のような美しさと静けさ。
ウィーンフィルでない分、客演という気楽さから、表情付けは当時のアバドからすると大きく感じる。
最後の歓喜の爆発は、その追いこみ具合とともに、相当なもので、おおいに興奮します。
聴衆のブラボーも盛大なものです。

あと、なんといってもソリストの豪華さ。
このソリストで、トリスタンやパルシファルが上演できまます。
ワーグナー歌手による強力な布陣。
なんといっても、ソプラノからメゾに転向した、デルネッシュの声が聴けるのがうれしい。
少しの場面ですが、聴きなじんだブリュンヒルデやイゾルデのです。
 そして、アバドお気に入りのM・プライスの清潔な声。
まだ生硬さの残る後の大ヘルデン、イェルサレム
名アルベリヒ・クリングゾルとなってゆく性格バリトン、ホルニック

こんな豪華な歌手による第9って、ほかにないかもです。

次も9番いきます。

 アバドのベートーヴェン第9 参考タイム

     Ⅰ   Ⅱ   Ⅲ   Ⅳ   TTL
 ウィーンSO(81)  17'08  11'14  17'39  24'49  71'20
 ウィーンPO(85)  17'10  14'14   17'01  23'55  71'20
 ベルリンPO(96)  15'23  13'50   13'57  22'47  65'57
 ベルリンPO(2000)  14'19  13'02   12'50  22'02  62'15

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2011年12月25日 (日)

ワーグナー 「ジークフリート」 レヴァイン指揮

Collettemare

横浜のColleteMareより。

真ん中はクリスマスマーケット。

Hills2

こちらは、六本木ヒルズのマーケット。

ビールやウィンナー、プレッツェルも食べれる本格ドイツ風。

ドイツ各都市では、街の中心の広場で開かれる。
寒い夜に、グリューネワインなんて最高でしょうねぇ。

Christkindlesmarkt2010

こちらはバイロイトのクリスマスマーケット。

バイロイト市のページには、今年の動画もありました。

 

→http://www.bayreuth.de/veranstaltungen/
               bayreuther_christkindlesmarkt_554.html

Wagner_siegfried_levine_2

ワーグナー 序夜と3日間の舞台祝典劇「ニーベルングの指環」。

第2夜は、楽劇「ジークフリート」。

 

リングのなかでは一番地味で、ほかの3作に比べ、これだけ単独で上演されることはまずない。
男ばかりの登場人物で、くどい昔話も多く、女声はせいぜい鳥が第2幕に、あとは知の女神さんがいりけれど、3幕まで、ヒロインの目覚めを待たねばならぬ。
上演の際、聴取は退屈してしまう。
1幕はジークフリートが剣を鍛え直すまで、2幕は龍との対決まで、3幕はブリュンヒルデが起きるまで(でも起きた後の二重唱は長過ぎの理解不能の会話)・・・・私は、慣れてしまったけれど、ほとんどの方に退屈誘う場面であります。
だから、演出も嗜好を凝らすこと多く、キース・ウォーナーのトーキョーリングは、お笑いや仕掛けも随処におりまぜた傑作の一品だった。

4時間の長丁場、8人の歌手が絡み合うが、その8人は、声質がそれぞれ異なり、コントラストは豊かなところはさすが。
ヘルデンテノール・キャラクターテノール・バスバリトン・バリトン・バス・アルト・コロラトゥーラ・ドラマティックソプラノ。全部違う。
その中心はいうまでもなくジークフリート。
あらゆるテノールの諸役の中でもトリスタンと並んでヘヴィーな難役のひとつ。
今回は、皆さん多くは聴かないであろう地味なジークフリートを選択してみました。

   ワーグナー 楽劇「ジークフリート」

    ジークフリート:ライナー・ゴールドベルク 
    ミーメ:ハインツ・ツェドニク
    さすらい人:ジェイムズ・モリス       
    アルベリヒ:エッケハルト・ヴラシハ
    ファフナー:クルト・モル           
    エルダ:ビルゲッタ・スヴェンデン
    ブリュンヒルデ:ヒルデガルト・ベーレンス 
    森の小鳥:キャスリーン・バトル

  ジェイムズ・レヴァイン指揮 メトロポリタンオペラ管弦楽団
            (1988.4・5 @NYマンハッタンセンター)


独断のあらすじ

ジークムントとジークリンデの子、人間社会の産んだ怖れを知らない独断の悪ガキ。
ジークフリートは、ありあまる力を今日も育ての親である恩人ミーメに向け、いじめたり脅しつけたりしている。
早く世界に飛び出して、おせっかいと冒険の旅をしたくてウズウズしているが、自分の出生の秘密を知ることや武器を手にするが第一。
孫の様子を常々伺っている、旧主国のさすらいウォータンは、指環を守る龍ファフナーをやっける武器を鍛える術をクイズ形式でミーメに伝授して、孫が指環を手にするように自分の手を下さずに仕向けるが、それが純でおバカな孫の悲劇を生むことに、そして自らの王国の崩壊を導こうとは思いもよらない。
元気な孫は、期待通りに、父親の遺産を鍛え直して、最強の武器を作りあげる。
傍らでは、ミーメがヒッヒッヒといいながら、育てた子供をやっける毒の飲み物を作ってるから、こっちもロクでもないお国の方なのだ。

ロクでもない国のかつての統領アルベリヒは、思えば黄金を最初に盗み指環を作りあげた原初の人物。指環を後生大事に抱えている世界が見えないファフナーをお隣で見張っている。
同じ泥棒の親分さすらい人と、昔話に花を咲かせつつ、弟ミーメとの内部分裂もあって、一歩リードしているミーメの動向も気になってしょうがない。
 ジークフリートは、ミーメの計略どおりに、森へやってきて簡単にファフナーを退治。
本来バカじゃないファフナーもようやく目が覚めて、ジークフリートに教訓垂れようと思ったが死んでしまう空しさ。
その返り血を舐めて鳥の声が聞き分けられるようになるという、まったくありえない話でもって、鳥からアドバイスをもらい、育ての恩人を簡単に殺してしまう酷さ。
おまけに鳥に、女を紹介してもらうといういい加減ぶり。

さすらい人が知の女神エルダをなにゆえに呼び出したのか不明。
不安になって今後のことが知りたくて無理やり眠りから起こしたくせに、孫と娘が一緒になって救ってくれると、自分でこれからこうなると言いきって怒って帰れといってしまう無尽ぶり。
しかし、孫とのご対面で、槍を折られてしまうが、これも権力の世代交代の想定内の事件。
無邪気なジークフリートは、鳥に案内されてホイホイと山を超え火を超え、女のもとへ。
しかし、女を紹介されといて、ブリュンヒルデの武具を解いたとたん「Das ist kein Mann!」~男じゃない!とのたまうところは毎度不思議な場面。
目覚めたのは、自分の伯母。これもまた考えもののカップルなのでありますが、そこは目を瞑って、長大なヘルデンとドラマティックの大二重唱を聴きましょう。
ここでの二人の歌詞にはどうも接点がなく、禅問答みたい。
やがて意気投合するのは、最後に高らかに歌う「leuchtende Liebe、lachender Tod!」~「輝く愛と、微笑む死」という言葉。
輝く愛はともかくとして、微笑む死とはまたいったい。
愛と死への憧憬・・・、それはトリスタン的な世界。
昔からどうも謎だった言葉でありました。いまだに不明。

ともあれ、神の国から完全独立の、二人の短い新婚生活の始まりは爆発的な歓喜で終ります。

作曲時期が分断した第3幕があきらかに分厚いオーケストラと、錯綜するライトモティーフの高度極まりない扱いなどからして、1・2幕と一変している。
けれども1・2幕は抒情的で、歌手の妙技を楽しむことできる。

今回のライナー・ゴールドベルクは、豪華歌手を揃えたレヴァインのメット・リングの中では正直弱い。
喉に少しつかえのあるような発声は慣れるまで違和感あるが、丁寧な歌と明るめの声質が聴き慣れると悪くない。
コロ・ホフマン・イェルサレムの3人がヴィントガッセンの後継者的3大ヘルデンだったが、ゴールドベルクは、その中に入れなかった人。
本番に弱く、ショルティのバイロイトリングのジークフリート、ウィーンの監督になったマゼールのタンホイザー、いずれも出れなくなったりコケたりで大失敗。
でも日本ではスゥイトナーの指揮でマイスタージンガーは大成功。わたしも観劇。
ライブではうまくいかなくても、レコーディングはそこそこあります、不思議なゴールドベルクでした。

ツェドニクの抜群の巧さを誇るミーメは最高だけど、ゴールドベルクとの声の対比では判別が難しく思った。というよりジークフリートより立派に聴こえちゃう。

ほかの歌手の皆さんは完璧で、メットならでは。
バトルの小鳥は違和感あるけれど、ベーレンスのブリュンヒルデはもう言うことなし。

で、絶頂期のレヴァインは、じっくり腰を据えつつ、明るくてわかりやすいワーグナーを紡ぎだしている。
メットオケもレヴァインと一体で、いくぶんハリウッド的なサウンドではあるものの抜群のうまさ。
ということで、申し分ないオーケストラ演奏ではあるけれど、わたしには充足感がいま一歩。以前は新鮮に感じたものも、いまなら、バイロイトの臨時編成のオーケストラの方に、はるかな満足感を得る。
世界中のオーケストラで、ワーグナーが聴けるようになった今、各国のオケの個性も楽しめる贅沢が味わえるのでありますが、全曲盤、ましてリングとなるとやはりドイツ・オーストリア系のオケの凝縮された響きが欲しいのが本音です。

最終「神々の黄昏」は、もっと変わったオケで考えてますが、指揮者がカリスマってます。

参考タイム

レヴァインのジークフリート・タイム   Ⅰ(85) Ⅱ(80) Ⅲ(84)

ベームのジークフリート・タイム     Ⅰ(78) Ⅱ(68) Ⅲ(77)


ジークフリート過去記事

「ブーレーズ&バイロイト」

「ケンペ&バイロイト」


「カラヤン&ベルリンフィル」

「ヤノフスキ&ドレスデン」

 

ネットで見つけたバイロイトの街の様子。
おもしろい映像です。
そしてかなりの都会でした。

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2011年12月24日 (土)

フィンジ 「デイエス ナタリス」~生誕の日

Shinjyuku_southernterace_4

子供のころは、クリスマスはきらきら感と期待感、そしてヨーロッパやアメリカへの憧れ感に包まれてました。

ミッション系の幼稚園から育ちましたから、クリスマス会では、イエスの生誕の物語を園児たちで劇にするわけでした。
2年間の私の役柄は、イエスが飼葉桶で生れたときに周りにいた農民の役と、東方の博士のひとりだったような気がする。
ちなみに、イエスやマリアを演じた園児は、その後、小学校や中学校へ進学しても、ちょっと注目される男女だったりしてました。
このあたりは、いつの世になっても変わらないのでは・・・・。

そんな幼少期を経て、少し長じて、クラシック音楽に親しむようになり、バッハやヘンデルの音楽に感化されキリスト教のなんたるやを興味を持って学んだ。
やがて大学もミッション系となり、学問としてのキリスト教プラス、宗教としてのキリスト教が身近に感じられるようになり、初老のいま、現在にいたっております。

Shinjuku_myroad

物質的な意味での恵まれたクリスマスより、心の底から沸き起こる感謝と喜びがクリスマスの本質。

経済的に苦しくても、ケーキやチキンはなくっても、どんな人にも等しく優しいクリスマスであって欲しい。

イエスの生誕という喜びに、格差や不平等はあってはならないのですから。

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ジェラルド・フィンジ(1901~1956)のカンタータ「ディエス・ナタリス」。

生誕の日」または、「クリスマス」という邦題。

フィンジのことは、何度も記事にしてます。

フィンジのカテゴリーをご参照ください。

抒情的で、ナイーブなフィンジの作風は、どんなときでも聴く人の心に、静かに歩みよってくれて、寄り添うように一緒に歩んでくれる。
そして、時に見せる深淵に、わたしたちは驚き、慄いてしまう。

フィンジの音楽を聴く喜びと怖さです。

「ディエス・ナタリス」は、1926年の若き日々に書き始めたものの、その完成は1939年で、13年の月日を経ることになった。
そんな長きの空間を、とこしえとも思える静けさに変えてしまう不思議さ。
この音楽に感じるのは、そんな静けさです。

弦楽オーケストラとテノールのためのカンタータ。
またはソプラノによる歌唱も可とするこの曲。
もともとはバリトンによるものですから、あらゆる声域で歌える美しい曲。

器楽によるイントラーダ(序奏)に導かれた4つの歌からなる20分あまりの至福の音楽は、いつもフィンジを聴くときと同様に、思わす涙ぐんでしまう。
イエスの誕生を寿ぐのに、何故か悲しい。

17世紀イギリスの聖職者・詩人のトマス・トラハーンの詩集「瞑想録」から選ばれた詩。

 1.イントラーダ(序奏)

 2.ラプソディ(レシタティーボ・ストロメンタート)

 3.歓喜(ダンス)

 4.奇跡(アリオーソ)

 5.挨拶(アリア)


この曲で最大に素晴らしいのは、1曲目の弦楽によるイントラーダ。
最初からいきなり泣かせてくれます。
いかにもフィンジらしい美しすぎて、ほの悲しい音楽。
何度聴いても、この部分で泣けてしまう・・・・・。
1曲目のモティーフが形を変えて、全曲を覆っている。
この曲のエッセンス楽章です。

トラハーンの詩は、かなり啓示的でかつ神秘的。
その意をひも解くことは、なかなかではない。
生まれたイエスと、イエスの前に初心な自分が、その詩に歌い込まれているようで、和訳を参照しながらの視聴でも、その詩の本質には、わたしごときでは迫りえません。

全編にわたって、大きな音はありません。
静かに、静かに、語りかけてくるような音楽であり歌であります。

楚々と歌われ、静かに終わる、とりわけ美しい最終の「挨拶」。

 ひとりの新参者
 未知なる物に出会い、見知らぬ栄光を見る
 この世に未知なる宝があらわれ、この美しき地にとどまる
 見知らぬそのすべてのものが、わたしには新しい
 けれども、そのすべてが、名もないわたしのもの
 それがなにより不思議なこと
 されども、それは実際に起きたこと


生まれきたイエスと、自分をうたった心情でありましょうか。
訥々と歌う英語の歌唱が、とても身に、心に沁みます。

いつものフィンジらしい、そしてフィンジならではの内なる情熱の吐露と、悲しみを抑えたかのような抒情にあふれた名品に思います。
わたしには、詩と音楽の意味合いをもっと探究すべき自身にとっての課題の音楽ではありますが、クラリネット協奏曲やエクローグと同列にある、素晴らしいフィンジの作品。
機会がございましたら是非。

今日の演奏は、ジェラルド・フィンジの息子、クリストファー・フィンジの指揮、ウィルフォード・ブラウンのテノール。イギリス室内管弦楽団。
直伝かどうかわかりませんが、すこし冷静で情がこもり過ぎないくらいのささやかさが、とてもいい演奏です。
ブラウンのテノールも、イギリステナーの清涼さがとても心地いいのでした。

この曲、あとマリナーとポストリッジが素敵すぎる演奏。
そして、ライブではソプラノの金子裕美さんのクリアな歌声に涙してしまった。

よきクリスマスを

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2011年12月23日 (金)

さまよえるクラヲタ人 IN松山 with ボストン・ポップス

Matsuyama_1

松山に行ってきました。

お仕事です。

こちらは、街の繁華街、大街道のアーケード。

なかなかのものです。

Matsuyama_2

夜は、瀬戸内のお魚で一杯。

活イカがまたウマイのなんのって。
コリコリで甘い。
残りは天ぷらか、塩焼きで。

愛媛は日本酒も最高!

Matsuyama_3

ラーメン文化はちょっと薄いけれど、いつも行ってしまう「豚珍行」という店。

野菜多めのシャキシャキ餃子が最高にウマいのと、うれしいのはミニラーメンがあること。

野菜出汁も効いて少し甘めなのですがね、一味唐辛子で締まります。

Matsuyama_4

そして本日は、仲間と企画したイベント。

個人的にちょっとご縁がありました名波浩さんをお迎えして、四国一のショッピングセンター、フジのエミフルMASAKIにて、サッカー教室とトークショー。

チームワークや状況観察、判断力をやしなうような驚きのメニューがふんだんで、さすがは名波さん。
子供たちへの目線もとても暖かいものがありましたし、アドバイスひとつで彼らがどんどん変わってゆくのがわかりました。

音楽でいえば、指揮者と同じで、技術や知識以上に、人を導き引っ張ってゆく力は、指導者として必須のものなのです。

Matsuyama_5 

たくさんのお客様に集まっていただいたトークショーも大盛況。

お店の素晴らしいバックアップ体制にも散々助けられました。

ありがとうございました。

Matsuyama_6

「坂の上の雲」にわく、松山空港のツリー。

最終便で、ご一緒させていただき東京に帰りました。

Tokyotower

東京では、いつもの東京タワーがお出迎え。

天皇誕生日に、ホワイトカラーのダイアモンドヴェール。

22時数分前だったので、下から順に消えかかってましたね。

疲れましたが、楽しい、そして充実の1日でございました。

Bosuton_pops

日付がイブに変わる間際に、クリスマス音楽を。

ジョン・ウィリアムスボストン・ポップスのクリスマス・アルバム。

冒頭のWe wish you a Merry Christmasに続いて、クリスマス・フェスティバルという有名曲ばかりのメドレー、そのあとキャロルとクリスマス・ソングのメドレー。
そして面白いのは、アイヴズの「クリスマス・キャロル」。
あのアイヴスとは思えないくらいの清純清冽な音楽でした。

このコンビの初期の80年のフィリップス録音。
ボストンにおけるフィリップス録音の素晴らしさは皆さまご存知のとおり。
ここでも目の覚めるような鮮やかさと、ホールトーンの自然な響きが味わえます。
そして、フィードラー時代とはまた違った意味でのゴージャスなアメリカンサウンド。
誰もが夢見るアメリカのクリスマスって感じです。

皆さま、明日はよきクリスマス・イブを。

そして、いつでも企画しますよ、今日のようなイベント。
お任せください(笑)。

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2011年12月21日 (水)

チャイコフスキー 「くるみ割り人形」 メータ指揮

Shimbashi_2

サラリーマンの聖地「新橋」。

そして、そのサラリーマンの待ち合わせ場所兼テレビインタビュー場所兼街頭演説場所のSL広場。

このところ毎年こんな風にイルミしてまして、オヤジどもの心をくすぐっておるのでございます。

数日前は、ここで総理が演説しようと思ったら、金正日が死んじゃったの報でお流れ。
罵声が飛んだりして、蓮舫さんも顔面ひきつっちゃってる映像を見たりしましたね。

映像といえば、かの国の国民とか中枢系の方々の嘆き・悲しみぶりは尋常じゃない。
あそこまでいくと、悲しみを通り越してしまい、見ている方は呆れてしまうから、喜怒哀楽というのは度を超すとウソっぽくなるというものです。
もともとあちらの半島の方々は、南北ともに激しいですから、わたしなど、ラテン系と思ったりしてますがね、それでも胸かきむしり、拳で地面を叩いたり、ワオンワオンしたりするところはすごい。
わたしども、日本人には到底できません。
「喜び組」なんてのがあったけど、「泣き組」だったりして。

いずれにしても、今年相次いだ独裁者の死とその体制の崩壊。
あちらはどうなりますか、目が離せませぬ。
そして、おいしいものは食べ過ぎ注意だ。

Shimbashi_1

横からSLを。

いいよなぁ~

Mehta_tchaikovsky 

クリスマスだから「くるみ割り人形」いきます。

全曲盤はともかく、組曲版だと、通俗名曲の類となって、クラヲタ界ではあまりお呼びでなくなってしまう。
わたくしもその一人かもしれませんが、でも、なんだかんだいって「好き」。

「白鳥の湖」だと恥ずかしくなってしまうし、「眠りの森の美女」は退屈。
でも「くるみ割り人形」は楽しくって、メルヘンだしホンワカとしてしまいます。
白戸家の面々も思い起こしてしまいますし。

小学校の音楽の授業で初めて聴いたときも、うっとりするようなメロディの連続に、クラスの女子たちは、少女漫画の世界のお目々になっちゃった。
男子はそうでもないけど、すでにクラヲタの一歩を踏み出していたワタクシも、人知れず、両手を合わせてあごの下斜めに持っていっちゃった(わかります?このポーズ~笑)。

可愛い序曲があり、子供の好みそうな行進曲があり、各国のイメージがわく舞曲があり、最後が華やかでメルヘンチックなワルツ。
乙女たちを、とりこにしてしまう絶妙の選曲。
 そして、ハープ、チェレスタ、トライアングル、カスタネット、タンバリンなどの楽器の多用。フルートやオーボエの可愛い扱い方。
ほんと、チャイコフスキーって心憎い人。
あっちの傾向だった人とは、思いもしたくないですが・・・・・・・。

簡便には組曲でいいけれど、やはり全曲版も魅力的。
女声の入った雪のワルツや、組曲を拡大したような第2幕、そしてその最後もとても素敵で、全曲聴き終わった感動と、クララの夢が覚めたかのような儚い思いで胸がキュンとなります。(言っておきますが、わたしはオジサンです)

全曲盤は、新旧プレヴィンとヤンソンス。
組曲は、アバドとメータ、カラヤン(VPO)、マリナー、スコトフスキー。

メータイスラエルフィルの、思いのほかゆとりと落ち着きあるサウンドは、ロスフィルのときのようなゴージャス感がすこし少なめ。
でも、さすがに歌い回しがウマいもので、舞曲のイキの良さや、そのエンディングの鮮やかなキレのよさは爽快。

さすがだぜ、ズビン

ヒンズー教徒と、ユダヤ教徒の演奏する「くるみ割り人形」は、カレーと種なしパンみたいな取り合わせだけど、なんだかとっても味わいがあるのでした。

Hills6

でかいぜ、くるみ割り人形

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2011年12月20日 (火)

ブリテン 「キャロルの祭典」 ブリテン指揮

Shinjyukumyroad2

新宿のミロードのツリーイルミネーション。

クリスタル系の簡潔なもの。

去年とは大違いのシンプルぶり。  去年のブログ記事から

Shinjyukumyroad3

透けスケだけど、それなりに美しい。

今年はそれでも、街のイルミはそれなりに華やかに感じるのだけれど、過去画像を調べてみたら、去年・一昨年の豪華絢爛ぶりに驚いてしまった。

これでいいのかもしれない。

Britten_a_ceremony_of_carols

ブリテン(1913~1976)の「キャロルの祭典」。

ここでいう、キャロルとは広義な意味で、われわれが「きよしこの夜」などで知っている、「クリスマス・キャロル」のこと。
同名のディケンズの小説は、強欲爺さんが、クリスマスの夜に亡霊に諭され、そしてあらわれる3人の精霊によって、その残りの人生を変えてゆく、というもの。
わたしも読みましたよ。
今読んだら、また印象が変わるかもしれません。

そして、熱心なカトリック信者だったブリテンのこの作品は、宗教曲ではなく、クリスマス典礼を模した、英国教会風の式典をコンサート風に再現できる合唱音楽といっていいかもしれない。

1942年の作品で、第二次大戦真っ只中、主力のオペラは、「ピーター・グライムズ」も生れておらず、明るい「ポール・バニヤン」のみ。
少年合唱とハープソロによる編成は、とてもユニークであり、いかにもブリテン。
少年合唱は、女声合唱でも代用でき、ハープはピアノで奏されることもあるが、女声だと劇性が強くなり色合いが増してしまうし、さらにピアノだと表現の幅が広がるものの、ピュアな感じが少し遠のいてしまうかも。
やはり、ブリテンチックに、少年とハープであります。

英国のイエス生誕にまつわる15世紀の詩によっていて、その詩による歌は全部で9編。
両端に、グレゴリオ聖歌の「Hodie」~「今日、キリストは生れた」を置き、真ん中に、ハープソロの間奏曲を置く形式。
これまた、美しく形式と構成をまとめるブリテンらしい考え抜かれた技。

最初と最後の、グレゴリオ聖歌は、合唱が会場に入退場しながら歌うので、音源で聴くと、フェイドイン・フェイドアウトする。

この方式は、のちに書く教会寓意劇3部作で、さらに精密な仕掛けとなって結実する。

個々の歌に関して云々することはできませんが、いずれも少年合唱という無垢で汚れない歌声が、キリスト者でなくとも、聴くひとすべてにイエスの誕生という、このうえない喜びと希望を伝えてやまない。
そこに付随する清廉なハープの響きも、耳に心地よいばかりか、時に深遠なまでの効果を導きだしている。

演奏は、コペンハーゲンの少年合唱団をブリテンが指揮したもの。
ハープはエニッド・シモンという人。
1953年のモノラル録音ながら、極めて鮮明で、ブリテンの唸り声まで聴こえます。

Shinjyukumyroad1

クリスマスに、キャンドルを灯し、少年合唱とハープの調べに耳を傾けるのもいかがでしょうか。

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2011年12月18日 (日)

ワーグナー 「ワルキューレ」 ベーム指揮

Hills2

六本木ヒルズのツリーイルミネーション。

真っ赤な円錐状のツリー。

Hills3

こんな感じで、真っ赤な花びらとゴールドの帯で出来てます。

手間暇かかってますねぇ。

冬の寒さと、今年の辛さをちょっぴり忘れさせてくれる暖かな赤とゴールドでした。

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ワーグナー 序夜と3日間の舞台祝典劇「ニーベルングの指環」。

第1夜は、楽劇「ワルキューレ」。

物語は、指環をめぐる具体的な権力闘争から、少し距離を置いて、「ラインの黄金」の出来ごとから30~40年くらい経過した人間社会とそこに降りてきた神々を描く。

「起承転結」とは、中国の漢詩の構成のひとつなれど、ワーグナーはそれを知っていたのか否か、リングの4つの楽劇は、まさにその「起承転結」なのであります。

ものごとの始まりは、「起」であった「ラインの黄金」の略奪。
「承」は、前作の指環の争奪シーソーゲームを受けて、神々の側からの奪還作戦の布石と愛の挫折。
「転」は、無敵のヒーローの登場で、物語に英雄の大活躍によるハッピーエンドを聴衆に期待させる。
しかし、「結」では、ヒーローも破れ、聴衆の期待は破れ、「終わり」という結末を創成する。

ワーグナーの劇作の才は、こうした長大な物語をこのような構成でもって作り上げ、そこに極めて雄弁な音楽を付随させたこと。
強引なまでの独りよがりの性格で、人間性の悪さでは極め付きのワーグナーだけれども、残された作品は、極めて偉大で、いつの世にもその存在を誇りうる永遠の普遍性を持つものなのだ!

「ワルキューレ」は先に書いたとおり、指環は登場せず、直接の指環争そいはない。
そしてここにあるのは、「愛」の物語。
前にも何度か書いてますが、その「愛」も多彩でして、時にインモラル。
兄妹が愛をはぐくみ、子をなしてしまうのだから。
そして、やがて生まれる甥っ子への愛の予感。
略奪され無理やり夫婦にされてしまった気の毒愛。
正妻に頭が上がらず、いいなりになってしまう夫の見かけの愛。
旅先や計略で生れた子供たちとの親子愛。
その親子愛は、離れ離れの父と息子の信頼とその思いもよらぬ悲しみの別れ。
そして自分をもっとも理解している最愛の娘との今生の涙の別れ。
しかし、そこに厳然とあるのは、愛を断念せざるを得ないという、指環に魅せられてしまったものの悲しい宿命。

あぁ、愛のデパートの数々は、なんて悲劇的で、かつ素晴らしいのでしょうか!


独断のあらすじ

皆に止められ、泥棒から奪った指環を手放したウォータンはいまだに未練たっぷりで、指環を鎖国状態の巨人国(某japan)から再度拝借するために、戦いに秀でた英雄を量産することを考え、その頂点が自身が人間界に赴き生んだのがウェルズグ族。
期待のジークムントなのでありました。
没落の欧州のような神々が入植し生んだウェルズング族は、聡明なれど戦い好き。
助けようと思い、よかれと思って救っても、却って恨みと憎しみを買うばかり・・・。
父とはぐれ、やがて追われる身になるも、敵国で相見まえしは妹なり。
その妹とイケナイ恋に陥り、愛しか眼中になく、まわりのことはおかまいなしの夢中の逃避行に・・・・

可愛い子には旅をさせろ、とばかりのウォータンは自身が与えた最強の武器ノートゥングを難なく手にいれた息子ジークムントの逃避行にニンマリ。
ところがどっこい、不倫の末の、しかも下界の人間どもに生ませた子供、さらにしかも兄妹愛でもって、いかに略奪愛とはいっても正式な夫婦の誓いを破って逃げたジークムントとジークリンデが憎くてしょうがないのが正妻のフリッカ様。
欧州の伝統と格式からしたら、本能のおもむくままの民族はケシカランのである。
亭主ウォータンをつかまえて、正論でもって堂々と対峙し、見事、亭主の矛盾を看破してしまい、ジークムントの保護を断念させたあげくに、逃げられ夫の勝利を約束させてしまう。
いつの世も、げに恐ろしきは妻なり!!あぁ。。。
苦しい心の内を理解してくれるのは、天塩にかけて強い娘に育てたブリュンヒルデ。
でも諦念を滲ませ、きっぱりとあきらめるウォータンなのでありました。
 しかし、父のDNAをしっかりもった娘は、愛まっしぐらのジークムントとジークリンデに会って、これこそ父の意志とばかりに、大いに同情して戦いに勝手に助成してしまう。
これを見た父ウォータンは、最愛の息子ジークムントの武器を砕き、哀れ死にいたらしめてしまう。そいて、仮にも我が命令。
背いたからには許しはせぬと、ブリュンヒルデを愛するがゆえの怒りに燃える。
このあたり、すでにブリュンヒルデは愛と同情に芽生えた段階で、アメリカンになってしまったのでした。

ブリュンヒルデが怒りの没落神ウォータンから逃げ隠れた先は、父が大いに励んで産ませた8人の戦乙女軍。
兄(夫)の折れた剣を持ったジークリンデに、将来自分の夫になるであろう子供が宿っていることを告げ、勇気づける。
怒髪天にも昇る勢いの父ウォータンが飛んできて、娘から神性を奪い、眠りにつかせ一介の男に委ねられる普通の女になることを宣言されるブリュンヒルデ。
この時点で旧主国から追放。自由の国の人になるブリュンヒルデ。
父娘の涙の別れは、なんど観ても、なんど聴いても、感動の涙なくしてはいられない。

「Wer meines Speeres Spitze furchtet,
                                    durchschreite das Feuer nie!」


 (わが槍の穂先を恐れるものは、この炎を超ゆることなかれ!)

ウォータンは、こんな捨てゼリフを残して、火に囲まれ眠る愛娘を振り返りつつ、山を降りてゆくのでした。

生れ来る、自分を知らない英雄がいとも簡単にその炎を超え、自分をも超えてしまおうとは・・・・。いやそれを期待し、老大国が破れてしまうことも知りつつ。

   ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」

    ジークムント:ジェイムズ・キング    
    ジークリンデ:レオニー・リザネック

    フンディンク:ゲルト・ニーンシュテット 
    ウォータン:テオ・アダム

    フリッカ:アンレリース・ブルマイスター 
    ブリュンヒルデ:ビルギット・ニルソン

    ゲルヒルデ:ダニカ・マスティロヴィッチ 
    オルトリンデ:ヘルガ・デルネシュ

    ワルトラウテ:ゲルトラウト・ホッフ 
     シュヴェルトライテ:ジークリンデ・ワーグナー

    ヘルムヴィーゲ:リアーネ・シュニック
     ジークルーネ:アンネリース・ブルマイスター

    グリムゲルデ:エリザベス・シャルテル 
    ロスワイセ:ソーニャ・ケルヴェーナ


  カール・ベーム指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
              (1967.7 @バイロイト)


ワルキューレ、いや、というかリング自体の刷り込みがベーム盤

レコード時代、ベーム盤によるリング全曲視聴を何度行ったであろう。
歌詞対訳を見ながら、そして指揮もしつつ、歌も歌いつつ。
時には、お気に入り場所を抜粋して。
なかでもワルキューレは、一番ターンテーブルに乗った。
ジークムントの「冬の嵐は去り」、1幕の終わり、2幕前奏曲、死の告知、2幕終わり、ワルキューレの騎行、ウォータンの告別~終幕

すべて頭に刻まれてます。
ジークムントやウォータンは歌えるかもしれません。
当然、指揮もできそうです。

65年から始まったヴィーラント・ワーグナーの最後の演出は、死後の69年まで続くが、指揮者は、ベームとスゥイトナー、マゼールが受け持ったからその豪華ぶりは今や伝説。
68と69年は、マゼールが一人で全曲担当。
65年は、ベーム。
66と67年は、ベームとスゥイトナーが交互に指揮。
モーツァルトを得意としたベームとスゥイトナーの近似性を感じるし、ライブで燃える二人も一緒。ヴィーラントの指揮者選びの確かな眼を感じる。
だから、スゥイトナーのリング音源、ついでマゼールのリングも是非出して欲しい!

ベームの燃えるような爆発的な演奏は、スタジオ録音ではとうてい味わえないもの。
スタジオ録音しか知らない人は、このリングやトリスタン、オランダ人、マイスタージンガーといったバイロイトライブ録音を是非とも聴くべきで、ベームへの認識が一変するはずだ。
濃厚なロマンと感情の高ぶり、熱いフォルテは、1幕の終わりやウォータンの告別において顕著。
一方で、管楽器一本で、登場人物の深い沈鬱をあらわしたワーグナーの巧みな筆致も精緻なまでに表現している。
 それをしっかり捉えた迫真の録音状態も、いまもって最高に思う。

ショルティ盤と多くの歌手がかぶるが、2~3年後のこちらもまだまだ最盛期で、キングニルソンがまったく素晴らしい。
最高のジークムントたるキングの悲劇的な色合いと、不器用なまでの硬直さは、その力強い声とともに、いまだに他の追従を許さない。
ペーター・ホフマンとともに、忘れえぬ永遠のジークムント。

ニルソンの怜悧でありながら女性的なブリュンヒルデも、ヴィントガッセンのジークフリートとともに、わたしの永遠の存在。こんな歌手はもういません。

アダムの少しアクが強いが明るめのバスバリトンのウォータンも、ホッターやステュワートと並んで、わたしの耳に刻まれた存在。

ニーンシュテットブルマイスターの強力な存在も、当時のバイロイトの層の厚さを物語るもので、いまの多国籍化した演出優位の劇場からしたら遠くて懐かしいものだ。
年齢を経たいま、ジークリンデのリザネックをよく聴いてみたら、声が荒れぎみで、ちょっと驚いた。そしてこんなに叫ぶジークリンデも、よく考えたらほかにないなと。
演出なのだろうか、ジークムントが剣を抜く場面、夢の中でうなされる場面、ジークムントがフンディンクにやられてしまう場面。
その叫びがなかなかスゴイもので、歌唱の粗さに若い頃は気がつかなった。
でも、この人の魅力は、その夢中の歌唱で、3幕でお腹の子供を告げられて一転、生きる希望を見出し、そして感謝を捧げるところの迫真ぶりは感動的。

ワルキューレたちのなかに、のちの大歌手デルネッシュの名前を見つけることができるのも、当時の豪華ぶり。

「ワルキューレ 過去記事」

「ハイティンク&バイエルン放送響」

「新国立劇場公演 エッティンガー指揮①」


「新国立劇場公演 エッティンガー指揮②」

「二期会公演 飯守泰次郎指揮①」


「二期会公演 飯守泰次郎指揮②」

「テオ・アダムのウォータンの告別」

「ブーレーズ&バイロイト」

「メータ&バイエルン国立」

「ノリントン指揮 第1幕」


「カラヤン&ベルリンフィル」

「エッシェンバッハ&メトロポリタン公演」

 

Hills5

六本木ヒルズは、ウィスキーキャンペーンでした。

うまそーーー。

「ワルキュー」は、思い出のたくさん詰まった「ベームのリング」から選択しました。

次週はクリスマスに「ジークフリート」。

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2011年12月17日 (土)

バラキレフ 交響曲第1番 スヴェトラーノフ指揮

Shinjyuku_southernterace_2

新宿のサザンテラスのイルミネーションの一部。

今年は、かなりおとなしめ。

JR東日本の前には、東北のことを思い、たなばたイルミネーション。

季節外れの天の川は、とてもきれいなのでした。

Shinjyuku_southernterace_1

スイカのペンギンさんも、このとおり。かわいいでしょ。

Balakirev_svetlanov

みなさん、ロシア5人組を全員言えますか?

中学の音楽の授業で、その5人を習いましたがね、いまクラシック音楽愛好家になってみて、完全に死語の言葉のようになってしまってます。

バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、R=コルサコフ。

後半の3人は、メジャーでよく聴くけれど、それでも特定の曲ばかりで、その全貌をほとんど知らない。
前半の2人、バラキレフとキュイに至っては、かなり寂しい状況。
同時代のチャイコフスキーと比較して、相当にマイナーなのです。

しかし、個々に探し出して聴いてゆけば、それはまた、なかなかに魅力的なのです。
バラキレフを除いては、オペラ作曲家であるし、作品数も相当なもの。
ヨーロッパに傾かない、ロシア民族主義的な作風を貫くことが5人組たるところ。

そのバラキレフ(1837~1910)の交響曲第1番ハ長調を聴きます。

この曲は素晴らしいです!

バラキレフは5人組の指導者的存在だったようで、チャイコフスキーとも親交があり、お互いに影響を受け合ったり、アドバイスをしたりの関係だった。
この交響曲は、1897年に33年の年月をかけて完成した苦節の作品ではあるが、その中断は、他作品への熱中や、ロシア民謡の採取などの作業によるものという。

交響詩「タマーラ」、ピアノ曲「イスラメイ」などと並ぶバラキレフの代表作、交響曲第1番は4つの楽章からなる40分あまりの正統派交響曲。
ロシア的な力強さと、エキゾティックな旋律や、郷愁さそうメランコリーと爆発的な歓喜に溢れた聴きやすい音楽です。

スメタナの「我が祖国」の影響があるといわれる冒頭部を持つ第1楽章は、少しばかり古典風で、主部に入ると明るくて元気がとてもよろしく、いかにも「ハ長調の交響曲」、という感じ。

次ぐスケルツォ楽章は、リズミカルで性急な印象も受けるが、3楽章の緩徐楽章との鮮やかな対比がよろしい。

そしてとても美しい第3楽章。
ハープにのって奏でられるクラリネットの少しばかりオリエンタルで、懐かしくもある旋律が滔々と流れます。
ラフマニノフのようでもあり、チャイコフスキーの劇作品のようでもあり・・です。
ここに想うのは、やはりロシアの大地とその憂愁でありましょうか。
この楽章があるからこそ、この第1交響曲が魅力的なのです。

最後に来る4楽章は、歓喜の爆発でございます。
スヴェトラーノフの指揮で聴くと、こんなんでいいのかな?とも思えなくもないけれども、ともかく前向きな明るさ。
ここでも、ロシアの東南方のエキゾシズムを感じる。

そう、そしてスヴェトラーノフソヴィエト国立交響楽団(74年録音時はこの赤っぽいお名前)の、聴かなくても皆さま想像のままの演奏は、こうして冬に聴くと、体が暖まります。
ウォッカなどを煽りながら聴いてもよし。
3楽章の泣き節に思いきり感情移入するもよし、終楽章の爆演に笑っちゃうもよし、です。

冬だから聴けるスヴェトラおじさんの演奏。
夏場だったら、クールで整然としたシナイスキー盤(シャンドス)を聴きます。
そして、この曲の録音にはビーチャムもあるし、フィルハーモニア時代のカラヤンのモノラル録音もあるのです。
カラヤン盤は、EINSATZさんのご厚意で聴くことができましたが、スマートなカラヤンの印象をかなぐり捨てたような演奏にございましたね。

機会があれば、バラキレフ、一度お聴きください。
わたくしは、いずれはキュイさんを聴いてみようと思ってます。

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2011年12月16日 (金)

ボロディン 「ダッタン人の踊り」 バレンボイム指揮

Icho

都内の銀杏もすっかり色付き、黄色い枯葉となって路上を舞っております。

そして風が冷たい。

夜も、こんな風に、街灯のオレンジ色に映えて美しいのでした。

震災後は、節電で街灯は真っ暗だったことを考えると、この灯りはとってもありがたく、あったかい。

懐は師走を迎えて寒風が吹き荒れているけれども、飲んで帰宅中に立ちどまって上を見上げると、こんな風にきれいな葉が散るのを待っているのでありました。

飲むといえば、今時は、電車も遅い時間になると、酔っ払いが一杯のへろへろ電車。

今日は、客先と埼玉方面で忘年会をして、ゆったり座っての帰りの電車。
ガラガラだったので、一番はじっこに座ってました。
次の駅で乗ってくる方々が、空いてるのに、わたしの周りに来てわざわざ座る。
さらに次の駅でもそう。
おやぁ~?っと思って、空いてる方を見てみれば、ありましたよ。あれが。
「ゲ」が。
駅が進むにつれ、空いてる車輛なものだから、その最寄りの「ろ」がある入口に向かって人が、空いてる空いてる、なんていいながら集中しちゃう。
ところがですよ、そこにあるんですよ、「ゲ」ちゃんが。
文字通り、「げげっーーっ」ってみなさん言ってましたね。
「降りてからしろよ」とか、「きゃっーーっ」とかいう声が聞こえますよ。
あれって、電車が動くたびに、流れるんですよね。
その範囲が広がって、1輌の半分は汚染されてしまいましたよ。
うへっ・・・
すいません、こんな話題を書きまして。

「飲んだらくな、吐なら飲むな」 もったいないじゃないか!

でもですよ、わたしも、酒の失敗は、これまでの人生限りなくやってきましたね。
ときおりこちらに書いてますが、書き足りないんです。

そうそう、混んでるのに、がら空きの電車の話をもうひとつ。
勢い込んで、「おっ、空いてる」とばかしに乗って座った山手線。
ん? ん? ちょっとさいぞ。
と、近くに横たわるオジサンひとり。
さながら浅○彰晃のような方。
これには耐えられません。ともかく臭さ
すぐさま、隣の車両に移動し、そこから次の駅からの乗車客を見物。
1輌すべてがやられちまいました。
わたしは田町から乗って新宿まで。そのオジサンもずっと同じ。
ついに新宿で、駅員が乗り込み、引っ張られて降ろされてました・・・・。

つい先日も、朝から、それ系の香りがちょっとするお二人が乗ってきましたが、私は耳を澄まして会話を聴いてました。
「並んでるの寒いわ」「今日はカレーだったなぁ」「切符190円2枚で、380円の収入になったよ」「次は○○だから、そこでありつければいいんだけどなぁ」・・・・・。
よく聞こえなかったけれど、彼らにもどこかに家族がいるみたいで、わたしは思わず目をつぶってしまいましたよ。

世の中って、どうしてこんなに厳しいんでしょうね。
駅や電車ってのは、誰もが毎日利用するところなので、こんな人生の縮図みたいな光景があるんです。

Barenboim_rusiian

いつになく、書いてて方向性がしょんぼりしてしまいました。

そこで今宵は、バリッと、シカゴ交響楽団の名人芸でもって、暗雲を吹き飛ばしましょう。

わたしの、大好きなLPがこれ。

70年代後半、ダニエル・バレンボイムは、DGに、パリ管ばかりでなく、シカゴ響とブルックナーやシューマンの本格録音以外に、オーケストラ名曲を何枚か録音した。

そのなかのひとつが、ロシア音楽。
「ロシアの謝肉祭」「はげ山の一夜」「ダッタン人の踊り」「スペイン奇想曲」の4つ。
(私が今聴けるCD化されたものは、スペインが残念なことに入ってない。)

1977年、シカゴ・オーケストラホールでの、少し乾いたけれどもリアルで芯のある強力な録音は、わたしの貧弱装置がワンランク、グレートアップしたみたいに、よく鳴りまくったものだ。
ともかく、なにも考えることなく、痛快・爽快・ドンピシャリのバリッとしたオーケストラ演奏。
むちゃくちゃうまいし、繊細だし、コマコマしてなくて豪放。
この頃の、バレンボイムとシカゴの方が、後の音楽監督時代のものより、ずっとずっと素晴らしいと思う。
同時期に、ショルティとしっかり蜜月で、アバドとジュリーニがいた豪華なシカゴだからゆえか!

気分がふさいだ時に、これらを大音量で聴きたい。

ボロディンの歌劇「イーゴリ公」からの「ダッタン人の踊り」は、合唱入りじゃないところが残念だけれども、完全にオーケストラピースとしての、濃厚なムードと大迫力に痺れます。
全曲は、ハイティンクのコヴェントガーデンの映像を観たことがあるけれど、かなり忍耐力を要するものでした。
むにゃむにゃ歌う呪文のようなロシア語が特につらい。

以上。

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2011年12月15日 (木)

コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ハイフェッツ

Landmark_3

横浜のランドマークタワーのツリー。

毎年嗜好を凝らしてます。

雪も降ります。

円柱が劇場のようで、ドラマティック。

Landmark_1

今年は、ワンピースのコラボでした。

Korngold_roxsawaxman_heifetz

コルンゴルト(1897~1957)のヴァイオリン協奏曲は、わたしの最高のフェイヴァリット曲のひとつ。
これまでも何度も取り上げてます。
そして書きつくしてます。

ナチス政権の誕生で、神童そして人気オペラ作曲家として大活躍していたコルンゴルトは、ユダヤ系ゆえに退廃音楽作曲家のレッテルを貼られ、アメリカに亡命せざるを得ず、ハリウッドで映画音楽作曲家としての名声を築くことになる。
その映画音楽の数々も、クラシカル作曲家コルンゴルトの延長上にある、われわれクラシック愛好家の鑑賞に耐えうる音楽なのであります。
しかし映画音楽に手を染めたことで、クラシック音楽界からは敬遠されてしまうことにもなった気の毒なコルンゴルト。

ナチス敗退後、クラシック音楽を再び書き始めの1945年の作品がこのヴァイオリン協奏曲。アルマ・マーラーに献呈されております。
ニ長調という調性は、ベートーヴェンやチャイコフスキーの協奏曲と同じ。
明朗で、メロディアスで、気品がある先達たちの大作にも劣らないコルンゴルトの作品。
 1947年、ハイフェッツによって初演されたものの、過去に軸足置いた古い存在、と芳しい評価は得られなかったという。
同様に、ヨーロッパに帰還しても過去の名声を呼び覚ますことができず、失意のままアメリカに戻り亡くなってしまう気の毒なコルンゴルト。

コルンゴルトやツェムリンスキー、シュレーカーなどのいわゆる退廃系が今現在、人気を呼び覚ましたのは、「やがて自分の時代が来る」と言ったマーラーの音楽が普遍的になったことによるといってもいいかもしれない。
われわれは、バッハやベートーヴェンと同列にマーラーを聴き、そしてコルンゴルトも聴くのであります。

甘味でありながら、ほろ苦いビターな味わいの超ロマンティックな第2楽章を聴いていると、ワタクシはいつも目の前が霞んできてしまい、陶然としてしまうのです。
ともかく好きでしょうがないコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。

初演者のハイフェッツが、コルンゴルト存命中の1953年に録音した由緒正しいキリリとした演奏で。
オーケストラは、ウォーレンシュタイン指揮するロサンゼルスフィル
ハリウッドでの録音とクレジットされているので、作曲者も立ち会っていたかもしれないと思うとさらに感動の思いが深まる。

ところで、わたしのお願い・・・・この曲を神奈川フィル+石田コンマスのソロで絶対に聴きたい

このCDには、ローザワックスマンの作品も収められていて、これらがまた素敵なのだ。
ともにコルンゴルトと同じくクラシカル系でありながら映画音楽で高名。
ローザはハンガリー系で、代表作は「ベン・ハー」。
ワックスマンはドイツ系で、その代表作は「レベッカ」。

これらは、また機会をあらためて取り上げるとします。

コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 過去記事

「ムター&プレヴィン」

「パールマン&プレヴィン」

「ハイフェッツ」

「シャハム&プレヴィン」

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2011年12月12日 (月)

ワーグナー 「ラインの黄金」 ショルティ指揮

Tokyotower201112m3

週末の東京タワーは、ブルーとレッドの美しいダイアモンドヴェール。

芝公園から望む。

Tokyotower201112m2

場所を変えて、こんな感じ。

東京の夜は美しいのです。

 

Rheingpld_solti

週末聴いたオペラ。

こちらは終末の大叙事詩。

ワーグナー 序夜と3日間の舞台祝典劇「ニーベルングの指環」。

この巨大な作品が、今年ほど、耳と心に痛いほどに響く年はないのではないか。

人間(神々)のとどまることを知らない野望と欲望、そして権力闘争。
そこでは愛も断念しなくてはならず、やがてみな破滅の結末を迎える。
最後迎える黄昏のドラマに、どのような未来を思うことができるか・・・。

序夜は楽劇「ラインの黄金」。

物語は、無邪気なラインの3人の乙女たちの歌声から始まる。
ウォークリンデの第1声、「Weia! Waga! Woge,du Welle!・・・」。
14時間に及ぶ大ドラマの始まりのこのラインの流れの讃歌を、かつてバイロイトで日本人歌手が歌った。シュタイン時代の河原洋子さん。すごいことでした。

それはともかく、黄金を守る屈託ない彼女たちに色目目線で近づいたスケベオヤジがアルベリヒ。
3人のうちどれかを手篭めにしようとしたけれど、はぐらかされ、そして目にした黄金とその効能にすっかり心奪われ、愛を断念してまで金銀財宝とともに、世界征服までを狙うことになる・・・・・・、どっかの近くの国みたいですな。

一方の神様たるウォータンは、見栄っぱりで豪華居城を巨人たちに普請させたはいいが、支払い不能の債務不履行で、妻の妹を借金のカタに取られてしまうから、実質的に破綻している一族・・・・・、まるでヨーロッパですな。
その借金を、アルベリヒから金銀財宝を奪い取ることで解消しようとする、これまたとんでもないウォータン。・・・・これまたヨー・・ですな。

少しおっちょこちょいのアルベリヒを籠絡して、まんまと財宝をせしめたウォータンも、、すなわちその世界征服が出来るという黄金から精錬した指環に魅せられ、これもまた、黄金泥棒から横取り。

アルベリヒは、その指環を手にするものへ死の呪いをかけ、これもまたこの大楽劇のキモのひとつになる。

泥棒から奪ったもので、巨人族への借金返済をしたものの、巨人さんもバカじゃない。
ちゃっかり指環と変身グッズを要求し、ウォータンも泣く泣く手放すものの、巨人は仲間割れのいい争い・・・・、どっかのチーム、いや、どっかの国そのもの。
こうして、巨人は森にこもり、鎖国状態。世間から取り残されることとなるのでした。

神様たちは、きたるべき破滅を感じつつも、ウォータンの起死回生の作戦に期待しつつも、瀕死の経済状態で新居に入場するのでした。

こんな風に、いまの世の中や世界を見渡しつつ「リング」を聴くのも面白いもんです。

それにしても、「ラインの黄金」が、「ローエングリン」の次ぎに書かれたとは思えないくらいの跳躍ぶり。
ジークフリートとその死から逆算してドラマが巨大化したワーグナー自身の台本もさることながら、番号オペラをまったく捨て去り、重唱やアリアもなくして、音楽とドラマが完全に一体となった音楽劇=楽劇を実践してしまった作者の執念。
 長大なドラマの端緒は、ラインの悠久の流れを変ホ音のプリミティブな世界でもって始まるが、ここをひとたび聴いてしまうと、一挙に全作聴いてしまいたくなるのがわたくしのサガ。
この冒頭部分が一番素晴らしいのが、ショルティ
そして、ライブならではの劇場の空気感が伝わってくるベーム。
あと、オーケストラがまさに河と森のざわめきを感じさせるヤノフスキ(ドレスデン)。

  ワーグナー 楽劇「ラインの黄金」

   ウォータン:ジョージ・ロンドン  
   フリッカ:キルステン・フラグスタート
   フライア:クレア・ワトソン     
   ドンナー:エーベルハルト・ヴェヒター
   フロー:ヴァルデマール・クメント 
   ローゲ:セット・スヴァンホルム
   エルダ:ジーン・マデイラ     
   アルベリヒ:グスタフ・ナイトリンガー
   ミーメ:パウル・キューン     
   ファゾルト:ヴァルター・クレッペル
   ファフナー:クルト・ベーメ     
   ウォークリンデ:オダ・ヴァルスヴォルク
   ウェルグンデ:ヘティ・プルマッヒャー 
   フロースヒルデ:イラ・マラニュク

 サー・ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
              (1958.9 @ウィーン・ゾフィエンザール)


いまさらこの世紀の名録音に、どうのこうのはありません。
私の生れた年に録音されたこの音が、いま極東日本の私のチマチマした部屋でもあざやかに名録音として蘇る。

カルーショウ、G・パリーとくれば、もうデッカのその音のイメージが浮かびます。
芯のある迫真サウンドと分離の鮮やかさと瑞々しさ。
効果音もばっちり決まって、耳で聴くオペラの楽しさはここに尽きます。
バタバタ足音、子供たちの耳をつんざく叫び声、金床のキンコロ音、金銀財宝の音、そして極め付きは、ショルティのリングの代名詞のような、ドンナーのハンマーの「カッキーーーン」と雷のティンパニです
わたしの安い装置では、いまだにビリついてしまいますがね、死ぬまでに一度、立派な装置でカッキーン・ドカンのその快感を味わってみたいものです。

ショルティの若々しく、キレのいい指揮は、この曲にぴったり。
ずばずば決まって心地よいほど。
そして、ウィーンフィルですからどんなに鞭をくれられて大音響を出しても大丈夫。
エルダ登場の神秘的な警告の場面などは、ウィーンフィルならではの美しさです。

50年代の往年の大歌手たちの鮮明な歌唱がこうして残されているのは実に貴重。
なかでもフラグスタートのキリリとしたフリッカは最高。
そして、わたしにとって一番は、「ザ・アルベリヒ」ともいうべき、ナイトリンガーの素晴らしさ。
ナイトリンガーのアルベリヒはいくつも聴くことができるけれど、50年代が絶頂期で、声の暗さとその威力、そして不思議な美しさはこのショルティ盤が随一。
ロンドンのウォータンやスヴァンホルムのローゲも、気品とアクの強さでもって、そのうらはらのインチキくささの表出もいいです。
ラインの娘たちは、少しばかり世代が前と、古臭く感じましたが。

わたしのCDは、84年のCD化初期の外盤で、CD3枚という贅沢ぶり。
全曲2時間25分。
いまなら2CD。
そして、50年を経過し、あらたなマスタリングが施されて廉価盤になっちゃった。
隔世の感ありです。

Rheingold_solti

さて、弊ブログ、バイロイト放送を除いて通算5度目の「リング」。
「ワルキューレ」は、誰の指揮にしようかな。

 「ラインの黄金」過去記事

「バレンボイム バイロイト」

「トーキョーリング 新国立歌劇場」

 

「ブーレーズ バイロイト」

「ドホナーニ クリーヴランド」

「カラヤン ベルリンフィル」

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2011年12月11日 (日)

クラヲタ・プチ会、そしてドヴォルザーク「謝肉祭」

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土曜日は、クラヲタ会のプチ亡年会でした。

気が付いたらもう12月ということで、今回は、急には皆さまにお声掛けいとわず、少人数での開催となりました。

場所は、新宿のミュンヘンみたいな場所「ツムビアホーフ」。

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濃厚で甘さただよう白濁系のヴァイスビール。

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プレッツェルに、そうですソーセージもりもり。

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驚異の1リットルジョッキ

プリン体がもっともいけないワタクシ。
皆さまに出遅れて、この巨大ジョッキを頼んだら、お店からもうヤメテがかかって、飲めなくなりました。

ともかく、このクラヲタ会の酒飲み会は、すごいのですよ皆の衆。

頼むから、そんなに飲まないでください、というお店のラストオーダーの声を合図に、さぁさぁ次ぎ行こ

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とうことで、次に繰り出したのは、思い出横丁。

キンミヤ焼酎のロックに、緑茶ハイ、ウーロンハイ。
美しいですねぇ、この並び。

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思い出横丁の名店といえば、「つるかめ食堂」。

建て替えの許可が降りず、長く閉店だったけれど、震災後リニューアルオープン。
仮設状態風が、かえってこの老舗風で、いい味だしてる。
名物お母さんもお元気です。

そして、こちらが有名な「ソイ丼」。奥は肉生姜。

Tsurukame4

ご参考までに、そのメニューをここに。
安いでしょ

はるりんさん、romaniさん、golf130さん、minaminaさん。
皆さま、どうもお世話になりました。

新年会か旧正月あたりには、また大がかりな会を開きましょう。

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音楽は、ドヴォルザーク序曲「謝肉祭」。

陽気なお祭り騒ぎのような明るい序曲。

プレヴィンロスフィルのカリフォルニアサウンドで。

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2011年12月10日 (土)

ベルリオーズ 幻想交響曲 バルビローリ指揮

Hamamatsucho_201112_a

今年最後の12月分は、背中からせまってみました。

Hamamatsucho_201112_b

浜松町の小便小僧コスプレの立派なところは、手前の花壇。
季節や小僧衣裳の色合いに応じた彩りの花々を植え替えている。

雨上がりの寒い夜だったけれど、相変わらず、周辺にお漏らししちゃってますねぇ~

Hamamatsucho_201112_c

サンタ小便小僧2011

Berlioz_sym_fantastique_barbirplli

月イチ・シリーズ、12月のベルリオーズ「幻想交響曲」は、あれこれ悩んだ末に、ユニークな、サー・ジョン・バルビローリ指揮のハルレ管弦楽団の演奏で。

ご承知のとおり、バルビローリは、生粋の英国人指揮者ではなく、イタリアとフランスの国の父と母を持つ英国人。
エルガーやディーリアス、ヴェルディやプッチーニ、ドビュッシーやベルリオーズ、それぞれに独特の色調と味わいの演奏を残してくれた。
加えてドイツ系の音楽でも、ブラームスやマーラーに思い入れの濃い演奏も!

母の国、フランスの音楽をそのイメージ通りにエレガントに演奏するかと思ったら大間違い。パリ管とのドビュッシーもそうだが、濃厚な味わいと、極端な表現の目立つユニーク系の演奏なのだ。

一方、父の国、イタリアものは、思いきり感情移入して、歌いに歌うドラマに共感した泣ける音楽を作り出します。

バルビローリの魅力は、その音楽に応じて、いろんな顔を見せてくれるところでして、それが「バルビローリのディーリアス」とか「バルビローリのブラームス」、「バルビローリのマーラー」とかいった具合に、そのカテゴリーごとに、バルビローリの刻印をきざんだ独特の表現があるというところでしょうか。

1958年録音の手兵ハルレ管との幻想は、わたしのかつて中学時代、テイチクから大量に発売されたパイ録音のひとつ。
入手しなかったけれど、EMIが瞬間的にCD化したものをかつての昔に入手しておりました。
音がイマイチだったパイ録音をレコードで聴く時代では考えられないくらいに、明晰で力強いサウンド。
そして、違和感ありありのキモサウンド(笑)。

一番、びっくらこいたのが、2楽章の舞踏会のワルツ。
ほとんど止まってしまうくらいの、急停車ぶりと、猫の鳴き声のような泣き節。
終楽章の鐘の音色にかぶるピアノ。
そうです、ピアノの打鍵で、リアルに鐘の音を倍音してるんです。
極端な例はこのふたつだけど、ほかにも全曲にわたり、あれま、あれま!の連続に、幻想好きとしては嬉しくなって嬉々としてしまいます。
全編にわたる打楽器の強打は、昨今の空しいピリオド系の乾いたティンパニに比べると、よっぽど迫真的で、そのアナクロなまでの存在感は聴いてて、とてつもないリアリティと真実味を与えてくれる。

全編を覆い尽くす歌、また歌。野の情景のたおやかさは、アナログなカラー画像のようで、色合いの強調ぶりが、かえって美しく感じる。
これぞ、バルビであります。
そして、先にふれた迫力あふれるフォルテ。
終楽章のインテンポで進む強力なエンディングのド迫力と情熱には、すっかり参ってしまいます。

愛すべきサー・ジョンの半世紀以上前ながらも、いまだ新鮮なる記録にございました。

次の小便小僧と幻想は、もう来年、1月です。
では。

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2011年12月 9日 (金)

R・シュトラウス 歌曲集 ルチア・ポップ

Ginza3_2 

銀座のマロニエゲートにあったツリー。

ブルーのイルミネーションが好きなんです、ワタクシ。

炎もそうだけど、青い方がその情熱(火力)はクリアーで強いんです。

R_strauss_popp

R・シュトラウスの歌曲集を、魅力あふれるルチア・ポップの歌声で。

愛らしいポップのブルーな素敵なジャケット。

1993年11月16日に惜しくも早世してしまったポップは、いまでも、わたしたち日本人の耳に、そして心に、その暖かな声でもって生き続けているのです。

初期にはコロラトゥーラ、その後リリック、そして晩年にはスピントがかかってきて、ドラマテックな役柄までも歌うようになったから、モーツァルトとR・シュトラウスが彼女の声の本領。
ポップのシュトラウスの最高の1枚は、オペラ・アリア集で、そこに聴くマドレーヌ(カプリッチョ)は絶品で、晩年に持ち役になったマルシャリンも味わえ、アラベラではズデンカから成長したお姉さんのポップが味わえる。
そこで指揮しているのが、ホルスト・シュタイン。
さらに、ミュンヘンで活躍したことからサヴァリッシュとの共演も多く、N響お馴染みの指揮者たちとの接点からも、わたしたちには親しみあるポップなのです。

今日の歌曲集でピアノを弾いているのも、名手サヴァリッシュ
最高のシュトラウス指揮者であるサヴァリッシュは、また最高のシュトラウスの歌曲や室内楽等の伴奏者である。
一音一音が明快明晰で、軽やかでありつつ、鋭敏なピアノ。
完璧極まりない伴奏ピアノ。

サヴァリッシュの描き出すシュトラウスの曇りないパレットにのって、生き生きと気持ちよさそうに歌っているポップのチャーミングな歌声に、聴くわれわれも思わず、リラックスして体の力が抜けて行く思い。
明朗快活なシュトラウスの音楽にぴったりと寄り添うような歌は、ひとつの理想ではあります。
暗い陰りの部分は少しばかり後退して感じるのは、ポップの声だからゆえに、無理からぬこと。でも、この甘やかな声に眼を閉じて浸って、深まりゆく夜を過ごすのも彼女の歌を聴く最高の喜び。

  1.8つの歌 「献呈」「なにも」「夜」「ダリア」「忍耐」
       「もの言わぬものたち」「いぬさふらん」「万霊節」

  2.3つの愛の歌 「赤いばら」「目ざめたばら」「出会い」

  3.「高鳴る胸」 
  4.「帰郷」 
  5.「白いジャスミン」
  6.「子守歌」
  7.「わが子に」
  8.「ひそやかな歌」
  9.「ひそかな歌」
 10.「悪いお天気」
 11.「15ペニヒで」
 12.「父が言いました」

      ソプラノ:ルチア・ポップ

      ピアノ :ウォルフガンク・サヴァリッシュ

                (1984.9 @Kloster seeon)


有名な「献呈」が冒頭から歌われ、とりわけ素晴らしい感銘を受けます。
恋人への想いと、想うことの苦しみ、でもそれを教えてくれたことへの感謝を捧げる若い心情の歌。
シュトラウス18歳の作品ならではの瑞々しい抒情の発露を、ポップはふるいつきたくなるような優しさと甘さでもって歌ってくれる。

夜のしじまを、そしてその夜が輝きあるものをじわじわと奪ってゆくさまを淡々と静かに歌う「夜」・・・、しんみりといい曲で、親密なポップの声。

「万霊節」・・・、これも18歳の作品。そうとは思えない早熟の才。深すぎ。
亡くなった恋人の墓に詣で、語りかける男性の心情。
男声で聴くべきが理想かもしれないけれど、ポップの少し諦念も匂わせた歌は、彼女のマルシャリンをも思わせました。

楽しい雰囲気の「出会い」は、同じポップが歌う、マーラーの角笛歌曲集を思い起こしてしまうもの。

昼は彷徨ったが、夜になり恋人のもとへ帰る思いを歌った「帰郷」では、しみじみとしたピアノ伴奏がよろしく、静かな語り口も素敵なものでした。

それとこれも有名な「子守歌」。官能に傾くすれすれのポップらしい甘味ながらも親密な歌い口は、シュトラウスのお得意の家族愛を歌った曲の本質をついていると思う。
お休み前に、聴くのに最適の曲であり、ポップの歌にございます。
それと対になったようにカップリングされた、我が子を歌ったものもいい歌です。

悪天候によせて、あれこれ想いを巡らしたという内容の、ワルツ風のリズムに乗った、いかにもシュトラウスらしいイマジネーション豊かな「悪いお天気」もお気に入り。

有名な曲とそうでもない曲も、ポップならではの暖かく、豊かな感情をたたえた歌唱で、これからもずっとずっと繰り返し楽しめる1枚です。

ルチア・ポップのものを手始めに、これからR・シュトラウスの歌曲を毎週、何枚か聴いてゆくこととします。

Itosia

こちらは、レッドとゴールド、そしてスプーンまで。

ITOCIAにて。

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2011年12月 8日 (木)

パリー 交響曲第2番「ケンブリッジ」 ペニー指揮

Imperial_palace

畏れ多くも、皇居をパシャリと1枚。

蛤濠から見た宮内庁の洋館風の建物。

お堀には、アオコがたくさん発生してるのが、画像でわかりますでしょうか。

悪臭や生態系の変化などをもたらす困ったアオコ。

かなりの予算が、この対策に講じられております。

今年特に異常発生した霞ヶ浦など、震災の影響もなきししも、のようでして、異常気象ぬ加えて、いろんなところに人知の及ばぬことが起きてます。

Parry_sym2

チャールズ・ヒューバート・パリー(1848~1918)の交響曲第2番「ケンブリッジ」。

近代英国音楽を、ほぼ網羅的に聴いているわたくし、さまよえるクラヲタ人にとって、一番古い、というかエルガー(1957~1934)以前の作曲家として、まだ未開のふたり。
スタンフォード(1852~1924)とパリーがその人たちであります。

エルガーの偉大さは言うにおよばずとして、その前の下ならしとして、大いに英国近代音楽の祖として評価していい、パリーとスタンフォード。
両者ともに、複数交響曲作曲家であり、宗教・声楽作品に強みを持った方々。
シャンドスレーベルが誇るべき交響曲全集をそれぞれ出してます。
 スタンフォードは発出時に難なく全集を手に入れたけれど、パリーとはどうにも縁がなく、バラバラと揃えているのみ。
そんななかの1枚、第2ケンブリッジ交響曲を。

ボーンマスで、裕福な家庭に生まれたパリーは、グロースターシャーに移ったあとも、有力音楽家からの教育を受けつつ、ドイツでも学ぶ境遇を得た。
なかでも、ロンドンでワグネリアンのピアニストのE・ダンロイターに学んだことが大きく、彼は、教師でり友でもあり、のちアにドバイスを得て作曲したピアノ協奏曲のソリストにもなっている。
合唱作品を数々書き、名声もあがり、ケンブリッジ大学の音楽博士のオファーも受けるなど順風の活躍。
交響曲第2番は、ケンブリッジ大学のために、その活気ある学生生活を思い描きながら書かれたもので、1883~84年にかけての作品。

第1楽章は、入学したてのフレッシュさ。友達に囲まれ幸せな日々が快活な音楽によって描かれ、やがて恋の芽生えも・・・。
次ぐ2楽章は、スケルツォでやたらと耳に馴染みやすい音楽で、どこかで聴いたような元気のいいサウンド。バケーションです。
3楽章は、さきの恋愛物語が少し顔を出しますが、音楽はなかなかに生真面目で一筋縄ではいかない渋くお堅い恋愛模様に感じます。
そして迎える終楽章は、学生も大きく成長し、大望を掲げ、一歩踏み出します。
 音楽はついに、ここで、ペリーの一方の顔、「ブラームス愛」の姿をまざまざと見せてくれます。
まんま、ブラームスの第1交響曲風です。
晴れやかで堂々とした旋律が、臆面もなく垂れ流されるのでありました。

これを聴いて、ブラームス、そしてむしろブラームスを私淑したドヴォルザークの響きを感じるのは誰しも同じに思いますが、わたしは、そこここに、エルガー前兆と、のちのちまで続く高貴で憂愁もたたえた英国音楽の流れの発端をここに確認できましたね。

アンドリュー・ペリーロイヤル・スコテッシュ管弦楽団のキリリとした演奏は正しいと思いました。

ケンブリッジは、ロンドンから東へ80Km。
いずれは行ってみたい街であります。
ちょいと調べたら、私のかつてのアイドル、オリヴィア・ニュートン・ジョンの出身地なのでした。
そして、かの地にも、オーケストラがあるのでしょうか。

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2011年12月 7日 (水)

ドヴォルザーク 交響曲第2番 スゥイトナー指揮

Wakatsuki

懐かしい風情の、あっさり醤油ラーメン。

支那そば、中華そば、そんな感じの名前の似合うラーメンは、新宿思い出横丁の名店「若月」の@450円。

飲んだ勢いで、スルリといただきました。

けっこう、何度も行ってます。  →こちら

Dvorak_sym2_suitner

ドヴォルザーク 交響曲第2番 変ロ長調 

今日は地味なドヴォ2です。

チャイコフスキーと比べ、相当地味なドヴォルザーク(1841~1904)の1~4番の交響曲。
5と6番は、そこそこ演奏されるし、7~9番は文句なし。

1865年、ドヴォルザーク24歳の年に相次いでかかれた交響曲第1番(ズロニチェの鐘)と第2番。
ベートーヴェンの交響曲、それも第5を意識しつつの第1番。
それに対する田園や第4のような優しい顔をもった第2番。

メロディメーカーとしてのドヴォルザークの才能がここに溢れ出ていて、明るい抒情にも満ちた、ほのぼの交響曲であります。
 自身、この曲に愛着をいだき、20年以上たって、改訂をくわえたりしてます。
ブラームス臭はまだ薄く、シューベルトやウェーバー、初期ワーグナーのような匂いもちょっとしたりするところが面白いです。
そして、なんといってもボヘミアの土の香りもしっかりするところがドヴォルザークならでは。

しっかりした構成の快活とした第1楽章に続き、この曲で一番魅力的な美しくも、ノスタルジックな第2楽章。
ドヴォルザークの美しい旋律を集めて1枚のCDにするとしたら、この楽章は逃すことができないものです。
続く、メヌエット風の典雅さをも感じるスケルツォ楽章は、12分もかかり、終楽章よりも長いです。
そしてその終楽章は、とりとめのない雰囲気が難点ながら、ときおり顔を出す懐かしい旋律が魅力的。

聴くごとに味わいの増すたぐいの、憎めない愛らしいドヴォルザークの交響曲。

スゥイトナーベルリン・シュターツカペレのおおらかで微笑みに満ちた演奏でした。

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2011年12月 6日 (火)

大井町横丁、そして、スッペ 「美しいガラテア」 メータ指揮

Ooimachi

大井町の横丁。

横丁好きのわたくし、昼時には、有名な洋食屋さん「ブルドック」に行ったことはありますが、ずっと気になっていた夜の部は初めて。

Ooimachi_toribun1

まずは、焼き鳥屋さん「鳥文」。

狭い店は、超満員。それでも、カウンターの客をずらし、テーブル客も相席にと、少しでも隙間があれば通してくれる。

そしてオーダーした焼き鳥の数々の素材(岩手鶏)のよさと、おおぶりな肉に、頬張れば、そのうまさに、人気店の由縁もすぐさまにわかる。
そして、その安さ。

Ooimachi_toribun2

ピーマンの肉詰めは、少しレアな感じの歯触りのつくねで、コリコリ・ピーマンとの相性もばっちりでしたね。
ともかく、うんまい。

Ooimachi_kanaisushi

次いで、横丁を歩いて梯子して入ったのがお寿司屋さん。

Ooimachi_kanaisushi_2

やりて店主と話もはずんだ、「金井寿司」。
ともかく、よくしゃべる。
でも、ごらんのネタのよさ。

Ooimachi_kanaisushi_3

巻物もつまみになる。
最高ですよ。

狭い店ゆえに、煙草が唯一の、そして最大の難点。
寿司で煙草は正直勘弁して欲しい。

この寿司屋の地下は、同じ経営のスナックになっていて、数歩で次の店で仕上げができる仕組み。
しかし、今回はパスして、さらに横丁内部に潜入することとなった。

Karen

奥へゆくと、スナックエリアで、お姉さんがたが、いらっしゃいしてる。

うーーむ。カラオケはうるさいし、静かに飲みたい。

ということで、客数が少なく、こじゃれた店を探しだし突入。

カラオケあるけど、しばらくは大丈夫ということで、ここを最終地点として、ウィスキーを飲みつつ国際親善に興じる。

トイレを催すと、少し離れた駅便まで、案内してくれる。
その駅便がまた、ほんものの公衆便所で、郷愁さそう悲しさ。
思わず写真を撮りましたが、ここではあまりにマズイので非公開とさせていただきます。

Ooimachi_mikami

最終地点を出てから、こんどこそ最終のラーメン。

「味香美」というラーメン屋さん。
あとでわかったのだが、味噌ラーメンで有名みたい。
でも、酔いまくりで注文したのは、さっぱりしてそうな塩ラーメン。
ご覧のとおりの、透明スープに、たっぷりの具材、そしてコシのあるストレート麺。
とってもおいしゅうございました。

ナイスだぜ、大井町。

消防法や建築基準法すれすれの横丁。
数少なくなった、こんな風情は、絶対に残しておいてもらいたい。

Suppe_mehta

さぁ、いらっしゃ~い、とメータさん。

いつも陽気で、美しく、センスよく、歌謡性と舞踏性にも富んだスッペの序曲から。

「美しいガラテア」を。

メータのキビキビとしたリズム感と、たっぷりと歌わせる指揮。

それに応える相性抜群のしなやかウィーンフィル

スッペの序曲集では、ゴージャスなカラヤン&ベルリンフィルとならんで双璧でしょう。

優雅で華奢なワルツは、ウィンナ・オペレッタの鑑です。

アンナ・モッフォとルネ・コロのオペレッタ映画を観たことがあります。

ほろ酔いと、楽しいはしご酒に相応しい音楽です。
(と思うのは自分だけ)。

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2011年12月 4日 (日)

ヴェルディ 「仮面舞踏会」 バルトレッティ指揮

Ginza

銀座のショーウィンドウをパシャリ。

ちょっと古目な感じが新しい。

そしてどこかヴェネツィア風。

Caruso

そして、いま読んでる文庫本が、これ、「猫探偵カルーソー」。

ヴェネツィアを舞台に、猫のカルーソーを探偵の頭目とする猫軍団が殺人事件を解決するというあり得ないけれど、猫好きなら微笑んでしまう内容。

ヴィヴァルディという名の赤毛の司祭も出てきちゃうし、ヴェネツィアの劇場やオーケストラメンバーも出てくる。そしてなんといっても、猫探偵たちは美声で歌うんですよ。

この作者は、ドイツ人のクリスティアーネ・マルティーニという人で、彼女自身も音楽家で、ブロックフレーテ奏者であり、その教則本も書き、かつ古楽アンサンブルも主催するという方であります。

Verdi_um_ballo_in_maschera_bartlett

今日のオペラは、ヴェルディ「仮面舞踏会」。

ヴェルディ中期の傑作オペラで、前作は「シモン・ボッカネグラ」、次作は「運命の力」ということで、後期様式への橋渡し的な存在のオペラ。
1858年の作曲で、初演は59年。
とあるイタリア人によるナポレオン3世の暗殺未遂があり、実在のスウェーデン王の暗殺事件を扱ったドラマの内容が内容だからナポリでの初演は流れてしまい、その間係争などを経てオペラの舞台もボストンに移してローマにて初演。

このオペラは旋律の宝庫でありまして、名アリアもたくさん。
一方で、オーケストラの雄弁さも増しており、前作シモンの渋さにも似た劇中人物たちの心理ドラマに付随し唱和するさまは、オーケストラファンとしても聴きごたえ充分なはず。

このオペラの、わたくし最高の音盤は、アバドとスカラ座のDG盤だが、こちらも歌手がなかなか豪華で好きな一組。

リッカルド:ルチアーノ・パヴァロッティ  アメーリア:レナータ・テバルディ
レナート:シェリル・ミルンズ        ウルリカ:レジーナ・レズニック
オスカル:ヘレン・ドナート         シルヴァーノ:ホセ・ファン・ダム

サミュエル:レオナルド・モンレアーレ   トム:ニコラス・クリストウ
判事:ピエール・フランチェスコ・ポーリ アメリアの召使:マリオ・アレッサンドリーニ

  ブルーノ・バルトレッティ指揮ローマ聖チェチーリア管弦楽団/合唱団
                           (1970.6@ローマ)


60年代から70年代を代表する歌手たち。
まだ充分若かったパヴァロッテイの水も滴るような美声と、キリリと引き締まった真っ直ぐなテノールボイスに聴き惚れてしまう。
パヴァロッティの全盛期は70年代でありましょう。
それと同じく、わたしの好きなミルンズもまたありあまる魅力あふれる声を、贅沢にも垂れ流すかのような豊饒たる歌いぶり。
しかし、往年の大ソプラノのテバルディには、残念ながら見る影もなく、少し荒れ気味の声を聴くことになるのは辛いものがある。しかし、その貫禄たるやいかばかりか!
貫禄ありすぎて、リッカルドもレナートも、おっかさんと相対しているみたいに聴こえちゃう。
 ドスの効いたレズニック、可愛いドナートのオスカルに、おやおやファン・ダムがチョイ役で出てます。
オペラのデッカならではの、豪華配役であります。

いまだ現存するイタリアの大ベテラン、バルトレッティの指揮は歌手を引き立てつつ、歌いまわし鮮やかなオーケストラを聴かせてくれてます。

でも、オーケストラ部の素晴らしさは、やはりアバドが最高ですな。
歌手とオケとのバランス感覚も抜群。
晩年に挑戦したカラヤンは未聴。
ほかはショルティやデイヴィスなど、このオペラにはシンフォニックなアプローチも成功を収めることが多いようでありますが、その分、歌がなおざりに。
一方で、メータは手掛けようとしないし、ムーティも若き頃に一度録音したっきり。
実は、指揮者にとって難しいところのある「仮面舞踏会」なんです。

 過去記事

 「アバド&ミラノ・スカラ座」

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2011年12月 3日 (土)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 広上淳一指揮

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横浜みなとみらい地区は、ピンク色に染まってました。

前回お休みしたうえ、11月は公演なしだったので、なんだか久しぶりの神奈川フィル

Kanagwaphill_20111202

    ブラームス      「ハイドンの主題による変奏曲」

   チャイコフスキー  ヴァイオリン協奏曲

   パガニーニ     「ネル・コル・ピュウ」(アンコール)

          Vn:三浦 文彰

   ドヴォルザーク   交響曲第8番

       広上 淳一指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                    (2011.12.02@みなとみらいホール)

誰しも嬉しい名曲路線。気楽に、肩の力を抜いて楽しめる一夜。
ブラームスと、ブラームスを私淑したドヴォルザーク、そして同年代のチャイコフスキー。
いい組み合わせであります。
ホールは、寒い中、8割方埋まりました。
演目に、もうひとひねり欲しいところですが、それはまた来シーズンのお楽しみということで、メインの神奈フィル・ドヴォ8を待ちかねつつ時間ギリギリ着席。

 ハイドン変奏曲から、広上体操全開

見ているだけで、面白い、というか疲れちゃう。
楽員の皆さんは、よく平然と演奏できるものだ、と、この夜ずっと思いつつ聴いていましたよ。
P席の方々も笑わずに聴いてるし。
これは、きっと楽員も聴衆も指揮者を見ないようにしているのだな、と思うことにしました(笑) 。
これ系で、見た目も同質なのがロジェストヴェンスキーとノリントンでしょうか。
でも、そんなジャンプや、ラジオ体操を見るにつけても、出てくる音楽は普通で奇抜さはない。
そのあたりの不可思議なギャップが、どうもこの日は、しっくりこなくて、ブラームスの馥郁たる音楽や、ドヴォルザークのしみじみとした郷愁が、どっかに置き忘れてしまったように感じたのです。
なによりも歌がない。

これが広上スタイルなのでしょうが、わたしにはちょっと辛いものでした。

メインのドヴォルザークでは、随処随処に、新鮮な歌いまわしや響きが聴かれたけれど、それらが曲全体としてどうだったかというと、どうも印象が薄く、結果的に流れが寸断されてしまう結果に聴こえてしまった。
1楽章の終結部は大人しいものだったし、終楽章もテンポの揺れが気になった。
とはいえ、大好きな愛らしい2楽章や3楽章では神奈フィルならではの美音を楽しむことができたし、石田コンマス不在ながらも、大フィルより客演の長原さんの伸びやかなソロも聴きものでした。
指揮者とオケが、完全燃焼したのは、終楽章のコーダに至っての大爆発でありました。
終りよければすべてよし。

熱い心を持つ、広上さんを、違う機会で、もう少し確かめてみたいと思ってます。

そして、ドヴォ8は、素敵な曲だから、神奈川フィルで聴くなら、現田さんでもう一度。
もしくは、聖響さんももしかしたらいいかも・・・・・(ってなことはないか。いや待てよあるかも、いやそんなことはないか)。

そうそう、この日、スターとなったのは三浦文彰クンでございます。
紅顔の18歳の青年。
いや、わたしにはまるで息子を見る思いでございまして、親目線でいたわるようにそのシャイな登場を迎えたのでありますが、オケの前奏のあと弾き始めた三浦君の繊細かつ甘やかな音色を聴いて、こりゃ息子どころか、大人びた表情付けにびっくりこきまくったのでございます。
抜群のテクニック、動じない物腰に安定感ある弾きぶり。
音色や音量も、数々の段階があって驚きの連続の1楽章。
しかし、どうにも音楽に心が乗ってないといいますか、キレイに弾いてるだけに聴こえちゃう。
2楽章のはかないロマンも同様だし、3楽章も途中までそうだった。
指揮台に乗ってるのに、目線が同じくらいの広上さんが、ゴンゴン熱い視線を送るのに、クールに弾く三浦君。(というか自分のスタイルを貫いている強さか)
でも、3楽章の後半にいたって、コンマスを目を合わせ、微笑んだように見えたと思ったら、オケも三浦クンもアクセル全開。
広上さんも、負けじ劣らず、ガンガン煽って、すさまじい熱狂のエンディングを迎えることとなったのであります。
これには、お父さん参りました。

彼を見て聴いて、私は最近の男子諸君のことを思うのでした。
韓流の美しいお兄さんたち、遼君や斎藤祐樹クンなど見目も麗しく、実力満載。
かれらの、ビューティでクールな実力と、三浦君のヴァイオリンを重ね合わせてしまうのです。
ガッツや根性とは、また別次元。
きっと、ものすごい努力をしてるし、それは並み大抵ではないとは思うのですが、それを表にださないところが、また天才性の証し。
わたしは、若いのだからもっと情熱をむき出しにして、音楽にくらいつくような夢中さを見せて欲しかったのです。
 なんという贅沢かつ実績ある若人への言いようでしょうか。
あいすいません。
音楽には、苦しい時も、悲しい時も、楽しい時も、いろんな顔があると思うのですから。

アンコールのパガニーニは、悪魔に魂を売り渡したと言われた作曲者の超超絶技巧の難曲。
二挺のヴァイオリンがあるのではないかと思われるほどの凄まじい曲と、その演奏に、オケの皆さんも含めて聴衆が度肝を抜かれてしまった。
並々ならない青年の実力にびっくりこきまくり。
この曲を弾き終わった瞬間に、それこそ一瞬見せた、三浦君のドヤ顔。
わたくしは見逃しませんでした。
そして、ここにこそ、彼の若さと感情の発露を感じ取ったのでございます。
それでこそ、若い! よろしい! っと思いましたね。

Kirin_2

アフターコンサートは、いつもの仲間といつもの店に。
遠方より参じる、メンバーもごく普通に登場で嬉しい。
神奈フィルを聴く楽しみは、こんなところにもあるんです!

Kirin_1

この日は、ビールがとても美味しくて、ピッチャーから注ぐ泡も、ご覧のきめ細やかさで、かつ甘~いのでした。

皆さん、お世話になりました。

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2011年12月 1日 (木)

祝DeNAベイスターズ、そして、ワーグナー

Imgp0974

ようやく決着の横浜大洋ホエールズ・ベイスターズ。

古いものですから、この名前にこだわりたい。

モバゲーは正直カンベンだったけれど、DeNAという名前ならまぁよしとしよう。
こうなったら資金力も今のところありそうだし、それでいいから、すんなり決まって欲しいと思うようになってました。

手を変え品を変え、阻止しようとした某1球団某氏が、気の毒になってしまうくらいアッサリと承認されました。

ファンとしては、やれやれです。

早くスタートしないと、FA対策やチーム造りが出遅れちゃう。

監督は、工藤でOK。
実は、ここでは何も書いてこなかったけれど、わたくしは、名前が出る前から工藤監督を想定・希望してましたよ。もしかしたら、プレイングマネージャーでもいいとも。

画像は、98年の優勝時の記念ビール缶。
その時のグッズは大事にいろいろ持ってます。
奥に見える、ロッテ優勝時のボビール缶はお愛矯。

ところで、テレビ露出度高い、De社のH会長、ベイスターズの若きオーナー代表は、私の親しくする方の奥様の甥ごさん。
その奥様の旧姓はHとのこと。
身近な思わぬところに、このような符合があり、これはもう文句なんて言ってらんなくなりましたよ。
モバゲ~の名前だけは勘弁して欲しいですが、川崎時代からの大洋ファンのワタクシ、横浜DeNAベイスターズを引き続き、応援してゆきますぞよ。
 それと、横浜を出ていっちゃダメよ!

というわけで、本日特番は、ベイスターズ。

今後、ワタクシの好きな分野として、むりやりですがね、神奈川フィルとの連携などなど、しなやか頭で、面白い球団作りをして行ってほしいものです。

Wagner_hollreiser_swarowsky

今宵は、少しばかり気分がいいので、ワーグナーの序曲・前奏曲などを。

CDジャンルで、一番所有しているのが、ワーグナー作品で、オペラ全曲は100以上、序曲集で50以上を数えます。
これらを、残りの人生、あまたある音楽と並んで、どう聴いてゆくか、私の大いなる課題であります。

今日の1枚は、渋~いところで、いわゆるドイツ本場もの。
ハインリヒ・ホルライザーハンス・スワロフスキーバンベルグ交響楽団を指揮したものです。

 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲

 「ローエングリン」第1幕・第3幕前奏曲、結婚行進曲

 「タンホイザー」序曲

 「トリスタンとイソルデ」前奏曲


録音年代も不詳の怪しいレーベルで、アメリカ製。
でも出てくる響きは、多少モコモコしながらも完全にドイツの音色。
おまけに、どの曲をどちらの指揮者が振っているかも書いてないというていたらく。

しかし、よく聴くと、録音状態の違いが判明。
タンホイザーが一番モコモコ状態。
ほか3曲は、響きに潤いと残響もあり。
ということで、タンホイザーをスワフスキー、ほか3曲をホルライザー指揮と想定します。

そして、そのホルライザーの「トリスタン」が一番素晴らしかった。
音のタメといい、休止の絶妙な具合といい、適度なうねり具合といい、10分そこらの前奏曲で満足しろというのが酷に感じる見事さ。

ホルライザーはミュンヘン生れ。ドイツ各地のオペラハウスの常連で、それ以上にウィーン国立歌劇場の重鎮指揮者だった。
ワーグナーとシュトラウス以外聴いたことがないくらいの、リヒャルト指揮者。
バイロイトでもシュタインと並んで大活躍。
わたしは、ベルリンやウィーンの劇場の来日公演で、「トリスタン」と「パルシファル」をその堅実で安定感ある指揮で経験することができた。

一方、スワロフスキーは、ウィーン音楽大学の指揮科の教授として、アバドやメータをはじめとするキラ星のごとく指揮者たちを育てた人。
指揮者としても広大なレパートリーを有し、オペラ指揮者としての実績も豊か。
CD音源では、「リング」と「ローエングリン」、コンサートホールレーベルのワーグナー集、「マタイ」などを持ってます。
少しばかり、ザッハリヒな感じの指揮ぶりのタンホイザーですが、雰囲気は抜群でした。

ひと昔まえ、ドイツの劇場のかしこでも聴かれたワーグナーの響きをここに感じました1枚でございます。
安心感と懐かしさで一杯になりましたよ。

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