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2013年4月

2013年4月30日 (火)

シューベルト 交響曲第8番「未完成」 ブリテン指揮

1

都内某所にて、ヤマツツジ。

どこにもあるけれど、よく見ればびっしり咲いた小ぶりの花が美しい。

新緑と青い空に合います。

今日の都内は、ふだんの7割ぐらいでしょうか。

月末だったこともあり、次の連休に備えて銀行は行列でした。

わたくしは平常運転中。

Mozart_schubert_britten

  シューベルト 交響曲第8番「未完成」

   ベンジャミン・ブリテン指揮 イギリス室内管弦楽団

     (1970.スネイプ・モールティングス、サフォーク州オールドバラ)


今年、生誕100年のブリテンは、英国の大作曲家として名を残しておりますが、一方で、指揮者として、ピアニストとしても超一流の存在でした。

自作の初演やレコーディングは当然として、バロックから同時代の作曲家までの音楽を盛んに指揮して、それも録音に残しました。
ピアニストとしては、気心の知れた仲間の伴奏ということで、室内楽や歌曲の伴奏などで、こちらも録音が残されてます。

こうした録音が残された背景は、自身が開設したオールドバラ音楽祭があったことが大きくて、そこで自作のみならず、数々の先輩・同世代作品を自ら指揮し、ピアノ伴奏もし、ということで、まさにブリテン音楽祭が生み出した賜物なのです。

今日は、それらの中から、「未完成」を。
「ブリテンの未完成」なんていうと、ちょっとキワモノっぽく思われてしまいそうですが、ところがどうしてどうして、きりっと美しいロマン派ならでは息吹きを感じる魅力的な演奏なのです。
全曲25分の標準テンポで、いつもさわやかなイギリス室内管弦楽団を隅々まで鳴らしていて、妙に暗かったり、立ち止まったりすることなく、ともかくオーケストラの響かせ方が気持ちがよい。

奏法にこだわったり、時代考証に走ることもなく、ここに聴かれるのはシューベルトの美しい自然な歌だけ。
こんなに普通で、てらいの感じさせないナチュラル未完成は今ではちょっとないかも。

40年以上経過しているものの、録音がまたホールの響きをうまく捉えていて素晴らしい。
この時代、室内管弦楽団によるロマン派の演奏というのはあまりなかったが、そのまさに室内楽的ともいえる透明感とすっきり感もよく捉えられています。

併録の「プラハ」交響曲も、実に清々しく、胸のすくような演奏です。

いまよくよく見たら、ブリテンと私の誕生日は1日違い。
なんだか嬉しい。
でも、ワタクシは、あっちの方はまったく毛嫌いするほどですぞ。
そっちはワタクシが普通です。
あっちだか、こっちだか、そっちだか、わけわからないけれど(?)
普通が一番!

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2013年4月29日 (月)

無題 大ブレイクについて

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家の近くに咲いた、「雪柳」。

たわわに咲き、柳のようにしだれた趣きと、白い花とが青空に映えて、とても美しいのでした。

Nhk3

わたくしも鑑賞しました、去る2月25日の東京芸術劇場での、佐村河内守、交響曲第1番「HIROSHIMA」。

NHKで全曲放送がされました。

本放送を見逃し、録画にも失敗するという大失態をおかしましたが、ありがたいことに、オンデマンド放送にて、本日パソコンを通じての視聴がかないました。

ホールのライブ感と、音圧とエモーショナルなまでの空気感は、さすがに実演のあの場には敵いませんでしたが、、この場面はオーケストラの奏者がこんなふうに演奏している、あの大音響や、感動的な旋律はこのように奏でられている、さらに指揮者大友さんは、このように振り分けている・・・・・、そんな風な思いが目の当たりにできる喜び。

いつもCD音源で聴いてるこの大作が、また親しく近くに、感動的に響きました。

佐村河内さんのことは、先日、民放でも、しかもスマップが仕切る番組「金スマ」でも、再現ドラマ仕立てで特集が組まれました。
そして、サモンプロモーションが大規模な全国ツアーを企画。
しかも指揮者は、ある意味人気指揮者の金聖響。

こうした一連の急ともいえる動静に不安を覚えるのも事実です。

わたくしなどより、ずっと前から、佐村河内さんの音楽に着目して聴き続けてきた方々は、わたくしよりもっと多くそんな感情をお持ちなのではないでしょうか。

いろんなレッテルが上書きされ、さらに氏の身体的苦難や、厳しい苦行ともいえる人生ばかりが先行し、肝心のその音楽は後回し。
しかも、たしかに感動的で聴きどころの最終局面のみをこれでもかとばかりに・・・。

しかし、こうして、この作曲家、この音楽に興味を抱いていただいた方々が、ますます増えていくこと、そしてもしかしたら、クラシックのコンサートに足を運ぶようになること。
そんな流れは、とても喜ばしくうれしく思います。

ですからこそ、佐村河内さんの音楽を、交響曲第1番を、色眼鏡を外して、自分の耳で、心で、しっかりと聴いていただきたいと思います。
長い作品ですから、最後の感動の輝きまでは、最初は苦痛に思われるでしょう。
しかし、その道のりをしっかりと聴くこと、すなわち、苦しみを受け入れ、同感することで、この音楽への共感が大いに増します。
佐村河内さんの気持ちはそんなところにあるのではないでしょうか。

「暗闇の先に見える小さな光」を受け止めることができるような聴き方をしていただきたいと思います。
そして無用に、騒ぎ立てることなく、粛々と聴いていただきたいです。

今後の作曲活動にも静かに期待したいです。

ですから、いま思いはそれだけです。

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2013年4月28日 (日)

神奈川フィル監修本 発刊!

Kanapfill_1

存続の目途が立ち、ますます波に乗る神奈川フィルハーモニー。

今度は、オーケストラが監修したクラシック音楽本、「神奈川フィルの名曲案内」が発刊されることとなりました。

普通あるクラシック音楽のすすめ系の本とは一味違います。

入門者にも、お子様にも、そこそこ聴いてきたという方にも、楽しい内容になっているそうです。

そしてなにより、神奈川フィルをいつも聴いてる私たちにもうれしい記事が一杯。

ますます、楽員さんや、オーケストラが身近に感じられるようになると思います。

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ありそうでなかった、オーケストラ監修の本。

神奈川フィルのファンの方々にも、そしてまだ聴いたことのない県内・近県の皆さんにも、さらに神奈川フィルがやってきた各地の学校の生徒さんにも。

是非、手にとっていただきたいです。

きっと、神奈川フィルを聴きにホールに行きたくなりますよ。

こんなにフレンドリーで、近くに感じられるオーケストラは、ちょっとないですからね。

 そうそう、金スマで特集もされ、全曲演奏も放映された、佐村河内交響曲。

神奈川フィルの演奏は、7月21日みなとみらい、来年4月25日静岡。
そして、来年4月27日は、サントリーホールに登場します。

サントリーホールへの神奈川フィル登場は、自分としてはかなり楽しみです。

5月中の発売予定の「神奈川フィルの名曲案内」。お楽しみに

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2013年4月27日 (土)

神奈川フィルハーモニー第289回定期演奏会 金 聖響指揮

Minatomirai20130426

日もだいぶ延びまして、ご覧のとおり、6:23、みなとみらいは薄暮です。

ぎりぎり飛び込みのいつもより、30分早い到着の神奈川フィル定期公演。

何故って、シーズン開幕の本日、ロビーコンサートが復活したのですから。

 ボッケリーニ 弦楽五重奏曲ハ長調G349より
   
  

  Vn:青木るね、鈴木浩司 Vla:高野多子 Vc:山元裕康、長南牧人


コンサート開始前の耳ほぐし。
ボッケリーニのギャラントな音楽に、今宵、耳に厳しい近現代曲を聴く前の準備が整いました。

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  ブーレーズ       「ノタシオン」 Ⅰ、Ⅳ、Ⅲ、Ⅱ

  ストラヴィンスキー  バレエ組曲「火の鳥」

                バレエ音楽「春の祭典」

    金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

            (2013.4.26 @みなとみらいホール)


ストラヴィンスキーの音楽をずっと演奏し続けてきたブーレーズ。
それがキーワードになるような、巧みな演目。
88歳の作曲家兼指揮者のピエール・ブーレーズは、いまだに現役。
指揮棒なし、ポーカーフェイス、手のひらで切れ味鋭く、精緻で、ダイナミックな音楽を巧まずして導きだす大巨匠。

格が違うといえば、あまりにも違いすぎるのですが、聖響さん、意欲的なプログラムに果敢に取り組んだはいいが、これらの音楽に必須の鋭利な鋭さと見通しのよさがどうにも欠けていたように思えました。

同じように、指揮棒なし、ニュアンス豊かに、拍子もきめ細やかに取ろうということでしょうか、棒なし聖響さんは久しぶりでした。
だけどかえって、それが打点の不明瞭さを生んでしまったように思います。(ただでさえ・・・)

ブーレーズの指揮者としてのすごさは、その類まれなる集中力と音符の分析力です。
ノタシオンのオーケストラ化構想は、1976年バイロイトでのリング指揮の年になされたとプログラムにありました。
その年のリングのFM放送は、いまでも覚えてますが、ものすごいブーイングで、準備不足のブーレーズに対するオーケストラの抗議も激しく、練習中、違う曲を弾いたりしてもスコアに首を突っ込んだまま気がつかない指揮者を揶揄したりする記事を読んだものです。
しかし、翌年、ブーレーズは、14時間に及ぶリングを完璧に把握し、自分のものとして再度登場し、聴衆も、オケも完全制圧してしまったのでした。

この日は、そんなブーレーズのことを思い出しながら聴いたコンサートなのでしたが、一番おもしろかったのは、ノタシオン。
縦の長い指揮台からはみ出すスコア、すなわち、超大編成、ステージ、ピッチピチのオーケストラが綾なす色彩的な音色の配列を体いっぱいに感じ取ることができました。
聖響さん、これは正解。
神奈川フィルのいつもの美音としなやかさも、冒頭から炸裂状態。
盛り上がるⅡのハルサイにも通じるリズミカルな展開は、ほんと面白くて、楽員さんも体で拍子をとってまして、こちらも見ていてノリノリ。
終れば、驚きの間髪いれずの大ブラボー。
ナイスでしたよ、「ノタシオン」。

前半のこの曲が大編成だったので、パーカッションが左右に二分したままで開始された「火の鳥」。
そこがステレオ的にちょっと違和感があったけれど、この日のパーカッションは主役でした。
このオーケストラを卒業されるベテラン重田先生の完璧極まりないマリンバ。
おなじみの味わい深い平田さん。
そして驚きは、ゲストティンパニストの神戸光徳さん。
若いこの方、イスラエル・フィルのティンパニ奏者なのです!!
ブーレーズの曲でも活躍してましたが、最後の「春の祭典」では、まるでティンパニ協奏曲かと思うような鮮やかかつ目覚ましい突出ぶり。いや、技量もさることながら、オケに巧みに溶け込みつつの神奈フィルの音色に親和したかのような艶やかさも併せ持った音色。
ともかくびっくり、すごかった。

「火の鳥」に話を戻すと、冒頭の低弦の着実さと明晰さは、いきなり、ロシアのストラヴィンスキーのまがまがしさに引き込まれる集中力高いもの。
緊張感も聴いててビンビンきました。
火の鳥の踊り、カッチェイ王の魔の踊りでは、ちょっと失速ぎみで、これはメリハリ不足の指揮台の方にもっと奮起して欲しかった。
しかし、静かな場面、ロンドと子守唄での美演はちょっと言葉にできないものがありました。
各主席の、とりわけ山本さんのチェロが引き締める歌と艶にあふれた音色は今宵も素晴らしいものでした。
それと終曲の感動的な盛り上がり、ホルンの森さんから始まる大団円。
ここでもキレの悪さ、妙なテヌート感はありましたが、オーケストラの自発的な輝きがおのずとこの素晴らしいストラヴィンスキーの音楽に息を吹き込むようで、じわじわ盛り上がる感動は並大抵のものではなかったです。
神奈川フィルの存続、ほぼ決定という事実も思い描きながら、楽員さんたちを見渡しながら聴くこの最終場面には、ほとほと感激しました。

後半は、わたくし得意の「春の祭典」。
もうお付き合いして40年になります。
血肉と化したこの曲、どこもかしこも好きなのですが、やはり若い感性でバリバリ、ガンガンごんごんとやっていただいて、人間の心に潜むバーバリステックな感性を解き放って欲しいと思いますが、アバドやトーマス、サロネンのようなかっこいい系の演奏が好み。
そういう点で、神奈川フィルというオーケストラは独自の煌めく細身の音色を持っていますので、この駿馬を巧みに乗りこなせば、スリムでスポーティーな「ハルサイ」が生まれるはずなのです。
このオーケストラで、この曲を聴くという思いも叶い、予測した結果はほぼ達成されました。
絶叫することのないフォルテ、シャイなほどのミステリアス感。
ホールに残響を残す鮮やかすぎるブラスセクション。
さきのティンパニ氏を中心とするパーカッションセクションの胸のすく超怪演。
レンジの広い楽器が上から下まで勢ぞろいの木管群のいつもの皆さんの伸びのよい、明るい音色。ことにファゴット氏、決めてましたよ、冒頭部分。
そして鉄壁の弦楽器。ハルサイでヴァイオリンソロの部分があって、あんなによく聴こえるなんで驚き。
透明感があるということは、オーケストラの団結力のよさだと思いますし、各主席を元にまとまっていて、また主席の皆さんも他セクションの方々と巧みにコンタクトしながら演奏しているのがわれわれ聴衆から見てとれるんです。
こんな光景を耳で聴きながらも眼で確かめられるのが神奈川フィルの音楽会。
指揮者のうしろ姿ばかりを見てなくて、オーケストラの全部をあっちこっち拝見しながら聴くのが神奈川フィルの音楽会の流儀。
それもこれも何故だかいまの指揮者のおかげ。

というわけで、わたくしの若いかっこいい、小俣の切れ上がったようなハルサイではなかったけれど、一面、神奈川フィルのハルサイでもありました。
思い切って、先だって聴いた川瀬クンのような若気の至り的な兄さんの指揮で聴いてみたかった神奈フィルのハルサイでした。

演奏終了後、重田さんの卒業セレモニーがありまして、会場が暖かい雰囲気と、そして笑顔につつまれました。
賞状を読み上げる石田コンマス。どこまでが賞状のとおりだか(笑)。
みんなに愛された重田先生。お疲れさまでした。
そのほのぼのムードのまま、ホワイエでは、新シーズン開幕と存続決定の発表の乾杯式がございました。
横浜発祥のキリンビールさんの提供によります麦酒にて、すこぶる気分よろしいコンサートの終了でございました。

ですが、まだ終わりじゃありません、ワタクシたちも。

こんなの食べて。

Seiryumon_1

麦酒と紹興酒を飲んで。

また、お疲れのところ、楽員さんにもおいでいだき、こんなのもおいしくいただきました。

Seiryumon_2

いつも思うけど、このエビマヨ、おいしい!

Seiryumon_3

いつも思うけど、このあとの写真がない。

そう、飲むのと、神奈川フィルが大好きな仲間と話すのが忙しするもんで。

オーケストラのみなさん、楽団のみなさん、そして聴衆のわれわれ、お疲れ様でした。

今シーズンもよろしくお願いいたします。

)神奈川フィル監修の本が、近日発売されます。
この記事はまた次に起こしたいと思います。
これもまたナイスでしょ!

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2013年4月25日 (木)

ストラヴィンスキー 「春の祭典」 ティルソン・トーマス指揮

Hirayama_6

千葉市の平山薬師です。

御利益多方面、ありがたきにゃんにゃんも手招き。

ほっとする場所です。

でも神様多すぎ。年中お祭り状態。

今日もハルサイ。

Mtt_stravinsky

ギラリ、じろじろ、ちょっとおっかないジャケットでした。

  ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」

   マイケル・ティルソン・トーマス指揮 ボストン交響楽団

                     (1972.1 @ボストン)


わたくしにとって懐かしい「ハルサイ」の1枚。

RCAからDGに、ボストン響の録音主体が移行し、DGはほぼ初のアメリカ録音に嬉々として、首席のスタインバーグとの「惑星」や、アバドとのフランスもの、ロシアもの、ティルソン・トーマスとの「冬の日の幻想」、ドビュッシーなどの好録音を連発。
そんな中の実にナイスな音盤がこの「春の祭典」だった。

われらが小澤征爾は、73年からの音楽監督就任とベルリオーズ録音となるわけです。

このMTTのハルサイを初めて聴いたのが、レコード発売後のFM放送の録音で、中学3年のこと。
半年前くらいに、ブーレーズ、メータと聴いて、ハルサイに目覚めた中坊でした。
FMでもわかった、録音の鮮やかさとオケの雰囲気のよさと、抜群の巧さ。
しかし、このお目々のジャケットは、ちょっと好きくなかった。
でもノリのいい演奏はやたらとカッコよかった。

アバドのハルサイが飛来するのは、この3年あと。

しかし、中坊によくあること。
虫歯がひどくて、ともかく毎日歯が痛かった。
歯医者が嫌いで我慢してた。
悪友が、ウイスキーで患部を湿らせ麻痺させるといい、というものだから、親の目を盗んで、父親のホワイトニッカや、時には贅沢にもジョニ黒を盗み飲みした。
そりゃ、麻痺しますぜ、歯も、脳裏も、感覚も。
歯が微妙に痛くって、ちょっと朦朧として、ラリった状態で聴く「MTTのハルサイ」は最高だったぜぇ~
いまはもう時効でいいんですよねぇ、お客さん。

CD化されて、大人の耳で聴いてみた。
そしたらなんて、スポーティなハルサイなんだろ。
かっけえぇ~んです。
リズム感抜群、弾みも抜群、ビートが効いて、ちょっとそこまで的な軽さもあって、思わずロックなのりで、からだをゆすってしまいたくなるんです。
古臭い表現だけど、いぇ~イ、最高だぜ~って言いたくなっちゃうんです。
この刻みの軽さと、難なく進行するこだわりのなさ。

バーバリズムとは遠いところで、ナウなヤング(笑)の迫力ある音楽をしでかした当時のMTTはめちゃくちゃカッコいい兄ちゃんなのです。
へんな大人びた演奏や、クールな演奏、デフォルメチックな演奏よりは、ずっとビートの効いた若者音楽だと思うんですよ。
サンフランシスコとの再録は実は聴いたことがないのですが、MTTの音楽はそんなに変わっていない明確でわかりやすいものだと思います。

ヨーロピアンな大人のボストン響が、アメリカンなことも充分にわかるこの録音。
わたくしの大切なハルサイの1枚です。

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2013年4月24日 (水)

ブーレーズ、ストラヴィンスキー、神奈川フィル定期 アバド指揮

Rainbowbridje

首都高に乗らずに、レインボーブリッジの下の一般道を疾走する、さまよえるクラヲタ人。

右手は、ゆりかもめの路線、もう少し行くと、歩道も左側に出てきて、人間が歩いてる。

下は、そのまま東京湾。

BGMは、佐村河内交響曲。

なんか生きてるなぁ、って存在感を味わえるシテュエーション。

神奈川フィルの新シーズン幕開け定期。

  ブーレーズ       「ノスタシオン」 Ⅰ~Ⅳ

  ストラヴィンスキー  バレエ組曲「火の鳥」

                バレエ音楽「春の祭典」

    金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

            4月26日(金) 19:00 みなとみらいホール 



意欲的なプログラムでスタートする新シーズン開始が迫ってきました。

この3曲をCDで聴ける指揮者は、作者のブーレーズと、わが敬愛するアバドのふたりのみです。

今日は、アバドの指揮にて、コンサート先行体感をしてみました。

Wien_modern_abbado

アバドが、ウィーン国立歌劇場音楽監督時代、ウィーン市からもウィーンの音楽指導者的な立場にもなっていて、現代音楽の啓蒙活動にも力をいれておりました。
「ウィーン・モデルン」という音楽祭も開催して、その成果としてコンサートのライブ音源が4枚残されました。
その第一弾がこちらで、ブーレーズの「ノスタシオン」が最後に収録されました。
過激な現代音楽の旗手としてスタートしたブーレーズは、いまでは指揮者としてもすっかり超円熟の大家となり、その音楽作りも丸くなりましたが、1945年に書かれた20歳の頃のピアノのための12曲の小品を原曲として、1978年に4つの部分をオーケストラ化した「ノスタシオン」は、シビアで鋭利な、感覚的かつ突き放されるような音楽なのです。

ダイナミックレンジは広大で、打楽器の多用によるリズミカルかつ劇的な要素が印象的な一方、木管を中心にした色彩的な鮮やかさも耳を惹きます。
メシアンに通じるものがありますし、打楽器の効果は日本の作曲家にもその流れを汲むことができるような思いがします。

アバドの劇的な指揮は、ウィーンフィルという濃い色のオケから驚きのサウンドを引き出してます。
演奏会の最後の曲だったという点でも音楽の盛り上がり方では尋常でないものがあります。

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一方で、ブーレーズの自演ライブ盤は、若いマーラー・オケを指揮しながら、クールなタッチで、完璧きわまりないアンサンブルのもとになりたっているように感じます。
これは演奏会の前半の演目で、このライブ盤のコンサートの最後の演目が「春の祭典」だったところがまた面白いところです。

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アバドの「火の鳥」は、1972年の録音だったと記憶しますが、レコード聴いて、こんなに鮮やかに明快な演奏はないとびっくりした記憶があります。
高校時代のことでした。
ウィーンフィルと来日したアバドを、オケに乗っかって指揮してるだけとの酷評を受け、一番よかったのはアンコールのウェーヴェルンだけだ、などとけなされ、ファンのわたくしは大いに憤慨しまくりました。
その後のストラヴィンスキーやマーラーに、さしもの評論家筋もびっくりし、ごめんなさい再評価をしたときは、晴々とした気持ちになったもんです。
この駿馬のような鮮やかな身のこなし、小回り感抜群のオーケストラドライブ。
どこまでも飛翔する煌めく火の鳥の姿がここにあります。
抒情性も忘れてません。
かつて、アバドがこのロンドン響と来日したときに、わたくしはその公演すべてを聴きましたが、「火の鳥」は、「巨人」と合わせまして、昭和女子大人見記念講堂で演奏されました。
テレビ放送もあったかと思います。
カッコよかった。
当然にわたしのまわりは、女子大生が多かった
わたくしもまだ若かった。
「王女たちのロンド」で、気持ちよく眠りに入った彼女たちは、「カスチェイの踊り」の凶暴な大和音によってびっくり仰天、そのやすらかな眠りを妨げられるのでした。
いまでも覚えてますよ、彼女たちが、体をビクッとさせて驚くカワイイお姿を(笑)。
アバドの演奏の当時の特徴は、弱音をともかく抑えて、しかもそこで歌うという芸当でして、音楽はいやがうえにも緊張感と美しさが高まるのでした。

 「アバドの火の鳥」過去記事

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もうひとつ、アバドには、ECユースオケという若者軍団を振った「火の鳥」音源がありまして、こちらは78年のザルツブルクライブです。
こちらは、ライブということもあり、熱気と盛り上がりにあふれたエモーショナルな演奏で、若者好きのアバドと、兄貴のように慕うメンバーたちが、青空にぶっとぶ俊足火の鳥を再現してしまった好演です。
 ベルリンフィル、ルツェルンとのライブDVDは残念ながらまだ未視聴です。

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アバドの音源のなかで、もっとも好きなもののひとつ。
ロンドン交響楽団を手足のように乗りこなし、鼻歌まじりに軽々と「ハルサイ」しちゃうアバド。
前にも書きましたが、まるでロッシーニのように歌いまくり、クレッシェンド決めまくり、鮮やかに着地し、すべての局面で芸術点技術点最高位を軽々と出しまくる、の、そんな演奏。
75年の録音。翌年即入手。毎日聴きまくり。レコ芸の広告は「アバドに撃たれた」の過激広告。

いまでも、わたしの中で色あせない青春のハルサイなのだ。

このスピード感と歌謡性にあふれた軽やかなハルサイに追いつく演奏は自分のなかではありませぬ。
このあと出たムーティやシャイーもこの演奏の延長上にあるものだった。

いま別に新たな感覚でわたくしを唸らせる演奏は、ヤンソンスの覇気にあふれたオスロ盤、サロ様のフィルハーモニア盤とロスフィル盤、ブーレーズのフランス盤と旧クリーヴランド盤、MTT&ボストン盤、ハイティンク&LPO盤、デイヴィス&ACO盤。
こんな感じに集約されてきてます。

アバドには非正規盤ですが、LSOとのザルツブルクライブもあります。
これはまた別な次元でぶっ飛び級ですよ。

さて、存続が決まった、やるき満々の神奈川フィルの「ハルサイ」、いかにわたしの耳と心を射抜いてくれますでしょうか!
今回ばかりは、ワタクシの血圧あげてちょーだい。

「アバドのハルサイ、70年代乱れ聴き」過去記事

「アバドのストラヴィンスキー」

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2013年4月23日 (火)

忙しいけど、ハラは減るんだよ。

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ふっへっへへ。

あたしぁ、ハラが減ってるんだよ。

音楽ブログ更新は、今日もお休みして、ハラ減りワイルドにゃんにゃんにご登場いただき終了とさせていただきます。

あ~、疲れました。
血圧上昇中。
金曜のハルサイは気をつけましょう。

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2013年4月22日 (月)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 カラヤン指揮

Waterras


神田淡路町、すなわち、秋葉原と地下鉄淡路町や新お茶の水、お茶の水が至近のアリアに忽然と立ちあがった、高層住宅、オフィス、商業複合の巨大な建築物。
それが「ワテラス・タワー」。
「Waterras」という英名は、神田川のウォーターフロントだし、テラスを意識した、オープンスペースな空間が取り入れられたゆったりエリア。
億ション系が中心なそうだが、完売に近いらしい、・・・・はぁ。。。

へそまがりなので、この手の空間開発は全然好きじゃないです。
地価がますます上がります。
元来、下町で、この地区に住んでいる方々が難渋します。
商売(仕事)が、地価に完全にリンクされて、実態化から遠ざかり、ますます普通の人々から遠ざかり、東京ブランドを特級化して非庶民化してしまいます。

東京も二分化しつつあり、都心とそうでない地区。

都心以外でも、かねて策定された都市計画アリアがあり、それが時代の流れを無視して実行化しつつあるところもあり、それでもまだ計画実行中のエリアあり・・・、いろいろです。

しかし、なにもない地域からしたら、まさに一極集中です。

さまクラの街歩きは、こんな風に、いつもマイナスイメージを喚起するばかり。

でももう、どうでもいいやあ。

音楽の嗜好も遡り、ますます過去に軸足を求めるばかり。

ところが、過去聴いてた最高と思っていた演奏も、時間の経過とともに疑問符がつき出すという寂しい事象もあります。

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  ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

 
 ザックス:テオ・アダム      ポーグナー:カール・リッターブッシュ
 フォーゲルゲザンク:エーベルハルト・ビュヒナー ナハティガル:ホルスト・ルノウ
 コートナー:ゾルタン・ケレメン ベックメッサー:ジェレイント・エヴァンス
 ツォルン:ハンス・ヨアヒム・ロッチュ アイスリンガー:ペーター・ベンツィス
 モーザー:ホルスト・ヒーステルマン オルテル:ヘルマン・クリスティアン・ポルスター
 シュヴァルツ:ハインツ・レー     フォルツ:ジークフリート・フォーゲル
 ヴァルター:ルネ・コロ         エヴァ:ヘレン・ドナース
 ダーヴィット:ペーター・シュライアー マグダレーナ:ルート・ヘッセ     
 夜警:クルト・モル

  ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
                       ドレスデン国立歌劇場合唱団
                         (1970.11@ドレスデン ルカ教会)


もう何度目か不明のワーグナー連続シリーズは、「マイスタージンガー」です。
そしてなにをいまさらの、カラヤン盤。
東西ドイツがびんびんに健在だった頃の1970年。
政治的にはいまの南北朝鮮と同じように憎悪しまくっていたけれど、音楽の交流は豊かだったことに、いまや本当に感謝したいです。
東西交流で生まれた素晴らしい音源も数知れません。

壁崩壊の前にドレスデンとベルリンを中心で録音された魅力の音源の数々は、西側の指揮者たちによってもたらされたものも多い。
なかでも70年代からドレスデンとこぞって共演する指揮者たちが続出。
ベーム、ヨッフム、ケンペ、カラヤン、アバド、小澤、クライバーなどなど。

カラヤンは、ザルツブルクで定期的にドレスデンと共演していて、そちらの音源化も期待できますが、なんといっても、このワーグナーの大作録音がこの組み合わせが一番の成果にあげられます。

Meistersinger_2

高性能のベルリンフィルを何不自由なく使えたのに、わざわざ、東ドイツへ出向き、ローカルな歌劇場のオーケストラを使って録音するなんて・・・・。
当時、中学生で、カラヤン離れを起こしていなかった頃で、カラヤンとベームのワーグナーには憧れにも似た信頼感を持って接し、待ち望んでおりました。
シュターツカペレという呼称がまだついておらず、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団という名称が正式のものとして受け入れられていた時期です。
ほぼ子供のわたくしには、歌劇場のオーケストラというところがどうにもフィルターがかかっていたところで、なんでカラヤンが?という印象でした。
 しかし、そんな稚拙な思いも、レコ芸の評や、ドレスデンのオケをもっと知ることによって吹っ飛び、よくぞカラヤン、やってくれましたとその演奏を実際に耳にしてみて思うようになったのです。
初めてこの全曲を聴いて、もう30年くらいになります。
途中、摘み聴きはありますが、全曲本格聴きは、もしかしたら20年ぶりくらいかも。

当時まだ、ふくよかで、厚みのあるサウンドのなかにマイルド感もたっぷりあったドレスデンのオーケストラの響きは、いま聴くととても懐かしく感じられる。
ことに、第3幕の前奏曲のホルンと金管の夢幻的なまでの美しさ、そこに絡む低弦の底光りするような味わい深さ。
ドイツの深い森から響いてくるような音色をここに体感できます。
さらに、3幕後半、ロマンティック極まりない5重唱から、音楽は祭典の場へ移行していきますが、カラヤン独特のテヌート気味な盛り上げの壮大さと完璧なまでの高揚感の見事さ。

一説によると、当初、指揮者はバルビローリだったが、カラヤンがここでドレスデンにこだわったことが、この音色を聴くとよくわかります。
「マイスタージンガー」は、よく親方たちがその主役だとも、または、ニュルンベルクの街そのものが主役ともいわれますが、ここでは、カラヤン指揮するドレスデンが主役です。

Meistersinger_1


いまでは想像もつかない、オペラのスタジオ録音。しかも東側に2ヶ月間陣取っての録音は贅沢なもので、細部にわたるまで、オーケストラは雄弁かつ緻密に仕上がってます。
実はこのオーケストラの濃密感に、今日は酔いつつも、疲れてしまうという結果にもなったのです。なんという贅沢なことでしょうか。
あっさり気味、没個性的、無国籍のオーケストラ界に当方の耳が変化しつつあるのだ。
昔は、こんな個性のあるオーケストラばかりを普通に聴いてたわけだし、その聴き方も一生懸命だった。

オーケストラ主体とはいいつつも、歌手も顔ぶれも豪華絢爛。
隅々にいたるまで、当時の東西ヨーロッパで活躍していた歌手ばかり。
テオ・アダムの凛々しいザックスを要に、ふんだんなく美声を聴かせるルネ・コロ、あまりに美しい声のリッダーブッシュ、快活な兄さんシュライアー、夜警のちょい役に若かったクルト・モル、ワーグナーを歌うなんて考えられなかった可愛いドナートに、奥行きを与えてくれる名メゾのルート・ヘッセ。
アンサンブルとしても完璧だと思います。

しかし、わたしの耳には、いまはどうしても抵抗のあるのが、ベックメッサーを歌うエヴァンス。歌い口や声による演技が巧いのはわかるけど、あまりに軽薄すぎて調子に乗りすぎ。
最初に聴いたときはそんな風に思わなかったのに。
ワーグナーの喜劇だから、思いきりコミカルに、唯一のいじられ役だから・・・・。
いまは、そんなベックメッサーにも温情がかかり、演出上では、普通の真面目人間だったり、最後は笑い物にならずに、仲間のひとりとして受け入れられたり、もっと腹に一物を持つ人物として・・・などなど、いろんなキャラクターを付与されるようになりました。
録音上で聴く場合でも、その歌唱は過度の演出を交えず、ザックスやヴァルター、親方たちと対等に存在するように聴こえるように。

Meistersinger_4 (カラヤンとエヴァンス)


だからエヴァンスのベックメッサーはやりすぎの過剰歌唱に感じました。
カラヤンのオーケストラも、ここぞとばかり面白おかしく上手く付けるものだから、よけいにそう思ったのです。

もちろんそうは思わない方々もいらっしゃいましょう。
オペラにおける、「笑い」のあり方が、年月とともに変わりつつあると思います。

「リング」の「ジークフリート」の第2幕と第3幕の間に書かれた、ふたつの巨大な傑作、「トリスタン」と「マイスタージンガー」。
半音階とハ長の正反対の性格をもつこのふたつ。
「リング」と「パルシファル」とともに、ワーグナーを愛するものにとって大事な兄弟作品です。
古い録音でも、新しい録音でも、時代の流れを感じながらも、こうして等しく聴くことができる喜び。
そしてオペラ鑑賞の主体は、音源から映像へ主体が変わっても、思い出深いCDやレコードは、わたくしのもっも大事なものなのです。

ただ残るのは、この先何回聴けるか、との不安の思いのみなのであります。

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2013年4月20日 (土)

ストラヴィンスキー 「春の祭典」 ブーレーズばっかり

Torigoe_2

新緑が映えるニッポンの神社。

こちらは、台東区にあります鳥越神社でございます。

日本武尊を主尊に祀るこちら、お祭りも有名ですな。

さて、4月26日(金)の神奈川フィルハーモニーの新シーズン開幕は、ブーレーズとストラヴィンスキーです。

  ブーレーズ       「ノスタシオン」 Ⅰ~Ⅳ

  ストラヴィンスキー  バレエ組曲「火の鳥」

                バレエ音楽「春の祭典」

    金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団


果敢かつ魅力的なプログラムでしょ。
でもオーケストラはさぞかし大変。
聴く側でよかった。

で、今夜は、録音のもっとも多いと思われるブーレーズの指揮で4種類の正規音源を聴いてみたのです。
さすがに、この曲を連続聴きすると疲れます。

Boulez_stravinsky_ch

ピエール・ブーレーズの名を最初に高めたのが、1963年コンサートホール録音盤。
フランス国立放送管弦楽団を指揮したもので、ブーレーズ38歳の若さみなぎるこの演奏は、録音がかなりイマイチですが、相当にぶっ飛んでて、切れ味も鋭いです。
冒頭のファゴットは、それこそ苦しそうで、作曲者の思いに一番近いのではないかと思われる。ついで登場する木管楽器も同じようにショボく聴こえるのは、やたらとオンぎみに録られた録音のせいばかりではなく、ブーレーズの狙いだったかも。
音の悪さは正直苦痛ですが、思いきりのいい推進力と無慈悲なまでの愛想のなさは、だんだんと快感になってくるから不思議なものだ。
しかし、音は悪くても解像度は抜群で、あらゆる楽器が明快に聴こえてくるところがスゴイ。

Boulez_le_sacru_du_printemps

1969年録音のクリーヴランド管弦楽団盤
ブーレーズ44歳、このレコードが発売された年に、セルとともに来日した。
録音も良くなり、さらにオーケストラが超一流になったことで、前回にも増して、音の解像度はあがり、見通し抜群、切れ味アップです。
乱暴な迫力という意味では後退していますが、広大なダイナミックレンジを感じさせ、第2部の最初の方のミステリアスな雰囲気は、いまだに恐怖すら覚えます。
中学生の頃に聴いた時は、突然わき上がるような打楽器の炸裂音に心臓が飛び出るほど驚いたものだった。
いまでも、この精度の高い演奏には、驚きと愛着を感じます。
最終エンディングのドンピシャ的な決まり具合も最高。
ブーレーズの愛想なし・無慈悲ぶりはこの頃がピークだったかもしれない。
鋭い眼力を全曲くまなく感じるクリーヴランド1号なのでした。

Stravinsky_printemps_boulez_dg

1991年録音のこれまたクリーヴランドDG盤
ブーレーズは66歳になりました。
当時関係良好のシカゴで録音してくれればよかったとも思いますが、ここでもまたクリ-ヴランド超高性能で、録音も素晴らしい。
無慈悲ぶりはかなり薄まり、余裕すら感じる自在感がある。
鋭い分析的な演奏という意味でも健在ですが、音のエッジが少し丸くなった分、面白みも後退し、大人の演奏になっちゃったクリーヴランド2号。

Salzburg_1_5

1997年、ザルツブルク音楽祭におけるライブ録音は、マーラー・ユーゲント・オーケストラを指揮してのもの。
ブーレーズは72歳になりました。
歳を感じさせない若々しい演奏。
前回のスタジオ録音よりも若返ってしまった?
それは、ライブという高揚感もさりながら、若いオーケストラのはちけれんばかりの瑞々しさと満々のやる気が初老のブーレーズに火を着けてしまったみたい。
冒頭のファゴットの美しいこと。1回目録音から40年近く経過し、ブーレーズにも歌心がわいてきたのか。
春のきざしの迫力の刻みもナイスだし、1部の終結部の荒れ具合は、1回目録音にも匹敵するかも。
音像がでかいホールのため、遠くにあって2部の神秘感は2回目録音のようには出ていないが、それでも太鼓連打に始まる巨大な迫力は、立ち上がりも抜群で、スピード感あふれる怒涛のような最終局面となります。
これは実にいい演奏です。
この音源には、自作の「ノスタシオン」も収録されていてありがたい。

そして、いまのブーレーズの「ハルサイ」を聴いてみたいです。

でももう88歳。気をつけて長生きして欲しいから、それはなしにしましょう。
血圧上がりそうな音楽の最たるものですから。

ともかく、ブーレーズというご仁はすごいのでした。

 ① フランス国立放送盤(63)       15’39”/17’04”

 ② クリーヴランド盤(69)          16’38”/17’58”

 ③ クリーヴランド盤(91)          15’55”/17’27”

 ④ マーラー・ユーゲント盤(97)      16’02”/18’17”


過去記事けっこうあります

 「春の祭典 70年代乱れ聴き」

 「シモノフ盤」

 「マゼール盤」

 「バーンスタイン盤」

 「サロネン盤」

 「アバド盤」

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2013年4月19日 (金)

プッチーニ 「トスカ」 コリン・デイヴィスを偲んで

Kitte_5_2

東京駅丸の内口。

まるでジオラマのような、箱庭風の景色。

郵便事業会社の「KITTE」の展望エリアから覗いてみました。

無機的なビル群に、欧風な昔を再現した駅舎。
それを結ぶ計算されつくした道路の構造。

これを美しいと見るか、そうでないと見るか。

わたくしにはわかりません。

超高額な賃料を対価に、このあたりで機能する会社の数々は、地方はブランチにすぎません。
東京ばかりの一極集中は変わりようがありませぬ。
そんなわたくしも東京にしがみついてるんですが、地方への仕事や富の分配はずっとなされぬままに終わるのか。

Tosca_davis

   プッチーニ   「トスカ」

 トスカ:モンセラット・カバリエ    カヴァラドッシ:ホセ・カレーラス
 スカルピア:イングヴァル・ヴィクセル アンジェロッティ:サミュエル・ラミー
 スポレッタ:ピエロ・デ・パルマ   警部:ウィリアム・エルヴィン
 堂守:ドメニコ・トリマルキ      羊飼い:アン・マレイ

  サー・コリン・デイヴィス指揮コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
                          〃            合唱団

                    (1976. @ロンドン)


亡きサー・コリン・デイヴィスは、デビューしたての時からモーツァルトのスペシャリストとして、そのオペラの数々を手掛けてきて、ウェールズのオペラ団からスタートを切り、グライドボーン、コヴェントガーデンと英国内のオペラハウスで活躍をして、ついには、英国以外、独仏米のハウスでもあらゆるオペラの第一人者として認められる存在となりました。

「魔笛」以外をほぼ録音したデイヴィスは、コヴェントガーデンでの上演の数々を併行して録音するようになりました。
それは、70年代中ごろのフィリップス傘下の歌手たちとの共演で、華やかさはないものの、中身の濃い充実したものばかりだったのです。
その歌手たちは、カバリエ、カレーラス、シュターデ、リッチャレッリなどのスターたちです。

デイヴィスがイタリアオペラ?、と当時誰もが思ったのです。
その最初が、「トスカ」。
その後、「ボエーム」「仮面舞踏会」「トロヴァトーレ」と続きますが、イタリアオペラはその後、ミュンヘン時代まで録音されることなく、フランスものと、ドイツオペラが中心となります。

デイヴィスのイタリア・オペラは、ヴェルディにおいては解放感と爆発力が不足し、プッチーニにおいては歌心が不足しますが、どちらもオーケストラの充実ぶりにおいては、70年代以前のそれまでの歌中心のオペラのあり方からすると、全体の統一感が豊かで、シンフォニックで、歌手の突出感がなく、そのオーケストラのうえに歌が成り立つ安定感が先だつものでした。
イギリスの作り出す音楽が、本場のイタリアやドイツ、フランスを上回るシーンが続出したのもデイヴィスがオペラで活躍した時期と同じくします。

それは「普遍的」の一語に尽きると思います。

デイヴィスの指揮するオペラの数々は、その普遍性こそが魅力。
危なげなく、安全で、どこもかしこも完璧。
突き抜けた個性はないけれど、普遍性こそ突き抜けた個性。
デイヴィス、そしてハイティンクの指揮するオペラはいずれもかっちりしたオーケストラが主体となって、そのうえに端正な歌唱が乗っかる充実の中庸の美しさがあります。

デイヴィスのオペラの最高傑作が「トスカ」です。
聴きあきない、音像だけの、最高の芸術作品のひとつです。
プッチーニの巧みなオーケストレーションを感じ取れるし、隅々まで鳴り響く機能充実のコヴェントガーデンオケ。
カラヤンのような濃厚な味付けがなくとも、スコアに書かれた音を完璧に再現するだけで、プッチーニの濃密でラブリーな音楽が響き渡るという妙。
ピーク時にあった歌手たちの声の饗宴。
それらをつかさどる、指揮者コリン・デイヴィスの力です。

この録音の前後に、カヴァリエとカレーラスは、NHKのイタリアオペラで来日し、伝説の「アドリアーナ・ルクヴルール」に出演した。
わたしの生涯、忘れえぬ舞台体験のひとつです。

さらに79年には、デイヴィス率いるコヴェントガーデンの引っ越し公演で、同じ顔ぶれの「トスカ」が上演され、NHKでも放映されました。
テレビで観ましたが、カバリエに圧倒される見た目のカレーラスでしたが、圧倒的に声が素晴らしかったカレーラスです。
カラヤンの「トスカ」録音と時期がかぶり、東京とベルリンを往復したカレーラスの話も有名になりました。

さらにカヴァリエの見た目巨大、聴いた耳、繊細のトスカは、カラスの復活舞台がコケテしまったあとの横浜上演で、完璧なまでの歌を生放送で聴き観劇もして、圧倒されました。
「歌に生き、恋に生き」は、もう最高。そのピアニッシモの美しさは、いまにいたるまで誰も凌駕できません・・・・。

これらすべてのトスカ体験の音源における、もっとも安心感ある記録が、このデイヴィス盤です。
ふたりの歌手の最高充実ぶりは、この音源のみで味わえます。
スカルピアが、わたしには今一つですが、カラス以降の「トスカ」はこれ、デイヴィス盤につきます。

サー・コリン・デイヴィス。安らかならんことをお祈りいたします。

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2013年4月18日 (木)

ベルリオーズ 幻想交響曲 コリン・デイヴィスを偲んで

Hamamatsucho_201304_a

ちょっと遅くなりましたが、4月の小便小僧は、ピッカピカの1年生。

めちゃくちゃ可愛いですな。やはりこういうのが一番似合ってる。

去年は紺色(こちら去年記事)、今年はグレー。

昼のせいもありますが、とても明るく前向きな感じです。

Hamamatsucho_201304_b

はい、お背中も完璧なお姿。

新幹線もすっきり、速いです。

ということですが、今回は、ベルリオーズのスペシャリスト、サー・コリン・デイヴィスの逝去を悼んでの「幻想交響曲」です。

Berlioz_davis

  ベルリオーズ  幻想交響曲

 サー・コリン・デイヴィス指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

                     (1974.1 @アムステルダム)


コリン・デイヴィスの名前は、わたしのような、ちょっとオールド入った年代には、モーツァルトとベルリオーズのスペシャリストというイメージが、その聴き始めの70年代にはあります。

ロンドンでのその両方の作曲家の連続録音は、正直いって当時、あまり人気がなくって、情熱的だけど、かなり地味な英国指揮者という印象を持ち続ける結果となりました。

げんきんなもので、なんでもうまく完璧に演奏してしまうロンドンのオケから、コンセルトヘボウやボストンを指揮するようになって、急速にその力量を評価されるようになり、加えて、これまでのロンドン演奏も正当に評価されるようになったということも事実で、日本の聴き手や評論筋の当時のあり方すら窺える結果を残したことも、デイヴィス、加えてハイティンクやプレヴィンの存在なのでした。

ロンドン響との60年代録音は、実は聴いたことがありませんし、このACO盤後のウィーン、LSO再録は未聴ゆえ、唯一のわたくしのデイヴィス幻想が、今宵のコンセルトヘボウ盤です。

フィリップスが、ハイティンク以外の自社アーティストをコンセルトヘボウに振り分けるようになった70年代半ば。
急速に評価を上げたハイティンクとともに、デイヴィスもコンセルトヘボウとボストンで大ブレイクしました。(ついでマリナーも)
このオケとは、この「幻想」に始まり、グリュミオーとのベートーヴェン、ハイドン、ストラヴィンスキー、ドヴォルザーク、展覧会など、いまでもその鮮度が瑞々しく保たれている名演を次々に残したデイヴィスです。
 当然に、ハイティンクとも仲がよくって、ハイティンクが自分はもう歳だし・・とか言えば、ベルナルトは、わたしより若いのだから何言ってんのと笑ったりする関係でした。
1927年生まれのデイヴィスに、1929年生まれのハイティンク。

こちらの「デイヴィスの幻想」は、コンセルトヘボウのコクのある音色が最大限に楽しめる端正なベルリオーズであるとともに、曲が後半から、さらに終楽章に向かっていくにしたがって、デイヴィスならではの情熱が燃え盛りだして、最後は圧倒的な終焉を迎える、聴かせる演奏なのです。

コルネットとハープの響きが効いてる2楽章のワルツは、意外や、優美さにかけてはこの演奏がかなり上位です。コンセルトヘボウのホールの響きも実に美しい。
 さらに美しい「野の情景」は、オーケストラという有機体の存在すら感じさせないくらいに音楽そのものの再現に徹して、そこに見えてくるベルリオーズの抒情があります。
いつも書きますが、歳を経てこの田園情緒あふれる楽章が、とても味わい深く聴こえるようになりました。その最右翼のような演奏の一つがこのデイヴィス盤です。

克明・丁寧に捉えられた「断頭台」はファンファーレも、意外にあっさり。
そのあと、ジワジワと燃え盛るように進行する「ヴァルプルギス」は、実に圧巻です。
怒涛のような終結は、このコンビのあの「ハルサイ」をさえ思い浮かばさせる圧倒的な演奏でございます。

フィリップス系の指揮者は、コンセルトヘボウとの相性が抜群だったということが、あらためてここでわかりました。
ヨッフム、イッセルシュテット、ハイティンク、デイヴィス、マリナー、ワールト・・・・。

サー・コリン・デイヴィスの懐の大きさと、自在な音楽性が実によくわかった「幻想」でした。

サー・コリンへの哀悼の念をこめて。月イチ幻想でした。

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2013年4月16日 (火)

祝 神奈川フィル存続 ほぼ決定!!

Kanapfill2012

おめでとうございます。

きっと来ると思ってました。

神奈川フィルの存続の見通しがほぼ立ったとのこと

やりました。

これも、楽団側のたゆまぬご努力と、オーケストラ楽員さんたちの情熱、ともに献身的な活動の賜物です。

ほんのわずかしか貢献ができませんでしたが、ファンとしてこんなに嬉しいことはありません。

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1304160002/

新公益法人への移行の前提を、財政面でクリアーすることができるという見通しになったわけです。
法改正により、公益性を認められるためには一定の純資産を保有しなくてはなりませんでした。
過去の累積赤字があり、債務超過にあった神奈川フィルがそれを解消するには、約3億の資金手当が、今年11月までに必要でした。
その難題をクリアするには、約1億の民間寄付金が必要で、それを前提に、県や県内自治体からの助成金で、残りの手当金が得られるという方式なのでした。

15日のブルーダル基金コンサートで、この第一段階の目標がクリアできる見通しになりました。
しかしまだ、さらなる安定運営への目標設定もあり、余談は許さないのですが、ともあれ、楽団存続が決定的との報に、本当にありがたく、うれしく思います。

この法律によって、文化・芸術を担い、志す団体は厳しい繰りまわしを強いられていて、神奈川フィルばかりが表だってしまいましたが、各地のオーケストラやオペラの団体も厳しい状況にはかわりはありません。

東京には、有力オーケストラがたくさん林立しているなか、神奈川と千葉のプロオーケストラは、首都圏にある点でローカル性や特殊性を出しにくいのも現実です。
しかし、どちらも地域に根差した活動が、いま花開いているような気がします。
神奈川育ち、現千葉在住の2枚看板のわたくしですが、東京にない個性をますます磨きあげているような気がします。
千葉はともかく(ごめんなさい)、神奈川への郷土心は、人一番強くって、横浜以外の市町村のネイティブだからよけいにこの気持ちは強く、かつ横浜への憧れと愛着もまたよけいに強いのです。
海山川都会に恵まれた地に育った神奈川県人って、そういうところがあるんじゃないでしょうか。

あらあら、話が違う方向にいってしまいました。

正式移行の日取りは今後の発表をお待ちしたいと思いますが、まずは、ひとり、祝い酒の今夜。
コリン・デイヴィスの追悼シリーズは、今日はお休みして、神奈川フィルのマーラー音源をビール片手に聴くのです。

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    マーラー 交響曲第2番 「復活」

      S:澤畑 恵美  MS:竹本 節子

    金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
              神奈川フィル合唱団
              合唱音楽監督:近藤 政伸
              コンサートマスター:石田 泰尚
                    (2010.5.29@神奈川県民ホール)

楽団創立40周年記念演奏会ライブ。
この場にも居合わせましたし、その後のCD記事も書きました。

今日この日に、記念碑的なマーラーの「復活」を神奈川フィルで聴くという意義と喜びもひとしおです。

録音の音が遠くて、フォーカスが甘いのと、当時は指揮者のヴィブラート少なめの意向に少し流されぎみで、音が痩せ過ぎている感もありますが、音色の透明感と美感は、神奈川フィルならではのもの。
徐々に増す終楽章の高揚感は、圧倒的で、心が解放される眩しいエンディングがあります。

また、異なる「復活」を聴かせて欲しい。

そして、いつかの局面で、それは「千人交響曲」で、最後の解放を見せて欲しいです!!

合唱のエキストラなら、神奈川フィルのファンから公募すればいいです(わたしも歌いたい!)

オケのプラスαは、わたしにはなんとも不明ですが、県民ホールのステージが千人の人たちで満たされるのを体感してみたいです

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2013年4月15日 (月)

シベリウス 交響曲第7番 コリン・デイヴィスを偲んで

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                    (by London Symohony)

サー・コリン・デイヴィスが、4月14日に亡くなりました。

享年85歳。いつも欧州と米国を往来しつつ、安定した熟練の指揮ぶりを各地の情報から拝見していて、つねに現役、つねに健在と思いこんでいました。

でも、昨年あたりはキャンセルが多くなって病気だとの報も得ていて、少しばかり不安を持っておりましたが、やはりかかる仕儀に・・・・・。

LSOのホームページから拝借して画像を作成しました。

プレヴィン・アバド・MTT、その前からずっと半世紀にわたって薫陶を捧げてきたLSO。
同楽団のスーパーぶりは、このサー・コリンの存在があってのものです。

デイヴィスがかかわった各国のオーケストラの数々で、偉大な音楽監督の後を引き継ぎ、高水準を維持したり、監督不在をカヴァーしたりと、オーケストラ・ビルダー的な職人技を披歴したものです。
LSOがその代表ですが、BBC、コンセルトヘボウ、ボストン、ニューヨーク、バイエルン、ドレスデンなどなどです。
それはまた、オペラにおける豊富な経験も背景にあって、発揮される力だと思われますし、オペラの方でも、コヴェントガーデンの黄金時代はデイヴィスから始まって、ハイティンク、パッパーノといまに続いています。

英国の生んだ指揮者として、サー・コリンは間違いなく、もっとも偉大な指揮者です。

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   シベリウス   交響曲第7番

    サー・コリン・デイヴィス指揮 ボストン交響楽団

                   (1975 @ボストン)


私が買った最初のデイヴィスのレコード。

ボストン響は、RCAからDGに専属が移り、アバド、MTT、小澤と旬の指揮者とのレコーデイングが次々とDGから出て、一枚河がむけたかのような鮮やかで、明るいヨーロピアンサウンドを聴かせてイメージ刷新していた70年代前半。
それがフィリップスレーベルにも登場したのが、このデイヴィスとのシベリウスシリーズの最初の1枚。
すぐさま買いました。
ターンテーブルに乗せました。
そして、驚いたのはその音塊の重さ。
一瞬、またヴェールを1枚かぶってしまったかのような腰の重さ。
しかし、何度も聴き進むと、シベリウスはこうでなくてはならないと思うようになっていきました。
重さととともに、ボストンの高性能の木管と、突き抜けるような弦が、そこから垣間見えるようになり、やがてじっくりと歩む音楽の中に、そうした響きがきらりと光って感じられるようになってきました。
英国と北欧に共通するどんより感と、そこを突き抜けんとする光。
デイヴィスとボストンのシベリウスには、そうした要素がしっかりと組みこまれていたのです。
ムンクの絵をあしらったジャケットも、とてもすばらしくて、1枚1枚を集めてゆく喜びが、いやでも増してゆくのでした。

この頃のデイヴィスの話で、「シベリウスでは5番が好き、でも7番が一番好きだな。
なぜって、一番短いからさ」。

シベリウスのすべてが簡潔なまでに、そしてかつ、濃厚に凝縮された7番。
この曲が持つ、じわじわと熱くなる情熱の噴出と、澄み切った清涼感、感動の高揚感。
いずれも、このデイヴィス盤は最高です。
バルビローリとベルグルンドと並んで、この曲最高の演奏だと思ってます。

のちに、デイヴィスはLSOと2回、全集録音してますが、このボストン盤が一番好きです。

広大なレパートリーを持った、サー・コリン・デイヴィス。
あと数回追悼記事を書きたいと思います。

サー・コリン・デイヴィスの魂が安らかたらんこと、お祈りもうしあげます。

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2013年4月14日 (日)

ヴェルディ 「ナブッコ」 ガルデッリ指揮

Kandamyoujin_1

桜咲くころの神田明神。

お江戸の総鎮守として、大黒様、えびす様、平将門を祀り、わたくしも近隣に会社があった頃には、商売繁盛の祈願に行事として行ったものでした。

そこそこ広い境内には、いろいろと由緒あるものが思いがけない風にありますので、一度足を運ばれてはいかがでしょうか。

鳥居の近くには、おいしい納豆を売る天野屋さんというお店があります。
さらに、少し行くと、おいしいうどん屋さんもありまして、そちらのカレーうどんが絶品なんですよ。

別館の記事を久しぶりに更新しました。→さまよえる神奈川県人

Verdi_nabucco

      ヴェルディ   「ナブッコ」

 ナブッコ:ティト・ゴッピ       イズマイーレ:ブルーノ・プレヴェティ
 ザッカリア:カルロ・カーヴァ    アビガイッレ:エレナ・スリオティス
 フェネーナ:ドーラ・カーライル    大司教:ジョバンニ・フォイアーニ
 アドバーロ:ワルター・クレートラー アンナ:アンナ・ドーラ

   ランベルト・ガルデッリ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団
                   ウィーン国立歌劇場合唱団
                   (1965,9 @ウィーン・ゾフィエンザール


ヴェルディ3作目のオペラ。
前作、「一日だけの王様」の初演が失敗に終わり、その直前の子供や妻の死で愛する家族も失ってしまった失意のヴェルディは、作曲家であることを辞めようとまで思う。

しかし、ヴェルディの才能を見込んでいたスカラ座支配人メレッリはあきらめず、次の台本を準備していた。
史実と旧約聖書を元にした戯曲「ナブコドノゾル」がフランスで流行り、ほどなくそれがイタリア訳され、そのオペラ化権はリコルディ社が買取り、そのバレエ版は1838年、すなわちヴェルディが最初のオペラ「オベルト」を初演する1年前にスカラ座で上演され、成功を得ていた。
今度は、それをオペラ化するにあたり、前作より協力関係を得たソレーラが台本を作製し、ヴェルディに提示した。
そして、その愛国的な内容も含むドラマにヴェルディはやる気を奮発して、一気に作曲を進め、あの失意の翌年には「ナブッコ」を完成させ、1942年3月にスカラ座で初演。
上演は、大成功に終わり、聴衆も熱狂。
ヴェルディは、こうしてイタリアを代表するオペラ作曲家としての地位を確立したのであります。
ちなみに、この初演時、アビガイッレを歌ったスカラ座のプリマ、ストレッポーニとヴェルディはこれがきっかけで親しくなり、のちに結婚に至っております。メデタシ。

オーストリア傘下にあり分裂時代の当時のイタリアにあっては、故国の統一と独立が宿願だった。
そんな中で、イタリア人の心を奮い立たせ、舞い上がらせたのがこのオペラの中の合唱「行けわが想いよ、金色の翼に乗って・・・」。
ヴェルディにも熱き思いはあったが、それ以上に台本作者ソレーラは、独立運動に身を投じ投獄されるほどの筋金入りの愛国者だったから、このあとのヴェルディとの共同作でも、愛国テーマが刷り込まれたオペラが続出することになります。
愛国無罪なんていうと恐ろしいことも起きますが、こんなオペラ作品なら大歓迎ですな。

この「ナブッコ」における愛国シーンとは・・・・「旧約時代のバビロニアの史実で、ユダヤの王が2度にわたりバビロニア王ネブガドネザル(すなわちナブッコ)に反乱を起こしたので、ネブガドネゼルはエルサレムに侵攻・陥落し、人々をバビロニアに連れ去った。
すなわち世界史で習ったバビロニア捕囚というヤツで、人々は故国とエルサレムの街を遠くバビロニアで思い、いつか帰れる日を希望を持って歌うのです」

紀元前586年ごろ

第1部 エルサレム

神殿のなか、人々はバビロニアの軍が攻めてくると大騒ぎをしている。
有名な序曲のあとのこの大合唱は一気に観る人をドラマに引き込む効果を持ってます。
ユダヤ教の祭祀長ザッカリアは、バビロニア王ナブッコの娘フェネーナがここにいるので大丈夫だと、人々をなだめて歌う。
そこへ、イスマエーレが飛び込んできて、敵がやってきたと告げる。
そして、ナブッコの娘のひとり、アビガイッレが軍隊とともに攻め込んでくる。
彼女は、イスマエーレが好きで、彼に自分を愛してくれるなら彼は助けようと持ちかけるが、当のイスマエーレはフェネーナを愛しているので、その申し出を断る。
ついに、この神聖な神殿にナブッコが馬に乗ったまま出現し、軍勢とアビガイッレは万歳を叫ぶ。
しかし、ザッカリアは神殿を汚すならば、この娘の命はないと、フェネーナに刃を付きつける。その刃を取り上げたのがイスマエーレで、彼は人々から不信をかこつことになる。

第2部 不敵な男

バビロニア王宮 アビガイッレは、古書のなかから自分の出自、すなわちナブッコが奴隷に生ませた娘であることと、ナブッコは王位をフェネーナに継がそうとしていることを知り、怒りに燃え、自分が王位を奪うことに野望を燃やす。
ここでの揺れ動く心情と激しい情熱を歌い込んだアリアはヴェルディの歌のなかでも、もっとも凄まじいもの。
 一方、囚われの身となったザッカリアは神に祈って歌う。
イスマエーレは、ヘブライ人たちから非難され、これをザッカリアの姉アンナは庇い、フェネーナも登場して混乱する。
そこへ、ナブッコ王が亡くなったとの知らせが入り、アビガイッレが王位を継いだとする。
さらに混沌としたところへ、当のナブッコがやってきて、一同驚くが、ここでナブッコは自分は王でなく、神だと宣言する。その時、雷が落ち、王冠が吹き飛び、ナブッコは錯乱状態になり、アビガイッレは、落ちた王冠を拾う。

第3部 予言

バビロニア王宮 アビガイッレは玉座についていて、そこに大司教が裏切り者であるフェネーナの処刑の判決文を手渡す。
そこへ弱り切ったナブッコがやってくるので、アビガイッレは彼をそそのかして反逆のヘブライ人たちの処刑命令に署名をさせ、衛兵にすばやく渡す。
ナブッコは、娘フェネーナのことを尋ねるが、アビガイッレは偽りの神に身をゆだねたとして一緒に滅びるのだと宣言。
愕然としたナブッコはアビガイッレを攻め、奴隷の女よと怒り古書を出そうとするが、それはいまはアビガイッレの手元に。彼女はをれを引き裂き勝ち誇り、ナブッコを捕えるように命じる。許しを乞うナブッコ。
 ユーフラティス河畔では、ヘブライ人たちが故郷を想い歌う~行け想いよ、黄金色の翼にのって~。ザッカリアも人々を励まして歌う。

第4部 壊された偶像

ナブッコは幽閉されていて、外ではフェネーナたちを処刑場へ連れてゆく葬送の音楽が聴こえる。ナブッコは悔恨にくれ、ヘブライの神々への許しを乞い、全能の神をたたえ、ついに彼は正気を取り戻し力を取り戻す。
そこへ腹心アブダッロが助けにやってきて、ナブッコに武器を与え、王位復権へと励まし、ともに戦おうと兵士たちとともに立ちあがる。
 処刑を控えたザッカリアは、フェネーナに開かれた天へ向かおうとともに歌い合う。
そこへ、ナブッコ万歳の人々の声。
ナブッコが登場して、不敬もの、止めよ、偶像も粉々に砕けよ!と叫ぶと、偶像はみな倒れて粉々になる。
そして、イスラエルに帰り、新たな神殿を建てよ、この神のみが偉大であると宣言。
さらにアビガイッレが服毒したことも告げる。
一同は驚き、感謝し、神をたたえ、ナブッコも讃える。
息も絶え絶えのアビガイッレが兵士に支えられながら出てきて、これまでのことを懺悔し、神への帰依を告白し、その場で息絶える。
ザッカリアは最後に、ナブッコに対し、エホヴァに仕えるあなたは王のうちの王であると宣言して幕。

                   幕


ヴェルディの作ったここでの音楽は、原作の原初的な世界とともに、荒削りで直截的です。
音塊はときにむき出しで、そのダイナミックで荒々しい様相は、いやがうえでも聴く人を興奮させ、人間に潜む感情を扇情的に刺激します。
その裏返しに、父と娘=バリトンと女声という、ヴェルディならではの確定的なまでに人心を感動させるモティーフもしっかり描かれております。
 もうひとりの娘は、権力を持ったがゆえの邪悪な強い声の持ち主によって歌われる一方の主人公です。このタイプもこれからヴェルディのオペラの必須の登場人物です。

こんな受けのいい役柄の固定化も、このナブッコから図られました。

ゴッピの活動期の最後に、デッカの優秀録音によって、その巧みな歌いぶりが記録できたことは、まったくもって嬉しいことです。
イヤーゴやスカルピアのイメージが強いゴッピのヴェルディでのバリトン・ロールは、極めて雄弁でありながら、その役柄の弱さや優柔ぶりを歌いこんでやみません。
シノーポリ盤のカプッチッリとともに、最強のバビロニアの狂える王の歌唱といえます。

 そしてさらにスゴイのは、スリオティスのアビガイッレの強烈さ!!
歌い急いだ彼女は、よくいわれるように、カラス2世と言われながら、急速にその声を失ってしまった。
本来のリリコスピントから、ドラマティコに移行し、さらにメゾ音域もゆうに歌えたことから、嘱望され無理がたたった。
この録音でのアビガイッレは、すさまじいまでに、最高域のハイスピントを聴かせつつ、すぐさまメゾ低音域に駆け下りるという至難の歌唱を楽々と歌いのけている。
しかし、この時すでに、そのドスの効きすぎた声は最盛期を過ぎていたようにも思われる。
1971年のNHKイタリアオペラでのノルマは、テレビでぼんやりと見た記憶があり、その後のハイライト放送のエアチェックで何度も聴いたが、流麗なアダルジーザ役のコソットの方に耳を奪われるようになってしまった。
スリオティスは、1943年生まれで2004年に61歳の若さで亡くなってしまう。
20代で、もっとも輝いた名歌手です。

カーヴァの流麗なザッカリアの歌唱、ベルゴンツィそっくりなプレヴェティの明るいテノールも楽しく聴きました。

そしてなによりも、実質ウィーンフィルの有能なオーケストラと、それを指揮するヴェルディ魂あふれるガルデッリ。
リングをへて、充実していたデッカ・チームのウィーン録音は、ここでも優秀で、ソニックステージと呼ばれたステレオ感覚を駆使した横へ広がる豊かな音には年代を感じさせないものがありました。

ブログでのヴェルディ・オペラ全26作制覇まで、あと12本(改作除く)。
道のりは長い。

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2013年4月13日 (土)

神奈川フィル音楽堂シリーズ 武満徹と古典派の名曲①

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今年はチューリップの開花も早い関東。

われらがベイの本拠地の足元、横浜公園のチューリップを見てきました。

大慌てで、桜木町にとってかえし、紅葉坂。

この坂で、これからはひと汗かいてしまう季節になりました。

春から初夏の風物詩ともなった神奈川フィルの音楽堂シリーズ。

今年は、「若い指揮者と神奈川フィルの首席奏者」、そして「武満徹と古典派音楽」というテーマで、なかなか素敵なプログラムが組まれてます。

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   武満 徹    「波の盆」

   モーツァルト  ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲

             ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲第3楽章

              Vn:石田 泰尚   Vla:柳瀬 省太

   ハイドン     交響曲第90番 ハ長調

         川瀬 賢太郎指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

 

                      (2013.4.13 @神奈川県立音楽堂)

どうでしょうか、いい演目でしょう。
成功が約束されたかのようなモーツァルトも楽しみだったけれど、わたしには、美しい武満作品「波の盆」を神奈川フィルで聴けることが密かな願望であり、今回は喜びなのでした。

尾高忠明さんがCDも残し、演奏会でも折に触れとりあげる曲目。
氏はいつも指揮するとき、涙がでちゃうんですよ、とお話されてました。
わたしも、スマホに入れて持ち歩いていて、疲れたときとか、嫌なことがあったときに聴いたりしてます。
それだけ、癒しと緩やかな優しさにあふれた音楽です。

6つの場面が緩やかに進行するなか、突如あらわれるマーチングバンドはとてもスパイスが効いています。
この日、若い川瀬クンは冒頭から大きな手ぶりで意欲的に指揮をしますが、オケも聴衆もまだあたたまっておらず、音楽が遠いところにとどまっている感がありました。
しかし、ブラスが登場してピリッと引き締まり、終曲では涙が滲むほどに共感にあふれた麗しい演奏となりました。
美しい神奈川フィルの弦と、そこに絡み合う木管の妙。充分に味わえ満足でした。
願わくは、もう少し熟した指揮者との組み合わせでもう一度聴きたい。

この曲の弊ブログ記事→ドラマの概要も書きました。

石田&柳瀬のコンビによるモーツァルト。
悪いはずがありません。
石田コンマスの華奢でスリムなヴァイオリンは、モーツァルトのギャラントな雰囲気を、柳瀬さんの艶とコクのあるヴィオラは、モーツァルトの馥郁たる愉悦感をそれぞれにあらわし尽くしていて、素晴らしく味わい深い演奏でした。
2楽章の哀感の表現も素敵なもので、泣き節を聴かせる石田ヴァイオリンに、からみあうように共鳴し合う柳瀬ヴィオラ。
本当に美しい瞬間でした。
お二人を見ていてもそのお姿が対照的なのは当たり前ながら、上へ上へつま先立つようにして弾く石田コンマスに対し、どっしり構え、わずかに左右に動くだけの柳瀬ヴィオラ。
神奈川フィルの音を支えるお二人の演奏を鮮やかなアンコールもふくめ、堪能できました。

川瀬君の指揮は、生き生きと、そして柔らかくソロを引き立てることに徹し、自然と仲間をもりたてるオーケストラとなっておりました。

後半は地味だけれど、コンサートの最後に最適の隠し玉のような、びっくりハイドン90。
ザロモンセットの前で、いまひとつ地味なグループが、「オックスフォード」を含む90~92番。
普段ハイドンをあまり聴くことのないわたくしですが、90番は大昔にベームのレコードで聴いたくらいの記憶しかなく、今回、予習でネット上にあったラトルとベルリンフィルのライブを聴いてぶっ飛びました(笑)。
サプライズだから、演目パンフには書いてなぴりいし、事前の話もまったくなし。
で、始まりました90番。

ピリオドでもなく、両翼配置でもなく、普通がいいね。
序奏のあとほどなく始まる第1楽章。弾むようなリズム感がいかにも快活ハイドン。
川瀬クン、大振りだけど、やるじゃん。
このキレのよさと、のびのびと自由な感じは、迷いが一切なく爽やかな疾走感がイイ。
早いパッセージも難なく乗り越え、神奈川フィルのアンサンブルも完璧だし、拝見していて皆さん気持ちよさそう。
バロックティンパニも効いてる効いてる。

伸びやかな第2楽章は長調と短調の間を行き来する歌謡性にあふれた楽章。
ここで驚きの川瀬ジャンプが登場するとは。
なにも兄さん、そこまでとも思ったけれど、短調のとき、低弦の刻みを深く入れ込みたかったのでしょう。なかなか劇的な効果を生んでましたよ。
各楽器のソロも美しいものでした。
こういう場面もハイドンの音楽の魅力で、主席の皆様の妙技も味わえるのが楽しい。

3楽章のメヌエット。乗ってきた川瀬クン、ここでも微妙に跳躍を繰り返し、さらに驚いたことに、聴衆の方を半分見ながらのコバケン&ノリントン振り。
オーボエの鈴木さんのソロが素敵。

そして何が起こるか、やってくれるか終楽章。
元気に明るくガンガン進む快感は、幸せの週末気分にますます花を添えるようでワクワクしてしまう。
強弱のメリハリと、巧みな転調を鮮やかに描き分ける川瀬クンの堂々たる指揮も乗ってきました。オケもノリノリですよ。石田コンマスもジャンプのお株を奪われちゃったけれど、ガンガン弾いてます。
そして完全終結その1。
当然に、割れるばかりの拍手。
川瀬クンは、拍手に答えるようにこちらを向きますが、しばしの間(4小節)を置いてまたやりますよ的な顔になり、振り向いて終結部の再開。ざわつく聴衆。
譜面のページを大慌てで戻して、みんな再開。
そして、今度も威勢よく完全終結。ブラボーも出ちゃう。
聴衆の拍手に答えそうになる指揮者に、立ちあがって、何だよ終るのかよと迫るヤンキー一人! おびえた指揮者は、また終結部を繰り返すのでした。
今度こそお終い。無茶苦茶気合いをこめて、超ダイナミックなエンディングに、ほんとの最後を実感した我々聴衆が熱狂の拍手をしたことは言うまでもありません。
 ハイドンの仕掛けたいたずらに見事に引っ掛かりましたよ。

大人しそうな真面目顔の川瀬クン、やりますよ実に。
妙にこねくり回さず、空回りしない若さがそのまま出ているのが、実に素直でいいです。
このところナイスな企画続出の神奈川フィル、今回も大正解のコンサートでした。

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アフターコンサートは、野毛に降りて、いつもの居酒屋と思ったら満席。

近くの中華小皿料理のお店で、生ビール、ハイボール、紹興酒をたくさんたくさん飲んだのでした。

そしてこれもまたお約束の終電、東京湾半周の旅で帰還。

みさなんお疲れ様でした。ありがとうございました。

※記事はバックデートして、土曜日公開にしました。

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2013年4月12日 (金)

無人島に持っていく音楽 お願いランキング

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は~い、久々に登場のお願い戦士たち。

しばらく見ぬ間に、戦士も減ってしまいましたね。

というか、これがオリジナル?

最近、早く寝てしまうので見ることが少なくなった、テレビ朝日の深夜番組で、なんでもランキングをつけてしまおう的な番組の、萌え萌え~なキャラクターさんたちでございます。

こちらのブログでは、これまでお願い戦士にかこつけて、いろんな自分勝手な、それこそ自分のランキングをしてまいりました。
記事も多くなりましたので、ランキングのカテゴリーを作製することにしました。

で、今回は、よく言う、「無人島に持っていく」なにがしのランキングですぞよ。

「無人島に持っていくなら」・・・という問いかけと答えは、洋の東西を問わず世界中語れてきた重要議題です。
現代に生きる人間にとって、忘れがちなのは、インフラ系統。
電気も、水も、ガスもない生活は考えられないのですが、このような質問を浴びせると、みなさん哲学的になってしまいがちです。

ですが妄想・想像の世界に遊んで、無人島にほったらかしにされた日々のことを考えて、自分に必要な音楽ということで考えてみましょう。

本来なら1枚(1組)というところなのでございましょうが、本日にかぎりましては10傑までをお許しいただきたいと存じます。
それと、テレビはなしとしてCDのみで。

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   ①ワーグナー  「ニーベルングの指環」 全曲 ベーム

   ②バッハ     「マタイ受難曲」 リヒター

   ③佐村河内守  「交響曲第1番 HIROSHIMA」 大友直人

   ④ワーグナー  「パルシファル」 クナッパーツブッシュ

   ⑤ワーグナー  「トリスタンとイゾルデ」 ベーム

   ⑥ディーリアス 「高い丘の歌」 グローヴス

   ⑦チャイコフスキー 交響曲第5番 カラヤン

   ⑧マーラー   交響曲第3番 アバド

   ⑨ヴェルディ  レクイエム アバド

   ⑩ブリテン   戦争レクイエム ブリテン

   ⑪ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」 ベーム


オーケストラやオペラ、合唱作品ばかりになってしまった。

わたくしの偏重嗜好ということでご容赦いただきたく。

は、どうしても無人島生活では必須のため番外追加。
自然とうまくお付き合いしたいし、きっと無性に聴きたくなる曲だから。

ブリテンの反戦音楽は、一人でも常に心に刻んでおきたい。

ヴェルレクは、歌が一杯に詰まった麗しさと厳しさから。

マーラーの音楽は、自然と人間、双方を描きつくしているから。
  でも人恋しくなってしまうかも・・・・

チャイ5は、常習性ある音楽で止められないから。ヤバいっす。

ディーリアスは少なくとも1曲はないと、わたしは生きていけない。

島でひとり、恋する人=女性を思い焦がれつつお待ちしてます

崇高な感情を醸成することで、誰もいない島の生活で、相手の痛みを共感して生き延びたい。

この音楽が1位でもいい。
  いまこの世にあらわれた心の提琴にふれる音楽。
  聴く状況に応じて、叱咤し、力づけ、癒す、そんな佐村河内音楽は無人島生活に必須。
  これさえあれば、世をはかなんで死を選んでしまうことは絶対にない!

おお「マタイ」、なにゆえ、そなたは「マタイ」なのか!
  完璧すぎるバッハの音楽。
  心が痛み、十字架の重荷を負担したくなるが、ここは無人島なのだ。

リングはどこまで行っても、何度聴いても、その環は最初に帰結し、繰り返される。
  お終いの始まり。
  先の見えにくい無人島生活にあっては、終わりないドラマと音楽が最適なのだ。

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さてさて、みなさまの無人島音楽はいかがですか?

お願いランキングは、次回、R・シュトラウスをやってみようと思ってます。

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2013年4月11日 (木)

ショスタコーヴィチ ヴィオラ・ソナタ ツィンマーマン

Ueno2

もう散ってしまったけれど、賞味期限切れにならないうちに。

不忍池からのぞんだスカイツリー。

スカイツリーの出現は、東京や近県の景色をあらたに更新したような気がします。

思わぬところで見えたりするんです。

Shostakovich_sonata_zimmermann

     ショスタコーヴィチ ヴィオラ・ソナタ op147

         Vla:タベア・ツィンマーマン

         Pf:ハルトムート・ヘル

                 (1991.1@ザントハウゼン)


ショスタコーヴィチ(1906~1975)の最後の作品。
亡くなる2か月前に完成した1975年の作品。

ショスタコーヴィチはペシミストの殻をかぶったオプティミストだったと勝手に思ってます。

多くの交響曲や室内楽作品は、重苦しい様相のなかに、あっけにとられるくらいの熱狂と楽天的な爆発も内包してます。
それがまた時に虚しく空虚に響くところが誰の音楽にもないところなのです。
マーラーの方が、はるかにはっきりしてるし、プロコフィエフやブリテンもさらにわかりやすく、共感もしやすい。
ともかく、ショスタコーヴィチの聴後感は、常にふっきれないものを感じ、奥歯にものが挟まったままの状態にされるのです。
思えば、ゲルギエフのショスタコのライブを2度聴いてますが、なにも感じさせない、恐ろしくさばさばと無味乾燥に演奏することで、その感触も倍増され、ホールをあとにするときは、頭の中が???だらけになってしまうという経験を持ってるんです。

むしろそこが魅力の、ショスタコーヴィチなのでしょうか。

割り切れない思いに人をおいやる音楽。

だんだんとそんな風に聴くようになってきたショスタコーヴィチ。

でも、彼の音楽の、緩徐楽章の深い悲しみを感じさせる美しさには、有無を言わせぬ力があります。
交響曲の場合でもそうです。
いろんな引用の多い最後の15番のラルゴにも、哀惜のこもった深淵なる響きを聴きます。

こちらのヴィオラ・ソナタは、全篇にわたり暗い雰囲気が漂いますが、3楽章形式の最後の楽章が全曲の半分を占める大きさで、かつ巨大ともいえるほど深みがあります。
 本CDの外盤の解説に、ヴィオラという楽器はほかの楽器に比べて、悲しみや哀悼を表現するのに向いているとあります。
まさにそう思いますね。
さらに、ここには、マーラーの10番でのヴィオラの活躍まで言及されておりました。

そうした表現のとおりに、このショスタコーヴィチのソナタの終楽章は、厳しくシリアスな感情表現が終始なされており、相当な緊張感を強いられることになります。
そして、ここでは、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」の幻想的な第1楽章が、かなりそのままの姿に引用されていて、ピアノのあの音形が、ヴィオラソロに連符以外の音が、それぞれ随所にわたって登場します。
ベートーヴェンの月光にある幻想味は、沈滞感にとってかわられておりますが、集中して聴くこと15分。その音符の重さがわかり始める最後の方、さしもの雰囲気は徐々に浄化されていって透明感があふれてまいります。
ここにいたって、大いなる感動と、精神の解放感を少しばかり感じるのです。
最後の最後に、救いはありました。
最終作品と意識はしてなかったであろうショスタコーヴィチ。
次の交響曲や、ヴィオラのための複数の作品も準備されておりました。

ベルクのヴァイオリン協奏曲の冒頭をヴィオラソロのピチカートでなぞったような開始部分を持つ厳しい内容の第1楽章。
自作の皮相なオペラ「賭博者」からの引用のある、いかにもショスタコ・スケルツォ的な第2楽章。

トータルで内容の濃い、ショスタコーヴィチののヴィオラ・ソナタでした。

ツィンマーマンとヘル、ともに親日家の演奏家による、コクと暖かさのあるショスタコーヴィチは、冷徹さがひとつもなく、人声のようなヴィオラの音色の魅力と驚くべき表現力を聴かせてました。
ほかの演奏も、いろいろ聴いてみたいです。

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2013年4月10日 (水)

ベートーヴェン ピアノソナタ第14番「月光」 ケフェレック

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お地蔵さんに、葉桜に、東京タワー。

夜間は街路灯やスポットの光で、全篇オレンジカラーでした。

日にちの移り変わりにおける生活の日々の流れ以上に、自然の移り変わりは容赦なく、こちらの情緒の思いとは裏腹にやたらと激しく、早い。
桜は散り、季節はどんどん巡ります。

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     ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 「月光」

        Pf:アンヌ・ケフェレック

                (2004.10 ナント)

俗に言う、いわゆる「月光ソナタ」を聴きます。

そのタイトルは後付けではあるにしても、やはりこの曲の第1楽章の幽玄かつ幻想味あふれる音楽は、いまでも、えも言われぬロマンティックな感情を呼び覚まします。
 そう、初めて聴いたころの中学生時代の自分の思いを遠くから呼び覚ますような感じ。
いまやどこからどこまでも完璧極まりないオッサンになってしまいましたが、俗に言う、いわゆる思春期ってヤツですよ。

もの思いにふけったり、大そうに人生などを考えたり、女子のことを思ったりなどなど。
そんなときに、この「月光ソナタ」は絶好のバッググランドミュージックだったわけ。
これ聴いて、ほわ~んとしてたんですよ。
あの頃に戻って、一から出直したいもんだ。
でも、もしかしてクラヲタ君にならなかったかもしれないので、それは困るから、いまのままのオッサンでいいや。

そんなことを妄想しつつ「月光ソナタ」です。

3つの楽章のメインたる第1楽章がないともいえる、緩急急の少しばかりいびつな存在が、これまた幻想風な佇まいなわけです。

今日の演奏は、やはり中高時代に、あこがれた、おフランスの美人お姉さま、アンヌ・ケフェレック様です。
しっとりとエレガントな貴婦人のようなアンヌさま。
エラート時代のレコードもそこそこ集めましたよ。
当時、女流ピアニストというと、アルゲリッチのような奔放系や、ラローチャのようなおばさま系で、本物の美人系のしっとり派はあまりいなくて、わたくしは子供心にアンヌ様の登場をむちゃくちゃ喜んだものです。
同様に、クリダとかコラール、ピリスなどのフランス・ラテン系の方々にも心惹かれましたね。

ケフェレックは、このところ毎年のように日本にやってきてくれますが、どうもタイミングが合わず聴けずじまい。
なんとか、そのステージに接してみたいものです。
メインの第1楽章も麗しくも素敵な演奏ですが、わたくしは以外にも第2楽章の小粋な軽やかさがとても気にいりました。

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あの頃のケフェレックさま。

わたくしも若かった。

月光ソナタ 過去記事

「ルービンシュタインのCD」

 

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2013年4月 7日 (日)

マタイ受難曲と某交響曲

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東京タワーと桜を写しだす手水舎。

静謐で時間が止まったように感じます。

日本人でよかったな、と思うこの感性。きっと同感いただけると思います。

金曜の早朝、寝付かれず、なにげに見たメールは20年来の仕事仲間の訃報でした。

冷や水を浴びせられたかのような衝撃でした。

会社を辞めると、その会社内だけの付き合いだった人、取引先でも、会社の名前あっての付き合いだった人。
こんなにはっきりすることはありません。
でも、彼はまったく違いました。
変わらぬお付き合いを継続した仲間でした。

一緒に各地に出張して酒も飲みまくりましたね。

仙台では飲み過ぎて、酔いすぎて上着をまるきり裏返しで着てしまい、それで街に出ていこうとするものだから、大慌てでとどめました。内ポケットが丸出しで財布取りほうだいですから。

新潟の六日町には、豪雪のなかを何度か行きました。車で向かったとき、超大盛りのへぎそばを食べ、カーステレオでかけられた音楽は「マタイ受難曲」の最後の合唱。
彼はまじめで超かたい人なのでしたが、まさかクラシック音楽を聴くとはこのときまで知りませんでした。そして、さらにディープ・パープルやツェッペリンも。

多くの方から信頼を寄せられる生真面目かつ完璧な仕事ぶり。
姉歯事件以来、構造計算もできる彼はコストも安いためひっぱりだこで、超多忙。
そして仕事に没頭するようになり、いつしか体に変調をきたしていたのでしょう。

徹夜仕事のなか、仮眠をしながら眠るように亡くなりました。
付けっぱなしのPCは、仕事の途中でした。

Richter

 亡くなった彼が選んだマタイは、なんとショルティ盤。

「われら涙流しつつひざまずき」は、そのショルテイ盤はいまや遠くに聴こえる印象にすぎませんが、かっちりとマスの響きがする強い演奏だったように記憶します。

いま聴く演奏は、わたくしにとって、そして多くの方々にとって絶対的な存在であったリヒターの58年の録音。

痛切で、厳しく突き放されるような演奏でありながら、人を包み込むような大きさを持ったリヒターのこの演奏の最後の合唱は、癒しとともに、やはり人間を問い詰めるような問題意識をはらんだものに聴こえます。

永遠に素晴らしい「リヒターのマタイ」。

昨日、灰になってしまった彼にも届くといいです。

Samuragochi_sym1

この曲を紹介できず、聴かすことができなかったのが残念です。

 交響曲第1番「HIROSHIMA」。

いまこうして、弔いとして、この闘いと平安にあふれる劇的な交響曲を聴くことも充分ありだと思います。

すっかりなじんだこの交響曲。

聴くシテュエーションごとに、ありがたい効能があるように思えるようになってきました。

今日は、ことさらに、第2楽章のトロンボーンによる無常なるコラールが心に沁みました。
そして、いつものように、終楽章の光明に、心に光が射し、広がります。

この曲の存在は、このようにして、われわれの中にしっかりと根付き、なくてはならない音楽になった感があります。
ほんとうに、ありがたい、感謝すべき交響曲です。

あわせまして、仲間のご冥福をここにお祈りいたします。

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2013年4月 6日 (土)

シマノフスキ ヴァイオリン協奏曲第1番 ニコラ・ベネデッティ

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先週末、千葉の平山大師。

この紅枝垂れだけが咲き残っておりました。

鮮やかな色合いです。

昨日は、寝不足に加え、いろんなことがおきて、ドラマティックな一日でした。

そのことは、いずれまた、その思いを書いておきたいと思います。

Benedetti_symanovsky

  シマノフスキ ヴァイオリン協奏曲第1番

        Vn:ニコラ・ベネディッティ

    ダニエル・ハーディング指揮 ロンドン交響楽団

                  (2004 @ロンドン)


カロル・シマノフスキ(1882~1937)は、分裂時のポーランド生まれ、その生没年からわかるとおり、世紀末系の作曲家。
55歳での死去は、いまからすれば早すぎるもので、なかなかに劇的なその人生は、その早世を肯かせるものでもあります。

裕福な家庭に育ち、ふんだんな音楽教育を受け、ポーランド音楽界の新たな流れの会にも影響を受け(カルウォヴィチの後輩)、その後ヨーロッパ各地を楽旅。
帰還後、ロシア革命の一派による襲撃を受けるなどして、裕福だった家も没落してしまい、困窮と病の中に亡くなってしまう。

その人生を裏付けるように、シマノフスキの音楽作風はそれぞれの時期に応じて変転し、大きくわけると、3つの作風変化があるといいます。

後期ロマン派風→印象主義・神秘主義風→ポーランド民族主義風

その人生にあてはめると、裕福時代→楽旅時代→帰国後の苦難時代、という風になるかと思います。

まだシマノフスキ初心者のわたくしで、多くは聴いてませんが、4曲ある交響曲のうち以前取り上げた第3番「夜の歌は、真ん中の印象主義・神秘主義風時代のもので、ペルシャの詩につけたミステリアスな交響曲でした。

そして、今回のヴァイオリン協奏曲第1番も、まさにその時期に位置する実にナイスな存在なのです。
1915~16年に作曲。
ポーランドの哲学者・詩人のタデウシュ・ミチンスキの詩集「5月の夜」という作品に霊感をえた作品。
ミチンスキの詩集「星の薄明かりのなかで」という作品に、先に6つの歌曲をつけていることから、この詩人を知ることになったとされます。
その詩を是非読んでみたいと思います。
音楽を先に知り、その元となった文学作品を確認するというのも、なかなかに好奇心をあおるものでして、ことにこのシマノフスキ作品のようにいろんな要素が多面的に織り込まれているところを聴くとなると、ますます知りたくなります。

曲は単一楽章で、約27分の標準協奏曲サイズ。
打楽器多数、ピアノ、チェレスタ、2台のハープを含むフル大編成のオーケストラ編成で、それに対峙するヴァイオリンも超高域からうなりをあげる低音域までを鮮やかに弾きあげ、かつ繊細に表現しなくてはならない、難易度の高いソロです。

鳥のざわめきや鳴き声、透明感と精妙繊細な響きなどドビュッシーやラヴェルに通じるものがあり、ミステリアスで妖しく、かつ甘味な様相は、まさにスクリャービン。
そして、東洋的な音階などからは、ロシアのバラキレフやリャードフの雰囲気も感じとることができます。
これらが、混然一体となり、境目なく確たる旋律線もないままに進行する音楽には、もう耳と体をゆだねて浸るしかありません。
こんな聴き方をすること、瞬くような流れの音楽、こうした類の音楽に、わたしはいつも快感を覚え、脳内細胞が時には活発になり、そして時には緩やかにほぐれていくのを感じとることができます。

ともかく、わたくしの音楽嗜好にストレート・マッチしたシマノフスキのヴァイオリン協奏曲なのです。

そして、わたしの大好きなニコラ・ベネデッティが弾いているんだもの。好きになりますわな。
DGデビューのこの音源は、実は録音してすませていたところ、最近ちゃんと購入したら、レーベルがデッカになって、その刻印がジャケットにしっかり押されてました。
ビュジュアル派のヤワな存在とは違う本格派の彼女。
先生のひとりがポーランド人だったこともあり、この方のサジェストでシマノフスキを知ることになり、レコーディングに結びつきました。
時に奔放に、時にロマンテッィクに、でもニコラらしい健康的なヴァイオリンがとても清々しく、曲の魅力とともに、何度聴いても飽くことがありません。

Nicola_1

カワユク美しいニコラたん

少し前、日本に来てたんですねぇ。

過去記事

「コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲」

「プロムス2012 ブルッフ スコットランド幻想曲」

「プロムス2012 ブルッフ ヴァイオリン協奏曲」

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2013年4月 4日 (木)

カルウォヴィチ ヴァイオリン協奏曲 バリノワ&コンドラシン

Kitte_1

東京駅丸の内口にオープンした商業施設「KITTE」

旧東京中央郵便局の建物を、その意匠のままに活かし、さらに郵便事業窓口は従来の場所に残しつつ、6階以上の上階を高層オフィスビルとして再スタート。

とのこと。

オープン数日後に、ちら見してきましたが、人の多さに辟易とし、そしてもうしばらくして人が減ってゆっくり味わえたとしても、わたくしには、あんまり魅力ある場所には思えませなんだ。

こんな一等地で、ご覧のような贅沢空間。
建築上の制限や容積の授受などがあったのか。

この空間に不安を感じる。

みんな多くの人が、せせこましい自分空間に息苦しく生きているのに、日本でも超トップクラスの贅沢立地をこんな風に使うなんて。
各回廊は、人だらけで、回遊性を犠牲にして、年寄りにあまりに優しくない。
おまけに、なんだかよくわからんアート展示もやたらとあって。
高額な賃料を払えるテナントは、どこにもあるようなものばかり。
賃料レヴェルを格安にして、全国の物産館を終結するとか、中小の面白いテナントにチャンスを与えるような開発をして欲しかった。

まあ、素人が遠吠えしてもしょうがないですけどね。つまらん。

Karlowicz

  カルウォヴィチ  ヴァイオリン協奏曲 イ長調

     Vn:ガリナ・バリノワ

  キリル・コンドラシン指揮 ソビエト国立フィルハモニー

                   (1955 モスクワ)

こちらは、実に面白い、というか、実に素敵な作曲家。

ミチェスラフ・カルウォヴィチ(1876~1909)は、ポーランド、ヴィリニュスに生まれたポーランド後期ロマン派・世紀末の作曲家。

少し後輩のシマノフスキとともに、ポーランドの新たな音楽の流れをつくる会派に属し、世紀末ムードを愛する故国ポーランドに導きいれ、いくつかの交響詩や管弦楽作品を残した。
しかし、無情にも登山愛好家でもあったカルウォヴィチは、雪山登山中に雪崩にあって33歳の若い命を散らしてしまう。

残された音楽は、いままた、マーラーが普遍的になったように、同時代の優れた音楽がクローズアップされ、私淑したR・シュトラウスやワーグナーの流れの中にも捉えられるようになり、密かなブームになっているのです。

作品数はさほど多くはありませぬが、例によってナクソスやシャンドスで聴けるようになってます。

今宵のヴァイオリン協奏曲は、1902年の作曲で、ポーランド的な民族臭よりも、ロマン派末期、まるでブルッフのような馥郁たるロマンと熱っぽい情熱を感じる音楽に聴こえました。
そう、このヴァイリン協奏曲においては濃厚後期ロマン派というよるは、少し若め、実際20代の青年の作であるからして、初々しくて素直、あざとさもないブルー系の爽やか系協奏曲なのですよ。
最大の魅力は、いましがた述べたような爽やかなロマンティシズムあふれる第2楽章。
ほぼ、ブルッフのヴァイオリン協奏曲ですよ。
わたしには、ブルッフと初期R・シュトラウス、そしてコルンゴルトの間に位置するようなヴァイオリン協奏曲に聴こえました。
ほんと、素敵な音楽なのですから!

決然とした第1楽章と、ヴァイオリンの名技性も活かした、これまたブルッフ級の素敵な3楽章。

ともかく大らかな歌が大事なカルウォヴィチの協奏曲。

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1852~1961年(たぶん)の生年没歴のガリーナ・バリソワはサンクトペテルブルク生まれで、のちにパリで、ロン・ティボーに学ぶなどして、ヨーロッパ系としても名を残しましたが、いまはほとんど知られぬ存在となっております。
共産圏音楽家として、レーニン賞を受賞したりしてますし、リヒテルとの共演もあったりして、未知の国ソ連では、なかなかの存在だったようです。

コンドラシンとの50年代の共演によるこのカルウォヴィチ。
当時は政治的にも共産圏として、ソ連配下のポーランドとしての作曲家。
そんなことは、この演奏を聴く限りわかりませんが、美しい2楽章を東西の隔てなく活動した二人の音楽は、そんなことは関係なく純なる眼差しで演奏していることがよくわかります。

カルウォヴィチの交響作品は、いずれまた取り上げたいと思います。

この作曲、そしてポーランド作曲家への愛情あふれる数々の記事は、ブログ仲間のnaopingさんのサイトを是非ともご覧ください。

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 そして、美人なバリノワさん。

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2013年4月 3日 (水)

ジョン・ウィリアムズ ヴァイオリン協奏曲 ペスカーノフ&スラトキン

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新幹線が西に向かって走り抜け、上ではお台場・豊洲方面は向かうゆりかもめ線。

東京ばかりが、日本の中心となってゆく。

これでいいのだろうか。

4月を迎え、真新しい着なれぬスーツを着た若者もやたらと目立つ。
彼らは、まだまだ社会人として、その空間に溶け込めず、ルーティンと化した画一化された先輩社会人たちの行動様式からは浮くばかりだ。
その初々しい毒されぬ新鮮さも5月頃には姿を消してしまい、ビジネス街はまたいつもの景色に戻るのです。

そんなことに反骨する若者はもういません。

面白みのない風景ばかりになってしまったけれど、清新な気持ちだけは持ち続けていて欲しいし、そうありたいもの。

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   ジョン・ウィリアムズ  ヴァイオリン協奏曲

      Vn:、マーク・ペスカーノフ

   レナード・スラトキン指揮 ロンドン交響楽団

                    (1981.ロンドン)

あの「スターウォーズ」を始めとする映画音楽の大作曲家、ジョン・ウィリアムズ(1932~)の本格クラシカル作品のひとつ、ヴァイオリン協奏曲。

J・ウィリアムズの映画音楽担当作品は、あのタイトルを羅列することさえ無意味なくらいに、アメリカの映画のビッグネームはほぼすべてが彼の作品。
最近作では、「リンカーン」もJ・ウィリアムズの音楽のようです。

指揮者としても、A・フィードラー後のボストン・ポップスを大いに盛り上げ、CD音源もたくさん残したことはみなさんご存知のとおり。

こちらのヴァイオリン協奏曲は、1974年に作曲を始め、1976年10月に完成されています。
その間の映画音楽作品は、「タワーリング・インフェルノ」「ジョーズ」「ミッドウェイ」。
さらに翌年から、「未知との遭遇」「スターウォーズ」「スーパーマン」と大ヒット作が続きます。
そんなある意味、J・ウィリアムズの映画音楽の最充実期が花開く頃に、併行して、このようなシリアスな本格ヴァイオリン・コンチェルトが書かれていたことを知ることは驚きです。
1974年に、J・ウィリアムズは、妻で歌手&女優だったバーバラ・リュイックを病気で亡くしてしまいます。バーバラ43歳の若さでした。
その妻への思い出もこめて、この協奏曲は書かれました。

ちなみに、ふたりの間には3人の子供がいて、末弟のジョセフは、アメリカン・ロックのグループ「TOTO」のボーカリスト兼作曲家の歴代のひとりです。
彼はまだ50代の若さですから、今後いかなる活躍を見せるか楽しみではあります。

J・ウィリアムズが泣き妻に寄せた思いは、この協奏曲の第2楽章に聴いてとれるような気がします。
急・緩・急の伝統的な協奏曲のスタイルを持つこのヴァイオリン・コンチェルトですが、映画音楽の天才的なクリエーターとしてのJ・ウィリアムズの馴染みのいい、親しみやすさとストレートなまでのわかりやすさは、ここではなりをひそめていて、1楽章から難解な雰囲気でしかめっ面をしたこの作者の別の一面を見る思いなのだ。
終始、厳しい表情は崩さず、シェーンベルクのような分析的な音楽にも感じて、最初は辟易としてしまった。

第2楽章は、同じシリアスな要素は持ちながらも、内向的で、亡き妻への思いが静々と淡々と語られるようで、なかなかに聴かせます。
その主要主題はメロディアスで美しいのです。
しかし、中間部ではまた尖がった曲調となるところが本格派としての意思を感じるJ・ウィリアムズの筆致です。

3楽章のプレストは、無窮動的な速いパッセージに覆われるカッコいい展開とそのサウンドです。
演奏会ではなかなかに盛り上がりを見せることでしょう。

34分あまりを要する、なかなかの大作です。
聴いていて、先輩のバーバー、そしてなによりも、ハリウッドの先達、コルンゴルトのヴァイオリン・コンチェルトをも強く感じさせる音楽であることに思いを寄せるようになりました。
少しばかり強面ですが、ロマンティック・アメリカ音楽の系譜をしっかりと受け継いでいる音楽なのでした。

そして忘れてはならないのが、このCDのプロデュースはエーリヒ・コルンゴルトの息子、ジョージ・コルンゴルトによってなされているということです。
父とともにアメリカにわたり、ハリウッドで、おもに父の作品の録音プロデューサーとして活躍しましたが、1987年に59歳で亡くなってしまいました。

この曲の初演者である、ペスカーノフは、D・デレイとI・スターンに学んだ人で、1981年にスラトキン指揮するセントルイス響とともに初演奏を行いました。
その後にロンドンで行われたのがこちらの演奏です。
大衆性からは遠い作品ではありますが、こうして立派な演奏が残されていて、ほおっておくにはもったいない現代、いまあるヴァイオリン協奏曲のひとつだと思います。

併録のフルート協奏曲は、さらにシャープな、そして武満とブリテンっぽいクールサウンドでした。

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2013年4月 2日 (火)

墓場のにゃんにゃん③

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だらだらと続いてます、墓場シリーズ。

寝る猫を起こし、こんなワンショット。

お尻、ごめんあそばせ~

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油断してると、こんなふうに、すぐにウトウトしてしまう、無防備極まりないにゃんにゃんなのでした。

お約束の前足折りも可愛いじゃないの。

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また寝ちゃいました。

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あ~、いかにも平和な雰囲気。

彼女(彼?)には人間界のややこしい出来事や、鬱陶しさは、まったく無縁で関係がないのです。

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ふぁ~・・・・。

まったく何を考えているのやら。

ほんとうに、うらやましく思います。

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ぼんやりしまくりのニャンコを、調子に乗って頂上激写。

なでなでしたい!

こんな風に遊んでいたら感じた厳しい視線。

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視線の先は、お隣のお墓から。

もう一匹が、いつもまにか登場して、こちらを観察しておりました。

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「まったく! 何やってるんざますか!」

「おバカな人間のなすがままになって!!」

その視線は、人間のワタクシではなくて、呑気なにゃん太郎(子)に向けられていたのでしたぁ~

また会おう、ナイスなにゃんこたち!

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