R・シュトラウス 「英雄の生涯」 ハイティンク指揮
芝浦地区の夕暮れのひとこま。
高層マンションに人が住み、近くの高層オフィスで人が働く、その間を縫うようにして走るモノレール。
かつては全国から東京への空からの入り口であったモノレールも、いまは、その沿線に住まう人、働く人が多くいて、運営もJRとなった。
東京の進化は、こうして目立たぬところにも、とどまるところを知らず、街の一部が気がつくといつの間にか変わっていることも多い。
これを良しとするか否かは、まだ答えはありませぬが、経済の側面から見ると自転車操業のようにしか思えない。
なにもそこまで、とか、もったいない、とかいう思いしか浮かびませんので・・・・・。
R・シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」
ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
Vn:ヘルマン・クレヴァース
(1970.5 アムステルダム)
ベルナルト・ハイティンク指揮 シカゴ交響楽団
Vn:ロバート・チェン
(2008.12 シカゴ)
シュトラウス最後の交響詩、「英雄の生涯」。
といっても、34歳の作品で、85歳まで生き、生涯現役の作曲家だったシュトラウスからしたら、没年の50年前の若書きということになります。
しかし、残された音楽が、若書きと思わせず、老獪ともいえる手口と語り口でもって完璧さをまとっているところがR・シュトラウスの凄さでありましょう。
このあと、オペラの道へ入ってゆくシュトラウスですが、そのオペラも、「英雄の生涯」以前はまだ処女作「グンドラム」のみ。
その「グンドラム」は、ヘルデンテノールのひとり舞台で、かつワーグナーのまともな影響下にあり、劇のないようも、「タンホイザー」っぽかったりします。
しかし、「英雄の生涯」を挟んで生れるオペラの数々、ジングシュピール的な「火の欠乏」、ユーゲントシュティール・世紀末・大胆な作風の「サロメ」「エレクトラ」と続いて、モーツァルトと諦念が結びついた「ばらの騎士」・・・・・。そのあとも、次々とその作風を変転させてゆくシュトラウス。
多くの方が、交響詩のみで語りがちですが、シュトラウスの85年の生涯を大きく掴んでみるときに、オペラの存在は無視できず、しかも「ばらキシ」以降の充実の諸作にも耳を傾けるべきであります。
あれ?違う方向に行ってしまう。
シュトラウスのオペラすべてを愛するわたくしゆえ、申し訳ありません。
「英雄の生涯」を得意にする指揮者・オーケストラって、きっと皆さん共通認識にたたれるかと思います。
指揮者でいえば、作者を除外して、クラウス、ベーム、ライナー、カラヤン、カイルベルト、ケンペ、スウィトナー、サヴァリッシュ、ハイティンク、メータ、小澤、ヤンソンスなどなど。
オーケストラは、ウィーンフィル、ベルリン・フィル、ドレスデン、コンセルトヘボウ、バイエルン放送、シカゴ。
それぞれの共通項で、マッチョなメータの音盤の聴き比べをしましたが、今回は、その新旧どちらも最高の「ヘルデンレーベン」と確信している新旧ハイティンク盤を併せて聴いてみました。
新盤は、今年の5月に記事にしてます。
恰幅のよさと、超高性能、どんなに咆哮しても、静寂でも、その緻密さと鮮やかさは絵に描いたように完璧で、その先もまだまだあるような余裕を感じさせるものです。
それが鼻もちならない雰囲気にならないのは、ひとえに全人的なハイティンクがそこに君臨しているからでして、もっとゴンゴンがんがん行ってしまうところが、巧みに抑制されているんです。
ゆえに、濃厚な愛情吐露のシーンよりは、業績をしのび、顧みる場面が、実にしみじみと味わい深く、若くして生涯を回顧してしまったシュトラウスが、まるで、幾多のオペラを経て迎えた真の晩年のような感情を呈しているかのように聴こえるのでありました。
コンマスは99年以来の台湾系のR・チェン。
わたしも実演で聴いていますが、むちゃくちゃうまく、歌いこぶしも実によろしい。
完璧なる演奏ですが、ハイティンクゆえの温もりとふくよかさ、そして物語の完結感を持った新盤。
ほんとは、この間に、ドレスデン盤があればいいのですが、いまだ音源化されておりません。
さかのぼって、38年
ハイティンクも40歳。
コンセルトヘボウをしょって立つ若い気概に溢れていた60~70年代。
思わぬ落ち着きと、恰幅のよさに驚きますが、それもまた今聴けば、この時期のこのコンビの奥ゆかしい絹のようなあでやかかつ細やかなサウンドとホールの響きを巧みに捉えたフィリップス録音でありましょう。
ハイティンクが評価されるようになる前から、いま聴けば常にこれだけのクオリティを有していたんです。
この「英雄の生涯」がレコード発売されたのは72年だったか?
レコ芸評では、準推薦マークだった。
それでもハイティンクにしては大検討で、それまでのブルックナーやマーラーはけちょんけちょんだったから。
当時は、カラヤンやメータの、聴かせ上手なゴージャスサウンドばかりが評価されていたから、当然の扱いだったかもしれませんが、いまこうして聴くと、こちらの方がある意味ゴージャスに聴こえる。
わたしたちの耳も聴き方も変化しているのは否めない事実なれど、当時からなに変わらず、真摯に自分たちのサウンドを守りとおしてきた演奏家がこうしてあったことに敬意を表すべきでありましょう。
コンセルトヘボウ的存在だっコンマス、クレヴァースのヴァイオリンは、新盤のチェンと次元の違いを見せつけてくれます。
これぞ、脈々とつながる伝統の風格。
ときに、ヴァイオリン協奏曲と化してしまう気もするが、オケの美質と一体感をもったこのヴァイオリンは大いなる聴きものでございます。
そして、突進力あるハイティンクの指揮は、シュトラウスの濃厚ロマンの表出にも欠けておりません。
この旧盤は、シュトラウスが若くして到達した円熟のサウンドを正しく伝えてやみません。
真の晩年の枯淡の世界をも感じさせる新盤に比べ、この新盤は、シュトラウスのいっときの到達点を完璧に捉えたものと思います。
明後日の演奏会は、神奈川フィルゆえ、そして石田コンマスゆえに、この曲の違った美質を見せてくれるような演奏になるような気がします。
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
R・シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」
金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
2012年11月23日 (金・祝) 14:00 みなとみらいホール
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コメント
こちらでもこれできましたか。深々とした響きをホールを鳴らして響かせて、なんとも言えない聳えるような印象を感じさせ、それにクレヴァースのソロの見事さ。地味なんですけどね、それでも風格がある。そこが更に品格と重量感を感じたりもする。
そして若きハイティンクの一途さ。決して誠実さを失わないところがいいですよね。
これ以降「交響詩」を作らなくなったシュトラウス、「三つ子の魂、百までも」、作風を2回変えた彼ですが、やはり彼の中に感じていた音楽は終生幼い頃から教育されたウィーン古典派だったのかも知れませんね。手法としてワーグナーやリストを取り入れたとしても、彼らがベートーヴェン以降を意識したのに対し、シュトラウスはベートーヴェンで音楽は行き着くところに行き着いたという煮詰まった伸び悩みを感じていたように思います。いかがでしょう。
投稿: yurikamome122 | 2012年11月22日 (木) 04時14分
yurikamomeさん、こんばんは。
いつもお世話になりしてありがとうございます。
そうです、yurikamomeさんのエントリーを拝見しつつ、わたくしも、これしかないだろうという思いで記事にしました。
このコンビに特有のホールを鳴らしきった一体感。
デッカや自主制作盤ではもう聴けなくなってしまった、俺たちフィリップスサウンドなのかもしれませんが、ハイティンクもコンセルトヘボウも他を知ってしまったという、罪な出会いが失わせたものは大きかったのですね!
シュトラウスは、この曲でベートーヴェンに決別をし、あとの交響曲でその交響曲の持つスタイルをを崩壊させてしまい、残ったのがモーツァルトだったのではないでしょうか。
オペラにおける女性優位の描き方は、まさにモーツァルトであり、シュトラウスです。その諦念の深さもモーツァルトの陰りの部分の表出かもしれません。
ともかく、シュトラウスに関して、こうして考える機会を与えてくれた神奈川フィルには感謝ですね!
明日はよろしくお願いします。楽しみですね。
投稿: yokochan | 2012年11月23日 (金) 00時20分