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2013年2月

2013年2月28日 (木)

池辺、レーガー、ラフマニノフ 神奈川フィル定期予習

Kanda_church

神田教会です。

え?神田に、こんな立派な教会が?とお思いでしょうが、あるんです。

猿楽町という地で、お茶の水の山の下、神保町のちょっと先。

ロマネスク様式のカトリック教会です。

都会のど真ん中でも、こんな静かなエリアがあり、ほっと安堵するわけです。

さて、気がつけば、神奈川フィルの定期演奏会が、2日土曜日です。

この前、マーラーの10番の定期。

その後の、ベートーヴェンのチェロソナタやショスタコのピアノトリオ、そして忘れ得ぬ体験となった佐村河内交響曲。

演奏会は絞っているのに、集中したこの時期。
しかも、ひとつ携わる会社の引っ越し、その会社の決算申告、そのた公私もろもろ、超多忙。
早朝より活動しておりますが、とても充実してます。

音楽があって後押ししてくれるので頑張れます!

   池辺晋一郎  シンフォニーⅧ「大地・祈り」 
               (神奈川フィル委嘱作 世界初演)

   レーガー    ヒラーの主題による変奏曲とフーガ

   ラフマニノフ  交響曲第2番

     金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

   2013年3月2日 (土曜) 14:00 みなとみらいホール

一曲目の池辺さんの世界初演作についてはもちろん語れません。
最近公表されたそのタイトルからは、自然という超存在と人間とのあり方などを思わせる、メッセージ性のある趣の音楽と予想されます。
シリアスな内容に期待が高まります。

そして2曲目以降は、ちょっと疲れ気味の今日この頃ですので、以前の予習記事をコピーさせていただきまして、お茶を濁してしまうこと、お許しいただきたく。

Reger_aco_jarvi

2曲目は、ドイツの作曲家、マックス・レーガー(1873~1916)。
マーラーとほぼ同世代で、「モーツァルトの主題による変奏曲」(K331トルコ行進曲のソナタの1楽章)ばかりが有名で、あとは晦渋でとっつきにくいイメージしかない作曲家。
その顔写真をみても、苦虫かみつぶしたような、愛想ない顔。
でも、暴飲暴食・大酒飲みの巨漢だったということも知り、どこか憎めないオジサンなんですよ、これがまた。

Reger(わしがレーガーじゃ)

いまのところ、レーガーはわたしにとって、厳しい作曲家です。
同じように少し苦手意識をもっていて、とっつきがいまだにままならない作曲家として、時代は相前後しますが、プフィッツナー、ブゾーニ、ヒンデミットらのみなさんがおります。

今回、ライブでレーガー、しかも珍しい「ヒラー変奏曲」が聴けるとあって、苦手打破の絶好の機会かもしれません。

この作品の元主題の作曲家のヒラーさんは、二人いて、どちらもドイツ。
レーガーがその変奏に使ったのは、古い方のヨハン・アダム・ヒラー(1728~1804)で、この方は、ドイツ・ジングシュピールの祖とも言われております。
ちなみに、ジングシュピールとは、モーツァルトの「魔笛」に代表される、民衆にもわかりやすいドイツ語による音楽劇みたいなもの。当時イタリア語やフランス語によるオペラばっかりだったドイツの劇場に市民の目線を植えつけたんです。
そのヒラーのオペラDer Erntekranz」(花輪の収穫?)というオペラの旋律による、主題と11の変奏、そしてフーガを原作者の活躍した同じライプチヒで作曲したのがレーガー。
1907年の作で、曲は、しばしブラームスチックである。
そうまるで、ブラームスがハイドンに魅せられ書いたあの名作のように、レーガーはヒラーの親しみやすい旋律をもとに、ブラームスを心に思いながら書いたに違いありません。

まだまだ練習中のわたくし、CDはヤルヴィとコンセルトヘボウ盤しか持っておらず、ろくに聴きこんでもおりません。
でもきっと、これは聴きこむほどに、味わいの増す、そう、スルメ系の音楽なのかもしれませぬ。最後のフーガのそれこそバッハのオルガン曲を編曲したかのような壮大な盛り上がりは、かなりいいです!
こんな曲だから、モヤモヤしていたら、ますます混沌としてしまいます。
神奈川フィルの音色を活かして、聖響さんには明快な解釈を施してほしいと今から思いますね。
期待しております。

Rachmaninov_sym2_dutoit

プログラム後半は、すっかりお馴染み、ラフマニノフ交響曲第2番

神奈川フィルは、現田茂夫さんの指揮で、すっかり手の内に入った曲です。

わたしも過去聴いて、感涙の涙をちょちょぎらせておりますよ。

そしてラフマニノフ大好きオジサンのわたくし、この曲フェチ男なんですよ。

何度も書いてますが、いまを去ること数十年前の独身時代、新宿のぼろアパートの侘び住まい。冬のしばれる6畳一間で、ホットウィスキー片手に、毎日毎日聴いたのがこの曲。
ちなみに、マーラーとディーリアスとシベリウスにワーグナー、ヴェルディの日々。

わたしの若き日への、ノスタルジー掻き立てる曲のひとつ。

1時間の大曲の隅々に溢れかえる歌、そしてまた歌。
それは募る気持ち抑えがたい故郷への思いを、甘味なロマンティシズムにすっかり置き換えてしまった、やるせないほどに、美しくもドラマテックな音楽なのです。

いま、こうして少し響きの弱いデュトワ盤を聴きつつも、どこもかしこも慣れ親しんだこの曲に心奪われ、陶然としてしまっている自分を見出すんです。
この媚薬的効果をもった音楽の聴きどころは・・・・、そう、最初から最後まで、すべてです!

1楽章のワクワク感を伴ったもりあがりと感傷的な旋律の対比。
打楽器も活躍のリズミカルな2楽章は、中間部のこれまた甘い歌。
そして3楽章は、甘味料たっぷり。聴いた後には皆さま歯をしっかり磨きましょう。
その甘い旋律は、涙に濡れそぼっていて、その憂愁に負けてしまいそう。
クラリネット素晴らしすぎ。
終楽章は、思いきり高揚してもらって、ドキドキさせて、ブラボーと叫ばせて欲しい。

神奈川フィルのラフマニノフ節に超期待sign03
この曲がバカみたいに好きなものだから。

過去記事たくさん。

「スラトキン&セントルイス交響楽団」
「サー・マリナー&シュトッゥトガルト放送響」
「現田茂夫&東京大学音楽部管弦楽団」
「プレヴィン&ロンドン響」

「ハンドレー&ロイヤル・フィル」
「現田&神奈川フィル」
「尾高&東京フィル」
「尾高&BBCウェールズ」
プレヴィン指揮 NHK交響楽団」 
大友直人指揮 東京交響楽団
ロジェストヴェンスキー指揮 ロンドン交響楽団」
ヤンソンス指揮 フィルハーモニア管弦楽団」
ビシュコフ指揮 パリ管弦楽団

ちなみに、この曲の最強演奏は、いまだにプレヴィン&ロンドン響のEMI盤でございます。

以上が以前記事のコピーです。

明日は、大好きなラフマニノフをもう一度聴いてみます。

実は、デュトワの演奏が、ちょっといまひとつなものですから・・・・・。

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2013年2月26日 (火)

交響曲第1番「HIROSHIMA」 東京初演

Geigeki

開演前の東京芸術劇場。

この日、いよいよ待ち焦がれた佐村河内守さんの交響曲をライブで聴けるのでした。

高まる期待と、約束された感動を早くも先取りしながら、わくわくしながら池袋駅を下車し、ホールを目指しました。

Geigeki3

ロビーには、花束が3基。

奥から、辰巳琢郎さん、五木寛之・玲子さん、映画監督・栗村実さん。

栗村映画の「桜、ふたたびの加奈子」(4月公開)では、佐村河内さんのCD「シャコンヌ」からの音楽がふんだんに使われております。
音楽にインスパイアされて生まれた映画ともHPでは紹介されております。
その予告を先ほど見ただけで、泣きそうになってしまった・・・・。

Samuragouchi


   交響曲第1番「HIROSHIMA」 東京全曲初演

     大友 直人 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団

                   (2013.2.25 @東京芸術劇場)


ロビーにて、息を静めるため、ソファに座っていましたら、なんと、佐村河内さん、そしてNHKのテレビカメラご一行が到着し、ごく近くに。
ためらいながらも、わたくし、ご紹介をいただき、佐村河内さんにご挨拶ができました。
そして握手までしました!
そばにいたわたくしのことの顔を認識しておいででした。
なんたる光栄、なんたる喜び。
そして、握ったそのお手は、とても優しく、暖かいのでした。
緊張してどぎまぎしてしまったのですが、わたくし、舞い上がってしまい、音楽を聴く前に天に昇りそうでございました。

さて、席について、今度も気をしっかりもって、楽員さんたちの登場を待つこと10分。
ホールは、ほぼ満席。
皆さんの期待と熱気がヒシヒシと伝わってきます。
佐村河内さんも、私の斜め後ろのほうに臨席。

楽員が揃って、すぐさま指揮の大友さんが登場され、タクトでなくマイクを持っておられます。(もちろん大友さんは、いつも指揮棒なしですよね)
大友さんは、この大交響曲と出会ったところや、初演などの経緯、三枝さんが絶賛し、現代作曲界での評価、震災後すぐのレコーディングのことなどのあらましをわかりやすくお話されました。

一呼吸おいて、再び登場の指揮者大友さん。
しかし、残念なことに指揮者が指揮台に上がっても、これからいそいそと席に着く人や、なんと着信音まで。
この日、私のようなヲタから見ると、あきらかに客層が違う雰囲気も見受けられ鈴の音もチラホラ。あれあれ、と思っていたのもほんのいっ時。
日本フィルも素晴らしいけれど、東響に一部の分があることも・・・。
佐村河内音楽の圧倒的な力の前に、そんな不満なんて芥子粒のように消え去ったのでございます。

1楽章の不安と重苦しさに満ちた出だしから、最後の眩しい大伽藍のようねエンディングまで、文字通り、息つく暇なく、わたくしはその音楽に没頭し、背筋も伸ばしっぱなしで全身全霊を込めて聴き尽したのでした。
あっという間の80分。
曲自体の詳細やありさまは、これまで何度も書き尽しましたから、ここではふれません。

今回、演奏会というかたちで、この交響曲に接し明らかになったこと。
いまさらながらですが、この作品が、まごうかたない「交響曲」だということ。
これまで、唯一のCDを日々折りに触れ聴くこと、おそらく何百回。
その時、その時で、気になる局面が何か所もあって、それを目指して聴くような聴き方になっていたようにも思います。
ところが、演奏会で、それこそ襟を正して集中力を高めて聴くということは、全体の流れを俯瞰しながら聴くことにほかならず、CDで夢中になりながら聴く場所も、全体の中のひとつの場面として認識しつつ聴くことになり、これこそ、音楽の構成と秩序を把握することにもほかなりません。
全体が、動機的にしっかり筋が通っていて、長大ながら統一感が保たれていること。
最後のあの、心に平安をもたらす美しくも柔和な旋律は、唐突に現れるのでなく、周到に準備され、当然の帰結として、闘いに疲れた心に、すぅ~っと入ってくるように登場するのです。
それはあざとい計算ずくのものでなく、全体の構成としても清く正しく登場するのが、本当によくわかりました。

そして、オーケストラはフルオケ編成ではありますが、なんら奇抜な楽器が入ることなく、しいていうとブルックナーサイズに、打楽器各種といったところ。
その奏法も、マーラーのような仕掛けふんだんのものでなく、まったくもっての正攻法。
弦楽器の群ごとの分奏は見られましたが、各楽器の本来の音色のみで真っ向勝負。
このあたりが、わかりやすさと、オーケストラを聴くという意味での納得感と満足感につながるのではないのでしょうか。

こうした、「交響曲」という軸足をしっかりもったところに、佐村河内さんのHIROSHIMAへの思いと、人間存在への考えが組み込まれたのが、この交響曲の姿だと思います。
楽章ごとに、「運命」「絶望」「希望」とされ、それぞれの意味する概念がクロスオーバーしながらひとつに出来上がっているこの大交響曲は、わたくしをまだまだ虜にして止みません。

今回、泣き虫のわたくしは、涙覚悟で挑みましたが、第2楽章の、トロンボーンで始まる金管のコラールで早くも涙ひとしずく。
そして背中に汗が流れるくらいに、ビンビンに緊張し興奮したのが3楽章、7分35秒過ぎあたりからの弦の緊迫したユニゾン。そのあとの闘いへ出向くかっこいい旋律。
そのあとのクライマックス。2度にわたる巨大カタストロフ。
そして来る、あの平安。
音楽に完璧に入り込んでいる自分。
涙は流れるに任せよ。
いつまでもこのシーンにとどまっていてほしい。
聴衆の皆さんも、きっと同じ気持ちだった。そうであろうと、すごく感じた。
最後の眩しい輝きあふれる強烈なフォルティシモは、ノーブルな大友さんの渾身の指揮ぶりで、これでもかというばかりの巨大な大伽藍を築き上げ、目もくらむばかりの圧倒感でもって高みに達して、そして閉じたのでした。

そのあとの大歓声は、ご想像にお任せいたします。

さらに、佐村河内さんが、ステージに呼ばれ壇上にたち、大友さんと抱擁を交わしたときにの観客のウォーとも聴こえる大喝采は、わたくしのコンサート歴でもこれまでにないスゴイものでした。
佐村河内さんは、片手で杖をつきながら、何度もコールに応じてくれました。
わたしも、みんなも立ちあがって、スタンディングオーベイション。
聴衆ひとりひとりに、感謝するような仕草を、本当に丁寧に何度も何度もされていた佐村河内さん。
さきに握手していただいた手のぬくもりが感じられるような、真摯で暖かなお人柄が偲ばれる様子でした。
幾多の試練に会い、それと闘い打ち勝ち、まだそれは継続中でいらっしゃる、まさに奇跡を引き起こしつつある現在進行中の作曲家。
そんな佐村河内さんと、いまともに時間を共有できる私たちは、なんと幸せなのでしょうか。その音楽に立ち会うことに感謝しなくてはなりません。

これらの音楽が、苦しみや悲しみにあっている人々のもとに、是非とも届くことを、心からお祈りしたいです。

わたくしも、公私ともに大変な日々です。
いつも力をいただいてます。
ありがとうございました。

Geigeki2

終演後のロビーは、NHKのインタビューが上気した観客の皆さんをねらって行われておりました。
わたくしは、あまりにも舞い上がっておりましたし、言葉にもならないので、見つからないようにすぅ~っと、出てしまいました。
そして、今回お聴きいらっしゃったminaminaさんと合流し、ホールをあとに、酒場という第二ステージに足を運んだのでした。
そちらでは、いま聴いた感動を夢中になって一献傾けながらお話しすることができました。
美味しい日本酒に、素晴らしい肴、そしていまだ耳に残る音楽の余韻。
お付き合いいただき、どうもありがとうございます。

今回のコンサートは、コロンビアとNHKによって録画がされており、3月31日放送のNHKスペシャルにて、その一部が放映される由にございます。

そして、また近く、この交響曲が聴けますこと、心より願ってやみません。

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2013年2月24日 (日)

ラフマニノフ 「けちな騎士」 ノセダ指揮

Motomachi

横浜元町の入口。

先日の中華街の帰りに石川町へ向かう途中。

この商店街では、26日から恒例のチャーミングセールが始まりますが、わたしなんぞには、もう無縁のこと。
今年で52年目だそうな。

Rachmaninoff_the_miserly_kmight

   ラフマニノフ 歌劇「けちな騎士」 Op.24

    男爵:イブダル・アブドラザコフ アルベルト:ミッシャ・ディディク
    公爵:セルゲイ・ムルザエフ   ユダヤ人、金貸し:ピーター・ブロンダー
    使用人:ガンナジ・ベズベンコフ

     ジャンドレア・ノセダ指揮 BBCフィルハーモニック

                                       (2008.11、2009.4 @マンチェスター)


セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)の作品数は、さほど多くはなく、その活動が作曲とともに、ピアニストと指揮者にも多く振り分けられていることをいまさらながらに思うわけであります。
よく言われるように、交響曲第1番の初演が大失敗に終わり、その酷評にダメージを受けて、作曲の筆を一時置いてしまうくらいの過敏な神経の持ち主。
さらに、10月革命で、米国へ亡命後は完全に演奏者としての活動が主力となり、残された作品はごく少なくなってしまう。

そんな中で、オペラ作品が3つ残されている。
未完のもの、構想したものがほかにも10以上あるので、もっと頑張って欲しかったと思わざるを得ない。
これら残された3作は、「アレコ」「けちな騎士」「フランチェスカ・ダ・リミニ」。
いずれも、CD1枚、70分前後のショートサイズで、時間的にも聴きやすく、その音楽もいかにもラフマニノフで、ほの暗さと甘味さが相交る桂品オペラであります。
ただし、「けちな騎士」と「フランチェスカ」は、かなり暗いです。暗澹たる雰囲気です。

「けちな騎士」は、そのタイトルから、最初はちょっとユーモラスな内容ではないかと思いこんでいたら大違い。
けちなその騎士は、本当の大けちの男でしてわが子でも人を信じない、陰気なジイサンだったのです。

原作はプーシキン。このプーシキンがロシアの作曲家をオペラ創作に駆り立て、生まれた作品は実にたくさん。「ルスランとリュドミラ」「スペードの女王」「ボリス・ゴドゥノフ」「オネーギン」「サルタン王」「金鶏」・・・・・。
そして、4つの小悲劇という作品群があって、それらは、この「けちな騎士」「モーツァルトとサリエリ」「石の客人」「黒死病時代の饗宴」。
「モーツァルトとサリエリ」はR・コルサコフが、「石の客人」はダルゴムイシスキー(未完)が、「黒死病時代の饗宴」はキュイが、それぞれオペラにしてます。

ロシア社会の闇やその人間ドラマを描いたプーシキン作品に、ロシアの作曲家たちは大いに惹かれたわけです。

前奏曲~中世イギリス

第1部

若い貴族アルベルトは、男爵の父が裕福にもかかわらず、借金だらけでお金に困っていて、馬上の決闘で勝ったものの、兜が損傷してしまい、その武具さえ買い直すお金もない。
使用人に金貸しのもとへ走らせますが、尊い立場を話しても担保がなければダメとのことを報告。次いでその金貸しをこの館に招いたと報告。
ほどなく、ユダヤ人金貸しがやってくるが、やはり借金には担保が必要と。
父上はもうお年なのだが、その金持ちの老人も若い人より長生きすることもありますよ・・などとうそぶき、アルベルトを怒らせる。
そして、金貸しは、自分の知ってる老人がいいものを扱っている・・・・、それは、色も香りも、味もなく・・・・、毒薬じゃねぇか!アルベルトは、金貸しを追い出してしまい、恥も外聞も捨て、公爵に相談をすることを決めるのでした。

第2部

男爵の館の地下。なんて幸せなんだ!6つの箱に満たされた財宝を前にニタニタとする金の亡者、アルベルトの父の男爵は、これまでさんざん、女性関係も含めて苦心惨憺の様子を語り、いかに財をなしてきたかを歌います。
そして、財宝たちに光をあて、超満悦の様子は音楽もじわじわと燃え盛る、異様なほどの高騰感をあらわします。
しまいには、自分がいなくなったらこれらの財宝たちはどうなるだろう?
死んだらどうなるだろうと、真剣に悩み、墓場から出てきてまで守ろうと語ります。

第3部

先に、決心したとおり、アルベルトは公爵に相談し、父親からの援助の仲立ちを依頼します。
城郭にて、アルベルトの願いを快く引き受けた公爵は、おりから登城してきた男爵に、丁寧にあいさつし、男爵も次の世代を考え、子供はいるのですかと問い掛け、息子が、という答に、そのご子爵にその立場に相応しい援助を差し上げたらいかがなものかと、示唆します。
しかし、頑なな男爵はあの野卑な息子はいかん、あいつはわしを殺そうといつももくろんでいる。と一切請け合うことがない。
すると、別室で控えていた当のアルベルトが血相変えて飛び出してきて、そんなことは違う、嘘つきだ!と叫びます。
これに驚き、怒った男爵は自身の手袋を相手に投げ捨て、それをアルベルトも拾い上げます。(これは決闘を申し入れ、受け入れた証なのです)
公爵は、その手袋をアルベルトから取り上げ、彼をいち早く別室に引き下がらせます。
すると、男爵は、息ができない、と胸を押さえて苦しみ、しかし、鍵が?鍵が?と最後までこだわりながら倒れてしまうのでした。
そのをみとる公爵は、神の名をささやいて幕となります。

                   幕



ラフマニノフは、親友だった、かの名バス歌手シャアリアピンのタイトルロールを想定して、1906年にこのオペラを完成させ、「フランチェスカ・ダ・リミニ」とともに同年に初演し、成功を収めたとされております。
いろんなサイトにも書かれておりますが、このオペラはともかく暗く、その筋立てにも救いがない。
しんねりむっつりとした巨人ラフマニノフのとっつきの悪い姿が思い浮かびます。
登場人物が男声のみ、合唱もなしということも、華やぎに大きく欠けて聴かれる部分です。

ラフマニノフは裕福な家に生まれながらも、父親が生業を維持する才なく破綻と両親の離婚、ゆえに母親の愛と、そのルートからの音楽教育を受けた。
その境遇から、このプーシキンの満たされない不合理と、肉親の情愛の欠落などを大いに意識して、この素材をオペラにしたのではないかと思います。
劇中の「けちな騎士」が持つ、人間の強欲とその存在意義が一歩間違うことによる悲劇とその儚さは、このオペラの肝なのではないかと思います。

あんな人を寄せ付けない雰囲気のラフマニノフが、甘味・連綿たる音楽を数々書いたことの答えも、一部はこのあたりにあるのではないでしょうか。

で、暗い暗いと言っていたこのオペラ。
たしかに救いなく暗いですが、それは筋や歌の内容。
オーケストラは、わたしたちが好んで聴く、交響曲や協奏曲のオーケストラと同じように、雄弁で低音から高音まで幅広い音域で濃厚サウンドを聴かせる。
うごめくような面妖な雰囲気は一方で、人間の深いところにある暗い情感を見事にあらわしているようで怖いくらい。
1場におけるアルベルト役のテノールの情熱的な歌、そして、なんといっても長大すぎて、シャリアピンも覚えきれなかった2場のバスの一人舞台のものすごさ。
32歳にして、この人生の深淵を見てしまったような音楽を作り出したラフマニノフは、やはり才人でありました。

いま各処で活躍する若手中心の歌手たちに、全3作を録音したノセダとBBCフィルの演奏は、すっきりスマートなキレのいい演奏で、あまり重くならずによかったのでした。

過去記事

 「フランチェスカ・ダ・リミニ」

 「アレコ」

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2013年2月23日 (土)

佐村河内守 コンサートは月曜日

Inawashiro

猪苗代湖の晩冬。

数年前のもの。震災前です。

いま、福島ではいわき市が結果的には放射レベルが低かったことで、企業進出熱が高まっていることを仙台の仲間から聞きました。

一方の会津は、「八重の桜」で、人気を呼ぶエリアとなりました。
会津若松市は、猪苗代の西側にありますが、酒うまし、肴うましのわたしには文句なしに大好きな街です。

Inawashiro2

磐梯山は、福島県の心のふるさと。

子供の頃から、お酒のCMでお馴染みの歌も記憶にあります。

そんな麗しき福島をはじめ被災エリアが、不合理な苦しみのあって、もうじき2年になります。

なにもできない私には、この震災を通じて知り合うことのできた「佐村河内守」音楽を、こうして広めるしか能がないところであります。

Samuragochi_sym1

 まだ先だろうと油断してたら、もうあと2日。

ついにやってきました、佐村河内さんの交響曲第1番の東京での演奏会。

何度も何度も聴いて、すっかり血肉化してしまったこの壮大かつ、闘う強さと、愛と解放に満ちた交響曲を実演で聴けることの喜び。
涙もろいワタクシですから、当日はどうなってしまうか自信がありません。


  交響曲第1番「HIROSIMA」

    大友 直人  指揮 日本フィルハーモニー交響楽団

        2013年2月25日 東京芸術劇場


最近、少し情報が少なめで、皆さん、熱も下げ気味かもしれない時期に、絶対的な感銘をあたえる絶好のタイミングの演奏会。

先の震災にとても心を痛めていらっしゃる佐村河内さん。
このコンサートにもきっと来演されることと思います。
この曲を知りぬいた大友さんの指揮、東響でなく、日本フィルというところも、そろそろ、この大作交響曲が独り歩きを始めることを意味していると思います。

そして、わたしといたしましては、この曲をお教えいただいた方と是非にもお話がして御礼をしたいのですが、あれ以来連絡がとれませんこと、とても残念です。

そんな感謝の気持ちも込めて、しっかり聴いてきたいと思ってます。

マーラーの補筆完成版10番を、このところずっと聴いてきて、併行して佐村河内交響曲も聴き、ブリテンも聴き、ショスタコーヴィチも聴き、ベートーヴェンも聴いた。
ごく普通に、日々聴く音楽として、わたしには不可欠の存在となりました。

繰り返しですが、感動が約束された演奏会。

もっと先の感銘を刻みたくて、このコンサートに、自分としては思いたく挑みたいと思ってます。

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2013年2月22日 (金)

セルゲイ・クドリャコフ・高橋和喜・山本裕康 室内楽の夕べ

Shinnbunkinenkan

横浜の歴史的建造物のひとつ、日本新聞博物館の入るこの建物は、昭和4年築。

関東大震災で米領事館が消失し、そのあとに震災復興の願いも兼ねて建てられた商工奨励館がその元となっているそうな。

靴の音が豊かに響く、荘厳なる建物ホールでした。

ここには、レストランやカフェも入ってます。

Koudriakov

   「セルゲイ・クドリャコフ 室内楽の夕べ」

   モーツァルト ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 変ロ長調K.378

   ベートーヴェン チェロ・ソナタ第4番 ハ長調 Op102-1

   ショスタコーヴィチ ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 op67

       Pf:セルゲイ・クドリャコフ

       Vn:高橋 和貴

       Vc:山本 裕康

          (2013.2.21 神奈川県民小ホール)


ご覧ください、この渋いけれども唸らせられるプログラム。

モーツァルトの中期、ベートーヴェンの後期、ショスタコーヴィチの最盛期、大作曲家されぞれの特徴がいかんなく味わえる時期の、いずれも心に多く響いてくるような作品たち。

クドリャコフ氏は34歳のモスクワ生まれの気鋭で、数々の実績を持つ堂々たるピアニストであります。
大の日本びいきのようでして、これまでも何度か来日し、日本の音楽家との共演も多く重ねております。
 今回は、トリフォニーでのリサイタルと、横浜での室内楽のふたつのコンサートを携えての来日。

そして、われらが山本裕康さんの登場もあって、こちらの演奏会に挑んだのでした。

モーツァルトのソナタで登場したふたりは、なかなかに堂々たる体格のコンビ。
クドリャコフ氏はある程度予想はしてましたが、高橋氏は、チラシ写真のちょっと少年ふうの雰囲気とは大違いの、タカ&トシの片一方風な・・・。
ギャラントで緩やかな歌心地がうれしいモーツァルトのソナタは、ピアノがヴァイオリン以上に幅を聴かせるモーツァルトならではのものですが、クドリャコフ氏の硬軟豊かなレンジの広いピアノは、極めて余裕綽々で大らかなものです。
そして驚きは、高橋さんの豊穣感あふれる並々としたあふれんばかりのヴァイオリンの音色。このモーツァルトは余裕ありすぎで、最後のショスタコではその力量に驚くのでした。
高橋さんは、ウィーン在住の実力派で、内外に活躍し、サイトウキネンでも弾いてるようです。

そして、お馴染みの山本さん。聴きなれ、耳慣れているものだから、最初から安心感がある。聴くのに構えなくていい。いつもの優しく生真面目な山本裕康さんがそこにいる。
音楽を聴くことって、こういうことも大事だと思う。
神奈川フィルもそうだけど、いつも近くで聴けて、自分のあり方を確認したりする存在。
勝手すぎるかもしれませんが、いつもそばにいてくれる安心感なのです。
 後期の澄んだ境地とともに、形式を少し外れて自由な雰囲気満載の4番のソナタの音楽のよさそのもを堪能できた演奏でした。
ベートーヴェンの素顔は、あのいかつめらしい肖像のものではなく、本当は柔和でまっすぐのものではなかったろうか、とこの曲と演奏を聴いて思いましたね。

休憩後は、ショスタコーヴィチのピアノトリオ。
まともに聴くのは初めてであります。
ついつい、交響曲やオペラばかりを聴いてしまうのですが、室内楽・器楽のショスタコさんは、これからの音楽人生の課題であります。
いやぁ、うわぁ~、なんて面白い、すごいんだろ。
喜怒哀楽、人間すべての様相が30分4楽章にしっかり込められているような気がした。
山本さんのフラジョレット奏法によるアイロニーに満ちた旋律がそれこそ繊細に弾かれて始まるこの曲。
4つの楽章からなる濃密な音楽空間は、聴く側を異常な緊張状態に追いやる。
タコさんの「マクベス夫人」のそれも異常なまでの緊迫感は、長い交響作品のようだと思ったりもしていますが、あの暴力とシニカルな笑いと、そして救いようのない哀しみと悲劇は、思えばショスタコの音楽のすべてに共通のものではなかろうか。
それが以外にも、さほど深刻ではなく、作者は冷静に音楽の呼び覚ます共感や興奮を計算しつくしているところが、毎度のパターンの踏襲から読んでとれる。

それにしても、こうして眼前でライブ演奏にふれると、まんまとショスタコの罠にハマって、一喜一憂してしまう自分があるのだ。
でもともかく鮮やかかつ真剣さに満ち溢れた凄まじいほどの集中力ある演奏だったと思います。
クドリャコフくんは、見た目で余裕かましているように思えましたが、顔と体を駆使して音楽にのめり込んでいた高橋氏、いつもにまして目を閉じたり、奏者どうしのコンタクトに励みつつ、顔を上気させていった山本さん。
みなさんの熱演が、素晴らしいトーンの県民小ホールにこだまし跳ね返ってくるようでありました。
ちょっとこれからはまりそうな音楽であります。いい!

アンコールは、悲しみの哀歌である深遠なる3楽章と、再び登場しての、タコさん特有の疾走するはちゃむちゃ2楽章。
演奏する3人もお疲れだし、聴くわたしたちも、へとへとになるくらいの濃さがありました。
あの3楽章は、今日も何度も聴いて嘆息しておりまする。

いやぁ、実に意義深いコンサートでした。ありがとうございます。

終演後は、ご一緒したyurikamomeさんと中華街へ。

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2013年2月21日 (木)

神奈川県民小ホールにて室内楽コンサート①

Chainataown1

コンサートのあとは、中華街で一杯。

至福のとき。

今日は、午後の大半を関内~山下町地区で過ごしました。

ご案内、お付き合いいただきました皆さん、そして素晴らしい演奏家の皆さんに感謝。


 「セルゲイ・クドリャコフ 室内楽の夕べ」

   モーツァルト ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 変ロ長調K.378

   ベートーヴェン チェロ・ソナタ第4番 ハ長調 Op102-1

   ショスタコーヴィチ ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 op67

       Pf:セルゲイ・クドリャコフ

       Vn:高橋 和貴

       Vc:山本 裕康

          (2013.2.21 神奈川県民小ホール)


こんな渋くも、素晴らしい、そして示唆にとんだ演目のコンサートを聴いた濃密な木曜日。

時間を巻き戻して記事公開してます。

いいコンサートだった、おいしいお酒に中華だった。

明日、また書こうと思ってます。眠いです。

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2013年2月20日 (水)

神田やぶ蕎麦 燃ゆ

Kandayabu

神田、やぶ蕎麦の火事は、多くの方に衝撃を与えることとなりました。

秋葉原にも神田川を挟んでほど近いこのエリアは、神田須田町。

再開発が進む周辺の中にあって、時間が止まったような空間がこのあたり一帯で、この「やぶ蕎麦」を筆頭に、アンコウ鍋「いせ源」、鳥すき「ぼたん」、甘味揚げまんじゅの「竹むら」、ちょっと離れて、蕎麦「まつや」などが集積してます。

いずれも歴史的な建物ばかりで、味と共にその建物も江戸の風情を楽しめる界隈なんです。 →過去記事

Kandayabu1

九段下、一ツ橋、神保町、お茶の水、このあたりでサラリーマン生活を営んだので、夜は近くに出没することが多かった。
「ぼたん」では、会社まるごと出入り禁止を食らう、とんでもないおバカな会社だったけれど、少人数では大人しく、やぶ蕎麦で、2枚食べて、「竹むら」で揚げまんじゅうとあんみつを食べて・・・ということを何度かやってましたが、ここ数年はご無沙汰してました。

ボリュームがちょっと上品すぎて、お値段もちょっとお高いところがありましたが、お店の方々の対応が素晴らしく、蕎麦とマッチした上質な味わいがありました。

早期の再開をお祈りいたします。

さて、今週は「ねこの日」も飛ばしてしまいましたが、次週の予告編として、江戸の下町のにゃんこを1枚。

Yanakaneko2

タヌキじゃありません。

アライグマでもありませんぜ。

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2013年2月19日 (火)

投稿できず

ココログの仕様変更により、記事が保存できず、書いたものがみんな吹っ飛んでしまう。

何時間もの記事作成がまったく無駄に!

もう、あたまきたから酒飲んで寝る。

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2013年2月17日 (日)

マーラー 交響曲第10番 レヴァイン指揮

Sihibapark_1

某公園にて、きれいに整備、植えられた葉ぼたんの各種。

ムラサキ系をたくみに集めてました。

でも、春はまだ遠い。

Mahler_sym10_levine

  マーラー 交響曲第10番 (クック補筆完成版)

   ジェイムズ・レヴァイン指揮 フィラデルフィア管弦楽団

                 (1978、80年 @フィラデルフィア)


金曜日に聴いた神奈川フィルの第10番のクック版全曲。

土曜も日曜も呆けたように、みなとみらいホールに響いた音を心の中で追い求めておりました。
未完の作品を第三者が、しかもよってたかって補筆していることに、以前はどうにも違和感を持ち、まともに聴いてこなかった。
初聴きは、シャイーがベルリン放送で演奏したFM放送で、カセットテープに録音したものの、先の先入観もどきの感情で、どうも入り込めなかった。
1981年ごろのことです。

マーラーに食傷ぎみとなってしまった時期もあり、10番完成版からは遠ざかっておりましたが、その10番がやってきたのは、ここ数年のこと。
ハーディングとウィーンフィルのCDを購入し、繰り返し何度も聴いて、この曲の魅力に開眼したのです。
いまでは、クックにマーラーが乗り移ったぐらいの反応を起こしたスコアだと思っております!

そして、その頃同時に起きたのが、エルガーの交響曲第3番のA・ペインによる補筆完成版への目覚め。
同様に、眉つば風に思っていたエルガー3番を、2曲ではもの足りなかった交響曲への渇望の念を埋めるようにして、あらたなエルガー作品の登場として、寛容とともに心から受け止めることで、ペインが創作した場面がマーラーのそれ以上に多々あるにしても、その出来栄えの見事さ、なによりも「エルガー・テイスト」の完璧さから、わたくしはしっかりとその曲を受け止めることができたのでした。
 まったく時を同じくする頃の10番受容は、もうひとつのマーラーという意味合いもあったことは間違いありません。
でもそれ以上に、多く残された速筆派のマーラーのスケッチやアイデアを見事に血肉化したクックやその仲間の腕の冴えに感服つかまったのです。
いまや、幾多もの版がある「10番」の基本となってずっとあり続けるのがクック版でありましょう。
それらの版によるCDレビューをしっかりされているのが、音楽および神奈川フィル仲間のyurikamomeさんのブログです。
わたしの知るなか、10番に関してもっとも広い見識をお持ちの方は、yurikamomeさんと、いまはサイト休止中のIANISさんです。

今日は、10番の演奏で気に入ってるひとつ、レヴァイン盤を聴いてます。

レヴァインの若人のマーラーの演奏の特徴は、曇りや陰りのない明るさと豊かな包容力、そして屈託ない歌でしょうか。
それがそのまま「10番」の演奏にもあてはまるのです。
5番にカップリングされた「アダージョ」とのこりの4つの楽章の演奏とは2年の歳月があるのですが、そんな差はまったく感じさせない、一貫した伸びやかなマーラー演奏。
オーマンディからムーティ治世へと変わる頃のフィラデルフィア管は、高性能ぶりと明るい煌めき系との音色で、実に耳に嬉しく優しいのです。
しかし、音が語ってこないうらみはありまして、豊かだけど雄弁さや迫真性が少ない。
美しいけど、哀しみが少ない。
でも愛にはあふれてる。
そんな印象です。

齟齬はあったけれど、聖響&神奈川フィルの演奏の方が無常感と哀しみは出ていたし、音楽の表情は必死でした。
今さらながら、素晴らしい音楽体験でした。

いろいろと聴いてきましたが、いまのお気に入りは、ハーディングとザンデルリンク、ラトルの旧盤、ギーレンの北ドイツ放送とのライブです。
いずれ発売される神奈川フィルのライブが、そのお気に入りに加わるのは目に見えてますね。

ファイスブック版「神奈川フィルを勝手に応援するサークル」に参加しております。
niftyはどうも、簡単にフェイスブックのバナーを貼ることができません。

こちら→でご覧いただけますので、神奈川フィル応援のためにもよろしくお願いいたします。

そちらに投稿した、「アルマ」に関する内容の拙記事を長いですが以下ご紹介いたします。

神奈川フィル 第287回定期演奏会に向けてのお勉強 5時限目 

「運命の女(?)アルマ」

これまでの「交響曲第10番」のお勉強のなか、恋多きアルマの不倫が、マーラーを悩ませ、そして最後には許しの心が、この美しくも悲しい音楽に結実したことを感じていただけたと思います。
心優しく、多忙で複雑な内面を持ち続けたマーラーの音楽とその人となりを知ることがきる私たちは、アルマをちょっとばかり許しがたい存在として見てしまうのも事実です。

グスタフ・マーラーとアルマとの年の差は、19歳。
この差は、ただでさえちょっと変わり物で、決して美男子ではなかったマーラーへのギャップとして理解せざるを得ないアルマの行動だったかもしれない。
しかし、アルマは最高の作曲家であり指揮者であったマーラーに仕え、尽そうとしていたことも事実で記譜なども進んで行っていたし、夫を擁護する行動・言動も数々あります。
 自身が、画家シンドラーの娘として芸術的な素養があり、自律的・進歩的な考えもあったので、まさに芸術への目利きが効くという自覚もあったのは間違いなく、彼女が交わった人物たちは、いずれも今に名を残す芸術家たちばかりなのである。
俗に言う、彼女は「あげまん」なのかもしれない。
そして一方、「ファムファタール」と呼ぶこともできる。
それはすなわち、「運命の女」ということで、かかわった男を完全な虜にしてしまい、最後には破滅させてしまう・・・・、「魔性の女」という側面もあります(「場末の女」じゃありません)。
そのカテゴリーの女性で、音楽にちなむ名前をあげると、「サロメ」「カルメン」「ルル」などがあげられます。しかし、彼女たちは同時に「破滅の女」でもありまして、最後は籠絡した男たちに殺されてしまうのですが。
こうした一方的に男を虜にして、双方痛み分け的な存在の女性と異なる、「あげまん」型「ファムファタール」が、「ルー・サロメ」 という実在の女性で、彼女はまさにマーラーと同世代、世紀末を生きた女性なのであります。
彼女は、作家であると同時にセラピストとして、数々の芸術家と接し彼らの才能を引出し、かつ求愛もされるという存在でありました。
その芸術家たちを羅列すると、ニーチェ、ヴェーデキント(あのルルの原作、地霊・パンドラの箱の作者)、リルケ、フロイト、ほかたくさん。
 このカテゴリーに属するのが、「アルマ」といっていい。
彼女の男性関係をここの列挙します(まるで三面記事みたいですが)。

①グスタフ・クリムト・・・17歳のとき、17歳年上のクリムトにときめく。

②ツェムリンスキー・・・マーラーが後押しした気鋭作曲家で、アルマの作曲の先生。
            のちに、シェーンベルクの師となり義兄ともなる人物。
            アルマの師でありながら彼女に恋心をもってしまうも振られる。

③マーラー・・・・・・・ご存知のとおり、最初の夫。
            1902年結婚、1911年未亡人。
            娘ふたりをもうけ、一人目マリア・アンナは早くに死去。
            二人目、アンナ・ユスティーネは、作曲家クルシェネクと結婚。
            クルシェネクは、のちにアルマが10番補筆を依頼した。
            その代表作は「ジョニーは弾く」というオペラで、一世を風靡
            したものの、ナチスから退廃作曲家のレッテルをはられる。
            かつて小澤征爾がこのオペラを指揮している。

④グロピウス・・・・・・革新的な建築家。バウハウス一派を率いる。近代建築の父。
            マーラー死亡のあと、関係は遠のくが、のちに結婚。
            二人目の夫。
            ふたりの間にうまれた娘が、マノンで、19歳で早世。
            彼女を子供の時から可愛がったアルバン・ベルクが、その死を
            悼んで書いた曲が名作ヴァイオリン協奏曲。

⑤ココシュカ・・・・・・アルマより6歳若いオーストリアの画家。
            情熱的に結ばれた関係だったけれど、彼がⅠ世界大戦に従軍。
            その間、グロピウスとよりを戻され、結婚される。
            彼の作品は、クリムトやエゴン・シーレとともに、マーラーの
            作品のCDジャケットに多用されている。

⑤F・ウェルフェル・・・オーストリアの小説家。ヴェルディの研究家でもあり、独語訳
            を数々残し、その上演方式もこだわった人物。
            こんどは歳の差が逆転し、ひとまわり若い男子。


アメリカ亡命後については、詳細不明なれど、ユダヤ系のシェーンベルクやコルンゴルトなど、ツェムリンスキーの弟子筋とも交流があった模様。
コルンゴルトからは、あの魅惑的なヴァイオリン協奏曲を献呈されている。

こうして彼女の人生を見てみるとと、マーラーと歩んだ約10年間が一番輝いていたのではないでしょうか。
一流の芸術家に、アルマは惜しみなく愛を与え、そして奪うことによって、彼ら芸術家の創作に夢と力を与えていった。
まさに「あげまん」としての「運命の女」。
そして、もしマーラーが病に倒れなければ、アルマはいかなる影響と力を彼にあたえ、そして奪ったでしょうか。
51歳という、あまりに早いマーラーの死を思い、そんな想像に思いめぐらすのも、10番を聴く楽しみと喜びです。

神奈川フィルの美音が炸裂し、みなとみらいホールを、マーラーのアルマへの愛で満杯にしてしまうことを期待します。
バレンタインの翌日に、それこそ相応しいことでしょう。
(ちなみに、作曲家としての彼女の作品は、いくつかの歌曲が残されておりまして、シェーンベルク風でありドビュッシー風でもあります。

過去記事 「キルヒシュラーガー  マーラー、アルマ、コルンゴルト」

 

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2013年2月16日 (土)

神奈川フィルハーモニー第287回定期演奏会 金 聖響指揮

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冷たい雨のみなとみらい6時36分。

イルミネーションの反映がとても美しいのでした。

これから聴くマーラーにときめく自分。

Kanagawaphill_201302

   マーラー 交響曲第10番 嬰ヘ長調 (デリック・クック補筆完成版)

      金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                    (2013.2.15 @みなとみらいホール)


聖響&神奈川フィルのマーラー・チクルスは、来シーズンの「6番」再演はあるものの、今宵の「10番」でひとまず完結。
あの震災翌日の6番も含めて、その全部を聴くことができて、大満足であります。
コストのかかる8番は、今後のお楽しみとして、いずれも好演ばかりの高度なマーラを聴かせてくれた指揮者とオケ、そして楽団に感謝したいと思います。

そして「10番」全曲。

ステージには、マークが林立、上からも何本も。普段見慣れない光景です。
ライブレコーディングされ、CDとなるとのこと。
日本のオーケストラで10番全曲を録音するのは初の快挙にもございます。

緊張の開始、ヴィオラの精妙な出だし。ここからして、この日の10番の成功はすでに聴き取れました。ヴィオラ大活躍の10番は、この魅力的な中音の楽器の真価がもっとも発揮される音楽だと思う。
そして、第2ヴァイオリンがこれまたこんなに活躍する曲だとは思ってもみなかった。
対抗配置が、これこそ活きる音楽だった。
この1楽章アダージョは、「大地の歌」の時に演奏されたものよりは、はるかに上質で、息も継ぐこともできないほどの緊張感あふれる名演でありました。
一弾きで山本さんとわかる素晴らしい音色のチェロ。
絶叫のクライマックスのあと音が引いてゆくなか一本残るトランペットは三澤さん絶好調。
高音をどんどん更新してゆく、第1ヴァイオリンをじっと見るのはとても緊張をしいられることですが、この浄化されゆくエンディングはともかく美しかった。

変拍子吹き荒れる第2楽章。おやっ?と思う個所もあり、できるだけ指揮者は見ないように楽員さんに注力。
この楽章のトリオであるレントラーが好きで、ふだん知らぬ間に口ずさんだりしていている自分。モザイクのような不可思議なスケルツォに組み込まれた、この大らかな場面は、神奈川フィルの優しい音色がばっちり決まったようだ。
最終部の派手な鳴りっぷりもうれしい聴きものでした。

プルガトリオ3楽章は、もう少しテンポを落として、えぐりを深く、この楽章の特異性を際立たせてもよかったかも。とくにサロメを強調して欲しかったかも。
影の踊りのような、マーラーの揺れる心情。木管群、この日好調。

悲劇色の強い4楽章。死の舞踏のようなワルツは、石田コンマスのエッジの効いた華奢なヴァイオリンが素敵すぎだ。
しかしこんな皮相が音楽が胸に沁みる。
聴いていて、だんだんとあの5楽章が近づいてきてるかと思ったら、緊張が高まり、そして切なくなってきた・・・・。

バスドラムをここで叩くならこの方しかいない。そう、あの伝説の6番のハンマーの平尾さん。
前楽章の最後のシンバルの態勢から、一打一打と完璧なる打音が、ホールに響き渡り、異様なほどの緊張が高まる。
不気味なテューバのあと・・・・・、諸行無常。天を見上げるような哀しみと空虚感、そして優しさまでも同居する素敵すぎるフルートのソロが来る。江川さんのソロは本当に素晴らしかった。もう涙が出てきてしまった。ホールの天井を見上げてしまった。
弦にこの旋律が移り、連綿と歌われてゆくが、もう涙が止まらない。
でもそこにドラムとテューバも帰ってきて、わたしに鞭をくれる。
次いで活気ある場面に突入するがオーケストラも次々と大変なものだと妙に感心。
その後訪れる1楽章のカタストロフの再現、そして冒頭主題のホルンによる咆哮には正直参りました。最高でした。
そのあとの平安は、まるでブルックナーの緩除楽章のクライマックスの後のうように感じた。
その平安が、池の波動のように、ゆっくりゆっくりとオーケストラに広がってゆくのを、眼前が涙でぼやけながら見守るようにして聴いていました。
なんて美しく哀しい光景なのでしょうか。
目と耳で感じて心でも泣いてましたよ。
総奏の場面では、感動あまり慟哭しそうになってしまった。
聖響さんも、オケのみんなも、感動を一杯にあらわしながら指揮し、演奏している。
ホール全体も、完全に感動にうちふるえているのがヒシヒシとわかりました。
最後の音が静かに消えても、ステージの上も、ホールも微動だにせず、拍手も起こらない。完全無音の世界は何秒も続きました。

「君のために生き!君のために死ぬ!アルムシ!」

マーラーが最終場面のスケッチに妻アルマへの思いの丈。

素晴らしい演奏会でした。

このコンビのマーラーに別れを告げるのも寂しいものでした。

Seiryumon

感動の後は、喉が渇き、お腹が空くもの。

嗜好を変えてお店のサンプル写真を加工してみました。

いつもお馴染みアフターコンサートは、お疲れのところ、楽員さんやエキストラの方や現役の音大生さん、いつもお世話になってる楽団の方もご参加いただき、さらに遠来の音楽仲間IANISさんも含め、大変充実した楽しい会でした。
みなさま、お世話になりました。

3

日付が変わった桜木町駅前。

今回もまた終電コース。

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2013年2月12日 (火)

ブリテン 「ポール・バニヤン」 ヒコックス指揮

Shibapark_2

桜は一気に劇的にやってくるけれど、梅はじわじわと、静かに咲き始め、緩やかに甘い香りを漂わせます。

年取ると、梅の風情の方が好きだったりします。

梅見酒という概念はないでしょうかね?

Shibapark_2_2

今日は、ブリテンのオペラ16作中の第1作、「ポール・バニヤン」を取り上げてみます。

二つの幕とプロローグからなるオペレッタと副題されております。

Britten_paul_bunyan

  ブリテン 「ポール・バニヤン」 Op.17

  3匹の野生のガチョウ:パメラ・ヘレン・ステフェン、レー・マーリン・ジョンソン
                リリアン・ワトソン
 ナレーター:ピーター・コールマン・ライト 
 ポール・バニヤンの声:ケネス・クラハム(語り)
 簿記係ジョニー・リンクスリンガー:クルト・ストレイト   
 ポール・バニヤンの娘ティニー:スーザン・グリットン
 腕のいい料理人ホット・ビスケット・スリム:ティモシー・ロビンソン
 ふたりの腕の悪い料理人サム・シャーキー:フランシス・エガートン
       〃         ベン・ベニー   :グレーム・ブロードベント
 職長ヘル・ヘルソン:ジェレミー・ホワイト  
 4つのカブ~アンディ・アンダーソン:ニール・ギレスピー 
  〃 ペート・ペターソン:ニール・グリフィス 
  〃 ジェン・ジェンソン:クリストファー・ラックナー
  〃 クロス・クロスファルソン:ジョナサン・コード
 農夫ジョン・シェアーズ:ロドリック・イール
 西部組合の男:ヘンリー・モス  犬フィド:リリアン・ワトソン
 二匹の猫モペット、パペット:パメラ・ヘレン・ステフェン、レー・マーリン・ジョンソン
 3人の木こり:ジョナサン・フィッシャー、クリストファー・ケイト、ジョン・ウィンフィルド
 その他、ブルース・カルテット、ヘルソンのとりまき・・・・・

  リチャード・ヒコックス指揮 ロイヤル・オペラ管弦楽団/合唱団
    
              

             (1999.4 @ロンドン、サドラーズ・ウェルズ劇場)



                     
ベンジャミン・ブリテン(1913~1976)のオペラ第1作。
16作あるオペラ作品のスタートは、1941年、アメリカ滞在時代。
世はまさに、世界大戦中のこの頃、ブリテンは戦争を心から憎み、反戦忌避でもって、アメリカに滞在し、英国に戻ることをしなかった。
その行為は、のちに良心的兵役拒否として帰国後認められるなど、その生涯を通じた反戦平和の姿勢を浮き彫りにするものでした。

当時、アメリカにやはり滞在駐留していた詩人・作家のウィスタン・ヒュー・オーデンと知り合い、彼の台本によりアメリカ時代に作り上げたのが「ポール・バニヤン」。
オーデンも実は、ブリテンと同じく、あっちの恋愛嗜好だったことは、ここではあまり書く必要はないでしょうし、生涯のおトモだち、ピアーズはすでにお友達状態だったけれど、ここでは登場してなかったことが意味シンですが、これはまた触れるまでもないですね。

「ポール・バニヤン」とは、アメリカの大地のクリエーターとして伝承される存在で、身長8mの巨人の木こりのこと。青い牛ベイブをいつも連れていて、アメリカの山や湖、川も彼が創成したというおとぎ話があるそうな。

ブリテンとオーデンは、アメリカに在住し、その感謝もこめて、そのアメリカが世界に希望を与えるような内容としたオペレッタを作り上げたのであります。
アメリカに人々の心の中にある、自由やフロンティア精神、融和などの感情の象徴のように扱う主人公「ポール・バニヤン」は、実物が出てこずに、語りだけで登場するのです。
そして伝説中の人物としての創造者としてプロローグで生い立ちが語られ、本筋のオペラでは彼と共存する人間たちが自立してゆく様を20世紀を舞台にして描かれております。

時、まさに第二次大戦中、このような陽気なアメリカが生み出されたことは、やはり驚きで、悲壮感漂う日本の当時を考えるとやはり物心両面で上回っていたのだと思わざるをえない。
もちろん日本のように神代の歴史を持たないアメリカの大地創成物語は、かなりおおざっぱで、神話の域には達していないのですが、ともかく明るくてダイナミックな存在であります。

この作品の前、すでに「イリュミナシオン」や「シンフォニア・ダ・レクイエム」をはじめ主な管弦楽・協奏曲作品を完成させていたブリテンは、多彩な音色や響きの管弦楽手法や、詞と歌との巧みな融合など、後年さらに磨きのかかる独特の作風をこの初オペラ作でも十分に見出すことができます。

ここので特徴は、アメリカンテイスト。
冒頭からコープランドを思わせる、そうアメリカの大地の目覚めのような原初的な響きが聴かれます。その後も、こうした雰囲気は、夜は更ける場面、朝が目覚める場面などに感じ取ることができます。
 それと、このオペラの進行役、ナレーターが各処で歌う小粋なバラッドは、ギターとヴァイオリンを背景に、それはもうサウス・アメリカンの雰囲気満点。
さらにブルースもあり、ゴスペルもありです。

もちろん、クールなブリテン・サウンドも満載でして、ハープやピアノの絶妙な使い方、後に虜となる東洋風の音の運びも確認できました。

このように、その音楽はアメリカンでユニークであるとともに、しっかりブリテンの刻印が押されておりまして、3年後の「ピーター・グライムズ」のその合唱=群衆の集中的心理の圧倒的な効果の萌芽を見る思いです。

さらに、ブリテンならではの男声重視。
狂言回しは軽妙なテノール(ナレーター)だけど、陰りを持ち、最後は舞台を引き締めるやくわり簿記係リンクスリンガーは、おそらくピアーズが似合いそうなスッキリ系かつ少しダルなの英国系テノール。
素晴らしいアリアも準備されてます。
あとは、複数の性格テノールにバリトン。
女声は、ポール・バニヤンの娘のソプラノに美しいモノローグが用意されてますが、若い男女のカップルの扱いで、女声のほかの諸役は動物役で、舞台に奥行きを与えるようなロールで、決して主役級でないのです。

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プロローグ

森林。古木が生まれてこのかた、ずっとここにとどまっていると歌い、若い木たちは、もうたくさんだ、新しい世界を、と歌う。
そこへ、3匹のガチョウが、もうじき青い月の日に、ポール・バニヤンが生まれるよ、と歌う。
彼は、森に夢と行動する力、大地に新しい生命をもたらすのよ、と。

ナレーターが、ポール・バニヤンの生まれたくだりと、日に6インチ背が伸び、8歳ににしてエンパイアステートと同じ高さになった云々と陽気に歌います。
そしてポール・バニヤンは、青い牛とともに、南に向かって進みます。

第1幕

第1場 森のなか


ポール・バニヤンは、新しいアメリカを作り出すため、かれとともにする開拓者を募集します。
まずヨーロッパ各地に木こりを求め、さっそく木こりたちがやってきて元気に歌う。
そしてボランティアとして農夫も求め、最適の連中が集まります。
そこへ組合の男が電報を持ってきて、それはスゥエーデン王からのもので、自国に最適の伐採主がいると案内がきて、さっそくその人物ヘル・ヘルソンがやってきて加わります。
さらに、料理人ふたりもジョイン。
旅人のインクスリンガーが到着しますが、無報酬と聞くと空腹で一文無しなのに、参加を断って去りますが、ポール・バニヤンは、きっと帰ってくると予見します。
料理人たちは、彼ら人間たちとの友好のため、一匹の犬と二匹の猫を一緒に仲間にすることを提案します。
またあらわれたインスクリンガーは、やはり空腹。簿記係のポストを得ます。

ナレーターが、ポール・バニヤンが自分に見合う妻を探し、結婚し、そして娘ティニーが生まれますが、間もなくティニーの母は亡くなってしまった・・・と歌います。

第2場 キャンプにて

ポール・バニヤンがキャンプを留守にしているあいだに、働き手から料理人たちへの不満が爆発します。毎日、スープと豆ばかり。インクスリンガーは、君たちの料理は素晴らしいがせめて月イチでも違うものをやってくれないかと頼むが、料理人たちは怒って出ていってしまう。
そこへ現れたのがカウボーイの、ホット・ビスケット・スリム。
インクスリンガーは、彼に料理ができるか聞くと、いろんなものが作れるの一言に、即、仲間入り。
 ポール・バニヤンが、傷心の娘とともに帰還。
インクスリンガーは、ひとり、自分の人生は無駄ではないのか・・などと複雑な胸の内を歌います。(この歌はなかなか素晴らしい)
 さらに、ティニーは、母への思いを悲しく歌います(この歌もまた素晴らしいもの)。
そこへ、スリムが出てきて、料理の手伝いをティニーに乞い、彼女も気安く請け出てゆきます。

ポール・バニヤンは、インクスリンガーに、留守中のことを尋ねると、ヘルソンが思いこみすぎることと、あまり良くない仲間といること、何人かの木こりが、仕事に飽きてきて、農業でもやってみたいと思っていると話します。
インクスリンガー、君はどうだの問いに、わたしは全然問題ないですと答えますが、ポール・バニヤンは、わかっているよ、君の気持は、きっと思いがかなうからしばらく待つことだ、と語りは、二人は信頼を交わすようになります。

第2幕

第1場 森からの撤退


ポール・バニヤンは、木こりたちに、自分と一緒に肥沃な土地に向かい、農業に舵をきることを語ります。開発はあらたな状況に入ったと、それは、心から要望する大地なのだと。
森からの撤退にあたり、片づけ部隊としてヘルソンとその4人の仲間を命じます。
その4人は、ヘルソンに、ポール・バニヤンとインクスクリンガーへの反乱を起こすように持ちかけるが、ヘルソンはそれを嫌い彼らを追い出します。
その夜、ヘルソンは、青鷺の声、月、夜のしじま、カブトムシやリスなどの声に悩まされます。それらは、ヘルソンが失敗の道を歩んだとと口々に歌うのです・・・・。
犬のフィドは彼を慰めようとしますが、ヘルソンはフィドを追い払ってしまうし、猫たちは、それを見て、自分たちが犬のように感傷的になれないことを歌います。
 ポール・バニヤンが、ヘルソンに友よ、と声掛けをしますが、錯乱ぎみのヘルソンには聞こえず、飛び出していってしまいます。
 一方、若いティニーとスリムはすっかりいい仲になって愛らしいラブソングを歌ってます。
そして人々のなかに、氷のように冷たくなったヘルソンが運ばれてきます。
人々は、てっきりヘルソンが殺されてしまったと思い、思いきり哀しい葬送の合唱が歌われる。。。。ものの、ヘルソンが、ここはどこ?的に起き上がり、一同は驚愕とともに、大いなる歓喜に包まれます。
ポール・バニヤンとヘルソンの仲直りと一同が一心一体となり、あらたな発見と門出を歌います。なかなかに感動的な音楽です。
そのあとは、またまたナレーターが登場し、軽妙な歌を聴かせます。
 アメリカがどんどん豊かに進化してゆくさまを大はしょりで。
そして季節は冬、ポール・バニヤンともお別れ。クリスマス。

第2場 クリスマス・パーティ

人々は、楽しく大騒ぎ、ご馳走も一杯だ。
インクスクリンガーが場を取り仕切り、いろいろと目出度い報告を。
マンハッタンでのティニーとスリムの結婚、アメリカ連邦の公共工事のプランニングにヘルソンが参加しワシントンで活躍するであろうことなど。みんな大喜び。
そこへ、また組合の男が自転車で電報を運んでくるので、聴衆もここではクスクス笑い。
ハリウッドからインクスクリンガーへの電報、それは映画会社の技術アドバイザーとして招聘だった。舞い上がるインクスクリンガーへ皆が讃え喜びます。
そしてインクスクリンガーは、最後に、私たちのもとを去るポール・バニヤンに、その悲しみを涙をこらえつつ、言葉を求めます。
一同は祈りの歌を口々に歌い、インクスクリンガーの「あなたはいったい誰だったの?」の問いに、ポール・バニヤンは答えます。
「夜が昼になるとき、夢が現実になるとき、わたしは常に共にいる。わたしは道であり、行動である」と。

                     幕

海外WIKIとCDリブレットとを格闘しながら、概略を書いてみました。
多少の齟齬はあしからず。

アメリカのフロンティア精神と友愛、勇気、チャンレンジ魂などを明るく、大きなスタンスでユーモアも交えて捉えた内容といっていいかもしれません。

最後の、ポール・バニヤンのちょっとしたスピーチを掲載しておきます。

  Ever day America's destroyed and recreated,

    America is what you do,

 

    America is I and You

    America is what you choose to make it


戦時滞在で、世話になったアメリカへのブリテンとオーデンのアメリカ讃歌でしょうか。

このあと、ブリテンは英国へ帰国し、復帰するのでありますが、次のオペラは3年後の「ピーター・グライムズ」。
オペレッタから、シリアスな社会派オペラに。
風刺の効いた楽しいオペラは、また少し間をおいて、「アルバート・へニング」として登場します。
その後も、時代寓話やシェイクスピア、キリスト教劇などなど、多面的なオペラを生みだしてゆくブリテンなのでした。

Hicox

今日のCDは、1999年にレア上演されたときのライブ音源。
ヒコックスの情熱が生んだたまもので、舞台の楽しさと聴衆の存在を間近に感じる、まさにライブ感満点の素晴らしい演奏でした。
歌手も、グリットンやコールマン・ライト、K・ストレイトなどなど、実力者揃いで、ほんと楽しかった。
2年ほど聴きこんで、ようやく記事にできました。

ブリテンのオペラシリーズは、あと5つです。

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2013年2月10日 (日)

まさににゃんにゃん、ちょっとR○○

Toda_cats_1

この前借りた某コンテナハウスにて。

やたら騒がしいので奥へ行ってみたら・・・・・

月曜ネコの日は、音楽記事が仕上がらなかったので今日に。

Toda_cats_2_2


お楽しみ中ゆえ、ぼかし入れました。はぁはぁ。

野良たちは、これからがシーズン。

Toda_cats_3

ふんがぁ~

こちらに視線を送りつつも警戒中の健気なにゃん娘。

Toda_cats_5


極めて満足の体の、にゃん太郎。

ふっふっふ。

おい、いいなぁ、お前っ、一杯やろうぜ、と近づくワタクシ。

Toda_cats_6

と一歩踏み出したら、腰を浮かせて逃げてしまうにゃん太郎なのでしたぁ~

おまけ画像

Enoshima_cat

江の島のネコの一匹。

前に撮ったものですが、今日逮捕の卑劣犯が首に首輪を着けたにゃんこに似てます。

色柄がとても似てます。

ネコ好きには迷惑な男です。

にゃんこ覗き見もいかん男ですがね・・・・。

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2013年2月 9日 (土)

ベルリオーズ 幻想交響曲 ミトロプーロス指揮

Hamamatsucho201302_2

2月の小便小僧は、ご覧のとおり完全に防寒対策をほどこしてました。

マフラー巻いて、耳あてつけて、ひょう柄着て、コーデュロイ履いて。

そして雪だるま従えて、小便も勢いつけて!

電車来ちゃって、思わず飛び乗って、うしろ姿を撮るの忘れた・・・・。

Berlioz_symphony_phantastique_mitro

   ベルリオーズ  幻想交響曲

    ドミトリー・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック 

                        (1957.2 NY)


今月の「幻想」は、ミトプー。

妙なジャケットだけど、この原盤は、CBSの正規ステレオ録音のものでして、ミラノのURANIAというレーベルが復刻したもの。
左右のステレオ感がありすぎの難点はありますが、時代を考えたらなかなかの音だと思います。

もう半世紀以上も前に没しているギリシア出身のミトロプーロスには、逸話が多く、その驚異的な記憶力と作曲家・ピアニストとしても一流であった天才ぶりは、いまでも語り草となってます。
アメリカ国籍をとり、最後はニューヨーク・フィルで活躍したが、バーンスタインがミトロプーロスから大きな影響を受けたことも有名であります。
そして、われらがクラウディオ・アバドもミラノでその指揮姿を見て感銘を受けたと語っているほか、のちにNYでのミトロプーロス指揮者コンクールにて1位入賞し、バーンスタインの元で学ぶことにもつながった。
余談ながら、メータ後のニューヨーク・フィルがアバドに音楽監督を打診したとき、アバドは大いに乗る気だったといいますが、ウィーン国立歌劇場と重なり実現しなかった。
朋友メータ、かつての師バーンスタインとミトロプーロスのニューヨークは、アバドにとってやはり何か思い入れがあったのでしょう。

「ミトプーの幻想」
これはなかなかの聴きものでした。

第1楽章の入念で克明な出だしは、実に音の運びが丁寧で、強弱も繊細なまでに効かせ、余韻の作り方がとてもうまい。
主部に入ってからは、活力があふれてきて弾むように進む。
この楽章の終結でのテンポの緩やかな抑制は、物語のまずは一遍の終わりです的な、巧みな語り口でありました。

第2楽章のワルツ。ここでもその響きは明確で、決して媚びたりしない。
微妙なテンポの揺らしもあざとさはなく、決然とした円舞曲に終始して聴こえました。

第3楽章。弦楽の歌が絶妙で、ここでこんなに歌いまくるとは思ってもみなかった。
束の間の平安、田園風景がとても美しいのでした。

第4楽章の生々しさと無慈悲なキレのいい弦。ブラスはNYPOってどうよ・・。
録音のせいか?

第5楽章は、はちゃむちゃを期待すると完全に裏切られる。
終始インテンポ。でも音の強弱の対比はここでも豊麗で、ときに聴きなれないフレーズにおっと思ったりする。
驚くのは鐘で、ベルに合わせピアノを乗せている。この厚みある効果は大きく、その音に合わせて微動だにせずに、乱痴気が進行するのだ。
録音のせいか、ここでもブラスに不満はあるが、弦の凄まじさはよく聴いてとれる。
コーダの音の厚みはすごいが、テンポは動かさず、そのまま圧倒的な音圧で終了。
そして最終和音をここまで伸ばす演奏をほかに知らない。

ということで、52分間、ユニークな幻想のひとつを味わいました。
全体を俯瞰して、ベルリオーズの音楽を突き放しつつも、随所の溢れる歌心にミトプーの真髄を見た思い。
楽しかった。

Karajan_mitopu_bernstein

当CDに、こんな写真が封入されてました。
カラヤンがニューヨークフィルを指揮したとき(58年)のものでしょうか。
希少なトリオですね。

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2013年2月 8日 (金)

グリエール 交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」 ダウンズ指揮

Zojyoji_4

宵闇に包まれるころの、桃色の梅の花。

これまた官能的な香りにあふれてまして、時節柄、猫たちの呼びかけが聞こえてしまいそうな雰囲気でした。

暖かかった昨日の画像ですが、今日は青空がきれいでしたが、うってかわって、冷たい風の吹き荒れる凍るような寒さでした。

西新宿方面に出向いたのですが、ただでさえ強い風がビル風でもって何倍にもなって歩くのにも難渋しました。
おかげで、髪の毛かなり持ってかれて、あと○○本しかなくなっちゃったじゃないか!

Zojyoji_2

芝増上寺と東京タワー。

ここで、きゃりーぱみゅぱみゅがコンサートやっちゃったんだよね。

シラフでも言えないその名前。
酔って言ったら、オヤジのワタクシには、「きゃりーぴゃぁむぴゃぁむ」になっちまって失笑を買うのでありました。

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  グリエール 交響曲第3番 「イリヤ・ムーロメッツ」

    サー・エドワルド・ダウンズ指揮 BBCフィルハーモニック

                   (1991.9 @マンチェスター


レインゴリト・グリエール(1875~1956)は、ウクライナ出身の作曲家で、その生没年を見ると、スクリャービン、ラフマニノフ、シェーンベルク、シュレーカーなどと同世代で、後期ロマン派の最終地点にあった人のひとりと年譜上は認識されます。

キエフ生まれで、プロテスタント系、モスクワで勉楽し、タネーエフなどに学んだ後に、ドイツ・ベルリンに留学。
帰国後、作曲活動とともに後進の指導をおこない、プロコフィエフやハチャトリアンもその教え子の中に見出せます。
その間、ロシアはソヴィエト連邦となり、グリエールは国の中枢を担う音楽家となったが、そうした経緯もあって、いま、その姿や音楽の大半は目に耳に届きにくいものとなってます。
ソ連邦後は、その音楽が赤系とみなされたりしたことも、その一因だったかもしれません。

バレエ「赤いケシ」、ホルン協奏曲、コロラトゥーラ協奏曲、そしてこの交響曲ぐらいしか目にすることができないグリエール。
子供の頃から、ストコフスキーやオーマンディのレコードで気になっていた今日の「イリヤ・ムーロメッツ」は、気になった時から、ほぼ40年を経て、一昨年入手したCDでその実際を知ることとなり、ときおり聴いて練習してきた音楽なのです。

ドイツ勉学時代は、きっと同輩の音楽家と交流し、まさにマーラーの音楽やワーグナーも聴いたに違いありません。

約80分にもおよぶ4楽章の標題音楽的な交響曲は、あまりに長大で、聴く前に恐れをなしそうな巨大な先入観が伴いました。
しかし、CDで初期のオリジナルの姿が1枚に収まるようになり、なによりも、マーラーの交響曲に慣れてしまった我々聴衆には苦にならない長さと、ほどよい後期ロマン派風な濃厚さ加減。
これは正直、魅力でした。
思ってもみない濃厚サウンドに身も心もやられちまいました。
 第2楽章の緩徐楽章ともいうべき「ナイチンゲール(夜鳴きうぐいす)」の歌であります。
20分にも及ぶ濃厚後期ロマン派サウンドを、こうしてロシア系作曲家の、本格シンフォニー、しかも故国のウクライナの伝承伝記から生まれた音楽に聴くとは思いもよらないことでした。
ともかく素晴らしくロマンティックで、甘~い。
これを予備知識なく聴いたら、シェーンベルクやツェムリンスキー、アルヴェーンなどとわからなくなるくらい。

WIKIや他の記事によれば、Rコルサコフなどの影響も大とされますが、後期ロマン派好きのわたしには、その系統の流れが、とてもうれしく反映さえた音楽と移りました。

「イリア・ムーロメッツ」は、10~14世紀に活躍した英雄「イリア・ムーロメッツ」の物語を音楽化した作品。
え??・・・、何世紀も?
不滅の破天荒な英雄。
ということになるのですが、そこはロシアの物語。

 老夫婦のもとに生まれたときは、ちょっと不具合だったけれど、どこからか旅の老人があわられ、イリアを強大な人物にする薬をさずける。
世直しの旅に出たイリアは、途中、各所で無二の親友となり、その力も授かる男と出会う。
それらの中の悪妻のひとりから無理無理に誘惑され、知らないうちに育った息子には殺されかけてしまいす。
 それよリ戻って、キエフの王様から大いに信頼を得るも、その宴会に招待されなかったことをとがめて、大暴れしてしまうイリアもなんぼのものだろうか。
最後は、天軍に唾棄してしまったこともあり、仲間の勇志たちは石と化し、自らも同じく石になってしまう。


こんな荒唐無稽の物語の一遍を交響曲化してしまったグリエールです。

音楽は、さきのとおりですが、ダウンズ指揮のBBCフィルの明るく、楽譜の隅々が聴こえる演奏は極めて魅力的なのでした。
ダウンズは、ワーグナーやシュトラウス、ヴェルディやブリテンの知られていないオペラを積極的に取り上げる指揮者で、ここでも無類の安心感があります。

ちなみに、この曲をおおいに評価したストコフスキーは作者に依頼し、長い曲を80分から45分に短縮し、演奏や録音に渡った。
オーマンディの録音も、その版によるものです。
ダウンズは、オリジナルの完全版。

この曲が完成されたのは1911年。
初演は翌1912年。
マーラーの没年は、1911年。

独・墺以外でも世紀末の音楽はしっかりと確認できるのでした。

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2013年2月 7日 (木)

マーラー 交響曲第10番からアダージョ バーンスタイン指揮

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昨日の雨や雪、今日の暖気、首都圏は春の兆しを強めつつあります。

先週末の超温暖もあって、梅の蕾も急速に開きつつありました。

本日、芝増上寺の梅の花です。

まだほんの1割程度ですが、近くの東照宮や芝公園では、5分咲きのものもありましたよ。

そちらはまた明日。

Zojyoji

梅の種類は色の違いばかりじゃないようです。

桜の華やかさと違って、健気で着実な感じですな。

そして、あたりに立ちこめる芳香は、冬の水仙とともに、その甘味な香りは、この時期に聴く世紀末系の音楽さながらに、わたくしを酔わせるのでした。

あともう少しで、沈丁花の香りも漂い始めますからして・・・・・。
あちらの香りは、わたしには完全にアルバン・ベルクです。

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   マーラー  交響曲第10番から 「アダージョ」

     レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

                          (1975.4 @NY)


マーラーの未完の10番は、オペラを書かなかったマーラーのオペラともいうべき、壮大かつ内向的な8番のあと、「9番」「大地の歌」「10番」と三部作のような死を前にした今際の淵にある人間の生への執着と告別のあい乱れる、極めて人間的・現世的な音楽の一環と終着点であります。

次回の神奈川フィルの定期演奏会は、この10番の、デリック・クック版による補筆完成の演奏会なのです!

  マーラー 交響曲第10番 D・クック補筆完成全曲版

    金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

  2013年 2月15日 (金) 19:00 みなとみらいホール


マーラーの演奏が常態化したいまにあっても、この10番のクック版全曲の演奏会は、極めて稀ではないのでしょうか。
都内オケでも珍しく、N響ですら取り上げたことがないのではないのでは!

ですから是非、マーラー好きの方は、絶対に横浜へ!

全曲版の補筆完成版は、いま数種類、さらのメインのクック版にも数稿ありますが、10番全曲にチャレンジされる方は、あまり版の違いはことさら考えることなく、自筆がどこまでとか思うところは後回しにして、虚心にお聴きいただくがよいと思います。

そしてなにより、他の番号とのカップリング率の高い、完成版の第1楽章「アダージョ」だけならば、版云々は気にせずに「9番」の終楽章の延長として、さりげなく聴くことができると思います。
ただやはり、この楽章だけを収録した演奏は、どうしても完結感を表出しすぎる傾向を感じ取ってしまい、そのあと続く欠落2楽章以下のスケッチの存在を思い抱かせることがなくなってしまうように思えるのはやむないことでしょうか。
 もちろん、アダージョだけを演奏してるのであるから、あたりまえのことでありますが、完成版を多く耳にすることができるようになったいま、中途半端なアダージョだけの演奏では、どうにも満足感が得られなくなってしまったことを言いたかったのです。

そんな中でも、ついに全曲をやることなく去ってしまったバーンスタインの「アダージョ」の例のごとくの没頭的・刹那的な完結感は、この先が見越せないやるせなさと、切実な終末を感じさせるのでありました。
強烈なカタストロフの咆哮にも心奪われるのですが、わたしには、アダージョの最終部の最高音域の連続とトランペットの咆哮には、作曲者と指揮者の民族を同じくする血の叫びのように感じるのです。
不安と叫弾であり、そして平安。

ウィーンフィルの音色が美しいDG盤も好きだが、ニューヨークでのスタジオ録音の多少は粗さのある切実さの方が好きです。

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2013年2月 6日 (水)

コルンゴルト ベイビー・セレナーデ 

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今年に入って初の六本木ヒルズから見た「けやき坂」。

クリスマスの時は、ホワイトとブルーだった。

そしていまは、ホワイトとピンク。

ともかくキラキラと美しいのです。

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  コルンゴルト ベイビー・セレナーデ

   カスパール・リヒター指揮 リンツ・ブルックナー管弦楽団

                     (1999.3 @リンツ)


エーリヒ・ウォルフガンク・コルンゴルト(1897~1957)のことは、これまで繰り返し書いてきましたので、コルンゴルトのタグをクリックいただき、過去記事をご参照ください。
どうも記事の流れはおろか、冒頭を飾る写真の雰囲気すらみんな同じパターンになってしまっているのに、我ながら苦笑です。

それだけ、コルンゴルトのイメージが自分にしっかり出来上がっているということと、やはり好きでしょうがないのだ、ということでしょうね。

ウォルフガンクの名前を冠し、神童の名を欲しいままにしつつ、ユダヤ系ゆえ戦火の波にもまれ、ついには忘れ去られてしまう不運の境遇。
時代から名前が消えてしまったとき、すなわち、アメリカ時代にヨーロッパ回帰があたわなかった頃には、保守的で新しさがないとされたことも忘却の一因。
しかし、いまやその音楽は、マーラーやツェムリンスキーに大いに共感し、易々と聴くようになった私たちには、シュレーカーをはじめとする退廃系とレッテルを貼られた作曲家たちとともに、聴くべきもののひとつといっていい。
新国立劇場で、そのオペラが上演されるというのも画期的であるとともに、来るべきしてきたムーブメントといっていいと思う。

今日は、そのコルンゴルトの愛すべき作品「ベイビー・セレナーデ」を。
1924年ウィーンでの絶頂期に、ルイーゼと結婚、ほどなくふたりの息子を授けられるが、その二人目のゲオルクが生まれた1928年に、その可愛い息子のために書いたのがこの「ベイビ・セレナーデ」。
5つの楽章からなる20分ほどの、明るく愛らしく、そして快活な作品です。
解説によれば、コルンゴルトの家庭交響曲ともとれるとあります。
しかし、シュトラウスほどにリアルな写実感はなく、暖かい家庭と、可愛い息子たちを見守る夫婦とその愛みたいな雰囲気にあるのを体感するにとどまりますが。

 1.「序曲」~「赤ん坊が登場!」
 2.「歌」 ~「今日は、良き日」
 3.「スケルツィーノ」 ~「なんて素敵なおもちゃ!」
 4.「ジャズ」 ~「坊やがしゃべるよ」
 5.「エピローグ」~「そして、坊やは自分に語りかけるように寝てしまう」


編成が、当時とすると幾分変わっていて、サックス3本、ジャズ・トランペット、バンジョー、ハープを含む室内オケとなっていて、まさに、そのアメリカ風のムードは、「序曲」と「ジャズ」に遺憾なく盛り込まれていて、後のオペラでのダンスシーンやカーニバルの場面(カトリーン)や映画音楽などの先取りとみてとてます。
一方で、コルンゴルトならではの甘味で、煌めくシーンは、「歌」でたっぷりと聴けます。
これは7歳のときに書いた旋律とあります。
恐るべき早熟、それは、ウィーン風のワルツのリズムにのって。
そして、懐かしく、そしてほのぼのとした中に郷愁を漂わせる「エピローグ」は、子守歌です。最後に静かに響く銅鑼の音がずぅ~っと耳に残ります。

愛らしい、素敵な曲です。

今日の演奏は、その名はいかめしいけれど、オーストリアのオケらしく、柔らかくちょっと鄙びた、リンツ・ブルックナーオケで。
もう1枚、アルベルトと北ドイツフィルの演奏があって、そちらもよく聴いてます。
最後の銅鑼は、リンツの方がかなり長めです。

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2013年2月 5日 (火)

公園のにゃんにゃん+おまけ

Hibiya1

ど~ん。

短足寸胴にゃんこですぞ。

こちらの呼びかけに少し固まりつつも、ニラミを効かせる逞しいにゃんにゃん。

いい色具合だことcat

去年の春先、某都内有名公園で遭遇。

冬は野良たちにも厳しいけれど、彼らを追うワタクシにも難行ですから、ちょっとネタ不足。

いつくか大型企画(?)は温存してますがね。

Hibiya2

こちらを一瞥後、眼中になかったかのようの去るの図。

にゃん太の後ろ姿は味があるにょだ。

Hibiya3

目を転じれば、置物のようなにゃんこ発見。

猫のこのような畳んだ前足が好きなのである。

このにゃんこは、ふかふかじゃねぇか。

いいねぇ~

雪が予報されておりますが、彼らはいずこで宿るのでしょうか・・・・・。

彼らの顔をよく見てたら、こんなもん作りたくなってしまった。

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さらに、ワタクシのにゃんこ写真で、一番凶暴かつ屈強の彼奴をば。

Wanted_2
にゃんこたち、遊んでゴメンcat

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2013年2月 3日 (日)

ヴェルディ 「オベルト」 マリナー指揮

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ひと気のなくなった六本木ヒルズ。

オリンピック誘致の垂れ幕の向こうは、けやき坂のイルミネーションが美しい。

Hills_20130130_2

今日は、生誕200年のヴェルディのオペラシリーズに取り掛かります。

全26作(その他改作が2作品含むと28作品。)

すでにブログで取り上げた作品が舞台を入れて11作ありますので、ほかの作品をなんとか今年は記事にしてみたいと思ってます。

未知のオペラもいくつかあり、ブリテンの残りのオペラとともに難行ですが、やってみたいと思います。
そこへゆくと、ワーグナーはすべて馴染みの作品ばかりで血肉化してしまってますので、気が楽なのですが。

Verdi_oberto_marriner

    ヴェルディ  「オベルト」 (サン・ボニファッチョ伯オベルト)

  オベルト:サミュエル・ラミー   レオノーラ:マリア・グレギーナ
  クニーツァ:ヴィオレタ・ウルマーナ リッカルド:ステュワート・ニール
  イメルダ:サラ・フルゴーニ

   サー・ネヴィル・マリナー指揮 
            アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
            ロンドン・ヴォイセズ

                       (1996.8 @ロンドン)


ヴェルディ(1813~1901)のオペラ第1作。
1839年、ヴェルディ26歳。

イタリア・ブッセート近郊に生まれ、ブッセートで才能を除々に開花させ、やがてミラノに出て音楽教師ラヴィーニャのもとで学ぶようになったのが19歳頃。
スカラ座とのパイプも有していたラヴィーニャは、ヴェルディの才能を見抜き、自身が係わっていた合唱団の指揮をヴェルディにさせ、やがてオーストリア皇帝フェルディナント1世の生誕コンサート向けの音楽の作曲をするようにもなりました。
 しかし、世話になったブッセートでその街の音楽監督ともいうべき人物の死去により、ミラノに後ろ髪惹かれつつ、ブッセートに戻ることとなり、かの地で最初の妻となるマルゲリータと結婚し、男女ふたりの子供も生まれますが、長女は1歳で亡くなってしまうという悲しみも経験しております。この時、ヴェルディ25歳。
ただ経緯は不明ながら、この頃、オペラ「ロチェステル」を作曲していて、パルマでの上演を希望していたようだが、ミラノで知り合った指揮者マッシーニを通じて憧れのミラノでの上演をも画策しつつあり、再度ミラノへ居を移すことを決心。
ミラノで、さっそく脚本家ソレーラと作り上げたのが「オベルト」なのでありますが、登場人物の書き直しの様子や、ソレーラの手腕からすると、「ロチェステル」が「オベルト」に転じたのは間違いないとされます。
紆余曲折を経て、スカラ座で初演されることとなった「オベルト」ですが、係わった人物が、みなヴェルディの才能と熱意に感化されるという結果のたまものにほかなりません。
かくして、「オベルト」初演は成功をおさめ、各地で上演されたのであります。
 ちなみに、アルプスの向こう側、同年のワーグナーはその頃はもう、初期3作のオペラを書きあげておりました。
その後のヴェルディのハイピッチのオペラ創作に驚くわけです。

オペラの概要

1228年頃 ヴェローナ近郊バッサーノ
いくつもの公国が割拠した当時のイタリアが背景。
オベルト伯爵は、ヴェローナ内での権力闘争に敗れ身を隠すものの、娘レオノーラは伯母のもとヴェローナに残っていた。
オベルト伯を破ったヴェローナ公の助けを借りたのがサリングエッラ伯爵リッカルド。
その彼は身分を隠し、レオノーラに近づき、結婚の約束をして、やがて情報だけを得て、彼女を捨て、ヴェローナ公エッツェリーノ家の娘クニーツァと婚約してしまう。

 第1幕

第1場

エッツェリーノ家の居城、婚姻のためやってきたリッカルドを人々が盛大に迎え、リッカルドは威勢よく勝利と憎しみを、そしてレオノーラへの愛情も込めてアリアを歌う。
 一方、城の前では、すべてを知ったレオノーラがいまだリッカルドを愛する気持ちと裏切りへの怒りの二律背反する心情を強く歌うという、後々のヴェルディのお馴染みのパターンでもって登場する。
 娘の不運を知った父オベルトが入れ替わりに故国に潜入して登場し、娘を叱責し、にっくき男に復讐せんと歌う。
そこへレオノーラが再び登場。親娘ふたりの、これまたヴェルデイお得意の麗しい二重唱が歌われる。家名をこれ以上傷つけるな、さむなくば私は死を選ぶのみ、しかし憎きはあおの男! 

第2場
夫人たちの祝福を受けるクニーツァ。でもリッカルドの少しよそよそしい態度に気も晴れず、登場したリッカルドはそんなこととは知らずに、気をとりなおそうと美事麗句を。
仲直りして幸せを誓いあう二人。
一方、城に潜入したオベルト親子は、クニーツァの待女イメルダに取次を頼む。
身分を明かし、驚くクニーツァ。これまでの経緯を親子から聴き、心やさしいクニーツァは彼らを応援することを約束し、ふたりを別室にかくまう。
 クニーツァはリッカルドをはじめ城内の人々を呼び集める。
そこでレオノーラが進みでて、自分を裏切ったリッカルドを責め、オベルト伯までが進み出て彼を叫弾することとなりその場は大騒ぎに。
その流れで、オベルトとリッカルドは決闘を約すはめとなる。

第2幕

第1場

待女イメルダを介して、リッカルドが面会を求めてくるが、クニーツァは会うことはせず、自分のことはあきらめてレオノーラのもとへゆくようにと、これまた自分の恋を抑える複雑な胸の内のアリアを歌う(このアリアは素晴らしい)。

第2場
クニーツァへの同情を歌う廷臣たちの合唱。
近くの寂しい荒れ野では、オベルトが気持ちを高ぶらせ、まだまだ負けないとアリアを歌う。
廷臣たちがそこへ来て、クニーツァが決闘をやめるようにとリッカルドにとりなしていることを伝えるも、オベルトの気持ちは変わらず。
そこへ、リッカルドがあらわれ、決闘の延期を相談するが、臆病者めが、と一掃するオベルト。さらにレオノーラとクニーツァふたりが登場し、決闘を見送るように、そしてリッカルドにはレオノーラと再びよりをもどすことを約束させる。
が、しかしオベルトは、決心を変えず剣を抜き、森で待つと立ち去ってしまう。
 廷臣たちが集まって祈りが始まるが、遠く剣の交わる音。
戦いを止めようと彼らは森に向かうが、リッカルドが血のついた剣を下げて出てくる。
リッカルドは、えらいことをしてしまったと、大きく後悔し、神への慈悲を乞い歌い、やがて走り去る・・・・。
リッカルドを探しにきたクニーツァとイメルダのもとに、オベルトの亡きがらが運ばれてきて、ほどなくやってきたレオノーラはそこに泣きつくす。
(彼女が出てくるとき、合唱は、「あっ、彼女だ!」と歌うのですが、「S'avvicina」(サヴィチィーナ)は、どう聴いても、「寂ちぃ~な!」としか聴こえず、初めて聴いていらいここを楽しみにしております)
彼女は、自分が父を死に追いやったと悲しむうちに、リッカルドから贖罪の旅に出る内容の書き置きも届き、相次いで愛する人を失った悲しみを歌い、希望をなくして死を望んで幕となる・・・・・・

                 幕

みなさん直情型で、まったく救いの結末のドラマは、ちょっとばかばかしくなるくらい。
このオペラの50年後、劇場生活50周年の記念に、「オベルト」を上演してはどうか、との勧めを大家となったヴェルディは受けたが、自分のスタートは「ナブッコ」以降で、いまの聴衆には作風が古すぎて合わないからやりたくないと、固辞しております。

しかし、後年のヴェルディの萌芽はそこかしこに見出せます。
あふれ出る旋律の宝庫と、聴き手の心に本能的なまでに響く豊かなカンタービレの心憎さ。主役級4人に公平に与えられたアリアの素晴らしさ。
(その一方で群衆たる合唱の扱いがぞんざいになってしまった)
ドニゼッティやベルリーニらの諸先輩を超えたオーケストラの鳴りっぷりのよさ。

4人のソロが実力者でないといい上演にならない難点はありますが、捨て置くには惜しい歌満載の処女オペラ「オベルト」でした。

NHKで数年前放送されたものを録画したのですが、ただいま失踪中。
ワーグナーソプラノ、ヘルリツィウスがレオノーラ、新国でお馴染みのベントレがリッカルドを歌ってました。
序曲をまず知っておけば、その旋律が各処にあらわれますし、思わぬ素敵なアリアも各声部には現れます。
そして、前述の「寂しち~な」を探してください(笑)。

今日のCDは、驚くべきことにサー・ネヴィル・マリナーとアカデミーがそのオーケストラなのです。
2年ほど前に手に入れて、たまに流し聴きしてはおりましたが、真剣に聴いたのはこの1月から。マリナー卿のロッシーニの延長だろうと思わないで欲しい。
これはまた実にヴェルディしてる、流麗かつ歌心にあふれ、力感にもみちた見事なオーケストラなのですよ。
そしていつものように明確なアンサンブルと、少し薄めのサウンドが透明感あふれるヴェルデイを作り上げているのでした。
フィリップスへのマリナーのヴェルディは、ガルデッリの初期オペラシリーズを補完するものでしたが、残りはルイージに引き継いで、これ一作で終ってしまった。

ラミーのオベルトが貫録と堂々たる歌声でもって圧倒的。
あと気にいったのはウルマーナのコクのあるメゾ。
グレギーナの声もすごいと思うが、ちょっと強すぎて耳に響きすぎる。
舞台だときっとそんなことはないと思うけれど。
ニールの素直なテノールは悪くはありません。
冒頭のアリアでは高域を見事に決めておりました。

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2013年2月 2日 (土)

ストラヴィンスキー 「ペトルーシュカ」 ポリーニ

Roppongi_vuitton

六本木けやき坂にある、ヴィトンのお店のウィンドウ。

ガラスにイルミネーションが映ってますよ。

ブランド品には縁はありませんが、冬のここ一帯の美しさは東京随一でしょう。

でも頭寒そう。人ごとじゃありませんから・・・・・・。

Stravinsky_pollini

   ストラヴィンスキー  「ペトルーシュカ」からの3章

         Pf:マウリツィオ・ポリーニ

               (1971.9 @ミュンヘン)


バレエ音楽「ペトルーシュカ」からのちにストラヴィンスキー自身によって、3つのシーンを選び出し、ピアノ作品としたもの。

原曲バレエもピアノの活躍が目立ち、録音によってはビッグネームがそのピアノを担当してたりもしております。
小澤盤のティルソン・トーマスや、デュトワ旧盤のヴァーシャリとか。

でも、こちらのピアノ版はオケ部分もピアノにそなまま転じているため、難解このうえないとされてまして、聴いててどうやって弾いてるんだろ的な箇所もいくつもあります。
そう、ピアノ1台で、それこそオーケストラを兼ねてるような。

  「ロシアの踊り」
  「ペトルーシュカの部屋」
  「謝肉祭の市」


謝肉祭の場面の後半のピアノが活躍する「ロシアの踊り」から快活にスタート。
2章は、サーカス小屋の部屋で、悶々と、でもバレリーナへの憧れも。
だんだんと盛り上がり、ついに恋破れるさまの音の展開はまったくスゴイものです。
そして3章は、楽しいお祭りの様子。だんだんとピークの爆発に向かってゆくワクワク感はオーケストラ版に同じで、緩急と悲喜の対比はピアノ版の方がクッキリと明確。
そしてついにクライマックスに達し、ピアノ1台にこんなに興奮している自分を見出します。
急転直下のエンディングでは、ペトルーシュカの悲劇的な死をも思わせます。

それもこれも、このポリーニの超名演を聴くがゆえ。
この演奏はまじでスゴイ。
完璧という言葉が絵空ごとに感じてしまうくらいに、その上ゆく存在の演奏。
凄まじい技巧と、正確無比の強靱な打鍵。
硬質でありながら、しなやかで、音色も怜悧であり、明晰。
ショパンコンクール優勝後、しばらく現世から離れ、DGに電撃的にデビューした最初の1枚だと記憶します。
カップリングのプロコフィエフも戦争ソナタもクール極まりない名演でありました。

いやはや、久しぶりに、ポリーニのかつての本領を聴きました。

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2013年2月 1日 (金)

メンデルスゾーン 交響曲第1番 サヴァリッシュ指揮

Matsuya1

キリっと凛々しいお蕎麦屋さんの店構え。

ここは、「神田まつや」でございます。

蕎麦やでお酒を飲むという行為を、まさにこちらで学びました。

もう30年近くになります。

神田の某財閥グループの再開発から免れているこの須田町一帯にある由緒ある名店の中で、一番庶民的だし、誰もかれも等しく受け入れてくれるお蕎麦屋さん。

コンビニでコラボのカップ麺が出たり、なによりも充実のHPも最近はあったりして、古くからのお気に入りとしては、ちょっと不安になるのですが、でも、お店に行って盃を傾け、蕎麦をたぐれば、昔も今もかわらない良さが実感できます。

ちょっとレトロな紺色の制服を着たお姉さん(?)方の素晴らしい動きと、いい意味での客あしらいの見事さ。

ほんと気持ちのいいお店ですよ。

Mendelssohn_sawallisch

   メンデルスゾーン 交響曲第1番 ハ短調

    ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

                      (1967.6 @ロンドン)


忘れてはいけない颯爽とした名曲と全集の一環のサヴァリッシュの名盤。

メンデルスゾーン(1809~1847)は、38歳の短い生涯に、オペラも数曲まじえ、あらゆるジャンルに幾多の作品を残した才人です。
 いくつかの曲しか聴くばかりの気がしますが、その音楽とともに、生涯を知り、掘り下げることも、そのユダヤ人としての出自と合わせ、そして革新と発見をいくつか行った背景なども含めて知ってみたい意外と未知な作曲家なのです。

1番の交響曲は、彼が残した交響曲のジャンルの番号でいうと第13番。
早春のような、弦楽のための交響曲があるためです。
こちらもいくつか録音があるものの、まったく聴かれることの少ない作品群です。
しかし、そんなにたくさん作っておいて、本格の1番を書いたのは、なんと15歳ですから。
モーツァルトやシューベルトに匹敵する早熟の天才なのです。

曲は、しっかりとした4つの楽章による均整のとれた聴き応えのある交響曲で、大人びた表情のなかに、明るく、そして音楽の諸先輩の影響と敬意を込めたシリアスさをもみなぎらせております。

ユダヤの血は流れていても、そして一族はビジネスで大成功して裕福であったとしても、メンデルスゾーンはドイツ人としての認識を強く持って、先達の偉大な作曲家たちの雰囲気を継承しつつ、メンデルスゾーンならではの伸びやかで屈託ないサウンドで独自性を作り上げたのであります。

その先輩の響きは、わたしには、ウェーバーが一番近く感じられましたが、上褐のとおり、後年も知るわたしたちには、まごうかたないメンデルスゾーンの音楽との認識しか持てません。
オペラの序曲のような、これから始まるドラマの予見みたいな1楽章
たおやかな2楽章は、後の「真夏の夜の夢」の午睡を誘うような雰囲気でロマン的。
中間部が、ベートーヴェンの第5のような運命的な兆しのあるユニークな3楽章。
急速で切迫感ある終楽章は、あふれるロマンと心情を抑えがたいような激情でもって進行するものの、コーダは短調転じて、長調となり妙に軽いコーダのエンディングとなる。
このエンドのパターンは、のちにもスコットランドで使われる感じですが、そちらとくらべるとまだまだの感がありなところが、若い兄ちゃん的なのでした。

サヴァリッシュがシューベルトとともにフィリップスに録音したこちらのメンデルスゾーンの全曲は、放っておくにはもったいない名演。
当時、クレンペラーのオケだった、ニューがついたフィルハーモニアのオケの爽やかさは、ロンドンのオケならではのものです。
気分いい演奏であります。

わが神奈川フィルでも、聴いたことがありるのですが、この曲は中途半端なピリオドではまったくいけませんでした。いまならいいかも。です。

おまけ画像

「まつや」のやきとり。

Matsuya3

「まつや」のもり。

Matsuya2

あ~、いま食べたいぞぉ!

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