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2013年7月

2013年7月31日 (水)

ファリャ 「スペインの庭の夜」

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浅草の夕暮れ。

華やかな仲店通りよりは、ぐっと落ち着いた伝法院通りの方が、宵闇どきはいい。

さらに、まだ明るいうちから飲めてしまう、煮込み横丁なんてのも最近は素敵なもんでさぁ。

浅草の夜は早ぇえ、てやんでぇ、長っちり(尻)はいけねぇぜ、旦那っ!

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  ファリャ  交響的印象「スペインの庭の夜」

      ピアノ:ティモン・バルト

    サー・ネヴィル・マリナー指揮

   アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

                  (1993.2@アビーロード・スタジオ、ロンドン)


ジャケットが、メイン曲の「三角帽子」なものだから、今宵のムーディなスペイン情緒あふれる曲とそぐいません。

しかし、イギリス紳士たちが襟を正して演奏しようと、なにがあっても、ここに聴かれるファリャの音楽は、スペインのそれ、そのもの。

ファリャ(1876~1946)は、その生没年からいったら、ドイツでは後期ロマン派~世紀末系、フランスでいえば印象派~近代といった時系列に属する人ですが、パリに学んで、フォーレ、ドビュッシーやラヴェルらとも親交をまじえながら、戦争の開始により、生まれ故郷のスペインのアンダルシア地方に居を移し、そこでスペインを常に思いつつ、作曲にいそしんだものの、最後は独裁フランコ政権の誕生で、アルゼンチンに亡命して、そこで亡くなっている。

最初から最後まで、スパニッシュ系のラテンの血とともに生きたファリャの音楽には、先にふれたとおり、これぞスペインという熱いたぎりと、独特のリズム、それに新古典的なシンプルさも加わって、ほかの誰ともことなるユニークなものとなってます。

特定の曲しか聴いてませんが、「三角帽子」や「恋は魔術師」のバレエと並んで、オペラ「はかなき人生」などは、スペイン情緒ムンムンななかに、ヴェリスモ的な情熱と甘い感傷が入り混じった名品です。
そして、さらに、わたくしが好きなのは、「スペインの庭の夜」。
以前、決定盤ともいえる、ラ・ローチャ盤を取り上げてます。

ピアノ協奏曲的な側面もあるこの曲。
アラビアの治下にあってエキゾティックな文化がとりわけ栄えた南スペインのアンダルシア地方。
3つの場面からなる、それぞれの地のまさに印象を幻想風に扱ったもので、グラナダの名所旧跡を思いつつ聴くと、まさにその情緒満点ぶりに、リスニングルームの蒸し暑い日本の夏が、物憂くけだるいアンダルシアの夏と化してしまうことでしょう。

Alhambragranada

    1. 「ヘネラリフェ(庭園)にて」

    2. 「はるかな踊り」

    3. 「コルドバの山の庭にて」


1は、、まさにアルハンブラ宮殿。
すべての色彩が濃い。夜の音楽だけども、静かな中にも空気は濃密で、鼻腔をくすぐる花の香りと、おっと、黒髪のスペイン女性すらそこに・・・・・。

2は、遠くに聴こえるスペイン舞踏曲を、けだるい思いでやり過ごすの図。
時おり、リズムが高鳴り、興奮を呼びさます。

3は、ピアノのもろスペイン調のソロがたまらなく異国情緒を醸し出して、ときにセクシー。
イスラム調の建築物に漂ういにしえの雰囲気、スペインの夜のミステリアス感と、庭から漏れてくる甘い誘惑の香りとが聴く者を惑わせてくれる・・・・・。

Medinaazahara

夏の夜の音楽としては、これもまた定番のひとつでしょう。

昨日のイギリスとスペイン、こうも違うものなのか。

スペイン音楽が不思議とお似合いの、サー・ネヴィル。

アカデミーとの英国コンビとは思えないスペイン調だけど、やはりそこはマリナーさん。
すっきり爽やかで、最近名前を聴かないバルトのピアノもよいですよ。

音楽による旅は楽しいものです!

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2013年7月30日 (火)

ディーリアス 「夏の庭園で」 ハンドレー指揮

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ラベンダーの茂る庭園、遠くには東京タワー。

都心のど真ん中にもこんな静かな場所があって、わたくしのお気に入りです。

暑い夏は、疲れるけれど、いろんな植物や虫たちが元気にその季節を謳歌してます。

今年の不順な夏には、人間たちはもうお疲れぎみ・・・。

Delius_handley

  ディーリアス  「夏の庭園で」

   ヴァーノン・ハンドレー指揮 ハルレ管弦楽団

                     (1981.9 @マンチェスター)


先週から、ワーグナーばっかり聴き過ぎた。

よりによって、プロムスとバイロイトで、ワーグナーの楽劇攻勢が激しく、暇さえあれば、ネットラジオでかの地の模様をむさぼるように確認して、視聴せざるを得ない状況に自分を追いこんでいる。

おまけに、仕事のほうも、家庭の方も忙しくってたまらない。

そんなワーグナーや諸事に疲れたときの、わたくしのもっとも有効な解毒作用をもたらす音楽は、ディーリアスです。

輪郭が曖昧で、自己主張しない自然描写にもあふれる感覚的な音楽は、耳にも、心にも優しく、ほのかな微光でもって気持ちを柔らかくほぐしてくれる。

昨年、生誕150年のアニヴァーサリーを静かに、騒がれることなく終えたディーリアスは、今年もまた、わたしにとっては平常運転の癒しの存在だ。
ただ惜しむらくは、新しい録音があまりなく、相変わらず60~80年代くらいの音源を繰り返し聴くのみなところが寂しいところ。
相次いだ、英国指揮者たちの早世は、ディーリアス指揮者を生むことがなく、いまに至ってしまっている。

四季おりおりで、ディーリアスには素敵な管弦楽作品があるけれど、なんといっても、英国の美しい夏に相応しい音楽を数々残しました。
そのほとんどを、もうこちらで記事にはしてしまいましたが、今宵はまたあらためて、同じ曲同じ演奏の再登場となりました。

1906年に、愛する妻イェルカのために書いた「夏の庭園で」は、イギリスの短い夏のひとコマを、誰しもが思い浮かべるような英国庭園を思わせるような描写的な曲調の幻想作品です。

「ものうい昼下がり、バラやハーブが咲き乱れる庭は、英国風に、自然のなすがままの、少しばかり粗野な雰囲気も残しつつ、美しい調和のとれた様子です。
蝶は、花々の間を舞い、蜜蜂は忙しく飛び回ります。
わたしたちは、パラソルの日影の下で蜂たちの羽音を聴き、遠くの川で遊ぶ子供たちの声にも耳を傾けつつ、氷のなみなみと張ったジンがベースの爽やかな飲み物をいただきます・・・・・」

こんな風に夢見心地に聴いてます、「夏の庭園で」。

ハンドレー盤は、レコード時代末期にLPで買っていらいの愛聴盤。
客観的で涼しげな演奏が好きです。
あとバルビローリのいとおしむような愛情たっぷりの演奏も。

過去記事

Handley_delius

       
      ハンドレーのLP

「ハンドレー&ハルレ管」

「バルビローリ&ハルレ管」

「ワーズワース&ロンドン響」

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2013年7月28日 (日)

ワーグナー 「ニーベルングの指環」② バイロイト2013


Sculpturesofgermancomposerrichardwa


誰か~、リヒャルトだよう~、もう~

続けて、27日上演の「ワルキューレ」までを視聴完了。

  「ラインの黄金」

 ウォータン:ウォルフガンク・コッホ  ドンナー:オレクサンドル・プシニアク
 フロー:ローター・オディニウス    ローゲ:ノルベルト・エルンスト
 フリッカ:クラウディア・マーンケ    フライア:エリザベト・シュトリッド
 エルダ:ナディーヌ・ヴァイスマン   アルベリヒ:マルティン・ウィンクラー
 ミーメ:ブルクハルト・ウルリヒ     ファゾルト:ギュンター・グロイスベック
 ファフナー:ゾリン・コリヴァン     ウォークリンデ:ミレッラ・ハーゲン
 ウェルグンデ:ユリア・ルーティグリアノ 
 フロースヒルデ:オッカ・フォン・デァ・ダムラウ

  「ワルキューレ」

 ジークムント:ヨハン・ボータ     ジークリンデ:アニヤ・カンペ
 フンディング:フランク・ヨーゼフ・ゼーリヒ ウォータン:ウォルフガンク・コッホ
 フリッカ:クラウディア・マーンケ   ブリュンヒルデ:キャスリン・フォスター
 ゲルヒルデ:アリソン・オークス    オルトリンデ:ダーラ・ホッブス
 ワルトラウテ:クラウディア・マーンケ シュヴァルトライテ:ナディーヌ・ヴァイスマン
 ヘルムヴィーゲ:クリスティアーネ・コール ジークルーネ:ユリア・ルーティグリアノ
 グリムゲルデ:ジェネヴィエーヌ・キング  
 ロスワイセ:アレクサンドラ・ペーターザマー

 

    キリル・ペトレンコ指揮  バイロイト祝祭管弦楽団

      演出:フランク・カストルフ

        舞台装置:アレクサンダー・デニュク  

        衣装:アドリアーナ・ブラーガ・ベレツキ

        照明ライナー・カスパール

             (2013.7.26、27 @バイロイト)


演出はいまのところ想像するのみですが、音楽の方はとても充実している。

ロシアのオムスク生まれの41歳のキリル・ペトレンコの指揮が、思った以上に素晴らしい。

早くから早熟の才能を発揮し、寒い当地でピアニストとして頭角を現したが、音楽一家だった家族とともに体制崩壊後、18歳でオーストリアに移住。
以来、劇場からの叩き上げで修行して実践を積んでゆき、カペルマイスターとして名を成すようになり、ウィーンのフォルクスオーパーの指揮者に抜擢。
その後、マイニンゲンの音楽監督、ベルリン・コーミッシュオーパーの音楽監督を務め、さらに今年2013年9月からは、K・ナガノの後を継いで、バイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任するという出世街道まっしぐらの指揮者。
各劇場、オーケストラからもひっぱりだこで、ベルリンフィルの常連にもなって、いまや、ラトルの後任候補として名まえも上がるくらいになったペトレンコさん。

Petorenko

CDでは、スークの管弦楽曲を数枚持つのみで、ワーグナーを聴くのはこれが初。

しかし、若さに似合わず、豊富な劇場体験からくる落ち着きと、すぐれたバランス感覚にあふれた音楽造りに驚く。
きっと動きの激しい舞台上の歌手たち、その声を覆い隠すような鳴らし方は一切しない。

それでいて、音それぞれは生き生きとしていて、フレッシュな若さと、不思議なまでの落ち着きに満ちている。
舞台にライトモティーフがあらわすモティーフがないのだろうけれど、そこは妙な説得力を出さずに、音楽的にスコアを鳴らしきることに撤しているようで、シンフォニックでもある。

実は、このペトレンコの見事な指揮があるからこそ、軽々しい演出が中和されたのではなかろうかと思ったりもしてる。

ティーレマンのような重厚さや、ある意味強引なまでのドイツ的な説得力はここにはないけれど、ワーグナーの音楽の精彩と力強さが充分に表出されているように思った。

定評ある歌手たちと、あらたに登場した歌手たちが混在する今回のキャストも穴がなく、聴いていて、まさかあの舞台でいろんなこと演技しながら歌っているとは思えないくらいに巧いもんだ。
かつての目や背中で演技するような深淵な芸当は遠ざかり、いまはすべてリアルが伴う演技をこなさなくてはならない歌手たち。
オーケストラが巧くなったように、オペラ歌手たちも、歌って踊って演技ができなくてはならないのだ。

少し軽めのコッホのウォータンは、ギラギラしてた「ラインの黄金」とうってかわって、悩み多く愛情いっぱいのウォータンに転じていたし、新登場のイギリスのブリュンヒルデ、フォスターも力強く、そして女性的な魅力もあり、輝きある声がいい。
画像には毎度困ったものだが声は最高に素晴らしいボータのジークムントと、ロンドンと掛け持ちでジークリンデを歌っているカンペもいい。
 個性的な、ラインゴールドのアメリカ村の面々も、いずれもよかった。
私的には、ウォークリンデと、これから鳥の声を歌うミレッラ・ハーゲンに歌も容姿も注目。

 しかし、無理な話だけど、往年のワーグナー歌手たちに比べると、全般に軽々しいことこのうえなし。
これもまた時代。
能のような舞台であってこそ映える神々しい歌いぶり。

いまの展開の早いすべてが同時進行のドラマのような舞台では、そんな声は不釣り合い。

回り舞台を駆使して、派手ハデな舞台を次々に展開していた様子の「ラインの黄金」

「ワルキューレ」では、どうも時代がさかのぼったような感じがします。

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フンディングのおうちは、西部アメリカの裕福な農家か。

ついにここでは剣が登場し、妙に似合う。

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旦那は槍もってのご帰還。

しいたげられてるジークリンデは、お昼は別なバイトでもしてるんでしょうか。

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木造のハウスは、ラインの黄金の時の薄っぺらなアメリカ村とは違い、質実がそこにあり、生活感もある。

前作のときの、神々の馬鹿らしい世界と比べた、人間界の木質感をあらわしたかったのか。

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そして、あの浅薄だったウォータンが哲学者のような風貌にチェンジ。

金髪の親分のオカミサンのようなフリッカもなぜか、時代をさかのぼってしまったかのように、もしかしたらワーグナーの同時代か?
後ろにある内燃機も気になる。

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誰やねん? 

はい、これはどうみてもマルクスだろうというウォータン。

何の心変わりか不明のウォータンだし、時代は60年代から、100年も遡ってしまった感じ。

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逃避行のジークムントとジークリンデはト書き通りには見えます。

主婦みたいなカーディガン姿が痛々しい。

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なんだか、いろんな衣装のワルキューレたちは、アメリカン。

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ローゲの炎もショボイ雰囲気で、ボヤみたい。

ディズニーのウエスタンランドみたい。

ウォータンは髭を刈ってしまい、槍ももって、さすらう気まんまん。

さっぱり、理解不能の「ワルキューレ」。

単独感のあるワルキューレだけど、これだけ前作との乖離があるのも珍しい。

ウォータンやフリッカが同一人物であることが画像からは理解でできない。

 というわけで、4部作を不統一に、ばらばらに、アメリカの資本主義虚と実を描こうとするのだろうか。

ここまできて、面白いけど、けっして面白くないと、思うようになってきた。

なにも「リング」でそんなこと表現しなくたって・・・・。

「ラインの黄金」のあとには、おそらく演出に向けての激しいブーイングと、演奏家に向けてのブラボーが交錯したが、「ワルキューレ」では、ブラボー先行。
そんなに先鋭ではなかった雰囲気だし、なによりも演奏が充実していたからかもしれない。

ロンドンのプロムスでは、ほぼ重なるように、バレンボイムとベルリンの「リング」コンサート形式上演中。
こちらも、ネット視聴を録音をしながら聴いておりますが、いまのところジークフリートまで。
リングを知り尽くしたバレンボイムの自信にあふれた堂々たる解釈が聴けます。
しかし、バレンボイムさん、興奮して勇み足も多く、急速なアクセルなどで、オケが乱れたり歌手がびっくりのところも見受けられます。
ペトレンコとバレンボイム、指揮者の実績からすると雲泥の違いなのに、面白いものです。

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ワーグナー 「ニーベルングの指環」① バイロイト2013

2013bayreuth

25日から始まった、ワーグナー生誕200年・没後130年のアニヴァーサリーに沸くバイロイト音楽祭。

わたしのワーグナーとの付き合いのなかで、聖地バイロイトにおける、そのアニヴァーサリーで、記憶に残るものは、1976年の音楽祭・リング100年の「シェロー&ブーレーズのフレンチ・リング」。
1983年の生誕170・没後100年の「ホール&ショルティのブリテッシュ・リング」。
ワーグナー・アニヴァーサリーではないけれど、2000年、「フリム&シノーポリのミレニアム・リング」。
いずれも、だいたい5年から6年周期で行われる「リング」新演出によるものばかり。
 もちろん、ほかの作品においても、初演年をリンクしたアニヴァーサリーはあったし、ウォルフガンク・ワーグナー亡きあとの、新体制スタートの年も記憶に新しい鮮烈さでありましたが、やはり新作「リング」の年は格別の思い出となります。

そしてなんといっても、1976年のバイロイト100年のシェロー演出はスキャンダラスであり、革命的であった。
大学生だったわたくしですが、いまでも鮮明に覚えてます。
情報伝達のスピードが、いまとは比べ物にならないくらいに遅いアナログ時代。
海外クラシックの情報源は、レコ芸や音友、FM雑誌、そして新聞の夕刊の文化欄ぐらい。
シェロー・リングのバイロイトでの、話題は、初年度は聖地では受け入れることのできないものとしてブーレーズの素人のような指揮とともに、非難の的となりました。
「シェローよ、何をする、何をしたのだ!」という、ジークフリートを殺したハーゲンに浴びせるグンターの台詞をもじった言葉が、各紙の冒頭を飾りました。

ところが、そんな情報が入ってくるのは、8月に入ってから。
舞台写真が見れたのは、9月とか10月。
そして、その音楽を日本で耳にすることができたのは、12月の年末のNHKの放送。
5か月にわたって、どんな演奏なのだろうという渇望を抱き続けなくてはならないのが、バイロイトのその年の様子なのでした。

ところが、なんということでしょう、いまや、ドイツのバイロイトでの上演の模様が、その日、その時のリアルタイムで確認できる時代に。
日本は夜中なので、そんな時にはストリーム放送。
期間限定で好きな時に聴ける。
そして、欧州の場合、画像の規制はそんなに厳密でないから、高画質の写真も手に入れることができる。
わたしも、それを拝借してブログに活用させていただいてますが、入手元を明記するようにはしてますものの、このあたりは微妙ですね。

さて、大アニヴァーサリーの新作「リング」の演出家は、フランク・カストルフ:Frank Castorf
という方。

Frankcastorf

このオジサンは、旧東側出身の演劇系舞台演出家。
これまで数々の賞をその舞台や、論文などで取ってきたみたいだけど、オペラ演出はあまりないみたい。
でもいまやそんなことは関係なく、演劇的な演出重視のドイツにあって、ヴィム・ヴェンダースの降板により、この人が選ばれたのは必定の出来事だったのか。
フライエ・フォルクスビューネというベルリン三大劇場を率いるカストルフは、かつて日本でもその上演記録があるようだが、社会主義を体感した自身の思いを舞台に反映させる人のようで、資本主義の曲がり角や、その終焉を眼目とすることが多いみたい。

いまのところの情報は、画像と、ドイツ紙のレポートのみだが、そこから推察できるのは、「アメリカ資本主義の行きつく先と、そこから逃れられない世界」とでも、私的には想像しました。

なんだかねぇ~

なにも聖地バイロイトの、記念すべき年に、こんな風なのを持ってこなくても。

「ワルキューレ」の第2幕で、ウォータンが、妻に正論でもって負かされ、自分の築いてきたものが、いまや敵陣アルベリヒの影の軍団に奪われようとしていることを悲嘆にくれ、「Das Ende, Das Ende!」と歌うが、それはまさに清き正しき古えのワーグナー芸術の「終末、お終い」なのか!

今回のリングの大きな捉えどころは、神々は資本主義をひた走り、アルベリヒらの地下軍団は対抗勢力としての社会主義。
そんな感じかな。
ふたを開けたら大違いかもしれませんが。。。。。

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黄金=指環は、いったいどこにあるんだ?

剣や槍、ドンナーの槌、金床などの「リング」につきものの象徴物は?

はなからそんなものを無視してしまう勢いの演出だから、ラインの乙女たちは、アメリカの娼婦となり下がってしまった。

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神々たちが住まうのは、60年代アメリカのR66沿いのモーテル。

ラインは、ちゃちなプールに、ウォータンはピンクのスーツの胡散臭いブルーフィルムの製作会社の社長。

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エルダを呼びだし、いかがわしい雰囲気と撮影隊。
ご丁寧にスクリーンで確認もできます、お客さんいかが?

巨人たちは、アメリカの労働者か。

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このアメ車を、神々さんたちに売りつけようというのか。

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どっちが先か?
ギャングに出世したのか、その逆か?
時系列不明の巨人たちのその姿。

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囚われのアルベリヒと、さらに金ぴかのミーメ。

ふたりとも捕まってしまうのは斬新すぎ。

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捕まるまえのアルベリヒ・ローゲ・ウォータンの三者会談。

アルベリヒが大事そうに持つアヒルちゃんが、お宝か?

しかし、捕らえられ、金品奪われたアルベリヒは資本主義に決裂するのだろうか・・・・

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どうもこれが原作にいうところの、神々のワルハラ城への入場というところか?

チープなアメリカン・ドリームを夢見る神様たちを記録中。

思いきり、写真だけで、想像を膨らませてみました。

こうしてあれこれ、思いを巡らせてみるのも、遠い日本にあっての今のバイロイトの楽しみ方。

音楽の方は、やたらと素晴らしいですよ。

長くなるので、「ワルキューレ」とともに、本日の次の記事で。

※画像は、バイエルン放送局のサイトから拝借しております。

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2013年7月27日 (土)

プロムス2013~ロト&ル・シエクルのハルサイ

Narita2

ぴかぴかで、原色すぎて、陰りもくそもなく、まがまがしい、そんな多重塔。

成田山新勝寺の三重の塔でありました。

Roth

     リュリ   「町人貴族」~序曲と舞曲

     ラモー   「優雅なインドの国々」~舞曲

     ドリーヴ 「コッペリア」 抜粋

     マスネ  「ル・シッド」 バレエ音楽

     ストラヴィンスキー  「春の祭典」


  フランソワ=クザヴィエ・ロト指揮 レ・シエクル

                 (2013.7.14@RAH ロンドン


今年のPromsの演目の多彩な面白さは、この夏の音楽祭随一だと思います。

もちろん、バイロイトのアニヴァーサリーが、わたしには第一ですが、プロムスでもワーグナー・ヴェルディ・ブリテン・チャイコフスキーがふんだんに聴くことができます。

前半戦で、いきなり面白いコンサートがありましたので、ここにご案内しときます。

1971年パリ生まれのロトが、自身で2003年に創設した「レ・シエクル」というマルチオーケストラ。
当然に、いわゆるピリオド楽器と奏法による古楽オーケストラなのですが、驚きは古楽の演目ばかりでなく、20世紀のストラヴィンスキーまでも鮮やかに演奏してしまうという驚異の団体。

それを統率する、ロトさんは、ロスバウト、ブール、コルト、ギーレン、カンブルランと続いた南西ドイツ放送響のポストにもあるお方。

これでおわかりのとおり、古楽から現代音楽までを、難なくものにしてしまうオールマイティな指揮者なのであります。

こちらのプロムスでの演目でも、リュリやラモーから、ストラヴィンスキーまで300年のフランスにまつわる舞踏音楽の歴史を、文字通り完璧に自分のものととして再現しております。

画像では、指揮棒の前身の、大きな杖を持って指揮する姿が写されてまして、この放送音源でも、コツンコツンというリズミカルな指揮音が盛大に収録されております。
リュリも、有名になったラモーも、やたらと鮮烈で興奮を呼び覚ますとんでもなくスンバらしいものでした。

そんな、ロトさんと手兵が、ドリーヴやマスネでは、香り高いエレガントなロマンティックなおフランス音楽を奏でたかと思うと、最後には、とんでもなく鋭敏・俊敏なハルサイを聴かせようとは思いもよらないことでした。

いったい、この軽々しく、強弱のメリハリも鮮やかで、次々と予想だにしない仕掛けが満載のハルサイをここに予測しようか。
マゼールのような原色を施したようなどぎつさとアクの強さはありません。
驚きの連続ではありますが、どこまでも軽やかで、見通しは豊かで、シリアス感はゼロで、楽しいハルサイなんです。
こんなに、ひょいひょいとやられちゃったら、もうなんも言えません。

このコンビのフランスもの、南西ドイツとのマーラーやシュトラウスなど、音源はもう数々出ているようですし、来日公演も済んでいるようなので、これからますます聴いていきたい面白い存在であります。

プロムスのストリーム放送は、期限がありますので、お早めに。

http://www.bbc.co.uk/proms/whats-on/2013/july-14/14556

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2013年7月26日 (金)

マーラー 交響曲第9番 バルビローリ指揮

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7月のはじめ、自宅から見た夕刻の空。

夕焼けというものは、その日、その時によって、このように息をのむような壮絶な光景を見せてくれます。

人生の夕暮れを感じることもできますし、次にまたやってくる明日を感じることもできます。

歳とともに、前者の思いが深まるばかりです。

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  マーラー  交響曲第9番 ニ長調

 サー・ジョン・バルビローリ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                  (1964.1 @イエスキリスト教会、ベルリン)


久々のマーラー(1860~1911)。

言わずとしれた、バルビローリの第9を久しぶりに聴きます。

ベルリンフィルに定期的に客演していたバルビローリは、得意とするマーラーを携えてベルリン入りすることが多く、いまや数々のライブ復刻音源が出ております。
第9もその一環で、あまりに有名な楽員からのレコーディング要望という経緯も、いまや「バルビローリのマーラー第9」という普遍的な固有名詞的な存在と、その逸話でもって、燦然と輝いているのでございます。

マーラーの音楽を聴くということは、ひとむかし前なら、すべての夾雑物を排して、土曜日などの休前日の晩に、真剣に命をかけるようにして取り組んでいたものです。
同じように、ワーグナーもそのようにしておりました。

それが、いまや、マーラーは日常茶飯事のように、思ったその時に聴いてしまうという、ごく親しい存在になっているのです。

こうしたマーラー受容経験を経たのちに、またあらたに、かつての60~70年代のマーラーを軽いスタンスで聴くということが、じつはあんまりできないんです。
それぞれに、真剣に思い入れも込めて聴いてきた音源は、いまでも軽々しく聴くことはできないのでした。

ラトルやノット、ヤンソンスの第9は、さらりと何気なく平日の晩に聴けるのですが、バーンスタインやアバド、カラヤン、テンシュテットなどは、おいそれとは日常的に聴けない。
ところが、心優しいバルビローリの名盤は、そのどちらでもなくて、真剣に取り組んでもよし、軽い平日の晩のタッチで聴くもよし、身近に感じることのできる第9なのです。

彼岸に踏み出した、あっちへ行っちゃってる音楽という認識や概念は、ここではまったく感じることがなく、どこまでも音符のひとつひとつを慈しむ指揮者を、信望してその持てる最高性能のすべてを全開してしまったオーケストラ、という図式が成り立ってます。

優しい雰囲気に終始あふれた1楽章と、ずっとずっと弓を引っ張りながら、歌の限りをつくす終楽章がともかく素晴らしい。
バーンスタインとはまた大きく違ったエモーショナルな終楽章は、強引さはひとかけらもなくって、オケの全員がサー・ジョンの思いに寄り添い一丸となってしまった、たぐい稀な音楽表現であると確信します。

言葉は不要、多くの方々が聴いてきた、高名なるバルビローリのマーラー第9に、わたくしもここで讃辞を捧げたいと思います。

余談ながら、日曜に聴いた神奈川フィルの佐村河内交響曲は、日に日にその思いを増してます。
ここ数日、ワーグナー、チャイコフスキー、マーラー、ブリテンと聴いておりますが、佐村河内音楽の根底にあるのは、ワーグナーの錯綜する複雑かつ、劇的な音楽造りに共通するもの。
パルシファルとリングとの共通項を、言葉には変換できませんが、いくつも見出しております。

この夏は、ほんと、忙しいです。

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バイロイト音楽祭2013スタート

7月25日より、ドイツではバイロイト音楽祭が開幕。

1ヶ月にわたり、新演出のリングを中心に、「オランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」が上演されます。

開幕演目は、昨年に続く「さまよえるオランダ人」

「ニーベルングの指環」は、26日からのスタートとなります。

ロンドンのプロムスでも、まったく同時期にバレンボイムの「リング」がコンサート形式にて演奏中。
海の向こうはすごいことになってます。

そして今年の映像(キネマ)は、「オランダ人」。NHKでも放映されます。

ネットでいち早く聴くことができるのも、今現在ならでは。

「ラインの黄金」の、やっぱりねぇ~的な、めんどくさそうな演出の画像を見つけましたので、いち早くご案内。
バイエルン放送局サイトです。

まだ上演前です、あくまでも、ご参考。

フランク・カストルフの演出、キリル・ペトレンコの指揮。

Rheingold2013

なんでしょうな、濡れ場に踏み込んだ放送クルーみたいじゃないですか。

Rheingold2013_2

この3人はまるで、○婦みたいじゃないですか。

即断は慎まなければなりませんが、この舞台で、ワーグナーの音楽が響くんですよ。

まぁ、いいか。

面白そうだから。

遠い島国では、あとはペトレンコ君にがんばってもらって、いい演奏を聴かせて欲しいものです。

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2013年7月25日 (木)

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第2番 ポストニコワ

Tokyotower201307

このところ、すっきりしない天気が続く首都圏。

雨・晴れ・曇・豪雨が混在する日々。

気温は、7月始めの猛暑がウソみたいに下がったけれど、湿度が高くムッシムシ。

東京タワーも、どこか煙っていてすっきりしません。

Tchaikovsky_pianocncert23

 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第2番 ト長調 op.75

    Pf:ヴィクトリア・ポストニコワ

  ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮 ウィーン交響楽団

                    (1982.10 @ゾフィエンザール、ウィーン)


なにげに、没後120年のチャイコフスキー(1840~1893)。

なんだかんだで、チャイコフスキーが好き。

気がつくと、チャイコフスキーは始終聴いてるし、もはやその交響曲は、それらがないと禁断症状が出て生きていけない。
わたしの中では、その存在はブルックナーやマーラー以上だし、ワーグナー以下って感じ。
もちろん、マーラーの方が好きですよ。
でも、チャイコフスキーにはカッコいいオーケストラ曲があるし、協奏曲があるし、バレエも、歌曲も、そして何よりもオペラがある。

聴かせる壺、泣かせるツボを先天的なまでに心得ている、憎らしいまでの作曲家。

でも、有名曲とそうでない曲の落差が激しすぎる。

ピアノ協奏曲は、第1番があまりにも有名で、のこりの2番、3番があまりにも無名。
交響曲の4~6番と、1~3番との差など比較にならないくらい。

1879年に作曲開始後、10日あまりで第1楽章を完成、のこりのふたつの楽章を含めた完成は、しばらく間があいて、1880年の5月となりました。
1番の献呈で、演奏不能との因縁のついた、ニコライ・ルビンシュテインに再度捧げられ、今回ばかりはルビンシュテインも受けたものの、この曲を演奏することはあたわず、病に伏せってしまい急死。
初演は、ルビンシュテインの死後、1881年にニューヨークにて、マデライネ・シラーのピアノで行われたものの、チャイコフスキーはいろんな演奏者から、この曲が冗長にすぎるとの指摘を受け、弟子のジロティに自ら公認する形で、短縮と改訂を認めた。
その版も当然に存在するが、今現在は、チャイコフスキーのオリジナルを重んじることになっていて、ごく稀に、演奏・録音される場合は原典版にて行われるようになっております。

確かに長い!

このCDは、当然にオリジナル・バージョンですが、
1楽章:(24'40")、2楽章:(16'58")、3楽章(8'08") 合計約50分の長尺協奏曲です。

このCDは、購入後18年くらいになりますが、今回でまともに聴いたのは3回目です。

それほどまでに印象の薄い2番と3番。

でもね、最近のわたくしは、チャイコフスキーをすっかり見直してまして、そのマイナー作品にも目を向けて、オペラや歌曲なども楽しむようになりました。
そんな耳で聴く、2番は、果たして、とても美しくダイナミックな曲で、決して饒舌じゃない寒い国の作曲家が、思いきり自分の言葉で、訛りを効かせながら恥ずかしげもなくその思いを吐露した作品に聴こえるのでした。

一度聴いたら忘れられない、バレエ音楽の厳かな出だしのような第1楽章は、大協奏曲の始まりを予見させます元気一杯の提示部のあと、メロディックでうた心に満ちた場面にかわり、なかなかに詩的で甘いチャイコフスキーならではの展開になります。
ピアノの技巧は、1番にもましてすごいものがありまして、1番の模倣風な場所も散見されますが、ちょっと表面的な感じです。
そして、とても大仰で、見栄を切るような場面もあり、それはまさに、オペラの劇的な場面すら思い起こすことができます。

そう、この曲のこの時期は、交響曲第4番や「エウゲニ・オネーギン」のあと、「オルレアンの少女」を同時に作曲中なのです。

華やかな1楽章のあとは、ビューティフルな第2楽章。
チェロとヴァイオリンのかなり長い独奏で始まり、この楽章中、ふたりのソロの活躍は目を見張るものがあります。
ピアノ協奏曲なのに、彼らがいい役を与えられていて、すっかり見せ場を奪われてしまうピアノソロなのですが、そんなお立場はともかく、聴くわたくしたちは、その抒情的で夢見るようなふたつの弦楽器の絡み合いに陶然となってしまうのです。
こんなピアノ協奏曲はほかにないのではないかしら?
ピアノソロの登場は、4分近くしてから。
でもその始まりは、まってましたとばかりの歌いぶりですよ。
白鳥の湖の王子とオデットの踊りを思わせる歌謡性とファンタジックな美しさです。
全編、この楽章、そんな感じです。
ピアノに合いの手を打つ木管も夢見心地だし、弦が徐々に5番の2楽章のように熱く盛り上がってゆくさまもたまりません。

3楽章は、前のふたつの長大さからするとあっけない長さで、その内容も軽め。
民族風、リズミカルな元気一杯の曲ですが、1番と同じような雰囲気でも、この2番の場合は、前のふたつの楽章とのバランス感があまりに悪い。
当時は受けなくても、いまだったら、長い終楽章がしっかりついていても、しっかり受容されるんじゃないかな。
でも、そこそこ煌びやかで、活力満点のこの終楽章は、1番のその部分とまるでそっくりではありますが、聴いてて興奮を呼びます。
演奏会だったら、ブラボー間違いなしですよ。

未完の3番は、また次の機会に。

この録音時は、まだソビエトが存在していて、ポストニコワも旦那のロジェストヴェンスキーも厳しい管理下のもと、西側のポストでロシア音楽の親善大使のような役割を担いつつ、かつ西側の音楽を演奏する喜びに燃えていた。

ギレリスぐらいしか聴いたことない2番ですが、ポストニコワの超絶技巧と、曖昧さのない明確なタッチによる壮麗なピアノはとても素晴らしいです。
今風ではないけれど、いま思えば、これもロシア風なのかも。
ロジェヴェンさんの機敏な指揮もいいです。
なによりも、ウィーンの甘い管楽器をうまく鳴らしていて、オケもまったく無縁のロシアの音楽を指揮者の委ねる感があって、ソロもオケも、指揮者のもとにある、っていう感じの演奏に思いました。

ロジェヴェンは、いっときウィーン響の首席指揮者を務めていて、FM放送でもドイツ音楽とロシア・ソ連の音楽を数々聴いたものです。
このコンビによるショスタコの交響曲などはいまや珍品でしょう。
ロジェストヴェンスキーは、その前のポストBBC響では、ロシア物とイギリスもの(ディーリアスまでも!)を巧みに指揮してましたから、ほんとうに器用でオールマイティな指揮者なのですね。
長老級になったロジェヴェンさん、そろそろ日本にも帰ってきて欲しいものです。

そして、この曲は、われらが神奈川フィルで是非にも聴いてみたいデス!


 

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2013年7月23日 (火)

ブリテン 「誕生日のお祝い」

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ピンクの薔薇、平和と幸福の象徴。

英国王室のロイヤル・ベビーが生まれました。

しかも、将来の王子様。

同じ皇室・王室を持つ島国として、英国は日本にとってとても親しい国。

ちょっと調べましたら、世界で王室のある国は、全部で27国。

その中で、正統の歴史で一番長いのが、なんと日本とのこと。

隣国が羨み、やっかむのも無理からぬ、我が国の歴史をちょっと誇りに思ったりします。

そして、ベビーちゃん誕生を待ち受ける英国の、その厳粛さとユーモア。

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  ブリテン 「Birthday Hansel」(誕生日のお祝い)

     ソプラノ:アンネッテ・ベタンスキ

     ハープ:スーザン・ミロン

           (2001.3@ロズリンダール、マサテューセッツ)


ブリテン(1913~1976)の作品92、最晩年1975年の歌曲です。

同年、王室から、現女王エリザベス2世の母、エリザベス王妃75歳の生誕のお祝いの音楽を委嘱されたブリテン。

18世紀スコットランドの詩人・民謡収集家のロバート・バーンズの詩による短い7曲の連作を作曲。
バーンズは、かのスコットランド民謡の現「ほたるの光」を採取し曲の骨格を築いた人です。
ブリテンは、作曲にあたり、パートナーのピアーズにも助言を仰ぎつつ、その初演も当然にピアーズでした。
テノールまたは高音域による歌曲となっております。

 1.誕生の歌

 2.朝の散歩

 3.ウィー・ウィリー

 4.おらの山羊

 5.アフトンのせせらぎ

 6.冬

 7.リーズィー・リンジー


全編17分、連続して歌われるが、起伏は少なめ、全体は静かな明るさにあふれていて、テンポも穏やかで、ひたひたとあふれる喜びを静かに噛みしめるような曲調。

伴奏がハープであるところが、透明感と無垢なピュアさを表出していて、なにごとも穢れない聖なる響きが意図どおりに出ていて、とても素敵なのです。

対する歌の方も、晩年のどこかアッチの世界へ行ってしまっているようなワープ感はなくって、音程の上下するさまはミステリアス感を呼び覚ますが、むしろ、ハープの響きとあいまって、ルネサンス的な自由さと、いにしえの王朝サウンドを意識させてくれます。
繊細でガラス細工のようなブリテンの巧みな筆致は、まさに天才的だと思います。

カナダ生まれのアメリカのリリックソプラノ、ベタンスキさんの透明ではかない歌声は、こうした曲にはぴったりです。
バッハやモーツァルトを得意とする彼女ならではブリテンです。
ほかの収録曲もホルンやフルートを伴う涼しげで素敵な曲ばかりですので、また機会をあらためて取り上げてみたいと思います。

9月には、辻さんが、恒例の英国歌曲展にて、ブリテン特集をくまれ、この曲も演目にはいっております。

Kensington_palace

ケンジントン宮殿。
こちらにベビーちゃんはお住まいになるのだそうな。

すてきなこちらのサイトより拝借した画像です。

http://atasteoftravelblog.com/



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2013年7月21日 (日)

交響曲第1番「HIROSHIMA」 金聖響指揮 神奈川フィルハーモニー

Minatomirai

暑さも一息の横浜。

神奈川フィルの本拠地、みなとみらい地区の賑やかな休日の光景も、これから参列する厳かなコンサートの前には、浮ついたものとしか感じられず、一心にホールへと向かう。

今日、日曜日は、佐村河内守さんの交響曲の全国ツアーの一環の、横浜公演にいってまいりました。

大友さんと、日本フィルの2月の演奏会に続いて2度目の演奏会体験。

Hiroshima

 

   交響曲第1番 「HIROSHIMA」

   金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                 (2013.7.21 @みなとみらいホール)


震災後、このブログで被災地の方からコメントいただき、教えていただいて以来、2年と4カ月。

ネットで聴けた2つの楽章、余震のなかで録音された大友さんの初録音CD、本年2月の東京全曲初演。
これまで、わたしが聴いてきたすべてですが、初聴きのときから思ってきたこと、それは、神奈川フィルでいつか聴いてみたい、ということでした。

その思いが、思いのほか早く実現しました。

大手プロモーションによる急とも言える全国ツアーに、それまで静かに熱く聴いてきたあり方が変わってしまうのではないか、という不安がありました。
 しかし、それは杞憂に終わるのではないかと、今日は納得し、思いました。

会場入りする長い列、満員御礼のホール、通いなれたコンサート会場が、いつもと違う雰囲気なのはいうまでもありませんが、最初の苦悶の一音から、最後の輝きのエンディングまで、まんじりとせず、この大交響曲にじっくりと集中して、聴衆が一体化してしまったことを、そこに居合わせた一員として身をもって感じました。

このようにして、幅広い聴衆をひきつけ、そして全国のコンサート会場に足を運ぶことへのきっかけになること。
さらに、これまで、パイオニアとしてこの交響曲の普及に努めた大友さんと、そして東京交響楽団の手を離れて、新たな指揮者、異なる全国のオーケストラによって、コンサート演目のスタンダードとして歩み始める。

このツアーには、そんな効能と意味合いもあるのだと思うようになりました。

そして、異なる演奏を経て、聴く側にもいろんなメッセージを届けることができるように、さらに聴く側も、その自身のさまざまの体験によって、いろんな思いをここに感じるようになる・・・・、ということで、この交響曲自身も進化し続けていく、というような気がしてなりません。

聖響さん指揮する神奈川フィル。いつものホールで聴くという安心感もあり、出てくる音はどこをとっても、いつもの神奈川フィル。

木管・金管はレギュラーメンバーで、9本のホルンは圧巻だし、トランペット、トロンボーン、チューバも鉄壁。
弦楽器はチェロの門脇さんをのぞいて主席はお休み。
ゲストコンマスは、2度目の崎谷さんで、文句なく神奈川フィルに溶け込んでる方。

そして驚くべきは、今回もゲストティンパニの神戸さん。
イスラエルフィルのこの方、これで3度目の登場ですが、実に目覚ましいティンパニで、その鮮やかさと艶やかな音色に、しばしばこの曲で炸裂する打楽器群が、オケの中でも神々しく輝いておりました。このオケ自慢のいつもの打楽器メンバーも最高でした。

話は前後しますが、神奈川フィルの弦で聴く、この曲最後の浄化された安らぎの旋律は、期待にたがわぬ美音で、温もりと微笑みさえ漂う素晴らしいシーンでした。
当然にわたくしも、お約束の涙ひとしずくでしたが、ここに感じたのは、不思議に明るい希望という帰結でした。
まわりをチラ見しましたら、涙をぬぐう方、鼻をすする方、ちらほら。
わたくしも、こうして余裕をもって、この曲を受け止めることができるようになりました。

大友さんの、CDや、2月の演奏会では、希望の光の結末には、浮かれてはいけない、次なる物語がさらに続くのだ、終わりは始まりのような、気を引き締めなくてはならないという力強さを感じた。

しかし、聖響さんの指揮には、その局面局面のドラマを劇的に、美しく、破壊的に、ドラマティックにわかりやすく描き出すことにかけては万全の出来栄えで、神奈フィルの充実の高性能ぶりも、大いに寄与しています。
先日の日本フィルよりは、神奈川フィルの方が上だと正直言えます。
 あっという間の80分は、ほんとうに早かった。
すっかり耳になじんだこの交響曲、聴いていていろんな場面がどんどんと自分に入ってくる面白さがあって、難所もどんどん決まってゆく。
このコンビでずっと聴いてきたマーラーのように、作為なく、自然体で、音楽の力だけでもって、一気に演奏してしまった快演に思いました。

でも、この交響曲には、恐怖や深淵な悩みや、悲しみ、怒り、破滅、人の及ばない暗闇もあって、そして最後の本当の輝きがある。
そうした複雑な多面性を引っかかりがなさすぎるくらいに、通り過ぎてしまったような気もしなくもない。
そこが聖響さんたるところといえば、それまでですが・・・。

神奈川フィルを今回はじめて聴かれた方もいらっしゃるかもしれません。
そして多くの方が、そのうまさとともに、音色の美しさにも驚かれたかもしれません。
美しいだけでなく、もっと深みのある響きや、やる気に満ち溢れた能動的なサウンドを聴かせてくれることもあります。
次の回には、この曲にも慣れて、さらなる素晴らしさを味わえることと確信します。

今回、佐村河内さんご夫妻の来場もあり、ご挨拶はできませんでしたが、気がついたら、わたしのすぐ後ろでした。
スタンディングの大きな拍手でもって、ステージに上がられ、オーケストラの方々とも丁寧に握手をされ、感謝の思いを指揮者、楽団、そしてホールの聴衆すべてにあらわされてらっしゃいました。

このホールで、神奈川フィルで、この曲を、あと何度も、何度でも聴いてみたいと思えるコンサートでした。
神奈川フィルは、来年4月と5月に、静岡、東京(サントリー)、大宮で、連続してこの曲を演奏予定です。

ホールを出て、地に足がつかなかったのは、2月のコンサートでも同じことでした。
この浮遊感は、電車に乗って人心地ついても同じでした。

8月のお盆明けに、ミューザで、大友&東響。
9月は、ピアノソナタの初演を、みなとみらいで。

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2013年7月20日 (土)

ワーグナー 「ワルキューレ」 わたしの最強のウォータンは

Sunset_chiba

今年ではありませんが、今頃の時期の壮絶な夕焼け。

家のベランダから見ました。

このあと、天変地異など起こりませんでしたが、こんな光景を見てしまうと、そんな心配も横切る今日このごろ。

備えは肝心なれど、何度も告白しますが、夕焼けフリークのわたくし、子供の頃から自宅から見える夕暮れの光景を、好きな音楽とともに見て過ごすという、年寄りじみたことを常日頃しておりました。

そんな音楽のひとつが、ワーグナーの「ワルキューレ」の最終場面。

 第3幕で、神々の長、ウォータンが自分の野望をここでは一時諦め、自分の意思に背いた、最愛の娘を罰する。
自分に絶対だった娘が、自分がしたくても封じた行いを、成し遂げたが、それは親の命にい背くこと・・・・・。

山の頂に、娘を燃え盛る炎(部下の日の化身ローゲに手配)のもとに封じ込めることを決する。
眠りについた娘との、思い出を懐かしむウォータン。
そして、燃え盛る炎を恐れるものは、けっして近づいてはならぬ!と腑抜けの男に陥落されることを前もって禁じたウォータンの心には、ある思いがあった・・・・。
娘のことを案じ、振り返りつつ山を降り行くウォータンに、世の父親たちは、娘を持つ心情を重ね合わせ、涙するのであります。

真っ赤に燃える、夕日に、いつもこのワルキューレの場面や、ディーリアスの詩的な音楽を心に思い浮かべてしまうのです。

Walkure_berlin

「この槍を恐れるものは、けっして近づいてはならぬ!」

ウォータンのこの名台詞は、ジークフリートのライトモティーフとともに歌われる。
登場人物や、その心情、出来事や物事そのものに、事細かに主導旋律を配したワーグナー。それをライトモティーフと呼びます。

ワルキューレでは、英雄ジークフリートはまだ生まれていないのですが、ここにジークフリートの旋律を、ウォーンタンに歌わせることによって、次の物語「ジークフリート」において、恐れを知らぬ男、まさにジークフリートが、ウォータンが眠りにつかせた最愛のブリュンヒルデを救出することを予見させるのであります。

それは、また、自ら仕組んだ人間界のジークムントとジークリンデを正妻フリッカに思いきり否定されたウォータンが、次なる希望を託したコンビへの思いと計略だったのであります。
そのあたりは、ワーグナーの台本からは、表面上は読み取ることができないですが、こうした読み方が、この一場面はおろか、多種いろんなところにできるところが、ワーグナーのリングの面白さと偉大さなのです。

ワーグナー・シリーズ、「ワルキューレ」は、まだ次に持ち越して、今回は、ウォータンの最大の見せ場であり、ワーグナー音楽の最大の真髄のひとつでもあります、「ウォータンの告別」を、もちうる音源をできる限り聴きまくってみました。

見つかる限り、放送音源もふくめ、約40音源。

全部は無理ですが、そのいくつかをランダムに聴きましたので、好きなウォータンから。

①ホッター・・・・クナ、カイルベルト、ケンペ、ショルティ、それぞれ複数あり、ウォータンはホッターだらけ。神々の長としての気品と格調の高さ、深い悩みの表出と、娘を諭す優しさと厳しさの両立。最後の、冒頓としたまでの告別の歌いぶりには、もう涙が止まらない。

②アダム・・・・・ベーム、スゥイトナー、ヤノフスキ。一聴、明るさとだみ声風なクセもあるが、その全人ぶりを示す明晰かつ強い男の表現は、アダムならでは。
時に、バッハを歌うようなストイックぶりだが、ひとたび全霊を込めて歌い出すと、もう感動が止まらない。

③マッキンタイア・・・ブーレーズの指揮が好きなこともあるが、透明感あるオーケストラに比し、マッキンタイアのウォータンは知能的な狡猾な存在の歌いぶり。
でも、微に入り細に入り、情のこもったその歌はマイルドでかつワイルド。意外と好きです。

④ステュワート・・・・カラヤンのなすがまま的なところもあるウォータンだが、このウォータンは繊細でかつ美声。言葉の意味合いが希薄なとことろもあるが、ステュワートは次にさすらい人で大成する。

⑤R・ヘイル・・・・サヴァリッシュ、ベルリン・ドイツ・オペラ。ミュンヘンオペラのNHKによる映像と日本初演のリング通し上演。ベルリン来日時に観劇したリングは、生涯忘れることができないが、そのときの無名だったヘイルのウォータンの人間的なまでに情愛のこもった演技と歌唱は素晴らしかった。この人も驚きの美声。

⑥モリス・・・・・・レヴァイン、ハイティンクのふたつのリングでのウォータン。
アメリカンなところはあるにしても、このなめらかかつ絶世の歌声は素晴らしい。
メット来日で、聴いたときには、衰えは隠せなかったが、ミュンヘン来日でのオランダ人はすごかった。

⑦ニムスゲルン・・・これを好きというと疑われるかもしれない、ハイバリトン級の、しかもアルベリヒ+クリングゾル風歌唱。ショルティとシュナイダーのバイロイト。
わたしは、この明るく、柔軟で巧みすぎるウォータンを好みます。

⑧ドーメン・・・・・・ティーレマン、フィッシャー。暗く陰りも感じさせるドーメンの歌声。
ヴォツェックやクルヴェナール、アンフォルタス級の悩み多い歌声は、最初は辛かったが、ティーレマン・リングの後期からぐっとよくなった。
いまや、最高のウォータン歌手。

⑨ターフェル・・・・・若いと思ったブリン君も、ウォータンを歌うと神妙。しかし、その声は、どうにもアクがありすぎに感じる。せっかくのアバドの指揮なのに。
メットのウォータンは未視聴。

⑩トムリンソン・・・・バレンボイム、レヴァイン。この人も英国人。英国音楽は好きなれど、そのワーグナーはどうも・・・・。
胸郭が立派すぎるのか、どうもその立派すぎる声が、洞穴の中から聴こえてくるみたいに思える。ザックスが以外とよかったりするトムリンソンのウォータンは、実演でも何度も聴いてます。声が破壊的なまでにデカイ。

まだまだたくさん聴いてるウォータン。

日本人では、放送だけですが、故大橋国一さん、木村俊光さん、池田直樹さん、小森輝彦さん、などが思い出に残ってます。

CD音源で、わたくしの最高の「ウォータンの告別」と問われれば、迷うことなく、「アダム&ベームのバイロイト1967」に指を折ることとなります。
もう何度聴いたかわかりません。
この7月30日で、40年めになります。

ラインゴールドから、途切れている、「リング」の後続も記事にしなくてはなりませんね。

忙しい2013年です。

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2013年7月19日 (金)

イベール 「寄港地」 バレンボイム指揮

Shibaura_2

芝浦の運河の一部。

この先は行き止まりで、右は大企業さまが入るシーバンス。
左手は、ヤナセの本社。

明治初頭、このあたりは風光明美な海岸で、日本初の行政の手続きを経た海水浴場なそうな。
まったくもって、オフィス街とマンション、首都高、湾岸道路がごちゃごちゃと混在する今からしたら、信じられないことにございます。

そんな観光地的な場所だった芝浦には、かつて江戸の昔より旅館や料理屋、置屋などの色街もあったわけで、その名残はいまでも残ってますよ。
前にも書きましたが、ちょっとしたお散歩エリアなので、これからもいろいろ散策したいと思います。

Barenboim_cbs

 イベール  組曲「寄港地」

    ダニエル・バレンボイム指揮 パリ管弦楽団

                  (1974 @パリ)


若き日のバレンボイム。

オリジナルジャケットをネット上から拝借してます。

このジャケットでは発売されず、バレンボイムの横顔によるCBSソニーの日本盤でした。

「ダフニスとクロエ」「シャブリエのスペイン」「牧神の午後」「寄港地」といったフランスプログラムで、発売時、バレンボイム好きだったU先生も準推薦をいただいでました。

ほかの曲は再録してますが、イベールはバレンボイム唯一の録音ではないでしょうか。

ピアニストからスタートして、もともとフルトヴェングラーに私淑していたこともあり、さらにメータ、アバド、ズッカーマンなどとともに学びあった間柄で、指揮者志向は若い時からあったバレンボイム。

モーツァルトの弾き振りでイギリス室内管(ECO)を指揮し始め、同オケとの共演でレパートリーを広げていったが、フル・オーケストラを指揮し始めたごく初期に、日本にもECOとともにやってきて、同時にN響にも客演したのが、たしか1972年頃だったか・・・・。
力みかえり、ふんぞり返るような指揮ぶりでのチャイコフスキーの4番は、いまでもよく覚えてます。

そのバレンボイムが、シカゴの常連指揮者を努めつつ、ショルティの後任としてパリ管弦楽団の音楽監督になったのには当時、驚きで、CBSを皮切りに、EMI、DGと3つの楽団に、ピアニストの余芸だと思っていた駆け出し指揮者にとっての、驚きのレパートリーを次々に録音していったものです。

いまの超大家となった、髪の毛も退化したバレンボイムのことは、最近ではもうあまり聴かなくなってしまった(まして、スカラ座とは、なんてこった)。
わたしにとってのバレンボイムは、デビュー時からシカゴの初期まで。
あとは、ベルリンでの一連のワーグナーものだけ。

そんな古めかしい聴き手にとって、EMIとCBSはけしからんぐらいに難敵で、大量の廃盤攻勢。タワレコも、DGやPh、デッカのものばかり復刻してないで、あちらのお宝音源に手を付けて欲しいものだ。
ことにEMIは、まったくケシカラン。

それはともかく、イベールの「寄港地」。

こちらは、まさに地中海リゾート・ミュージック。

ジャック・イベール(1890~1962)は生粋のパリジャンで、当初は俳優志望でパリ音楽院に学んだが、中途から音楽へと転向し、そこから本格的な勉強を始めたという変わり種。というか、いかにもおフランスっぽい。

しかし、第1次大戦の勃発で、自身も陸軍士官として配属され、その時の地中海をめぐる戦旅などが、忘れがたい経験と思い出になって、帰国後、作曲家としてローマ大賞を得てのローマ留学時に、この組曲を作曲することとなった。

 1.ローマ~パレルモ

 2.チュニス~ネフタ

 3.バレンシア


3つの地中海を巡る街と風物を、港を巡るように(寄港地)して標題音楽にしたもの。

Palermo

ローマを出発して、シチリア島のパレルモへ。
ヴェルディが、「シチリアの晩鐘」の中で、「おおパレルモ!」とその街を賛美するアリアを挿入した。
眩しい陽光が、旅の始まりに相応しく、ローマの朝の旅立ちからすでにエキゾティックムードを先取りし、やがて音楽はシチリア舞曲であるタラントゥラも奏で、金管のリズミカルなサウンドが心地よい。
物憂い夜は更けて行きます。

Tcynis

船は、イタリアのシチリアの対岸、北アフリカはチュニジアのチュニスに到着。
青い海、青い空は同じなれど、一挙にイスラムムードに包まれ、アラビア~ン。
打楽器とオーボエの悩ましいメロディに、けだるく濃厚なベリーダンスを感じるのはいけませんか?

Nefta

そして旅は、上陸後内陸部を目指し、砂漠を抜ける。

そのあと、急にスペインの地へワープ。

Valencia

旅は、スペインへ渡り、ヴァレンシアへ。

一挙に能天気な明るさと、憂いを含んだスパニッシュムードに。

高鳴るカスタネットと高まりゆ各楽器が、いやがうえでもスペインの街のお祭りムードを盛り上げてゆく。

行ってみたいぞ、地中海の旅。

ギリシアがないのが玉にキズ。

ラヴェルの筆致に近い、巧みなオーケストレーション。

しかし、いまひとつラヴェルのような華と精緻さに欠けるところが、ラヴェルになりきれなかったところ。

そして、もし、これがレスピーギだったら・・・・・、あらぬ妄想は止めようもありません。

バレンボイム君・30歳の髪の毛もじゃもじゃ時代の演奏は、早くも彼ならではの重心低め、重厚濃厚な解釈で、それをパリ管のなみいる名手たちがソロの場面で軽やかかつ味わい深く対応して、全体像を明るくしている感があります。

バレンボイムー&パリ管の面白さは、こんなところにあって、複雑な化学作用を音楽に及ぼして、単なるおフランス臭だけの浅い音楽と違うものを作り上げていたように思います。
ほかのラヴェルやドビュッシーも面白いです。

※旅の画像は、ネット上から拝借しております。

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2013年7月18日 (木)

ブリテン 英雄のバラード ヒコックス指揮

20130715_a

先日の千葉の夕暮れ。

西の空が徐々に藍色になって、太陽の赤い光がほのかに残って沈んで行きました。

これから夏も後半となっていくと、夕焼けもダイナミックになって、空をオレンジ色に染める日も多くなります。

この「すじ雲」を中心とする全国の雲を観察して投稿しあう、地震予知のための雲の掲示板というサイトがございます。

ときおり拝見して、さらにそちらのメインサイトでは、それも各地のいろんな手法による観測記録を分析して、地震を検証しておられます。

http://bbs3.sekkaku.net/bbs/ikasemain.html

あくまで参考までに。でも実際にあたるケースが多い・・・・・・。です。

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   ブリテン  「英雄のバラード」op14

        T:マーティン・ヒル

  リチャード・ヒコックス指揮 ロンドン交響楽団

                    (1991.2 @ロンドン)


ブリテン(1913~1976)の1939年、26歳の作品。

早熟だったブリテン、若き日々より、社会派としてシリアスで深刻な音楽と、アメリカ経験を反映させた明るく洒脱な音楽、またはそれらの融合といった充実の作曲活動を行っていた。

師ブリッジを偲ぶかのようなムードの哀感ぶりと、壮絶極まりないダイナミックサウンドの咆哮、そしてピースフルな平和希求への思い。
これらが3つの部分となって描かれている曲です。

スペイン内戦で没した英雄たちへ捧げる、オーデンの詩によるバラード。

曲の立ち位置からすると、初のオペラ「ポール・バニヤン」作曲中、そしてさらに「シンフォニア・ダ・レクイエム」の1年前。
3つの部分からなることや、戦争への反対の思いと、その悲惨さ、そして平和への思いがそれぞれ主題になっていることも、その「シンフォニア・ダ・レクイエム」の姉妹作的な存在として捉えることができると思います。

 1.葬送行進曲

 2.スケルツォ(死の踊り)

 3.レシタィーヴォと合唱~葬送行進曲

トランペットのか細くも哀しいファンファーレによって始まる①は、ブリテンより前の時代の英国作曲家のような抒情的で親しみやすい美しも哀しいメロディの葬送の音楽。

驚きは、怒りの日とも呼ぶべき②のスケルツォの激しさ。
怒髪天を抜く勢いで、金管と打楽器が咆哮しあい、恐るべき地獄のようなサウンドとなる。

一転、リリカルなテノールソロを伴う③は、戦争による死を悼みつつ、その虚しさを歌い、ヨーロッパに警鐘を鳴らすかのように、冒頭のファンファーレが回帰して曲を閉じる。

短い曲ですが、切実でかつ美しさもある音楽でした。

ヒコックスのこの演奏、「戦争レクイエム」「シンフォニア・ダ・レクイエム」「英雄のバラード」の3曲を収めた、見事に一本筋の通った名カップリングです。
録音の素晴らしさも特筆のド迫力でした。

こんな演奏やプログラミングをできる指揮者はもういません。

過去記事

「シンフォニア・ダ・レクイエム  マリナー指揮」

「シンフォニア・ダ・レクイエム  ラトル指揮」







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2013年7月17日 (水)

ラター レクイエム クレオバリー指揮

Shibaura

芝浦運河の風景のひとつ。

この運河の上を添うようにして、モノレールが走っているし、オフィスビルや、マンションもたくさん林立している。

でも風の通り道みたいになっているので、暑い日でも涼しい風が吹き抜けて気持ちいい。

埋立地なことは、こうした風景からはよほど想像力をたくましくしないと感じられない。

わたしのお散歩コースのひとつ。

仕事に行き詰ったときや、外に出なかったときの夕方の散策に、このあたりや、足を延ばして竹芝桟橋やレインボーブリッジまで。

右手のクレーンは、田町の旧東京ガス研究所。区画整理に基づき大規模再開発中で、高層ビル2棟が立ち、病院や劇場も入るみたい。

田町の先、品川との間には、山手線の新駅と周辺大規模開発が進行中で、こちらは国際都市化するアリアといいます。

もういいよ。山手線の下半分ばかり、空間がどんどんなくなっていく・・・・。

Rutter_requiem_cleobury

  ジョン・ラター レクイエム

    ステファン・クレオバリー指揮 キングズ・カレッジ合唱団
                       シティ・オブ・ロンドンシンフォニア

                   (1997.7 @キングズ・カレッジ、ケンブリッジ)


ジョン・ラター(1945~)は、ロンドン生まれの合唱を中心とする作曲家・指揮者。

現代の作曲家であるにも関わらず、保守的かつ簡明な音楽を作曲し、クラシックのみならず、ポップス領域でも人気を博すラターさん。

ケンブリッジを卒業後、同大の音楽指導者となり、さらに卒業生を中心にケンブリッジ・シンガーズを結成して、自らの曲を広めるなどして、イギリスの合唱音楽界には欠かせない人。

1885年に作曲された「レクイエム」がもっとも有名な作品でしょう。

この曲、時代錯誤と言われるかもしれないけれど、ともかく美しい。

ディエス・イレを持たない、フォーレやデュルフレ、ロパルツなどと並ぶ、心優しい滋味あふれる癒しのレクイエム。
これまでの、フランス系統とは違って、イングランドから登場した静かなレクイエム。
 合唱の神様みたいなラターは、フォーレのレクイエムを心棒し、作者の思いをもとにした、よりオーケストラを小さくした編曲を行っている。
この自身のレクイエムも、オーケストラは伴ってはいるものの、規模はずっと小さく金管も少なめ。当然に、フォルテの部分は極めて少ないです。
そして、当然に少年合唱と男性合唱ですから、無垢でピュアな響きが清冽です。

作者自身の解説によれば、7つの部分は、アーチ状に構成され、最初と最後は、父なる神への祈りで、レクイエムとルクスエテルナのミサ典礼文から。
第2と第6曲は、詩篇130と23の英訳。
第3と第5曲は、これもミサ典礼文からで、ピエ・イエズスとアニュス・デイ。
イエスそのひとへの祈り。
そして、中心に位置するのが、サンクトゥス。アーチの礎のように、そして鏡のような存在。

ともかく、合唱の各声部の用いられ方の巧みさ、その響かせ方の美しさ。
聖堂の中でこそ活きる、声の多層的な重なり合いが、どこまでも透明感を持って、時に甘味なまでに聴き手に迫ってくる。
癒しであるとともに、耳と心の救済の快楽でもある。
日頃の殺伐とした虚しい毎日、夜ほっと一息、優しく微笑んでくるような音楽。

戦後ウィルコックス、レッジャー、クレオバリーと続いた名門キングズ・カレッジ・コーラスをラターも大いに評価していて、ライナーノーツでは、この演奏を自身絶賛しております。

現代の音楽じゃない、時代錯誤だなどと、おっしゃらずに、是非、無心に耳を傾けて欲しい美しい曲です。

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2013年7月16日 (火)

ショスタコーヴィチ 交響曲第6番 ヤンソンス指揮

Narita

成田山新勝寺の境内。

数週間前の日曜。

週末は千葉にいるので、成田のイオンに買い物のついでに行ってきました。

電車でも車でも、いま住むところから、成田はそんなに遠くない。

成田山の噴水公園の周りを囲むようにして、易者が数十人も連なって構えておりまして、それはなかなか当たると、昔から有名です。

わたくしは、そういった系は天の邪鬼なもので、まったく気にしてないのですが、カミサン方は関西系だし、なにかにつけ行っていたみたいで、子供二人の名付けのときも、見てもらうことになりました。
ついでに、親まで占われちゃうし、2度も行くと辟易(ダシャレじゃないですよ)としてましたが、いざその時となると夢中になっちゃうのが人間の心理なのでしょうな。

その後、当然に、わたしには縁のないことなのでしたが、なにげに、10年以上前、わたくしが会社を辞めて独立すると言いだしたときに、カミサンは両親と、こっそり占いに行っていたみたいなのです。
その詳細は、ここに記すまでもないですが、いまはきっと、それ見たことか!的な様相を呈しておりまして、いろんな要因はもう吹っ飛んでしまっているから恐ろしいことです。
しょうがないですね、結果がすべてですからして・・・・・。

いつになく、私的なことを書いてます。

今日は、ショスタコーヴィチが無性に恋しくなって、聴いてます。

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  ショスタコーヴィチ 交響曲第6番 ロ短調

   マリス・ヤンソンス指揮 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団

                        (1991.1 @オスロ)


何かを隠している面倒くさい強度の近視のオジサン、というレッテルがすっかりお馴染みとなったショスタコーヴィチ。
体制への皮肉や反骨、ときに同調などが複雑に、その音楽の中には刷り込まれ、姿を隠している・・・・。
という定説も、一部は真実であると思う。
 もう一方で、このオジサンのしたたかであるという実態は、実はなにもそこまでは音楽は語っていなくて、意の赴くまま、自身の感じた音だけを正直に紡いでいただけにすぎないのではないか、という思い。
 そのどちらもがショスタコーヴィチの姿であり、音楽であるような気がしてならない。

第5交響曲が、ベートーヴェン以来の伝統でもある、陰から陽、暗から明、勝利で終わる終結を鮮やかに導きだしていたように、ショスタコーヴィチの音楽には、その対局同士が、曲の中に易々と混在し、いま泣いて、悲しんで、すぐに笑って、怒って、爆笑する・・・そんな多面的な感情のパレードが、どの曲でも開陳される。
5番は、一見、4つのしっかりした構成の楽章に封じこめられているけれど、各楽章は幻想的なまでに自由で、かつ感情の諸所ありさまも多面的に思う。
4番などは、そのもっともたる例で、マーラーをはるかに超えたややこしく、しちめんどくさい泣き笑いのオンパレードだ。

6番も負けていないが、もっと集約的で、長大で深遠なラルゴが第1楽章という冒頭に、しかも16分もかけて延々と虚しさと明日への希望のなさを募らせるように存在する。
いったい何が言いたいのか不明。
そいて2楽章は、スケルツォ的なとりとめもなく、聴きようによってはお下品な音楽。
なんで、あの1楽章のあとに、こんな軽妙・底浅な顔をできるんだろ。
そして、無窮動なリズムがどこまでも勝手に暴走してひた走るような興奮著しい3楽章。
ショスタコーヴィチの曲にいつもよくあるように、このハチャムチャな終結部の展開に、聴く人は誰も、興奮の坩堝に追いやられ、それまでの哀しみや謎を放棄してしまい、一気呵成の乱痴気騒ぎに万歳となって終わってしまうのです。

こんな風に騙されてしまうのがショスタコーヴィチの音楽の本質の一面ではないかと。

だからあまり深読みせずに、音楽本来の面白さを素直に受け止めて入り込むのもいいのではと。

ともかく、ショスタコの音楽は面白いのですから。

13番や14番の超シリアス音楽をいかに面白く聴くか、それがまた難題ではありますが。

ヤンソンスの生真面目でかつ、オーケストラドライブの巧みな演奏には、さほどの深刻さもなく、素直に、スコアがあるがままに鳴っている様子を聴くことができる。
オケも含めて、フレッシュかつ弾力のあるサウンドです。
後年のバイエルンとの放送録音は、1楽章の彫りがもっと深く、終楽章はもっとダイナミックなのだが、オスロの明るさもまた捨てがたい。
 しかし、この曲はなんといっても、ムラヴィンスキーの冷酷かつ一糸乱れぬ狂乱ぶりが忘れがたい。
でもあの演奏に何を読みとるか、それもまたわからない謎の演奏で、ヤンソンスやハイティンク、プレヴィンのようなスコア重視の素直な演奏の方が、何度も聴くにはよろしいようで。

過去記事

 「ムラヴィンスキー&レニングラード」

 「プレヴィン&ロンドン響」

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2013年7月15日 (月)

シリングス 「モナ・リザ」 ザイベル指揮

Shibarose

数多くあるその種類の呼び名はわかりませんが、高貴でかつ妖艶、そして清潔感も。

美しいご婦人のようでございます。

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  マックス・フォン・シリングス  「モナ・リザ」

 見知らぬ外国人、フランチェスコ・デル・ジョコンド:クラウス・ヴォールプレヒト
 彼の若い妻、モナ・フィオルダリーザ:ベアーテ・ベランツィア
 修士生、ジョヴァンニ・ディ・サルヴィアーティ:アルベルト・ボンネマ
 ピエトロ:マレク・ガツェッキ   アリーゴ:カルステン・ルース
 アレッシオ:ウルリヒ・ケーベルレ サンドロ:ヨルク・サブロフスキ
 マッソリーノ:ベルント・ゲープハルト 
 ジェネルヴァ:エヴァ・クリスティーネ・ラインマール
 ディアノラ(フランチェスコの娘):アミィ・ローレンス
 ピッカルダ:ゲルダ・カシュバウム 

  クラウスペーター・ザイベル指揮 キール・フィルハーモニー管弦楽団
                       キール・オペラ合唱団

                         (1994.12@キール)


シリングス(1868~1933)は、世紀末期の純正ドイツ人の作曲家・指揮者で、第1次大戦をはさんだドイツ音楽界において、朋友であったR・シュトラウスとともに、重要な人物のひとりであります。

この人が、第2次大戦後、まったく名前が浮上しなくなってしまったのは、反ユダヤ主義で、当然に国家社会主義党員だったこと、同時期のシェーンベルクやシュレーカーなどの現代性を持ちえずオールドファッションとみなされてしまったことなどでありましょう。

しかしなんといっても、ナチス治下の初代帝国音楽院総裁であったこと、すなわち親ナチであったことが大きく、その音楽は演奏すらはばかれる時期が長くあった訳ですから。

その点、ナチスから迫害されたり、退廃のレッテルを貼られてしまった作曲家たちも、戦後は埋もれてしまったものの、いまやしっかりと復活と名声を勝ち得ているのが皮肉なもの。

しかし、シリングスの音楽は捨て置くにはもったいない。
同じ反ユダヤ的なプフィッツナーと同時代人ですが、プフィッツナーほどに晦渋・難解さはなく、シリングスの音楽は明快でわかりやすく、なによりもシュトラウスなみの甘味さと、ワーグナー風の濃厚なロマンティシズムがあります。

オペラを4曲ほど、管弦楽曲、協奏曲、室内楽、歌曲など、広範に作曲。
1890年代に、シュトラウスに巡りあっていらい終生、友情で結ばれ、ふたりでドイツ音楽界を牽引したほか、作曲家・教育者のトゥイレ(Thuille)、ブラウンフェルスらとともに、シュトラウス、モットルらもまじえ、ミュンヘン楽派を形成し活動した。
 指揮者としても、シュトゥトガルト、ミュンヘン、ベルリン、ウィーンなど各地のオペラハウスで活躍、ベルリン国立歌劇場の音楽監督も務めたので、後代にたどれば、スウィトナーやバレンボイムの大先輩になるわけ。
さらに、フルトヴェングラーやR・ヘーガーの先生でもあります。

1911年、シリングスは、オーストリアの女流詩人ビアトリス・ドヴォスキーの劇的伝説「LADY GODIVA」を読んで、音楽化を思いつきます。
1913年には、ドヴォスキーは、「MONA LISA」として台本を提供し、すぐにピアノ・スケッチにとりかかりますが、第1次世界大戦が勃発。
医学兵として、フランス・ベルギーに8ヶ月間軍務につき、その間も作曲を進めます。

この作曲の合間、1911年8月に、ルーブル美術館にあったレオナルドの「モナ・リザ」が盗難に合い、2年間行方不明となる事件が起きました。
それは、イタリア人清掃人が、自国の宝をイタリアに持ち帰りたいというナショナリズム的な行動でありましたが、この世間を大騒ぎに陥れた事件のおかげで、シリングスが「モナ・リザ」のオペラを作曲しているという評判が巻き起こり、その初演権のメットも含めた争奪戦が巻き起こりました。

結局、初演は、シュトットガルトで、1915年9月に、シリングスの2度目の妻となった、ソプラノのバーバラ・ケンプをヒロインに据えて、作曲者自身の指揮により行われました。
それが大成功となり、またたく間に各地のハウスで上演されるようになったのでした。

戦後の上演は、1953年のベルリン(ヘーガー指揮)、1983年カールスルーエ(プリック指揮)のふたつは、カットを施して。
完全上演は、本CDが録音される直前の1994年11月キール、さらに、1996年にはウィーンのフォルクスオーパーでも行われているようです。

プロローグとエピローグ:1915年(初演時現在)、フィレンツェ デル・ジョコンド家

本編1幕・2幕:1492年、フィレンツェ デル・ジョコンド家


プロローグ
 ある外国人とその若い妻がフィレンツェのとある宮殿を訪れている。
修士が、ふたりにこの建物のあらましを説明する。
「建築家ブルネレスキの作で、ドナテルロ風のフレスコ画で飾られている・・・・、その後、裕福な商人フランチェスコ・デル・ジョコンド。その名は、高齢にも限らず、若いひとりの女性と結婚していなければ、歴史の中に埋もれてしまっていたでしょう。
その女性の名は、フィオルダリーザ・ゲラルディーニ。レオナルドの奇跡の絵画「モナ・リザ」の中に息づく女性です」
 夫は、20年前にフィレンツェを最初の新婚旅行で訪れたことを明かし、若い妻は、自分より多くを経験している夫に不満をもらす。
修士は、そこで1492年の謝肉祭の晩に起きた悲劇を語り始める・・・・・。

第1幕
 豪華なフルーツ、肉、お酒がふんだんに供されるゴージャスな、デル・ジョコンド家のホール。当主、フランチェスコと仲間のゲストたちが、カーニバルを祝っている。
フランチェスコの前妻の娘ディアノラがひとりなので、父親が尋ねると、彼の若い妻リーザは教会に告解に行っていると答える。
バルコニーからは、賑やかなカーニヴァルの様子と楽しい音楽の響きがうかがえる。
マリアたちの合唱、ヴィーナスたちの合唱。
苦行をと歌う僧たちの合唱も聴こえ、カーニヴァルは中断してしまう。
その中には、説教者サヴォナローラもいる。
仲間たちは、ヴィーナスの中の中心にいる娼婦ジェネルヴァを呼び込もうということになり、娘とやがて帰ってくるリーザがいることで反対するフランチェスコの反対をよそに、上に呼んでしまう。
 ジェネルヴァを讃える仲間たちと、蠱惑的な彼女とのなまめかしい対話のあと、リーザが教会かた帰ってくる。
ジェネルヴァは、リーザに、罪は喜びの塩のようなもの、と言う。
女性ふたりが化粧室へ向かったあと、そこへジョヴァンニがやってくる。

ジョヴァンニに、皆はお楽しみはありましたか、と問うが、彼は忙しくて、明日ローマに帰らなくてはならないが、一目、幻を見たと思うと語る。

彼は、ローマ教皇への真珠を手配するために、庁から派遣されたのだった。
フランチェスコは、彼をドイツ製の二重扉の密閉空間である金庫へ案内し、高貴で高価極まりない真珠を見せ、みずから、その真珠を賛美して興奮し、毎晩妻に着用させていると語るが、傍らでは、リーザが、こんな真珠は、冷たくてきらいだと独白する。
真珠を収納に姿を消したすきに、ジョヴァンニとリーザは互いに認め合う。
そこへ、再び現れたフランチェスコは、明日またここで、ジョヴェンニに真珠を手渡そうと言って、バルコニーの仲間たちとともに、出てゆく。
二人になったジョヴァンニとリーザは、かつての恋人同士。
明日、一緒に逃げようと熱く進めるジョヴァンニに、リーザもついに折れて、ふたりは熱く語らうが、そこへフランチェスコの戻ってくる気配に、ジョヴァンニは物陰に隠れる。
妻の顔に、あの謎の微笑みが残るのをみて、フランチェスコは自分に協力なライバルがいることを察知する。
ホールからの出口のあらゆる窓や扉を順番にひとつずつロックしてゆくフランチェスコ。
もう逃げ道は金庫しかなくなったジョヴァンニはそこへ逃げ込むが、ついにフランチェスコはそこもロック。
動揺を隠せないリーザに、フランチェスカは、鍵を手渡すことを条件に、ほくそ笑みながら、それをちらつかせながら、自分への愛を要求しながら、いろいろなことを約束させ、まるでゲームのように楽しむ。その間、ジョヴァンニのうめき声も聴こえてくる。
そして、最後はその鍵をバルコニーの下を流れるアドルノ川に投げ込み、リーザはショックのあまり倒れ込み、フランチェスコは狂ったようにお前の輝かしい微笑み、リーザと叫ぶのでありました。

第2幕
 翌朝、同じ場所。灰の水曜日。その名の通り、どんより曇った暗い朝。
継子ディアノラとメイドのピカルダが部屋にやってくるものの、倒れこんでいるリーサには気がつかない。
かわりに、川に浮かぶディアノラの小舟に金色に輝く鍵を見つけ、取りに向かう。
意識を回復したリーザは、昨夜起こったことをよく思い出せず、理解もできなかったが、徐々に思い起こしてきて、自分がジョヴァンニを救うことができなかったことを後悔し、金庫室に向かって彼の名前を呼び続ける。しかし応答はなく、彼を死を認識し、悲しみに沈む。
 そこへ、ディァノラが戻ってきて、みつけた鍵を義母に差し出す。
ひとりになり、さっそく鍵を開けてみようと扉をふたつ解錠し、そこに彼の死を認める。
またもフランチェスコの気配に、すぐさま扉をもどし、何事もなかったようにバルコニーに佇む。
鍵を提示した彼女を見て、てっきりジョヴァンニを逃がしたのだと思ったフランチェスコだが、彼女の首にまだ真珠があることもいぶかり、あの微笑みも彼女にみとめる。
では、ジョヴァンニに真珠を届けなくてはならないから、その鍵を求めるフランチェスコに、リーザは喜んで手渡す。
金庫に入って行ったフランチェスコの後ろで、リーザは第2の扉をクローズ。
驚き飛びかかるフランチェスコだがすでに遅く、微笑みとともに、最終扉も閉めるリーザ。
リーザは狂ったように、笑い、事のなりゆきに満足し、水で手を清め、教会の方向に向かい、神の慈悲を乞う。

エピローグ
 
修士は長物語を語り終え、二人は謝辞を乞い、立ち去るが、若い妻はひと房の百合の花を気の毒なリーザにと、残していく。
修士は、あなたは一体誰だったのか?モナ・リザの名前を何度か歌う中、幕が降りる。

               幕


1幕がやたらと長過ぎるし、全編、同じ場面で起伏が少ないのが、外見的には不足と感じられますが、ほぼ2時間、同じ場面にとどまりながらも、昼下がりのサスペンス・ドラマのような情と愛と憎しみが交錯しあう集中的な劇となっております。
タイムマシンのように時代を前後する構成も実に巧み。

裕福な商人として、地位も名誉も金も事欠かなかったフランチェスコ。
レオナルドの書いた妻の絵に魅せられ、現実の妻とのギャップに悩んだ男。
その謎の微笑みを解明しようとして、激昂してしまい悲劇を生んだ。

ほんとに、面白い着眼点のドラマで、そこに付けられたシリングスの明瞭で、世紀末の陰りもふんだんに聞かれる音楽は、わたくしには極めて魅力的で素晴らしいものでした。

このオペラの雰囲気を集約したようなミステリアスで、ロマンティックな前奏曲。
リーザの2度ほどあるモノローグは、ファム・ファタール(男を虜にししてダメにしてしまう女)的に思われる、このオペラのリーザの役柄とは裏腹に、一途にかつての恋人ジョヴァンニを思う心根が素敵に歌われています。

しかし、彼女をめぐるふたりの男からしたら、お互いに一人の女性でもって、命を落としてしまうわけで、彼らから見たら、完全に、「ファム・ファタール」です。
その彼女を一方的に愛する男のバリトンの歌は、強引で押しつけがましいですが、イヤーゴのいやらしい心情告白や、アルベリヒの邪悪さもときに感じます。
性格バリトンの役柄です。
そして、テノールの甘い役柄は、どちらかといえば薄白で、深みはまったくないですが、1幕後半のリーザとの二重唱は、まるで、「トリスタン」の濃厚二重唱のような世界になってます。

謎の微笑みを、一人目の男性でもって封印してしまったリーザの立ち位置は、純真で健気でもあり、一方で復讐心に燃える一本義な強さもありです。

面白いオペラです。

naopigさんの記事に触発されて、ショップで目にして手に入れて、もう6年以上。
折に触れ聴いてましたが、今回、真剣に取り組み、ようやく記事にしてみました。
いつものように長くなってすいません。

CPOレーベルのこうしたジャンルへの取り組みには、付属の解説書の充実ぶりとあわせて感謝しなくてはなりません。
ザイベルとキールフィルの的確さは、シュトラウスやコルンゴルトでもおなじみ。
リーザ役のベランツィアは、かつてバイロイトでフライアを歌っていて、CPOでもコルンゴルトの「ポリキュラスの指環」のヒロイン役だった。
コケットリー感と、リリックな女性的な純真さが、とても素敵なソプラノ。
 敵方バリトンのヴォールプレヒトは、実にすばらしいバリトンだった。
明るい声質ながら、ねちっこい悪役ぶりと、熱い思いを歌うに相応しい知的かつ威圧的なバリトン声。気に入りました。スカルピアとかイヤーゴとか、クリングソルとかアルベリヒですよ。
 そして、いまやおなじみとなった、ボンネマ君。ぽっちゃりお腹のテノールは、かつて「ローエングリン」のステージで体験済み。
この役柄であれば、甘さのうえで問題はなし。コンヴィチニューの黄昏での自在さを後年に身につけて行くんです。

長く聴いて準備してきただけに、ロングな記事、すいません。

   

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2013年7月13日 (土)

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 ポゴレリチ&アバド

Tokyo_st_20130710

今週の蒸し暑い中日の東京駅。

ほんとに湿度もたっぷりの暑い毎日だったし、いまも継続中だし、どうなっちゃうんだろ。

でも、この丸の内の行幸通りに立つと、皇居から東京駅舎まで、気持ちのいい風が吹き抜けました。

高貴なる風の通り道に、気持晴れる思いでした。

Tchaikovsky_pianoconcert_pogorelich

  チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調

        Pf:イヴォ・ポゴレリチ

   クラウディオ・アバド指揮  ロンドン交響楽団

                 (1985.6 @ワトフォードタウンホール、ロンドン)


何年ぶりかで、真剣に聴いたチャイコフスキーのピアノコンチェルト!

まじで、感動した。

なんて、詩的で、自由な発想に満ち溢れているんだろう。

幻想協奏曲と読んでみたい。

たしかに、初演者もたじろがせるほどに、超絶的な技巧が駆使された協奏曲ではあるけれど、そんな小手先の実感ばかりでなく、チャイコフスキーの交響曲がそうであるように、形式に収めこんだ構成感と、あふれ出る民族的感情、きたるべく後期ロマン派の前触れと、正統西洋ロマン派&ロシア・ロマン派とのせめぎ合い。

耳当たりのいいチャイコフスキーには、そんな複雑な要素がからみあっていて、鋭い感性の演奏家たちが真剣に取り組んだ場合に、チャイコフスキーがマーラーと同時代であったことを鋭敏に感じさせたりもする。

ポゴレリチの、念入りかつ情念的な解釈は、ヴィルトーソ的な存在とはまた別に、驚きの深淵さを漂わしていて、1楽章の長大なカデンツァでは、思いきり別の次元に聴く者の心を持ってかれてしまう何かがある。
 その何かが、録音後もう30年近くを経過し、あざとさが先行するように感じられてしまうことを、FMやネットで確認しているのだけれど、ポゴレリチの最良のこの80年代の演奏に、異を挟む気持ちなど、コレポチもありません。

ともかく、この自由さ、フリーダムを謳歌するピアノには、窮屈な日々を送る聴き手に、明るさと先々の見通しの良さを開示するような説得力があります。

アバドとLSOの、完璧極まりいないポゴレリチの音楽への共感と、そのソロを際立たせる共演ぶりにも驚き。
ロンドン響の響きの厚さと繊細さ、各奏者のナイーブなまでの伴奏への徹底ぶり。
それもこれも、アバドの俊敏なまでの、ピアノソロへの反応ぶり。
後年のアルゲリッチとの共演ぶりとまったく異なるアバドのチャイコフスキー。

万人向きではないけれど、いくつかチャイコのピアノ協奏曲を聴いたあとに、聴いて欲しい演奏のなかのひとつであります。

ロンドンのプロムスの紹介のなかで、いまさらながらに気がついた、没後120年のチャイコフスキー。
聴き古したと思っていたこの曲。
本日、じつに鮮烈に、わが若き日々のこの曲の体験を思い起こしてくれました・・・・。

①コンサートホール・レーベルのマガロフとオッテルローのレコード。

②N響アワーでの、ウラディミール・ソコロフとN響(森正)との共演。

③カラヤン&ワイセンベルクの映画&ワイセンベルクとN響のテレビ放送。

④リヒテル&カラヤン、ウィーン響のレコード

⑤アルゲリッチ&デュトワ、ロイヤルpoのレコード(FM放送)。

こんな思い出をすらすらと書きしるすことができます。

いずれも40年くらい前という、いにしえぶり。

最近のこの曲の演奏は、どんな風なのでしょうか?

70年代オジサンに教えておくれでないか?

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2013年7月12日 (金)

プロムス2013

Prom2013

急にやってきた夏にへとへとになっていたら、そういえば、夏。
夏の音楽祭シーズンとなってました。

ロンドンのPromsは、今日がオープニングで、9月7日まで。

毎年、アニヴァーサリー作曲家をメインにしたて、豪華絢爛、内容豊富、演目満載のコンサートを、ロイヤルアルバートホールを舞台に繰り広げます。

去年はロンドン五輪もあって、ことさらにゴージャスだったけれど、今年も負けてませんよ。

全演目、ネットストリーミングで期間限定で配信されますので、忙しいことこのうえない。

さらに、月末には、リング新演出のバイロイトも始まるし。

2013年のプロムスのわたくし注目の演目をここにご案内しときます。

①ワーグナー

  7月22日 「ラインの黄金」  ペテルソンほか
     23日 「ワルキューレ」  ターフェル、オニール、カンペ、シュティンメ
     26日 「ジークフリート」  ライアン、シュティンメ、ステンフォルト
     28日 「神々の黄昏」   シャガール、シュティンメ、ペトレンコ、グロコフスキ

      ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場

    27日 「トリスタンとイゾルデ」  ザイフェルト、ウルマーナ、コッホ、ダニエル

   
      セミョン・ビシュコフ指揮 BBC.so
 

    8月4日  「タンホイザー」  スミス、メルトン、シンドラム、マンガー

      ドナルド・ラニクルズ指揮 BBCスコテッシュSO

    25日 「パルシファル」  クレーヴマン、ダライマン、ホル、ペテルソン

      マーク・エルダー指揮  ハレ・オーケストラ

②ヴェルディ

  7月20日 Viva Verdi 弦楽四重奏オケ版、レクイエムより、聖歌4篇

      アントニオ・パッパーノ指揮 ローマ・サンタ・チェチーリア

  8月17日 オテロほか、アリア集 オポライス(S)

      アンドリス・ネルソンス指揮 バーミンガム市響

  9月5日  序曲とアリア集  カレヤ(T)

      シャン・ジャン指揮 ミラノ・ヴェルディSO 

    6日  ラストナイト ディ・ドナート アリア集

      マリン・オルソップ指揮 BBC so

③ブリテン 

  7月12日 4つの海の間奏曲  オラモ指揮 BBCso

    8月3日  フェドーラ Ms:ラ・コーノリー エドワース指揮ブリテン・シンフォニア

    20日    イルミナシオン  T:ポストリッジ  ハーディング指揮ロンドン響

    27日  「ビリー・バッド」  インブライロ、パドモア、シェルラット、ガッド

            A・デイヴィス指揮 ロンドン・フィルハーモニック

  
    9月1日  ヴァイオリン協奏曲  J・ジャンセン

            パーヴォ・ラルヴィ指揮 パリ管

    6日  「劇場の建設」序曲 

            マリン・オルソップ指揮 BBCso

④チャイコフスキー(没後120年)

  交響曲全曲

   1番(9/2 V・ペトレンコ&オスロpo)、2番(8/5 ノセダ&BBCpo)
   3番(8/14 カラヴィッツ&ボーンマス)、
   4番(7/24 ファン・スティーン&BBCウェールス)
   5番(8/2  P・ウンジャン&スコテッシュ・ナショナルSO)
   6番(9/2  ヴァンスカ&BBCso)
   マンフレッド(9/5 シャン・ジャン&ミラノ・ヴェルディso)

   その他、協奏曲、オケ曲、オペラアリア多数

⑤その他の注目演目

   ・バントックの曲が複数あり。

   ・ティペットのオペラ「真夏の夜の夢」全曲 A・デイヴィス指揮

   ・ロト&レ・シエクルによるバレエ音楽 リュリ、ラモー、ソーブ、マスネ、春祭

   ・ヤンソンス&バイエルン 「復活」、「幻想」、「ベト4内田光子」

   ・J・ノット&バンベルク  マーラ5番

   ・ラフマニノフ P協2 辻井君&メナ

   ・ウォルトン、ラッブラ、ブルッフ、コルンゴルト交響曲
                   ストールゴールズ&BBCpo
        ※フィンランドの中堅の注目株、タコ11のプロもあり

   
   ・ブルックナー 8番  マゼール&ウィーンフィル

   ・ルトフワフスキ、ヒルスト 「エグドン・ヒース」「惑星」
                  ガードナー&BBCso

   その他、セガン、サロネン、ユロフスキ、ハーディング、などもあり。
   大家少なめ、実力派や注目若手が、東西問わずBBC系のオケを指揮します。

毎晩、こんな感じの夏。

夏枯れの東京のコンサート事情からすると、とても羨ましいデス。

しかし、イギリス人は、どんだけワーグナーが好きなんだよ。

Proms2013

そうそう、右のインド人のオジサンは、シタール奏者兼作曲家で、Khanさんというお名前で、そのシタール協奏曲「The Gate of Moon」が初演されます。
同時に、ホルストの「Indra」も!
指揮はアサートンとBBCウェールズです。じつはこれは密かに楽しみ。

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2013年7月11日 (木)

R・シュトラウス アカペラ合唱集 パルクマン指揮

Kitte

東京駅の日本郵便の商業施設「KITTE」の本日のエントランス。

オープン以来、久々に覗いてみました。

オープン時のどうしようもない混雑ぶりからすると、ずっと楽になりましたが、それでも、立地の良さと、暑さしのぎのためか、お客さんの出入りはひっきりなしで、いまのところ大盛況といっていいかもしれませんね。

よくよく見ると、音楽好きのわたしとしては、この贅沢空間は、ヨーロッパの桟敷を備えた劇場空間のように感じられます。

ザルツブルクのフェルゼンライトシューレみたいに思いました。

そのザルツブルクでの音楽祭ももうじき開幕。

ロンドン、バイロイト、ミュンヘン、ザルツブルクと、ネットでの情報収集と視聴で、忙しくなるのも、ここ数年の夏の過ごし方です。

ザルツブルクのHPでは、いろんな予告動画が楽しめますよ。

http://www.salzburgerfestspiele.at/

Strauss_a_cappella_cho

 R・シュトラウス 無伴奏合唱曲集

     1.「ふたつの歌」 OP34

                 「夕べ」

          「讃歌」

     2.「ドイツモテット」 OP62

       3.「化粧室の中の女神」

      4.「ダフネの木によせて」

   シュテファン・パルクマン指揮 デンマーク国立放送合唱団

                           (1993.5.17 @コペンハーゲン)


R・シュトラウス(1864~1948)にも合唱曲があるんですね。
しかも、アカペラ。

アカペラコーラスというと、透明感と静謐、濁りない清潔感などを思い浮かべますが、そのあたりの音楽の志向は、まさにR・シュトラウスの得意とするところ。
いずれの曲も、地中海的な、曇りひとつない、ブルー系の明晰な響きにあふれたすてきな音楽ばかりなのでした。

シラーの詩に付けられた「ふたつの歌」は、1897年の作品。
1894年頃から10余年くらい、シュトラウスは歌曲の10年間とも呼べるように、数々の歌曲と合唱曲を集中的に書いております。
もちろん、壮年期のシュトラウスは、いまにその名を成すこととなった数々の交響詩などの華やかなオーケストラ作品を、その間にしっかり作曲していて、作品の規模的には、それらのオーケストラ曲の狭間に、歌曲をものしたような感にもなりますが。
 この作品34の連作は、「ツァラトゥストラ」と「ドン・キホーテ」の狭間に書かれてます。
この時期特有の、豊麗サウンドが、無伴奏合唱からでもしっかり聴きとることができて、一瞬、ツァラトゥストラの静かな場面や、ドン・キホーテの人生回顧のようなしみじみ場面を思わせる歌も続出します。
誰がどう聴いても、R・シュトラウスなところが、憎めないところで、どこまでも明朗快活だった作者の、その音楽そのものであるところに、大いなる安心感を覚えるのでした。

「ドイツ・モテット」は、18分を要する大曲。
1913年の作。詩はリッケルト。
町人貴族、アリアドネ、祝典序曲/ヨゼフ物語、アルペン、影のない女
これらに挟まれた位置関係。
新古典風の懐古調から、豊麗・大規模後期ロマンティックサウンドへの橋渡し的な位置。
16の分断されたパートと、7人のソロ、併せて23のパートからなる、規模の大きいアカペラコーラス。
しかも、そのレンジは、微細なピアニシモから強大なフォルティシモまで、広大なものがあり、その精緻かつ緻密な響きと、大きな響きでも透明感を失わないシュトラウスならではの音楽造りに、心震える感銘と、甘味なる快感を覚えることになります。
いくつもに分かれて進行する各パートに、各声部のソロたちが、ときにオペラの一場面のように、または神妙なる宗教曲のように、美しく絡みあいながら耳に溶けあっていくさまは本当に素晴らしいものがあります。
暑さを忘れて、清涼感を覚え、いつまでも浸っていたくなります。

「化粧室の中の女神」は、同じくリッケルトの詩によるもの。
「トイレの神様」じゃぁありませんよ。
つたないわたくしのこの詩の解釈では、化粧室でパフやアクセサリーやらなんやら、いろいろ施して、自分の前にたった女性こそ女神・・・・、そんな内容に思われます。
解説によれば、ばらの騎士3幕の女装、アリアドネのプロローグの大女優のごたごた、などに通じるようなことを書かれてますが・・・・。
1935年の作品。当初は、バスによるソロ歌曲だったが、8つのパートによる合唱曲に改編。1952年、作者没後に、クレメンス・クラウスがウィーンのオペラハウスの合唱団で初演しております。

最後の「ダフネの木によせて」は、自身のオペラ「ダフネ」(1937)のモティーフを使った幻想作品のようなもの。
詩は、本編オペラと同じく、ヨーゼフ・グレゴール。
「ダフネ」はギリシア神話に基づくオペラで、神様に強引なまでに愛され、幼馴染の無垢な青年を殺されてしまい、人生を儚み、自分は木となってしまう・・という物語。
シュトラウスならではの、神話の大活劇的な要素もありつつ、晩年の諦念や澄み切った心境などが反映された、透明感にも欠けていない名作。
そのダフネが、最後に、木に変容しながら歌う絶対絶美のモノローグ。
そのあたりの旋律を中心にした、ダフネ讃歌です。
9つのパートを持つ、ダブルコーラスに、少年合唱の組み合わせ。
この曲の、清朗な響きも、実に美しい。
エーゲの島々の白い壁と青い海と空。
それをすら音楽で思い起こさせるシュトラウスの天才の筆致。

暑さに麻痺した、今週のわたくしに、一服の清涼剤となりました。

このCDは、合唱はやはり北欧、と思わせるデンマークの団体によるものです。
この音源、もう3年くらい聴き続けてます。
ようやく記事にすることができました。
対訳があれば、もっと理解が増すでしょうね。

みなさん、暑中お見舞い申し上げます。
そして、まだ雨降る地域の皆さまにも、この清朗サウンドをお届けいたしたい。   

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2013年7月10日 (水)

茂みの中で暑さにまいっているにゃんにゃん


Shibaneko1


すっかり猛暑が定着してしまった都内。

そんな晩に、事務所近くを歩いてました。

春や秋には、街で愛される野良たちが、うろうろしてる通りなんですが、昼は当然として、蒸し暑い夜も、にゃんこたちは、姿を消して、きっと涼しい場所を選択しているんだろうなぁ、と思ってました。

そして、見つけましたよ。

いつものアイツ!

植え込みの奥に潜んでましたよ。

近づいたら、驚いたことに、ふぅーーっ、とばかりに威嚇されてしまいましたよ。

さぞかし、涼しくて、お気に入りの場所なんざんしょうねぇ。

Shibaneko2

そして次の日は、植え込みから出てきて、こんな感じに涼んでました。

でも警戒は怠らず、こちらも一定の距離から踏み出すことはしません。

野外猫との接点は、お互いの緊張感を保ちながら、ぎりぎりのところで立ち去ることです。

異性との付き合い方も、場合によっては、ある意味そうですな。

酸いも辛いも味わい、嗅ぎ分けた、ワタクシのようなおじさんには、そんな微妙な感覚が痛いほどにわかります(??)

火傷禁物、でも、少々ならOK・・、あらまぁ、あたくし、なにを言ってるんでございましょう。

あくまで、にゃんこさまでございますよ。

Shibaneko3_2

夜間ですので、ボケ具合がハンパない写真となってしまいました。

よくみると、美人にゃんこですよね。

こんど、しっかりと写真を撮らせておくれ。

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2013年7月 9日 (火)

ハウェルズ ピアノ協奏曲第2番 ストット&ハンドレー

Narita_park

成田山の一隅にあった花壇。

こんな風に、たくさんの花を密集させることも美しい。

でもその一輪一輪を個々に眺めると、もっと美しいのです。

全体は美しいが、個は全体に勝るのであります。

Hawells_pianoconcert2

  ハウェルズ ピアノ協奏曲第2番 ハ短調

     Pf:キャスリン・ストット

  ヴァーノン・ハンドレー指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニック

                      (1992.3.31@リヴァプール)


英国音楽を愛するわたくし。
そんな中でも、ハウェルズはもっとも大切な作曲家のなかのひとり。

過去に何度も書いたハウェルズのプロフィール。

>「ハーバート・ハウェルズ(1892~1983)」は抒情派で、エルガーやRVWの流れをくむやや保守的存在。
この人が大好きで、ショップでは必ずチェックする作曲家。
かなり早熟型の人で田園情緒に溢れた名作を書いたが、40代半ばにして、最愛の息子マイケルが9歳にして早世してしまう(1935)。
天使のような顔を持ち、音楽とスポーツが大好きだったというマイケル。
家族でハウェルズの愛する故郷グロースターシャーで夏の休日を楽しんだ。
しかし、息子がポリオに冒されていたことが発覚しロンドンに帰らざるをえなくなった。
しかしマイケルは、その気遣いも空しく亡くなってしまう。

愛する息子の死により、ハウェルズの音楽は宗教的な深みを増し、息子を偲ぶかのような音楽を書き続けるようになる。
子を持つ、同じ世代の人間として、心が張り裂けそうになるくらいに同情できる!<

ハウェルズの音楽を聴き、ブログに残そうとするたびに、こんな風にいつも書いています。

彼の音楽をいくつも聴いてきて、想うことは、こうした陰りをおびた透明感ある哀感のサウンドと、モダンなキレのいい現代風な作風との同居ぐあい。
同世代のブリスや、ブリッジのような切れ味のよさと、バックスやバントック、アイアランドのようなケルテックなミステリアスな雰囲気、そこに、親しいものを失ったことによる神への問いかけと帰依。
初期のものは、明快でこだわりない英国自然讃歌を謳歌しているが、息子を失ったことを契機にその作風をシリアスなものに変換していった。

こんな風に書いておきながら、今日ご紹介するピアノ協奏曲第2番は、息子マイケルが生まれる頃の、自身も生き生きと活動していた時期の作品であります。
しかしながら、ハウェルズは、自分の作風の立ち位置に悩んでいた時期ででもあり、先にあげたような、モダーンな気性と、ロマンテックな懐古調との中間にあるような音楽造りにあったのです。
これはこれで、わたくしには、とても魅力的で、シャープでダイナミックな出だしの第1楽章なのだけれども、音楽は鄙びた英国ムードにも欠けていなくて、第2楽章などは、あまりに抒情的で、英国を旅すれば誰しも感じる、緑の丘となだらかな稜線、そして緩やかに流れる河と小川の中間ぐらいの静かな流れ。
そんな風物を思い起こさせるような、ムーディな音楽。
ふたつの楽章をミックスしたような、快活かつ、ジャジーでもある終楽章。

こうした音楽は、コンサートで聴くような曲でもないし、みんなで、あれこれ言いつつ聴くような曲でも絶対にありません。
多くの英国音楽がそうであるように、ひとり静かに、自分のお気に入りの環境で、誰にも邪魔されないようななかで、そっと聴く類いの音楽です。

2番の協奏曲だけれど、1番は知りません。
音源もわたしの知る限りないと思います。

シャンドスやハイペリオンレーベルの英国ものや、コルンゴルトなどでもお世話になってます、女流ピアニスト、ストットさん。
ほんと、タッチの美しいピアノです。

Stott_2

ストットさんの画像を見つけましたのでこちらに。

亡きハンドレーの指揮も素敵なもので、カップリングには、

わたしの溺愛する「ヴァイオリンとオーケストラのための3つの舞曲」も収録されております。

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2013年7月 8日 (月)

ベルリオーズ 幻想交響曲 ストコフスキー指揮

Hamamatsucho_201307_1

東が先で、次に西。

梅雨明けとともに、猛暑が襲いかかってきました。

皆さま、お体大丈夫ですか?
体が暑さに徐々に慣れるまえに、いきなり酷暑となりました。

わたくしは、日曜日は完全にお疲れモード。
オペラ視聴も途中までで断念。

今日、月曜はついに冷房のスイッチを入れました。

7月の夏休み先取り小便小僧も暑い中ごくろーさん。

Hamamatsucho_201307_2

ひまわりを背負った可愛い後ろ姿。

あと、夏は何カ月あるんだろう。もうダメ・・・。

今月は、「社会を明るくする運動」に連動してます。

そして、7月の幻想。

Berlioz_symfantastique_stokowski

  ベルリオーズ  幻想交響曲

   レオポルド・ストコフスキー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

                         (1968.11 @ロンドン)


うだるような夏にも「幻想」はお似合い。

毎月聴いてると、もうルーティンになってしまいそうだけど、小便小僧のコスプレの変化とともに、誰の幻想で行こうか?という思いもまた楽しいもの。
まだ在庫はいくつもあるけれど、ときおり、懐かしの音源を補充しつつ、新しい演奏に消極的なのが目立ちます。
そこは今後の展開にご期待いただくとして、またもや「懐かし幻想」を。

いくつものジャケットがあるけれど、ロンドンレコード時代に音の良さをうたった、フェイズ4シリーズとしての、こちらのストコフスキーの指揮姿絵のものが一番好きです。
子供の頃に、雑誌やレコードパンフに必ず出ていたこのジャケットは思い出深いものがります。

ストコフスキー唯一の「幻想」正規録音。

77年に95歳で亡くなるスココフスキーとしては、晩年の録音にあたるわけですが、長老指揮者だったストコさん(すっとこ、じゃありません)は、このとき、もう86歳。

そのお年をまったく感じさせない、若々しく力のみなぎった幻想は、新鮮ですらあります。

このストーキーの不思議な幻想は、最初の3つの楽章と、後半のふたつが、まるで別人のように対比が鮮やかで、前半3つは、恋心あふれる若者の早春賦ともいうべき初々しさで、タメの作り方も自然で、主部で失速しつつも、快調な1楽章や、ハープ大活躍、音の強弱があまりに鮮やかな2楽章のワルツ。
思いきり「田園」してる3楽章は、遠近感が豊かで、とても描写的で、クラリネットがやたらと雄弁なのだ。
 そしてキテレツな後半の始まりは、すごい活力と推進力にあふれる断頭台への行進。
こずかれつつも、元気一杯、処刑台に昇り、ファンファーレの刑執行はあっけないほどの性急ぶり。まさに首がチョン!あれっーー!
 その勢いのまま、すぐさまにヴァルプルギスの禍々しさへ突入。
こちらも最初は快速調。
鐘は、ピアノで併打され、恐ろしいほどに死の淵をのぞかせるような効果を発揮する。
その後のディエス・イレは、テンポを急に落としてみせて、一方の合いの手のような乱痴気ぶりは思いきり急速で。
この対比がまたおもろくて、あきれるほどの切羽詰まった迫真にあふれている。
最後は、のたうちまわるようなコーダで、こんなに遅いのは他にはないのでは。
最終和音は、打楽器もギンギンにずっと鳴り響かせてくれる、長~い終結音でもって、エンド

わかっちゃいるけど、魔術師の手に、まんまとかかり、ときにへとへとになりながらも、思いきりドライブに付き合わされちゃって、最終ゴールではニンマリさせられちゃう、って寸法ですよ、お客さん。

先週、ずっと聴いてたハイティンクの正攻法による音楽造りに、多いなる説得力を見てとったあとでの、このストコフスキーの音楽。
これもまた音楽を楽しむ所作のひとつで、積極的に音楽を自分の言葉で、わかりやすく語ってみせる姿勢は、これはこれで説得力は不思議にあるものだから否定するつもりはまったくありません。
 ただ、これを毎日聴け、と言われたら、ちょっと待った、ということになるのでしょう。

いずれにしても、こうしてときおり接するストコフスキーの音楽に、子供の頃には楽しめなかった新鮮な遊び心と、真剣さの両方を感じるようになった次第なのでありました。
来月のクソ暑い日には、またストコフスキーでおったまげてみようと思っているワタクシであります。

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2013年7月 6日 (土)

ワーグナー オペラ管弦楽曲集 ハイティンク指揮

Mihonomatsubara_2

世界遺産登録なった富士山を三保の松原の海岸からのぞむ。

この写真は、よく静岡へ仕事で行っていたころのものを思い出して探しだしました。

海に浮かぶように見える富士は、やはり静岡からの眺めが一番でしょうね。

ほんと、素晴らしい。

Mihonomatsubara_1

たぶんいまもあるのでしょう、無粋な波消しブロック。

これを沖に移動することも実行されるそうな。

いつまでも美しくあって欲しいものであります。

Haitink_wagner

 ワーグナー  「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲

        「パルシファル」前奏曲

        「ローエングリン」第1幕への前奏曲、第3幕への前奏曲

        「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死

        「ジークフリート牧歌」

 ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

                 (1974@アムステルダム)


ハイティンク&コンセルトヘボウシリーズ、最終回はワーグナー。

録音された1974年は、それまで評価の低かった日本で、これまでいつも一緒に来ていたヨッフムも同行せず、単独で来日して、ブルックナーの5番の名演を行った。
このコンビのこの年の5番は、ウィーンでのライブがFM放送され、いまでも音源として持っていますが、堂々たる演奏で、まさにオルガンのような重層的な響きが魅力的でありました。
レコードもロンドンフィルとのストラヴィンスキーや、ブラームス、チャイコフスキーなど、次々に発売されて、評論家の大先生からもお誉めをいただくようになり、アバドとともに、ハイティンク好きだったわたくしは、妙に嬉しかったものです。

75年に発売の、ワーグナー集は、ご覧のとおりの素敵なジャケット。
ノイシュヴァンシュタイン城へ行くと、不自然にあでやかな写真のパンフレットが売ってましたが、そんな感じのジャケット写真。
レコード・ショップでいつも手にして眺めつつ、悩みながらも結局購入することはなかった。
高価なレコードをそんなに買える訳じゃないから、どうしてもレコ芸の評論を頼りとしてしまう、そんな高校生。
月評は、U先生。立派でオケが素晴らしい、シンフォニックと誉めつつも、どこか気乗りしない書き方。でも録音評は最高得点の95点でした。

結局、わたくしが、ハイティンクのワーグナーを購入して聴いたのは、CD時代になってから。ハイティンクの初ワーグナーオペラ録音の「タンホイザー」のあとだったかもしれない。
ですから、オペラ指揮者としても、名声を確立した頃。
あれから10年です。

そんな耳で聴いたハイティンク&ACOのワーグナー。
イメージとして、ワーグナーのオペラの世界から遠い、かっちりとしたシンフォニックなものでは・・・・という思いがあったのですが、それは完全に異なる響きだった。
確かに、ここにあるワーグナーは、オケピットにあって、さらなる劇世界の幕開きを告げるような、緊張感や高揚感あふれるようなものではない。
 しかし、10分の前奏曲に真っ向から勝負して、ひと時たりとも気の抜けたような音がなく、また神秘性も、官能も、祝祭性、崇高さも・・・、みんななし。
何と言ったらいいか、楽譜がそのまま音になった感じ。
しかも、それがコンセルトヘボウという美しい織物のような摘んだ響きのオーケストラなものだから、ホールの音色と相まって、独特のユニークなワーグナーになっていると感じました。

ハイティンクの指揮は、いつも自分の解釈を強く打ち出すタイプではなく、オーケストラの自主性を汲みあげつつ、音楽に自然に語らせるタイプなので、音楽の説得力が高ければ高いほど素晴らしい効能を引き起こす。
かつて、ドレスデンと来日してブルックナーの8番を聴いたおり、熱狂する拍手に応えて、指揮台のスコアを高く掲げる仕草をしました。
音楽が一番なのだという真面目で謙虚な姿勢。

その後、ハイティンクの指揮によるワーグナーを中心とするオペラの数々を聴いてきたけれど、初期の頃の、ただ精妙に鳴っているだけの印象から、痺れるようなオペラの高揚感は感ぜずとも、音が、ドラマがおのずと語り出し、歌手たちも無理なく自然に役柄に入り込んでいる様子を後年のものほど強く感じるようになりました。

チューリヒでの「パルシファル」などは、そんな名演の典型でしょう。

正規録音では、「オランダ人」「ローエングリン」「トリスタン」があれば、ハイティンクのワーグナー主要作は揃うこととなります。いずれも、ロンドンやチューリヒで指揮してますので、いずれは音源や映像が出てくるものと期待します。

さて、COAとのこちらのワーグナー。いずれも気に入って演奏です。
ゆったりめで、どうどうと歩む「マイスタージンガー」、木質感の味わえる清澄な「パルシファル」と「ローエングリン」。
普通に演奏するだけで、かくも美しく、しかもじわじわ感が増してゆく「トリスタン」。
ブルックナーの7番の余白に入っていた「ジークフリート牧歌」は、いまはここと、同じ8番の余白に佇んでます。ほんわかとしたふくよかムードが美しい。

コンセルトヘボウは、ハイティンク時代の音色と変わりつつあり、よりスリムに、柔軟に、高性能にシェイプされた。
自主レーベルを中心とする録音も今風だけれど、やはり、わたくしには、ハイティンク治下のフィリップス録音が最高だと思っております。

オーケストラのホームページから、ハイティンクの貴重な映像を見ることができます。

http://www.concertgebouworkest.nl/en/orchestra/conductor/Haitink-Bernard/

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2013年7月 5日 (金)

シューベルト 交響曲第9番 ハイティンク指揮

Shiba_rose

茶色系のシックなバラ。

ちょいと調べたら「ジュリア」という品種だそうな。

なんか好きですよ、この色合いも。

今日聴くシューベルトの演奏にぴったりの感じ。

Schubert9_haiteink

   シューベルト  交響曲第9番「ザ・グレート」

 ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

                  (1975.@アムステルダム)


シューベルトのいまは、8番とも呼ばれる長大な交響曲。

やはり、第9番ハ長調「ザ・グレート」という名前こそが相応しい。

未完成の次にやってきたこの曲。

中学生の時に買ったワルターのレコードが、完全なる刷り込み演奏で、その優しく歌心にあふれた演奏が基準となっております。
以来数々聴いてきたけれど、ベームとジュリーニ、そしてハイティンクの3つがいまでも、わたくしの「グレート4」であります。

ところが、ハイティンク盤はCD初期に廉価盤化されたのみで、しかも文庫っぽいジャケットで、手が出ぬままに、そちらが廃盤久しく、CDとしては89年に一度出たっきり。
ハイティンクのもう1枚のシューベルト、5番と8番も同じ運命。
76年に発売された、ハイティンクのシューベルトシリーズは、天使の無垢な教会内の彫像がジャケットとしてあしらわれていて、とても美しく、シューベルトらしい雰囲気が出ているものだった。
こちらが宝物のようにしている、そのレコード・ジャケットです。

そして、先日、もう何年も探していたかつての廉価盤を、某中古ショップにて見つけました。
ドキドキしました。
すぐに手にとり、ウソだろ!とつぶやいてました。
価格も驚きのワンコイン。しめしめとばかりに、人に見られないようにこっそりレジへ急行。
思えば、隠れる必要はないのですが・・・・・。

レコードを聴ける環境でないので、もう35年ぶりぐらいに、聴いた「ハイティンクのザ・グレート」。
もう、もう、涙が出ましたよ。

なんて美しいんだろ。なんて立派なんだろ、そしてなんて無為無策のように何もせずして、こんなる音楽的なんだろ。
レコードで聴いたときから思っていたこと。
まるで、スルメのように噛めば噛むほど味わいが増す音楽であり演奏。
繰り返しなし、ほぼ50分の遅滞ないテンポは、推進力とともに、いじらしいぐらいにさりげない歌にあふれていて、第2楽章の中間部の切実かつ壮絶な響きと、そのあとにくる優しい、心の襞をそっとなぞるような流麗な美しい展開。
もうこれこそが天国的でありましょう。
ハイティンクがワルターに近づいた瞬間だと思いました。

そして、毎度のことながら、コンセルトヘボウにおけるフィリップス録音の芯がありながらマイルドで空間が響きで埋まる瞬間をとらえた鋭敏かつ雰囲気豊かな録音。
この録音と、コンセルトヘボウという稀有なオーケストラ有機体が音の上でも表裏一体になっていることを強く認識できます。
日本に何度もやってきたこのコンビを、学生時代に聴くことができなかったのが残念ですが、放送を通じ聴いた響きは、驚くべきことに、これらのフィリップス録音と同じものだった。
指揮者・オーケストラ・レーベルが三位一体となった存在の結果なのだと痛感します。

加えて、ハイティンクは70年代ロンドン・フィルハーモニーの指揮者も兼務するのですが、LPOもコンセルトヘボウ的な音色を一時出していたと思います。
その後、ショルティやテンシュテットとなって失われてしまった、くすんだヴェルベット・トーンです。

全曲、どこをとっても素晴らしい、これはハイティンク&COAの大傑作ではないかと思います。
何度も繰り返し聴いた大学・社会人初期のころの印象と寸分たがわず同じでした。
馥郁たるシューベルト。
リズムのよさも、もたれないテンポ感も、冒頭のホルンの瑞々しさも、オーボエのメランコリーも、終楽章の着実なフィナーレも、すべてにおいて最高でした。
昨日2回、今日も2回聴いてます。

明日もハイティンク&コンセルトヘボウ。

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2013年7月 4日 (木)

ラヴェル 「クープランの墓」 ハイティンク指揮

Minatomirai

お昼のコンサートで、休日とはいえ、もうビルのフロアの明かりも少なくなっている、この夜の光景。

なんでいつもこうなっちゃうんだろ。

それもこれも、音楽を聴く楽しみと、仲間と語り合える嬉しさ。

神奈川フィル定期は、しばらくお休みだけど、後半のスタートにはまたいつものみんなが勢ぞろいして、あれこれ楽しく過ごしたいです!

Ravel_haitink


  ラヴェル 「クープランの墓」

   ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

                (1973 @アムステルダム)


ラヴェルの数ある作品のなかで、わたくしは、「優雅で感傷的なワルツ」と「ラ・ヴァルス」のふたつの円舞曲、そしてこの「クープランの墓」と「古風なメヌエット」が好き。

ほかの曲も、もちろんよく聴くのですが、過去に軸足を置いて、少し懐古調なところと、フランス風に鼻に抜けるよな洒落た雰囲気と、格調の高さ。そんな感じのラヴェルが好き。

熱烈な愛国主義者だったラヴェル。
第1次大戦では、パイロットを志願したものの叶わず、従軍の看護兵として傷病兵の看護や運転手として活動。
そこで書き続けた作品が、6曲からなるピアノのための組曲で、この戦争で亡くなった知人たちの名をそれぞれに付して18世紀の音楽の形式と意匠をこらして、愛国心と伝統への尊敬を思いを通じて、レクイエム的な追悼の思いをここに込めた。

 

フランスの伝統と、尊い命を国に捧げた人々へのオマージュともいうべき高尚かつ、愛情にあふれた桂作。
本来のフランス語の原作名の意味は「墓」ではなく、「亡き偉人を偲ぶとか、尊んで」という意味合いがあるようです。
ピアノ曲からラヴェル自身が4つ選んで、室内オーケストラ規模の編成の音楽にしましたが、ここでは全曲にわたって、オーボエとイングッシュホルンが大活躍。

プレリュードの冒頭からまさに古風なイメージを奏で、次いで木管どうし、木管と弦とのかけあいが愛らしく楽しいフォルラーヌ、さらに、オーボエが古(いにしえ)を懐かしむように古雅な雰囲気をかもしだすメヌエット
そしてその最後は、まるでマジックにかけられたように夢見心地にうっとりと終わります。
ラストの快活なリゴードンでは中間部にオーボエの懐かしくも洒落たソロがあります。
このあたりの詩的な美しさいかにもラヴェルの音楽そのものに思うものです。

 

ともかく素敵の一言につきるラヴェルの「クープランの墓」。

こんなこ洒落た音楽をハイティンクとコンセルトヘボウは、ブラームスやブルックナーをどっしりと演奏するあのコンビとは、とうてい思えないくらいに、軽いタッチでもって、ふんわりと聴かせてくれます。

 

このコンビのフランス物は、一様に素晴らしく、ドビュッシーではもう少しくすんだヨーロピアン・セピアトーンを聴かせ、少し重さも加えたりもするんですが、ラヴェルでは、オランダのカラーとしてイメージされるオレンジ色風の明るさも加えて、落ち着きとあでやかさのバランスの兼ね合いがとても素晴らしく聴こえます。

フランドル調のラヴェル。

この曲では、あとなんといっても、アンセルメ、クリュイタンスの往年の名演が忘れがたいところ。
ボストンでもラヴェルを再録しているけれど、やはりコンセルトヘボウの魅力には敵わない。

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2013年7月 3日 (水)

チャイコフスキー 「マンフレッド交響曲」 ハイティンク指揮

Landmark

ミスト発生中のランドマーク下、横浜美術館。

都会のあちこちに、ミストシャワーを見受けるようになりました。

今年は、ますます活躍しそうであります。

新築のビルなんかは、外壁に、そんな機能がもう埋め込まれていて、壁からミスト発生中でしたよ。

そのうち、自動打ち水マシーンなんかも出てきそうですな。

暑い夏を、冷房に頼らずにクールダウン。

それは音楽を聴くことでも、達成可能ですよ。

さしずめ、ロシア・北欧・英国系の音楽など。

わたくしのように、ワーグナーやヴェルディは、暑さを煽る、もってのほかの音楽なんでしょう。

Tcahikovsky_haitink

   チャイコフスキー  「マンフレッド交響曲」

 ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

                 (1979.10@アムステルダム)


ハイティンクのチャイコフスキー全集は、タワレコが復刻しましたが、わたくしは、レコード時代、交響曲のみのこちらの全集を、廉価盤化されて7枚組で、1枚1500円の9500円だったか?・・・・でした。
いずれにしよ、毎月1枚1枚発売されたシリーズを我慢して、全集化されたときに満を持して購入。
LP時代末期、80年頃だったでしょうか・・・。
もうあれから30年以上が経過して、その後にCD化され再購入した全集には、管弦楽作品もたっぷり収められていて、ハイティンク&コンセルトヘボウのチャイコフスキーの集大成となってました。
それもまた20年くらい前。
いまや、驚きの価格で再復刻されたことに、もはや驚きは覚えませんが、その安さはどう考えても合点がいきません。
あふれかえる再販CDの数々。
安くなければ売れないのはわかりますが、何でもかんでもとはまた・・・。
それほどに、ハイティンクのチャイコフスキーは圧倒的なまでに素晴らしい存在なんです。
ヴァイオリン協奏曲や、旧録の4番や6番も併納するくらいの徹底ぶりを示して、高付加価値=見合価格でよかったのじゃないかな。

すいません。
かつて無理してまで資金投入してきたもので、いつも損してばかりの女々しい感慨にふけってしまうものですから。

さて、チャイコフスキーの交響曲シリーズ。
最後は番号なしの、標題交響曲。
「マンフレッド」は、1885年、4番と5番の中間、その充実期にあったチャイコフスキーがバイロンの詩劇につけたダイナミックな交響曲です。
1882年頃に、バラキレフの強い勧めによって書き始め、完成作は、そのバラキレフに献呈されております。

1~3番の交響曲の持つ、ロシア的な情景描写と心象風景。
4~6番のヨーロッパとロシア、しいてはマーラーにも通じる作者の心象を映し出したかのような私的・主観的な観念の融合。
この「マンフレッド」は、そのどちらの側にも通じる、いかにもチャイコフスキーらしい甘味かつ壮麗な音楽なのです。
バラキレフは、老大家ベルリオーズにも打診したらしいが、期せずして、「チャイコフスキーのマンフレッド」も、4つの楽章からなりながら、ベルリオーズを思わせる田園情緒とはちゃむちゃな悪魔的な饗宴風景をダイナミックに描いた作品との側面もあります。

>アルプス山中の城の主マンフレッドは、懐疑的思想に取り付かれ、絶望のうちに魔女から妖術を学び取る。これで救いを得られないマンフレッドは山中をさまよい死を追い求めるが、それも与えられない。やがて、かつての恋人で自殺したアスタルテの亡霊と会うが苦悩のうちに救われないまま死を迎える・・・<

こちらは過去記事から引用しました。

この題材をモティーフにした作品では、シューマンの劇音楽もありますが、あちらはかなり晦渋な雰囲気で、チャイコフスキーのような劇性は薄目ながら、なかなかの作品だと思います。

ハイティンクとコンセルトヘボウは、このめんどくさい人物の物語を、大真面目に、スコアを真っ向勝負で挑んだ、どこからどこまでも堅牢な佇まいと、ヨーロピアンな木目調の美しさに満ち溢れた超名演を成し遂げているんです。
6曲の交響曲に負けず劣らずの名曲に聴こえるから、素晴らしい演奏の強さは、こうして説得力があるものなのです。
終楽章の最後に、それまで何度も登場してきたマンフレッドの動機が、ヒロイックに歌われるとき、このハイティンクの演奏ほど孤高の域に達しているものはありません。
そのあとに出るオルガンにも派手さはなく、音楽のうえからの必然性を感じ取ることができるのです。

録音もまた、言わずもがな、厚みと繊細さ、豊かな響きを完璧に捉えてます。

この曲で、復活して欲しいのは、プレヴィンとアロノヴィッチの両LSO盤です。
それこそ、タワレコさま、頼みます。

これにて、チャイコフスキーの交響曲シリーズ終了。
なんだか、とっても寂しい。
いつも聴き続けていたいチャイコフスキーなんですよ。

過去記事

「シモノフ&ロンドン交響楽団」

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2013年7月 2日 (火)

バルトーク 管弦楽のための協奏曲 ハイティンク指揮

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土曜日の、神奈川フィル定期の前に、大急ぎで視察した新商業施設「マークイズみなとみらい」。

同じ「マークイズ」が、静岡にも4月にオープンしてまして、ともに三菱地所がディベロッパーであります。

横浜の方が、他店や類似テナントの競合があるため、かえって新鮮な店づくりに感じるのは、首都圏にいるからに過ぎないけれど、静岡の方も手堅い雰囲気のようです。
静岡のかの地は、ちょっと縁がございまして、数年前に関わりがありました。
某外資系I社が当時は政令指定都市ということで、出店をもくろんでいましたものですから。

でも、前にも書きましたが、商業施設は、もうお腹いっぱいですな。

大事なのは、日常の買いまわりのお店。
老人や弱者でも、毎日通えるお店。
そしてハレの日の施設は、そんなにたくさんいりません。
混まない、ゆったりとした緑のスペースがあればいい。

Bartok_haitink_2

      バルトーク  管弦楽のための協奏曲

  ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

                 (1960.9 @アムステルダム)


土曜日に神奈川フィルの定期演奏会で聴いた、バルトークの「オケコン」!

なんども言いますが、苦手なこの曲。

CD棚をよく調べたら、プレヴィンとロスフィルに並んで、協奏曲の項目に、このハイティンク盤があった。
2CDのこの徳用盤は、S・ビショップのピアノ協奏曲全集とシェリングのヴァイオリン協奏曲にハイティンクのオケコンが収納されているという豪華なものだった。

ピアノ協奏曲狙いで買ったら、オケコンがついていた。
しかもハイティンクとコンセルトヘボウだった。

かつては、ブーレーズ、デュトワ、ヤンソンスなども持っていたけれど、みんな手放してしまった。そんな感じのわたしのオケコン。

神奈川フィルのナイスな演奏を聴いて俄然、ハイティンク盤を聴いてみようと思った。

まず、1960年、いまから50年以上前の録音とは思えない、音の素晴らしさ。
あのコンセルトヘボウのホール・トーンはしっかり捉えられており、音の厚みと繊細さも申し分なく、弦のもこもこ感は多少あるにしても、このオーケストラならではの柔らかい音色と、各楽器の響きがとても美しい。
このコンビのブルックナーとマーラーの一連のフィリップス録音と同じ延長上のものです。

アメリカやドイツのオケのような優秀な機能美で聴かせる演奏でもなく、バルトーク的な鋭利さやマジャール的な粘りもない。
中欧的、汎ヨーロッパともいうべき、中庸を得たスタンダートな音色といっていいでしょうか、ここにはそんな美しい佇まいの、ある意味濃厚なトーンが聴かれるのです。

どうしても散漫に聴き終えてしまう私のこの曲への接し方。
真ん中の3楽章にピークを据えて、前後対照に聴いてみました。
深刻さとシャープさが際立つ、1楽章と終楽章。
ユーモアあふれるリズミカルな2楽章と4楽章。
静的かつミステリアス、絶望的な今際の美を感じる3楽章。

こんな風な構成感をしっかりと、じっくりとジワジワ感じさせるハイティンクの指揮。
ずっと後年の「青髭公の城」では、さらのその構成感が緻密に、ピーク設定も鮮やかに決まる名演となっているのですが、そこではベルリン・フィルという名器が輝かしすぎるという超贅沢な難点も抱えるのでした。
やはり、ハイティンクにはコンセルトヘボウ。

今週は、このコンビをいろいろ聴いてみようか。

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