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2013年4月11日 (木)

ショスタコーヴィチ ヴィオラ・ソナタ ツィンマーマン

Ueno2

もう散ってしまったけれど、賞味期限切れにならないうちに。

不忍池からのぞんだスカイツリー。

スカイツリーの出現は、東京や近県の景色をあらたに更新したような気がします。

思わぬところで見えたりするんです。

Shostakovich_sonata_zimmermann

     ショスタコーヴィチ ヴィオラ・ソナタ op147

         Vla:タベア・ツィンマーマン

         Pf:ハルトムート・ヘル

                 (1991.1@ザントハウゼン)


ショスタコーヴィチ(1906~1975)の最後の作品。
亡くなる2か月前に完成した1975年の作品。

ショスタコーヴィチはペシミストの殻をかぶったオプティミストだったと勝手に思ってます。

多くの交響曲や室内楽作品は、重苦しい様相のなかに、あっけにとられるくらいの熱狂と楽天的な爆発も内包してます。
それがまた時に虚しく空虚に響くところが誰の音楽にもないところなのです。
マーラーの方が、はるかにはっきりしてるし、プロコフィエフやブリテンもさらにわかりやすく、共感もしやすい。
ともかく、ショスタコーヴィチの聴後感は、常にふっきれないものを感じ、奥歯にものが挟まったままの状態にされるのです。
思えば、ゲルギエフのショスタコのライブを2度聴いてますが、なにも感じさせない、恐ろしくさばさばと無味乾燥に演奏することで、その感触も倍増され、ホールをあとにするときは、頭の中が???だらけになってしまうという経験を持ってるんです。

むしろそこが魅力の、ショスタコーヴィチなのでしょうか。

割り切れない思いに人をおいやる音楽。

だんだんとそんな風に聴くようになってきたショスタコーヴィチ。

でも、彼の音楽の、緩徐楽章の深い悲しみを感じさせる美しさには、有無を言わせぬ力があります。
交響曲の場合でもそうです。
いろんな引用の多い最後の15番のラルゴにも、哀惜のこもった深淵なる響きを聴きます。

こちらのヴィオラ・ソナタは、全篇にわたり暗い雰囲気が漂いますが、3楽章形式の最後の楽章が全曲の半分を占める大きさで、かつ巨大ともいえるほど深みがあります。
 本CDの外盤の解説に、ヴィオラという楽器はほかの楽器に比べて、悲しみや哀悼を表現するのに向いているとあります。
まさにそう思いますね。
さらに、ここには、マーラーの10番でのヴィオラの活躍まで言及されておりました。

そうした表現のとおりに、このショスタコーヴィチのソナタの終楽章は、厳しくシリアスな感情表現が終始なされており、相当な緊張感を強いられることになります。
そして、ここでは、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」の幻想的な第1楽章が、かなりそのままの姿に引用されていて、ピアノのあの音形が、ヴィオラソロに連符以外の音が、それぞれ随所にわたって登場します。
ベートーヴェンの月光にある幻想味は、沈滞感にとってかわられておりますが、集中して聴くこと15分。その音符の重さがわかり始める最後の方、さしもの雰囲気は徐々に浄化されていって透明感があふれてまいります。
ここにいたって、大いなる感動と、精神の解放感を少しばかり感じるのです。
最後の最後に、救いはありました。
最終作品と意識はしてなかったであろうショスタコーヴィチ。
次の交響曲や、ヴィオラのための複数の作品も準備されておりました。

ベルクのヴァイオリン協奏曲の冒頭をヴィオラソロのピチカートでなぞったような開始部分を持つ厳しい内容の第1楽章。
自作の皮相なオペラ「賭博者」からの引用のある、いかにもショスタコ・スケルツォ的な第2楽章。

トータルで内容の濃い、ショスタコーヴィチののヴィオラ・ソナタでした。

ツィンマーマンとヘル、ともに親日家の演奏家による、コクと暖かさのあるショスタコーヴィチは、冷徹さがひとつもなく、人声のようなヴィオラの音色の魅力と驚くべき表現力を聴かせてました。
ほかの演奏も、いろいろ聴いてみたいです。

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