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2012年3月

2012年3月31日 (土)

神奈川フィルハーモニー体験講座

みなさまこんばんは。

2012年 ドラマは横浜から始まる

楽団よりのご了解と、なによりも、わたくしを、神奈川フィルに導いていただき、今回も記事のお誘いを頂戴いたしました、「yurikamomeの妄想的音楽鑑賞とお天気写真」のyurikamomeさん、かつ、「勝手に神奈川フィルを応援する会」幹事長さまと連動いたしまして、本記事をUPいたします。

以前にも、記事にしてますが、今回は晴れて動画そのものを。

まずはこれ。

いまやマーラー指揮者と化した金聖響さんで、「巨人」。

このホールにワタクシもおりまして、同じ空気を吸っております。

いつもコンサートレビューを書いてますが、こういうことなんです。

え?何がって?

まずは、コンマスのお兄さんを見てくださいよ。

石田泰尚さん、通称、ワタシどもは、俺さま石田さまと呼んでおりますが、この方がこのオケの核になっているのでございます。

まずは、オレサマに注目して観て聴いてください。

それと各パートの首席名手たち、そして個性豊かな各パートの奏者の皆さま、音楽に打ち込み夢中の演奏姿。
都内の有力オーケストラには決して負けませんよ。

後ろから見てた以上に、聖響さん、ひたむきで牽引力あります。



こちらは、進行中のモーツァルトシリーズ。

ピリオド入ってます系の爽快人間シリーズ。

ここにも、ワタクシおります。

進行形のモーツァルト演奏は、次がどうなるか楽しみなのですよ。

定番のマーラーは、後期・晩年作品を迎え、どうなるか?

親密なるモーツァルトシリーズは、どのような方向性を示すのか?

神奈川フィルハーモニーを聴く楽しみは、音楽を一緒に創生し旅する喜びです。

是非皆さまも、神奈川フィルのコンサートに足をお運びください。

そして、横浜は遠いとおっしゃる皆さま。

日本中を旅する神奈川フィルでもあります。

是非、応援ください。

次はあなたの街へ行くかもしれません。

youtubeから拾いました。 日本のプロオケは、このようにして全国演奏してまわってます。

こうした文化的な活動もありながら、そこにお金が集まらない。

いまの悲しきも難しい日本の現状があります。

音楽の力がどんなに強いかは、この1年間、みなさまそれぞれに実感されましたとおり。

その力の「ともし火」を絶やさないように、音楽を届けてくれる方々を応援してゆきたいと思います。

そして、いま、わたしのもっとも身近な音楽家は、神奈川フィルハーモニーなのです。

何度も言いますが、神奈川フィルを聴きに、横浜へ、いつもドラマしてますよ!


お知らせ

 ①神奈川フィル・ブルーダル基金コンサート 
    「ランチタイム・ヒーリング・ストリングス」   
             4月3日(火) 12:20 @開港記念館   終了

 ②神奈川フィル・ブルーダル基金コンサート 
    「石田泰尚ヴァイオリン「横濱“BLUE”夜会」
             4月3日(火) 19:20 @開港記念館 SOLD OUT!終了

 ③聖響音楽堂シリーズ モーツァルト・シリーズ第4回
    フィガロ、フルートとハープ、リンツ
             4月14日(土)  15:00 @神奈川県立音楽堂


 ④第280回定期演奏会  金聖響 マーラー
     第10番アダージョ 大地の歌
             4月20日(金) 19:00 @みなとみらいホール


  ①と②は、USTREAMにて、生放送されますよ!

以上

しばらく、この記事をトップに置きます。
通常記事は更新しますが、下まで確認して下さいまし。

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モーツァルト 交響曲第36番「リンツ」 バーンスタイン指揮

Shibapark2

公園にて。

ヒヤシンスでしょうかね?

春来てますが、今日は強風で参りました。

風には弱いワタクシですからして・・・・(笑)

Mozart_bernstein_vpo_2

モーツァルト 交響曲第36番 ハ長調

 
  レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                    (1966.3 @ウィーン・ゾフィエンザール)

オリジナルジャケットではないけれど、レコード時代に購入したこちらの方が好き。

ウィーンのベルヴェデーレ宮殿の庭園は、モーツァルトにもゆかりもあり、ベルサイユ宮にも通じるバロック風な華やかさが感じられます。
モーツァルトのジャケットに使われると、とてもマッチしております。

リンツにて短期間にて完成されたハ長の交響曲は、こちらも明るく伸びやか。
全体にモーツァルトのオペラを思わせるような交響曲に思う。
ワタクシがこの交響曲を初めて聴いたとき、一番に気に入ったのが終楽章。
躍動感あふれるこの楽章に何度もあらわれるスピード感ある弦の早いパッセージがなんだかとても気に入った。それはオペラのフィナーレみたいです。
スウィトナーとドレスデンの初期のEMI盤でした。
やがて聴いたバーンスタインとウィーンフィルでの、爽快そのものの疾走感に快感すら覚えたものです。

いまや4つの楽章すべてが好きですが、とりわけ歳とともに、第2楽章のアンダンテのたおやかな美しさに魅せられるようになりました。
ここにはまたモーツァルトならではの、ふっと見せる寂しさがあったりするんです。
こんな部分をさりげなくサラッと聴かせてくれるのが、ウィーンのオケに全幅の信頼を寄せ任せてしまったバーンスタイン盤。

ニューヨーク盤は未聴、ウィーンとのDG新盤では、少しばかり構えが大きくなりすぎてしまった感ありのバーンスタインの「リンツ」でした。

後期の交響曲では、一番、聖響&神奈川フィルに合っている曲じゃないでしょうか。

 聖響音楽堂シリーズ モーツァルト・シリーズ第4回
    フィガロ、フルートとハープ、リンツ
             4月14日(土)  15:00 @神奈川県立音楽堂

 





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2012年3月30日 (金)

モーツァルト フルートとハープのための協奏曲 パユ&アバド

Jinchouge

沈丁花のかほり。

急速に春めいてきたここ数日。

沈丁花のむせかえるような甘い香りも漂ってます。

わたくしは、夜に嗅ぐこの香りがなんとも好きで、帰宅途中に、もう冷たくない夜風にのってただよう沈丁花の花に、冬の名残と春の訪れの混在、そしてえもいわれぬ官能の想いを抱くのでございます。

そう、ワタクシには、この花の香りは、後期ロマン派なのですよ。

もうだいぶ昔だけれど、若杉弘さん指揮する、ベルクの「ヴォツェック」を初めて舞台観劇して、そのあまりの感激と音楽の衝撃に、駅から自宅に帰る宵闇のなか香っていた沈丁花の匂いに陶然としてしまったのでした・・・・。

Mozart_pahud_abbado

  

モーツァルト フルートとハープのための協奏曲 ハ長調

    Fl:エマヌエル・パユ  Hp:マリー・ピエール・ラングラメ

  クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                    (1996.11@ベルリン)

ハ長調の明るく屈託ないモーツァルト。

神奈川フィルハーモニーの音楽堂での特別演奏会にて演奏されるオール・モーツァルトの2曲目。
リンツ・シンフォニーとともに、ハ長です。

フルートとハープというまったく異なる楽器のために、ダブル協奏曲を書くという、もう天才の技としかいいようのないことを、いとも易々してなしてしまったモーツァルト。
ケチなパトロンの要請とはいえ、まったく自然で、ふたつの楽器が天国的なまでに溶けあって鳴り響いてしまうのを、われわれは違和感なく受け止めてしまうけれど、かつての楽器の精度や、とくにハープに与えられていた役割などを考えると驚きなのだ。

モーツァルトの時代には、オーケストラの一員として登場することもなかった。
ハープが堂々とオケに登場するようになったのは、ベルリオーズ以降では?
ヘンデルの協奏曲は有名だけれど、思えば華やかな楽器ながら、どんな楽器か意外と知らないし、普通の人が触れるような存在じゃぁないです。

そんなハープの鮮やかな活躍を間近に楽しめるのが、こんどの神奈川フィルの演奏会。

素敵なハープにのって、これも天を駆け上るかのような華麗なるフルート。
モーツァルトはフルートがあんまり好きじゃなかったともいわれるが、どうしてどうして、この曲の飛翔感は、単独のフルート協奏曲より、ことさらに輝くものに感じる。

3つの楽章が、それぞれ明るくて、陰りは皆無。
あまりに陰がなさすぎて、ものたりなくも感じるけれど、このギャラントなムードも、まさにモーツァルト。
とりわけ2楽章のふたつの楽器の優美なる共演には、モーツァルトならではの優しいメロディラインもあいまって、ため息が出てしまうほど。

今日聴いたパユとラングラメのベルリンフィルの主席コンビは、同時にフランス系。
同質の繊細かつ美しくよく通る音色を持ってます。
アバドとベルリンフィルの抑制され、柔らかなオーケストラとともに、最高の演奏のひとつかもです。

春本番の土曜日の午後にぴったりの演目、神奈川フィルの演奏会でどうぞ。
首席フルートのお一人、江川説子さんと、ハーピストの神谷朝子さんで。

    聖響音楽堂シリーズ モーツァルト・シリーズ第4回
    フィガロ、フルートとハープ、リンツ
             4月14日(土)  15:00 @神奈川県立音楽堂

 

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2012年3月29日 (木)

ビール、餃子、ラーメンにフィガロ

Wakatsuki1

ラーメン屋さんに行った時の基本セット。

カウンターに座るか座らなないかのうちに、注文する、「ビール、餃子にラーメンね」

赤いカウンターの色の、街の中華屋さんでは、絶対コレsign01

昨今のラーメン専門店では、こうはいきませんぜnoodle

Wakatsuki3 Wakatsuki4

あっさり醤油味のシンプルラーメンは、太めのコシのある手打ち麺。

キャベツがザクザクしゃっきりの歯ごたえの餃子。

飲んだあとなのに、お一人様で、この始末。

Wakatsuki 

新宿のガード下至近の思い出横丁にある「若月」にて。

本日3月29日21時45分。

外人さんにも人気の横丁。

この店でも、スペインから来たという美人さんが、ヤキソバ注文してましたよ。

Mozart_figaro_haitink

別館飲食ブログの様相を呈してますが、新宿なのに、神奈川フィル

モーツァルト 「フィガロの結婚」序曲

 ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

聖響音楽堂シリーズのモーツァルト

おそらく桜が満開を過ぎたあたりでしょうか、4月14日(土)のコンサートの冒頭に演奏される、沸き立つような歓喜の序曲。

ほんの4分ほどの曲ですが、そのあとに続く3時間あまりの天才としか言いようのないモーツァルトの劇音楽。

これまで何万回も聴いてきた序曲、そしてオペラ全編ももう何度も。

フィガロという機知と才気に飛んだ人物の結婚物語という目線で、楽しく見るもよしだが、このオペラが投げかけた社会的な問題提起の数々。

このオペラの前段は、ロッシーニの「セビリアの理髪師」で、アルマヴィーヴァ伯爵は、理髪師フィガロの機転の効いた知恵を借りて、見事ロジーナを獲得し結婚。

その数年後、フィガロは、伯爵に仕え、仕事仲間のスザンナと婚約するも、浮気性の伯爵の横恋慕をくらい、危うく恋人の初夜権を奪われそうになる。
それをこんどは、フィガロ以上におりこうさんのスザンナが頭を働かせて、男どもをぎゃふんと言わせる。そして、伯爵夫人の心の悲しみも描かれている。

貴族社会への半鐘と、女性目線の心の機微の巧みな描写。

短い序曲に、これだけのドラマを盛り込むことは不可能なれど、そんなドラマの端緒だよ、と予見させるような演奏であって欲しい。

オペラ全曲盤から抜き出すと、まさにそんな感じを思うことができるかも。

ハイティンクのノーブルなモーツァルトのオペラは、どれも素晴らしいと思う。
ロンドンでこそ出来たハイティンクのモーツァルト。

神奈川フィルの「フィガロの結婚」序曲も、付けたしの前座じゃなく、そんなことを思いながら聴けたらと思います。

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2012年3月26日 (月)

ホルブルック 「ヴァイキング」 グリフィス指揮

Rainbow_bridge_1

東京タワーをバックに海上を走る中華風の遊覧船。

先日、レインボーブリッジを徒歩で制覇しましたよ。

芝浦口から、お台場まで。橋の長さは約800mだけれども、橋以外の橋脚部分などを入れると1700m。

往復しても、ほどよいウォーキングの距離です。

Rainbow_bridge_2

昨年暮れには、芝浦口から入って、少しだけ歩きましたし、その画像も公開済みでありますが、その時は日も短く、真っ暗な夕刻。

少しばかり怖かった。

でも、日も伸びた明るい夕刻では、こんな感じに広々してまして気持ちいい・・・?

と、思ったら、おいらは、高所恐怖症なのかしら・・・?と思うくらいに、途中から怖くなった。

左手は海真っ逆さま、右手は車がハイスピードでビュンビュン。

この切迫感と圧迫感に負けないように、頑張って歩いたよう、おっかさん。

帰りもゆりかもめにのらないで、ケチって歩きましたよう。

それでも、写真をたくさん撮ってましたよう。

網や仕切りが途中からなくなってしまう恐怖だったけれど、腰を引いて、カメラの紐をしっかり首に巻いてへっぴり腰で撮りました。

やたら撮ったもんだから、時おりまた載せますよう。。。

次は、さらに怖そうだけど、ゲートブリッジに挑戦だぁぁ・・・・sweat01

Holbrooke

ジョゼフ・ホルブルック(1878~1958)の管弦楽作品から。

ロンドン南部サリー州のクロイドンに生まれたホルブルックは、ピアノ伴奏の名手の父親のもとで、ヴァイオリンとピアノを学び、早くも9歳で作曲の才能を示し、アレンジなども手掛け始めた。
ロイヤル・アカデミー音楽院で、主としてドイツ音楽を学び、同門のバントックとは、生涯の友人関係となる。

卒業後、ピアニストデビューを飾り、併行して作曲・アレンジ・教師として活動。
だが、ピアノとヴァイオリンの作品を書くだけでは飽き足らず、大オーケストラのための作品を書くことを望むようになり、若い英国作曲家をサポートしていた、マンズやゴドフリーらにスコアを送り見出されるよになったという。

1900~1910年、22歳から32歳の間に、大規模交響曲作品2つ、合唱を伴う交響曲1つ、交響詩複数、協奏曲、室内楽曲、オーケストラ歌曲などを書いた達筆のホルブルックは、妥協を許さず、人づきあいも苦手だったらしい。
1908年、男声合唱と大オーケストラのための交響作品「Apollo and the seaman」が、ビーチャムによって初演され、大成功となり、ホルブルックの作品は、英国国内はもとより、ドイツ・オーストリア、アメリカなどでも演奏されるようになった。

その後、第一次大戦を経るも、その豊穣で、ドイツ後期ロマン派の流れを引いたホルブルックの作風は変わらず、自国の民族音楽の採集などを通じ英国音楽の流れの一環の中にあった同世代のR・ヴォーン・ウィリアムズやホルストらの主流とは嗜好の距離がどんどん開いてゆき、また、ケルトに魅せられ、ある意味民族的だったバックスやアイアランドとも異なり、ホルブルックはその頑迷さも手伝い、徐々に忘れられる存在となっていった。。。。

オペラの作風も長大嗜好で、ワーグナーばりの3部作もあり、1908~1920年にかけて作曲された、ウェールズ伝説に基づくその「The Cauldron of Anwyn」を発表すると、ホルブルックは、「コクニーのワーグナー」と評された。

生涯に、8つの交響曲、多数の交響詩、、管弦楽作品多数、バレエ複数、ピアノ協奏曲2、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲、サキソフォーン協奏曲、管楽協奏曲2、室内楽、ピアノ曲、オルガン曲、歌曲・・・・、いやはや、ものすごい多作家なのです。

膨大な作品のうち、約40曲あまりは、エドガー・アラン・ポーにインスパイアされているとされ、フィンジおけるトマス・ハーディ、バックスにおけるイェーツなどと同じように、文学作品への傾倒ぶりも特徴。

(以上、CD解説を参照しました)

最近CDが少しばかり出るようになったけれど、気になるそのオペラはきっと費用がかかりすぎて、上演すら難しのではないかと・・・・・。

  1.劇的序曲「アモンティリャード」 Amontilliado

    2.オーケストラのための音詩第2番 「ヴァイキング」 The Viking

  3.「3匹の盲目のはつかねずみ」 Variations on English old air

    4.オーケストラのための音詩第3番 「ユーラリューム」 Ulalume

   ハワード・グリフィス指揮 ブランデンブルク州立管弦楽団フランクフルト
                     (2008.8 @フランクフルト)

これら4つの管弦楽曲のうち、アラン・ポーにまつわる作品が、1と4。

ミステリアスな復讐がテーマとなっている(らしい)心理的小説「アモンティリャードの酒樽」に基づく序曲は、軽快に始まりつつも、ホルブルックらしいオケを大いに鳴らしたダイナミックな曲調に転じる。

2の「ヴァイキング」は、アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローのバラード「The Skeleton in Armor」にインスパイアされた劇的かつ大きな作品で、アドヴェンチャー風の劇的サウンドは、R・シュトラウスやバックスが好きな人にはたまらない耳のご馳走。
北国の絶海と、そこに育った若者の冒険とひとりの女性との愛を描いている(みたい)。

3の「はつかねずみ」は、誰でも聴いたことがある英国の童謡。
大オーケストラによる変奏曲にしたてあげたホルブルック。
ここでも渾身のオーケストレーションで、実によく鳴ります。
ジャズとかにも使われてる楽しい童謡ですが、ホルブルックの手にかかると、後期ロマン派の雰囲気になります。

このアルバムで一番好きになったのが4の「ユーラリューム」。
エドガー・アラン・ポーの神秘的な詩に基づくもの。
ホルブルックが自然を愛する英国作曲家のひとりであることがよくわかる、もっとも英国風の作品。
幻想的で、濃厚なロマンティシズムに満ちてますが、わたしにはワーグナーやシュトラウスよりは、ディーリアスやバックス、バントックを思わせる幽玄なる音楽に思います。
10月の寂しい夜にひとり歩く湖畔、亡き人を思う忘失感と悲しみ、そして思い出・・・こんな詩の内容に、この音楽は少しばかり劇的にすぎますが、その分ロマンの香りが満載。
スコアがダウンロードできますので、それを見ながら何度も何度も聴き入ってます。

演奏は、聴きなれないドイツのオケだけれど、かなりうまいし、しっかりしてます。
がしかし、ロンドンのオケで聴いてみたい気もあります。
スイスでの活動が中心の英国指揮者グリフィスは、もっともっと他の自国作品を指揮して欲しいと思わせる素晴らしいものでした。

またひとり、わたしの嗜好にばっちりの英国作曲家を見つけてしまった。

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2012年3月25日 (日)

ワーグナー 「タンホイザー」「ローエングリン」「ワルキューレ」 FD夫妻&ザイフェルト

Tokyotower_1

東京タワーを下から見上げるの図。

桜祭りの飾りつき。

ガンバレ、東京タワー。

Tokyotower_2

今年の桜は遅れそうで、首都圏では、3月末に開花、満開は4月7日ぐらい。

ちょうど、桜の復活祭となりそう。

Wagner_fd_varady_seiffert_2

 ワーグナー 「タンホイザー」
            第2幕~前奏曲、この厳かな殿堂、二重唱

         「ローエングリン」
            第3幕~前奏曲、二重唱

         「ワルキューレ」
             第1幕 後半

   S:ユリア・ヴァラディ     T:ペーター・ザイフェルト

   Br&指揮 ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ

          バイエルン国立歌劇場管弦楽団
          バイエルン放送合唱団
                     (1996.3@ミュンヘン)


なんとも味わいのある顔ぶれによるこのワーグナーが録音されたのは、1996年。

偉大な万能歌手、フィッシャー・ディースカウ(FD)が歌い手を引退のが1992年。
現役時代から、指揮活動はしていて、バレンボイムとのシューマンや、チェコフィルとのベルリオーズやブラームスを録音していて、なかなかの正統派ぶりだった。
ここでは、ミュンヘンの馴染みのシュターツオーパーを指揮しつつ、ウォルフラムでチョイ役を歌ってます。

そのFDの奥さんが、ユリア・ヴァラディ
ルーマニア出身の、ちょっとエキゾテックなキツイ顔立ちの美人さん。
でもその歌声は、優しく、とても女性的。
旦那の心理的、入念な考察歌唱のご指導を受け、ただでさえ美しい歌唱に鬼に金棒的な歌唱力がついたものだから、完璧なソプラノ歌手でした。
何度か、ヴァラディの舞台には接してまして、小柄で可愛い風貌と、夢中の歌唱、そして女性的な所作は、ともかく好印象。
ひたむきな歌と演技に、すぐにファンになってしまいました。
最高だったのはジークリンデ!
両腕を抱えるようにして歌うヴァラディの歌い方は、演出以上に効果的だったです。

この録音時、姉さん女房のルチア・ポップに先立たれてしまったザイフェルト君。
まだ42歳の若いリリカルなテノール。
そして、このあたりから、ローエングリンやタンホイザー、ワルターを歌い始め、バイロイトでも活躍を始めた。
美しい純な声が魅力のザイフェルト。
声の少し甘い響かせ方は、亡き奥さんのポップゆずりで、誰にも好まれる親しみある声質もポップを思わせます。
そのザイフェルトが、いまやトリスタン歌手としてもへヴィーなロールを、清々しく聴かせることで希少なヘルデンになっています。
そして、いまの奥さんが、ソプラノのペトラ・マルリア・シュニッツァー。
ご夫婦でよく共演されてます。
わたしは、バイエルンの来日公演で、マイスタージンガーの若い恋人たちを観劇しました。
かなり恰幅よい、というか太くなってしまったザイフェルトでしたが・・・・

「夫婦唱和」・・・そんな親密な感じのワーグナーの名場面集。

FDの指揮は何もしなくてもワーグナーサウンドが、そして劇場の雰囲気が出ちゃうオーケストラがあってのものですが、なかなかに堂々たるもの。

ヴァラディの強い高音域でも、耳に優しく絶叫に絶対聴こえない大人の女性を感じさせる歌は、やはり素晴らしい。
旦那の指揮も奥様に配慮した無理のないものに感じてしまうのが微笑ましい。

そして、やはりザイフェルト君の無理のない、すっきり真っすぐボイスはいい。
クリアなその声は、魅力的で、ことさらに悲劇臭の少なめのジークムントが新鮮でございました。

少しばかり久しぶりのワーグナー。
そして、購入以来15年ぶりに聴いたこの1枚。
歌手の魅力も相まって楽しいひと時でした。

 過去記事

「ヴァラディ ワーグナー FD指揮」

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2012年3月24日 (土)

ディーリアス ピアノ協奏曲 カーロス

Shiba_2

満開の河津桜と東京タワー。

桜の香りは薄いですが、タワーと合わせるとむせかえるような春の色合いを感じます。

Shiba_3

芝も緑色になってきまして、季節はモノトーンの冬から、鮮やかな色合いの春へと、彩りを加えつつあります。

Delius_piano_concert

  ディーリアス ピアノ協奏曲

       Pf:ジャン・ルドルフ・カールス

    
サー・アレクサンダー・ギブソン指揮 ロンドン交響楽団
                        (1970 @ロンドン)


フレデリック・ディーリアス
(1862~1934)の中期、1897年35歳の作ながら、当初は3つの楽章にきれいに分割された正統派コンチェルトだった。

でも、そんな若さでも、父親の財力を背景に、アメリカ、ドイツ、北欧、パリと、父のいる英国以外で、実業や音楽を気ままに学び、取り入れ、そして楽しむことが出来たうらやましい環境にあったディーリアス。
いまある私たちの環境において、どんな境遇にあれ、ともあれ贅沢なお話なのであります。

が、そこは時代性もありますし、なによりも、ディーリアスの人の気持ちや、自然をナーヴァスなまでに感じとった繊細な音楽を聴いてしまうと、結果、恵まれた環境をうらやむのは二の次。
作者の心情の豊かさに、共感し、同時に、作り出されるその音詩に、おののくばかりの自分を見出すのでございます。

このディーリアスの音楽への出会いで、その世界に一度共感してしまうと、一生着かず離れずで、長い伴侶となるのでございます。

さて、このピアノ協奏曲のテイストは、北欧。

後年のたゆたうような、旋律線が曖昧さの中に埋没してしまうような茫洋たるディーリアス独特の世界ではなく、冒頭からメロディアスな旋律がはっきりと存在し、それがグリーグ風なのである。

でもそれがグリーグのように、民族風でもなく、旋律線豊かな華やかさもなく、技巧的でもない。
単一楽章に構成され直した中に、3つの楽章のムードが収められ、幻想的なくくりの中に正統的な協奏曲形式の枠をしっかり保っている。
それは夢想的であると同時に、シューマン&グリーグ路線であるところがおもしろい。

オーケストラは、同じ作者の「ブリッグの定期市」や「北国のスケッチ」などの響きがする。
それと、2楽章相当の後半で聴かれる、チェロ独奏の切なく甘い嘆息には夜聴くと涙を禁じえないものがあります。
ピアノもオーケストラの一部と化してしまったようなディーリアス独自のファンタジー。
ソロが、こんなにも突出しない協奏曲って、あんまりないのでは。

ラストが、少しばかり、映画音楽的に感じるのはご愛敬。

インドの血の流れる、ルドルフ・カーロスはメシアンやドビュッシーのスペシャリストだった。
詩的で繊細なピアノは、自己主張も抑えめで、その控え目で均整の取れた音色はディーリアスのこの曲にぴったりと符合します。
ギブソンとLSOのすっきりとしたオーケストラも素敵なものです。

レコード時代は気になりつつも買わなかったこの音源を、CDで入手してから、もう20年以上が経ちます。
レーンとハンドレーのEMI盤も素晴らしいものでした。
いずれも、20年前の自分を思い起こすことのできるロマンとノスタルジーのコンチェルトにございます。

過去記事

 「レーン&ハンドレーのディーリアス」

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2012年3月23日 (金)

ベートーヴェン ディアベリ変奏曲 ポリーニ

Odaiba_kawazusakura1

淡い初春の空に映える濃いピンクの河津桜。

開花が梅の時期と重なるものだから、関東ではこの時期各所で満開です。

香りは梅にははるかに負けてしまいますが、この桃色は、梅と桃の花の中間のチェリーって感じで、果実色なんですな。

今日は冷たい雨が降りましたが、こうして画像を見てると、のほほ~ん、としてしまいますよ。

Odaiba_kawazusakura2

少し西日を浴びると、こんな風に怪しくも美しいのです。

春が待ち遠しくなる、そんな河津桜でした。

Beethoven_33_vernderungen_ber_einen

    ベートーヴェン ディアベリ変奏曲

        Pf:マウリツィオ・ポリーニ

作品番号120のベートーヴェン晩年の傑作。

1822年、第9の草稿を練っていた頃で、歓喜の歌もこの年に生れている。

ベートーヴェンの後期様式を代表する充実作品で、齢52にして、かかる濃密ぶりに、いまあるワタクシなんぞ、「ヘ」みたいなもんです。

どこにも書かれてますが、出版家兼作曲家のアントニオ・ディアベリが作ったワルツを元にする、主題と33の変奏曲。
ディアベリさん、多分財力があったのでしょうか、そして出版元という強みもあって、50人の作曲家に、稚拙な自ら作ったワルツを主題とする変奏作品を委嘱し、その中には、シューベルトやリスト、フンメル、ツェルニーも有名どころでは含まれ、その作品が残されてます。
そして、わが偏屈なるベートーヴェンも、頼まれたものの、少し小バカにしてすぐには応ぜず、しばらくして俄然と取り組み、いまある50分あまりの大変奏曲を造り上げた。
素直じゃない嫌味な独身オヤジだけれど、ひとたび作曲に没頭すると、とんでもないスゴい作品を仕立て上げてしまう。

シンプルなわかりやすくも明快な主題。
自身が小馬鹿にしたかもしれないこの主題を、ベートーヴェンは極めて独創的なバリエーション豊かな、楽想が途切れることのない、そしていつしか主題、すなわちメインテーマさえ忘れさせてしまう別次元・高濃度の高みにある大音楽としてしまった。

バッハのゴールドベルクを意識していたともされるが、難曲の度合いからすれば、こちらの方がはるかに高いかもしれない。
繰り返し書くが、主題の姿がどんどん失われてゆき、別世界が次々に開かれてゆくからだ。
モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の序曲が終わってすぐあと、ドンジョヴァンニとレポルトの主従ご一行の出だしの音楽が鳴るとことも面白いが、これなどは典型で、主題にまったく関係ない。

最後のほう、29変奏あたりからは、まるでバッハのような均整の取れた峻厳なプロポーションの音楽が聴かれるし、それが徐々に、ベートーヴェンの澄み切った、そしてシンプルな後期様式へと収斂してゆくさまが、この長大な変奏曲の最大の聴きどころであります。

難易度の高い変奏曲を次々に弾きまくらなくてはならないのに、最後の方で、この境地を描き切ることの難しさ。
作者と同年代となった、わたくしクラヲタ人ではありますが、まだまだこんな境地に至ることはできませんです。

兄貴ポリーニは、聴いてると、まるでグールドのバッハかと見まがうような弾き振りで、そっくりの没頭感あるうなり声も聴かれます。
歯切れの良さは、若きポリーニそのままに、指先にベートーヴェン様式が乗り移ったかのような、透明感と明確さあふれる、とんでもなく素晴らしい演奏に思います。

最後の変奏で、ようやく冒頭のディアベリさんの主題が、シンプルに奏でられ、聴き手は、大旅行から自宅に帰ってきたかのような安らぎと、旅の満足感を得ることとなるんです。

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2012年3月22日 (木)

シューベルト 交響曲第8番「未完成」 シノーポリ指揮

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鮮やかな五色の布を縫い合わせ、そこには、参拝者の願いが書かれてまして、その先は、お薬師さまの右手薬指に結ばれているのだそうでございます。

ふむ、この霊験あらたかな場所は、千葉市緑区にある真言宗東光院にてござります。

Tokoin_2

西日を浴びて、さらに伸びるこの絆の綱。

真言宗にいうところの五色(ごしき)。

鮮やかに感じますが、仏教におけるところの「五」~地・水・火・風・空のことなり。

いと深き、そして未熟なるわたくしには、わからぬことばかりなり。

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シューベルト 交響曲第8番「未完成」。

わたしにとっては、「未完成」は永遠に交響曲第8番ロ短調。

研究がどう進もうと、考証がどうあろうとずっと第8番。

子供のときからずっと聴いてきた名作だけれども、大人になって、そして半世紀以上生きてきて、人生のこの先も感じてしまうようになってからの「未完成」は、単に美しくロマン的な歌に溢れた音楽とばかりに捉えることが出来なくなってきている。

単に耳に心地よく夢見心地の音楽じゃぁない。

それを実は強く意識したのは、レコード時代は若いがゆえに感じなかったミュンシュ&ボストン盤のCD復刻盤を聴いてから。
その後、CDとして買い直したカルロス・クライバー盤のそっけないばかりにロマンから突き放されてしまった1枚、アバドの室内楽的・繊細な全集のなかの1枚。

そして、なによりも、シューベルトの音楽=「死」の影・・・のイメージを強烈に感じさせてくれた、シュナイト&神奈川フィル。
この日の演奏会は、我がコンサート人生の中でも白眉のひとつで、この「未完成」と、R・シュトラウスの「最後の4つの歌」と「死と変容」というプログラム。
コンサートのモティーフは、晩年と、その後の死。。。だった。

こんな「未完成」のあり方を最近は、強く意識するようになった。

その一環、もしかしたら、シノーポリが指揮活動初期の頃にフィルハーモニア管と録音したものもそうかもしれない。

全曲で約30分。

ドレスデンとの再録は未聴ながら、こんなに演奏時間は長くないはず。

シノーポリの常で、テンポを落としても重くならない。
それどころか軽やかでさえあるが、その歌いまわしは入念で、偏執的。
わたしには、マーラーが見据えたようなシューベルトに感じましたが如何に。

テンポは遅く、歌い回しはルバートも多用し入念なれど、それぞれのパートが思いきり歌っているので、重々しくならない。
宿命的なものを感じる1楽章に、ゆったりとした中にも明るい地中海的な明快さをただよさせる2楽章。

ラテン的な気質の指揮者が思い描いたシューベルトの死のイメージを感じました。

シノーポリのマーラーもそんな風に思ってます。

シノーポリが、まだ存命だったら、音楽界はまた全然違っていたでしょう。

ジュリーニ亡く、アバドやムーティ、シャイーもイタリアに近いようでどこか本国では遠い。

シノーポリは、イタリア人として、オールマイティにヴェルディとプッチーニ、ワーグナー、そしてブルックナーとマーラーを完璧に聴かせてくれる大指揮者となっていたことでしょう・・・・。

彼の人生もまた「未完成」なり・・・・・・。

この記事を補筆しながら見た甲子園。

石巻の高校の戦いぶりに、ほろ酔いのワタクシは涙を禁じえませんでした。
ううっ・・・

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2012年3月21日 (水)

マーラー ピアノ四重奏曲・断章 カニーノ

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サヨリの握りです。

いかにも春っぽい、さっぱりと清冽な味わいでございました。

Mahler_liszt

マーラー ピアノ四重奏曲 断章 イ短調

    P:ブルーノ・カニーノ    Vn:サシコ・ガブリロフ

    Vla:セルジュ・コロー    Vc:ワルター・ノータス

                      (1993.8 @草津)


1876年、マーラー16歳、学生時代に書かれた文字通りの若書き作品で、この章のみ完成され、ほかの楽章については不明。

イ短調に相応しく、ほの暗く、ロマンティックな曲調で、完全に正統ドイツロマン派の延長線上にある音楽。
シューマンからブラームスの流れに正しく乗っていて、そこに哀愁調も漂わすものだから、これも若きラフマニノフみたいに思える部分もあり。

この年、ブラームスは、苦心の交響曲第1番を完成させ、ブルックナーは交響曲第5番を作曲中。
そして、なによりも1876年といえば、ワーグナーが「ニーベルンクの指環」の初演にこぎつけた年。
こんな先輩たちの活動を耳にしながら、若きマーラーは、旋律的で、ロマンあふれる音楽を書いていた。
若いときから、才気にあふれていたマーラーが、出自や複雑な内面を意識しはじめ、いまわれわれの心に強烈に訴えかけ続ける幾多の交響曲を書くようになるのは、さほど先のとではない。

10分たらずのこの断章の終わりの方にあるヴァイオリンのソロカデンツァに、後年のマーラーの陰りに満ちた横顔を見る想いがする。
それは、新ウィーン楽派の世界にも薄壁1枚と感じた。

草津夏季国際アカデミーフェスティバルにおける当録音。
名手たちが、想いを込めて演奏してます。
いい雰囲気。

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2012年3月20日 (火)

シュレーカー 「宝さがし」 アルブレヒト指揮

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東京タワーの前に、雪。

冬の写真を遅ればせながら。

スカイツリーが出来上がったけれど、やっぱり、こちらの方が好きだな。

Schreker_der_schatzgraber

フランツ・シュレーカー オペラ「宝さがし」

「宝捜し」・・・・、というよりは、トレジャーハンターというような意味合いの方がいいかも。

女王の失われた宝石を探す男の物語、おとぎ話的でもあり、刹那的な男女の出会いと別れでもあります。

シュレーカー(1878~1934)はユダヤ系オーストリアの作曲家。
自らリブレットを創作し、台本も書き、作曲するという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能で、10作(うち1つは未完)のオペラを残している。
指揮者としても、シェーンベルクのグレの歌を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、世紀末を生きた実力家。
シュレーカーのことは、弊ブログの大事な作曲家のひとりになっていますので、過去記事をご参照ください。
ドイツオペラ界を席巻する人気を誇ったものの、ナチス政権によって、ベルリンの要職を失い、失意とともに、脳梗塞を起こしてしまい56歳で亡くなってしまう。

その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。

マーラーの大ブレイクの影に、同時代人としてまだまだこのうような作曲家がたくさんいます。
しかし、いずれも交響曲作家でなく、劇音楽を中心としていたところがいまだ一般的な人気を勝ちえないところだろうか。
そして、今後も、このままメジャーになれず、かといって以前のようには埋もれないまでのチョイ地味作曲家たちで推移してゆくと思われます。
それでいいのだと思います。

  エリス:ヨーゼフ・プロチュカ  エルス:ガブリエレ・シュナウト
  王  :ハラルト・シュタム    道化:ペーター・ハーゲ
  巡査:ハンス・ヘルム       アルビ:ヘインツ・クルーゼ
  宿屋の主人(エルスの父) :カール・シュルツ
  市長、作家:ペーター・ガラード 執事、ヘラルト:ウルバン・マルンベルク
  地主:フランツ・フェルディナント・ネンドヴィヒ  ほか

   ゲルト・アルブレヒト指揮 ハンブルク国立劇場フィルハーモニック
                   ハンブルク国立歌劇場合唱団
               (1989.5、6 @ハンブルク国立歌劇場ライブ)


ときは中世ドイツ。

プロローグ

 王様が、道化を呼んで特命ミッションを授けている。(リブレットでは、独語がNaar、英語訳がFool、となっていて「馬鹿」じゃあんまりだから、道化ということで)
王妃が実は病気で非常に弱っている。
それというのも、大事な不老と美をもたらす魔法の宝石を失ったからとのこと。
手を尽くして探したが見つからない。
そこで、道化は、この国を行脚するトテジャー・ハンターがいると提案。
彼の名はエリスといって、吟遊詩人で、リュートを抱えていて、その楽器が宝物を見出すという。
さっそく、その男を連れて参れという王様に、晴れて宝石が見つかれば、わたくしめにも、可愛い妻を娶らせてくださいと約束を求める道化なのでした。

第1幕

 結婚式を控えた宿屋の娘エルスと、若い地主が森を行くが、エルスは残忍なこの地主のことが嫌いでならない。しかし金持ちのこの男は、エルスに結婚の証しに、装飾品を授ける。(ところがこれが、王妃の失われた宝石から出来ていた・・・・)
いやでいやでしょうがない彼女は、古くからの彼女の雇い人アルビを呼んで、地主を殺して欲しいと依頼する。

 宿屋にて、エルスの父が金持ちとの結婚に喜んでいるが、そこに市長や巡査、作家や名士などがやってきて、祝杯で飲み始める。
巡査はエルスに未練たらたら。
そこへ、吟遊詩人エリスがやってくる。彼はバラードを歌い、森で見つけた宝石をエルスにプレゼントする。地主が殺されたはずの森の近くで見出したもののようなので、驚くエルスだが、エリスに一目惚れしてしまい夢中に・・・・。

 そして、森で死体があがったとの報に騒然となり、巡査はこの怪しい吟遊詩人の身柄を拘束する。

第2幕

 街で悄然とすりエルス。そこに道化が現れ、道化は彼女のことが気に入り、いまリュートを担いだ青い目の吟遊詩人を探しているというと、それはエリスのことで、いま捕まってしまい、絞首刑になりそうとの告白を受ける。
よし、ではなんとかしようと約束する道化。

 いよいよ、刑場に連行されるエリス。
エルスを見つけ、束の間の愛情を交わし合うふたり。ここでもバラードを歌うエリス。
ことを急ぐ巡査に、国王の使いが急きょあらわれ、処刑の中止を命じる。
この男には王の重大ミッションがあるから、即刻、宝探しに出立せよ!
エリスの探すものが、自分が持つあの宝石とわかり苦悩するエルス。
夜の逢瀬を約束して別れる。
 しかし、エルスは求める宝石が自分のところから見つかっては大変と、アルビに、エリスに危害を加えない約束で、リュートを盗み出すことを命じる。

第3幕

 夕刻、エルスは優しかった亡母の子守歌を回顧して歌う。
そのエルスのバルコニーにあらわれるエリスだが、リュートを奪われ傷心。
王への約束が果たせず、お咎めを請うのだ。
しかし、エルスは自ら王妃の宝石をさし出し、その出自は問わないということで、彼に託す。
そして、二人は、長い長い、そして超甘味なるキラキラした二重唱を歌い、さらに同類のオケによる間奏曲もまじえて、聴き手を官能の境地に遊ばせてくれるのであります。

第4幕

 お城は、宝石が戻り、王妃が元気になったということで、大パーティが催され、誰もが浮かれている。エルスだけが元気がない。
エリスもヒーロー扱いだが、意地悪な宰相は、どのようにしてリュートなしでお宝を探し当てたのだ?と質問するが、エリスは、美しいバラードを歌って答える。
古き昔、王妃様がお持ちになる前、転々とした持ち主のおひとりから・・・・と。
 しかし、巡査が、殺人実行犯アルビを逮捕し、そしてそれを教唆した女性がいると、申し立てる。
 そこへ現れた道化は、王様に、あのときの約束、そう妻を娶ることの承認を求め、その女性はエルスと指さして、彼女を救うことに・・・・・。

エピローグ

 数年のち
道化の求めに応じ、エリスは彼らの住む場所にやってくる。
エルスがずっと長らく病気に伏せっていてもう長くないと。
意識も薄く、茫然とするエルスを抱きつつ、長いバラードでもって彼女を慰め、死出のはなむけとする。
ほら見えるだろう・・・、エリスとエルス、そして子供たちが、彼ら恋人たちの宝を・・・と。
エルスは彼の腕の中で息を引き取り、道化が祈りを唱えるなか、音楽はクレッシェンドしてゆき、劇的に幕を閉じる。

                  幕

微妙だけれど、よく書けてる原作。
完成9作のオペラの5作目のこちらは、1920年にフランクフルトで初演。
大成功となり、ドイツ各地で4年間で350回以上も上演されたという。

これが成功の頂点で、その人気は少しずつ衰えてゆく、1930年代に入ると、ヒトラーの登場で、上演も制限・妨害されるなどして、徐々に輝きを失ってゆくシュレーカー。

ここまでの5作を聴いてきて、前にも書いたシュレーカーの特徴とお決まりのパターンが、ここでも踏襲されているのを感じる。

人間の欲望の尽きることのない性(さが)とそれへの肯定感

これをヒロインの女声に担わせている。
痛い女性・・・、といっては、世の女性陣に怒られましょうが、その彼女たちを愛情をもって、そして救済の暖かな目線でもって描いております。
わかっちゃいるけど陥ってしまう。
そんな彼女たちの歌う、没頭的な歌は、あまりに美しく哀しみに満ちてます。

対する男も、エキセントリックボーイでして、これもまたイタイ。
ドラマテッィク・ソプラノに対して、没頭的なヘルデンの要素を求められるテノール。
彼ら二人による濃厚でリキュールたっぷりのチョコレートケーキのような甘味極まりない二重唱は、あきらかに「トリスタン」的世界。
3幕のエルスの子守歌から、エリス登場後の濃密なる場面は、身も心もとろけてしまいそう。
もうたまりませぬ・・・・・・。

あと、音楽面での特徴のひとつは、底抜けな乱痴気シーンが必ずあること。
これまでのオペラにも必ずありました。
「宝さがし」では、4幕の王宮の場面。笑い声までも、世紀末してるし。

それと、物語の前段の説明や重要な場面が、複数人物で、語りともとれるシュプレヒシュティンメ的に早口で進行するので、展開があれよあれよというまに進行してしまう。
対訳がないと難渋このうえない。
そして、それらの快速シーンと対比して、先の濃厚ラブシーンなどは時間が止まったように陶酔の限りを尽くすので、その間のギャップが大きい。

こうした落差も、シュレーカーの音楽をイマイチと捉えてしまう要因なのかもしれない。

でも、何作も聴き、そして「宝さがし」も、ここ数年、ことあるごとに聴いて慣らしてきただけに、酔える3幕をピークに、シュレーカーの音楽の素晴らしさを身をもって体感できるようになってきました。

このCDは、ハンブルクで行われた歴史的な蘇演のライブでして、指揮者G・アルブレヒトあっての緯業であります。
アルブレヒトのシュレーカーのオペラは3つ、ツェムリンスキーも3か4つはあります。
ドライでそっけないときもあるアルブレヒトの指揮は、オペラを聴きやすくまとめ上げる能力にかけては抜群で、ワーグナーでも何度もそんな体験をしたことがあります。
ベタベタになりすぎない、スリムポーションの表現主義音楽の演奏にかけては、K・ナガノと双璧に思います。

エリスのプロチュカが素晴らしいと思った。
リート歌いのこのテノールは、ドラマティックな歌唱はその信条ではないと思うけれど、ここではそんなイメージをかなぐり捨てた熱唱。
日本びいきで、日本にも住んでいたんじゃなかったかな・・・?

ワーグナーでお馴染みのシュナウトは、同じアルブレヒトの指揮する「遥かな響き」でもヒロインをつとめていたが、ここでは、わたしはちょっとキツかった。
なにがって、このエルスは結構、アーとかエーとか叫ぶんです。
それがあまりに、キンキンで、耳が辛い。
そして、ちょっと声がフラットぎみ。
いや力強さはあるけれど、もう少しナイーブさというか、憎めないカワユサといいますか、そんな危ない女性であって欲しかったけれど、おっかさん風なんだな・・・。
でも立派な歌唱です。

ミーメ歌手のP・ハーゲが、とんでもなくいいです。
狂言回しの存在感ばっちり。

ハンブルクのチームは、日本に何度か来てますのでお馴染みの声ばかりで、安定感あります。

そんなわけで、シュレーカーの「宝さがし」でした。

音源で手に入るあと3作、徐々に紹介してまいります。

この「宝さがし」、後年、シュレーカーの手でオーケストラの組曲が作られ、メンゲルベルクとコンセルトヘボウによって初演されてます。
想像するだけで、痺れそう・・・。


シューレーカーのオペラ(記事ありはリンクあります)

 「Flammen」 炎  1901年

 「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年

 「Das Spielwerk und Prinzessin」 音楽箱と王女 1913年
 
 「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年

 「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920年

 「Irrelohe」   狂える焔   1924年

 「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 
  1924年

 「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年

  「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年

 「Memnon」メムノン~未完   1933年

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2012年3月17日 (土)

ホルスト 「惑星」 エルダー指揮

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東京の夜景は、林立するビルとともに、夕暮れの空がとても合います。

子供の頃、ニューヨークの高層ビル群の夜景の下敷きを親父からもらって、それはもう、美しくて、憧れでもありで、アメリカの最先端文明への羨望を感じた。

日本には、霞が関ビルしか高層はなかったので。

いまや、日本では、各地でにょきにょき。

マンションも高層で、その高層ビルに人が居住する時代。

そして、アメリカの象徴のような高層ビルは、日本ばかりでなく、いまや本数では中国が一番多いのでは・・・・・。

文化・文明・経済が地球を一巡し、各地に行きあたりつつあるいまの地球は、これからどこへ行くのか。

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少し前の写真で、いま話題の、木星・金星の接近は見れません。

いずれにしても、カッコイイ都会の夕暮れ画像です。

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ホルスト 組曲「惑星」

スペキュトラーな音楽だけど、わたしには、れっきとしたイギリス音楽です。

今日聴く「惑星」は、「冥王星」追加バージョン。

ホルストが作曲完成時の1916年、まだ発見もされてなかった「冥王星」が1930年に発見され、まだ存命だった作曲者は、同じ頃、その晩年に組曲「惑星」の第8曲として作曲に取り掛かりながらも未完で終わったもの。

そうしたオリジナルの試作バージョンとは別に、ホルスト研究家で作曲家のコリン・マシューズが、「海王星」につながるバージョンとして、「冥王星」を作曲し、2000年代前半、いくつかのレコーディングもなされた。

その一環が、このCDで、マーク・エルダー指揮のハルレ管弦楽団のもの。

ところが、2006年国際天文学会にて、惑星の地位をはく奪されて、準惑星に降格された「冥王星」。
寂しい結末となりました。
以来、ホルストの「惑星」は、元来の姿に戻りましたとさ・・・・。

マシューズの「冥王星」は、静かな「海王星」の終結につなげて、ミステリアスな開始とともにありながら、全編、暴力的な迫力サウンド。
サブタイトルは、「The Renewer」
新たなる者・・・と訳すべきでしょうか。
J・ウィリアムズも真っ青の宇宙的でかつバーバリステックな映画的な音楽になってまして、これのみいけば悪くない。
でも、ホルストの「惑星」の7つの独創的な組曲の後に、連続して聴くには居心地悪い曲。

冥王星が消えてよかった、と思わせる補追版なのでした。

そして、それにしてもよく書けてるホルストの「惑星」。

5拍子の戦闘的な「火星」。5拍子は、春祭やダフニスでも争いと勢いあるムードをかもし出すもの。
夢見心地で、夕暮れの光景を思わせる「金星」は一番星。
元気で快活な「水星」は親しみ深い。
そして、かのジュピターの「木星」。メロディアスなあの中間部は、やはりオリジナルが一番。あの歌や編曲ものは、クラヲタにはあまりに酷な音楽になっちまいした。
「土星」・・・重いっす。でもここで聴く英国ならではの重厚さは、英国帝国の終末、すなわちエルガー以来の母国の没落への思いが老人言葉で語られようです。
味わい深い。
一転魔術師の「天王星」は、諧謔と遊び心あふれる音楽。
しかして、最終「海王星」は神秘主義者のタイトルならではのミステリアスぶり。

やっぱり、これでいい。

いま英国音楽をしょってたつ存在となりつつある、マーク・エルダー。
エルダーは82年代のバイロイトのマイスタージンガーの指揮をしたこともあるオペラ指揮者。
聴かせ上手じゃないけれけれど、丹念に英国音楽の延長としての「惑星」をしっかりと聴かせる演奏です。
この「惑星」を聴いて火星や木星、天王星のダイナミックで派手な雰囲気を期待したら大間違い。
むしろ、それ以外の曲を味わい深く聴かせるエルダーとハルレ管です。

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2012年3月16日 (金)

公園のにゃんにゃん

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夕方の某公園で見つけた「ねこ」。

街路灯の基礎コンクリートの上にうまいこと乗ってます。

「おいcat

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こっち見ました。

完全にこっちの声聴いてます。

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このミケは、ところが驚いたことに、わたくしの前を通過して、公園通路反対側にある、この岩に登り、なにやら嬉しそうにしているんですよ。

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そのあとミケは、何事もなかったように、定位置の街灯基礎に戻り、今度は後ろからまっ黒がおもむろに登場。

でも、この黒いヤツは、素通りして以降いなくなっちゃった。

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変わりに、この短足クンが、なにげに登場。

味あるこのコも、実は素通り。

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そして、岩の周りでは、こんな風にいつのまにか、さっきまでいなかったニャンコたちが集まっているのでした。

それは宗教儀式を待つかのような雰囲気。

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はてさて、岩の上では、このように、猫たちが不可思議なポーズ。

暗くなっちゃったので、わたくしも画像を、そしてにゃんこたちを気にして、こんな暗い感じしか撮れませんですいません。

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順番です。

岩詣で。

「あ~、気持ちよかった」

「うひょ~、こりゃたまんねぇぜ!」 すりすり。

「お、おーーいっ。早くしろよっっ~」


ははははっ!

にゃんこを惑わす、この常習性ある怪しい岩には、なんと、「またたび」がこすりつけられているのでした。

ねこたちを、束の間観察する間に現れたご婦人。

おばちゃんが、何故かそれ風に付けられたネコの名前を呼ぶと、なついて各所から出てくる。
そのご婦人が、この岩に、「ナニ」をスリスリしてたのです。

「またたび」ですよ。

ねこ系が好む臭気を発するとされる植物。

私は、ねこ好きだけど、その「またたび」の匂いは感知できません。

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以前、岩手県のスーパーで、なにげに売ってた「またたび」

制作者のお名前も・・・・・・タマちゃん。

Matatabi2

わたくしは、これを買って帰り、焼酎に漬けて、「またたび酒」としました。

かなり、ウマいです。

すっきりとしながら、ほのかな甘みと木の香り。

いまも5年目を迎え醸造中。

もっと濃い口の色になってきましたよ。

布にこれを湿らせて、世間の猫たちを・・・・ふっふっふ。

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2012年3月15日 (木)

お手軽サンプラーCD

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ようやく満開に近くなった梅の花。

それでも寒くて、日差しは温もりありますが、風が冷たいですな。

今週は、卒業式が各校で行われてまして、別れと巣立ちの季節を迎えてます。

卒業で一番心に残っているのって、皆さんいつですか?

私は、そうだな? 中学でしょうか。

高校・大学は、育った場所以外だったからかも。

その中学時代に聴いた音源が、実は今も新鮮に心に残っていたりするんです。

Philips

中学生時代は、レコード全盛期で、CDやデジタルなんて、これっぽっちもない世の中。

アーティストはレーベルごとに契約で明確に区切られていて、当時現役指揮者でいうと、DGにはカラヤン、ベーム、アバド。
EMIは、カラヤン、クレンペラー、プレヴィン、小澤。
ロンドンは、ショルティ、メータ、マゼール、マリナー。
CBSは、バーンスタイン、ブーレーズ、セル。
RCAは、オーマンディ。ソ連専門の新世界レーベルもありました。

何度も書きますが、1000円の廉価盤の登場は革命的でした。
そして、曲のさわりだけを、集めたサンプラー・レコードも、音楽に飢えていた中学生のワタクシには、その渇きを癒し、それ以上に、その先を求めたくなる願望・欲望を植えつけるイケナイ危険なレコードだったのです。

多分、わたしのような世代だったらきっとお持ちだった、CBSソニーのベストクラシックスのシリーズで、50枚のレコードの聴きどころを、A面25曲・B面25曲に収めたもの。
それが時期を置いて2枚出て、100枚のLPを2枚のレコードではしょって聴くというスグレモノ。
1曲60秒ぐらいだったかしら?

ナンバーワン・・・というアナウンスのあとの一発目は、バーンスタインの指揮する「運命」。
マーラーやブルックナーの作品も、実は、このレコードのちょい聴きが初聴き。
バーンスタインのマーラー第9に巨人、ワルターの復活にロマンティックにブル9。
それと、このサワリで、曲を覚え、次々に開拓してゆく指票にもなった。
故荻昌弘さんだったか、ここに収められたセルのエロイカの冒頭に震えたとの紹介文を書かれていたと思う。
万博の年に来日したセル&クリーヴランドのエロイカを思っての名言でした。

500円で手に入れられた、当時の夢でございます。

CD時代にも、同様の企画があって、ショップでそこそこCDを買うとくれたりしたものもありまして、わたしも数枚持ってますが、その出自は不明。

フィリップスのグロリアシリーズは、レコード時代もお世話になったもの。
CDでは、アナログ最後の頃までの音源を包括していて、120枚分、各曲70秒を収録してます。
ともかくいずれも録音が素晴らしい。
そして、もっともっと聴きたい気持ちになる。
けれども、曲は無情にも、人をその気にさせといて、次々に入れ替わり立ち替わり人を魅惑する。
ずるいよ。
ハイティンクとロンドンフィルのベートーヴェン、モーツァルト。ブレンデルのシューベルト、ブラームス。
シュタルケルのバッハ、デイヴィスのベートーヴェンにベルリオーズ、アメリンクのシューベルト、マリナーのハイドンなどなど、1分に燃えます。

London

こちらはロンドンのサンプラーCD。

忙しかったフィリップス盤と比べ、30CDのダイジェスト。

アンセルメ、モントゥー、マルティノン、ケルテス、マゼール、メータ・・・・

往時のデッカ=ロンドンのアーティストたちが満載で、こちらも懐かしの桃源郷にしばし浸ることができます。

忙しいときに、お手軽だなんて、こうしたサンプル盤を聴くと、後引くこと間違いなく、欲求不満に陥りモヤモヤ状態になることうけあい。

レコ芸の付録も近時はあるけれど、レーベルまるごと楽しめちゃう古めのサンプル盤の魅力は捨てがたいのでした。
ほな、さいなら~。


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2012年3月14日 (水)

バッハ 「わが罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ」 リリング指揮

Katedoral_lourdes_1

こちらの聖母マリアは、東京カテドラルに佇んでらっしゃいました。

ルルドの洞窟を模して同じ規模のものを明治44年に造られたものこと。

Katedoral_lourdes_2

ルルドはスペイン国境に近いフランス・ピレネーの街で、聖母マリアが現出した場所とされ、そこから沸く泉が、治癒の奇跡を起こすとされて、多くの信者が巡礼するところです。

東京のこちらも静謐で、思わず手を合わせたくなる雰囲気に溢れておりました。

クラシック音楽好きとしては、東京カテドラルは朝比奈隆のブルックナーをはじめとする幾多のコンサートを思い起こすことができます。

そして、教会で聴く、バッハは格別のものがあります。

Bach_bvw1083

バッハ 「わが罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ」BWV1083

ペルゴレージの名作「スターバト・マーテル(悲しみの聖母)」をそのままに編曲したバッハテイストの作品です。

先のルルドも、スターバト・マーテルの聖句も、いずれもカトリックです。

しかして、バッハは峻厳なプロテスタント。

「わが罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ」は、音楽はペルゴレージのそのものに、パートを追加加筆し、調性も変え、リズムや抑揚にも変化を持たせ改編しております。
 そして、一番大きいのは、ラテン語のカトリック聖歌である原詩を、そっくり詩篇51番に置き換えたこと。

これで、カトリック臭が消え去り、バッハの信条に近づいたわけだ。

26歳の早世だったペルゴレージの最後の傑作「スターバト・マーテル」を、バッハもその晩年に、こうしてドイツ化(?)したことの意図は不明なれど、天性の明るく抒情的なペルゴレージのメロディアスな音楽に、南国への憧れを抱いたに違いない。
ヴィヴァルディ作品の一連の編曲の延長線にあるものと思っていいかもしれない。
 でも、原曲がカトリックに基づくものゆえ、バッハとしても、ミサ曲カテゴリー以上の苦心の作ではなかったろうか。

それはさておき、ペルゴレージ作品を知るものにとっては、まんまペルゴレージ。
よく聴けば、ドイツ語の子音を感じることができるものの、違和感はまったくなく、バッハよりもペルゴレージを強く意識させるように思えるのは、アバド指揮による同曲を耳タコ状態に聴きこんでいるからゆえかもしれません。
バッハに似合わぬ流麗さと、短調なのに明るい歌心です。
イエスの十字架上の死を悼み嘆くマリアをうたった原詩なのに、ナポリ派のペルゴレージは、膝の上にある磔刑に死した我が子を嘆くマリアを明るめの色調で美しく描いた。
そしてその詩は、キリストの母の苦しみを分かち合おうする、少しばかり官能をおびたもの。

でも、バッハの選んだ詩篇51は、ダビデ王の罪の告白の神への信条吐露。

自分をいたぶるまでの罪の意識と、かたや悲しみの聖母への同一化。
痛みとしても、かなり違います。

このあたりの厳しさの違いが、音楽には正直出ていないような気がする、バッハ編のスターバト・マーテル、いや、「罪を拭い去って下さい」なのでした。

それでも、この音楽は素晴らしくて、バッハにない伸びやかさを充分に味わえますとともに、ちょっと異質なバッハの教会音楽としての存在も味わえるのでした。

    S:クリスティアーネ・オルツェ  Ms:ビルギット・レンメルト

    ヘルムート・リリング指揮シュットットガルト・バッハ・コレギウム
  
                           (2000.6)


リリングの明るくて伸びやかなバッハ。

ここでも素晴らしいです。

アバドとの共演でお馴染みだったオルツェ、バイロイトのメゾの歌姫レンメルト

ふたりの女声も素敵なバッハでした。

これを書いてる間に、千葉東方沖を震源とする大きな地震がありました。
今日は、三八沖でも揺れ、遠く桜島では大噴火。
地球の外を見ると、木星と金星が近づいて明るく輝く。

日々、警戒と注意が肝要なのです。

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2012年3月12日 (月)

 「シャコンヌ」

Tsuruoka_church_maria1 

再褐かもしれませんが、われながらいいシテュエーションで撮れたマリア像。

カトリック系の教会や、教会の附属幼稚園には、聖母マリア像がこうして佇んでます。

マリア像を掲げたのは、今日の音楽、佐村河内守の映像や写真に、その姿があったから。

 東日本大震災から1年。

被災された皆様にあらためまして、お見舞い申し上げます。

1年経って被災地から遠い場所にいるわたくしは、日常の些事に忙殺されて、震災後・原発事故後の想いをだんだん風化させつつあったかもしれない。

いま遠藤周作の「女の一生」(第1部)という本を読んでます。
幕末・明治の長崎を舞台にした物語で、厳しい弾圧にあった切支丹とその若い信者を慕うひとりの女性。キリスト者ではない彼女が、愛する彼の無事をマリア像にむかって語りかけ、時には涙ながらに怒ったりする。
でもマリアは、いつも悲しそうに、そして優しそうに微笑むばかり。
「沈黙」と同じく、手を差し伸べてこない神の存在・不存在もテーマのひとつ。

無情にも起こる不合理や悲劇。
現実にそこに陥ってしまった人々を思えば、わたしなんぞ、まだまだ生ぬるい。
それぞれ思う神様に手を合わせあらん限り祈る方々もいらっしゃるでしょう。
「祈り」は、人の心に希望を灯すのです。

そして、音楽も人に望みや明日への希望をもたらすもののひとつ。

聴力を失い、耳鳴りや発作に見舞われる壮絶な日々にある佐村河内守氏は、言います。

「人は闇に落ちてはじめて、小さな光に気づく」と。

闇に満ちた生を送っている氏は、その闇に潜む真実を見出すことが出来るとあります。
ですから、そこに音楽を吹き込むことができるのです。

震災後聴いた、あの迫真に迫った運命的かつ光にあふれた大シンフォニーに氏の強いメッセージを確認することができました。

次の作品を求める気持ちは強いものの、何故かもうこれ以上、こんな強い音楽は受け止められない、という感情もありました。

そして、発売以来、何度も何度も繰り返し聴いてきた佐村河内守の新作CD。

Samurakouchi_chaconne

  佐村河内 守  無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ

            ヴァイオリンのためのソナチネ

            弦楽四重奏曲 第1番

            弦楽四重奏曲  第2番

             Vn:大谷 康子

             Pf: 藤井 一興

             大谷康子弦楽四重奏団

                  (2011.9 武蔵村山市民会館)


「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」は、東京交響楽団のコンサートミストレス谷康子さんの依嘱により書かれたヴァイオリン一挺のための20分の大作。
バッハへのオマージュともとれるタイトルであり、内容だと思うと大違いのスケールの巨大さ。
バッハの無伴奏パルティータのシャコンヌは、一本のヴァイオリンの可能性の限界を当時極めてしまった音楽で、壮大なバロック建築物のような存在。
佐村河内作品は、今を生きる作曲家として、バッハのそれをさらに違う次元でもってドラマティックに高め極めた崇高なるものだ。

CD解説の力をお借りすれば、ここにバッハ、氏の次項のソナチネ(すなわち献呈者の美来さん)、ブルッフ、ベルク、中世ルネサンス音楽・・・などが散りばめられているのを耳で追い求めることができる。
それはしかし表層的な意味合いでのこと。
ここにある真実の音楽は、それこそバッハに迫り、先に書いたように次元の異なる切実なるもので、こんなにまで魂をえぐるような作品を過酷な状況で書きあげてしまった作曲者に驚異の念を禁じえない。
最初からその端正でありながら厳しい造形に聴き惚れていると、中間部から技巧の限りを尽くした息つく間もない緊迫の変転が始まり、それが落ち着くと、一本のヴァイオリンがまるで2挺に聴こえるミステリアスな場面に。
さらに、まだまだこれでもかとばかりに、ヴァイオリンの奏法の見本市のような状況が続くが、驚くべきは、そこに一本緊張の糸と全体をつなぐモティーフがしっかり筋を通して厳然としてあること。
最期には、冒頭部分が高貴に気品を伴って奏されると、涙が出るほどに感銘を受けることとなりました。


日本コロンビアさまより拝借の映像。

シャコンヌの抜粋で雰囲気だけでもどうぞ。

「ソナチネ」は、いまこの時代に書かれたとは思えない完全無欠の調性音楽。
単一楽章で、とてもロマンティックで、少しばかり憂いをおびた美しい作品で、わたしにはフォーレを思わせるものだった。
短いが、とても素敵なこの曲は、障害を持った少女、ヴァイオリニストを目指す大久保美来さんに献呈されていて、彼女は「シャコンヌ」の大谷康子さんの孫弟子にもあたるといいます。
彼女は、ピアノも学んでいて、左手のためのピアノ作品(MIKU)も献呈されてます。
その模様は、かつてテレビ朝日で放送された、佐村河内氏のドキュメントでも取り上げられていて、彼女を讃え、そして暖かく抱きしめる氏の暖かい人柄に感銘を受けたものです。

佐村河内作品を聴いて、件の大交響曲もそうだが、先達の作曲家の名前をあげて、○○みたいだ・・・と指摘することは、わたしは悪くないことだと思う。
作曲者自身も、それを意識して書いている場面もきっとあると思うが、現代作曲家として、調性音楽に堂々と取り組み、過去の大作曲家に負けない作品をあふれ出る創意と楽想でもって譜面にしてゆくその大胆さと並外れた努力と実力に何よりも感動し、勇気づけられるから。

そのことがまざまざとわかるのが、続くふたつの弦楽四重奏曲
1番と2番、それぞれ30分と25分の同じ3つの楽章を持つ大作で、3連作として構想され、CD収録にあたり2連作としての書きなおしも行ったものの、やはり3連作として完成させることとなったといういわくつきです。
連作だけれど、全然異なる曲調で、このCDには収まらなかった3番が是が非でも聴いてみたい。

第1番を書く前には、氏の著作によれば、8つもの40分サイズの弦楽四重奏曲を書いていたとありまして、それらを封じ、いまあるものを1番としている。
この1番を作曲中の2005年頃は、発作や抑鬱に悩まされての苦行の時期だったとあります。
それを感じさせもする1番の壮絶さ。
それは、無調っぽくあり、不協和音も鳴り響き、厳しいシャープさを思わせる孤独感や怒りに溢れていて、ベルクやショスタコーヴィチのようなキレ味の深さに、われわれ聴き手は衝撃を受けることになる。
琵琶を撥で叩くかのような衝撃的な音もあり、切迫感強いです。
悩み苦しむ作曲者・・・、しいては、われわれ人間の姿。
これは、なかなか言葉にすることができません。
そんな中にあらわれる第1楽章の中間部の悲しみと優しさを感じる旋律に、いいようもない感動を覚えます。。

次ぐ第2番は、全編がアダージョ~アンダンテといった緩徐楽章。
繰り返し何度も奏でられる深く印象的な旋律の1楽章。
2楽章のやるせないほど切なく、どこか悲しい美しい旋律。先の1番に聴かれた主題とも関連性を感じ、ハッとしてしまうが、次の3楽章は、どこか解決できない不安感と胸のつかえを感じる進行で、どことなく何かをいい残したままに、短調が支配したこの曲を静かに長調で閉じる。

厳しくも動的な1番、不安と安らぎが交錯する静的な2番。

はたして第3番は、・・・・・・・。

希望の光でもって、悲しみに沈んだ私たちを包んでくれたあの交響曲第1番。

あれとまた違った感動が連作完結の3番には用意されているのでしょうか。

1番と2番を繰り返し聴くうちに、そんな期待もありつつも、一緒に悲しみ、そして慰めてくれるマリア像と同じくして、これらの音楽に内包される何かを自分では、受け止めるようになってきたように思います。

こんな想いに異論はおありかもしれませんが、私論でございます。

シャコンヌ以下、音楽のたくさん詰まった4曲。
こうして言葉にすること自体に無理があり、畏れ多いです。

是非、交響曲とともに、お聴きになられることをお勧めいたします。

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2012年3月11日 (日)

神奈川フィルハーモニー 第279回定期演奏会 金聖響指揮

Sakuragicho

3月10日土曜日の横浜。

たくさん降った雨はあがったものの、真冬の寒さ。

Landmark_2

長い歩道を肩をすくめて歩いた先には、こんな春先取りのクリスタル桜がありましたよ。

そして気になるコンサート、どんなベートーヴェンを聴かせてくれるでしょうか。

Kanaphill_201203

    ベートーヴェン 「コリオラン」序曲

              交響曲第8番

              交響曲第5番

    バッハ      管弦楽組曲第3番~「アリア」

     金 聖響 指揮  神奈川フィルハーモニー管弦楽団

        (2012年3月10日 @みなとみらいホール)

これはニュー聖響なのか?
聖響さんは、ピリオドやめちまったのか?

まだ暖めきらない「コリオラン」の第一音一発目からそう思った。

こうあることへの戸惑いを感じてしまった。

1週間前の音楽堂でのモーツァルトで、少し変化を感じたものの、そこには渇きぎみの皮相な演奏スタイルがまだあった。

たっぷりと鳴って聴こえた第8交響曲の爽快な出だしに、聖響さん就任まえの神奈川フィルの音を聴いてとりました。
奏法へのこだわりを捨てたようにも思ったのは、常に強調されてきた古典での金管・ティンパニの強調がさほどでなかったことや、極端な忙しいテンポ設定がなかったこと。
リズムと明朗さが支配するこの8番、わたくしには、とても心地よい演奏に感じました。
ランドマークタワー入口にあった桜の春の訪れが、音楽でも実感できたのがうれしい。
軽快さは後退したが、明るさと清涼感、そして神奈川フィルというオケの美しさを楽しめました。
余計なことをしなかった(指揮者が?)からよかったのか。
 曲を閉じた瞬間、立ち上がりながら、これでヨシ的に頷いていた石田コンマス。
主席チェロの山本さんを何故か拍手に応えるべく立たせた指揮者。

休憩後の第5交響曲も概ね同じ基調。
曲の深刻さはあんまり感じない。重厚さも当然になし。スピード感もなし。
でも少し軽めのこんなベートーヴェンは好きだな。
小難しい顔した偏屈ベートーヴェンは、それこそ昔のイメージです。
運命の動機を延ばさず切るところは、ベーレンライター版であることを感じさせるも、ここでもこの指揮者が古典・初期ロマン派の音楽でこだわってきたやり方はなし。(に思う)

聖響さんが、「やりたかったことが出来なかった第5」。
でも、美しい私たちが応援しているオーケストラはしっかり鳴ってます。
深淵な第2楽章には柔和さがあり、そのきれいな響きがこれも美しいみなとみらいホールにこだまするのがよくわかる。
明晰なる低弦の魅力を味わう第3楽章から、歓喜の終楽章。
熱を帯びて熱くなってゆくオーケストラ、夢中の楽員さん、聴くわたしたち、ホール全体が一体になった感ありです。

ブラボーも飛び交う大拍手のあとは、マイクをもった聖響さん。
1年前のこと、そして1日後に演奏した壮絶極まりないマーラー6番のことを語り、そしてバッハを演奏しました。

心に沁みるこのバッハの音楽をこの1年何度聴いたことでしょう。

そして今回、ひたひたと私たちの心に沁み込んできて、そして優しく包みこんでくれました。本当に感動しました。
そして美しすぎる神奈川フィルの弦。
そのあと、長い黙祷を捧げました。

頭の中に、いまのバッハの音楽が鳴り、涙が出てきました。
被災された皆さまのこと、1年前のこと、そして避難を呼びかけ帰らぬ人となった女性職員の声が何故か私の脳裏にこだましておりました。

そのあと、静かにホールを去る私たちの目には涙と、心には暖かいものが去来していたのでございます。

そんな思いの中に、今回は静やかにアフターコンサートの集いです。

Seiryumon1

台湾中華料理のお店にて。

震災のこと、原発のこと、みなさんそれぞれの1年前のこと、などが話題の中心で、音楽のことはちょっと少なめ。

Seiryumon2

このお店には驚きのアトラクションが。

店の奥が開き、そこから膨大なお水がジャージャーと客席の間の通路を流れるのでした。

あの滝に打たれて修行せよ、という発言がありましたことを、ここに申し添えておきます。
誰が・・・というのは申しませぬが。

Pio_goldenmotsu1

さらに飲み・語り足りない男子数名。

レトロな駅ビル桜木町ぴおシティーにある「ゴールデンもつ」というお店で。

ホッピーちゃんに焼き鳥。

Pio_goldenmotsu2

安くてウマい。

またいい店見つけてしまった。

さらに、今回は写真多めで。

Kadan

コンサート前、軽い食事は、さきの「ぴおシティー」にある喫茶「花壇」にて。

コーヒー@200円、ピザトースト@250円。

懐かしさただよう大衆喫茶って感じで、隣ではスポーツ新聞に赤鉛筆オジサンでした。

Arukuma

ランドマークで行われていた観光復興キャンペーンにて登場のご当地ゆるキャラ。

こちらは信州長野からやってきた「アルクマ」さんです。

ポーズとってくれましたよ。

ほのぼの・・・・・。

変化の兆しの聖響&神奈川フィルの今年度定期はこれでオシマイ。

来年度のテーマは、「マーラーとその時代~爛熟のウィーンへの旅」ということで、世紀末です。

横浜はこんな感じで、楽しく美味しいです。

皆さま是非、神奈川フィルを聴きにきてください。

ホームページでは、映像でマーラーとモーツァルトが少し聴けます。

こちら→http://www.kanaphil.com/  

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2012年3月 9日 (金)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 CDコンサート④ カラヤン指揮

Zojyoji_night_1

今日は冷たい雨が降る首都圏。

2日前の夜の東京タワーと梅。

怪しい甘い香りにふらふらと・・・・。

Zojyoji_1

翌日の夕方。

ほぼ同じ立ち位置で。

曇っててよくわかりません。

明日に迫ったベートーヴェン定期。

ベートーヴェン 「コリオラン」序曲

            交響曲第8番

            交響曲第5番

    金 聖響 指揮  神奈川フィルハーモニー管弦楽団

        2012年3月10日 14:00 @みなとみらいホール


まだ春は足踏みだけど、空元気にならない真実のべートーヴェンが聴きたいぞよ。

ということで、今日は畏れ多くも帝王カラヤンのベートーヴェン。

60年代物を愛する70年代男クラヲタ人です。

Beethoven_sym48_karajan

クラシック聴き始めの60年代最後の頃、選択するレコードは当然にカラヤン。

カラヤン指揮するのベートーヴェン映画映像も今は亡き、新宿厚生年金会館で観た。

第5はクルーゾ監督のモノラル映画で、黒いタートルかポロだった目を瞑ったカラヤンがやたらと颯爽としていてカッコよかったんだ。

で、同じ頃に集めたカラヤンのレコード。

カラヤンのベートーヴェンは、トスカニーニともまた違った意味で、テンポの速いスピーディな演奏というイメージが強く、ほどなく聴いたベームやフルトヴェングラーとの大きな違いに、そしてそちらの方に重厚さや深みを感じ、少年クラヲタ人は、カラヤン離れをしていったのでございます。

ところが、歳を経て、くたびれ果てた中高年となり、CD化されたかつての60年代物を聴くにいたって、カラヤンは表面的には快速で耳当たりいいかもしれないが、オーケストラを完璧なまでにコントロールし、そして万遍なく鳴らしていること、そしてズシリと腹に響いてくる分厚い低音域、その上に鮮やかに広がる中音~高音域の素晴らしさに、いまさらながら感嘆したのでございます。
ほんの数年前のこと。
わたしは、なにを聴いていたんだろう。

そんなバリッと冴えた音が8番の冒頭から味わえます。
心地よい推進力あるテンポ運びとオケの鳴りのよさは、快感をすら感じる。
そして、しっかりと緩急をつけた劇的な運びと、全体のしっかりした構成感は美の世界にも通じるかも。
3楽章は、いまやゆっくり過ぎのテンポなれど、ベルリンフィルの練達の木管・ホルンが美しい。
そして終楽章の興奮ぶりは、後年のカラヤンには味わえないもの。

8番を初めて聴いたのが、このカラヤン盤だった。

Beethoven_sym5_karajan

「運命・未完成」のレコードは、いま手元になく、拾い画像です。

「運命」初レコードは、もうひとりのワルターの1000円盤。

その後聴いたカラヤン。上には上があるものと・・・・。

いろんな第5を聴いてきたけれど、このカラヤンほどにストレートな第5はないのでは?

やはりここでもスピード感が快感の域にも感じられる。
カッチョ良すぎてため息でちゃう。
そればかりかすべての楽器がフルに鳴りまくるド迫力。
後年のカラヤンならではの、嵩にかかったようなマスとしての威圧的な音塊はここでは感じられず、先に書いたように低弦の上にしっかり積み上げられた、いかにもドイツ的な秩序正しい音。
ピアノからフォルテまで、レンジの広い第2楽章に、そうした響きを存分に聴くことができました。
3楽章のうなりをあげる低弦、やがてくるあまりに見え見えの大爆発。
苦難から歓喜を絵に書いたように鮮やかに、きっぱりと、そしてあっけらかんと描いて見せる壮年期のカラヤンに脱帽ですぜ。

元気出ましたpunch

ありがう、60年代カラヤンとベルリンフィル。

ワインと同じで、カラヤンの60年代物は、わたしの中で熟成しながらも、フレッシュでシャープな味わいに満ちていて、いまでもわたくしを魅惑するのでしたwine

ベーレンライターもピリオドもクソもないですsign02

Zojyoji_2

頼むよ聖響さん、お願いsign01

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2012年3月 8日 (木)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 CDコンサート③  アバド指揮

Iseyama1

「梅にうぐいす」

絵になる1枚は、実は先週土曜の横浜の伊勢山皇大神宮にて遭遇したものです。

毎度劣悪なるバカチョンデジカメでの撮影ですから、解像度イマイチ。

Iseyama2

2羽おりまして、それぞれめまぐるしく動き回るものだから撮影はなかなかたいへん。

3分咲きの梅との相性は抜群です。

暖かいここ数日。ようやく梅の香りも嬉しく思えるようになりました。

今週土曜日の神奈川フィルの定期演奏会の練習中。

ベートーヴェン 「コリオラン」序曲

            交響曲第8番

            交響曲第5番

    金 聖響 指揮  神奈川フィルハーモニー管弦楽団

        2012年3月10日 14:00 @みなとみらいホール


Abbado_beetohoven_overture

クラウディオ・アバドの1回目のベートーヴェン全集の余勢をかって録音された序曲全集。

こちらも交響曲と同じく、クリムトのベートーヴェン・フリーズをあしらった素晴らしいジャケット。
当然に、交響曲と同じ延長線上にある演奏で、ウィーンフィルに従来からあるベートーヴェン演奏を踏襲しつつ、アバドならではの流麗さを強く押し出した序曲集。

Abbado_beetohoven78 Abbado_beetohoven25

交響曲第8番は、この全集の一環とは別に、60年代末にデッカへの録音もあるが、そちらよりも、オーケストラをしっかり掌握した分、アバドらしいロッシーニ的な軽さと歌いまくりは後退している。
弾みの即興性という意味では、こちらの盤の方が無理がなく安定感があるとともに、ウィーンとの蜜月を築いた自信もうかがわれる。
終楽章の疾走感はオペラティックですらあり、快感を覚える。

交響曲第5番
もっともアバドらしからぬ曲ではあるけれど、朋友クライバーの切実さは、同じウィーンのおーケストラながら、ここでは薄目で、おおらかな第5。
1楽章の終結に少しばかりデミネンドをかけるところが、いまの耳には珍しく感じちゃう。
しかし2楽章の流れるような抒情派的演奏は、アバド&ウィーンの第5の白眉。
ほかの番号の緩徐楽章は、アバドは偶数番号の作品と並んで、ワルターと並ぶ素晴らしさに思います。
3楽章から4楽章への、ティンパニの序奏も緊張感よりは、美しさを感じ、終楽章の晴れやかなホルンに、運命の解放感を感じ、ウィーンはドイツより南にあること、そしてイタリアの隣国であることを強く思うアバドの第5でした。
春の始まりに相応しい清々しさ。

Abbado_beetohoven_bpo1

ベルリンフィルの指揮者として、ベートーヴェンを手掛けるにあたり、アバドが選んだのは、ベーレンライター版。
スラーが減り、レガートが禁じられた分、音は少し乾き、ゴツゴツ感が増した版。
しかし100%そうした訳ではなく、アバド自身が探求したヶ所もあるというがそこがどこかは不明です。
 こんな風に演奏の解釈は一様でないからややこしいのですが、大事なのは、そこに音楽があるかどうか。
本CDの解説にある、アバドの話で、「そこに音楽があること」が語られてます。

1999年と2000年にかけての演奏だが、ベルリンフィル就任からしばらくは、アバドも従来のウィーン時代と同じくするブライトコプフによる通常版を演奏してきた。
その頃の放送録音をいくつも持ってますので、ベルリンフィルによるその聴き比べも実に面白いものなのです。

こちらで明白に感じるのは、テンポで、ウィーンに比べともかく早い。
この全集が出たとき、そして一足早いザルツブルクライブの第9よりも、さらに疾走感が増して、天下のベルリンフィルで、こんなことやっちゃって大丈夫かしら?
と思うくらいに、過激に感じたのです。

しかし、いま聴けば、全然普通で、なんのことなく受け止めることができるから、いかにわれわれの耳も、ここ10年で変化しているか・・・・なのです。
むしろ徹底不足に感じてしまうから不思議なもの。

後述するが、病に冒されていたアバドの術前の演奏だけに、この周辺のものは、少し気の抜けたところも出てしまうものがあったりした。
でもこのベートーヴェンにかける意気込みは大きく、全曲を一気呵成の勢いのようなものが覆っていて、それがベーレンライター版の特徴と相まっているばかりか、随所に爆発するアバドを感じるのだ。

8番の終楽章などはまさにそうで、手に汗握る大迫力。
1~3楽章は、少しおとなしい。

5番は、ウィーンに比べるとエッジのキレ抜群で、音の伸ばしも短く楽想が次々に飛び込んでくる。
精度は高いが、演奏の熱さは、次年度のライブにはるかに敵わない。
しかしこの曲のスタンダートとなりえるフィルハーモニーでのスタジオ録音は細部までよく仕上がってます。
そしてベルリンフィルの圧倒的な能力を堪能できます。


Abbado_beetohoven_bpo2

2001年には、映像によるベートーヴェン全集が収録された。
ローマでの演奏会で、その映像を音源化したのが、こちらの全集。

映像で観るオーケストラの全霊を込めた様子と、痩せ細ってしまったアバドの渾身を込めた指揮が、鬼気迫るベートヴェンを作り上げているのが手に取るようにわかる。
2000年春から夏に、胃癌の手術を行い、すべての予定をキャンセルして治療に専念。
秋には、痛々しいくらいの姿で、日本にやってきて、ベートーヴェンと、生涯忘れられない「トリスタン」を指揮してくれたアバド。
その翌年の、ローマでのベートーヴェン・チクルス。

8番では、刈り込んだ編成にもかかわらず、ベルリンフィルの威力は相変わらずだが、旧盤にも増して、キレのいい軽やかさが浮き立つ。
よりスタッカート的なリズムが強調され、楽器も1本1本が明確になったように聴こえる。
明晰さとハギレよさを好むアバドと、克明なオーケストラが、新しい版で際立った感じ。

5番の方は、8番より変化が大きい。
1年前に少し残っていたロマンティックな解釈は皆無で、辛口に変貌。
決然と伸ばす運命動機はこちらもないが、キレの良さのみが耳に飛び込んでくる。
実は、第5はもうこんな解釈が普通になっちゃったので、わたしはこんな潔い冒頭が好きになってしまった。オーボエのソロのあっけなさも、そういうものだろう。

もちろん、古色ネオ第5も、実は聴けば聴いたで、「やっぱりイイ」ということになるのは目に見えてますがね・・・・。
 淡々とした2楽章も流麗さよりは、ごつごつ感を感じるものの、音そのもののピュアな美しさには抗しがたい魅力を感じる。
さすがにベルリンフィルであり、歌のアバドであります。
そして最後の爆発力は、整然としながらもオケの風圧を感じます。
DVD映像で確認しても、編成はさほど大きくはしていないのに、音の威力は熱く、金管やティンパニをそんなに強調はしていないのに、オーケストラの鳴り方、ブレンドの仕方はやはりベルリンフィル。
明るい解放を味わったウィーンとはまた異なり、求心力あふれる痛快さを味わい、オーケストラを聴く喜びも充分に満たされます。

 アバド第5 演奏タイム

 ウィーンフィル    7’59”  10’12” 5’24” 11’05”
 
 ベルリンフィル①  7’16”   9’10” 7’48” 10’50”

 ベルリンフィル②  7’25”   9’00” 8’00” 10’38”

ベートーヴェン全集を映像を合わせて4種類も持てる喜び。

こんなフレキシブルなアバドが、理想の指揮者として、フルトヴェングラーをあげるところが面白いところですね。


Iseyama3 

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2012年3月 7日 (水)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 CDコンサート② サヴァリッシュ指揮

Noygakudou

ミニチュアじゃなくて、これ本物の能楽堂です。

横浜能楽堂を見学しましたもので。

西洋の音楽には、こんなにまでヲタクしてるのに、日本の伝統芸能にはからきし弱い。

高校生の時に、無理やり見せられたけど無反応。

同時上演の狂言はそりゃ誰しも大笑いでしたが。

ベートーヴェン 「コリオラン」序曲

            交響曲第8番

            交響曲第5番

    金 聖響 指揮  神奈川フィルハーモニー管弦楽団

        2012年3月10日 14:00 @みなとみらいホール


みなさん、土曜の午後だし、横浜へおいでなさいまし。

NHK交響楽団では、ノリントンがピリオドによるベートーヴェンシリーズを敢行中なれど、和製で対抗します。

CD1枚で収まっちゃうコンパクトな演奏会は、きっとローカロリー・低脂肪の演奏となりましょう。

Sawa_58_1

今日のCDコンサートは、奇遇にも、定期演目3曲が1枚に収まったサヴァリッシュ盤。

第5&第8が、サヴァリッシュNHK交響楽団

コリオラン序曲が、ライナーとシカゴ交響楽団。

快速で有無をいうこともできないライナーの冷徹ぶりが凄まじい「コリオラン」。

究極の指揮者とオケのかたちかも。

そして、1982年にサヴァリッシュがN響と行ったスタジオ録音は、生真面目な指揮者と精確無比の演奏を残そうとするオーケストラの勤勉なる共同作業の1枚。

Sawallish2

懐かしいメンバー。N響の先生方。

コンマスは徳永二男さん。

ネクタイ姿のサヴァリッシュに、サラリーマンの休日服のようなカジュアルじゃないオジサンルックの楽員さん。
こんな録音風景から察せられる、ちょっとお堅い雰囲気は、そんな演奏をずっと親しんできただけに、とても微笑ましく、そして普通で嬉しいのだ。

8番のメトロノーム的な音楽をリズム正しく正確に演奏するN響は、かつて海外では、日本の時計のようだと評されたが、こうしてCDで聴いてみると、まったくそのとおりで、サヴァリッシュ先生の刻む綿密なバトンと相まって精緻な美しささえ感じてしまう。
端正で美しい8番の演奏。

5番は、冒頭から整然と始まり、昨日のカルロスの切迫感が嘘みたいに聴こえる。
おとなしすぎと感じるも、キビキビとした棒の運びに難なくついてゆくN響のアンサンブルが美しい。
早めながら、インテンポで進むうちに、終楽章はむしろテンポを落として、堂々と輝かしい最期を迎えるあたり、壮年期のサヴァリッシュ先生を感じます。

徹頭徹尾、音楽的に、余計な解釈は阻害し、譜面にあることだけを正確に響かせるスタイルは、その譜面の良しあしは別にして、いまや貴重な演奏スタイルじゃないでしょうか。

Sawallish1

正統の、それもドイツの演奏に飢えていた私たち日本の聴衆の渇きを癒したに違いないサヴァリッシュや、N響の名誉指揮者たちの存在。
その彼らに、わたしのような世代は多くを学びました。
感謝したいですね。

音楽の受け止め方も多種多様となり、音源は手頃で、そこらじゅうに溢れまくっているいまですから、よけいにその思いは強いです。
普通がイチバン。そしてそれが難しい。

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2012年3月 6日 (火)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 CDコンサート① クライバー指揮

Iseyama5

横浜の伊勢山皇大神宮。

関東のお伊勢様とも称される由緒正しい神宮に、先の神奈川フィルのモーツァルトを聴く前に訪問。
都会の真ん中にあります。

お日柄もよかったのでしょうか、ちょうど神前結婚式が終わったばかりの清々しい境内にございました。

Iseyama4

参道にあった青竹。

まだ冬の気温だけど、スクっと伸びて、真っすぐの緑が目にも鮮やかで、まぶしく気持ちよかったですよ。

誰しも、こんな青竹のような時期があるんです。

と、希望の消えかかった中高年的な発言をしてしまう、さまよえるクラヲタ人でした。

3月10日の土曜日は、神奈川フィルハーモニーの定期演奏会。

1年前の定期は、きっとまた書くでありましょう、3月12日のマーラーの6番。

あの運命的な演奏会からもう1年がめぐってきまして、その演目も、まさに「運命」。

  ベートーヴェン 「コリオラン」序曲

            交響曲第8番

            交響曲第5番

    金 聖響 指揮  神奈川フィルハーモニー管弦楽団

        2012年3月10日 14:00 @みなとみらいホール


その事前ヴァーチャルCD聴きを行います。

まずは、泣く子も黙るカルロス・クライバー

しかし、カルロスには、8番はないのであしからず。

Kleiber_bpo

「コリオラン」序曲は、よほどお得意とみえて、数々の音源がありますし、その演奏記録も多数あります。

第5の延長上にあるようなハ短調のこの序曲を、クライバーはものスゴイ集中力と流れるような力感でもって、ぐいっと一発聴かせちゃう。
ベルリンフィルも必死こいて食らいついてる。
1曲目から、もうどうにでもしやがれ的な切迫感があって、慣らし運転的な緩さはこれっぽっちもない。
オケも聴衆も大変なのだ。
カルロスに冒頭から一発かまされちまう。

バイエルンシュターツオーオーパーとの映像はこちら。
渾身のひと振りがスゴイです。

拝借映像です。

やっぱりすんごいですよ、カルロスさまは。

Kleiber_beethoven_2

カルロス・クライバーの交響曲作品デビュー盤。

録音は、「魔弾の射手」の方が早かった。

レコード1枚に第5のみ一曲。

信じがたいような贅沢な1枚。

切羽つまった迫真の第5。

74年の録音で、当然にベーレンライターなんていう版の概念もなく、従来のブライトコプフ版によるものだけれど、そんなことはお構いなし。関係ない。
版のことで、あーだ、こーだ考えなくてはならない、いまの私たち聴き手ががんじがらめで可哀そうになってしまう。
この決然としたベートーヴェンに、一人の指揮者が出来る究極のオンリーワン的な演奏を感じる。
真似のできない個性、「ザ・クライバー」のベートーヴェン。

フレキシブルな朋友アバドは、ベーレンライターで大胆にもべルリンフィルに変革をもたらしたけれど、その風潮はいまやあたりまえ。
カルロス・クライバーは、見向きもしなかったし、もう少し活躍しても、きっとそうではなかったろう。

NHKで何度も放送され、お馴染みのあの執念深いくらいの執拗なリハーサルを経て築きあげられたパーフェクトな仕上がり。
でも、本番では別なクライバーが爆発する。

シカゴとの海賊盤ライブは、未聴だが、このウィーン盤とさぞや異なっていることだろう。
「トリスタン」もDGスタジオ録音は、それはそれは素晴らしいが、バイロイトやスカラ座のライブの方にまた別物の感動を覚える。

何が言いたいかわからなくなってきたけれど、ライブのカルロスのスゴサは、このウィーンフィル盤にはないけれど、はちきれんばかりの意欲が漲ったカルロスの真髄がここに聴かれるのは事実で、フレッシュで若々しい青竹そのものを感じます。
残してくれてよかった、カルロスの第5です。

聴いてて涙目になってしまったのは、今日激しく飛んだと思われる花粉のせいばかりじゃありません。
昔はよかったなぁ~、という遠く目線のせいかもです。

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2012年3月 5日 (月)

ベルリオーズ 幻想交響曲 メータ指揮

Hamamatsucho201203

左は東海道線、上にはモノレール、右手は山手線。

Hamamatsucho201203_a

そして新幹線。

今月は昼の浜松町なので、右も左も電車が賑やかです。

Hamamatsucho201203_b

3月のコスチュームは、春の火災予防運動に関連して消防士さんの凛々しい制服姿。

わたくし、もと油屋さんですから、この姿を見ちゃうと、ついへこへこしちまいます。

制服の威力は強いのでした。

Berlioz_symphonie_fantastique_mehta

月イチ幻想、3月のベルリオーズ 幻想交響曲は、ズビン・メータ指揮のニューヨーク・フィルハーモニック。

もうじき1年。

この前クリスマスで、お正月だったのに、もうあの3月になってしまった。

1年前の小便小僧は、まだ幻想交響曲とリンクしてなくって、記事を調べたらディーリアスの「アパラチア」でして、小便小僧君はやはり消防の消化服をカッコ良く着てました。
ちょうど1年前の3月5日→こちら。

次いで、「モッフォの蝶々夫人」「エルガーの戴冠式歌」ときて、あの11日となってしまったのでした。

2010年7月からやってます、月イチ幻想シリーズ。

まだまだやりますぜ。

デッカ時代のメータがなかなかやらなかったベルリオーズの幻想。

意外とベルリオーズには奥手だったメータは、「イタリアのハロルド」から先に録音して、ロスフィルとのゴージャス・デッカ路線では取り上げることがなく、ロス・フィル退任が決まり、ニューヨークご栄転の一発目にようやく録音することとなりました。
ニューヨークフィルは、CBSの契約下にあったので、メータ・NYPOコンビは「ハルサイ」でCBSから正式デビュー。
デッカには、置き土産のように残された唯一のニューヨーク録音となり、なんだか今では貴重な1枚みたいに思えるのです。
1979年のデジタル初期のこの録音は、デッカチームがニューヨークに乗り込んでまるでメータとの別れを惜しむかのように、いかにもデッカらしい、明々白日たる克明鮮やかサウンドを聴かせてくれちゃうのです。
一方の、メータの新天地CBSは、数多くの録音を残したに限らず、どうも響きの中に、メータの歯切れ良い個性が埋没してしまい、不惑のメータを印象付けるものばかりとなった気がする。
音源として残るだけに、レーベルの違いによる個性の変化は、受取るわれわれ聴き手にとってもすごく大きく感じます。
メータはデッカ、ショルティもデュトワもデッカです。
ハイティンクやデイヴィス、ブレンデルはフィリップス。
でもカラヤンやベーム、バーンスタインやアバド、マリナー、プレヴィンは、いろんなレーベルの顔が思い浮かぶ。
面白い印象です。

そりゃそうと、メータ&NYPOの幻想は、とっても鮮やかですよ。

ジャケットはまるきしインド人メータで、どこぞのインド・カレーのお店みたいな印象ですが、CDをトレイにセットすると、素晴らしく音楽的でキレのいい幻想が聴かれるんですよ。

1楽章からフレーズは弾力性に富み、強弱の出し入れもカッコよく、聴いていて気分よろしい。
円舞曲もハープがきらびやかで、心地よくノリのいい美的な雰囲気。
野の情景も美しいものだが、少しハリウッド的なところがご愛敬。
そして、タテヨコ、ずびずび・びしびし切りまくるメータの指揮の面目躍如たる断頭台。
スピード感もよろしく、爽快そのもの。
やたらと早くて疾走しまくる終楽章のヴァルプルギスは、後半に行くほどテンポアップして、最後は目にもとまらぬ速さとなってカッキーンとばかり終了。

新天地にかける意気込みとオケのやる気を感じる幻想。

でもちょっと違うと思うのは、指揮者もオケも録音も、他流試合みたいな探り合いが見受けられるところ。
メータはメータらしくふるまってるけれど、ロスフィルのようにはしっくりいかない。
オケも名技性を発揮してるけれど、奥歯にものが挟まった語り口。
録音も鮮やかだけど、芯を捉えていないような。

でも、捨てがたく時代のひとコマ的な「メータ&NYPOの幻想」は好きです。

メータは後年、ロンドン・フィルと再録音してますが、それはまたいずれ。
そして、わたくしは、フィレンツェ5月祭オケとの来日公演を聴いてますが、それが落ち着いた充実の幻想でした。

では、また桜咲く4月の小便小僧で。

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2012年3月 4日 (日)

神奈川フィルハーモニー 特別演奏会 聖響音楽堂 モーツァルト

Ongakudou

神奈川県立音楽堂。裏にある掃部山公園口から。

昭和29年開館。上野の文化会館(昭和36年)より歴史があります。

坂の下にそびえる、みなとみらい地区のビルとの対比も面白いですね。

あちらには、みなとみらいホールがあって、そのどちらでも神奈川フィルハーモニーを聴くことができる幸せ。

Ongakudou2

響きが豊かで、優美さも感じる「みなとみらい」に比べ、音楽堂の響きはデッド。
そのぶん、一音一音が分離よくハッキリ聴こえ、そして木質感あふれる雰囲気が。
だから音楽がむき出しになってしまう怖さもありです。

Kanaphill_ongakudo201203

  モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲

           クラリネット協奏曲 
             CL:斎藤雄介

          クラリネット五重奏曲~第2楽章(アンコール)

           交響曲第41番「ジュピター」

    金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

             (3月3日 @神奈川県立音楽堂)

これまでのCDヴァーチャルコンサートの本番。

聴く前から予想済みだった演奏内容は、聴後の印象は想定内ということで、妙に納得。
それだけ、神奈川フィルの聴衆は、聖響&神奈川フィルの古典・初期ロマンの演奏に慣れてしまったというわけ。

古楽演奏を実践したピリオド奏法は、当初ほどノン・ヴィブラートも徹底していないし、ティンパニを除くと古楽器はひとつも見当たらないが、そのスピリットがオケに浸透してしまった感はありです。

「魔笛」から、乾いて薄めのフリーメイソン和音が空しく音楽堂に鳴り渡った。
その後の快速テンポと、うるさいくらいの金管とティンパニで、あっという間に終了。
コンサートだから無理もなしだが、オペラの感興はまったく感じられず、でした。

楽しみにしていたクラリネット協奏曲は、わたしの大好きな曲。
陰りがありながらも、澄みきった透明感のあるモーツァルトの音楽。
若い斎藤さんは大健闘。コンマス石田氏に、はっぱをかけられソリスト位置に立ち、闊達で若々しいクラリネットを聴かせてくれました。
演奏終了後、斎藤さんが真っ先に握手の手を差し出したのは石田コンマス。
オーケストラにおけるコンマスの役割とその大切さを、このシーンほど感じるものはありませんでした。
そして、この日、石田コンマスは、いつにも増してオーケストラをリードしているように見てとれましたね。

2楽章の夢見るような美しさは、桃源郷のようで、オケの柔らかな背景に乗って実に心地よいものでございました。
そして、さらに素敵だったのは、いや、この日、最高の聴きものだったのがアンコールのクラリネット五重奏。
石田・小宮・柳瀬・三宅4人とクラリネットの息がぴたりとあった超美演に息をつませて聴き入るのみでした。
オケが入らないこの曲に、いままで聴き親しんできたモーツァルトの響きを聴きとることができたのは皮肉なものでした。

20分の長い休憩時間に、いつものメンバーと、似たような感想を持ち合い確認。

ジュピター交響曲は、繰り返しをすべて行い40分の超ロング。
堂々たる出だしが、ピリオドでは、軽めのあっけない開始。
それはまさに、この奏法ならこうなる的な見本みたいなものかもしれないけれど、わたしは、「ジュピター」というタイトルが、曲の壮麗さから後年ついた、その「証し」がどこにも感じ取ることが出来ず、そうじゃないだろ、的な思いを最後まで捨てきれませんでしたね。
このあたりのことを、アフターコンサートで熱燗を酌み交わしながら語りあったのですが、初演当時、どんな音楽として鳴っていたのかを再現するには、聴き手の耳の変化や価値観、社会、しいては人間そのものの感情の変化などをも包括して考えなくてはいけないのかもしれません。

まぁ、そんなことは抜きにしても、ティンパニの強打と金管の強調は、古楽奏法の常套なれど、ここではあまりにそれが突出しすぎで、わたしには居心地悪いものでしたね。
聖響さんのいつものくねくね指揮も、その強調場面では、ここぞとばかりの動きをしております。
総じてバランスはあまりよくないのも毎度のこと。
8・6・5・4・3(1Vn・2Vn・Vla・Vc・Cb)のコンパクト編成のジュピターは、もっとはちきれる若さと小気味よさを前面に押し出してもよかったかも。
終楽章のフーガで、少しだれてしまった部分をかなぐり捨てるかのような大爆発があり、そこで少しスカッとしたところでございました。
前回のマーラー1番と同じく、最後でまた帳尻合わされて、ヤラレてしまいましたよ。

Ichinokura_1

今回のアフターコンサートは、野毛口にある名居酒屋「一の蔵」にて。

さばの味噌にをあてに、熱燗。

Ichinokura_2

宮城の銘酒、「一の蔵」各種をお試しで。

こんな風に飲みまくり、何本お銚子を倒したでしょうか。

シュナイト時代も、こちらにはお世話になりっぱなし。

5時から10時まで5時間の超ロングは、演奏会2本分語りました。

こうしていろんな議論を巻き起こし、ある意味、音楽を聴くという受動的な動作以上のことをこうして投げかけてくれるオーケストラってほかにあるでしょうか。

まだ成否の定まらない、現代オケにこうしてピリオド奏法を植え付けつつある神奈フィルのこの現状。
一方で、指揮者やその考えによっては、グラマラスな美麗なオーケストラにも転じるフレキシブルな存在ともなった神奈川フィルは、ファンとして誇っていい存在になりつつあるのかもしれません。
いや、それは確信をもって言えるのですsign03
それが好悪は別にして、わかりつつあるこの回の演奏会。

酔いも心地よく、そして酩酊の具合もなんだか考え過ぎで、半分冴えてた湾岸半周の帰り道でございました。

Ichinokura_3

焼き鳥一周、こんなに食べちゃいました。

お疲れさまでした。

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2012年3月 2日 (金)

聖響&神奈川フィル モーツァルト・シリーズ3 CDコンサート③ カラヤン指揮

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東京駅丸の内口の地下にあった雛飾り。

もう3月で、明日は、ひな祭り。

早いもんです。

そして、 大急ぎで、カラヤン

神奈川フィルハーモニー特別演奏会 聖響音楽堂モーツァルトシリーズの事前CDコンサートをしてます。

  モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲

           クラリネット協奏曲 (CL:斎藤雄介)

           交響曲第41番「ジュピター」

             3月3日 @神奈川県立音楽堂



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カラヤン、「魔笛」には決定的な演奏や上演を残せなかったかもしれない。
そんな風に思うのが、フルスペック全開のベルリン・フィルとの全曲録音。
壮大壮麗さが過ぎて、モーツァルト晩年の軽やかさと、透明感がやや後退した感じ。
でも、序曲単独で味わうゴージャスな雰囲気は、ベンツの車内で聴くカーステレオみたい。

カラヤンの魔笛は、74年だったか、ザルツブルク音楽祭のウィーンフィルとの上演が、いまだに素敵なものだった。マティス、コロ、プライ、グルベローヴァ!
CDRにして大事にしております。

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ベルリンフィルのトップ奏者たちと録音した管楽器のための協奏曲は、後述の後期交響曲の録音とともに、カラヤンが、本格ものはEMI、有名ポピュラー曲はDGという路線を打ち出した当初のもので、70年代前半のカラヤンの至芸が味わえる逸品。

クラリネット協奏曲は、そう首席のカール・ライスター
ベルリンフィルの木管は、ウィーンと並び称せられる名手の宝庫で、これはベルリンフィルとウィーンフィルのレコードを聴いて、木管の音色でまず区別がついたものだ。
そんなベルリンの顔的なライスターのクラリネットは、鮮やかな技巧と音色の滑らかさとまろやかさ。
最初の楽章からレガート気味に、流れるがごとく滑らかで羽毛のごとく柔らかな出だし。
それは、カラヤンの指揮するオーケストラもまったく同じことで、ソロもオケもまったく同体で、前回のウィーン産のモーツァルトと対比できるとするならば、こちらはカラヤンのモーツァルトといっていいかも。
2楽章の典雅さは、なにもそこまで、と思うくらいに想いを込めてしゃなりしゃなりと歌われるので、聴いてる間は極めて快感だけれど、はて、これでいいのかしら?と思ったりもする。
でも気持ちいいから、まぁいいか。
やっぱし、クラリネットもオケもうまいもんだ。
さすがはカラヤンだ。
聴いていて、あの腕の振り方が目に浮かぶ。
終楽章も同じ感じで、ときおりため息つかんばかりで、私には、ピンクのモーツァルトでした。

Mozart_sym_karajan

交響曲第41番「ジュピター」は、カラヤンにかかると壮麗の極み。
EMI録音に特有の遠くで鳴ってる感はあるものの、70年代前半のカラヤンにあった独特の勢いを感じさせる。
同時期の、ブルックナーやチャイコフスキー、マイスタージンガー、トリスタン、オテロなどです。
後半から80年代の大量の再録音では、極めようとする入念さが先行して、まわりくどさを感じることもあったが、60年代と70年代前半のカラヤンは、カラヤン嫌いだった私が再評価をするきっかけになった演奏が多い年代。

冒頭の力強い出だしも、これまたレガートがかかり、響きが豊かに鳴り渡りつつ、ピチカートひとつにもウマさを感じてしまい、妙に味わい深い。
緩やかな2楽章に、入念な3楽章。いずれも美しい仕上がり。
そして一気にアクセルを踏み込む終楽章はかなりヒートアップしまして燦然と輝くジュピターのエンディングを迎えるのです。

こうして、一夜のコンサートとしてカラヤンのモーツァルトを聴いてみたけれど、一面、流麗で流れ去るようなスタイリッシュなモーツァルトに聴こえるけれど、実は音の一音一音が見事に錬磨され、磨き抜かれた大理石のような美目麗しい盤石のモーツァルトなことに、いまさらながら気がついた。
ベートーヴェンでは、これに力強さと一気呵成のスピード感が加わるわけだ。

カラヤンはカラヤンだけれど、そのモーツァルトもカラヤンそのものでした。
それが実に楽しい聴きものでございました。

以上、神奈川フィルの音楽堂シリーズ特集終わり。

明日は、いよいよ本番ですよ。

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