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2012年4月

2012年4月30日 (月)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 ビシュコフ指揮

Ginza_wako

銀座和光のウィンドウディスプレイ。

いつもテーマを決めて、美しいショウウィンドウを楽しませてくれます。

和光のHPで、そのテーマを確認できます。→こちら

ウィンドウの中に、ドラマを描く。

オペラや演劇の舞台も同じこと。

限られた空間に、異次元を作り出し、聴衆は自分たちと違う世界にしばし戯れ、刺激を受け、そして考えるのであります。

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  R・シュトラウス  「ばらの騎士」

   元帥夫人:アドリエンヌ・ピエチョンカ  オックス男爵:フランツ・ハヴラタ
   オクタヴィアン:アンゲリカ・キルヒシュラーガー ゾフィー:ミア・パーション
   ファニナル:フランツ・グルントヘーバー 
   マリアンネ:イングリート・カーザーフェルト 
   ヴァルツァッキ:ジェフリー・フランシス

   アンニーナ:エレーナ・バトウコーヴァ   警部:フローリアン・ベッシュ
   ほか

    セミョン・ビシュコフ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                    ウィーン国立歌劇場合唱団
     演出:ロバート・カーセン
                     (2004.8 @ザルツブルク)


今日もR・シュトラウス

私の好きなオペラ10指には必ず入る「ばらの騎士」。
5年前、東京では「ばら戦争」が巻き起こった。
4つの舞台に、セミステージ公演ひとつが次々に行われた。
日本経済も、わたくしもそこそこ順調。
全部観ちゃいました。

久々に、音源以外で「ばらキシ」を。
2004年のザルツブルク音楽祭のプリミエの記録で、この音楽祭の直前、このオペラに神がかり的な演奏を残し続けたカルロス・クライバーが亡くなっていて、初日の幕が開く前にその死に対して哀悼の言葉が告げられたとあります。

「ばらの騎士」の台本作者、劇作家ホフマンスタールも、その発足人のひとり。
初演以来、ザルツブルクとは強い結びつきのあるこの「ばらの騎士」は、映画にもなっているカラヤンの上演があまりにも有名です。

今回の上演は、かつてと比べ、演出優位の時代を反映し、まとまりはいいものの、歌手も指揮も際立った人がいない。
その変わりに、演出家の力の見せ所は、このような映像になってくると映えてくるし、歌手たちの優れた演技力も楽しめるのであります。
オペラの楽しみ方が、音源でなく、映像に完全移行してしまったことも、国内盤のオペラCD新譜がまったくなくなってしまったことでもうかがえる。

ロバート・カーセンは、奇抜なことはやらない代わりに、驚きの発見と考え抜かれた緻密な舞台運びで、おしゃれ感すら漂わせる演出家。
18世紀半ばのハプスブルク時代の設定から、このオペラの作られた20世紀初め1909年頃、すなわち、第1次大戦直前といった時代設定に置き換えての舞台。

Rosen1

(以下、画像は海外のニュースサイトより拝借)

マルシャリンの旦那、すなわち元帥閣下は、妻が逢瀬を楽しむベットの上に肖像画としていかめしく架かっております。
オーストリア帝国軍の軍服でしょうか。
そして、オックス男爵は完全にドイツ軍の制服で、そのやくざなお供たちも同じ。

Rosen3

2幕の舞台のファーニナル家は、完全に武器商人の館で、家人はさまざまな武器を手にして右に左に忙しく、招待客も様々な軍服を着た無表情の人々で、ゾフィーが野卑なオックスからご無体な仕儀を受ける時も黙って見つめる冷徹な存在。

さらに結末は、種あかしとなっちゃうので、多くは書けませんが、酔ったモハメド君が銃を片手に大暴れしてしまう・・・・。
これは、第1次大戦の引き金となった事件を暗示しているのでしょうか・・・・?

身を引くマルシャリンに、若い二人の銀のしずくのような美しい3重唱と2重唱。
二人の新恋人たちは、1幕のマルシャリンとオクタヴィアンと同じように、ひと目もはばからず、大きなベットで戯れております。
ファーニナルが、若い人は、「こういうものですなぁ~」という言葉が妙に現実的(笑)。

このように、カーセンの舞台は、ある方向付けに対し、まっしぐらに、やたらと写実的なのです。
横にやたらと広いザルツブルクの祝祭劇場の機能を縦横に活かしたパースペクティブな舞台構成や人の動き。
部屋をいくつも設定でき、その部屋から部屋へ移動するさまが客席では、見事に味わえる寸法だが、テレビの画面では同時進行する舞台が不明となる欲求不満も。
しかし、本物の馬にまたがって颯爽と速足で登場する「ばらの騎士」の登場は、お見事にございますよ。

Rosen4

それと照明の使い方の見事なカーセンは、全体に光と影の対比が鮮やか。

その光と影が、炙りだす、時間の経過の悲しみと残酷さ。

火遊びに浮かれていたマルシャリンは、手鏡を見た瞬間に、すべてを悟ったようにシリアスに変貌。
浮かれる若い恋人たちにも、戦争の陰が忍びよることも匂わせた。

まだまだいろんなことが隠されているカーセン演出なのでした。

Rosen5

映像だとアップ画像が多く、歌手たちを至近に観る喜びとともに、幻滅感もあるのがDVD鑑賞の宿命。
ビジュアル的によかったのは、パーションと意外に濡れ場でどぎまぎするオックス。
怪しげな館で、奔放に振る舞う娼婦のようなオクタヴィアンだったりして、キルヒシュラーガーはちょっと無理があるし、ピエチョンカの体格のいいマルシャリンも遠目の方が・・・・。

しかし、その歌唱はみんな素晴らしく完璧。
映像を消して聴く接し方もまだまだありだ。

そして、ウィーンフィルは、ビシュコフのてきぱきとした指揮もあって、甘美さよりは現代風の煌めく音の洪水に感じ、うつろいの儚さといった趣きは、過去のものみたい。
50~70年代のウィーンフィルの音色はいまや遠くになりにけり・・・か。

過去記事 劇場編

 「新国立歌劇場公演 P・シュナイダー指揮」

 「チューリヒ歌劇場公演 W・メスト指揮」

 「ドレスデン国立歌劇場公演 F・ルイージ指揮」

 「神奈川県民ホール公演 沼尻竜典指揮」

 「新日本フィルハーモニー公演 アルミンク指揮」

過去記事 音源編

「ばらの騎士」 バーンスタイン指揮

「ばらの騎士」~組曲 プレヴィン指揮

「ばらの騎士」~抜粋 ヴァルヴィーゾ指揮

「ばらの騎士」 ドホナーニ指揮

「ばらの騎士」~ワルツ ワルベルク指揮

「ばらの騎士」 クライバー指揮

「ばらの騎士」 ハイライト デルネッシュ

「ばらの騎士」~組曲 ヤンソンス指揮


   

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2012年4月29日 (日)

ウェーベルン、R・シュトラウス、ブラームス 9月神奈川フィル定期

Popy1

ポピーの花です。

車にポピー~なんて、CMありましたな。

ポンと弾けるように蕾が弾けて色とりどりに咲きます。

Popy2

すみれとポピー。

都内の公園にて。

南房総に行くと、ポピー咲くの広大な農園があって、ポピー摘みが楽しめます。

さて、神奈川フィルハーモニーの今シーズン定期を連続再現して聴いてます。

今回は、夏休みを置いての9月の定期演目を。

  ウェーベルン  オーケストラのための6つの小品

  R・シュトラウス ホルン協奏曲第2番

       Hr:プシェミスル・ヴォイタ

  ブラームス   交響曲第2番
   
       伊藤 翔 指揮 神奈川フィルハモニー管弦楽団

  2012年 9月15日(土) 14:00 みなとみらいホール


神奈川フィルの副指揮者の伊藤翔さん(30歳)がこの3月に退任。
その花道を飾る定期公演への本格デビューです。

伊藤翔クンは、昨年ポーランドのルトスワフスキ国際指揮者コンクールで2位になりました。
コンサートでは、いつもスコア片手に片隅で聴き入っている姿を見ておりました。

そして、これもまたいいプログラムです。

今シーズンは、ウェーベルンがふたつ。
シェーンベルクかベルクでもよかったけれど、めったに聴けないウェーベルンが2度も味わえる喜び。

最初は、ブラームスのハイドン変奏曲だったけれど、実によき変更。

Abbado_webern

ウェーンベルン(1883~1945)は、寡作だけれども、現代音楽に多大な影響を与えたウィーンの作曲家。
師のシェーンベルクや同門のベルクと並んで、新ウィーン楽派と呼ばれます。
シェーンベルクと同じく、初期は後期ロマン派風、表現主義風の濃密音楽を書いたけれど、すぐさま無調、師の十二音と取り入れてゆき、持ち前の緻密で精緻な音楽を研ぎ澄ませていった。

ウェーベルンの音楽のキーワードは、「研ぎ澄まされた緊張感」です。
こちらの無調による「6つの作品」は基本は静的だけれど、途中膨大なフォルティシモが炸裂します。
神奈川フィルの演奏で、その微細な色調をいかに感じとれるか、楽しみです。

アバドとブーレーズは、ウェーベルン演奏の第一人者です。
アバドには歌が、ブーレーズには鋭利な解釈があります。

Kempe

R・シュトラウスは、ホルン協奏曲を2つ書いてます。

シュトラウスの父親がバイエルン宮廷オーケストラのホルン奏者だったこともあり、シュトラウスの音楽にはホルンの活躍する場面が多いです。
19歳で、父親の誕生日に書いた1番。
そしてその後59年後の練達期に書いたのが第2番。
オペラもすべて書き終え、自在の境地にあったシュトラウスが晩年に残した管のための協奏曲は、このホルンの2番に、オーボエ、そしてクラリネット&ファゴットの二重のための協奏曲の3曲。
いずれもシュトラウスの晩年様式たる明朗快活かつ透明感にあふれ、無駄なものの一切ないシンプルな作品になってます。

伝統的な3楽章形式で、その旋律ラインも、古典への回帰がうかがわれます。
メロディラインでは、先の1番に負けますが、こちらはなんといっても独奏ホルンの名人芸が要求される難易度高い作品。
素人のワタクシが聴いていても、そりゃ無理だろ、的なスゴイ場面が何度もありますよ。
よく聴くと、シュトラウスのほかの作品にもあるように、かつての自作を振り返るような場面もあり、オペラのフレーズも聴きとれます。
2楽章のオーボエとホルン独奏の掛け合いはステキなもの。
そして、3楽章では、オケの2本のホルンとソロ・ホルンとのカッコイイやりとりが聴きものですよ。
鮮やかに曲が終わったあとは、拍手喝采は必須。

ペーラー・ダムとドレスデンの本場正統の完璧な正統演奏で。

今回のホルンのヴォイタさんは、チェコのホルン奏者で、今年ベルリン・シャウシュピール管(旧ベルリン響)から、ベルリン国立歌劇場の首席に栄転した注目の若き名手。
この人、大いに聴きものでありますよsign01

Ozawa_brahms

名曲、ブラームスの第2交響曲。

若い指揮者の旅立ちに相応しい曲です。

1番は強烈にスタンダードだし、4番も甘くて渋くてブラームスを極めた感じになります。

でも、何気に2番は、いつも微笑みつつそばに佇んでいてくれる音楽で、癒しと伸びやかな活力をわたしたちに与えてくれます。
同様に、クラシックを聴き進めてくると3番もその中間楽章の美しさゆえ、捨てがたい存在になってくるんです。

偉そうなこといってすいませんが、クラヲタ歴も歳を経ると、ブラームスは2番と3番なんです。

神奈川フィルは、マーラーオケであると同時に、ブラームスオケでもあります。

先代シュナイト師の指揮で聴いた全4曲と協奏曲にドイツ・レクイエムや合唱曲。
歌心と祈りにあふれた大きなブラームスでした。

その伝統の響きを持つオケも聖響で変化をしているのか・・・・
思えば、伊藤翔クンのこの曲の演奏は神奈川フィルの音色を確認する絶好かつ、難しい選曲であります。

小澤さんとサイトウキネンの初期の名品のブラームス全集から聴いてみました。
ブラームスがゆったりと自然の中を散歩してるような気持ちのいい演奏です。
それは、ヨーロッパアルプスの麓の大自然のようではなく、わたしたち日本人の心にあるようなこじんまりとした野山の風景みたいです。

9月には、違う演奏でいくつかこれら曲のことを考えてみたいと思ってます。

神奈川フィルのシーズン定期に是非おいでください。

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2012年4月28日 (土)

R・シュトラウス 「インテルメッツォ」「メタモルフォーゼン」「ツァラトゥストラ」 6月神奈川フィル定期

Swarovsky_1

クリスタルなハイビスカスのようなモニュメント。

そう、スワロフスキーのショーウィンドーをパシャリと1枚。

Swarovsky_2

銀座通りのスワロフキーのお店。

オースリアはチロル発祥のクリスタルガラスのこちらのブランドは、いまやクリスタル・ジュエリー屋さんみたいになってます。

この会社も、世紀末に端を発する存在でして、その七色に光を変えるクリスタルガラスをながめていると、キラキラと千変万化するR・シュトラウスの音楽さながらに思えてしまいます。

わたしの唯一のウィーン訪問は、それこそ20世紀末。
東側体制の崩壊前年にあって、その東西の融合点だったウィーンでは数々の情報が入り乱れていたはずのようだったけれど、一介の日本人観光客には、そんな匂いすらわかるわけもありませんね。
記念に、スワロフスキーのクリスタルのキーホダーを購入して嬉々としておりました。

神奈川フィルハーモニーの6月定期は、オールR・シュトラウス(1864~1949)。

マーラーと同時代ながら、恵まれた環境と神童的な早期からの作曲活動、そしてなによりも純正ドイツ人だったことから、マーラーに常に先んじていたシュトラウス。

5月のワーグナーに続いて、R・シュトラウスとはまた嬉しくって小躍りしちゃいます。

わたしのブログをご覧いただければおわかりのとおり、わたくし、R・シュトラウス狂いのひとりなのです。(前回と同じフレーズに失笑しないでくださいまし)
今回の神奈フィルシーズンレビューで、このフレーズが何度出るか、お楽しみに。

 R・シュトラウス 歌劇「インテルメッツォ」 4つの交響的間奏曲

              ~暖炉のほとりでの夢想~

            「変容」~メタモルフォーゼン

           交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

       金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

    2012年6月22日 (金) 19:00 みなとみらいホール

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カタカナばっかりが並んでしまった3つの曲目だけれども、決してひるんではいけませんよ、みなさま。
神童の日々から、長命の晩年まで、シュトラウスのその作曲活動歴は長いけれども、その作風は生涯変わりません。
朗らかで明晰、陰りすくなく健康的な音楽。
そして晩年の澄み切った心境に達したその音楽はモーツァルトのような軽やかさと透明感を持ってます。

定期公演の3曲を作曲順に並べます。

①ツァラトゥストラ(1896)
②インテルメッツォ(1923)
③メタモルフォーゼン(1945)

③が例外的で、シュトラウスは、いま一番聴かれる数々のオーケストラ作品のほとんどを、早くに書き終え、1900年代以降、すなわち30代後半から「サロメ」や「ばらの騎士」を始めとする珠玉の傑作オペラに没頭してゆくのです。

「インテルメッツォ」は、全15作あるシュトラウスオペラの8作目。
家庭交響曲のように、シュトラウスお得意の家庭内秘話をオペラにしたようなもの。
作曲家の旦那に、嫉妬深い妻と、かわいい息子。
こんなのオペラにしちゃうシュトラウスの筆の冴えに驚きましょう。
オペラの前奏や間奏を抜き出した4編のうち、ふたつめが演奏されます。
ウィーンのワルツが散りばめられた親しみやすい音楽で、その2曲目は静かな家庭の雰囲気です。

プレヴィンとウィーンフィルの演奏は、この音楽が「ばらの騎士」の延長上にあることを理解させてくれますね。

オペラの過去記事→サヴァリッシュ盤

間奏曲過去記事→ プレヴィン盤メータ盤カイルベルト盤

Rstrauss_kempe

「メタモルフォーゼン」は、23の独奏弦楽器のための、という副題つきです。

日本とドイツが破れる年にこんな豊穣かつ、その終焉を思わせる音楽を書いていたシュトラウスがスゴいと思います。

シュトラウスといえば、日本の紀元2600年記念祝典(1940年)に、軍国帝国日本より祝賀音楽の作曲を委嘱され、「祝典曲」を書いておりますが、それはこのメタモの5年前。
シュトラウスの微妙な立ち位置がうかがわれますが、そのあたりは、弊ブログにも何度か書いてますし、6月の本定期前の本格レビューであらためて。
そして、ちなみに、敵対国になりつつあった英国ブリテンは、「シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)」を書いてよこして、日本政府の怒りを買うのでありました。

明朗さを心髄としたシュトラウスにあって、この曲はかなりシビアなもので、23本の弦が錯綜するように協奏的に奏であう熱さは、心にジワジワとしみ込んでくるものです。
結果が見えた戦争へのあらわしがたい怒りが感じられますし、最終部分であらわれるベートーヴェンの英雄交響曲の2楽章の旋律が、ドイツの国と精神のひとつの終わりを表明しているとされます。

シュナイト時代の神奈フィルが、この曲とエロイカの2曲でもってプログラムを組み、深遠なる演奏を披歴したと、聴いております。
いまの神奈フィルの弦セクションが、伸びやかになりつつある聖響さんの指揮で、どう響くか、まったくの聴きものにございます。

今回はケンペとドレスデンの良き時代の香りする演奏で。

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「ツァラトゥストラ」の冒頭、1分30秒。

泣く子も黙る「あれ」です。

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スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」です。
あの猿とモノリス、天に舞う骨、そして「美しき青きドナウ」。
いまでも謎っぽい、でも時代を経て少しチープになっちゃったけれど、シュトラウスのこの音楽を使うという天才的なひらめき。

カッコいいあの部分だけで終わってはいけません。
意外なまでに渋いツァラ全曲。
30分そこそこに、ニーチェの同名の書のエッセンスが散りばめられておりますが、あんな難書、わたくし読み切ったことはありません。
この曲あったから、大学時代意を決してチャンレンジしたけれど、数ページで沈没。

あんまり原作を意識しないで、シュトラウスのレンジの広いダイナミックかつ精緻な音楽に耳を傾けましょう。
オルガンの咆哮もみなとみらいホールゆえ、聴きどころではありますが、中間部のヴァイオリンソロの大活躍とその3拍子のワルツが極めてステキなのであります。
ヴァイオリンに絡むように、オーケストラの各奏者たちが付かず離れず、名技を競うのです。
これほど、コンマス石田&神奈フィルフレンズにお似合いの曲はございませんぜ。
楽しみ楽しみ。

メータとロスフィルのデッカ黄金時代の当時目も覚めるような録音は、いまは少し霞んできてしまいましたが、堂々としたその演奏は素晴らしいです。

過去記事→新旧メータ盤ショルティ盤

6月には、違う演奏でいくつかこの曲のことを考えてみたいと思ってます。

神奈川フィルのシーズン定期に是非おいでください。

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2012年4月27日 (金)

リスト「前奏曲」とワーグナー「リング」 5月神奈川フィル定期

Hibiyakoukaido1

この急な階段に、重厚なる建築物。

わたしも、この階段を昇り、帰りは上気した気分でゆっくり慎重に降りたことが何度かあります。

Hibiyakoukaido2

正面にまわるとこの趣き。

昭和4年の開設。生きる東京の歴史です。

1階には、アーカイブカフェがあって、蓄音器が鎮座し、SPコンサートも行われちゃうみたいだ。

わたしの思い出に残るこちらでのコンサートは、ドラティと読響のハイドン「ロンドン」とマーラー1番だ。
初ライブ・マーラーはいまも鮮やかに、そのドラティの動きのまったく少ない指揮とともに、このホールの音塊を覚えております。

響きは少なめだが、音のブレンド感は抜群。

Hibiyakoukaido3

レトロです。

日比谷公会堂には負けますが、神奈川フィルのもうひとつの本拠地の音楽堂も歴史あります。

そして、素晴らしかった神奈川フィルの今シーズンオープニングのマーラー。

次に続く今シーズン演目を、一挙に先取りして聴いちゃいますシリーズやります。


Liszt_les_preludes_sinopoli

神奈川フィルハーモニーの5月の定期公演は、リストワーグナー

もっとも楽しみにしているコンサートのひとつ。


 リスト 交響詩「レ・プレリュード」

       ピアノ協奏曲第1番

        Pf:後藤 正孝(2011 リスト・コンクール1位)

  ワーグナー 「ニーベルングの指環」抜粋

        指揮:現田 茂夫

  2012年5月25日(金) 19:00 みなとみらいホール


わたくしのブログをご覧いただければおわかりのとおり、わたくし、そこそこのワグネリアンなのでもございます。
その膨大なワーグナー音源をこの先の人生、再び聴けるか、その置き場所は・・・、悩ましい問題デス。考えると夜も眠れません。

ワーグナーの理解者であり、義理の父親でもあるリスト
この二人の作曲家のコンサートとはまた実にオツなものであります。

マーラーを演奏した後に、そのマーラーや同時期の音楽家に徹底的に影響を与えたワーグナーの音楽と、ワーグナーの根源にある存在のリストを取り上げることの妙。
世紀末のドイツ・オーストリアに焦点をあてた神奈川フィルの今シーズン。
その世紀末を生きた作曲家たちの指標になったのがワーグナーの、それも「トリスタン」を中心とする巨大な楽劇なのですから、マーラーのあとに聴くワーグナーにリストは格別なものがあるんです。

交響詩の元祖リストの、その名も「前奏曲」(レ・プレリュード)。
この曲は、ともかくカッコよくってダイナミックだし、抒情的な夢見る場面にも欠けておりません。
その中間部のホルンの朝の目覚めのような音色が魅力的なパストラルな場面が素敵です。

また違う演奏でレビューしますが、今回はシノーポリとウィーンフィルの生々しい演奏を再度取り上げておきます。(→過去記事

Abbado_chopin

コンサートの2曲目は、同じリストのピアノ協奏曲第1番

協奏曲的な華やかさを持ちつつ、交響詩的なファンタジーあふれる音楽。

トライアングルの活躍が聴きものです。

こちらの最強の演奏は、若きアルゲリッチとアバドの共演。

瑞々しさと勢いに溢れた永遠の名演であります。(→過去記事)

演奏会ではリストコンクールの勝者の若い後藤さんと現田さんの巧みなサポートが聴きもの。

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ワーグナーの4部からなる大作「ニーベルングの指環」。

延べ15時間あまりを要する史上空前の連作音楽劇。

一般のリスナーには、あまりに手ごわい作品なれど、その中からオーケストラ映えする名曲をチョイスして演奏することも、コンサートではよく行われるし、CD録音も多数出ております。

なかでも、ヴリーガーによる編曲は、連続して1時間あまりの「リング」ファンタジーのような大作で、CDもそこそこ出ております。

しかし、今回の神奈川フィルの演奏では、ヴリーガー版だと長く、重くなりすぎてしまうので、リング全体からの自由なチョイスによる演奏ではないかと推察しております。

現田さんの、外向的で華やかかつ歌心にあふれたワーグナーが楽しみです。
CDでは、ヴリーガーやマゼール版以外のチョイス版では、録音の素晴らしさも含めて、ショルティとウィーンフィル盤が最高。(→過去記事)
ウマすぎるし、オケの味がありすぎです。
あとは、セルとクリーヴランドなんかが定盤でありましょう。

ワルキューレの騎行ばかりに注目せず、5月の緑を感じながら「森のささやき」を、そしてワーグナーの行きついた最高のオーケストレーションを感動的な「ブリュンヒルデの自己犠牲」で味わっていただきたいです。

いずれも、神奈川フィルのビューテフルな音色がホールに鮮やかに広がることでしょうnote

次は6月定期を先取りします。

神奈川フィルのシーズン定期に是非おいでください。

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2012年4月26日 (木)

マーラー 交響曲「大地の歌」 バーンスタイン指揮

今日はまず、TBを頂戴した記事と、そちらでご紹介されていた新聞記事を。

「観劇レビュー&旅行記」からいただきました。

神奈川フィルハーモニーが直面している問題と、日刊工業新聞という業界紙での黒岩神奈川県知事の書かれた記事をご案内いただいております。

2012423


神奈川フィルのファンとして切実な問題をこれをお読みいただければ、弊ブログで毎度、悲喜こもごも記事にしているこのオケの現実をご理解いただけるものと存じます。
金さん以前から充実していますよ、と一言いいたいところではありますが・・・。

特例公益法人から新制度上の公益法人への移行期間5年間のリミットは、来年11月。
いまさらながら切迫感あります。

日本の文化芸術が、経済の逼迫、企業の競争論理、政治の不在、そして何よりも文化を享受するわたしたちの心のゆとりのなさ・・・・、こんなことから特定の人たちだけのものとみなされるようになり、危機的になってきております。

オーケストラを聴く人なんて、そんな一部に税金をつぎ込んでいいのか?
平気でそんな風に思い発言する方もいらっしゃいます。
あまりに悲しいじゃありませんか。

わたしたちは、幼稚園や小学生の頃、音楽の授業などでクラシックの名曲を学び、斜に構えることなく、純心な気持ちで、それを嬉々として受け止めたのではないでしょうか。
プロのオーケストラのほとんどが、全国津々浦々、学校訪問をして日々多忙な活動をされております。
オケの皆さんは、一音一音に目を輝かせる子供たちの姿を知っているはずです。
子供たちは、お家に帰ったら、お父さんお母さんに、今日聴いたオーケストラのことを興奮してお話するかもしれません。
そのあと、子供たちがクラシックから離れて、ほかのジャンルの音楽に心惹かれていくかもしれませんが、オーケストラに感じた気持ちはきっと、ずっと変わらないかもしれません。
大人が、オーケストラのことを無用だと思ってしまってはお終いであります。

なんとかうまい着地点を見いだせることを切望しております。

自分は自分にできる応援の仕方でサポートしていきたいと思ってます。

先週金曜日の、マーラーが、実はまだ耳に残っていて、ことに「告別」には完全にまいっているんです。
聖響&神奈川フィルのマーラーの総決算が、あの美の極致のような「告別」にあったのだ。
儚くも美しくきらめくマーラーでした。

神奈川フィルなんて・・・、と少しでも思う方に、是非とも耳の穴かっぽじってでも聴いてもらいたかった。

再度取り上げますが、バーンスタインの演奏を。

Mahaler_das_erde_baerstein

  マーラー 交響曲「大地の歌」

       Ms:クリスタ・ルートヴィヒ  

       T :ルネ・コロ

  レナード・バーンスタイン指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
                     (1972.5 @テルアヴィブ)


フィッシャー・ディースカウとのバリトン盤に続いて、望まれていた女声版の「大地の歌」は、イスラエルでのライブ。
映像も出てます。
当時高校生のわたくしは、レコード即買い。
SQ4チャンネルという、いまや死語と化した方式による録音で、響きが多く音はキンキンして薄っぺらで困ったものだった。
CD化してかなりよくなったものの、硬い音ではあります。

バーンスタインIPO過去記事は→こちら

しかし、そんな録音状態を飛び越えて、バーンスタインの描き出す濃密なるマーラーの世界は独特のエモーションを醸し出していて、告別に向けてどんどん引き込まれていってしまう。
ヘルデン・テカテカとした輝かしいルネ・コロと、ヴィブラート多めながら、お馴染みのルートヴィヒの情のこもった名唱。
「告別」はもう涙なくしては聴けませぬ。
オケの楽員ひとりひとり、楽器のひとつひとつがルートヴィヒの歌唱と同次元に情に溢れていて、聴くこちらも同じ境遇にすっかりおかれて別れの同一感にさいなまれる。

先般の神奈川フィルの透明感あふれるすっきりマーラーとは、かなり異なる趣向にありますが、こちらも聴くわたしの心かき乱す壮絶なる演奏。
そして、慎重にレコードを取りだし、ターンテーブルに乗せ、慎重にカートリッジの針を落として学校帰りの毎夕、日暮れとともに聴いたこのレコードがともかく懐かしく、遠い昔が蘇ってくる想いがする。
いまや、しょうもなく、八方塞がりの大人になってしまったものだ。

Koukyogaien_2
 (皇居外苑の八重桜~先週末のこと)

神奈川フィルの演奏もそうだが、アバドとベルリンフィルの繊細かつ静的な美演が典型なように、オッターの透き通った歌唱も含めて、最新のマーラー演奏は、大きく変わったものだと、このレニー盤を聴いて実感している。

がんばれ神奈川フィル。



「神奈川フィルを勝手に応援する会サークル」Facebookやってます~ワタクシ練習中。

http://www.facebook.com/yurikamome122

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2012年4月25日 (水)

レオ・ヌッチ リサイタル

Seimen_1


マルちゃん 正麺である。

正しい麺と書くインスタントラーメン。

みなさん、一度はお試しになられたことでありましょう。

これの醤油味を、これももしかしたら誰かやったかもしれない、パッケージの写真のように作ってみたのであります。

Seimen_4

角度がちょっとアレですが、具材は全部手製、もちろんネギやほうれんそう、豚も鶏も飼ってませんがね。

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この正麺は、マジにうまいですよ。

ばら売りで100円ですし、こんなCPの高いラーメンはない。

まるでラーメン屋さんのような仕上がりになりましたよ。

実に正しい。

Leo_nucci

  レオ・ヌッチ リサイタル

ロッシーニ 「セビリアの理髪師」 私は街のなんでも屋

プッチーニ 「ジャンニ・スキッキ」 スキッキの演説

ヴェルディ 「リコレット」 二人はおなじ

     〃         リゴレットとジルダの二重唱

         (ジルダ:エレノーラ・ブラート)

ロッシーニ 「セビリアの理髪師」 あの不思議にして万能の

         (伯爵:エンリコ・イヴィーリャ)

     〃               立派だよ、ご両人

         (ロジーナ:フェレデリカ・カルネヴェーレ)

ジョルダーノ 「アンドレア・シェニエ」 国を裏切るもの


       Br: レオ・ヌッチ

       Pf:ミルコ・ロヴェレッリ

               (2007.9.11@スポレート)


イタリアの名バリトン、レオ・ヌッチのアリア・リサイタルを聴きます。

ヌッチは、今年70歳。まだ現役でしょうか。

純正イタリアバリトン、しかもバスティニーニ、カプッチルリ、ザナーシ、ブルゾンと並ぶヴェルディ・バリトン。
この人がもしいなかったらカプッチルリ後の空白が生まれてしまったことでしょう。
実は、カプッチルリは何度も聴いているけれど、ヌッチは何故か、その舞台に接することなく今に至ってしまった。

1981年のアバドとクライバーによるスカラ座引っ越し公演にて、鮮やかな日本デビュー。
当時、新入社員だったので、大好きなアバドの定番「シモン」のS席を入手するのが精いっぱい。
いま思えば、アバドの「セビリア」もカルロスの「オテロ」「ボエーム」も死ぬ気で確保すべきだった。生涯に悔いの残る出来事のひとつだ。

Nucciaraiza

その「セビリア」は、FM生放送で家で聴いていた。
フィガロの登場の場面、「わたしは街のなんでも屋」で、聴衆からヒューというか溜息みたいな歓声が上がるのを聴いた記憶がある。
その時の実況アナウンサー 後藤美代子さんが上品に、そして実は興奮しながらヌッチの颯爽とした登場場面を語っていたのを昨日のように覚えてる。
イキイキとしたポネルの演出では、フィガロは舞台を縦横無尽・八面六臂に駆け回るスポーティな人物で、先の登場の場では、消防団のように、二階から滑り棒でスィーと滑り出てきたのだった。
そして、その小又の切れあがった鮮やかな歌声に、日本中が痺れたのでした。
この時は、アバドの快速オーケストラにのって、絶好調舞台だった。
同時に、ほぼ日本デビューのアライサとヴァレンティーニ・テッラーニ、エンツォ・ダーラという超強弓のキャストで、そのいずれもが日本にその名を刻んだ歴史的な舞台だったのです。

アリア集の録音がほとんどないヌッチの貴重なリサイタルライブ。
オペラデビューしたゆかりあるスポレートでのライブで、ヌッチが中心となって、若い歌手たちも新鮮な歌声を聴かせております。

上にあげたのはヌッチの登場曲のみで、ほかには、私には初聴きの名前の若手歌手によるアリアや重唱も演奏されている。
そんななかで、日本の佐藤康子さんが、トロヴァトーレのアリアを堂々と歌って喝采を呼んでおります。
佐藤さんは、カヴァイヴァンスカに師事し、スポレートに学びデビュー、その研修後の頃の披露公演に思われる。
あれれ?と思うほかの歌手の中にあって、ピカイチですよ佐藤さん。
日本人としてブラボーを浴びる様子が頼もしいのでした。

そして、ヌッチの衰えを知らないピッチピチの歌声は聴く人を必ずや元気にしてしまう。
フィガロの早口言葉のような機関銃歌唱には、いまも舌を巻きます。
悲劇のかたまりのようなリゴレットでは、ヴェルディ魂がこもってまして、心が熱くなる。
達者なジャンニ・スキッキは、まるで千両役者のようで、これなら誰しも騙されちゃうね。
最後の、わたしの大好きなジェラールのアリアは、バスティアニーニ、カプッチルリと並ぶ、最高の名唱。
祖国を思う熱さと、恋敵への憎しみの二律背反をクールな情熱でもって歌いこんでます。
わたしもカラオケで歌ってみたいぞ、このジェラール、そしてシェニエのアリアもnote

ピアノ伴奏によるコンサートながら、曲を追うごとに熱いです、すごい歓声に包まれます。

しかし、ホールの残響が不自然なのが難点。

レオ・ヌッチには、いつまでも元気で活躍して欲しいと熱望いたします。

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2012年4月23日 (月)

ベルリオーズ 交響曲「イタリアのハロルド」 マゼール指揮

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麗しのナポリタ~ン。

粉チーズを真っ白に振りかけて、黒コショウと、タバスコをたっぷり。

大好きナポリタン。

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はいはい、ナポリタンですよ。

いい盛りしてますよ。

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まるで「ナポリタン定食」。

これで550円の満腹コース。

わたしのもうひとつの職場、西川口にあるキッチン「いさつ」でございます。

おばちゃんたちと、お馴染みになっちゃった。

大盛りが過ぎるものだから、日によって、ご飯がなくなっちゃう。

そんなときは、「ナポリタンでいいですね」と無理やり食わされちゃう(笑)。

ベタだけど、「イタリア」いきます。

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  ベルリオーズ 交響曲「イタリアのハロルド」

       Vla:ヴォルフラム・クリスト

   ロリン・マゼール指揮 ベルリン・フィルハモーニー管弦楽団
                   (1984.4 @ベルリン)


幻想ばかり聴いてきたけれど、ベルリオーズにはもうひとつ「ロメジュリ」と並んで、交響曲があったのでした。

もちろんこちらもだいぶ以前から聴いておりましたよ。
大昔に、日本フィル解散前のフジテレビで日曜早朝、渡辺暁雄さんの指揮だったかで、見て聴いたのをぼんやりと覚えている。
以来、この曲は幻想やほかの強烈なベルリオーズの諸曲にまぎれてしまいがちな地味曲として存在していた。

ヴィオラソロを伴う交響曲という、その後いまにいたるまで、かつてない編成の交響曲。
ヴィオラ協奏曲のように、そのヴィオラにスポットをあて、全編大活躍をさせればよかったのに、ラストはほんのちょっとしか出番がなく、たとえばコンサートでやるにしても、ヴィオラソロを立たせて、協奏曲のようにするにはソロ効果が薄いので、奏者には気の毒なことになってしまう。
だから、主席に名手のいるオーケストラで演奏するのが一番な交響曲なのです。

バイロンの「ハロルドの巡礼」にもとずく4つの楽章の標題的な作品で、その劇の舞台は南イタリアの陽光あふれる海と山のあるアブラツィという街。

1830年の幻想交響曲から4年後に書かれた「イタリアのハロルド」は、「レリオ」がありながらの「幻想」の姉妹作のような似た関係にある。
劇中人物の世をはかなんだハロルドのテーマが中心となり、そのハロルドの冒険ぶりを描いたもの。
そして、そのハロルドとは、ロンドンっ子のバイロンが描き出したいつも雨に煙ったロンドンと大いに異にするイタリアを舞台にした冒険譚。

①「山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の情景」

②「夕べの祈りを歌う巡礼の行列

③「アブルッチの山人が、恋人捧げるセレナーデ

④「山賊の饗宴、前の情景の追想

1楽章で最初に出てくるヴィオラによるハロルドの主要主題が、その登場の仕方とともに、とても親しみやすく好きですな。
繰り返しがやたらと耳につき、いつしか敬虔な巡礼のやまない行列に思えてくる2楽章。
きっとベルリオーズは、巡礼なんてやるわけない、と思っていたのでしょう。
少しばかり戯画的であります。
そして忘れがたい地中海的明るさの3楽章。
幻想ほどの破壊力なないものの、こちらも無茶ぶりです4楽章の乱痴気さわぎ。

よくよく楽しめば、実によい音楽であります「イタリアのハロルド」

マゼールの才気煥発ぶりが、2度目の蜜月時代のベルリン時代のこちらで味わえます。
このあと、すっかり、自分が選ばれるものと思っていたベルリンフィルのポストを楽員投票で無為のアバドに奪われ、おとなげなく怒っちゃったマゼール。
ウィーンでもベルリンでも、60~70年代初めの頃のような大胆な面白さを披歴していた自信満々のマゼールゆえに、ウィーンとベルリンでの失態はショックだったでありましょう。
 どっこい、その頃の演奏は、わたしも実演で聴いてるが、このCDも始めとして、実に素晴らしくもユニークなものでした。
抜群のオーケストラコントロールで、オケは鳴るときは気持ちいいくらいに鳴りまくり、抑制すべきはピタリと止めてしまう。
余裕と自信がみなぎった演奏でございます。
オケの明るさと機能美も最高。

ミュンシュ、バーンスタインと並んで、最高のハロルドにございます。
マゼールには、もうひとつ、クリーヴランドでの録音もあって、そちらは未聴。
あと、メータとバレンボイム、デイヴィス(今井さん)のもの聴いてみたいと思ってます。

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2012年4月22日 (日)

ベルリオーズ 幻想交響曲 T・トーマス指揮

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小便小僧ファンの皆様、お待たせいたしました。

4月の小僧をようやく更新いたします。

マーラーに夢中になっておりましたものですから。

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少しボケでしまいましたが、4月小僧は、ランドセルしょったピッカピカの1年生でしたよ。

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左手でおしっこ、右手に桜。

なんだか羨ましい感じ(笑)。

急いでて、電車が来ちゃったので、後ろ姿撮れず飛び乗っちゃいました。

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マーラー熱に阻まれて、久方ぶりに聴くマーラー以外の音楽。

     ベルリオーズ 幻想交響曲

  マイケル・ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団

              (1997.7 @サンフランシスコ)


毎月聴いてるけれど、なんだかとっても懐かしく感じる幻想です。

ベルリオーズとマーラー、どちらも先達たちがやらなかったオーケストラの破天荒な魔術師。
マーラーの方が生真面目で、ベルリオーズの方がはちゃむちゃ。
でも女性を愛することにかけてはどちらも負けちゃぁいない。
人のことは言えないが、気の毒なくらいにモテナイ男が、いい女に恋してしまう。
どちらも男の私からみたら、同感できるし、その妄想ぶりも好ましく同感できる(??)し、ワーグナーとともに友達にはしたくないタイプだけど、嫌いじゃない人物。
大先生にこんな偉いこと言ってます。

そんなマーラーとの親密性を思わせるナイス極まりない演奏が、マイケル・ティルソン・トーマス(以下MTTという)の幻想交響曲。

MTTの幻想は、アバドのあとを引き継いだロンドン響時代、来日公演のFMライブで聴き、録音したものが、まるでMMTの名作のハルサイのようなハジける凄演だった。
そして後年、サンフランシスコ交響楽団(以下SFSという)と97年に正規録音したが、それを入手したのは、つい最近。
あのロンドン響のときよりも、はるかにずっとハジけてるsign03
思いきりイキがよくって、とれたてのお魚のように鮮度が高く、味わえば歯ごたえもあって、食感・味わいともに申し分なし。

1楽章では繊細きわまりない出だしから、愛する女性の旋律の登場から音楽が息づきだし、リズミカルな動きに拍車がかかる。
こんな生き生きとした1楽章はミュンシュ以来かも。
スピーディなワルツもこだわりなく、すっきり。
すっきりといえば、野の情景は、ヨーロッパ絵画風でなく、アメリカの整備された緑豊かな広大な公園を思わせ、そこにはインターナショナルな交流さえうかがわせるものだ。
ここまで聴いても、ほかにはない、ともかく面白い幻想と思わせる。
異型ぶりが際立つ断頭台への行進曲は、メリハリが豊かで、キレ味抜群。即死ですよ。
そして、めくるめくワルプルギスの夜は、幻想歴40年のワタクシもおったまげる自由自在ぶり。
全編にいえることなれど、それは奇抜じゃなくって、めくるめく世界を、まるでページをめくるが如くに次々に味わうに似た感興。
豊かな表現力に裏打ちされた大胆かつ自在な演奏なのだ。
「ディエス・イレ」以降の鮮やかな盛り上がりと、熱中具合。
そして最後の猛然としたアッチェランドには、もう手放しで興奮するしかない。
とんでもなくスゴイよお客さん。

MTTとSFSの素晴らしさに今さらながら感嘆。

こうなったら彼らのマーラーを全部聴かなくっちゃup

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2012年4月21日 (土)

神奈川フィルハーモニー 第280回定期演奏会 金聖響指揮

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いつもこの画像になってしまいます、神奈川フィルのみなとみらいでの演奏会。

余裕をもって赴き、もっとほかのスポットを探さなくてはなりませんねぇ。

でも、常に変幻しているこの大観覧車の色合い。

この日の神奈川フィルのマーラーに似合っているカラーは、こちらのクールなブルーかも。

ずっと聴いて、まさに喜びも悲しみも共にしてきた感のある「聖響&神奈フィルのマーラー」。
一人の指揮者が、同じオーケストラで短期間にマーラーをこれだけ集中して演奏するということは、都響の例をおいて他にはないのではないでしょうか。
CD化が予定されていクック版10番をシーズン後半に控え、きっといつかはやってくれる8番で、交響曲は完全制覇。

終演後の乾杯式で楽団理事がおっしゃっていましたが、マーラーを通じて、指揮者もオケも、そして聴衆も成長をしている、と。
まさにそうです。
おかげさまで、かつて聴き過ぎて、ある意味遠ざかっていたマーラーが、またわたしの近くにやってきました。
ありがとう神奈フィルnote

Kanaphill20120420

   マーラー 交響曲第10番~アダージョ

        交響曲「大地の歌」

     Ms:竹本節子    T:佐野成宏   

   金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

        (2012.4.20 @みなとみらいホール)


パンフレット・ソノリテも新しくなり、新シーズンの幕開けは、ヴィオラの精妙かつ虚しさ募る序奏で始まった。
前シーズンの最後のマーラーは、第9。
そしてその最後も、ヴィオラの絶えるような音色だった。
同じ席、同じメンバーで聴くまるでデジャブ。
マーラーの凄さが冒頭から実感でき、そのうえ、ヴィオラパートの美しいこと。
ここから、この美しく繊細なアダージョの演奏は決まったと思った。

わりと快速で、思い入れ少なめに淡々と進行するこの演奏。
でも出てくる音色のひとつひとつが洗練されていて、音ひとつひとつ、パートひとつひとつが、まるで室内楽のように浮き出て聴こえる。
変転を繰り返し、やがて達するカタストロフ的な叫喚にあっても、神奈フィルは美しい。
一筋残る、トランペットも見事にホールを貫きました。
最後のとびきりキレイな結び。
ヴァイオリンがどこまでもどこまでも高音に上げてゆき、実際目で奏者の皆さんたちが指板の一番上まで、指を伸ばしてゆく姿を見ながら聴いていると、感銘もひとしおでございました。

聖響さん、指揮ぶりがどこか変わったように感じられる。
これまで何度も書いてきたクネクネが姿を消し、流麗な動きになりつつあるように思ったけれどどうでしょうか。
実は、この曲の中間部で、音が一瞬分解しそうなところがあってヒヤリと思いました。
わたしの聴き過ごしかと思っていたら、乾杯式で某首席の方が、そのようなことをおっしゃっていたので、あらやっぱり、と自分の耳に感心したりしたものです。
すぐさま修正してしまうプロの力にも感心です。
聴いてると美しいモザイクのようなこの曲。とても難しい曲なのでありますな。

充実の一夜、後半はいよいよ「大地の歌」。

休憩中、ワインなんぞを流しこんで、ほろ酔いで聴く「大地の歌」。

この曲は、「告別」に焦点を絞って聴いてしまうのだが、やはりその「告別」が素晴らしかった。
重く重なるハープを含めた低弦、その上に虚無がごとく鳴るオーボエ。
この開始部からして、この音楽の持つただならない雰囲気に息をのまれ、そしてわたしの涙線は早くも緩んでしまった。
チェロが静かに一音引っ張る上に、今度はフルートが舞うなか、竹本さんの深い声による歌がそこに始まる。
この長い楽章のなか、これと同じ場面が3つあって、今回ライブで初めて気がついたこと。
最初はチェロ、次はコントラバス、最後はチェロとコントラバス。
静かで絶え入らんばかりのその絶妙な音色は、これもまた神奈川フィルならでは。

以降、時おり涙も滲ませながら、まったく神妙に聴きとおした「告別」。
中間部、マンドリンも加わって、オーケストラが絶美のパレットを築くなか、「おお友よ・・・・」歌い出すとき、ついにわたしの涙は決壊。
身悶えするほどに素晴らしい瞬間。
ほかの楽章にも増して、ソロ楽器に素晴らしいシーンの続出するが、山本さんのチェロはともかく絶品。
神奈フィルの誇る主席の皆さん、そしてこの素晴らしい音楽に完全に入り込んで全霊で演奏するオーケストラの皆さん、いつもこうして親しく拝見・拝聴していて、いまほど嬉しく、感動的なことってありませんでしたよ。
それもまた、人の心を揺さぶってやまないマーラーの音楽の素晴らしさゆえなのですから。

長いオーケストラの葬送のような深刻なる部分をしっかり受け止め、やがて別れの盃を交わす神妙かつ澄み切った最終場面に。
竹本さんのアルトは、輝きと深さを保ちながらこの無情なる世界を歌いつくしてまして、最後の最後、「永遠に・・・」を何度も繰り返すときには、もうわたしの視界もぼやけてしまった。
繰り返しますが、この最終局面でもオーケストラの華奢でクリアーで透明感ある響きは絶美の極みで、みなとみらいホールのアコーステックと完全一体化。
無調の扉を開きつつあった不安感と安堵、そして彼岸の音色を築きあげてしまったマーラーの素晴らしさを最後の音が消え入るまで、そしてその後の長い静寂も含めて、堪能しつくしたワタクシにございます。

ほかの楽章も、聖響指揮するオーケストラは目を見張るほどの充実ぶりでした。
あんまり気持ちよく鳴らしてしまうので、威勢のいいところでは、声が完全埋没。
このあたりは課題でございましょう。
初マーラーにチャレンジした佐野さん。
本来は、イタリアンのリリカルな声ゆえ、正直無理もあったかもしれない。
3楽章と5楽章はまだしも、オーケストラと拮抗しなくてはならない1楽章では威勢がまったく揚がらない。
「生は暗く、死もまた暗い」のこの楽章のキモともいうべき決めゼリフがまったく届かなかったのが残念。
「大地の歌」のテノールの難しさは、ここにあって、3つの楽章ともに全部性格が異なるものだから声質の違うテノールが3人必要なくらい。

ワーグナーの舞台で、何度も接してる竹本さんは、その点独語の発声といい響きの豊かさといい万全でした。
それでも、馬が弾ける4楽章のオーケストラの大爆発には敵いませんでしたが・・・・。

暗い死の陰と厭世感が覆う「大地の歌」の最後には、希望の光が宿っております。

 愛する大地にふたたび春がくれなば、

 いたるところ花は咲き、緑はふたたび栄えるであろう。


 いたるところ永遠に、遠きはてまで輝くであろう、永遠に・・・・・・


素晴らしいマーラーをありがとう、「聖響&神奈川フィルsign03

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新シーズン開始の恒例の乾杯式。

山本&石田のお二人によるソロをまじかに聴くことができました。

山本さんは、バッハ無伴奏1番のサラバンド、石田さんは、「ロンドン・デリーの歌」反回転ジャンプ付き!(わかりますよね)
素晴らしいマーラーのあと、心に滲みるソロ、ありがたいことでした。

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式がはねたあとは、いつものメンバーに新しい方もお迎えして、居酒屋へ急行beer

すごい勢いで、飲んで、食べて、いまのコンサートの話をして、日付が変わって、すごい勢いで終電に乗って、酔っ払い電車で帰宅しました。

皆さま、お世話になりました。

さぁ、次は現田さんの指揮で、「リング」だぁsign01


 
次回神奈川フィルハーモニー定期演奏会

  リスト 交響詩「レ・プレリュード」

       ピアノ協奏曲第1番

        Pf:後藤 正孝(2011 リスト・コンクール1位)

  ワーグナー 「ニーベルンクの指環」抜粋

        指揮:現田 茂夫

  2012年5月25日(金) 19:00 みなとみらいホール

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2012年4月19日 (木)

マーラー 第10アダージョと大地の歌 アバド指揮

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お清めの手水舎(てみずや)に反映する桜と東京タワーです。

その東京タワーの先っぽ工事は、先日レポートしたばかり。

その先っぽの撤去にあたり、吊りの不具合で、本日事故が起きたみたいです。

安全第一、気をつけましょう。

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満開の桜を振り返って懐かしむとしましょう。

何があっても、必ず四季の訪れとともにやってくる自然の循環。

悲しくても、苦しくても、桜は必ずやってきます。

わたしたち、うつろい去る人間の生は有限なれど、自然は悠久。

自然が自然を変えることはあっても、人間が自然を変えてしまうことは、時に許されざることなのかもしれない。

わたしの住む場所の桜の季節に一気に聴いたマーラーの交響曲。

その最後のピークを、神奈川フィルハーモニーの定期演奏会にもっていってます。

その前夜、敬愛するアバドの指揮で、コンサートプログラムを再現してみます。

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  マーラー 交響曲第10番~アダージョ

         交響曲「大地の歌」

   クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                   ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

          T:ヨナス・カウフマン
      
         Ms:アンネ・ゾフィー・オッター

            (1985.6 @ウィーン、2011.5 @ベルリン)


このふたつの晩年交響曲の組み合わせは、最近トレンドなのでしょうか。

演奏するオーケストラは大変でしょうが、聴く側にとっては最強のプログラムです。

スカラ座で、ミトロプーロスの指揮するマーラーの3番に接した少年アバドは、その時の新鮮な驚きと感動を、いまにいたるまで60年以上ずっと持ち続けているように思える。
多感な少年時代の思い出を語った指揮者伝を読んだことがあります。
厳粛な音楽家だった父、優しいピアニストだった母、哲学や文学、そして自由な考えを教えてくれた伯父。
アバド一家はサラブレット家計なれど、純なる人々ばかりなので、これからもまた有力芸術家を輩出するのかもしれません。

ウィーン時代に手がけた10番アダージョは、ウィーンのオケの甘さに裏打ちされた微笑み感じる演奏であるとともに、音が鋭くかつ少し濃いめ。
アバドとともに、オーケストラの訛りを感じる共同作業で、とてもよい。

Abbado


そして、26年を経たベルリンでのマーラー特別演奏会。

昨年すぐさまNHK放送され、その折りに感銘を受け記事にしました。

その時の記事はこちら→アバド・ベルリン

いま再度、その演奏を確認しました。

アバドの行きついたマーラー演奏の極みを。

なさざる「無」、いや、せざる「無」。

マーラーの楽譜が鳴っているだけ。

それ以上のことはなく、それが最大限の音楽への素直な奉仕。

なにもしていないところの凄さなのです。

アバドのいまある境地はこんなところにあります。

そして、その音色は明るく、どこまでも光が当たっている。

初聴き時は、不感症みたいに思ったオッターの歌が、今回、スリムで繊細、そして心の襞を埋めてくれるような透明な歌声に感じられるようになった。
「告別」では、アバドとベルリンの孤高の境地を反映して夕映えのような素敵な歌唱を披歴しておりました。

対するカウフマン。放射能にビビって来日してくれない、いけずなカウフマンだが、この歌声を聴いちゃうと、直に聴きたくなること必須。
太めのヘルデンでありつつ、軽さも持ち合わせていて、ヒロイックさと軽妙さを歌い分けることができる。
最高の「大地の歌」テナーであります。

ラトルがベルリン定期で、オッターを起用して今年「大地の歌」を演奏していて、そちらが音源化されると、アバドのこちらはまたお蔵入りかもしれない。
ルツェルンで再度やって欲しい。

それにしても、聴くわたしの心を照らし出してしまうような「告別」の素晴らしさたるやいかにばかりせん。

いまこの時点で、私が死んだらこれを流し続けて欲しいと思う。

Ewig・・・ewig・・・・・・永遠に。



神奈川フィルハーモニー 定期演奏会

 
  マーラー 交響曲第10番~アダージョ

        交響曲「大地の歌」

  T:佐野成宏   Ms:竹本節子

   金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

2012年4月20日(金) 19:00 みなとみらいホール

明日です、どうぞ、お聴きのがしありませんように
note

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2012年4月18日 (水)

マーラー 交響曲第10番~アダージョ ベルティーニ指揮

Shiba_6

毎度すいません、東京タワーです。

夜桜の背景でどうぞ。

芝増上寺の奥にある、徳川家の菩提方面。

その下には、無数のお地蔵さんと風車。

夜になると、まったくひと気がなくってしまい、風も少ないのに、かざぐるまがカタカタなってまして、ちょっと怖い雰囲気。

でもワタクシは、こういうの平気なんです。

写真もいくつか撮ったけれど、あんまりよく撮れなかったので、また別の機会に。

Shiba_2

増上寺と東京タワー、そして宵の明星です。

一番星。

この音楽を最後に、やがて自分の時代が来ると確信して、星になりました。

マーラーの最後の音楽。

Brhams_schonberg

  マーラー 交響曲第10番 嬰ヘ長調

   ガリ・ベルティーニ指揮 ユンゲ・ドィチュ・フィルハーモニー

                   (1978 @ベルリン)


1909年の第9に続いて、年一作ペースのマーラーは、翌1910年の夏にに、交響曲第10番の作曲に入る。
夏を過ぎ、体調のすぐれぬまま、またアメリカとヨーロッパを股にかけた多忙な指揮活動に従事するも、翌年、1911年5月18日にウィーンで亡くなってしまう。
51歳の短すぎる人生を駆け抜けたマーラー。

その歳をすでに超えてしまったわたくし。
ますます生への執着に溢れ、あれもしたい、これもしたいと思ってますし、諸先輩方からは、若い人はいいね、なんて、こんなワタシでも言われちゃう。
肉体的には、それなりに歳を感じるものの、まだまだ気概でも負けちゃいません。(つもりです)

マーラーの緯業を前に、芥子粒ほどのわたくしではありますが、その人生の悩みは大小こそあれ、近くに感じることもできます。
生計の基になるお仕事に、妻や子供たち、ふた組の両親のこと、そして何より、肉体と精神の具体的な衰え。
こうなってみないと絶対にわからない。
マーラー聴き始めの若いときには、絶対に理解の及ばぬことが、いまのわたしの世代には、具体的に身につまされるかたちで起こってくるのだから。

「大地の歌」・「第9」・「第10」の3作は、そうした意味で格別の想いをもって受け止めることができるようになってます。
それはまた、今後生きてゆくうえで、また違った姿で、私を魅了することでしょうし、その他のマーラー作品もまた然りなのでありましょう。

マーラーが10番について、どこまで残していたか、いまや全5楽章のほぼすべてが不完全ながら残されたとする節が有効のようで、それぞれの楽章にマーラー自身のいろんな想いを綴った書き込みもあるとされてます。

その補筆完成版は定番となったクック版を始めとして数種ありますが、今回は、マーラー協会の認める第1楽章「アダージョ」のみを取り上げました。
全曲盤は、またいずれ。
エルガーの3番とともに、完璧に成功した補筆完成版として、完全にマーラーの交響曲第10番として、その存在を確立しております。

25分の長大なアダージョ楽章は、第9の最後の楽章の延長のように、ヴィオラパートによる、むなしさ募る出だしで始まり、ヴァイリンの息の長い旋律でもって曲の雰囲気がかたちづけられる。
その後は、この旋律が中心となって、熱くてかつ寂しく、空しい展開が続くこの楽章。
随所に無調への入り口も見いだせるし、その空虚感が、あっちの世界を思わせもするが、最大のピークは、金管と、それに続く弦のひきつるような叫びです。
初めてこの曲を聴いたとき、それはメータの5番の2枚目のB面に付いてきた10番アダージョのレコードを聴いたときだ。
背筋が寒くなるような慟哭にもにた大音響。
そしてそれは、シェーンベルクのワルシャワなどの緊迫感に満ちた不協和音とトーンクラスター的技法の炸裂。
何層にも渡って襲いかかるこの場面に、一筋残るトランペットもやたらと印象的。
初聴きの1977年頃。
マーラーにあらためて、びっくりした時期でございました。

今日は、われわれ日本人にとってお馴染みの、ベルティーニの指揮する若いドイツのアマチュアオケの演奏にて。
オケは、少しチョンボもありますが、おおむね良好で、なによりも清新な雰囲気が、その弦の響きなどにもあふれております。
そして、美しい音の配列にことさら厳しいベルティーニの指揮があって、この10番の透徹した音楽が映えるのであります。
ケルンとの全集は、まだ聴けてない番号もありますが、ユダヤ人としての宿命的なイメージでなく、オリーブやオレンジの産地であるイスラエルの人、という、明るく明晰な音楽造りの人と感じていた。
ケルンとのマーラーチクルスや、都響の指揮者になってから、日本での名声が先行したが、わたくしは、それ以前にワーグナーやロッシーニも振るオペラ指揮者とのベルティーニに着目していた。
そしてFMで、81年頃に聴き録音してむさぼるようにして聴いたマーラーの7番(ベルリン)、3番(ウィーン響)で、ベルティーニのファンになった。
その後発売された、ケルンとの3番、6番のCDをそれぞれ、2CD=6000円を購入し、そのあと、都響やN響にやってきたベルティーニのマーラーをかなり聴いたものです。

このCDには、すでに記事にした、ブラームス=シェーンベルクのピアノ四重奏曲や、ウェーベルンのパッサカリアなどが収められております。
いずれも素晴らしく、わたくしのお宝みたいな1枚です。

後半に目が向きがちですが、オーケストラの持ち味が、とても味わえそうな、神奈川フィルの演奏会です。

神奈川フィルハーモニー 定期演奏会

 
  マーラー 交響曲第10番~アダージョ

        交響曲「大地の歌」

  T:佐野成宏   Ms:竹本節子

   金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

2012年4月20日(金) 19:00 みなとみらいホール

どうぞ、お聴きのがしありませんように
note

あと2日です。ヨコハマへGOsign03

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2012年4月17日 (火)

マーラー 交響曲第9番 金聖響&神奈川フィル

Tokoin_4

桜の種類はたくさんあって、こうして開花が少しづつずれていたりするのも嬉しいものです。

千葉の東光院というところで、日曜に撮影。

こちらはどの桜でしょうかね。

Tokoin_6

八重の一種かと思われますが・・・。

わたしの住む関東では、今年の桜は、ずいぶんと長く楽しめました。

もちろん、関東でも、少し標高を上がれば、まだ3~5分咲きのところもあります。

そして桜は順調に北上をしております。

北へ上がるほど、多くの方々を楽しませ、癒して欲しいものであります!

桜とともに聴いてきたマーラーの交響曲も、ついに完成された最後の番号になりました。

Mahler_sym9_seikyo_kanagawa

  
   マーラー 交響曲第9番 ニ長調

    金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                (2011.5.28 @みなとみらいホール・ライブ)


昨年5月に聴いた、神奈川フィルのマーラーの第9が、1年を経たずして最良の音質で聴くことが出来る喜び。

2月の定期のこのコンビの「巨人」のときに、マーラー・スタンプラリーのご褒美に頂戴したこのCD。
そのときからやってやろうと企画していた、さまクラ・マーラー・シリーズの第9に持ってきてやろうと思っていた音源。
先に発売された神奈フィル40年の「復活」の、ちょっと寸詰まりぎみの録音とはうってかわって、潤いと美しい残響、そしてあの「みなとみらいホール」の少し女性的な優しい響きを上手く捉えた録音に感じます。

約80分間、あの日のまるで、デジャヴならぬ、再体験といってもいい新鮮な感銘にあふれているんです。
あの日は、あいにくの天候だったけれど、「聖響&神奈フィル&マーラー」のとりあえずの一区切りの節目といった感慨が、演奏する側も、ずっと聴いてきたわれわれ聴衆にもあって、独特の刹那的なムードがホールにみなぎっていたように記憶しております。
 それは、震災後まだ間もない時期だったゆえの多感な思いも加わって、この時に、マーラーの第9という作品を演奏し、聴くという感情も確実にあったと思います。

マーラーの音楽は、こうした独特なシテュエーションやエモーションに、巧まずして符合し、そしてしっくりと入り込んでくる類いの音楽であります。
正邪悲喜、そのすべてを包括した多面的なマーラーゆえにございましょうか。

でも基本、マーラーはポジティブな人だったのでは、とわたしは思っておりますので、「大地の歌」以降の厭世3作があるにしても、マーラーは、トータルに、いまある私たち現代人のよき伴侶として、そして、スピーディで感情も刻々と揺れ動く毎日の生活に、なくてはならないビタミン剤のような存在のように考えます!

こんな風に思って聴いた方がいい。
どっぷり漬かって、胸かき乱すよりは。

そんな受け止め方を出来る聖響さんのマーラーなんです。

これはもちろん、神奈川フィルという類い稀な美音と覇気に満ちたオーケストラあってのことであるけれど、自己をある意味捨て、マーラーに同化しようとした聖響さんの素直さがあってのものだと思います。

このCDで、実演と違って聴こえるのは、いつもこだわる対抗配置で、ことに第1と第2ヴァイオリンの左右の掛け合いは、マーラーの巧みな筆致も相まって見事な効果をあげている。
マゼールやアバドのウィーン盤あたりから行われた第9におけるこの配置。
こうしてCDという安定した環境でじっくり聴くと、ヴァイオリン以外の低弦にも、その効果は見事にあらわれて聴くことができました。
 
   それと、ヴィブラート少なめの弦がホールの実演よりはすっきり感や清潔感が増して、ツィーツイーという細見の響きが、独特の繊細感とウェーベルン的な次世代感を醸し出しているところが聴きとれること。

普段のこのコンビを聴かずして、このCDで初聖響&神奈フィルを体験する人は、かなり進取で新鮮なマーラーに聴こえ、驚くのではないでしょうか。

これはこれで、彼らのマーラー演奏の一局面だと思いますが、2011年の神奈川フィルのマーラーとしてずっと記憶しておきたい演奏に存じます。
そして、お互い若いコンビなのだから、次なるマーラー象も可能でありましょう。
さらに、聖響さんには申し訳ないが、異なる指揮者とのマーラーも、いまの神奈川フィルならば聴いてみたい。

 
  1909年夏、イタリアに近いチロルオーストリアの街、トプラッハにて作曲。

Toblach2_2

こんな美しい町みたいです、トプラッハ。

指揮活動に忙しかったマーラーが、毎夏訪れる場所は、このように夏の作曲家マーラーの心象を優しく刺激する素敵な場所ばかりだった。

指揮活動も、家庭も、どこか冷え込みつつあったこの時期のマーラーを優しく迎えた景色かもしれません。

だから、わたしは「死に絶えるように・・・」と記された終結部のあとには、新たな世界と希望があると確信して、この無類に素晴らしい音楽を聴くのです。

「大地の歌」もしかり、この曲にも聴きどころは書けませんし、不要。全部です。

またもずるい作戦で、この日のライブの記事を再褐します。

以下本ブログ、2011.5.29より引用~長いです

>ついに「第9」にたどりつきました。
聖響&神奈川フィルのマーラー・チクルスは、昨シーズンからこれで、2番から8番を除いて、9番まで、7曲を聴いてきたわけです。
マーラーのなかでも、「第9」は、次の第10があるにしても、行き着いたひとつの道標みたいなところがあって、演奏する側も、聴く側も、思いきり入れ込んで、特別な思いで迎える曲だと思う。

今回のチクルスで、聖響&神奈フィルは、その絆を深めるとともに、マーラーを通じて、お互いの共同作業たる音楽創造にひとつの成果をあげることに成功したのではないでしょうか。
指揮者は、オーケストラの美点を引きだし、オーケストラは指揮者の率直さをそのまま音にするといったシンプルだけど、もっとも大事な図式。

それは、われわれ聴衆も同じで、ずっと聴いてきて、無理をしてるとしか思えなかったピリオド奏法に困ったこともあったけれど、マーラーを聴き続けたいま、またこのコンビの古典やロマン派を確認してみたいと思っていたりする。

そんなひとつの到達点が見えたような「第9」でした。
そして、わたしは毎度ながら、感動で涙を止めようがなかった。

マーラーの第9の存在を知ったのは、古いもので、バーンスタインとニューヨークフィルが万博の年の真夏に、この見知らぬ曲を演奏してから。
小学生だったから、その演奏会を聴けるわけはなかったけれど、レコ芸で白の夏用スーツで演奏するこのコンビの写真をみたり、吉田秀和氏のブルックナーと対比した記事などを読むなどしていったいどんな音楽かと想像を巡らせていたものです。
 以来、この曲はバーンスタインとは切ってもきれない存在になってしまい、後年、イスラエル・フィルとの演奏会でついにバーンスタインのマーラー第9に接し、とてつもない感銘を与えられることとなった。
それは、まるで、峻厳なユダヤ教の儀式に参列しているかのような呪縛感の強いものだった・・・・・。

それ以前もあとも、この曲は何度も聴いてきているが、聖響&神奈フィルの第9は、それらの中にあって、もっとも自分にとって身近に、そして優しくフレンドリーに微笑みかけてくれるような演奏だったのです。
みなさん、厳しい表情や熱のこもった表情で演奏していらっしゃるけれど、そこから立ち昇る音は、慣れ親しんだ神奈フィルのスリムで洗練された美音。
ここには情念や、死への観念などは弱めで、マーラーの書いた音符が次々に美音によって惜しげもなくホールを埋め尽くし、滔々と流れるのでありました。
踏み込みが足りない、表層的だなどというご意見はありましょうが、わたしは、こんな感覚のマーラーがあってもいいと思うし、音色の美しさにおいて、これはもう充分に個性的だと思うのだ。

だから、うなりむせぶような弦に身も心も投じたくなる終楽章は、明朗で透明感がまさり、波状的にむかえるクライマックスも冷静に音の美しさ、音楽の美しさのみに耳を澄ますことができた。
この終楽章は、ほんとうに素晴らしくって、石田コンマスのリードする神奈フィルの弦の能動的な存在感ある響きが全開で、感動で胸を熱くしながらの25分間でした。
ヴァイオリン群の変ハ音の引き延ばしの場面は、いつも夢中になって息を詰めてしまうのだけれど、ここではごく自然に、そのシーンをむかえ、淡々と美音が引き延ばされるのを見守ることができた。
何度も書きますが、ともかく美しい。

ホール入りしたときから、ははぁ、あれをやるなと思った、アバドの二番煎じの照明落とし。
ライブ録音が入っているので、拍手封じにも効果的だし、集中力がいやでも高まる仕掛け。
そして、マーラーの常套句「死に絶えるように」と記された最終場面は、文字通り消え入るように、後ろ髪引かれるように、静かになってゆく。
私は、これまでの自分のこと、そんなこんな、いろんなことが脳裏に浮かび、切なくなってきて、終わって欲しくない思いも抱きながら、涙があふれるにまかせ、音が消え入るのに集中した。

指揮者も奏者も動きを止め、永遠とも思える沈黙がそこに訪れたのです。

そこには、まだ次がある、この先も違う世界がある、とのマーラーの、そして演奏者たちの優しいメッセージがあるかのようでした・・・・・。

辛い毎日ですが、そんな希望の光をもらいました。

優しい歌に満ちた第1楽章。
その最終部分、コーダに至るまで、音楽の様相は、彼岸のあっちの世界に漂うようで、ソロの皆さんの精妙さに聴き入り、そこにウェーベルンの顔を思い浮かべることもできた。
 聖響さんのリズム感の豊かさが光ったレントラー風の第2楽章。
ビオラソロも華奢だけど、全曲にわたっていい音色でした。
そして疾走感あふれるロンド・ブルレスケでは、どんな強奏でも音が混濁せず、見通しがよい。
マーラーシリーズで、大活躍のトランペット氏の柔らかな音色による中間部は、まるで一条の光が差し込むかのようでした。

今回の第9は、奏者個々云々というより、オーケストラ全体のまとまりのよさを強く感じた聴き方となりました。
1番を残しますが、聖響さんの適正もあり、このマーラー・チクルスは大成功ではなかったでしょうか。
10番と「大地の歌」、そして「千人」もいずれ取り上げて欲しい。
そして、またいずれ機会を得て、聖響&神奈フィルのマーラー特集を希望します。

在京では味わえない、神奈川発のユニークなマーラーなのですから。<

以上、引用終わり

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マーラー 交響曲第9番 過去記事

「若杉弘&NHK交響楽団 演奏会」

「P・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団 演奏会」

「ジュリーニ&シカゴ交響楽団」

「アバド&ベルリン・フィルハーモニー」

「金 聖響&神奈川フィルハーモニー 演奏会」

「ノリントン&シュトットガルト放送交響楽団 プロムス」

「アバド&ウィーンフィルハーモニー」


神奈川フィルハーモニー 定期演奏会

 
  マーラー 交響曲第10番~アダージョ

        交響曲「大地の歌」

  T:佐野成宏   Ms:竹本節子

   金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

2012年4月20日(金) 19:00 みなとみらいホール

どうぞ、お聴きのがしありませんように
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あと3日です。さぁ、ヨコハマへsign03

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2012年4月16日 (月)

マーラー 交響曲「大地の歌」 バレンボイム指揮

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千葉の某院にてみつけた枝垂桜。

15日の日曜、まだ見ごろでございました。

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桜の種類も数あれど、この桜ほど華やかで、少しばかり異国めいているものはありませぬ。

この桜の下に座して、世を憂いて、歌などを読みつつ、したかかに酔ってみたいものでございます。

 
  人生がただ一場の夢ならば 

  努力や苦労は私にとっていかばかりであろうや?

  それゆえ私は酒を飲む 酔いつぶれて飲めなくなるまで

  終日酒に溺れようぞ。


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   マーラー  交響曲「大地の歌」

        T:ジークフリート・イェルザレム

       Ms:ワルトラウト・マイアー

    ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団
                 (1990 @シカゴ)


毎年、1作ずつ完成させていったマーラーの交響曲、荘大無比の8番のあとは、歌曲シンフォニーとしての「大地の歌」。

8番(1907年)、大地の歌(1908年)、9番(1909年)、10番(1910~)。

「大地の歌」が番号を持っていないことは、有名すぎる話でありますが、8番で輝かしい聖なる勝利を描いたマーラーは、一転、「大地の歌」「第9」「第10」で、厭世感と彼岸に満ちた透徹の世界に足を踏み入れた。

ほぼ完成していた8番と同時に、娘マリアが亡くなり、ウィーンとも決裂・渡米。
自身も心臓病の兆候があることがわかり、まったくいいことなかったマーラーが知り合ったのは、唐詩の独語版を編んだベートゲの「中国の笛」。

マーラーの死を背負った厭世的なイメージは、晩年となってしまった「大地の歌」以降の作品ゆえに強いものだが、こうして連続聴きしてみて、ほぼ年1作書かれるマーラーの交響曲の変遷の中に捉えると、大地以降が、決して「死」に彩られた作品じゃないと思えるよになる。

その詩の内容から、思いきってこの曲のモットーを抜き出すならば、「青春」「若さ」「春」「酒」「回顧」「別れ」。
でもその別れは決して悲しくはない。
明日もまたある別れと捉えたい。

素材の唐詩は、独語訳によって漢字の持つ「言外の意」みたいなものがそぎ落とされてしまった感はあるが、描写的であり、その情景が容易に脳裏に浮かんでくるものである。

この6つの歌曲の集まりを交響曲と呼んでいいか、いまだにわからないが、詩や音楽の相互の関係から、交響曲としての姿を類推することもありのようだ。
わたしは、あまりそんなことは考えずに、テノールとメゾが交互に歌うそれぞれを、素晴らしいオーケストラとともに味わうのみとしたい。
8番で最高潮に達したマーラーの作曲技法は、大地の歌と次の第9でもって、さらに精密に、そして耽美的・表現主義的に色合いが濃くなり、次なるシェーンベルクやウェーベルンの姿さえちらつくようだ。

それにしても、「告別」という音楽には、言葉がありません。

いつの季節に聴いても、暮れゆく山影と、昇る煙に、真っすぐに山間に延びる道。
そこをゆく一人の男の後ろ姿を見る思いがする。
それはときに、自分だったりするのだから、ここにはやはり希望ある明日があることが相応しいと思いたい。

バレンボイムとマーラーというのは、どうもしっくりこない感があるが、この「大地の歌」はなかなかのものです。
すこしばかりあっけらかんとしていたり、味付けが濃すぎる感もありながら、要所要所でうなり声も聴こえるほどの音楽への没頭ぶりを見せていて、並々ならぬ雰囲気を感じさせてくれます。
ことに、「告別」は深いです。
オケがマーラーを持ってるシカゴであることが成功の一因でもありましょうや。

トリスタンとイゾルデ、ないしは、ジークムントとジークリンデのようなコンビが歌う「大地の歌」。
イエルザレムは少し青臭く、オペラに傾きがちなれど、マイアー様は実に素晴らしく、そしてほのかな色香がたまらなく美しい声なのだ。
「告別」では、バレンボイムの指揮と相まって、まるで「愛の死」みたいな甘味かつ抒情的な「永遠」ぶりなのである。
Ewig・・・が沁みます。

 愛する大地にふたたび春がくれなば、

 いたるところ花は咲き、緑はふたたび栄えるであろう。

 いたるところ永遠に、遠きはてまで輝くであろう、永遠に・・・・・・

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マーラー 「大地の歌」過去記事

 「ショルティ&シカゴ交響楽団」

 「バーンスタイン&イスラエルフィル」

 
  「ワルター&ウィーンフィル」

 「シノーポリ&ドレスデン・シュターツカペレ」

 「アバド&ベルリンフィル」


神奈川フィルハーモニー 定期演奏会

 
  マーラー 交響曲第10番~アダージョ

        交響曲「大地の歌」

  T:佐野成宏   Ms:竹本節子

   金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

2012年4月20日(金) 19:00 みなとみらいホール

どうぞ、お聴きのがしありませんようにnote

 
 

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2012年4月15日 (日)

マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」 ノイマン指揮

Tokyotower_1

またも東京タワーですんません。

その足元恒例の鯉のぼりが、うららかな風に乗って気持ちよくそよいでおりました。

昨日は、冷たい雨の東京。

金曜締切りが間に合わず、各方面に、ごめんなさいでした。

愛する神奈川フィルのモーツァルトも聴けずじまい。。。。

Tokyotower_3 

こちらも先週撮ったもの。

桜と東京タワー。

事務所の徒歩圏なので、住んでる通勤圏にあるスカイツリーより近く感じる東京タワー。

いつまでも、ずっとあって欲しい。

今日もマーラー。

Mahaler_sym8_neumann

 マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」 変ホ長調

  S:ガブリエラ・ベニャチコヴァ   S:インゲ・ニールセン
  S:ダニエラ・ショウノヴァー    Ms:ヴィエラ・ソウクポヴァ
  A:リプシェ・マーロヴァー      T:トマス・モーザー
  Br:ウォルフガンク・シェーネ   Bs:リヒャルト・ノヴァーク


   ヴァーツラフ・ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
                    チェコ・フィルハーモニー合唱団
                    キューン児童合唱団
                (1982.2 @プラハ芸術家の家)


いよいよ、8番。

そう千人です。

オペラを書かなかったマーラーの、オペラともいうべき交響曲。
第1部を1楽章に、第2部を3つに分けた楽章に。
4章の交響曲の体裁は保っている。
素材との関連からいくと、第1部はカンタータともいうべき讃歌。
長大な第二部は、ゲーテの「ファウスト」の最後の場面。
これはまさに劇音楽的。
いろんな感情やパロディを内包する非標題音楽としてのマーラーの交響曲。
8番では、そういった趣きは控えめで、ここでは聖なる世界が輝かしく描かれているように思える。

「ファウスト」につけられた音楽は、たくさんありまして、それらがみな傑作揃いなところが、このゲーテの原作の偉大なところ。
シューマンの「ファウストの情景」、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」、ワーグナーの序曲「ファウスト」、リストの「ファウスト交響曲」、グノーのオペラ「ファウスト」など。
その系譜にあるマーラーの8番。

何が作曲家たちを「ファウスト」に向かわせるのか。

>悪魔と魂を担保に契約をしてしまったファウスト。
若返り、恋人グレートヒェンと恋に落ち、やがて死へと導いてしまう。
正邪の遍歴とともに栄光を掴んだかに見えたファウストにも悪魔による終止符が。
しかし、その死にあたり、悪魔を阻んだのが天使たちで、さらにそこには聖母マリアに祈るかつての恋人グレートヒェンの姿。
ファウストの魂は、清らかな祈りによって昇天する。<

こんな超概略なれど、そこにある源流は聖母マリア、しいては女性による救済。

まったく身勝手な男性社会にあって、男たちが求めた女性への憧れ。

キリスト教社会でしかありえない思想に思う。

マーラーの感動的な8番の第2部には、このファウストの核心部分が描かれているのです。

第8交響曲は、CD時代になって飛躍的に録音が増えました。
かつてはレコード2枚も、1CDに収まり、ただでさえ目一杯にお金のかかる録音ゆえ、ライブで一気に収録してしまうことができるようになったのは、演奏と録音技術の向上にほかならない。
バーンスタインとハイティンクしかなかったこの曲の録音に、鮮やかに登場したのは、ここでもショルティ盤。
シカゴのヨーロッパ遠征の勢いをかってウィーンで録音された永遠の名盤。
その後、飛躍的に増えたCDと、日本での演奏回数。
わたしは、コシュラー&都響、現田&藤沢ぐらいしか実演はありませんが、いずれある、まだ見ぬ、聖響&神奈フィルの演奏を夢見ております。

ノイマンのマーラーは、まだその全部を聴いておりませんが、わたしにとって遅れてやってきた演奏でした。
アメリカやドイツ・オーストリア、そしてオランダ・イギリスのオケに比べて、チェコのオケによるマーラーは、そのローカル性ゆえに少しばかり敬遠してきたものだったのです。
ボヘミアつながりで、そのマーラーは本質のひとつなのかもしれないのに・・・。

弦出身のノイマンが、弦の美しいチェコフィルを振るとこうなる的な場面は、第2部の前半、緩徐楽章にあたるところ。
森の神秘と深さを思わせるような音楽を、清冽な美しさで描いている。

感動的な神秘の合唱や抒情的な場面での素晴らしさが際立つが、この音楽にイメージする壮大さにも欠けてはいない。
冒頭のホールに響き渡るオルガンに導かれるカンタータ的な第1部では、生真面目に輝かしさが突出するのを抑制しながら少しゆっくりめのじっくりとした解釈。
祝典的な雰囲気は薄めで、合唱ばかりが目立ってしまいがちな1部で、オケがどんな風に鳴っているかを確認できる見通しのよさも、このノイマン盤の特徴かも。

2部では、独唱がそれぞれにアリアのようなソロを歌い継いでゆくが、オペラ経験も豊かなノイマンらしく歌とオケとのバランスがとてもよろしい。
このあたりは、アバドやショルティの千人も素晴らしいと思う。
最後の高揚感を、マーラーの音楽の持つ崇高さと、希望の輝きとを、その音楽の力だけでもってつくりあげてしまった感のあるノイマンの演奏。
普通に、はなはだ素晴らしいノイマンの「千人」です。
歌手たちは、実績のあるベテランばかりで、ワーグナー歌手でもあり。
ソウクポヴァはベームのリングの出てますし、モーザーはリリックから、トリスタンも歌うヘルデンに躍進した人。
ただノヴァークのバスは、わたしにはちょっとクセありすぎに思った。

例によって、わたくしのこの曲の聴きどころを。
「きたれ創造主たる霊よ」と始まる第1部は、その壮大さが少しばかりうるさくて苦手です。
それでもオケに注目して聴いてると、いつものマーラーの対位法を凝らした巧みな音楽造りが楽しめます。
「ファウスト」の第2部は、そのすべてが大好き。ずっと感動しっぱなしのワタクシ。
法悦の神父と深奥なる神父のふたりの歌が好き。
児童合唱も出てきて天上風になったあと、いよいよ2部の歌手の主役ともいうべきテノール、すなわちマリアを讃える学者の恍惚としたソロが入ってくる。
続いて、オルガンとハープにのったヴァイオリンの極めて美しい旋律。
泣けるぜ。
やがて罪を重ねた聖書上の女性たち、そしてヒロインのグレートヒェンも登場して、先の主題を中心に透明感を増しながら音楽は進んでゆく。マンドリンも清らか。
感動するぜ。
最後は、マリアを讃える学者が「Blicket auf」と入ってくる。
この歌は、ワーグナーのテノールアリアに比すくらいに好き。
そして「神秘の合唱」ですよ。
第1部の冒頭も回帰して、ついに宇宙が鳴り響いちゃってます。
熱いぜ!

いっさいの無常なるものは、ただ影像たるにすぎず。
かつて及ばざりしところのもの、ここにはすでに遂げられたり。
永遠に女性的なるもの われらを引きてゆかしむ

                       (森鴎外訳)

マーラー 交響曲第8番 過去記事

「バーンスタイン&ウィーンフィル」

「小澤征爾&ボストン交響楽団」

「若杉弘&東京都交響楽団」

「現田茂夫&藤沢市民交響楽団 演奏会」

「若杉弘&NHK交響楽団 テレビ観劇」

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2012年4月13日 (金)

マーラー 交響曲第7番 バルビローリ指揮

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夜の桜です。

怪しくて、引き込まれてしまいそう。

春爛漫の陽気は、ここ数日夜も続いて、歩いていて気持ちよく上気してしまうのは、上ばかり見ているからか。

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もうひとつ、毎度登場の東京タワーを背景に葉桜化の進む枝垂れを。

今日もマーラーを。

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  マーラー 交響曲第7番 ホ短調

   サー・ジョン・バルビローリ指揮 ハルレ管弦楽団
                       BBCノーザンオーケストラ
                    (1960.10.20@マンチェスター)


ほぼ毎日、番号順に聴いてるマーラーも、後期の7番になりました。
9曲プラスアルファだから、思えば休憩入れても2週間とかからない全曲チクルス。

聴き側は気楽だけど、演奏する側はさぞかし大変でしょう。
各奏者のソロがやたらと多く、しかもそれは名人芸的で、失敗したら全体が崩壊し、命取り
。そして「夜の歌」とタイトルされるように、ギターとマンドリンがセレナーデのように活躍するから、大オーケストラとしての音のバランスのとり方が難しい。
そしてバランスといえば、5つの楽章で、真ん中に怪しげなスケルツォ、その両端に「夜曲」、さらにそれらを大きく包み込むように1楽章が、巨大なソナタ形式。
終楽章がロンド形式。
変わった姿の7番。

しかして、その音の響き具合も、自由自在の気ままさ。
ときに無調の域へ踏み込んだり、古典的なまでの調性を聴かせたり、新奇な奏法を示したりと、はなはだその音響は当時としては驚きの世界だったはず。

6番と併行して1904年から書かれ、1905年に完成。
その間、アメリカデビューや、ウィーンの歌劇場のポストの辞任など、多忙な動きがあり、しかも8番という巨大な作品の作曲もあって、この7番の初演は1908年になった。
1905年といえば、日本は日露戦争の年ですよ。
同年、R・シュトラウスはあの「サロメ」を初演して社会的な大問題を引き起こし、ライバルであり友でもあったマーラーへの影響も少なからずありや・・。
さらに他芸術分野に目を転じると、クリムトを始めとするウィーン分離派の活躍。
クリムトの濃厚絢爛な絵や、O・ヴァーグナーのアール・ヌーヴォ的な建築物の数々、エゴン・シーレや、オスカー・ココシュカらのいくぶん表現主義に満ちた絵画・・・。
これらと同時期にあり、芸術分野の垣根を超えて、お互い影響しあった芸術家たちの筆頭株がマーラーその人。
それは、妻アルマの影響も大きく、アルマが後に芸術を後押ししてゆく、ある意味でのファム・ファタールになってゆくのもマーラー故かとも思ったりします。

  こうした流れの真っ只中にある曲が、第7交響曲だと思う。

いまや、世紀末が総合芸術として理解され、評価される時勢になったけれども、わたしがマーラーを聴き始めた頃は、そんな風潮や理解は一般には及ばす、7番は6番と並んで、一番難解な音楽だった。
演奏会にかかることなんて、ほぼゼロ。
そんななかで、唯一の記憶が、76か77年にギーレンがN響に来演したとき。
現代音楽専門家みたいだったイメージの当時のギーレンがN響にもって来たのは、マーラーの6番と7番。
いずれも録音し冷徹なる演奏で、特に7番は初だったので曲を覚えるに精いっぱいの状況だった。
人気は、いまやそうとうに上がったものの、演奏回数では8番と並んで一番少ないかも・・、の第7交響曲でありました。

バルビローリの1960年ライブは、オーケストラが手兵のハルレ管にBBCのオケ。
このBBCは、いまのBBCフィルハーモニックで、やたらと巧いオーケストラなんです。
どういった按配の混合か不明なれど、脂が乗り切ったころのバルビローリは、思うがまま、自身が感じた通りに共感したマーラーをうちたてております。
モノラルだし、テンポの緩急が大時代めいているヶ所も見受けられますが、このバルビ独特のうねりと盛り上がりの妙には、もろ手を挙げて感銘するしかありません。
 思いきり歌いまくり、まるでオペラ、しかもプッチーニのようなふたつの夜曲に、変幻自在の両端楽章に怪しさ満点の中間のスケルツォ。
バルビローリのマーラーは、8番以外が聴けるようになったが、その中でも一番資質にあっていて、幻惑感のあるのがこの7番の演奏に思います。

7番の聴きどころ・・・・。難しいなぁ。
どこといってなし、でも、あっと言う間に音楽に取りこまれ、夢中になってると80分が過ぎてしまう。
1楽章は推進力ある出だしの音楽の創生ぶりと、甘味さもただよわせる第2楽章の対比。
2楽章と4楽章の、おもにホルンセクションの活躍ぶりを中心にしたソロ楽器が聴きどころ。
前述のとおり、ギターとマンドリンの入る4楽章は、夢見心地で、わたくしは日曜の晩、寝る前に密かに聴いたりする楽しみを持っております。
いまだに難解な幽霊の浮遊するがごとき3楽章は、流れる柳のように身を任せるしかないですな。苦手ですよ、いまも、とらえどころなしで。
そして、妙に能天気で取って付けたような終楽章。
5番に似たかのうようなあっけらかんとした終末をどう聴くか・・・・。

7番は、初レコードのレヴァインとCD初期のアバドのふたつのシカゴ盤が最高。
バーンスタイン盤は旧盤が素敵。
インバルにもハマったし、テンシュテットも面白い。
ハイティンクも最高。
そしてなんだかんだで、この曲のレコードでの初真価は、5番や6番と同じにショルティ&シカゴの剛演でありましょう。

今日は、熱燗片手に酔いながらの更新。
春の夜の夢。
外は、雨が本降りになってますよ。

 交響曲第7番 過去記事

「アバド&シカゴ交響楽団」

「テンシュテット&ロンドンフィルハーモニー」

「金聖響&神奈川フィルハーモニー 演奏会」

さいごに、一言、「クソ巨珍めpout

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2012年4月12日 (木)

マーラー 交響曲第6番 エッシェンバッハ指揮

Shibaura

芝浦の運河沿いの桜。

夕日が背景で、怪しくも美しいのでした。

まだまだ頑張る今年の桜。

Mahalersym6_eschenbach

  マーラー 交響曲第6番 イ短調

   クリストフ・エッシェンバッハ指揮 フィラデルフィア管弦楽団
                      (2005.11@フィラデルフィア・ライブ)


「悲劇的」というタイトルは付いたり付かなかったり。

でもそんなことはもうどうでもよくなってる。

この音楽には、深い体験と、それに基づく思い入ればかり。

どうしてそうなってしまうだろう・・・、といえるくらいに、この特異な交響曲には、わたしの音楽受容人生に重きをなすことがらばかりが結びついてしまう。

嫌いじゃなけど、本当に好きかといわれれば、9番や3番の方が好きだけど、電車に乗ってたり、仕事をしてたりするときに、ふいに出てくる旋律が1楽章や4楽章のものだったりするかなら不思議なのだ。

Maiernigmahler


1903年と翌年の夏に、今度はオーストリア南部、現在のスロヴェニア国境側のヴェルター湖畔マイアーニヒにて作曲。
曲調に反して、指揮者として、作曲家としても成功をしつつあった幸福なる時期。
だから、妻アルマがなんと言おうと、この曲は個人的・家庭的な悲劇一色じゃない。
わたしは、この曲は、純粋なる交響曲としてのフォルムをもった一服の長大なるシンプルな交響作品と認識して聴いた方がいいと思っている。

そして、聴き手のシテュエーションに応じて、受け止め方を変えればいいのではないかと。

3つの生涯忘れ得ないこの曲の実演に接し、そう思うようになりました。

①アバドとルツェルン・・・無垢なる指導者のもと、全霊を込めた崇高なる演奏行為。

②ハイティンクとシカゴ・・成熟した指導者と高性能のオケが成し得る最高演奏。

③聖響と神奈フィル・・・・異様なる環境のもと、演奏者と聴衆が作り出した奇跡。


こうした体験を経てしまっては、悲劇がどうの、アルマがどうのといったことは、どうでもよくなってきてしまった。
そこにあるのは、完成度の高い精緻なマーラーの音楽のみなのだ。
何故かこの曲は、そんな風にしか聴くことができません。

エッシェンバッハのマーラーは、彼の体質や、なりたちからいって、どの演奏も素晴らしく思っていて、ことにライブ体験した第9は凄まじい体験だった。
でも同じフィラデルフィアとのこの6番については、演奏としては完璧ながら、わたしはエモーション的に、上記3つの体験に、はるかに及ばないのです。
単独で考えれば、オケの素晴らしさもあいまって、揺れるテンポに、情熱と峻厳、そして耽溺。マーラーに必須のものはすべて完備してます。
あの3つを不幸にして知ってしまったワタクシの悲しいサガなのでしょうか。
これほどまでの演奏に、さらに上を求めてしまうのでありました。

来る聖響&神奈川フィルの「第10&大地の歌」への期待と、これまで連続してマーラー熱を再び萌え萌えにしてくれたことへの感謝をこめて、過去6番記事を以下、再褐しときます。

以下本ブログ、2011.3.12より引用

いまも続く大震災の余震。
そして、被災の甚大さが次々に明らかになっていて、むごいくらいの映像が報道されています。
その被害はまだ継続中だし、連鎖する地震も不安をあおって、今後、何がおこるかわからない・・・。
私の住む千葉や、職場の東京では、スーパーやコンビニに食品がまったくなくなっている。
物流が寸断され、日常ではなくなってしまった。
赤水だし、都市ガスは停止、電気も計画的に停電の予告・・・・。
交通機関もまだ不完全。
帰れなかった自宅に戻った土曜、食器は割れ、お気に入りの置物も落ち、部屋は混乱。
身近に起こっている事象です。

それでも、こうしてネットはつながっている。
この強いインフラは、災害時の教訓となろうか。

でも、こんな思いは生ぬるい。
むごたらしい映像を見るにつけ、東北・茨城の皆さまにみまわれた惨状に、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。
親戚もいますし、仕事柄、仲間も多いし、始終伺うことが多かった地。
青森から福島までの太平洋沿岸。いずれも訪問したことがある思い出深い地です。
どうか皆さん、ご無事でいらっしゃってください。

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    マーラー 交響曲第6番

       金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                  (2011.3.12@みなとみらいホール)

今日、12日土曜日は、神奈川フィルハーモニーの定期演奏会の日。
開催が危ぶまれましたが、yurikamomeさんから、決行のご連絡。
帰宅しなかったもので、都内から横浜まで、スムースに移動。
ひと気の少ないみなとみらい地区(ほとんどのお店がクローズしてます)、そしてみなとみらいホールは、3割~4割の入り。

こんな時に、音楽を聴くという、どこか後ろめたい感情・・・・。

今朝から、そんな思いにとらわれ、中止も半ば期待していた。

しかし、主催者側と演奏者側の熱い思いが、そんな思いを払拭してしまう、たぐいまれなるコンサートとなったのであった。

正直いって、わたしには、いま、言葉がありません。
特殊なシテュエーションが作用し、演奏する側と聴き手が一体となって、高みに達してしまう。
不謹慎ではありますが、マーラーの6番ほど、そんな思いを高めてしまう曲はありません。

この曲は、何度も実演に接して、「もう封印」などと思ってきた演奏ばかりなのです。
アバドとルツェルンの来日公演は、わたしのコンサート経験No1で、病後、復調のアバドが喜々として笑みを浮かべながら指揮するもと、その無垢な指揮者のもと、その人に全霊を尽くす奏者たちが無心で夢中になって演奏する神がかった演奏。
ハイティンクとシカゴの完璧極まりないなかに、スコアのみがそこにあるといった明確な演奏。
どちらも忘れえぬ体験。

そして、聖響&神奈川フィルのマーラー6番は、そのどちらでもない、悲しいくらいに美しく、痛切で、感情のこもった真っ直ぐな演奏だった。
それでいて、流れの良さを大切にしたスマートさも。
正直、こんなに心のこもった、全身全霊の演奏が聴けるとは思わなかった。
わたしは、指揮者と演奏者が一体化しているのが、うれしくって、まぶしくって。
そして、音楽が素晴らしくって。
そしてなんといっても、この震災が悲しくって、恐ろしくって、テレビで何度も見た映像が、辛くって、何度も何度も鳥肌が立って涙ぐんでしまうのであった。
しかし、音楽への前向きな取り組みは、マーラーの思いとは逆に、明日もある未来を予期させる若さと逞しさを感じさせました。

ハンマーで心かきむしられた終楽章。
あの、あまりに特異なエンディング。
指揮者も奏者もすべて動きを止め、その静寂が永遠に思われました・・・・・。

演奏会の冒頭。
聖響さんは、いまのこのとき、演奏家にとってなにができるか・・・、それはいい音楽をすること。義援金の募集のこと、などを話され、わたしたちも一緒に、長い黙祷を捧げたのでした。

この演奏会。
開催を決意した主催者側、果敢に一心不乱の演奏を繰り広げた聖響&神奈フィル、ホールに集まった音楽を愛する聴衆・・・・、心が一体になりました。
こんな時に、コンサートなんて・・・、という思いを一蹴してしまうような、心のこもった、愛に満ちた演奏に救われました。
どうか、奏者と聴き手が達したこの思いが、被災地の皆さまに少しでも届きますように。
そう、明日も、明後日も、まだあるんですから!

アフターコンサートは、意を決して集まったいつもの皆さんに、主席チェロの山本さんをお迎えして、短いながら充実の時間を過ごせました。

こうしている間にも、余震や余波の揺れが起きてます。
家人ともども不安で寝不足です。
みなさま、ご養生ください。

そして、被災地のみなさまには、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。

以上、引用終わり


1


手抜きの長い引用、申し訳ありません。

あれから1年、世界各地の地震、地球環境の変動、身近な悲劇の連鎖・・・。

この音楽は、ますます、わたしの心を刺激してきます。

マーラー 交響曲第6番 過去記事

「バルビローリ&ニュー・フィルハーモニア管」

「アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団 演奏会リハーサル」

「アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団 演奏会」

「アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団 思い出」

「ハイティンク&シカゴ交響楽団 演奏会」

「金聖響&神奈川フィルハーモニー 演奏会」

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2012年4月11日 (水)

マーラー 交響曲第5番 マゼール指揮

Tokyotower_1

先週末の東京タワー。

青空きれいです。

Tokyotower_2

震災の影響で先っぽが曲がってしまった。

その心棒部分を交換する工事が始まってまして、撤去により、しばらく短い東京タワーとなるとのこと。
スカイツリーの稼働でもともとは予定されていた工事とのことながら、この1年、曲がった先端を眺めてきたので、複雑な心境。

Tokyotower20110318_3

こちらが、去年の3月。曲がりたての頃。

こっちの方が曲がってる?

Tokyotower_3Tokyotower_5jpg

先ほどの画像を拡大してみよう。

すると下部分に作業の人発見。

上部仮設部分にクレーンがあるので、そちらにもきっと。

スカイツリーに比べると、恐怖の比は少ないかも、ですが、わたしには信じがたいことにございます・・・・。
安全第一、ごくろーさまです。

Mahler_sym5

   マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調

   ロリン・マゼール指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
                    (1982.9・10 @ウィーン)


マーラーの作品の中でも、一番人気の5番。
私がマーラーを聴きだした頃はそうでもなかった。
1974年頃でしょうか。
当然に1番と4番から入門。
70年代初めは、この5番は難しい曲として、演奏会にもなかなか登場しなかったし、レコードも少なかった。
バーンスタインやハイティンク、クーベリックの全曲録音の一環としてのみ捉えられていたイメージで、ワルターは古いモノラル盤だったし、クレンペラーもこの曲は録音せず、バルビローリも少々地味だった。
 ところが、この曲の真価を一挙に高めたようなレコードが登場した。
それがシカゴの指揮者になったショルティの演奏でありました。
72年の発売だったかと思いますが、わたしはマーラーという作曲家がよくわからなくて、FMで放送されたその演奏もチンプンカンプン。
でも、録音上で、この5番が人気曲になる取っ掛かりは、きっとこのショルティ盤です。

5番初レコードは、76年のメータ盤。
メータは、先人が先鞭をつけたオーケストラ映えがする音楽を、いとも鮮やかに、わかりやすく演奏し、録音し、ベストセラーをかっさらうウマいことする指揮者だった。
このメータ盤で、5番に燃えまくったワタクシは、5番はもちろんのこと、マーラーを怒涛のごとく聴きまくったのです。
80年代になり、マーラーの演奏会も急増。
社会人となったワタクシも、マーラーとワーグナーばかりを、コンサートとオペラに投資しまくり。
その頃の5番の演奏会は、ベルティーニ&都響、マゼール&ウィーンフィル、アバド&ロンドン響、ショルティ&シカゴ、小澤&新日フィルなど。
どれもその音と指揮者の姿を鮮明に覚えておりますよ。

今日は、その中から、実演後に買って、これもずいぶんと聴きまくったマゼール盤を久方ぶりに取り出して聴いてみるのです。

1902年の作曲、1904年の初演。
同時期に取り組んでいた歌曲、「リュッケルト」「亡き子」「角笛」などとの関連性もあって、純粋オーケストラ交響曲でありながら、歌声交響曲のようにも感じられる。

そして、アルマとの結婚で幸福の絶頂にもあり、妹ユスティーネがウィーンフィルのコンマス・ロゼと結婚。ぎくしゃくしだしたウィーンとの関係も継続できている。
ちなみに、妹夫妻の娘アルマ・ロゼは父親の血を引いてヴァイオリニストになったが、ロンドンに逃げ及んだ父に反して、ナチスに捕まり、アウシュヴィッツ送りとなってしまう。
しかし、ヴァイオリンの名手であったことから、ユダヤ人オーケストラのコンマス兼指揮者となり延命。
でも解放前に、病死してしまうという悲劇の人であった。
マーラーの血筋がアウシュヴィッツの因縁までに及んでいる。
マーラーが、あと20年長生きをしていたら70歳だったけれど、交響曲はいくつ書いたろうか。そしてユダヤ人としての血をぬぐいきれなかったから、退廃系作曲家としてのレッテルを貼られてその名は埋没してしまったかもしれない・・・・かも。

よく言われるように、「暗から明」という、ベートーヴェン以来の古典の常套という交響曲としてのあり方の美しさ。
だがしかし、長大なスケルツォがことさらに不可思議な存在として真ん中にあることの不思議。
1楽章と2楽章は悲劇的な様相を担っているのに、スケルツォはあっけらかんとしたレントラーを持ったソロが活躍する音楽。あんなにシリアスだったのに、その対比が面白い。
まさに映画音楽みたいなアダージェットを経て、これまた能天気でありながら、その大爆発は興奮の坩堝と化す終楽章。
奇矯な存在として、7番と双璧かもしれない。

NHKホールで聴いたそのままのマゼールの音盤。
いかにもマゼールらしく、いろんなところで、ためて伸ばしてちょん切って、ということをやらかしてくれているが、この5番では、それらがこの曲に対して巧くハマっていて、全然嫌味にならない。
大見栄切るような1楽章や2楽章も面白いが、もっとも特徴的なのは、3楽章の再現部(?)、ティンパニがこの楽章のリズムを静かに刻んで弦が入ってくるところ。
ものすごくテンポを落として、その後の爆発との対比を鮮やかに聴かせている。
やりすぎだけど、そうでもない。
耽美的なアダージェットに喜遊に溢れた終楽章。
ウィーンフィルが地の音でそれに応えているのも嬉しい。
でもライブの方が、最後にピークを置いてむちゃくちゃ盛り上がっていた。
この録音は少々大人しく、キレイすぎる。

1楽章では、やはり冒頭のトランペットとそのあと続く全奏がいかに決まるか。
次ぐ2楽章とともに、うなりを上げる弦楽セクションの激しさと情熱のほとばしりに注目。
スケルツォ楽章では、オケのソロたちの名人芸を堪能しましょう。
それとアダージェットは、もう頬に手をあてて、思いきり浸りきります。
連続する明るい終楽章では、最後のクライマックスの高らかなフィナーレに向けて、熱くヒートアップする様を夢中になって楽しみましょう。

以上、マーラーの第5でした。

マーラーの交響曲第5番 過去記事

「尾高忠明&札幌交響楽団 演奏会」

「アバド&ルツェルン祝祭管 DVD」

「ヤンソンス&バイエルン放送響 演奏会」

「カラヤン&ベルリンフィル」

「レヴァイン&フィラデルフィア」

「金聖響&神奈川フィル 演奏会」

「メータ&ロサンゼルスフィル」

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2012年4月10日 (火)

マーラー 交響曲第4番 レヴァイン指揮

Sakurazaka2

土曜日の六本木・桜坂あたり。

プライベートか、撮影か、不明なれど撮っちゃいました。

そのとき咎められなかったから載せます。

旦那はカット。

花嫁の後ろ姿に満開の桜が絵になってましたもんで。

Mahler_4_levine

    マーラー 交響曲第4番 ト長調

       
S:ジュディス・ブレゲン

    ジェイムズ・レヴァイン指揮 シカゴ交響楽団
                      (1974 @シカゴ)


ワーグナーを間に、今日もマーラー。

第4交響曲は、3番(1896年)から少しばかり間をおいて、1900年の完成。
その間、ユダヤ教からキリスト教カトリックへの改宗の甲斐もあり、ウィーンでの指揮者としての地位を得て、その指揮者としての多忙な日々を経て間が空いたのかもしれない。

2番・3番とともに、「子供の不思議な角笛」の歌曲に由来するところから、角笛3部作ともいわれる。
一方で、その間を考えると、改宗してまで得たウィーンでのポストでの葛藤。
しいては自身の存在意義など、悩めるマーラーが顔ももたげて、続く第5交響曲との関連性も強く見いだせる両またぎ的な交響曲となっているのだ。

パロデックな2楽章に、そんなマーラーの一面を感じつつ、この曲の核心である3楽章の「平安に満ちて」と題された長大な音楽を聴くと、天国を用意されたその階段を、ゆっくりと、そして微笑みをもって昇るような、いっときの平和を謳歌するマーラーを、そしてもしかしたら自分自身を見出す想いがする。

天国は地獄か・・・、地獄が天国か・・・・、そんな裏腹のA面・B面の世界を、この幸せな雰囲気の交響曲に感じたりもする今日この頃。
天国思想。切支丹たちは、「パライソ」と呼び、迫害に耐え、その先のパライソを夢見た。
カトリック思想のひとつであり、聖母マリアを崇める切支丹たちの想いに合致します。

この交響曲第4番は、そんな意味で、私には「謎」なのです。

3番の「愛」の延長上に、4番の「天上」。

そうじゃない5番では、もっと複雑な「葛藤」と勝ってない「勝利」。

玉虫色のマーラーが、4番あたりからジワジワと見えてきたと思えるのです。

31歳の若きレヴァインが、マーラー・オケのシカゴをのびのびと振っているのがこちらの音盤。
レコード時代、レヴァインのマーラーはアバド・メータとともに集めましたよ。

同じアメリカ発、ユダヤ系の演奏でもバーンスタインのような耽溺的なマーラーではなく、もっと客観的でしなやか。
でも、マーラーの先進的な音楽や、オーケストラ音楽としての鳴りのよい楽しみといったものを100%掴んで、生かしきった積極的な演奏。
 
  この4番では、あまりに「あっけらかん」としすぎているきらいもあり、オケの抜群のウマさもアメリカンすぎでありますが、逆にいうと、オール・アメリカンのこだわりのないマーラーも屈折感なく、あれこれ考える隙もないだけにいいもんです。

1楽章では、終楽章との鈴音の関連性の持たせ方がまずおさえどころ。
甘いポルタメントをどんな風にかけるか。
終結部のたたみかけが性急にならないように、指揮者の力量も聴きどころ。
 曖昧で捉えどころのない2楽章は、管楽器の名技を聴くとともに、ヴァイオリンソロのフィドール風な民族調な場面も押さえどころ。
 大好きな3楽章は22分かかります。この交響曲の白眉ともいうべき3楽章。
マーラーの全作品のなかでもかなり上位にくるこの楽章。
お休み前にナイトキャップがわりに聴くもよし、早朝の朝もやけに聴くもよし、そして身も心も疲れ果てた晩に、癒しとして聴くのもよろしい。
どこもかしこも素晴らしい3楽章。
最後の大爆発をどう聴くか・・・、人それぞれでいいでしょう。
 これがあって、終楽章のソプラノが入った天国サウンドを聴くにつれ、前の楽章の偉大さがよくわかる。
ソプラノの歌唱は、わたくしカトリックしました・・・みたいに思えちゃうが如何に・・・・。

レヴァインはミュンヘン、ボストンでの活躍が音盤としてあまりうまく残ってないし、メトのDVDばかりが最近の活躍を知るよすがとなってしまいました。
でも、長期にわたる活動停止はちょっと心配であります。
デビューした頃の、目も覚めるようなイキのいいピチピチとしたサウンドが懐かしい・・・。
ザルツブルクのFMライブで聴いたLSOとの「幻想」がとてつもなく鮮やかな演奏だった。
このマーラーと同じ、74年のものだったかも。

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2012年4月 8日 (日)

ワーグナー 「パルシファル」 アバド指揮

Sakurazaka

六本木の桜坂より。

サントリーホールも至近。

土曜日に事務所からお散歩すること3時間。

Reinanzaka_church_2

霊南坂教会。

プロテスタント系の教会で、煉瓦造りの建物とそびえる尖塔と十字架が桜の中に毅然としておりました。

Reinanzaka_church_4

礼拝堂では、オルガンの練習中。

ひとり静かに聴き惚れてしまいました。

本日は、復活祭。

マタイ受難曲とならんで、欧米でこの頃に上演されるのが、「パルシファル」

春の風物詩のようになっていて、日本の第9みたいなものでしょうか。

NHKのバイロイト放送も、いまのように年末全演目放送でなく、この時期に「パルシファル」だけを放送しておりました。

今日は、クラウディオ・アバドの指揮によるライブ録音で。(非正規ジャケットがヘンテコなので載せません)

 ワーグナー 舞台神聖祭典劇「パルシファル」

  アンフォルタス:アルベルト・ドーメン  ティトゥレル:ハンス・チャマー
  グルネマンツ:クルト・モル        パルシファル:ロバート・ガンビル
  クリングゾル:リチャード・ポール・フィンク クンドリー:リンダ・ワトソン

   クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                   ベルリン放送合唱団
                   テルツ少年合唱団
                     (2001.11.29@ベルリン)


大病を克服後、「トリスタン」に次いで取りあげたアバドのワーグナーが「パルシファル」。
ワーグナーに慎重だったアバドが、70年代後半からスカラ座・ロンドン時代で取りあげていたのが「ローエングリン」。
その後、満を持して、「トリスタン」に取り組んだのは98年。
特定のテーマのもとに組んだプログラムで秀逸だったベルリン時代。「愛と死」がテーマ。
そして、「パルシファル」が2001年で、まずはベルリンでセミステージ上演後、翌年のザルツブルク復活祭音楽祭で舞台上演、さらにエディンバラでも。

ローエングリン・トリスタン・パルシファルの3作こそ、ワーグナーが後世の音楽家たちに多大な影響を与え続けた音楽。
ローエングリンの音に宿る清らかな色彩、トリスタンの半音階的和声が生み出した感情表現の多彩さと無限旋律の妙。
そして、パルシファルはワーグナーが到達した舞台芸術の到達点で、音楽は室内楽的ともとれる緻密さにあふれていて、新ウィーン楽派やドビュッシーらの次ぎの扉をもそこにあるのを感じる。

この3つのワーグナーがいまのところ、アバドのワーグナーの最終レパートリーであるところがいかにもアバドらしい。
本来なら、あと「マイスタージンガー」、次は「タンホイザー」とアバド自身も口にしていただけに病気とベルリンのポスト離れはとても残念なこと。
あの大きな病が、アバドの考え方・生き方をすべて変えたのでしょう。

Photo

入手以来何度も聴いておりますが、アバドのパルシファルは明るく、かつ能動的だ。
1幕の最初の方こそ、少しばかり手探り感があるものの、聖堂に場面が移るあたりから音楽にキレと熱が帯びてきて、アンフォルタスの悩みなど、痛切極まりないオーケストラの没頭感に感動してしまう。
 さらに、第2幕。前奏曲からオケの気迫が違って聴こえる。
うなりをあげる低弦はエッジが効いて鋭く、弦も金管も力が漲り熱気をはらんでいるんだ。
そして、クンドリーとパルシファルの場面。この楽劇で一番革新的だと思う音楽。
不協和音が鳴り響き、ダイナミックレンジが広い。
アバドの精緻かつ、暖かな解釈に高性能のベルリンフィルがしっかり応えているのを感じる。
 3幕でもオケの雄弁さとアバドならではの明晰で、音を浮き彫りにしつつ歌わせる技が際立ち、合わせて透明感にもあふれていて、ワーグナーの音楽が一皮むけたかのような感をいだく。
「聖金曜日の音楽」にいたる感動的なクライマックスと、野の情景を描くオーケストラはあまりにも美しく、涙が滲んでしまうのだ。
最後の音が静かに鳴り終わって訪れる長い長い静寂。
聴衆の感銘を共感できます。
 病後の痩身のアバドの行きついた心境を反映する素晴らしいパルシファル。

幽玄なるクナッパーツブッシュのパルシファルは、もちろん素晴らしく、この音楽のひとつの指標であるが、アバドのパルシファルの明るい美しさは、ベネチアで亡くなったワーグナーの地中海に対する思いを体現しているかのようで、曖昧さが一切ない澄み切ったもの。
アバドのワーグナーを聴くと、カラヤンやラトルでさえ、ましてはバレンボイムやティーレマンが重々しく感じてしまう。
もちろん彼らのワーグナーも大好きなのですが。。。

Photo_2

ザルツブルクでは、パルシファルがトマス・モーザー、クンドリーはウルマーナだった。
こちらのベルリンライブでのガンビルとワトソンはとてもいいです。
ガンビルは、かつてはモーツァルトを歌うリリックテノールだった。
唯一のウィーン訪問で聴いた「魔笛」のタミーノがガンビルだったから、こうしてパルシファルや、トリスタンまでも歌う重量級ヘルデンに成長しようとは思いもよらないことだ。
J・キング似の気品と悲劇性を備えたバリトンがかった声で、とてもよろしい。
お馴染みのワトソンの決死の感ただようクンドリーよし。

安定感と安心感抜群のザ・グルネマンツとも呼ぶべきクルト・モル
深々とした美声のチャマーのティトゥレルに、驚くほど立派だったメトのアルベリヒ、フィンクのクリングゾル。
 いまやワーグナーのバスバリトンロールの第一人者のドーメンは、もともと地味に活躍していたものをアバドが見出した歌手で、この頃はまだその発声に少々クセがあって、今ほどの神々しさがないかも。

面白いのは、テルツ少年合唱団にお小姓さんたちを歌わせていることと、ショルティ盤のように女声合唱に加えて天上の響きを醸し出していること。

Photo_3

放送録音のCDR化と思われ、ノイズが多少混じるものの、録音状態は極めて上々で、へたな某社録音よりよっぽど素晴らしい。
なによりもベルリン・フィルの凄さが実感できるのがいい。
ただ3幕に欠落がわずかにあります。

正規に録音されているはずのお蔵入りの「トリスタン」と、録音すらされなかったこちらの「パルシファル」。
アバドのワーグナーの完成系が正規に残されないのは残念極まりないことです。

復活祭の昼さがりに、窓外の桜を見ながら・・・・・・。

パルシファル 過去記事

「飯守泰次郎 東京シティフィル オーケストラルオペラ」

「クナッパーツブッシュ バイロイト1958」

「バイロイト2005 FM放送を聴いて ブーレーズ」

「アバド ベリリンフィル オーケストラ抜粋」

「エッシェンバッハ パルシファル第3幕」

「ショルティ ウィーン・フィル」

「バイロイト2006 FM放送を聴いて ブーレーズ」

「クナッパーツブッシュ バイロイト1956」

「クナッパーツブッシュ バイロイト1960」

「クナッパーツブッシュ バイロイト1964」

「レヴァイン バイロイト1985」

「バイロイト2008の上演をネットで確認 ガッティ」

「ホルスト・シュタインを偲んで」

「エド・デ・ワールト オーケストラ版」

「あらかわバイロイト2009」

「ハイティンク チューリヒ」

「シルマー NHK交響楽団 2010」

「ヨッフム バイロイト1971」

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2012年4月 7日 (土)

マーラー 交響曲第3番 メータ指揮

Tokodai

東京工業大学の桜。

古木の桜は手入れもよくって、枝ぶりがとてもよろしい。

桜の通路の先は、本館建物で、花満開で見えませんがこちらもいい建物です。

Tokodai2

一般の方々もフリーに入れるし、入学式にサークルの新人歓誘もあって、校内はカーニバル状態で賑やかなものでしたよ。

そしてマーラー。

Mahler_sym3_mehta

 
  マーラー 交響曲第3番 ニ短調

     Ms:モーリーン・フォレスター

  ズビン・メータ指揮 ロサンゼルス・フィルハーモニック
               ロサンゼルス・マスターコラール
               カリフォルニア少年合唱団
                   (1978.3 @UCLAロイスホール


マーラー最長の交響曲。

交響曲界で一番長いとされていたが、いまやそれは140分を要するブライアンの交響曲第1番「ゴシック」にとって替わられた。

それでも、マーラーの3番は、全6楽章100分あまりで長いといえば長い。
でも聴き始めると、その長さが気にならなくなる。
冒頭のホルンの咆哮から始まり、最後の感動的な楽章があると思うと、そこまでの道のりは全然、苦にはならない。

2番が終了して、すぐさま取り掛かった第3交響曲も、夏の休暇を利用して、上部オーストリア、アッターゼーのシュタインバッハにて、ふた夏で書かれた。

Attersee

アッター湖は、こんな風に、夢見るように美しい。

朝は作曲、午後はお散歩、夜は読書と、指揮者としての多忙な日々から離れて過ごしたマーラーの作り出した音楽が、こんな光景とともにあることも意識しなくてはなりません。

自然讃歌のような大らかかつ、愛情に満ち溢れた第3交響曲。

朝の眩しい目ざめとともに、夏の一日が始まり、音楽が躍動してゆく。

Pfarrkirche_attersee


きっと誰もが愛してやまない、終楽章「愛がわたしに語ること」を聴きながら、こうした風景を思い浮かべてみたい。

この「愛」は、世俗的な愛ではなくって、自然への愛・人間への愛、しいては「神の愛」といったものに捉えるべき。
この交響曲を聴くと、最期には大きな何かに包まれるような感情になる。
過酷な試練や運命から逃れられない、われわれ人間。
マーラーもきっとそんな一人。
そして、ここには、マーラーの優しさがあふれ出ております。

幸福感あふれる第3交響曲。

ロスフィル時代最後の頃のメータの演奏こそ、その明るい幸せなムードの交響曲にぴったり。
カリフォルニアの陽光がたっぷり降り注いでいても、ヨーロッパ的な響きと相いれないわけではなく、音楽をあるがままに、わかりやすく明快に聴かせるメータの手腕が際立っていて、マーラーの音楽と不思議とぴったりと合っている。
メータのマーラーは、おもに1番から5番までで、6と7番はたまに、8と9、大地の歌はまったく指揮せずと、はっきりしているが、マーラーの人生観が色濃くなってくる場面を避けているかのようにも思えるがいかに。
ロスフィルのブラスセクションの素晴らしさと、弦楽のしなやかさがとりわけ素晴らしい。

弾むリズムにスピーディな展開の1楽章から、愛らしい2楽章、カッコいい3楽章、ベテラン、フォレスターのくっきりとした深みある声が味わえる4楽章。
アメリカンな風情のビムバムに続いて、終楽章では愛おしむように一音一音丁寧に語りかけてくれるメータ。そのクライマックスでは止めようもない感動が待ち受けております。

この演奏にあとないものは、ほんの少しの陰りの部分。
それは、そう、人間の存在の弱さといったようなものか・・・・。

例によって、いまのわたしのこの曲の聴きどころ。
それは100分全部と言いたいところだけど、究極にチョイスすると・・・。
1楽章は、その34分間すべてが聴きどころで、ホルンの決然とした冒頭から、最後のチョーカッチョイイ終結部まで、間然とすることなく没頭できる。
指揮もしてみたい楽章。
第2楽章は、この曲で一番地味かもしれないけれど、2番の2楽章のように、いまこの歳になって、しみじみ味わい深くなってきた。テンポの揺れ動きや明滅する各ソロ、そして微妙なポルタメントに注目。エンディングも美しく爽やか。
奇矯なモザイク細工のような3楽章は、ポストホルンのソロの牧歌的な場面とその裏返しのような軍隊ラッパ。2度目のポストホルンでは、音楽は急に神妙になり次ぎのツァラトストラを先取りする。
4楽章では、コントラルトとヴァイオリンソロの掛け合い。
5楽章から休みなく終楽章に入ってゆく間(ま)。その間を静かに埋めて行くあまりに美しい旋律。
終楽章も、そのすべてが聴きどころ。言葉は多くをいりません。
何度、この楽章で泣いたことでありましょうか・・・・・・。

 交響曲第3番 過去記事

「アバド&ウィーンフィル」

「ハイティンク&シカゴ響」

「金聖響&神奈川フィル 演奏会」

「ハイティンク&コンセルトヘボウ」

「ヤンソンス&コンセルトヘボウ 演奏会」

わたしの一番好きな演奏は、アバドとウィーンフィル。
掛け値なしに一番です!
それにハイティンク・シカゴ、ベルティーニ・ケルン、そして、このメータ盤です。

演奏会では、聖響&神奈川フィルが若々しい快演でした。
古くは、ベルティーニ&N響に、小澤&ボストンも忘れがたし・・・・。

いろんな思い出一杯の、ノスタルジーの宝庫ともいえる3番なのでした。

(アッター湖の写真は、海外の観光サイトから拝借してます~行ってみたい)

発売時のレコ芸の広告
Mahler_3_mehta

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2012年4月 6日 (金)

マーラー 交響曲第2番「復活」 金聖響&神奈川フィル

Tamachi2

東京モノレールを真下から、桜と一緒にパシャリ。

東京は、本日、桜満開なり。

ちょっこし寒いですが、本格的な春でございます。

Tamachi

この桜の下は、公園で、実は陣取りのブルーシートだらけ。

そこで楽しむ方々はいいかもしれないけど、あのシートは興ざめであります。

今日もマーラー

Mahler_sym2_kimukanaphill

 マーラー 交響曲第2番 ハ短調 「復活」

   
S:澤畑 恵美   Ms:竹本 節子

 
    金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
               神奈川フィル合唱団
               合唱団音楽監督 近藤政伸
               (2010.5.28@神奈川県民ホール)


第1番と同時進行した第2番の作曲は、1888~1894年にかけて。

初演は、1番より1年早く1895年。

日本は明治28年で、前年の日清戦争の勝利の後処理中。
ヨーロッパでは、フランスでドレフュス事件が前年に起きて、ユダヤ人を特別視する風潮が根強くあることを示した。

そんななかで活躍したユダヤ人としてのマーラー。

マーラーは1897年のカトリックへの改宗で、ヨーロッパ楽壇で生き抜く所作を身につけ、処世の術としてます。
 現世の厳格なる宗教、ユダヤ思想に「復活」は希薄かと思えますが、この第2交響曲のクロプシュトックの賛歌は、キリスト教的な宗教的な意味合いがある一方で、いまの私たちは、ここに人間の生き様としての「復活」を強く感じて聴くのだと思います。

マーラーは、いつも死を恐れ、死と隣合わせにいたかのような人ということで、暗くて悩める人のイメージがありますが、この「復活」とその素材選びを見ると、決して死を恐れていたのでなく、作曲できなくなる、そして愛するアルマと別れるという意味での告別を恐れていたのではないかと思えるようになります。
前向きで、微笑みの死。
その先には復活があるんだ!イェ~イ!ってなもんで。
マーラーの交響曲をすべて、そんな風に思って聴いて感じると、また違ったものが見えてくるような気もします。

ライブで聴くと、この2番は、まさに前向きに後押しされるようにして、ホールをよしやるぞ的な力強い足取りで火照りながら出ることが出来るんです。
一昨年に聴いた神奈川フィルの創立40周年記念コンサートこそ、まさにそんな幸福な演奏会でありました。

そのライブ録音がCD化されてまして、神奈川フィルの会員の多くの方が、同団のマーラー・チクルス前半の皆勤賞のご褒美に戴いている音盤でございます。

とても素晴らしかった実演。
響きの悪い県民ホールも、あの日は音像も近くに聴こえ、ガンガン鳴ってた。
でも、このCDは少しばかり印象が違ってて、デッドで硬い響きで、楽器によって鳴り方が異なる。
独唱と打楽器はしっかり響いてる。
弦と合唱は渇き気味で、寸詰まりの感あり。
しかもテノール音域マイク拾いすぎ。
木管・金管はちょうどいい。
全体の印象は、少しばかりモコモコ系で、本番のスッキリ感が後退した感ありです。
ヴィブラート少なめも、あの日以上に、かなり実感できます

こうして音盤として残すには、もう少しブレンド感が欲しかったところ・・・・。

でもですよ、オケの美しさ繊細さは味わえますし、なんといっても曲が進むに従って、徐々に熱気を帯びて行って、最後に大爆発する様は、あの時のホールで聴いた印象と感動そのままです!
見通しのいい素直でクリアなマーラーは、粘着系とはほど遠いところにある若者のマーラーでありましょう。

いまのわたしの2番の捉えどころ。

第1楽章は、静かな第2主題がいろいろ姿を変え、この長い楽章の中で何度も登場するところ。それと何度も書きますが、中間部の大休止のあと、低弦からうごめくように胎動する場面。ここを精緻に扱ってもらわないと困ります。

第2楽章。この地味で、眠くなってしまいそうな楽章が年代を経たワタクシにはお好み。
各パートの絡み合い、ことにチェロの動きに着目です。

第3楽章は、コロコロ変わるマーラーの変幻自在の音楽を楽しむこととしますが、「子供の不思議な角笛」の一編とともに比較しながら聴くのも一興であります。
トランペットの夢見るようなソロに、次の章の予告のようなファンファーレにも注目。

第4楽章「原光」は、アルト独唱の深々とした歌声に注目。
3番と同じく、しいては「大地の歌」のように、アルトの声に託したマーラーの想い。
深遠さとそこにある甘味さを味わいたいです。
ヴァイオリンソロにも耳をそばだてましょう。

そして巨大な5楽章は、大きすぎて一つの曲みたいだけれど、前半がオケ、後半が歌。
前半では、場外(?)バンダとステージ上の奏者たちとの掛け合い。
「復活」の動機が金管から広がってゆき、やがて訪れる大ファンファーレのクライマックス。
中学時代、まだ全曲を聴いたことがなかった頃に聴いたこの部分は、CBSソニーのサンプラーレコードカタログのワルターの演奏。
さらに休止のあと、切迫した雰囲気の中、弦の刻みの上に響き渡るトランペット。
かっちょええで! いくつになってもそう思うぞ。
場外バンダと、フルートとピッコロの鳥の掛け合いの清涼感。
合唱が静かに讃歌で入ってきて、ここからはもう、全部が今も昔も夢中になってしまう場面だからその全部が押さえどころです。
とりわけ、合唱がバスからだんだんと声部を上げて盛り上がってゆき、やがてくる最後の高揚感は、もう筆舌に尽くしがたいものがあります。
合唱入りでは、8番とも共通するものありです。

こうして観て聴いて、CDとなっていつでも聴ける神奈川フィルのマーラー。
音の良しあし、そして、より精度の高そうな都響のCDはともかくとして、繊細でしなやかな美しいマーラーオケの存在を確かなものとして感じさせてくれます。
横浜発のマーラーは、発売済みの第9に続いて、第10番も予定されております。
ともかく、いまの時点での全曲音源化を強く強く期待いたします。


交響曲第2番「復活」 過去記事

  「アバド&シカゴ響」

  「アバド&ルツェルン祝祭管」

  「メータ&ウィーンフィル」

  「金聖響&神奈川フィル」

  「マルクス・シュテンツ&N響」

 

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2012年4月 4日 (水)

マーラー 交響曲第1番「巨人」 ハイティンク指揮

Ookayama

都内某所の夕方の「月」と咲き始めた「桜」。

嵐が過ぎ去った首都圏は、本日快晴。

強い風が、空気を澄み渡らせてくれたみたい。

桜も、今週末が見ごろでしょうか。

そして、街は、フレッシュな若い人であふれております。

わたしにも、そんな時があったと懐かしみながら、マーラー・シリーズをスタートさせてしまうのです。

Mahler_sym1_haitinkaco

 
 
  マーラー 交響曲第1番 ニ長調 「巨人」

   ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
   
                          (1972.5@ アムステルダム)

3月に、聖響&神奈川フィルの演奏を聴いたばかり。

そして、4月の今月は、同コンビで、10番「アダージョ」と「大地の歌」を聴くことになる。

こっちは、頑張ってそれまで全曲行っちゃいます。

作曲家の作品を、年代を追って集中的に聴くことは、その作曲家を理解するのに最も手っ取り早いやり方。
マーラーも、ブルックナーも、ショスタコもシベリウスの交響曲もそうやって聴いてきたけれど、あたりまえながら交響曲作曲家と呼んでいいからだと思います。
ベートーヴェンじゃ、そうはいかない。
交響曲だけじゃわからないし、そのすべてを聴くは大変な時間と労力を要する。

さて、マーラー(1860~1911)の1番は、1888年に作曲の交響詩としての初稿版を始めとして、2部構成の音詩の2稿を経て、1896年の交響曲の姿としての第3稿にて、現在最も演奏されている姿に行きついた結果。

次回、別褐しますが、1888年から1909年、21年の間にマーラーは9つプラス歌曲交響曲の10作を完成ベースでは年1作のペースで書き続けたことになる。
われわれが思う以上に、マーラーは指揮者としてもオペラの監督にコンサートにと、超多忙を極めた人だったので、この作曲ペースは、大作ばかりを考えると実にスゴイことに思います。

そんな想いで聴くフレッシュな面影も残る1番を聴くと、9番までの距離はそんなに遠くないようにも感じますが如何に。

もう40年近くも聴き続けているマーラーの、それぞれの時期の自分で、聴きどころ、押さえどころが変化しているようにも思います。
今回のシリーズでは、いまの自分が選んだ、マイ聴きどころを列挙しときます。
あと数年後(生きてれば・・・)また変わっていたりもするかもしれませんね。

 1楽章冒頭の混沌とした中に、カッコウの声やファンファーレが乗っかる、いかにもなんでもあり的なマーラーらしい出だし。
終楽章で2回あるファンファーレの1楽章版爆発とその後の急速な終結部。
  2楽章の中間部レントラー。特にポルタメントの効かせ方。
 
  3楽章は、この歳になって一番好きになった。
悲壮&皮相だが、本音を語っていない哀愁感が妙に好き。
 終楽章はなんといっても、第2主題の息の長い美し~い旋律。
いつまでもどこまで浸っていた~い。
そんなこといいつつも、ここでも2度の爆発に、最後のトドメでは、ホルン立ち上がり~の金管・木管ベルアップを脳裏に浮かべつつニンマリと聴く終結部の低弦のカッコよさ。

ハイティンクの1番の録音は、5回あって、今日のは、その2度目のスタジオ録音。
72年、マーラー全集を完成させたと同時に1番を再録音。
コンセルトヘボウとの蜜月も軌道に乗り、自身もロンドン・フィルとの兼任も成功し、飛躍しつつあった昇り調子の時期での再録は実に意義あるもの。
音楽の勢いと表情付けは、むしろ一本調子に感じるけれど、こんな素直で真っすぐの演奏はあんまりないのでは。
超巨匠となったいまのハイティンクの立派すぎる演奏と比べてみるのも一興。

少しばかり丸く聴こえる録音もいい雰囲気。

このレコードが出た時は中学生。
あの時、あなたは、わたしは・・・・・と思ってしまうのでした。

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2012年4月 3日 (火)

石田オレ様 なう

神奈川フィル・ブルーダル基金コンサート 

石田泰尚ヴァイオリン「横濱“BLUE”夜会」

2012年04月03日(火) 19:00~ 横浜開港記念館

   石田泰尚(Vn)

   中岡太志(Pf)

Kaikoukinenkan

20:00 休憩中

21:10 終了

ときどき、外の車の音やサイレンが聴こえる臨場感。

そして、早帰りのワタクシの部屋の外は、コンサート最初の頃は嵐。

終了したいまは、静かな夜。

ピアソラに、映画音楽に、各国のタンゴ。

堪能させていただきました。

見た目と、出てくる音とのギャップの大きさ。

一杯やりながらすっかり楽しませていただきました。

ナイスな企画にございましたnote

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2012年4月 1日 (日)

バッハ マタイ受難曲 ベーム指揮

Cloth

まだ梅の咲く頃、某教会にて、外壁にある十字架に日の光があたって輝いておりました。

今年の教会暦では、イエスが十字架に架けられた聖金曜日が4月6日。

復活祭は、4月8日(日)。

キリスト教国、ことにヨーロッパでは復活祭(イースター)は、クリスマスとともに大きな催しでにぎわい、連休も続きます。
キリストの生誕以上に、イエスの受難とその復活は、キリスト教の根源なので当然でありましょう。
海外の宗教的な意味での祭事が、日本では商業的な意味の催事になってしまうことのおかしさ。
それは、いまや中国でも同じみたい。

そして欧米では、各地で、バッハのふたつの受難曲がさかんに演奏されるのもいまこの時期。
われわれ西洋音楽を愛好するものにとって、イエスの十字架上の死を、見つめて考えてみるのに、バッハの受難曲ほど最上の作品はありますまい。

ウィーンでも毎年、受難曲が演奏されております。

Bach_matthuas_bohm

 バッハ  マタイ受難曲

   エヴァンゲリスト、T:フリッツ・ヴンダーリヒ
   イエス:オットー・ヴィーナー   S:ヴィルマ・リップ
   Ms:クリスタ・ルートヴィヒ    ペテロ、Bs:ヴァルター・ベリー
   ピラト:ペーター・ウィンベルガー ユダ:ロベルト・シュプリンガー
   ほか

   カール・ベーム 指揮 ウィーン交響楽団
                 ウィーン学友協会合唱団
                 ウィーン少年合唱団
                   (1962.4.18 ウィーン)


「ベームのマタイ」です。

これを見つけたときはビックリした。

そして、前段で書いた、これはウィーンのマタイ。
フルトヴェングラー、カラヤンもマタイを指揮していたウィーン。
マーラーもきっと演奏していたはず!

あとなんといってもヴンダーリヒが福音史家を歌っているのがベームの指揮と並んで魅力的。
ほかの歌手も当時のドイツ系歌手の最高の布陣で、このメンバーで「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が上演できます。

そして息をこらして聴くこと2時間30分。

少し短めなのは、カットがそこここになされているから。
リブレットを対比しながら確認した省略曲は、ソプラノのアリア「Ich will der mein Herz schenken」、バスのアリア「Gerne will ich mich bequemen」、コラール3つ。
そして、福音書に基づく人々のやりとりの一部。
ベームの考えによるものか、ウィーンの譜面か、通例かは不詳なれど、非常に残念ではあります。

重い足取りを感じさせる冒頭合唱から重厚かつ分厚い響きを感じこそすれ、最初は、普通に演奏しているバッハに思われ、なんのことはないな・・・、と聴いておりました。
そして、いまの編成少なめ、ヴィブラート少なめのバッハ演奏に耳も心も慣れている自分には、圧倒的な質量の響きにも感じます。

しかし、聴くほどに音楽に引き込まれてゆき、その音の物量にもすっかり慣れてしまう。
そしてベームの指揮にだんだんと熱が帯びてくるのがわかる。
正規のライブ音源でもなかなかお目にかかる(お耳に)ことのない、うなり声が目立つようになってくる。
いくつも繰り返されるコラールが、受難の進行によってイエスへの同情と人間への反省を強めてゆくと同時に、そのコラールが徐々に感情移入も強くなってドラマティックになってゆく。
通奏低音をかなり重厚に響かせ、ときに思わぬ強調をすることでも、福音の聖句や、レシタティーヴォを際立たせることになっている。
それとリタルダンドも曲の終結にかなり多用されるように感じます。
ベームの音楽造りには、あまり似合わないと思われるが、これも時代でしょうか、ウィーンの譜面でしょうか。
これもまた、曲の進行とともに、そして劇性を高めるとともに、効果を上げて聴こえるところが面白いところ。
ウィーンの管楽器の音色も、いまでは聴けないまろやかなものです。
こんな風に、ベームのマタイは、ストイックなものかと思ったら、歌手の選択もあわせオペラ的な様相のマタイに思いました。

歌手は、ヴンダーリヒの独り舞台といってもいい。
福音史家とテノール独唱をかね、歌いどころももっとも多い。
当時32歳、でもこのあと4年後に事故で亡くなってしまうこの美声の歌手で、マタイが聴ける喜びはとても大きい。
端正でクリーンな歌声は、福音史家にぴたりとはまるし、ときに思わぬ劇性を漂わせて聴き手を聖書の世界の一員のように巻き込む手腕は天性の嫌みのない清潔な歌唱ゆえ。
ペテロの否認を語るヴンダーリヒには思わず息を飲んでしまう・・・・。

そのあとのルートヴィヒも泣かせてくれます。
「Erbarme dich, mein Gott,」
~憐れみたまえ、わが神よ わたしの苦い涙をお認めください~
これほどに、誰しもの人間の心に宿る弱さを悲しみを持って歌った音楽を知りません。

若々しい、ヤノヴィッツやリップの鈴音のような歌声も魅力的です。

放送録音音源で、当然にモノラルですが、音はしっかりしていて聴きやすいもの。
いずれ、オルフェオあたりが正規に復刻してくれるものと思われます。 

最後の合唱 「Wir setzen uns mit Tranen nieder」
 ~わたしたちは、涙を流してひざまずき、
    お墓のなかのあなたに呼びかけます
   お休みください 安らかにと ~

この素晴らしい合唱が終わると、拍手はなく、おそらく聴衆はそのまま静かに感動を暖めながら帰宅したことでありましょう。
このような音楽には、そうありたいものです。

 マタイ受難曲 過去記事

 「グスタフ・レオンハルト盤」

 「ウィレム・メンゲルベルク盤」

 「ハンス・スワロフスキー盤」

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