« ワーグナー 「ワルキューレ」 県民ホール公演によせて | トップページ | バッハ 「イタリア協奏曲」 ブレンデル »

2013年9月16日 (月)

ワーグナー 「ワルキューレ」 神奈川県民ホール公演

Walkure_kenminhall

生涯12度目となります、演奏会形式も含めた「ワルキューレ」体験で。
ワーグナーの生体験のなかでも一番多い体験の作品となりました。
舞台は、「ニーベルングの指環」の日本初演の場所、神奈川県民ホールです。

目の前が山下公演、その先は横浜港。
上階からは、みなとみらい地区も遠望できる、あいかわらず気持ちのいいホールであります。

Walkure

   ワーグナー   楽劇「ワルキューレ」

  ウォータン:青山 貢        ジークムント:福井 敬 
  ジークリンデ:大村 博美     フンディング:斉木 健詞   
  ブリュンヒルデ:横山 恵子     フリッカ:小山 由美

  ゲルヒルデ:田崎 尚美       オルトリンデ:江口 順子
  ワルトラウテ:井坂 惠      シュヴァルトライテ:金子 美香
  ヘルムヴィーゲ:平井 香織   ジークルーネ:増田 弥生
  グリムゲルデ:杣山 惠子     ロスワイセ:平館 直子

  沼尻 竜典 指揮 
    神奈川フィルハーモニー管弦楽団&日本センチェリー交響楽団による
    合同オーケストラ

         演出:ジョエル・ローウェルス

                       (2013.9.14 @神奈川県民ホール)  


まずは、賛辞をささげたい歌唱と演奏。
現役最高峰のワーグナーを歌える歌手たちの力演は、わたしも何度か同役を聴いてるだけに、場数も重ねて歌に安定感を増してきた皆さんばかりゆえ。

 その代表が、横山さんのブリュンヒルデ。
無理なく響く力強い高域とふくよかな中音域。
スタミナ配分もよろしく、最後まで安心して聴いていることができました。
 そして、ベテランで、我が国の、ザ・フリッカさま、小山さん。
わずかな声の揺れが気になりましたが、さすがの貫録の歌唱と、その存在感。
ローウェルスお得意の、「どこでも出てくる演出」により、全幕を通じて登場の小山フリッカ。
出稼ぎばかりで、その存在感を失ってしまったウォータンに変わる、神々族の要ともなっているフリッカをしっかりと演じ、歌いました。
 大村さんの、献身的な歌いぶりは、ジークリンデにぴったり。
声の張りとリリカルな美しさも申し分ありませんでした。
 まるで娼婦のように扱われたワルキューレ乙女軍団の強力さも完璧で、耳にビンビンと迫ってきました。

それに対しての男声陣。
美声とスピントする力ある高音は素晴らしい福井さん、1幕の最後のほうでは声の威力がすぼみがち。でずっぱりの1幕は、テノール泣かせ。
 若い青山さんのウォータンのその声と姿に、神々の長のそれを求めるには無理だけれど、この演出でのウォータンの描き方にはちょうど符合していた。
若く、精力的で、所作も活発で、感情表現が豊か。そんな演出上のウォータン像には合っていたと思います。
そして、その声は思いのほか、といっては失礼ながら、実に立派で、美声、声量も文句なし。言葉の歌いこみが不足なところは、これからの多くの役柄との出会いなどで、解消していって、いいワーグナー歌手になっていくことと期待します。
 斉木さんのフンディングは、まずは順当。安定感と憎々しさと、この役柄に必要な小物ぶり。
いずれも巧みに表現できるバスですね。

Walkure_2_2
                   (ワーグナー・チューバ見えます)

そして、わたくしには、オーケストラピットも大事。

神奈川フィル単体でなく、センチェリー響との合同オケだから、いつも聴いている細身ながら美しい音色は残しながらも、そしてほんの少し、未整理の音もちょろちょろ聴こえつつも、前向きで積極的なサウンドが、ピットからしっかり立ちのぼってきました。
 分厚い音を避け、まとまりの良さと、響きの良さを引き出すことに注力したかのような沼尻さんの指揮。
オケと歌手のバランスもよく、わたしの席に、両者がきれいに響いてくるのは、この不思議な県民ホールの特性と、オペラに精通した沼尻さんの巧みな指揮によるところ。
 ワーグナーの圧倒的なサウンドを期待すると、ちょっと裏切られることになりますが、もともと、室内楽的な要素もある「ワルキューレ」の繊細な面にもよく光をあててくれた素晴らしいオーケストラ演奏だと思います。

 いつもおなじみの神奈川フィルが、わたくしの最愛のワーグナー作品を演奏しているという思いも、自分のなかでひときわ大きな感激の高まりのひとつ。
 この合同オケ、次週のびわ湖の2公演では、さらに息も合い、素晴らしい成果を残すのではないでしょうか。
 あぁ、あの美しいびわ湖ホールに飛んでいきたい!

以下、ネタバレありますので、びわ湖観劇の方は、絶対に読まないでください。
ご注意ください。


Walkure_1

日本で2度めの「ワルキューレ」演出となる、ベルギーのローウェルス。
前回の焼き直しかと思っていたら、思いきり異なる演出を出してきました。

そういう意味で、これだけの大作で、異なるコンセプトを通すということは、たいそうな才能でもあると思えます。
かつて見たR・シュトラウスの「カプリッチョ」は、同じ沼尻さんの指揮。
ナチスやユダヤを絡めた、あまりに衝撃的で、でも戻せない時間軸の哀しみを素晴らしく巧みに舞台に表現していた。

しかし、カーテン・コールで出てきたとき、わたくしは、多くの人と混じって、ブーしてしまいました。

過ぎたるは及ばざるがごとし。という思いからです。

なにも保守的なわたくしではありませんが、語り過ぎの演出には、どうも辟易としまう自分です。
読み替えや無理な時代設定はしていませんが、余計な解釈(と私は思う)をして、無理くりに、それらを次々に見せつけなくてもいい。

 でも、オペラを見る人はそれぞれだし、何の先入観も持たずに観劇した方は、その描くところがよくお分かりになったのではないかと思います。
そういう意味では、この落とし所は面白かったし、ワーグナーの壮大な「楽劇」が、身につまされる「物語」になって親近感すら覚えることとなったかもしれません。
それもまた演出の力といえます。

しかし、ワーグナーの音楽はどこいった?
音楽と劇の融合をはかり、既成のオペラに変革をもたらしたワーグナーは、その音楽に途方もない力を与え、網の目のように張り巡らしたライトモティーフによって、雄弁なまでに音楽にもドラマを語らせている。

音楽が語らない出来事が、舞台のうえで平気で起きるこの演出。
これによって、音楽と劇との乖離が起きるのでは。
同じことは、前回の二期会ワルキューレの演出の時でも書きました。

 今回も、また同じ。
ト書きにない、人物たちが、盛んに、最初から最後までちょろちょろと出てくる。
それはそれで、この演出の流れからしたら、そうなのだろうけれど、こっちが素晴らしいオーケストラと歌唱の聴きどころにじっくり浸っていると、そこにわざわざ出てくる。

具体例では、1幕のジークムントの「冬の嵐は去り」の場面では、月の光が射して春がやってくるはずが、そこに出てきたのはなんと「フリッカ」。
 兄妹を露骨に観察する結婚を司る女神は、ふたりの成り行きを目の当たりにしなくてはすまない覗き嗜好の神様だ。

 しかもこんな感じで、ほんの少しの間さえあると、紗幕が降りて、フラッシュバックのように過去の出来事を回帰させて見せつけたり、あげくは、神々の一族のお部屋で車椅子に乗るフリッカを見せたりと、わたしには煩わしいこと甚だしかった。
時間が特定できず、しかも同じ場面に新旧同一人物が出てくるという複雑さは、混乱を招くだけ。
それを、相手方の妄想や脳裏での出来事と解釈するのだろうか。
オペラはテレビドラマや映画でなく、人が演じ、歌があり、オケがあるのだ。

 さらに、いちいちおりてくる紗幕には、そのシーンのタイトルのようなことが書かれているから、さらに具象性を見せつけようという意図がまんまん。
そのまんまんすぎる意図が、わたしには「過ぎたるは・・・」という風に感じた訳だ。

フンディングを、一統ごと軍団で出してくるのは、昨今よくあること。
ここでは、それぞれが個性的な、しかもヤクザで暴力的な連中なわけだ。
 死んだ英雄たちを回収するワルキューレは、現物の檻に作りももの遺体を投げ込んでるし、ときに腕や首が千切れて、ほっぽり投げて遊んでるし・・・。

 抜き取ったノートゥングは、まるで細身の日本刀。
この刀を、字幕では「聖剣」とよび、実際それを構えるジークムントに、フンディングが卑怯にもピストルを連射してもビクともしない。
でも、ウォータンの魔力を抜くとの一声で、刀は折れ手離れ、すぐさま短刀にて殺傷されるジークムント。
まだ息があるのに、槍でトドメを射すフンディングの汚さ。

 ここでは、わたしがト書きにないのに期待する、父ウォータンの腕に敗れて支えられるとの息子ジークムントの場面解釈なのだが、ここではまったくなくて、父は冷たく見下ろしたまま。
あげくには、ウォータンは幕引きの瞬間に、ほんとうに最後のトドメに、枯れ枝のようなショボイ杖(槍じゃないんだ)を突きたてようとする。

 同じような動きは、2幕の、逃避行の疲れはてた兄妹が休んでいる場面で、ウォータンは忍び寄って、さきのショボイ杖をつきたてようともしていましたよ。

こうして、フリッカに言い負かされて、過剰なまでに自分の意志を押さえこんで逆の動きにぶれるウォータン。
そのウォータンは、自分のしでかしたことゆえに妻に負かされ、その負い目でもって、初志貫徹できない情けない自ら矛盾した存在であり、結局は一族からも浮いた存在になり果ててしまう。

ブリュンヒルデとベタベタしたが、そのブリュンヒルデも義母フリッカの下に描かれる。
そして、罰を与え、今生の別れをお互いに惜しむ、わたくしの大好きな場面では、娘ブリュンヒルデ、しかもお得意の若返りの術で娘時代の彼女が出てきてダブル・ブリュンヒルデとなるが、若い頃の彼女はウォータンを拒絶。
 子ども時代がいなくなって、リアルブリュンヒルデとの別れでも、よそよそしいブリュンヒルデの態度は、ウォータンが気の毒に。
さらに子どもの姿の兄妹、ワルキューレたち、それを従えるフリッカが一斉に舞台奥に出てきて、手を振って別れを告げる。
それは誰に?
ブリュンヒルデ? ウォータン? 

炎は出ず、天上からの赤いスポットが、この楽劇の大半に出てきて中央に鎮座していた大きな木(トネリコか、気の中央がくりぬかれていて、そこにブリュンヒルデは眠る)にあてられる。
そのまま、焔の音楽とともに、神妙に終るかと思ったら、また紗幕がおりてきて、やれやれ。

 ここでは、神々一族のお部屋、すなわち、ワルハラの居城の一室に早変わり。
そこには、フリッカを中心にワルキューレたちが集っている。
ウォータンも、会社から帰ってきたみたいに疲れて出てくる。

と思ったら、ジークムントとジークリンデが扉を開けて入ってくるし。
 ウォータンは、息子よ・・とばかりに寄っていくが、血にまみれた自分の胸を見て、ジークムントはウォータンを拒絶。
ジークムントは、団らんの中に躊躇しながらも入り、ウォータンは一人寂しく・・・・・。
完全に母神中心の家庭が構築された神々社会が描かれるのでした。

あぁ、書いちゃった。
まだこれからの人、絶対に見ちゃだめ。
驚きの結末なのでした。

あの素晴らしい「告別と魔の炎の音楽」がこれですよ。

なにもこんな日本の家庭みたいなドラマ仕立てを、ワーグナーでしないでよ。

と、複雑な思いで劇場をあとにしましたが、でも歩きながら、そしてビールを飲みながら、「まぁ、これもありか」と妙に清々しく思ったのも自分でありました。
ワーグナーの音楽は、多面的なインスピレーションの宝庫であります。

ますます、偉大なりワーグナー!ですよ。

Walkure_kenminhall_1
 

|
|

« ワーグナー 「ワルキューレ」 県民ホール公演によせて | トップページ | バッハ 「イタリア協奏曲」 ブレンデル »

コメント

こんばんは。
先日の神奈川県民ホールでのワルキューレの貴ブログ記事を本当におっしゃる通り!と思いながら拝読させていただきました。
実に的確なご描写をされていて感心いたしました。

キャパシティの少ない私などは視覚的な情報過多のためあまり音楽に集中できず若干消化不良でした…

何事も過ぎたるは猶及ばざるが如しですね。
翌日のスカラ座リゴレットの演出がシンプル&古典的で何一つ新しいものが無いにも関わらず、音楽と一体になり素晴らしかったので尚更感じました。違う演目での比較は意味がないかもしれませんが。

投稿: ヴィッテルスバッハ | 2013年9月16日 (月) 22時58分

こん〇〇は。僕の方はカーセン演出、ハーディングの棒の下、東文で「ファルスタッフ」を観てました。同じときにやってたんですね。
yokochanさんの憤慨振り、久々に高カロリーですね。yokochanさんをここまで「熱く」させるんだから、相当かちんときたんでしょう。そういえば、メディアでの報道を見ていると、聖地での「リング」の新演出には一致してきついダメ出しが出ていましたが。ドイツの演出家って、音楽のことをどう思っているのでしょう?カーセンの演出が1950年代に設定していてなお、ヴェルディの輝かしい音楽と齟齬しない素晴らしさであっただけに、「要は才能がないんでしょ?」と考えたくもなります。

投稿: IANIS | 2013年9月17日 (火) 07時59分

ヴィッテルスバッハさん、こんにちは、コメントどうもありがとうございます。

そうですよね、情報・ビジュアルてんこ盛り。
音楽好きのわたしたちには、消化不良の効果を及ぼしましたね。
一方で、ワーグナーやオペラのハードルを少し下げて、面白いと感じさせることでは、ファンを楽しませたことも事実だと思います。

なかなかに難しいことですね。
伝統どおり、普通にやれば、無能呼ばわりされ、独自の解釈を施せば、あれこれいわれる。
思えば、ワーグナーって、そういうものかもしれませんね。
ヴェルディとは微妙に違うとこころもあり、またいまのオペラのあり方という意味では同じこととも言えます。

しかし、連日、素晴らしい舞台を観劇されましたね。
とても羨ましく存じます。
どうもありがとうございました。
またよろしくお願いいたします。

投稿: yokochan | 2013年9月18日 (水) 00時35分

IANISさん、まいどどうもです。
兄貴は、スカラ座のファルスタッフでしたか。
しかも、カーセン演出。
わたしも、カーセンは映像も含め、いくつか観てますが、あの人は作為がなく、ご指摘のとおり音楽ありきの舞台で安心感があります。
ホモキとともに、納得感の強い演出家と思ってます。

で、ローウェルスの舞台ですが、いまはなかなか怒りもぶれて、思いが定まらないのです。
リングの一環として見た場合、最初は単独作品の切り口とも思いましたが、全体の中のひとマスとなるような気もするのです。
もしそこまで考えての今回演出ならたいしたもの。
しかし、そこは妄想するしかなので、あらたな記事が起こせたらやってみます。

バイロイトの呆れた様相は、画像を垣間見てもわかりますね。
ヴィーラント後の、シェロー、フリードリヒ、クプファーが乱立した、20世紀末が懐かしいです。。。

投稿: yokochan | 2013年9月18日 (水) 00時46分

 同じ初日に行きました。歌手と指揮・オケは本当に素晴らしかったです。オール・ジャパンとして、最高のワーグナーだったと思います。このままドイツに持っていってもらいたいくらい。特に青山の成長ぶりには驚きました。

 演出にブー出てましたが、クラオタ人様でしたか、ついでにしておけばよかった。あの暗転の煩わしさには参りました。音楽に集中しろということのようですが、逆にできない。説明過剰の演出も、日本のワグネリアンをバカにしているとしか思えません。読んで溜飲が下がりました。またよろしくお願いします。

投稿: コバブー | 2013年9月18日 (水) 13時55分

こんばんは。昨日帰ってきました。旅行中にメールを確認致しました。また機会があればお目にかかりたいと存じます。
私もこのワルキューレは好みません。15日も歌手の皆さんは素晴らしいのに、チャランポランな演出との齟齬がいろいろあったと思います。指揮、演出、演奏者が一つの方向に向いてないと感じました。
16日サントリーホールのワルキューレ1幕を聴きましたが、ワーグナーは重厚でなければと思う私にとってはこちらのアマチュア演奏の方が感動しました。とにかく清水さんが凄かったですし。
今後とも宜しくお願いいたします。

投稿: ひろと | 2013年9月18日 (水) 21時10分

こんばんは。
てっきり、前の二期会とおんなじ演出の焼き直しかと思ったので行かなかったのですけど、違うもののようですね。温厚なyokochanさんがこんなにお怒りになるのなら、よっぽどの演出だったのでしょうね。詳しい記述に、私まで怒りを覚えました。

ワルキューレ大豊作のこの9月でしたので、私も2回ほど行きました(ただし第一幕の演奏会形式のみ)が、どちらもとても良かったです。演出ない方がいいかなあって最近は思うようになりました。どうも最近のワーグナーの舞台って過剰演出しすぎな気がします。特に↑上の方がおっしゃるように、飯守さんの時のワルキューレは最高でしたし、清水さんのジークリンデがよかったです。

投稿: naoping | 2013年9月18日 (水) 21時22分

初めまして。私も14日、3階席からですがブーイングを出してしまいました。演出に関して私は頑迷なる保守派なのでw「トーキョー・リング」やナチスが登場する「カプリッチョ」は観ていませんが、今回は我慢の範囲内かと思って出かけたらこの始末です。冒頭からジークムントを足蹴にするジークリンデを見て、最後までジークリンデへの同情心が湧きませんでした。某評論家の方から「演出家に対するブーイングは上階席から2、3出たが、残念ながら(?)やや音量不足のようであった。」と言われてしまったのが本当に残念ですw。

投稿: TG | 2013年9月18日 (水) 22時21分

コバブーさん、こんにちは。
ご返事遅くなりました。

そうです、あのブーのひとつはワタクシです。
思えばもっとやってやればよかった。
あの日の舞台を思い起こして、そう痛感してます。

開いたり閉ったり、そかもあのわかりにくい文字。
正直イライラしました。

>日本のワグネリアンをバカにしているとしか思えません<
まったくおっしゃるとおり。
オペラ途上国でこそやって欲しい。

ですが、これで垣根がなくなり、ワーグナーやオペラに芽生える方がいるかもしれない・・・。
そんな思いも多少はあります。

始終、オペラを体験できる海外であれば、こうした演出あり、本格ものもあり、伝統解釈ありで、多面的であって問題ないのですが、やはり日本ではまだオペラが根付いてないと思われるんでしょうかね?

勉強してから来て、といわれれば、われわれ日本人は、必死に練習して挑みますよね。
そうあって欲しかった演出でした。

投稿: yokochan | 2013年9月19日 (木) 23時47分

ひろとさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
15日のキャストもまずはすならしかったようですね。

ちゃらんぽらんな演出、とはまた厳しいですが、よくいってくだしました。
あれでは演じる歌手がたいへんです。
そしてそれを推して、歌手の皆さん大検討だし、指揮者もよく舞台を見極めていたと思います。

ワルキューレの9月決戦、わたしはこれだけでしたが、ほかのブログ仲間のご意見でも16日の演奏は素晴らしかったようですね。

またの機会に是非お会いできればと存じます。
このたびは失礼いたしました。

投稿: yokochan | 2013年9月19日 (木) 23時53分

naopingさん、こんばんは。
そうなんですよ、わたしも焼き直しかと思ったら全然新規。
しかし、あらたに演出するって言っても、その基本コンセプトって個性が共通してて変わらなかったりするじゃないですか。
今回、よけいな連中ちょおちょろは同じでも、基本コンセプトが、ウォータンの家庭内の地位の凋落みたいなものを見せつけるようで、前回の二期会の方が、ローゲのダンスは鬱陶しかったけど、よっぽどまともでした。

なんで、こんなことをしなくてはならないのでしょう?
ですから、舞台なしの方が・・・
まったくご指摘のとおりかもです。
飯守さんの指揮に、清水さんのジークリンデ。
清水さん、最近主役級をはっていずれも評価高いですね。
二期会ワルキューレのときは、グルムゲルデでしたし、イタリアものでもキラリとひかる脇役を見事に演じてました。

こういう風に歌手の皆さんが、立派になって行く姿を見守るのも、楽しみのひとつです。(と、年寄りみたいな発言)

投稿: yokochan | 2013年9月20日 (金) 00時06分

TGさん、今回のブーイングは正直躊躇しました。
大好きなオケを前に、やっていいものか。

しかし、評論筋にそんな風に言われてしまったのですか。
自分としては、ふだんこんなことはしないのに、思わずブーイングしました。

静かな聴衆・・・横浜の観衆は大人しく、謙虚ですからあれはあれでよかったのかもしれません。

ローウェルス3度目ですが、今回は腹が経ちました。
カプリッチョは、あれはあれで深淵な世界を築いていたのですよ。
でも今回はがっかり。
お調子者の勝手な解釈、ワーグナーへの冒涜です。

それとも、あそこに、コジマやジークフリート、そのあとのワーグナー家を重ねろともいうのでしょうか?

でも、これで、オペラやワーグナーに興味を持っていただく方がふえたら、わたしとしてはおんの字です。

投稿: yokochan | 2013年9月20日 (金) 00時20分

 こんにちは、「オペラの夜」です。

 僕はびわ湖ホールで両キャストを観ました。随分クルクルと場面転換する演出でしたが、実は
僕はそんなに煩わしいとは感じなかったんです。つらつらとその理由を考えるに、あの演出には
ヴォータンと子供達の家族の物語と云う、一応首尾一貫した方針のあったからと思います。
それと無声映画を観ている感覚で、場面転換のリズムに乗れたと云うのもあります。

 でも、ジックリと音楽を楽しむのには不向きな演出と云う意見にも、大いに理はあると思います。

投稿: Pilgrim | 2013年11月 2日 (土) 12時25分

Pilgrim さん、こんにちは、コメントどうもありがとうございます。

たしかに、この演出家の表現は、1度目のワルキューレも、カプリッチョも、一貫した主張が貫かれてはいました。
単品としてのワルキューレでなく、リングをやったら、一体どうなるか、ある意味興味があります。

しかし、わたしには、ワーグナーの音楽を阻害するという意味で、受け入れがたい演出でした。
日がたち、いま思い返すにつれ、その思いは深まってます。
演出優位とはいえ、音楽をとともにある演出は、コンビチュニーといえどもありますので、やまられません。

投稿: yokochan | 2013年11月 3日 (日) 23時10分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/151893/58204350

この記事へのトラックバック一覧です: ワーグナー 「ワルキューレ」 神奈川県民ホール公演:

« ワーグナー 「ワルキューレ」 県民ホール公演によせて | トップページ | バッハ 「イタリア協奏曲」 ブレンデル »