ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 シュタイン指揮
梅と桜が一緒にやってきてしまった、今年の春の始まり。
盛りは過ぎましたが、まだいい香りを放って咲いている紅梅でした。
5色に編まれた綱には願い事が書かれておりました。
ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」
トリスタン:ハンス・バイラー イゾルデ:イングリッド・ビョーナー
マルケ王:ヴァルター・クレッペル クルヴェナール:オットー・ヴィーナー
ブランゲーネ:ルート・ヘッセ メロート:ハンス・ブラウン
若い水夫:エヴァルト・アイヒベルガー 牧人:ハラルト・プレークロフ
舵手:ペーター・クライン
ホルスト・シュタイン指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
(1970 @ウィーン)
ワーグナーの音楽をその作曲順にたどれば、前回の「ローエングリン」のあとは、「ラインの黄金」でして、ワーグナーは、その創作をいくつも併行しながら進めていて、ワーグナーの音楽を体験してゆくにつけ、劇作ごとの際立った個性を同時に造り上げていく才能に驚くほかはありません。
ご存知のとおり、「リング」の構想は、早くからあたためられていて、自身が編んだ台本も、ジークフリートの死から始まり、それだけでは背景が描ききれず、説明不足として、「リング」の物語をさかのぼるようにして「ラインの黄金」に行きつきました。
その構想は、タンホイザーやローエングリンと同時に進行し、作曲は「ローエングリン」後、一気に「ジークフリート」の2幕まで進行しましたが、さらに驚くべきは、「リング」創作と同時に、「トリスタン」と「マイスタージンガー」の構想も同時進行していて、それらの仕上げのため、そして「リング」がでか過ぎてその上演が難しいとの思いで中断したのです。
何度も書きますが、オペラの形式の因習から脱し、ドラマムジークとして、劇も音楽と対等に存在するという考えが確立したのが「ローエングリン」以降。
「ラインの黄金」と「ワルキューレ」への飛躍は極めて大きいのです。
そんな経緯を頭にいれて、「ローエングリン」→「ラインの黄金」と、「ジークフリート」2幕→「トリスタン」と聴いてみることをお勧めします。
非ハッピーエンドで、誰も幸せになれなかった休止のあとに、原初的なラインの「自然の生成」を聴くのは、トリスタンの半音階を聴くよりは妙に自然に思えたりします。
それと、「ジークフリート」の明るいハッピーエンドを予見させる小鳥との希望のやりとりは、そのまま「憧れ」や「恋焦がれる」トリスタン心情につながるものです。
音楽の革新性につきましては、これまで散々触れてますし、また次の「トリスタン」記事のときに触れたいと思います。
今回は、原作となったケルト神話に発し、中世フランスにおける悲恋物語をここに紹介したいと思います。
「コルニアイユの騎士トリスタンは、伯父マルク王と国の平和のため、黄金の髪の持ち主イズーを、荒波のもと伯父のもとへ運ぶ船中にありました。
思えば、トリスタンに跡目を継がせようという王の意志に反した有力廷臣たちが、王自身が妻を娶り子孫をはぐくむべしと主張し、譲らなかったため。
王は、二羽のツバメが運んできた黄金色の髪を持つ女性なら、とその場を取り繕い、国の平和のためと、察したトリスタンが、自分が探しましょうと名乗り出たことによります。
トリスタンは、遠路、心当たりのイズーを求め探しあて、海路に乗りだしますが、かたやイズーは穏やかではありません。
かつて、漂流し瀕死の状態で、そして怪竜退治のあと英雄と称されながら大怪我を追って、その2度ともに、母譲りの秘薬と看護でもってその命を救ったイズーだったのでした。
しかも、その刀のこぼれ目から、伯父の敵と知りながら・・・・。
マルク王へのもとへと向かう船中、トリスタンはイズーへと挨拶に来るが、イズーは心中怒りながら、下女に、なにか施しものを、と命じますが、下女は知らずに葡萄酒として二人にさし出し、ふたりは盃を飲みほしてしまいます。
そこへ飛び込んできたのが、イズーの付き人フランジェン。ええーー、イズーの母から言付かったのは、マルク王と永遠に愛しあうことのできる秘薬であったのです。
ボタンの掛け違えが生んだ悲劇がここから始まります。
マルク王のもとに嫁いだものの、フランジェンの手引きで、毎夜偲びあう二人。
かつての奸廷臣たちは、怪しい小人を使い、二人の逢引をさぐり、王に現場を見せつけます。
怒った王は、二人を捕縛し、火刑に処します。
しかし、トリスタンは崖から飛び降り命を絶ったとの報。
さらに怒った王は、イズーを単なる火刑ではなく、らい病患者の集団の慰みものに引き渡してしまう。
苦しみの山中、彼女を救ったのは、自決を装ったトリスタンと忠臣ゴルヴナル。
ふたりは、人知れぬ森へ逃げ込み、1年間の愛の逃避行を過ごすが、やがて、マルク王の慈悲と悔い改めの機会が与えられ、イズーは許され王妃として復帰、トリスタンは諸国行脚の追放の旅に出る。
2年のゴルヴナルとの放浪。ブルターニュ国で国を救う英雄となり王子の妹、しかも、その名も白い手のイズーと結婚することとなります。
英雄と讃えられる日々ながら、妻には心を許さないトリスタンは、かつて恐竜と闘い勝利したときに条件として、妻を娶っても抱擁することはない、との誓いをしたのだ、と白い手のイズーに嘘を言ってしまいます。
その後、ブルターニュのために獅子奮迅の闘いをしますが、あるとき瀕死の重傷を負い、兄王子に、もう長くはないことと、かつてのイズーこそが私を治せると話します。
兄弟として、親友として秘密は守るので、絶対に彼女を連れてくると約す兄の言葉を盗み聴きしてしまった白い手のイズー。
癒し人イズーを連れて帰ってきたときは、帆に白い旗を。
そうでないときは、黒い旗を・・・・・、男二人の約束を盗み聞き、嫉妬に燃える白い手のイズー。
毎日、海辺の塔で船を待ちわびるトリスタンは、日に日に衰弱していきます。
あなたのお医者様を乗せてやってくる船、とトリスタンを安心させる白い手のイズー。
ある日、ついに船が、猛烈な勢いでやってきました。
もう確認の体力もないトリスタンは、白い手のイズーに旗の色を尋ねますが、彼女は、無情にも「白」を、「真っ黒」と宣言し、絶望したトリスタンは憐れ、息を絶つのでした。
折りからの弔鐘に、凄まじい勢いで船をおり、トリスタンのもとへ向かうイズー。
「奥方様、そこを離れてください。この方の死を心から悼むのは、あなたではなくわたくしです」と神々しく言い放ち、気の毒な白い手のイズーは、その場を泣きながら離れます。
イズーは、トリスタンの亡きがらに涙ながらに抱きつき、やっと二人にきりになりました・・・・と静かに、後を追いその命を引きとるのでした・・・・・・・。」
ちょっと長かったですが、ワーグナーの書いた「トリスタンとイゾルデ」とは少し違います。
でも、最後の場面は、「神々の黄昏」のブリュンヒルデに似てます。
表面的には、マルケ王はこんなに嫉妬深くなかったし、周囲もこんなにワルじゃなかった。
恋薬の媚薬は、マルケのためにあったのでなく、最悪を用意して残された媚薬で、それは死と隣り合わせだった。
トリスタンの彷徨や別のイズーとの結婚もなし。
でも、ここに共通項としてあるのは、「愛の苦しみ」。
喜びの愛ではなくて、悲しみの喜び。
白日の昼に嫌悪し、夜の帳を待ち望む真実で偽りの喜び。
・・・・こんな言葉が、2幕の官能的な二重唱では延々と歌われます。
原作のなかで、イズーの母親が、この薬を待女に調合するときに語ります。
「この秘薬を飲んだものは、身も心もひとつ、生きているかぎり、いや、死んだあとも永遠に愛し合って離れることはできない・・・・」
げに恐ろしきは、その秘薬。
私は・・・、いりません。
さて、本日の音源は、ホルスト・シュタインが70年に、ウィーンで指揮した上演のライブ録音。
N響3人衆をこれで、作品順に並べたことになります。
N響の指揮者選定の目利きは、もちろん先行した音楽家の情報や推薦もあったのだと思います。
カイルベルト→シュヒター→マタチッチ→サヴァリッシュ→ワルベルク→スゥイトナー→シュタイン→ライトナー→ブロムシュテット・・・・・・。
ドイツのオペラハウス叩きあげの名人ばかりの系譜。
シュタインの思い出は、語り尽くせませんが、残念だったのは、シュタインが日本で一度もオーケストラ・ピットに入ることがなかったこと。
ハンブルクやベルリン、ウィーンのオペラの常連として重宝され、やがてバイロイトで、音楽監督的な存在にもなったシュタイン。
思いのほか器用で、フランスものやロシアものも上手く指揮したシュタイン。
日本を亡くなるまで愛してくれたシュタインです。
最後の公演となった、N響での「パルシファル」第3幕をいまでも覚えております。
指揮棒をほとんど動かさなくなって、早めの力感ある音楽運びが信条だったのに、クナッパーツブッシュばりの長大な揺るぎないテンポに終始した感動的な演奏。
割れんばかりの拍手に、思わす泣いてしまったマエストロ。
あの時の映像は今でも宝ものです。
こちら70年の緊張感と覇気にあふれた演奏は、かなり劇的です。
この頃、グルダとのベートーヴェン全集を録音するのですが、あの時の緻密でありながら迫力あるウィーンフィルサウンドはフロックではなかった。
モノラルのイマイチサウンドから、その片鱗は充分すぎるくらいに聴いてとれます。
オペラの指揮とは、こういうものだろ、的な理想です。
歌手がもたもたしてるところも、ちゃんとオケが帳尻を合わせたりしてます。
この音源の魅力はもうひとつ。
長命を誇った、ハンス・バイラーの輝かしいトリスタンです。
CD表紙のオジサンですが、1911年ウィーン生まれ、録音時59歳。
歳を感じさせない力強さと、馬力、スタミナの素晴らしさ。
そして、嬉しいのは、ワーグナーに必須のほの暗さを保った高貴な声質。
バイラーの音源は、ジークフリートやパルシファルも持ってますが、いずれも悪くない。
悪いイメージは、ウィーンで長く歌いすぎて、ルーティン化したことと、ちょうどヘルデンテノール払底の時期にあたり、元気すぎたバイラーが無理でもジークフリートなどを歌わざるをえなかったこと・・・。
いまでも残る逸話。「神々の黄昏」で、歌詞を忘れがちになってしまったバイラーに業を煮やした指揮者が、歌いながら指揮をし、おまけにプロンクターよろしく、「飲めよグンター!」と、見事なテナーを聴かせてしまった。
あきらかなピットからの歌声が、劇場に響き渡ってしまい、観衆の失笑と大ブーイングを買ってしまった・・・・・・、その時の指揮者が素晴らしいテノールのシュタインです!
雑誌で読んだ、忘れえぬ逸話です!
ミュンヘンで活躍したビョーナーは、正式な音源がないのがもったいないくらいの美しい歌唱。
ルート・ヘッセの生真面目なくらいに硬いブランゲーネもよいですし、ヴィーナーもこれならいいと思いますが、ほかの歌手がちょっと。。。。。
シュタインのトリスタンは、ニルソンとの76年盤、同じニルソンでブエノスアイレス盤がありますが、未入手です。
あと、自家製CDRで、スイスロマンドとのジュネーブ劇場盤も持ってます。
こうした非正規をふくめ、ワーグナー全作を聴けるのもシュタインならでは。
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コメント
ホルスト・シュタイン。一見すると火星人のようですが、一度指揮をするや聖人のように見える。
妻とウィーン国立歌劇場でタンホイザーを聴いたとき。ホルスト・シュタインの指揮の演奏でした。指揮台に登場するといつもクールなウィーンの聴衆がほとんど全員総立ちで10分以上ものすごい拍手で迎えました。演奏前にこのような大拍手を見た経験のない私にはオドロキでした。とにかく信じられないほどの人気だったのです。演奏のすばらしさは言うに及ばず。
1970年のトリスタンか!しかもホルストシュタインの指揮なら観客は熱狂していたに違いない。聴いてみたい!
さまよえる様は罪です。この入手困難な音源を聴いてみたくさせるこのブログ!治安維持法で取り締まって欲しい。本日、部屋のかたずけをしていて、娘に「もうレコード買ったらダメ!」って叱られたばっかりなんです^^;
投稿: モナコ命 | 2013年3月22日 (金) 23時08分
モナコ命さん、こんにちは。
ウィーンでシュタインのタンホイザー!!
なんとまぁ、羨ましく、素晴らしい体験をされてらっしゃる。ウィーンでは、そんなに人気だったんですね。
日本ではオペラを振ることがなかったのがとても残念ですが、こうして音源や映像もまだ出てくると思うと嬉しいです。
望みは、バイロイトでのリングです。
しかし、どうかこんなワタクシを取り締まらないでください。逮捕されたら好きな音楽が聴けなくなってしまいます。これからはほどほどにいたしますゆえ・・・。
レコード・CDは、持ってないと我慢できなくなっちゃうんですよね。悲しいサガです。
投稿: yokochan | 2013年3月23日 (土) 17時17分
N響との競演でテレビでも馴染みのあるホルスト・シュタイン氏ですが、日本での人気はイマイチだと、何かで読んだ気がします。素晴らしいマエストロなのに残念だなぁと思っていたら、本場ウィーンでそんなに愛されていた事に胸が熱くなりました。 もっと評価されて良いという感想も書かれていたと思います。 あの風貌も愛嬌があって、私は結構好きでした…。 モナコ命様もよこちゃん様も、世の父親同様に娘さんには非常に弱いとお見受けしました。可愛いわぁ( ̄ー+ ̄)
投稿: ONE ON ONE | 2013年3月25日 (月) 19時12分
ONE ON ONEさん、こんばんは。
シュタインは、1973年の初来日時のテレビ放送からずっと観て聴いてきました。
ワーグナー好きとしては当然のことで、好きな指揮者のひとりでした。
そのワーグナー指揮者というイメージが強すぎたのも、人気がいまひとつだった要因かもしれませんし、サヴァリッシュやスウィトナーのようにレコードがあまり発売されなかったのも大きな要因でしょうね。
器用な人でしたので、ロシア・北欧ものが上手かったです。チャイコフスキーの5番など、是非復活して欲しい演奏がかなりあります。
ウィーンで聴かれたモナコ命さんがほんと羨ましいです。
我が家では、親父と娘は仲がいいのでして、週末はいつも一緒に晩酌を楽しんでますよ(笑)
子離れできません・・・・
投稿: yokochan | 2013年3月25日 (月) 21時16分
あれだけ卓越したオペラ指揮者、ワーグナーの名解釈者でありながら、正規の商業録音でオペラ全曲録音が見当たらないのも、不思議かつ残念なのが、ホルスト・シュタイン様です。マネージメント会社へのコネ作り、それに類する政治力をお持ちでは、無かったのでしょうね。
投稿: 覆面吾郎 | 2020年4月 3日 (金) 06時37分
やはり、華やかなオーケストラのポストがスイスロマンドとバンベルクだけであったこともオペラ録音に結びつかなかったのかもしれません。
デッカはショルテイ、EMIはサヴァリッシュとカラヤンでワーグナーを録音してましたから、ほんとはDGあたりが・・・・
投稿: yokochan | 2020年4月 8日 (水) 08時07分