ワーグナー 「パルシファル」 バイロイト2012
ワーグナー 舞台神聖祭典劇「パルシファル」
アンフォルタス:デートレフ・ロート ティトゥレル:ディオゲニス・ランディス
グルネマンツ:クワンチュル・ユン パルシファル:フルクハルト・フリッツ
クリングゾール:トマス・イェーザトコ クンドリー:スーザン・マクレーン
聖杯守護の騎士:アルノルト・ベズゥイエン、クリスティアン・チャーレヴュ
小姓:ユリア・ボルヒェルト、ウルリケ・ヘルツェル
クレメンス・ビーバー、ウィレム・ファン・デア・ハイデン
花の乙女:ユリア・ボルヒェルト、マルティナ・ルーピン
キャロラ・グーバー、クリスティアーネ・コール
ユッタ・マリア・ベーネルト、ウルリケ・ヘルツェル
アルト独唱:シモーネ・シュレーダー
フィリップ・ジョルダン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
バイロイト祝祭合唱団
合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ
演出:ステファン・ヘアハイム
(2012.8.11 バイロイト)
NHKのテレビ放送は逃しましたが、オンデマンド放送で全曲視聴しました。
ヘアハイムの演出は、2008年のプリミエで、ガッティの指揮、藤村美穂子さんがクンドリーを歌って、音源ではかなりの高水準の出来栄えで、初年から充実の音楽面であったプロダクション。
でも、何故か、その舞台の様子は写真でしか伝わってこなくて、わたしには謎のパルシファルだったもの。
指揮が、スイスのフィリップ・ジョルダンに変わって、今年ビデオ収録が行われました。
「パルシファル」には、ワーグナー自身が特別な作品として「舞台神聖祭典劇」という表示をし、なおかつ、自身の作品の上演用に建立した「バイロイト祝祭劇場」でのみの上演に限定し、「ワーグナー家」もそれを順守してきたという歴史があります。
その決めごとが打破されたのが1913年、その著作権が切れ、スペインやハンガリー、ベルリンで正式上演されているが、ときは、第一次世界大戦大戦勃発前夜でありました。
ゲッツ・フリードリヒの弟子、ノルウェーの若いヘアハイムは、「パルシファル」「舞台神聖祭典劇」「バイロイト祝祭劇場」「ワーグナー家」といった、これまで冒しがたい特別なる世界を、いとも簡単に軽く扱い、手に触れがたかったものを、ごく身近に、まるでテレビで日頃見るがごとくの存在にしてしまった。
ヘアハイムの前任が、故シュルゲンジーフの演出で、私は見てもないのに、クソだなんだかんだと非難しまくり。だってそうでしょ、アフリカの原住民まで出てくるし、映像でウサギが腐って朽ちてゆくさままで映し出したんだもの。
その彼が、「パルシファル」を徹底的に、ぶっ壊したあとだったから、ヘアハイムの過激さもかなりフィルターがかって感じたのでは。
今回、映像を見てそう思いました。
初年度は、ブーイングも凄かったけれど、年々ブラボーに変わった。
けど、初めて観るわたくしには、どうもまだ受け入れがたい。
というか、よくわからない。
ともかくメッセージが多すぎだし、演技・演出の過多で、この手のいわゆる読み替え演出にあるように、音楽がともすればBGM的になりかねない。
でも救いは、「槍」や「聖杯」がちゃんと機能しているところか。
あまりにいろんなことが、前奏曲の初めから、最後の平和到来まで、いろいろ起こりすぎるので、それをいちいち取りあげて検証していられない。
何度も観て、そこにあるメッセージをひとつひとつ味わいのがいい舞台かというと、そうでもない。
漫画チックな劇画実写版として、流れるがままに楽しむのがいいのかもしれない。
なんたること、「パルシファル」がこれだよ。
神聖祭典劇は、どこ行った??
1幕のあとは、普通に拍手あります。
舞台設定は実にややこしく、各幕で時代背景が変わるという、ドラマの一貫性としてはご法度の手法をとっているが、これは人物たちが人間を超越した存在に描かれているから。
なんたって、パルシファルとアンフォルタスを除いて、あと3幕のグルネマンツとクンドリーも除いて、みんな背中に天使(?)の羽が生えてる。
しかも舞台装置は、ワーグナー家のバイロイトの居宅、「ヴァンフリート荘」。
これを基本背景に、「パルシファル」の伝統的舞台であるグラールのお城(Joukowskyの絵)も再現され、さらに、戦時下の病院や、戦犯を裁く裁判所なども出てくるからもう、次から次、手練手管という感じで目が回ります。
さらに、テクノロジーを駆使した各種意外性の連続。
パンと火花が散ってクリングゾールの城は壊れちゃうし、終始舞台に据えられたベットは性と生死のそれこそ舞台となって、人が消えたり現れたり。
さらに、真ん中のサークルは泉になって水がなみなみとしていたり、廃墟の岩場となったり、聖餐の祭壇になったり・・・・。
舞台奥に巨大鏡が出現して、舞台の詳細を写し出したり、オケピットの指揮者や観客も写してしまう。
こうした装置過多も、みんな、なにもかも見せてしまおうという演出家の意図にほかならない。
なんたって、ワーグナー家とバイロイト音楽祭が触れずにいたこと、しいては過去の抽象的な演出がヴェールに包んできたものを、丸裸にしてしまおうということだから。
てんでバラバラに舞台の出来事を自分の記憶をとどめるために書いときます。
それと、いずれ発売されるDVDを楽しみにしようとする方はネタバレとなりますのでご注意を。
第1幕
前奏曲から、パントマイムで、ヴァンフリート荘で、死のベットに横たわったヘルツァライデが、幼少のパルシファルを呼ぶが、パルシファルは抵抗してメイドさんの胸に逃げてしまう。まわりにいるのは、グルネマンツに聖杯守護の騎士たち?
前奏曲後半では、ベットから今度は、クンドリーと思しき女性は赤いバラをもって出てきて、ひとり舞いもどり、こんもりした舞台前面のワーグナーの墓と思しきところへ、岩組みをして遊んでいるパルシファルを早くも誘惑する・・・・。
なんじゃこりゃ?のまさに、物語の前奏。
物語の開始とともに出てくるグルネマンツと騎士、小姓たちご一行は、いずれも天使の羽、それもグレーのやつをつけてます。
怪我にあえぐアンフォルタスは、茨の冠が頭に仕込まれたイエスのよう。
最初からずっとそこにいるパルシファル少年を見つめたり迫ったりするし、グルネマンツも少年の世話を焼いたりする。
あげくに、少年は裸になって風呂入っちゃうし・・・。
グルネマンツの長大な昔話、聖なる城の役目を語るとき、館の奥にはクリスマスツリーがキラキラと輝き、雪も舞ってきて、人々は手にろうそくのような明かりを持ち、聖夜のイメージができあがりました。
次いで、少年パルシファルの動きも怪しくなり、倒錯的なガーターベルトにモッコリ姿のクリングゾールが壁からニョッキリあらわれて、漫画みたいな図となりました。
アンフォルタスが罠にはまった件では、ベットのクンドリーにアンフォルタスがのしかかり、腰を動かしながら下へ沈んでゆくという猥雑さも描写。
館のバルコニーに青年となったパルシファルが弓を持って登場、射抜いたのは、なんと少年の自分。
白鳥は登場しませんが、館の上に、羽を広げてる鳥の紋章のようなものは、白鳥+鷲に見える。
そして、聖堂の神聖なる儀式へ移るが、そこではなんとまた赤子を産む場面。
母親から取りあげ、リアルなキモイ胎児を掲げ持ち、皆を膝まずかせるのはグルネマンツ。
これは一体? 生まれながらの王アンフォルタスの出自でしょうかね?
傍観してたパルシファルは、ここで早くもベットで赤いバラを持って誘惑するクンドリーに、滑稽なくらいの動きでもって魅せられてしまい、これまたベットに沈没。
目の前では、アンフォルタスが聖杯を掲げているのに、あぁもう~。
聖杯騎士の合唱は、なんと、第一次大戦のドイツ軍。
背景の映像も行進する軍隊。
儀式が終わると、そこは何事もなかったかのような館にもどり、パルシファルも少年に逆戻り。グルネマンツに、ドアから締め出されて幕。
第2幕
薄暗い野戦病院で、オカマのクリングゾールが怪しく歌ってます。
クンドリーにパルシファル誘惑をたきつけるが抵抗するクンドリーは、赤いドレスに長い巻き毛。1幕の天使の一員だった姿とは大違い。でも、ここでも登場の子供パルシファルを守ったりする。
怪我人多数、看護婦さんが付き添いますが、クリングゾルの歌とともに、全員がベットの上で腰をグラインドさせ、リアルにおっぱじめます。R18だぜこりゃ。
やがて、パルシファルがやってくると、彼が木端微塵にやっつけた男たち(ぬいぐるみ)が、切り刻まれて舞台に放り込まれます(笑)
花の乙女たちは、歌う6人が看護婦。女声合唱は、世紀末頃のデカダンスあふれる踊り子さんたち。これまた滑稽。
パルシファルは、いい忘れたけれど、1幕から青年になっても成長できないセーラー姿。真打ちとして登場のクンドリーは、クリングゾールと同じくタキシード姿にシルクハットのマジシャン。
すべてを覚醒させるクンドリーの熱い接吻後、パルシファルの内面は劇的に変貌するも、外観は呑気なセーラー姿なところが、ここまでやったらもう一工夫が欲しいところ。
手に負えなくなったクンドリーはいったん退き、今度は、丸い泉がまるで井戸になったようなところから、白い衣装に髪を垂らし、下をうつむきながらジワジワ上がってくる。
こりゃまるで、「貞子」だよ、まったく。
クンドリーの悩みの激白は、なかなかの緊迫感で、かの人(イエス)と会い「笑った」という場所では、音楽は驚きの完全休止。こんな長い休止初めて聴いた。
そして、クンドリーの体にも、血が滲んで傷跡。
親分はバルコニーから、そして手下どもは、なんと第二次大戦のナチス軍で、館の左右には、ハーケンクロイツの鉤十字の垂れ幕が・・・。
そしてなんと槍をパルシファルに向けて構えるのは、今度は少年パルシファルだ。
パシッと閃光とともに、槍はパルシファルの手元に。
少年は消え、クリングゾールとナチス軍は倒れました。
第3幕
戦後の荒廃地が、寂しい前奏曲とともに映像で流される。
廃墟と化した、ヴァンフリート荘。
グルネマンツは、倒れたクンドリーを見つけ、介抱するというより、引っ張り出して、躊躇しながらも上に覆いかかろうとします。何でこうなるの?
奉仕をしようとするクンドリの手には、病院にあったような白い洗面器。
あの有名なナルシスティックな出で立ち(上にある絵)をしたパルシファル登場。
ここからあとはしばらく、無難で安心、感動的な場面が不思議と続く。
槍と武具を、枯れてしまった泉(井戸)に置くと、いったん下にさがり、泉がとめどなく湧きあがってます。
グルネマンツとクンドリーは、パルシファルを白い聖衣に着替えさせ、傷の介抱もします。
聖金曜日の奇跡を歌うグルネマンツは、二人の真ん中に立ち、両手を広げます。
パルシファルの足元のクンドリーは髪で、彼の足を洗い、清め、そしてパルシファルから洗礼を受け、さめざめと涙するのでした。
ワーグナーの音楽と劇のなかでも、もっとも感動的な場面です。
ここまで、伝統的な解釈にこだわったのは、パロディーかとも思ってしまう、観るこちら側の警戒心を刺激しようとの意図か。
野の花の情景を歌うところでは、かつての花の乙女たちが、戦後うらぶれてしまい手にスコップを持って元気なく登場。
彼女たちに、手を差し伸べる救われて晴々としたクンドリーとパルシファル。
この図も美しく感動的だ。
ところが、このあとですな、またもやらかしてくれる。
聖堂への場面転換は、ワーグナーのデスマスクが薄ぼんやりと・・・・。
それを徐々に埋め尽くす煉瓦ブロックのウォール。
戦後の「みそぎ」なのか。
舞台は、急傾斜の法廷で、スーツ姿の陪審員。
被告というか自己弁護者は、アンフォルタス。苦しい胸の内を歌うが、それを揶揄しやじる騎士たち。しまいに、紙クズを投げつける。
戦後ドイツの国旗で覆われた父ティトゥレルのお棺のなかには、王冠をかぶったリアルなミイラ。
救われるのは、アンフォルタスに加え、ワーグナー家とバイロイト祝祭劇場か。
1951年から復活です。
救い主として登場のパルシファルは、普通に「役立つのただひとつの武器・・・・」と歌って、アンフォルタスの傷に槍をあて、救済された旧王は、父王の棺の中で絶える。
次ぎの王に就任のはずのパルシファルは、姿を消し、舞台奥には巨大ミラーが出現し、赤く灯された泉が美しく反映し、ブルーの照明も美しい背景ができあがる。
やがて、手をつなぎ前面にきたグルネマンツとクンドリーの間には、下から少年が一人登場。まさか、このふたりが結ばれたんじゃないでしょうねぇ!?
少年は、服装と顔立ちからして、明らかにパルシファルじゃぁない。
背景のミラーは、天球のようになり、指揮者と観客席を映し出しつつ、終幕の美しい天上の合唱となって、指揮者のエンディングの動きを見守りつつ幕。
幕
あ~ぁ、疲れた。
こんなに苦労したブログはこれまでないぞ。
自分があとて読んで思い出すようにと、いつも書き過ぎちゃうワタクシですがね、今回は、舞台で起こったことのごく一部しか再現できませぬ。
この演出の、いくつかのキーワードと思しきものを列挙して終わります。
「死」「生」「眠り=休息」「ベット」「鏡」「天使の翼」「水」・・・・。
あと、大きなくくりとしては、前褐のとおり、「ワーグナー家」「バイロイト祝祭劇場」「ドイツの歴史」「ユダヤ」などを想像しました。
そして、時代背景は、ワーグナーの息子ジークフリートが生れた頃1869年から、戦後の新バイロイトが始まる頃までとみられる。
よって、それにワーグナー家とバイロイト音楽祭を重ねあわせることも可能かも・・・・。
いろいろ起き過ぎ、あり過ぎのヘアハイム演出。よくわからん。
読み替え演出は否定はしない前提に、音楽理解が伴わなくては、と思ってますが、ヘアハイムは既定の決まりごとをすべて打ち破ったものの、でも音楽と言葉には、不思議と即していたような気がいたします。
G・フリードリヒの流れを引く彼ならではなのでしょうか。
こんなややこしく、めんどくさい演出で演じ、長大な歌を歌わなくてはならない今の歌手たちは本当に大変だと思う。
バイロイトの低音の顔みたいになってしまった韓国のクワンチュル・ユンが実に素晴らしい。深くて柔らかなバス、声の通りもよろしく均一で、しかもタフ。
今夏は、グルネマンツにマルケ王も歌ってる。
この人を始め、チームとして完璧に出来あがった今年のパルシファルの歌唱は最高。
音域が広く、光沢あるマクレーンのクンドリーは素敵だったし、性格的なバリトンふたりも面白いくらいに決まってました。
唯一、初めて登場のブルクハルトは、悪くはないけれど、声がブツ切れに感じる発声は、去年のヴァルターでも感じたところ。バレンボイム・チームの一員。
いつものように威力あふれる合唱団。映像でみると、いろんなことやらされてるのに凄いものだと思います。
それと、ジョルダン指揮する生き生きとしたオーケストラ音色は、これまでのガッティにも増して鮮度あふれるものでした。
親子そろって、「パルシファル」の映像を残したジョルダン家です。
しかし、ウォルフガンク時代の「パルシファル」が懐かしい。
そこには、伝統があるようにあった。
隠れていたものを炙りだしてしまったあと、いったいどうすればいいんだろ。
この音楽から「聖なるもの」を取っ払ってしまったら・・・・・・。
(以上、画像は2011年の上演の模様と今年の舞台裏から、BR放送のサイトから拝借)
次ぎの映像で、少しだけ見れます。
過去記事はたくさんありすぎ。
直近のアバドの記事で、一覧にしておきました。 →こちら
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コメント
ベイスターズネタですが。。
またしてもオレンジ軍団のマジック減らしに貢献しちゃってもう(涙)
スワローズも青い軍団に勝っちゃたりでオレンジ軍団に加勢しちゃったし…う~う~。。。←もがいてる感情を表したつもり…
投稿: ONE ON ONE | 2012年9月 2日 (日) 21時52分
ONE ON ONEさん、こんばんは。
昨日からもう、見る気もしません。
力の差、歴然。
すべてが、これまでの金の力や人気のなせる技の蓄積で、うまく機能しているオレンジ。
それに比して、すべてがその場の瞬間にしか頼る力のないベイ。格差社会が完全に反映されてます。
TVアナウンサーのはしゃぎっぷりも鼻につき、日テレだったら消音します。
だいたい、あんな強くてあたりまえのところを応援するなんて、どこが面白いんだろ・・・・、あぁ、これ言っちゃおしまいですね。
ベイは応援しつつ、わたくしは、パリーグのレースへ。
投稿: yokochan | 2012年9月 2日 (日) 23時52分
う~ん、この「パルシファル」、KiKi もまだ観たことはないんですけど、このエントリーを拝見する限りでは yokochan さん同様「よくわからん・・(・_・)エッ....?」って感じでしょうか?? 芸術作品は人によって解釈が違ってもそれはOKだと思うけど、この作品の得体の知れない「秘密結社的」な雰囲気はイマドキ流行らないのかもしれないけれど、それでもやっぱり「貞子」はないんじゃないでしょうか(苦笑)
エントリーを拝見する限りでは、まるでハリウッド映画のように観客を唖然とさせ、よくわからないパワーで思考停止のままグイグイと惹きつける推進力みたいなものは感じられるけれど、終わってしまうと何が残る演出なんでしょうか??
ま、てなことを考える時点で、KiKi は時代遅れなのかもしれませんけどね。
>でも音楽と言葉には、不思議と即していたような気がいたします。
そうなんですか?? 音楽がよければま、いいか。 でもこれ、基本は舞台芸術ですからねぇ・・・・。
投稿: KiKi | 2012年9月 3日 (月) 10時00分
kikiさん、こんばんは。
ともかく、わからん、の一語につきます。
思いつくままに舞台にしてしまった・・・という感じです。
キース・ウォーナーのトーキョーリングも、情報満載でしたが、あれはあれでキッチュでおしゃれで、笑いもあったりで、汲めども尽きぬ味わいがあったのですが、これは、どうしても元が神聖ネタなものですから、その乖離ぶりと、一部妙に原作に忠実だったりもするもんですから、さっぱりわからないのでした。
で、そうなんです。
映画チックなんですよ。
それも仕掛け満載で、観客をアッといわせるヤツ。
観る側はきっと、映像作品として、気に入ったところだけを何度も見たりして、本筋とはかけ離れた鑑賞の仕方をすることになるんだと思うんです。
ここに、何が残ったか・・・・?
それは、わたしにもわかりませんし、これが今後指標になるなんてことも思えません。
第一、ドイツ各地では、こんなこと当たり前的になってるんでしょうから。
当主が変わり、バイロイトも変化しつつある、その過程なのでしょうね。
バイロイト、お前もか・・・。で終わらなければいいのですが。
いっそ、演奏会形式にしてしまうのもいいかも(笑)
投稿: yokochan | 2012年9月 3日 (月) 23時06分
これ、ユーチューブに全部あります。日本語字幕は無しですけどね・・
おもしろい部分もありましたけど、全体としては集中できない感じでした。直感的に理解できないです。できる人もいらっしゃるんでしょうけど・・
クリングゾール(クンドリーも同じようなかっこうしてたところもありましたね)はヴィスコンティの映画「地獄に堕ちた勇者ども」のあのシーンを思い出しました。ヘルムート・バーガーがマレーネ・ディートリッヒのまねをする場面です。
投稿: edc | 2012年9月 4日 (火) 09時25分
euridiceさん、こんばんは。
いち早く、ご覧になられたのですね。
そして、ほんと、わかりません。理解したくもない感じです。
カタリーナのマイスタージンガーとセットになってるみたいな自虐性です。
「地獄に堕ちた勇者ども」
この映画の存在は知りませんでした。
調べてみたらなるほどですね。
確かに、クリングゾールでした。
そして、この映画で描かれた世襲というシステムも、この理解できない演出のキーワードのひとつかもしれません。
投稿: yokochan | 2012年9月 4日 (火) 23時27分
yokochanさん
引用で恐縮ですが、KiKiさんという方のご意見に、全く同感です。
「エントリーを拝見する限りでは、まるでハリウッド映画のように観客を唖然とさせ、よくわからないパワーで思考停止のままグイグイと惹きつける推進力みたいなものは感じられるけれど、終わってしまうと何が残る演出なんでしょうか??
ま、てなことを考える時点で、KiKi は時代遅れなのかもしれませんけどね。
>でも音楽と言葉には、不思議と即していたような気がいたします。
そうなんですか?? 音楽がよければま、いいか。 でもこれ、基本は舞台芸術ですからねぇ・・・・。」
KiKiさん、時代遅れではないと思います。私も全く同じことを、ずっと昔から感じていますから。特に、①終わってしまうと何が残る演出なんでしょうか??、②でもこれ、基本は舞台芸術ですからねぇ・・・・。、の二つがまさに正論ですよ。
ところが、ドイツ人にこれを言っても、通じる人と通じない人がいます。そして、(恐らく一番)重要なのは、後者だけが劇場へ出かけて、大喝采している、ということなんです。ちょっと怖ろしいです。実際、コウイウノガ終わった後って、大喝采なんですからね・・・。
投稿: 安倍禮爾 | 2012年9月10日 (月) 23時43分
安倍禮爾さん、こんばんは。
コメントどうもありがとうございます。
kikiさんは、なかなかのワーグナー通でございまして、これまでの諸所やり取りのなかで、いくつも的確なるご意見をいただいてまいりました。
今回もご拝読いただきましたとおり、シンプルなるご指摘。
あれこれ書きまくった自分が恥ずかしくなるくらいに、明快なご意見でした。
ドイツの歴史、ワーグナー家、それぞれのドイツ人にとっての汚点をあからさまにするのに、なにも、パルシファルを使うことはねぇだろう、という思いは私も強く持ってまして、音楽の背景は台無しにされてしまいました。
私が書いた、音楽と言葉が即していた、というのは、少しの褒め言葉だったのですが、ト書きや台詞が、演出に反映されているという意味合いで、それはかなり強引な曲解なのですが、細部にわたるまで、パルシファルという劇を研究しているな、と感じたまでです。
音楽でいうと、ライトモティーフの意味合いも、同じようにうまく捉えていたようでしたから。
でも、トータルにはイカン演出でした。
劇場で楽しんで喝采を送っている聴衆のような面々は、いまのところ日本ではまだ少ないようです。
そして、日本の少し保守的な風潮がいまはありがたく感じたりします。
投稿: yokochan | 2012年9月11日 (火) 21時40分
今晩は、クラヲタ様。 オペラではありませんがベジャール振り付けのバレエをBSで放送していたので見ました。まぁ、何と官能的な踊り
男性舞踊家は、身体のラインもあらわな肌色のタイツで(ぱっと見には全裸に見えるんです!) 女性舞踊家と密着して踊り、女性舞踊家も男性に身を任せ…はぁ、数分間の踊りなのにまだドキドキしています(汗)
投稿: ONE ON ONE | 2012年10月17日 (水) 00時18分
ONE ON ONEさん、こんばんは。
ほほう、バレエ版のパルシファルですか。
2幕のパルシファルとクンドリーの濃厚な二重唱でしょうか、3幕の聖金曜日でしょうか?
ワーグナー好きとしては気になります。
バレエは苦手ですが、ベジャールはいろんなクラシカル作品に巧みに振り付けを残してますね。
バイロイト音楽祭でも、半世紀前に「タンホイザー」の斬新なヴェーヌスブルク出現させて、センセーションを起こしてます。
いまのバレエも、密着やリアルさなど、時代を反映してるんでしょうか。ふむふむ。
投稿: yokochan | 2012年10月17日 (水) 23時53分