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2013年3月

2013年3月31日 (日)

バッハ ヨハネ受難曲 リヒター指揮

Shinobazu_3

春が来て、冬に戻って、また春が来て。

何度も繰り返し、満開の桜も散りあぐねてます。

贅沢なもので、ずっと桜の満開を見てると、どこにもかしこにもあって意外と飽いてしまいかねません。
桜は、短く咲いて、パッと散ったほうが刹那的で美しいのです。

ほんと、贅沢なハナシですが。

Bach_johannes_richter

    バッハ   ヨハネ受難曲 BVW245

  エヴァンゲリスト、アリア:エルンスト・ヘフリガー 
  イエス:ヘルマン・プライ     下女、アリア:イヴリン・リアー
  アルト:ヘルタ・テッパー     ペテロ、ピラト:キート・エンゲン

   カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
                  ミュンヘン・バッハ合唱団

                 (1964.2 @ミュンヘン・ヘラクレスザール)


3月最後の日曜日、今日は、復活祭・イースターです。
キリストの磔刑後、3日後にして復活した日、キリスト教社会では、その間禁じていたお肉や乳製品をありがたく頂戴するそうです。

音楽の方では、受難節からバッハの受難曲や、ワーグナーの「パルシファル」の上演が行われ、ザルツブルクではカラヤンが始めた、イースター音楽祭が行われております。
今年から、ティーレマンが引き継ぎ、ベルリンフィルから、ドレスデン・シュターツカペレへとそのホストオケも変わりました。
一方のラトルとベルリンフィルは、バーデン・バーデンに場所を移して、そちらで第1回のイースター音楽祭を行っております。
 これはまた複雑なことにございますが、カラヤン・アバド・ベルリンフィル・ザルツブルクということで、数々の音源とともに、永く親しんできただけに、とても寂しい思いがあります。

それはともかく、もう少し早く聴くべきでしたが、この時期にパルシファルとともに、バッハの受難曲を聴くことは、年間の節目のひとつとして、そして人生のひとふしとして、さらに春の到来を受けとめるものとして大事なイベントです。

「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」、バッハのふたつの受難曲。
マタイは、よく無人島に持ってゆく音楽作品の最右翼とされますが、ヨハネもセットにして持ち込んでいただきたい至芸品のひとつだと思います。

マタイの静に対し、ヨハネの動。
レシタティーヴォやアリアを中心とするマタイに対し、合唱=群衆の扱いが大きいヨハネ。
福音士家も、かなり劇的な歌い回しが多い。
長さはマタイより短いけれど、ヨハネは、ゲッセマネのおける捕縛から、審問、判決、磔刑、死と埋葬までを一気に描ききっていて、その劇的な流れには逆らえず、冒頭の暗欝な重苦しい合唱を聴いたら最後まで聴かざるをえない流れの強さをもっています。

時には残酷にシャウトする群衆や、冷静でありながらも福音に没頭し、言葉に感情を載せるエヴァンゲリスト。真摯で心篤いコラールの数々。
 これらの場面のはざまにある珠玉のアリアたちも、マタイのそれと同様に素晴らしいです。

捕縛のあと、師に従いゆかんと、決心込めて歌うソプラノのアリアでは軽やかなフルートがからみつくようにして美しい。
さらに、その後には、イエスとともにあったことを否定してしまうペテロ。
否認のあとに鳴く鶏。外へ出て激しく泣くぺテロとそのアリアはテノールで痛切なものです。
(この場面と、イエス死後の幕が裂け地が割れ・・の箇所は、マタイ福音書から引用されております)
ペテロの否認の場面は、マタイの方にこそ人間の悲しみがしみじみと出ておりますが、激しく後悔し慟哭するこちらのヨハネの場面も感動的なものです。

 
「こと果たされし」、十字架上のイエスの最後の言葉をうけてのち、ヴィオラ・ダ・ガンバを伴ったアルトのアリアは、沈痛で寂寥感あふれる涙さそうアリアです。
イエスがこと切れ、天変地異が起きたあと、ソプラノのアリアはオーボエとフルートを伴い、涙にくれつつも、きたる栄光を歌いますが、この曲も楚々とした中に哀しみが込められていてわたしは好きです。

最後の合唱「憩え、安らけく」も涙さそう、哀しみと、深い情感にあふれた名品です。
そして、安らぎへと導かれたあと、最終コラールでは天上での出会いを期待し、イエスの栄光を讃えるのです。

歴史的な名演ともいえるリヒター盤。
これまで何度聴いたことでしょうか。
そのマタイとともに、わたしにとって絶対的な存在の音盤です。
古楽演奏が主体となった今でも、これほどまでに厳しく、容赦なくわたしたち聴き手に迫る力を持っているのはリヒター盤のみ。
 一方、リヒターのあとを継いだ、ハンス・マルティン・シュナイトの日本での演奏も聴いていて、そちらはシュナイトさんならではの、優しい祈りと包容力にあふれた名演でした。
どちらも素晴らしい、忘れ難いヨハネです。

今回聴いて、録音が古びて感じたのと、今少しの透明感が欲しく感じたのも事実で、古楽器による演奏に耳がだんだんと慣らされていることを思いましたがいかに。

ヘフリガーとテッパーは、もう完全完璧です。
プライの暖かな声もイエスに相応しかった。

それにしても、今日の関東は寒いです。
雨もときおり強く降ったりして、地面は桜色になりつつあります。

Kinrinparl

部屋から見た公園桜。

電線が邪魔ですが・・・・。ともかく寒いです。

過去記事

 「ヘレヴェッヘ盤」

 「シュナイト指揮コーロ・ヌオーヴォ演奏会」

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2013年3月30日 (土)

佐村河内交響曲 全国ツアー

Sakura_2

地下鉄構内でみつけた広告。

ありますよ、音楽「佐村河内守」のお名前。

室内楽作品アルバム「シャコンヌ」からの音楽が使われてます。

この映画の栗村監督と佐村河内さんは、長らくの友人同士で、シャコンヌに納められた曲を佐村河内さんがさらに手を加え、それに合わせて撮影したりと、音楽と映画のコラボレーションもはかられているとあります。

http://sakura-kanako.jp/news.html

こんな素晴らしい音楽に、儚い桜を思わせる物語、絶対に泣いてしまいそうな映画です。

Samuragochi_sym1

そして、交響曲第1番「HIROSHIMA」の全国ツアーが発表されました。

イグラーユさんから情報をいただきました。

大阪、名古屋、東京、横浜、熊本、京都、広島、群馬、神戸、山梨、松本、新潟、仙台、札幌、福岡・・・・。

http://www.samonpromotion.com/jp/live/samuragochi/

オーケストラは各地のオケ、指揮者も何人かで振り分けるようでして、金聖響の名前が上がっておりました。
以前にも予見したとおり、大友さんや東響の手を離れて、オーケストラ・レパートリーのひとつとして歩みだしたことにほかなりません。
加えて、神奈川フィルハーモニーのファンとして、しかも、みなとみらいでこの曲が聴けるという喜びはいかばかりのものでしょうか!

8月のミューザに先行しての神奈川県初演となります。

コアなクラシックファンからすると、そのプロデュースが、サモンだというところがちょっと気になるところ。ヘミングとか知高とか・・のサモンさんです。
でも、佐村河内音楽に感銘を受け、普段、コンサートに行かれない方々が、クラシック音楽のコンサートに足を運ぶようになるということにもつながると思います。

すごいことになりました。
同時に、ロシアをはじめとした世界へのお披露目も続きます。


そして、いよいよ明日。

NHKスペシャルで、被災地を思い書いた新曲ピアノ作品「レクイエム」の石巻での初演までの様子が放送されます。

こうして、定期的に、佐村河内さんの音楽や、そのお姿を確認できるようになったことは、本当にありがいことです。

苦しい日々が、個人的にも続くなか、こんなに力強い後押しはございません。

Hiyayama_2a

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2013年3月29日 (金)

ワーグナー 「パルシファル」 聖金曜日の音楽

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芝浦と汐留のあいだにある、イタリア公園。

造形美を感じる静かな庭園でした。

そして、今日は聖金曜日。

日曜日の復活祭のまえ、イエス・キリストが磔刑に処せられた日であります。

キリスト教社会では、イエスが受難を受け亡くなったということよりも、イエスが身代わりとなり、信者が死に及んだとき、永遠の命が得られるという喜びから、この聖金曜日は、喜ぶべき祝日ともされております。

そして3日後の、日曜日は復活祭で、クリスマスと同等、いやそれ以上の大きな聖なる日です。
欧米は長い休暇に入ったりしますので、この時期、あちらへ行くと、お店などがお休みになったりしているので注意が肝要。
そして、気のせいか、東京でも、英語やドイツ語を話すあちらの観光客がちらほら伺えた本日でした。

Wagner_toscanini

  ワーグナー 舞台神聖祭典劇 「パルシファル」 第3幕から

         「聖金曜日の音楽」


  アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 NBC交響楽団

                (1949.12.22@カーネギーホール)



ワーグナーの最後の作品には、いうまでもなく、「舞台神聖祭典劇」という大仰なカテゴリー名がついております。
あとにも先にも、この「パルシファル」だけ。
楽劇は、ほかの作曲家も使ったけれど、これはない。
聖堂での秘蹟や、キリストの腹を突いた槍、その血を浴びた聖杯などの聖具が登場し、最後はそれらでもって、原罪とも呼ぶべき人間の罪業が浄化されるという物語。
このような神々しい作品を作り上げてしまうのも、ワーグナー。

3幕における、パルシファルの帰還と、老グルネマンツとの再会、持ち帰られた槍と、そして老人の感動は、オペラの流れでずっと聴いてきて3時間後ぐらいに訪れる最大最高のクライマックスです。
そして、そのクライマックスの背景には、罪の女、迷える魔女、クンドリーの受洗という、大いなる感動もあるのです。
野の花(2幕の花の乙女たちとも置き換えられる)が、春に咲き誇ることも、このあまりに美しく感動的な音楽の表層的なキーですが、わたしは、クンドリーの受洗による涙こそが、この場面、いや、パルシファルの本質ではないかと思います。
このあたりは、いずれ、数日後の「パルシファル」全曲記事で。

トスカニーニは、バイロイトに1930年と31年に登場していて、パルシファルは一度だけ、31年に全公演を指揮してます。
その時の演出が、大ワーグナーの息子、ジークフリートです。
ふたりはとても仲がよかったけれど、その妻ウィニフレッドが気に入らない・・・・。
ナチスの影もちらほらする、この頃のお話です。

で、トスカニーニは、バイロイトにおける、最長上演時間記録を「パルシファル」で打ち立てているんです。
クナッパーツブッシュじゃないところが驚きだし、トスカニーニなところもびっくりでしょ。
そう、トスカニーニのワーグナーは、いずれもゆったりめの、伸びやか長大系が多いのです。
ロング2番手は、レヴァインですよ。
レヴァインもワーグナーはゆったり、ヴェルディはきびきび快速。
どうですか、この二人の共通性、テンポばかりでない類似を最近感じます。

モノラルの奥行きのない録音ながら、こちらのトスカニーニの演奏からは、ふくよかなワーグナーの音楽がゆったりと広がってゆくのを感じます。
クナのワーグナーの巨視的な大らかさと叙事的なパレットとは異なる色彩。
どちらもワーグナーを語りつくしてやみません。

Wagner_sinopolli

    ジュゼッペ・シノーポリ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

  
                 (1995.5 @ドレスデン ルカ教会)


イタリア指揮者と「パルシファル」という意味では、バイロイトで指揮した人は、まずシノーポリ、次いでガッティ。
「パルシファル」とイタリア人指揮者では、加えて、アバドでしょうか。

シノーポリのパルシファルは、1994~99年にかけて指揮していて、DVDにもなってますし、CDでの正規発売も期待したいところ。
ドレスデンとのこの録音は、かなりコクがあって、味わいが深い。
ドレスデンの木質感も、録音のよさもあって格別。
しかし、トスカニーニのような神々しいくらいの味わいとはまた別格。
全曲を、流れのなかで聴いたらまた違うのかもしれませぬ。
でも、このオケは、ほんとスンバらしい、自主的といいますか、本能的なまでにワーグナーとオペラの雰囲気を醸し出してしまう。

Parsifal_3a

何もない、すべてが象徴の世界は、能にも通じる静的な舞台。

ヴィーラント・ワーグナーのもっともロングラン上演は、22年も続いた。

一度でいいから観てみたかった。(でも、今の感覚だったら退屈してしまうかも)

Parsifal_stein

こちらは、弟ウォルフがンクの聖金曜日の場面。

このほどほど感覚がちょうどよく美しい。

緑ひらく舞台は春。

Parsifal_jordan_1

そして、いまのバイロイトは、ヘアハイムの情報過多盛りだくさんのパルシファル。

それでも、この場面はこうならざるを得ない、普遍的なシーン。

この前の故シュルゲンジーフの画像がないので不明ながら、たぶん、アレはここも無視したか遊んだかしたのだろう。

ヘアハイム後は、もしやのカテリーナ・ワーグナーと想像。

思いきり、ぶっ壊しそう。

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2013年3月28日 (木)

フンパーディンク 「ヘンゼルとグレーテル」序曲 デイヴィス指揮

Shiodome_1

満開の桜に、晴れ間の青空がもどってきました。

寒かった昨日と10℃も違う、今日。

コートを着たり脱いだり、装いも忙しい今年の春ですよ。

わたしの方も、このところ妙な夢ばかりみたり、寝付きが悪かったりで、朝は元気、昼はぼぉ~っとしてやりすごし、夜は酒飲んで元気に音楽聴いたりして、また寝ると寝れない・・・・こんな日々が続いております。

しんどい3月です。

以前は、「トリスタンとイゾルデ」の新演出みたいな夢を自ら組成してしまったこともあります。
夢の中でも音楽を楽しめたら、そんなに幸福なことはございませんね。

Humperdinck_haeselgretel_davis

  フンパーディンク 「ヘンゼルとグレーテル」序曲
  
     サー・小リン・デイヴィス指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
                      
                       (1992.1 @ドレスデン・ルカ教会)


オペラ本編は、すでに記事にしたためてます。

舞台や映像で、そのメルヘンの世界が映える楽しくも、そしてドイツの深い森に遊ぶかのようなう美しい音楽とわかりやすいビジュアルが味わえるオペラです。

ドイツ、欧米では子供と楽しむクリスマスの定番のオペラです。

今日は、そのエッセンスが凝縮された序曲のみを聴きます。

実は勢いあまって、全曲のつまみ聴きもしてしまったのですが、この曲の演奏にかけては、録音で聴くかぎり、ドレスデンやウィーンのオーケストラの右にでるものはありません。
あと、ミュンヘンのオーケストラでしょうか。
ドイツ各地の地方オーケストラも、少し鄙びたりしていて、きっとまた素敵なのでしょうね。

ヘンゼルとグレーテルの兄妹が、口減らしみたいにして森に使いにだされてしまう。
その森は、とても深くて、美しいのだけれど、実はとっても怖い。
しかし子供たちには森の妖精が見えたり、彼らを優しく包み込む暖かい何かが見えたりするんです。
大人になると感じなくなるそんな何かがね。
お菓子の家のおっかない魔女もそんな中のひとり。
そして帰りつくのは、優しい親のもと。

だれにも優しい、心温まる物語に、あまりにステキな音楽をつけたフンパーディンクさん。
ワーグナーの弟子みたいな存在だったけれど、お伽噺にオペラをつけることで、ドイツ・メルヘン・オペラの大家となりました。
この作品以外は、まだあまり聴かれませんが、それでも「王様子供」や「いやいやながらの結婚」などは、たまに上演されるようになってきました。
いずれ、それらも取り上げてみたいと思ってますし、管弦楽曲にもほのぼの系のいい曲があります。

相性のよかったサー・コリンとドレスデンの組合わせによるこの演奏は、メルヘン色はやや後退しておりますが、ふくよかな響きと暖かな音色に抱かれる安心感があります。

さぁ、いい夢みるぞ・・・・・。

過去記事

 「デイヴィス&ドレスデン盤」

 「ショルティ&ウィーン盤」

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2013年3月27日 (水)

チャイコフスキー 交響曲第2番「小ロシア」 アバド指揮

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何年か前の3月の終わりごろの、北海道の大沼あたり。

この時は、もう氷も解けだして、雪も少なめでしたが、今年はきっとこんなもんじゃないでしょう。

桜も満開なのに、一進一退の関東の春。

厳しかった北国にも確実に春は向かってます。

Tchaikovsky_sym2_abbado

  チャイコフスキー 交響曲第2番 ハ短調 「小ロシア」

    クラウディオ・アバド指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

                     (1968.2.20 @ロンドン)


何気に、チャイコフスキーの交響曲のシリーズを始めてます。

大好きな1番を、去る冬を惜しんでフレッシュなティルソン・トーマスの演奏で聴きました。

2番は、敬愛するアバドの初期の頃の演奏で。

第1番より6年後、ウクライナ民謡をふんだんに取り入れ、それを交響曲の枠組みにしっかり落とし込んだ作品として発表された第2番。
大成功を勝ち取り、国民楽派の重鎮からも絶賛を浴びました。

1番ものちに、改訂を施しましたが、この2番も、時期でいえば4番のあとぐらい、1879年に大幅な書き直しを含む改訂が処せられ、現在もっとも演奏される版が出来上がりました。
フランス音楽への傾倒を含む西欧化の自身の流れもあっての見直しだったようですが、しかし、チャイコフスキーの交響曲の中では最も土着性が高く、先輩諸氏も気にいったとおりのロシア民族・国民楽派の面影をもっとも感じさせる音楽となっております。

実は、マンフレッドを含む7つの交響曲の中で、実は一番苦手な作品でして、当ブログでも今回が初登場なんです。
前半3つの交響曲の中では、一番最初に聴いたのがこの2番でして、FM音源で初聴きした演奏は誰のものかもう忘れてしまいましたが、どうもなじめず、むしろ後に体験した1番や3番の方を好むようになりました。
 軽めで、メランコリーもちょっと不足と感じ、軽薄すぎる終楽章もどうも・・・・。

と、いうような感じで、その思いはいまもあまり変わりませんが、アバドによる初回の演奏と、そのあとのシカゴとの再録音につきましては、ハイティンクとマリナーとともに、唯一好んで聴く演奏となってます。
なかでも、アバドの若き日の演奏は、アバドの音楽の記録としても当時の彼の音楽性がにじみ出た素敵で、貴重な音盤だと思うのです。

いまでこそ、その演奏家の出自から、その音楽の適正を判断してしまうことはあり得ない評価となってますが、この演奏が出たころやわたくしが音楽聴き始めのころ、すなわち、60年代最後半から70年代は、ドイツ音楽はドイツ人、フランス、イタリアはさもありなん・・的なお国もののレッテル貼りはあたり前でした。

若いイタリア出身の指揮者が、チャイコフスキーの地方色豊かな交響曲を指揮すれば、明るく歌いまくる的な評価しか得られなくて、ベートーヴェンやブラームスもまったく同様のことしか言われませんでした。
アバド好きとしては、そんな言われ方はまったく面白くなくて、意地でもアバドばかりを聴き通す毎日が中高大時代でした。
 確かに、民謡を主体として変奏しつつも大いに盛り上がってゆく終楽章は、底抜けに明るい曲だし、アバドのこの演奏もそうした側面を見事にとらえて開放的な演奏を繰りひろげますが、若き日々でもアバドは、こんな能天気的な明るさを見せながらも、ほかの楽章にある憂愁サウンドや、リズム感あふれる舞踏的な場面なども色鮮やかに描きわけているのです。
まさに天性のオペラ指揮者であるかのような、水際立った手腕でもって、歌のツボをしっかり押さえ、たくみに各楽章ごとに盛り上げていって、最後の楽天的なエンディングを導きだしています。

後年のシカゴ響との再録では、そのあたりはもっと見事なのですが、アバド36歳のニュー・フィルハモニアとの録音では、アバドの新鮮さと、オーケストラの無垢なニュートラルぶりがとてもよくマッチして、二度とあり得ない演奏を造り出しているのです。

そして、アバド盤の素晴らしさは、あっけらかんとした終楽章にも、アバドらしい冷静さを伺えるとともに、何と言っても、この曲の魅力であるロシアの抒情にあふれた、それはファンタジックな1番にも通じる第1楽章の演奏が、旋律美とリズム感にあふれまくっていて、とても素晴らしいと感じさせるからなのです。

いやはや、寒かった本日、アバドのこの演奏を今日は4回も聴いてしまいました。

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2013年3月25日 (月)

ヴェルディ 「一日だけの王様」 レンツェッティ指揮

Tokyo_tower

桜咲く東京タワーです。

思えば、震災で曲がった先っぽも新たに更新され、スカイツリーへの電波塔としての役割も移譲中。

いつまでも、キリっと立ち続けて欲しいです。

Verdi_un_giorno_di_regno

  ヴェルディ  「一日だけの王様」

  ベルフィオーレ:グィド・ロコンソーロ 
  ポッジョ公爵夫人:アンナ・カテリーナ・アントナッチ
  ジュリエッタ:アレッサンドラ・マリエッリ エドアルド:イヴァン・マグリ
  ゲルバー男爵:アンドレア・ポルタ    ロッカ:パオロ・ボルドーニャ
  イヴレア伯爵:リカルド・ミラベッリ     デルモンテ:ペク・スンファ

    ドナート・レンツェッテイ指揮 パルマ・レッジョ劇場管弦楽団
                       パルマ・レッジョ合唱団

         演出:ピエール・ルイジ・ピッツィ

                    (2010.1.30 @パルマ・テアトロ・レッジョ)


ヴェルディ(1813~1901)の2作目のオペラ。
初作「オベルト」が大成功して、スカラ座で今後2年間に3本の新作作曲との契約を勝ち取り、次回作にはシリアスな悲劇が用意されたものの、スカラ座側のレメッリはすぐさまそのプランを引っ込めてしまい、今度はブッフォの台本を数本提案してきて、それらの中からヴェルディが選択したのが「偽のスタニスラオ」。
これは、18世紀ウィーンの作曲家アダルベルト・ギロヴェッツがすでに作曲して、スカラ座のレパートリーになりそこねていたもので、今回はそのテキストの改作で、題名も「一日だけの王様」と更新されたもの。

ところが、よりによって喜劇の作曲に取り掛かったヴェルディに悲しみが相次いで襲う。
「オベルト」の初演準備中には、生まれてまもない息子を失ってしまったが、今度は妻マルゲリータを脳炎にて亡くしてしまう。
作曲の断念も申し出たもののそれもかなわず、1940年9月、もうじき27歳になる若いヴェルディの「一日だけの王様」はスカラ座で初演されました。
 しかし、結果は悪評をあびる大失敗。
歌手の準備不足や非力さも足を引っ張る結果になったのに加え、台本の細部をはしょった未熟ぶりも初演失敗の要因とされます。

ヴェルディは大いに落胆、自信消失してしまいますが、1年後の次作「ナブッコ」で見事復活を遂げるのであります。

ヴェルディのブッフォオペラは、本作と、1893年、53年後、自在の域に達した最終作「ファルスタッフ」の2本のみ。
その点、ワーグナーも一緒。初期作のお気に入りの「恋愛禁制」は面白作品ですが、いまだに人気作とは言えず、後期充実期の「マイスタージンガー」は滋味深い楽劇となりました。

で、このヴェルディの「一日だけの王様」ですが、最初に聴いたときには、えっ?これヴェルディ?と思いました。
軽快すぎる序曲に、チェンバロ付きのレシタティーボ・セッコ、ドタバタの重唱のクレッシェンドする大盛り上がり。
そう、まるでロッシーニみたいに、時にはその軽やかさはドニゼッティをも思わせるものでした。
イタリアオペラの系譜にヴェルディがしっかり位置しているのを確認できるものです。
 一方のワーグナーも思えば同じ。
初期のものほど、ウェーバーやマルシュナー、ロルツィング、マイヤーベアなどの先人たちの影響もうかがえ、段々とあの巨大なワーグナーの音楽が確立されていったわけですから。

とはいえ、ヴェルディの顔はこのオペラのあちこちにしっかり表れておりますし、それゆえにこそ、このオペラが愛らしく感じてしまうようになってきました。
次々に展開される美しいメロディ、心を刺激する弾むような湧き立つようなリズム、常に気品のある音の響き・・・・。

しかし、映像で、それを音だけにして何度も視聴しても感じる散漫さは否めない。
筋立てが陳腐なことと、場の展開が早過ぎて、流れをつかめないし、人物たちが没個性なこと、またあらゆる声域に歌をそれぞれ与えているものだから聴いてるだけじゃ誰が誰だかわからない・・・。
結末のあっけない軽さもなんとも。
でも、もっと聴き込みが必要なのでしょうね。

1733年のこと。ポーランド戦争にてザクセンに敗北したポーランド王スタニスラオはフランス王妃となっていた娘を頼り亡命。その後、敵王が没し、故国へ戻るのだが、その際、身の安全のため影武者をしたて、自分も変装して帰国する。

第1幕

  
 
 国王、実は影武者に扮したベルフィオーレは、逗留先のゲルバー男爵家の歓待を受け、男爵側はここぞ、いい機会とばかりに、ふた組の結婚があるので、お立会をと懇願。
 それは、娘のジュリエッタと富裕の財務長官ロッカ。
そしてもうひと組は、自分の姪のポッジョ公爵未亡人とイヴレア伯爵と。
 驚いたのは影武者ベルフィオーレ。
公爵未亡人と、彼は実は許嫁となっていたのです。

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これはいかんと一人になり、マズイ、早くこの影武者の任を国王に解いてもらわないと、といことで手紙をしたためたところに、若いエドゥアルドが直訴にやってくる。
彼は、国王の旗頭となってポーランドへ連れていって欲しい、相愛のジュリエッタと結婚を男爵から拒まれ、伯父との婚姻を進められ、もはやここにいては意味もなく、前線に身を投じたいと。
 その噂をかねがね聞いていた偽王ベルフィオーレは、大いに同情し、彼を部下に取り入れることを約し、ふたりの男は大いに意気投合し、燃えまくる!

さらに、この様子を陰から見ていた公爵未亡人は、王とされながらも、どうみても恋人ベルフィオーレなことに驚き、裏切られた思いで、ひとり、忠実な女の強い心意気で、ベルフィオーレの心を試す気持を歌います。
 

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一方、不愉快な婚姻を仕組まれた若いジュリエッタは、農夫や人々の祝福にも浮かない様子。
そこへ、父と将来の夫の財務長官があらわれ、不機嫌な娘をたしなめますが、あらたに国王、すなわちベルフィオーレがエドゥアルドとやってきて、彼をジュリエッタと共にし、自分とオヤジ二人は、軍略会議と称して、若いふたりから隔離。
やたらと気になる財務長官。

ここへ、公爵未亡人が到着し、ばれてはまずいと右往左往のベルフィオーレ。
かれとオヤジ二人が去ったあと、未亡人と若い二人は、偽王にたいする疑心も抱きつつ、若さと愛について合意し、助け合うことで合意します。

場面かわって、ロッカ財務長官のもとに訪れた偽王ベルフィオーレ、若い女性との結婚もいいけど、ポーランド国の大臣とイネスカ王女との結婚のダブルはどう?と提案され、ものの10秒で変心。
王は去り、男爵が結婚証文をもってやってくるが、こともなげに断る財務長官。
名誉にかかわることと、決闘を申し込む男爵と逃げまどう長官。

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第2幕

 伯爵家の召使いたちが、婚姻というお祭りがなくなったことを嘆いているが、エドゥアルドは、大いに愛を讃えて喝采を得る。
そのあと出てきたベルフィオーレは、若いふたりの障壁は、エドゥアルドに金がないことを聴き、財務長官に、城のひとつとお金を譲ることを約束させるが、そのあと誰もいなくなった舞台に、長官と男爵。
ふたりはまた大喧嘩。正統的な剣での決闘を挑む男爵に、爆弾攻撃による報復を望む長官。ばたばた喜劇。

 ベルフィオーレと公爵夫人、お互いにお互いがわかりながらのさぐりあい。
不実をなじりながら、イヴレア伯との結婚を決心してみせ、その許しを乞わない限り、ベルフィオーレを許さないと、偽王に語り、ベルフィオーレを焦らせる。
 一方、帰りを急ぐ偽国王とともに出立するとしたエドゥアルドに、結婚を許されたとしたジュリエッタは激怒。

不穏な雰囲気の中に、イブレア伯が到着、公爵夫人に求愛するが、夫人はあと1時間待って許嫁があらわれなければと決心を伝える。
 そこで、今度はベルフィオーレは王としてイブレア伯も秘密の目的のために連れて出発するといいだすので、皆は大混乱。
今回の登場人物全員が登場し、入れ替わり立ち替わり、自分たちの思いを歌いだして、賑やかな重唱となります。

そこへ、従者が本物王から偽物王へ親書を持ってくる。
ニンマリしたベルフィオーレは、まず、エドゥアルドとジュリエッタの結婚を命じ、皆の了解を得ます。
そして、「王は無事ポーランドに到着し、王権を復古した。ベルフィオーレは影武者の人を解かれ、王のもと元帥に任ず」と読み上げ、一同唖然。
騙された伯爵と財務長官は、賢い男は黙っているもの・・・、と終わりよければすべてよし、ふた組の男女に幸せが、変装のおかげで訪れた・・・と喜びの大団円となります。

              幕

ヴェルディ生前でも、初演以外3度しか上演されなかった「一日だけの王様」。
その後の上演史は不詳ですが、70年代にフィリップスがガルデッリの指揮で録音を進めた初期オペラシリーズの中で復活し、正規音源ではいまだにそちらが唯一の存在。

そして、嬉しい日本語字幕付きのDVDが出てましたので、入手してみました。
このパルマ劇場での上演は、もうひとつ1997年盤がありますが、同じ演出と同じヒロインのようですし、歌手も魅力的な顔ぶれです。
こちらの歌手の方は若手主体で、ほとんど初の方々ばかり。でも字幕はほんとありがたい。

ピッツィの演出はいろいろ観ることができますが、ここでも光と影、色彩と調和のとれた舞台で、安心して観れる美しいものでした。
何よりも鮮やかな衣装が素敵なものでした。
パッケージの画像はちょっと見、オッという感じですが、実際の映像では期待したほどではありませんでした(笑)。由美かおるっぽい、入浴シーンなのですが、アントナッチのお湯の熱さを歌で表現するユーモアあふれる上手さと、なにげに窓から覗き見するベルフィオーレが面白いです。

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そして歌の安定感と輝きで、そのアントナッチは群を抜いていて、重唱でもひとり突出していました。
カルメン歌いでもある彼女の歌、気にいりました。

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なかなか男くさい風貌のロコンソーロは、スカラ研修生出身で、なかなかに深い声をしておりました。この人、メキメキ人気を博しつつあるニノ・マチャイゼと同窓で、彼女と結婚したらしいです。

美声のテノール、マグリはこれから活躍しそうで、日本の舞台にもすでに立っているそうですし、恋人役のマリアネッリは可愛いリリコで、モーツァルトを得意にしてます。
あと上手かったのが、ミラノ生まれのボルドーニャ。明るいバリトンで、伸びのいい豊かな声で、聴衆の一番の喝采を得ておりました。

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本場での上演、遠い日本で、ワイン片手に楽しんだ休日でした。

そうそう、この舞台で、ドタバタおじさんコンビが、パルマハムをナイフで削ぎながら酒飲んでるシーンがありましたな。(舞台はフランスなのに)

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2013年3月23日 (土)

エルガー 交響曲第3番 A・デイヴィス指揮

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麻布十番の隠れ家的なバーにて。

アイラ系が好きなワタクシ。

ボウモア系のデュワ・ラトレイ社のウィスキー。

ヨード系の味と香りは好き嫌いがあると思いますが、わたしは大好き。

スモーキーで、潮の香りまで感じます。

英国音楽には、やはりウィスキーでございます。

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エルガー 交響曲第3番 ハ短調 (アンソニー・ペイン補筆完成版)

    アンドリュー・デイヴィス指揮 BBC交響楽団

                  (1997.10 ロンドン BBCスタジオ)


エルガーには完成された交響曲は2曲しかありません。

マーラーの10番と同様に、作者の死後残されたスケッチからその全曲を補筆して完成させたのが、エルガーの3番。

作者の死による未完作品を完成させ、音楽界とわたしたち聴き手に認知されているのは、「モーツァルトのレクイエム」、「マーラーの10番」、「プッチーニのトゥーランドット」、そしてこの「エルガーの3番」がそれらの代表格でしょうか。
「ブルックナーの9番」はこれからブレイク予感。

この曲の経緯は、何度も書いた過去記事からコピー。

「BBCの委嘱で書き始めた3番目の交響曲、3楽章までのスケッチのみを残してエルガー(1857~1934)は、亡くなってしまう。
死期を悟った作曲者は、スケッチを破棄するように頼んだが、そのスケッチは大切に大英図書館に保管されたが、エルガーの娘カーリスをはじめととする遺族は故人の意思を尊重することで封印を望んだ。
1990年、BBCは交響曲の補完をアンソニー・ペインに依頼、同時に遺族の了解を得るべく交渉を重ね、1997年にまず録音が、翌98年には初演が、うずれもA・ディヴィスの指揮によって行なわれた。
一口に言えば、簡単な経緯だが、スケッチのみから60分の4楽章の大曲を作りあげることは、並大抵のものではなかったろう。
スケッチがあるといっても総譜はごく一部、スケッチを結び合わせて、かつエルガー・テイストを漂わせなくてはならない。さらに終楽章は、ほとんどがペインの創作となるため、エルガーの他の作品からの引用で補わなくてはならない。エンディングにエルガーの常套として、冒頭の旋律が回顧される、なるほどの場面もある。」

最初は、オリジナルじゃないという思いから、眉つばだった。
それはマーラーの10番と同じ。
その思いが宿ると、なかなか払拭できないのが音楽ファンで、「所詮、スケッチしかないのだから、第三者の手が入ることで純粋性が失われる・・・」などと思いこんでいたのです。
しかし哀しいかな、いや喜ばしいかな、クラヲタ的には、なんとしても「次の番号」を聴きたくなるんです。
一部の楽章や断片じゃすまない、聴いたことにはならない。
そしていつしか、新たなその作曲家の作品の出現に、喜び、進んで聴くようになったのです。
マーラー10番より先に、エルガー3番の受容はありました。

ナクソスのP・ダニエルのCDを、日々何度も何度も聴き続けました。
その後に、LSOレーベルのサー・コリン、初演者のA・デイヴィスと聴き、チェリスト兼指揮者のワトキンス&都響でライブ、さらに尾高&札響のCDとライブも体験しました。
気がつけば、ヒコックス以外は、3番の録音はすべてコンプリートしました。

いまや「エルガー・テイスト」という概念を通り越して、自分の中では「エルガーの3番」としてしっかり認知しております。
好きな作曲家の新たな作品が、死後、忽然と登場する。
ファンとしてこんなに興味深く嬉しいことはありません。
そんな前向きな気持ちで聴くのがファンだと思います。
自作の部分が少なく、まして終楽章はほとんどないという状況においてもなお、この作品は、今後とも自主独歩を続け、マーラー10番と並ぶ存在意義を持つようになるのだと思います。
 その方棒をしっかり担いでいるのが、尾高忠明さん。
レコーディングでは、札響を指揮してまもなく出る1番、いずれ行われるであろう2番とともに、3曲のレコーディングを行う世界的な存在になります。
その全霊を傾けた演奏は、もしかしたら、今日のA・デイヴィスの初演まもない録音のこの音盤より上をゆくものかもしれません。

事実、まだこなれてないオケの雰囲気を比較すると、札響のあのキタラホールの重厚でかつクールな音色に尾高さんの熱さが加わったCDの方が上と判断できます。

本日は、初演者のパイオニア精神を大いに評価し、かつBBCの機能性と柔軟性を讃えたいと思います。
A・デイヴィスは、いまや亡きトムソン、ハンドレー、ヒコックスのあとを継ぐ英国音楽演奏の心強いアニキ。日本のオケにも客演して欲しいものです。

交響曲第3番 過去記事

  「尾高忠明指揮 札幌交響楽団のコンサート」
 「コリン・デイヴィス指揮 ロンドン交響楽団のCD」
 尾高忠明指揮 札幌交響楽団のCD
 「
ワトキンス指揮 東京都交響楽団のコンサート」


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こちらは、昨日の上野、不忍池。

東京は早くも満開です。

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2013年3月22日 (金)

ハウェルズ レクイエム フィンジ・シンガーズ

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しだれ桜の太い幹の下から。

日曜の画像ですので、いまはきっと7分咲きくらいに。

毎年、ちゃんと開花する自然の営みの素晴らしさ。

私たちには、いろんなことが起きて、桜を愛でる気持ちも毎年違うものがあります。

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寒かったこの冬は、親しかった親類が何人か他界しました。

もうそんなことに会いたくはないけれど、こればかりは天命もありますし、やむなしですが、いつか来るとわかっていても、やはり悲しいものです。

その面影は薄い記憶となっていっても、その声は永遠に耳に残るものです。

人間の耳からの認識による声の記憶は、とんでもなく確かなものだと思います。

肉親は当然ながら、テレビや映画で聴いた声も絶対に忘れることはありません。

不思議なものだと思います。

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   ハウェルズ  レクイエム

      ポール・スパイサー指揮
  
           ザ・フィンジ・シンガーズ
            
              (1990.9.26,7 @ロンドン、聖オルヴァン教会)

ハーバート・ハウェルズ(1892~1983)は、80年代まで生きたグロースターシャー出身の英国作曲家。
寡作ではありましたが、いずれも心に染み入る美しく儚い音楽を残した。
英国音楽を愛好するわたくしにとって、ハウェルズは、最大級に大切な作曲家です。
その音楽のいくつかは、今際の際に、是非とも流して、聴かせて欲しいと思っております。
まだまだ、取り上げていない作品がたくさん。
音源のない作品もまだまだあります。

田園風の大らかなハウェルズの音楽が、求心的な音楽に激変したのが、最愛の息子の死。
1935年の出来事でした。
以来、ハウェルズの作風は、宗教性を増し、愛する息子を偲ぶかのような悲しみと愛情に満ちた深いものに変わりました。
38年の「楽園讃歌~Hymnus Paradisi」は、亡き息子への哀感と神への感謝と帰依にあふれた名作であります。

その姉妹作のような存在の無伴奏合唱のためのレクイエム。
「楽園讃歌」から、「Requiem aeternam」と、「I
heard a voice from heaven」を引用しておりまして、それらを曲の中枢と最後に持ってきて、6つの章からなる20分あまりの合唱レクイエムといたしました。
個人的な思いにすぎるとして、その演奏を躊躇したハウェルズ。
1950年にグロースターシャーの合唱フェスティバルにて、ボールトの勧めに応じて、ようやく「楽園讃歌」は演奏されましたが、レクイエムの方は、さらにその30年後になってようやく出版されました。

作者がそれほどまでに、深い思いを込めた作品。

それはもう、どこまでも透明で、無垢で、あまりにも美しい彼岸の作品なのです。

 1.サルヴァトール・ムンディ

 2.讃美歌23

 3.レクイエム

 4 讃美歌121

 5.レクイエム

 6.天よりの声を聴き

ラテンの伝統的な典礼文と、イギリス国教の讃美歌をもとにしております。

なんといっても、ふたつのレクイエムが素晴らしいのと、最後の、「I heard a voice from heaven」。

「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである・・・・」その結びの言葉はヨハネによる福音書のものです。

宗教的な観念を無視しても、この音楽の持つ独特の美しさは筆舌に尽くしがたいものです。
人間の声の持つ美しさを誰しも感じていただけると思います。

フィンジ・シンガーズに、4人のソロが少しだけ絡み合います。
ここでは、いまが旬のスーザン・グリットンがステキすぎました。

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この演奏が行われた録音会場。

あまりに響きがきれいで清冽なものですから調べてみました。

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2013年3月21日 (木)

佐村河内 守 コンサート 8月

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都会の真ん中でも、今宵、桜はもう7分咲きで、まったく見ごろを迎えてました。

忙しい都会の人々も、さすがに桜が咲くと、上を見上げてますね。

そんな余裕を持ちたいと思いつつ、夜にしか見ることがいまのところできません。

今日は、桜の便りとともに、嬉しい到着が。

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チケット届きました。

    佐村河内 守

  4声ポリフォニー合唱曲 「レクイエム・ヒロシマ」弦楽合奏版(世界初演)

  交響曲第1番 「HIROSHIMA」

    大友 直人 指揮 東京交響楽団

      2013年8月18日 (日) 14:00 ミューザ川崎


感動も新しい交響曲の再演。

しかも、新たな出発をしたばかりのミューザ。

おまけに、原曲の合唱曲すら聴いたことがありません、その弦楽合奏版の初演。

現在、神奈川に住む佐村河内さんの、もはや名曲と言って差し支えない、交響曲第1番の、神奈川県初演でもあります。
神奈川フィルのファン、みなとみらいホールが好きなわたくしとしては、ちょっと悔しいところもありますが、これは大友&東響あってのことなので、大いに喜ぶべきこととして期待したいです。

先行予約がうまくとおり、このほどチケットが手元に。

チラシも同封されてましたので、こちらに。

Samuragouchi_musa_1

チケット一般発売は、4月6日(土)です。

ベルリンフィルやウィーンフィルのメンバーも好んだミューザのホールで、この曲がどのように響きますでしょうか。

お盆明け、お休みの最終日のマチネです。

日本の夏、心に故郷を思いながら、痛みと希望を持ちつつ聴きたいと今から思っております。

そして、3月31日放送予定のNHKスペシャル。

被災地に向けた、もうひとつのレクイエムが聴けること、心して待ち受けたいと思います。

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2013年3月20日 (水)

墓場のにゃんにゃん ②

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ご主人をお守りするかのような、墓場ねこVOL.2。

近寄っても動じませんが、とりつくしまのない厳しい雰囲気。

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こんな色合い。

シマシマがいいですな。

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う~む、眠い・・・・。

守護猫さまも、睡魔には勝てませぬ。。。。

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うとうと・・・・・。

くそっ、せっかく遊んでやろと思ったのに。

Yanakaneko1_e

う~~ん、こっくり、こっくり。。。。。

こらぁっ!!

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あ、はいっ・・・・・・。

続く・・・・

眠りを妨げる、むごい人間をにらむにゃんこなのでしたぁ

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2013年3月19日 (火)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 シュタイン指揮

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梅と桜が一緒にやってきてしまった、今年の春の始まり。

盛りは過ぎましたが、まだいい香りを放って咲いている紅梅でした。

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5色に編まれた綱には願い事が書かれておりました。

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   ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」

  トリスタン:ハンス・バイラー        イゾルデ:イングリッド・ビョーナー
  マルケ王:ヴァルター・クレッペル クルヴェナール:オットー・ヴィーナー
  ブランゲーネ:ルート・ヘッセ    メロート:ハンス・ブラウン
  若い水夫:エヴァルト・アイヒベルガー 牧人:ハラルト・プレークロフ
  舵手:ペーター・クライン

   ホルスト・シュタイン指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
                    ウィーン国立歌劇場合唱団

                     (1970 @ウィーン)


ワーグナーの音楽をその作曲順にたどれば、前回の「ローエングリン」のあとは、「ラインの黄金」でして、ワーグナーは、その創作をいくつも併行しながら進めていて、ワーグナーの音楽を体験してゆくにつけ、劇作ごとの際立った個性を同時に造り上げていく才能に驚くほかはありません。

ご存知のとおり、「リング」の構想は、早くからあたためられていて、自身が編んだ台本も、ジークフリートの死から始まり、それだけでは背景が描ききれず、説明不足として、「リング」の物語をさかのぼるようにして「ラインの黄金」に行きつきました。
その構想は、タンホイザーやローエングリンと同時に進行し、作曲は「ローエングリン」後、一気に「ジークフリート」の2幕まで進行しましたが、さらに驚くべきは、「リング」創作と同時に、「トリスタン」と「マイスタージンガー」の構想も同時進行していて、それらの仕上げのため、そして「リング」がでか過ぎてその上演が難しいとの思いで中断したのです。

何度も書きますが、オペラの形式の因習から脱し、ドラマムジークとして、劇も音楽と対等に存在するという考えが確立したのが「ローエングリン」以降。
「ラインの黄金」と「ワルキューレ」への飛躍は極めて大きいのです。

そんな経緯を頭にいれて、「ローエングリン」→「ラインの黄金」と、「ジークフリート」2幕→「トリスタン」と聴いてみることをお勧めします。

非ハッピーエンドで、誰も幸せになれなかった休止のあとに、原初的なラインの「自然の生成」を聴くのは、トリスタンの半音階を聴くよりは妙に自然に思えたりします。
それと、「ジークフリート」の明るいハッピーエンドを予見させる小鳥との希望のやりとりは、そのまま「憧れ」や「恋焦がれる」トリスタン心情につながるものです。

音楽の革新性につきましては、これまで散々触れてますし、また次の「トリスタン」記事のときに触れたいと思います。
今回は、原作となったケルト神話に発し、中世フランスにおける悲恋物語をここに紹介したいと思います。

コルニアイユの騎士トリスタンは、伯父マルク王と国の平和のため、黄金の髪の持ち主イズーを、荒波のもと伯父のもとへ運ぶ船中にありました。
思えば、トリスタンに跡目を継がせようという王の意志に反した有力廷臣たちが、王自身が妻を娶り子孫をはぐくむべしと主張し、譲らなかったため。
王は、二羽のツバメが運んできた黄金色の髪を持つ女性なら、とその場を取り繕い、国の平和のためと、察したトリスタンが、自分が探しましょうと名乗り出たことによります。
 トリスタンは、遠路、心当たりのイズーを求め探しあて、海路に乗りだしますが、かたやイズーは穏やかではありません。
かつて、漂流し瀕死の状態で、そして怪竜退治のあと英雄と称されながら大怪我を追って、その2度ともに、母譲りの秘薬と看護でもってその命を救ったイズーだったのでした。
しかも、その刀のこぼれ目から、伯父の敵と知りながら・・・・。

マルク王へのもとへと向かう船中、トリスタンはイズーへと挨拶に来るが、イズーは心中怒りながら、下女に、なにか施しものを、と命じますが、下女は知らずに葡萄酒として二人にさし出し、ふたりは盃を飲みほしてしまいます。
そこへ飛び込んできたのが、イズーの付き人フランジェン。ええーー、イズーの母から言付かったのは、マルク王と永遠に愛しあうことのできる秘薬であったのです。
ボタンの掛け違えが生んだ悲劇がここから始まります。

マルク王のもとに嫁いだものの、フランジェンの手引きで、毎夜偲びあう二人。
かつての奸廷臣たちは、怪しい小人を使い、二人の逢引をさぐり、王に現場を見せつけます。
怒った王は、二人を捕縛し、火刑に処します。
しかし、トリスタンは崖から飛び降り命を絶ったとの報。
さらに怒った王は、イズーを単なる火刑ではなく、らい病患者の集団の慰みものに引き渡してしまう。
 苦しみの山中、彼女を救ったのは、自決を装ったトリスタンと忠臣ゴルヴナル。
ふたりは、人知れぬ森へ逃げ込み、1年間の愛の逃避行を過ごすが、やがて、マルク王の慈悲と悔い改めの機会が与えられ、イズーは許され王妃として復帰、トリスタンは諸国行脚の追放の旅に出る。

2年のゴルヴナルとの放浪。ブルターニュ国で国を救う英雄となり王子の妹、しかも、その名も白い手のイズーと結婚することとなります。
英雄と讃えられる日々ながら、妻には心を許さないトリスタンは、かつて恐竜と闘い勝利したときに条件として、妻を娶っても抱擁することはない、との誓いをしたのだ、と白い手のイズーに嘘を言ってしまいます。

その後、ブルターニュのために獅子奮迅の闘いをしますが、あるとき瀕死の重傷を負い、兄王子に、もう長くはないことと、かつてのイズーこそが私を治せると話します。
兄弟として、親友として秘密は守るので、絶対に彼女を連れてくると約す兄の言葉を盗み聴きしてしまった白い手のイズー。
癒し人イズーを連れて帰ってきたときは、帆に白い旗を。
そうでないときは、黒い旗を・・・・・、男二人の約束を盗み聞き、嫉妬に燃える白い手のイズー。

毎日、海辺の塔で船を待ちわびるトリスタンは、日に日に衰弱していきます。
あなたのお医者様を乗せてやってくる船、とトリスタンを安心させる白い手のイズー。
ある日、ついに船が、猛烈な勢いでやってきました。
もう確認の体力もないトリスタンは、白い手のイズーに旗の色を尋ねますが、彼女は、無情にも「白」を、「真っ黒」と宣言し、絶望したトリスタンは憐れ、息を絶つのでした。

折りからの弔鐘に、凄まじい勢いで船をおり、トリスタンのもとへ向かうイズー。
「奥方様、そこを離れてください。この方の死を心から悼むのは、あなたではなくわたくしです」と神々しく言い放ち、気の毒な白い手のイズーは、その場を泣きながら離れます。

イズーは、トリスタンの亡きがらに涙ながらに抱きつき、やっと二人にきりになりました・・・・と静かに、後を追いその命を引きとるのでした・・・・・・・。

ちょっと長かったですが、ワーグナーの書いた「トリスタンとイゾルデ」とは少し違います。

でも、最後の場面は、「神々の黄昏」のブリュンヒルデに似てます。

表面的には、マルケ王はこんなに嫉妬深くなかったし、周囲もこんなにワルじゃなかった。
恋薬の媚薬は、マルケのためにあったのでなく、最悪を用意して残された媚薬で、それは死と隣り合わせだった。
トリスタンの彷徨や別のイズーとの結婚もなし。

でも、ここに共通項としてあるのは、「愛の苦しみ」。

喜びの愛ではなくて、悲しみの喜び。
白日の昼に嫌悪し、夜の帳を待ち望む真実で偽りの喜び。
・・・・こんな言葉が、2幕の官能的な二重唱では延々と歌われます。

原作のなかで、イズーの母親が、この薬を待女に調合するときに語ります。

「この秘薬を飲んだものは、身も心もひとつ、生きているかぎり、いや、死んだあとも永遠に愛し合って離れることはできない・・・・」

げに恐ろしきは、その秘薬。
私は・・・、いりません。

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さて、本日の音源は、ホルスト・シュタインが70年に、ウィーンで指揮した上演のライブ録音。
N響3人衆をこれで、作品順に並べたことになります。

N響の指揮者選定の目利きは、もちろん先行した音楽家の情報や推薦もあったのだと思います。
カイルベルト→シュヒター→マタチッチ→サヴァリッシュ→ワルベルク→スゥイトナー→シュタイン→ライトナー→ブロムシュテット・・・・・・。
ドイツのオペラハウス叩きあげの名人ばかりの系譜。

シュタインの思い出は、語り尽くせませんが、残念だったのは、シュタインが日本で一度もオーケストラ・ピットに入ることがなかったこと。
ハンブルクやベルリン、ウィーンのオペラの常連として重宝され、やがてバイロイトで、音楽監督的な存在にもなったシュタイン。
思いのほか器用で、フランスものやロシアものも上手く指揮したシュタイン。
日本を亡くなるまで愛してくれたシュタインです。
最後の公演となった、N響での「パルシファル」第3幕をいまでも覚えております。
指揮棒をほとんど動かさなくなって、早めの力感ある音楽運びが信条だったのに、クナッパーツブッシュばりの長大な揺るぎないテンポに終始した感動的な演奏。
割れんばかりの拍手に、思わす泣いてしまったマエストロ。
あの時の映像は今でも宝ものです。

こちら70年の緊張感と覇気にあふれた演奏は、かなり劇的です。
この頃、グルダとのベートーヴェン全集を録音するのですが、あの時の緻密でありながら迫力あるウィーンフィルサウンドはフロックではなかった。
モノラルのイマイチサウンドから、その片鱗は充分すぎるくらいに聴いてとれます。
オペラの指揮とは、こういうものだろ、的な理想です。
歌手がもたもたしてるところも、ちゃんとオケが帳尻を合わせたりしてます。

この音源の魅力はもうひとつ。
長命を誇った、ハンス・バイラーの輝かしいトリスタンです。
CD表紙のオジサンですが、1911年ウィーン生まれ、録音時59歳。
歳を感じさせない力強さと、馬力、スタミナの素晴らしさ。
そして、嬉しいのは、ワーグナーに必須のほの暗さを保った高貴な声質。
バイラーの音源は、ジークフリートやパルシファルも持ってますが、いずれも悪くない。
悪いイメージは、ウィーンで長く歌いすぎて、ルーティン化したことと、ちょうどヘルデンテノール払底の時期にあたり、元気すぎたバイラーが無理でもジークフリートなどを歌わざるをえなかったこと・・・。
いまでも残る逸話。「神々の黄昏」で、歌詞を忘れがちになってしまったバイラーに業を煮やした指揮者が、歌いながら指揮をし、おまけにプロンクターよろしく、「飲めよグンター!」と、見事なテナーを聴かせてしまった。
あきらかなピットからの歌声が、劇場に響き渡ってしまい、観衆の失笑と大ブーイングを買ってしまった・・・・・・、その時の指揮者が素晴らしいテノールのシュタインです!
雑誌で読んだ、忘れえぬ逸話です!

ミュンヘンで活躍したビョーナーは、正式な音源がないのがもったいないくらいの美しい歌唱。
ルート・ヘッセの生真面目なくらいに硬いブランゲーネもよいですし、ヴィーナーもこれならいいと思いますが、ほかの歌手がちょっと。。。。。

シュタインのトリスタンは、ニルソンとの76年盤、同じニルソンでブエノスアイレス盤がありますが、未入手です。
あと、自家製CDRで、スイスロマンドとのジュネーブ劇場盤も持ってます。
こうした非正規をふくめ、ワーグナー全作を聴けるのもシュタインならでは。

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2013年3月17日 (日)

ワーグナー 「ローエングリン」 サヴァリッシュ指揮

Kabuki

建て替えなった新装歌舞伎座。

4月2日が初日で、先日、近くまで行ったので見てきました。

後ろには29階建ての高層オフィスビルを併設、「GINZA KABUKIZA」というワールドな名前が通称となるそうな。

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既報のとおり、地下鉄東銀座駅と直結する木挽町広場が先行オープンしてまして、売店やコンビニ、タリーズ、甘味処などがありましたよ。
お弁当売り場もありますぞ。

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  ワーグナー 「ローエングリン」

    ハインリヒ王:フランツ・クラス   ローエングリン:ジェス・トーマス
    エルザ:アニア・シリア       テルラムント:ラモン・ヴィナイ
    オルトルート:アストリッド・ヴァルナイ 式部官:トム・クラウセ
    4人の貴族:ニールス・メーラー、ゲルハルト・シュトルツェ
            クラウス・キルヒナー、ゾルタン・ケレメン

    ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団   
                           バイロイト祝祭合唱団
            合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ
            演出:ヴィーラント・ワーグナー

                      (1962.7 @バイロイト)


中期ロマンティック・オペラの3作目は、それこそロマン主義の萌芽あふれる、夢見るようなドラマの典型。
 だって、まさに夢で出てきた騎士が、白馬に跨るようにして白鳥に導かれ危急存亡のときに登場して鮮やかに登場して、悪漢を退治してくれて、しかも結婚までしてくれて、しまいには、鶴の恩返しのように正体が知れたら違う世界に帰ってしまう。

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夢への憧れ。バイエルン国王ルートヴィヒ2世は、ローエングリンを契機にワーグナーに心酔し、国庫を空にしてしまうほどにワーグナー投資を行った。
もうひとり、夢を現実化しようと妄想した男、ヒトラー。
チャップリンの映画に、地球のバルーンをもてあそぶシーンがありました。
そのバックミュージックは、ローエングリンの清冽な前奏曲でした。
ヒトラーは若い頃から、ワーグナーに心酔し、自身がドイツの白馬の騎士になることを夢見てしまった。
でも、青春時代は、絵画や文学もたしなみ、純真な芸術好きの青年だった。
なんの歯車の食い違いか、あの男を狂わせたものは何か?
それをワーグナーだとは思いたくはないが、そう思われるフシも多々あって、アーリア系至上主義のワーグナーをその音楽とは別に鑑みるにつけ、暗澹たる気持ちになることも事実であります。

でも、わたしを含めたワグナリアンは、そんなことは百も承知で、ワーグナーの音楽だけを受容しているのでありまして、当のご本人がどんなに性悪でありましても、どんなに後ろ指差されましても、その音楽を愛してやまないのですよ。
これぞ、本来のワーグナーの毒でして、邪念をなくし本当の意味でのワーグナー音楽愛なのですから。

「ローエングリン」の魅力は、先の中世の夢物語のオペラ化にあることはもちろんですが、ワーグナーが施した、テノール・ソプラノの正、対するバリトン・メソソプラノの邪。
それぞれの世界を、白と黒に色分けされたモノトーンの演出も昨今は多いです。
勧善懲悪のわかりやすい世界は、ドラマとしてもとても魅力的な展開でして、あれこれ考えなくてすみます。

不甲斐ない亭主の尻を叩きまくるオルトルートは、最初から最後まで、おっかない悪女として描かれていて、こんなに憎たらしい女声役というのは他にはないのでは思います。
オルトルートは、異教を奉じる魔女とありますが、それはキリスト教社会から見た話で、北方の多神教信仰が北上してきたキリスト教に負けてしまった、その負い目と憎しみを強く秘めているのがオルトルートという存在なのです。
暗い闇を描いた第2幕は、パルシファルの2幕と同じく呪術的な世界なわけでありますが、そこでオルトルートは、最高神ウォータン(オーディン)と愛・魔法・死をつかさどる女神フライアの名を呼んで、復讐の祈りを捧げます。
10世紀頃の中世アントワープが、この物語の時代ですが、暗黒の中世といわれるくらいに異教徒は異端であったり、魔女狩りが行われたりとマイノリティとして片隅に追いやられてしまうので、そうした意味ではオルトルートも気の毒な存在だったわけですな。
 オルトルートは、エルザにローエングリンに対する疑念を植え付け、亭主も使ってその疑惑をさらにけしかけ、巧みな心理戦に持ち込み、やがてこらえきれなくなったエルザは、禁断の問い掛けを発してしまうので、オルトルートの勝利となるのが、このオペラのある意味での結末。

クリーンな白組ばかりでなく、悪役組にも注目して聴いたり観たりすると、このオペラの面白さがまた増すものと思います。

 ちなみに、北欧神話の神々の名を列挙する場面は、「ニーベルングの指環」の「神々の黄昏」、ハーゲンが家臣たちに祝宴の準備を呼び掛けるときに、ウォータン、ドンナー、フロー、フリッカの名前を連呼します。
神話の時代の人間たちが、まさにそうした神様たちを奉じていたことがわかります。
そして、その神々の壮大なドラマを巨大な楽劇にしてしまったワーグナーの創作能力は本当にすごいと思います。

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1962年のバイロイト音楽祭のライブ録音。
このヴィーラント演出のローエングリンのプロダクションは、1958年がプリミエで、59、60、62年の4年間だけの上演で、指揮者は、クリュイタンス、マタチッチ、ティーチェン、マゼール、ライトナー、サヴァリッシュと毎年変わり、安定的な演目とはならなかった。
動きが少なく、装置もシンプルな象徴的な舞台で新バイロイトを率先してきたヴィーラントだが、このローエングリンはブルーを基調とする光りの効果を狙った色彩的なステージだった模様。1970年のベルリン・ドイツ・オペラの来日公演がヴィーラントの演出で、おそらくそれとほぼ似たものと推定されます。

ヴィーラント・ワーグナーと蜜月の関係にあったサヴァリッシュは、1957年から62年までの間に、トリスタン、オランダ人、タンホイザー、ローエングリンを指揮したものの、62年を境にバイロイトには一度も出演することがなくなってしまうが、これはアニア・シリアをめぐるさや当てがヴィーラントとの間にあったとか、なかったとか・・・・。

いずれにしても、少し遅れて世に出てきたローエングリンのこの音盤によって、サヴァリッシュ指揮のロマンティック・オペラ3作が出そろうこととなり、75年の発売当時、とても喜んだものです。
CD時代になってからの購入でしたが、驚くほど鮮明な録音で、盛大な足音や舞台ノイズもそのまま拾っているものの、活きのいいオーケストラと往年の大歌手たちの歌声をしっかり楽しめる。

39歳だったサヴァリッシュの指揮は、後年のキリっとした几帳面な演奏とはかなり違って、ときには煽るくらいに激情的に走る場所もってスリル満点。
そこは、オランダ人やタンホイザーと同じだが、清新な初々しさを感じるのはローエングリンの音楽ならではのところ。
二度と聴けないサヴァリッシュのワーグナー。
80年代のミュンヘンでの演奏では、もっとスマートになり、オーケストラもしっかり抑制し、歌とのバランスに優れた理想的なうるさくないワーグナーに進化した。
バイエルンの放送局に残るその音源が、R・シュトラウスとともに復刻されることを切に望みたいです。

Thoms

気品と力強さを持ったジェス・トーマスのローエングリン歌唱は、ケンペ盤でのものとともに理想的な素晴らしさ。
若いシリアのエルザは体当たり的な歌で、大御所的なヴァルナイのオルトルートに惑わされ、段々と疑心暗鬼に陥ってゆくさまが、単なる無垢なだけのエルザでない姿を歌いだしていました。
そのヴァルナイがこれまた素晴らしくて、ちょっとした語尾の仕上げや、嘲笑いや見事な豹変ぶりなど、そら恐ろしいオルトルートなのでした。
それと、かつてトリスタンで活躍したヴィナイがバリトンになって復帰した最初の年であるこの録音。私の好きな歌手のひとりです。テノールの暗さがバリトン声になると、少し明るく聴こえるところが面白いところ。
クラスとクラウセ、みんないいです。
歌手の充実ぶりも、この音盤の優れたところ。

思えば、アニア・シリア以外は、このCDに名前のある方々はすべて物故してしまいました。
時の流れは無常なのです。

最後の「はるかな国に・・・」を聴きながら、窓の外を見てたら哀しくなって涙が出てきました。
ジェス・トーマスの歌う、「Leb Wohl !」が心に沁みました・・・・・・。

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2013年3月16日 (土)

ワーグナー 「タンホイザー」 スゥイトナー指揮

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カトリック赤羽教会。

カトリック会の頂点たる法王が、先ごろ前法王の辞意を受けてのち、確定しました。
南米から初の教皇誕生でしたが、今回、報道もされましたが、その選出がコンクラーヴェという名前であることや、不選出時には黒い煙を焚くことも初めて知りました。

絶大な権威を誇る教皇はバチカン司国の長でもありますが、その歴史は、イエスの弟子ペテロにその祖をさかのぼるものです。

ペテロといえば、わたしたち音楽好きとしては、バッハの「マタイ受難曲」における感動的なシーンとアリア「ペテロの否認」を思いだします。

ワーグナーの「タンホイザー」も、ローマと法王にまつわるシーンがキモになっております。

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ワーグナー 「タンホイザー」

 

  タンホイザー:スパス・ヴェンコフ エリーザベト:チェレスティーナ・カサピエトロ
  ヴェーヌス:ルドミュラ・ドヴォルジャコヴァ 
  ウォルフラム:ジークフリート・ローレンツ ヘルマン:フルッツ・ヒューブナー
  ワルター:ペーター・ベンツィス  ビテロルフ:ペーター・オレッシュ
  ラインマール:ギュンター・フレーリッヒ  ハインリヒ:ヘンノ・ガルデゥーン
  牧童:カロラ・ノセック

   オトマール・スゥイトナー指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
                      ベルリン国立歌劇場合唱団
                    
                          (1982 @ベルリン)


ワーグナーの中期ロマンティックオペラ第2作。

ワーグナーの劇作品を大きく3つに分けると、初期オペラ3作(妖精、恋愛禁制、リエンツィ)・中期ロマンティックオペラ3作(オランダ人、タンホイザー、ローエングリン)・後期ドラマムジーク(トリスタン、マイスタージンガー、リング、パルシファル)となります。

その充実度と完成度の高さから、どうしても後期作品ばかりを観て聴いてしまうのですが、親しみやすさと適度な長さから、中期作品も感動がお約束された名作ですから、わたくし、さまよえるクラヲタ人としても巡行するようにして聴かなくてはならないのです。

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中世13世紀頃、国としては神聖ローマ帝国にあったドイツ中部のテューリンゲンが舞台。
ミンネジンガー=吟遊詩人たちは、高尚な恋愛や騎士道を歌にして、城内や貴族館などで歌い演じていて、それは職業ではなく、従者や城仕えのサラリーマン、騎士、貴族などさまざまだったといいます。
タンホイザーとその仲間たちもそうい連中だったわけで、2幕のヴァルトブルク城での歌合戦では、こそばゆいくらいに美辞麗句、高尚なる古風な純愛の歌を披露する仲間たち。
それを聴いて生ぬるい、俺はリア充だぜぇ、と酒池肉林の世界に行っていたことをカミングアウトしてしまうタンホイザー。

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ローマ神話の愛と美をつかさどる女神ヴェーヌスは、原始キリスト教においては、迫害者としてのローマの神々であったし、カトリックにおけるマリア信仰と対をなす官能の女神として邪なる存在であったのです。

その世界におぼれてしまっていたタンホイザーは、キリスト教社会から足を踏み外してしまったアウトローでありまして、その素行がばれてしまった歌合戦の場では、タンホイザーをその場で手打ちにしてしまえ的なことになってしまうわけです。

しかし、そこへ身を挺して、怒る人々とタンホイザーの間にたち、必死に彼の命乞いをするのがエリーザベト。
この場面は、ワーグナーの書いた音楽のなかでも、もっとも感動的なもののひとつと思ってまして、歳とともにその味わいがわかるようになり、人の痛みや苦しみを共感しようという高潔なヒロインの真摯な歌に心から感銘を受けるようになってます。
舞台で観たら絶対に泣いてしまうシーン。
 彼女は、ローマへ許しの旅に出たタンホイザーを待ちわび、ついには自分の命を投げ打って快楽に魂を売った男を助けるのです。
ワーグナーが描くヒロインたちはこうして滅私的な美しい女性か、可愛いだけの女子が多くて、作者の自己中な女性感が思料されます。
ちなみに、ワーグナーがいきついた最後の女性が、クンドリーで、クンドリーは、献身者であるとともに、救いを求める悪女でもあり、最後には救済されて普通の女性となりますので、ワーグナーの描く女性のあらゆる性向が混在するデパート状態なのだと思います。

タンホイザーも身勝手な男ですが、彼の受けた劫罰は、いかなる辛酸労苦を重ねても許されることがないと、ローマ法王に決されてしまうくらいなものだったのです。
その杖にした枯れ木に、芽が芽吹くことがないようにおまえは救われないと。
 しかし、エリーザベトの儚い命が、奇跡を起こし、タンホイザーが手に持つ杖から若い芽が吹き、そして彼はエリーザベトの名を口にしながら息絶える・・・・。

ここでもお約束の感動がしっかり味わえますが、主役のテノールと友愛のバリトン(ウォルフラム)、そしてこの原作の素晴らしさを邪魔しない演出と力強い合唱が揃わないと困ったエンディングになります。

前にも書きましたが、コンヴィチュニー演出では、エリーザベトはよたよた出てきて、首にナイフをあてて自決するところを見せるし、タンホイザーに捨てられた設定のヴェーヌスは、ウィスキー瓶をもったアル中状態で、しまいには瀕死のふたり、タンホイザーとエリーザベトを抱きかかえ、ふたりを抱きしめ、よしよし的な存在になっちゃうし。
仲間はずれのウォルフラムは、ヴェーヌスいいよなぁ~風にチラチラ見ながら、寂しく階段を昇っていってしまうし・・・・。最後の合唱は妙に浮かれた連中だったし・・・。
エリーザベトとヴェーヌスを同質的に描きたかったのかもしれず、上演や録音では、同じソプラノで演じることもかつては多々ありました。

バイロイトでもいろんなことが起きてますし、タンホイザーをはじめ、ワーグナー演出にはいろんな可能性や冒険が秘められておりますね。

しかし、日本の新国立劇場は、さほどの過激性はなく、安心してオーソドックスな舞台を楽しめる世界トップクラスの劇場だと思います。

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本日のCDは、N響の名誉指揮者でお馴染みだったオトマール・スゥイトナーがベルリンの本拠地で上演したライブ録音。
放送音源によるもので、正規レーベルのものではありませんが、ちゃんとステレオで鮮明な録音です(少し揺れは感じますが)。
この録音の翌年、ベルリン国立歌劇場の引っ越し公演で「タンホイザー」が上演され、テレビとFMで放送され、食い入るように聴き、観ました。
快速テンポながら、ぎっしりと音が凝縮していて密度は濃く、ここぞというときの迫力はなみなみでなく、ライブで燃えるスゥイトナーの実力をまざまざと感じましたが、この音源でも同じことがいえます。
カセットテープから起こした自家製CDRも確認しましたが、どちらも素晴らしい演奏だと思ってます。
ドレスデン盤によるもので、序曲は完全終始して、そのあとヴェーヌスブルクが始まります。1幕の最後は、短縮エンディングなところが寂しいのですが、スウィトナーの自在なワーグナーは貴重なものです。

ベームと同時期にバイロイトで活躍したスゥイトナーは、ベームとリングを振り分けたほか、オランダ人、タンホイザーを担当しましたが、正規のワーグナー全曲録音がひとつもないのが残念なところ。
ベルリンでは、東側体制下だったので、どのようなアーカイブがあるか不明なので、NHKが放送した、「タンホイザー」と「マイスタージンガー」の来日公演はなんとか復刻して欲しいものです。
ちなみに、マイスタージンガーは観劇できましたし、録音も録画も所有しております。
あと、サンフランシスコオペラのドイツもの担当でもありましたので、そちらのリングやR・シュトラウスの音源があるような情報も見た記憶がございます。

歌手では、なんたって、スパス・ヴェンコフのタンホイザーがめちゃくちゃイイ。
声の太さと力強さ、ノーブルな輝きとほの暗さ。
タンホイザーとトリスタンのためにあるような声です。
この人の貴重なアリア集の記事はこちら

日本公演では、パパゲーノが評判を呼んだ、いい人バリトンのフライアだったけれど、ここでは美声のローレンツ。リート歌手のような几帳面でまじめな歌ですが、美声です。
エリーザベトのイタリア人歌手カサピエトラの明瞭な歌唱も素敵だし、ベテラン、ドヴォルジャコヴァのヴェーヌも妖艶でよろしい。

画像は日本公演のものを当時の雑誌から。

過去記事 一覧

「ヘンゲルブロック2011バイロイト放送」
「カイルベルト1954バイロイト盤」
「ドレスデン国立歌劇場来日公演2007」

「新国立劇場公演2007」
「クリュイタンス1955バイロイト盤」
「ティーレマン2005バイロイト放送」

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2013年3月15日 (金)

ブリテン 「冬の言葉」 辻裕久&なかにしあかね

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都会の冬。

2月の六本木ヒルズ。

暦は春になったいま、イルミネーションは春の夜には映えません。

でも、わたしはしばれる冬の夜が好きです。

命がけの極寒にある方々には申し訳ありません。

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  ブリテン  「冬の言葉」

      テノール:辻 裕久

      ピアノ:  なかにし あかね

              (2001.8 滋賀 高島)


ブリテン(1913~1976)の残したもっとも有名で素晴らしい歌曲集「冬の言葉」。

ブリテンの音楽や生涯に少しでも興味がおありの方なら、ご察しのとおり、ブリテンの歌曲のジャンルはほとんどがテノールを前提として書かれました。
これをもって、レッテル貼りをされ、遠のかれる方はさようなら。
歌の分野に、ブリテンの残した足跡は、オペラのそれと並んで、大きなものがあります。
それらを聴かずして、ブリテンを語れません。
「冬の言葉」という8曲からなる歌曲集も、そのカテゴリーに入り、ブリテンは、朋友ピアーズとともにテキストを精査し、その彼の声や音域を意識し前提とした作曲を行いました。
その当時者たちがもうずっと昔に亡く、わたくしたちは、音符として残されたあらたなブリテンの音楽の解釈をごく普通に受容できるようになったのです。

戦争批判の「シンフォニア・ダ・レクイエム」が軍事国家の日本に受け入れられなかった。
それとは同質でないにしても、ブリテンの嗜好が災いしているとしたら大間違い。
彼ほどに、人間の本質を見つめ、どこまでも純心に愛した作曲家はいないのではと思う。

  1.「11月の黄昏に」
  2.「旅する少年」
  3.「セキレイお赤ん坊」
  4.「小さな古いテーブル」
  5.「コワイヤマスターの葬式」
  6.「誇り高き歌手たち」
  7.「駅舎にて」
  8.「命の芽生えの前と後」


トマス・ハーディの詩集「冬の言葉」によるものですが、この晩年の詩集からは、6曲目の「誇り高き歌手たち」のみを取り上げ、ハーディの他の自在で色彩的な詩からアットランダムに選ばれ構成さえたのがこの歌曲集です。

このCDの解説によりますれば、ブリテンの「冬の旅」とも称せられる曲集とありますが、聴きこんでくると、そのようにも、まさに孤高の歌とも思われてくるソング・サイクルなのです。

辻さんと、なかにしさんの毎年行われる英国歌曲コンサートの一連で聴きました。

そのときの印象をそのまま引用いたします。

>私は、R・ティアーのCDを持っているが、本日、辻さんの歌で聴いて、ティアーの歌は心理的な歌いこみが勝りすぎてちょっと厳しく聴こえてしまうようになった。
辻さんは、さりげなく、そしてブリテンの優しさにを巧まずして歌いあげたように聴かれた。
汽車を模倣する独特のピアノのリズムに乗って歌う「旅する少年」のブリテン特有のミステリアスな不可思議さ。
オペラのひと場面のように曲想が変転する「コワイヤマスターの葬式」。
劇的な「駅舎にて」は、これもオペラの一節のようなテノールの独白。ピアノがつかず離れずにまとわりつく。
そして、終曲「生命の芽生えの前と後」は、最後を飾る明快な旋律線が戻ってくる。
辻さんの心のこもった歌唱。なかにしさんの弾くピアノも感動的だ。
しかし、どこかふっきれない疑問を投げかけるのがブリテン。<

いまこうしてCD音源として聴いても変わらない思い。

とくにブリテンの目線の優しさは、ほかの社会派オペラ聴くにつれ革新と共感を持つようになってきました。

 誰にもおそらく想像がつくように そして地上のさまざまな証拠が示すように

 
 意識というものが生まれる前 万事はうまくいっていた・・・・・

 しかし、感じるという病がおこった 

 そして原始の正しさは間違った色に染まり始めた

 いったい無知が再認識されるのは あとどれくらいの時間がかかるのだろうか


終曲の意味深い歌詞を読んで、ブリテンの研ぎ澄まされたこれまでの問題意識への完結感とも思われるすっきりした音楽を聴くにつれ、ここには英語もふくめ、あらゆる言語を失語的に封じてしまうディープなものがありました。

イングリッシュ・テノールの世界的な第一人者辻さんと、あかねさんの、おふたりの演奏はもう完璧で、アーティキュレーションも含め、歌いこみの豊かさにおいて、わたしのもう一方の愛聴盤、ティアー&レッジャーの音盤を凌駕しておりました!

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2013年3月14日 (木)

チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」 T・トーマス指揮

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春が出たり引っ込んだりですが、もうやってきました。

ですが、今年の冬の寒さはほんとうに格別で、堪えました。

首都圏でも雪が積もる日が3~4日ありまして、日陰では除雪された残骸がずっと残る寒さが続きました。

雪国の皆さまは本当に大変でしたでしょうし、ちょっとの積雪で大パニックになってしまう首都圏は冗談みたいだったでしょうね。

まだまだ厳しい北国。このところの異常気象には、もうそろそろとどめを刺して欲しいところです。

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これらの雪は、ことしの成人式、1月14日の我が家から見た雪景色。

幸いにして、わたしの住む自治体では冬晴れの前日が成人式セレモニー。

慣れぬ着物に疲れた娘は、翌日の雪の日を寝て過ごしましたが、お父さんは浮かれて飛びまわってました。

早く春が来て欲しいけれど、冬の情緒もまた捨てがたいもの・・・・。

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  チャイコフスキー  交響曲第1番 ト短調 「冬の日の幻想」

   マイケル・ティルソン・トーマス指揮 ボストン交響楽団

                      (1970.3 @ボストン)


チャイコフスキー26歳の交響曲は、詩情にあふれたメランコリックな美しいシンフォニー。

  第1楽章 「冬の日の幻想」~アレグロ・トランクィロ・・・

  第2楽章 「陰鬱な地方、霧深い大地」

  第3楽章 「スケルツォ」

  第4楽章 「フィナーレ」

クラシック歴の長いわたくし、その初期には、チャイコフスキーの前半の3曲なんて、まったくマイナーなもので、テレビや放送ではまったくゼロに近いくらいに露出度ゼロ。
レコードでも、スヴェトラーノフやマゼール、マルケヴィッチらの全曲録音の中の1枚的な存在でしかなく、まして、2番に比べ、この1番と3番は耳にすることがまず難しい曲でした。

いまを思えばウソみたいなはなしです。
でもそれぞれにターニングポイントとなる1枚が存在します。

この1番「冬の日の幻想」では、71年に発売されたレコードが、今宵の1枚でして、若きティルソン・トーマスが、小澤征爾就任前のボストン響に客演して録音したものがそれです。

FM放送を録音し、何度も聴いて、この曲を大好きになっていたったのも、このMTTの演奏。
ほぼ同時期に、岩城宏之がN響を指揮した放送も聴き、さらに、ハイティンクのカッチリした演奏で感心したのは、もう少しあと。
いまや多くの演奏が聴くことができ、かなりの音盤を聴いてきましたが、そのルーツはやはり、MTTのこの爽快明晰すっきりのボストン盤。
永遠のエヴァーグリーン的な演奏なのです。

西欧に近い存在であったチャイコフスキーですが、やはりロシアの冬を描かせては、いや、その厳しいけれど、情緒的な冬に愛着をいだき続けた作者ならではの哀愁交響曲なのでです。

そのすべてが大好きで、わたくしは、この曲を聴くと5番もそうですが、素人指揮をしたくなって右手がうずうずとしてしまうのです。

1楽章冒頭のファゴットとフルートによる詩的でクールなスノー・サウンド。
あまりに素敵な2楽章は、オーボエの連綿たるメロディが雪に埋もれ、ずっと先まで真っ白なロシアの大地をロマンティックなまでに思わせる素敵なもので、その後の展開はあまりに美しく、かの地の抜けるように白い肌の女性の微笑みみたい。
 で、スケルツォになると、中間部の歌謡性に富んだ場面が無情に素晴らしい。
いつまでも、どこまでも浸っていたい甘さを備えたワルツ調のメロディにメロメロ。
そして決然と、かつ民族調の終楽章。
「小さな花よ」というロシア民謡からそのメロディが取られた序奏とその主題。
繰り返しのファンファーレが重奏してゆく、ややくどい展開ですが、その興奮はいやでも高まり、最後は、後期の完璧なフィナーレ感とは遠いですが、健康的なまでの壮麗なエンディングを迎えるのです。

久しぶりに聴いて、やはり、MTTの演奏は素晴らしかった。
なんの小細工もせず、ロシアの大地なんて見たこともないのに、ビューティフルな音の配列とボストン響のヨーロピアンサウンドでもって、なにげに演奏して、録音してしまった。
そんな奇跡の音盤だと思います。

この曲を聴いてみたいと夢にまで見る演奏は、現田茂夫さんと神奈川フィル。
チャイコフスキーの全曲チクルスをやって欲しい

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2013年3月13日 (水)

フランク ピアノ五重奏曲 カーゾン&ウィーン

Kabukiza

新装なった東銀座の歌舞伎座の、ここは地下のエントランス。

東銀座駅と直結しまして、大きなスペースにチケット売り場、コンビニ、茶屋、土産物店、甘味処などが、劇場の正式オープンを前に開店しておりました。

Franck_dovorak_wien

  フランク  ピアノ五重奏曲 ヘ短調

      Pf:クリフォード・カーゾン

    ウィーン・フィルハーモニー弦楽四重奏団

                (1960.10 @ウィーン・ゾフィエンザール)


今日は、渋いとことろから一曲。

かの無題のニ短調交響曲のセザール・フランク(1822~1890)の室内楽作品から。

もっとも、フランクの室内楽といっても3曲しかないのですが、そのいずれもが求心的で深みのある作品ばかり。
一番有名なヴァイオリン・ソナタと弦楽四重奏曲、そして今宵のピアノ五重奏曲。

フランクは、ベルギー生まれで、フランスの移り、作曲のかたわらパリで教鞭をとり、多くの弟子が輩出し、その彼らはフランクの流れをくんで、独自の香り高い「フランス音楽」流派を組んだのです。
その連中の名前を列挙すると、ピエルネ、ダンディ、ショーソン、デュパルク、ロパルツなどで、一方で、フォーレも流派こそ違え、フランクに多くの影響を受けた作曲家であります。

どうしても、あの交響曲や、ソナタばかりが先行してしまいますが、このピアノ五重奏曲も気高く熱い本格的な音楽でして、「交響曲」をお好みの方なら絶対に気に入っていただける本格作品なのです。
しかし、フランクのいずれの室内楽も、ごく初期のピアノ三重奏を除くと、いずれも作曲家後期の作品で、その室内楽自体が円熟期から晩年の作品群に位置するところがまた容易に聴くひとを寄せ付けない高尚さと晦渋さを併せ持っているのです。
ピアノ五重奏は、1879年57歳、ヴァイオリン・ソナタが1886年64歳、弦楽四重奏が1890年70歳で、翌年には旅立つフランク。

3つの楽章からなり、それぞれに濃密な音楽で、その濃淡の深さも尋常ではないのですが、どこかベルギー・フランス的な、そう汎ラテンともいえる明るさをも兼ね備えているため、息詰まるような圧迫感はありません。

痛恨の雰囲気からスタートする1楽章ですが、その後、渋い展開を持ちながらも、楽想は熱くなっていき、オルガン的な多層的な展開もあるのですが、どこか煮え切らずに終始してしまうろころが、あの難しそうな顔のフランクの音楽そのものなのです。

この曲で、一番好きな楽章が2つめのもので、あの交響曲の2楽章と同じように、抒情的な主旋律があって、それが多岐にわたって変転してゆくさまが、なんとも、おぼろげであり、かつその濃淡の微妙さが美しい。
この曲に大いに影響を受けたフォーレの先ぶれ、いや先んじているから当然ながら、フォーレ的なパステル感を感じる一品でした。

終楽章は、これまでの展開とちょっと異なるかっこいい旋律やリズムの応酬で、フランクとしては大いに劇的な曲の運び。

いずれにしても、印象的なこの音楽の主役はピアノで、終始、流動的な存在として曲をリードしていて、弦楽四重奏が悲劇的な様相を呈しても、ピアノにはまだ救いがあるように聴かれ、したてられているように聴きました。

イギリスのリリカルなピアニスト、カーゾンとボスコフスキー、シュトラッサー、シュトレング、ブラベッのウィーン・フィルの名手たちがクワルテットを組んだ演奏で。

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2013年3月12日 (火)

ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」 マリナー指揮

Sumire

公園の整備されたポットですが、この色使いといいますか、色合いはセンスありますねぇ。

パープルと藍のブルーに、葉の緑。

この色合いもまた、冬の終わり、早春を思わせるものです。

2年前の今頃は、国民全部が打ちひしがれていて、絶望的な思いに満たされていたかと思いますが、それでも草木は春の装いを準備していた頃あいでした。

被災地の方々を思いつつも、そうでない人々は、日常をいち早く取り戻すべく立ちあがったのもさほど時間が経過していないいま時分でした。

人間の営みは、時に試練を与えてくる自然によって支えられ、多くを奪われ、そしてその自然によって、多くの恵みを得る悠久の営みなのです。
しかし、あまりに無情。

与え、そして奪う。

しかし、感謝と救いを祈らざるをえません。

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  ベートーヴェン 交響曲第6番 ヘ長調 「田園」 

 サー・ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

                      (1985 @ロンドン)


この音楽が人間によって書かれ、残されたことにも感謝。

ベートーヴェンの感情表現として書かれ、決して描写音楽ではないのですが、ハイリゲンシュタットの森や鳥たちとともに書いたと、自身が表明したように、やはり耳に支障をきたしていたこの時分のベートーヴェンの心の目で見た自然と人間の営みは、この素晴らしい音楽の中にしっかりと反映されているのですね。

だれしもが持つ、自分の田園風景。

それは、生まれ育った田舎の風景かもしれませんし、旅で出会った旅情あふれる田園の風景かもしれません。はたまた、昨今では、テレビの映像でであった田園風景が、その方の心に触れたものなのかもしれません。
 いずれにしても、日本人的な心象風景はほぼ似通っていて、それとダブルフォーカスに耳で体感できるのがベートーヴェンの「田園」。

不幸にして、故郷の田園風景や沿岸の光景が失われてしまった被災地ではありますが、誰しも、みなさんに、この「田園交響曲」をお届けしたいです。

今宵、そんなことを思いながら聴いていたら、終楽章の嵐の過ぎ去ったあとの感謝の感情あふれる大らかな旋律に、はらはらと涙がこぼれてしまいました。

あたりまえこそ、ありがたい。

マリナーの田園は、わたしには理想郷のような田園です。
爽やかで、さりげなく、サラサラと流れるように進行し、思い入れも、停滞感もまったくなし。
音楽がそこにあって、流れているだけ。
うすめのアンサンブルに、透き通るような見通しのよさは、思わぬリズム感と推進力を生みだしています。
これこそがマリナー&アカデミーの真髄。

ピリオド奏法なんて関係なしに、こんな清冽新鮮な音楽が紡ぎだすことができるのです。

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2013年3月11日 (月)

ヒンデミット 「前庭に最後のライラックが咲くとき」 サヴァリッシュ指揮

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こうした淡い色どりの花を普通に撮ると、こんな風なソフトフォーカスな写りになります。

鮮やかさを抑えた花々は、手向けるのに相応しいです。

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  ヒンデミット 「前庭に最後のライラックが咲くとき」
     
           
           ~愛する人々へのレクイエム~

      Ms:ブリギッテ・ファスベンダー

      Br:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

   ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 ウィーン交響楽団
                          ウィーン国立歌劇場合唱団

                  (1983.11.1@ウィーン、ムジークフェライン)


ヒンデミット(1895~1963)が残した唯一のレクイエム。

1946年、終戦間もない年に完成。

当時、ヒンデミットはアメリカに亡命中。

生粋のドイツ人であったヒンデミットは、フルトヴェングラーがベルリンフィルで、彼の作品「画家マティス」を指揮して大成功を収めたにもかかわらず、反ナチス的な活動をしていたとして、その音楽を退廃的とのレッテルをナチス当局にはられ、亡命を余儀なくされた。
これを熱烈擁護し、その芸術を守ろうとしたのがフルトヴェングラーだが、そのフルトヴェングラーも、職を解かれてしまうという事件が起こった。

かつてより好んでいた詩人ホイットマンでありましたが、亡命後、同名の16編からなる詩集から12部となして、その詩をテキストにするレクイエムを作曲。

1時間に及ぶ大作は、主役のバリトンと自然と環境を歌いこむ合唱、そして鳥の声のメゾからなっていて、大オーケストラによる雄弁な背景が厳しくも優しいパレットとなっています。

ヒンデミットの音楽の常であるように、ここでの音楽は厳しく、しかめっ面のようであたりは決してよろしくない。
だが、往時の即物的にすぎる音楽よりは、ずっと旋律的で、この曲の中に共通するいくつかのモティーフを覚えてしまうと、その音の運びの展開がわかりやすくなってくる。
まして、ソロや合唱が主体なので、より具象的な雰囲気でもあり、冒頭の序奏からして極めて深刻なムードが立ち込めるのに、聴きなれると音楽の中に織り込まれた巧みな劇性を感じ、それらを拾いだすようにして聴くことができるようになりました。
バリトンの全編における活躍と、メゾの清らかな役割は、歌好きには堪らない魅力です。

またお得意のフーガの形式も曲の真ん中あたりで合唱にあてこめられていて、それはとても聴きでのあるものでしたし、だんだんと浄化してゆく最後の方、序奏を除く9曲目では、軍の消灯ラッパが静かに響くのも印象的。
 このあとの終曲、「幻影が過ぎ去り、夜が過ぎ去った・・・」では、無情感あふれるバリトンと、虚無的なフルートに鐘、弦の不安な和音。
最後はメゾも加わり、切ないまでの哀しい雰囲気のうちに曲を閉じます。

 前庭に最後のライラックが咲くとき

 そして夜、大いなる星が早くも西の空にに沈むとき

 わたしは嘆いた、そしてめぐり来る春とともに嘆くであろう


                       ~(第1曲目)

 ・・・・そして、ずっと残るべき彼らの思い出を

 私がそれほど愛した死者のために、

 この時代、この国土のもっとも美しく

 もっとも賢い魂のために

 そしてこれを愛する彼のために。・・・・


                      ~(終曲)

この曲は、年々、わたしにとって重きを増しているように思われます。
哀しく、そしてとても深く、優しくも厳しい。

こうした音楽は、フィッシャー=ディースカウの独壇場で、ときにシャウトし慟哭し、熱く優しく歌います。
ファスベンダーの女性的なメゾもいい。
そして、こうした曲を整然とかっちりと聴かせるのがサヴァリッシュの妙味。

東京大空襲で亡くなった人々、東日本大震災で亡くなった人々、昨年亡くなったフィッシャー=ディースカウに、ウォルフガンク・サヴァリッシュの追悼の念を込めて。
安らかにお休みください。

Lilac

札幌市の木、ライラック。
市内の公園にて、数年前の写真です。(たぶん、ライラックに違いありません)

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2013年3月 9日 (土)

R・シュトラウス 歌曲集 サヴァリッシュ

Motomachi2

横浜元町でみつけた花のツリー。

もうセールも終わり、この花のイルミはなくなってしまったかもしれません。

ウォルフガンク・サヴァリッシュの追悼と、あの震災から2年という節目への思いを込めて。

ピアノの名手でもあったサヴァリッシュは、室内楽にリートに、演奏会でも録音でも、精力的に活動しておりました。
オペラハウスの総監督をしていて、勉強も含めて、どうしてそんな時間が作れたか。
これはもう、われわれ凡人の及ぶところではありませんね。

いずれも、サヴァリッシュがピアノ伴奏をしたR・シュトラウスを聴きます。

ずっと以前からの愛聴盤。気がついたらみんなサヴァリッシュがピアノを弾いていた。

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  R・シュトラウス    歌曲集

      ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

              (1981.10 @ミュンヘン、83.9@ベルリン)


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  R・シュトラウス    歌曲集

       ヘルマン・プライ

              (1972.11 @ミュンヘン)


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   R・シュトラウス    歌曲集

       ルチア・ポップ

              (1984.9 @kloster seeon)


3枚のCDに共通する曲は、作品番号10の、「なにも」と「夜」。

シュトラウス18歳の若い作品の「なにも」は、女性賛美の朗らかな歌。
同じ時期の「夜」では、夜と森。ドイツならではのしじまを感じるロマンティッシュな作品。

明るい明晰な声と、言葉の意味合いの歌いだしの素晴らしさがフィッシャー=ディースカウ。

同じ明るい声でも、言葉への思い入れがもっと伸びやかで、近くにいつもいるお兄さん的な安心感のあるプライ。

蠱惑的なまでに、魅惑の声のポップは、微細な揺れ具合が抜群に愛おしい。
この方の声も、隣に住む気の置けないお姉さん声だった。

これら、わたしたちにとって、お馴染みで、いまや懐かしい歌声たちのピアノ伴奏を、名手サヴァリッシュは、その声を100パーセント理解したうえで、つかず離れず、巧みな在り方でもって、歌を引き立て、そしてシュトラウスならではの地中海的なクリアーさでもってもりたてています。

ほかの曲では、二人に共通して収録される曲で、あとこっちがあれば・・というような思いを抱く名唱・名曲があります。

FDとポップによる「帰郷」は、恋と故郷という懐かしい思いを感じさせてくれます。

シュトラウスの歌曲の中でも、もっとも好きな「明日には」~「Morgen」。
ここでは、プライとFDのふたりの素敵なバリトンで聴くことができます。

  そして、明日には太陽は再び輝き出るだろう

  そして僕の歩んでいく道すがら

  太陽は再びあの人に会わせ、幸せにしてくれるだろう

  日の光りを一杯に浴びている、この大地で

  そして、広々とした青い波の打ち寄せる岸辺に

  ぼくたちは静かに、ゆっくりと近づいてゆくだろう

  そして僕たちは黙って、目を見交わし合うだろう

  そのとき沈黙の密やかな幸せがぼくたちを包んでくれる・・・・。

               (ジョン・ヘンリー・マッケイ)


ここでも、耽美的なまでのピアノには、ほとほと参ってしまいます。
シュトラウスが描く世界は、ピアノ1台でも、極めて甘味でして、オペラの世界に通じるものです。
プライとFD、どちらも青春の切ないひとこまの、その一瞬を見事にとらえております。
切ないまでの美しさです。
願わくは、ポップの歌声でも聴きたかった。

同じく、ピアノのアルペッジョが魅惑的な「セレナーデ」は、これもFDとプライ。

有名な「献呈」は、わたしも歌いたいくらいの素敵な歌曲。
シューマンと並んで、大好きな歌曲を、ここでは真摯なプライと可愛いポップの歌で聴けます。サヴァリッシュのピアノは、ドラマティックかつ、オペラの一節のようです。

ほかにも、「万霊節」、「君を愛す」、「子守唄」、「ひどい嵐」などなど、伸びやかで屈託のない明るいR・シュトラウスの歌曲の魅力が味わえる名唱がそれぞれに味わえる3枚のCDなのでした。

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2013年3月 8日 (金)

ベルリオーズ 幻想交響曲 サヴァリッシュ&N響

Hamamatsucho201303_3

3月の小便小僧は、東京消防庁の山岳救助隊のレスキュー姿。

冬山の怖さは、急に気温が緩んだこのところが最も怖い。

ヘルメット姿が可愛い。

でも小便の勢いは相変わらず激しく一直線。

Hamamatsucho201303_2

後ろ姿も実に精巧に着飾ってますね。

もうすぐ2年。

心の備え以上に、日本のどこにいても実質的な備えは必須の我が国です。

Sawallish1

   ベルリオーズ 幻想交響曲

    ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 NHK交響楽団

                      (1983 NHKホール)


亡きサヴァリッシュの、1964年以来、40年に及ぶNHK交響楽団との共演は、当然にテレビやラジオで、われわれ音楽ファンの目と耳にすぐさま届いて、ずっと普遍的な演奏として日本中の津々浦々にしみ込んでいったのであります。

音楽監督を長く置かなかったN響の、実質的な指揮者として、のちに、ドイツ・オーストリア系のスウィトナーとシュタインの3人のワーグナー指揮者とともに、N響の堅実な響きを作り上げた賢人指揮者。

ともかく多くを聴かせていただき、多くを学ばしてもらいました。
定番のモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、ワーグナー、R・シュトラウス。
そして、気心のあったN響とは、サヴァリッシュ教授としては意外なレパートリーも多く披露してくれました。
バッハ、ベルリオーズ、R・コルサコフ、チャイコフスキー、ラヴェル、ショスタコーヴィチ、ブリテンなどなど・・・。

今日は、月イチ幻想の流れにのって、サヴァリッシュとN響の「幻想交響曲」を自家製CDRを引っ張り出して聴いてみました。
音源は当然に、NHKFM放送のエアチェックカセットテープからの板起こしです。
あくまで、個人の楽しみですし、視聴記を個々に記すのみですから問題はなかろうと思います。
いまデータが見当たらなくて、記憶を頼りに83年の演奏と記しましたが、毎年6月頃に来日したサヴァリッシュのこの年の演目は、大胆なものばかりでした。
「悲愴」「火の鳥」「幻想」「ショタコ5番」などなど、いずれも貴重な音源としてお宝状態で保存してあります。

「幻想」は、その少し前、手兵だったスイス・ロマンドとの来日公演や、先に当ブログで取り上げた現地演奏などもありますが、N響の機能的な演奏ぶりは、スイス・ロマンドのものより優秀です。
ただ、NHKホールの音がまるきしそのまま放送に乗っておりまして、その雰囲気に潤いは少なく、音は硬いです。
しかし、サヴァリッシュ先生の冷徹で、かつ熱い指揮ぶりはどうでしょう。
全編インテンポのゆるぎない構造で、どこもかしこも完全無敵。
冷静な1楽章に、几帳面なワルツ。さすがに田園風景を繰り広げる3楽章。
まったく面白みのない断頭台。
ゆったりとしながら、うねりをあげてせまりくるヴァルプルギス

こうして聴いてみるとN響の高性能ぶりに、今さらながら驚きなのですが、それを巧みに抑制しつつ、均整の取れた中に、爆発力を秘めた演奏をしたてあげたサヴァリッシュの手腕は、やはり並々ならないものと思います。
最後の聴衆の喝采はすごいです。

やはりオペラ指揮者としての冷静さと、劇性を心得た巧みな指揮ぶりで、サヴァリッシュは並外れた存在だったといえるでしょう。
NHKには、サヴァリッシュの音源の体系的な記録を是非ともお願いしたいところです。
追悼、ウォルフガンク・サヴァリッシュ。

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2013年3月 7日 (木)

サヴァリッシュを偲んで ジークフリート牧歌

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某公園の寒々しさの中に咲いた白いチューリップ。

硬いつぼみもありますが、緑の葉は春を先取りしてましたし、可愛いリボンが、ドイツ風な趣きを感じさせるのでした。

こんな早春の花を手向けなくてはならない訃報が、このところ相次ぎました。

日本の音楽ファンにとっては、忘れがたい、そして教授然としながらも親しみのある存在だったウォルフガンク・サヴァリッシュが、2月22日にドイツ、バイエルン州のグラッサウで亡くなりました。
享年89歳。

グラッサウを調べましたら、サヴァリッシュ先生が生まれたミュンヘンと、オーストリアのザルツブルクのちょうど中間にあるドイツアルプスのほとりにあるような街でした。
ここで、サヴァリッシュ教授は、奥さんが亡くなってから、そして2006年に引退後、ずっと過ごしておられたわけなのです。
ドイツ・オーストリア・スイス、そしてアルプスのイメージを持った素敵な街のようです。

サヴァリッシュといえば、N響なのですが、テレビやFM放送で始終接することで、ごく近い存在となっていった指揮者でありまして、あまりに普遍的なまでに近しい存在だったので、抜群の安定感と安心感を常に抱いていて、オーソドックスななかに安住する存在と思うようになっていきました。
しかし、オペラを聴くようになって、いつでも聴ける的な安心感から一歩も二歩も脱して、その誰にも真似のできない手際の良さと、複雑さ、重さを一切感じさせないスタイリッシュな音楽造りが、本当に素晴らしい意味での職人芸だと思うようになりました。

以来、サヴァリッシュによって聴いたオペラの数々、なかでも、ワーグナーとR・シュトラウスは、自分の中でも定番となり、いまでもその思いは変わりません。
残念なのは、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場を引き連れて何度も来演してくれましたが、それらの中の、R・シュトラウス、「アラベラ」と「影のない女」を観劇することができなかったこと。
でも、ワーグナーはふたつ体験することができました。
「さまよえるオランダ人」と「マイスタージンガー」です。
それらの思い出は、また書くことになりそうです。
ちなみに、サヴァリッシュが日本で指揮したオペラは、「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」「フィデリオ」「オランダ人」「マイスタージンガー」「ワルキューレ」「アラベラ」「影のない女」などでしょうか。
1974年には、カルロス・クライバーの「ばらの騎士」もあり、ライトナーも同行した豪華極まりない来演でした。

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 ワーグナー  ジークフリート牧歌 

   ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団員

           (1991.5.4 @ノイシュヴァンシュタイン城、ゼンガーザール)


この録音は、サヴァリッシュのバイエルン・シュターツオーパー時代の最後の頃。
翌年92年には、日本に引っ越し公演を行い、「影のない女」を指揮し、同年同オペラハウスから手を引き、93年からはフィラデルフィア管弦楽団の指揮者となりました。
ワーグナーゆかりの、ルートヴィヒ2世のロマンティックなノイシュヴァンシュタイン城の豪奢なホールにてのライブ録音です。
カップリングは、自身がピアノを弾いての、「ヴェーゼンドンク・リーダー」で、メゾは、マリアナ・リポヴシェクです。

響きの良い居城のホールでのこの「ジークフリート牧歌」は夢見心地に誘う、まるで、リヒャルト・ワーグナーがいまそこにいて、コジマが真っ白なシーツのベッドの中に愛情にあふれて目ざめたような光景が目に浮かぶような、あまりにも素敵な演奏なのです。
オリジナルのそれぞれの楽器が一本の室内バージョンで、透明感とインティーム感あふれるチャーミングな演奏は、まさにサヴァリッシュならでは。

この演奏は、実は、わたしの好きな「ジークフリート牧歌」の最右翼にあるものです。
ワーグナーのアニバーサリーイヤーに、この演奏は取り上げようと思っていた矢先に、サヴァリッシュ先生の追悼の念を込めて取り上げることになるとは思いもよりませんでした。

同郷のミュンヘンの楽員たちと、気心のしれたアンサンブルを楽しむサヴァリッシュは、もうこの頃、劇場生活に別れを告げ、新世界へと思いを馳せていたのかもしれません。

カップリングの「ヴェーゼンドンク」は、同じリポヴシュクの歌唱で、フィラデルフィア時代に再録音があります。
ユニークなことに、そちらでは、ヘンツェの編曲バージョンを使用しております。
ふたつの録音は、またいずれの機会に取り上げたいと思ってます。

もうひとつ、サヴァリッシュの「ジークフリート牧歌」を。

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   ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 ウィーン交響楽団

                        (1960.3 @ウィーン)


こちらは、ウィーン交響楽団の首席指揮者時代。
先のバイエルン盤より、1分短い演奏時間ですが、そのテンポの違いをまったく感じることがなく、むしろ、ウィーン風のまろやかな響きも手伝って、ゆったりとして聴こえる。
60年代のサヴァリッシュは、バイロイト最少年齢でデビューしたあのライブ盤に聴かれるとおり、清新でテキパキと進む思いきりの良さがあって、当時のドイツ系の演奏のモヤモヤ感とはかけ離れた明晰さ勝負の演奏だった。
それは、カイルベルトとカラヤンよりもスマートな音楽造りだった。
ウィーン響とのワーグナーは、LP2枚分があるけれど、いずれもそんな気概にあふれているが、この「ジークフリート牧歌」は、オケのいい意味でのウィーン風な丸っこさが出ていて、とても大らかに聴くことができます。
いい感じなのであります。

ウィーン響とのフィリップス録音は、多くが廃盤ですが、オリジナルジャケットで、是非復活して欲しいと思います。
ハイドンの交響曲、ブラームスの交響曲・ドイツレクイエム、J・シュトラウス、シューベルトなどなど。

サヴァリッシュ追悼特集は、まだしばらく続けたいと思います。

サヴァリッシュさん、どうか安らかならんことを。

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ノイシュヴァンシュタイン城のゼンガーザール。

もう20年以上も前に行ったことがありますが、記憶は彼方です・・・・。

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2013年3月 6日 (水)

 8月のコンサート

Azumayama5

わたしの育った街の山から。

何度も出してますね。

小さな山のいただきからは、相模湾の全貌が望めまして、富士山から、三浦半島、江の島まで見えるんです。

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何度も書きます、佐村河内守 交響曲第1番「HIROSHIMA」のこと。

今回は、この交響曲の全曲の再演について。

   交響曲第1番 「HIROSHIMA」

           4声ポリフォニー合唱曲「レクイエム・ヒロシマ」弦楽合奏版
                                      (世界初演)

         大友 直人 指揮 東京交響楽団

    2013年8月18日(日曜日) 14:00 ミューザ川崎


    一般発売:4月6日(土)

もうすでに、ご存知でしょうが、謹んでここにご案内申し上げます。

わたくしも、絶対に行きます!

こうして、この巨大かつ偉大な交響曲が、間を置かずして、コンサートでも定番化しつつあることを信望者としては、大いなる喜びをもって迎えたいと存じます。

先の、東京芸術劇場での感動的なコンサートの冒頭で、指揮者の大友直人さんが、マイクをもって語りかけたエピソード。
某作曲音楽コンクールに、この曲が応募され、評価の俎上にのったものの、こともあろうに、評価外という扱いを受けてしまったこと。
この曲を推し、大いに評価した三枝成彰氏は、大友さんに、面白い音楽と作曲家がいるから、ということで紹介したことが、大友さんと、この音楽との出合いとなったこと、などを淡々と語られました。

その後に及ぶ、秋山和慶さんもまじえた、この曲の十字軍たる活動には、感謝の言葉もありません。

それはまた、日本の現代音楽作曲というジャンルの行き着いてしまった先の問題なども内包しているようでして、わたくしのような素人が、ここで発言しては、いろんなところから矢が飛んできそうなので控えます。

ただひとつ。音楽は、そもそも、聴き手あっての芸術であって、聴き手の能力や受容範囲を超えてしまっての独りよがり的な孤高な存在であってはならないということです。
現在に生きるわたしたちの心に響く音楽こそが、現代音楽であるという宿命だと思うのです。
将来・未来に評価される音楽は、誰も求めておりませんし、音楽を極めた方々にしか理解できない範疇の音楽は、身内だけの自己満足にすぎないと思うのです。

そうした意味で、どこにも、なにものにも属さない佐村河内さんの音楽は、極めて明快で、その訴えるところが、誰しもが共感できるものなのでありまして、そもそもがわたしたち、一般の聴き手が求めていた世界なのです。

「3・11」の前、「ヒロシマ」にインスパイアされた音楽はいくつかありますが、「3・11」が私たち日本人に、及ぼした思いは、「フクシマ」のことも相まって、世界に類をみない事象にたいする観念に及ぶものだったものだと思うのです。
わたしたち、鋭敏で繊細な日本人の思いは、人を思い、同情し、滅私行動するということに結びつくという点で、誇り高いものだと確信したのも「3・11」。

佐村河内交響曲は、3・11前から存在し、「HIROSHIMA」から発し、3・11後の事象・心情に完璧に符合した、ある意味で先取りしていた音楽であります。
いや、こんなことを書いては、怒られるかもしれませんが、先日、偉大な国内作曲家の最新交響曲の初演を聴いたのですが、そのコンセプトは「3・11」後の、自然と人間のかかわり。そしてその音楽も、われらが佐村河内音楽があってこそ・・・的な思いを禁じえず、聴きました。
妄言多言はここまで。

Nhk

佐村河内さんが、被災地に向ける熱い思い。

その思いは、ピアノのための「レクイエム」という新作に結実しております。

その曲は、3月10日、石巻にて初演されるそうです。

そして佐村河内さんの「魂の旋律」は、来る3月31日のNHKスペシャルにて放映予定です。

魂の旋律~音を失った作曲家 佐村河内守~

いつもの繰り返しとなりますが、こうして、わたしたちと、同じ時代に生き、共感し、音楽を紡ぎだしてくれる苦難を共生せる作曲家が共におられること、大いなる感謝でいっぱいです。

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2013年3月 5日 (火)

墓場のにゃんにゃん ①

Yanakaneko2

前回チラ見せの、この尻尾。

猫好きとしては、この尻尾をつかんで、軽く噛んだり、鼻のあたりでフガフガしたくなるんですよね。

たまらんばい・・・・、バカですねぇ~

Yanakaneko_2

この尻尾の持ち主は、この墓場画像の中に、完全にカメレオン状態で溶け込んでおった。

墓石のようなカラーのにゃんこは、画面中央で、こちらを睨んでおります。

Yanakaneko3_2

静かに、こちらも気を押し殺して近づき。

Yanakaneko4

正面に廻ると、こんな感じ。

睨みがキツイわ。

しかし、墓と一体。

このにゃんこは、もしかしたら、ここで眠るご主人を守っているのだろうか・・・・・。

Yanakaneko5

立ちあがっても、ご覧のとおり、警戒を緩めることなく、こちらを凝視したまま。

手も足もでません。

Yanakaneko6

思いきって寄り切り、大アップ

シャープな顔立ちが、家猫とは明らかに違う野性味を感じさせる。

野良を愛するわたくしとしては、理想的なクール・フェイス。

いいわぁ。

このあと、このにゃんこは、思わぬ姿態を見せてくれるのでしたぁ~。

それはまた次に。

ちょっと怖い、墓場のにゃんにゃんなのでしたぁ~

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2013年3月 3日 (日)

神奈川フィルハーモニー第288回定期演奏会 金 聖響指揮

Landmark

横浜ランドマークタワーには、クリスタル桜がお目見え。

枝には、スワロフスキーのクリスタルがふんだんに咲いておりました。

春はもうそこまで。

Kanaphill201303

   池辺晋一郎  シンフォニーⅧ「大地・祈り」 
               (神奈川フィル委嘱作 世界初演)

   レーガー    ヒラーの主題による変奏曲とフーガ

   ラフマニノフ  交響曲第2番

     金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

             (2013.3.3 @みなとみらいホール)



今シーズン最後の神奈川フィルハーモニー定期演奏会は、ご覧のような充実濃厚プログラム。
初演ものに、めったに演奏されない秘曲、ロシアン・ロマンティックサウンドの極。
それぞれ、25分、40分、50分と、超ロングなタイムで、休憩時間も短縮、ラフマニノフもいまや普通となった完全全曲版でなく、カット短縮版。
こうまでしても、コンサートが終ってホールをあとにしたのは、5時少し前。
ほぼ3時間、みなとみらいホールにいたこととなります。

まず、池辺さん、8曲目の交響曲の初演に立ち会うことができました。
みなとみらいホールの館長であり、神奈川フィルの評議員としてもわれわれにお馴染みの存在。
シリアスな今回の交響曲は、これまで社会の中での「個」の存在を探求してきたというが、「3.11」を受けて、自然と人間の係わりを見据えることなり、この作品が生まれたとご自身で解説を書かれております。

3つの章からなり、現代音楽然としたところがなく、とても聴きやすいもの。
オーケストラが入場してきて、、オヤっと思ったのが聖響さんのこだわる対抗配置でなく、通常配置であったこと。
その答えは、この池辺8番の冒頭、チェロとコントラバスの長いユニゾンにあったのでは、と思います。対抗配置で分断してしまっては効果がでないから??
この曲の詳細は流れるように聴いてしまったので、ここに記すことはできませんが、打楽器も多数登用し、フル編成のオーケストラによるサウンドは、ピアノからフォルテまでの幅広いレンジで効果満点。オーケストラを聴く醍醐味も味わえます。
大地、すなわち自然、最後は祈り。
中間章は無題で、そのイメージは聴き手にゆだねるとしてますが、解説をまったく読まずに挑んだもので、願わくはもう一度聴かせていただきたいところです。
佐村河内さんの音楽に魅せられているわたくし、しかも先の月曜に作者にも会い、その実演にも接したばかり。
不遜ながら、佐村河内音楽とだぶって聴いてしまったことも事実です。
最終場面で、ハープのグリッサンドが救いをイメージさせ、祈りが重なり倍増し、フルオーケストラは徐々にクレッシェンドしていきクライマックスを築く。
そこで終わりかと思ったら音は急速に弱まり、和風テイストとなって終了。
なかなか、印象的な曲でした。
繰り返しですが、再演を望みたいです。
池辺作品は、このあと9番が、この8番の理念を引き継いで書かれていて、独唱をともなうその曲は、9月に初演が予定されております(下野&東響)。

次いで難物レーガーのヒラー変奏曲。
この曲は昨年、この日のお勉強のために買ったヤルヴィ&コンセルトヘボウを、それこそ何度も何度も聴いて耳になじませておりましたので、思ったよりも楽に、そして楽しく聴くことができました。
モーツァルトと同じ頃に活躍したドイツの作曲家ヒラーのジングシュピール「花輪の収穫」の旋律を元にした主題と11の変奏とフーガ。
わたくしは、主題からひとつひとつ、指折って数えてましたが、なんと途中で分からなくなってしもうた。
急緩、強弱、相対比する音楽が次々と現れては、次へと移り変わってゆく。
モザイクのように張り巡らされ、情報量、音符の数も、ともに過多。
しかし、慣れてくると、こんなに面白い作品はない。
愛らしいヒラー主題が、ときにはその愛らしさそのままに、弾むようにしてときおり登場するのも楽しい。
刻みがやたらと多くて弦の皆さんはとくに大変だったのではないかと思われますが、オルガンも意識させる複雑さの裏にあるレーガーの充実した手法を堪能できました。
そして文字通り最後のフーガはバッハにも通じる壮大さでした。
よくぞ、このような曲を取り上げてくれたものです。
オケの皆さんは大変でも、出てくるその音色は、いつにも増して輝かしい神奈川フィルそのもの。
指揮がなにをしようとも、ちゃんと神奈川フィルだから安心して聴けるというものです。

前半でオケにはお疲れ様でしたと声掛けしたくなるほどの超ロング版。
休憩時間はもう3時30分。
ロビーには、池辺さんの次のN響アワーの進行役だった、作曲家西村朗さんもいらっしゃいました。

後半は、聴衆もオケもお手の物のラフマニノフ。
以前、現田さんの指揮する神奈川フィルで聴いた演奏が忘れられない。
そして今回、神奈フィルらしさが回帰しているのを確信できる美演でした。
ただ長く歌い継がれるメロディーの宝庫のこの作品。そのメロディーの橋渡し的な場面や、間の在り方が少し性急すぎるような気がして、連綿たる抒情の連続や色合いの変化に区切りがあるような結果にも聴こえた。
そのあたりは、のんべんだらりとした指揮に責任があるように思われる。
この曲を溺愛する私ゆえ手厳しいのです。

しかし、このオーケストラの魅力は、ラフマニノフやチャイコフスキーなどのロシア西欧タイプの作品を聴くとてきめんに感じ取れるものです。
煌めきとしなやかさ、そして華奢で都会的なスリムさ。
分厚い音で圧せられることがなく、強大な音でもすみずみまで透き通って聴こえる。
事実、普段聴かれない埋もれてしまうフレーズや主旋律以外の各声部がこの日、実によく聴こえたものだ。

そしてオーケストラのみなさんが、気持ち良さそうに演奏しているのを観ながら、この絶美の音楽を聴くことは、最高のご馳走でした。
石田コンマスを筆頭に弦のみなさんは、体を揺らせながら弾いてらっしゃる。
甘い旋律を奏でる木管やホルン、そんな仲間を見つめる弦のみなさん。
すっかり手の内に入ったこの曲ゆえに、わたくしも、一緒になってこの音楽に入り込み、身も心もラフマニノフと一体化してしまった感があります。

寄せては返すロマンと抒情の波のような第3楽章は、ともかく素晴らしかった。
斎藤さんのクラリネットも楚々・連綿、若々しいサウンドをたっぷりと聴かせてくれました。
随所にあらわれる石田コンマスのソロも曲を引き締め、思わず息を飲むような美しさ。
合わせるのが意外と難しい2楽章の終り方。チェロの山本さんと、石田コンマスとの間で、アイコンタクトがなされたように感じました。
わくわく感がつのり、迎える最後の大団円は、いつもライブでドキドキしてしまう最高の高揚感を味わう個所。
この日も神奈フィルの盛り上がりは最上級の素晴らしさでした。
情熱的に歌い上げる弦楽器、うなりをあげる低弦、金管の高らかな咆哮、木管の全奏、高鳴る打楽器。これでもかというくらいに、盛り上がりました。
定番、「じゃんじゃん」のラフマニノフ・エンディングのばっちりと決まった心地よさ。
思わず、ブラボー献上!

いやぁ、神奈川フィルのラフマニノフ2番は天下一品でございます!!

かくして長かったコンサートは心地よい疲労感とともに、大団円を迎えたのでした。

Umaya

終演後は、土曜日にはお馴染みの「横浜地麦酒~驛の食卓」へ移動。

第1ヴァイオリンの平井さんにもご参加いただき、まだ少し明るいうちからずっと飲み、食べて、そして音楽のことを皆さんで語りました。
ほんとうに楽しく、有意義なひと時を過ごせました。
ここの麦酒は本当に美味しい。
ここで造られたものを、即座に飲める、その高鮮度の味わい。
神奈川県の食材ばかりのお料理も最高。
いつも、Iさんのおかげで、心行くまで楽しめます。
気がついたら、もう終電の心配をする時間ですから、どんだけ。

Minatomirai2

みなさま、今回もお世話になりました。
      

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2013年3月 1日 (金)

ラフマニノフ 交響曲第2番 ラトル指揮

Omurice_keyaki

シンプルかりシュールな面持ちの「オムライス」。

赤いケチャップが官能的なまでに艶を放ち怪しい。

昔ながらのしっかり焼いた卵の下には、少し薄味に調味されたケチャップライス。
玉ねぎがほっこりなくらいのアクセント。

あ~ぁ、美味しかった。

Rachmaninov_sym2_rattle

  ラフマニノフ 交響曲第2番 ホ短調 

   サイモン・ラトル指揮 ロサンゼルス・フィルハーモニック
   
                      (1984.1.@LA ドロシーチャンドラー)


ラフマニノフの交響曲第2番との出会いは、これまでいくつも書いた過去記事の中ではまっtれさんざん触れてます。

ですからシツコイようですが、ここでも簡単に触れます。

プレヴィンとロンドン響が来演し、この曲の完全全曲版をひっさげてきました。
NHKが放送し、おぼろげながらテレビで見たのが1972年。
そして、ずっとあと、81年、FMで、ヤン・クレンツ指揮ケルン放送響のライブを録音した。
これが実にすばらしい演奏で、音源化を熱烈所望したいが、このカセットを冬の侘びしいサラリーマン1年目の一人住まいの部屋で、ホットウィスキーを飲みながら連日聴き、そうしてこの曲についに開眼したものでした。
同時に買ったのが、送ればせながらの、プレヴィン&LSOレコード。
これがもう、いまにいたるまでの刷り込みと化したのは、その演奏のソフィスティケイトされたゴージャスぶりと、プレヴィンの歌い心地の良さ。

その後間もないCD化での初CDは、85年頃に発売のラトルのEMI盤。

録音の横ばかりに広がる縦軸の少ない音はいまだに不満ですが、ロスフィルの明るさと機能性がラトルの俊敏さと大らかさんにぴったりと、はまっていて、わたしには文句ない音盤なのです。
思えば、バーミンガム時代のラトルはゆくところ敵なし、好きにやりほうだいの、恵まれた環境にあった。
そのレパートリーも拡大中ということもあって、好きな作品を、鷹が獲物を狙うがごとく確実に実力を開陳していった時期でした。

ところがベルリンフィルの指揮者となると、独自性は維持しつつも、そのポジションに求められるベートーヴェンやブラームスの全曲を残すという使命。ほかにも天下のベルリンフィルがあるべき演目は外すこちができないので、自由が奪われること必須。
アバドも通った道だし、アバドが切り開いた自由な風潮の恩恵もあるラトル。
ベルリンでのラフ2のライブ音源を聴いたことがありますが、ロスフィルに聴かれる輝きとアップ感はまったくありませんでした。

そんなわけで、いまだにこのラトル&ロスフィル盤が好きなのです。
最後の猛アッチェランドにも、いまだに興奮です。

このラトル後、プレヴィンのRPO盤、ウィーンフィル、オスロフィル、N響のそれぞれFM音源も楽しんでおりますほか、たくさん聴いております。

神奈川フィル応援のサークル・フェイスブックに投稿した記事を、以下貼り付けます。

「ラフマニノフはネクラか? いいえ違います。あ、いや、わかりません」

セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)は、ロシアの世紀末を生き、その後はヨーロッパとアメリカに居住・活動したコスモポリタンです。  作曲としての比重と同等以上に、ピアニストがメインで指揮活動も盛んだったから、学生時代に、スクリャービンとともに作曲家の才能を開花させた人にしては、ラフマニノフの残した作品数は少なめなのです。

交響曲3曲(プラス1)、ピアノ協奏曲4曲+変奏曲、管弦楽作品、室内楽、ピアノ作品多数、オペラ3曲、歌曲多数、合唱曲、と多岐にわたってますが、作品番号あるなしを入れて90曲ぐらいでしょうか。

そしてその多くが短調でなりたっているのです。

「ラフマニノフの短調」、それは見逃すことのできないことでして、ラフマニノフの代名詞のような、憂愁、ロマン、憧れ、郷愁、甘味さ・・・・あらゆるそれ系の言葉に結びつくのですから、これはもうその呼び名は定番といっていいかもです。誰もが知るピアノ協奏曲第2番も当然にハ短調ですがまさにそんなイメージ。

今回演奏される交響曲第2番ホ短調も同じです。

でも短調というと、先のイメージとともに、暗さ、陰鬱、沈滞なども同時に浮かびあがってきますが、ラフマニノフの音楽には、そうした曲もちゃんとあるんですよお客さん。
甘口憂愁派ばかりでない、一方の姿は、救いのない「フランチェゥカ・ダ・リミニ」と「けちな騎士」のオペラ、1番の交響曲、交響詩、室内楽と歌曲などにもふんだんにあらわされております。
ことにオペラは最初から最後まで、暗くて陰湿。そこに甘さを聴くのは至難の技。

想像するに、劇作音楽の場合、その内容にあまりに共感を覚え同質化しすぎてしまう傾向があったのかもしれません。

ラフマニノフは裕福な家に生まれながらも、祖父の作り上げた財産を管理できず破綻させてしまう父親と離縁した母方に育てられ、かなり苦しい家庭環境だったようです。
このトラウマが結集したのが、劇作品の持つ暗さだと思いますし、ときのロシアの持つ社会風潮と、それらを先取りして文学として残したプーシキンの影響もあると思われます。

加えてラフマニノフの立ち位置は、彼自身が私淑し尊敬したチャイコフスキーに代表されるヨーロッピアンミクスのモスクワ派と、5人組の流れをくむロシア国民楽派的な、サンクトペテルブルク派とが対立した時期のあとにあって、両派が中和した時候の存在だったのです。
ロシア革命を境目にしたラフマニノフの活躍時期は、ちょうど、ロシアの世紀末といってもいい時期でした。

王室およびブルジョア階級は迫りくる波を予感しつつ不安な中にも豪奢さを求め、民衆はやがて来る時代に明るさを同じく予感し、力強いロシアの大地と自然を賛美する。

そんな刹那的な世紀末的な流れもロシアにはあった。

そこにぴたりと符合するのが、ことにヨーロッパとロシアの間にあったラフマニノフの存在だったのかもしれません。
世紀末が及ぼした刹那的な切迫感から来る憂愁・甘味がこうしてラフマニノフにも息づいていることをここで確認しました。

一方で、トラウマからくる暗さ、プラスロシアの社会状況からみた暗さもラフマニノフにはあることを述べました。

そしてもうひとつ、「死」ないしは、「終末」へのこだわり。   有名な引用例では、ベルリオーズの幻想交響曲の終楽章。
そのグレゴリオ聖歌の「ディエス・イレ」~「怒りの日」への異常なまでの執念。
自身の作品で、この旋律が登場するのは、交響曲第1番、パガニーニの主題による変奏曲。交響的舞曲、交響合唱曲「鐘」、合唱曲「晩祷」などがあげられます。

なぜにこんなに・・・・、そもそも「怒りの日」とは、キリスト教思想でいうところの、天と地との選別が行われる、最後の日ともいうべきものです。

まさに、天に選ばれ生きながらえる人と、地獄行きのレッテルを張られ業火にさいなまれる人が、その最後の日に選別されるという終末思想なのです。

そのモティーフを愛し多用したラフマニノフの心情は・・・・。

これらの引用は、ロシア亡命の前後にわたって登場してますので、故国のことよりは、やはりラフマニノフ本人の人生観が反映された諸所にわたる引用なのでしょう。

これら引用作品の必ずクライマックスないしはエンディングで登場するこの旋律。

死を恐れ、一方で死による解決、すなわち終末を待ちわびる様相をラフマニノフ作品において思いめぐらすことは、甘いだけじゃない、暗いだけじゃない、ラフマニノフの姿を理解するうえでポイントかもしれません。

交響曲第2番は、1番が壊滅的失敗と思いこみ、神経衰弱に陥ってしまったラフマニノフの復活ともいえる大成功作品。
57~8分を要する完全全曲版が、いまの定番。
しかし、今回、神奈川フィルの演奏会では、カット版が演奏され、その演奏時間も45~7分くらいに短縮されると思われます。

プレヴィンが見出し、復活したこの交響曲は、いまや人気曲ですが、完全版しか聴けなくなったなかで、1楽章の繰り返しは当然にわかるにしても、どこが略されているかをも楽しみに聴いてみたいのです。

本来なら完全版なのでしょうが、当夜は前半もなかなか充実の長さなので、やむなしといったところでしょうか。

神奈川フィルで聴きたい曲の最右翼にあるラフマニノフ2番。   連綿たる第3楽章の泣きのクラリネットも楽しみですが、1楽章の感傷的な第2主題、2楽章のリズムあふれる乗りのよさと中間部の甘さ、そして歓喜と憂いが交差しつつ盛り上がる大フィナーレ

ライブで聴くと感動もひとしお、神奈フィルを楽しみましょう。

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