R・シュトラウス 「ばらの騎士」 ビシュコフ指揮
銀座和光のウィンドウディスプレイ。
いつもテーマを決めて、美しいショウウィンドウを楽しませてくれます。
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ウィンドウの中に、ドラマを描く。
オペラや演劇の舞台も同じこと。
限られた空間に、異次元を作り出し、聴衆は自分たちと違う世界にしばし戯れ、刺激を受け、そして考えるのであります。
R・シュトラウス 「ばらの騎士」
元帥夫人:アドリエンヌ・ピエチョンカ オックス男爵:フランツ・ハヴラタ
オクタヴィアン:アンゲリカ・キルヒシュラーガー ゾフィー:ミア・パーション
ファニナル:フランツ・グルントヘーバー
マリアンネ:イングリート・カーザーフェルト
ヴァルツァッキ:ジェフリー・フランシス
アンニーナ:エレーナ・バトウコーヴァ 警部:フローリアン・ベッシュ
ほか
セミョン・ビシュコフ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
演出:ロバート・カーセン
(2004.8 @ザルツブルク)
今日もR・シュトラウス。
私の好きなオペラ10指には必ず入る「ばらの騎士」。
5年前、東京では「ばら戦争」が巻き起こった。
4つの舞台に、セミステージ公演ひとつが次々に行われた。
日本経済も、わたくしもそこそこ順調。
全部観ちゃいました。
久々に、音源以外で「ばらキシ」を。
2004年のザルツブルク音楽祭のプリミエの記録で、この音楽祭の直前、このオペラに神がかり的な演奏を残し続けたカルロス・クライバーが亡くなっていて、初日の幕が開く前にその死に対して哀悼の言葉が告げられたとあります。
「ばらの騎士」の台本作者、劇作家ホフマンスタールも、その発足人のひとり。
初演以来、ザルツブルクとは強い結びつきのあるこの「ばらの騎士」は、映画にもなっているカラヤンの上演があまりにも有名です。
今回の上演は、かつてと比べ、演出優位の時代を反映し、まとまりはいいものの、歌手も指揮も際立った人がいない。
その変わりに、演出家の力の見せ所は、このような映像になってくると映えてくるし、歌手たちの優れた演技力も楽しめるのであります。
オペラの楽しみ方が、音源でなく、映像に完全移行してしまったことも、国内盤のオペラCD新譜がまったくなくなってしまったことでもうかがえる。
ロバート・カーセンは、奇抜なことはやらない代わりに、驚きの発見と考え抜かれた緻密な舞台運びで、おしゃれ感すら漂わせる演出家。
18世紀半ばのハプスブルク時代の設定から、このオペラの作られた20世紀初め1909年頃、すなわち、第1次大戦直前といった時代設定に置き換えての舞台。
(以下、画像は海外のニュースサイトより拝借)
マルシャリンの旦那、すなわち元帥閣下は、妻が逢瀬を楽しむベットの上に肖像画としていかめしく架かっております。
オーストリア帝国軍の軍服でしょうか。
そして、オックス男爵は完全にドイツ軍の制服で、そのやくざなお供たちも同じ。
2幕の舞台のファーニナル家は、完全に武器商人の館で、家人はさまざまな武器を手にして右に左に忙しく、招待客も様々な軍服を着た無表情の人々で、ゾフィーが野卑なオックスからご無体な仕儀を受ける時も黙って見つめる冷徹な存在。
さらに結末は、種あかしとなっちゃうので、多くは書けませんが、酔ったモハメド君が銃を片手に大暴れしてしまう・・・・。
これは、第1次大戦の引き金となった事件を暗示しているのでしょうか・・・・?
身を引くマルシャリンに、若い二人の銀のしずくのような美しい3重唱と2重唱。
二人の新恋人たちは、1幕のマルシャリンとオクタヴィアンと同じように、ひと目もはばからず、大きなベットで戯れております。
ファーニナルが、若い人は、「こういうものですなぁ~」という言葉が妙に現実的(笑)。
このように、カーセンの舞台は、ある方向付けに対し、まっしぐらに、やたらと写実的なのです。
横にやたらと広いザルツブルクの祝祭劇場の機能を縦横に活かしたパースペクティブな舞台構成や人の動き。
部屋をいくつも設定でき、その部屋から部屋へ移動するさまが客席では、見事に味わえる寸法だが、テレビの画面では同時進行する舞台が不明となる欲求不満も。
しかし、本物の馬にまたがって颯爽と速足で登場する「ばらの騎士」の登場は、お見事にございますよ。
それと照明の使い方の見事なカーセンは、全体に光と影の対比が鮮やか。
その光と影が、炙りだす、時間の経過の悲しみと残酷さ。
火遊びに浮かれていたマルシャリンは、手鏡を見た瞬間に、すべてを悟ったようにシリアスに変貌。
浮かれる若い恋人たちにも、戦争の陰が忍びよることも匂わせた。
まだまだいろんなことが隠されているカーセン演出なのでした。
映像だとアップ画像が多く、歌手たちを至近に観る喜びとともに、幻滅感もあるのがDVD鑑賞の宿命。
ビジュアル的によかったのは、パーションと意外に濡れ場でどぎまぎするオックス。
怪しげな館で、奔放に振る舞う娼婦のようなオクタヴィアンだったりして、キルヒシュラーガーはちょっと無理があるし、ピエチョンカの体格のいいマルシャリンも遠目の方が・・・・。
しかし、その歌唱はみんな素晴らしく完璧。
映像を消して聴く接し方もまだまだありだ。
そして、ウィーンフィルは、ビシュコフのてきぱきとした指揮もあって、甘美さよりは現代風の煌めく音の洪水に感じ、うつろいの儚さといった趣きは、過去のものみたい。
50~70年代のウィーンフィルの音色はいまや遠くになりにけり・・・か。
過去記事 劇場編
「新国立歌劇場公演 P・シュナイダー指揮」
「チューリヒ歌劇場公演 W・メスト指揮」
「ドレスデン国立歌劇場公演 F・ルイージ指揮」
「神奈川県民ホール公演 沼尻竜典指揮」
「新日本フィルハーモニー公演 アルミンク指揮」
過去記事 音源編
「ばらの騎士」~抜粋 ヴァルヴィーゾ指揮
「ばらの騎士」 ドホナーニ指揮
「ばらの騎士」~ワルツ ワルベルク指揮
「ばらの騎士」 クライバー指揮
「ばらの騎士」 ハイライト デルネッシュ
「ばらの騎士」~組曲 ヤンソンス指揮
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