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2012年12月

2012年12月31日 (月)

R・シュトラウス 4つの最後の歌 マッティラ&アバド

Roppongi_hills_1

2012年も大晦日になりました。

震災があった去年、いろいろあった去年。

そして、今年もなにかとありました1年。

オリンピックやノーベル賞はあれど、でも、不条理な出来事が例年以上に多かった気がしますね。

とことん、ろくなことがなかったから、年末の結果としてなった政権交代に期待が集まってしまう風潮も。

Roppongi_hills_3

ともあれ気配だけで、多少なりとも押し上げてしまった新政権。

頼みますよ。

今年の年末の六本木ヒルズは、とりわけ寒くて、空気も澄んで、シルバーな雰囲気がとても美しかったのです。

例年、東京駅の丸の内の写真で最後を飾るのでしたが、ことしは再築とあらたなアトラクションの過剰な人気で尻すぼみになってしまい、かつ雨天も手伝い寂しいことになりました。

Strauss_abbado

  R・シュトラウス  最後の4つの歌

       S:カリタ・マッティラ

   クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                      (1998.12 ベルリン)


毎年、12月31日恒例の、「最後の4つの歌」。

2012年の最期は、フィンランドの名花、マッテラとアバドによる演奏です。

R・シュトラウス(1864~1949)の文字通り、最後の作品たち。

4つ揃えての歌曲集としての作曲では必ずしもないが、1948年に間を置きつつ書かれた歌曲で、ヘッセとアイフェンドルフの詩によります。

歌詞の内容もふくめ、シュトラウス晩年の諦念と、澄みきった心境を反映しての、すべてをやり遂げた感ある完結感もある意味あります。

  1.「春」(ヘッセ)

  2.「9月」(ヘッセ)

  3.「眠りにつくとき」(ヘッセ)

  4.「夕映えに」(アイヒェンドルフ)

    
      はるかな、静かな、平安よ

      かくも深く夕映えのなかに

      私たちはなんとさすらいに疲れたことだろう

      これがあるいは死なのだろうか


「夕映えに」、最後の詩です。

夕映え輝く空に、羽ばたき飛んでゆく鳥の姿、それを緩やかに見送る自分が見出せるような最後の場面。

音楽に美というものがあるのなら、きっとここは一番美しい瞬間ではないでしょうか。

シュトラウスの人工的ともいえる、音楽造りの巧みさは、オーケストラ作品、それとオペラにしても歌曲にしても、聴くわたくしの耳を捉えてやみません。

この音楽も、自分の今際に流して欲しいと思いますね。

「死と浄化」のメロディーも流れるが、決して、最期じゃない。
夕暮れだけど、その先には希望や明日迎える美しい朝があると思わせるR・シュトラウスの清朗さ。

マッティラは北欧系の歌手らしく、透明感と怜悧さを備えた歌声に、最近は力強さも加わり、ドラマティックな役柄も手掛けるようになったが、こちらでは、彼女のリリカルな要素が大いに発揮され、精巧なガラス細工を思わせる歌唱となっている。
クラシック以外の歌も難なく歌ってしまう驚くほど器用な彼女は、少し地味な存在だけれど、もっと注目されていい歌手です。
アバドとの「シモン・ヴォッカネグラ」なども素晴らしいものです。

そして、そのアバドの病に倒れる前の指揮。
オケはカラヤンのようにやりたかったかもしれないげ、内面をみつめ、集中力も高く、輝きや耽美性には背を向けた渋いものです。
マッティラの抑制された歌いくちも、アバドとの完全な協調があってのものでしょう。

静かな年越しを迎えるに相応しい演奏にございました。

過去の年末「最後の4つの歌」

 2007「シュティンメ&パッパーノ」

 2008「ステューダー&シノーポリ」

 2009「ポップ&テンシュテット」

 2010「フレミング&ティーレマン」

 2011「デラ・カーザ&ベーム」

 
 
ほかにも、実演はじめ、いくつかあります。

なかでも、シュナイト&神奈川フィルの松田奈緒美さん歌唱による演奏会は、わたしの経験のなかで、この曲一番の演奏でした。
過去記事を探してみてください。
松田さんも、最後は泣いてました。

さて、今年は、わたしにとっては、あまりいい年ではなかったです。

ただ、好きな音楽の方では、神奈川フィルが勝負の年へ向けてよい方向へ舵取りされているのを確認できましたし、なんといっても、現在ある作曲家、佐村河内守氏の音楽がますます、近くに感じられるようになりました。

今年一年、どうもありがとうございました。

(こんなこと言っておきながら、すぐに日は変わり、今年もよろしくなんて、言うんですね)

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2012年12月30日 (日)

ディーリアス 「日没の歌」 フェンビー指揮

Umezawa_2

夕暮れの海がこよなく好きです。

すべてを飲みこんでしまうような海と、太陽の描き出す日没の色。

その色に、海が染まり、遠い山々も朱から淡い赤、そして空も、海も、山も、やがて藍色に変わってゆく。

そんな光景を、ずっとずっとながめていたい。

Umezawa

こんな風景は、人を耽美的、刹那的な心情にします。

こうして夕暮れの海を眺めながら脳裏に鳴る音楽は、決まってディーリアスです。

あとはドビュッシーとR・シュトラウスです。

自分の育った海が一番。

海は、怖い顔も見せることをまざまざと知ったけれど、近くで離れがたい存在。

海のないところには住みたくないと、最近つくづくと思うようになってきた。

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  ディーリアス  「日没の歌」

    Ms:サラ・ウォーカー  Br:トマス・アレン

  エリック・フェンビー指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
                  アンブロージアン・シンガーズ

                    (1986.12.26 @トゥーティング)


今年最後のディーリアスは、物事の終わりに相応しい音楽「日没の歌」を。

この曲に対し、故三浦淳史さんは、「愛の幻滅に寄せる恋する者のレクイエムである」と評しました。
まったく、この音楽のことを言い得てますし、さらに氏の解説にある、セシル・グレイ(英評論家)の言葉、「ポルトガルでいう、サウダード~過ぎ去った日々にたいする、かの忘れがたい悲哀と未練の感」という言葉も、実に味わい深く、そしてこの曲はおろか、ディーリアスの音楽の本質すらもいい得ているように思います。

英国の世紀末頃の詩人、アーネスト・ダウソンの詩に基づき、1906年に友人グリーグの待つノルウェーで作曲を始め、1908年、グレで完成。
初演はビーチャム。

ソプラノ(メゾ)とバリトン独唱の男女に、合唱という30分ほどの連作歌曲で、8つの部分からなります。

  1.沈みゆく夕陽の歌

  2.微笑みをやめよ、いとしい人よ

  3.淡い琥珀色の陽の光は

  4.果てしない悲しみ

  5.哀しい別離の海のほとり

  6.身よ、いかに木立と

  7.悲しみに暮れていうというのでもなく

  8.長くはつづかない、涙と笑い


これらの8つの詩の冒頭を読むだけで、だいたいのこの曲の雰囲気がつかめると思います。
ソプラノ(メゾ)とバリトンによる連作歌曲といえば、交響曲の体裁を保っているものの、マーラーとツェムリンスキーのものがあります。
大地の歌は同年の1908年、抒情交響曲は1922年。
ディーリアスには、あともうひとつ、「田園詩曲」というソプラノとバリトンによる儚くも美しい作品もあります。

薄幸で短命だったダウソンの甘味なる詩につけたディーリアスの音楽は、それらとはまったく次元が異なり、言葉に即したリアル感や官能、寂寥感は少なく、少し覚めた眼差しで感じる感覚的な音のつらなりであります。
 際立った旋律もなく、浮かんではすぐに消えてゆく、儚いフレーズ。
明滅するような独奏楽器。悔恨を歌う男女に静かに絡み合い、優しく包み込むような微妙なオーケストラ。
わたくしは、こんなディーリアス独特のいつしか心にまといついてきて、でもあとにはなにも残さずに消え去ってしまう密やかさが好きなのです。

なかでも泣けるのは、4のソプラノによる哀歌。
あまりに美しく哀しいその音楽。
明日、別れるのだからせめて・・・明日を忘れましょう・・・と歌います。

そして最後、あらゆる人生の儚さと、その慰めを歌う。

 They are not long, the weeping and the laughter,

 Love and desire and hate


 I think they have no portion in us after

 We pass the gate.

 They are not long,the days of wine and roses:

 Out of misty dream our path emerges for a while,

 Then closes within a deam, within a dream



  長くはつづかない、涙と笑い、

  愛と、望みと、憎しみ

  これらも、あお門を行き過ぎると

  われらの心に跡形も残らない

  葡萄酒と薔薇の日々も、そう長くは続かない

  霧立ち込める夢の中から、我らが道はふとあらわれ、

  また隠れる、夢、まぼろしのうちに・・・・・

                 (三浦淳史訳)


最後は、静かに、静かに、消え入るように音楽は夕陽が沈み、あたりが静寂につつまれるように終わります。

私は、この音楽を、毎度お話する、EMIのレコードで知り、海や山に沈む夕陽とかさね合わせてずっと聴いてきました。
もう30年以上にもなります。
物事には、終わりがあること。
そして、そのあとには、また違う道や出会いがあること。
そんな流転を、悔恨とあらたな思いでもって、これまで何度も経てきました。
この先も、まだ生きてゆくとすればきっと、何度か訪れる感情でありましょう。

そんなとき、いつもディーリアスの音楽が、かたわらにあって欲しいと思います。

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2012年12月29日 (土)

ディーリアス 「告別の歌」 ヒコックス指揮

Mikimoto_winter

古木を利用した、まるで大海をゆく鯨かシャチのようなモニュメント。

クリスマス期間に撮ったものです。

Mikimoto_winter_2

クリスタルな結晶がとてもうまくできてます。

冷たいけど暖かい。

そして海の波と自然、冬を思わせます。

日本人的な感覚を感じました。

Derius_hichkox

  ディーリアス   「告別の歌」

              ~Songs of Farewell

      リチャード・ヒコックス指揮 ボーンマス交響楽団
                       ボーンマス交響合唱団

                     (1993.2 @プール)


ディーリアス・イヤーだった今年(1862~1934)だが、際立った企画や新譜はなかったように思う。
EMIが、ディーリアスのボックスを出したようだが、ほぼすべて持ってるし、なによりもあんな格安に、自身のレーベルの宝を安売りすることはないだろうに、と思っていた。
しかも、和訳のテキストがなくては、その面白みは半減。

レコード時代末期、ターナーの茫洋たる水彩画をジャケットにしたディーリアス・シリーズがそのもとになっているのですが、そこでは、英国音楽、ことにディーリアスの守護神のような三浦淳史さんの名解説が付されていて、その詩的かつ思い入れの豊かな文章は、いまでも、私のディーリアスを始めとする英国音楽の印象として、忘れがたいものの数々です。

ディーリアスの体系的な録音の流れは、まずはそのEMIに始まって、いまはナクソスとシャンドスのふたつのレーベルのものにある。
ヒコックスの死により途絶えたかにみえたそのシリーズは、アンドリュー・デイヴィスがしっかりと後を継ぎ、実は今年も何種か出ているが、気になりつつも購入はできない状況なんです。
英国系のレーベルの初盤は高額ですからね。

1925年頃から四肢の麻痺や失明に冒されていたディーリアスが、晩年にさしかかった、1930年、弟子のフェンビーの助力もありつつ完成した。
ディーリアスの境遇に感化し、半ばボランティアのように、そして全霊でもってつくしたエリック・フェンビーは、師ディーリアスの口述を受けて、師の思いを音符に残していった。
わたしたちが、ディーリアスの音楽を万遍なく聴けるのはフェンビーあってのものなのです。

ディーリアスが若いときからずっと読み愛した、ホイットマンの「草の葉」をテキストにしております。

以下、手抜きですが、以前の記事をそのまま貼ります。
あの頃も今も、同じ思いですから。

 1.黙って過去をたどっていくことの楽しさよ・・・。

 2.何か大きなクチバシの上にいるかのようにたたずんで。

 3.君たちのところへ渡っていこう。

 4.喜べ、同舟の仲間よ!

 5.さあ、岸辺に別れを・・・・・。

いずれも、静的でしみじみとした雰囲気をたたえ、オーケストラはディーリアスらしい、儚くもいじらしい背景づくり。フォルテやアレグロの場面も少なく、起伏も少ない音楽だが、合唱に励まされるようにして18分あまりの全曲を一気に聴いてしまう。

海が大好きだったディーリアスは、晩年失明し四肢が麻痺しても、海の雰囲気を味わう場所に出かけたらしい。

この曲の主役も実は寄せては帰す「海」ではなかろうか?

終曲の弦の海のうねりのような繰返しの音形が、徐々になだらかになり、その上に、合唱が「Depart・・・・」と歌いつつ静かに曲を閉じる。

ディーリアスが海に心を託した、「人生への告別の歌」であろう。

海の見える窓から、夕日を眺めながら楚々と聴いてみたい。

ヒコックスのかっちりとした音楽造りは、ディーリアスにはどうかと思われたものですが、こうして残された演奏家らは、なによりも合唱・歌に対する愛情と細やかな手作り感を思わせる点で、際立っていると思いました。
もっと多くを聴きたかったヒコックスの指揮です。

今年もあと2日です。

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交響曲第1番コンサート 行きます!

Ichou

頑張ってた都内の銀杏もすっかり散ってしまいました。

クリスマスムードも、一夜で年末年始モードに大変換。

早すぎないか、慌ただしいじゃないか。

そして、少し前ですがゲットしました!

12月13日、それは、交響曲第1番の東京全曲初演のコンサート・チケット発売日。

Ticket

10時の発売にあわせて、パソコンの前でじっと待っておりました。
そしてすぐにクリック、クリック。
思いのほか難なく手配できました。

東京でのこの曲のコンサートは、3年ぶり。

高まる評価と熱い激賞。

そのひとつのピークを迎える大友直人さんの指揮による全曲演奏です。

いまからドキドキします。

そして、思えば昨年の3月21日に、被災地の方から頂いたコメントがすべての始まりでした。

あの時のコメントで、佐村河内さんの音楽のことをお知らせいただかなければ、きっとまだ私は斜に構えて、その素晴らしい音楽を聴くこともなく過ごしていたかもしれません。
本当に感謝しております。

コメントの中に、大友さんと東響の大ファンとありました。
今度の演奏会は、残念ながら東響でなく、日本フィルですが、聴きにいらっしゃるのでしょうか?
かの地でご苦労されていらっしゃるかもしれませんが、直にお会いしてお礼申し上げたいです。心からそう思ってます。
2枚目のCD「シャコンヌ」も、その後何度も聴いております。
最近では、弦楽四重奏曲がとても心に響きます。

是非とも、ご連絡をいただければと思います。
(左上のプロフィールをクリックいただくと、わたくしへのメール先がございます)

来年は新たなCDが出るかもしれませんね。
佐村河内さんの体調も祈りつつ、創作活動をかげながら応援してまいりたいと存じます。

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2012年12月28日 (金)

ラヴェル マ・メール・ロア ブーレーズ指揮

Yurakucho20121227

有楽町駅前の交通会館周辺は、まだご覧の通り、クリスマスしてございましたよ。

ワタクシ、ウレシイデス。

Yurakucho20121227_a

馬しょった「豆しば」がそこに。

有馬記念までのカウントダウンだそうで、それも「豆し馬」だそうな。

アベノミクスで何故か元気になった雰囲気が漂う街。

でもそうじゃないんだろーな・・・・。

今宵は、いい夢みたくてこんな曲。

Ravel_boulez

 ラヴェル  バレエ音楽「マ・メール・ロア」

   ピエール・ブーレーズ指揮 ニューヨーク・フルハーモニック

                      (1974.@NY)


ラヴェルの作り上げた、音楽のおとぎ話。

ピアノ連弾版の原曲が1908~10年、オーケストラ版が1912年。

前回のバックスの作品と同じ頃の、英仏での創作。

ドイツ・オーストリーではマーラーが亡くなってしまい、新ウィーン楽派が表現主義音楽で走っていた頃。
ちょいと調べたら、この年、タイタニックが沈没、日本では明治天皇が崩御、大正時代の元年でした。

ともかく、過去の歴史はダイナミックで、いまある私たちの日々は、未来、どのように評価されるのでしょうか?
ばかだなぁ~なんて孫子(まごこ)に言われないようにしなくちゃ。

この曲は、ピアノ版をそのままオケ編成にした組曲版より、そこに前奏曲・間奏曲・紡ぎ車の踊りなどをあらたに加えた全曲版の方をこそお薦めしたいです。

大人の音による童話ともいうべきラヴェルの優しいタッチと、精緻なる筆致により生まれた柔和で夢見心地な世界。
聴いてる、わたしたちも、日々の不満や不安をいっとき忘れ、ホワ~ンとした心地と、そんなお顔になります。
オーケストラのみなさんも、きっと優しいタッチでの演奏に心がけ、柔らかなお顔になっているのでしょう。
指揮者も、それこそ指揮棒を持たず、5つの指を微妙に駆使しつつ、ともかく優しく優しく、首なども傾けつつ指揮するのでしょう。

そんな理想的なイメージの演奏を、かつて小澤さんと新日フィルで聴きました。
誰でも思い浮かぶとおりの、そのお姿にございますよ。

で、今日のブーレーズの指揮は、そのイメージからすると、冷徹無比のお顔で、表情なし、よけいな動作もなし。指揮棒なしだけど、拍子以外はなし。
おとぎ話とは無縁のオッサンに思われがちだけど、これがどうして、スンバらしいんです。

ベルリン・フィルとの再録音は、ことごこく聴いたことがないけれど、CBS時代のアメリカ録音は、そのどれもが好きです。
ことに、このレコード。
ニューヨーク時代全盛期の録音で、その万華鏡みたいなジャケットの裏には、微笑むブーレーズの写真がありました。
あの頃、とかく冷たいお人のイメージがあったブーレーズも、鬘を装着し、微笑む人になっていったのです。
そんな外面はともかく、クリーヴランドとニューヨークとのラヴェルは、オケの機能を美的なまでに引き出し、触れると熱い、鋼鉄のようなサウンドを聴かせてくれました。
このレコードは、ラ・ヴァルスと古風なメヌエットもカップリングされていて、そのどちらも、わたくしは、それらの演奏のアバドとならぶ最高のものと思っております。

クリュイタンスやアンセルメが、いい意味で持っていた、フランス風な甘いタッチは、ときに弛緩するオケがそこにあったりしました。
それは実は味わいになるのですが、ブーレーズは、そんな曖昧な情緒は許すわけがありませぬ。
きっぱり、きっちり、ラヴェルの持つ鏡のような透明で冷たい音楽、それがおのずと暖かく響くさまを、あきれるくらい見事に描ききってみせたのです。
ここでの夢の数々は、リアルすぎて、次の朝も鮮明に思い出せそうなくらいに明確です。
しかし、そこが美しい。
さらに、「妖精の園」における感動の盛り上げも、胸が熱くなるほどの巧みさで、あんなそしらぬ顔して振ってるくせに、けっこう盛り上げ上手なブーレーズに感心することになるんです。

というわけで、高校時代に買ったレコードを思いだしつつ、CD復刻盤を聴いた今夜でございます。
さぁ、いい夢見ようっと!

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2012年12月27日 (木)

バックス クリスマス・イブ トムソン指揮

Times_1

まだクリスマスしてますよ、わたくしは。

日本の商業主義的には、25日が過ぎると何事もなかったかのように街は変わってしまいますが。

こちらは、シーズン中の新宿の高島屋前のツリーです。

ふわふわのレースのような生地につつまれた色の変幻するツリーでした。

Thomson_bax1

  バックス  「クリスマス・イヴ」

    ブライデン・トムソン指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
        
                       (1986.3 @ロンドン トゥーティング)


サー・アーノルド・バックス(1883~1953)。
ロンドン生まれながら、ケルトに大いに感化され、さながらイングランドから北の作曲家のような存在であり続けたバックス。

当時のイケメンかつ、浮名を流すような優男だったりしたバックスさま。

バックスの音楽は、だいたいにおいてパターンがあるし、特徴もややこしくないので、耳になじみやすいものです。

タイトルのクリスマス・イヴがあるような表題的な音楽ではなくて、バックスが憧れ、好んで訪れたアイルランドのダブリンの夜の輝く星を見てインスパイアされたものとされます。
海に面したGleann na smol howthあたりではないかと思われます。

茫洋たる雰囲気のもとに始まる18分くらいの音楽ですが、やがて懐かしい気配が漂ってきてとても旋律的でいい感じになります。
このあたりのバックスのしみじみ系の要素は、彼の音楽のすべてに共通しておりますから、一度それらを味わってしまうと、シャープなイメージのバックスも、とても親しく感じられ好きになってしまうのです。
トランペットの優しいソロに、それを引き継ぐ涼やかな木管、そしてヴィブラフォンの音色も夜のしじまに輝く星々を思わせます。

そして注目すべきは、グレゴリオ聖歌の「クレド(われ信じる)」の旋律が引用されていること。
後半には重厚ながら暖かみあふれうオルガンが入ってきて、輝かしくも神々しい様相となり光彩陸離たる眩しさを放ち、感動的に終了します。
いい曲です。

1912年に作曲され、その1年以上あとに初演。
ところがバックス生前は、一度も演奏されることがなかった。
そのリバイバルは、1979年にケンジントン交響楽団が行っていると解説にありました。

ブライデン・トムソンの男気あふれるバックスの一連の演奏には、どこか大自然、それも潮の香りさえ感じさせるローカルなよさがあふれております。

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2012年12月25日 (火)

ルネ・コロ クリスマス

Hills_1

今年、いろんな街で見たなかで、等身大で捨てがたい魅力を持ったツリーです。

ツリー評論家(?)としては、大きくなくとも、少々華美で輝かしいものが好き。

そして色合いは、近年のブルーやグリーン系のものもいいが、暖かな暖色系がいい。

こちらは、その背景がエルサレムの土や壁を思わせる茶系で、照明も白昼暖色。

Hills_3

さらにもう一枚。

ツリーと並んで、リースも美しいですね。

意外と気づかないかもしれませんが、リースは年中飾られてます。

でも、この冬のシーズンの夢見るような美しさは随一でして、商業施設でのこれらの飾りの行方ってどうなるんだろうと、いつも思ってますよ。

そう、欲しいんですよ!

Kollo_christomas

  ルネ・コロ ヨーロッパのクリスマスを歌う

      テノール:ルネ・コロ

    ジークフリート・ケラー指揮ダラウンケ交響楽団
     
                      (1978.6 @ミュンヘン)


不世出のヘルデン・テノールのひとり、「ルネ・コロ」。

ワーグナー好きは、必ずそのタイトルロールが英雄的テノールなものだから、それらを歌えるテノール歌手が好きになるんだ。

毎度、自身の年代を基準に申しますが、わたしのワーグナー・テノールは、ヴィントガッセンに始まり、やはりヴィイントガッセンに終るわけなのですが、その後継者の数人までが、恥ずかしながら今にいたるまでのヘルデンの需要歴なのです。

それは、J・キング、J・トーマス、J・コックスの先輩J軍団。
コロを筆頭として、P・ホフマン、J・イェルザレムの次世代巨頭。

80年代後半以降の、彼らの次の世代たちは、正直いって、個々にはすぐに名前が思い浮かびません。

実際に、実演もCDもDVDも経験してても、その名前が脳裡に残らないのです。

それに比して、ルネ・コロの強烈な個性といったらどうでしょう。

祖父・父がベルリンのオペレッタの作曲家。
ウィーンとも違う、少し硬派な甘味でシニカルなベルリン・オペレッタ。

オペレッタまで、硬軟巧みに歌いまくるR・コロの背景には、そんな環境があるのでした。

トリスタンやジークフリートを歌うテノールが、クリスマスにまつわる伝統的な音楽や、オペラの音楽シーンを軽やかに、そして豊饒な歌声で歌いまくるこの1枚。
1987年に発売以来15年間、クリスマスには必ず聴くCDとなっております。

ドイツのクリスマスは、どこか素朴で、暖炉ばたで、ろうそくの火を家族みんなで囲む、そんな暖かいイメージがあります。
アドベントは、クリスマス4週間前の日曜から、1本ずつ、ろうそくをともしてゆき、クリスマスの日に4本目が灯る。
そしてモミの木のツリーの風習も、ドイツから広まっていった。
きっと、クリスマスを祝う人々は、音楽や歌でもって厳粛かつ親密な雰囲気を楽しんだのでしょう。
数々のクリスマスの歌がドイツやオーストリアから生まれてます。
その代表は近世では「清しこの夜」ですよ。

そのグルーバー作の名曲も、ここではコロの暖かな歌声でもって味わえます。
CDの冒頭は、ミュンヘンのフラウエン教会の鐘の音が鳴り響きます。
次いで、古謡「こよなく美しく鐘は鳴る」が、静かに心に沁みるように歌われます。

全19曲をここでは紹介できませんが、ビゼーの「神の子羊」、プッチーニ「ラ・ボエーム」、モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」、バッハ=グノー「アヴェ・マリア」などの本格クラシカルから、古謡や有名どころのクリスマスソングがたっぷりと、R・コロの美声でもって味わえるわけです。
おまけに、コロの自作のポップな作品までチョイスされてます。
最後には、こんどはベルリンのグリューネバルト教会の鐘でもって厳かにこのCDは終わります。

テノール歌手のなかで、R・コロが一番好きであります。
来日のたび、ほとんどを聴くことができました。
タンホイザー、ヴァルター、ジークフリート、パルシファル、詩人の恋。
惜しむらくはトリスタンを聴きもらしたこと。

今宵は葡萄酒も効きます。
ほどよい酩酊で、甘くて真摯なR・コロの歌声がとても気持ち良く響いております。

みなさま、メリー・クリスマスです

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2012年12月24日 (月)

安らかなるにゃんにゃん

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みなさま、メリー・クリスマス。

全国的に寒いですが、お風邪など召しませんように。

もしかしたら、今年最後の「にゃんにゃんシリーズ」。

こちらは、置物なんです。

ヒルズのにゃんこペットショップの入口に座ってました。

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あったかそうな豪華なネコベッドにございますな。

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さみ~ぃ、顔まで丸く入っちゃってる。

かわゆいのぉ~

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だらんと垂らした足。

のんきでいいですなぁ。

こんな風に、心配もなく、安らかに寝てみたいもんですよ。

静かなイヴをどうぞ

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2012年12月23日 (日)

ベートーヴェン 「フィデリオ」 ベーム指揮

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樅の木の匂いも好きです。

大好きクリスマスツリーです。

1年の一時しか楽しめないのが残念でなりませんよ。

でも今日は、クリスマスとは関係ない音楽を。

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  ベートーヴェン  歌劇「フィデリオ」

   レオノーレ:グィネス・ジョーンズ フロレスタン:ジェイムズ・キング
   ドン・フェルナンド:マッティ・タルヴェラ ドン・ピツァロ:グスタフ・ナイトリンガー
   ロッコ:ヨーゼフ・グラインドル   マルツェリーネ:オリヴィア・ミランコヴィッチ
   ヤキーノ:ドナルド・グローベ    第一の囚人:バリー・マクダニエル
   第2の囚人:マンフレッド・レェール

    カール・ベーム指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団/合唱団

         演出:グスタフ・ルドルフ・ゼルナー

                  (1969、70 ベルリン)


ベートーヴェン唯一のオペラ「フィデリオ」は、わたくしはどうにも苦手でして、驚くべきことに、その音源をレコード時代からいまに至るまで所有しておりませんでした。
その音源をたどると、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ベーム、カラヤン、バーンスタイン、ショルティ、ハイティンク、デイヴィス、アバド、ラトル・・・・・綺羅星のごとくの指揮者たちがその録音を、そのときの名歌手たちを起用して残しております。

それらをひとつも持ってません。
これまでは、FM放送のエアチェック音源で聴いてきましたから、曲の隅々まで把握はしております。ベームのバイエルン国立劇場の上演ライブです。

何故?といわれてもなかなか答えられませんが、モーツァルトのオペラにある人間の心の機微を照らし出したような万華鏡のような先天性、ワーグナーの劇的かつ有無をも言わせぬ壮大な総合劇音楽。でもベートーヴェンのオペラには、そうした力が欠けているように常に思ってました。

新国立劇場での上演も体験しましたが、妙に浮ついてしまった演出が歯切れ悪くて、上記の印象をやはり払拭できません。
そこで投入したのが映像によるオペラ映画としてのベーム盤。
購入3年目にして、ようやく視聴いたしました。

1

懐かしいベームの指揮姿、名歌手たち、それもワーグナー・メンバーの見事な歌唱、リアルで余計な解釈のない演出。
これらがわたくしの「フィデリオ」苦手を変えてくれるか?

そう、結果は上々でした。

これならいいかもです。

2

美しいソロや重唱、劇的なアリアなどが引き立つ無難な映像は、40年前のものとは思えないクオリティで、まるで夫婦愛を唱和するかのようなオラトリオのような「フィデリオ」を楽しむ最良の在り方のように思いました。
CDだと台詞が苦痛だし、当時の因習としての番号オペラの繋ぎと場面の居座りの悪さ、そのあたりがテレビドラマを見るようなこの映像作品では緩和して感じたのです。

初版から最終版まで、9年をかけて、3度も造り直した苦心のオペラだけれど、ベートーヴェンはオペラの世界では、革新性も幕開けも切り開くことができなかった。
でも、いまではそれもベートーヴェンと、納得して微笑ましく、このオペラが持つ素敵なアリアや重唱を楽しむとします。
それと、レオノーレ序曲第3番の挿入は、そのあとがあっけない幕切れだけに、かえって劇性を弱めるものとして不要に思えます。

5

でも、この物語はかなり無理とありえない理想とがありますな。
女性が男装して、娘の許嫁にまでされちゃうという無理。
ちょっと触ればバレますがな。
夫を埋める穴掘り作業についてきて、早く手伝えといわれても、なかなかやらないレオノーレ。しかも女性にゃ、そんな重労働はムリだよな。
極めつけは、悪漢ドン・ピツァロが刃を向け、そこに躍り出たレオノーレ。ピストルを手にしていながら、相手は手ごわい悪代官。そこに偶然、というかあまりのタイミングのよさでもって来訪する正義の味方の大臣さま。でも、ここでの緊迫感と鳴り渡るトランペットの劇的な効果。これは実にすばらしいです。
とってつけたような賛美の合唱によるフィナーレ。。。。
でもこれらを受け入れて真摯にベートーヴェンを聴いていこう。

厳しい眼差しのベームが繰り広げる劇的かつ緊張感の高い指揮によって、この映像はピシリと一本筋が通ってます。

4

若いデイム・ジョーンズの声の張りとその清々しさ。
キングのフロレスタンは、数あるヘルデンによるフロレスタンのなかで最高。

3

わたしにとっての「ザ・アルベリヒ」、ナイトリンガーの貴重な映像ははまり役。
グラインドルもタルヴェラも、いずれも懐かしい60年代バイロイトの充実期を担った人たち。

なんだかんで楽みました「フィデリオ」。
晴れて、アバドのCDを購入してみようか!

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 過去記事

  「新国立劇場 上演 2006年」

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2012年12月21日 (金)

ベートーヴェン レオノーレ&フィデリオ アバド指揮

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週末を迎えたけれど、マヤの例の終末は来ませんね。

かの大陸では大騒ぎじゃありませんか。

こちらは、華美かもしれませんがね、新宿テラスシティのイルミネーション。

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こちらが、テラスシティの駅西口側の入り口。

右手は京王デパート、左手が小田急百貨店のミロードで、そのどちらも数千億レベルの年商が。
加えて東口の伊勢丹や三越あとの店舗も考えると、新宿という街の異常な消費レヴェルが。
さらには、ほかにもこんな街がいくつもある東京&首都圏の突出ぶりと各地の対比の無情さは、いかんともしがたいものがあります。

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  ベートーヴェン  レオノーレ序曲第1番~3番

             フィデリオ序曲


   クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                      (1986、89 ウィーン)


普段やたらと聴くことの多い「レオノーレ序曲第3番」。

第9の前置きに、オーケストラのコンサートの前半の曲目に、そして外来オーケストラのアンコール曲、さらには、歌劇「フィデリオ」の劇中音楽として。

最後のオペラ劇中音楽は、多分に因習的な扱われ方があって、それがかつては輝かしい効果を生んでいたものですが、いまや、そんな悠長な扱われ方はなくなってしまった。
劇的な序曲であるはずの第3番の効果が、オペラの中で、しかも、最大のクライマックス、妻が夫を身を呈して守り、そこに正義の味方登場のファンファーレが響く・・・・という場面での挿入。

劇的な緊張感のピークでのこの大序曲の挿入は、やはり場違いとしかいいようがない。
というのが現在の定説でしょうか。

ベートーヴェン唯一のオペラ「フィデリオ」には、苦心の作に相応しく、4つの序曲が作曲されております。
最終的に妻の男名「フィデリオ」のタイトルどおりの序曲。
その前の、妻の名、「レオノーレ」とタイトルされる3つの序曲。

その作曲順番も、その番号どおりでなくって、不評をかこったオペラの序曲としてそれを払拭しようと次々と書いたのは、2番→3番→1番→フィデリオ。

という微妙な順番となります。

1804年から1814年の10年の年月で、いくつかの推敲をもとに書かれたオペラにそれぞれ付随するはずだった序曲たちなのです。

勢いと、シンプルな劇性が顕著な、いまあるオペラの「フィデリオ」序曲。
それとの対比でいうと、ほかの3つの堂々たる序曲3兄弟は、オペラの序曲とすると、かなり異質に感じます。
序曲に、ベートーヴェンの専売特許みたいな「明→暗」を凝縮してしまった感のある3つの作品は、正直、回りくどいものを感じます。
オペラの中の旋律が、ここでは先取りされていたりして、それを知って聴くと、また趣きが違うのですが、3番あたりの大きな規模の大序曲は、オペラの序曲や、間奏的な場つなぎとしても、やはり異質で、それそのものの単品として存在できる音楽であります。

アバドの指揮によって集中的に録音された序曲集。

CDでは、2枚目がそっくり序曲4曲が収められおりまして、連続しての聴き方がずっとお馴染みでありました。
1番と2番を聴かされて、それが何の曲か?と言われても答えられないです。
ですが、聴きなじんだ旋律やリズムが終始恥ずかしげもなく出てきますので、すぐさま、レオノーレ&フィデリオ関係と察することが出来るのです。

一番演奏されない、それこそ1番が、今回、熱い音楽に感じとれましたね。

こんなに序曲に苦労したのに、本題のオペラの方は、モーツァルトのような成功を勝ちえなかったところがベートーヴェンらしいところでしょうか。
あんまりにも、真面目すぎて・・・・・。

それにしても、壮年期アバドの流麗かつパンチの効いたウィーンとのベートーヴェンは素晴らしいです!惚れぼれしますよ!
そして、あれですな、わたしらの世代で、「レオノーレ」と言ったら、ベームの来日公演の、あの火の玉のような烈火あふれる演奏でございましょうな!

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2012年12月19日 (水)

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」 ポリーニ

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六本木ヒルズ内のイルミネーション。

こういう暖かいシンプルなのがいい。

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 ベートーヴェン ピアノソナタ第29番 変ロ長調 「ハンマークラヴィーア」

           マウリツィオ・ポリーニ

                    (1977.1,6@ウィーン、ミュンヘン)


なんという大きな作品でしょうか。

規模いう点での大きさという意味でもさることながら、音楽の持つ内容が大きすぎる。

今回のポリーニの演奏時間がほぼ44分。
ロマン派のピアノソナタでは一、二を競うの長大ぶり。
そして、その音楽の持つ堅固さと、深遠さでは、おそらくピアノ・ソナタではナンバーワンかもしれません。

わたくしのような、腰の座らない聴き方では、とうてい捉えきれない音楽なのです。

ですから、不遜にも、この音楽を語ろうということはできません。

スヌーピーの漫画、ピーナッツの登場人物のなかに、シュレーダーという、いかにもドイツ系の男の子がいました。
彼は、子供のおもちゃピアノをいつも体を屈めるようにして弾いていて、そんな彼をルーシーは大好きだった訳だったけれど、そのシュレーダー君が私淑していたのがベートーヴェン。
アニメ版では、ベートーヴェンのピアノソナタを始終弾いていて、それらのなかの一曲が「ハンマークラヴィーア」の第1楽章だったと記憶します。

漫画の世界だからこそですが、おおよそピアノに携わる方々の大いなる指標のひとつが、この「ハンマークラヴィーア」ソナタ。
交響曲のピアノ版ともいえるくらいに、威容を持ってそびえ立つその音楽の中心ともいえる核心部分が、緩徐楽章たる第3楽章でありましょう。

約20分もの長尺で、終始アダージョで、底知れぬ深みを持って、沈思黙考したような音楽なのです。
でも、そこには暗さや、寂しさ、危うい情熱や強さもありません。
静かな湖面をたたえる静寂の湖のようなイメージを思い浮かべてください。
生き物や植物、いや万物の存在をそこに感じますが、一切見えません。
透明感あふれるその景色のみが静かに心に語りかけてくる感があるんです。

「何もないけど、あふれてる」~「明鏡止水」

ベートーヴェンが到達した境地なのでしょうか。
不思議と、微笑みと明朗さも感じます。

こんな音楽も、わが人生の永久の手向けに相応しい一曲かもしれないと、つらつらと思う寒い一夜です。

 かのシュレーダー君が弾いた快活なる1楽章。
スケルツォ楽章に徹しながらも、実は次の3楽章があるので難しそうな2楽章。
さらに終楽章は、前の楽章の雰囲気を引きずりながら、フーガの形式を整えてゆく巧みの音楽。技巧的にもこれは相当なものではないでしょうか。

4つの楽章が、それぞれに硬軟・易難とりまぜつつ存在しあう大音楽、それが29番のソナタでした。

かつて、ゼルキンのCBS盤をFM録音してずっと聴いていたけれど、ポリーニが3枚組のLPでいきなり世に問うた後期ソナタ集。
そのなかでも、29番「ハンマークラヴィーア」は圧倒的なくらいに完璧。
あの時代特有の硬質かつ強靱な打鍵に裏打ちされた、表現の幅の驚異の広さ。
さらに、そこに漂う明度の高い透明感。
いまでも素晴らしく感じます。

でも、この音楽に共感し、理解してゆくには、わたくしなんぞ、まだまだ未熟であります。

深いです。

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2012年12月17日 (月)

感じる視線~いぬ

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某パーキングにて、車を止めて施錠したところ感じた視線。

その先には、ご主人を待つワンコが。

服着てます。運転はできません。免許持ってません。

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アップにするとこんなカワユイお顔。

犬もエエのう~

特に、シバには癒されるわ。

親戚の家で、もうだいぶ前にシバ犬を飼いました。
そりゃもう、可愛いもので、そんな彼に会うのが楽しみでしょうがなかった。
伯父がいたくかわいがり、お散歩も毎日一緒だった。
 その伯父が体調を壊し入院してしまい、そのまま亡くなってしまった。
亡くなったその日に、シバは紐を食いちぎって、どこかへ姿を消してしまいました。
キツネに抓まれたような話ですが、ほんとうです。

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もうひとワンコ。

ある家のガーレージの上から感じた視線。

思わず、笑ってしまう真っすぐすぎるその視線と、シルエット。

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このワンコ君も、ご主人の帰りを待ちつつ、見張り中なのでしょうね。

忠実な友、いや、家族のワンコたちなのでしたぁ~

(たまには犬もいいでしょ

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2012年12月16日 (日)

神奈川フィルハーモニー第9演奏会 金聖響指揮

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小田原城。

雨だし、ライトアップもなかったので、実は、少し前の画像です。

本日は、神奈川フィルハーモニーの年末第9、小田原公演でした。

行ってきましたよ、小田原。

というか、帰ったという感じ。

Kanaphill_sym9_2012

   ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調

       S:高橋 薫子    Ms:鳥木 弥生
       T:中鉢  聡     Br:堀内 康雄

    金 聖響指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
              神奈川フィルハーモニー合唱団
              合唱音楽監督:近藤 政伸
              合唱音楽監督代行:大久保 光哉

                 (2012.12.15 小田原市民会館)


少し出遅れてしまい、小田原に着いて、ビールを飲んで食事して、あわてて市民会館に。
あいにくの雨ですが、少し変わってしまった城下町の風情は悪くない。

楽員さんたちは、併設の会館が控室。
歩いて数歩のホールは、猫の額のようなロビー。
トイレに行って、お勝手応援なかまのスリーパーさんとご挨拶して、即ホール。

何十年ぶりで見るホール。
よく見たら、NHKホールをミニチュアにしたみたい。
本拠地と同じく、拍手に迎えられて楽員の皆さん入場。

ほどなく始まった第1楽章。
慎重な手さぐり的な出だしは、この曲の実演特有ですが、とりわけ感じるこの日。
やはり、デッドな、そしてコンパクトな響きは、いわゆる市民会館ならでは。

でもさすがは神奈川フィル。すぐに、音楽は立ち上がり、第9の1楽章ならではの緊迫感を立ち上げておりました。
テンポはゆったりめ。
大きな歩みを根ざしているような演奏の雰囲気。

うむ。
これまで、このコンビの第9は、最初の2009、2010と聴き、2011は聴かず今年。
全部が全部違うじゃないか。
無味乾燥、疾走しながら失速するという味気ない2009。
少しばかり、オケの個性が垣間見えてきた2010。
1年のブランクを置いて今年。

テンポにおいては、これまでで一番緩やか。
もちろん、それは普通という意味で。

いつにも増して石田コンマスのリードする神奈川フィルの美点は随所に際立ちました。
2楽章スケルツォでは、各セクションのソロが冴えまくり、オーボエ氏、ホルン氏・ホルン女子、ティンパニ氏の活躍が目立ちました。

わたしの近時好きな第3楽章では、神奈川フィルの弦の魅力が全開になるかと思ったら、以外にかつての乾燥ぎみの音に聴こえてしまったのはホールのせいでしょうか。
それとも・・・・・、(あとで書きます~汗)

そして、終楽章。
結構、まともにオーソドックスに進みます。
チェロとコンバスによる、最初の歓喜の歌は、驚くほど音を抑えて演奏しました。
そこから楽器を増して、クレッシェンドしてゆくさまの効果を劇的に狙ったのでしょうか。
しかし、わたくしは・・・・・汗
堀内さんは、ワーグナーでもおなじみのバリトン。
すばらしくはりとコクのある第一声をとどろかせてました。
ソロと合唱が入ると、やはりホールは鳴り始めます。
圧巻でした。そして、刈り込んだ合唱の数もほど良かったです。
ソロでは、あと私の好きな高橋さん。リリコとしてオペラに欠かせない存在となりました。

後半は、大見さんのピッコロ、最後まで大活躍。
しかし、わたしは・・・・・。
で、いよいよの大団円は、これまで、じっくりとした第9を創出してきた聖響が、猛然たるアッチェランドとトランペットの強奏、強音の鮮やかなエンディング。
さすがのツライわたしも、びっくりこいた。
終ったら、市民会館の観客も拍手できず、しばしの間が、なんと第9で起きてしまった。

聖響さん、くねくねから転じて、最後はバシバシ音を切るような指揮ぶりでしたな。

あんまり驚かさないでよ。

漏らしちゃうじゃないか!

え?

ということで、遅いお昼に飲んだビールと、お茶が完全に災いして、2楽章の終わりごろから、もよおしてきてしまったワタクシなんです。
やばいなぁ、と思いつつ、そのやばいは、よりによってゆったりとした3楽章で、マズイになり、終楽章は、なんだよ、もっと早くやってよ、よりによって、いつもの聖響と違うじゃねーか、とか、心の中でブツクサいいながら何とか最後まで耐え抜いたのでございます。

石田コンマスの終わりの相図と挨拶に、大いなる拍手をお送りして、即時、席をたち、あわてて駆け込むわたくし。
出たら、楽団専務理事が、ありがとうございました・・・とご丁寧にご挨拶いただきましたが、こちとらそろでころじゃありませんで、すんません。
はぁ。。。。。

ということで、気が気じゃない第9になっちまいました。

あと、びっくりしたのは、合唱指揮者の登場。
近藤さんのお休みを守る監督代行さんですが、カーテンコールで出てきたときは驚き。
うしろの席の方が、「あれ、ダレ?」と思わず言ってました。
やたらとポップないでたちの方でした。
でも、二期会会員、北欧系に強い、本格歌手の方のようです。失礼しました。

オケとソロ、合唱には大拍手ですよ。
今日のわたしはともかく、どんなシチュエーションでも、いつもの神奈川フィルの音色を聴かせてくれます。
今年1年、本当に楽しませていただきました。感謝します!


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城下町、小田原は、わたくしが高校時代を過ごした街。

その駅も、いまのように高架化されてなくて、地下通路を通って東西に分かれてました。

もともと男子校だった城山にある学校。わたしの当時では、女子も入学しはじめて、男子のみのクラスと女子がいるクラスが混在したりもしましたが、いまでは市内の有名女子高と合併してしまい、完全共学に。

市内に2か所あった、わたしのレコード購入場所。
いずれもなくなってしまった。
とりわけ、本通にあった「名曲堂」はどうしただろう。
ベームやアバド、ビートルズのレコードは、みんなそこで買いました。

でも、変わらずに、でもレトロ感とともにあるのが、「小田原市民会館」です。
小田原では、あらたな総合劇場の計画もあり、懐かしい市民会館がいかなることとなるか、気になるところです。
相当の歴史がありますから、構造的にも不安のあるところですが、ミニNHKホール的な造りは、いつまでも記憶にとどめておきたいものです。

高校時代は、高校のオケの楽員としてこの舞台にものりました。
譜面をバラバラと巻物のように落とす失態をおかしたこともありますし、小田原フィルのエキストラで打楽器を担当し、途中見失って感だけで叩くという不遜なことも、このホールでやりました。
そんな市民会館で、神奈川フィルを聴けるということは感慨無量でした。

Odawara_1

すっきりしたあとは、地魚で一杯。

スリーパーさんと、地元ミニ忘年会でした。

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2012年12月14日 (金)

ベートーヴェン ピアノ三重奏曲第5番「幽霊」 カザルス

Shinjyuku2012_b

新宿のタイムズスクエアの七色のアーチです。

みんながここを通り抜けてましたよ。

わたくしは、劇団ひとりなので、横を通過です。

Shinjyuku2012_c

アーチとアーチの間は、七色に色分けされておりました。

Beethoven_piano_trio_casals

   ベートーヴェン ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調 「幽霊」

        Pf:カール・エンゲル

        Vn:シャーンドル・ヴェーグ

        Vc:パブロ・カザルス

                (1961.7 @プラド)


看板に偽りあり、いや、タイトルに偽りありか。

全然、おっかなくないのであります。

第2楽章が不気味だとか、いろんなことが作曲当時に言われて幽霊になっちゃったわけだけど、いまの感覚からすると、その第2楽章は、美しくて抒情的。
ベートーヴェンの緩徐楽章に特有の、たおやかな歌と幻想味にもあふれております。
でも、ちょっと悲しみにも満ちているところが心に響きます。
この楽章は、わたくしとても好きなのです。
ピアノの長い長いトレモロや伴奏系のフレーズにのって、繰り広げる、ヴァイオリンとチェロの歌は、崇高かつ、沈痛の趣きです。
寒い冬に、世を儚みながら、熱燗などを片手に聴いてみたい曲です(なんじゃそれ?)

作品番号70、1808年は、交響曲の第5や6番と同じ頃。
充実の極みです。
快活で、元気のいい1楽章はベートーヴェンならでは。
悲しみの2楽章を挟んで、終楽章も明るく気持ちが解放されます。
これがなかったら、熱燗で悪酔いします。

今宵の演奏は、カザルスのプラド音楽祭でのライブ。
名手たちの熱い交歓は、バランスの悪い録音からでもしっかり伝わってきます。
もう80を超えていたから、ちょっと危ういところもあるけれど、やはりその独特の風格は巨大です。
ヴェーグも構えが大きく、カザルスとの第2楽章は泣かせてくれます。
リートばかりと思っていたエンゲルのピアノがまた慎ましくも、聞かせどころではツボをしっかり押さえてましたね。
ときおり、3人の誰かさんの唸り声が、まるっきり耳元で聴こえるので、ハッとしてしまい、それこそ、幽霊が後ろに・・・・、なんて振り返ったりしましたよ(笑)。
誰? カザルスさん?

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こちらのゴージャスな、画像は、昨夜の忘年会。

ご案内いただいて以来、すっかり虜となった横浜の某焼肉屋さん。

年一回のお楽しみが、忘年会で今年は2度目。

最高に楽しかった、美味しかった

どうもありがとうございました。

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2012年12月12日 (水)

ディーリアス 「そり乗り」冬の夜 ヒコックス指揮

Shinjyuku2012_a

某所のショーウィンドウ。

早くも30%オフが見えますね。

閉店間際のスーパーの値引きは、それをねらう巧みなオヤジとなりました。

クリスマスシーズンのこんなディスプレイが大好き。

値引き商品をあさる一方、いつまでも夢見るオヤジなのでした。

Delius_hikox

  ディーリアス  そり乗り~冬の夜

 リチャード・ヒコックス指揮 ノーザン・シンフォニア・オブ・イングランド

                (1985.9 ニューカスル・アポン・タイン)


ディーリアスのアニバーサリー(生誕150)だった今年も、あと半月あまりを残すのみとなりました。
相次ぐ寒波で、雪の多い地域はさぞかし大変なことと存じます。
こちら関東も連日寒いです。
手袋に、パッチは必須です。

そんなディーリアス・イヤーも、静かな盛り上がりで、あまり大ごとにならなかったのがうれしい。
英国音楽、ことにディーリアスやフィンジは、ひとり静かに、そぉっと聴くのがよろしい。
かくいう私は、ブログで大宣伝をしちゃってるから何ともいえませんが、きっとここで知ることとなった彼らの音楽は、どんな方でも、静かに楽しんでいただいていると思うんです。
これからも、そんな寄り添うように、心のひだにしみ込むような音楽であり続けて欲しいと思います。
英国系の音楽には、こうした嗜好が多くありまして、やはり島国としてのメリハリある季節感や永年の独立性なども、われわれと同じ志向を感じます。

「そり乗り」は、私が中学生のとき、いまを去ること40年近くむかしに、ディーリアスを知ることになるきっかけとなったビーチャムのレコードによって聴いた曲。
その時の思い出は、本ブログ初期の恥ずかしい記事にしたためてあります。 →こちら

この曲は、そのタイトルにあるように、楽しく、そして明るいです。
冬の遊びの楽しみ、そり遊びは、雪国でないわたしのようなものでも、きっと面白いのだろうなと想像できますが、たぶんそんな想像どおりの音楽。
冒頭、鈴がシャンシャンとなり、ピチカートに乗り、軽快なピッコロがその高鳴る喜びの高揚感を演出し、やがて爆発的な歓喜へと音楽は膨らみます!
6分程度の音楽ですが、中間部ではしみじみとした暖炉端の様子をも思わせるような静かな場面もあります。

誰でも、これは素敵って思える冬の音楽のひとつだと思いますね。

20代の若いディーリアス。
実業家の父親に命じられアメリカのプランテーションで修行したものの、音楽への情熱冷めやらず、懇願して留学したライプチヒでの音楽三昧の日々。
北欧旅行もして取りつかれた彼の地の風物。
そしてライプチヒで知り合ったシンディングやグリーグ。
そんな中で生まれた「そり乗り」です。

北国テイスト満載の素晴らしい音楽です。

御本家ビーチャムではなく、今日は4年前の11月23日に亡くなったヒコックスと、80年代手兵のノーザン・シンフォニアで。
明快で、曇りない冬晴れのようなバリッとした演奏でした。

まだまだ、日々いろんなことの起きる12月。

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2012年12月10日 (月)

余裕のにゃんにゃん②


Shiba_neko_a


カラス去りしあと、余裕のくつろぎを見せるにゃんにゃん。

びろ~ん、伸びきっちゃってますよ。

わたしなんぞ、最近、寝ながら伸びをしちゃうと、足つっちゃうんですよね。

Shiba_neko_b

じんわりと接近。

知ってか知らずか、無視を決め込むにゃんこ。

後頭部がカワイイのだ。

Shiba_neko_d

体勢を変えてまた毛繕い。

尻尾太ぇなぁ。

Shiba_neko_e

コンビニ袋ガサガサ音攻撃により、ワタクシの存在に気がつくにゃんこは、こんな顔だ

よし、遊ぼうじゃないか。

写真もたくさん撮らせておくれ。

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と、本腰を入れようとしたら、「ふぁ~ぁ」とあくびをこきながら退席。

しかし、尻尾いいなぁ。

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お~い、待ってくれい。

との声も虚しく、乗ること厳禁をくぐって去ってしまうにゃんこなのでした。

最後まで、余裕かまして動じない、にゃんこなのでした~

カラスも去り、ねこも去り、ひとり寂しく取り残されたワタクシ

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2012年12月 9日 (日)

ジョスカン・デ・プレ アヴェ・マリア ヒリヤード・アンサンブル

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教会に静かに佇むマリア像。

マリア信仰はカトリックのものですが、われわれ日本人にも馴染みやすい。

九州を中心としたキリシタン信者たちも、観音様と混ぜ合わせるようにして、マリア像を拝み、迫害から逃れようとした。
カトリック信仰とまた違った、いわば地キリスト教ともいうべき「カクレキリシタン」。
今年、天草に出張したおり、その足跡をいろいろ見てきました。

こちらは、でも、それと違って関西。以前訪れた、「夙川教会」です。

聖母マリアの象徴、白い百合の花とともに、清楚で心洗われる一角でした。

Josquin

     ジョスカン・デ・プレ  「アヴェ・マリア」

        ヒリヤード・アンサンブル

           (1983.2 @ロンドン テンプル教会)


中世ルネサンス期、いわゆるフランドル楽派の代表的な作曲家、ジョスカン・デ・プレ。

1440~1521年の生没年。

わたくしのブログで、異質に思われるでしょう、この世代とジャンル。

でも実は、相当にはまって聴き込んだ時期があるんです。

レコード時代の終り頃、ハルモニアムンディが大量に1500円の廉価版化。
EMIから、デイヴィット・マンロウのシリーズ。
これらに触発されたのが事実。

同時に、あらゆる音楽ジャンルを貪欲なまでに聴き込んでいこうという意欲的な若い自分がありました。
1980年前後、クラシックでは現代や中世ルネサンス音楽までも、その自分のレパートリーにしていこうという広範な好奇心にあふれていた時期にございます。

そして聴きまくりましたよ、先に紹介のレコードを次々に購入して。

音楽ファンなら、土日に心安くまとめ聴きをしますが、ワーグナーやヴェルディ、マーラーばっかりだったのに、あの当時、土日には、ジャズとルネサンス音楽ばかり。
ご近所でも変だと思ったでしょうね。
(話は違いますが、クラシックばかりを聴いてた少年が、いきなりビートルズを聴きだした中学時代、近所の方がどうしたんですか?なんて親に言ったりする時代でした)

そんな風に、傍から見ても、聴いても、音楽を聴く嗜好は大違いと聴こえるんですね。

いまは、あまり聴くことはなくなってしまいましたが、学生から社会人の頃、レコードからCDに変革してゆく直前。わたしの音楽生活の確かな一時期だったのが、ルネサンス音楽でした。

ジョスカンの音楽は、ともかく抒情的で、ポリフォニーの美しい彩が、シンプルに発し、絹織物のように静やかに織り込まれて、やがて美しい全貌をあらわすような繊細さと秩序に満ちております。

代表的な作品「アヴェ・マリア」は、まさにその典型。

プ・ロカンティオーネ・アンティカの名唱も過去ありましたが、80年代のヒリアード・アンサンブルのものは、さらに厳しい精度を増して、ともかく美しい。

抒情的なモテトをたくさん書いたジョスカンを知ったのは、わたしのブームのちょっと後ですが、いまこうして、豊饒なオーケストラやオペラの合間に聴きと、本当に、心洗われるような澄んだ心境にいざなわれます。

日曜の晩、お酒も飲み終わって、お風呂入ってさっぱりして、さぁ寝ましょうという前に聴くような安らぎの音楽。
マリア様の、言葉発しない優しい眼差しを、温かく感じる音楽です。
美しいです。

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2012年12月 8日 (土)

ベルリオーズ 幻想交響曲 レヴァイン指揮

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12月の浜松町、小便小僧は、お約束のサンタさん。

こころなしか、小便の勢いも盛んです!

山手線のグリーンとも合いますね色合い。

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うしろ姿に、こっちを見つめる方が入ってしまいました。

クリスマスプレゼントも楽しそうな、明るいうしろ姿ですね。

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事件や事故、選挙や海外の問題山積みですが、残る12月は、明るく、いい日々が待ち受けているといいです。

Levine

     ベルリオーズ  幻想交響曲

     ジェイムズ・レヴァイン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                          (1990.2 ベルリン)


12月の月イチ幻想は、レヴァインの指揮で。

ベートーヴェンの交響曲の続きということで見ると、第9は1824年。
シューベルトは同時期に活動中だったから、未完成はその前の1822年。
「ザ・グレイト」は、1828年です。

そして、われらがベルリオーズ氏は、1827年、女優スミスソンを見染めて恋い焦がれ、音楽を着想し、1830年に完成させたのが「幻想交響曲」。

ドイツオペラでは、ロマン派の初期を切り開いたとして学校で習ったウェーバーの代表作「魔弾の射手」が1821年。

こんな風にみると、ベートーヴェンをとりまく、同時代の作曲家たちが、おもわぬ成果を劇的に挙げていることもわかります。

時系列で考える音楽年表も面白いものです。

ちなみに1813年生まれの、わがリヒャルト・ワーグナーの活動時期はもう少しあととなります。

レヴァインが、DG専属となって進行させたシリーズが、ベルリンフィルとのベルリオーズ・シリーズでした。
RCAでのマーラー、各レーベルのまたがったヴェルディなどと同様、どうも尻切れトンボで終了してしまい、大きなオペラ録音などは未完のままになってしまったベルリオーズシリーズでした。
 そもそも、DGは、ベルリオーズ集大成的な企画を完結できない事例がありまして、大いに期待した小澤&ボストンと、バレンボイム&パリ管という未完のチクルスがあるのです。
それに続いたレヴァイン&ベルリンでの不完全なチクルス。
3種とも未完としての後味は悪いのですが、それぞれの演奏は、わたしがベルリオーズに慣れしたんでゆくきっかけにもなっていて、とても思い出深い演奏ばかりです。

レヴァインのものは、少し時代が新しいので、ほかの二人の指揮者と思い入れが異なりますが、それでも「レヴァインの幻想」というイメージは別な機会で大きく持ち続けておりました。

それは、1974年(確か)のザルツブルク音楽祭のNHKFM放送。
エアチェックしました。
メットで地盤を築いたあと、マーラー録音も始まり、ヨーロッパに打って出た頃のもの。
ロンドン響を指揮しての幻想交響曲でした。

これはもう、耳に鮮やか、体に刺激的なスピーディかつ、アクロバテックな幻想だった。
最初から最後まで、息つかせる間もない意欲満々の興奮演奏。
いま復刻したら、ちょっとついていけないかも。

あれからほんの16年。

レヴァインは、その前から、快速・ダイナミック野郎を急にやめてしまったように思う。

RCAのブラームスやシューマン、マーラーで楽譜重視のピュアな透明感あふれる表現。
EMIでの、イタリアオペラにおける、混じり気のないオペラティックな歌中心の音楽造り。
DG以降は、巨視的な、おおらかだけど、細部まで綿密に心のこもった演奏がワーグナーを中心に実現。

たくさんあるレヴァインの音源は、駄作がありません。

あのロンドン響との若さみなぎる熱演とうってかわって、ゆったりとした歩みと、壮大なダイナミズム、そしてあいも変わらない生き生きとしたフレッシュな表情。

恋心満点の1楽章。意外や快速のワルツ。抒情味満載の3楽章。
堂々たる断頭台。しっかりと歩みつつ、オケの名技性を味わえ、いくつものフォルテを味わえるチョーかっこいい終楽章。
グレゴリアの死のモティーフも、輝かしいファンファーレのようです。
最後の猛然たるアッチェランドと光彩陸離たるフィナーレには陶然としてしまいます。

中身やコク、味わいは別として、この演奏がもたらす快感は格別のもの。
こんな聴く喜びにあふれた幻想も充分アリです!

ボストンでの活動が不明になりがちのままのレヴァインの体調不良の昨今、心配です。

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佐村河内 守 NHK再放送

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11月9日に、NHK、「ただイマ!」にて放送されました「奇跡の作曲家 佐村河内守」が再放送されます。

12月12日(水) 朝8:15~9:45 「あさイチ」にて

 番組後半の特集で、さきの「ただイマ!」と同一の内容です。

お見逃しの方、是非。

ついでに私もちょいと参加、と宣伝。

ただし、放送されない地域がある由にございます。

選挙戦まっただ中、代わりに政見放送がある地域は。

関東1都6県、近畿2府4県は、放送されないそうです。う~む。

佐村河内さんの、名前とその素晴らしい音楽を知らしめた番組です。

ご覧になれるエリアの方は、再度、是非!

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2012年12月 7日 (金)

ベートーヴェン 交響曲第9番 小澤征爾指揮

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有楽町駅前の交通会館。

これは、開業47年の由緒ある商業ビルでして、大手町・東京駅から続く再築の波にあって、断固として残さねばならない建物です。
各県のアンテナショップ(とりわけ、北海道!)がたくさん入っていて、そこへ行けば、懐かしい言葉も聞けるような、地域と東京の接合点みたいな場所なんです。

そして、駅前で希少といえば、お隣の新橋駅前の、ニュー新橋ビル。
こちらも43年のツワモノ。そしてサラリーマンの聖地の極み。

都心のこれらのビルは、権利関係は複雑かもしれませんが、絶対に残していって欲しいものです。

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  ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調

    小澤征爾 指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
              アンブロージアン・シンガース
              合唱指揮:ジョン・マッカーシー

     S:マリータ・ネイピア   Ms:アンナ・レイノルズ
     T:ヘルゲ・ブルリオート Bs:カール・リッダーブッシュ
                 
                       (1974.2.ロンドン)


ベートーヴェン交響曲チクルス、最終おおとりは「小澤の第九」です。

ジャケット写真にありますように、小澤さん、39歳の第9は若い。

これより28年を経たサイトウキネンとの第9は、聴いたことがありません。

ワタクシは、アバド、メータ、小澤が世界の若手指揮者三羽ガラスと呼ばれた時代を知る人間です。アバドが一番と確信しつつ、ハイティンクとともに、メータと小澤さんも、好きになって、ともかく聴きました。
EMIから、DG、フィリップスの専属となっての小澤さんの大活躍は、サンフランシスコ、ボストンの手兵の録音が中心となりましたが、合唱が入る規模の大きなものは、ロンドンで録音せざるをえないと言っていた時期がありました。
それは、各レーベル共通で、ロンドンのオケや合唱は規律正しく、腕前も上級、なによりもコストが抑えられるという点で、なくてはならない存在なところもありましたから。

しかも、この録音時は、世界を襲った石油ショックの影響で暖房もままならず、器材は発動機を使ったりの厳しい状況。
レコ芸で録音風景の写真を見たら、みんな厚着で演奏してる。

でも、われらが日本人、小澤さんの熱き指揮に、奏者みんなが一丸となって集中力あふれる熱演をスタジオ録音ながら成し遂げているんです。

70年代は、年末の第9は、日本フィルから新日本フィルへと引き継いで、ずっと小澤さんだった。
わたしも、70年頃から、テレビで長髪の大暴れ指揮者の第9をフジテレビで見ました。
同時に、大晦日には岩城さんがN響で第9。
読響では、若杉さん、4チャンネル。
いやはや贅沢な時代でしたよ。
そして、小澤さんと、朝比奈隆のリング目当てで、新日フィルの定期会員になって、数々の名演に接することができました。
「小澤の第9」は、70年代、何度か接することができました。

ずっと小澤さんの、かっこいい指揮を見つめてましたね。

スコアを完全に暗記していて、奏者への巧みなキュー出しは2楽章では完璧にはまりましたし、なによりも1楽章の熱中ぶりがすごかった。
小澤の第9は、1楽章から人を惹きつけ、独特なうねりに人を巻き込み、一気に終楽章の爆発的な解放感へと持っていってしまう、毎度熱くされてしまうものだった。

今回のベートーヴェン・チクルスは、「穏健」をテーマにしたつもりだったのに、期せずして、熱い小澤の第9を選択してしまった。

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こちらの、ニュー・フィルハーモニアとの演奏は、先にあげた日本でのライブと同様に、集中力に富み、スタジオ録音とは思えぬライブ感と熱狂が味わえるのでした。
数十年ぶりに聴いたこの演奏、レコードで初めて聴いた高校時代のことを思いだしましたよ。
たしか75年の年末だったでしょうか、小澤ライブの興奮を引きづりながら、針を落とした2枚組のレコード。
一気に、異様な集中と興奮のもとに聴き進めました。
早めの展開ながら、実に柔軟かつしなやかな音は、ロンドンのオケゆえに生まれたところもあります。
聴きなれないフレーズや、驚くような内声部の強調とかもあったり、さらに、微妙にテンポを落としてみたりと、今聴いても新鮮極まりない思いを抱きます。
そして合唱の巧さ。
当時、小澤さんは、合唱は、ロンドンのものが最高だと何かで語ってました。
このレコードの4面には、リハーサル風景が収録されていて、その中で、小澤さんが、次の皆さんとの共演は、ベルリオーズの「ファウスト」と言った瞬間、オケとコーラスから喝采が上がっております。
この演奏の素晴らしさに加え、そんな状況を耳にして、日本人魂が舞いあがるのを覚えましたね!

それと、ここで注目は、ソリストのすごさ。
4人ともに、完全なワーグナー歌手!
ブリリオートは、カラヤンが見出したジークフリート。
リッダーブッシュは、カラヤンはともかく、あらゆる指揮者からひっぱりだこのバイロイトの常連バスで、早世が悔やまれる名バス。
レイノルズは英国メゾながら、バイロイトやレコーディングでのワーグナーに欠かせない。
そして、南アフリカ出身のネイピアは、65にして10年前に亡くなってしまったが、ベームやシュタインも登用した名美人ジークリンデです。
この4人が繰り広げる束の間の声の共演の贅沢も、当時の小澤さんの存在の大きさがうかがえます!

そして、うなってますよ、この時からう~うん、うんとね。

作曲開始から足掛け9年。1924年に完成された、ザ第9。
なにも書くことはありません。
1~3楽章の魅力、ことに歳を経たいま、第3楽章の悠久との思える平安の美しさには抗しがたい魅力を感じます。
贅沢な望みですが、いまの小澤さんの指揮で、枯淡の域の3楽章を聴いてみたい。

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怒られちゃうかもしれませんが、小澤さんを聴いたのは、サイトウキネンのブラームスまで。
以降、ボストンを辞めてから、ウィーンの歌劇場のものも含めて、小澤さん離れをしてしまいました。
かつての頃を知っているから。
そしてもしかしたら、自分の聴き方が過去に軸足を置きすぎているからなのか・・・・。

以上、ベートーヴェン・チクルス終わり。

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2012年12月 6日 (木)

ベートーヴェン 交響曲第8番 ハイティンク指揮

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秋葉原駅前の商業・オフィスビルUDXのツリー。

大企業が居を構える一大オフィスですよ。

以前は秋葉原にこんなの考えられなかったことデス。

そちらのエントランスにあるツリーは、時間によって色を変える美しい演出がほどこされておりました。

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  ベートーヴェン 交響曲第8番 ヘ長調

   ベルナルト・ハイティンク指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団

                  (1976.5.14 ロンドン)


簡潔で、演奏時間的にも、1番と並んで30分以下。
そして同じように、ちょっと地味なところが、1番や2番と共通してまして、お姉さん的な存在、4番にも一歩負けてしまうような弟的な可愛さと、聴けばいいところを持っている存在な8番。

7番からほどなく完成させたのが1814年、7番とセットで書かれ初演もされた。
交響曲作家として、構えの大きな名作を順々に書いてきたベートーヴェンは、古典帰りのようなシンプルな8番を出したところ、聴衆の期待からそれたその音楽は、初演では評価が得られなかった。
古典的なメヌエット楽章がある一方、滔々とした緩徐楽章はなく、ともに、7番でのリズムを再起させたようなスケルツォ的な2楽章と弾みまくり意外性の連続の4楽章。
明るく元気いっぱいの1楽章も重厚さや深刻さを期待した聴き手の耳を裏切るものだったのでしょうか。
 もしくは、短いながらも、大胆な響きや強弱の詰まったこの8番にびっくりして戸惑ってしまったのでは。

いま、わたくしたちは、この8番を前座のように、軽く、それこそ鼻歌を口づさむようにして聴いてしまいますが、この曲は、ピリオド風に軽くかさかさと演奏されるよりは、たっぷりとした響きでもって朗々と、でも歯切れよく演奏される方が相応しいものと思います。

そんな8番の理想的な演奏が、わたしには、ハイティンクのものです。
それも廃盤久しいロンドン・フィルとの1回目の全集のときのもの。
先日、実家に帰ったおりに、苦心してレコードを鳴らしてみました。
後年のコンセルトヘボウのものよりは若々しく、でもこれがロンドンのオケと思うくらいに、たっぷりとした音を聴かせるんです。
それでいて、キレはよくって、オケの隅々までが鳴っていながら、威圧感はなくシンプルな演奏に徹しているのです。
70年代のロンドンフィルは、もしかしたら一番充実していたのではないでしょうか。
ハイティンクや、存命中だったボールトやショルティ、ヨッフムなどが指揮台に立っていた頃、その後のテンシュテットあたりから少し変化していったものと思います。
コンマスは、名手ロドニー・フレンドの頃です。
フレンド氏は、ハイティンクが去ったあとは、ニューヨークフィルに移りましたが、コンセルトヘボウにクレヴァースあり、と同じように、ロンドンフィルにフレンドあり的な存在でした。

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このハイティンク1回目のベートーヴェン全集は、ロンドンでの協奏曲(ブレンデル)も合わせたチクルスが大評判で、そのあとすぐに全曲録音されたライブ感あふれる感興の乗った名演集ですが、いまもって廃盤のままなのが不思議でなりませぬ。
3度目のロンドン響とのベーレンラーター盤(全部聴いてませんが)もよさそうですが、よりハイティンクらしいのは、ロンドンフィルとのもの、そしてコンセルトヘボウとのものでしょう。

当レコードのカップリングの第9もまったく素晴らしい演奏でございますよ。
そして、ロンドンのウォルサムストウホールでの雰囲気あるフィリップスの名録音も特筆もの!

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2012年12月 5日 (水)

ベートーヴェン 交響曲第7番 ジュリーニ指揮

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銀座通りのブランド街を少し外れたところから。

カルティエとブルガリ。

こんな店々には近寄りがたく、入ったこともありません。

最近は、かの国の方々もぱったりいらっしゃらなくて静かなものです。

でも、こんなに華美にすることあるんですかね。

東京都心のこうした冬の夜の華やかさは、都内、城西・西部地区を主体としたエリアが日本一番かと。

東京一極集中は、首都圏だけでもなんとか是正して欲しいものです。
横浜はまだしも、千葉・埼玉なんて、ほかの地域の方からみたら「東京」ですが、東京で仕事をする人が住む場所みたいな感から、どうも脱することができないでいると思います。

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   ベートーヴェン 交響曲第7番 イ長調

  カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団

                 (1971.3 シカゴ)


「ベートーヴェンの7番」、この無標題の番号交響曲が、いまこれほどまでの人気曲になるとは思ってもいなかった・・・・です。

今回シリーズでも書いてますが、クラシックといえば、三大B、カラヤン、運命・未完成・新世界・・・といった定番を、数少ない音楽情報のもとに、はぐくんで育ってきたクラヲタお父さんです。
そしてベートーヴェンの交響曲といえば、「英雄・運命・田園・合唱」のタイトル付き4曲が真っ先にきて、クラシック導入初期の少年には、それ以上の番号交響曲を知るのにしばしの間が必要だったのです。

それでも、テレビ鑑賞の1番(日フィル)、カラヤンのLP4番・8番は、標題交響曲のあと、まもなくやってきました。

でもですよ、不思議と、2番、7番がなかなかやってこなかったのです。

それらが、わたしの前に本格的にやってきたのは高校生になってからの遅咲きですよ。

2番はワルターの演奏、7番は、なんと当時の地元オケ、小田原フィルハーモニーの実演。
その実演ともちょっとしたきっかけがあって、予習したのは、なんとクレンペラーの、それもニュー・フィルハーモニアとの再録音の方の激遅盤。
いまやその音源はなく、確認のしようがありませんが、遅くて、当然にズシリとした中に、跳ね上がるリズムと、熱狂の渦がじんわりと浮かびあがってゆくその演奏の特徴は明晰に覚えております。

その後にやってきたベームとウィーンフィルのあの伝説的な来日公演における、4&7番。
両曲とも、老人とは思えぬ活力と推進力を見せつけられ、ライブで熱いベームを見せつけられたのが75年。

生涯にわたる熱烈ファンとなったアバドの、デッカ録音も聴き、弾むリズムの権化のような演奏に血沸き肉躍ったのもその頃。

そのずっと、ずっとあと、「のだめ」でブレイクしたこの曲。
これを機に、クラシック音楽に、ベートーヴェンに入っていらっしゃる方が多々出たことは、時代の流れとを強く感じました。
きっかけはともあれ、ベト7は、こうして人気曲になっていったのですから良しとしなくてはなりません。

完全名曲の仲間入りをした7番です。「英雄・運命・田園・7番・第9」なのです。

前置き多し。

ジュリーニの7番は、シカゴとの旧盤。
この流麗、かつダイナミックさと端正さとが融合した演奏は、本物志向のベト7です。
1楽章からゆとりあるテンポでもって、落ち着きあふれる風情ですが、クレンペラーとの大きな違いは重厚感。
こちらは、滑らかさが先に立つリズム感で、クレンペラーのようなゴツゴツ感はありません。
巨視的なスタンスでは負けますが、隅々まで光があたって曖昧さゼロ。
全曲にわたってそんな印象が強いです。
シカゴの技量も凄まじいものだから、音の芯がまったくぶれてなくて、その集中力は生半可ないです。
ですから、1楽章の熱烈なコーダの盛り上がりは感動的。
当然に、終楽章の熱狂も熱烈ななかに、筋の通った冷静さも味わえます。
 第2楽章では、ところが、横へ横へとどこまでも伸びてゆく無限旋律的な「歌」を味わうこととなります。
アバドのデッカ盤もそうですが、オケの美質を活かしながら、ともかくスコアを歌で埋め尽くす感じ。テヌートがすぎると思われましょうが、わたしには、指揮棒握りしめたジュリーニの指揮姿が思い浮かびました。

スカラ座とのベートーヴェンは、すべて未聴。
それ以外のEMI・DG盤6曲は揃えました。
1・2・4のみナシ、といったところです。

ジュリーニのベートーヴェン、好きです!

1812年の作。
同年は、チャイコフスキーのあの大序曲の年です。
ナポレオン軍は、ロシアから撤退を余儀なくされ衰退をたどる年月の一端です。

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2012年12月 4日 (火)

ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」 グシュルバウアー指揮

Ichou

晩秋と本格的な冬は、境目がほとんどないのでしょうかね。

初冬がなくって、11月の後半から冬になってしまいました。

銀杏が散ったこんな光景も、本来は秋の終わりなのだけれど、気候は冬本番なところが、この冬の厳しいところ。

崩壊じゃなくって、落下だろ、と思う、不幸な事故。
お悔やみ申し上げます。
この時期、あのあたりで雪が舞ってるということにも驚きました。

Guschlbauer

   ベートーヴェン 交響曲第6番 ニ長調 「田園」

  テオドール・グシュルバウアー指揮 ニュー・フィルハモニア管弦楽団

                         (1973 @ロンドン)


「田園」は、大穴、グシュルバウアー。

1975年だったか、発売時からずっと気になっていたグシュルバウアーの「田園」。

ひょんなとこから入手できまして、じっくりとしみじみと聴くことが出来ました。

これがまぁ、実に、気持ちのいい、自然の中で深呼吸するみたいな演奏なんですよ。

グシュルバウアー氏のことをご存知ない世代も増えたかと存じますので、ここでそのプロフィールをウィキその他の情報からまとめてみます。

1939年ウィーン生れ、73歳。
アバドやメータと同じく、そのひと世代後のスワロフスキー教授門下生。
仏エラート・レーベルの指揮者として60年代後半から活躍し、モーツァルトのスペシャリストとして、マリア・ジョアオ・ピリスのピアノ協奏曲のリスボンでの指揮や、バンベルクでの交響曲録音で高名となった。
その後は、ちょっと地味で、本格録音は、今回の田園や、ゼ・グレート、ワーグナー、来日しての読響とのドヴォ8などが70年代。
さらに鍵盤奏者として、先輩アバドのロッシーニ録音では、チェンバロでレシタティーヴォの通奏低音を担当しておりました。

その後、N響にもやってきて、シェーンベルクやルーセルなど意外性のあるレパートリーを披露してくれて、思わぬ名匠の誕生に、日本では密やかな人気と期待を呼んでいたグシュルバウアーさん。
ウィーンの「こうもり」、二期会の「魔笛」など、オペラでの来日も重ねてます。
さらに、録音では、ストラスブールでのポストもあって、ブルックナーの交響曲や「ローエングリン」などの名品もあったりしますね。

ウィーン生まれというブランド以上に、柔和で優しい音楽づくりと、嫌みのないすっきりとした個性が、われわれ日本人受けするものと思います。
眼鏡をかけた誠実としかいいようのない風貌も安心感あふれるものですね。

ところが、ウィーンという街は、なかなかオーストリア人に厳しく、自国の演奏家に対して異様なまでに選別意識がありました。
オペラ座のオケはともかくとして、グシュルバウアーがウィーンフィルの指揮台に立ったことってあったでしょうか。
ウィーン少年合唱団にもゆかりの地元の指揮者に対して・・・・

この「田園」では、相性のよかったロンドンのニュー・フィルハーモニアを指揮してます。
クレンペラー亡きあと、ムーティ選出までの揺れ動いていた時期のもの。
でも、このロンドンオケならではの、弦と艶やかな美しさと、木管・金管の柔らかな響き。

理想的な第1楽章です。
繰り返しも行って、ゆったりのんびり、散策の歩調も気持ち良く、思わず手を後ろ手にして歩いてしまいます。
ちょっと、いまのこの時代からするとムーディに流れがちな2楽章ですが、こんな風な演奏こそ、ずっと子供時代から親しんできた最大公約数的な野の光景です。
神奈川県人ですが、母の実家の近くには、小川のせせらぎと鳥のさえずりが聞かれる弁天様がありまして、いまでもその風景は脳裏に浮かびます。
まさに、そんな感じの情景の音楽の再現なんですよ。

快活な3楽章も、急がず慌てずで気楽です。
嵐に至るとそこそこ荒れてきますが、ホール・トーンをしっかり拾った録音のせいか、切迫感や攻撃性は薄目で、遠目でなる遠雷と嵐です。
なにも、セコセコするこはないじゃない。
そんな感じで、嵐の去った平安を、緩やかな気持ちで迎えることができます。
テンポは、快調な5楽章の感謝の響きです。
弦のマイルドな美しさは、フィルハーモニアならではで、クレンペラーの厳しい薫陶と、英国伝統のニュートラルカラーが、ここでは麗しく結びついた感があります。

録音のありかたにもよりますが、こんなソフトフォーカスのアナログ的な「田園」が実に心に響くのです。

グシュルバウアーさん、いまどうしてる?
いまいちど、大巨匠としてモーツァルトやベートーヴェンを聴かせて欲しいです。

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2012年12月 3日 (月)

余裕のにゃんにゃん

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前回、カラスにちょっかい出されそうな「にゃんこ」

カラスの生態は、実は追いかけてみたい存在です。

前にも書きましたが、歩いていたら、カラスに頭をこづかれ、そのときの衝撃はガツンというかなりのものでした。

幸い、希少な髪も持って行かれずに済みましたが、攻撃を仕掛けた原因が、もしやこの頭と思うと恐れと憎しみを思うのであります!

くっそぉっ、カラスの野郎

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動じないにゃんこに飽きたカラスが去ったあと、車は来ないけど、道路の真ん中で、ご覧のとおり。

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見てよ、この余裕のお姿。

ほどよい距離で観察するワタクシを尻目に、ご覧の毛づくろい。

おい、これっ!

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こっちを向いたそのポーズ。

ちょいと間抜けな感じがいいんですが、なんということでしょう、ボケボケ写真となりました。

次回は、もっと接近して、このカワユイにゃんこを撮りましたので・・・・、引っ張るよねぇ~。




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2012年12月 2日 (日)

R・シュトラウス 「カプリッチョ」 シュタイン指揮

Sodegaura

毎度トップを飾る写真ですが、相模湾の夕日。

わたしの故郷の、もっとも好きな景色のひとつです。

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耳に、「英雄の生涯」の英雄が過去を回帰しつつしみじみとしたエンディングを迎える音楽が、いまだに残っています。

神奈川フィルのよる素晴らしい演奏でした。

寒い日曜、大好きなR・シュトラウスのオペラから、わたしの愛する最後のオペラ「カプリッチョ」を映像観劇しました。

シュトラウスが到達した最後のオペラの世界。

若き日の最後の交響詩「英雄の生涯」は交響詩というスタイルの集大成。
晩年に、今度はオペラ、いや総合舞台芸術の終焉を描いたかのような作品。

それを大々的な音楽とせず、小編成オーケストラによる透明感あふれる背景のもとに繰り広げられる「劇中劇オペラ」をオペラにしてしまったようなオペラ。

15作のオペラを書いて、自身も台本に携わったことはあれど、やはり名台本作者との綿密なコラボレーションがあって生まれたシュトラウスオペラの素晴らしさ。
その最後に行きついた成果が、「カプリッチョ」であることを思い聴くと格別なる感銘を覚えるのであります。

最良の相棒、ホフマンスタールのあと、グレゴール、ツヴァイクと変遷し、最後は指揮者クレメンス・クラウスといった共同作業によるオペラなのでした。

  R・シュトラウス  「カプリッチョ」

   伯爵令嬢:アンナ・トモワ・シントウ 伯爵:ウォルフガンク・シェーネ
   フラマン:ベルンハルト・ビュヒナー オリヴィエ:アンドレアス・シュミット
   ラ・ローシュ:テオ・アダム       クレーロン:イリス・フェルミリオン
   イタリアS歌手:エディット・シュミット・リーンバッハー
   イタリアT歌手:ジョナサン・ウェルヒ トープ:ハインツ・ツェドニク

  ホルスト・シュタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

   
     演出:ヨハネス・シャーフ
                      (1990.8.5@ザルツブルク)


ザルツブルク音楽にての上演のNHK放送をビデオ録画したものです。
DVD化して、ひとりで楽しんでます。
CD化された同年の上演と、キャストが一部違いまして、こちらの方が良いです。

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「詞か、音楽か」どちらを選ぶ、どちらが大事?

伯爵令嬢をとりまく、そして彼女を愛する詩人と作曲家。

そんな令嬢マドレーヌの揺れる心。
恋のさや当てと、芸術論争、そして一同がオペラ作成へ向かうという小粋なドラマの中でマドレーヌは答えを出せない・・・・・。

「カプリッチョ」とは、音楽の形式(狂詩曲)の意も音楽的にはあるが、より自由な、とか、気まぐれな、とかいう自在なスタイルの形式を意とするもの。

シュトラウスは、このオペラに「1幕の対話劇」と副題をつけているように、登場人物たちがそれぞれに、自身の立場でもって思い思いに発言し行動する2時間20分の音楽劇を作り出していて、それこそ晩年のシュトラウスが到達した自在な境地ともいえます。

人物たちは、軸となる伯爵兄妹が芸術好きのパトロン、それと、舞台芸術家、作曲家、詩人、女優、歌手、プロンクター、という面々で、それぞれ舞台音楽芸術をつかさどる人々であります。
 そんな彼らが、言葉の洪水のように歌い、語る内容を詳細に把握するのは至難なことですが、こうして字幕付きの映像はありがたいものです。
それでも、展開が早くて目で追うのが忙しいこと極まりないです。

シュトラウスとクラウスは、こうした高尚な舞台の人々や、お金持ちとは無縁の人々(召使いたち)に皮肉たっぷりのシーンを用意していてこのオペラに味わいを増しています。
さらに舞台で日のあたる人々が去ったあと、文字通り、穴ぐらから登場するプロンクターにも実は俺がいなければ…的な存在を与えられていて思わずニヤリとしてしまいます。

そして、いつものように、細かなところまでいろんな仕掛けがなされている職人芸的な手口。
バロック期の物語設定であることから、オペラの話題ではカッチーニやグルックの名前が出てくるが、その際には当然に彼らの音楽がなります。
さらに、この物語のオチである、新作オペラの素材選びの際には、これもまた話題となる「アリアドネ」や「ダフネ」のタイトルが出ると、それらの自作が鳴るという仕組み。
 さらには、グランド・オペラをもしかしたら揶揄しているかもしれない、バレエの挿入。
過去作でも、なんども行われているイタリア人歌手によるイタリア語による時代めいたアリア。
こんなシュトラウスの常套が、まさに総括されるかのようにきめ細かく配備されております。

 時代錯誤の舞台を提案し、劇場支配人のラ・ローシュが皆に揶揄される、そのこともよくわかるシテュエーションながら、そのあとのラ・ローシュの大説法の反逆。

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ここでテオ・アダム演じるラ・ローシュは説得力抜群です。
これはすごい。ザックスの「親方たちをさげすんではならぬ」のパロディ。
シュトラウスが書いた低音域のソロレパートリーの最高峰。
こんな大モノローグが挿入されているところも味わい深い一点であります。

ここでは古典も独自に否定し、ワーグナーの大音響も否定し、人間の歌とドラマを賛美する劇中劇に名を借りたシュトラウスの音楽賛美なのでした。

その結果は、モーツァルトでもない、シュトラウス独自性の発露と毎度感じますがいかに?
「言葉(詩)、音楽」どちら?
シュトラウスが投げかけるオペラの本質の真髄。

この「カプリッチョ」では答えはありません。

そのかわり、そこに残したシュトラウスの音楽は、あまりにも美しく、あまりにも儚くて、いまその音楽を聴くわたくしたちには、「音楽♪」としか、答えようがない状況です。

 舞台から騒々しい人物たちがみんな立ち去り、そこに月夜が訪れ、シュトラウスが書いた絶美の音楽「月光の音楽」が始まる。
銀色の月の雫が舞い降りてくるような、ウェットでかつ羽毛のように軽やかな音楽。
 さらに、続く、令嬢マドレーヌのモノローグの場面は、間奏曲の雰囲気をそのままに、数時間後には、ふたりの求愛に答えを出さなくてはならない揺れる心中を歌う、シュトラウスが書いたもっとも美しい歌と音楽のひとつ。

ふたりの芸術家、音楽か詩か?
「さぁ、どちらにするのマドレーヌ?」と鏡の自分に問いかけます。
何度も書きますが、彼女は答えを持ち合わせておりません。
ともに分かちがたくなってしまった「音楽」と「詩」のどちらも選べません。
音楽は後ろ髪引かれるように、そして素晴らしい余韻と軽やかな酩酊感を残しつつ、洒落たエンディングとなります。

音源は別として、この映像と、フレミングのパリでの上演映像、そしてなんといっても2009年11月の二期会公演がわたくしの「カプリッチョ」体験の最大のものです。
 それは、時代を第二次大戦の占領下のパリ郊外に移した読替え演出で、いま思い出しても胸が熱くなってしまい、涙ぐんでしまう驚きと悲しみあふれる内容でした。

いずれも下記過去記事リンクをご覧いただければと存じます。

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ホルスト・シュタイン指揮するウィーンフィルの音色の細やかな美しさと、歌と言葉に符合し、相和するオーケストラがなによりも素晴らしい。
ワーグナーばかりと思われがちなシュタインの、オペラ指揮者としての柔軟で器用なあり方は、軽やかなシュトラウス演奏において完璧な指揮ぶりです。
 画面では、亡きヘッツェルとキュッヘルが並んで弾いているところもうかがえました。

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そして、そう、トモワ・シントウのヒロインのこれまた素晴らしさ。
カラヤンも愛したブルガリアの名ソプラノは、高貴な佇まいたっぷりで、わたしたちが大好きだったヤノヴィッツの系統もたっぷりのリリカルな透明感にあふれていて、最高の伯爵令嬢を演じ、歌っておりました。

先に感嘆したアダムをはじめ、渋い役まわりで固めた上演陣。

シュトラウス作曲時20世紀半ば当時と、本来の18世紀を錯綜させた時代設定の演出は、不自然でなく、むしろ、穏健なもので安心感を覚えました。

何度観ても、聴いても、最後のマドレーヌの音楽には涙をとどめることができません。
のちの「最後の4つの歌」とともに、人生の夕映えと諦念を美しく映した音楽。
シュトラウスが到達した最高傑作です。

過去記事
 
  「シルマー指揮    フレミング 映像」 

  「サヴァリッシュ指揮 シュヴァルツコップ CD」

  「ベーム指揮     ヤノヴィッツ CD」

  「沼尻指揮      釜洞 祐子 二期会公演」 

  「月光の音楽~モノローグ」 
    

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ベートーヴェン 交響曲第5番 ボールト指揮

Crossgate

秋葉原もずいぶんとオフィス街が増えたし、中央のメイドさんがたくさん立ってる通りを逸れれば落ち着きのある都会的な街並みへと変貌したものだ。

朝などは、サラリーマンやOLさんが驚くほど降りる街になりました。

この街を歩く人々の雑多といってはなんですが、多様ぶりは世界レベルでもユニークなものではないでしょうか。

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  ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調

 サー・エードリアン・ボールト指揮 ロンドン・プロムナード・フィルハーモニック

                 (1957? ロンドン)


何をかいわんや、第5です。

いまや第5は、マーラーとチャイコフスキーも、まったく無視できない第5となってます。

本家ベートーヴェンの方は、苦難を経て歓喜へという、ここから始まる交響曲の常套的な構成理念の大御所作品ゆえに、聴いてて恥ずかしくなってしまうくらいにわかりきった作品となっております。

ですが、さすがは古今東西、誉れ高い名曲。
ピリオドやノンヴィブラート奏法、ベーレンライター版などの数種の版。
それらを経てのち、いまこそ新鮮に、そして本流に聴こえる従来型ブライトコプフ版。
鳴りきる音楽の豊かさと、たっぷりとした響きに、ロマン派の芳香。

それが5番あたりになると、こうでなくっちゃ、っと思います。

英国紳士ボールトの高貴なるベートーヴェンのちゃんとした音源は、ヴォンガード時代に数曲あって、今回の5番もそのひとつ。
以前にも、少年時代のダイアモンド1000シリーズの懐かしさを吐露した、「英雄」の記事を書きました。
CD化された英雄とのカップリング曲が第5で、こちらはCDになっての初聴きでした。
手兵の実態ロンドン・フィルとの息のあった端正な一筆書き的な演奏は、この前の「英雄」とその心象を同じくするものであります。

冒頭から余裕をもったテンポで、じんわりときます。
決して慎重であったり、鈍調であったりすることはなく、英国演奏家ならではの中庸とおおらかな表現であります。
2楽章では、内声部の動きも実によく聴こえ、半世紀も前の録音と演奏にはとうてい思えないくらいのクリアーさです。
こんなところが、このボールトの演奏の特筆すべきところです。
加えて、3楽章から終楽章にかけては、思わぬほどの熱烈ぶりを示すところが、ボールトの剛毅なるところの一端でありましょうか。
それにしても終楽章のテンションの高さはなみなみのものではございません。

お得意のエルガーの交響曲は何種類か聴いてますが、淡白さと情熱が入り乱れるその演奏は、エモーショナルが一番に立つバルビローリのものと違って、ちょっと複雑に感じております。
 これらのベートーヴェンも、熱き音楽の吐露と、少し覚めた高貴さとが不思議な配分でもって感じられる味わい深いもに思う。

いずれにしても、ボールトのベートーヴェンは、へたな最新の演奏を聴くよりも、いろいろなことを開陳してくれる素敵な演奏なのです。

1808年、6番といっしょくたになっての作曲で、4番ともラップ。
協奏曲、ソロ、室内楽、声楽にオペラ。
あらゆるジャンルに充実した作品を送り出した傑作ぞろいの年月過ごしたベートーヴェン。
そして、これより苦悩もますます増えてまいります。頑張れベートーヴェンと言いたい。

いま、ヤンソンス&バイエルン放送響がベートーヴェン連続演奏を行って列島を席捲中。
そんな旬の話題をとりまぜながら、楽しいクラヲタ飲み会でしたよ。

Kurakura2Kurakura_2


おいしい各地の地ビールと、まさにビールに合う一品の数々。
ワーグナーを熱く語ってしまいました・・・・・。

みなさま、どうもお世話になりました。

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2012年12月 1日 (土)

佐村河内 守 大反響

Tsuzaki_church

6月の雨季に訪れた天草の津崎教会。

このあと、この地域は未曾有の大雨。

自然の猛威は、先の震災のごとし、人間は備えあれど、無情にも打ち砕く力を見せつけるのでした。

手を合わせ祈り、心に平安をもたらすことを、われわれは人類生れてこのかたずっと繰り返してきました。
容(かたち)は違えど、どんな宗教も同じ。

本質は、人間の心の平安。

Samuragochi

佐村河内守さんのこと

今週月曜の日経新聞での全面広告。

各メディアが、こぞって取り上げるようになりました。

わたくしもチョイ役でお話させていただきましたNHKの「ただイマ」を皮切りに、テレ朝の「モーニングバード」でも知らぬ間に特集がされました。

CD販売も、チャートはうなぎのぼりで、プレスが一時間に合わない状況に。

うれしくて、うれしくてしょうがないです。

佐村河内さんの、音楽の本質を、多くの方々にお聴きいただいて、ご共感いただけること、願ってやみません。

NHK番組では、最後の数分の浄化場面をクローズアップして、何度も流しておりましたし、観客の涙も、ここにあったことは間違いありません。

そこに惹かれ、さらに作曲者の大いなるハンディや存在感に打たれ、CD購入した方々も少なくはないと思います。
 でも、CDを手にして、80分の長尺の音楽に戸惑いを覚えた方もいらっしゃるかもしれません。
最後のあの場面までの、曲折が辛すぎて、長すぎるからです。

でも、どうか、それを辛抱して耐えて、最後のあの光を待つようにして聴いてみてください。

わたくしも、あのエンディングがあってこそ、そしてあの眩しさを知ってしまったから、こうして何度も何度も聴くわけなのです。

 あそこを知った自分が、途中の何度もある苦しい足枷や十字架を背負わされるような苦しみの音楽に対し、たゆまなく克己心を奮い立たせる踏ん張りや、心の力を、同じこの音楽から与えられ、没頭して聴くことができるようになりました。

偉そうなことを言うようですが、人生に照らし合わせるようにして聴く80分間は、音楽への同化がもたらす自分自身への問いかけです。

最後の眩しい希望の輝き。

そのあとのことも、自分として、いまは想いを馳せるようになっております。

ある人の人生には、まだ続く辛い想像かもです・・・・・。

しかし、こんな素晴らしい音楽を、今、わたしたちと共に生きる作曲家が残してくれたことに本当に感謝です。


  交響曲第1番 演奏会

       2月25日 @東京芸術劇場

  大友直人指揮 日本フィルハーモニー交響楽団

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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