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2013年9月

2013年9月29日 (日)

神奈川フィルハーモニー第292回定期演奏会 沼尻竜典指揮

Minatomirai

日が落ちるとひんやりしてきました。

秋が急速にやってきてます。

音楽シーズンです。

そして、夏のブランクを経て神奈川フィルの定期演奏会です。

9月に入って、トマの「ハムレット」、ワーグナー「ワルキューレ」と大作で大忙しの神奈川フィル。
フルメンバーそろっての定期は、これまた個性的なプログラムかつ、大曲での締め。

わたくしの好きなところを次々に攻めてくれる神奈川フィルだけど、楽員さんも大変だと思います。

Kanaphil201309

   ストラヴィンスキー  詩編交響曲

             神奈川フィル合唱団

   グラズノフ       ヴァイオリン協奏曲

   チャイコフスキー   感傷的なワルツ

             Vn:石田  泰尚

       R・シュトラウス    アルプス交響曲

       沼尻 竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                 (2013.9.27 @みなとみらいホール)

ことし、日本のオーケストラは、「アルプス」ブーム。
神奈川フィルしか聴いてないけど、ファンとしてはプログラムの面白さと、指揮者との1か月間にわたる共同作業の積み重ねでもって、神奈フィルの勝ち、と勝手に宣言したい。
 そんな素晴らしい演奏会でした。
アルペンもいいが、3つの曲の組み合わせが織りなした世紀末直後の音楽の様相を、一夜にして聴くことの意義を痛感しました。

おわかりの人は、このプラグラムを見て、ひと晩では長過ぎと思われるかも。
合唱・変則編成→ソロ協奏曲→最大編成
このようにステージの準備も大変だから、そのインターバルを入れると終演は、9時25分と予測してましたが、アンコールがあったことを加味してだいたいその通りになりました。

すばらしい充実度。コンサートを聴く喜び、ここに尽きる、の一夜でした。

ヴァイオリンとヴィオラを廃し、ハープとピアノをヴァイオリンの位置に持ってきた特殊編成。クラリネットもない。そこに合唱。
見た目もユニークだけど、出てくる音塊が素のままに原初的でかつピュア。
キリキリのリズム感と、鋭角ななかにも甘味なまでに神への帰依を歌ったこのユニークな曲を沼尻さんは、丁寧に簡潔に仕上げてます。
山本さんが、コンマス的な役割、さすがです。
合唱は、もうすこし人数を絞った方が透明感と鋭さが出たような気がします。
3つめの楽章の、興奮と祈りの静けさの対比、それが平安のうちに終結する場面では、心から感動しました。

2曲目は、石田コンマスをソロにむかえてのグラズノフの協奏曲。
CDでは、太いロシア的なソロで聴くことの多かったグラズノフのこの曲。
ところが、予想通りといいましょうか、石田さんのソロはまったくいつもの石田流のキラキラ・スリムサウンド。
20分間の間、その音色にほとほと感心しましたよ。
あまりに繊細すぎるその甘味なる音色は、このホールが多きすぎて、それを聴きとるには、とてつもない緊張と集中力を要すると思わせるのでしたが、聴き進むにつれ、石田ならではのパフォーマンス(今回弱め)も伴いながら、完全に目も耳も、彼の世界に引き込まれてしまうのでありました。
この希有のヴァイオリニストは、こうして神奈川フィルの美音の一環を担ってきたわけですが、同質の美感を持つオケとの仲間共演では、最強の美的世界を作り上げます。

グラズノフの音楽は、ロシア世紀末のヨーロッパよりの濃厚なロマンティシズムを持つもの
ですが、一方では骨太のロシアンサウンドも持ち合わせているわけで、そのあたりの表出がこの演奏からは抜け落ちていたかもしれません。
 でも、それは、このユニークな美的サウンドからしたら、ほんの一面に過ぎなく思えるのが石田マジックでしょうか。
コンマス石田&神奈川フィルの次なる次元にも期待しつつ、新しいメンバーの台頭もうかがえる新鮮な神奈川フィルの今後も期待したくなる、そんな演奏でした。
ともあれ美しく素敵な演奏。
その仕上げは、耽美的なるチャイコフスキーにため息ひとつ。

20分間の休憩で、「We Love 神奈川フィル」メンバーと石田ヴァイオリンに感嘆しつつ、アルプス登山に備えて白ワインを注入。

ぎっしりぴちぴち満員のステージ。
冒頭の夜のしじまから、日の出にかけての精妙さと抜群の盛り上がり。
はやくも、ここで背筋が伸び、ホロ酔いワインが体から抜けてぴきーーンと来ましたよ。
この曲は、こうでなくちゃ、っとばかりの高揚感と感動の高まり。
今、オレは神奈フィルの「ハマのアルペン」を聴いてるんだ、という思いからして感動の一助になる。
その後の、山々の清々しい、清涼感とみずみずしさ。
滝のしぶきは、神奈フィルの音のシャワーを思いきり全身で浴びるようで、マイナスイオンでホールは一杯に満たされます。
この間のオーケストラのソロの活躍は、どこをみても満載なので、あっち向いたりこっちむいたりと、忙しいぞ。
 沼尻さんの指揮のいいところは、その堅実で腰の据わったぶれない安定感。
指揮者のうしろ姿が気にならない、ということも、これもまた音楽がしっかり聴く側に届いているからなのでありましょう。
東西でのワルキューレでの蜜月が生んだ、この最終形としてのオケと指揮者の一体感がこのアルペンでもって結実していると思いました。
 そして迎える、山の頂き!
シュトラウスの心憎いまでの頂点の築きあげ方。
もう感銘にうちふるえて、心から気持ちが解放されて、自ら山のてっぺんに到達したかのような心地よさ。
その後の天候急変、嵐。
このところティンパニにしっかり座っていただいて存在感ありありの神戸さん。
平尾さん、清水さん、堀尾さんにエキストラ交えての打楽器群。
サンダーマシンをバリバリ鳴らすとき、白手袋をするところが面白かったし、あの瞬間のためだけの贅沢な一撃にうれしくなりましたね。
 せわしい下山も、しっかりとオーケストラその個性を出してます。
ずっとずっと弾きっぱなしの弦楽器群は、いろんなところで分奏もするので、ビジュアル的にもいろいろ起きるオーケストラの隅々から目が離せない。
だんだんと、音楽は緩やかになって、しみじみ感も増してきて、日没を迎えるのでありますが、神奈フィルの音色はますます研ぎ澄まされてきて、下山して夜を迎え、オルガンも目立ってくると、別れの切なさが増してきました。

シュトラウスの作り出した聴き手の心くすぐる巧みなエンディングと、帰ってきた、神奈川フィルの美音とのしばしの別れとで、なんだかとても悲しくなってしまった印象的な曲静かな結末でした。

拍手はしばらくなし。

暖かく、熱い拍手が長く続きましたことはここに記すまでもありません。

Seiryumon


アフターコンサートは、いつものとおりに、お店が終わるまで、今宵は、気分がよくって、日が変わっても2軒目まで突入して、朝の電車を待つこととなりました。
お疲れのところ、楽員の方々と事務局のみなさん、ありがとうございました。

わたくしも管理人の一役の、神奈川フィルの公認ファンページ「We Love 神奈川フィル」のフェイスブックページが8月より装いも変えてスタートしてます。
聴き手と、オーケストラを結ぶ存在として、自分たちも楽しみ、その楽しみを皆さんと団員さん、楽団さんと分かち合えればと思ってます。

どなたでもご覧になれますし、イイネもできますヨ。
是非ご覧いただき、なによりも、神奈川フィルを聴きにいらしてください。
感動と驚きをお約束できます、歓待いたします!

次回定期演奏会は、10月18日(金)19:00。

     ブリテン ヴァイオリン協奏曲
     
          Vn:ダニエル・ホープ
 

     ホルスト  「惑星」

          広上 淳一 指揮


「We Love 神奈川フィル」  

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2013年9月26日 (木)

神奈川フィル定期演奏会Vol.292 前夜祭

Yokohama_bay

夕陽を受けた運河の輝き。

向こうは、横浜第二合同庁舎。

ドビュッシーがインスパイアされた、マネの絵画も、様子は違えど、海に映し出された日の光。

明日は、夕刻に横浜へ。

久しぶりの神奈川フィル定期演奏会。 


   ストラヴィンスキー  詩編交響曲

             神奈フィル合唱団

   グラズノフ       ヴァイオリン協奏曲

             Vn:石田  泰尚

          R・シュトラウス    アルプス交響曲

       沼尻 竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

      9月27日(金) 19:00  みなとみらいホール


7時開演で、ストラヴィンスキー24分。
オーケストラ編成が大幅に変わるので、入れ替えに5分。
7:38にグラズノフ開始。
グラズノフ終了。石田ソロが喝采あびて、拍手が止むのは8:05。
15分休憩。
8:20からアルペン。
アルペン終了、会場お開きは9:25と予測。

充実の後期定期のスタートで、ビールで乾杯そうなのは、9:55と見こまれます。

ということは、終電まで2時間とちょっとしか・・・・。

コンサートも、アフターコンサートも密度が濃くなりそうな明日の横浜ですよ。

Stravinsky_bernstein

 「詩篇交響曲」   バーンスタイン指揮ロンドン響

ストラヴィンスキー新古典主義時代の作品で、同時にユダヤ教的な怪しいムードも。
リズムの権化みたいなところも感じ取り、繰り返しの効果にしょっぱなから酔ってみたい。
ピアノと管楽器、渋い弦楽器と、不思議な編成と合唱が醸し出すロシア的かつユダヤ的な世界。

Vengerv_abbado_2


 「グラズノフ ヴァイオリン協奏曲」 ヴェンゲーロフ&アバド指揮ベルリンフィル

昔に、コンサートホールレーベルで聴いたのが初で、そのときは、ウィーンフィルのコンマスだった名手オドノポソフとワルター・ゲールの指揮によるもので、いかんせん、録音がもこもこしすぎで、曲も演奏もさっぱり冴えない印象しかなかった。
バリッとした演奏は、このヴェンゲーロフと、なんとアバドのグラズノフという希少性もある1枚が初。
民族的な雰囲気と、ブルッフにも通じるロマンティックなところと、最後の煌びやかなロシアン後期ロマン派風なところとが20分間に凝縮された感じ。
石田さまにぴったりですな。
これ弾いたあと、アルペンのコンマスは?
石田?、崎谷?
こんな楽しみも、これからの神奈川フィルですよね。

Alpen_haitink

 「R・シュトラウス アルプス交響曲  ハイティンク指揮コンセルトヘボウ

このハイティンクのフィリップス盤は、この曲最高の演奏と任じてます。
ピラミッドのように構成されたオーケストラをそのままに捉えた素晴らしい録音。
作為なく、音楽そのものを語らせたハイティンクの指揮と、濃密なコンセルトヘボウトーン。
いまとなっては聴けない、アムステルダムの音色。

おおかたの管弦楽曲を書き尽し、充実気にあったシュトラウス。
オペラの創作への旅も佳境に、あとまだ10曲もの名作を残します。

「ばらの騎士」のあとの「ナクソスのアリアドネ」と併行したこの「アルペン」。
40代後半にして、人生の酸いも甘いも経験しつつあって、自身の生涯をも重ねるその登山の様を音楽に。
老成とも思えるシュトラウスだけど、その音楽はどこまでも朗らかであります。
それは、あと30余年も歳を重ねるシュトラウスの生涯変わらぬところ。

明朗快々、天にはばかることなく、それはナチスさえも敵わなかった。

そんな素晴らしき、アルプス登山を、みなとみらいホールの抜群の音響で、そして神奈川フィルのやる気あふれる渾身の演奏で確認できるという喜び。

しかも、明日は秋晴れ。
空気も涼しく澄んで、絶好の日和ですよ。

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2013年9月25日 (水)

R・シュトラウス 「ナクソスのアリアドネ」抜粋 エレーデ指揮

Nyudouzaki

ある日本海の絶景。

秋の夕暮れを迎える風景でした。

もう何年か前、震災よりも前、車で東北をよく走り回っていた時分です。

こんな絵のような美しい景色が、あたりまえのようにある幸せ。

自然との共生、ずっと美しく平和でありたいもの・・・・・。

Ariadone

  R・シュトラウス 歌劇「ナクソスのアリアドネ」から

   アリアドネ:リーザ・デラ・カーザ  バッカス:ルドルフ・ショック
   ナイヤード:リーザ・オットー    ダイヤード:ナーダ・プッター
   エコー:レオノーレ・キルシュタイン

 アルベルト・エレーデ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                   (1959.6@グリューネヴァルト教会 ベルリン)


来年は、R・シュトラウス(1864~1949)の生誕150年です。

今年に続いて、シュトラウス好きのわたくしは、忙しい年になりそうですが、音楽界はワーグナーやヴェルディほどの熱いことにはならないかも。

でも、いまから、その15作ある素晴らしいオペラの世界にまた浸ろうと、心ときめかせております。
われらが、神奈川フィルでも、今週末は「アルプス交響曲」と、来年1月には「ばらの騎士」組曲が待ち受けております。

「アルプス交響曲」が、1911年から15年にかけての作曲。
オペラでは、「ばらの騎士」完成のあと、併行して「ナクソスのアリアドネ」にとりかかる。
ホフマンスタールとのコンビが最高に乗ってきた頃で、シュトラウスは、ワーグナーの影響下にあった「楽劇」という呼称を、このアリアドネからは止めて、「歌劇」に戻した。

室内オーケストラ編成による透明感あふれる軽やかな響き。
舞台は、地中海を舞台にしたブルーの空と満点の星がそのキャンバス。
前半は喜劇、後半は劇中劇だけど、悲劇とそのあとの麗しのハッピーエンド。
こんな不思議な倒錯感が、シュトラウスの甘味なる音楽によって、聴く者見るものを惑わす。

モーツァルトに帰ったかのような、感情の機微を細やかに描き、それを豪奢なワルツをまとったドラマにしたてた「ばらの騎士」。

このあとすぐに「アルプス交響曲」。
若い頃からの交響詩を仕上げ尽くし、バレエ音楽を除き、ほぼ最後の大きなオーケストラ作品。
オーケストレーションを知り尽くしたシュトラウスの集大成として、巨大な編成によるスペクタクルでありながら、その音楽は緻密で、ダイナミックな感興はその一部で、しみじみとした到達感と人生の夕暮れをも感じさせる達観音楽でもあるのです。
各所に散りばめられた清々しい光景も抒情的で美しい。

そして、古典風ともいえる「アリアドネ」でも、その抒情と抜けるような透明感がその真髄。
前半の弾むようなコミカルぶりと、シニカルさも聴きもの。
よく聴けば、アルペンを思わせるフレーズも感じます

R・シュトラウスの音楽は陰りがなく、どこまでも清朗で曇りないのです。

今日の1枚は、後半のオペラ編から、アリアドネのモノローグと、バッカスとの長大な二重唱と幕切れが収められてます。
美しい、デラ・カーザのアリアドネとショックの凛々しいバッカスは絶品でした。
バイロイトでも活躍したイタリア人指揮者エレーデとベルリンフィルも実に美しい。

シュトラウスの音楽の筆致の冴えと、ホフマンスタールの抜群の劇作力。
モーツァルトとダ・ポンテに匹敵する、音楽界の名コンビです。
それをひとりでやってしまったワーグナーのすござ。
台本には恵まれなかったけれど、歌の力の優位性で完全なる「オペラ」を作り上げたヴェルディ。
ジャコーザ・イルリカと恵まれた作家はありながらも自己中で、うまくいかなかったプッチーニは、愛すべき女性たちをオペラの中に活かし続けることができた。
お友達との共作が、さまざまな形態で社会に訴えかけるブリテン

こよなく愛し続ける、わたくしのオペラ作曲家たち。
ベルク、コルンゴルト、シュレーカー、V・ウィリアムズ、ヤナーチェク、チャイコフスキーと続きます。

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2013年9月24日 (火)

ワーグナー 「ジークフリート」 ティーレマン指揮

Yamanakako

夏の思い出、富士山とひまわり畑。

山中湖にある公園から。

ひまわりは人が植えこんだものだけど、こんな自然一杯の景色に心癒されない人はいない。

ここまで車で行きましたが、ごく至近に、山梨県の有力スーパーであります、オ○ノが新築オープンしてました。
住んでいる方もたくさん、そして週末・休日の人口増をも見込んでのこと。

以前、犯罪はA○○Nのあるところで起きる、みたいな本を読んだことがあるけど、いまこそ、法的な規制もできて少なくなったが、田んぼのど真ん中に、忽然と巨大ショッピングセンターが出来てしまうという現象が各地に起きました。
そして、そこに行くには車という、いわば密室の移動手段で、ショッピングセンターに入り込めば顔や姿を隠しこめることができる・・・・・、そんなようなことが書かれていたと。

全国一律に、同じものが手に入ること、それはそれで素晴らしいのですが、地域の良さをこれまた一律に封じ込めてしまうということはあります。
いまは、そんな概念は超えて、そこだけの存在でなくて、地域に根差した街づくりとしての一体化が図られるようになったかとも思い、先の書物の警鐘もまた一時のものとなった気もします。

なんだか支離滅裂になってきました。

今日は、最近の演奏で聴く「リング」シリーズで、「ジークフリート」であります。

4部作間の時間配列を記すと。

 「ラインの黄金」
           約30年?  
            ウォータンが徘徊し、ウェルズングとワルキューレを生みだす
 「ワルキューレ」
     ↓    
  約18~22年?
            ジークフリートが青年に
 「ジークフリート」
     ↓    
    数日から数ヶ月
            ジークフリートが知恵をつけ、冒険に旅立つ
 「神々の黄昏」

野山あふれる田舎育ちのジークフリートは、無邪気に育ちながらも知らずに殺し屋となり、ブリュンヒルデに出会い愛と知恵を授かりながらも、だまされ、裏切り、そして死んでしまう。

短く述べれば、そんな人生のジークフリート。

S3

まったく主体性のない、英雄なのでありまして、育ての親に恐竜退治を目的とされ、武器も爺さんのウォータンから遠回しに与えられ、ブリュンヒルデのもとに誘導されるわけだ。
「神々の黄昏」では、姉さん女房のブリュンヒルデのご加護を抜け出したと思ったら忘れ薬でもってすべて忘却。
結局、強い意志をもって、その生を貫徹したのは、この4部作のなかでは、ブリュンヒルデだけではあるまいか。

ジークフリートは、たいてい金髪で描かれるが、それは北欧神話ならではでもある。
北欧・バルト・そしてドイツに分布する元来の金髪圏(そんなのがあるか不明だけど)から、ゲルマンの優位性の象徴としてもナチスは眼を付けたわけで、「金髪のジークフリート」なんていうあだ名の国家保安本部長官ハイドリヒなんてのもいた。
そここに、ナチスの影を残すワーグナーなのであるが、それを徹底的に排除し、禊を自らを傷つけながらもリアルに行うのがドイツ人。
 全然、英雄っぽくないジークフリートの存在を際立たせる演出も多い。

実際は、上に述べたように、ジークフリートは力持ちで不死身だっただけのあまちゃん的存在に思うのですが、そこがまた愛すべきところなのであって、その冒険ぶりが描かれた「ジークフリート」は、長大で、男ばかりの世界ですが、捨てがたい魅力が満載の作品なのです。
そして、うれしいのは、4部作唯一のハッピーエンド。
死はあるものの、明るく、抒情的な楽劇です。

S2


その明るさの一端を担っているのが、ミーメ。
このおっちょこちょいぶりは、実に憎めない存在。
瀕死のジークリンデから、ノートゥンクと赤子のジークフリートを預かって、20年近くを育ての親として過ごす。
見ず知らずの赤子を育てるって、優しすぎだろミーメ。
このあたりに、ちょっと色を添えたのがトーキョー・リングのK・ウォーナー。
ジークリンデの着ていた出産の苦しみの血に染まった肌着のようなものを、形見のように出してきて、怪しく抱きしめたりもしてた。
 そんなある意味怪しいミーメが、英雄の子と認識してなくては、大きくなったら恐竜退治という野望を抱くわけがないのだが、ジークフリートに脅されながら語る生い立ちには、そこらへんのことが抜けてる。
だから知らずに愛情だけで育て、やがてこの子のバカジカラに着目して、後付けで恐竜退治への道を用意したといいわけだ。
でも、一方で20年も可愛がったジークフリートが憎いわけがない。
恐竜退治のあと、毒の飲み物で、育て子ジークフリートを殺そうという計画にも、その感情が入り込み、錯乱状態におちいるというのが、ミーメの自分でペラペラと告白しちゃう最後の場面の心理なのだ。
こんな風に思い解釈すると、ミーメとはほんといいヤツなんだ。

それをあっさりズバっと殺しちゃうジークフリートは、キレやすい子供なのかも。

その子供を大人にするのが、伯母兼女房のブリュンヒルデなところがスゴイですな。

横浜・びわ湖で行われた、ローウェルスの第二次ワルキューレ演出。
わたくしは、まったく好きでなく賛同しがたいけれど、あの幕切れのあと、あの解釈では「ジークフリート」はどうなるんだろ。

おそらく、最初から最後まで、近親相姦絶対ダメのフリッカは歌うとこないのに出ずっぱり。
あげくには、ウォータンの浮気の相手、エルダにも、その娘ブリュンヒルデの始末をくってかかるのではなかろうか。
ハッピーエンドは、よけいに浮いた無秩序なものとなり、ウォータンはなおのこと、家に帰りたくなり、終末を望み放浪しまくる。
そして、フリッカは、フンディンクのように、ギービヒ家の連中を用いてブリュンヒルデとジークフリートを破滅させようとするだろう。
彼女には、ラインの黄金=リングなどは目になく、夫の不行状といびつな愛の形態をいさめることしか頭にないのだから。
あの演出の延長では、そんな風なことしか想像できなくて、「リング」は、ワルキューレの愛の形態のみがクローズアップされ、ウォータンの数々の計略の失敗がもたらす家庭における敗北しか描くことができないのだ。

そこに、「リング=指環」はまったく関係がない。

あの演出家に4部作を作らせたらどうなるだろう。
いま考えても腹がたつ。
でも。「カプリッチョ」は、あとあとまで涙が浮かぶほどに素晴らしかったことは、ここに書かねばなりませぬ。
あれは本当にセンスがよかったし、泣けた。
しかし、今回は、ダメ。

今宵は、散文、書き散らしです。

Siegfried

  ワーグナー  「ジークフリート」

   ジークフリート:ステファン・グールド    ミーメ:ゲルハルト・シーゲル
   さすらい人:アルベルト・ドーメン      アルベリヒ:アンドリュー・ショワァ
   ファフナー:ハンス・ペーター・ケーニヒ  エルダ:クリスタ・マイヤー
   ブリュンヒルデ:リンダ・ワトソン      森の小鳥:ロビン・ヨハンソン

     クリスティアン・ティーレマン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団

                           (2008.7,8 バイロイト)


2006~2010年のバイロイト「リング」は、ティーレマンが指揮を担当し、これまで、ウォルフガンクのマイスタージンガーとパルシファルから始まったバイロイトでの指揮が、ついに「リング」を任されたことで、バレンボイムやレヴァインの跡をつぐ、いわば「バイロイトの音楽監督」の地位を手にいれたチクルスなのだ。

2000年から今にいたるまで、ティーレマンは、ローエングリンとトリスタン以外はすべて指揮してきました。
残るそのふたつも時間の問題。
当初からずっと聴いてきましたが、年々凄くなる。
デビューの年の演奏では、あの当時よくいわれた、無用なゲネラル・パウゼが多すぎて、緊張のブツ切れと違和感をやたらと醸し出していた。

リングを指揮したあたりから、そうしたあざとさも消え、そんなことをしなくとも音楽が意図せずに雄大なドラマを語りだすようになった。
ライブ録音された、2008年の演奏でも、オーケストラは極めて雄弁で雄大。
自然な大河のような流れのなかに、「ジークフリート」が持つ固有の抒情も浮き上がらせることができていて、細部にわたるまで緻密なところがすごいと思える。

いまのところ、わたくしがティーレマンを無条件で賛美するのはワーグナーとシュトラウスぐらいなのでありますが、ろくに聴いたことないベートーヴェンやブラームス、ブルックナーはどうも敬遠中。
ベームのワーグナーのような火の玉のような興奮を味わわせてくれるのだが、ベームがモーツァルトもかっちりとすっきり聴かせてくれたようなセンスはいまだにない。
そこがティーレマンの伸びしろの部分なのだろうか。

S4

ここでのジークフリートのグールドは、ほんとに素晴らしいと思う。
たしか、タンホイザーでデビューしたころは鈍重なイメージもあったが、強さと若い軽やかさも備え、母を思う繊細な感情表現も素敵なものだ。
この人が、新国でのちにトリスタンを歌い、それはまた、悲劇的な色彩の濃い素晴らしい歌唱でさらなる進化を示したのだった。

ミーメのシーゲルは、歴代のミーメに名を連ねる、おもしろ歌唱だ。
これはいい。バイロイトのミーメは、過去から見てもすべて最高だな。
ただし、グールドとの声の対比ではいまひとつ、もう少し軽くてひょろひょろしてた方が・・。

アクの強いドーメンのさすらい人は、押しつけがましい要素もその声にあって、探索者としての立場にはぴたりだ。
軽めのショアのアルベリヒもいい。

S5

新国でもお馴染みのワトソンも、わたしには明るい屈託のないアメリカ娘のようで、このジークフリートでは成功していると思えた。

そして、この音盤のよさは、祝祭劇場の響きを完全に捉えた録音の素晴らしさ。
ワーグナーの見立てたこの劇場の音響は、137年を経ても変わらずに木質の響きを保っているのでありました。

最後に、このときのドルストの演出。
ワルキューレのみが映像で確認できるけれど、わたしの好みではないな。
気色悪い。

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2013年9月21日 (土)

R・シュトラウス 「アルプス交響曲」 ティーレマン指揮

Shigakogen

数年前の夏、志賀高原でリフトで山頂に。

下界は、晴れ渡っていたけれど、上からは下が霞んで見えます。

そして何よりも気温の違い。

当然に自生してる植物も違います。

こちらは、長野オリンピックのおりの大滑降の場。

こんなところ滑り下りるなんで神業。
滑り落ちることならできそう。

さて、きたる9月27日(金)は、神奈川フィルの夏休み明けの定期演奏会。

   ストラヴィンスキー  詩編交響曲

             神奈フィル合唱団

   グラズノフ       ヴァイオリン協奏曲

             Vn:石田  泰尚

       R・シュトラウス    アルプス交響曲

       沼尻 竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

      9月27日(金) 19:00  みなとみらいホール


夏休みといっても、楽員のみなさんは、それぞれに活動や研鑽もあり、しかも8月末から今週まで、オペラが2本。

先週は横浜で、この連休は、びわ湖で「ワルキューレ」。
そして、翌週が、このヘビーなプログラムの定期です。
沼尻さんとの3週にわたる共演は、きっと実りある演奏で結実することでしょう。

Strauss_alpen_thielemann

  R・シュトラウス  アルプス交響曲

    クリスティアン・ティーレマン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                      (2000.10 @ムジークフェライン、ウィーン)


かつての昔、クラシック聴き始めのころは、「アルプス交響曲」なんてレコードも少なくって、ベームのモノラル盤に、ケンペのロイヤルフィル盤ぐらいしかなかった。
ライナーやセル、オーマンディすら録音していない。
まして、演奏会などで取り上げられるなんて滅多にない演目。
100人あまりの楽団と、多種多様の楽器の数々を必要とするから。

それがレコード界で、ブレイクするようになったのは、ケンペのシュトラウス全集と、メータのロスフィル録音あたりからで、70年代からかと。
やはり録音技術と聴き手のオーディオ装置の進化とがあってのこと。
CD時代になってからは、録音合戦には拍車がかかり、同時に、80年代からは、コンサートでも人気曲となって盛んに演奏されるようになりました。

シュトラウスが、愛した日常生活のなかで、散歩とちょっとした山登り。
その思いが、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンを舞台としたリアルな、登頂シンフォニーとして生まれた。
そのリアル感を、鉛筆一本転んでもそれを音にできると豪語したシュトラウスが、完璧極まりなく、そして、痛快なまでに描いてみせる。

いままで、実演でも、音源でも、やたらと聴いてきたので、むしろ何の先入観もなしに、シュトラウスの曲は聴くに限る。

ティーレマンの腰の低い、低音がズシリと重いタッチのシュトラウスは、昨今のすっきりと明快な演奏の風潮とは異なるもので、流れの良さというよりは、山中の見どころを、明確にとらえて、それらを大きくダイナミックに掘り下げて、聴き手を立ち止まらせて、その絶景に心を鷲づかみにさせてしまう迫力と集中力がある。

ウィーンフィルの甘い音色が、ときにずしりとした響きのなかで、アクセントとなっていて素敵なものだ。
ワーグナーの大曲もそうだが、ティーレマンの作り出す音楽は、若いぶつ切れの音楽の頃と違って、最近ますます剛直に、そして微妙にライブ感を交えながら、ぜんたいの見通しをしっかりと作って巨視的ななかに、緻密な響きも交えるようになっている。

このアルペンでも、そんなティーレマンを感じる。
全曲通して、約56分。
最短は、確かショルティの39分。
同じワーグナー指揮者でも、こうまで違う。

明日もティーレマン行こうか。

 過去記事

「プレヴィン&フィラデルフィア」

「ハイティンク&コンセルトヘボウ」

「デ・ワールト&NHK交響楽団」ライブ

「ルイージ&ドレスデン・シュターツカペレ」ライブ

「ケンペ&ロイヤルフィル」

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2013年9月20日 (金)

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第3番 ポストニコワ

Air

高い空に飛ぶ飛行機。

わたしの住む千葉の空は、羽田へ向かう国内線の通り道になっておりまして、多い時には、空に何機もの機体を確認できます。

この時は、風が強く、かなりの上空ですが、ふだんはもっと低空で、機体の文字が見えたりもします。
わたしのような飛行機好きには、たまらないのですが、これを訴えた市民もおりまして、先日NHKでやってましたが、市長さんが、国交省へ陳情しておりました。

あっちを通せば、こっちが出てくる・・・・、隣の人口の多い市区からの陳情を受けて、航路を変えたら、今度は、なんのことない我が方ということになりまして、まったくもってままないのであります。

自衛隊や米軍、さらには空港のもっと至近の方々からしたら、何言ってんだってなことになるでしょうね。
まったくもって、難しい問題でございます。

Tchaikovsky_pianocncert23

 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第3番 変ホ長調 op75 

      Pf:ヴィクトリア・ポストニコワ

  ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮 ウィーン交響楽団

                    (1982.10 @ゾフィエンザール、ウィーン)

チャイコフスキーの第3番の協奏曲っていっても、ピンときませんよね。

わたくしも、この曲の存在は知ってはいながらも、CDもこの1枚だけを持ってはいても、全然その旋律すら、頭に浮かびません。

この3番の協奏曲は、第1楽章しかありません。

未完といえばそういうことなのですが、それにはかなり複雑な実情もあります。
でもいえることは、この曲が、チャイコフスキーの正真正銘の最後の作品だということ。

WIKIなどを読んでみましたが、ややこしすぎてさっぱりわからない。
CD解説の英文の方がシンプルなものでした。

第5交響曲の成功のあと、自分の生き様ともいえるような壮大な交響曲、そう「人生交響曲」を企画し、取りかかり、そのスケッチもかなり完成させました。
しかし、自己批判かつ自信不足から、出来つつあった新作が、まったく出来栄えが悪く思えるようになり破棄してしまう。
 そして、最後の交響曲「悲愴」に着手するのですが、同時進行的に、先の捨ててしまった交響曲の素材を協奏曲として転用しようという思いが芽生え、そちらの作業も並行します。
第6交響曲を完成させ、かの協奏曲は1楽章までで、チャイコフスキーは死を迎えてしまうのでした。
そんなわけで、完成されたのが1楽章だけの第3ピアノ協奏曲です。

弟モデストは、タネーエフに破棄交響曲の素材を用いての、協奏曲の残り二つの楽章の補筆完成を依頼し、完成形をなすこととなりましたが、そもそもが、チャイコフスキーが破棄した交響曲の残り素材。自身が再度編み上げた1楽章以外の素材を他人が使用することに、本人の意思があったかどうか・・・・、そんなこんなで、いまは第1楽章のみが生き残ってるわけです。

ふう、めんどくさい事情がおありなのね、チャイコさん。

そこで、破棄交響曲の完成という、余計な作業をなさる動きも、かねてよりあり、交響曲第7番として、ちょろちょろ出てる音源がそれであります。
あんまり聴きたくないけど、むしろタネーエフ盤の完成3番を聴いてみたいものです。

ポストニコワ&ロジェストヴェンスキー夫妻による演奏は、それはもう立派なものです。

そして、曲は、まわりくどくいけれど、そこそこ幻想的で、ピアノのソロには、ジャズみたいな様相を感じたりもするのはわたくしだけでしょうか。
そして、ちょっと民族的で快活なリズミカルな旋律は、どこか忘れられない雰囲気があります。

1番から3番まで、ピアニストは大変ですが、一夜のコンサートにしても面白いかもしれません。

チャイコフスキー、好きだな。やっぱり。

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2013年9月19日 (木)

コルンゴルト 「死の街」 マリエッタの歌 

Roppongi_hills1

今日は満月。

満月を見ると変身する、狼男の映画に、子供のころ、心から恐怖をいだいたものです。

もしかしたら前にも書いてますが、子供の頃に、狼に噛まれた少年が年長して、吸血鬼狼男になっていく。
満月の晩、夜な夜な女性が襲われ、その女性は亡くなったあと、狼として生まれ変わる。
青年は、村の老人に可愛がられていたが、老人は、吸血狼を仕留めるために、銀の十字架を溶かして玉をつくり、青年にもそのいわれを語る。
 青年は、やがて、朝に血に染まった自分をみて、自分の姿と宿命を悟る。
老人も、それを察する。
ある月夜の晩、吸血狼となった青年を老人は追いつめ、苦しみながらも、あの一発を放つ。正気にかえりつつある青年の目と老人の目に浮かぶ涙。
子供心に、恐怖心とともに、憐れさと哀しみをその映画に覚えたものです・・・・。

あら、わたくし、今日は何を書いてるんでしょう。

でも、映画でも、そしてオペラでも、あのようにロマンティックで、哀しみ感じる内容や演出ってなくなってしまったと思う。
映画はまだいい。
オペラに、映画的こまごまとした要素が入り込んで、現象優先、情緒後回しになってしまった。

月夜に、今日は、わたくしの最愛のオペラのひとつ、コルンゴルトの「死の都」から、「マリエッタの歌」を。
この選択、これまでにも何度もやってますが。

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 コルンゴルト  「死の都」から マリエッタの歌

  パウル:ルネ・コロ    マリエッタ:キャロル・ネブレット

   エーリヒ・ラインスドルフ指揮バイエルン放送管弦楽団
    
                         (1975.6@ミュンヘン)


この音盤こそ、いまのコルンゴルトルネサンスを築くきっかけとなったもの。
77年に日本発売になったころ、それなりに話題にはなりましたが、日本ではまだまだ。

埋もれていた、不幸の作曲家、ナチスに退廃のレッテルを貼られてしまった作曲家。アメリカ亡命後、戦後も浮上できなかったコルンゴルトの名前が、この録音から世界に広まった。

ドラマは、まるでゴシック小説のようで、生と死、現実と妄想、愛と裏切りが、万華鏡のように描かれます。

そして音楽がまた、とろけるように甘味でミステリアスで、ロマンティック。

亡き妻を偲ばせる踊り子が歌う歌。
それをなぞる、妄想せし男。
その二人の歌は、あまりに切なく甘い。

この全曲盤に聴く、ルネ・コロは、至上最大のパウル役だ。

甘口のヘルデンテノールによって歌われるパウルは、狂気の淵もすれすれに、時に爆発し、時に、この「マリエッタの歌」にあるように優しくノスタルジックに。

対するマリエッタのネブレットも、おきゃんな感じが微笑ましくカワイイ。

このコルンゴルトのオペラ、最近出たフランクフルトオペラのひと組も、とても素晴らしい。
それは、チョコレートのように甘い、フォークトのパウルが聴けるからだ。
でもそのレビューはまたに。

来春、日本では東西で、「死の都」が上演されます。

まず西では、びわ湖ホールで、舞台日本初上演。

Korngold_die_tote_stadt_biwako

あの湖のほとりの美しいホールでコルンゴルト。

いいなぁ。

3月8,9日。

そのあとすぐに、新国立劇場でも新演出上演が12日から5公演。

いったいなぜ、こんなことになるんだというくらいの3月。

日本はコルンゴルトの音楽に染まり、そして桜の美しい花咲く季節を迎えるのです。

びわ湖での日本を代表するキャストも素晴らしいし、新国では、このオペラを歌ったら世界最高との歌手ばかり。

そして、ほんとうは、コルンゴルトを演奏するなら神奈川フィルが一番と思っている自分なのでした。

相方はイマイチだけど、コロの歌う映像を

もうひとつ、新国で歌うトリステン・ケルルの舞台から。
ケルルは、バイロイトでもタンホイザーで活躍中。
新国でも、常連となりつつあるヘルデンです。

あと、J・キングが歌う、まるでジークムントのような悲劇的なパウルも、最近DVD復刻されました。

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2013年9月18日 (水)

バッハ 「イタリア協奏曲」 ブレンデル


20130916


先日の、台風一過の、混じり気ない夕焼け。

このあと、空はもっともっとドラマティックに染まっていくのでした。

この澄んだ空気は美しい。

この日は、横浜で佐村河内守さんの、ピアノソナタの初演があったのですが、電車が完全ストップしてしまい、わたくしはチケットをふいにしてしまいました。
もっと計画的に行動すべきでしたが、家でもなすことがありましたので、これはもうやむなしです。

無情な思いにあふれた心境も、この空を見て、癒されました。

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   バッハ   イタリア協奏曲

      アルフレート・ブレンデル

            (1976.5 ロンドン)


バッハの作品をピアノで弾く場合、大事なのは透明感とタッチの明晰さ。

それは、どこまでも高く、澄んだ秋空のよう。

弾むリズムと裏腹に、孤独や寂しさも感じるほどに、バッハの鍵盤作品を、ことにピアノで聴く場合にいろんな思いが深くなる。

リヒターやヴァルヒャのチェンバロ一辺倒だったわたくしに、ピアノによるバッハの素晴らしさを教えてくれた1枚が、このブレンデル盤。

真摯でかっちりとした枠組みを持ちつつも、どこか微笑みも感じさせる優しいピアノ。
このジャケットから想起できる、そう、いかにもここからピアノの音色が立ち上ってくる感じを受ける、そんなブレンデルのバッハ。

一音一音が、明確でありながら、詩的なニュアンスもあって、古典とロマンの間を巧みに行き来するバッハは、このうえなく魅力的だった。
いまでもその思いは変わりません。
快活な、イタリア協奏曲は、多面的でコンチェルト的な様相を呈しつつ、両端楽章の鮮やかさとともに、第2楽章では、清楚で無垢なる世界を楚々と語ってみせるブレンデルのピアノ。

本当に素晴らしいバッハです。

この音盤には、あと、背すじの伸びる神々しいコラール前奏曲や、泣けるほどに美しい「半音階幻想曲とフーガ」も収録されております。

ワーグナーのあとのバッハ。
これもまたいいものです。
そして、アナログ最全盛期のフィリップス録音がまた素晴らしい!

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2013年9月16日 (月)

ワーグナー 「ワルキューレ」 神奈川県民ホール公演

Walkure_kenminhall

生涯12度目となります、演奏会形式も含めた「ワルキューレ」体験で。
ワーグナーの生体験のなかでも一番多い体験の作品となりました。
舞台は、「ニーベルングの指環」の日本初演の場所、神奈川県民ホールです。

目の前が山下公演、その先は横浜港。
上階からは、みなとみらい地区も遠望できる、あいかわらず気持ちのいいホールであります。

Walkure

   ワーグナー   楽劇「ワルキューレ」

  ウォータン:青山 貢        ジークムント:福井 敬 
  ジークリンデ:大村 博美     フンディング:斉木 健詞   
  ブリュンヒルデ:横山 恵子     フリッカ:小山 由美

  ゲルヒルデ:田崎 尚美       オルトリンデ:江口 順子
  ワルトラウテ:井坂 惠      シュヴァルトライテ:金子 美香
  ヘルムヴィーゲ:平井 香織   ジークルーネ:増田 弥生
  グリムゲルデ:杣山 惠子     ロスワイセ:平館 直子

  沼尻 竜典 指揮 
    神奈川フィルハーモニー管弦楽団&日本センチェリー交響楽団による
    合同オーケストラ

         演出:ジョエル・ローウェルス

                       (2013.9.14 @神奈川県民ホール)  


まずは、賛辞をささげたい歌唱と演奏。
現役最高峰のワーグナーを歌える歌手たちの力演は、わたしも何度か同役を聴いてるだけに、場数も重ねて歌に安定感を増してきた皆さんばかりゆえ。

 その代表が、横山さんのブリュンヒルデ。
無理なく響く力強い高域とふくよかな中音域。
スタミナ配分もよろしく、最後まで安心して聴いていることができました。
 そして、ベテランで、我が国の、ザ・フリッカさま、小山さん。
わずかな声の揺れが気になりましたが、さすがの貫録の歌唱と、その存在感。
ローウェルスお得意の、「どこでも出てくる演出」により、全幕を通じて登場の小山フリッカ。
出稼ぎばかりで、その存在感を失ってしまったウォータンに変わる、神々族の要ともなっているフリッカをしっかりと演じ、歌いました。
 大村さんの、献身的な歌いぶりは、ジークリンデにぴったり。
声の張りとリリカルな美しさも申し分ありませんでした。
 まるで娼婦のように扱われたワルキューレ乙女軍団の強力さも完璧で、耳にビンビンと迫ってきました。

それに対しての男声陣。
美声とスピントする力ある高音は素晴らしい福井さん、1幕の最後のほうでは声の威力がすぼみがち。でずっぱりの1幕は、テノール泣かせ。
 若い青山さんのウォータンのその声と姿に、神々の長のそれを求めるには無理だけれど、この演出でのウォータンの描き方にはちょうど符合していた。
若く、精力的で、所作も活発で、感情表現が豊か。そんな演出上のウォータン像には合っていたと思います。
そして、その声は思いのほか、といっては失礼ながら、実に立派で、美声、声量も文句なし。言葉の歌いこみが不足なところは、これからの多くの役柄との出会いなどで、解消していって、いいワーグナー歌手になっていくことと期待します。
 斉木さんのフンディングは、まずは順当。安定感と憎々しさと、この役柄に必要な小物ぶり。
いずれも巧みに表現できるバスですね。

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                   (ワーグナー・チューバ見えます)

そして、わたくしには、オーケストラピットも大事。

神奈川フィル単体でなく、センチェリー響との合同オケだから、いつも聴いている細身ながら美しい音色は残しながらも、そしてほんの少し、未整理の音もちょろちょろ聴こえつつも、前向きで積極的なサウンドが、ピットからしっかり立ちのぼってきました。
 分厚い音を避け、まとまりの良さと、響きの良さを引き出すことに注力したかのような沼尻さんの指揮。
オケと歌手のバランスもよく、わたしの席に、両者がきれいに響いてくるのは、この不思議な県民ホールの特性と、オペラに精通した沼尻さんの巧みな指揮によるところ。
 ワーグナーの圧倒的なサウンドを期待すると、ちょっと裏切られることになりますが、もともと、室内楽的な要素もある「ワルキューレ」の繊細な面にもよく光をあててくれた素晴らしいオーケストラ演奏だと思います。

 いつもおなじみの神奈川フィルが、わたくしの最愛のワーグナー作品を演奏しているという思いも、自分のなかでひときわ大きな感激の高まりのひとつ。
 この合同オケ、次週のびわ湖の2公演では、さらに息も合い、素晴らしい成果を残すのではないでしょうか。
 あぁ、あの美しいびわ湖ホールに飛んでいきたい!

以下、ネタバレありますので、びわ湖観劇の方は、絶対に読まないでください。
ご注意ください。


Walkure_1

日本で2度めの「ワルキューレ」演出となる、ベルギーのローウェルス。
前回の焼き直しかと思っていたら、思いきり異なる演出を出してきました。

そういう意味で、これだけの大作で、異なるコンセプトを通すということは、たいそうな才能でもあると思えます。
かつて見たR・シュトラウスの「カプリッチョ」は、同じ沼尻さんの指揮。
ナチスやユダヤを絡めた、あまりに衝撃的で、でも戻せない時間軸の哀しみを素晴らしく巧みに舞台に表現していた。

しかし、カーテン・コールで出てきたとき、わたくしは、多くの人と混じって、ブーしてしまいました。

過ぎたるは及ばざるがごとし。という思いからです。

なにも保守的なわたくしではありませんが、語り過ぎの演出には、どうも辟易としまう自分です。
読み替えや無理な時代設定はしていませんが、余計な解釈(と私は思う)をして、無理くりに、それらを次々に見せつけなくてもいい。

 でも、オペラを見る人はそれぞれだし、何の先入観も持たずに観劇した方は、その描くところがよくお分かりになったのではないかと思います。
そういう意味では、この落とし所は面白かったし、ワーグナーの壮大な「楽劇」が、身につまされる「物語」になって親近感すら覚えることとなったかもしれません。
それもまた演出の力といえます。

しかし、ワーグナーの音楽はどこいった?
音楽と劇の融合をはかり、既成のオペラに変革をもたらしたワーグナーは、その音楽に途方もない力を与え、網の目のように張り巡らしたライトモティーフによって、雄弁なまでに音楽にもドラマを語らせている。

音楽が語らない出来事が、舞台のうえで平気で起きるこの演出。
これによって、音楽と劇との乖離が起きるのでは。
同じことは、前回の二期会ワルキューレの演出の時でも書きました。

 今回も、また同じ。
ト書きにない、人物たちが、盛んに、最初から最後までちょろちょろと出てくる。
それはそれで、この演出の流れからしたら、そうなのだろうけれど、こっちが素晴らしいオーケストラと歌唱の聴きどころにじっくり浸っていると、そこにわざわざ出てくる。

具体例では、1幕のジークムントの「冬の嵐は去り」の場面では、月の光が射して春がやってくるはずが、そこに出てきたのはなんと「フリッカ」。
 兄妹を露骨に観察する結婚を司る女神は、ふたりの成り行きを目の当たりにしなくてはすまない覗き嗜好の神様だ。

 しかもこんな感じで、ほんの少しの間さえあると、紗幕が降りて、フラッシュバックのように過去の出来事を回帰させて見せつけたり、あげくは、神々の一族のお部屋で車椅子に乗るフリッカを見せたりと、わたしには煩わしいこと甚だしかった。
時間が特定できず、しかも同じ場面に新旧同一人物が出てくるという複雑さは、混乱を招くだけ。
それを、相手方の妄想や脳裏での出来事と解釈するのだろうか。
オペラはテレビドラマや映画でなく、人が演じ、歌があり、オケがあるのだ。

 さらに、いちいちおりてくる紗幕には、そのシーンのタイトルのようなことが書かれているから、さらに具象性を見せつけようという意図がまんまん。
そのまんまんすぎる意図が、わたしには「過ぎたるは・・・」という風に感じた訳だ。

フンディングを、一統ごと軍団で出してくるのは、昨今よくあること。
ここでは、それぞれが個性的な、しかもヤクザで暴力的な連中なわけだ。
 死んだ英雄たちを回収するワルキューレは、現物の檻に作りももの遺体を投げ込んでるし、ときに腕や首が千切れて、ほっぽり投げて遊んでるし・・・。

 抜き取ったノートゥングは、まるで細身の日本刀。
この刀を、字幕では「聖剣」とよび、実際それを構えるジークムントに、フンディングが卑怯にもピストルを連射してもビクともしない。
でも、ウォータンの魔力を抜くとの一声で、刀は折れ手離れ、すぐさま短刀にて殺傷されるジークムント。
まだ息があるのに、槍でトドメを射すフンディングの汚さ。

 ここでは、わたしがト書きにないのに期待する、父ウォータンの腕に敗れて支えられるとの息子ジークムントの場面解釈なのだが、ここではまったくなくて、父は冷たく見下ろしたまま。
あげくには、ウォータンは幕引きの瞬間に、ほんとうに最後のトドメに、枯れ枝のようなショボイ杖(槍じゃないんだ)を突きたてようとする。

 同じような動きは、2幕の、逃避行の疲れはてた兄妹が休んでいる場面で、ウォータンは忍び寄って、さきのショボイ杖をつきたてようともしていましたよ。

こうして、フリッカに言い負かされて、過剰なまでに自分の意志を押さえこんで逆の動きにぶれるウォータン。
そのウォータンは、自分のしでかしたことゆえに妻に負かされ、その負い目でもって、初志貫徹できない情けない自ら矛盾した存在であり、結局は一族からも浮いた存在になり果ててしまう。

ブリュンヒルデとベタベタしたが、そのブリュンヒルデも義母フリッカの下に描かれる。
そして、罰を与え、今生の別れをお互いに惜しむ、わたくしの大好きな場面では、娘ブリュンヒルデ、しかもお得意の若返りの術で娘時代の彼女が出てきてダブル・ブリュンヒルデとなるが、若い頃の彼女はウォータンを拒絶。
 子ども時代がいなくなって、リアルブリュンヒルデとの別れでも、よそよそしいブリュンヒルデの態度は、ウォータンが気の毒に。
さらに子どもの姿の兄妹、ワルキューレたち、それを従えるフリッカが一斉に舞台奥に出てきて、手を振って別れを告げる。
それは誰に?
ブリュンヒルデ? ウォータン? 

炎は出ず、天上からの赤いスポットが、この楽劇の大半に出てきて中央に鎮座していた大きな木(トネリコか、気の中央がくりぬかれていて、そこにブリュンヒルデは眠る)にあてられる。
そのまま、焔の音楽とともに、神妙に終るかと思ったら、また紗幕がおりてきて、やれやれ。

 ここでは、神々一族のお部屋、すなわち、ワルハラの居城の一室に早変わり。
そこには、フリッカを中心にワルキューレたちが集っている。
ウォータンも、会社から帰ってきたみたいに疲れて出てくる。

と思ったら、ジークムントとジークリンデが扉を開けて入ってくるし。
 ウォータンは、息子よ・・とばかりに寄っていくが、血にまみれた自分の胸を見て、ジークムントはウォータンを拒絶。
ジークムントは、団らんの中に躊躇しながらも入り、ウォータンは一人寂しく・・・・・。
完全に母神中心の家庭が構築された神々社会が描かれるのでした。

あぁ、書いちゃった。
まだこれからの人、絶対に見ちゃだめ。
驚きの結末なのでした。

あの素晴らしい「告別と魔の炎の音楽」がこれですよ。

なにもこんな日本の家庭みたいなドラマ仕立てを、ワーグナーでしないでよ。

と、複雑な思いで劇場をあとにしましたが、でも歩きながら、そしてビールを飲みながら、「まぁ、これもありか」と妙に清々しく思ったのも自分でありました。
ワーグナーの音楽は、多面的なインスピレーションの宝庫であります。

ますます、偉大なりワーグナー!ですよ。

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2013年9月13日 (金)

ワーグナー 「ワルキューレ」 県民ホール公演によせて

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                              (1980 バイロイト)

神奈川フィルが、センチェリー響と合同でピットにはいる、神奈川県民ホールとびわ湖ホールの共同制作による7作目。
例年、春にびわ湖から横浜にやってくるのですが、今年は春に続いて秋。
しかも、横浜からびわ湖へ。
県民ホールが今年12月から来年9月まで改修工事に入るためであります。
しかも今年は、春のヴェルディ、秋のワーグナーと、アニバーサリー作曲家をしっかりと上演。

演出は、ベルギーのジョエル・ローウェルスで、ある意味、日本ではお馴染みの方。
わたくしも、二期会での前回の「ワルキューレ」(飯守指揮)、「カプリッチョ」(沼尻指揮)と体験済みです。

今日は、これまでのありあまる「ワルキューレ」記事から抜粋し、神奈川フィルのファンページのファイスブックに投稿した記事の一部をここに転載して、まとめておきます。

それにしても「ワルキューレ」という作品は、とてもよく出来ています。
「リング」をひとつの作品としてみると、また別な観念で見ることができますが、単体作品でいけば、「トリスタン」「パルシファル」「ワルキューレ」は、ここに「マイスタージンガー」も加えて、ワーグナーの最大傑作だと思います。
とかいいながら、全部好きなのですが。

「愛のデパート? ワルキューレ」
 

4部作「ニーベルングの指環」を超短縮してみると・・・
「ラインの黄金」・・・神々の時代。小人族が世界を自分のものにできる黄金を手に入れ、そこから錬金した指環の争奪戦が神々と巨人族も交えて始まる。
「ワルキューレ」・・・神々の長ウォータンは、指環を奪い返すために、人間界に英雄を育てるが失敗。しかも愛する娘ブリュンヒルデとも別れることになる。
「ジークフリート」・・・英雄の末裔がやんちゃに育ち、指環も効能をしらずに手にいれ、ブリュンヒルデと結ばれる。
「神々の黄昏」・・・・ジークフリートは、世界行脚の旅に出るが、小人族の末裔ハーゲンに騙され、忘れ薬を飲まされ別な女性と結婚し、ブリュンヒルデをも別な男とめとらせてしまう。
最後はすべてを悟ったブリュンヒルデが世界を焼き尽くし、魔力の宿った指環をライン川に戻して世界の争いを終結させ救済。

こんな内容を、延べ15時間、4夜に渡って繰りひろげるのであります。

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                   (2009 新国立劇場)

今回、単発上演の「ワルキューレ」には指環は登場せず、直接の指環争そいはありません。
そしてここにあるのは、「愛」の物語。
その「愛」も多彩でして、時にインモラル。
兄妹が愛をはぐくみ、子をなしてしまうのだから。
そして、やがて生まれる甥っ子への愛の予感もあるヒロイン。
略奪され無理やり夫婦にされてしまった気の毒な愛のかたち。
正妻に頭が上がらず、いいなりになってしまう夫の見かけの愛。
旅先や計略で生れた子供たちとの親子愛。
その親子愛は、離れ離れの父と息子の信頼とその思いもよらぬ悲しみの別れ。
そして自分をもっとも理解している最愛の娘との今生の涙の別れ。
しかし、そこに厳然とあるのは、愛を断念せざるを得ないという、指環の持つ呪いと魅せられてしまったものへの悲しい宿命。

あぁ、愛のデパートの数々は、なんと一人よがりで、なんて甘味なまでに悲劇的なのでしょうか!

独断のあらすじ

第1幕)前作で皆に止められ、泥棒から奪った指環を手放したウォータンはいまだに未練たっぷりで、指環を竜に変身して守り抜く巨人族から再度拝借するために、戦いに秀でた英雄を量産することを考え、その頂点として自身が人間界に赴き生みだしたのがウェルズング族。
期待の星ジークムントなのでありました。
没落の神々が入植し生んだウェルズング族は、聡明なれど戦い好き。
人を助けようと思い、よかれと思って救っても、却って恨みと憎しみを買うばかり・・・。
父とはぐれ、やがて追われる身になるも、敵国で相見まえしは、なんと略奪結婚の気の毒な妹なり。
その妹とイケナイ恋に陥り、お互いへの愛しか眼中になくなって、まわりのことはおかまいなしの夢中の逃避行に・・・・・。

第2幕)可愛い子には旅をさせろ、とばかりのウォータンが自身与えた最強の武器ノートゥングを難なく手にいれた息子ジークムントに父はニンマリ。
 ところがどっこい、正妻フリッカがあらわれ、不倫の末の、しかも下界の人間どもに生ませた子供が憎たらしい。
しかも兄妹愛でもって、略奪されたすえの妹ジークリンデの結婚とはいっても正式な夫婦の誓いを破って逃げた兄妹が自分の立場をバカにしていると怒りまくるのがウォータンの正妻のフリッカ様。
 欧州の伝統と格式からしたら、本能のおもむくままの民族はケシカランのである。
亭主ウォータンをつかまえて、正論でもって堂々と対峙し、見事、亭主の矛盾を看破してしまい、ジークムントの保護を断念させたあげくに、逃げられたジークリンデの夫との戦いの勝利を約束させてしまう。
 いつの世も、げに恐ろしきは妻なり!!
苦しい心の内を理解してくれるのは、手塩にかけて強い娘に育てたブリュンヒルデ。
でも諦念を滲ませつつ、きっぱりとジークムントをあきらめるウォータンなのでありました。
 しかし、父のDNAをしっかりもった娘は、愛まっしぐらのジークムントとジークリンデに会って、これこそ父の意志とばかりに、大いに同情して戦いに勝手に助成してしまう。
 これを見た父ウォータンは、自ら与えた最愛の息子ジークムントの武器を砕き、哀れ死にいたらしめてしまう。
 そして仮にも我が命令、背いたからには許しはせぬと、ブリュンヒルデを愛するがゆえの怒りに燃える。
ブリュンヒルデは愛と同情に芽生えた段階で自身が持つ未来を予見させるのでした。

第3幕)ブリュンヒルデが怒り心頭の父ウォータンから逃げ隠れた先は、父が大いに励んで産ませた8人の戦乙女軍のもと。元気なんです、ウォータン。
兄(夫)の折れた剣を持った傷心のジークリンデに、将来自分の夫になるであろう子供が宿っていることを告げ、勇気づけ、ジークリンデは生きる希望を蘇らせる。

「リング」のなかでも、もっとも感動的なシーンであります。
怒髪天にも昇る勢いの父ウォータンが飛んできて、娘から神性を奪い、眠りにつかせ一介の男に委ねられる普通の女になることを宣言されるブリュンヒルデ。
 娘は、父にせめてもの願いとして、弱虫男のものにはなりたくない、岩山を人を寄せ付けぬような業火でもって囲んで欲しいと必死に懇願し、さしもの父も心折れ、涙の別れとなる。
Photo
                   (1987 ベルリン)

父娘の別れは、なんど観ても、なんど聴いても、感動の涙なくしてはいられません。

 「わが槍の穂先を恐れるものは、この炎を超ゆることなかれ!」

ウォータンは、こんな捨てゼリフを残して、火に囲まれ眠る愛娘を振り返りつつ、山を降りてゆくのでした。
                  幕

 

「ワルキューレ 聴きどころ見どころ」

音楽の聴きどころを独断チョイス。

1幕)ジークフリートが蜜酒を飲む場面のチェロの美しいソロ。
ジークフリートが武器を求めるところ、その前から聴かれるノートゥンク、すなわち剣のモティーフは「リング」を通じて重要なヒロイックな旋律。
ジークムントの「冬の嵐も去り」の名アリアから最後までのロマンティックな愛の二重唱。

2幕)ウォータンとフリッカの身につまされる夫婦の会話は、はぐらかすウォータンが次第に理路整然と論破されていくところで、不満が募ってゆくところ。音楽も不機嫌に。
そのあとのウォータンの沈鬱な長大なモノローグ。
ここでは、バスバリトンというウォータンの声域の深さと、苦悩と怒りをいかに抑えて表現するか、歌手の最大の聴かせどころでもあります。
 ジークムントとジークリンデの悲しみの逃避行と、ブリュンヒルデによる死の告知、そしてブリュンヒルデの父の命に背く決意の感動的な盛り上がりは涙がでるほど。
敵に破れるジークムントの死では、父ウォータンの胸に抱かれて死ぬ演出だと、これまた感動的。
 
3幕)自暴自棄のジークリンデに、お腹の子供(将来のジークフリート)の存在を告げ、生きぬくことに目覚め、感謝の念を歌う場面。
ここでは、ブリュンヒルデはジークフリートの主題にのって、赤ちゃんの存在を歌います。
そして、ジークリンデは、ブリュンヒルデに感謝して歌う旋律は、「神々の黄昏」の最後を締めくくる「救済の動機」です。
これまた涙誘う名場面のひとつと音楽です!
 父と娘の反省会。やがて父の心裂かれる告別となる場面。
ここでのウォータンの、感動に震える歌唱と昔を懐かしむ歌唱、そしてヒロイックな歌唱と、最高の聴かせどころです。同時に必死に懇願するブリュンヒルデの力強いソプラノも素晴らしい聴きどころ。
あらゆるワーグナー作品の中でも、ここは、もっとも泣けるところ。
娘を持つ父としては、これはいけない。泣かせないで欲しい。
 二期会で以前演出したローウェルズは、ここでは、父ウォータンは昔を回顧して少女時代のブリュンヒルデが飛び出してきて、父親の胸に飛び込んだんだもの、聴衆は、涙ぼろぼろチョチョぎれまくりにございました。

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                          (2008 二期会)

「Wer meines Speeres Spitze furchtet, durchschreite das Feuer nie!」
 (わが槍の穂先を恐れるものは、この炎を超ゆることなかれ!)

 そのあと、大抵の演出では、ウォータンは後ろ髪引かれつつ、真っ赤に燃える山を、振り返りながら舞台を去るわけです・・・・・。

 


登場人物たちのプロフィール」

ジークムント:リングきっての、いやワーグナー作品きっての悲劇のヒーロー。
自ら、自分のいくところ、常に悲しみがついてまわる、と言明するなどの自覚があったが、妹を花嫁にすることで、一瞬、春を迎える。
しかし、父親に見捨てられてしまう、どこまでも悲劇の主人公。

ジークリンデ:兄で花婿のジークムントと同じく、悲劇一色。
しかし、母の自覚とともに、生き抜く強い女性となった。
こんな両親のもとに生まれたジークフリートがなぜ、あんなに脳天気なのか不思議でならない。(ミーメの育て方がよかったのか??)

フンディング:粗暴な小市民だけど、いいバス歌手に歌われると存在感ある役。
タルヴェラ、モル、リッダーブッシュ、クラス、サルミネン、パペなどなど。
新国のマッキンタイアなんていう贅沢な布陣もありだ!

ウォータン:偉そうにしてるけど、カミサンにはからきし弱い。
日頃の不養生を掴まれている弱みがあり。ついでに娘にもからっきし弱いときた。
かつては神々の長として、その行状の悪さに触れるのはタブーだったが、昨今は、ごるつきのような存在だったり、小心物だったり、と複雑なあり方として演出されます。
だって、金もないのに築城して、代金は盗んだ黄金で支払い、払った(盗んだ)指環欲しさにいろいろ画策するんですから・・・、しかも世界各地で浮気を。。
しかし、ウォータンは何からも自由な存在、そこが強い神様なのです。

フリッカ:「ラインの黄金」での従順そうな妻が、怖い女に一気に成長。
悪い亭主のおかげで、「女はみんなこうしたもの」でアリマス。

ブリュンヒルデ:元気印で登場しつつも、愛に生きようとするジークムントを知ることで、自立的な考えに至り、父親の命に背くことも辞さないように。
この急激な成長ぶりは驚きで、そのあと、神性を解かれ、ずっと眠り続けて起きた暁にはさらに一人の人間の女となっていた変化ぶり。
さらに争う世界の終焉の幕を引くため、自己犠牲をなす天女さま。

ワルキューレたち:その多大勢的な軍団だけど、「神々の黄昏」でソロをはり、神々を代弁するワルトラウテのみ有名になる。
この8人の名前を諳んじている人がいたら、尊敬します。
あと、叫び声と歌を聴いて、これは誰と当てたら、もうそれは神であります。

 「最後に、演出について」

ローウェルス氏の演出はご本人が語っておりますように、「詳細な描写で忠実に
物語を語る」とあります。そして「予備知識なくても、舞台を咀嚼して追体験ができるように」、とも。
 ですから、最近の舞台設定条件をまったく変えた読み替え演出になる不安もなしに、ワーグナーのト書きに忠実な舞台が期待されます。
あまりあれこれ想像したり悩むことなく、舞台の出来事を素直に、素晴らしい音楽とともに楽しめばいいのです。
 2008年に二期会で、ローウェルスは同じワルキューレを演出しておりますが、そのときもかなりきめ細やかな舞台でした。
4部作全体のひとつとして捉えて観るのと、単独でも上演機会が多い「ワルキューレ」を完結感あるひとつの物語として観ること。
後者に注力するゆえの具象性にこだわる舞台が予想されます。
 ただ、前回も同じようなコンセプトだったのですが、本来そこに出てこないものまでもが、くどいくらいに登場するので、そこまでやるか?的な思いを抱く方もおられました。
さぁ、今回はどんな舞台になるでしょう!

そして神奈川フィルとセンチェリー響による沼尻さん指揮するオーケストラピットの中と、ベテラン揃いのワーグナー歌手のみなさんに、大いに期待しましょう。

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                    (2013 バイロイト)
資本主義と社会主義、石油までもまきこんだ、ファンタジー不足の嫌になるヘッポコ演出がバイロイトで行われている。

よっぽど、ワーグナーの精神を汲んだ、ちゃんとした演出になりそう。

2008年の二期会「ワルキューレ」記事

「ワーグナー 「ワルキューレ」 二期会公演①」

「ワーグナー 「ワルキューレ」 二期会公演②」

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2013年9月12日 (木)

ベルリオーズ 幻想交響曲 アバド指揮

Hamamatxucho201309

いつもと違うアングルの小便小僧。

勢いありすぎの真っすぐ感。

力強いのだ。

そして、豊穣を祝う秋の祭り。

浜松町や芝近辺でも、都会だけど、寺社も多いので、ちょうどいま、お祭りムードです。

Hamamatxucho201309_2

後ろ姿も、ちょっと大きい団扇がカワユすぎますが、粋じゃぁありませんか。

力をもらえますね、元気な気分になりますね。

そして、今日、もう皆さまお聞きおよびでしょうが、ファンが鶴首していた、クラウディオ・アバドの来日が中止となってしまいました。

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  ベルリオーズ  幻想交響曲

   クラウディオ・アバド指揮 シカゴ交響楽団

                 (1983.2 @オーケストラホール、シカゴ)


月イチ幻想、二度目のおつとめは、アバド&シカゴ。

先に書きました、アバドの体調不良による公演中止。

7年ぶりの来日公演は、未完成とブルックナー第9と、ベートーヴェンプロが予定されていたのですが。
ルツェルン音楽祭のあとの、公演をキャンセルしたアバドに、ほんのわずかな不安を感じておりましたが、まさか、それからすぐのこの決定。
アバド本人のメッセージも、主催元のカジモトのHPに掲載されております。

そこで今宵は、9月の月イチ幻想交響曲に重ねまして、わたくしの、いえ、アバド・ファンのきっと愛聴盤であります、シカゴとの録音音盤をあらためて聴いた次第です。

もう6年も前に、記事にしてました。

そして、発出でのCDを、新譜3500円で購入して、夢中になって聴いて、もう29年。
ロンドン響との来日公演で、この曲を聴いて30年。

自分の中で、まったくといっていいほどに鮮度が落ちていない。
久しぶりに聴いてみても、その思いは完全一致。
録音が、それなりの経年を感じさせはするものの、ここで聴く、音のハリとアバドの純なる取り組みぶりは、いまもって新鮮です。

何度もいいますが、これをもって中庸であるとか何もしてないとか言われたくない。
ここに聴く、歌心は、あまりにピュアで、シカゴの高性能こそ、フォルテの部分ばかりでなく、田園風景や、恋人のモティーフにてきめんに聴かれる部分であります。
 そして、活力と強靱さも、ショルティ閣下の剛毅硬直さとは大いに違って、しなやかで、想像力豊かな表現として聴くことができました。

それにしても、懐かしい、アバド&シカゴの幻想。
その後の、シモン・ボリバルの演奏はテレビで見たけど、それっきり。
ベルリンやルツェルンとの最近の演奏を、是非、ちゃんとした音源で聴いてみたいと思います。

そして、われらが愛するマエストロ、ゆっくりと養生して、元気にまた指揮台に昇って欲しいと懇願いたします。

「アバドの幻想、過去記事」

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2013年9月11日 (水)

モーツァルト ピアノ協奏曲第1~4番 ロリオ&ブーレーズ

Nihonmaru

日本丸とランドマークを背景に。

わたしの後ろは、横浜港ですよ。

日に日に、夏が後退、秋前進。

季節の変わり目は美しい、それこそうるわしのニッポン。

オリンピック決まったけど、見こみで踏み込んじゃったけど、なんとかするのがニッポン。

わたしは、いまは肯定してます。

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  モーツァルト  ピアノ協奏曲第1~4番 
                   (K.37,K.39,K40,K.41)

     ピアノ:イヴォンヌ・ロリオ

 ピエール・ブーレーズ指揮 ドメーヌ・ミュジカル・アンサンブル

                    (1950年代)


今宵は珍しい音源を楽しみました。

ブーレーズのモーツァルトなんて、もしかしたらこれしかない?
と思ったらいや、セレナーデとか序曲とか非正規盤はあるし、正規に協奏曲やグランパルティータもある。

こんなにイメージがそぐわないブーレーズのモーツァルト。

絶対に、間違っても「フィガロの結婚」なんて指揮しそうにない。

後期ロマン派から21世紀の音楽が主体で、ベルリオーズぐらいが一番古典に近いのかな。
でも、BBCやニューヨークの指揮者をつとめていたくらいだから、その時の演奏記録をみると、バロックから古典・ロマン派も指揮してる。
わたしも来日演奏会で、メンデルスゾーンのイタリア交響曲聴いてる。

そう。だからブーレーズは完璧主義者だから、指揮者として本当にやりたいものと、そうではないものとを使い分けていたものと思われます。
何度も指揮して、録音しておきたいものだけが、ブーレーズの姿を真に映し出す演目。

そんなブーレーズが、指揮を始めた初期の頃の演奏が今日のモーツァルトのピアノ協奏曲。
しかも、ピアノが、これまたイメージがそぐわないメシアン夫人の、イヴォンヌ・ロリオ。
こんな、モーツァルトにとっての場違いな二人の共演盤。

興味深々で聴き始めた、モーツァルト最初期の協奏曲。
実は、初めて聴くこの4曲。
解説やwikiによれば、11~2歳の作品で、いずれもオリジナルの楽想ではなく、ホーナウアー、ラウバッハ、ショーベルト、エマヌエル・バッハらの器楽作品からの編曲ものであります。
バロック期からの過渡期も思わせるギャラントでかつリズミカルなスタイルながら、瑞々しくたおやかな雰囲気は、あきらかにモーツァルト。
ピアノ協奏曲全集を録音したピアニストでも、アンダやバレンボイム、ペライアは録音したけれど、ブレンデルやシフ、ゼルキンは取り上げなかった。
 この6年後のオリジナルの5番は、しかし比較にならないくらいにモーツァルトの個性があふれ出た名作なところがまたモーツァルトたるところでしょう。

そんな1~4番をあえて選んでいる、ロリオ&ブーレーズ。
さぞかし、ぶっきらぼうで、サバサバ系かと思うでしょ。

ところがこれが全然違うのでありますよ。

楽しそうに愉悦感あふれ、メリハリも豊かなものだからリズミカルで、情にも事欠かない。
試しに2番の第2楽章を聴いてみてください。
曲の素敵なこともありながら、宮廷に遊ぶかのような優美な雰囲気には参ります。
ロリオさんはともかくとして、ブーレーズのあのお顔からはまったく想像すらできない、この雰囲気。

オペラは死んだ、とこ、劇場を爆破せよ、みたいな発言をしていた笑いのまったくないブーレーズさまとは思えません。

自身が創設したドメーヌ・ミュジカルでは、現代音楽とともに、古典やバロックも演奏していたと言いますが、それにしても面白くも希少な1枚です!

先に書きましたが、私が聴いたメンデルゾーンでは、笑みさえ浮かべて指揮していたものだった。
長大な「リング」でも、ロマンティックな「ワルキューレ」では透明感あふれながらも、美しい抒情の彩を聞かせてました。

ロリオさんのピアノとともに、見通しよく、澄んだ響きもこのモーツァルトの特徴です。

モノラルの復刻盤ながら、音は実に明快で聴きやすいです。

復刻盤レーベルのEINSATZさんの、姉妹レーベルLEBHAFTからの1枚です。
ほかにも、触手そそる珍しの名盤が復刻されてます。

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2013年9月 8日 (日)

ワーグナー 「ワルキューレ」 ゲルギエフ指揮

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もう終わってしまったけれど、赤いバラに、東京タワーはとてもお似合いです。

思わずハートマークが浮かんでしまう情熱や愛情を感じさせる赤いバラなのです。

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     ワーグナー   楽劇「ワルキューレ」

  ウォータン:ルネ・パペ           ジークムント:ヨナス・カウフマン 
  ジークリンデ:アニヤ・カンペ       フンディング:ミカイル・ペトレンコ   
  ブリュンヒルデ:ニナ・シュティンメ     フリッカ:エカテリーナ・グバノヴァ

  ゲルヒルデ:ジャンナ・ドンブロフスカヤ ルトリンデ:イリーナ・ヴァシリエヴァ
  ワルトラウテ:ナタリヤ・エフタフィエヴァ 
  シュヴァルトライテ:リュドミラ・カヌンニコヴァ
  ヘルムヴィーゲ:タチヤナ・クラフツォヴァ 
  ジークルーネ:エカテリーナ・セルゲーエヴァ
  グリムゲルデ:アンナ・キクナーゼ     ロスワイセ:エレーナ・ヴィートマン


    ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー歌劇場管弦楽団

          (2011.6,2012.2 @マリインスキー・コンサートホール)


音源によるワーグナー作品の全曲シリーズ。

4部作「ニーベルングの指環」の序夜である「ラインの黄金」は、すでに6月に「ヤノフスキ盤」にて取り上げてます。
少し間が空きましたが、今回のリングチクルスは、できるだけ新しい演奏を取り上げ、現在のワーグナー演奏を確認してみることにもあるのです。
前回の「ライン」は、ワーグナーのベテラン指揮者、二度目のリング、しかも同一オーケストラで、ワーグナーの主要作品をすべて演奏し、ライブ録音していくという音源史上かつてない試みの一環。
ワーグナーを知り尽くした、隅々まで目配りをしつつ、高密度・高精度の演奏。
録音も最高級。

そして、第1夜「ワルキューレ」で選択したのは、ゲルギエフ盤

このブログをご覧の方々で、この選択に、?をお付けになる方もいらっしゃると思います。
だいたいにおいて、ゲルギーのことを信用してない。
というか、わからない。何度か実演も聴いているが、さっぱりわからない。
ちっともいいと思わない。
せわしなく、さらさらと流れて、いつのまにかゴンゴンと終ってしまう。
だまされた、どうも胡散臭いという雰囲気を感じてしまうのが常でした。

Walkure_gergi

そして加えて、2006年に行われた手兵キーロフ(マリインスキー)オペラとの来日「リング」上演。
本来なら無条件で飛びつくのに、ゲルギーだし、歌手はロシアのむにゃむにゃしたような名前の人たちばかり。これには触手が伸びませんでした。
しかも、この公演、11日間で、2サイクルをやるというエネルギッシュぶり。
さらに、頭を抱えたくなるようなヘンテコ風な舞台写真。

それらがいまでもトラウマにあることは間違いないことですが、それを乗り越えて、聴いてみたかったのが、ここに集った歌手たちの名前です。
ワルキューレたちは、マリインスキーのメンバーですが、主要な役柄は、いまをときめくワーグナー歌手たちが網羅されてます。
これを手始めに、この歌手たちによって「リング」4部作が録音されそうで、歌手たちのゴージャスさでいえば、近来にないものになるといえると思います。

そして、歌手に関しての期待は半分は満足できるところとなりました。
なんといっても、聴きたかったのが、カウフマンのジークムント。
初めてその声を聴いたときから、このバリトンがかったほの暗い声は、まさにジークムントと思ってきました。
その思いはここにかなえられ、ロブストな力強さも加わって、悲劇臭ただよう真っすぐなジークムントが誕生しておりました。
欲を言えば、カウフマンの声、というか歌い口には、少しの甘味さがあって、それが悲しみのジークムントの姿とは若干違うところか。
ヴィナイやキングやホフマンといった耳にこびりついた声を払拭できないのは、そのところ。

一番素晴らしいのが、予想通りに、シュテンメのブリュンヒルデ。
現代最高のブリュンヒルデ、イゾルデの歌声をここに完璧な録音でもって聴ける喜び。
声の表現の幅が大きく、どこまでも余裕を感じさせる高域と低域。
ニルソン、リゲンツァ、ベーレンスに並ぶドラマティックソプラノの完成系をここに聴く。
2幕における、ジークムントへの死の告知の場における気高さと神々しさ、3幕の父への必死の懇願。聴いてて涙が出てきました。

同じく泣けたのが、これもまたひっぱりだこのカンペのジークリンデ。
慎ましいタイプのジークリンデでなく、ジークムントをともに生死を貫こうとする強さを感じさせる素敵な女性。叫ぶことのない高音の美しさも特筆で、ジークフリートを身ごもったことを悟った瞬間の喜びの表出、泣けます。

ペトレンコのフンディングは、思いもかけず立派なもの。
定評あるゲルギエフチームのグバノヴァのフリッカもよかったです。

そして、いつかウォータンと思っていたパペであるが、これが思った以上に、どうだろうか?という感じなんです。
「Ghe~!」も表面的だった。
フンディング、マルケ王で何度も聴いてきたパペであるが、その美声がここではドラマを歌い出すことがなかった。
ともかく立派な声で、神々の長としての押し出しも見事なれど、煩悩に陥るウォータンの悩みは薄め。声の威力はありあまるだけに、ウォータンの感情の綾が薄れた感あります。
でも、最後の聞かせどころの告別のシーンでは、なみなみとした美声だけに、文句なしに耳のご馳走だった。

8人のワルキューレたちの声の威圧的なまでのすさまじさは、さすがはロシア。

Ring_gergi

で、ゲルギエフ

テンポは少し遅め~中庸。

 Ⅰ 67:48   Ⅱ 96:05   Ⅲ 72:43

うなり声がすみずみ聴こえる「ワルキューレ」ってどうよ?
バレンボイムも唸るけど、ゲルギーのは、どうもあの顔が浮かんできていかん。

しかし、その音楽は、意外なまでに細やかで、抒情性を引き立たせ、強圧的なサウンドを意識して排したような緻密なものだった。
ユニークな歌い回しや、初めて聴くようなフレーズの取り方、2幕最後の終わらせ方もユニーク。
マリインスキーとのコンビは、昔日のロシアの響きなどは、これっぽちもなくて、ヨーロッパナイズした洗練されたワーグナーだったのです。
しかし、わたしには、そこがいまいち大人し過ぎて、踏み込みも弱く感じて不満だった。
あまりに耳当たりが良過ぎるんじゃないかな。
そして、最後の感動的な告別の音楽が、思わぬほどサラリとして流して終ってしまった。
残尿感たっぷりのエンディングに、またしてもやられてしまった思いが募る。

今年ネットで聴いたPROMSのバレンボイムの硬軟巧みな雄弁さ、ペトレンコのオケと劇場の響きに助けられたドラマ感、これらと比べて、ゲルギエフは考え過ぎの演奏に思いましたがいかがでしょうか。

続編を続けて「ゲルギー・リング」を集めるか否かは不明。
でも思えば、いろんな国の「リング」が聴ける世の中になったものです。
しかし、ヤノフスキの2度目は是非とも完備したい。

次週は、神奈川フィルもピットに入る、神奈川県民ホールとびわ湖ホールの共同製作オペラシリーズで、「ワルキューレ」の上演があります。

そこへ向けて、もうひとつの「ワルキューレ」投稿、これまでのこのブログの記事をまとめて、もうひとつ書いておきます。

「ワルキューレ 過去記事」

「ベーム&バイロイト祝祭管弦楽団」

「ハイティンク&バイエルン放送響」

「新国立劇場公演 エッティンガー指揮①」


「新国立劇場公演 エッティンガー指揮②」

「二期会公演 飯守泰次郎指揮①」


「二期会公演 飯守泰次郎指揮②」

「テオ・アダムのウォータンの告別」

「ブーレーズ&バイロイト」

「メータ&バイエルン国立」

「ノリントン指揮 第1幕」


「カラヤン&ベルリンフィル」

「エッシェンバッハ&メトロポリタン公演」

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2013年9月 6日 (金)

レスピーギ 「ローマの祭」 ガッティ指揮

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夏の名残り強く残る盛り場。

盛り場と申しましても、こちらは少しの場末感ただよう、横浜野毛の入口から行ったら結構奥の方。

それ風な場所もあってかねての結界みたいな感じを思わせますが、こうした宵闇に、ほんとに美味しいものを求めて人々が集まります。

これもまた大都会の持つひとコマと思います。

そして、まだ「夏」を忘れちゃならない。

故郷の夏は、「祭り」だよ。

「おら、みんなに会いでぇ!」、だよ。

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  レスピーギ  交響詩「ローマの祭」

  
 ダニエレ・ガッティ指揮  ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団

                     (1996.10 @ローマ)


いわずとしれました、レスピーギのローマ三部作。

「松」「噴水」「祭り、その3つのタイトルを持つ交響詩は、はなやかかつ、知的なオーケストレーションを持ち味あとしたレスピーギの代表作です。

レスピーギ(1879~1936)は、まだそんなに遠くない存在の生没年で、ちょっと遅れてきたイタリア世紀末作曲家です。

プッチーニより約20年あと、イタリア伝統のオペラ作曲家としての立場から少し身を置いて、シンフォニスストでもなく、オーケストラや器楽を中心にすえて、オペラや歌曲に対した。

ここに以前の記事から、ヴェルディ後のイタリアオペラ作曲家の系譜を再褐しときます。

  ★ヴェルディ(1813~1901) 

  ・ボイート(1842~1918)
  ・カタラーニ(1854~1893)
  ・レオンカヴァルロ(1857~1919)
  ・プッチーニ(1858~1924)
  ・マスカーニ(1863~1945)
  ・チレーア(1866~1950)
  ・ジョルダーノ(1867~1948)
  ・モンテメッツィ(1875~1952)
  ・アルファーノ(1875~1954)

  ・レスピーギ(1869~1936)

レスピーギは、その生没年から言えば、その作風は保守的であり、古代の旋法やバロック期の古風な佇まいを引用した古典主義的な存在でもありますが、一方でそれらをベースにしながらも、オーケストラの技法を駆使し、豊かな響きと大胆な和声を駆使した前記のような華麗なサウンドも身上としてます。
 いま、そのオペラ作品を聴き始めましたが、こちらはその両面を巧みに持ち合わせた作品が多く、聴き応え充分です。
ただ、多くあるように、歌詞対訳の障壁があって、じっくりとりくむと数カ月を要しますので、また時間が許せば、そのオペラの諸作品をシリーズ化したいと思っております。

さて、今宵は、そんなことは悩むことなしに、痛快で劇画的、血沸き、心躍る、ローマのフェッシバルのいくつかに心を馳せて、思いきり鳴りっぷりのいいレスピーギの粋な交響詩を聴こうじゃありませんか。

かつての記事からまたもや再褐。

いきなり金管の大咆哮で始まるチルリェンセスはローマ時代の暴君の元にあった異次元ワールドの表出。

キリスト教社会が確立し、巡礼で人々はローマを目指し、ローマの街並を見出した巡礼者たちが喜びに沸く五十年祭」。

ルネサンス期、人々は自由を謳歌し、リュートをかき鳴らし、歌に芸術に酔いしれる月祭」。

手回しオルガン、酒に酔った人々、けたたましい騒音とともに人々は熱狂する。キリストの降誕を祝う主顕祭はさながらレスピーギが現実として耳にした1928年頃の祭の様子。

いつ聴いても③の夏のものうい雰囲気のセレナーデには酔ってしまう。
そして、その酔いをぶっ飛ばすような、④の強烈かつぶっ飛びの最終エンディング。
まさに、「イェーーイ」と快哉を叫びたくなるんだ。

もう10年経つけれど、いまや名匠となったガッティのピチピチとしながらも、知的な指揮に、歌心満載のローマの俊敏なオケ。

ローマ三部作には、トスカニーニ、オーマンディ、ムーティ、ヤンソンス、マリナーと大好きな音盤数あれど、このガッテイ盤もイタリア男の魅力あふれる素敵な1枚であります。

そして、この曲、神奈川フィルの美音で持って、港町で是非聴いてみたい。

若い、川瀬君でOK!


 ローマ3部作 過去記事

ローマ三部作」 マリナー&アカデミー


「ローマの松」 ヤンソンス&オスロフィル

「ローマの噴水」 デュトワ指揮

「ローマの松」  トスカニーニ&NBS響

「ローマの祭」   シノーポリ&ニューヨーク・フィル 

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2013年9月 4日 (水)

ディーリアス 「夏の歌」 A・デイヴィス指揮

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この夏の早朝の眩しい日差しの吾妻山。

海と空の境界線が眩しすぎて曖昧です。

夏の高い気温はこんな風に、景色をぼかしてしまいますが、そのかわり、緑の鮮烈さといったらありません。

去る夏に、その夏を惜しんで、その曲を聴きます。

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     ディーリアス   「夏の歌」

  サー・アンドリュー・デイヴィス指揮 BBC交響楽団

                  (2007.7、@RAH ロンドン)


連日繰り広げられている、ロンドンの夏の音楽祭、プロムスも今週でお終い。

思えば、1ヶ月半にわたり、超充実の演奏会を、昼夜に行い、それらをすべてネット配信し、国内には映像配信も。
かの地のBBCは、某国のN放送局などは足元にも及ばぬほど、クラシック音楽を普遍的に扱っております。
それがクラシック愛好家のスノッブなお堅い世界ではなく、ナレーターもノリノリだし、なによりも、聴衆がイケイケなんです。
楽章が終わるごとに拍手しちゃう。
ブルックナーの7番が、全楽章、拍手付きなんて、生まれて初めてだ。

これですよ、東洋と西洋の違い。
クラシック音楽と、それ以外の音楽との隔てはあるにせよ、なんでもあり、等しく聴こうじゃないか精神があるのじゃないか。

今宵は行く夏を惜しんで、ディーリアスの、わたくしのもっとも好きな作品にひとつを。

またまた、「あまちゃん」と連動しますが、彼女が、そして彼女たちが愛らしく歌う「地元へ帰ろう」は、多くの人の心の琴線にふれる内容ではないでしょうか。

人それぞれに持っている地元。
それはいずれ帰りゆく場所でもあります。

今朝の関東・甲信越で観測された地震は、震源が遠いのに、それが深かったため、ホットスポットのように予想外の揺れを遠く離れたところで記録しました。
列島を縦断するホッサマグナの存在を恐ろしく意識させるものでした。
そして、わたしの帰るべき地元も、そこだけ高い震度。
これは隣接する断層の影響もあるのではと、素人考えで思った次第です。
その南北に走る断層は、東海道線や新幹線で通過するときにわかるくらいの、こんもりした地形をしてます。

今日聴くディーリアスの作品は、もう何回か取り上げてますが、若い頃から、自宅から見える夕陽や、赤く染まりゆく山々を臨みながら聴いた、詩的で、感覚的な雰囲気豊かな、切なくも美しすぎる音楽です。
何度聴いても、ほんとうに素晴らしい。
 北欧の絶壁で、壮絶な海に沈む夕景を思い描いたと思われるディーリアスの絶筆ともいえる曲は、夏の終わりにこうして聴くほどに、自分の心を、やがて帰りたい、いや帰るべき郷里へと運んでくれる。
なにが起きようと、悔いのないように、その気持ちを大事にしておきたいと思います。

グローブスとバルビローリ、ハンドリー、そしてA・デイヴィスも素敵な演奏を残してくれました。
サー・アンドリューは、英国指揮者の系譜を引き継ぐべき正統として、急速に復活した名匠となりました!

Azumayama_3

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2013年9月 3日 (火)

交響曲第1番「HIROSHIMA」の世界展

20130824

日が経ってしまいましたが、8月の暑い日、六本木ミッドタウンホールで行われた、交響曲第1番の世界展へ行ってまいりました。

佐村河内さんを追った写真家、大杉準平さんによる被災地に降り立った数々の写真や、佐村河内さんの身のまわりのもの、思い出深い品々。
そして、テレビでも映し出されていた、あの綿密で細かな何重にも書き連ねられた旋律のスケッチブックの現物と、そのすべてのコピー。
交響曲第1番の総譜と終楽章の1枚1枚の展示。
さらに、野本先生によるスコアの読み解き。
これはNHKの放送の何十倍にもよる詳細かつ簡明なトークで、この展示会初日に行われた講演のビデオ放送。
さらには、週末は、佐村河内さんのご来臨があり、氏と直接にお話ができるという、またとない機会が添えられておりました。

くまなく展示を拝見して、野本先生のお話もひとつひとつ納得の内容で、大満足の私。

ひとりひとり、とても丁寧に言葉を交わされ、サインをされ、ツーショットにも気軽に応じられていた佐村河内さん。
暑い中、時間も押して、待っているこちら以上に、その体調を心配になってしまうくらい。

今回、ご挨拶できた日本コロンビアのプロデューサーさまにうかがったら、すべてはご本人の意思で、是非にもという強いお気持ちだったとのことです。
多くの方に接して、そのお話を分け隔てなく謙虚に聴きたいという、ファンとしては本当にありがたいそのお気持ちに、感激せざるをえませんでした。

ほんとうに楽しく、素晴らしいお時間をいただきました。ありがとうございました。

Amachan

そして、ごたぶんにもれず、わたくしも「あまちゃん」欠かさず見ております。

ついに今週は、あの「3.11」の出来事がドラマの中で描かれました。

これまで、巧みな隠しネタや、登場人物たちの暗くならない明るさでもって、そのスピード感とともに、見る者をワクワクとさせてきた毎日のドラマ。

ここへきて、わたくしたちに、「あの日、あのとき」を強く思い起こさせるという展開に。

あの日を境に変わってしまったことを、再び思い出すとともに、のど元を過ぎて薄れてしまった感情も、たかが15分のドラマを見ることで、また再び蘇ってしまった。

あのとき、自分はどうしていたか?

何を思ったか?

現実を直視できず、テレビの映像を見て後追いするように、起こってしまったことに対し、戦慄し、哀しみ、同情を覚えた日々。

あの頃、自分がどういう感情だったか、何をしていたかは、自分のこのブログをひも解けば、そこに書いてある。

そして出会った、よりによって、こちらが力をお与えしなくてはならないのに、被災された方からお教えいただいた佐村河内交響曲。

そこですぐに聴いて、あのときの自分の心に入り込み、しっかりと刻印を残してくれた音楽。
いまもこうしてCDを聴きながら書いてます。
実演でも何度か聴き、CDも繰り返し聴き、この曲は、自分のその時のありように応じて、毎度違う印象をもって迫ってくる。

でも、「あまちゃん」の展開に、また蘇ったあの時の気持ち。
この先、あまちゃんは、きっとまた前を向いて走り始めるだろうけど、まだまだ事態は厳しいままだということを、福島の状況や、現実の被災地をおもんばかってみること、それを決して忘れてはいけません。

そんなことを思いながら、いま、苦しみあがく第2楽章の後半にさしかかったところで、涙が出てきました。

先週は、わたくしは、四半世紀前に観劇した、ワーグナーの「ニーベルングの指環」に集中しておりました。
ワーグナーが、その壮大な叙事詩的な音楽劇に託したのは、歴史上繰り返される人間ドラマ。
戦争もそのひとつだが、震災や自然災害は、人間の力及ばぬ人知尽せぬ世界。
もっていきようのない怒りと不安なのであります。
それを解決するのは、学びによる予防と、悲しいかな歳月の流れのみ。
そして、次なる災害の足音も、いやでも聞かねばなりません・・・・・。

そんなわたくしたちに、絶望を同感させ、反省をうながし、その変わりに、力を愛と希望を何度も与えてくれるこの音楽が、いまあることに感謝しなくてはなりません。

ほんとうにありがとう!

※本記事は、執筆当時のままにつき、事実と異なる内容が多く含まれております。

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2013年9月 1日 (日)

ワーグナー 「ニーベルングの指環」 ベルリン・ドイツ・オペラ来日公演記録 ④

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以下は、当時の日記から転載します。

「現代のワーグナー歌手の、もう最高峰の顔ぶれ。
何と言っても、待望のルネ・コロが聴けたこと。前回のトリスタン(ウィーン)では来日せず、がっかりさせたけど、今回はジークフリートを2日とも、最高のコンディションのもとに歌い演じてくれた。
やはり、美しく甘い声だ。しかし、よく通る声。ワルターやローエングリンばかりの頃からすると場数を踏み、タンホイザーとトリスタンを経た力強い表現が完全に習得されたようだ。
グンターになり変わる時の暗いバリトン声、神々のジークフリート役での複雑かつ多面的な役どころを見事に演じたほか、「ジークフリート」での抒情的な場面も、明るく美しい声が劇場内に素晴らしく響き渡った。
繊細な声と表現が、オーケストラを飛び越えて耳に達するという驚き。
レコードやCD、FMで聴けるその声が、耳にビンビンと届く、ライブの喜びは、コロのファンとして忘れえぬもの。

そして、リゲンツァ。小柄かと思ったら、結構背の高い、腰のしっかりしたがっしりタイプの女性。
でも、とてもチャーミングで、大きな瞳はとても魅力的。
ワルキューレ→ジークフリート→神々の黄昏と、ブリュンヒルデが、神々のワルキューレのひとりから、ジークムントとジークリンデの愛を知り、ウォータンに反抗してまでも愛を守ろうとする、人間としての目覚め。そしてジークフリートにより、真の愛を知り、真の人間となる。ところが、裏切られ、怒り、悲しむ女性、さらにすべてを受け入れ、諦め、さらなる高みへ達しようとする女性。そんな大きな存在の女性。
そんなブリュンヒルデを、リゲンツァはまったく完璧に、ニルソンのような近寄りがたい神々しさとは違った、暖かく息づく女性的な感覚でもって、歌い演じ切った。
リングという物語の中でのブリュンヒルデの成長と女性としてのあり方を、等身大に歌い演じたリゲンツァ。音だけは聴いてきたけれど、一発で彼女のファンとなった。

ウォータンのヘイルは、驚きだった。
こんなバス・バリトンがなぜいままで知られてなかったのか。
容姿から第一目を引く。威厳を備えた若々しい舞台姿とその声。
ハリがあって、すみずみまでよく通る声。深く暖かい。
悟りも感じさせる表現力も豊かで、今後が大いに期待できる歌手。

サルミネンは大車輪の活躍。
僕もそうだが、一番拍手を浴びていた。事実、その凄まじいまでの声量とその深みは、ホールの隅々まで届くもの。
もう少しの表現力が欲しいが、ハーゲンとしては、憎たらしいまでにクールな役作りで、グンター兄妹を意のままにする強力さを発揮した。」

このあと、ジークフリート、トリスタンとして大成してゆくイエルザレムを聴けたことは大きい。
さらに、素敵な女性としてのヴァラディのジークリンデ。
カラヤンに見出された、少し軽めのホルニック。
二期会でも体験したヒーステルマンの役者のようで軽やかなミーメ。
その後にウォータンを歌うのではと期待されたカールソンのグンターは、この時、なかなかにブリリアントだった。
一方で、セカンドキャストでは、若くて痩せてたトムリンソンが、サルミネンのセカンドとしてフンデイングやハーディングを歌ったのも、この公演のすごさ。

すみずみまで、完璧だったこのときの「ベルリン・ドイツ・オペラ」

あと2年で、東西融合。

東の力を借りつつも、西側の最後の輝きとも言えた上演ではなかったでしょうか。

最後に、指揮のR・コボス。
「思わず、ブーを浴びてたこのひと。賛否あるかもしれない。
この人のやりたかった明晰なじめじめしないワーグナーは、重く響くことはなく、軽め。
やはり、ラテンの血の流れた人ゆえの明るさは、ブーレーズのような知的で分析的な冷たさはなく、オペラティックであり、情にもあふれていた。
早めのテンポは、一部の人には違和感を感じたようだが、僕にはまったく問題なかった。
重厚さ、ここで拳を握りたくなる迫力などが不足したことは事実なれど、この超大作を異国の地に来て短期間でまとめ上げ、少しもだれることなく一気に聴かせてくれた実力派なみなみのものではない。
印象的だったのは、抒情的な場面のオーケストラの美しさ。ワルキューレの第1幕、ウォータンの告別、ジークフリートの母への憧憬、森の場面、葬送行進曲の哀しみなどなど・・・。
ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団の機能的にも、オペラの雰囲気にもあふれた演奏も完璧で、日本のオーケストラと比べ物にならないものを感じた。」


  ワーグナー  舞台祭典劇「ニーベルングの指環」

     ヘスス・ロペス・コボス指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団/合唱団

           演出:ゲッツ・フリードリヒ

           舞台装置・美術:ペーター・ジコーラ

        (1987年 10月30日、11月1日、4日、7日 東京文化会館)


G5

 「神々の黄昏」  11月7日

  ジークフリート:ルネ・コロ             ブリュンヒルデ:カタリーナ・リゲンツァ
  グンター:リーヌス・カールソン          ハーゲン:マッティ・サルミネン
  アルベリヒ:ゴットフリート・ホルニック  グートルーネ:カラン・アームストロング

  ワルトラウテ:ウテ・ヴァルター      第1のノルン:カヤ・ボリス 
  第2のノルン:アナベル・ベルナール   第3のノルン:シャロン・スウィート 
  ウォークリンデ:キャロル・マローン    ウェルグンデ:バーバラ・フォーゲル 
  フロースヒルデ:アニタ・ヘルマン

序幕・第1幕 幕が開くと、おそらく奥は「ジークフリート」第3幕の場。
前面には、赤いロープが幾本も舞台右と左とを渡っている。
その向こうにノルンが、右・中・左に別れて座っていて、1本のロープを歌う人から歌う人へと、持ちあげて投げてゆく。
目を赤い目隠しで覆っているから、ロープはまったくの手探りに見える。
切れるところでは、何本ものロープが一斉に真ん中から切れてしまい、真っ暗となり、ノルンたちは手探りで退出する。

薄明かりのなか、舞台奥にはbリュンヒルデが膝を抱えて座っているのが見える。
ジークフリート登場。二人は抱き合う。ジークフリートは旅立つが、ブリュンヒルデは寂しそう。角笛を手にタイムトンネルから手を振りつつ走り出てゆく。

ギービヒ家への転換。カーテンが降りて、風でゆらゆら揺れ、そこにブルーとグリーンの光を当てて、川の流れのようだ。
そのカーテンの向こうには人が立っていて、おそらくジークフリート。
こちら側にはハーゲンが出てくる。
カーテンが開くと、そこは宇宙船のよう。
ソファがふたつ。ハーゲンは別の腰かけにひとり。グンターとグートルーネはソファにふたり。グンターは白い詰め襟に、黒のスラックス。宇宙船の司令官のようだ。
動きはヒトラーのようだが、弱気な人物として描かれている。
グートルーネは、シャイで主体性がない。そこがこの女性の憐れなところで、この演出では、兄妹はとても気の毒で、同情を引くように描かれている。
ハーゲンにもてあそばれた善良でありふれた人間だ。
 ジークフリートが登場するが、彼は入口に現れると、そのまばゆさに、両手で顔を覆う。
あまりに場違いな格好。
酒を飲むところでは、頭を押さえ苦しむ。かたわらではグートルーネが待機しているが、ジークフリートは急に彼女を追いかけまわす。

G3

こういう場面では、ハーゲンをはじめグンターは、大きなレンズの向こう側から見ている。
当然、われわれ観客には、その表情が大写しになりよくわかり、彼らの心理描写ともなっている。
グンターは、大きな襟の革のフロックを着て、ブリュンヒルデの岩屋へ向かう。

 再び、場面転換。今度は左のレンズ、そしてハーゲンは椅子に座ったまま動かず、ブリュンヒルデとワルトラウテの会話から、ずっと最後までそこにいる。
 ワルトラウテが去ると、再びワルキューレの再現。ハーゲンのいる場所以外から、火がともり、もうもうとした煙。その煙の向こうからグンター姿のジークフリートがあらわれ、ブリュンヒルデから強引に指環を奪う。
ブリュンヒルデは、左側のトンネルから去り、ジークフリートもゆっくりとそこを立ち行く。

第2幕 やはり左右には大きなレンズ。今度は舞台奥と真ん中にも立つ。
大きな鳥の置物、ほかに馬もあり。
アルベリヒは、やはりレンズのうしろへまわったり、座ったままハーゲンの周りを動き回る。
朝焼けとともにジークフリートが帰ってきて、レンズを除きこんだりうろうろして、ハーゲンを見つける。
真ん中のレンズが上へとあがり、そこに角をつけ、角笛をもったハーゲンが人々を呼ぶと、槍を手に手に、男たちが次々とやってきて、ひとつのブロックを作ったり、別れたり、右に左にとめまぐるしく動きまわる。
結婚式の二組がやってくる。ブリュンヒルデはグンターに連れられ、体をまったくふたつに折り、しなだれて、手前右からはジークフリートが黒の詰め襟でグートルーネと出てくる。
グンターが、それぞれの名前を呼ぶと、ブリュンヒルデはすくっと上体を起こし、猛烈に驚き、ジークフリートに詰め寄り、指にリングがあるのを観て荒れる。
ジークフリートがその場をとりつくろって、人々と出てゆくと、残った3人。
奥にはハーゲン。左の舞台袖には、ぐったりしたグンター。右には、怒りと不安に満ちたブリュンヒルデの三様。
ジークフリートの死を3人がそれぞれ誓うが、奥では、宇宙服のような銀色(なかにはピンクや水色も)の衣裳を着た人々があらわれ、式が始まる。
中央祭壇には火がともされる。実に整然とした群衆の運びは見事。

第3幕 ラインの乙女たちは、3人、床を這っている。中ほど、奥から手前に腰かけ風の台が置かれていて、左右には波をあらわす青く光る布が敷き詰められている。
ジークフリートは、台の上をやってくる。乙女たちは、鏡のような金属片を彼に渡し、ジークフリートはそれを手にして自分の顔を写し見ている。
乙女たちが去り、ハーゲンがやってくるが、台はそのまま、布は左右にするすると消えてゆく。そして台は男たちが片づけ左右に。
 中央には椅子。白い布を広げ、酒瓶2本、コップがふたつ。ジークフリートは、コップの酒を混ぜ合わせ、こぼして布を葡萄色の酒色にしてしまう。
 過去を思い出して歌う場面では、人々は左右に分かれて座り、グンターは右、ハーゲンは左。ノートゥングを振りかざし、身振りもまじえて歌うが、ハーゲンはその剣を注意深く取り上げてしまう。
途中で、また酒を飲ませる。また頭を押さえてしまうジークフリート。
そして、ハーゲンの槍の一突きで、ジークフリートは倒れる。
グンターは、それこそ恐る恐る、何をしたのだ、と言う・・・・。
ハーゲンは立ち去り、ジークフリートは、床に起き上がり、苦しくも死の場面を歌う。
両手を広げ、ブリュンヒルデの名前を叫ぶ・・・・感動の一字だ。
 しかし、こと切れ、葬送の場。左右の人々は、着ていたコートを脱ぎ裏返して頭からすっぽりかぶってします。黒い裏地だった。
グンターは、恐ろしくなって走って逃げてしまう。
暗闇に、ジークフリートの死骸。一本のスポットライトが照らしだし、素晴らしき崇高なる音楽がそこに鳴り響く・・・・・。

グートルーネ登場。死骸はそのままに、レンズが降りてくる。
グンターは強くハーゲンに食い下がる。ここに至って強く見えたグンター。
しかし、あえなく一撃で倒れ、ハーゲンは、ジークフリートの指からリングを取ろうとすると、ジークフリートは、手を震わせ、足も体も痙攣させそれを拒む。
ブリュンヒルデは髪を上げ黒い衣裳で登場。グートルーネを追い払い、ジークフリートに口づけする。
人々はブリュンヒルデの指図で動き出す。喪服の男たちがグンターを運び去り、グートルーネもジークフリートを気にしながらも立ち去る。
ハーゲンは左手で、槍をつきながらじっとブリュンヒルデの動きを見守っている。
男たちが、ジークフリートを担ぎあげたとき、指環を外し、ブリュンヒルデはそれを再び手にする。
奥へとジークフリートを運び去り、ブリュンヒルデは松明を持ち、火を放つ。
奥の方は煙とともに、真っ赤に染まってゆく。
人々は、ただ左右に、前後にうろたえる。
レンズは、上へあがり、ブリュンヒルデは奥へ飛び込むが、そのとき、髪を自らおろし、とても女性らしい仕草だった。
 白い布(ラインの黄金のとき、ラインの乙女が持ってきたもの)が舞台に出てくる。
ハーゲンは、舞台袖の槍置き場にいつつ、「リング」と叫んで、その波のような白い中に消えてしまう。
乙女たちは、3人、うれしそうに波(布)と戯れる。
火は消えて、白いカーテンで一旦ふさがれる。
最後の轟音とともに、そのカーテンが落とされると、舞台奥には、再び何もないタイムトンネルがあって、白布の下には人が数人入り込んで、こんもりとしている。

G2

「ラインの黄金」の原点に戻ったのだ。
この完結感は、巨大なドラマの終結に相応しい。
ひとつ違うのは、群衆が左右からやってきて、この舞台を見つめていることだ。
彼らが、ドラマを見届けた証人であり、最後に、彼らが、こちら側の観客の方を見るのは、このドラマを共有したことを証明する意味があるのだろうか。
 まさに、「始まりは、終わり」、「終わりは始まり」。
見事な説得力。
ニーベルングの指環、全編の幕。

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G・フリードリヒの語る、この演出の意図。

・ワーグナーの「リング」は、ヨーロッパの劇場の歴史においても、偉業のひとつといってよい。このような偉業は、アイスキュロスやソフォクレス、エウリピデスのギリシア悲劇に匹敵。また、シェークスピアの王侯劇にも、ゲーテのファウストにも、モーツァルトの歌劇にも、純音楽ではラッソ、ベートーヴェンの交響曲、マーラーの交響曲・声楽作品にも匹敵するもの。

・19世紀ドイツが、統一国家、民族文化に向かっていく矛盾したプロセス。革命と上からの国民的統一と反動復古体制を、そして様々な哲学上の思考モデルとの対決。
それらを「リング」は反映している。

・新しい舞台環境のなかで、永遠の舞台の機能を新しく体験させようということが、ワーグナーの変革も目的だった。人間の歴史を語り、また人間性の歴史を語ること。
舞台が、それを具体化したものを、音楽が非具体化する。
舞台は一定の空間という次元を提供し、音楽の響きは、それとはまた別の次元を作り出す。そうした様々な次元に過去、現在、未来をあらわし、映し出す焦点が、わたしのいうオペラの上演、現実の公演。

・ベルリンのリングで、一番大切な言葉だと思っているのは、「すべて存在するものには終りがある」というエルダの言葉。
同時に、「ジークフリート」で、さすらい人ウォータンがエルダに向かって「太古の母の知恵はおしまいだ」という矛盾も同様に非常に重要だと考える。
 ウォータンのコンセプトというのは、もはや今までの古い法則とか、神々に縛られない自由な人間こそ自身の自由な意志によって世界を形作ることができるというものだが、これはウォータンのイデーでありもあり、ワーグナーのイデーでもある。
「リング」のなかで、我々の前に現れるのはこのような偉大な思想、偉大な形象、偉大な葛藤である。

・74年にロンドンで演出した「リング」のコンセプトや解決策をベルリンでも使っている。

R5

「ラインの黄金」は、ピスカトール風の現代化された中世の神秘劇、神々は仮面をつけたりもした。
「ワルキューレ」は、まったく異なり、非常に心理的なストリンドベリ風の楽劇。
「ジークフリート」は、一種のブラック・メルヘンコメディー。
「神々の黄昏」は、ジョージ・オーウェルの「1984年」という未来小説(1949作)からとったもので、文明の没落の警告そのもの。

 そして、ワシントンDCの地下鉄の絵葉書が大きなイメージとなった。
ちょうどザルツブルクで演出をしているときのこと、劇場の崖の下のガーレージに行こうとしているときに、そのドアに「原爆警報が出たら両方の扉を閉めてください」という指示があった。そこで、スイスのデュレンマットという作家が「将来はきっとみんな地下の迷路しか住めないだろう」と書いていたのを思い出した。
さらに、ヒューストンで、すべての生活が地下に収まっているという写真を見た。
そのとき、突如として巨大なトンネルのなかで「リング」を演出するのが理屈にあっており、そうしなければいけないという気持ちが私に生まれた。

・天国が宗教的な意味においても破壊されたあと、神々は地下に降りてきて、そのトンネルの中に引きこもって生活し、いまいちど権力とか黄金とか愛をめぐるかつての素晴らしい葛藤を思い描く。

・タイムトンネルは、サイエンスフィクションの概念でもあり、そこでは時間が逆転したり、昨日であったものが明日になり、本来は明日起こるものがすでに昨日であったり、そういったことがすべて今、この現在に同時に起こっていくわけである。
 このことによって、「リング」の解釈について、「リング」は歴史的なものを意味しているとか、古いゲルマンの伝説を意図しているとか、あるいはばかばかしいSFの猿まねをせねばならないのか、いろいろ問うこともなくなる。
 すべての時間上の可能性をコンビネートしているために、新しい独自の時間がそこに生まれている。
これはドラマトゥルギーではなく、音楽そのものである。音楽とは何かということについての答えが、本当の深い意味が、この中にあるのだ。

・「リング」の意味しているものは、まさに現代における神話である。
わたしたちは恒久的に没落も演じているし、恒久的な没落の概念をひねくりまわしているわけでもある。
 それだけに、ワーグナーの音楽をなおのこと聴くべきで、また聴かなくてはならない。
ことに「リング」の一番最後の5小節、救済のモティーフに耳を傾けるべき。
これは希望ですか?また、これを諦めととりますか?
解釈の私がすることではなく、希望ととるか、諦めととるか、それは皆様の考えにかかっている。

(以上、原文はこの何倍のあるものなので、大幅に中略しました。各場所や役まわりへの解釈も述べており、とても参考になるものでした。上演の半年後に出版された「年間ワーグナー」に記載された、G・フリードリヒの講演記録より)

いまだに色あせない、G・フリードリヒのベルリン・トンネル「リング」。
この9月の通し上演は、サイモン・ラトルの指揮ともあって、おそらくは映像化が期待できます。

以上、長きにわたり、思い出のベルリン・ドイツ・オペラの「リング」の投稿、このあたりで終了です。あの時代の自分の出来事もまた思い起こすことにもなりました。

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思い出チケット。
 

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