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2012年1月

2012年1月29日 (日)

レオンカヴァッロ 道化師 デル・モナコ

Yukunsakagura

新橋にあります「有薫酒蔵」。→ホームページ

こちらは、メディアにもよく出てまして、名物女将が始めた高校よせがきノートのある居酒屋さん。
店内の壁には所せましと、全国の高校の名前が背中に書かれたファイルがギッシリと並んでおります。
約2000校、学校の写真や街などの写真も添えられ、丁寧に作られてます。
そこに、卒業年度や思い出、近況などを書き記すのです。
わたしの母校もありましたよ。
そして、しっかり書いてまいりましたよ。
すごい先輩なども名刺とともに発見したりする驚きもあります。

女将さんの広島の某高校の後輩だという方にお連れいただき、気さくな女将ともご挨拶できました。
お料理写真は撮りませんでしたが、九州料理を中心とする、まったく美味しいツマミばかり。ラーメンまで食べられます。お昼もやってます。

こういう企画のお店、大学版とか、地方都市版とか、もしくは、各街での小学校版など、横のつながりが今こそ大切な日々だけにあってもいいんじゃないでしょうかね。

もちろんクラヲタ居酒屋なんてのがあれば最高なんですがね!
わたし店長したいです。

Cava_pagli_monaco

今日は、泣く子も黙る名盤・名唱。

レオンカヴァッロ 「パリアッチ」「道化師」

 不世出の大テノール、マリオ・デル・モナコ様のカニオです。

デル・モナコのカニオは、1961年のNHKのイタリア・オペラ団での公演が、59年のオテロとともに伝説ともなっていて、当然に私はまだヨチヨチ歩きの頃だったので知りませんでしたが、後年、モノクロの映像やFM放送を通じてそれに接し、強烈な印象を受けたのだ。
いまの時代からしたら、大げさともとれる身振りの演技だけれども、目の動きひとつとっても役柄への没頭ぶりが凄まじく、同時に真っ直ぐひた走りに自爆の悲劇に向かってゆくドラマティック歌唱に息を飲んだのだ。
 同じ頃に慣れ親しんだドミンゴも、それはそれで立派で、他に替えがたいものだが、理性的で間違いを犯しそうにない生真面目さを感じてしまった。

いまこうして聴いても、その印象は変わりないが、スタジオ録音の方が少しおとなしめ。
でも、カニオといいオテロといい、デル・モナコの歌の数々が、デッカの優秀録音によって、こうして残されていることに感謝したい。

 カニオ:マリオ・デル・モナコ    ネッダ:ガブリエッラ・トウッチ
 トニオ:コーネル・マックネイル   ペッペ:ピエロ・デ・パルマ
 シルヴィオ:レナート・カペッキ

   フランチェスコ・モリナーリ・プラデルリ指揮
          ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団/合唱団
                         (1959.7 @ローマ)


レオンカヴァッロ(1857~1919)の「パリアッチ」は、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」とともに、セットで扱われることが多い。
ともに70分前後の長さで、同時上演可能、レコード3枚に収まり、いまはCD2枚。
プッチーニとともに、同時代人の3人。
ヴェリスモオペラを、そのふたつのオペラで切り開き、プッチーニに先んじて大成功を収めつつも、それぞれの一発屋で終わってしまった風にレッテルを貼られてしまったのは、逆にプッチーニがすごすきたから。
どちらも10曲以上のオペラやオペレッタを残していて、それらはいま徐々に音源ともなってきていて、わたくしも少しずつ確認中です。
要は、「カヴァ・パリ」ばかりじゃないということ。
素材の難点や、魅力的なアリアが手薄なこともあるが、知的なレオンカヴァッロ、旋律美のマスカーニ、ともにまだまだ捨て置けぬふたりのオペラや声楽、器楽作品があるものなのです。

1892年の作曲は、カヴァレリアの1890年の初演のあと、プッチーニは、「エドガール」までで、「マノン・レスコー」を作曲中の年。

旅劇団の道化師座長が、若い劇団の花型女優の妻ネッダの浮気に苦しみ、やがて村人の集まる中で、演技と現実を同化してしまい、妻に相手の名を迫るうちに、ナイフで刺し、そこにあらわれた情夫も刺し殺してしまうという、血なまぐさいオペラ。

激情と嫉妬が渦巻くドラマを、ナイフによる殺傷事件で幕を閉めるという、ヴェリスモ現実オペラの典型。

カニオ「衣装をつけろ」、「もうパリアッチョじゃない」
ネッダ「鳥の歌」、「シルヴィオとの二重唱」
トニオ「ごめんください、皆様がた」
ペッペ「愛しのコロンビーナ」


カニオの有名なもの以外にも、いいアリアがたくさん詰まった70分は、緊張感と情熱、そして歌心が凝縮された名オペラです。

デル・モナコの体当たりぶっちぎりのカニオは悲劇のヒーローに相応しく、もうどうにもならねぇ的なストレートボイスで、今風のまとまりのよい知性に裏付けられた歌唱とは大違い。
聴き慣れない方は違和感あるかもしれないが、偉大な歌唱であることには違いない。
トウッチのドラマティックなネッダもいいが、ちょっと大味かも。
それとトニオのマックネールは懐かしい歌唱。この役は、わたしにはミルンズが最高。
名脇役デ・パルマがここでも存在感ある味わいを示してます。
いまならオケや指揮者に、磨き抜かれたものを求めたくなりますが、この時代ならではの輝かしくも歌に満ちたイタリアの音色を感じましたね。

ワーグナーはそうでもないが、ヴェルデイやイタリアオペラは、どうしても50~70年代のものに心動かされてしまう。
ちょっと古い人間なんすかね。

ロクなことのない、このところの日々、デル・モナコに恐れるな進めと後押しされましたよ
そして、道化芝居はオシマイともね。

レオンカヴァッロ関連記事

 「5月の夜」

 「ラ・ボエーム」

 あと、ブログ開設前に観劇した、「新国のカヴァ・パリ」
 G・シュナウト、C・フランツというブリュンヒルデ・ジークフリート歌手に、クピードという真正イタリア歌手の組み合わせの面白い舞台だった。
そして指揮は、新国唯一の登場だった、F・ルイージ。

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2012年1月28日 (土)

悲しいヴァーチャルコンサート

Minatomirai_1

横浜みなとみらい。

実はこれ、去年の今頃の画像です。

そして、なんということでしょう

神奈川フィルハーモニーの定期演奏会の土曜昼。

わたくしは、横浜にたどりつくことが出来なかったのでした。

会社をふたつ掛け持つこととなり、それ以外にも名刺を数枚持たされ、てんてこまいの日々が昨秋から続いておりまして、日曜以外はまともに休めない日々。
それが儲けにつながればいいのですが、空回り状態。
春までには、少し整理をつけなくてはと思いつつ、日々追われてます。

大好きな音楽を聴けなくなるのはまっぴら御免で、神奈フィルだけは絶対に押さえようと思っていた矢先にこれでした・・・・。
ブログ更新は、休日にまとめて書いたり、平日でも時間が取れればまとめ書きをしてます。
これもできなくなると、ワタクシ狂ってしまうかも・・・・・。

というわけで、行けなかった神奈川フィルの定期公演と同じ演目で、今日は悲しみのヴァーチャルコンサート体験をいたします。

 R・シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」
 
 ブルッフ     ヴァイオリン協奏曲第1番
 
             Vn:松田 理奈

 ブラームス   交響曲第4番

             指揮:サッシャ・ゲッツェル


名曲集だけれど、ドイツ・ロマン派後期、交響詩・協奏曲・交響曲と王道でもあり、筋の通った実にまとまりのいい組み合わせのプログラムです。
元ウィーンフィル団員、オヤジも団員のゲッツェルはジャンプの達人。
 いや、指揮姿が面白いけれど、新鮮で正統派の音楽造りの有望株で、ウィーン・フォルクスオーパーでは「ウィンザーの陽気な女房たち」で大ヒット。
次回の同団の来日公演でも振ります。
神奈川フィルには2度目の客演です前回定期

あぁ、ゲッツェルを聴きたかった、見たかった

そして、わたしのお部屋コンサート。
適当に選びだしただけで、深い意味はない音盤です。

Strauss_don_juan_heldenleben_sinopo

R・シュトラウス 交響詩「ドンファン」

 ジョゼッペ・シノーポリ指揮ドレスデン・シュターツカペレ

濃厚な味わいながら明晰なシノーポリのシュトラウスは、ドレスデンの克明でかつ分厚いアンサンブルもって、分厚いステーキをイタリアンソースで食すみたいな、グルメチックな取り合わせの妙を感じる演奏。
演奏時間も20分近くで、聴き応え充分。

ゲッツェル&神奈フィルは、さぞや爽快に演ったんだろうなぁ・・・
そして、あのオケの美音だもの。

Buruch_marriner 

ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番

   Vn:パメラ・フランク

 サー・ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・セント・マーテン・イン・ザ・フィールズ

ブルッフのこの名作、これまでコンサートで何回聴いてきただろうか。
コンサートの前半のトリにもってくるのに最適で、ソリストの名技も味わえる。
魅惑の旋律と情熱に溢れたこの曲、わたしは大好きです。
アメリカ娘、パメラ・フランクの明るく屈託のないヴァイオリンは、第2楽章などでは、ドイツの森を感じさせるような深みには乏しいけれど、その分、若やいだロマンティシズムが満載。
マリナーの清潔で、毎度さわやかなオーケストラも素敵なもの。

ハマっ娘の松田理奈たんのブルッフ聴きたかったなぁ(完全にオヤジですから)。

Brhams_heitink

 ブラームス 交響曲第4番

  ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

ブラームスを演奏して最高のオーケストラは、このコンセルトヘボウ。
そして、ウィーン、ベルリン、ドレスデン、バイエルンでしょうか。
そこに、神奈川フィルを加えることを無謀ですが、お許しください。
ハンス・マルティン・シュナイトの厳しい指揮のもとにあって、ブラームスの真髄を、そして元来のキレイな音色が重なって、ロマン派の最後の昇華を聴くことのできるオーケストラゆえに。

ハイティンクの1回目の全集録音から。
これが出たときは、ハイティンクが充実気にさしかかっていた時分で、ちょうど来日公演もなされて、わたしはそのレコードを買うことはなかったが、サワリだけは聴くことができた。
響きのきれいな演奏ながら、やたらと腰が重く感じたが、気力満点で、評論家諸氏の酷評は、なにもそこまでという印象だった。
CD化されて真剣に聴いても、その印象は変わらないが、堂々とした運びのなかに聴かれる甘い音色を聴き分けることができるようになった。
オケの魅力であり、ハイティンクの作り出す、ふくよかで柔らかな響きとの相乗効果でもありましょう。
2楽章の古風な佇まいも、このたびの試聴では聴き惚れてしまうこととなりました。
ヨーロッパの音楽であります。

ゲッツェル君は、きっとテキパキと、3楽章などはハツラツと若者のブラームスを演奏したのでしょうか・・・・・。

こうして、CDコンサートをしても、やはりライブには敵いませんねぇ。
ホールで、演奏家の皆さんと、聴衆の一人として同じ空気のもと一体感を味わいつつ、体で耳で目で音楽を感じる。
最高の至福でございます。

それと神奈川フィルという愛すべきオーケストラを一緒に応援する仲間たちとの集い。

最後にヴァーチャル乾杯をば

Azabu_beer

侘びしく、ひとり、ラーメン屋さんで、もやしキムチをツマミに缶ビール。

とほほ・・・・・・

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2012年1月27日 (金)

エルガー 交響曲第1番 バルビローリ指揮

Cardinal_1

英国風のパブで一杯。

例によって何を飲んだか覚えておりませんが、アイリッシュ系の何かだということは間違いありません。
ブッシュミルズかジェムソンだと思います。
いつもそのあたりを飲む自分だからです。

Ginza3

若い頃は、バーボンにやたら凝ったけれど、年季を少し経たいまは、スコッチウィスキー、オンリー。
外飲みでは、アイリッシュ系かアイラ系。
それもヨード臭のプンプンするようなシャープで香ばしいものを。
家飲みでは、もったいないから、円高の恩恵で安く買える通常のスコッチを。
お湯割りならば、日本の安いウイスキーを。

こんな感じです。

そしてウイスキーのお伴は、英国音楽。

Elgar_sym1_barbirolli_halle

エルガー 交響曲第1番

1908年のこの交響曲は、英国が生んだ久々の交響曲の大作、そしてエルガーも満を持しての初交響曲で、その思い入れはとても大きく、交響曲第1番は、ほかの作曲家のそれと同じく、プレッシャーと不安、そして気負いのなかで完成され、結果、大成功を収めた。

ともかく、この交響曲が大好き。

2番も同じく好きだけれど、一音一音が身に沁みついている度合いが、1番の比ではない。
幻想は毎月聴いてるけれど、本当に好きかといわれれば、そうじゃない。
好きだけれど、そうにはならない音楽だと思う。
本当に好きな交響曲は、エルガーの1番、ラフマニノフの2番なんです。
ワーグナーやディーリアス、フィンジは、そのすべてをコンプリートに好きだけれど、エルガーは、特ににこの第1交響曲を溺愛してます。

今夜は、サー・ジョン・バルビローリのふたつの音源を聴いてみたのだ。

バルビローリのエルガーの1番の音源は、わたしの知るところ3種類。

 ①ハレ管弦楽団          1956年 パイ録音      52’30”

 ②フィルハーモニア管弦楽団 1962年 EMI録音      53’30”

 ③ハレ管弦楽団         1970年 BBC放送録音  52’20”

このうち、②はすでに取り上げました。  →こちら

タイムだけみると、②のスタジオ録音が1分ほど伸びているけれど、基本的な基調は変わりはなく感じる。
タイムだけでは、一番短いハレ70年盤が、一番遅く感じるのが面白い。

56年の録音に感じる、はつらつとした覇気は、指揮者もオケもエルガーを演奏する喜びと情熱に溢れていて、それが時代を思わせない生々しい録音でもって、聴き手にモロに伝わってくる。
完成度では、②のフィルハーモニア盤が上だけれど、オケとの一体感と手作りの感動は①のパイ盤。

Elgar_sym1_barbirolli_bbc

そして、こちらが③のライブ録音

1970年7月24日 イギリス東部ノーフォークの聖ニコラス教会における演奏会。

この年に、この日付・・・・・、サー・ジョンはこのあと5日後の29日に心臓発作を起こして亡くなってしまう。
その後に予定されていた、ニュー・フィルハーモニアとの万博の年の日本来日公演はなくなってしまった。

当時のことは、いまでも覚えている。
キラ星のごとし、クラシック演奏家が大挙して来日した1970年。
カラヤンもバーンスタインも、セルも、パリ管、レニングラード、ボリショイ、ベルリン・ドイツ・オペラも・・・・。
そんな中で、英国からの来日は、ともに初だったバルビローリとニュー・フィルハーモニア。
NHKで代役のプリチャードの指揮を見た記憶があるが、曲は思い出せない。
バルビローリがやってきたら、マーラーやシベリウスをやる予定だったのに・・・。

痛恨のバルビの死。

そしてその直前の気合の入った、こちらの演奏を聴いて、溜飲を下げる想いだ。
先に書いたとおり、演奏時間は若干とはいえ一番短い。
でも、歌うべきはじっくりと歌い、走るところはひた走りに情熱的に。
メリハリの効いた自在な演奏は、永年この交響曲を手塩にかけて演奏してたバルビローリと、そして手兵のハレ管の究極の総決算のようなものなのだ。
多少の傷は気にならない。
このライブ感と、ノーブルかつ熱い思いの伝わる演奏が最高に素晴らしい。

Norfolkkingslynnstnicholasinteriorm

ネットで拾ったノーフォークKings Lynnの教会。
こちらで演奏されたのでしょうか。

エルガーのノビルメンテ(高貴に)の表記もしっかりお似合いのバルビローリの3種の演奏、いずれもわたしには大切なもの。
同様にボールトにも数種の1番の演奏が残されていて、そちらもまた取り上げてみたいと思ってます。

バルビローリ、ボールト、B・トムソン、尾高忠明。
この4人の演奏が最上と思ってますが、最近では、M・エルダーに、D・ラニクルズもいい感じです。

エルガー 交響曲第1番 過去記事

 「湯浅卓雄/神奈川フィルハーモニー」

 「マリナー/アカデミー管弦楽団」

 「尾高忠明/NHK交響楽団」

 バルビローリ/フィルハーモニア管」

 「
大友直人/京都市交響楽団 演奏会

 「
尾高忠明/BBCウェールズ響

 
ノリントン/シュトットガルト放送響

 
プリッチャード/BBC交響楽団

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2012年1月26日 (木)

コルンゴルト ヴァイオリン・ソナタ ファン・ビーク

Keyakizaka4

六本木ヒルズのけやき坂から東京タワー方面。

なんども書きますが、ブルーとシルバーの色合いは、樹木にもとても映えます。

紫外線を発しないLEDだから、木々への影響は少ないはず。

でも、そこに通電し、重さの負荷も考えると、可哀そうな感じ。

でもそれ以上に、人々の気持ちを和ます輝くばかりの光の効果は大きい。

山手線を中心にJRの電車のホームの両端には、ブルーの照明がついているのをご存知?
あれは、青の光が人の心に沈静効果を与えるのだそうな。

そう、早まっちゃいけないよ、ということなんです。

Korngold_violin

コルンゴルト(1897~1957)のシリーズ。

ヴァイオリンとピアノのための作品全集、とはいってもCD1枚ですが、そちらからメインのヴァイオリン・ソナタを。

作品番号6、1912年、コルンゴルト15歳の作品。
翌13年、カール・フレッシュのヴァイオリンとシュナーベルのピアノで初演。

これだけでもすごいでしょ!

コルンゴルトは、ともかく神童として、ナチス登場まではヨーロッパで人気・実力ともに随一の作曲家だったのだから。
コルンゴルトとしては初期の作品ながら、誰がこれを15歳の少年の作品と思えようか。
本格的な4つの楽章の古典的なフォームを持つ均整のとれた作品。
 でも、後期ロマン派の爛熟期の流れをしっかり受け継いでいて、後年のロマンティックで甘味なオペラ作品の前兆も充分に感じ取れる。

1912年は、シェーンベルクが「ピエロリュネール」を作曲した年で、「グレの歌」を完成させた。後期ロマン派から、無調そして十二音へと走りつつあった。
マーラーが前年亡くなり、R・シュトラウスは人気オペラ作曲家として「ばらの騎士」を書いたあと「ナクソスのアリアドネ」を完成させた。

こんな周辺にあっての、コルンゴルトの立ち位置は、どちらかというとシュトラウス寄り。
明快でわかりやすい旋律主体で、伝統にのっとった構成感をしっかりと順守。
そこに溢れる世紀末的感覚。刹那的ともいえる美しさ。

情熱的な1楽章は、モデラートでゆっくり始まり、徐々に熱を帯びて行くさまに聴きほれます。
2楽章は、コルンゴルトらしいカッコいいスケルツォ。
これが15歳の・・・、という印象をもっとも持ってしまう枯淡のロマンティシズムを感じてしまう3楽章。夢見るような、こんな深い感情はいったいどこから来たのでしょうか・・・・。
4楽章は、バリエーション形式で、ヴァイオリンの名技が楽しめます。
前年に書いた自作の歌曲「Schneeglockchen」(雪割草)を主題としてます。
この歌曲がまた素敵に美しいもので、バーバラ・ヘンドリックスとウェルザー・メストのCDで聴くことができます。

当CDには、このソナタのほか、自身がアレンジした「死の都」や「ヘリアーネの悲劇」、「空騒ぎ」から、などの魅力的な作品も収録されていて、たっぷり1枚、コルンゴルトの魅惑のヴァイオリン・サウンドが味わえます。

   Vn:ソーニャ・ファン・ビーク

   Pf:アンドレアス・フローリッシュ

オランダ出身の若い女流ビークの、屈託なくピチピチとしたサウンドには、もう少し陰りが欲しいところですが、思えばコルンゴルトの若々しい音楽にはぴったりかもです。

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2012年1月25日 (水)

モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第3番 カルミニョーラ&アバド

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築地の聖路加病院関連敷地内にある「トイスラー記念館」

聖路加病院の設立者である。米宣教医のトイスラーにちなんで移築・復元された宣教師館。
東京のど真ん中にあって、なんだかとってもヨーロッパ、それもスイスっぽい。

高名なる日野原先生を戴く聖路加病院。
聖ルカであります。
新約聖書の4大福音書のひとつのルカ。
そして、生誕の記載が淡々としつつも一番感動的な福音書で、バッハのクリスマスオラトリオは、この福音書を多くの部分で母体としてます。

場所柄、不動産活用に成功し、聖路加タウンの様相を呈しておりますが、病院という基本理念は変わりません。
わたしの亡くなった叔父は、こちらに勤めておりました。
そして病床に伏せったときも、こちらに駆けつけました。

いずれ機会があれば、こちらの教会のオルガンコンサートに足を運んでみたいと思ってます。

Mozart_vncon_carmignola_abbado

モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第3番

  ジュリアーノ・カルミニョーラ

 クラウディオ・アバド指揮 モーツァルト・オーケストラ

こんな素敵な演奏、今頃になって記事にしてます。

アバド指揮するモーツァルト交響曲とともに即買いしながら、いままでまともに聴いてなかった。
ここ数年、自分にとってモーツァルトがおろそかになっていた。

没後200年(1991年)、数年前に新婚旅行でウィーンに行ったこともあって、モーツァルトのCDを聴きまくり、ほぼそれで満足して今に至ってしまった感がある。
そう、わかったつもりになってました。
その後は、交響曲では、ブリュッヘンやガーディナーのモーツァルトを聴きつつも、なんか違うな~、と思っていて、ときおり聴くワルターやベーム、スゥイトナー、そしてアバドの折り目正しく、心優しいモーツァルトに心動かされることの方が多かった。

そこへ来て、アバドのニュー・スタイルのモーツァルト。
ベルリンフィル時代の従来演奏とは大違いの、いわゆる「古楽奏法」を意識したそれ風のモーツァルト。
やりくちは、いまや普通かもしれないが、アバドほどの大巨匠と呼ばれる指揮者が、ここに至ってこんなチャレンジをしてしまうことの大胆さ。
というより、その進取の気性と若い着想。
2006年の録音ですが、ベルリンを辞めて、ルツェルンで心おきなく、仲間たちとマーラーに没頭し、ボローニャで設立したモーツァルト管で、古典の音楽をあるがままに楽しむ。
そんなアバドの嬉々とした嬉しそうなお顔がうかがえるモーツァルト。
単に、ピリオドやってみました的なものとは次元がはるかに違う、微笑みとともに透明感あふれる自然な演奏。
その基調は、「明」と「自然体」であります。

アバドより20も若いカルミニョーラの明るく先鋭な弾力性あるモーツァルトに、完璧に同化しているオーケストラ。
とんがったヴィヴァルディもいいけれど、弾んだモーツァルトもいいカルミニョーラ。

モーツァルトの5つの協奏曲の中では、この3番が一番好き。
あとは4番。
快活なト長調の特徴を持った中に、ギャラントな雰囲気もある1楽章。
まるでウィーンの宮廷の庭園に遊ぶ夢見心地のような美しい2楽章。
終楽章は屈託ないロンド。中間部のコケットリーな感じに、お終いは、柔らかく、そして微笑みを持って。
素敵なエンディングが好きです。
ちなみに、カデンツァは、イタリアの名手フランコ・グッリの作です。
グッリは、コンサートホールレーベルでの活躍も懐かしい人。

いい夢みれそうなモーツァルトの第3番でした。

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2012年1月24日 (火)

シベリウス 交響曲第4番 セーゲルシュタム指揮

Echizen

冬の日本海。

いつぞやの越前海岸。

冬の日本海は本来もっと厳しく、人を寄せ付けない雰囲気かもですが、この日は波もなく、静かな海。

分厚い雲から、いつ降り出すか、またはいつ雷が鳴るか・・・。

冬の北陸、それも終りごろは、雷を伴った悪天候の日々と聞きます。
わたしも、なんどか味わいました。
弁当忘れても、傘忘れるな・・・・。
そんな日本海側の天候を思うと、わたしの生息する関東エリアは、夕べのような積雪もまれにありますが、恵まれているのです。
でも、そんな絶海から獲れる海の幸はまた格別です。
日本人でよかった・・・的なものがあります。

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厳しい寒さが全国的に続くこの日にシベリウス(1965~1957)。

交響曲第4番 イ短調

シベリウスの7曲はまんべんなく好きなのですが、歳とともにその嗜好も変わり、最初は当然のこととして2番。
その後に、1番と5番。
次ぎは、3・7ときて、最後は4番や6番に至る。

しかし、わたしは、2番・1番以外は、いきなり同時にやってきた。

FM東京で、ヘルシンキ・フィルのシベリウス交響曲全曲演奏の来日公演を放送したとき。
全部エアチェックして、冬の寒い日々にむさぼるようにして聴いた音源。
渡邊暁雄オッコ・カムが振り分けたそのシリーズは、CDとして音源化されました。
その音源を聴きまくった時は、ホット・ウイスキーが流行ったときで、わたしもそれを飲みながらひとり音楽に没頭する日々でした。
会社生活、ごく初期の頃。

あの頃に、心熱くして聴いた4番の交響曲。
それも、第3楽章のラルゴの静謐な世界が徐々に、それも何度か熱を帯びていって、ついにフォルテに達するところに、寒さも忘れるほどの熱い感銘を覚えたものでした。
独り暮らしの都会の侘び住まい。
寂しさと悲しさの無聊をかこつかのような寒い夜に、聴くのはシベリウスの7曲の交響曲にマーラーのすべて、そしてディーリアスにワーグナーでした。

だから、シベリウスの音楽にも、若き日々への懐かしい郷愁を感じてしまうのです。
みなさん、それぞれ、もしかしたらシベリウスへの想いをお持ちかもしれません。
ことにわれわれ日本人には、そんな気持ちや想いが強いのかもしれません。
英国が周囲を海に囲まれた島国で、自然豊かな国ゆえにシベリウスの音楽の演奏の伝統があるのと同じように、海と山と、そして森や水にも豊かな、わが日本にもシベリウスをすんなりと受け入れ共感する土壌があるものだと思います。

それゆえに思う、本場フィンランドの人たちの演奏するシベリウスを絶対視する憧れの想い。
ヘルシンキフィルのシベリウス全集は、定番の間違いなしのベルグルンドに続いてセーゲルシュタムも録音しました。
デンマークでの録音はまだ未聴なのですが、ヘルシンキのものは1枚1枚揃えて、楽しみに聴いてきた全集。
セーゲルシュタムの演奏は、てきぱきと運ぶ機能的な側面を持ちつつ、じっくりとした歌いまわしにもシベリウスの真髄を見る想いでして、構えも大きく壮大な北欧の自然も体感できるような演奏なのです。

交響曲の多作家として完璧ギネスのセーゲルシュタムのデビュー盤は、フィリップス社へのワーグナーで、ニルソンとかのへっぽこと呼ばれたブリリオートと録音したもの。
北欧出身者同士のワーグナーは、なかなかのものでした。
そして、ヘルシンキフィルとの来日でも聴いた5番が忘れられない。

厳冬の晩に聴く、セーゲルシュタムのシベリウスの4番。
熱くも孤独の寂しさも味わえる桂演でございました。

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2012年1月22日 (日)

グルック 「オルフェオとエウリディーチェ」 ミンコフスキ指揮

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夜の新宿、花園神社の中のお稲荷さん。

この鳥居の先には行きませんでした。

酉の市には、見せ物興行が出て、怪しくも懐かしい○女とか、なんとかをやってます。

Hanazono3

社会人になってからは、実家から通わずに、まずは新宿の富久町というところで独り暮らし。新宿の繁華街までは徒歩圏。

でも、2丁目、花園神社、ゴールデン街あたりは、若い私にはちょっと怖くて、そこを通らないようにしておりました。
いまでは、なんのことはないのですがね。

Gluck_orphee_et_eurydice

グルック(1714~1787) 「オルフェオとエウリディーチェ」

その長いフルネームも、クリストフ・ヴィリヴァルト・グルックは、あんまり知らない。

何故か中学校の音楽の授業で名前を覚えることになるグルックは、「オペラの改革者」ということで学んだ。
でも、それだけで終了で、同時期に音楽愛好家となっても、その音楽は、このオペラに含まれる「聖霊の踊り」どまり。
オペラ全曲を聴くことになったのは、もっとずっとあとのこと。

そもそも「オペラ改革」って?

オペラばっかり聴いて観ているけれど、懐かしの「オペラ改革」とはなんぞや、さっぱり覚えてないし、認識も薄れてます。

・レシタティーヴォを通奏低音やチェンバロから、オーケストラに変更
・オペラ内の合唱やバレエの存在を際立たせ、よりドラマとしての劇性を音楽とともに高めた
・歌手の名技性を際立たせる、歌手偏重から、音楽と劇を重視

その改革の3部作が、「オルフェオとエウリディーチェ」「アルチェステ」「アウリスのイフィゲニア」。
古楽奏法の定着によるところも大きく、音源もそのあたりを中心にたくさん出てます。
昔では考えられないことであります。
 そして、こうしたオペラでは、古楽の演奏家たちによるものに耳が馴染んでしまうと、通常オーケストラによる従来奏法では、重すぎで手ぬるく感じてしまうようになりました。
かつての昔には、こんなことは考えられないことだった贅沢なこと。
 同じく、オルフェオ役をテノールで聴き慣れると、メゾでは違和感が生れてしまうことにもなる。

そんな思いにさせてしまうのが、ミンコフスキの鮮度高くイキのいい演奏。
グルックの改革精神を浮き彫りにするかのように、自信と確信に満ちた集中力でもって音楽に対峙しております。

 オルフェオ:リチャード・クロフト   エウリディーチェ:ミレイユ・ドランシュ
 アモール :マリオン・アルショー

   マレク・ミンコフスキ指揮 ルーヴル宮音楽隊/合唱団
               (2002.6 @ポワシー、サル・モレイエル、ライブ)


最近は原典主義から、1762年ウィーン版での演奏が多いが、ミンコフスキは1774年パリ版を採用。ちなみにあとパリ版を元にしたベルリオーズ版もありますが、そちらは未聴。

したがって、先に記した通り、ここではオルフェオはテノールが受け持っている。(フランスではカストラートは禁止だったから)
そして、パリ版ゆえにバレエ音楽がふんだんに収録されていて、オペラの最後、すなわち、よみがえったエウリディーチェと喜びの抱擁を交わすオルフェオ。そこで神妙だったオペラが、喜びに満ちて終わったあと、バレエが7曲も延々と続くことになる。
正直、音楽の、そしてオペラの展開としては、バレエで終結するという耐えがたい流れなのであるが、ミンコフスキの劇場指揮者としての卓抜とした才能でもって、おおいに楽しみながら、爽快感も味わえる、おもしろ演奏となっていて予想外なのだ。
清涼感漂う高名なる「聖霊の踊り」は、心洗われるような名演に思われ、聴き古したこの曲から実に新鮮な感銘を味わうこととなります。
オペラの中にふんだんにある、間奏や聖霊、そして序曲やバレエを抜き出して、ミンコフスキの小股の切れ上がったような指揮ぶりを味わう聴くのも、このオペラCDの楽しみかもです。

そして件のテノールは、アメリカのクロフト
古楽の様式からするとかなり今風で、歌いぶりが達者すぎの感はあり。
でもその感情移入のほどは、なかなかのもので、ミンコフの描き出す劇的サウンドに、巧みにマッチしております。
エウリデーチェを失った悲しみを歌う高名なアリア「ああ、われ、エウリディーチェを失いぬ」の泰然とした中での悲しみの表現には感動いたしました。

相方のドランシュのエウリディーチェ。わたしの好きなドランシュ。
清潔で明快な歌はここでも素敵なものでした。

アモールのアルソーは、録音当時まだ10代だった由です。
それこそ混じり気ないピュアな歌声が好印象。
ガーディナー盤のプティボンと甲乙つけがたし。

このオペラに名唱を残した往年の歌手たちも、歌それぞれでは素晴らしいものなれど、いずれの歌手も、このミンコフスキの作り出す先鋭で、心理描写も巧みな劇的な音楽には不十分な気がするゆえ、過去に染まっていないクリアボイスの歌手たちが、とても相応しく感じるのであります。

有名オペラにつき、粗筋は省略。
久しぶりに聴くこのオペラ。
登場人物が、3人+合唱という1時間30分の究極の省略ドラマは、へたな大オペラより、よっぽど劇的で、求心力の高いものでした!

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2012年1月20日 (金)

ハンソン 交響曲第2番「ロマンティック」 カンゼル指揮

Azumayama8

いつもの山の中腹から東方面。

東海道線に、真ん中は、大磯ロングビーチ。

海の右手には、江の島、遠く鎌倉です。

Azumayama9

西の海沿いの眺望は、小田原の街に、真鶴岬、遠くに伊豆半島。

そして右手は箱根。

Azumayama10

海の正面は、遠くに大島。

その右にはぼんやりと初島。

Hanson_sym2_kunzel

わたし好みのジャケット。

これは、サンライズでしょうか、サンセットでしょうか。

ここに収録されたアメリカン・ドリームのような美しく、前向きな音楽からして朝日なのかもしれないけれど、夕焼け好きのワタクシですが、ここは悔しいけれそ、サンライズ。
まさに眩しく輝かしく、明るい光景が相応しく思われるのデス。

ハワード・ハンソン(1896~1981) 交響曲第2番「ロマンティック」

   エリック・カンゼル指揮 シンシナティ・ポップス・オーケストラ

当ブログ2度目の登場のハンソンのこの交響曲。
最初は、スラトキン&セントルイスの演奏で。
EMIのシリーズだった、「アメリカ・ザ・ビューティフル」という中の1枚で、このCDによって、わたしはハンソンの交響曲を初めて聴き、以来、ハンソンの作品をデロスレーベルから出たシュォーツの指揮によるシリーズで揃えていったが、途中で手に入らなくなった。
ところが、その版権はナクソスによって引き継がれたみたいで、廉価に入手できるようになりそうだ。
音楽の友社の名曲解説全集の古い70年頃の版が、わたしの座右の書だったが、ハンソンはそこにも出ていて、少しばかり軽薄そうな顔写真が、少年時代にはあんまりいい印象となって残ってなかった。
ちなみにその本の最後は、ショスタコーヴィチで、まだ10番ぐらいまでしか記載されてなkった・・・・・。

なにゆえ20年前に、スラトキンのそのCDを購入したかは不明なれど、それ1枚で、ハンソンのイメージが激変。
バーバーやコープランドと同じく、アメリカ保守派の作風は、旋律的でとても懐かしく、そしてアメリカの良心に満ちた平和な音楽。
スゥエーデン系であることから、北欧を愛し、そしてその風物を意識した音楽も残していて、1番の交響曲は、ずばり「ノルディック」。
この2番も北欧の雰囲気が漂い、バイキング風の活気あふれるホルンの咆哮も聴かれます。
 指揮者としても活躍したハンソンは、マーキュリーレーベルにオケや吹奏楽団とかなりの録音を残してます。

7曲ある交響曲は、まだ全部を聴いてませんが、イマイチ感も残るものもありました。
今後シリーズ化して聴いていきたいですが、やはりなんといっても、この2番「ロマンティック」が美しさと出来栄えの良さでは随一かも。

3楽章形式の30分あまりの曲。
フランクの交響曲を思わせる、循環形式風で、冒頭の不安に満ちたやや暗いモティーフが全曲に重要な位置を占めて時おり顔を出すが、大半において明るく抒情的、そして伸びのびとした幸福感に満たされた曲であります。
最後には、明るく前向きな眩しいエンディングを迎えます。
 1楽章の不安な出足のあと、4本のホルンによる勇壮な主題、それが優しく姿を変え、夢見るように美しくロマンティックなふたつめの主題となる。
ここの部分は、まさに夢見心地で、ともかく素晴らしい。ラフマニノフも真っ青。
 優しくノスタルジックな第2楽章。冒頭不安主題とのせめぎ合いも。
元気あふれるバイキングのホルンに導かれる3楽章。
この曲の集大成のような大いなる完結感を持っていて、輝かしい終結部は懐かしさを振り返りつつ、ポジティブに終わります。

ともかく素敵な交響曲であります。

カンゼルは、テラークの、録音がウリのCDの看板指揮者だったから、それ系・ポピュラー名曲系のヒトと思われがちだったけれど、こうした本格シンフォニーの演奏を聴くと、しっかりとした構成感と、しっとりと曲を聴かせる腕前を持った指揮者だったことがわかる。
そのカンゼルも2年前に亡くなっているんです。

カップリングの「メリー・マウント」組曲は、ハンソンのオペラよりのオーケストラ曲で、これもいい感じの曲です。
オペラ全曲盤が出ているので、今度チャレンジします。

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2012年1月16日 (月)

バッハ パルティータ第1番 ピレシュ

Ninomiya_sky20120102

西の空、山に沈んだ夕日が、雲を染めてました。

1月の空気の澄んだ空と雲は、ともかく美しいのでした。

Ninomiya_sky20120102_b

左、南の方角に目を転じれば、丹沢連峰。

まだ雪はありませんでした。

わたしの実家からの眺め。

こんな景色を眺めながら、少年時代から音楽を聴いてました。

Bach_partita_pires

バッハのチェンバロ(クラヴィール)作品は、平均律、ゴールドベルク、インヴェンションなどの大作に加え、複数の組曲作品も、その根幹をなす素晴らしい作品。

「パルティータ」、「イギリス組曲」、「フランス組曲」、それらがそう。

それぞれ、6ないしは7曲ある中から、1作品づつチョイスして1枚にまとめたのが、マリア・ジョアン・ピレシュの弾くDG盤。
それぞれ、全部聴くと長いものだから、発売以来、わたくしは、このピレシュ盤を折にふれ聴いております。

1994年と95年に録音されたこのCDのこの演奏には、舞曲中心の組曲作品ながら、尋常ならざる研ぎ澄まされた緊張感がみなぎっている。
モーツァルト弾きのイメージからスタートしたボーイッシュなピレシュ。
むかしは、ジョアオ・ピリスだった。
ポルトガル読みでは、ジョアン・ピレシュらしい。

故障から復帰して、さらにDG専属になり、より痛いほどの深みを目指していった感のあるピレシュ。
親日家でもありまして、来日も多いけれど、昨年は震災+原発にて来日中止。
より深く、さらに進化しているピレシュをあらためて、是非とも聴きたいもの。

ピリスと呼んだ方が、わたしには彼女に相応しく感じるのだけれど、こちらに聴くバッハの静謐な世界は、先に書いたとおり、緊張感をともないつつ思わず息をつめて聴いてしまうような演奏で、デンオン時代のピリスじゃなくて、少し遠くに行ってしまったピレシュという感じなのだ。
 でも、透明度が高く、深い感性に彩られたバッハは、聴いていて、舞曲中心の組曲なのに、心に淡々と静やかに沁み込んでくる。
ドイツとは違う明晰なラテンの光を感じます。
このような、バッハが私はとても好きです。
アバドの音楽と同質のものを感じます。

「パルティータ第1番」 「イギリス組曲第3番」 「フランス組曲第2番」

リズム感の確かさとともに、タッチの明晰さと、指先まではりめぐらされた、しなやかなまでの感情移入。
若い頃の感性の豊かさが、ますます深まり、きめ細やかなバッハが冬の寒い夜に、津々と心に響いてくる。

部屋を暖かくして、膝かけなどもして、ホットウィスキーを飲みながら聴いてみました、ピリスのバッハ。

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2012年1月15日 (日)

ブリテン 「フェドーラ」 ナッシュ・アンサンブル

Sakasu_1

わたしの安いデジカメで、ツリーのイルミネーションを撮ると、こんな風に写ったりします。
白いものとか、瞬いたりするものには、自動でピントが合わせにくいのですが、思えば悪くないこの曖昧さ。

わたくしは、眼が悪いので、裸眼だと世間はいつもこんな風で、恐ろしくて外を歩けません。
かつて、某温泉ホテルの風呂の脱衣所で、眼鏡を盗まれたことがありました。
予備を持ってたからよかったものの、レンタカーでの家族旅行だったから、一歩間違えばとんでもないことになった。
眼が悪い人から、眼鏡を盗む、なんて、常人ではとうていできないことで、いまでもはらわたが煮えくりかえるほどの怒りを覚えますよ。
もちろん、ちゃんとロッカーに収納すればよかったのですがね・・・・。

Britten_phedra

ボケた写真や、眼鏡には関係ない音楽ですがね、今日はブリテン(1913~1976)まいります。
ブリテンの音楽を、オペラを中心に継続的に聴いてます。

もう少し長生きして欲しかったブリテンの作風は、年代によってそれぞれ異なるものの、その時代の音楽シーンからしたら、少しばかり保守的といえる。
それでも、英国音楽の歴史を大事にし、先達たちの延長線上にあらんとする試みが、どの作品にも認められて、ブリテンらしさをそこに見出すことも視聴の喜びであります。

劇的カンタータ「フェドーラ」は、ブリテン最後の声楽作品で、1975年に作曲され、1976年6月のオールドバラ音楽祭で初演されている。
その年の12月には、63歳で世を去ってしまう。
デイム・ジャネット・ベイカーの歌うベルリオーズの「夏の夜」を聴いて感銘を受けたブリテンが、彼女のために書いた作品でもある。

17世紀フランスの劇作家ラシーネが書いた「Phe'dre」~フェドーラをブリテンと同時代のローウェルが翻訳したものを台本とするアルト独唱のためのカンタータ。
ブリテンの意図は、ヘンデルのイタリア様式のカンタータをイメージすることにあったという。
15分あまりの5つの部からなる、室内弦楽オケ、打楽器、ハープシコードを伴う作品。

物語は、ギリシア神話にもとづくもの。
アテナイ王のテセウスには、純潔の神アルテミスを信仰する潔癖な息子ヒッポリュトスがいた。
ところが、中年王テセウスの若き後妻フェドーラは継子のヒッポリュトスを熱烈に愛してしまい、もだえ苦しみ、最後には亭主にも知られて怒られてしまい、それでも好きでたまらずに、自らの命を絶ってしまう。

そんな悶え苦しむフェドーラの心情を歌い込んだカンタータなのです。

いかにもブリテンらしいといえばらしい、ちょっと困った愛の物語。
このカンタータには描かれてないが、フェドーラのあることなをこと書いた遺書により、父の嫉妬を買ったヒッポリュトスには、やがて非業の死が訪れる。
激情の愛と、潔癖純潔の愛との相克は、なかなかに皮相な対比を醸し出している示唆的な物語であります。
もちろん、平々凡々たるワタクシには縁がございませんとも。

ブリテンの音楽は、相変わらず、ここでも、クールでかっこいい。
73年のオペラ「ベニスに死す」にも似て、どこか彼岸の雰囲気も感じるし、聴いていてベルクの音楽や、シュプレヒシュティンメ的なリアルな迫真感をも感じます。
ハープシコードや独奏チェロを伴ったレシタティーヴォなどは、古風な趣きのなかに、恐ろしさも感じます。
一方で、切迫した弦のトレモロとティンパニが、フェドーラの激する心を鼓舞しているかのよう。
冒頭の静かで印象的な出だしを覚えておくと、毎度ブリテン作品の常套として、最後の最後に、その部分が再現されて曲を閉じる訳でして、その見事な完結間に、15分間のモノ・ドラマを聴き終えた満足感が得られるるというものです。

    Ms:ジーン・リグビー

 リオネル・フレンド指揮 ナッシュ・アンサンブル
                   (95.11@ロンドン)


肝心のデイム・ベイカーの音源はまだ聴いたことなないのですが、このハイペリオン盤は、カップリングの室内オケ作品がとても聴きごたえがあって、しかもリグビーの真っすぐな歌声もよろしくて、お気に入りの1枚です。

ダウランドの歌曲を元にしたビオラソロを伴った「ラクリメ」は感動的だし、パロディ満載の「王様の剣」組曲は、なんとワーグナーのジークフリートの森のささやきや、田園交響曲をパロってますよ。

Sakasu_2

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2012年1月13日 (金)

J・シュトラウス 「酒・女・歌」 シューリヒト指揮

Hongkong_1_2

黒酢豚定食。

Hongkong_2

黒酢豚アップ。

Hongkong_3

チンジャオロース、アップ

Hongkong_4

チンジャオロース定食。

ご飯普通盛り。

あいやぁ~、この定食たち、いくらだと思います?

ずばり、ワンコイン。

作秋から受けることになった会社の近くの中華屋さん。

川口にあります。

定食の数、20品くらい。あと、麺類、ご飯類、豊富なメニュー、みんなワンコイン。

しかも、なにもいわないと、普通が大盛り。
大盛りなんて頼んだりしたら、超大盛り。
苦しむ人を何人も見ました。
寒波の野菜高騰を受けて、ちょっと心配な定食屋さん。
がんばって欲しいです。

自宅は千葉、これまでのメインの職場が港区、そしてこれからメインとなる埼玉・川口、実家は神奈川。
1都3県を、日々行き来してまして、交通費もさることながら、1日中やたらと忙しくなりました。

これぐらい食べないとやってられません。

Strauss_schuricht

今日も、大指揮者カール・シューリヒト(1880~1967)の至芸を楽しみます。

シューリヒトというと、どうしても高名なる評論家氏の世界といえよう。

ごたぶんにもれず、わたしが中高生時代に会員だった「コンサートホール」レーベルのシューリヒトのレコード解説もそうで、少年のわたくしは、その断定的な評論に命をかけて(?)惚れこんだもんだ。
いま思えばなんのことはないのだけれども、音楽を聴く道標として、ましてやマイナーな通信販売レーベルでは、そうした強いプロパガンダ的な後押しは、とても力強くかった。

シューリヒトの演奏では、あの評論は、わたしには、いまもほぼ受け止めることができる。
ロマン派、後期ロマン派を身をもって生きてきた生き証人でありながら、ズバッと竹を割ったような明快な解釈とこだわりのなさ。
そして、オケをその実力以上にやる気にさせ、素晴らしい音楽を引き出し語らせてしまう。
よく、仕事でもしゃべりまくるより、お客さんに語らせてしまう方がいい結果を生みますよね。
あんな感じの、人間味豊かな滋味を感じるシューリヒト。

でも、その作り出す音楽は、現代的で、スピーディで、かつスマート。
ライブ感も豊かなものだから、同じ曲の演奏でも、聴き比べると全然違う個性に溢れていたりするところが面白い。
こんな大指揮者は、いまやいません。
シューリヒトに似たタイプも思い起こせません。

そんなシューリヒトのウィンナワルツ。
実態はウィーンフィルを指揮して、キビキビとしていながら、思いきり歌いまくり、そして弾みまくってます。
ほんとうに、気持ちのいい演奏。
例によってのもこもこ録音ながら、ウィーンの丸っこい響きと音色が妙に巧く捉えられた音盤です。
レコード時代は、「ウィーンの森の物語」も収録されていて、これが絶品だったのですが、シューリヒト集成には入ってないのが残念なところ。

J・シュトラウス 「シャンペン・ポルカ」
          「常動曲」
          「宝石のワルツ」
          ワルツ「ウィーン気質」
          ワルツ「南国のばら」
          ワルツ「酒・女・歌」   ~CDの配列による

          ワルツ「ウィーンの森の物語」 レコードのみ
          「トリッチ・トラッチ・ポルカ」     〃

   カール・シューリヒト指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団
                        (1963@ウィーン)


J・シュトラウス(Ⅱ)が亡くなった1899年、シューリヒトは19歳。
きっと、そのワルツやポルカは、青春の歌だったことでしょう。

この録音に居合わせた、ウィーン修行中の岩城宏之さんが、「神だ」と言った話は有名です。


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2012年1月12日 (木)

バッハ ブランデンブルク協奏曲第5番 シューリヒト指揮

Yamanishi_church

実家の海辺を散歩していたときに見つけた夕暮れの教会。

手作り感、といいますか、ほぼ、おうち的な教会に、とても暖かな思いを感じました。

こういうところにこそ、心やさしいひとが集い、子供たちの笑顔もあるんだなぁ、って思いました。

お金をたくさん集めて運用し、大規模な普請をして、大きな寺社でもって信心を集めるのもひとつだが、どちらに、心が宿っているでしょうか。
もう、言いますまい。

Motomachi_temple

こちらも、家のそば。

地元の人々が大切に守っている神社です。

Bach_brandenburg_schuricht

バッハ ブランデンブルク協奏曲第5番

カール・シューリヒト指揮 チューリヒ・バロックアンサンブル
                    (1966年@チューリヒ)

これは、わたしにとって、とても懐かしいレコードです。

中学生のときに、頒布制のレコード会社コンサートホールレーベルにて購入の1枚。
当時、バロック音楽にやたらと憧れた。
1000円の廉価盤は、有名曲ばかりで、このジャンルはなきに等しく、「四季」はイ・ムジチの専売特許みたいなもので、ほかの演奏すらほとんどなかった時代。
そして、わたしにとってのバロック音楽の象徴は、オルガンやハープシコードだった。
それを求めて、FMの朝のバロックを聴いてたけれど、服部・皆川両先生の明快な解説で、一番ハマりまくり、聴きまくったのが、バッハ。
そしてブランデンブルク協奏曲をこちらのシューリヒト盤で購入し、聴きまくった。
とくに、ギャラントな5番。
チェンバロの大活躍がともかく好きで、1楽章の長いカデンツァばかりを繰り返し聴いたりしたものだ。

聖フランチェスコと思わせるステンドグラスのジャケットも不思議に気にいっていた。

バラエティ溢れるブランデンブルクは、いまや渋い3番や6番が好きだけれど、当時はともかく5番。
そしてトランペットの活躍する2番や、リコーダーの4番なども。
1,3,6は、若い頃は苦手だった。

コンサートホールレーベルにしては、いつものモコモコ感が少なめに感じたのは、もこもこでも、雰囲気豊かに録音でちゃうチェンバロという楽器の特性か。
レコード時代でも、悪くない録音に感じていたし、なによりもその演奏がいい。
シューリヒトのテキパキとした指揮ぶりと、余分なものをそぎ落としたすっきり明快バッハが、いまも新鮮で、そしてとても好ましく感じる。
当時のレコードには細かな表記はなかったけれど、後に知った、そのソリストたちの豪華さ。
ホリガー、アンドレ、ジャコテ、メイラン、ピゲなどなど、当時スイスで活躍中の名手ばかり。
わたしの心と耳に刻まれているブランデンブルクといえば、このシューリヒト盤。

シューリヒトのコンサートホール録音は、レコード時代にデンオンから出たものなどや、CD時代のコンサートホール復活盤で、ほぼ揃えたが、ボックス化されたものも買い直している。
やはり、どれも、もこもこ系なのであるが、それがいいのであります。
オケもへたくそなものもあります。
そんな雰囲気の向こうに、そしてそれを通り越して、大指揮者シューリヒトの姿が浮かんでくるところに愛着を感じ、思い出としてずっと大切にしていきたいのであります。

ちなみに、このブランデンブルクは、大指揮者シューリヒト(1880~1967)最後の録音です。

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2012年1月11日 (水)

ブラームス 交響曲第1番 ベーム指揮

Azumayama_2

1月3日の海の見渡せる、いつもの山頂。

冬ならではの厳しく枯れた光景と、遠くの海。

Azumayama_3_summer

こちらは、昨夏8月の様子。

木々の具合といい、空気の感じといい、空といい、季節の違いがこうも歴然とは。

でも、どちらも、美しく、わたしの好きな光景。

Brahmas_sym1_bohm

ブラームス 交響曲第1番 ハ短調

これぞまさに名曲中の名曲。

この曲を聴いたことのない、クラシック音楽好きはいませんでしょう。

ところが、この曲に共通して、ベートーヴェンの表題付き交響曲などとともに、あまりに定番なものだから、いつしか聴き古した感をいだいて、遠ざかってしまう名曲。
そしてやがて、ベートーヴェンなら無題の偶数番号、ブラームスなら2番や3番に好みが移行してゆくのが、クラシック好きの流れ。(でしょう)。
でも、また回帰して、田園や第5、ブラ1などに、あらたな感動を求めて行くのも、クラヲタとなった人々の心情。

そう、もういいや、お腹一杯といいつつ、ついつい食べずにはおかない音楽。
そんなふうに、クラシック好きなら、定期的に聴いて感動してしまいたい音楽。

そんなひとつがブラームスの1番なんです。

嫌いといいつつ好きなのがこれ。(逆に、好きです好きです、いつも好きです、なのは、チャイ5や幻想)

  カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                     (1959 @ベルリン・イエスキリスト教会)


ベームです。

ベームのブラ1といえば、わたしたち日本人にとって、忘れられないのは、1975年のNHKホールにおける来日公演。
レオノーレ序曲・火の鳥・ブラ1という、完璧なるプログラムで、曲が進むに従い、どんどん熱気を帯びてゆき、最後のブラームスでは、烈火のごとく燃えさかったベームの指揮にウィーンフィルがまともに応えてしまい、大興奮の熱い熱い演奏となった。

同時期録音の同コンビによるスタジオ録音は、ゆったりとした恰幅のいい演奏で、ウィーンの微笑みに富んだ音色も聴かれる味わいあるもの。
少し弛緩して感じても、ライブの緊迫感とはまた違った、おおらかなるブラ1。

そして、ベルリンフィルとのDGへの録音は59年。
モノ録音の2番と合わせ、貴重なベルリンとのブラームス。
まだ60代のベームが、まだフルヴェンの足跡の残るベルリンフィル、そして若いカラヤンと歩み始めたばかりのベルリンフィルを意のままにして、スピーディかつ重厚、そして即興性に富んだブラームスの演奏を成し遂げているのだ。
明るめの色調のスピード感についてゆくしなやかさは、今もベルリンフィルの持ち味そのもの。
でも、腹の底に響いてくる重低音がしっかりあります。
そして、ベームならではの一発勝負の熱血ぶりもここにはあります。
 終楽章のコーダの盛り上がりと、そのあとの一気呵成の終結部、ことに金管を思い切り鳴らし、ティンパニも激打するところに、いまや味わえないザッハリヒで厳しい完結感があります。

繰り返しなしの43分間。
ドイツ・オーストリア系の音楽で、滔々と脈打ってきた音楽の本流のようなものを、ティンパニの連打から始まる力強くスピーディな1楽章、甘さのないシャープな2楽章、味わい深さを避けたかのようなスムーズな3楽章、そして勢いドンぴしゃりの終楽章に、それぞれ感じるのです。
うなりをあげる低弦、迫力のティンパニ、歯切れのいい金管、熱い弦楽器、ノリノリの木管・・・、ベルリンフィルのすごさがここにはありありです。


ベームは、ウィーンとベートーヴェンやブラームスを録音したけれど、ライブでベルリンフィルで、それも60年代に、是非とも残して欲しかった。
これも、皇帝カラヤンが君臨したことによる、功罪のひとつかと・・・・・。

同時期の同コンビの、ベートーヴェン第3、第7も素晴らしいのでした。

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2012年1月 9日 (月)

マーラー 交響曲第5番 メータ指揮

Skytree_1

スカイツリーです。

錦糸町の某ビルから拝見。

これから暮れてゆく空とスカイツリーを眺めようという寸法です。

Skytree_4

錦糸町から押上って、こんな近いとは思わなかった。

Skytree_3

クリスマスや大晦日のライトアップは見れませんでしたが、こうして無地に立つ姿は近未来的で、無機質でもあり、どこか冷たくもありました。

Skytree_5

そして空は濃い紫に覆われてゆくのでした。

私的には、自分と同期の東京タワーの気品ある立ち姿に愛着を感じますが、こちらも徐々に定着してゆくのでしょうねぇ。

Mahaler_sym5_mehta

愛着といえば、こちらのマーラー演奏にも。いまや通常名曲の仲間入りした曲。

交響曲第5番嬰ハ短調

ズビン・メータ指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック

1976年ロサンゼルスUCLA、ロイスホールにて録音。

初めて買ったマーラーの5番のレコードがこれ。

ツァラトストラ、ハルサイ、惑星、ヴァレーズ、シェエラザードなどに続いたメータ&ロスフィルのヒットのひとつ。
ウィーンやイスラエルとの共演が先行したメータのマーラーだが、ついにロスフィルとのコンビで実現。
10番とのカップリングでズシリと重い2枚組を、わたしは憑かれたように何度も何度も聴きました。
この曲のカッコよさをストレートに味わわせてくれ、晴れやかな終結部に向かって一直線の突入感たくましい若々しい演奏。
この演奏で、5番の面白さに開眼した。

が、しかし、その後に、レヴァイン、アバド、マゼールのレコードを次々に購入し、それらの新たなマーラーに心動いていった。
ことに、アバド&シカゴの繊細で緻密、鋼鉄のような5番は、いまもってわたしのナンバーワンとなっている。
ほかにもたくさんの、数えきれないくらいの5番を聴いてきて、CD化されたメータを改めて聴き直してみて、その若々しい、懐かしい表情にすっかりこの曲にのめり込んだ昔を思い出してしまったものだ。

2012年1月に聴く、メータ・ロスフィル・マーラー・5番は、苦渋も平坦で、それは過去のもので、優しい抒情と微笑みがあり、輝かしい今後が待ち受けているかのような思いにさせてくれたのでした。
この屈託のなさと、オケのクリアな明るさを最大限に引き出したメータの指揮は、風格ある今のメータには味わえない率直なもの。

早めのテンポで、ずばずば進めてゆくメータの指揮は、その鋭い指揮棒さばきが見えるよう。
各楽章の対比と、その構成感も全体のなかで巧みに考えられており、連綿たるアダ-ジェットから終楽章のロンドへの移り変わりと、その最後のクライマックスの鮮やかさには手放しで興奮してしまいました。
ゴージャスなティンパニの捉え方も当時のデッカの優秀録音ならでは。

いやいや、若いマーラーはこうでなくっちゃ。
あれこれ考えなくても、こうして音楽の力に乗っかっちゃうことができるんだから。

わたくしも、しょぼくれてないで、テキパキまいりましょう

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2012年1月 8日 (日)

プッチーニ 「トゥーランドット」 マゼール指揮

Azumayama_1

標高136メートルなのに、周囲をさえぎるものなく、麓から海岸まで数分の場所なので、このような海が手に取るような光景に、温暖の地の利。

Azumayama_nanohana2

食いしん坊だから、菜の花の辛子和えなんぞを食べたくなりました。

Puccini_turandot_mazzel

プッチーニ(1858~1924)の「トゥーランドット」

こちらもグランドオペラの名曲。

それも、もしかしたら最後の名曲かもしれない。

登場人物の歌手たちに加え、合唱である群衆や人々がドラマの中で重要な位置を占めるグランドオペラ。
大がかりな舞台になり、上演にお金もかかるが、そのかわり、豪華ではなやかになるため、オープニングや特別興行にはうってつけ。
「アイーダ」がその代表格で、プッチーニで、グランドオペラと呼べるのは「トゥーランドット」だけ。「トゥーランドット」以降は、これほど大掛かりなオペラは生まれていないのでは。

そして、「トゥーランドット」は、未完に終わったプッチーニの白鳥の歌。
ドラマと台本の選択・決定に、ともかくこだわり、人間関係を壊してしまうほどのこだわりを見せたプッチーニは、そのこともあって作曲に時間を要した。
そのかわり、出来あがった作品のドラマと音楽の結合度とその完成度の高さは、ワーグナーや中期以降のヴェルデイやシュトラウス、遡ってはモーツァルトらと双璧。
 美食家だったプッチーニが、家禽の骨を喉に詰まらせてしまったことが遠因で、咽頭癌にかかり、それと戦いながらの「トゥーランドット」の作曲は、執念とも呼べるものだったらしい。
とりわけこだわったのは、最後にもってくるトゥーランドットとカラフの二重唱。
このオペラの、キーである、「愛を知り、目覚める」という大団円のクライマックス。
ところが、ここを残して、気の毒な「リューの死」、いわば自己犠牲でもって、プッチーニは筆を置かざるをえなかった。
思えば、リューは、ミミや蝶々さんに通じる、プッチーニ好みの優しく儚い主人公。
その声もリリカルなソプラノ。
しかし、トゥーランドット姫は、超ドラマテックソプラノで歌われる、高飛車な姫さまで、プッチーニの好みの女性像ではない。
その姫さまの変身変貌を書くことができずに、リューの死でもって終わってしまったことに、プッチーニらしさをむしろ感じてしまう。
 
 初演の指揮をとった、当時のスカラ座の音楽監督トスカニーニは、リューの死でもって、指揮棒を置き、「先生が書かれたのは、ここまでであります。彼にとって、死は芸術よりも強かったのであります。」と聴衆に語った。
2回目からの上演では、フランコ・アルファーノの補筆完成したハッピーエンド版でもって上演されたという。
 レクイエムのようなリューの死のあと、とってつけたような場面が続くのは、やや興ざめで、いかにプッチーニの草稿があったとはいえ、これを完成させた、お友達のアルファーノは何者だ?
長く思ってきたけれど、アルファーノは、モツレクのジェスマイヤーではなかった。
「シラノ・ベルジュラック」(過去記事こちらこちら)という素晴らしい作品を知ってしまった私は、「復活」や管弦楽作品なども聴いて、これは捨て置けぬ作曲家との認識を深めつつあります。
偉大なプッチーニのあとでは、致し方なしであったと。

演奏の仕方、演出の仕方によって、終幕の弱点をいかに克服するか。
そのあたりも、このオペラの見どころです。

それから、このオペラは、悲劇(リューの死)、喜劇(ピン・パン・ポン~イタリア伝統のコメディア)、ロマンス(トゥーランドットとカラフ)の3つが同時に存立する希有の作品であること。
プッチーニの行き着いたオペラの結晶であります。
 蝶々さんで描いたまだ見ぬ日本、同じく西部の娘やマノン・レスコーの最後ではアメリカ、このトゥーランドットではシナの国。
異国情緒を好んだプッチーニは、音楽にもペンタトニック和音や、各国の旋律の引用、そしてエキゾティックな効果を出す大胆な和声、多様な楽器の扱いなどなど、そのオーケストラ技法は、ここ最後の作品で、最高の高みに行きついた。
マーラーやシェーンベルク、ウェーベルン、ベルク、ドビュッシー、R・シュトラウスらと同時代の人であることを、今更ながらに思いおこすこととなる。

 トゥーランドット:エヴァ・マルトン            カラフ:ホセ・カレーラス
 皇帝アルトゥム:ヴァルデマール・クメント ティムール:ジョン=ポール・ボガート
 リュー:カーティア・リッチャレッリ            ピン:ロバート・カーンズ
 パン:ヘルムート・ヴィルトハーパー        ポン:ハインツ・ツェドニク
 役人:クルト・リドゥル

   ロリン・マゼール指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団/合唱団
                        (1983.9.1@ウィーン国立歌劇場)


トゥーランドットのCDや映像は多く出ているけれど、それらは劇場のオペラ指揮者のものがほとんどで、オーケストラと指揮者が強力というものが少ないように思う。
そうでないのが、マゼール、カラヤン、メータ、ネルソンスぐらい。
オーケストラは、ウィーンフィルとロンドンフィルぐらい。
いわば歌手中心のものが多かった。

マゼールやメータが好んで指揮するプッチーニには、甘味さや濃厚な歌いまわしと、ドラマティックな描き分けの見事さがある。
ことにマゼールは、このトゥーランドットにはうってつけの指揮者で、時に見栄を張ったかのような引き延ばしや、お涙ちょうだいの場所での思い切った感情移入などは、実際に舞台に接していたら、その感動やさぞかしと思われる。
悲喜愛の描き分けもさすがに巧いもの。
CDで何度も聴くには、そして昨今の演奏の風潮からすると、鼻についてくるもの確かで、トゥーランドットには、いま、新しい感覚や新しい世代の指揮者による演奏が求められていると思う。
ワーグナーの演奏には、常にそうした潮流があるものだが、オーケストラ部が優れているプッチーニにも起こってしかるべきですからして。
しかし、ウィーンフィルのプッチーニは素晴らしい。
リューの死の場面の静謐な音楽とオーケストラの暖かな音色には泣けてくる。

脇役にいたるまで、名人が配されたウィーンのこのキャストは実にいい。
マルトンの不感症女から愛の女性への変貌ぶりは、ツボにはまっているし、カレーラスの気品をかなぐり捨てた熱血王子ぶりも最高。
しかし、一番好きなのは、リッチャレッリの美しすぎて、気の毒すぎる儚いリューだ。
その定評あった弱音の美しさが実演にも関わらず、完璧なまでに聴こえ、うっとりと味わえる。カラヤン盤でのタイトルロールよりは、やっぱり、こっちの役柄の方がいいに決まってる。
懐かしいクメントの立派な王様はしょぼしょぼじゃないし、チョイ役のリドゥルツェドニクのポンなど、味わいあります。

プッチーニが好きです。

トゥーランドット過去記事

 「新国立歌劇場公演  テオリンのトゥーランドット!」

 「県民ホール(びわ湖共催) 神奈川フィル」

 「第3幕ベリオ版フィナーレ シャイー指揮」

 「グィネス・ジョーンズのトゥーランドットのアリア」

 「岡田昌子のトゥーランドットのアリア」

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2012年1月 7日 (土)

ムソルグスキー 「展覧会の絵」 アバド指揮

Tatsu_ginnza_1

銀座の和光のショーウィンドウを写してみました。

龍と玉、いわゆる宝珠。

ちょいと調べたら、龍は中国、玉はインドがその起源だそうな。

中華街で、お祭りには、玉を龍が追いかける踊りがありますね、あれですよ。

Tatsu_ginnza_2

片方の手には、宝珠をグワッシと掴んでました。

登り竜、宝珠を掴む。

なんだか、縁起よろしく、幸せを前向きに掴みたくなりますよ!

Mussorgsky_abbado_lso

ムソルグスキー作曲、ラヴェル編曲の組曲「展覧会の絵」。

数日前の「皇帝」と同様、やたらと久しぶりに聴く名曲中の名曲。

オリジナルのピアノ版はともかく、オーケストラ編曲も定番のラヴェル以外に、いくつかあるし、各種編成の版も頻出。
ELPによるロック版も高校時代聴きました。

でもやっぱり、ピアノかラヴェル版ですな。

今日は、ムソルグスキーの使徒といってもいい、クラウディオ・アバドのふたつの演奏で。

まず、1981年11月のロンドン交響楽団との演奏。
ムソルグスキー没後100年の年ゆえに、アバドの並々ならぬ打ち込みぶりがうかがわれる。

RCAレーベルに録音した原典版「はげ山」で、初ムソルグスキーを記録したアバドは、それ以前より、「ボリス・ゴドゥノフ」を盛んに指揮していて、それまでR=コルサコフらの手直しによって、より劇的に、華美に装飾されていたムソルグスキー像をくつがえしてしまうような、厳密なる原典見直しを「ボリス」に対しても行ってきた。
その執念は、ベルリンフィルとの全曲録音や、スカラ座、コヴェントガーデン、そしてウィーン、ザルツブルクでの上演に結実している。
ウィーン国立歌劇場の来日公演に、こんな渋いオペラ作品を持ってくるなんて、いかにもアバドならではで、わたしもピットのアバドに近い席で金縛りにあったように観劇したものでした。

そのアバドが、ラヴェル編曲とはいえ、「展覧会」を指揮したらどうなるか。
初出のレコードをすぐさま買って聴いてみた82年のわたくし。
その渋さにびっくり。
ラヴェルの顔は少なめで、辛酸をなめ尽くしたかのようなムソルグスキーの顔が浮かぶような演奏だった。
その印象はいまも変わらない。
当時だったら、シカゴを使うこともできたのに、よりフレキシブルでニュートラルなロンドン響を使った意味も、これならわかる。
オケのすごさが、却ってムソルグスキー、しいてはロシアの民の忍従のような姿を消してしまうから。
何度も姿を変えて出てくるプロムナードからして地味。
古城におけるサキソフォンは嘆きの悲しみが楚々と伝わるようだし、ビドロの重々しいさはロシアの民が寒い中、寡黙に行列に並んでるよう。
キエフの大門ですら、その延長線上で、聴いていて、ボリスの空しい戴冠式を思いこしてしまった。
30年前に、こんな個性的な展覧会をやってしまったアバドに敬意を表したい。

Mussorgsky_abbado_bpo

ロンドン響との録音から12年、1993年5月に、今度はベルリン・フィルハーモニーとライブにて再録音。
こちらも94年に発売時、即購入。
前回はレコードで、キエフの大門での大音量ではスピーカーが少しビリつき困ったけれど、CD時代の今回は、そんな問題なく、安心して音の大伽藍を楽しむことができた。

アバドのこの曲への基本的な姿勢は変わらず、真摯に社会派ムソルグスキーに向き合い、ラヴェルの華やかさには背を向けたユニークな演奏。
LSO盤より、強弱の幅が強くなり、ことに繊細極まりない弱音、そして弱音で歌うアバドの素晴らしさが味わえる。
この繊細さがあって、野卑な場面や、強大なフォルテも活きてくる。
だがしかし、そこはツワモノ、ベルリン・フィル。
随所に、オケのウマさがにじみ出てしまい、このオケ独特の明るさを伴った音色が顔をだす。カラヤンの亡霊もチラホラ・・・・。
いやそれは考えすぎだけど、アバドはその点で、すこしやりにくかったのではないかと。
好きに振る舞えたロンドン響での方がムソルグスキーらしさがストレートに出ていたような感じです。
しかし、指揮するアバドは燃えていた。アバドの声が聴こえました!!

同時期録音の「ボリス」では、オケは完全にアバドの手足となって凄まじいまでの効果をあげていたし、このCDのカップリングにある「はげ山」や、ほかのこれまた渋い合唱作品もいぶし銀と劇的な効果が相乗作用をする素晴らしい演奏。

名曲ゆえに、オケも黙っちゃいなかった・・・・。

そんなアバドのふたつの「展覧会の絵」でございました。

ルツェルンでもう一度願います!

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2012年1月 6日 (金)

ベルリオーズ 幻想交響曲 プラッソン指揮

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毎度お馴染み、浜松町駅の小便小僧さんは、新年を迎えまして、かくも晴れやかなる正装に身をまとっているのでした。

昨年のユルカワ系のコスプレ小僧とは大違い。→昨年の記事より

今年にかけるべき意気込みといいますか、わたしたちみんなの気持ちを表しているかのような気合を感じます。

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右手には、辰。

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そして、お背中。

おっ、足袋も履いてますよ。

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お花は渋く紫系で。

小便小僧さん、本年もよろしくどうぞ、楽しませてください。

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月イチ幻想

2012年1月のベルリオーズ「幻想交響曲」は、瀟洒にまいります。

ミシェル・プラッソン指揮のトゥールーズ・カピトール管弦楽団で。

幻想交響曲は、フランスの音楽でもあるということを強くイメージさせてくれる演奏。

プラッソンは、1933年パリ生まれだから、アバドや小澤、メータあたりと同世代の指揮者。
モントゥー、クリュイタンス、ミュンシュ、マルティノンらのフランス系指揮者の正統的な後継者であり、プレートルやボドよりも純正フレンチ指揮者と感じる。
プラッソン=トゥールーズという具合に、指揮者とオーケストラが切っても切れない長い結びつきを誇ることの幸せな実例のひとつを具現したコンビ。
EMIへのかなりの数の録音は、オペラが多かったり、伴奏が多かったり、また日の当らないフランス系作曲家を取り上げたりで、ちょっと地味な存在でもありました。
 でも、その演奏はすべてにおいて、フランス以外の何物でもない、香り高い気品と、野暮ったさのまったくないスマートさに彩られていて、いまとなっては貴重なものばかり。
70年代から始まったこのコンビも、2003年に終了し、プラッソンはフリーとして客演活動に徹しているようで、日本にもたびたび来ております。
 初の来日は70年代半ばのN響で、確かワイセンベルクか誰かの協奏曲コンサートの指揮者だったと記憶してまして、ラフマニノフの協奏曲2曲の間に、チャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」を指揮したんじゃなかったかしら。

プラッソンの幻想は、刺激的なところのまったくない、エレガントともいっていいくらいの洒落た幻想でした。
一連のこのコンビの録音にしっかり通じるのは音楽性の豊かさで、こけおどし的にならないしっかりした演奏であること。
響きは軽めで、断頭台への行進もスムースでさらりとやってのける。
ヴァルプルギスの喧噪と乱痴気もしかりで、のびのびと見通しよく、興奮の度合いも緩やかで、聴いていて熱くなりすぎることもなく爽快。
前半の3つの楽章がこの演奏の真骨頂か。
透明感ある響きに、軽めのホルンに柔らかくキュートな木管。
抒情的な表現に野の情景もソフトフォーカスで、極めて麗しく美しい。

このプラッソン&トゥールーズの幻想は、こってりした従来のフランス料理の濃厚ソースではなく、もっと今風のさっぱり系今風のヌーベル・キュイジーヌ風でありました。
おせち料理に疲れたわたくしに、ちょうどよい味付けの幻想でございます。

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2012年1月 5日 (木)

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 バックハウス

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あたまが雲で隠れちゃいました。

1月3日の富士山。

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菜の花の背景が隠れ富士

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菜の花祭りは、1月14日から。

早い春を先取りの温暖の私の郷里の吾妻山。

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水仙の甘い香りがただよう途中の登山路。

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日の出は間に合いませんでしたが、7時頃の東の空。

三浦半島ときっと遠くは房総半島。

山を降り、箱根駅伝の通過まではまだ早いので、ひとまず帰宅。

でも、テレビ見ながら食事が始まっちゃったし、母校が上位スタートだったので飲みだしてしまう。
そして、実家近くをヘリコプターが飛び、テレビにも街が映し出され大満足。
さらに大手町ゴールの3校ラストスパート・デッドヒートに大興奮。
母校は見事競り勝ちましたよ!
去年のシード争そいのデッドヒートに続いて、今年も魅せてくれましたよ!
またもや興奮して大声出しちゃった。
 あと頑張れの大声は、繰上げスタート数秒前のゴール至近で倒れちゃった神大。
ドラマありすぎの箱根駅伝。
しかし、東洋大が強すぎて、格差出過ぎで、繰上げばかりで気の毒すぎるのも今年の問題点か。


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2日には、恒例、川崎大師。

今年は多かった。

山門からの入場規制に引っかかったのは初めて。

さて今年の景気を占う、こちらは・・・・

Kawasakidaishi2Daishi2011

Daishi_2010Daishi_2009_a

恒例の不遜なる賽銭覗き

左上が今年2012年。時計回りに→2011↓2010←2009.

いつも長くて大きい賽銭箱の最も左手ですが、今年は大きい札が多いぞ。

いい年にしたい、切なる心のあらわれでありましょう!

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そして、わたくしは屋台で、キムチ味の煮込みを食べて、はふはふして、お酒を一杯飲むのです。

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目出度いめでたい、ダルマ屋さんの店頭ディプレイ。

2012年、いい年にしたいものです。

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いまさらどうしたらいいのか、こんな名曲名演奏。

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」

     ピアノ:ウィルヘルム・バックハウス

  ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮 ウィーン・フィルハーモニー


本ブログ初登場の「エンペラー」。
ほとんど、10年ぶりくらいに聴きます。
少年の頃に、聴き過ぎて飽きてしまった皇帝。
いまなら、4番や2番により魅力を感じます。

初めて「皇帝」を聴いたのがこの高名なるバックハウス盤。
親戚の家にあったそのレコードは、ロンドンレーベルの金文字のゴージャスな見開きジャケットで、ベートーヴェンの像があしらわれていた。
すぐさまこの曲に取りつかれ、むちゃくちゃ聴きまくった。
印象にあるのは、札幌オリンピックでやってきたミュンヘンフィルのNHK放送で、リヒター・ハーザーとフリッツ・リーガーの共演。
今思えばドイツ的でカッチリした演奏ではなかったのではないかと・・・。

音盤もたくさん揃えたけれど、あの頃の感動や興奮は訪れませんでした。

しばらくぶりの「皇帝」。

華やかさや威風よりは、静謐な2楽章にとても感じ入り、両端楽章も、そんな耳でしっとりと聴いている自分。
そして、さすがはバックハウス。
イッセルシュテットの渋い指揮と、まろやかで丸っこいウィーンフィルを背景に、一音一音丁寧に、克明に弾いていて、ルーティンなベートーヴェンから遠いところで孤高の雰囲気を醸し出している感じだ。
1959年の録音も鮮明。

思えば、わたしは、ドイツのピアノ音楽といえば何でもバックハウスだった。
そして、ケンプやルービンシュタインも現役だった60~70年代が懐かしい。

新春恒例、名曲シリーズやります。

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2012年1月 1日 (日)

ディーリアス 「高い丘の歌」 グローヴス指揮

Blog2012

年 今年もよろしくお願いします。

個人的にも、あまりにもよくなかった昨年。

きっと、必ず、よい年になります

それでも、いろんなことが起きるでしょう。

でも、淡々と生きてまいりたいです。

そして、いい音楽とともに

マーラー・イヤーが続き、その余波もまだありますが、2012年の作曲家は、わたしにとっては、なんといっても生誕150年のフレデリック・ディーリアス(1862~1934)。

あと、同年生まれのドビュッシー、没後100年のマスネ、没後50年のアイアランド、イベール、このあたりが私が日頃聴いている方々。

そして、2013年は、ワーグナーとヴェルディの年。すごいことになりそう。

Derius_song_of_high_hills

ディーリアス「高い丘の歌」

サー・チャールズ・グローヴス指揮 ロイヤル・リヴァプールフィルハーモニー

わたしの好きなジャンルの柱のひとつ、英国音楽。
その中でも、もっとも好きで大切な作曲家がディーリアス。
さらに、ディーリアス作品のなかで一番好きな作品が「高い丘の歌」。

ディーリアスは英国音楽のジャンルだけれども、英国の血は一滴も流れておらず、ドイツ系の帰化英国人が両親。生まれと育ちが英国。
アメリカやドイツで活動し、亡くなるまでパリ近郊のグレに住み、隠遁者のような作曲生活を送った。

「音の詩人」と称されるディーリアスの音楽は、理論や構成論からは縁遠く、感覚的なもの。
1972年中学生の頃、名曲やワーグナーに混じって聴いた無地のサンプル・レコードがビーチャムの1枚。
最初はさっぱりわからなかったけれど、聴くほどに耳に馴染み、そのたゆたうような音楽やデリケートな響きに心動かされるようになり、ディーリアスが好きになっていった。

「高い丘の歌」は、1911~12年にグレで書かれた30分あまりの音詩。
ライプチヒでグリーグに知り合い、大いに感化されたディーリアスは、ノルウェーの自然や風物を愛し、その海や厳しい大自然を思わせる音楽をいくつも書いたが、この曲もその一環。
大オーケストラと無歌詞による合唱による。

「わたしは高い丘陵地帯にいるときの喜びと陶酔感を現そうとし、高地と広漠たる空間を前にしたときの孤独感とメランコリーを描こうとしたのだ。ヴォーカルパートは自然における人間を象徴したのである」(ディーリアス:三浦敦史先生訳)

この作者の言葉がこの曲の魅力を一番物語っている。

静謐な弱音から、最大のダイナミズムまで、音域の幅広い音楽だが、明確な旋律線があるわけでもなく、全編たゆたうような茫洋とした流れの中に世紀末風の甘味さも備えもっている。
ディーリアスの言葉を意識しながら、自らが遥かが見渡せるような高地に立ち、場合によっては海もそこから眺望できるかもしれない景色の中にあることを感じながら聴く。
そこに身を任せているだけでいい。

ディーリアスの音楽、ことにこの曲を聴くと、故郷のこと、若かった日々のこと、そして遠くへ逝ってしまった人のことを想う。

作曲者直伝のフェンビと、ロジェストヴェンスキーのCDも愛聴しているが、ディーリアス指揮者のひとり、グローヴスのこちらの演奏がやはり刷り込み盤だし、美しさにかけては一番の演奏。

今年も例年に増して、ディーリスを聴いてまいります。

新年から、ディーリアスの音楽は心の心象風景に沁み込んでまいりました。

さて、本年もみなさまにとって、よき1年でありますように。

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