ブルックナー 交響曲第9番 アバド指揮
こちらは六本木ヒルズ。
下から見上げてみましたの図。
そして、その足元の毛利庭園には、時計の文字盤のイルミネーション。
今年もあと3日を残すのみ。
ブルックナーの交響曲第9番。
ブルックナーのなかでも8番と並んで、格別な存在ゆえに、そう何度も、そして気軽に聴くのがはばかれるたぐいの交響曲。
未完ながら、もし完成していたら、8番をしのぐとんでもない音楽になっていたことでありましょう。
テ・デウムを後に演奏したり、終楽章の補筆完成版もそこそこ出ているが、わたしには、そのいずれも興味がありません。
というか、ブルックナーの9番は、3楽章までで、ほぼ完成系と耳にしみ込んでいるので、それ以上は完全なる竜頭蛇尾。
いまさらの感、ありなのです。
マーラーやエルガーらの補筆完成交響曲の存在価値はご当人の意図するところとどこまで符合しているかは不明なれど、それらの完成度の高さと、鑑賞に足るべく素晴らしさはいうもでもありませぬ。
だから、今後もブルックナーの9番は、3つの楽章のみ。
今日の第9も、アバド。
アバドのブルックナーの9番は、ウィーンフィルとのDG正規録音が1996年。
ルツェルンではまだやってません。
同年の96年には、ベルリンフィルの定期でも取り上げております。
その時の映像が、今回のもので、NHKが生放送したもの。
ウィーン盤はライブながら、流れ重視のきれい系の演奏で、なかなかにユニークな9番で、これはこれで大好きな演奏です。
しかし、このベルリンフィルとの演奏会の尋常でないハイテンションぶりはいががいたしたものだろうか!!!
まるで一期一会のような、ここでしか出会えないコンビの熱血的な熱い演奏。
アバドのことならほとんど知ってる私でさえ、こんなアバドの演奏は聴いたことがないくらい。
病に冒される前の、気力最充実気。
ベルリンフィルが、そんなアバドの気をまともに受けて、その持てる力をフルにびっしり発揮しまくってるのが音と映像でありありとわかる。
月並みの言葉しか浮かばないけれど、ともかくすごすぎる演奏なのだ。
アバドならではの歌い回しは、1楽章と3楽章の第2主題の美しい、まるでアリアのような旋律が涙がでるほどに、なみなみとした情感に溢れていて感動的。
それに対する、崇高で高貴なそれぞれの楽章の主要主題は、神がかって感じるほどの充実ぶり。
2楽章のスピーディーな気迫もすごい。
いつも一生懸命に演奏しているプロ中のプロのベルリンフィルのメンバーが、身を乗り出し、スコアと指揮者に食い入るように没入しがらの夢中の演奏ぶりも、ことさらにすごい姿に感じる。
ゆったりと、そして緊迫感を持ちながら、最終の壮麗な結末を迎える終楽章は、視聴していて完全没入。
口を開け、阿修羅のような顔になっているマエストロ・アバドの姿。
カタルシスのあと、平和が訪れ、ブルックナーの音楽が神のもとに収斂してゆくとき、アバドの顔にも柔和な表情があらわれる。
ドイツ系の定番ブルックナーばかりがもてはやされるけれど、アバドのブルックナーなんて??、という方々に是非、このライブは黙って聴かせてみたい。
是非とも音源化を望まん。
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コメント
「さまクオヲタ」さんこんにちは!今日はとびきり暑いですねー。連日コメントさせて頂きすいません。ブルックナーの9番は僕の中では特別の曲なので、ちょっと長いですが、昔FBに載せた一文にどうぞお付き合い下さい。
......まずは、僕が24歳の時、社内文集の随筆を依頼され、「クラシック音楽の魅力」という題で書いた文章からの抜粋で......
「クラシックの魅力は、1つには、自分の経験、能力を量、質ともに超えた感覚内容を擬似体験できることにあると思う。これは、詰まるところ擬似に過ぎないものではあるが、何かしらの影響が後に残る性質のものである。たとえば、音楽史上の1つの奇跡であると断言できるアントン・ブルックナーの最後の交響曲第9番に関して言えば、この曲と出会う前と後では、やはり自分自身が違うような気がする。とても大きな出会いだと思う…….」
これは、まだ会社に入って間もない若かりし頃の感想ですが、この時のこの感想は、その後20数年間クラシックを聴き続けても、全く間違っていなかった気がします。自分自身も歳をとり、多少なりの経験も積み重ねてきた今、ますますこの曲の突出した「偉大さ」「音楽史に占める特異性」に驚愕させられています。
このあたりで、頭の中でもやもやしているこの感覚を、少しでもまとめてみたいのです。
僕は音楽が大好きです。クラシックもジャズもジャンルに捉われず、いっぱい好きな音楽があります。音楽にはいろんな楽しみ方があって、それぞれかけがえのない悦楽です。
しかし、こと、この曲に限っては、自分にとって「全ての音楽の基準となる」だけではなく、決して大袈裟ではなく、「人生の基準となる」曲だと思えるのです。
話は変わりますが、宇宙は開闢以来137億年が経過し、この気の遠くなるような時間に比べ、人間の一生などほんの一瞬の瞬きに過ぎないものです。実感として、歳を重ねるにつれ、時が経つスピードも、どんどん加速されている感じがします。残された人生は限られたものです。
「精神」と「自然」は対義語でないかもしれませんが、人間が何故死を恐れ、焦り、苦しむのかと言えば、それは、「精神」と「自然」が分離されているから、「自然」の中に「自分」が含まれていることを認めたくないからだと思います。
ブルックナーは敬虔なカトリック信者でしたが、僕は個別の宗教を超えて、彼が「宇宙の摂理」なるものに急接近していき、最後の最後でこの曲を書き上げたと信じています。残念ながら3楽章までの未完に終わりましたが、これ以上の創造は無理ではなかったかと思います。
少し回りくどくなりましたが、ブルックナーは、この曲の第3楽章(アダージョ)を「わが人生への告別」と呼んだそうです。ブルックナーは、自分の死を目前に控え、特にこのアダージョ楽章にて、様々な葛藤の末、やっと「精神」と「自然」との融和を図ることができたのではないでしょうか?
実際の曲を聴いて頂ければ分かると思いますが、この曲は決して心地よいものではありませんし、毎日聴きたいと思う曲でもありません。あまりにも重い内容です。「臨死体験」ではありませんが、厳しい寒々とした彼岸との狭間で、恐怖と怒りと安逸と感謝が交錯しつつ、「精神」と「自然」の見事な合体を成し遂げているような気がします。
自分の能力の限界もあり、自分の感じていることを、全てうまく表現できてはおりませんが、「雑感」ということでお赦し下さい。これからも、何度となくこの偉大な遺産と対面しつつ、自分の一瞬一瞬の人生を137億年の「自然」と重ね合わせながら、噛み締めていきたいと切に思います。
以上、ちょっと大げさかもしれませんが、それ位僕はこの曲を凄い曲だと思っています。長いアップで申し訳ございませんでした。
投稿: 山元 光 | 2012年9月 9日 (日) 10時46分
山元 光さん、こんにちは。
コメントどうもありがとうございます。
充実したコメントを拝読しまして、わたしの稚拙な言葉は恥じ入るばかりですが、ブルックナーの9番に対する尊敬と愛情がひしひしと感じられ、頭が下がる思いでした。
まだまだこの曲の真髄を実は聴きつくしてないと、いつも感じる終楽章ですが、それはこの音楽に対峙してしまっていた愚かな自分があったからかもしれません。
「自然」と人生・・・いいお言葉を拝読しました。
ありがとうございます。
それこそ、何度もCDプレーヤーにかけることがはばかられる音楽ですが、年内には一度・・・と思ってます。
実は、わたくしも、若いときに、社内誌の執筆を依頼され、クラシックの勧めみたいなタイトルで、おもにマーラーを中心に書いたことがあります。
今思うと恥ずかしいです(笑)
投稿: yokochan | 2012年9月 9日 (日) 16時09分
yokochanさま、ご無沙汰しておりました。
そして、山元光さま~はじめまして。
いやあ~、正直な話し僕が初めて、ブル9を聞いた時の衝撃と感動を、同じように感じておられた方がいたとは、ビックリ仰天!これぞ、神様のお引き合わせと思いました。宗教の擬似体験ということは、何かの本で読んだことがありますが、殊にブルックナーその中でも、第9交響曲は~正に、宗教を超えて神様や聖霊の擬似体験にまで至るのではないかと!
何を隠そう~、僕もこの曲を中学3年の時にFM放送で初めて聞いた夜~、この世ならぬ異次元世界に連れ去られ、大宇宙を彷徨う衝撃と感動を覚えたのです!そして、私という存在が塵のように感じられ、今までの価値観・人生観・芸術感が一瞬の内に崩れ去って行くのがわかりました。音楽であって音楽ではない、壮大な音の建造物若しくは音の怪物!そして、この世を超越した神様のお告げ・審判の声を聞いたかのような衝撃!と言ったらいいのでしょうか?そしてこの曲こそが、僕の人生の根源的な軌道修正を強いて来た一曲なんですね。
この思春期の衝撃と感動は、今も変わらず~ブルックナーの第9交響曲は、僕にとって青春の記念碑・奇跡に等しい曲で、後にも先にもこれを超える音楽は出て来ない、空前絶後の偉大な作品だと思います。光さん、ありがとうございます。そして、yokochanさま~長々とすみませんでした。
投稿: Warlock Field | 2012年9月 9日 (日) 18時42分
Warlock Fieldさん、こんばんは。
ここにもまた、ブルックナーの9番を素晴らしく表現し、賛美される方が!
へっぽこブログ主幹者といたしまして、尊敬に値する聴き手おふたりに、深いコメントを頂戴し、ほんとうに嬉しく、感激です。
わたしも、この曲には、おそらく中3で出会いました。
クレンペラーとニュー・フィルハーモニアの新譜をFMで聴き、ほぼ同じころ、カラヤンのライブもFMで聴きました。
どちらも、2楽章の激しいリズムしか受け止めることができなかったのです。
恥ずかしいかぎりです。
いまもまだまだ、この曲は、わたしにとって気高き山で、難敵です。
プロムスでのハイティンクとウィーンフィルの演奏をストリーミング録音してみました。
聴く時間はまだありませんが、楽しみです。
投稿: yokochan | 2012年9月10日 (月) 22時57分
さて、こちらにも。
今年、yokochanさんに会える機会があるとすれば、コルンゴルト 交響曲嬰へ調が演奏される読売日響第771回 定期演奏会Bシリーズ 5/27 サントリーホール。4月27日(日) 14:00 サントリーホールで行われる佐村河内守交響曲第1番全国ツアー辺りになりそうです。佐村河内守コンサートの時は、昨年8月の時同様、今の仕事のシフトで行くと、古参サーと前後はほとんど眠れないかもしれませんね。
こちらは、ここ数日、ブルックナー交響曲第8番、9番が聴きたくて仕方ない状態です。iPhoneに転送して聴き入ってます。EQは、使っているイヤホンに合わせて100Hz-300Hzの膨らみをバッサリ落として、ラウドネス曲線の考えから100Hz以下と、12kHz以上をかなり持ち上げています。録音場所の空間を感じられるような、かつ音は解像度バリバリストレートを両立したような、いい意味で体で感じる設定で聴いています。
ブルックナー交響曲第9番は、2009年12月に好きになりました。シューリヒト指揮ヴィーンフィル演奏に始まり、フルヴェンも、ヴァント指揮ミュンヘン・フィル、ベルリン・ドイツ交響楽団も聴きました。そのほか、スクロヴァチェフスキ、近年話題になった、最新の補筆完成版を振ったラトルを除くと、皆ヴィーンフィル演奏が好きでした。70年代カラヤンライブ、小澤征爾90年代ザルツブルク音楽祭ライブ、第3楽章は、今でも最高かもしれないジュリーニと。ラトル以外の補筆完成版は、ボッシュ指揮アーヘン交響楽団とアイヒホルンで。断片も、アーノンクールで聴いています。私が、週6日18時間労働をしていた頃、心の友だった音楽は、このブルックナー交響曲第9番でした。その頃、佐村河内守交響曲第1番は、一聴しただけに終わりましたが、ラトル指揮の第4楽章を聴いて、フィナーレの終盤で心が震えて涙が出かけたこと、心を高揚させたことを、聴きながら思い出していました。アトピー持ちで洗い仕事もあったので、薬を塗っても、指は湿疹だらけでアルコールや洗剤が皮膚に染みる。菓子パン以外、のどを通らず、幻聴は聴こえ、うつ症状は日常茶飯事。1時間が1日に、1日が1週間、1月に思え、いつも死を考えていた頃でもあり、この曲は私の心の記憶の一部です。クラシックだと、こういった記憶の一部になってる曲は、この曲と、ブルックナー交響曲第8番、ベートーヴェン第9、佐村河内守交響曲第1番だけですね。ヴァーグナー体験はそれに準ずるものでしたが。2012年金環食の頃この曲で語り合ったブロ友が言っていた、『自分の病気と闘っていた時を思い出したり、戦いや葛藤、そして一気に開けゆく様など最初壮大な風景が思い浮かびましたが次第に人間にシフトしてきました。』と、同じ思いで今います。
私が、佐村河内守 交響曲第1番と聞き比べた曲も、ブルックナー交響曲第9番でした。ブルックナーは、技術点では、劣っているかなと今は思ってますが、この神々しさ、昂揚感は、ブルックナー以外ではない表現だと、改めて思うようになりました。どちらも素晴らしいとようやく思えるようになったのかもしれません。
ブルックナーを理解できるようになったのは、以外にも、ドイツのクラブ音楽に夢中になった時期があることも関係しているかもしれません。
ブルックナーが表現しようとした神は、汎神論的な神にも、仏教で指向している、生命永遠の法則にも繋がっているものだと感じています。超自然的なものを感じるからですね。
私がこの曲を夢中で聴いた頃、葬式の時に第3楽章を流してほしいと思ったこともあります。
長くなりましたが、私が佐村河内守交響曲第1番を聴き込む前、文字通り交響曲の王者だと思った、苦楽を共に過ごしたかけがえのない曲です。
投稿: Kasshini | 2014年1月11日 (土) 14時27分
Kasshini さん、こんにちは。
こちらにも充実のコメントありがとうございます。
春以降、多忙となりそうなので、まだ一連のコンサートチケットは取っておりません状況です。
9番は、やはりFM放送で入門しました。
クレンペラーとカラヤンですね。
しかし、中学生には、この音楽の深遠さを理解するにはまだまだで、いまだに同じような状態のまま熟年を迎えてしまいました。
それでも、みなさまにコメントを頂戴し、ヒントをいただいたりして、自然・神・人生・・・といったようなキーを頭に起きつつ聴くことで、あらたな感動も生まれるようになってます。
願わくは、いまのアバドの指揮で、と思ってましたが、昨年の来日中止といまの体調不良で、難しくなっておりまして、心配なところです。
佐村河内交響曲を知ったことも、この曲へのアプローチに、また新たな道が開けた気もします。
投稿: yokochan | 2014年1月12日 (日) 13時44分