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2013年1月

2013年1月31日 (木)

シェーンベルク 「ワルシャワの生き残り」 アバド指揮

Shibaura3

芝浦の運河のひとコマ。

手前は行き止まりで、納涼船やクルーザーが待機してますが、いつも気になるのは、橋梁の方が低いこと。

潮が引くと出れるんですかね。ふむ。

Abbado_ec_mahaler_jugend

  シェーンベルク 「ワルシャワの生き残り」

       語り:マクシミリアン・シェル

    クラウディオ・アバド指揮 ECユース・オーケストラ
                    ウィーン・ジュネス合唱団

                       (1979.8 @ザルツブルク)


1947年、アメリカ亡命時のシェーンベルクの作品。
第二次大戦後、ナチスの行った蛮事が明らかになるにつれ、ユダヤ系の多かったリベラルなアメリカでは怒りと悲しみが大きく、ユダヤの出自のシェーンベルクとて、姪がナチスに殺されたこともあり、強い憤りでもって、この作品を書くこととなりました。

クーセヴィッキー音楽財団による委嘱作でもあります。

73歳のシェーンベルクは、その前年、心臓発作を起こし命はとりとめたものの、病弱でその生もあと数年であったが、この音楽に聴く「怒りのエネルギー」は相当な力を持って、聴くわたしたちに迫ってくるものがあります。

12音技法による音楽でありますが、もうこの域に達するとぎこちなさよりは、考え抜かれた洗練さを感じさせ、頭でっかちの音楽にならずに、音が完全にドラマを表出していて寒気さえ覚えます。

ワルシャワの収容所から地下水道に逃げ込んだ男の回想に基づくドラマで、ほぼ語り、しかし時には歌うような、これもまたシュプレヒシュティンメのひとつ。
英語による明確かつ客観的な語りだが、徐々にリアルを増してきて、ナチス軍人の言葉はドイツ語によって引用される。これもまた恐怖を呼び起こす効果に満ちている。

そして、叱咤されガス室への行進を余儀なくするその時、オケの切迫感が極度に高まり、いままで無言であった人々、すなわち合唱がヘブライ語で突然歌い出す。
聖歌「イスラエルよ聞け」。
最後の数分のこの出来事は、最初聴いたときには背筋が寒くなるほどに衝撃的だった。
この劇的な効果は、効果というようなものでなく、抗いがたい運命に従わざるを得ないが、古代より続く民族の苦難に耐え抜く強さと後世の世代にかける希望を感じるのであります。

アバドのザルツブルクライブは、若い演奏家たちの熱い思いが独特の緊張感を孕んでいて感性の鋭い演奏となっております。
M・シェルの極めて劇的な語りも絶妙です。

Abbado_webern_3

後年、アバドはウィーンフィルと正式に録音しておりますが、こちらはウィーンフィルの独特の音色が不思議な雰囲気を醸し出していて、かつG・ホーニクの語りは歌い手のようで、オペラティックな様相を呈しております。
こちらも好きな演奏。

Schoenberg_boulez

レコード時代、大いに聴いたのがブーレーズとBBCの鋭利で冷酷な演奏。
これはすごかった。
いまだに完璧です。

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2013年1月29日 (火)

ブラームス ピアノ三重奏曲第1番 ピリス

Snow_morning_20130128

1月28日の朝、6時過ぎに出発のためカーテンを開けたら、まだ暗い外は銀世界でした。

千葉県のそれも一部がこのような積雪で、東京は降っても千葉は雨とかいうことが多かっただけに早出の機先を制されました。

ただ、新雪のサクサク感は気持ちよかった。

東京と逆方向に向かう息子の学校は、この日、休校になったそうな。

Bragms_pianotrio_pires

  ブラームス  ピアノ三重奏曲第1番 ロ長調

        Pf:マリア・ジョアオ・ピリス

        Vn:オーギュスタン・デュメイ

        Vc:ジャン・ワン

               (1995.4@ベルリン)


寒波が緩んで、少し暖かく感じる晩に、ブラームスの室内楽を。

先般の神奈川フィルでは、ピアノ四重奏曲のシェーンベルク編曲版を堪能し、その先、去年の10月にはバイエルン放送響のヴィオラ首席とわれらが神奈フィルの山本さんご夫妻でその同じ四重奏曲を聴きました。
ヴィオラを外して今度は3三重奏。

ブラームスの室内楽は、3曲セットが多いです。
ピアノ四重奏曲に、この三重奏曲、そして弦楽四重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ。
あと、2曲セットが、弦楽五重奏曲に弦楽六重奏曲、チェロ・ソナタ、クラリネット(ヴィオラ)・ソナタ。
あとは単品で、ホルン三重奏、クラリネット三重奏、ピアノ五重奏、クラリネット五重奏。

こうやって並べて俯瞰してみると、そのどれもが完全無欠の作品ばかりで、わたくしのブログではまだ手薄いこの分野を、これらの音楽が少しずつ埋めていくかと思うと、気持ちがほのかに高鳴る思いがします。

この1番のピアノ・トリオは、作品番号8で、1954年、ブラームスまだ21歳の音楽。
ところが、その36年後、最円熟期の1991年に大幅に改訂していて、それが今聴けるこの第1番の姿となっている。
その初版はどんなだったか、聴けるんでしょうかね?
若さみなぎるその頃の作品は、ピアノソナタや少し後の協奏曲の1番があり、ピアノを中心とした作曲ならびに演奏の活動中だった。

その若書きを、晩年に足を踏み入れた頃に手を加えるとは、よほどにこの曲に愛着があったのか、それとも最円熟期の筆致で持って姿を変えてみたかったのか。
2番と3番と順番が逆とも思える風格を確かに感じます。
38分という演奏時間や曲の構えからしたらそういうことになりますが、もともとさらに長かった部分を短縮して、しっかりとした構成感をもたらしたことからでしょう。

しかし、ここに聴くあふれかえるくらいのロマンと、若々しい芽吹きのような清々しい旋律線は完全に若き筆によるものと思わせます。
ことに、第1楽章第1主題の旋律。まずピアノに始まり、次いでチェロが情感が徐々に高まるようにして歌う最高潮で、ヴァイオリンがそこに加わり、3者のユニゾンとなるとき、まるで深呼吸したくなるようなあまりの気持ちのよさに、目も潤むくらいです。
大きな1楽章はこの主題を軸に、少しばかりの晦渋さもまじえて進みます。

そして、スケルツォの第2楽章では、中間部のトリオが愛らしくとても素敵。
3楽章では、ベートーヴェンのソナタの緩徐楽章的な深遠さを感じさせる出だしで、どこか傷つきやすいシャイなブラームスって感じですが、この感受性豊かな音楽も悪くない。
後年のしかつめ顔は窺われません。
若さの横溢と晩年の抑制された様式とが同居したような終楽章は、ちょっと難しく感じますが、何度も何度も聴くと、若いブラームスの熱気が勝るような気がしてきます。

ピリスとデュメイの名コンビに、ジャン・ワンを加えた清新なブラームスは、実に素晴らしい1枚であります。
 ワンさんが明るく飛び出しそうなところを、デュメイの登場でかっちりと収まるような感じもありますが、3人が、曇りなく、どこまでも繊細かつクリアーな音色で、ともに同質の内面的なブラームスを根差しているのがわかります。

名曲・名盤といっていいですね!

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2013年1月27日 (日)

ヴェルディ 「運命の力」序曲 イタリア5大指揮者

Mm21_20130102

前日の記事は夜景、今日は昼のMM地区。

今年のお正月のあっぱれ晴天画像です。

ヴェルディ・イヤーにやってみたかった企画。

  ヴェルディ  歌劇「運命の力」 序曲

26作(改編別途)あるヴェルディのオペラ中22作目。
「ドン・カルロ」」と並んで、ヴェルディ作品としては最も長いオペラで、運命に翻弄される男女の愛と恨みと死を描いた壮大な作品。
改訂版でパワーアップされたその序曲は、劇中の旋律をふんだんに使いつつ、全体を支配する3つの和音が肝要。
コンサートのアンコールの定番でもあります。

    カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団
                           (1959~62)

    クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団
                           (1978)

    クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                           (1996)

    リッカルド・ムーティ指揮 ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団
                           (1995)

    リッカルド・シャイー指揮 ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団
                           (1983)

    ジュゼッペ・シノーポリ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                            (1984)


イタリア出身の指揮者は大物ばかり。

かつては、オペラ専門家みたいなイタリア指揮者は、その後コンサート指揮者としても有力となり、デ・サバータ後、ジュリーニから始まって、アバド、ムーティ、シャイー、シノーポリ、ガッティ、ルイージ、パッパーノ、ノセダ・・・・、まだまだたくさん輩出しております。
その根源は間違いなくトスカニーニ。
そしてその音楽性は知情意のバランス感覚の素晴らしさ。
でもときにお国ものを指揮するときは、情が先立ち、熱き歌心を全開にしてくれる。

敬愛するアバドを筆頭に、そんなイタリア人指揮者たちが大好きです。

レコ芸で連載された「砂川しげひさ」さんのもっとも印象的だった作品を、あまりにすばらしかったので、ここに掲載させていただきます。
(問題あればご指摘願います)

イタリア4大指揮者の会合の様子。

Abbado_guillini_2


Muti_chally

落ち着き払った酸いも甘いも経験してきたドン、ジュリーニ。
一番近い席の落ち着きはらった冷静なるアバド。
その隣は、もっとも若くて鷹揚なシャイー。
そして血の気の多いナポリの兄貴ムーティ。
シノーポリの指揮活動はこの頃まだ限定的だった。

すんばらしいですよこのイラスト。

クラシック音楽の造詣が深い砂川さんの絵には、このように、何度もうなずかされましたね。

Verdi_gulini

ジュリーニの59年頃の録音は、驚くほどの粘りと一音一音への執着を感じさせるじっくり型の演奏に思われた。
しかし、粘り腰の演奏から次いで、驚くほどのカンタービレを感じ取るなんて思ってもみないこと。
最後には圧巻、強烈なアッチェランドが待ち受けているのでした。
高性能のフィルハーモニアから輝かしい響きを導き出している。
録音時、まだ40代後半だったジュリーニは思えば当時も後年もあまり変わってないのかもしれません。
思えば、今回のほかの指揮者たちの録音もほぼそうした年代。
フィルハーモニア時代のものをもう一度確認の要はあります。

Abbado_verdi_lso

アバドの1回目の録音は、当時蜜月のロンドン響。
これらの中で、一番思い入れが強い音盤で、「アイーダ」初稿序曲も入れるところがアバドらしいところだった。
この演奏は、ともかく明るく眩しい輝きに満ちていて、表情もすべて若々しくしなやか。
そしてなによりも、旋律の歌わせ方の見事さはこの音盤が随一。
ともかく歌い、歌いまくる。
木管に次々とあわられる劇中のアリアなどの旋律が、これほどに美しく、そして精妙に歌われるのは他にないと思う。

Verdi_abbado_bpo

アバドの2度目の序曲集は、天下のベルリン・フィル。
18年が経過し、アバドは、さらに若々しい表情を進化させていて、ベルリンフィルの明るい音色もそれに拍車をかけるようにして、そして驚くべき強靭なるカンタービレを聴かせる。
オールマイティなオケがその実力を発揮するとなんでもありなのですから。
ともかくむちゃくちゃ上手い。オケの隅々、すべての音が鮮明に聴こえる。
カラヤンの録音では嵩にかかったようにガンガンなるヴェルディだったけれど、アバドはでも抑制もしつつ、歌いどころは外さず輝かしく高貴なヴェルデイとなっております。
でも、個人的にはロンドン盤の方が好きだな。贅沢な選択ですが。

Verdi_muti

ムーティは、フィルハーモニア時代、EMIに序曲集も全曲も録音しているが、実はそちらは未聴。
ムーティのこの曲といえば、初ムーティとなったウィーンフィルとの75年公演のアンコール。最高の興奮を味わった抜群の名演で、ともかく、かっとびまくりの、カッコいいヴェルディでした。
そして、ずっと後年のCBS録音。
録音がいまひとつですが、さすがはスカラ座のオケ。
弦や管の音の深みは意外なまでの渋さを持っている。
実際にスカラ座のオケを聴いてみて驚いたのは、その落ち着きある渋い音色で、でもヴェルディやプッチーニの音楽がしっかり息づくところがやはりすごいところだと思っています。
元気でモリモリの若かったムーティと比べ、テンポは爽快ながら、ここでは落ち着きある雰囲気にもなっています。
しかし、歌いどころでは聴かせてくれますよ。味わいあるヴェルデイ。

Verdi_chally

こちらは、まだ30歳のシャイー
そりかえるくらいにガンガンくるかと思ったら大違いの大人の音楽。
テンポもゆったりめの慎重な歌い回しで始まるし、緩急の付け方も大きく壮大な音楽に仕上げています。
もっとイケると思わせるシャイーのこの序曲集。
その後のオペラ録音や演奏活動ではもっとシャイーらしい切りこみの良さがあるので、こちらは録音にあたって慎重になりすぎたのか。
ナショナル・フィルという当時活躍したロンドンの名手たちをそろえた録音専用のオケというところも熱くなれなかった要因か。
これはこれで完璧な演奏なのだけれども。
スカラ座との再録が先ごろ出たようで、そちらはまだ聴いておりません。

Verdi_sinopoli

シノーポリの38歳の録音は、ウィーンフィルとのもの。
シノーポリが存命であったなら、ヴェルディ、プッチーニ、ワーグナー、R・シュトラウスのオペラを全部録音してくれたに違いありません。
その考えぬかれた鋭い切り口でもって、オペラは音だけで聴いても舞台が脳裏に息づくように再生され、数々の問題提起も喚起してくれました。
この序曲集もなかなかユニークな演奏で、第一にウィーンフィルという有機的な存在が大きく、威圧的な音はひとつもなく、最初の3つの和音も柔らかなものです。
オペラを知り尽くしたオケと、鋭いメスを持った指揮者との不思議なコラボ。
柔和な雰囲気で行くかと思うと、後半の追い込みと熱さはなかなかの聴きものです。

今年いずれ取り上げる「運命の力」の全曲は、シノーポリ盤かM・プラデッリ盤にしようか、いまから楽しみです。

というわけで、ヴェルデイ全オペラ制覇への道のりは遠いですが、イタリアンコンダクター5人衆でまず遊んでみました。

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2013年1月26日 (土)

神奈川フィルハーモニー 第286回定期演奏会 下野竜也指揮

Mm201301

みなとみらい地区の一番好きな景色のひとつ。

この日は、月と雲もうまく収まりました。

あと14分で、コンサートが始まります。

いつもながらギリギリの行動は、我ながらどうにかならないものでしょうかね・・・。

Kanaphill201301

  ニコライ  「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲

  ハイドン   トランペット協奏曲

           Tr:三澤 徹

  ブラームス=シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲第1番

    下野 竜也 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

            
              (2013.1.25@みなとみらいホール)


ユニークなプログラムの1月の定期。
「マーラーとその時代、爛熟のウィーン」が今シーズンのお題目で、今回の演目は、「ウィーン」に関わりある4人と、マーラー後のシェーンベルクが爛熟の世紀末ということで、きれいに収まった感があります。

下野さんならではの曲の配置に、今シーズンの目玉のひとつとして期待しておりました。
小柄だけれど、その指揮姿は安定感ありひとつもブレません。
後ろ姿を見ている私たちには安心感があり、その指揮を見つめる楽員さんたちからは信頼感がきっとあるのでしょう。
この日も、オケの皆さんは音楽に入り込んで、時に微笑みつつ、いきいきとしておられました。

楽しくセンスあふれるニコライの序曲。
いまにも幕があがりそうな、そんな雰囲気にあふれた感興満点の桂演でした。
年初めの定期演奏会の幕開きに相応しい音楽に演奏です。

首席トランペットの三澤さんが登場のハイドンの協奏曲。
神奈フィルのマーラーやシュトラウスで、輝かしいソロを聴かせてきた三澤さん、少し緊張の面持ちで、聴くこちらも緊張が伝播してしまいそう。
でもすぐにほぐれていつもの煌めくようなトランペットを響かせてくれました。
楽器一本で、ホール一杯に音を満たしてしまう、そんなトランペットっていう楽器はスゴイと同時に怖いイメージもありますが、三澤さんの音色は優しく柔和で、耳にとても優しいものでした。
奏者泣かせの緩徐楽章。いつも思うのはドイツ国歌、すなわち同じハイドンの皇帝四重奏曲に似ていること。トランペットを静かに吹くのは難しいことと実感しましたし、罪な曲とも思いましたよ。
鮮やかで爽快に曲を閉じると、まずは心温かい仲間たちからの祝福の拍手。
メンバーがソロをつとめたときに、オケのみんなの演奏ぶりと、演奏後のうれしそうな姿をみるのは毎度楽しく心温まるものです。
ホンワカ気分となりましたハイドンでしたね。

休憩後は、お楽しみのブラ・シェン。
手持ちのツェンダー盤とエッシェンバッハ盤でもって、今回はギレリスの四重奏版も加えて徹底的に聴きこんでいどんだ本番だけに、音のひとつひとつ、旋律のどれもこれもが耳に親しく馴染んでどんどん飛び込んでくる、あっという間の40分間でした。
聴きながら痛感したのはここにある明らかな世紀末の響きで、すなわちシェーンベルクのもの。
それも当時アメリカにいて12音技法も極めてしまったのちに、若い日々の後期ロマン派の響きに帰りつくといった感があって、ウェーベルンのパッサカリアを思い起こしてもしまった。
アメリカの学生や聴衆も意識して、平易な作風を心がけるようになっていたというシェーンベルクですが、遠い故国やヨーロッパを思う望郷の響きも今回の演奏に感じることができました。

とうのは、下野さんの指揮は、哀感あふれる場面で思いきりオケを歌わせ、心憎いほどに聴いてるわたしの気持ちを刺激してくれちゃうのですから。
第1楽章の第2主題は、思わずこっちも4拍子を取りたくなっちゃうほどに、感情あふれる歌い回し。
3楽章のこれぞブラームスのロマンともいうべき、いぶし銀的な優しい旋律はじっくりと、深呼吸するかのように深々と。
はちゃむちゃなジプシー・チャルダッシュの4楽章の中にも、何度も楽器間で受け継ぎながら奏でられる哀愁のメロディーのチャーミングかつ連綿たる歌わせ方。
シモノーさんの揺さぶるような指揮に応えて、楽員さんたちも、本当に気持ち良さそうに、心を込めてのめり込むようにして演奏してましたよ。

それにしても、ブラームスの原曲が持っている楽章間・楽章内の多面性、それがシェーンベルクによって鮮やかな対比でもって引き出されているのを痛感しました。
ミステリアスな冒頭部分の音列にシェーンベルクが着目したのは別稿で書いたとおりですが、それがどんどん発展・進行してゆくさまを、オーケストラによって目の当たりするのは耳と目の贅沢なご馳走でした。
しかも、神奈フィルの美音が終始満載なのですからね。
 第3楽章の中間部に打楽器高鳴る行進曲が潜んでいるなんて思いもしません。
原曲の四重奏曲ではしっくりと収まっているんだけど、シェーンベルク版では、凶暴なくらいに突出してきて、別次元に連れていかれそう。
この楽章が印象深く静かに終わったと思うと、お一人様拍手が起きてしまいました。
それほどに、この楽章がふたつに聴こえて、もう4つの楽章が終わってしまったと思われたのでしょうか。
 2楽章も奇異なまでにふわっとした存在で、マーラーの怪しげでロマンティックな楽章のように感じられる。ここではホルンと、山本さんのチェロが素敵だったことを添えておきます。
 そして終楽章では興奮しましたね。炸裂する打楽器、唸りを上げるコントラバス、嘆き節のクラリネット、華麗なヴァイオリンソロ、どれもこれもがキマリまくり!
先に書いたとおり、下野指揮の着実な煽りは、最後、見事に爆発して、わたくしは興奮の坩堝。
思わずブラボーしちゃいましたぞ!

いやはや素晴らしいコンサートをありがとうございました。

ブラームスとシェーンベルクと下野さんと素晴らしい聴き手と、そしてそして、神奈川フィルに感謝です。

ということで、毎度お馴染みアフターコンサートで、ビールと紹興酒を飲みまくるのでした。

Seiryumon1

今回もお疲れのところ、楽員、楽団からそれぞれお越しいただき、さらに新しいメンバーもお迎えして、終電コースでございました。

Seiryumon2

心地よい酔いで、終電でウトウト。

満足の1日はこうして更けゆくのでした。

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2013年1月24日 (木)

ブラームス シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲 エッシェンバッハ

Sony_bill

もう終わってしまいましたが、ソニービル前のモニュメント。

「愛の泉」と名うたれ、募金すると、この色が数々のバージョンに変化をします。

人が多く、奇跡的にブルーのこの色を無人で撮影できました。

明日、金曜日の晩は神奈川フィルの定期演奏会。

渋いけれど、絶対的に音楽好きを刺激する攻撃的なプログラム。

  ニコライ  「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲

  ハイドン   トランペット協奏曲

           Tr:三澤 徹

  ブラームス=シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲第1番

    下野 竜也 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

             2013年1月25日 (金) 19:00 みなとみらいホール

Brahms_scheonberg_eschenbach

   ブラームス=シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲第1番

      クリストフ・エッシェンバッハ指揮 ヒューストン交響楽団

                       (1995.9 @ヒューストン)


本記事は、過去記事や別稿に書いたものを引用いたします。あしからず。

ブラームスピアノ四重奏曲第1番は、1861年の作品で、晦渋な雰囲気を持ち、難曲ともされ、とっつきはあまりよろしくない。

その76年後の1937年、シェーンベルクが大オーケストラ曲に編曲した。
そして曲は、ブラームスの交響曲第5番とも呼ばれるような風格溢れるユニークな作品に変貌した。

シェーンベルク(1874~1951)はブラームスやJ・シュトラウスが好きだったらしく、ブラームスを通じてモーツァルトのリリシズムや起伏あるフレーズ、切り詰められた構造、組織だった作曲技法などを学んだと言っている。
もともとブラームスが大好きで、大いに影響をうけたシェーンベルクですが、ごく初期の番号なしのまさに0番の弦楽四重奏曲は、まんまブラームスであります。

ブラームスから大いに後押しされていたツェムリンスキーと知己を得て、師と仰ぎ、やがては自分の妹がツェムリンスキーと結婚して義兄弟となるふたり。
ツェムリンスキーからは、ワーグナーとマーラーという巨星の影響も受けるが、ウェーベルンとベルクという弟子と仲間を得て、その音楽は無調からやがて12音技法へと進化していった。

ブラームスの主題の展開と導き方に関し、思わぬ斬新さに大いに着目していて、そうした若い頃からのブラームス好きがあいまって出来上がった作品。

ナチス台頭によるアメリカ亡命後、寒い東海岸で病をえてしまい、西海岸ロサンゼルスに移動。
1937年、当時ロサンゼルスフィルの指揮者だったクレンペラーの勧めもあってこの曲の編曲に踏み切ったわけで、当然にクレンペラーが初演者であります。

この曲の解説には必ず出てくるシェーンベルクの言葉がこちら。

①「この作品が好きだった」

②「この曲があまり演奏されない」

③「たまに演奏されたとしても、あまりよくない演奏ばかり。よいピアニストほど、大きく鳴らしてしまうので、あなた方には弦が聞こえなくなってしまう。   一度そのすべてをわたしは聞いてみたい。ゆえに、挑戦したのだ。」

②と③については、いまやそんな思いはないのではないでしょうか・・・・。

冒頭の上下するト短調の第一主題のほの暗さと斬新な音の運びにシェーンベルクは着目していて、この冒頭を、木管のミステリアスな出だしで開始し、それが弦に広がり、徐々に分厚いサウンドに展開してゆくさまを、ブラームスの語法でもって完璧に再現している。

この動機の反転ともいうべき音の配列の例は、シェーンベルクを始めとする新ウィーン楽派たちも好んで採用しており、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲、ベルクのヴァイオリン協奏曲、ルルなどにも伺うことができる。

シェーンベルクは、ブラームスのスタイルにしっかりと固執しつつ、ブラームスがいまその時代にあったならばしたであろうやり口でもって再現したと自信を持ちつつ確信しています。

その後に生まれるブラームスの交響曲第1番の前に、そのブラームスは、もう交響曲の萌芽をここに生み出していて、ベートーヴェンの10番とも言われた第1交響曲の作曲者のこのピアノ四重奏曲は、シェーンベルクによって、ブラームスの第5交響曲として現出されたのであります。

4つの楽章のしっかりとした構成感。
一方で、悲劇的な要素へ傾き、それを打破せんとする決然とした勇猛感。
神秘的なまでの抒情と最後の民族的な異国感あふれる大爆発。

ブラームスのオリジナルのこれらの要素は、シェーンベルクによってしっかりとオーケストラの中に取り込まれ、倍増もされていて耳に斬新かつ圧巻。 

ブラームスの作品にはあきらかにない響きは、輝かしい金官、とくにトランペット。
グロッケンシュピール、スネアドラム、バスドラム、シンバルなどなどの打楽器の数々。
あまりにブラームス的なおおらかな3楽章の間に挟まれた行進曲と、終楽章のハンガリーのリズムが交錯し、クラリネットや弦のソロたちが最後に哀愁あふれるハンガリーを表出したかと思ったら、激しく舞い踊るようにしてダイナミックな終結を迎えるのです。

新ウィーン楽派の音楽を思いのほか好んで演奏、録音しているエッシェンバッハ。
ピアニストとしてもブラームスの元の曲を弾いて極めた結果として、このシェーンベルク版に取り組んでいるわけで、悠揚せまらぬ堂々たるブラームスを聴かせると同時に、打楽器のギラギラとした響きがいびつに感じるくらいに、異様なるシェーンベルクサウンドも同時に鳴らしつくしているところが、いかにもこの指揮者らしいところ。
3楽章の入念な歌いぶりも聴き応えあり、終楽章のチャールダッシュでは激しい興奮を味わえます。

神奈川フィルの美音で聴くことのできる明日の演奏会。
楽しみでなりませぬ。

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2013年1月23日 (水)

新ウィーン楽派による「J・シュトラウス」

Akabane1

ちょっと華やか、でもこの駅前を発し、ちょっと行くと、そこそこの場末感としみじみとした庶民感覚がしっかりと味わえる、ここは北区赤羽。

最近、お気に入りの街です。

広くはないけど、ぜんぶあり、ぜんぶ心地よく人懐こい。

Akabane2

よく見れば、AKABANE、軽くうかがえばAKB。

ナイスじゃございませぬか。

今日は、シェーンベルクを中心とする新ウィーン楽派の面々による、ウィーンの彼らのちょっと前のトレンド、先達のJ・シュトラウスのワルツの編曲バージョン作品を。

神奈川フィルの定期公演の演目のお勉強の流れで。

  ニコライ  「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲

  ハイドン   トランペット協奏曲

           Tr:三澤 徹

  ブラームス=シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲第1番

    下野 竜也 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

 2013年1月25日 (金) 19:00 みなとみらいホール

Strauss_schoenberg

  J・シュトラウス 「皇帝円舞曲」 シェーンベルク編曲

            「南国のばら」  シェーンベルク編曲

            「酒、女、歌」   アルバン・ベルク編曲

            「宝石のワルツ」 ウェーベルン編曲

      ボストン交響楽団 室内アンサンブル

                      (1978 ボストン)


あまりに有名な喜遊感たっぷりのウィンナ・ワルツの名曲の数々は、わたしたち日本人には、NHKが放送してくれるきらびやかな黄金のムジークフェラインでの映像とともに、甘く切ない休日音楽としてすりこまれ、認識されているかと思います。

そのワルツを、約40年ほど活躍期があとのウィーンの次ぎの世代がサロン風な親密な音楽にしたてあげたのがこれらの編曲バージョン。

シェーンベルクはアマチュアから発し、ツェムリンスキーの強力な後押しを経て、「浄夜」や「グレの歌」で成功を勝ち得たものの、ウィーンではなにかとユダヤの出自が足を引っ張るものとなった。
真正ユダヤ教も隠し、プロテスタントしてふるまいつつも、かくなる不遇。

一方で、ベルリンではキャバレー・ソングで小金を稼ぐこともしたが、でもやがてRシュトラウスに認められたりして、音楽界の中央に出るようになり、私的な音楽レッスンで知り合ったウェーベルンとベルクとは完全に意気投合し師弟の間柄となる。
1904年のことだが、彼らの連動作業は、1920年代、J・シュトラウスのワルツの室内楽化で三者三様の成果をもたらすこととなりました。

さらにそれぞれ、弟子は先生の作品を、先生はバッハやブラームスといった偉大なドイツの先達を、ウェーベルンはさらにバッハを極め、ベルクは同時代のシュレーカーを、といった具合に各自が驚きの編曲の成果を出しているところが、この新ウィーン楽派の類い稀な存在であります。

上記のように、この音盤に収められたそれぞれは、J・シュトラウスの原曲が1880~90年代ということで、彼らの編曲バージョンとは30~40年ほど経た頃あいのもの。
第一次大戦後、次の戦争前のある意味怪しい爛熟期にあり、マーラー後、シェーンベルクと一派たちは無調から12音へと変転の頃。
日本は、大正時代の上向き文化吸収時代でありました。

3人の個性は、さほど明確ではありませんが、ピアノやアルモニウム、打楽器の多用が目立ち、妙に不安感をつのるのがシェーンベルク編。
優しくマイルドで、原作に響きが忠実、かつロマンティックなベルク版。
室内楽的で精緻な細やかさを持ち繊細かつ透明感あふれるウェーベルン。

当時のコンマス。シルヴァーシュタインが中心のベラボーにうまいボストン響のアンサンブルのこの演奏は、まったく素晴らしくって、味わいと機能性とにかけてません。
DGの名作のひとつです。

あとアルバン・ベルクSQがこれらに自在な演奏を残してますが、それはまた別の機会に。

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2013年1月21日 (月)

黒いにゃんにゃんは、ワイルドだぜぇ~

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タイヤの前にたたずむ黒いヤツ。

タイヤと同質化しちまってますぜ。

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愛想なしかと思ったら寄ってきましたよ。オラオラ!

Kuro_kobe_3

近づくと、意外と端正なイケメンじゃん。

お耳がちょっと痛々しい。

お腹のあたりの毛が白いのもよいね。

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と思ったら、落ちていた食べ物と思われる何かに食らいつくこのお姿。

ふんがぁ~

あまりのワイルドぶりに、あたしゃ引いてしまいましたよ。

黒いにゃんこは、野生的で闘争心あふれて見えるのでした。

でも、黒猫にはどこか魅かれるんですよね。

ミステリアスな存在ですが、単に黒いだけで、可愛いにゃんこには変わりはない。

黒も白も、みんな好きなさまよい人なのでした。

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2013年1月20日 (日)

ニコライ 「ウィンザーの陽気な女房たち」 クーベリック指揮

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資生堂パーラー銀座の建物には、季節に応じてレトロでちょっとポップな飾り付けや、ちょっとした覗き窓がありまして、お店に入らなくても、こうして楽しめちゃいます。

今日は、1月の神奈川フィル定期演奏会で、その冒頭に演奏される序曲のそのオペラ全曲を聴いてみました。

  ニコライ  「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲

  ハイドン   トランペット協奏曲

           Tr:三澤 徹

  ブラームス=シェーンベルク編 ピアノ四重奏曲第1番

    下野 竜也 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

            2013年1月25日 (金) 19:00 みなとみらいホール


ユニークなプログラムでしょ。
今シーズンのテーマ、「マーラーとその時代、爛熟ウィーンへの旅」。
ウィーンゆかりの作曲家に、マーラー後のシェーンベルク。
なんとも味わい深い、下野氏ならではの演目です。


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  ニコライ  「ウィンザーの陽気な女房たち」

   サー・ジョン・ファルスタッフ:カール・リッダーブッシュ 
   フォード(フルート氏):ウォルフガンク・ブレンデル
   ペイジ(ライヒ氏):アレクザンダー・マルタ
   フェントン:クラウス・ハーカン・アーンショー スレンダー:ヘインツ・ツェドニク
   カイウス医師:アルフレッド・シュラメク 
   フォード夫人:ヘレン・ドナート   ペイジ夫人:トゥルーデリーゼ・シュミット
   アンナ・ペイジ:リリアン・ズキス
   
      ラファエル・クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団/合唱団

                          (1977.4 @ミュンヘン)


オットー・ニコライ(1810~1849)は、ウィーン・フィルの創始者で知られ、作曲家としては、オペラ「ウィンザーの陽気な女房たち」の序曲ばかりがやたらと有名です。
しかし、その生没年を見ると、39歳の早世で、生前係わりのあったメンデルスゾーンとほぼ同じ活躍時期で、シューマンやショパン、少し遅れてのブラームスなどが音楽年譜に見てとれます。
ロマン派まっさかりのニコライなのです。
オペラは5つ、交響曲や管弦楽作品もあるようです。
プロイセン出身のドイツ人で、ウィーンとの係わりはさほどは深くないところが、実は面白いところです。
というのも、最後のオペラとなってしまった、「ウィンザー・・・」がウィーンでは上演できず、ウィーンを去ってベルリンに職を得て、その地で初演にこぎつけたのです。
その後間もなく亡くなってしまうニコライなのでした。

独語による喜劇的なオペラ芝居、ジングシュピールのカテゴリーに属し、モーツァルト、ウェーバー、マルシュナー、ロルツィングらに並ぶ系譜にニコライの名をしっかり刻んだ桂作です。
原作は、いうまでもなく、シェイクスピアの同名の戯曲で、ヘルマン・フォン・モルゼンタールの台本によるもの。
原作にほぼ忠実な内容です。

この物語のオペラ化で、まっさきに思い浮かぶのが、ヴェルディの「ファルスタッフ」で、80歳の最晩年のヴェルディの自在な境地を味わえる名作ですが、そちらは、「ウィンザーの陽気な女房たち」に加え、同じシェイクスピアの「ヘンリー4世」も加味した台本(ボイート作!)となっているところが一味もふた味も違うところです。

その他に、サリエリ(ファルスタッフ)とヴォーン・ウィリアムズ(恋するサー・ジョン)もオペラとして残してますし、エルガーはオーケストラ曲としても書いておりますから、シェイクスピアの原作がいかに多くに作曲家の筆を刺激したかがよくわかります。

全3幕7場、2時間10分の適正サイズで、その音楽は序曲が楽しめる方ならだれでも聴きやすく、明るくて生き生きとした内容となってます。
有名なナンバーやソロはありませんが、そんな中でも、お気に入りを見つけ出すのもあまり知られていないオペラを聴く楽しみです。
 でもどちらかというと、アンサンブルやドタバタぶりを楽しむのがこのオペラのような気がしまして、きっと舞台や映像では面白みが増すものと思いました。
正直、音源だけではちょっと地味なのです。

録音では、かつてEMIにFDの主役の音源があったはずですが、その後にDGからクレー盤、デッカから今回のクーベリック盤、CPOからシルマー盤、さらにクナッパーツブッシュのライブが復刻されているような状況で、映像はまだないと思われます。
FMでかつて放送されたサヴァリッシュのミュンヘン上演を、わたしは録音して楽しんでましたが、いかにもサヴァリッシュらしい、きびきびとした明快な演奏に記憶してます。

そして、日本では昨年、ウィーン・フォルクスオーパーが来演して、この作品を上演しております。ウィーンでも新演出されたばかりのホットな舞台を日本でも指揮したのが、われらが神奈川フィルの首席客演指揮者に就任するヤッシャ・ゲッツェル氏なのでした。
本場でも絶賛されたゲッツェルの指揮は、さぞかし鮮やかなものでしたでしょうね。

さて、今日の音盤の指揮はクーベリック。
バイエルン放送響が、いまのようにやたらと高性能になる前の、まだ少し南ドイツ風の温かみと素朴な音色を持っていた頃。
ふくよかな音響はとても魅力的で、冬のこの時期には温もりをと木質感を感じさせるものでした。
クーベリックの芸風は、ドイツでもないし、生国チェコでもない、明るくかつ陰りのない健全な音楽造りで、神経質な風貌や故国を出た悲壮感など、まったく感じさせないものだと、常々思っていた。
明るい、ここニコライのオペラでも、クーベリックのこだわりない伸びやかな意向が発揮されていて、オケの特性と相まって、とても朗らかで気分のいいものでした。
欲をいえば、遊びが少なく感じるところでしょうか。
ちょっと真面目すぎでしょうか。

わたしにとっての最高のドイツ・バス歌手、故リッダーブッシュの味わいあるファルスタッフは思わぬ贈り物のように、忘れていたドイツのよき姿を思い起こすような縁(よすが)を感じさせる歌唱でした。彼のザックスが、そして懐かしく思い起こせました。
ブレンデル、マルタ、ドナート、シュミットらのドイツ浪漫派の典型ともいうべきしっかりした歌い口、そしてツェドニクの芸達者ぶり、アーンショーとズスキの若い、80年代的な甘口の歌唱。
いずれもわたくしには今風でない、よき日々の歌声です。

かんたんなあらすじ。

一線を退いた、元騎士ファルスタッフは、いまやお金にも窮し、ウィンザーの街の名士、フォード氏とペイジ氏の奥方様たちにとりいり、つまりは一方的に懸想することで、経済的な苦境からの脱出をはかっているところでした。

オペラはここから。

①同じ恋文をもらったフォード夫人とペイジ夫人。犯人のファルスタッフをやっつけようと意気投合。
主人の留守中にやってきたファルスタッフ。妻を怪しく思ったフォード氏が帰ってきて、ファルスタッフは機転を利かせた婦人たちによって、洗濯かごの中に隠れ、そのかごは、そのまま冷たいテムズ河にドボン。

②馴染みのガーター亭で朝食に着こうとした悔しいファルスタッフのもとには、、昨夜をわびる夫人の手紙。加えて姿を変えたフォード氏が妻の不貞をあばくため、誘惑してほしいとの依頼。ほくほくのファルスタッフ。

ペイジ夫妻の愛すべき娘アンナは、相思相愛の若い騎士フェントンがいるも、両親は反対。逢引前に、ふたりの親のそれぞれ推す旦那候補がやってきてドタバタ。
結局、二人のラブソングが歌われ、このオペラ随一のロマンティックな音楽となります。

フォード亭に潜入したファルスタッフは、夫人を誘惑しようとしますが、またも帰ってきた主人に邪魔をされ、思わず、フォード氏が大嫌いな大叔母に化けますが、氏に撃退され逃げ帰ります。

③それでも懲りないファルスタッフに、婦人たちは、彼をウィンザーの森へと誘いだします。
ペイジの娘アンナは、両親がそれぞれ推す夫候補が、この機に乗じる作戦を聞きつけ、アンナの夫候補をだます工夫を事前にほどこします。

森に、鹿のいでたちで舞い込んだファルスタッフに、もものけに扮した街の人々や子供たちが襲いかかります。おののくファルスタッフ。
お互いが求めるアンナと思いこむ変装した両親推薦のカイウスとスレンダー。
うまく乗じて結ばれたアンナおフェントン。
ごめんなさい、わははっのファルスタッフ。
すべては笑いの中に、円満解決の物語。

屈託なく、楽しい音楽と物語でした。
   

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2013年1月19日 (土)

ヴァイオリンのためのソナチネ 

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水仙は海沿いの街々では、いまからが真っ盛り。

この花の香りは、高貴で甘いです。

群生に近づくと、遠くからでもほのかな香りがします。

楚々としたなかに、しっかりとした存在感がある花です。

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  ヴァイオリンのためのソナチネ 嬰ハ短調

         Vn:大谷 康子

         Pf:藤井 一興


佐村河内音楽の本格CD第2弾の「シャコンヌ」の中から「ソナチネ」を。

大きすぎる交響曲が聴けないときは、趣向はことなりますが、9分に満たないこの「ソナチネ」を寝る前などに聴いたりします。

先の、NHK放送でも放映されてましたが、先天性四肢障害を持つ大久保美来さん(12歳)のために書かれた作品で、彼女がこの曲を先生のもとで弾いている姿は忘れえぬ感動的なものでした。
さらに、いまはもう見れませんが数年前の、テレビ朝日での佐村河内さんの特集の中で見た、彼女に捧げられた「左手のための小品」も、とても歌にあふれた愛らしい作品でした。

CD解説にあるように、「障害や難病を持った子供たちの励ましに支えられるうように作曲した」ということです。
佐村河内さんの音楽に共感し、心酔するわたしたちにとって、氏の音楽の魅力は、こうした全人的な優しさにあふれたところにもあって、曲の聴きやすい、平易な雰囲気も大いにプラスとなって感銘溢れるところの所縁なのです。

音楽は、フランス・ロマン派風の香り高いムードが横溢してます。
わたくしは、初めて聴いたとき、フォーレのような切なさと気品を感じました。
加えて、熱いパッションもです。

かの交響曲と同じく、いまこうして、過去に軸足を置くような全音階的かつ、切ない音楽を作り上げてしまうところに、ここでも感嘆とともに、うれしさを覚えるのです。

優しい心根にあふれた佐村河内音楽です。

そして、きっと近いうちにまた、心揺さぶる氏の音楽が登場せんことを祈りたいと思います。

あと1カ月に迫りました、東京での交響曲の演奏会。
わたくしも思いがますます募ります。
そして、繰り返しになりますが、佐村河内さんの名前をお教えいただいた辰之さんのコメントに感謝感激です。
あらためまして、御礼申し上げたく、弊プロフィール欄からご連絡いただけましたら幸いです。

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2013年1月18日 (金)

シューベルト 「冬の旅」 プレガルディエン

2013114

今週14日の雪景色。

自宅からのぞんだ景色は、雪国のようでした。

午前中は激しい雨と風。

午後から雪となりかなり積もりました。

降雪時は完全にモノトーンの世界。

一夜明けての晴天では、眩しい白と青空が美しかった。

雪に慣れた方々には申し訳ないくらいに高揚感がありました・・・・。

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  シューベルト 歌曲集「冬の旅」

      T:クリストフ・プレガルディエン

      Fp:アンドレアス・シュタイアー

               (1996.3 @ケルン)


真冬のいまに「冬の旅」。

今年の冬はともかく寒くて、心身ともに堪えます。

少し前までは、暑いのが苦手で、寒さは全然平気だったけれど、昨年くらいから、暑さばかりか、寒さにもダメになってきて、ガクガクして体が縮こまってしまい、肩が凝ってならない。
この寒さには細心の注意を払ってます。
急にバタンは困りますからね。

でも、寒い時期ほど、寒い方向へと旅がしたくなります。
東へ、北へです。
かつて仕事柄、東北・北海道への出張が多かったから、そのときは、旅気分も半分でした。
野辺地方面に電車で移動したとき、吹雪いて景色はすべて真っ白。
駅に着いて、地元の高校生がドアをプシュ~と空けて外へ出てゆくと、雪が風とともに車内に巻き込んでくる。そんな外へ、もちろん彼らは自宅へと帰ってゆく姿に、毎日晴天の地域から来た私は、逞しさと一抹の旅情を感じたものです。

あぁ、自分も、こんな雪の中に足を踏み入れ、なんのしがらみのない白い世界に入り込んでしまいたい・・・・・・、そう思ったのは現実からの逃避ばかりでなく、見知らぬ場所への「旅」の憧れからだったと思うのです。

シューベルト(1797~1828)の晩年、といってもまだ30歳の時分に作曲された傑作「冬の旅」。
つねに死と背中合わせのような陰りをその音符の裏側に感じさせるシューベルトの作品の数々。
その中でも、もっとも絶望的で、死とそして希望への憧れに満ちた陶酔的なまでの歌曲集。
歳とともに、この作品集が好きになってきた。
若い頃は、それこそ若者の気持ちを代弁するかのようなナイーヴな「美しき水車屋の娘」が、「春から秋」の青春の情景のように感じて好みだった。
でもいまは、それ以上に、人生「冬の旅」状態となり、こちらの歌曲集にこそ共感の度合いが強まってきている。

水車屋と同じくして、ミューラーの詩による全24曲の歌曲集。
そのすべてに味わいと含蓄が、その詩とともにあり、どこがどうということはおこがましくて私には言及できませんが、有名な「菩提樹:Der Lindenbaum」を例えると、その歌の美しい素晴らしさは当然として、ピアノ伴奏の主人公によりそうようにして、長調と短調を行きつ戻りつ、連音を奏でる鮮やかにして深遠なる運び。
時に伴奏に着目して聴いていると、思わずはっと、するときがあるのもシューベルトならでは。
この曲集の半ばで歌われる第16曲「最後の希望」
 

  とうとう葉は、地に落ちた
  それとともに、希望も尽きた
  ぼくは地面に膝をつき、たおれて
  落ちた葉の上で、泣き伏せた・・・・・・


ここを機に、主人公は希望もついえ、絶望を友にさすらうのですが、ここのフレーズのほんの一節の壮絶なる素晴らしさ。
シューベルトの最高の音楽は、ロマン主義の完璧なる発露であるかと思います。
歴代の歌手たちが、ここに熱き思いを込めて歌っているような気がします。

すなわち、F=ディ-スカウ、プライやホッターで聴くことの多い「冬の旅」。
でも、最近、テノールでの、シュライアーやヘフリガーで聴くことでも、あらたな「冬の旅」の素顔を見るような思いがしてます。
遅ればせながら、昨冬以来、しみじみと聴く機会のおおかったのが、今宵のプレガルティエン盤。
思えば、先にあげたテノールは、名エヴァンゲリストで、そのあとを継いだのがプレガルティエンなのです。
レオンハルトの禁欲的かつ暖かなマタイでの福音士家は、プレガルティエンです。
あのときのエヴァンゲリストの印象そのままに、主人公に同質化してしまって感じるプレガルティエンの歌唱は、最初の「おやすみ」からして、わたしの心と耳をとらえて離しませんでした。
ドイツ語の発声が美感に感じるほどの美しさ。
テノールの域にとどまらず、時に感じるバリトン的な深み。
そして、なによりも誠実で生真面目な歌い回しが、淡々としたなかに、ロマンと自在な思い入れを爽やかに載せていて、シューベルトの描いた主人公の苦渋をしっかりと捉えているように思います。
 加えて、シュタイアーのピアノがグランドピアノほどに語りもせず、とはいえ、シンプルななかにも明確な語り口があって、ほんのちょっとした語り口の中にも、切なくも素敵なのでした。

やはりこの季節は、求心的なシューベルトの音楽、「冬の旅」がお似合いです。
久しぶりに泣けました。

 過去記事

  「ハンス・ホッター&エリック・ウェルバ」

 「ルネ・コロ&オリヴァー・ポウル」

 「ヘルマン・プライ&ウォルフガンク・サヴァリッシュ」 

 

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2013年1月17日 (木)

ブリテン チェロ交響曲 ウィスペルヴェイ&聖響

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銀座和光の1月のショーウィンドゥ。

ギリシア神話の商売の神さまのオブジェに絡みつく、今年の干支、巳。

Wako_2

5つありました、それぞれ木・火・土・金・水というイメージなそうで、物事の根源であり、1年の季節の源でもあります。

なかなかに見ごたえあるウィンドウでした。

惜しむらくは、ここで待ち合わせる方が多く、彼らはこれに背負向けるばかり。
これを楽しみに眺め、写真も撮るワタクシには、ちょっとどいてとは言えない雰囲気なんです。

Britten_wispelwey

   ブリテン チェロ交響曲

      ~チェロとオーケストラのための交響曲~


        チェロ:ペーター・ウィスペルベイ

      金 聖響 指揮 フランダース交響楽団

                   (2009.11.29@アントワープ)


ブリテン(1913~1976)の傑作のひとつ、チェロ交響曲は、1963年、作者50歳の時の作品。
ブリテンのチェロのための音楽には、この協奏作品と、チェロソナタ、無伴奏組曲3曲がありますが、そのいずれも、1960年以降の作曲で、ロストロポーヴィチとの出会いと交流から生まれたこれらの名作たち。

ちょっと怪しい関係と充分に推察できるけれど、こうして残された作品の素晴らしさと、二人の共演で録音されたブリテン以外の演奏が、その楽曲の定番となっていることから、わたしたち愛好家からすると、本当に嬉しい出会いだったと認めざるをえない。

ロストロポーヴィチとブリテンもいまは亡く、彼らを音源でしか聴くことのできない世代から、またあらたなブリテン演奏が創生されつつある昨今。
生誕100年の節目は、まさに、自演やゆかりある奏者たちから離れて、ある意味で醒めた視点でもってブリテンを再生するという試みの年になるかもしれません。
もちろん、40年近く前に早世していたブリテンですから、ことにオペラの領域においてはそうした傾向は定番で、今後ますます拍車がかかり、レパートリーとして定着化していくわけです。

今回の演奏も、まさにそうでして、求道的なオランダのチェロ奏者ウィスペルベイと、ブリテンとはなんのゆかりもない、我らが金聖響と、ベルギーのフランドルオケ。

初演後46年を経てのこの演奏には、譜面を信じ、素直に音に置き換え、かつウィスペルベイ特有の磨き抜かれた美音と深みでもって、この難渋なる音楽をクリアーに置き換えているところが素晴らしい。
この人のチェロは、エルガーの協奏曲で2回ほど聴いていますが、中でも忘れられないのは、新潟のリュートピアホールで聴いたときのアンコールのバッハの無伴奏。
ホールの美しい響きをよく把握したうえでの神々しくも輝かしい音色だった。

聖響さんが首席をつとめるようになったフランダース響の歴史をさかのぼると、1960年。
ブリテンのこの曲とほぼ同じくするところが偶然ながら面白いです。
ヘルヴェッヘと、デ・ワールトのフランダース・フィルの方が実力も実績も上ですが、今後力を蓄えていくことを期待したいです。
正直、愛する神奈川フィルの方が力量と音色の素晴らしさで数等勝ってます。
ただ、録音のあり方含めて、その雰囲気が欧州なのでして、これはなかなかに真似のできるところではないのでしょう・・・・。

以前書いた、この曲についてのことを再褐しておきます。

>1963年、ブリテン50歳の充実期の作曲で、その頃の作品はというと、「カンタータ・ミゼリコルディウム」(これいい曲です)、歌曲のいくつかと、そして「カーリュー・リヴァー」。
かなり渋い音楽ばかりを創出していた時分で、東洋のエキソシズムなどにも感化し、ミステリアスな雰囲気と独特のリズム感などにも特徴を見出すことができる時期。
正直、この曲は難解でありますし、確たるメロディーの噴出もない。
でも、ブリテン特有のクールさと熱っぽさが、混濁した響きの中から立ち昇ってくるのを聴くと、五感を刺激されるような大いなる感銘を覚えることになるんです。
ブリテンの音楽をオペラ中心に何度も聴いてくると、そうしたことが必ず体感できるようになります。

 クールでかっこいい音楽、それがブリテン。

ラプソデックな第1楽章からブリテン節炸裂。
 スケルツォとしての2楽章は、短いけど、とらえどころが難しくチェロの目まぐるしい動きの背景で、オーケストラが明滅し、これ演奏者には大変じゃないかしら。
 アダージョ楽章。この時期のトレンドか、東洋風な神秘的アトモスフェアが忍びよってくる。こんなヶ所に痺れてしまうのがブリテン好きの所以。
そして、休みなく続く終楽章では、トランペットのソロが素敵すぎる。
ここは、パッアカリアになっていて、ちょっと古風な面持ちながらも、クール&ホットなブリテンの面目躍如たる音楽が満載。<

ちょっと手を抜いてしまった記事ですが、この曲は手抜き一切なしの名品です。
ブリテン&ロストロも含め、もっといろいろ聴いてみたいです。

過去記事

 「ウォールフィッシュ&ベッドフォード」


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2013年1月16日 (水)

カーティア・リッチャレッリ アリア集

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お正月の時分の菜の花。

雪とその後の寒さでもって満開には足踏みでしょうが、2月の半ばくらいまで楽しめます

願わくは、ここにずっととどまって、一日の変化、季節の変化を楽しんでみたい。

そう、住んじゃいたい。

Ricciarelli

  カーティア・リッチャレッリ in recital

         ベルリーニ 「カプレーティとモンテッキ」

    ドニゼッティ 「アンナ・ボレーナ」

            「ルクレツィア・ボルジア」

    ヴェルディ  「海賊」

             「運命の力」

    プッチーニ  「トスカ」

             「蝶々夫人」

    カタラーニ  「ラ・ワリー」

    チレーア   「アドリアーナ・ルクヴルール」

        ソプラノ:カーティア・リッチャレッリ

     ブルーノ・アマドゥッチ指揮 スイス・イタリア語放送管弦楽団

                     (1979,80 @ルガーノ)


リッチャレッリは、イタリアの生粋のソプラノで、1946年生まれ。

このところ名前は聴きませんが、まだ活躍中でしょうか。

声域はリリコ・スピント。スコットやフレーニがリリコからスタートして、徐々に声に力を加えていってスピントとなったのと違い、彼女は20代でデビューしたときからその実力を嘱望され、ドラマティックなロールもこなす逸材だったと記憶します。
デビューは、これも記憶の中ですが、「修道女アンジェリカ」とドミンゴと共演した二重唱、そしてガヴァッツェーニ指揮によるアリア集。
若くて美人で、まずはビジュアルからして、当時、重量系が多かったオペラ界に新風と嫉妬を巻き起こしたものです。
73年頃でしたでしょうか。
同時にデビューした、マリア・キアーラもビジュアルと歌の実力でも負けていなかったのに、ちょっと出遅れてしまったのも、レコード会社の戦略のせいだったと思ってる。

ともかくRCAが力を入れたリッチャレッリは、アバド、カラヤン、マゼール、デイヴィスら、そうそうたる指揮者に起用され、メジャーレーベルに次々に登場していった。
その多くは、ドラマティックな役柄だったけれど、でも彼女の本領は先輩と同じくリリコであったのではないでしょうか。
アバドやカラヤンはあえて、そうした歌手の選択をして、内面重視のオペラ造りをしたので、彼女も映えたし、その声が生きました。
でも、トゥーランドットはキツイなぁ・・・・

リッチャレッリを唯一聴けたのは、1976年のNHKのイタリアオペラの「シモン・ボッカネグラ」のマリア。
「シモン」が大好きなので、何度もその時のことは書いてます→「シモン」

ぽっちゃり度を少し加えつつあった彼女は、当時カレーラスとうわさもあって、一番輝いていたときだったかもしれない。

今日の音源は、79と80年のルガーノの春の演奏会からのライブで、録音状態もとびきりよく、リッチャレッリの全盛期の歌声を存分に楽しめました。
耳をくすぐるあざとさまで感じる歌い回しでもあるが、たぐいまれな美声と、低音にかけての振い付きたくなるような魅力と、対極にある艶のある鮮やか高音。
わたしの嗜好ゆえかもしれませんが、プッチーニ以降の作品での心惑わせる歌い口に、思わずホロリとされました。
イタリア語の語感も、とくにヴェルディにおいては美しく流麗で、耳が、そして心も洗われるような感銘を受けました。

こうしてつくづく聴いていると、人の声、歌手はいいです。
オケや楽器でも、その楽団や人、固有の音色があるのですが、歌手の声は歴然と判別できて、こうして往年の歌声を聴くと、自分が聴いて日々過ごしてきた過去が、その声でもって呼びさまされる思いがするのですよ。
最近の歌手たちは、いいと思って聴いていながら、実は名前も覚えられなくて、頭のなかで右から左。
自分の受容範囲も狭まってしまい、焦燥の念を抱きます。
でも、かつて聴き、親しんだ歌声を聴くとホッとして、そんな思いも救われた気がします。
明日はまた、どう思うかわかりませんが・・・・。

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2013年1月14日 (月)

ひとんちの安らかにゃんにゃん

Nemuri

成人式を迎えた娘が撮ってきたお友達家のネコ第3弾。

今日は雪と風の厳しい1日でしたが、今日が成人式の若者は、その家族も含めて大変でしたでしょうが、こんな日は、ずっと忘れられないものになったでしょうね。

もう30年以上前のわたしの1月15日は、ほとんど記憶がありませんから。

わが方は、晴天の昨日がその式で、やれやれでした。

まったくもって愛らしくも、無防備に安心しきったこのにゃんこ。

癒されますなぁ~

Nemuri_2

こんなくっきりと、めんこいお顔なんです。

ええなぁ~

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2013年1月13日 (日)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 バレンボイム指揮

Nihonmaru

横浜みなとみらい地区にある「帆船日本丸」。

1930年・昭和5年建造で、50年以上現役だった帆船。

Nihonmaru2

帆を張って風に乗って走る様子はさぞかし美しかったでしょうね。

高層ビルや観覧車とのコントラストもしっくりと溶け合ってます。

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   ワーグナー 歌劇「さまよえるオランダ人」

     ゼンタ:ジェーン・イーグレン   オランダ人:ファルク・シュトルックマン
     エリック:ペーター・ザイフェルト ダーラント:ローベルト・ホル
     マリー:フェリシティ・パーマー  舵手:ロラント・ヴイラソン
  

    ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
                       ベルリン国立歌劇場合唱団
                          
                          (2001.5 ベルリン)


生誕200年のワーグナー。
まず第1回目の全曲サイクルは、初期3作(妖精、恋愛禁制、リエンツィ)を除く、主要7作を順に取り上げます。
初期作は、いずれも性格の異なる聴けばそれはまた面白い作品たちで、いずれもサヴァリッシュの音盤と「妖精」は舞台体験をそれぞれ記事にしてますので、ワーグナーの項目でご覧になってください。
ほかに有力な音源が少ないので、今年後半に手当てできれば、10作品のサイクルをやりたいと思ってます。

このようにして、全部まるごと味わわなくてはいられないワーグナーの魅力。
ひとは魔力とも言うかもしれませんが、初のワーグナーのレコード、「ベームのリング」に接してから、そう今年でちょうど40年ですから、わたしには慣れ親しんだお友達みたいな世界です。

指揮者でも、ワーグナーにどっぷりの人が何人もいます。
そのひとり、バレンボイム。
ピアニストとしてモーツァルトの弾き振りをしていたバレンボイムが、まさかこんなワーグナー指揮者になるなんて想像もできないことだった。
バレンボイムの初ワーグナーは、71年頃のイギリス室内管との「ジークフリート牧歌」。
そのあとほぼ30年で、初期作を除くすべての作品の全曲上演と録音をしてしまう。
日本でも、リング、ワルキューレ、パルシファル、トリスタンを上演・演奏してくれてる。
恐ろしいタフネスぶり。

ちなみに、ワーグナーを初期作を含む全作品をひとりの指揮者で聴けるのは、非正規も交えるとして、唯一サヴァリッシュのみ。
初期を除いては、ショルティ、カラヤン、バレンボイム、レヴァインでしょうか。
ヤノフスキが完成に近づいているのと、ティーレマンもいずれは。
あと自慢ですがね、自家製放送音源を含めて、シュタインも全作コンプリートしてますよ。

初期作品があるので、オランダ人は中期とも呼べる作品群とみてとれる。
それは、タンホイザー、ローエングリンとの3作で、ワーグナー自身も呼んだ「ロマンティックオペラ」という範疇で、神話や伝説に題材をもとめ、登場人物たちの個々の存在感も増して音楽の劇性もより強まっている。
なによりも、ライトモティーフの活用が堂にいってきているので、ドラマと音楽がより一体化してくる。
 オランダ人では、因習的な形式などから脱却はまだできておらず、構成的にも少し散漫な印象を与えますが、ワーグナー作品の中では一番短いし、幕間をとらず、3幕一挙に連続することで、緊張感を保持しつつ一気呵成のオペラに転じることとなりました。

海を呪ったがゆえに、幽霊船に乗り永遠に大海をさまよう運命を背負った暗い宿命のオランダ人。そのオランダ人に心から同情する不思議女性ゼンタ、最後は自身が海に身を投げることで、オランダ人の呪縛を解き、二人昇天する。

ここに描いたゼンタというひとりの女性の行いが、「自己犠牲による愛の救済」で、ワーグナーはこのテーマを自作「タンホイザー」から突き詰めていくことなるわけです。

というのは、1841年完成のこの「オランダ人」の初稿は、音楽のうえでの救済によるふたりの変容がなく、1860年に序曲の演奏用にその終結部を改編し、おのずとオペラの終結部も書き加えることになったから。
トリスタンのあとあたりの時期です。

序曲はほぼ100%そのバージョンですが、オペラの方は、救済なしの初稿を取り上げる上演や録音も増えております。
私的には、慣れ親しんだ救済ありバージョンで、運命の二人が手を取り合って昇天してゆく場面はどうしても欲しいところです。

今回、発売以来久しぶりに聴いたバレンボイム盤は、しかし、救済エンディングなしのバージョン。
ローエングリンでも長めの初稿を採用していたので、この少しばかり原石のようなごつごつ感のある初稿による録音は、バレンボイムのこだわりとして、それが強い説得力でもって迫ってくる演奏となっている。
それにしても最初から最後まで、集中力が高く音はひとつひとつ迫真に満ちている。
分厚いオーケストラの充実ぶりも聴きもの。
かつてのスウィトナーの柔らかさと、ドイツのオケ特有の腰の座った響きがそれぞれに魅力的なのでした。

歌手は、ちょっと小粒に感じる。
イーグレンは声の威力は充分ながら、ちょっと大味。
シュトルックマンの少しクセのある声は、独特の雰囲気を醸し出していて、声量もたっぷりで聴きごたえありですが、わたしはかつてのT・ステュワートやアダム、ヴィナイ、クラス、FDといった往年の歌手の方を懐かしく思い出してしまうのです。
ホルも、驚きのヴィラソンの舵手も、いいけれどどこか遠く感じます。
しかし、ザイフェルトは素晴らしい。つややかな声と透明感にあふれた現代的な歌唱です。

オランダ人というオペラは、暗めのバリトンと、キツめのドラマティックソプラノを要する実は難しい作品なのです。
オケばかりよくてもダメなのは、かつてのカラヤンとショルティが、それぞれのスーパーオケばかりが目立ってしまい、やたらとシンフォニックになってしまうということにもなりますから。

この作品のわたしのベストは、ベーム盤であります。

「さまよえるクラオタ人」の「さまよるオランダ人」の過去記事

「デ・ワールト指揮 二期会公演」

「バイロイト2005年度」

「ショルティ指揮シカゴ交響楽団」

「新国立歌劇場2007年公演」

「コンヴィチュニー指揮ベルリン国立歌劇場」

「ベーム指揮バイロイト音楽祭1971年」

「サヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場DVD」


「ライナー指揮メトロポリタン」

「サヴァリッシュ指揮バイロイト1961」

「ヤノフスキ指揮ベルリン放送管」

「ティーレマン指揮バイロイト2012」

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2013年1月12日 (土)

チャイコフスキー 「くるみ割り人形」 ストコフスキー指揮

Daishi2013_1

縁起ものが勢ぞろい。

川崎大師の参道には、こんなお店がいくつかありますが、今年はお客さん少なめに感じましたね。

Daishi2013_2

お参りの楽しみは屋台めぐりをして一杯。

屋台の飲み物はむちゃくちゃ高いので、今年は秘策を編み出しました。

Daishi2013_3

恒例(?)の不謹慎賽銭覗き

今年は紙幣多し。

Kawasakidaishi2Daishi2011

    2012                   2011

Daishi_2010Daishi_2009_a

   2010                     2009

こんなことしてバカですよね。

景気を占う賽銭覗き、今年はいい年になるといいですねぇ

Tchaikovsky_stokowski

   チャイコフスキー バレエ組曲「くるみ割り人形」

  レオポルド・ストコフスキー指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

                         (1973 ロンドン)


三大バレエ、最後は晩年の「くるみ割り人形」。

メルヘンの世界を、そのドラマに負けないくらいに夢見るファンタジーの音楽にしたてあげたチャイコフスキーはまぎれもない天才です。
病死がなければ、さらなるバレエやオペラ、そして交響曲も9番を超える数字を残したかもしれませんね。

昨今はソフトバンクの定番音楽になってしまったくらいに、全曲も組曲も耳になじみやすい。全曲も長くないし、一夜のコンサートにも可能。
ゲルギーが1CDに収まる快速調で絶対に踊れない音源を作ってしまうのも、この曲がおおらかな名曲たるゆえん。

今日は、ストコフスキー91歳のときの録音で。
ストコフスキーは1882年生まれだから、くるみ割りが完成した年(1892)には、10歳の少年だったわけだ。
快刀乱麻のストーキーさん。
すっとこスキーじゃないですよ。
某ショップで、ストコウイスキーとタスキに書かれていて笑わせていただいたこともありますよ。

90を超えてもやってくれてます。
すごいテンションとあっと言わせるキテレツ大百科ぶり。
思えば亡くなるまでずっと変わらなかったストコフスキーさんです。
いま当時の音源をあれこれ聴いて、その面白さと意外なまでのまっとうぶりに、存命のおりにちゃんと聴いてこなかった自分が悔やまれます。

フィリップスとCBSに、従来のデッカとRCAとともに録音し始めたのも90歳を超えてから。
すごいことです。

で、この「くるみ割り」の面白さ。
生き生きと弾む心地よい「小序曲」は、普通にステキな演奏です。
ところが、むちゃくちゃ早い「行進曲」に度肝抜かれます。
オケも大変、よく着いていったもんです。小走りの行進曲ですぞ。
「こんぺいとう」は、今度はリタルダンドかけまくりの劇遅で、前につんのめりそう。
ピチカートでなく、一部トレモロを使うところが斬新でびっくり。
「トレパーク」は、以外にも、しごくまともですが、若いね。
ねっとりと濃厚な「アラビアの踊り」はポルタメントも粋です。
どんどん早くなる「中国の踊り」。
愛らしい「あし笛の踊り」は、テンポの緩急が自在で、聴き手の耳を捉えてやみません。
そして、最後、夢見心地に誘う「花のワルツ」では、巧みな棒さばきで心くすぐられます。
大見えを切る個所も、嫌味はなく、この曲とストコフスキーなら許せちゃうノリですよ。
なんたって、表情が若いんだから!

こんな芸風、誰が真似できましょうか。

人生観が豊かになる、そんなほのぼのとした勇気をもらえるストコフスキーの若々しい演奏でした。
いまの元気のない中高年にストコフスキー!

ご静聴ありがとうございました。

ちなみに、今回のCDは、同じフィリップスへのLSOとの「弦楽セレナー」ドと、オリジナルカップリングのLPOとの「イタリア奇想曲」が併録されてます。
イタリアは、この曲ナンバーワンとも思う活気あふれる名演です。
先のジャケットは新譜発売時のレコ芸の広告からですのでモノクロですが、オリジナルはクリスマスムードあふれる夢のような美しいものでした。

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2013年1月11日 (金)

チャイコフスキー 「眠りの森の美女」 小澤征爾指揮

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わたくしの郷里の山では、菜の花がもう咲いてます。

この週末からは菜の花祭りも始まります。

正月の3日の山上からの、菜の花ごしの富士です。

寒いけれど、20分の山頂への行程で汗ばみますから、体はポッカポカ。

Azumayama2

冬は菜の花、春は桜、夏秋はコスモス。

最高です。

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  チャイコフスキー バレエ組曲「眠りの森の美女」

       小澤 征爾指揮  パリ管弦楽団

                    (1974.2 @パリ)

新春名曲シリーズは、「眠りの森」でございます。

ということで、次に登場する曲もおのずと種明かしとなってしまう選曲ですが、チャイコフスキーの3大バレエの音楽としては一番地味な存在なところです。

前回告白したとおり、「眠りの森の美女」の全曲は音源も持ってませんし、全部を聴いたことも見たこともありませぬ。

思えば、チャイコフスキー(1840~1893)より長生きしているいまの自分。
というか、53歳という今にしては短命だった。
欧州ではコレラは死を意味する最強の病だったわけで、その点もいまでは思いもよらないことなのですが、その死には、あちらの嗜好とか、チャイコフスキーには不名誉なことばかりの尾ひれがついてしまうのも考えものです。
バレリーナを夢見て、志す少女には、無用の情報かもですが、そんなことはまったく関係なく、チャイコフスキーは天才的だったと思わざるを得ないですね。

ペローの原作に基づく3時間に及ぶこの大作バレエをあっという間に作曲してしまったのは、1889年。
同時代人のブラームスは晩年の枯淡の域に達しており、マーラーは1番を書き終えて指揮者として引っ張りだこ。
もちろん、ロシアの同時代世代では、5人組がいて、彼らは晩年または死を迎えてしまった人たちもいるという環境。
ちなみに日本は明治22年で、近代国家の基礎固め中!

長い全曲盤はこれからも聴くことはないかもしれませんが、5曲からなる組曲版は、これからも折りにふれて聴くことでありましょう。
ともかく旋律にあふれてます。
そして同時期の交響曲第5番との関連性もしっかりと見受けられます。
2曲目のパ・ダクシオンでは、5番の2楽章と終楽章の旋律に同じものが聴けます。

そして、NHKがクラシック番組のテーマ曲にもよくつかうのがこのバレエ組曲。
5曲のうち、3つまでもが使われてますよ。
ワルツ、パ・ダクシオン、パノラマの3つです。
わたくしのようなオールド・ファンには懐かしいものです。

今日は、これまた懐かしの音源、小澤&パリ管ですから。
70年代、小澤さんがもっとも覇気にあふれ、輝いていた時分の録音。
DGとフィリップスに録音するようになっての小澤さんが一番好きだな。
また書きますが、EMIでのパリ録音は音がイマイチで、このフィリップス録音の芯の通った、そしてしっとりとした名録音で、小澤&パリ管という日本人がもっともよろこぶ組み合わせの真髄が発揮されたのですよ。
パリを席巻したハナエ・モリみたいに。

ともかく、どこまでもしなやかで、音符ひとつひとつが弾んで聴こえ、それでいて過剰な歌い回しなどは一切なくって、むしろ淡白でかつ流麗。
パリの輝かしいオーケストラを日本人が、指揮棒一本でもって操るという、それこそ、誇りに思いたくなった当時の懐かしくも嬉しい音源のひとつです。
いまや普通となった日本人指揮者の活躍。
そのあと30年を経て、お隣の国のお馴染みの指揮者がパリを拠点に大活躍。
かの国の愛好家もさぞかし心が高鳴ったことでしょうね。
こうして、クラシック音楽の非本流の国から発するその演奏は、世界を納得させたのです。

それはそうと、100年眠ったオーロラ姫と家族と、宮廷の面々。
100年後の時代のギャップってなかったのでしょうかね。
バレエに疎いので不明ですが、100年を今に置き換えた読み替え演出って面白そうではありませぬか。
オペラ界では間違いなくやることでしょうが、バレエでは如何に。

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2013年1月10日 (木)

チャイコフスキー 「白鳥の湖」 カラヤン指揮

Wadakura_1

去年暮れに撮影した皇居の和田倉濠。

ここには白鳥がいつもいて優雅に泳いでます。

この日も、橋のたもとに立って眺めていたら、前方の橋の方から、こちらめがけてスイスイとやってくるじゃありませんか。

そのすぐ後には、どう見ても必死こいて着いてくる可愛い鴨ちゃんが。

Wadakura_2

これがその鴨。

自分も白鳥の仲間と思ってのことでしょうかねぇ。

カワユス

Tchaikovsky_karajan

   チャイコフスキー バレエ組曲「白鳥の湖」

 

  ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                         (1971.1 ベルリン)


新春名曲シリーズは「白鳥の湖」。

バレエ音楽の王様。夢見るような名品。この旋律を知らない人なんて存在しない。

恐るべきことに、ワルツ以外、さまクラ初登場の「白鳥の湖」。

バレエ音楽が苦手なわたくしは、バレエという舞台を生れてこのかた見たことがありませぬ。
映像も、チャイコフスキーの3大バレエや、ロメオもビデオ撮りしてあるものの、最後まで見通したことがありませぬ。
くるみ割りと、ロミオ以外は、音源でもろくに全曲聴いたこのもないこのワタクシが、唯一、映像で最後まで見きったのは、ブリテンの「パゴダの王子」のみというへんてこぶり。

食わず嫌いは、いけませんね。

でも組曲は得意ですよ。

「白鳥の湖」は、ハンス・ユイゲン・ワルターのダイアモンド1000シリーズのレコードが刷り込みで、その後愛聴したのが、カラヤンとウィーンフィルのデッカ盤。
かのワルター盤は、いまはどんな演奏か思いだせないけれど、この曲のなんたるかを知った懐かしい演奏で、一方のカラヤン盤は、ロンドンレーベルがカラヤンを1300円廉価盤化した時のもので、ゴージャス感とウィーンのまろやかさ、デッカの鮮やかな録音がいまでも思い出せる1枚でした。

そしてその後のカラヤンの再録音がDGのこちら。
ベラボーにウマいベルリンフィルが、真剣にこの名曲と対峙してるさまが感動的(?)
オーボエは、ローター・コッホでしょうか。その後の弦によるかの有名な旋律の繰り返しは、
あまりに雄弁。
手抜き一切なしのカラヤン節は、次のワルツでは、テヌートぎみに鼻腔をくすぐる甘さと堂々たる居ずまいに圧倒されます。
昨年亡くなったシュヴァルベのソロが圧巻の情景。
あぁ、なんて美しいんでしょうか。
そして最後のカラヤンとベルリンフィルの威力がこれでもかというくらいに味わえるラストシーンは、映画のクライマックスさながらの大フィナーレ。
これでもかと容赦ないくらいに聴き手を圧倒してしまいますが、そこにあるのはかつて若い頃は、なにををこまでの空虚感でしたが、何十年も音楽を聴いてきたいま、カラヤンの演奏は、味気ない乾燥しきった演奏ばかりの昨今に対するアンチテーゼのように豊かに、雄弁に響き渡るのでした。

前日のカムさんとは格違い。
恐るべしカラヤン&ベルリンフィル。

Wadakura_3

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2013年1月 9日 (水)

シベリウス 交響曲第2番 オッコ・カム指揮

Sagamiwan

相模湾に浮かぶ一艘の小さな漁船。

子供の頃、大磯港から出る釣り船に乗ったことがありますが、あいにくと波が高く、もう生きた心地がしない。
船酔いの恐ろしさは、二日酔いの比ではないのでした。

Oshima

目を転じれば、この日は大島がクッキリと見えておりました。

最近でこそ大島と言えば、貞子の島で、ちょっと怖いイメージもありですが、椿の島はこんな近くに見えるんです。

郷里の小山からの眺望です。

子供の頃から登っていたけれど、こんな景色は覚えていないところが子供の目線だったのでしょうかねぇ。

Siblius_sym2_kamu

  シベリウス 交響曲第2番 ニ長調

   オッコ・カム指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                 (1970.2 ベルリン)


その昔、ともかく気に入った交響曲がシベリウスの2番。
またもや70年代少年男の繰り言ですが、音楽入門はベートーヴェン、新世界、ジュピター、未完成・・・。
いまの若い方々は普通にマーラーやブルックナーから入りますよね。
でも、通常名曲かた入った、そんなわたしには、シベリウスの2番との出会いは鮮烈でした。

それは70年の万博の年に来日した「セル&クリーヴランド」の演奏会のテレビ放送でしたよ。
小学生でしたから、テレビでしか接することのできなかった綺羅星のごとく来日した外来演奏家のなかの一番が「セル&クリーヴランド」。

シベリウスの2番はこれが初聴き。
左手を水平にして指揮するセルの真摯な指揮姿もまぶたに鮮明に覚えてます。
終楽章の何度も訪れるクライマックスがやたらと印象的でした。
そのライブCDはすでに出ていて有名ですが、ちょっともったいなくて買う気がしなくていまに至ってます。
そのかわり、コンセルトヘボウとのフィリップスのレコードは聴いてましたが、そちらは、そっけなく味気もなく思ってました。
そんな思いから、かつての思い入れが崩れるのを怖がって、件のライブCDに手を出さないのかもしれませんね・・・・。

さて、長い昔話からかわって、でも、今回は古めの音源からですが、日本でもおなじみの、シベリウスの本場フィンランドのオッコ・カム。

しかも、カラヤン・コンクール優勝の余波をかっての当時、カラヤン以外は門外不出のベルリンフィルを指揮しての録音。

かつて、ヘルシンキ・フィルとやってきて、渡辺暁雄と振り分けたシベリウス・チクルスに夢中となったのが1981年。
大いに注目されはしましたが、その後はご当地指揮者的な存在でいまに至ってます。
昨今の音源が不足ぎみなので判断はつきませんが、この人あたり実は味わいある名手になっているのではないかと想像してます。

カラヤンのオケは、どこをとっても高性能で、ほれぼれするくらいに完璧!
それを指揮するカムの意向がどこまでかよっているかは不明なれど、各楽章の随所にあふれる歌い回しの豊かさ。
それがカラヤン的なうまさでなく、大らかで北欧の養分たっぷりみたいな自然の輝かしさにあふれているんです。

お国ものという概念は、われわれ日本人が好むものですが、こういう演奏を聴くと、音楽においては「お国もの」ご当地の方々をあがめてしまう概念がよくわかります。

北欧に行ったことがないのに、かの地のことをあれこれ想像してしまう最大公約数の景色や風物。

もちろん、わたくしは行ったことがありませんが、ときに鳴りすぎるベルリンフィルから、その威力をもてあましつつも、鼻に抜けるようなクールな寒気を感じさせてくれる2楽章は実に魅力的でした。
堂々たる終楽章では、若さの発露も見られ、熱くなります。

この録音と同年、例外的に行われたカラヤン以外の録音として、アバドのブラームスの2番もあります。
その清々しさと歌の発露は、ベルリンフィルが親分の監視を逃れて、気持ちよく演奏しているさまが聴き取れますが、ここシベリウスでもそれは感じることができます。
唯一の不満は、整いすぎていること。
ヘルシンキとの東京ライブでは、もっと熱く自在な要素もありますから。

カムさんは、日フィルの常連ですが、このところご無沙汰。
そろそろ、シベリウスのチクルスなどをまたやって欲しいところです。

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2013年1月 8日 (火)

ブラームス 交響曲第4番 プレヴィン指揮

Umezawa1

2013年のお正月を振り返りつつの、恒例の名曲シリーズ。

いつも登場します、実家の海。

1月1日の夕暮れ時の相模湾です。

この日は強風で、波もご覧のとおり荒れてましたね。

おかげで空気が冷たく澄んで、美しい遠景が望めました。

あの山の先を、次の日の駅伝は目指したわけです。

Brahms_sym4_previn

   ブラームス  交響曲第4番 ホ短調

      アンドレ・プレヴィン指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

                 (1987.10 @ワトフォード・タウンホール)


月イチ幻想で、何気にスタートしました、恒例、新春名曲シリーズ。

バーンスタインのEMIの幻想的録音には、ちょっとまいってしまい、EMI本国ロンドンのプレヴィンの録音には満足のわたくし。
それは録音という音の印象ばかりでなく、音楽をありのままに、そしてしっとりとあるがままのロマン派音楽を印象付けたからです。

そして、1番や2番を指揮しないプレヴィンのブラームスも大好きです。
ドイツ・レクイエムも、協奏曲も繰り返し録音するのに、1番と2番の記録はありません。
もしかして1番の演奏記録はあったかもしれません・・・・。

そんなプレヴィンのブラームスの4番。
日本でも何回か演奏してくれました。

明るさと歌謡性、スマートでこだわりない音楽造り。
そんなプレヴィンの音楽性が、ブラームスではなぜか最大限に発揮され、聴く私たちも、いつも「プレヴィンのブラームス?」と思いつつも、完全に「プレヴィンのブラームス!」と納得させ、心から暖かい気分にさせてしまう。

プレヴィンのブラームスの4番の録音は、80年代のロイヤル・フィルの音楽監督時代で、同時期にジュリーニの後を継いでロサンゼルス・フィルの指揮者も務めていた時代。
そんなプレヴィンが後年、N響にポストを得て、毎年聴けるようになるとは思いもしなかったわけで、当時、出る音源はすべてコンプリート中だったワタクシには驚きの後年なわけです。

N響でもやったこの4番は、自在さあふれる貫録の名演だったけれど、こちらのロイヤル・フィル盤では、明るいなかにも、ほど良い情熱と思いもよらぬ渋さが混在となっていて、その麗しい配合ぶりが、ブラームスのロマンと古典の融合ぶりに巧みにマッチしているんです。

ホ短調の哀感にじみ出た1楽章、英国系ムーディなゴシック建築ともいうべき2楽章。
かのYESがこの楽章を演奏したのがよく理解できるノリのよい3楽章。
ともかく驚きの堂々たる歩みを聴かせる4楽章。
ブラインドで聴いたら、まさかプレヴィンとは思いますまい。
同じく、ロイヤル・フィルともわからないでしょう。

英国のブラームスは、かねてより好んでおりますが、この音盤は、アバド&LSOと並んで、なかでも好きな1枚です。

澄んだ冷気と、暖かいブラームス。

Umezawa2

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2013年1月 7日 (月)

追悼 銀座のにゃんにゃん

Iketani

寒い夜には、暖かい「月見とろろそば」。

こちらは、月イチぐらいで行く銀座の「いけたに」さん。

仕事仲間が東京にやってくると、どこで飲んでも、締めはこちら。

軽く一合飲んで、蕎麦で締めます。

ほーんと、美味しいんだから!

Shinchan_2

その店先に、いつもいた猫が、「しんちゃん」です。

Shinchan

ご覧のとおりの男子ねこです。

Shinchan_1

その「しんちゃん」、昨年の11月25日に亡くなってました。

暮れに、ちょっと久しぶりに訪問したときに知りました。

ご覧のように、しんちゃんを偲ぶスペースが店頭にありました。

ご主人が自宅に連れてゆき、暖かな看病の甲斐もなく旅立ってしまったそうです。

儚い野良猫たちの命を思い、猫を自宅で飼えず、自由気ままな野良たちをこよなく愛するワタクシは、目頭が熱くなり涙を禁じえないのでした・・・・。

もうひとりの「ミーちゃん」もすでに亡く、ちょっと寂しい銀座となりました。

まだ2013年松の内ですが、格別の思いを寄せる野良猫たちが、寒い日々どう過ごしているかと思うと・・・・・


Miechan

くすぐると反応のいいミーちゃんでした。

Shinchan_3

しんちゃんも、くすぐり攻撃には弱かった。

Shinchan_4

ほわほわしてて、気持ちいい、しんちゃん。

Shinchan_5

こちょこちょ、っと。

実は、写真は撮ってないのですが、1年前には怪我で独眼になっていました。

その痛々しいお顔は、近くのお店の階段や、路地に佇む姿で何度か見かけてました。

Shinchan_6

あんまり気持ちよくて放心中のしんちゃん。

野良は、日本中どこにもいます。

彼らは平和的で柔和な存在です。

お店の前にも掲げられておりますように、わたしたち人間との可愛い共存者ですから、暖かく見守り、可愛がっていきたいと心から思ってます。

まして、江の島の猫に、遠隔操作にまつわる媒体をくくりつけるような行為は唾棄すべきことと思います。
ちなみにそのにゃんこ、数年前の江の島訪問の写真の中に遠目で写ってました。

さよなら、しんちゃん

(画像は一部、本ブログの「ねこ」カテゴリーにて公開済みですが、あまりに可愛く再褐です)

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2013年1月 6日 (日)

ベルリオーズ 幻想交響曲 バーンスタイン指揮

Hamamastucho_20131_a

2013年1月の浜松町小便小僧です。

久々の素ッピン、かぶり物なし。

寒そうだけど、凛々しい袴姿に、縁起もの。

Hamamastucho_20131_b

紋までは判別できませんが、ちゃんとした羽織袴ですね。

Berlioz_bernstein

  ベルリオーズ  幻想交響曲

    レナード・バーンスタイン指揮 フランス国立管弦楽団

                        (1976.11 @パリ)


今年も、浜松町小便小僧とともに、月イチ「幻想交響曲」よろしくお願いいたします。

2013年最初の幻想は、バーンスタインでまいりましょう。
バーンスタインの幻想は、すでに取り上げ済みですが、そちらは、68年盤だと思って喜んで書いたら、実は63年盤だったということ。
お馴染み様からお教えいただきました。 CDの表記ミスをされるともうどうしようもないですね。
バーンスタインは正規には、3種の幻想を録音していて、今日はその最後、76年盤を久しぶりに聴いてみました。
そして、件の68年盤は昨年すでに入手済みですから、いずれ登場することといたしましょう。
76年当時のバーンスタインは、DGでのウィーンフィルを中心に、古巣のニューヨークとはCBSにといった録音活動であったように思いますが、この頃からレコード会社への専属契約という感覚が希薄に、いやややこしくなってきたように思われ、いろんなレーベルから思わぬ演奏家の録音が出てくるようになったものです。
演奏家のバーターもレーベル間であったから余計にそう思われます。

EMIからのバーンスタインは、フランス国立管との録音が数枚。
CBSにも、DGにも同コンビのものはありますが、どうも録音がいまひとつなのですよね。 思えば、パリのオーケストラの録音って、かつては、どのレーベルでもイマイチ感がつきまといます。
いいホールがなかったのでしょうか? たいていは、パリのサル・ワグラムですが、ここがどうも、響きが過多で、横への広がりばかりで奥行きと音の迫真不足に感じるんですよ。
カラヤンのフランクあたりからずっと感じる不満です。

そんな不満が、バーンスタインとフランスのオケとの組み合わせという新鮮なものにもどうも気になる音のイマイチ感に作用してます・・・。
フランスのオケを選択した良さがどうも伝わってこないうらみがありますので。
そして、足音と思われる雑音が耳に鬱陶しい。

慎重に、よくオーケストラを確認しながらローギアでの出だし。
よく歌い、よく荒れ、活力みなぎる バーンスタインならではの演奏。
次ぐ円舞曲も急緩気持ちいいです。
 あと、3楽章の心地よい推進力はさわやかで、意外にも粘りの多いバーンスタインの晩年様式とかなり異なります。
最後の場面のほのぼの感と、かすかに響かせるホルンが魅力です。
 重厚なティンパニの豪打際立つ断頭台への行進は、エッジも効いて、がっつりと聴かせてくれますが、最後のファンファーレの最後の和音があまりにも短いのがユニーク。(編集の失敗じゃないですよね)
しかし、この楽章あたりから足音が盛大で気になるし、録音の塩梅が耳に辛くなってくる。 終楽章でののたうつような迫力が、徐々にテンポと威容を加えていってどんどん盛り上がってゆき、最後は地鳴りのように終結します。鐘の音も威勢がいい。

2013年一発目「幻想」なのに、ちょっとマイナスイメージに書き過ぎてしまいました。
このCDでたまたまカップリングになってしまった、プレヴィンとロンドン響の序曲集の方が古い録音なのに、はるかに耳馴染み、素晴らしい録音に聴こえます。
それもこれも名盤といわれる68年盤への布石ゆえお許しください。
せめてDGに録音してほしかったバーンスタインの「幻想」です。
あと当時、同じように客演していたパリ管でも聴いてみたかったぞ。

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2013年1月 3日 (木)

ブリテン 青少年のための管弦楽入門 ヤンソンス指揮

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箱根駅伝の復路を観戦。

他の学校はうまく撮影できているのに、母校は失敗。

ついつい叫んじゃうもんですからね。

このところずっと出場していて、お正月の大いなる楽しみになってます。

ありがたいことです。選手・関係者の皆さんには感謝です。

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白バイのお巡りさんもご苦労さまです。

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撮影クルーもご苦労さん。

そして、音楽。

今年、生誕100年のブリテン聴きます。

オペラ全曲制覇まであと少し。

没年は、1976年で、多作だったブリテンの63歳での早過ぎる死。

もうあと、10年存命だったら、次のオペラが数作、デジタル録音のブリテン自作、ブリテン指揮の過去の大作曲家の数々の録音が、ここに残されていたことでしょう。

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 ブリテン パーセルの主題による変奏曲とフーガ

        ~「青少年のための音楽入門」~

    マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団

                      (2003.10 @ミュンヘン)


あまりに有名、学校時代に、だれしも聴いた音楽。

ふたつの名前を持つ、ふたつの顔を持つ曲とのちに認識しました。

音楽を啓蒙する大衆的な作品として、1946年、大戦後に生まれたこの曲。

昨2012年、新国での感動的な上演「ピーター・グライムズ」のあと、「ルクレツィアの凌辱」と同じころに書かれた。

過去の英国の大作曲家のアンソロジーとしても脳裏にあったこの音楽、そのタイトルのとおり、自国の大先輩への尊敬と愛情にあふれております。

英国政府、そして放送局の委嘱により「オーケストラの楽器」という教育用の映画のために作曲された啓蒙的な音楽の姿がその本来の姿。

いまさらナレーター付きの説明的な聴き方は聴き方はできませんから、上記ふたつの要素を思いつつ、音楽のみをシンプルに聴くとします。

学校での聴き方を脱し、オーケストラピースとしてCDとして真剣に聴いても、クローズアップされる各楽器の演奏ぶりを思い浮かべながら聴くことも、映像でオーケストラの奏する状況を各種を見慣れた私たちには、容易に演奏者たちのその姿が頭に浮かびます。

ビジュアルが発達し、飼いならされ、むしろ想像力が補われるより、奪われ欠如し始めた私たちにこそ、こうしたリアルな音楽は必要なのかもしれません。
ブリテンの音楽の素晴らしいところは、作者がまだ生きてれば100歳だけに、そのリアリティが迫真をついていることと、社会性を大きく備えていて、いまでもまだ世の中に通用する問題意識をしっかりとらえ内胞していることです。

そんな意識で、この「青少年=パーセル」を聴くとしましょう。

ブリテンの最高の筆致は、最後の大二重フーガのゴブラン織りのような重厚かつ鮮やかさでありましょう。

ヤンソンスとバイエルンの、いまある演奏水準の最高基準値に達した高度かつ、イキのいい演奏は、快感をすら呼び起こすものでした。

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2013年1月 2日 (水)

ヴェルディ 「ラ・トラヴィアータ」 ああ、そはかの人か デセイ

Bvlgari_4

銀座7丁目あたりのブルガリ。

まぁなんてゴージャスなんでしょう。

ことしの干支がビルを這ってますよ。

暮れに撮影しましたが、この交差点ではたくさんの人が撮影しておりました。

Dessay


 
  ヴェルディ 「ラ・トラヴィアータ」~ヴィオレッタのアリア
 

       「ああ、そはかのひとか~花から花へ」


        ヴィオレッタ:ナタリー・デセイ

        アルフレート:ローベルト・アラーニャ

    エヴェリーノ・ピド指揮 コンチェルト・ケルン

                      (2007.9 @ケルン)


ドイツのワーグナーと並ぶ、イタリアのオペラの大家ヴェルディ(1813~1901)。

今年生誕200年です。

オペラ作曲家として、その劇作品は26。

その作風と素材選びは年代とともに変化し、初期・中期・後期と大別できるヴェルディの創作スタイルを際立たせております。

そのあたりは、過去の記事でも何度もふれておりますが、アニバーサリーの今年、その記事も多くなるでしょうから大局的に触れていきたいとおもってます。

「ラ・トラヴィアータ」とは、「道を踏み外した女」の意で、オペラの原作、デュマの「椿姫」のタイトルとはまったく異なる意味であり、日本だけがずっとこの「椿姫」と呼んで夢見るような幻影をこのオペラに抱いてきたような気がする。
われわれ日本人にとって、花や草木の風物は思い入れ久しいものゆえ、「椿姫」という、いかにも儚いタイトルは、オペラのイメージとして定着しやすいものであったがゆえでしょうか。
もちろん、「椿姫」のタイトルのもと、これからも上演されることに異はありませんが、「トラヴィアータ」という言葉の持つ背景を理解したうえで接することも、このヴェルディのオペラの在り方を理解する大事なことにつながるでしょう。
オペラ演出もこのあたりを強めた、これまでの無難な演出から大きく踏み出した解釈がいまの主流になってきました。

ヴェルディが愛した女性が、父親の異なる子供を宿し、育てていた。
カトリック界では、もしかしたらあってしまうかもしれない。
妻泣きヴェルデイが愛した女性、その自分への戒めもあって、選んだこの「トラヴィアータ」の素材。

パリの高級娼婦が、純真熱情の青年との愛に目覚め、やがて身を引き、病で死んでゆく物語。
おバカなお金持ちの息子がまぶしい。
そして、権威をかさに着たその親父が鬱陶しい。
儚いヴィオレッタが愛おしい。

映画のようなドラマに、ヴェルディは、とてつもなく美しい旋律をつけました。

デセイの言葉の機微を完璧に歌い尽くしつつ、いたわしいほどの感情移入をみせる歌唱。
でも繊細で透明な歌声は、白痴美的な美しさを醸し出す。
この無意識かつ意識的な女優的な歌唱は、憎らしくも愛らしいのです。

あとここは、贅沢にも、ほんのチョイ役で、輝けるアラーニャ様ですよ。

ワーグナーに続き宣誓

今年は、ヴェルディの全オペラを制覇します。・・・(?)

音源が確保できる前提で。

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2013年1月 1日 (火)

ワーグナー ジークフリート牧歌 ショルティ指揮

Jpg

年 今年もよろしくお願いします。 

今年のこの画像、だいぶ前ですが、洞爺湖のウィンザーホテルですよ。

サミット直前、せっかくだからとお茶だけ飲んだ時の画像。

タンホイザーの古城での歌合戦の竪琴みたいなんです。

今年、良い年にしたいですが、絶対いろんなことがおきそうな自分。

でも、音楽の方は、すごいことに。

いつか来るとおもったこんなアニバーサリー。

ワーグナーヴェルディの生誕200年に加え、ブリテンの生誕100年。

過去、ベートーヴェンの生誕200年、バッハの生誕300年、モーツァルト没後200年が自身体験した大きなアニバーサリーだけど、今年は大好きな作曲家たちがそろい踏みで格別にございます。

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  ワーグナー 「ジークフリート牧歌」

    ゲオルク・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                         (1965 @ウィーン)


巨大な劇作品ばかりのワーグナーの音楽のなかで、一番愛らしく、優しい音楽。

ご存知のとおり、ワーグナーは破天荒で、自己中心の嫌なヤツだったけれど、その独善の行いのもっともたるものが、ハンス・フォン・ビューローの妻、リストの娘、人妻コジマと出来てしまい、やがて子までもうけることとなり、夫婦となった。
友達になりたくない最もたる人物だけど、その音楽の強烈な呪縛力と壮大かつ緻密な創作力、そして後世に多大な影響を与えた作曲能力は、まぎれもない天才でしょう。

コジマとの間に生まれた待望の長男。
時にワーグナー56歳! ひぇ~、わたしより・・・・・。
おりから作曲中の愛すべき「ジークフリート」の旋律を各処に散りばめた「ジークフリート牧歌」は、翌1870年に完成し、「階段の音楽」ともいわれるように、邸宅の回廊で妻の誕生日の朝のサプライズに演奏されました。
何事にも強引なワーグナーも、愛する家族に、粋なことをするものです。

おかげで、後世、わたしたちは、こんな素敵な音楽を楽しむことができるのです。

数々あるこの音源から、新年一発目は、これまた強面のショルティの演奏で。

でも、この1965年のショルティ盤の希少なところは、オーケストラ版でなく、初演時の16人小編成で演奏されているところです。
各楽器が一本で、透き通るようなアンサンブル、しかもそれゆえに、ウィーンフィルの味わいが夾雑物なしに楽しめる。
65年当時の、ウィーンフィルのトップたちを思い浮かべながら聴く幸せの「ジークフリート牧歌」。
ショルティさんは、指揮台に立っているのかいないのか、不明なくらいに静かに優しい機能ぶり。
この頃、ウィーンでのリング録音真っ最中で、最後の録音「ワルキューレ」の頃。
スタジオ録音の最盛期で、録音芸術が興行的にも世界的に金を生んでいた幸せの時代。

半世紀近く前の録音に、こうして素直に感動できるのもまた幸せなことで、一方、昨今の最新の演奏は、録音も減ってしまい、なかなか確認ができなくなってしまったこの不幸。
その分、身近なオーケストラや演奏家を日常的に聴くことができる贅沢も増しております。

今年のワーグナー公演は、オペラでは、新国のタンホイザー、N響マイスタージンガーや荒川、名古屋ぐらいしか確認できてません。
本場や欧米では、リング通しはあたりまえ、ワーグナーとヴェルデイづくしなのに、日本はちょっと寂しい感があります。
これも、頭打ちの不況のせいでしょうか。

今年以降、わたしもオペラ通いを再開したいし、そんな上演が数々ありますことを強く祈ります。
がんばります!

ここで、宣言

本ブログでは、ワーグナーの全劇場作品のサイクルを年内2度やります

すでに一度やった初期3作は、そこに含むかはその時次第。

なんだか自分でも楽しみですよ!

そんな楽しみを、まだヴェルデイやブリテンでも味わえる自分にとってナイスな2013年。

本年もみなさまにとって、よき1年でありますように。

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