ショスタコーヴィチ 交響曲第6番 ヤンソンス指揮
成田山新勝寺の境内。
数週間前の日曜。
週末は千葉にいるので、成田のイオンに買い物のついでに行ってきました。
電車でも車でも、いま住むところから、成田はそんなに遠くない。
成田山の噴水公園の周りを囲むようにして、易者が数十人も連なって構えておりまして、それはなかなか当たると、昔から有名です。
わたくしは、そういった系は天の邪鬼なもので、まったく気にしてないのですが、カミサン方は関西系だし、なにかにつけ行っていたみたいで、子供二人の名付けのときも、見てもらうことになりました。
ついでに、親まで占われちゃうし、2度も行くと辟易(ダシャレじゃないですよ)としてましたが、いざその時となると夢中になっちゃうのが人間の心理なのでしょうな。
その後、当然に、わたしには縁のないことなのでしたが、なにげに、10年以上前、わたくしが会社を辞めて独立すると言いだしたときに、カミサンは両親と、こっそり占いに行っていたみたいなのです。
その詳細は、ここに記すまでもないですが、いまはきっと、それ見たことか!的な様相を呈しておりまして、いろんな要因はもう吹っ飛んでしまっているから恐ろしいことです。
しょうがないですね、結果がすべてですからして・・・・・。
いつになく、私的なことを書いてます。
今日は、ショスタコーヴィチが無性に恋しくなって、聴いてます。
ショスタコーヴィチ 交響曲第6番 ロ短調
マリス・ヤンソンス指揮 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団
(1991.1 @オスロ)
何かを隠している面倒くさい強度の近視のオジサン、というレッテルがすっかりお馴染みとなったショスタコーヴィチ。
体制への皮肉や反骨、ときに同調などが複雑に、その音楽の中には刷り込まれ、姿を隠している・・・・。
という定説も、一部は真実であると思う。
もう一方で、このオジサンのしたたかであるという実態は、実はなにもそこまでは音楽は語っていなくて、意の赴くまま、自身の感じた音だけを正直に紡いでいただけにすぎないのではないか、という思い。
そのどちらもがショスタコーヴィチの姿であり、音楽であるような気がしてならない。
第5交響曲が、ベートーヴェン以来の伝統でもある、陰から陽、暗から明、勝利で終わる終結を鮮やかに導きだしていたように、ショスタコーヴィチの音楽には、その対局同士が、曲の中に易々と混在し、いま泣いて、悲しんで、すぐに笑って、怒って、爆笑する・・・そんな多面的な感情のパレードが、どの曲でも開陳される。
5番は、一見、4つのしっかりした構成の楽章に封じこめられているけれど、各楽章は幻想的なまでに自由で、かつ感情の諸所ありさまも多面的に思う。
4番などは、そのもっともたる例で、マーラーをはるかに超えたややこしく、しちめんどくさい泣き笑いのオンパレードだ。
6番も負けていないが、もっと集約的で、長大で深遠なラルゴが第1楽章という冒頭に、しかも16分もかけて延々と虚しさと明日への希望のなさを募らせるように存在する。
いったい何が言いたいのか不明。
そいて2楽章は、スケルツォ的なとりとめもなく、聴きようによってはお下品な音楽。
なんで、あの1楽章のあとに、こんな軽妙・底浅な顔をできるんだろ。
そして、無窮動なリズムがどこまでも勝手に暴走してひた走るような興奮著しい3楽章。
ショスタコーヴィチの曲にいつもよくあるように、このハチャムチャな終結部の展開に、聴く人は誰も、興奮の坩堝に追いやられ、それまでの哀しみや謎を放棄してしまい、一気呵成の乱痴気騒ぎに万歳となって終わってしまうのです。
こんな風に騙されてしまうのがショスタコーヴィチの音楽の本質の一面ではないかと。
だからあまり深読みせずに、音楽本来の面白さを素直に受け止めて入り込むのもいいのではと。
ともかく、ショスタコの音楽は面白いのですから。
13番や14番の超シリアス音楽をいかに面白く聴くか、それがまた難題ではありますが。
ヤンソンスの生真面目でかつ、オーケストラドライブの巧みな演奏には、さほどの深刻さもなく、素直に、スコアがあるがままに鳴っている様子を聴くことができる。
オケも含めて、フレッシュかつ弾力のあるサウンドです。
後年のバイエルンとの放送録音は、1楽章の彫りがもっと深く、終楽章はもっとダイナミックなのだが、オスロの明るさもまた捨てがたい。
しかし、この曲はなんといっても、ムラヴィンスキーの冷酷かつ一糸乱れぬ狂乱ぶりが忘れがたい。
でもあの演奏に何を読みとるか、それもまたわからない謎の演奏で、ヤンソンスやハイティンク、プレヴィンのようなスコア重視の素直な演奏の方が、何度も聴くにはよろしいようで。
過去記事
「ムラヴィンスキー&レニングラード」
「プレヴィン&ロンドン響」
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コメント
この記事に触発され、久々に6番を聴きました。ザンデルリンク・ベルリン交響楽団ですが、特に1楽章は味わいありますね。尚、我が家は千葉でして、羽田より成田が近いので、最近の羽田国際化はうれしくありません。
投稿: faurebrahms | 2013年7月17日 (水) 23時23分
faurebrahmsさん、こんばんは。
6番は、長い1楽章が肝ですね。
ザンデルリンクやバーンスタインは、とても重く、長く演奏してまして感動的ですが、マリス君は結構あっさり。
その変わり最後が萌え萌え。
意外とお近くかもしれませんね。
わたしも、羽田のハブ化はどうも好きじゃありません。
森田健作がんばれともっと言いたいところです。
投稿: yokochan | 2013年7月19日 (金) 00時42分