
以下は、当時の日記から転載します。
「現代のワーグナー歌手の、もう最高峰の顔ぶれ。
何と言っても、待望のルネ・コロが聴けたこと。前回のトリスタン(ウィーン)では来日せず、がっかりさせたけど、今回はジークフリートを2日とも、最高のコンディションのもとに歌い演じてくれた。
やはり、美しく甘い声だ。しかし、よく通る声。ワルターやローエングリンばかりの頃からすると場数を踏み、タンホイザーとトリスタンを経た力強い表現が完全に習得されたようだ。
グンターになり変わる時の暗いバリトン声、神々のジークフリート役での複雑かつ多面的な役どころを見事に演じたほか、「ジークフリート」での抒情的な場面も、明るく美しい声が劇場内に素晴らしく響き渡った。
繊細な声と表現が、オーケストラを飛び越えて耳に達するという驚き。
レコードやCD、FMで聴けるその声が、耳にビンビンと届く、ライブの喜びは、コロのファンとして忘れえぬもの。
そして、リゲンツァ。小柄かと思ったら、結構背の高い、腰のしっかりしたがっしりタイプの女性。
でも、とてもチャーミングで、大きな瞳はとても魅力的。
ワルキューレ→ジークフリート→神々の黄昏と、ブリュンヒルデが、神々のワルキューレのひとりから、ジークムントとジークリンデの愛を知り、ウォータンに反抗してまでも愛を守ろうとする、人間としての目覚め。そしてジークフリートにより、真の愛を知り、真の人間となる。ところが、裏切られ、怒り、悲しむ女性、さらにすべてを受け入れ、諦め、さらなる高みへ達しようとする女性。そんな大きな存在の女性。
そんなブリュンヒルデを、リゲンツァはまったく完璧に、ニルソンのような近寄りがたい神々しさとは違った、暖かく息づく女性的な感覚でもって、歌い演じ切った。
リングという物語の中でのブリュンヒルデの成長と女性としてのあり方を、等身大に歌い演じたリゲンツァ。音だけは聴いてきたけれど、一発で彼女のファンとなった。
ウォータンのヘイルは、驚きだった。
こんなバス・バリトンがなぜいままで知られてなかったのか。
容姿から第一目を引く。威厳を備えた若々しい舞台姿とその声。
ハリがあって、すみずみまでよく通る声。深く暖かい。
悟りも感じさせる表現力も豊かで、今後が大いに期待できる歌手。
サルミネンは大車輪の活躍。
僕もそうだが、一番拍手を浴びていた。事実、その凄まじいまでの声量とその深みは、ホールの隅々まで届くもの。
もう少しの表現力が欲しいが、ハーゲンとしては、憎たらしいまでにクールな役作りで、グンター兄妹を意のままにする強力さを発揮した。」
このあと、ジークフリート、トリスタンとして大成してゆくイエルザレムを聴けたことは大きい。
さらに、素敵な女性としてのヴァラディのジークリンデ。
カラヤンに見出された、少し軽めのホルニック。
二期会でも体験したヒーステルマンの役者のようで軽やかなミーメ。
その後にウォータンを歌うのではと期待されたカールソンのグンターは、この時、なかなかにブリリアントだった。
一方で、セカンドキャストでは、若くて痩せてたトムリンソンが、サルミネンのセカンドとしてフンデイングやハーディングを歌ったのも、この公演のすごさ。
すみずみまで、完璧だったこのときの「ベルリン・ドイツ・オペラ」
あと2年で、東西融合。
東の力を借りつつも、西側の最後の輝きとも言えた上演ではなかったでしょうか。
最後に、指揮のR・コボス。
「思わず、ブーを浴びてたこのひと。賛否あるかもしれない。
この人のやりたかった明晰なじめじめしないワーグナーは、重く響くことはなく、軽め。
やはり、ラテンの血の流れた人ゆえの明るさは、ブーレーズのような知的で分析的な冷たさはなく、オペラティックであり、情にもあふれていた。
早めのテンポは、一部の人には違和感を感じたようだが、僕にはまったく問題なかった。
重厚さ、ここで拳を握りたくなる迫力などが不足したことは事実なれど、この超大作を異国の地に来て短期間でまとめ上げ、少しもだれることなく一気に聴かせてくれた実力派なみなみのものではない。
印象的だったのは、抒情的な場面のオーケストラの美しさ。ワルキューレの第1幕、ウォータンの告別、ジークフリートの母への憧憬、森の場面、葬送行進曲の哀しみなどなど・・・。
ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団の機能的にも、オペラの雰囲気にもあふれた演奏も完璧で、日本のオーケストラと比べ物にならないものを感じた。」
ワーグナー 舞台祭典劇「ニーベルングの指環」
ヘスス・ロペス・コボス指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団/合唱団
演出:ゲッツ・フリードリヒ
舞台装置・美術:ペーター・ジコーラ
(1987年 10月30日、11月1日、4日、7日 東京文化会館)

「神々の黄昏」 11月7日
ジークフリート:ルネ・コロ ブリュンヒルデ:カタリーナ・リゲンツァ
グンター:リーヌス・カールソン ハーゲン:マッティ・サルミネン
アルベリヒ:ゴットフリート・ホルニック グートルーネ:カラン・アームストロング
ワルトラウテ:ウテ・ヴァルター 第1のノルン:カヤ・ボリス
第2のノルン:アナベル・ベルナール 第3のノルン:シャロン・スウィート
ウォークリンデ:キャロル・マローン ウェルグンデ:バーバラ・フォーゲル
フロースヒルデ:アニタ・ヘルマン
序幕・第1幕 幕が開くと、おそらく奥は「ジークフリート」第3幕の場。
前面には、赤いロープが幾本も舞台右と左とを渡っている。
その向こうにノルンが、右・中・左に別れて座っていて、1本のロープを歌う人から歌う人へと、持ちあげて投げてゆく。
目を赤い目隠しで覆っているから、ロープはまったくの手探りに見える。
切れるところでは、何本ものロープが一斉に真ん中から切れてしまい、真っ暗となり、ノルンたちは手探りで退出する。
薄明かりのなか、舞台奥にはbリュンヒルデが膝を抱えて座っているのが見える。
ジークフリート登場。二人は抱き合う。ジークフリートは旅立つが、ブリュンヒルデは寂しそう。角笛を手にタイムトンネルから手を振りつつ走り出てゆく。
ギービヒ家への転換。カーテンが降りて、風でゆらゆら揺れ、そこにブルーとグリーンの光を当てて、川の流れのようだ。
そのカーテンの向こうには人が立っていて、おそらくジークフリート。
こちら側にはハーゲンが出てくる。
カーテンが開くと、そこは宇宙船のよう。
ソファがふたつ。ハーゲンは別の腰かけにひとり。グンターとグートルーネはソファにふたり。グンターは白い詰め襟に、黒のスラックス。宇宙船の司令官のようだ。
動きはヒトラーのようだが、弱気な人物として描かれている。
グートルーネは、シャイで主体性がない。そこがこの女性の憐れなところで、この演出では、兄妹はとても気の毒で、同情を引くように描かれている。
ハーゲンにもてあそばれた善良でありふれた人間だ。
ジークフリートが登場するが、彼は入口に現れると、そのまばゆさに、両手で顔を覆う。
あまりに場違いな格好。
酒を飲むところでは、頭を押さえ苦しむ。かたわらではグートルーネが待機しているが、ジークフリートは急に彼女を追いかけまわす。

こういう場面では、ハーゲンをはじめグンターは、大きなレンズの向こう側から見ている。
当然、われわれ観客には、その表情が大写しになりよくわかり、彼らの心理描写ともなっている。
グンターは、大きな襟の革のフロックを着て、ブリュンヒルデの岩屋へ向かう。
再び、場面転換。今度は左のレンズ、そしてハーゲンは椅子に座ったまま動かず、ブリュンヒルデとワルトラウテの会話から、ずっと最後までそこにいる。
ワルトラウテが去ると、再びワルキューレの再現。ハーゲンのいる場所以外から、火がともり、もうもうとした煙。その煙の向こうからグンター姿のジークフリートがあらわれ、ブリュンヒルデから強引に指環を奪う。
ブリュンヒルデは、左側のトンネルから去り、ジークフリートもゆっくりとそこを立ち行く。
第2幕 やはり左右には大きなレンズ。今度は舞台奥と真ん中にも立つ。
大きな鳥の置物、ほかに馬もあり。
アルベリヒは、やはりレンズのうしろへまわったり、座ったままハーゲンの周りを動き回る。
朝焼けとともにジークフリートが帰ってきて、レンズを除きこんだりうろうろして、ハーゲンを見つける。
真ん中のレンズが上へとあがり、そこに角をつけ、角笛をもったハーゲンが人々を呼ぶと、槍を手に手に、男たちが次々とやってきて、ひとつのブロックを作ったり、別れたり、右に左にとめまぐるしく動きまわる。
結婚式の二組がやってくる。ブリュンヒルデはグンターに連れられ、体をまったくふたつに折り、しなだれて、手前右からはジークフリートが黒の詰め襟でグートルーネと出てくる。
グンターが、それぞれの名前を呼ぶと、ブリュンヒルデはすくっと上体を起こし、猛烈に驚き、ジークフリートに詰め寄り、指にリングがあるのを観て荒れる。
ジークフリートがその場をとりつくろって、人々と出てゆくと、残った3人。
奥にはハーゲン。左の舞台袖には、ぐったりしたグンター。右には、怒りと不安に満ちたブリュンヒルデの三様。
ジークフリートの死を3人がそれぞれ誓うが、奥では、宇宙服のような銀色(なかにはピンクや水色も)の衣裳を着た人々があらわれ、式が始まる。
中央祭壇には火がともされる。実に整然とした群衆の運びは見事。
第3幕 ラインの乙女たちは、3人、床を這っている。中ほど、奥から手前に腰かけ風の台が置かれていて、左右には波をあらわす青く光る布が敷き詰められている。
ジークフリートは、台の上をやってくる。乙女たちは、鏡のような金属片を彼に渡し、ジークフリートはそれを手にして自分の顔を写し見ている。
乙女たちが去り、ハーゲンがやってくるが、台はそのまま、布は左右にするすると消えてゆく。そして台は男たちが片づけ左右に。
中央には椅子。白い布を広げ、酒瓶2本、コップがふたつ。ジークフリートは、コップの酒を混ぜ合わせ、こぼして布を葡萄色の酒色にしてしまう。
過去を思い出して歌う場面では、人々は左右に分かれて座り、グンターは右、ハーゲンは左。ノートゥングを振りかざし、身振りもまじえて歌うが、ハーゲンはその剣を注意深く取り上げてしまう。
途中で、また酒を飲ませる。また頭を押さえてしまうジークフリート。
そして、ハーゲンの槍の一突きで、ジークフリートは倒れる。
グンターは、それこそ恐る恐る、何をしたのだ、と言う・・・・。
ハーゲンは立ち去り、ジークフリートは、床に起き上がり、苦しくも死の場面を歌う。
両手を広げ、ブリュンヒルデの名前を叫ぶ・・・・感動の一字だ。
しかし、こと切れ、葬送の場。左右の人々は、着ていたコートを脱ぎ裏返して頭からすっぽりかぶってします。黒い裏地だった。
グンターは、恐ろしくなって走って逃げてしまう。
暗闇に、ジークフリートの死骸。一本のスポットライトが照らしだし、素晴らしき崇高なる音楽がそこに鳴り響く・・・・・。
グートルーネ登場。死骸はそのままに、レンズが降りてくる。
グンターは強くハーゲンに食い下がる。ここに至って強く見えたグンター。
しかし、あえなく一撃で倒れ、ハーゲンは、ジークフリートの指からリングを取ろうとすると、ジークフリートは、手を震わせ、足も体も痙攣させそれを拒む。
ブリュンヒルデは髪を上げ黒い衣裳で登場。グートルーネを追い払い、ジークフリートに口づけする。
人々はブリュンヒルデの指図で動き出す。喪服の男たちがグンターを運び去り、グートルーネもジークフリートを気にしながらも立ち去る。
ハーゲンは左手で、槍をつきながらじっとブリュンヒルデの動きを見守っている。
男たちが、ジークフリートを担ぎあげたとき、指環を外し、ブリュンヒルデはそれを再び手にする。
奥へとジークフリートを運び去り、ブリュンヒルデは松明を持ち、火を放つ。
奥の方は煙とともに、真っ赤に染まってゆく。
人々は、ただ左右に、前後にうろたえる。
レンズは、上へあがり、ブリュンヒルデは奥へ飛び込むが、そのとき、髪を自らおろし、とても女性らしい仕草だった。
白い布(ラインの黄金のとき、ラインの乙女が持ってきたもの)が舞台に出てくる。
ハーゲンは、舞台袖の槍置き場にいつつ、「リング」と叫んで、その波のような白い中に消えてしまう。
乙女たちは、3人、うれしそうに波(布)と戯れる。
火は消えて、白いカーテンで一旦ふさがれる。
最後の轟音とともに、そのカーテンが落とされると、舞台奥には、再び何もないタイムトンネルがあって、白布の下には人が数人入り込んで、こんもりとしている。

「ラインの黄金」の原点に戻ったのだ。
この完結感は、巨大なドラマの終結に相応しい。
ひとつ違うのは、群衆が左右からやってきて、この舞台を見つめていることだ。
彼らが、ドラマを見届けた証人であり、最後に、彼らが、こちら側の観客の方を見るのは、このドラマを共有したことを証明する意味があるのだろうか。
まさに、「始まりは、終わり」、「終わりは始まり」。
見事な説得力。
ニーベルングの指環、全編の幕。

G・フリードリヒの語る、この演出の意図。
・ワーグナーの「リング」は、ヨーロッパの劇場の歴史においても、偉業のひとつといってよい。このような偉業は、アイスキュロスやソフォクレス、エウリピデスのギリシア悲劇に匹敵。また、シェークスピアの王侯劇にも、ゲーテのファウストにも、モーツァルトの歌劇にも、純音楽ではラッソ、ベートーヴェンの交響曲、マーラーの交響曲・声楽作品にも匹敵するもの。
・19世紀ドイツが、統一国家、民族文化に向かっていく矛盾したプロセス。革命と上からの国民的統一と反動復古体制を、そして様々な哲学上の思考モデルとの対決。
それらを「リング」は反映している。
・新しい舞台環境のなかで、永遠の舞台の機能を新しく体験させようということが、ワーグナーの変革も目的だった。人間の歴史を語り、また人間性の歴史を語ること。
舞台が、それを具体化したものを、音楽が非具体化する。
舞台は一定の空間という次元を提供し、音楽の響きは、それとはまた別の次元を作り出す。そうした様々な次元に過去、現在、未来をあらわし、映し出す焦点が、わたしのいうオペラの上演、現実の公演。
・ベルリンのリングで、一番大切な言葉だと思っているのは、「すべて存在するものには終りがある」というエルダの言葉。
同時に、「ジークフリート」で、さすらい人ウォータンがエルダに向かって「太古の母の知恵はおしまいだ」という矛盾も同様に非常に重要だと考える。
ウォータンのコンセプトというのは、もはや今までの古い法則とか、神々に縛られない自由な人間こそ自身の自由な意志によって世界を形作ることができるというものだが、これはウォータンのイデーでありもあり、ワーグナーのイデーでもある。
「リング」のなかで、我々の前に現れるのはこのような偉大な思想、偉大な形象、偉大な葛藤である。
・74年にロンドンで演出した「リング」のコンセプトや解決策をベルリンでも使っている。

「ラインの黄金」は、ピスカトール風の現代化された中世の神秘劇、神々は仮面をつけたりもした。
「ワルキューレ」は、まったく異なり、非常に心理的なストリンドベリ風の楽劇。
「ジークフリート」は、一種のブラック・メルヘンコメディー。
「神々の黄昏」は、ジョージ・オーウェルの「1984年」という未来小説(1949作)からとったもので、文明の没落の警告そのもの。
そして、ワシントンDCの地下鉄の絵葉書が大きなイメージとなった。
ちょうどザルツブルクで演出をしているときのこと、劇場の崖の下のガーレージに行こうとしているときに、そのドアに「原爆警報が出たら両方の扉を閉めてください」という指示があった。そこで、スイスのデュレンマットという作家が「将来はきっとみんな地下の迷路しか住めないだろう」と書いていたのを思い出した。
さらに、ヒューストンで、すべての生活が地下に収まっているという写真を見た。
そのとき、突如として巨大なトンネルのなかで「リング」を演出するのが理屈にあっており、そうしなければいけないという気持ちが私に生まれた。
・天国が宗教的な意味においても破壊されたあと、神々は地下に降りてきて、そのトンネルの中に引きこもって生活し、いまいちど権力とか黄金とか愛をめぐるかつての素晴らしい葛藤を思い描く。
・タイムトンネルは、サイエンスフィクションの概念でもあり、そこでは時間が逆転したり、昨日であったものが明日になり、本来は明日起こるものがすでに昨日であったり、そういったことがすべて今、この現在に同時に起こっていくわけである。
このことによって、「リング」の解釈について、「リング」は歴史的なものを意味しているとか、古いゲルマンの伝説を意図しているとか、あるいはばかばかしいSFの猿まねをせねばならないのか、いろいろ問うこともなくなる。
すべての時間上の可能性をコンビネートしているために、新しい独自の時間がそこに生まれている。
これはドラマトゥルギーではなく、音楽そのものである。音楽とは何かということについての答えが、本当の深い意味が、この中にあるのだ。
・「リング」の意味しているものは、まさに現代における神話である。
わたしたちは恒久的に没落も演じているし、恒久的な没落の概念をひねくりまわしているわけでもある。
それだけに、ワーグナーの音楽をなおのこと聴くべきで、また聴かなくてはならない。
ことに「リング」の一番最後の5小節、救済のモティーフに耳を傾けるべき。
これは希望ですか?また、これを諦めととりますか?
解釈の私がすることではなく、希望ととるか、諦めととるか、それは皆様の考えにかかっている。
(以上、原文はこの何倍のあるものなので、大幅に中略しました。各場所や役まわりへの解釈も述べており、とても参考になるものでした。上演の半年後に出版された「年間ワーグナー」に記載された、G・フリードリヒの講演記録より)
いまだに色あせない、G・フリードリヒのベルリン・トンネル「リング」。
この9月の通し上演は、サイモン・ラトルの指揮ともあって、おそらくは映像化が期待できます。
以上、長きにわたり、思い出のベルリン・ドイツ・オペラの「リング」の投稿、このあたりで終了です。あの時代の自分の出来事もまた思い起こすことにもなりました。

思い出チケット。
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