チャイコフスキー 交響曲第2番「小ロシア」 アバド指揮
何年か前の3月の終わりごろの、北海道の大沼あたり。
この時は、もう氷も解けだして、雪も少なめでしたが、今年はきっとこんなもんじゃないでしょう。
桜も満開なのに、一進一退の関東の春。
厳しかった北国にも確実に春は向かってます。
チャイコフスキー 交響曲第2番 ハ短調 「小ロシア」
クラウディオ・アバド指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
(1968.2.20 @ロンドン)
何気に、チャイコフスキーの交響曲のシリーズを始めてます。
大好きな1番を、去る冬を惜しんでフレッシュなティルソン・トーマスの演奏で聴きました。
2番は、敬愛するアバドの初期の頃の演奏で。
第1番より6年後、ウクライナ民謡をふんだんに取り入れ、それを交響曲の枠組みにしっかり落とし込んだ作品として発表された第2番。
大成功を勝ち取り、国民楽派の重鎮からも絶賛を浴びました。
1番ものちに、改訂を施しましたが、この2番も、時期でいえば4番のあとぐらい、1879年に大幅な書き直しを含む改訂が処せられ、現在もっとも演奏される版が出来上がりました。
フランス音楽への傾倒を含む西欧化の自身の流れもあっての見直しだったようですが、しかし、チャイコフスキーの交響曲の中では最も土着性が高く、先輩諸氏も気にいったとおりのロシア民族・国民楽派の面影をもっとも感じさせる音楽となっております。
実は、マンフレッドを含む7つの交響曲の中で、実は一番苦手な作品でして、当ブログでも今回が初登場なんです。
前半3つの交響曲の中では、一番最初に聴いたのがこの2番でして、FM音源で初聴きした演奏は誰のものかもう忘れてしまいましたが、どうもなじめず、むしろ後に体験した1番や3番の方を好むようになりました。
軽めで、メランコリーもちょっと不足と感じ、軽薄すぎる終楽章もどうも・・・・。
と、いうような感じで、その思いはいまもあまり変わりませんが、アバドによる初回の演奏と、そのあとのシカゴとの再録音につきましては、ハイティンクとマリナーとともに、唯一好んで聴く演奏となってます。
なかでも、アバドの若き日の演奏は、アバドの音楽の記録としても当時の彼の音楽性がにじみ出た素敵で、貴重な音盤だと思うのです。
いまでこそ、その演奏家の出自から、その音楽の適正を判断してしまうことはあり得ない評価となってますが、この演奏が出たころやわたくしが音楽聴き始めのころ、すなわち、60年代最後半から70年代は、ドイツ音楽はドイツ人、フランス、イタリアはさもありなん・・的なお国もののレッテル貼りはあたり前でした。
若いイタリア出身の指揮者が、チャイコフスキーの地方色豊かな交響曲を指揮すれば、明るく歌いまくる的な評価しか得られなくて、ベートーヴェンやブラームスもまったく同様のことしか言われませんでした。
アバド好きとしては、そんな言われ方はまったく面白くなくて、意地でもアバドばかりを聴き通す毎日が中高大時代でした。
確かに、民謡を主体として変奏しつつも大いに盛り上がってゆく終楽章は、底抜けに明るい曲だし、アバドのこの演奏もそうした側面を見事にとらえて開放的な演奏を繰りひろげますが、若き日々でもアバドは、こんな能天気的な明るさを見せながらも、ほかの楽章にある憂愁サウンドや、リズム感あふれる舞踏的な場面なども色鮮やかに描きわけているのです。
まさに天性のオペラ指揮者であるかのような、水際立った手腕でもって、歌のツボをしっかり押さえ、たくみに各楽章ごとに盛り上げていって、最後の楽天的なエンディングを導きだしています。
後年のシカゴ響との再録では、そのあたりはもっと見事なのですが、アバド36歳のニュー・フィルハモニアとの録音では、アバドの新鮮さと、オーケストラの無垢なニュートラルぶりがとてもよくマッチして、二度とあり得ない演奏を造り出しているのです。
そして、アバド盤の素晴らしさは、あっけらかんとした終楽章にも、アバドらしい冷静さを伺えるとともに、何と言っても、この曲の魅力であるロシアの抒情にあふれた、それはファンタジックな1番にも通じる第1楽章の演奏が、旋律美とリズム感にあふれまくっていて、とても素晴らしいと感じさせるからなのです。
いやはや、寒かった本日、アバドのこの演奏を今日は4回も聴いてしまいました。
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