にゃんにゃん、自電車に・・・
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ニッポンの最高立法機関の国会議事堂。
わたしたちが直接に、間接に選んだ議員さんたちが集う場所。
近くのビルから覗いてみました。
ここに集う期間限定の方々に、真の愛国心を持つ方々がいらっしゃるでしょうか。
そもそも、われわれ国民にも、そんな強い気持ちを持つ人々がいるのだろうか。
敗戦の時から、愛国心を口にすることが少し憚られる風潮になり、日の丸も遠い存在になり、そのまま社会は芳醇を迎えてしまい、ずっとのんべんだらりと過ごしてきてしまった。
オリンピックやワールドカップのときだけ、ニッポンニッポンと熱くなるわが国民。
もっと大事なことは曖昧な政治の中に封じ込められてしまい今日に至るの図式です。
ヴェルディ アイーダ
アイーダ:マーティナ・アローヨ ラダメス:プラシド・ドミンゴ
アムネリス:フィオレンツァ・コソット アモナスロ:ピエロ・カプッチルリ
ランフィス:ニコライ・ギャウロウ エジプト王:ルイジ・ローニ
伝令:ピエロ・デ・パルマ 巫女:ジョセラ・リージ
クライディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団/合唱団
(1972.8 @ミュンヘン)
ヴェルディ(1813~1901)。来年、ワーグナーとともに生誕200年の年を迎えます。
われわれ他国民からみると、どちらも偉大なオペラ作曲家として、血沸き肉踊り、歌心と知的な好奇心を大いに刺激し続けるカリスマであります。
しかし、ドイツ人からみたワーグナーと、イタリア人からみたヴェルディとでは、だいぶ様相が違うように感じます。
「われらがヴェルディ」と、きっとイタリア人なら思うでしょうが、ワーグナーの場合はそうはいかないと思います。
ワーグナー自身にもゲルマン至上という思想があり、ドイツとワーグナーには、いろいろな尾ヒレがつきまとってしまう。
支配され属国であったり、たえず内紛も絶えなかったイタリアにあって、祖国愛と史劇の素材選びでもって聴衆の心を常に掴んできたヴェルディ。
そんなヴェルディのあるイタリア人がなんだか羨ましく思えるんです。
今日は、ヴェルディの中でも、断トツの人気オペラの「アイーダ」を。
エジプトのオペラハウスのこけら落しにと作曲依頼があったアイーダは、エジプトという壮大な歴史背景をもとにした、エジプトとエチオピアのふたつの祖国に揺れ動く、愛と憎しみの人間ドラマであります。
フルスペックのグランドオペラなものだから、晴れの日用の上演演目として上演されることも多いのです。
NHKホールの開館の一環でも、この「オペラ」は上演されましたが、その1年前、1972年に、ミュンヘン・オリンピックの開催記念にイタリアから、スカラ座が豪華キャストを引き連れて引っ越し公演を行ったことも、このオペラの上演史的に大きな出来事だったはずです。 (1972、ウィーン芸術週間のアバド)
指揮は、申すまでもなく、当時すでにファンだったクラウディオ・アバドです。
NHKのFM放送も聴き、録音し、初めての「アイーダ」に興奮しっぱなしの中学生のわたくし。指揮もしまくりでしたよ。
当然、若いものですから、前半の華やかなふたつの幕ばかり。
後半の、祖国と恋人との間にゆれる心理描写を巧みに描いたこのオペラの静的な部分に耳が行くようになるのは、もう少し歳を経てからですが、こうして決して良好ともいえない音源に接してみて、アバドは剛と柔、じつにしなやかな音楽を繰り広げているんです。
特別なシテュエーションも後押しして、最初から最後まで、熱気の渦が取りまいていて、前半の各場のエンディングや華やかなバレエに合唱などの終結部は興奮の極みとなっております。
が、しかし、そこはアバドで、実に整然と、ピシリと決まっております(一部先走りもありますが)。
それとともに、主役たちの名アリアがそれぞれ持つ愛とその苦難を雄弁に、そして時には繊細に歌い込むオーケストラの素晴らしさは、スカラ座のオケのすごさも相まって、アバドの指揮のすごさだと思います。
一番の聴きどころは3幕のアモナスロとアイーダの二重唱の緊迫した場面。
父の無事に安堵する娘に、敵の将軍ラダメスから進軍径路を聴き出すようにと迫る父王。
愛する祖国と敵国の恋人との間に揺れ動くアイーダの心情。
ここにおけるオーケストラの怒りと涙の痛切の響きはどうだろうか!
このあとの、ラダメスとアイーダの二重唱の高まりと、その後の急展開の裏切りと捕縛。
手に汗握る超スペシャルな名演でございますよ。
当時、最高峰の歌手を揃えた配役も素晴らしい。
ビンビン響く声、また声。
ヴェルディを聴く喜び、ここに尽きます。
輝かしさ一杯のドミンゴ、強靭なコソット、力強さと明晰さのおりなすカプッチルリ、深くて美しい厳粛なバス、ギャウロウ、王様スペシャリストのローニ。
そして、思いのほか美しい声を聴かせるアローヨ。あんまり録音には恵まれなかったアローヨだけど、繊細で細やかな表現の「わが故郷」は感動します。
放送録音による音源で、ヒス音による音汚れも目立つし、プロンクターの声がうるさいが、この名演の記録としては申し分ない音質です。
この音盤を聴き、いつも思うことは、これがすぐにでも正規録音されなかったこと。
EMIが、アローヨをカバリエに変えて、ほかの配役はそっくりそのまま、若獅子ムーティを起用して録音してしまった。
商業録音がビジネスとして成り立つ贅沢な時代でもあり、DGがEMIに負けてしまったことが、アバドファンとしてはむしょうに悔しかった。
(もちろん、ムーティ盤も喜々として聴きまくったのですがね)
その後10年近くを要して実現したアバド&スカラ座のスタジオ録音は、それはそれで素晴らしいのですが、このミュンヘン盤を知る者には、ちょっと遠くでなっているような印象を受ける。クライバーのボエーム録音がキャンセルされ、急遽順番が回ってきた録音とのことで、シモンやマクベスのような集中力あふれるヴェルディにはならなかったのでは。
1972年のミュンヘンオリンピックは、いまでも覚えてるのが体操の塚原の月面宙返りと、男子バレーの時間差攻撃などの多彩なスピーディな攻め、そして水泳の田口選手。
いまや各国が、それらを進化させて強くなっているが、そのベースは、ミュンヘンにおける日本選手たち。
そして、忘れられない事件が、パレスチナゲリラによるイスラエル選手村へのテロ攻撃。
西ドイツは要求を飲み、人質を持った犯人たちの空港への脱出ルートを作ったが、空港で銃撃戦となり犯人を一部捕獲はしたものの、選手である人質ほか、多数の犠牲者を出した。
この血なまぐさい事件は、テレビでも中継されたし、週刊誌で血に染まった空港などもみて、恐怖を味わったのを鮮明に覚えている。
犠牲者の追悼式では、ルドルフ・ケンペ指揮するミュンヘン・フィルによって、「英雄」の第2楽章が演奏され、それもテレビで観ました。
いまから40年前のオリンピックは、こんな風に、なにもかも劇的で、私にとっては忘れられないものなんです。
いまや、西も東もなく、おかしな国は若干ありますが、均衡が微妙に保たれた各国によるスポーツの祭典となっております。
いっときの愛国心を試すお祭り、どちらさまもお楽しみあれ。
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今年もバイロイト音楽祭が始まりました。
初日は、新演出を迎えることも多く、話題に事欠きません。
レッドカーペットが引かれ、著名人が入場します。
それを楽しみに見守るバイロイト市民。
もう何十年も、こうしているんでしょう。
いつも報道写真のトップはメルケル首相。}
ヨーロッパの顔となったメルケルさん。
そして迎えるホスト側は、ワーグナーの曾孫たち。
異母姉妹ですが、その顔立ちは、完全にリヒャルト大ワーグナーそのもの。
ワーグナー家の血は、どこまで続くのでしょう。
ほかの作曲家にはできなかった、極めて稀なことを大ワーグナーのDNAは残しつつあります。
そして、ワーグナー家以外の演出家を広く迎えることで、劇場の存続をも巧みに図ってきたバイロイト劇場は、ときに頑なまでに強硬な姿勢をとることが今年も実践されました。
開演を直前に控えての、オープニング・タイトルロールの降板は、なにもそこまで的な思いとともに、ワーグナー家の、そしてドイツ人の根本にある思いを歴然と解らしめるものでした。
しかし、当のロシア人歌手ニキティンは、これからもドイツをはじめとする欧州各地のハウスで歌っていくことになりそうです。
音楽本位で考えれば、彼の実力からすれば当たり前なんだけれど、その全身に及ぶタトゥーは、正直肯定できません。
見苦しいのひとことですよ。
その急場を救った代役が、われらが東洋の同胞、サミュエル・ユン。
韓国系の歌手たちの台頭には目を見張るものがあります。
それはともかく、ニキティンを想定して進められたオランダ人の演出は、極めて若いジャン・フィリップ・グローガーという今年31歳の人。
1981年生まれですよ!!
1981年といえば、バイロイトではシェローのリングは終わっていたし、ポネルのトリスタンが始まった頃。
わたしにとっては、昨日のことのように思える年代に生まれた若者が、バイロイトのオープニング演出をする・・・・・って一体??
そんな思いがこの発表からあり、彼の少ない演出経験から、ドイツのハウス各地の「フィガロ」や「アルチーナ」のダイジェストや画像を見るにつれ、きっとまた・・・という嫌な感じを抱くのみでした。
それはヘンテコな読み替えはなさそうだが、時代を現在に変え、シンプルな舞台装置に見えましたが、バイロイトのオランダ人は・・・・。
夢見るゼンタが作った段ボール幽霊船ですよ。
これですよ、このショボそうな演出のモティーフともくされるのは。
バイエルン放送局や他局の速報画像から拝借してます。
左から、舵手、ダーラント、オランダ人。
完全にビジネスマンの諸氏で、オランダ人は海上ブローカーとして、カートにぎっしりコーヒー豆を詰め込んでいるそうです。
オランダ人に必須の海と船がまったく登場しそうにないと推察される舞台。
オランダ人の宿命はいったいどこに見つければいいのか??
ゼンタは、女工たちとともに、ベンチレーター(換気扇のようなもの)の工場の荷造り工程に働いてまして、そこには段ボールが一杯。
乳母マリーや、パートの女性たちも明るく楽しそうです。
マリーは、クリスタ・マイヤーで、彼女はベテランですが、いまや舞台で欠かせない名メゾです。
職工の上着を脱ぎ捨て、ゼンタは真っ赤なドレスで、段ボール船を掲げてます。
みんな、引いちゃってますね。
海を股にかける商人の親父ダーラントが連れてきたオランダ人。
まるで宇宙人みたいに無表情。
頭には変な模様があるし、手には大きな傷跡があって出血が止まらない・・・。
なんなんだ、この血だらけの舞台?
船乗りたちは、三つ揃いのビジネスマンたちで、整然としすぎてます。
しかし、バイロイトの合唱団の威力は、相変わらず、すごいものがありますぜ。
でも、ラスト、ゼンタのワーグナーが思ったところの自己犠牲はどうなったのでしょうか。
その核心部分の画像は、当然ですがどこにも公開されてませんでした。
肖像画は、なさそうで、血染めの段ボールオランダ人を愛おしく思い歌うゼンタ。
アウトロー的でホームレスな存在のオランダ人は、永遠に呪われ、その象徴が治癒することのない傷=出血ということなのでしょうか。
赤いゼンタのドレスもそれを受け止めるというあらわれか?
序曲も最終場面も、しっかり救済の動機が感動的なまでに演奏されてます。
ということは、傷を負ったオランダ人は、ゼンタによって救済され、ふたり昇天したのでしょうか。
毎年、画像を先取りして、あれこれ想像してしまう。これもまた遠いところでも、本場の音源と画像をその日のうちに確認できることの喜び。
その喜びも、こうしてファンタジー不足の、そしてエコロジー効果抜群の無機質な舞台の様子を確認するにつれ、がっかり感とともに、その陳腐さに腹立ちすら覚えるわけだ。
演出家は、これをロマンスと解釈するようですが、とんでもない。
ふたりは、もしくは、死なずに、愛とともに生きながらえるという仰天解釈でもしたのでしょうか?
もしそうだとしても、「海」や「船」をそこに感じさせない舞台には、ワーグナーの初期オペラの持つロマンティシズムは表現できないとわたしは思いますね。
(音楽は、しっかりロマンティック・オペラとしての本質を捉えているのに・・・・)
ワーグナーの意匠を代々継いできた天下のバイロイトでこれかよ。
もちろん舞台を見ずに、数枚の画像のみで判断してはいけませんが、でもですよ、長年ワーグナーとともにあれば、だいたい想定できます。
今後映像やほかの画像が出てきて、またその思いが変わるかもしれません。
ダーラント:フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ エリック:ミハエル・ケーニヒ
ゼンタ:アドリアーネ・ピエチョンカ マリー:キリスタ・マイヤー
舵手:ベンヤミン・ブルーンス オランダ人:サミュエル・ユン
クリスティアン・ティーレマン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
バイロイト祝祭合唱団
合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ
演出:ジャン・フィップ・グローガー
(2012.7.15 バイロイト)
ユンは、ねずみの「ローエングリン」で、あまりにも朗々とした式部官を歌った人。
今回、セカンドキャストで、準備万端だったともいいます。
そのなめらかで明るい色調の声は、きっとバイロイトの木質の劇場にピタリとマッチしていたのではないでしょうか。
宿命的な暗いバリトンとしてのオランダ人からは、ちょっと遠いイメージですが、イタリアもので培った素晴らしい声は、オランダ人としてユニークな解釈となったと思います。
それとピエチョンカの繊細で細やかな歌いぶりも素敵なものでした。
周囲から浮いてしまう不思議ぶりは、強靭な声で歌わずとも、こんなふうにしなやかに歌うことによっても表現できるんですね。
素晴らしいゼンタだと思います。
ゼーリヒとケーニヒの安定感ある歌唱も、音で聴くには十分に舞台を引き締めるものですし、わたしのお気に入り、クリスタ・マイヤーもよかった。
こんなかんじで、歌は抜群に評価します。
で、ティーレマンの指揮。
音で聴く分には最高のワーグナー。
ずしりと重く、要所要所で、テンポを落としたり加速したりの、おなじみの指揮は、ワーグナーにおいては、聴く人の熱狂や官能をくすぐる巧みなもの。
あの、画像さえ見なければ、それは実に素晴らしいものなんだけど、舞台が段ボールでエコな感じで軽々しいもんだから、重厚なティーレマンとの整合性がどうも理解不能。
情報不足のまま、記事書いてますので、推測にすぎる部分も多々ございます。
新しきバイロイトは、ますます実験劇場の名前をおとしめながら、いまの風潮を後追いしつつ、ドイツの単なる一劇場の存在と化すようになってきているように思います。
バイロイトならでは、ご本家ならではの新たな潮流はこれからも生まれ得ないのでしょうか。
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北海道と長野は、その緑が北国のそれであるように思います。
白樺や針葉樹が多いのもそうだし。
冬季オリンピッックを開催したのも両地。
英国音楽や北欧の音楽を聴くときに、日本で思い起こす景色も北海道に長野。
バックス 交響詩「夏の音楽」
ブライデン・トムソン指揮 アルスター管弦楽団
(1982.6 @ベルファスト)
アーノルド・バックス(1883〜1953)は、英国作曲家のなかでも大好きなひとり。
生粋のロンドンっ子にありながら、ケルトの文化に魅せられ、アイルランドやスコットランド、北イングランドの地を愛し、まさにアイルランドに没している。
7つの交響曲、いくつもの交響詩や管弦楽作品、ピアノと管弦楽の作品、室内楽、器楽、声楽曲など、広範に作曲しているが、その音楽は幻想的で、ロマンティックでかつ、ミステリアスな雰囲気にあふれていて、最初はとっつきが悪いものの、ひとたびハマれば、そのどれもが北国の風物の魅力を感じさせるようで、愛せずにはいられなくなるんです。
同時代のV・ウィリアムズよりは保守的て、その少し曖昧なタッチは、ディーリアスにも近くて、一方でダイナミックなシャープさも持ち合わせていて、ブリッジやバントックのようでもあります。
今回のCDを取り上げるのは2回目ではありますが、4曲収められた素敵な音詩のなかから、今聴くに相応しい「夏の音楽」をピックアップしてみました。
10分あまりの小さな作品で、オーケストラの規模もそんなに大きくありません。
出だしからホルンの詩的な歌と、それに続くコールアングレの音色を受けて弦が、どこか懐かしい雰囲気で曲は始まり、金管はトランペットだけという、大きな音をたてないオーケストラによって静かに音楽は進みます。
暑く風のない6月の南イングランドの木々茂る場所の情景。
一服の音による絵画のようであります。
前の記事でも書きましたが、ディーリアスの「夏の庭園にて」と対をなすようなバックスの音詩にございました。
1920年、ビーチャムに捧げられた作品です。
バックスのスペシャリストともいってよかった、B・トムソンのダンディな指揮で。
過去記事→バックス 交響詩集1
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千鳥が淵、一番町にある英国大使館。
20日から、日暮れとともにライトアップ・カウントダウンが行われておりまして、27日の開会のその瞬間が最終日です。
数年前、英国音楽ばかり記事にしていたものですから、英国文化を紹介する日本ブロガーとして、英国大使館の関係からイヴェントメールをいただくようになりました。
いろんな講演会や、大使館での催しのご案内を希に戴いておりましたが、勿体ないことに参加経験ゼロ。
今回のライトアップは情報いただき、そそくさといってまいりましたよ。
ご覧のとおり、建物をラッピングするみたいなユニオン・ジャックに開会式までの残り時間。
日本時間、7月26日19時20分くらいだったでしょうか。
今日は、ロンドンをテーマにした英国作曲家のふたつの序曲をバルビローリの指揮で。
エルガー 序曲「コケイン」
サー・ジョン・バルビローリ指揮フィルハーモニア管弦楽団
コケインは、広範には生粋のロンドンっ子という意味で、コックニー、狭義には、すなわち、ロンドン・シティーのエリアの人々のことを言いました。
ロンドン気質みたいな感じでしょうか。
エルガーの作品には、それはお高い雰囲気はなくって、労働者の市井の営みを感じさせるフレンドリーな街といった雰囲気で、それがそっくり音楽になっているんです。
後年のふたつの交響曲+1に聴かれるような、英国の夕暮れを思わせるような憂愁はここでは聴かれません。
快活で、のびのびと明るい、ナイスなロンドンであります。
アイアランド 「ロンドン序曲」
サー・ジョン・バルビローリ指揮 ロンドン交響楽団
こちらは、エルガーの作品から35年後、マンチェスター生まれのジョン・アイアランドは、その名も「ロンドン」の序曲を書きました。
もとは吹奏楽のための「コメディ」序曲という作品を書いていたアイアランドに、エイドリアン・ボールトがオーケストラ化を勧め、「ロンドン序曲」としてリニューアルしたもの。
こちらも、ナイスで明るい雰囲気で、盛り上げにも事欠きません。
ですが、エルガーのロンドンと少し違って、都会の矛盾をそこはかとなく捉えていて、中間部では哀愁溢れる旋律を伴って、頬杖をつきたくなるようなアンニュイムードになるのです。
エルガーとの世代の距離を感じるとともに、戦争の影も認めざるをえません。
でも、それはいっときのはなし。
曲はすぐに、快活なムードに戻り、元気にエンディングを迎えます。
どちらの曲にも感じる、イギリス気質。
この2曲に、V・ウィリアムズのロンドン・シンフォニー、コーツの楽しいロンドン組曲などとともに、ロンドンを描いた音楽は、どちらも個性的。
サー・ジョンの慈しみと歌心あふれる演奏は素晴らしいです。
いかにも英国。
そして、普段は、こんなふうに絶対撮れない大使館の門扉。
オリンピックそのものは、どこの国でもあんまり盛り上がってないんじゃないかしら。
世界はいまそんな風潮になりつつあるような気がします。
でも、英国好きとしては、国とロンドンそのものから常に目が離せません。
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丸の内行幸通りに立ち、東京駅をパシャリ。
まだ工事進行中ですが、赤煉瓦駅舎は外観がほぼ復元。
解体前は、そういえば赤煉瓦コンサートなんてのもありました。
東海道と総武線の玄関口として、子供時代より、東京駅は常に親しい存在でした。
いま、地下も構内も考えうる限りどんどん拡張されて、成長するひとつの街みたいになってしまいました。
各方面からの乗り入れも、まだまだ計画中のものがあるようです。
クールで整然とした日本の顔のような東京駅です。
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ 交響曲第8番 ニ短調
リチャード・ヒコックス指揮 ロンドン交響楽団
(2003.1 ロンドン オールセインツ教会)
RVWの交響曲全曲シリーズ、なんていいながら、またずいぶんと間があいてしまいました。
9曲の交響曲のうち、5番までと7番は、難無く手の内にはいった音楽なんですが、それ以外の6、8、9番がどうも苦手で、とくに8・9は自分としてはいかんのでした。
いままで、ボールト、プレヴィンやトムソン、ハイティンクで、聴き流すのみだった。
これじゃいかんということで、しばらく前から、何度も何度も、暇さえあれば流し聴きするようになりました。
ようやく旋律も馴染みになり、解説書やWIKIの力もお借りして、記事が書けるような気がしてまいりました。
これまでにRVW記事で何度も触れているように、9つの交響曲は、ともかく多彩な顔を示していて、その間のふたつの大戦の影響も伺いとれるものなんです。
長命のRVW(1872〜1958)は、1903年31歳の1番から、1957年84歳の第9まで、亡くなるまでの50年の永きにわたり、交響曲を作曲し続けている。
このような作曲家はほかにあまりいないのではないかと思います。
9曲がそれぞれ、多様なスタイルを持っていることは、これまでも何度も書いてきましたが、その多様さの中に、RVWの個性がいずれもしっかり刻まれております。
英国の自然を思わせる抒情性、エキゾチックなペンタトニック調、ダイナミックな不協和音、壮大さと室内楽的な精緻さ、民謡調、声楽の楽器化・・・・・などなどです。
今日の交響曲第8番は、1856年83歳の作品で、ジョン・バルビローリに献呈されていて、初演もバルビローリの指揮でマンチェスターで行われている。
標題的なものは一切なく、純交響曲。
ベートーヴェンのように、30分以内の規模の小さな交響曲で、4つの楽章でシンプルな内容。
でも個性的です。
1楽章 ファンタジア〜3つの主要な主題(Tr,Fl,Stの楽器による)による
7つの変奏曲。
幻想的でミステリアス。
お気に入りのオペラ「毒入りのキッス」の魔法使いたちの音楽に似てる。
2楽章 スケルツォ〜木管楽器のみによる。
ウィットと皮肉に満ちた行進曲ともされる。
3楽章 カヴァティーナ〜弦楽器のみによる。RVWならではの抒情あふれる楽章。
タリス・ヴァリエーションに雰囲気似てます。
ヴァイオリンソロも極めて美しいです。
4楽章 トッカータ〜フルオケ+打楽器多数。
プッチーニの「トゥーランドット」と同じドラ使用との指定もあり。
ゆえに支那風なムードも漂うが、
ホルストの讃歌 'o valiant hearts'との類似を指摘する向きもあるという。
それは、快活で前向きな音楽であります。
このように、83歳の老作曲家のものとは思えない、明快で明るい音楽である一方、まさに人生の高みに達した人のさりげなさも出ております。
この曲の本質は、次の第9とともに、まだ掴みがたい私でありますが、噛めば噛むほど、味わいのある音楽のひとつでありましょう。
全集完成がその早すぎる死で頓挫してしまった、ヒコックスの指揮はわかりやすく、曖昧さの一点もない演奏でした。
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気まぐれな猫を撮るのは、ほんとたいへんです。
自分が、猫から見て、外観や環境に溶け込むようにして、警戒心をまず解かねばなりません。
それが理想ですが、外猫を捉ええるには、そんなことは至難の技なんです。
今回は、失敗作の中から、にゃんこたちが、不幸にしてブサイクなまでに見えてしまう画像を「にゃんにゃんライブラリー」のなかから、抜き出してみました。
こちらは、銀座の一等地、ゴミの脇に佇むにゃん太くん。
あまりにも野性的にすぎるシテュエーション。
ジャングルで出会った動物が、鬱蒼とした茂みに姿を消そうとしている・・・の図。
親戚のねこ。
恨めしそうな目がコワぁ〜。
これまたワイルド(だぜ〜)。
周辺がまた動物園みたいな感じに見えて、どう見ても、ねこじゃない。
怖すぎだぜ。
最後は、既出ブサねこ君。
色合いが、ボケ具合でもって、珍なるお顔になっちゃいました。
しかもタンソクなんだわ。
いいねぇ〜
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これはまた、だいぶ前の写真を探し出してきました。
倉敷の美観地区のひとコマです。
岡山は、かつて仕事でよく行きました。
関西でもなく、広島圏中国でもない、独特の雰囲気を持つ県との印象を持ってますし、ともかく車が多くて、どこも混んでるように思いました。交通の要衝でもあるんでしょう。
こちら倉敷も、ゆったりとしたイメージを持ちがちですが、車で走るとどこも混んでるし、大きな商業施設もたくさんあって、人がともかく多いです。
でもそれは一面かもしれません。
ゆっくりと行ってみたい街のひとつです。
この美観地区には、大原美術館があって、エル・グレコの官能的ともいえる「受胎告知」があります。
ほかにもフランス印象派の絵画を含め、日本画の名作もたくさん。
ブリテン 「ルクレティアの凌辱」
語り手:ピーター・ピアーズ 語り手:ヘザー・ハーパー
コラティヌス:ジョン・シャーリー・クヮーク ユニウス:ブライアン・ドレイク
タルクィニウス:ベンジャミン・ラクソン ルクレティア:ジャネット・ベーカー
ビアンカ:エリザベス・ベインブリッジ ルチア:ジェニー・ヒル
ベンジャミン・ブリテン指揮 イギリス室内管弦楽団
(1970.7 スネイプ)
16あるブリテンのオペラの中で、3番目の作品は、1946年の完成。
これで10作品目の当ブログ記事になります。
第二次大戦終了間もない時期に書かれたブリテン32歳の作で、前作は「ピーター・グライムズ」。
英国にオペラはブリテンありとパーセルの再来ともされた自国素材の自国物でもって大成功を収めたピーター・グライムズ。
もちろん、現在はその間の、いろんな英国オペラがふんだんに聴けるので、ブリテン以前のオペラもしっかりあったことを私たちは知っているのですが、「ピーター・グライムズ」のグランドオペラ的な大規模な編成と、英国の絶海を舞台にしたローカルさが、劇と音楽に、他の場所では考えられない完璧な符合を示している点、そして人物たちの心象に切り込むブリテンの筆致の素晴らしさが、英国最大のオペラ作曲家でありことを納得させてくれるのです。
そのあとに書かれた「ルクレティアの凌辱」は、一転、前作とかなり内容を異にするものとなった。
まず、素材が英国ものから、ローマ帝国誕生の前史という歴史劇に。
オーケストラが12人という小編成の室内オペラに。
合唱、すなわち団体や群衆がいなくなり、ソロ8人に。
こうして、室内オペラや史劇オペラのあり方を自身確立したブリテンは、これもまたひとつのパターンとして「カーリュ・リバー」などの教会3部作や、「ねじの回転」「オーウェン・ウィングレイブ」などを生みだすようになっていきます。
さて「ルクレティアの凌辱」は、「The Rape of Lucretia」が英名で、ちょっとただならないお名前で、その劇の内容も、まさにそう。
エトルリア支配下のローマの将軍の貞淑な妻が、野卑なエトルリアの王子に凌辱され、それを恥に思った彼女は自決し、それを気に怒れるローマがエトルリアを駆逐するという史劇。
男女ふたりの語り手が、舞台前左右に座り、観劇する聴衆と大昔の出来事の舞台との橋渡し役をやったり、舞台の狂言回し的な歌を歌ったりする。
注目は、というか、ブリテンの主眼は、彼らふたりに、キリストの教義を語らせ、イエスの殉教による痛みと救いなどを想起させ、いまも昔も変わらぬ人間のサガをこの史劇を用いて歌い込んでいるという点。
ローマ時代初期は、イエス誕生の500年以上も前であり、この設定はやや強引かもしれないが、人間の欲と権力悪、愛と救済、永遠のテーマは不変であり、平和主義者ブリテンの発想は天才的ともいえると思う。
室内オケは12人と書きましたが、そのうち楽器持ち替えでプラス4。
ピアノは指揮者が弾くという指定もあるので、楽器は都合17。
研ぎ澄まされた鋭い響きと、繊細な響き、小編成ゆえにできる多彩な響きの数々に、クールで熱いブリテンを聴く喜びがあります。
男声3人(いずれも低音)と女声3人(メゾふたり)の劇中人物の声の対比は見事で、男声たちの戦場や宴会における無機的で興奮さそう音楽の設定。
女声たちは、ルクレティアの家や庭の場面で、ハープや高音楽器による清らかなムードの音楽設定。
これらを結びつける語り役の場面では、同じようなモティーフが繰り返され異なる雰囲気を醸し出す。
さらに、興奮した王子が人妻の操を奪おうと馬上躍起になるところの間奏の音楽や、夜、その人妻を襲う場面も間奏曲で、処々想像を掻き立てる(?)こととなりまして、そのあたりの巧さも抜群。
第1幕
語り手が、ドラマの歴史的背景を歌い、自分たちの役割をも語る。
「わたしたちは見守ろう、かつてキリスト自身の涙で濡れたそのまなこを通して」と。
劇の方は、3人の男たちの酒盛りで始まり、いま留守の間も、女たちは貞操を忘れ酒色にふけっているのだと歌い、ユニウスとタルクィニウスは言い争いを始め、それをコラティヌスが鎮め仲直りをさせる。
でも、ふたりは、いいよなぁ、奴の妻は貞節で美しいことにかけてはローマ一番と嫉妬する。
そして、それを奪ってやろうと、メラメラと燃えるエルトリアの王子タルクィニウスは、夜陰にまぎれてローマへと馬で疾駆する。
一方、戦地の夫を想い、乳母や待女と過ごすルクレティア。
そこに強引に現れたタルクィニウスは、欲望をひた隠し、王子であることも誇らしげに、皆にお休みを言い寝室に大人しく引き上げる。
第2幕
語り手、それから舞台裏から、タルクィニウスとルクレティアを除く人物たちがローマ支配の異国民族を揶揄したように歌い、締めは、1幕の語りと同じ「わたしたちは見守ろう・・・」で、緊迫の劇の開始。
語り手ふたりが、あたかもタルクィニウスを導き、そして静かに眠るルクレツィアを歌う。
やがて、枕元にやってきたタルクィニウスは、ルクレティアを脅し、我がものになれと言うが、最後まで抵抗する彼女。
ついに、剣を抜き、強引に・・・・・。
激しい間奏曲のあとは、平和風の朝。
乳母と待女が花を集めて、ルクレティアの遅い目覚めを待っているが、そこに現れた放心したような女主人は、紫ランを主人コラティヌスに届け、これを贈るのはローマの娼婦、早く帰宅するように・・・と伝令を走らせるように命じる。
ただ事でないと判断した乳母は、知らせを止めようとしたが時遅く、コラティヌスとユニウスはいち早く帰還。
ルクレティアは意を決し、昨夜の出来事をすべて告白するが、夫コラティヌスは、心まで奪われるていないのだから恥じ入ることはないと慰めるも、わたしは永遠の貞女となりますといい、自ら命を絶つ。
彼女の亡きがらを皆で囲み悲しみのうちに、劇は終わる。
エピローグは、語り手たちは、キリストを歌い、悲劇への讃歌をここに終えると終結を宣言して幕となる。
幕
事件のあとの朝、ルクレティアの悲しみの歌は実に美しいものです。
それと彼女の自決後のまるでレクイエムのような清冽な音楽も、なかなかに感動的。
二人のストイックなまでの語り手は、もう言うことありません。
高貴なシャーリー・クヮークと美声だが性急な男を歌ったラクソンもいい。
そして、デイム・ジャネット・ベーカーの精緻な歌。
作者自演はこの作品永遠の定番ですが、競合盤ヒコックス盤も一度聴いてみたいです。
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遅ればせながら7月の小便小僧くん。
大体予想していた、バケーション・バージョンですから、梅雨明けに持ち越ししてました。
でも、関東は、ここ二日間涼しいです。冷房要りません。
ひまわり担いで、ひまわりのTシャツ着て、麦わら帽子かぶって、小便しちゃう、お茶目な7月でした。
後ろ姿は、失敗しちゃったから、画像ちっちゃくなっちゃいました。
2011年7月の小僧に幻想は、こちら→
ベルリオーズ 幻想交響曲
ピエール・ブーレーズ指揮 ロンドン交響楽団
(1967年 ロンドン)
ブーレーズの幻想といえば、若い方々にはDGへのクリーヴランド盤が一般的でありましょうが、新盤はいまだに未聴。
わたしのような古めの聴き手には、60年代のロンドン盤の方に懐かしいイメージを抱くのです。
でもそれはイメージだけ。
今回、久方ぶりに聴いてみて、ちょっと意外でびっくりでしたよ。
この幻想が録音された67年といえば、ブーレーズがバイロイト音楽祭に「パルシファル」でもってデビュー(66年)した頃で、作曲家としてのブーレーズが本格指揮を始めた時期。
自作以外では、コンサートホールへの春祭や、水上の音楽などがこれに先行していて、CBS専属としてフランス物を中心に鋭利でクールな録音をスタートさせた。
いまの大家として安定感と抜群の精緻さを持った数々の演奏も素晴らしいが、そんなに聴いてないし、私には、60〜70年代の尖がったブーレーズの方が好き。
この幻想では、姉妹作のルイ・バローをナレーターに加えた「レリオ」と組み合わされて2枚組で発売されるという一筋縄ではいかないブーレーズぶりを示しておりました。
わたしはレコードで幻想のみを買って、その後友人と交換してしまって手放したのでしたが、このレリオをまだ聴いておりませんので、なんとかセットで聴いてみたいと思ってます。
で、幻想のみをCDで買い直して30年ぶりに聴いてみる。500円でしたよ。
あれ? とんがったブーレーズ、こんなだったっけ??
まず記憶を失っていたのが、その遅く、のたうちまわるような失速テンポ感。
全曲で約53分。
1〜3楽章は、ごく普通。
透明感あふれる1楽章は少しあっさりぎみだけど、なかなかに快調な滑り出しで後続が期待できるし、フォルテがうるさくないのがいい。
ワルツが実に瀟洒な雰囲気でイケてる2楽章。
思いのほかのどかにやってます3楽章の野の情景は、楽譜そのもをクリアーに解釈しただけみたいな。
しかし、断頭台への行進は、あまりに遅々とした死への旅に、聴いてて後ろから小突きたくなります。いやいや、そんな死への不安に満ちた方に、酷いことしちゃいけません。
それこそ、まずいことに・・・・。
思えば、この行進をズンズン積極的に快速にやるのって、不思議なことじゃないですか。
処刑台に向かうのに、アレグロ以上のテンポでひょいひょいと行進するのって死の恐怖がなさすぎですからして。
同じく、ヴァルプルギスの様子も、恐る恐る、怖いものとドキドキ遭遇しながら迎える初めての地獄の夜って感じで、不気味なほどの冷徹さと冷静なる音楽運びに、それこそ不気味さを想います。
ブーレーズの狙いは、こんな風に、一般的な幻想解釈にメスを入れ、標題音楽としての解釈の矛盾を明らかにすることだった・・・のかも。
まだ聴かずの新盤、こうなれば聴いてみなくては。
この録音の67年、ロンドンでは、ビートルズが全盛期ですよ。
名作「サージェントペパーズ」が録音されたのも67年。
ロンドンのオケには、クレンペラー、ボールト、バルビローリ、ハイティンク、ケルテス、ケンペなどなど、そうそうたる指揮者が目白押しにおりました。
この時代のロンドンに行ってみたいものです。
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我が家の上を飛ぶ飛行機。
千葉県在ですが、この航路は成田便じゃないんです。
千葉上空は、羽田へのアプローチとしてかなり頻度が高く、風向きや日によっては、機体の裏っ側がリアルに見えるときもあります。
時に、何本も連続したりして、夜などはUFOみたいに見えちゃいます。
自分が乗ってるときは、いまどこにいるかさっぱり分からず、一度も自宅を確認できたためしがありません。
そして、東の方へ少し車をはしらせると、今度は成田の国際線が、それこそラッシュのように飛び交うのも見えちゃいます。
千葉県上空は、飛行機銀座なんですよ。
クラウス・フローリアン・フォークト 「HELDEN」
ドイツオペラ アリア集
ペーター・シュナイダー指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
S:マヌエラ・ウール(コルンゴルト)
(2011.7.8 @ベルリン・ドイツ・オペラ ライブ)
1.ウェーバー 「魔弾の射手」〜「森を抜け森へ」
2.ワーグナー 「ワルキューレ」〜「冬の嵐も去り」
3.ワーグナー 「ローエングリン」〜3幕への前奏曲
4. 〃 「遥かな国」
5.ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 3幕への前奏曲
6. 〃 「朝はばら色に輝き」
7.モーツァルト 「魔笛」〜「なんと美しい絵姿」
8.ロルツィング 「皇帝の船大工」〜「さらばフランドルの娘よ」
9.ウェーバー 「オベロン」序曲
10. 〃 「あらたな希望と喜びが」
11.フロトー 「マルタ」〜「ああ、あんなに汚れなく、真剣に」
12.コルンゴルト 「死の都」〜マリエッタとパウルの二重唱
6月の新国立劇場の「ローエングリン」に登場したフォークトは、いま、人気・実力で、カウフマンとボータに並ぶ、ワーグナーを歌えるテノール。
劇場に行けなかったのは、自分での自粛以上に、自己管理能力のなさで、最近はそんなことばっかりなので、劇場に行かない自分に慣れてしまった感あります・・・・(涙)。
その新国公演は、大成功だった様子で、演出も歌手も、シュナイダー指揮するオケも実によかったとの音楽仲間からのご報告も頂戴しておりました。
一方で、フォークトの声に戸惑った方もいらっしゃった様子です。
繊細で華奢なそのテノールの歌声は、初めて聴くと、頼りなく、力強い声で劇場を圧するというイメージから遠いので、??ってことになったかもしれません。
かくいうわたくしも、バイロイトデビューの「マイスタージンガー」の初年の放送を聴いて、辛辣なことを書いてしまいました。
その後、マイスタージンガーは場数を踏んで、その美声に磨きがかかり、意外なまでの豊かな声量も、放送から聞き取ることができ、フォークトならではのオリジナルな歌唱が、誰にも真似し得ないユニークなもの、と前向きに受け止めることができるよになりました。
2011年から引き継いだ、「ローエングリン」も、カウフマンとまったく異なる神々しさも兼ね備えた歌唱で、とても気に入った。
白痴美的な美声と、それをコントロールできる知性に裏付けられた頭脳的な歌唱。
こんなテノールはいままでいなかったかもしれない。
でも、それゆえに、曲によっては、まったく受け入れがたい歌になってしまうこともありうる。
これで、モーツァルトはキツイし、ワーグナーでも、ここで歌われているジークムントは能天気にすぎ、悲劇性ゼロ。
ゆえにハマれば、それこそ個性的な魅惑の歌唱となるわけです。
このCDでは、その両面が味わえるような感じで、ワルターは磨きぬかれた美しくも有終の美を飾るかのような完結感さえも漂わせる名唱。
有名な「マルタ」も、女子ならすぐに落ちてしまいそうなラブソングになってます。
そして、なによりも素晴らしかったのが、わたしの大好きなコルンゴルト。
ナチスに退廃芸術のレッテルを貼られたコルンゴルトであるが、音楽が退廃じゃなくて、ユダヤの出自だからなのでありますが、ここに聴く、このあまりに甘味で夢想的な音楽は、フォークトによって歌われると、退廃的なムードすら漂う、いけない音楽に聴こえちゃう。
彼の歌う全曲盤を早く聴かなくては・・・・・。
ホルン奏者から歌手への転身!
タイトルの「HELDEN」とはかけ離れた声でもあり、なによりも、歌われている役柄がそのそもヘルデンじゃぁない。
どうも、このレーベルは、オペラに関して、いつも半端なく的が外れている気がしてならない。もったいないことだ。
フォークトの歌には、100%賛同できないところもありますが、シュナイダーのオペラのツボを確実に押さえた雰囲気ありすぎの指揮は、余人をもって代え難いものがあります。
今回はライブとのことで、序曲や前奏曲も含まれてまして、シュナイダーのこうした伴奏CDは、たくさん出てますので、それらからオケだけの曲を抜き出したら、とんでもなく素晴らしいCDが出来上がるような気がします。というか確信してます。
27日に「オランダ人」の新演出で幕開きするバイロイト。
演出は、グローガーという若い人。なんにも予備知識ありません。
きっとまた・・・という予感のみです。
指揮は、ティーレマンだから安全。
歌手は、ゲルギー門下のニキティンのオランダ人とピエチョンカのゼンタ。
ゲルギーのバイロイト登場も遠くないと少しばかり嫌な予感のオランダ人。
あとは、おなじみシュナイダー指揮のロングランの「トリスタン」。
フォークトとダッシュのねずみ「ローエングリン」は、テルラムントに新国でおなじみのマイヤーのバイロイトデビュー。
去年ブーの嵐のバイオハザード「タンホイザー」は、ヘンゲルブロックが降りて、ここでもティーレマン。ちょっと新味がないが、タイトルロールにトルステン・ケルルがやってくる!
ヘアハイムの「パルシファル」は、ガッティからジョルダンに指揮が変わり、ラテン系の指揮者同士での橋渡し。
そして、今年は、いままで謎だったこのパルシファル演出が、テレビ放送されます!!
8月26日深夜にNHKです。
ネット放送でもライブが楽しめる、リアルタイムのバイロイト。
日本でもワグネリアンの夏の風物詩となりつつあります。
暮れのFM放送も、見直しされる可能性大・・、でもそれは極めて寂しいこと。
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ロンドンの大芸術祭、プロムス2012が、すでに始まっております。
ロンドン・オリンピックもあと1週間後に控え、英都はきっと熱いことになってます。
外来オケは、常連のベルリン・フィルとウィーン・フィル。
それに加え、今年はウェスト=イースタン・ディヴァンオケ、ゲヴァントハウス、セントルイス、サンパウロ。
ここ数年少なめになってきて、BBCの各エリアオケに、バーミンガム、ロンドンのメジャーオケ、そして各地のユースオケなどで、イギリス色でしっかり固めた感のある今年です。
サイケなプロムスの表紙に、ベートーヴェンあり。
バレンボイムとウェスト=イースタンが交響曲全曲チクルスを行い、そのピークの第9は、オリンピック開幕の27日に持ってきてます。
約2ヶ月の連日のコンサート、ロンドンっ子が羨ましい。
今年は、例年にも増して大曲が目白押しなのと、自国の音楽、そして生誕150年のディーリアスが多く散りばめられてます。
BBC放送の1週間限定ストリーミング、本日慌てて13日のオープニングコンサートを聴きました。
4人の指揮者により英国音楽の饗宴。
左から、名フィルにやってきたマーティン・ブラビンス、期待のエドワード・ガードナー、今や重鎮サー・マーク・エルダー、そしておなじみのおじさんは、サー・ロジャー・ノリントン。
タネジ カーニバル・フィーヴァー (ガードナー)
エルガー コケイン (ノリントン)
ディーリアス 海流 (ターフェル&エルダー)
ティペット チャールズ皇太子誕生の日によせる組曲(ブラビンス)
エルガー 戴冠式頌歌(ガードナー)
BBC交響楽団 2012.7.13 RAH
英国作曲家と、英国指揮者、英国オーケストラによる素晴らしいプログラムでスタートです。
今年はエリザベス女王在位60年も相まってのこのプロムスに相応しい。
ディーリアスが心に沁みる名品。
エルガーもあの名旋律(威風堂々)で大いに盛り上がってます。
わたくしの視点のみから選んだオーケストラコンサートの注目コンサートを。
・ドビュッシー ペレアス全曲 ガーディナー 7/15
・ツァラトストラ、シベ7 メナ指揮 7/17 スペインの注目指揮者
・ベルリオーズ トロイ人全曲 パッパーノ指揮 7/22
・スメタナ 弦楽四重奏オケ版(セル編) ビエロフラーヴェク指揮 7/25
・エルガー 南国、海 T・フィッシャー指揮 7/26 名フィルの前指揮者
・鎮魂レクイエム、マーラー10、春祭 エルダー 7/29
・タリス変奏、村のロミジュリ、アイアランドThese things、ペルシャザール
尾高忠明指揮 7/31
・アイヴス、バーバー、ツィマーマン、われらが時代の子 ロバートソン指揮8/1
・バーンスタイン ミサ曲 K・ヤルヴィ指揮
・エルガー アポステルズ(使徒たち) エルダー指揮 8/10
・ベルリオーズ レクイエム T・フィッシャー指揮 8/11
・シェーンベルク グレの歌 デノケ、スケルトン、ビエロフラーヴェク指揮8/12
・新世界、コープランド、ヴィラロボス オールソップ指揮サンパウロ響 8/15
・RVW 交響曲4〜6番 マンツェ指揮 8/16
・ケージばかりのコンサート ヴォルコフ指揮 8/17
・ブリテン ピーター・グライムス全曲 ガードナー指揮 8/24
・ハゥエルズ 楽園讃歌 エルガーsym1 ブラビンス指揮 8/29
・メシアン、マーラー sym6 シャイー指揮ゲヴァントハウス 9/2
・アダムズ ニクソン・イン・チャイナ全曲 アダムズ指揮 9/5
・ベートーヴェン P協4 ペライア、ブルックナーSym9
ハイティンク指揮ウィーンフィル 9/6
・ハイドン 104番、R・シュトラウス アルペンSym ハイティンク指揮ウィーン 9/7
・ラストナイト ビエロフラーヴェク指揮 ディーリアス告別の歌、T:カレヤ アリア集
ひょいひょいとリストアップしただけで、こんなにたくさんのお気に入りが。
中でも、尾高さんの英国物ばかりの一夜は大注目です。
それと、名古屋フィルゆかりのブラビンスと、フィッシャーの活躍。
名フィルが羨ましいぜ。
東京もすごいけれど、欧米の音楽祭の総力戦にはまったく敵いません。
視聴は、BBC放送のストリーミングでどうぞ。
画像もそちらから拝借してます。
http://www.bbc.co.uk/proms
そして、ドイツでは、バイロイト音楽祭がオリンピックと同時に始まります。
あー忙しい、わたくし聴くだけですが・・・。
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東京湾をゆく内航タンカー。
このクラスは小型船でしょうが、房総の外海あたり、館山沖あたりで見ると、もっと大きな船がたくさん見えます。
遠い船を眺めるのも海の楽しみです。
若き小澤さん。
R=コルサコフ 交響組曲「シェエラザード」
小澤征爾 指揮 シカゴ交響楽団
(1969年 シカゴ)
ボストン交響楽団
(1977年 ボストン)
小沢征爾の「シェエラザード」は、アメリカのこれらの録音と、93年のウィーンフィル録音があります。
後者のウィーン録音は実は未聴でして、ウィーンフィルのシェエラザードは、プレヴィンのものが先に出てて、同じフィリップス録音だし、二番煎じのような気がして、ウィーンフィルはプレヴィンでいいや、ということでまったく範疇外でした。
正直、聴いてみたいんですけど・・・・・。
体調を崩された小澤さんですが、そうなる前でも、ここ10年くらいは、オペラや声楽曲を除いて、このようなグラマラスなオーケストラ作品は振らなくなってしまったように思います。
古典系と、シンフォニー、オペラに内面的に充実した声楽作品などばかりのここ数年。
小澤さんは、日本フィルの時代から、私がクラシックを聞きだしたころからのお付き合いで、ずっと今日まで着かず離れずの存在でした。
最初は長髪に、ヒッピー(当時の)みたいなカジュアルな出で立ちに、少しばかりけしからん的な思いを抱いておりましたが、サンフランシスコ響との凱旋公演をテレビで観て、そのカッコよさと、オケと聴衆を虜にしてしまう指揮ぶりと音楽性に一挙に引き込まれてしまいました。
それ以来、第9を聴き、新日フィルの定期会員になりで、数々のライブを聴いてきました。
颯爽とした、そして我々日本人代表みたいな切込隊長としての姿を第一イメージとしていたものですから、小澤さんの演奏は、ダイナミックでリズミカルで華麗なもの・・・・的な、ものとして捉えてしまっておりました。
メジャーレーベルから続々と出る録音も、そんな曲ばかりが選択されたいたからよけいです。
でも、そのイメージは認めつつも、実はほんの一面だったのでありまして、先週末から久しぶりに何度も繰り返し聴いている、ふたつの「シェエラザード」に、小澤さんの繊細かつ、しなやかな音楽造りを認めて、過去音源の見直しを図らねばとの思いにとらわれているのですよ。
まずは、EMIへのデビュー盤のひとつ(あとオケコン)、シカゴとのもの。
画像は、70年のステレオ芸術のレコード広告。
43年前とは、そしていつも薄っぺらいEMI録音とは思えない芯のある響きを捉えた音のよさに驚く。
天下のシカゴを、物怖じせず、十分にコントロールしつつ、決して突っ走ることのない落ち着いた演奏。このオケを得たなら、もっとゴンゴン・ガンガンやりたくなるところを、叙情的な部分を大事に大事に扱いながら、それらを引き立たせるような劇的部分の取り扱いで、そのダイナミックな箇所も潔くて心地よい。
変な例えですがね、洗濯あとの真っ白いシャツみたいな気持ちのよさなんだな。
ボストンの指揮者になってからは、DGとフィリップスへの録音。
サンフランシスコ以上の名門の指揮者になってしまった小澤さんは、当時の僕たち(中高生)の憧れと希望の的。
小澤イコール=ボストンでした。
そんな思いで、このコンビの演奏をたくさん聴きました。
ボストンのホールの響きのよさをしっかり掴んだヨーロピアントーンのDGとPHの録音はいずれも素晴らしい。
シカゴや少ないけれど、ニューヨークとの録音と異なるのはボストンとの、予定調和的な同質化。
それはそれで素晴らしくて、生き生きとした表情やキレのよいリズム、そして持ち前の繊細な歌いまわしなど、小澤さんならでは。
このシェエラザードも実にうまくて、表情も豊かで、味わいも増してます。
アメリカのセレブや上層階級とのお付き合いも増して、洗いたての白いシャツから、ストライプのシャツに着替えたような小澤さん。
いろいろありそうな感じがしたりしますが、これは邪推でしょうか。
同時期にヨーロッパでの活動も力が入っていった小澤さんです。
とりとめつかなくなりましたが、どちらも、小澤さんの刻印がしっかり刻まれた「シェエラザード」です。
こうして、ますますウィーンの演奏が気になりつけまつる。
しっかし、「シェエラザード」ってよくできてるし、つくづくいい音楽だな。
夏にピッタリだし、夜に一杯傾けながら、あれこれ夢想しながら聴くのって楽しい。
石田コンマス+神奈川フィルで聴きたいぞ。
も一度、現田さん。
もしくは、ゲッツェルでどーでしょうかねぇ。
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馬刺しのタタキ、そして、辛子れんこん。
ひと月前の熊本・天草出張の帰り、スーパーで購入して、一緒に飛行機で帰ってきたおつまみです。
ちょうど一か月前も、かなりの雨でして、ワイパーをかけても前方が見にくい状況。
そして、九州を中心とした大雨。
まだ進行中で、はなはだ恐縮ですし、ご被害にあわれた方々には、お悔やみもうしあげます次第でございます。
梅雨の末期には、しっかりと雨量を刻むものですが、それにしても、ここ数年の異常気象には打つ手がないのでしょうか。
ここにも、「くまもん」が。
馬抱えてますよ。
熊本産の商品には、必ず「くまもん」。
こんな風な、キャラクターの使い方は、大いに見習わなくてはなりません。
日本の商品には、絶対真似の出来ない何かを刻印することってできないんですかねぇ。
「ちょんまげ」とか、「文金高島田」とかでも。
ところで、このタタキ、ワンパック、298円です!!!
味はもう、抜群でして、いくらでもいけちゃう。
熊本のスーパーでは、馬コーナーが必ずあります。
なかでも、熊本のチェーン・旧ニコニコドーを買収したイズミの「ゆめタウン」には、精肉コーナーに、牛・豚・鳥・馬と独立コーナーがありまして、バラエティ豊かな「馬」食材がふんだんに揃っているのでございます。
あらいかん、休日は、オペラですな。
カタラーニ 「ラ・ワリー」
ワリー :レナータ・テバルディ シュトロミンガー:フスティーノ・ディアス
ゲルナー:ピエロ・カプッチルリ ハーゲンバッハ:マリオ・デル・モナコ
ワルター:リディア・マリンピエトリ アフラ:ステファニア・マラグ
老兵士:アルフレート・マリオッティ
ファウスト・クレヴァ指揮 モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団
トリノ・リリコ合唱団
(1968.6 モンテカルロ)
アルフレード・カタラーニ(1854~1893)は、イタリアのルッカ生まれのオペラ作曲家。
当地の音楽一家の生まれで、4年後に生まれたプッチーニと同郷でかつ、ともに音楽一家筋出身ということで、なにかとライバル心を抱くようになったといいます。
ミラノで、アントニオ・バッジーニに学び、オペラの道を志し、当時イタリアを席巻しはじめていたヴェリスモでなく、伝統的な作風を選び、39年という短い生涯に、オペラ6作品と数曲の管弦楽作品を残している。
その生年から、同時代のイタリアを見てみると。
・ポンキエッリ(1834~1886)
・ボイート(1842~1918)
・カタラーニ(1854~1893)
・レオンカヴァルロ(1857~1919)
・プッチーニ(1858~1924)
・フランケッティ(1860~1942)
・マスカーニ(1863~1945)
・チレーア(1866~1950)
・ジョルダーノ(1867~1948)
・モンテメッツィ(1875~1952)
・アルファーノ(1875~1954)
その存在は、レオンカヴァッロやマスカーニ、そしてジョルダーノらの一部のオペラに聴かれる煽情的な激しい音楽ではなく、チレーアや後年のマスカーニのような抒情派といっていいかもしれない。
ヴェルディ後のこれらの作曲家の中では、なんといってもプッチーニの存在がダントツであるわけだが、カタラーニがもう少し長生きしていたら、プッチーニと刺激しあう大きな存在となっていたかもしれません。
そして、カタラーニといえば、このオペラしかないというくらいの存在が、本日の「ラ・ワリー」。
ウィルヘルミネ・フォン・ヒッレルンの「禿鷹のワリー」を原作に、ルイージ・イルリカが台本を作成、1892年、ミラノで初演され大成功を収めております。
スイスの山村のいがみ合う家同士の、若い男女。
最後は二人死んでしまう。
「ロメオとジュリエット」や「村のロメオとジュリエット」を想起させるドラマのオペラ。
カタラーニを大いに評価したトスカニーニは、このオペラも愛し、子供たちに、「ワリー」と「ワルター」の名前を付けたことも有名です。
1800年頃、チロル地方
第1幕
地主のシュトロミンガーの誕生日。ホッホシュトッフ村の人々も踊りや歌に興じ、お祝い中。シュトロミンガーは、執事のゲルナーの射撃の腕前を誉めて悪からず思っている。
少年ワルターは、雪山で乙女が霊に会い雪崩に巻き込まれてしまった伝説をチターを弾きながら歌う。
やがて、敵対するソルデンの狩人たちが若い狩猟の名手ハーゲンバッハを中心にやってきて、その彼は、熊狩りを自慢たらたら話すので、その彼の父親の代からの因縁のある地主は面白くない。そして、ついにふたりは言い争いを始める。
ここに地主の娘ワリーがやってきて、騒然とした雰囲気を一蹴し、ハーゲンバッハは高慢ながらも、その美しい眼差しが気になり、ワリーも彼をひと目で憎からず思うようになる。
一同が去ったあと、地主シュトロミンガーはゲルナーからワリーがいま若い狩人を愛するようになったことを聞き、ならばと、ゲルナーとワリーを結婚させようとする。
それを聞き、ワリーは絶対イヤと言い張り、ゲルナーなんて嫌いというので、父親はかってにしろ、出ていけと追放してしまう・・・。
ワリーは、有名なアリア「さようなら住み慣れた我が家」を歌い、ワルターをお供に、去ってゆく。
第2幕
1年後のソルデン村の広場。
祭の日で、もう地主は亡く、人々は、ワリーがきっと帰ってくると話し、ハーゲンバッハは、あの高慢な女と踊ってやると賭けをするといい、居酒屋の女主人アフラも愛をバカにするのは止めなさいとたしなめる。
そこへワリーが着飾ってやってくるが、目ざとくゲルナーが見つけ、いいより、ハーゲンバッハは、アフラと結婚するんだとうそぶく。
嫉妬に狂ったワリーは、女店主を侮辱する行為をしてしまい、これを見たハーゲンバッハは、彼女に復讐してやると約束してしまう。
ワルツの音楽に乗り、踊りだす二人に人々は注目。
期せずして甘い雰囲気になってしまった二人、ワリーも唇を許してしまう。
ところが、周囲は、やったぁ、復讐だとほくそ笑み、当のハーゲンバッハは戸惑うのみ。
これを聞き、ショックを受けたワリーは、ゲルナーに「私を愛しているなら、彼を殺して!」と言ってしまう。
第3幕
祭の日の夜。
悲しみにくれるワリーをワルターが送って帰ってくる。
一方、ゲルナーは、谷の上で、ハーゲンバッハを待ち伏せする。
ワリーは、彼を殺してと言ってしまったことを後悔し、明日になったらやめさせようと床に就こうとするが、その矢先、ハーゲンバッハがワリーに許しを乞おうとやってくるが、ゲルナーに見つかり、谷に突き落とされてしまう。
悲鳴に飛びだしてきたワリーに、ゲルナーは、奴をやったと話し、姿をくらます。
谷底から虫の息を確認したワリーは村人を起こし、自ら縄を巻いて降りて行き、人々はワリーの勇気を讃える。
まだ生きていたハーゲンバッハを救いだし、彼に口づけをし、奪われたものを帰したと言い、そこに来たアウラに、神様があなたに彼を帰したと言い自らは身を引き立ち去る。
村人たちは、この高貴な行いを称賛する。
第4幕
ムルツォルの山の上。
ワリーはこの山上の小屋に住んでいる。
もうすぐクリスマス、ワルターが、もうこのあたりは危ないから一緒に山を降りようと誘いにくる。
しかし、ワリーは、首にしていた真珠の首飾りを彼に渡し、もう家族もいないし、帰る気はないと残ることに、そしてヨーデルを歌って帰ってね、と頼む。
そこにやがて、ワリーの名を呼ぶ声が遠くから近づいてくる。
ワリーは、山の精がお迎えにきたのかと思うが、それはハーゲンバッハの姿であった。
彼は、これまでのことを悔い、情熱的にワリーへの愛を告白し、結婚を申し出る。
ワリーは、彼を殺めようとしたことなどを告げるが、ハーゲンバッハはそれでも愛すと熱く語りついに二人は抱擁しあう。周囲は合唱によって怪しい雲行きを感じさせるようになる。
帰り道をちょっと確認にいったハーゲンバッハであるが、急な雪崩が巻き起こって飲まれてしまう・・・・・。
ワリーは、雪よ、純白の運命よ、わたしはハーゲンバッハの花嫁!と叫んで、彼が消えた雪壁へと身を踊らせる・・・・・・・。
幕
急な展開と、唐突な幕切れ。
各人物の描写が極端で、却って各人の性格が掴みがたいのも事実。
前半は、緊迫感が不足し、アンサンブルも冗長に感じた。
こんな風なイメージを、初めて聴いて以来ずっと思っていた。
今回、数十年ぶりにCDを買い直して聴いてみて、後半のふたつの幕は、スリルと情熱に満ちていて、美しく甘い旋律もふんだん。
終わってみれば、なかなかに聴かせどころも多くて、魅力あるオペラに感じました。
素材が独語圏スイスなので、ドイツ的な雰囲気も音楽からは感じ取れるところもあります。
この辺は、カタラーニのほかの比較的有名な「ローレライ」などでも確認できそうです。
ほかの作品も聴いてみたいカタラーニさんなのです。
各幕に、いいソロがたくさん。
例のワリーの超有名なアリアをはじめ、ワリーには歌いどころがたくさん。
ワルターの民族色豊かなソロはピチカートをバックに雰囲気がとてもよく愛らしい。
ゲルナーの心情が、上司の娘へのジェントルな愛から、憎しみ混じったくらいの激しい愛へと変貌してゆくさまも、各幕にあるこのバリトン役のソロにあふれてます。
同じく、ハーゲンバッハも、当初の荒々しさから、本当の愛の情熱に変わってゆく心情が4つの幕を通じて描かれてます。
でもそれがちょっと唐突に感じるんだなぁ。
肝心のワリーですが、この女性も複雑な存在。
高慢でありながら、性格も一途で思い込みも激しく、だから高貴な行いも、命を張った行いもできちゃう。
ソプラノの役柄としては、いろんな要素が要求されて難しいと思うけれど、もう全盛期を過ぎていた、そして、この頃はメゾの音域にあったかもしれないテバルディの味わい深い歌の巧さを聴くにつけ、歌の風格といったものを強く感じます。
同様に、デル・モナコの剛毅でスピントする声には、シビれます。
融通効かない感じがとても似合っているし。
それと若いカプッチルリのゴージャスなバリトン声。
久々の耳の洗濯みたいでしたよ。
モンテ・カルロ公国での初オペラ録音といわれるこの全曲盤。
貴重な存在といっていいかもです。
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街をさまよい中、二匹のにゃんにゃんに遭遇。
母親でしょうか、敵に向かうがごとく、ワタクシの方に睨みながらやってきましたよ。
こわいわ、わたくし。
カメラを構えるワタクシの、おいでおいでの気に、躊躇する母。
ねぇ、どこいくのよ、あたちを置いてさぁ~
ちょっとボケてます。
母とおぼしき彼女は、近くの車の下から見張ってます。
残されたちりとりチャンは、こうして儚げに居残るのでした。
見つめられて、こちらもボケちゃいました。
気になる親子だったので、次の日も、また次の日も見に行きましたけど、そこにあるのは、無人(無猫)のちりとりのみ・・・・。
心配です。
野良猫を追う悲しみって、こんな風にもあるんです。自分じゃなにもできないものですから。
一日早い、「日曜のねこ」でしたぁ~。
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海に沈む夕日が、子供のときから大好き。
育った場所では、日の出は相模湾から、日の入りは海を隔てて、遠く箱根の山の方向。
どちらも海が、赤や朱色に染まりました。
そして、いま住む千葉の海では海を隔てて、都会の街の方向に太陽は沈んでゆくんです。
こちらは、千葉港から見た東京湾の夕暮れ。
スカイツリー見えます。
そして、ちょうどスカイツリーのあたりに沈んで行きました。
先週のことですから、もう位置はずれてるんでしょう。
東京都心とスカイツリー。
ドビュッシー 交響詩「海」
ダニエル・バレンボイム指揮 パリ管弦楽団
(1978.1 パリ)
わたくしのフェイヴァリット曲のひとつ、「海」。
何種類持ってるか数えたことないけれど、どうしても、おフランスのオーケストラに惹かれちゃうのは、日本人ゆえか。
いや、中国も韓国も、いまや欧州嗜好は強いから、アジアとしての憧れなのでしょうか。
中でも、パリ管は、そのお名前からして、フランス臭プンプンな香りがして、常に羨望の存在。
なにせ、オルケストル・ドゥ・パリなんだからさぁ。
同じパリのフランス国立管は、オルケストル・ナシオナル・ドゥ・フロンセ。
ともに、鼻に抜けるように発音したりすると、いかにもおフランスざぁますわよ。
さぁ、みなさんご一緒に。
でも、そんな傍から見てる雰囲気とは裏腹に、これらふたつのオーケストラは、クリュイタンス、ミュンシュ、マルティノン亡きあと、指揮者は、非フランス系ばかりで、デュトワという例外があるものの、どうもドイツ色が強くて、外国系の指揮者に振られたフランスのオーケストラといったイメージから脱しきれない恨みがある。
しかし、いまのパーヴォ・ヤルヴィ(パリ)とダニエーレ・ガッティ(国立管)は、いままでと一味違いそう。
よりインターナショナルな彼らだし、どんな国の作曲家の作品を指揮しても、ぬかりなく鮮度高い表現をしてくれるし、曇りなく明快。
味わいや深みはまだまだですが、音楽を聴く喜びを与えてくれることでは近時、随一かも。
今日の、バレンボイムの演奏は、カラヤンやショルティの時代の延長上にある、少しばかり腰の重い克明なドビュッシー。
くっきりとした音楽づくりは、曖昧さを廃してユニークなドビュッシーだけれど、パリ管を聴くわたくしには、先の発音じゃないけれど、フゥー~ンというような色気ある音色も欲しいのですよ。
時に、テンポを落として、濃厚な味わいを聴かせたり、急にサラサラと流してみたりで、ある意味聴いていて、スリルを感じるドビュッシー。
同時期に、バレンボイムは、パリ管とワーグナーやフランクを録音しているけれど、そちらの方にフランス臭を感じてしまうワタクシ。
でも、この時期のバレンボイムは、いまより好きだったな。
いまの大家然として落ち着いてしまった演奏よりは、イギリス室内管やシカゴ(DG時代)、ロンドンフィルとのもの、そしてパリ管とのもの、これらの方に、バレンボイムの重たいけれど、大変な集中力と粘りを感じさせ複雑な内面ものぞかせる彼の個性を感じます。
思えば、バレンボイムの音楽の特徴ってなんだろう?
ワーグナーのオペラでも、いろんな顔がありすぎなもんで。
どなたか教えてくだされ。
パリのオーケストラならオペラ座。あとトゥールーズやリール、リヨン、ナンシー、ロワーヌ、ボルドー、少しドイツっぽいけどストラスブールなどなど、そちらのお国ものを見つければ購入するようにしてました。
少し田舎くさくて、洗練されすぎてもいない方がいいんです。
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ザ・ビートルズの映画「HELP」を久々に観ました。
以前NHK放送されたものを録画しておいたものです。
ロンドンオリンピックも近づいてきましたし、私的には、今や伝説的な彼らは、立派な英国音楽のジャンルにいれてしまいたいです。
そして、オリンピックに合わせて、ビートルズ臨時再結成のうわさも・・・・。
ジョン・レノン(1980没)、ジョージ・ハリソン(2001没)の後を継ぐのは、それぞれの息子たちということで。
映画「ヘルプ」は、1965年の作品で、ビートルズとしては、「ビートルズがやってくる、ヤァヤァヤァ」に次いで2作目。
リチャード・レスター監督(スーパーマンのシリーズも一部この人)によるもので、前作はモノクロの渋い内容だったけれど、今回は、世界を股にかけたロケを行い、まさに世界のアイドルだったビートルズならではのコメディ・サスペンス(?)。
今見ても結構笑えます。
キモは、famousという言葉。
そう、「有名な」、デス。
モンティ・パイソンを生んだ、時には辛らつなまでのユーモアの国。
自分たちが有名!ということに、やたらとこだわった、でも全然鼻につかない爽快さが、若きビートルたち。
物語は、当時の東洋、ことにインドへの嗜好なども反映されたかのような、カリブのカルト教団に追い回される4人のドタバタを描いてます。
リンゴ・スターが、ファンからもらったこの真っ赤なリング。
これを付けてる人を生贄にしなくてはならない教理をもとに、「カイリー」と決まり文句を叫ぶ連中が、ロンドン、ソールズベリ、オーストリア、そして地元カリブと追いかけ回します。
どっかの楽劇みたいな、「リング争奪戦」は、これが強靱で希少なものだから、狂信的なイギリスの学者も参戦してごちゃごちゃに・・・・。
ビートルズの演奏場面は、いくつもあります。
こちらは、ロンドンのスタジオで。
こちらは、ロンドンの自宅で。
ソールズベリの遺跡ストーンヘンジで・・・。
そして、カリブの青い海で。
ここで思ったことは、彼らのファッションセンスのよさ。
スタイルの変遷こそあれ、いま、また彼らのセンスは時代にぴったりに思いましたね。
若すぎるビートルたち。
ポール・マッカートニーは、いまも変わりませんねぇ。
変装して、国外に逃げるわけなんだけれど、その変装ぶりが、実は後年の思いがすれ違いだした頃のメンバーの姿にまるで一緒なことを発見した。
思えば、この3~4年後なわけです。
間抜けな追跡チームが乗っていたのは、ハロッズのボックスカー。
こんなのあるんですかね。
ロンドン市内のインド料理店や、王室御用達の宝飾店、果ては宮殿までが、パロディ風に出てきちゃう。
これが英国のユーモアなんです。
お堅い日本じゃ考えらんない。
この映画を含めて、1作目と、「Let It Be」の3つを同時に観たのは、友人と有楽町で、中学3年の冬でした。
中学・高校時代は、すでに解散していたけれど、その後のソロ活動も含めて、ビートルズは友達たちとの間で、カリスマ的な存在。
クラヲタ君兼ビートル・マニアだったのでした。
ちなみに、この映画を見た帰り、銀座のヤマハで買ったレコードは、「ブーレーズのワーグナー」と「アュケナージのショパン」なのでした。
「HELP」 CD盤
※ちなみに、イトーヨーカ堂では、繁忙時間に「HELP」がかかります。
従業員の皆さん、レジ応援して下さい、だそうですよ。
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トヨタ系、ニッサン系、それぞれの販社が同じビルの上下に。
前にネットで見て、ほほぅ~と思っていた。
そして、この前、千葉を車で走っていたら、何気に、いきなり、そのビルが目の前に現れた。
あわてて、この珍景をパシャリと撮りました。
このときの車のBGMは、展覧会の絵じゃなかったけれど・・・・。
呉越同舟、こんなこともあるんですねぇ。
仲良くやること大事ですよ。
アイスラー ドイツ交響曲
(アンチ・ファシスト・カンタータ)
S:ヘンドリケ・ハングマン A:アネッテ・マルケルト
Br::マティアス・ゲルネ Bs:ペーター・リカ
語り:クルト・グートショウ、フォルカー・シュヴァルツ
エルンスト・ゼンフ合唱団(ジークルト・ブラウンス指揮)
ローター・ツァグロセク指揮 ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
(1995.6 ライプチヒ)
ハンス・アイスラー(1898~1962)は、ライプチヒ生まれのユダヤ系作曲家。
ウィーンで、シェーンベルクの門弟に入り、12音技法による作曲や後進の指導を行うも、やがて師や新ウィーン楽派たちの方向性に疑問をいだき、脱退。
作家で詩人、あの三文オペラのブレヒトと意気投合し、親友となり、やがてマルクス主義を標榜し、ブレヒトを始めとする政治的な詩に曲を付けた歌曲など、純粋音楽から方向性を少しずつ変えていった・・・・。
これを当時、ナチスが見逃すことはなく、すでに友人の忠告もあってドイツを出て転々としていたアイスラーは、この反ナチスともいうべきこの「ドイツ交響曲」を作曲中であった。
このカンタータとも呼ぶべき交響曲は、1937年パリ万博にその一部を初演することで準備を進めていたものの、その情報をキャッチしたナチスは、フランス政府に圧力をかけ、その曲目をアイスラーの1931年作第3組曲に切り返させた。
その時、アイスラーが用意していた新作交響曲のタイトルは「反ナチスシンフォニー」というものでありました。
ここまでくると、このアイスラーという人、反骨精神が武骨なまでに豊かで、権力に屈しない力強いオジサンという感じです。(オジサンといったのは、写真で見ると、ほんと偏屈なオヤジにしか見えないのです。
さらに激動のアイスラー人生は続く。
ついに、ナチスから、その一切の音楽の演奏禁止、そう、退廃音楽のレッテルを晴れて受けました。
アイスラーは、コミュニストという側面を持ちつつも、1938年、アメリカに活動の地を求めて亡命。
新天地では、どちらかというとシリアスな作品専門に映画音楽作曲家として活躍し、成功を収めております。
まったく同時期に、ナチスを逃れてアメリカに渡り、映画音楽に活路を見出したのがコルンゴルトでして、そちらは活劇や甘い恋愛やサスペンス音楽。
ほかにも同様の運命をたどった作曲家や、作家もいるので、ある意味、アメリカはユダヤ系芸術家の移動で芸術はおろか、各種ジャンルが興隆した点もあるように思います。
さてところが、アイスラーさんは、その揺るがぬ意思を隠そうとも、いや隠すこともできず、戦後のアメリカの赤狩りで、見事に引っかかり、国外退去の運命とあいなります。
1948年、分裂ドイツの東側に迷うことなく赴き、そこでまたひと花咲かせることとなります。
ユダヤ人でありつつ、ドイツ人、そして共産主義者でもあったアイスラーの辿り着いた安住の地は東ドイツだったのであります。
もっと長生きしていたら、さらに次なる運命も待ち受けていたはずのアイスラーは、1962年に亡くなっておりますが、なんといっても、東ドイツ国歌を作曲しているのです。
オリンピックでは、ソ連と並んで、むちゃくちゃ強かった東ドイツ。
その国歌はyutubeにありました。
廃墟からの復活:Auferstanden aus Ruinen
http://www.youtube.com/watch?v=6mzx-B4_110&feature=related
オリンピックや、東からの来日オーケストラでよく聴きました。
その詩は、いま見ると、赤っぽくて、さぁ皆さんムチャクチャ働きましょうみたいな感じで、空々しいんだけど、廃墟から立ち上がるドイツ人魂は充分に感じます。
実は、そんな精神が、このアイスラーの交響曲のベースにもあるような気がします。
反ナチスからスタートしたこの作曲は、実はずっと書き足し続けられ、基本はブレヒトの詩に基づくものですが、一部、ジローネという作家のものも含まれていて、1957年にようやく完成。
そのあたりが、少し雰囲気が違うようで、対訳がなく勝手な憶測ながら、社会主義的なブレヒトの作に、よりリアルな残虐性も醸し出しつつも、ソ連の悲惨な民衆の様子をもうかがわせるジローネの詩は、この作品が、反ファシストの思いとともに、コミュニストでありながら、東に理想の国家を願ったアイスラーの姿を映し出しているのです。(解説文より参照推察)
1959年4月に、ベルリンの国立歌劇場にて初演されております。
11の部分からなる1時間超の大作。
音楽は、難解で、苦渋に満ちたように、最初は、とっつきが悪い。
かつての師のシェーンベルクのようでもあり、ブレヒトつながりで、ワイルのようでもあり、ショスタコーヴィチのようにシニカルでシャープであります。
激しさとともに、軽快、かつリズミカル。慣れれば聴いてて面白いです。
4人の歌手も、バリトンを主体に大活躍。
シャウトする語りも大迫力。
思えば、この形式は、マーラーの「大地の歌」やツェムリンスキー「抒情交響曲」、ショスタコ「死者の歌」と同じくしながら、さらに規模拡大した、メッセージ交響曲です。
その詩は、やたらと言葉が多く、いつもほろ酔いで聴いてるワタクシには、対訳なくば、ついてゆけませぬ。いずれはじっくり・・・と思ってます。
冒頭のプレリュード「ドイツよ、青ざめた母よ! なにゆえ、そなたの最良の息子の血に汚され、座すのか・・・・・・・」
最後のエピローグ「絶望して血にまみれた子供たちの顔を見るがよい。・・・・子供たちを暖めてください。彼らの手足はかじかんでしまっている。子供たちを見て!」
全編、こんな感じのリアルな描写と激しい抗議にあふれている、アイスラーの「ドイツ交響曲」です。
いまの日本には、こんな反骨魂が耳に痛い。
求む「日本交響曲」!
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今年の空の雲はちょっと違う。
空を見上げるのが好きで、歩いていても、ときおり、ぽかんと見上げたりします。
自宅の部屋から顔を出して写真を1枚。
夏のような、秋のような、春のような複雑な雲です。
完璧な晴天というものが、どうも日本にはなくなってしまったようです。
それは、地球規模の気象の変転でしょうが、そればかりでなく、いまのニッポンそのものです。
報道に煽られてしまっている心情もありますが、子供たちの死に関し、涙をとどめることができません。
わたしたちの心はどこへいってしまったのでしょうか・・・・・。
シューベルト 即興曲 作品90 D.899
ピアノ:アルフレッド・ブレンデル
31歳で亡くなってしまうシューベルトの、1827年、晩年と呼ぶにはあまりに若い30歳の時の作品。
3セットからなる、自由な楽想と形式からなるシューベルトの即興曲集。
シューベルトのあとの方のピアノ作品、後期ソナタや即興曲には、明るい澄み切った青空のような心境を映し出す響きとともに、死と隣り合わせのような悲しみの予見に溢れております。
4曲からなるこの曲集は、最初から即興曲としてまとめられていたわけでなく、4曲セットにすることも含め、その命名も後付けのようである。
しかし、個性の異なる4つの自在なる作品を、こうして「即興曲」として聴くことに、なんの違和感もないし、自由な歌心あふれるそれぞれ異なる風情の曲をまとめて聴くことは、わたしたちに、音楽を聴き、心解放されるような優しさを呼び覚ましてやみません。
「即興」とは、思うがままに表現すること・・・。
かつて中学生のときだったか、国語の授業で、「興」の漢字を使って熟語を作りなさいと、言われて、「即興」と黒板に書きました。
先生受けしましたねぇ。
わたしは、なんのことはない、すでにクラヲタ君でしたので、シューベルトのこの曲を知っておったのですよ。
全然、自由な発想じゃなかったけれど・・・・。
それは余談として、4曲ともに楽想ゆたかで、素晴らしい音楽です。
変奏曲としての第1曲は、いかにもシューベルトらしく、ゆるやかに始まりながら流れがとてもよくなり、スケールも大きく幻想的。
常に流転しているかのようにとめどなく流麗な第2曲は、とてもロマンティック。
3曲目は、この曲集の白眉ともいえる美しさ。
こちらもロマンティックなことでは負けてませんが、ときおり刻む左手がデモーニッシュな感じがして、優美ななかにも深い何かを訴えかけてくるように思います。
そしてこの一番親しみやすい4番は、こちらも左手が特徴的で、それだけでもリートの世界に通じているかのようです。
ブレンデルのピアノは、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンと続いたウィーンの意匠をそっくり引き継いだような、明るさと歌心、そして豊かな音楽性にあふれた理想郷のようなシューベルトに存じます。
もうひとつの4曲からなる曲集D935も、さらに素晴らしいです。
ことに短いけれど、その2曲目は純情で夢見るようなシンプルで美しい音楽です。
かつて、ゼルキンが、アンコールで全霊を込めて弾いたその素晴らしさを忘れえません。
この曲集は、またいずれ取り上げたいと思います。
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こりゃ狼か、ハイエナか・・・、鼻の下も濡れてるちょっとワイルドなヤツ。
ちょっと引いてみると、これは、「わんこ」さんでした。
キツネじゃありません。
キツネといえば、以前、家族で北海道旅行にいったとき。
前を走る同じような家族連れのレンタカーが、路傍に止まって、キタキツネでしょうか、黄色っぽい動物の写真を車を止めて車内から撮ってます。
わたしらも、おぉっ、と思って後ろに止めて、順番を待ちました。
キタキツネとおぼしき動物は、前方の車にますます近づき、慣れた様子。
しかしね、よく見たら犬なんですよ(大笑)。痩せた野良くんなんですよ。
すぐにわかりましたよ。
それでも、ずっと写真を撮っているお客さんを尻目に、スタートを切ったわたくしたち家族でした。
ねこもいいけどいぬもいいよね。(ひらがなばかりだとわかりにくいでしょ)
この彼(?)は、駐車場に止めたワタクシの車の方から突如現れました。
息遣いが荒く、ハァハァが遠くから近付いてきますよ。
怖ぇ~なぁ、と一瞬思ったけど、首輪してるし、尻尾ふってるし、人のよさそうな顔してるし、少しかまってみることに。
立ち止っちゃった。
君はいったい、なにを求めているのか?
ともかく、人好きのするこのワンコ。
わたしと家人をこうして交互に見比べるのみ。
いい味だしてんねぇ~。おまえさん。
と思った矢先、彼は、ぷいっと向きを変えて、われわれの元を何ごともなかったのように、立ち去るのでした。
その後ろ姿に、自由を感じ、羨ましかったりもしたのでしたぁ~。
「月曜ねこの日」番外編にございました。
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薔薇の花と青空。
でも、ことしは雷雨が多いから、実はその後の薔薇と空なんです。
くっきりしてますが、こうやってバラの花を見上げると、どこかミステリアスな雰囲気があるんです。
六本木ヒルズのモニュメントみたいなシュール感がでました。
コルンゴルト 歌劇「死の街」
パウル:ステファン・フィンケ
マリエッタ:ソルヴェイグ・クリンゲルボルン
フランク:ステファン・ゲンツ
ブリゲッタ:クリスタ・マイヤー
ジュリエッテ:エレノーレ・マルグーレ
ルシエンネ:アエリア・エーシュ
ガストン:ジーノ・ポテンテ
ヴィクトリン:シ・イージェ
アルバート卿:マティアス・シュルツ
エリアフ・インバル指揮 フェニーチェ歌劇場管弦楽団・合唱団
演出:ピエール・ルイージ・ピィツイ
(2009.1 @ヴェネツィア)
コルンゴルト(1897~1957)は、わたしの大好きな作曲のひとり。
その過去記事にて、コルンゴルトのことは散々書いてますので、ご確認いただければと思います。→コルゴルト記事
超要約すると、神童の名を欲しいままに、子供時代から大人びた音楽を書き続け、当時の大指揮者たちがこぞってとりあげる人気作曲家だった。
しかし、戦争がこのユダヤ系作曲家を陰に追いやることとなり、退廃音楽としてのレッテルを張られ、アメリカに逃れ、かの地では映画音楽の作曲家としての地位をえるものの、本業のクラシカル作曲家としての立場は認められず、戦後、ヨーロッパに戻っても、忘れられた存在は変わらず、失意のうちにアメリカで没する。
その音楽は、後期ロマン・世紀末系音楽の典型で、甘味なる旋律線と大胆な和音の展開は、マーラーとシュトラウス、プッチーニの延長上にあるもの。
華麗でロマンティック、哀愁と望郷、センチメンタルでダイナミック、過去とこの先・・・・。
コルンゴルトの音楽には、そんな例えが相応しい。
マーラーのようには自己耽溺でも個性的でもなく、シュトラウスのようには器用でなく融通も効かなかった。
「死の都」は、5つあるコルンゴルドのオペラのなかで、3番目のもので、1920年、この時作曲者は23歳。
早熟すぎるコルンゴルトは、ヨーロッパ楽壇で人気抜群の存在だった。
このオペラは、彼の作品の中では、もっとも上演回数の多い作品で、音源もいまやそこそこにありますし、映像で思いもよらぬインバル盤が出てきたときは驚いたものです。
ジョルジュ・ロダンバックの「死都ブリュージュ」という小説をもとに、息子を一流に仕立てようと常に尽力した音楽評論家の父ユリウスと息子によって台本がなされた。
その内容は、ゴシック・ロマンの典型で、主人公男性が亡き妻を忘れられず、街で見かけた妻似の女性も登場して、夢と現実が交錯しあい、倒錯のひと時を過ごすというもの。
そして、ブリュージュの街自体がこの物語を怪しく取り囲んでいるといったミステリアスな風情を持つ。
この物語にコルンゴルトがつけた音楽は、毎度のことながら、とうてい23歳の青年とは思えず、溢れ出る甘味なる旋律とチェレスタ・グロッケンシュピール・ピアノ・マンドリンなどが活躍する近未来的響き、そして人物の心象に即したライトモティーフ手法など、まるで熟練の技で、夢かうつつか幻かの、この怪しいドラマに、いかにもの背景になっております。
そして、あまりにも素敵なソロもあります。
1幕に、マリエッタによって歌われる「マリエッタの歌」と終幕最後にパウルによって引き継がれるその同じ歌は、古今東西わたくしの大好きな名旋律です。
あと2幕でピエロに扮した友人フランクの甘~いモノローグも素晴らしくって、陶然としてしまいます。
他にも、1幕最後のパウル、3幕はじめのマリエッタ、それぞれのモノローグもなかなかの聴かせどころです。
でも、このオペラは、歌手が大変で、主役級3人に人を得ないと散々なことになります。
ことに、テノール役のパウルは、没頭的な激しさと甘さと体力を求められる難役で、ワーグナー歌手の持ち役となります。
キング、コロ、ケルルなどがすでに出ている録音ですし、最近話題のC・フォークトの新盤は未聴ですが、きっとユニークなものなんでしょう。
ヒロインのマリエッタは、透明感と張り詰めた高域を要求される、これも難役。
フランク役は、甘いバリトンだけれど、友愛と裏切りと両方の個性を歌いださなくてはならない。
今回のヴェネチアでの上演における3人は、その名前はあまりメジャーじゃないけれど、欧米ではかなり活躍していて実績ある人たち。
ドイツのヘルデンテナー、フィンケはジークフリートも歌う人で、今回初聴きだけれど、少し一本調子なところが、この思い込みの激しい役柄にぴったり。
でも甘い雰囲気は、ルネ・コロの足元にも及ばない。
クリンゲルボルンは、その名前がそれっぽい通り、ノルウェーのソプラノで、彼女もまたワーグナーやシュトラウスを得意にしていて、ローエングリンのDVDも出てます。
北欧の歌手に特有の透明感とすっきりした歌声を持っていて、高音も嫌味なくキレイ。
自国もののCDもたくさん出ているので、是非そちらも聴いてみたいと思っております。
さらにドイツのシュテファン・ゲンツ。
この人の甘く美しいバリトンが実は一番驚きでした。シュトラウスやマーラー以外にも、ドイツの古典からロマン派まで、若い期待のバリトンに思いましたね。
フェニーチェ劇場の音楽監督インバルは、マーラーとブルックナーの専門家みたいに思われているけれど、若い頃から劇場での活動も盛んで、「オペラを振らない指揮者は何かが欠けている」的なことも昔言っていたように記憶します。
世紀末系が得意なインバル、響きをしっかり精査して緻密な演奏を行ってます。
ベネチアの明るい音色がそこに華を添えてる感じで、このコンビでワーグナーやマーラーも聴いてみたく思います。
ピッツィの演出する舞台は、奇抜なことをせず、わかりやすいもので好感を持ちます。
古都のコラージュすら出てきますが、全体の色調はモノトーンでブラック。
舞台奥にはヴェネツィアらしく水が張られていて、後背にある鏡にその水の動きや、そこで展開される、いわばパウルの夢の世界を映し出す仕組み。
なかなか美しいものでしたね。
亡き妻の想い出や亡霊、そして古色怪しいブリュージュという街に取り込まれてしまった主人公パウル。
最後は、その街を決意をもって後にするわけですが、われわれも、パートナーや住む街が変わるだけで、その人生が様変わりすることを体験しております。
変わりたくない自分と、変わりたいと思う自分。そして過去への執着。
そんな甘味なる思いに、コルンゴルトの美しい音楽は、ぴたりと寄り添い、まとわりついて離れません。
「死の都」過去記事
「ラニクルズ&ウィーンフィル ザルツブルクライブ」
「マリエッタの歌~ヘンドリックス、メスト&フィラデルフィア」
以前の記事より粗筋を再褐しときます。
第1幕
ブリュージュに住む中産階級の男パウルの家。先頃亡くした若い妻マリアのことが忘れられず、自宅に亡妻の肖像や遺髪をあしらった部屋を設け悔悟に浸っている。
友人のフランクや、家政婦から、生き続けてマリアを偲ぶことこそが幸いだと言われるが、パウルはまだ妻の死を受け入れられない。
その証拠に、街でマリアに似た女に会い、今日この家に招待したと言う。
そこへ、マリーとパウルが思い込むマリエッタがやってくる。
彼女は快活で美しい踊り子なのである。
もう夢見心地で錯乱的なパウルに戸惑いながらも、マリエッタはそれでも大切なお客の気を惹こうと踊りや歌を披露する。このとき高名な「マリエッタの歌」が歌われる。
これで恍惚としてしまうパウロ、その彼を残して、マリエッタは立ち去ってしまう。
以降は完全に、パウロの幻想の中・・・・。
マリーの肖像画から亡霊のようにマリーが出てくる。自分を忘れないように・・・・。
一方でマリエッタへの興味もありつつのパウロ。ますます困惑していく・・・・。
第2幕
幻想のまま、2幕に突入。
マリアは、しっかり生きて・・・と言うが、パウルはマリエッタにぞっこんだ。
一方のマリエッタは、仲間を引き連れて賑やかに登場。
道化や二枚目、ダンサーたち。彼らに請われて、蘇りの寸劇を躊躇しながらもすることに。
しかし、パウルはここに現れ(夢の中で、目覚めて)、嫌悪感を示し、マリエッタは、一同を去らせる。
二人きりになったマリエッタは抵抗せずにパウルを受け止めるが、これも実はまだ、パウルの幻影の中の出来事なのだ。
第3幕
幻影と現実が入り乱れる。パウルの幻影のは続行中、マリエッタと暮らすようになったが、パウルがあまりに変なものだから、マリエッタも愛想をつかしつつある。
亡き妻の遺髪を引っ張り出したものだから、パウルも切れてしまいマリエッタの首を締めてしまう。ここで「亡きマリーにそっくりだ」と驚くパウル。
殺してしまった・・・・と、夢から覚めるパウル。実は悪夢の中に漂っていた・・・・。
ここでようやく夢から覚めて我に返る。
実はまだ、1幕から時間がちょっとしか経っていない。
そのマリエッタもちょっと前に忘れた傘を取りに来て、さりげなく去る。
パウロは友人フランクの勧めを受け入れ、「死の都ブリュージュ」を立ち去ることを決心し、死者は安らかに止まり、自らはこの家を離れ生き続けることを歌い、幕となる。
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今は亡き、レバ刺し。
数年前、まだまだご健在のおりにいただいたレバ刺しさまにございます。
そんなに好きではなかったけれど、いまこうして、死滅してしまうと蘇る、あのプリッとした感触に、ゴマ油と生姜との絶妙のコラボレーション。
とろけますね。
佐藤しのぶ モーツァルト アリア集
「フィガロの結婚」
1.序曲
2.伯爵夫人のアリア「愛の神よ」
3.ケルビーノ「恋とはどんなものかしら」
4.伯爵夫人「楽しい思い出はどこへ」
「ドン・ジョヴァンニ」
1.ドンナ・エルヴィーラ「あの恩知らずは」
2.ドンナ・アンナ「私はあなたのもの」
モテット「踊れ、喜べ、なんじ幸いなる魂よ」
ハンス=マルティン・シュナイト指揮 ベルリン放送交響楽団
(1990.1 @ベルリン イエス・キリスト教会)
佐藤しのぶさまは、わたしと同い年、そしてご主人、現田茂夫さんも同い年。
現田さんは、いうまでもなく、神奈川フィルの名誉指揮者で、わたしたち神奈川フィルを愛するリスナーからすると、年一回の定期公演は、垂涎のコンサートとなっておりまして、先般のワーグナーでは、涙ちょちょぎれる名演を聴かせてくれたばかりなのであります。
ですから、このふたりに愛着があったりするんです。
さきのワーグナーの定期公演でも、奥さま佐藤しのぶさまを、まじかに拝見しました。
でも、正直、奥さまのお歌は、いまやちょっと派手ハデしく、ヴィブラートもきつめ。
ゴージャスな歌声は、シンプルでピュアなケルビーノの役柄あたりでは、少し興ざめです。
喜悦と悲しみを歌い込むフィガロの諸役よりは、怒りと情熱のドン・ジョヴァンニのものの方がいい感じに聴けます。
というか、怒りと愛情がないまぜになった、ドンナ・エルヴィーラは、なかなか素晴らしいです。
貫禄たっぷりで、歌のスケールも大きい。
同様に、ドンナ・アンナの大人としての愛を恋人に諭すアリアも、豊かな感情をたたえていてなかなかのものでして、声の揺れもあんまり気になりません。
一方のモテットでは、もっと繊細な軽やかさが欲しいところでしょうか。
しのぶさん、この曲では、そのお声がきらびやかに過ぎますし、立派すぎます。
でも、日本人歌手でこんな貫禄と上から下までの幅広い音域をムラなく聴かせる声をお持ちの方は、この当時他には見当たらなかったのも事実で、しのぶさんは、やはりすごい歌手なのですね。
そして、多彩な声の使い分けも特出です。
しのぶさんの「ルル」を聴いてみたかったな。
ところが、このCDの魅力は別にもありまして、これもまた神奈川フィルつながりで、前音楽監督のシュナイトが、指揮をつとめております。
神奈フィルで、シュナイト師の指揮は途中からでしたが、かなり聴かせていただき、ドイツ音楽のなんたるやをとことん味わうことができました。
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ブルックナーの名演の数々は、いまも私の脳裏に染みついております。
そのシュナイトが、ドイツ的でない、現田さんが磨きあげたキレイな神奈川フィルを振るとき、その美音はそのままに、そこに祈りを感じさせる深い歌いまわしと、低・中・高域とまんべんなく鳴り響く豊かなサウンドにホール中が満ちあふれたものです。
その感じは、ベルリン放送響(いまのベルリンドイツ響)を振ったこの1枚にも聴きとることができますが、しかし、このCDに聴くカッチリした音色より、神奈川フィルで聴いたシュナイト節の方が、数等、上なことも確認できるんです。
だいぶ以前の録音だし、この頃のバッハ演奏も、のちの日本における演奏の方が素晴らしいゆえに、シュナイト翁のピークは、神奈フィル時代といっても支障がないでしょう。
なによりも、日本の風物と、酒と食を好んだ愛すべき翁なのです。
シュナイトは、ドイツ時代はオペラハウスでの活躍も多く、ベルリン国立歌劇場の来日では「魔笛」も振ってますし、ミュンヘンではワーグナーも上演しているんです。
そんな過去の音源が出てきたら夢のようです。
本日、神奈川フィルは、音楽堂で、モーツァルトのコンサートを行ってます。
仕事があって馳せ参じることができませんでしたが、プログラムは、13管楽器のセレナードにプラハ交響曲という魅力的なものでした。
聴きたかったなぁ~
いつも神奈川フィルのことを書いてますが、首都圏以外の方に、神奈川フィルの現状と、ちょっとだけ演奏風景を見ていただきたいと思います。
カナフルTVという番組です。是非是非、ご覧ください。
残念ながら、わたくしは映っておりませんが。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6546/p18520.html
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都会の中で見つけた、まるでイングリッシュ・ガーデンのような趣きある庭園。
英国庭園は、フランスのように整然としてなくて、自然のおもむくまま、流れにまかすまま、手つかず風のお庭がよろしいようで。
色の具合も、原色や赤色系よりは、クールなブルーやグリーンそのまま。
それはそのまま、英国音楽にぴったりのイメージなんです。
あと、英国のお庭には、薔薇も似合いますが、それは短い夏の一瞬。
おおむね、雪を除いた北海道と同じような四季に思います。
モーラン 交響曲 ロ短調
バーノン・ハンドリー指揮 アルスター管弦楽団
(1987.9 @ベルファースト アルスターホール)
アーネスト・ジョン・モーラン(1894~1950)は、そんなに遠くない世代の英国の作曲家。
イギリスの作曲家の系譜でいくと、直接的な師弟関係は、スコットランド系のジョン・アイアランドで、そのアイランドは、英国抒情派のひとりとして、素敵な音楽を残していて、わたしの大好きな作曲家のひとりです。
そのアイアランドが愛したのは、スコットランドも、そしてその影響下にあったケルト文化で、朋友バックスとともに、ケルトの神秘かつ原初的な世界に大いに影響を受けたのでありました。
その弟子でもあるモーラン、55歳の短命だったが、その活動の当初は、アイルランド系にありながら、自身が育ったノーフォーク地方の民謡や風物の採取に熱中し、しかるのちにアイルランドの血に目覚めていったという生涯。
簡単にいうと、その音楽は、イングランド風な大らかでなだらか、そして抒情的なV・ウィリアムズの流れと、アイルランド・北イングランドのケルト風なシャープでミステリアスな、アイアランド・バックス風の流れと、このふたつの特徴を持ち、ときにそれらがミックス混在するユニークなものといっていいかもしれません。
その基調は、ともかく抒情的。
1937年完成のこの4楽章からなる交響曲は、10年前のハミルトン・ハーティの依頼による時期にさかのぼり、この間の10年は、自身が酒におぼれてしまったという具体的な問題もあるにせよ、先に述べた作風の転換期にあったのかもしれません。
実際、この規模の大きな交響曲は、パストラルな雰囲気と、シャープで人を寄せ付けない孤独感、それとモダーンな作風とが混在していて、一度聴いただけでは、汲みつくせない魅力をたたえているのです。
聴けば聴くほどに、いずれの楽章にも愛着を覚えてくるのですが、とりわけ忘れ難く素晴らしいのが、第2楽章レント。
シベリウスの緩徐楽章のような幻想味あふれつつも、そこにあるのは、イギリスの時には厳しいブルー系のクールな自然。
その自然の絶景に、ケルトの妖精の姿をすら思い浮かべることができます。
全編、そんな風なイマジネーションを存分にはたらかせながら、シャープなアイラモルトなどを、口に含みつつ夢想するのが、最高の至福の瞬間なんです。
モーランは多作家ではないけれど、でもあんまり聴いて欲しくないような、そう、フィンジやハゥエルズ、アイアランドにも似た、こっそりとっておきたい、そんな作曲家です。
亡き、ハンドレーは、手兵のアルスター管とともに、モーランを集中的に録音しておりました。
響きの美しいシャンドスのこの録音は、このレーベルの初期を飾ったものの1枚で、ハンドレー、B・トムソン、ヒコックスと、3大英国指揮者たちの活躍の一端だったのです。
オケの響きが、オケの訛りとして美しく聴くことができます。
モーラン 過去記事
「ヴァイオリン協奏曲」
「弦楽四重奏曲」
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千葉市緑区にある、千年の歴史を誇る東光院というお寺さんです。
こんなとこに、こんな場所が?
という知る人ぞ知る院でございます。
猫はいないけれど、おもろい犬がおります。
ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第9番 ハ長調 「ラズモフスキー第3番」
スメタナ四重奏団
ベートーヴェンの四重奏曲は、クラヲタ君を名乗る身としては、一応全部は聴いておりますが、その全15作、後期のものは少し自信がありますが、初期・中期のものほど、どれがどれだか分りません。
同様に、ほかのベートーヴェンの室内楽、ソナタも同じでして、どうにもいけません。
そんな中でも、わたしの中で、厳然とそびえ立っているのが、このラズモフスキー第3番。
ハ長調という調性の持つ堂々とした佇まいと調和のとれた明るさが全編をおおいます。
「英雄」と4番の間に位置し、ヴァイオリン協奏曲の少し前。
傑作を次々に生み出してゆく時期のベートーヴェンの音楽造りは、このラズモフスキーでも構えが大きく、堂々たるもの。
高校時代に、FMの午後のリサイタルを録音して知ったこの曲。
最初は、ラズモフスキーってなんだろ?誰だろ?的な状態だったけれど、その1楽章の主部の超かっちょエエ高揚感ある旋律に心躍り、ともかく何度も何度も聴いたものです。
その部分は、今でも新鮮なもので、ハイドンやモーツァルトの流れの延長線上にあったそれまでのベートーヴェンの室内楽に、革新をもたらせたこのラズモフスキーの3セットは、スゴイ存在だったろうなと思わせるに充分です。
長大な交響曲のようなこの曲。
1楽章の堂々感とともに、一気呵成ながら、4つの楽器が緊張感あふれ、強烈にぶつかりあい主張しあうフーガ形式の終楽章の鮮やかさ。
この両端楽章の間に、チェロのピチカートが終始印象的で、かつ少し暗めの雰囲気が立ち込めてますが、内声部の動きに注目して聴いてると、いろんなことをやっていて面白い。
面白いという表現はよろしくないですが、最小限の楽器でもって、こんな風な多彩な表現ができることに今さら驚くわたくしなのでした。
スメタナSQの演奏なら、なんでも高水準にあるから安心と思って、なんでもスメタナSQの時期がありまして、それは少し前のアルバン・ベルクSQと同じこと。
若い頃は、峻厳なイメージのあったスメタナSQも、いまこうして歳を経て聴くと、意外に歌い回しが味があったり、少し甘さも加えたりしているように感じます。
4人がまったく対等に存在しあい、主張しつつも、まとまりのよさ、ブレンドのよさ、それぞれにおいて、いまだ最高水準ではないでしょうか。
久々に聴いたベートーヴェンの四重奏曲なのでした。
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王子の紫陽花。
色とりどりの場所がありましたよ。
アジサイは、咲いているあいだは、こんなにキレイなのに、咲き終わると、どうしてあんなに哀れにも枯れ果ててしまうんでしょう。
梅雨が終わるまでのこの美しい姿であります。
そして、今日は、プッチーニ。
昨晩、神奈川フィルの「トゥーランドット」を聴き逃したものだから、CDで聴いておりました。
そうしたら、また、ランキングがしたいという欲望に目覚めまして、わたくし、さまクラ・プッチーニ・ランキングをやってみたぞ。
いつものように、テレ朝さんから、お願い戦士たちをお借りします。
http://www.tv-asahi.co.jp/onegai/index.html
あらま、ジャコモ・プッチーニ先生、いつもながらダンディでございますことでございますね。
モテモテだったプッチーニには、いろんな噂も絶えなかったけれど、おかげで嫉妬深かった妻エルヴィーラから強烈な苛めを食らった家政婦の少女が思い悩んで無実の自殺をしてしまうという事件まで起きております。
戦士美女たちに囲まれて、ご満悦のプッチーニ先生。
奥さんも奥さんだけど、そんな風にしてしまったプッチーニもプッチーニ。
でも、おかげで、プッチーニが描きだした女声の登場人物たちは、男のわたくしが言うのもなんですが、いろんなタイプの女性がいらっしゃいます。
なかでも、プッチーニが好んだのは、つつましく、健気、そしてどこか影を背負って同情を引くカワイイ女性。でも一本芯が通った女性。
フィデーリア(エドガール)、ミミ、蝶々さん、マグダ、アンジェリカ、リューなどがそれです。
一方で、愛のため、体を張ってまで強く生き抜く女性として、マノン、トスカ、ミニー、ジョルジェッタなどがいらっしゃいます。
そして、一番異質なのがトゥーランドット
冷徹な人情なしの姫様から、愛を知りひとりの女性へとオペラの中で変貌を遂げる。
リュウという存在があって、その対比が鮮やかなのだけれど、そのリュウの悲しすぎる犠牲とカラフの情熱とが、「氷のような姫」の心を溶かすことになる。
ますます、リュウが憐れに思われてきて、カラフという男の身勝手を許しがたくなるもの人情で、アルファーノがやむなく引き受け仕上げたハッピーエンドが、空々しく感じるのです。
このあたりは、演出の解釈の腕の見せ所で、今後ともに、いろんな最終場面が出てくるのではないかと思ってます。
さて、わたくしのプッチーニ・ランキングです。
1.「ラ・ボエーム」
2.「トゥーランドット」
3.「つばめ」(ラ・ロンディーヌ)
4.「蝶々夫人」
5.「修道女アンジェリカ」
6.「トスカ」
7.「エドガール」
8.「マノン・レスコー」
9.「西部の娘」
10.「ジャンニ・スキッキ」
12.「外套」
13.「妖精ヴィッリ」
番外編
「交響的奇想曲」「交響的前奏曲」
こんな風に順番を付けても、思えば、プッチーニ全部が好き。
ここにあげたのは、残されたオペラのすべて。
「アンジェリカ・ジャンニ・外套」を三部作としてひとつに捉えると、5位にきます。
プッチーニとの出会いは、1973年のNHKイタリアオペラの「トスカ」のテレビ観劇。
中学生のわたくし、すぐに、カラス(プレートル盤)のレコード、そしてその年のクリスマスにカラヤンの「ボエーム」のレコードを買って、擦り切れるほど聴いたものでございます。
もちろん、歌ってましたよ、ロドルフォとカヴァラドッシとスカルピアをね。
ワーグナーとプッチーニ、そしてヴェルディとモーツァルトは、この時期から聴きまくっていたのでございます。
そして、いま、マーラーやR・シュトラウスも同様に愛するようになって、プッチーニの音楽の甘味さだけでない革新性を、その秀逸なドラマとともに味わいつくすようになったのでございます。
プッチーニは、有名どころばかりでなく、そのすべてを聴き尽すことによって見えてきた、この作曲家の愛すべき弱さと強さもわかるようになりました。
優れた台本あってこそ秀逸なオペラが生まれたと言う点では、R・シュトラウスと相似していて、同時に台本がちょっと弱くても、この作曲家特有の女性への優しさ、そして汲めども尽きぬ美しいメロディの宝庫に溢れているという点でも、シュトラウスに同じくするところです。
ですから、ここ数年に知り合った「つばめ」(ラ・ロンディーヌ)には、わたくしは、とても愛着と愛情を感じているんです。
奔放に生きてきた女性が、ひとりの純朴な青年の愛を知り、ふたりで愛の巣を築きますが、いつか、こんな汚れた女は青年には相応しくないと、身を引いて、かつての生活につばめのように帰ってゆく、ちょっと悲しいオペラなんです。
「トラヴィアータ」と「ばらの騎士」を思わせる筋立てに、思わずホロリとさせる素敵な音楽がしつらえられているんです。
思えば、神奈川フィルは、このところ、わたしにとって大切な作曲家ばかり続いて演奏してくれてます。
マーラー、ワーグナー、R・シュトラウス、プッチーニ。その間に、松本のナイスなベートーヴェンも。
このオーケストラの音色にまたぴったりくる音楽たちなんです。
プッチーニ大好き
みなさまの順位は
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素敵なコンサートのあとは、花束です。
こちらをご参照。
松本室内合奏団は、1989年発足の室内アンサンブルで、年2回の演奏会を中心に、松本に根付き、なかなかにしっかりした活動を営んでいる団体です。
そこに、われらが神奈川フィルの首席チェロ奏者の山本裕康さんが、指揮者として客演。
聴く側としては遠征となりますが、氏の指揮デビューも昨年確認した以上、この分野での山本さんを見届けなくてはならず、日曜日の特急あずさ号に乗りこみました次第です。
ブラームス セレナーデ第2番 イ長調
芥川也寸志 弦楽のための三楽章 「トリプティーク」
ベートーヴェン 交響曲第2番 ニ長調
山本 裕康 指揮 松本室内合奏団
(2012.7.1 松本ザ・ハーモニーホール)
どうでしょうか、渋いけれど、この意欲的なプログラム。
アマチュアオケとは思えない本格ぶりは、このプログラム以上に、その実力と音楽する喜びに溢れた演奏姿、そしてきっと彼らの家族も含む、松本のお客様の音楽をしっかり聴きとる姿勢とに強くあふれておりました。
そして、その中心にあって、今宵の音楽の導き手が、山本裕康さんだった。
ビオラ、チェロ、コントラバス、木管、ホルンというユニークな編成によるブラームスのセレナードは、作品番号16のブラームスの若書き。
外はあいにくの梅雨の雨だったけれど、緑に囲まれた雰囲気豊かなこのホールで聴くに相応しい爽やかな音楽で、ほのぼのとした柔和な1楽章から、スケルツォながら渋い雰囲気の2楽章、哀愁さそう青春ブラームスの3楽章、おっとりとおおらかな4楽章、そして快活さが目覚ましい終楽章。
全編、中声部みたいなこのセレナーデを、チェロを弾くがごとく、じんわりと柔らかく、そしてキレもよく聴かせてくれた山本さんでした。
思えば、神奈フィルでシュナイト師がこの曲を指揮した日も雨の日でした。→
芥川作品、トリプティークは実は初聴きかも?
弦楽による、この目覚ましい音楽には驚きました。
ブラームスで、おっとり気分に浸っていたら、いきなり横っ面を叩かれた感じ。
そしてブラームスのあとに聴くと、和風テイストがみなぎっていると同時に、ショスタコやバルトーク、ティペットなどの近代英国風などの味わいも存分に感じる。
ことに、娘さんに書いたという子守唄は、とても歌謡的で美しく、指揮者もオケもよーーく歌っておりました。
これ聴いてて、古き良き時代劇やNHK新日本紀行みたいな、懐かしいセピアカラーの景色を思って陶然となってしまいましたよ。楽器の胴を叩く奏法が右から左へと広がってゆくところもとても印象的でございました。
それと、めくるめく変拍子が目覚ましい3楽章もときおり懐かしい思いを挟みながら、実に楽しかった。
もちろん指揮者も演奏者も大変な曲だな、と思いつつも、それらを難なくクリアした皆さんに拍手です。
さらに何気なく迎えた後半戦は、実はサプライズでした。
ベートーヴェンの交響曲の偶数番号、それも2番と4番は、たおやかで、控え目で抒情的な印象を持っているのが常。
それは、ワルターやクリュイタンスのレコードの存在が大きくて、決してカラヤンやトスカニーじゃないところが、その偶数番号たるところ。
近年では、ベーレンライター版でキビキビ・せかせかやったり、古楽奏法でカサカサやったりする演奏がもしかしたら主流になりつつあるのかも。
唯一、そうしたやりかたでよかったのは、実はノリントンとシュトットガルトで、そのスピード感と痛快さは、この2番の新たな側面を見せてくれました。
でも、この日の山本&松本チェンバーの演奏は、この2番をピリオドとかノン・ヴィブラートとかの奏法によらずして、軽快でダイナミック、駿馬のようにすばやく鮮やか、若さみなぎる目からウロコのベートーヴェンに仕立ててくれたのだ。
ガンガン進む1楽章だけれど、一音一音は決しておろそかにせず、しっかりと歌っているので、潤いと輝きがあります。
爽快な2楽章では、信州のあふれるグリーンがみなぎるようでして、楽員さんたちが、ホント気持ち良さそうに弾いていたのが印象的です。
山本さんのような仲間みたいな指揮者があってこその、そんな彼らの演奏姿です。
キビキビとしたスケルツォに続いて、一気呵成の終楽章。
この曲聴いて、手に汗したのは初めてかも。
ヒヤヒヤじゃなくて、その感興にですよ。
おいおい、マジかよ、と聴きながら思っちゃいました。
こんな痛快で、尖がったベートーヴェンは久しく聴くことがなかったです。
これもベートーヴェンの一面で、ある意味親しみのわくベートーヴェンの姿ではないでしょうか。
終演後、山本さんに聞いたら、通常のブライトコプフ版だそうでして、なにもあれこれしなくても、こうして耳にも目にも鮮やかな鮮度高いベートーヴェンが出来上がるという典型ではなかったのでしょうか。
きっと多く練習を重ねたでありましょう、指揮者・奏者の思いが完全に一致し、一体になっているのがひしひしとわかりました。
あっという間にTシャツに着替えてラフな、山本さんにご挨拶して、東京・横浜から遠征の3人組は、あまりに味のある最寄駅から松本駅まで移動し、信州の名物に舌鼓を打ちつつ、コンサートの熱き余韻に浸るのでございました。
信州オリジナル、信州サーモンのお刺身
そして、好物の馬刺し。
馬刺し文化は、北から青森・福島・山梨・長野・熊本でございます。
信州のキリリとした日本酒に最高です。
お昼は、当然、お蕎麦。
帰りの車中、3時間はほぼ飲み通し。
こんなアフターコンサートも実によいものです。
ここ松本は、以前仕事で何度も来てましたが、いずれも日帰り。
大学時代の友人がいて、今回は日帰りで声掛けしませんでしたが、またゆっくり来たい、文化の香る音楽の街であります。
山本さんは、今年もサイトウキネンオケでもご活躍です。
追)「月曜ねこの日」は、本日休刊いたします。
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海の向こうに教会。
対岸から臨むと、静かな入り江に浮かぶように立つ尖塔がとても美しく、凛々しい。
こちらは、天草下島にある「津崎天主堂」。
ゴシック様式の渋い教会。
近所の家々と、しっとりと溶け合ってます。
前回の大江天主堂から車で20分くらいの距離。
あちらは山村の教会、こちらは魚村の教会。
こちらにもルルドの泉が。
泉は、こちらはイコール、鯉の泳ぐ池のようなもので、ユニーク。
教会から見た町並み。左手はすぐに漁港。
雨じゃなければ、必ず猫がいるんだろうな。
1569年に、この教会の礎は遡り、迫害の苦難を経て、いまに至るまで、地元の方々の信仰の館となっているのでございます。
内部は、こちらも撮影禁止でしたので、ここには載せませんが、驚くことに、その床は畳敷きなんです。
身廊と美しいアーチを描く天蓋。素晴らしい教会建築に思いました。
いつかまた行きたい、天草へ。
ドビュッシー 交響的断章「聖セバスティアンの殉教」
ピエール・モントゥー指揮 ロンドン交響楽団
(1963.5 @ロンドン)
1911年、先の「映像」と同じころに作曲された、神秘劇「セバスティアンの殉教」は、長大な5幕からなる劇への付随音楽。
台本がやたら長かったり、幕割りが打ち合わせ通りでなかったり、そして何よりも時間がなかったりで、苦心の作曲は、弟子のカプレの力を得てのものだった。
ナレーションや独唱、合唱を含むが、その音楽部分だけを抜き出した1時間の神秘劇もCDはそこそこ出てます。
あと手が届きやすいのが、オーケストラだけによる断章で4つの場面からなります。
1.「ゆりの園」
2.「法悦の舞曲と第1幕の終曲」
3.「受難」
4.「良き羊飼いキリスト」
3世紀ローマ、ディオクレティアヌス帝のもと親衛隊長にあったセバスティアンは、当時、異教にあったローマ帝国のキリスト教迫害にさらされたキリスト教徒を助け、励まし、やがて奇跡も行うようになった。
ついにディオクレティアヌスの怒りに触れ、処刑される・・・・。
死ななかったことなどが、数々の伝説的な逸話となって残り、守護聖人として祀られるようにもなったセバスティアンです。
「聖衣」というリチャード・バートンの映画がありまして、そちらは、キリストの処刑に立ち会ったローマの護民官が、イエスの聖衣やキリスト教徒の奴隷などよりキリスト教の目覚め、皇帝に立ち向かい、自ら殉死を選ぶというものでした。
このように自らは死を選ばずとも、信仰のための死を決して恐れないキリスト教徒たち。
どこか官能の響きすら感じさせるドビュッシーのこの音楽は、繊細さと神秘感あふれる美しいもの。
低音のうねりも、独特のものを感じ、それらと聖なる高域などの対比も、脱ワーグナーの中にも、パルシファルを感じてしまった私です。
そして、今回のドビュッシーも「ど定番」にて、モントゥーの指揮で。
前回のクリュイタンスと同じく63年の録音ながら、このフィリップス録音は、音に芯があって、そして独特のウォームトーンで素晴らしい。
モントゥーの暖かみある音楽とロンドン響の爽やかな音色がとてもマッチして感じる。
最後の後光さすような響きはとても感動的です。
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