バッハ 「わが罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ」 リリング指揮
こちらの聖母マリアは、東京カテドラルに佇んでらっしゃいました。
ルルドの洞窟を模して同じ規模のものを明治44年に造られたものこと。
ルルドはスペイン国境に近いフランス・ピレネーの街で、聖母マリアが現出した場所とされ、そこから沸く泉が、治癒の奇跡を起こすとされて、多くの信者が巡礼するところです。
東京のこちらも静謐で、思わず手を合わせたくなる雰囲気に溢れておりました。
クラシック音楽好きとしては、東京カテドラルは朝比奈隆のブルックナーをはじめとする幾多のコンサートを思い起こすことができます。
そして、教会で聴く、バッハは格別のものがあります。
バッハ 「わが罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ」BWV1083
ペルゴレージの名作「スターバト・マーテル(悲しみの聖母)」をそのままに編曲したバッハテイストの作品です。
先のルルドも、スターバト・マーテルの聖句も、いずれもカトリックです。
しかして、バッハは峻厳なプロテスタント。
「わが罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ」は、音楽はペルゴレージのそのものに、パートを追加加筆し、調性も変え、リズムや抑揚にも変化を持たせ改編しております。
そして、一番大きいのは、ラテン語のカトリック聖歌である原詩を、そっくり詩篇51番に置き換えたこと。
これで、カトリック臭が消え去り、バッハの信条に近づいたわけだ。
26歳の早世だったペルゴレージの最後の傑作「スターバト・マーテル」を、バッハもその晩年に、こうしてドイツ化(?)したことの意図は不明なれど、天性の明るく抒情的なペルゴレージのメロディアスな音楽に、南国への憧れを抱いたに違いない。
ヴィヴァルディ作品の一連の編曲の延長線にあるものと思っていいかもしれない。
でも、原曲がカトリックに基づくものゆえ、バッハとしても、ミサ曲カテゴリー以上の苦心の作ではなかったろうか。
それはさておき、ペルゴレージ作品を知るものにとっては、まんまペルゴレージ。
よく聴けば、ドイツ語の子音を感じることができるものの、違和感はまったくなく、バッハよりもペルゴレージを強く意識させるように思えるのは、アバド指揮による同曲を耳タコ状態に聴きこんでいるからゆえかもしれません。
バッハに似合わぬ流麗さと、短調なのに明るい歌心です。
イエスの十字架上の死を悼み嘆くマリアをうたった原詩なのに、ナポリ派のペルゴレージは、膝の上にある磔刑に死した我が子を嘆くマリアを明るめの色調で美しく描いた。
そしてその詩は、キリストの母の苦しみを分かち合おうする、少しばかり官能をおびたもの。
でも、バッハの選んだ詩篇51は、ダビデ王の罪の告白の神への信条吐露。
自分をいたぶるまでの罪の意識と、かたや悲しみの聖母への同一化。
痛みとしても、かなり違います。
このあたりの厳しさの違いが、音楽には正直出ていないような気がする、バッハ編のスターバト・マーテル、いや、「罪を拭い去って下さい」なのでした。
それでも、この音楽は素晴らしくて、バッハにない伸びやかさを充分に味わえますとともに、ちょっと異質なバッハの教会音楽としての存在も味わえるのでした。
S:クリスティアーネ・オルツェ Ms:ビルギット・レンメルト
ヘルムート・リリング指揮シュットットガルト・バッハ・コレギウム
(2000.6)
リリングの明るくて伸びやかなバッハ。
ここでも素晴らしいです。
アバドとの共演でお馴染みだったオルツェ、バイロイトのメゾの歌姫レンメルト。
ふたりの女声も素敵なバッハでした。
これを書いてる間に、千葉東方沖を震源とする大きな地震がありました。
今日は、三八沖でも揺れ、遠く桜島では大噴火。
地球の外を見ると、木星と金星が近づいて明るく輝く。
日々、警戒と注意が肝要なのです。
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