ワーグナー 「ニーベルングの指環」 ベルリン・ドイツ・オペラ来日公演記録 ④
以下は、当時の日記から転載します。
「現代のワーグナー歌手の、もう最高峰の顔ぶれ。
何と言っても、待望のルネ・コロが聴けたこと。前回のトリスタン(ウィーン)では来日せず、がっかりさせたけど、今回はジークフリートを2日とも、最高のコンディションのもとに歌い演じてくれた。
やはり、美しく甘い声だ。しかし、よく通る声。ワルターやローエングリンばかりの頃からすると場数を踏み、タンホイザーとトリスタンを経た力強い表現が完全に習得されたようだ。
グンターになり変わる時の暗いバリトン声、神々のジークフリート役での複雑かつ多面的な役どころを見事に演じたほか、「ジークフリート」での抒情的な場面も、明るく美しい声が劇場内に素晴らしく響き渡った。
繊細な声と表現が、オーケストラを飛び越えて耳に達するという驚き。
レコードやCD、FMで聴けるその声が、耳にビンビンと届く、ライブの喜びは、コロのファンとして忘れえぬもの。
そして、リゲンツァ。小柄かと思ったら、結構背の高い、腰のしっかりしたがっしりタイプの女性。
でも、とてもチャーミングで、大きな瞳はとても魅力的。
ワルキューレ→ジークフリート→神々の黄昏と、ブリュンヒルデが、神々のワルキューレのひとりから、ジークムントとジークリンデの愛を知り、ウォータンに反抗してまでも愛を守ろうとする、人間としての目覚め。そしてジークフリートにより、真の愛を知り、真の人間となる。ところが、裏切られ、怒り、悲しむ女性、さらにすべてを受け入れ、諦め、さらなる高みへ達しようとする女性。そんな大きな存在の女性。
そんなブリュンヒルデを、リゲンツァはまったく完璧に、ニルソンのような近寄りがたい神々しさとは違った、暖かく息づく女性的な感覚でもって、歌い演じ切った。
リングという物語の中でのブリュンヒルデの成長と女性としてのあり方を、等身大に歌い演じたリゲンツァ。音だけは聴いてきたけれど、一発で彼女のファンとなった。
ウォータンのヘイルは、驚きだった。
こんなバス・バリトンがなぜいままで知られてなかったのか。
容姿から第一目を引く。威厳を備えた若々しい舞台姿とその声。
ハリがあって、すみずみまでよく通る声。深く暖かい。
悟りも感じさせる表現力も豊かで、今後が大いに期待できる歌手。
サルミネンは大車輪の活躍。
僕もそうだが、一番拍手を浴びていた。事実、その凄まじいまでの声量とその深みは、ホールの隅々まで届くもの。
もう少しの表現力が欲しいが、ハーゲンとしては、憎たらしいまでにクールな役作りで、グンター兄妹を意のままにする強力さを発揮した。」
このあと、ジークフリート、トリスタンとして大成してゆくイエルザレムを聴けたことは大きい。
さらに、素敵な女性としてのヴァラディのジークリンデ。
カラヤンに見出された、少し軽めのホルニック。
二期会でも体験したヒーステルマンの役者のようで軽やかなミーメ。
その後にウォータンを歌うのではと期待されたカールソンのグンターは、この時、なかなかにブリリアントだった。
一方で、セカンドキャストでは、若くて痩せてたトムリンソンが、サルミネンのセカンドとしてフンデイングやハーディングを歌ったのも、この公演のすごさ。
すみずみまで、完璧だったこのときの「ベルリン・ドイツ・オペラ」
あと2年で、東西融合。
東の力を借りつつも、西側の最後の輝きとも言えた上演ではなかったでしょうか。
最後に、指揮のR・コボス。
「思わず、ブーを浴びてたこのひと。賛否あるかもしれない。
この人のやりたかった明晰なじめじめしないワーグナーは、重く響くことはなく、軽め。
やはり、ラテンの血の流れた人ゆえの明るさは、ブーレーズのような知的で分析的な冷たさはなく、オペラティックであり、情にもあふれていた。
早めのテンポは、一部の人には違和感を感じたようだが、僕にはまったく問題なかった。
重厚さ、ここで拳を握りたくなる迫力などが不足したことは事実なれど、この超大作を異国の地に来て短期間でまとめ上げ、少しもだれることなく一気に聴かせてくれた実力派なみなみのものではない。
印象的だったのは、抒情的な場面のオーケストラの美しさ。ワルキューレの第1幕、ウォータンの告別、ジークフリートの母への憧憬、森の場面、葬送行進曲の哀しみなどなど・・・。
ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団の機能的にも、オペラの雰囲気にもあふれた演奏も完璧で、日本のオーケストラと比べ物にならないものを感じた。」
ワーグナー 舞台祭典劇「ニーベルングの指環」
ヘスス・ロペス・コボス指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団/合唱団
演出:ゲッツ・フリードリヒ
舞台装置・美術:ペーター・ジコーラ
(1987年 10月30日、11月1日、4日、7日 東京文化会館)
「神々の黄昏」 11月7日
ジークフリート:ルネ・コロ ブリュンヒルデ:カタリーナ・リゲンツァ
グンター:リーヌス・カールソン ハーゲン:マッティ・サルミネン
アルベリヒ:ゴットフリート・ホルニック グートルーネ:カラン・アームストロング
ワルトラウテ:ウテ・ヴァルター 第1のノルン:カヤ・ボリス
第2のノルン:アナベル・ベルナール 第3のノルン:シャロン・スウィート
ウォークリンデ:キャロル・マローン ウェルグンデ:バーバラ・フォーゲル
フロースヒルデ:アニタ・ヘルマン
序幕・第1幕 幕が開くと、おそらく奥は「ジークフリート」第3幕の場。
前面には、赤いロープが幾本も舞台右と左とを渡っている。
その向こうにノルンが、右・中・左に別れて座っていて、1本のロープを歌う人から歌う人へと、持ちあげて投げてゆく。
目を赤い目隠しで覆っているから、ロープはまったくの手探りに見える。
切れるところでは、何本ものロープが一斉に真ん中から切れてしまい、真っ暗となり、ノルンたちは手探りで退出する。
薄明かりのなか、舞台奥にはbリュンヒルデが膝を抱えて座っているのが見える。
ジークフリート登場。二人は抱き合う。ジークフリートは旅立つが、ブリュンヒルデは寂しそう。角笛を手にタイムトンネルから手を振りつつ走り出てゆく。
ギービヒ家への転換。カーテンが降りて、風でゆらゆら揺れ、そこにブルーとグリーンの光を当てて、川の流れのようだ。
そのカーテンの向こうには人が立っていて、おそらくジークフリート。
こちら側にはハーゲンが出てくる。
カーテンが開くと、そこは宇宙船のよう。
ソファがふたつ。ハーゲンは別の腰かけにひとり。グンターとグートルーネはソファにふたり。グンターは白い詰め襟に、黒のスラックス。宇宙船の司令官のようだ。
動きはヒトラーのようだが、弱気な人物として描かれている。
グートルーネは、シャイで主体性がない。そこがこの女性の憐れなところで、この演出では、兄妹はとても気の毒で、同情を引くように描かれている。
ハーゲンにもてあそばれた善良でありふれた人間だ。
ジークフリートが登場するが、彼は入口に現れると、そのまばゆさに、両手で顔を覆う。
あまりに場違いな格好。
酒を飲むところでは、頭を押さえ苦しむ。かたわらではグートルーネが待機しているが、ジークフリートは急に彼女を追いかけまわす。
こういう場面では、ハーゲンをはじめグンターは、大きなレンズの向こう側から見ている。
当然、われわれ観客には、その表情が大写しになりよくわかり、彼らの心理描写ともなっている。
グンターは、大きな襟の革のフロックを着て、ブリュンヒルデの岩屋へ向かう。
再び、場面転換。今度は左のレンズ、そしてハーゲンは椅子に座ったまま動かず、ブリュンヒルデとワルトラウテの会話から、ずっと最後までそこにいる。
ワルトラウテが去ると、再びワルキューレの再現。ハーゲンのいる場所以外から、火がともり、もうもうとした煙。その煙の向こうからグンター姿のジークフリートがあらわれ、ブリュンヒルデから強引に指環を奪う。
ブリュンヒルデは、左側のトンネルから去り、ジークフリートもゆっくりとそこを立ち行く。
第2幕 やはり左右には大きなレンズ。今度は舞台奥と真ん中にも立つ。
大きな鳥の置物、ほかに馬もあり。
アルベリヒは、やはりレンズのうしろへまわったり、座ったままハーゲンの周りを動き回る。
朝焼けとともにジークフリートが帰ってきて、レンズを除きこんだりうろうろして、ハーゲンを見つける。
真ん中のレンズが上へとあがり、そこに角をつけ、角笛をもったハーゲンが人々を呼ぶと、槍を手に手に、男たちが次々とやってきて、ひとつのブロックを作ったり、別れたり、右に左にとめまぐるしく動きまわる。
結婚式の二組がやってくる。ブリュンヒルデはグンターに連れられ、体をまったくふたつに折り、しなだれて、手前右からはジークフリートが黒の詰め襟でグートルーネと出てくる。
グンターが、それぞれの名前を呼ぶと、ブリュンヒルデはすくっと上体を起こし、猛烈に驚き、ジークフリートに詰め寄り、指にリングがあるのを観て荒れる。
ジークフリートがその場をとりつくろって、人々と出てゆくと、残った3人。
奥にはハーゲン。左の舞台袖には、ぐったりしたグンター。右には、怒りと不安に満ちたブリュンヒルデの三様。
ジークフリートの死を3人がそれぞれ誓うが、奥では、宇宙服のような銀色(なかにはピンクや水色も)の衣裳を着た人々があらわれ、式が始まる。
中央祭壇には火がともされる。実に整然とした群衆の運びは見事。
第3幕 ラインの乙女たちは、3人、床を這っている。中ほど、奥から手前に腰かけ風の台が置かれていて、左右には波をあらわす青く光る布が敷き詰められている。
ジークフリートは、台の上をやってくる。乙女たちは、鏡のような金属片を彼に渡し、ジークフリートはそれを手にして自分の顔を写し見ている。
乙女たちが去り、ハーゲンがやってくるが、台はそのまま、布は左右にするすると消えてゆく。そして台は男たちが片づけ左右に。
中央には椅子。白い布を広げ、酒瓶2本、コップがふたつ。ジークフリートは、コップの酒を混ぜ合わせ、こぼして布を葡萄色の酒色にしてしまう。
過去を思い出して歌う場面では、人々は左右に分かれて座り、グンターは右、ハーゲンは左。ノートゥングを振りかざし、身振りもまじえて歌うが、ハーゲンはその剣を注意深く取り上げてしまう。
途中で、また酒を飲ませる。また頭を押さえてしまうジークフリート。
そして、ハーゲンの槍の一突きで、ジークフリートは倒れる。
グンターは、それこそ恐る恐る、何をしたのだ、と言う・・・・。
ハーゲンは立ち去り、ジークフリートは、床に起き上がり、苦しくも死の場面を歌う。
両手を広げ、ブリュンヒルデの名前を叫ぶ・・・・感動の一字だ。
しかし、こと切れ、葬送の場。左右の人々は、着ていたコートを脱ぎ裏返して頭からすっぽりかぶってします。黒い裏地だった。
グンターは、恐ろしくなって走って逃げてしまう。
暗闇に、ジークフリートの死骸。一本のスポットライトが照らしだし、素晴らしき崇高なる音楽がそこに鳴り響く・・・・・。
グートルーネ登場。死骸はそのままに、レンズが降りてくる。
グンターは強くハーゲンに食い下がる。ここに至って強く見えたグンター。
しかし、あえなく一撃で倒れ、ハーゲンは、ジークフリートの指からリングを取ろうとすると、ジークフリートは、手を震わせ、足も体も痙攣させそれを拒む。
ブリュンヒルデは髪を上げ黒い衣裳で登場。グートルーネを追い払い、ジークフリートに口づけする。
人々はブリュンヒルデの指図で動き出す。喪服の男たちがグンターを運び去り、グートルーネもジークフリートを気にしながらも立ち去る。
ハーゲンは左手で、槍をつきながらじっとブリュンヒルデの動きを見守っている。
男たちが、ジークフリートを担ぎあげたとき、指環を外し、ブリュンヒルデはそれを再び手にする。
奥へとジークフリートを運び去り、ブリュンヒルデは松明を持ち、火を放つ。
奥の方は煙とともに、真っ赤に染まってゆく。
人々は、ただ左右に、前後にうろたえる。
レンズは、上へあがり、ブリュンヒルデは奥へ飛び込むが、そのとき、髪を自らおろし、とても女性らしい仕草だった。
白い布(ラインの黄金のとき、ラインの乙女が持ってきたもの)が舞台に出てくる。
ハーゲンは、舞台袖の槍置き場にいつつ、「リング」と叫んで、その波のような白い中に消えてしまう。
乙女たちは、3人、うれしそうに波(布)と戯れる。
火は消えて、白いカーテンで一旦ふさがれる。
最後の轟音とともに、そのカーテンが落とされると、舞台奥には、再び何もないタイムトンネルがあって、白布の下には人が数人入り込んで、こんもりとしている。
「ラインの黄金」の原点に戻ったのだ。
この完結感は、巨大なドラマの終結に相応しい。
ひとつ違うのは、群衆が左右からやってきて、この舞台を見つめていることだ。
彼らが、ドラマを見届けた証人であり、最後に、彼らが、こちら側の観客の方を見るのは、このドラマを共有したことを証明する意味があるのだろうか。
まさに、「始まりは、終わり」、「終わりは始まり」。
見事な説得力。
ニーベルングの指環、全編の幕。
G・フリードリヒの語る、この演出の意図。
・ワーグナーの「リング」は、ヨーロッパの劇場の歴史においても、偉業のひとつといってよい。このような偉業は、アイスキュロスやソフォクレス、エウリピデスのギリシア悲劇に匹敵。また、シェークスピアの王侯劇にも、ゲーテのファウストにも、モーツァルトの歌劇にも、純音楽ではラッソ、ベートーヴェンの交響曲、マーラーの交響曲・声楽作品にも匹敵するもの。
・19世紀ドイツが、統一国家、民族文化に向かっていく矛盾したプロセス。革命と上からの国民的統一と反動復古体制を、そして様々な哲学上の思考モデルとの対決。
それらを「リング」は反映している。
・新しい舞台環境のなかで、永遠の舞台の機能を新しく体験させようということが、ワーグナーの変革も目的だった。人間の歴史を語り、また人間性の歴史を語ること。
舞台が、それを具体化したものを、音楽が非具体化する。
舞台は一定の空間という次元を提供し、音楽の響きは、それとはまた別の次元を作り出す。そうした様々な次元に過去、現在、未来をあらわし、映し出す焦点が、わたしのいうオペラの上演、現実の公演。
・ベルリンのリングで、一番大切な言葉だと思っているのは、「すべて存在するものには終りがある」というエルダの言葉。
同時に、「ジークフリート」で、さすらい人ウォータンがエルダに向かって「太古の母の知恵はおしまいだ」という矛盾も同様に非常に重要だと考える。
ウォータンのコンセプトというのは、もはや今までの古い法則とか、神々に縛られない自由な人間こそ自身の自由な意志によって世界を形作ることができるというものだが、これはウォータンのイデーでありもあり、ワーグナーのイデーでもある。
「リング」のなかで、我々の前に現れるのはこのような偉大な思想、偉大な形象、偉大な葛藤である。
・74年にロンドンで演出した「リング」のコンセプトや解決策をベルリンでも使っている。
「ラインの黄金」は、ピスカトール風の現代化された中世の神秘劇、神々は仮面をつけたりもした。
「ワルキューレ」は、まったく異なり、非常に心理的なストリンドベリ風の楽劇。
「ジークフリート」は、一種のブラック・メルヘンコメディー。
「神々の黄昏」は、ジョージ・オーウェルの「1984年」という未来小説(1949作)からとったもので、文明の没落の警告そのもの。
そして、ワシントンDCの地下鉄の絵葉書が大きなイメージとなった。
ちょうどザルツブルクで演出をしているときのこと、劇場の崖の下のガーレージに行こうとしているときに、そのドアに「原爆警報が出たら両方の扉を閉めてください」という指示があった。そこで、スイスのデュレンマットという作家が「将来はきっとみんな地下の迷路しか住めないだろう」と書いていたのを思い出した。
さらに、ヒューストンで、すべての生活が地下に収まっているという写真を見た。
そのとき、突如として巨大なトンネルのなかで「リング」を演出するのが理屈にあっており、そうしなければいけないという気持ちが私に生まれた。
・天国が宗教的な意味においても破壊されたあと、神々は地下に降りてきて、そのトンネルの中に引きこもって生活し、いまいちど権力とか黄金とか愛をめぐるかつての素晴らしい葛藤を思い描く。
・タイムトンネルは、サイエンスフィクションの概念でもあり、そこでは時間が逆転したり、昨日であったものが明日になり、本来は明日起こるものがすでに昨日であったり、そういったことがすべて今、この現在に同時に起こっていくわけである。
このことによって、「リング」の解釈について、「リング」は歴史的なものを意味しているとか、古いゲルマンの伝説を意図しているとか、あるいはばかばかしいSFの猿まねをせねばならないのか、いろいろ問うこともなくなる。
すべての時間上の可能性をコンビネートしているために、新しい独自の時間がそこに生まれている。
これはドラマトゥルギーではなく、音楽そのものである。音楽とは何かということについての答えが、本当の深い意味が、この中にあるのだ。
・「リング」の意味しているものは、まさに現代における神話である。
わたしたちは恒久的に没落も演じているし、恒久的な没落の概念をひねくりまわしているわけでもある。
それだけに、ワーグナーの音楽をなおのこと聴くべきで、また聴かなくてはならない。
ことに「リング」の一番最後の5小節、救済のモティーフに耳を傾けるべき。
これは希望ですか?また、これを諦めととりますか?
解釈の私がすることではなく、希望ととるか、諦めととるか、それは皆様の考えにかかっている。
(以上、原文はこの何倍のあるものなので、大幅に中略しました。各場所や役まわりへの解釈も述べており、とても参考になるものでした。上演の半年後に出版された「年間ワーグナー」に記載された、G・フリードリヒの講演記録より)
いまだに色あせない、G・フリードリヒのベルリン・トンネル「リング」。
この9月の通し上演は、サイモン・ラトルの指揮ともあって、おそらくは映像化が期待できます。
以上、長きにわたり、思い出のベルリン・ドイツ・オペラの「リング」の投稿、このあたりで終了です。あの時代の自分の出来事もまた思い起こすことにもなりました。
思い出チケット。
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コメント
はじめまして。
以前から敬服し拝読させていただいてます。
4半世紀前のリング日本初演の記事、大変素晴らしくありがとうございました。リング通し公演は他とは比べようのない感動を与えてくれると思います。私もバイロイトで観た初めての「リング」は半世紀クラシックを聴いた中でもそれを超えるものはありません。
ただ古い人間にとって今日のリング演出は不満があります。何も拒絶反応はないのですが、これはと思うものに会ったことがありません。ですからヴィーラントとかその後の評価の定まった演出のリバイバルを望んでいました。その意味でフリードリッヒの再演は大歓迎です。
今月15日神奈川県民ホール「ワルキューレ」に上京します。出来ましたらご挨拶させていただけると嬉しく思います。
投稿: ひろと | 2013年9月 2日 (月) 12時20分
ひろとさん、こちらこそはじめまして。
お返しが遅くなってしまいました。
昔の出来事をこうして何日も書くことに不安はありましたが、お読みいただいて、本当にうれしく存じます。
そして、なんと、バイロイトでリングをご覧になられてらっしゃるんですね。
わたくしの、念願であり夢です。
が、昨今の状況には幻滅ぎみで、ちょっと夢が薄れてきつつあります。
G・フリードリヒの演出は、脱ヴィーラントでありつつも、シェローやクプファーのように、文学や社会派的な解釈でもって、いまでも充分に斬新かつ、ワーグナーの音楽に符合したものと思っております。
県民ホールの「ワルキューレ」は、所要もあり、まだ手当しておりません。
以前に二期会と同じ演出家で、自分的には賛否ありますが、オーケストラが神奈川フィルなのでなんとか、と思っております。
その節には是非にもと思いますので、貴ブログの方へご連絡申し上げるようにいたしますね。
コメントどうもありがとうございました。
投稿: yokochan | 2013年9月 4日 (水) 00時06分
25年前に、オペラの世界を知ってから、自分がオペラ観劇最初期の頃から、まだ、残っている人。主役を張れる類の人。
M.Salminenくらいでしょ。声の声質からいったら、次はStephen Millngじゃないかな。ハーゲン歌うのなら。
黄昏は、悪の権化みたいな’ハーゲン’が居るから、この作品が活かされるのであって。
実演に接したのは、’幽霊船’のダーラント。ドンカルロの’フィリッポⅡ世’。ボリス・ゴドゥノフの主役。あと、グルネマンツ。ポーグナー。ドンジョヴァンニの’騎士長’。
すっかり、グルネマンツかフィリッポ2世 辺りしか歌わなくなったけど。フィリッポ2世は、歌い始めたときより、ミュンヘンの中頃・ドレスデンで歌った頃が一番いいかも。
ボリス・ゴドゥノフ、サルミネン(V.フェドセーエフ指揮)を聞きたかったからだけど、威厳があって、居てくれるだけで主役と判る。
ハーゲンは、K・リドル、J・トムリンソン、H・P=ケーニヒ、E・ハルフヴァーサン。D・スメジ。などは、聞いてもSalminen には及ばない。
直近、インターネットFMで、シアトルオペラの’黄昏’聴いていたけど、オーケストラよりのマイク設定だから、ハーゲンが主役と言ってもいい第2幕、オケのTubaの音がやたらでかい。でした。合唱の声量も足らないくらいオケが大きかったです。これは、余談ですが。
投稿: 今昔人 | 2013年9月 4日 (水) 16時18分
今晩は。ブログ主様が朝比奈先生のリング演奏会形式初演もロペス・コボス&フリードリヒの舞台初演も観劇されていることは過去記事で存じておりました。さすがに人生経験豊富でオペラ経験も演奏会経験も豊富なブログ主様です。舞台初演の読みごたえのある記事を有難うございました。フリードリヒは好きな演出家ですし、サルミネンは非常に好きな歌手です。ファゾルトもフンディングもマルケ王もハーゲンもいいですが、グルネマンツが物凄く好きで…歌も演技もいいうえにいかにもグルネマンツらしい貫録と威厳がありますから。
聖地バイロイトには昔は行きたいと思っておりましたが、今はあまり…演出がヘンテコすぎて…今年のアメリカンなリングもヘンでしたが、昨年だか一昨年のオランダ人の予算不足の学芸会みたいな演出にもドン引きしました。ウォルフガングやシェローみたいな演出はもうビデオでしか観れないのだろうかと思うと切ないです。
私が今興味があるのは、リング全曲を6時間半に圧縮編曲したというDVDコロン・リングです。どんな編曲でどんな演出なのか興味津々です。指揮が激安ブルックナー全集で大いに名をあげたパーテルノストロですし。hmvやタワーのホムペだとフリッカが某有名女性にソックリなのだそうで誰なのか気になるところです。
投稿: 越後のオックス | 2013年9月 4日 (水) 19時54分
90年代後半までは、本当に、’70年代・’80年代の名残があるCastingがあって。
東西冷戦終結前、インターネット普及開始前までは、すばらしいキャストでの日本公演が多かったと思います。
1990年代からは、演劇的要素・意味不明な過渡期的演出も多かったですね。その頃のワーグナー作品の演出、残っているのは、コヴェントガーデンの’マイスター’。日本でも上演した最近はパリで上演していたWilly Deckerの’オランダ人’。ハンブルグの’Parsifal'学校が舞台の’ローエングリン’。ミュンヘンの’Parsifal'’タンホイザー’ベルリンドイツオペラでも’マイスター’では。。
1990年代の演出は、かなり淘汰も早かったと思っています。ワーグナー物は特に。。熱狂的な人も多いから、かえって目立つ。
今年の5月4日のラインドイツオペラの’タンホイザー’プレミエ1回のみで、後はコンサート形式で。これは、あまりに有名な物議を読んだり。
Wotan役、今、ユハ・ウシタロ、全然歌わないよね状態だしね。トマス・ヨハネス=マイヤー、トマス・コニエチュニー、エギルス・シリンズ、ブリン・ターフェル、マーク・デラヴァンでしょ。
ブリュンヒルデだって、イヴリン・ヘルリツィウス、スーザン・ブロック、カタリーナ・ダライマン、リンダ・ワトソン。別格なのは、ニーナ・シュテンメだとしてもね。。。。。
居ないね。聞きたいジークフリート歌手。。
投稿: Tantris | 2013年9月 5日 (木) 17時46分
今昔人さま、コメントどうもありがとうございます。
諸事ありまして、お返しが遅くなってしまいました。
申し訳ありません。
わたくしもそこそこ長くオペラ舞台に接してますが、その初期をひも解いて、いまに至る歌手というと・・・・。
そうですね、ワーグナー、ドイツものではありませんし、最近では、好みではありませんが、ドミンゴとサルミネンぐらいでしょうか。
ドミンゴのワーグナーは、まったく受け入れませんが・・・・。
しかし、サルミネンのボリスやフィッポ2世とは驚きでした。役柄的にありとは思ってましたが、レパートリーなんですね。
自分的に、サルミネンは、ハーゲン、フンディング、ファフナー、マルケ・・・・、そうワーグナー専門との頭でおりました。
そのソロCDも正規にはないかもしれず、これだけ息が長く実績のある歌手への冒涜ですよね。
いまのハーゲン歌手。
誰一人納得できません。
かつてのグラインドル、フリック、ベーメ、リッダーブッシュといった黄金時代以降、サルミネンだけです。わたしには。
昨今の軽めの、演技主体の歌手たちは映像主体でこそ活きる歌手ですね。
サルミネンはその両面をも満足させてくれる現在進行形の歌手です。
投稿: yokochan | 2013年9月 6日 (金) 21時10分
越後のオックスさん、こんばんは。
今週は地震も含めて、不順な天候が続きました、長岡はいかがですか?
地域ごとにいろいろ起きて心配です。
さて、リング体験をだらだらと書き連ねてしまいましたが、わたくしのリングは、これと、朝比奈、ラインなしの若杉+大野二期会、新国です。
バレンボイムとゲルギエフのふたつは体験しそびれました。
思えば、25年以上前のこの演出の新奇さと斬新さは、いまの過剰な動き、そして下らない読み替えなどとは比することのできない説得力があります。
いまだに現役でレパートリー化していることがその証しですね。
新国のウォーナー演出も、常に手を加え、鮮度管理を行っていけばきっとそのような存在になったはずです。
かえすがえすも、本人への説得も含め、文化施策の欠陥であります。
そしてサルミネンですね。さきにコメントいただいてますが、この息の長い大歌手は、本当に安心感があります。
グルネマンツでは、K・モルと双璧の存在ですね。
あと、コロン・リングは、わたしも気になるところで、会社員時代の上司というか役員さんが、ブエノスアイレス駐在経験を持っていて、毎夜繰り広がられるオペラ劇場の充実ぶりと、社交の一環としてのオペラをよく語ってました。
いろんな意味でドイツとのかかわりもあるブエノスアイレスですから、海賊版でもコロンのワーグナーは、驚くほどの歌手と指揮者で充実してますね。
親父クライバーもそうです。
ご案内のDVD、たしかに気になります。
映像もちょっと観れますね。
投稿: yokochan | 2013年9月 6日 (金) 22時52分
TantrisⅠさん、こんばんは、コメントどうもありがとうございました。
まったく、すべてのご意見に同感!!
70~80年代の演出は、思い出深いものが多いですが、いまある映像の解像度低きことおあり、いにしえ感がつきまといます。
でも、わたしにはそれが一番だったりしますが、90年代の演出は出入りが激しかったですね。
新国のスタートも、それがワーグナーに関しては不幸だった気もしますが、近くあると予想される「パルシファル」が本当に楽しみです。
あげられた歌手が現実ですよね。
ほんと唯一、シュティンメが頭抜けてる。
そして、ジークフリートは散々です。
今年のライアンには寒気を覚えました・・・。
興味深いコメント、じつにありがとうございました。
またどうぞよろしくお願いします。
投稿: yokochan | 2013年9月 6日 (金) 23時15分
急遽、ネザーランド・オペラ(アムステルダムオペラ)2014年来年2月5日の神々の黄昏(第1チクルス)、2月7・9・11日にラインの黄金、ワルキューレ、ジークフリート(第2チクルス)、を観ることになりました。
演出は、自分の好みではないが、今年の噂になった荒れたそうで有名なバイロイトよりはマシ。
配役は悪くないですよ。。。。
新旧のワーグナー歌手が入り乱れているから。
演出は、1999年の演出。2005年に続き、そして今回。新演出時は、DVD化されています。2005年の演奏はCDにもなっています。
もう、9月から発売していたから、良い座席なんてないけど、平土間の隅っこ(字幕が見えないそうで)を予約しました。8つあるカテゴリーの第5カテゴリー。
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いきなり’黄昏’なので、ヨーロッパ寒波なんかで観られないのは嫌だから、2月3日出発。KLM使いたかったけど、寒波の影響で大幅な遅れや(ヨーロッパ内で足止めなどの)不測の事態に備え、ANAにしました。いざという時、外資系の応対は冷たいから。国内系で。
ホテルは、アムステルダム郊外のザーンダム市のビジネスホテルにして安く泊まる。(空港から列車1本。中央駅へも列車1本。いずれも乗り換えなし。ホテルは駅から4分。駅舎の横に建っているホテルで。)
本当は、出かけている場合でないのに。。。。。。
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「本当に、いい加減にしろよ。」ということが家庭内であって、その勢いで飛行機もホテルも、チケットもぜーんぶ、衝動買い。くそ面白くないから、だったら、障碍者になって苦労する前に、「我慢していこう。」と決めていたけど。
「好きなことやってやるー。いざという時のお金、使ってやるー。」
*******
きっかけは、2週間前。
・やがてやってくる(就業の仕方に関わってくる)自分の障害者手帳交付に絡む一件。
・薬代絡んだ税金控除の一件(手帳交付しても1箇月3万円の投薬料)。税金控除にしたらほぼチャラ。
その手帳交付に両親が、狭い狭い地域社会(集落)での自分の世間体。を主張し始めて。。
・筋向いに住む息子の母ちゃん、’集落一番のおしゃべり’だから、その息子が障碍者手帳交付手続き上の窓口担当者。「申請するなら、よそで申請してよ。」と両親が言い始めたから。大騒動!!
******
根強い両親への拒否反応状態。平穏を内心装うつもりだけど、一生根に持つかも。。
******
心中穏やかでない中で決めた、’アムステルダム・オペラ’。
アムステルダム、’穴場’の劇場だから、行きたかった。
投稿: 人・物・金・情報 4本柱が揃っているから世の中生きていけるのに、一つ必ず欠けている人 | 2013年11月30日 (土) 20時10分
こんにちは。
アムステルダムのオペラといえば、コンセルトヘボウがピットにはいるのですか。
ネザーランドフィルでしょうか。
あの映像は見ておりませんが、画像から察するに、求心力のたかそうな舞台ですね。
まぁ、そうヤケをおこされず、いやなことがあったら、私は、べろんべろんに酔うか、ふて寝です。
大切なのは引きずらず、寝る前に忘れるようにすることです。
ワーグナーに没頭して忘却するか、大声でジークムントの歌を歌ってしまうとか、いろいろ実践してますよ。
しかし、アムステルダムのリングは穴場そうですね。
投稿: yokochan | 2013年12月 2日 (月) 22時09分
こんにちは、こちらの記事はいま気づきまして。1987年のリング、じつはわたくしも参りました。ただ3サイクル目、ホルライザーの番でした。ロペス=コボスは聴いていないわけですが、ホ氏のはワーグナーらしいねちっこい感じがあったように思います。ブリュンヒルデがリゲンツァでなく、バラクの妻を当たり役にしたヴィンツイングでしたが、神々の黄昏では自信にあふれた堂々とした歌いぶりで不満などなかったです。神々の黄昏の第2幕にはハーゲンの「ホイホー」とそれに続く合唱があり、また幕尻には vengeance trio(復讐の三重唱)と呼ばれるものすごい重唱で終わりますが、いやすごい迫力でしたね。わたしの回のハーゲンはのちにバイロイトでヴォータンを歌ったトムリンソンで、いや凄まじいものでした。あのチケット代、高かったですが(ご存知でしょう)払って行ってやはり良かったといま思います。
投稿: ういぐる | 2021年7月12日 (月) 23時22分
ういぐるさん、コメントありがとうございます。
87年のあの記念碑的なリング、公演日は違いますが、ともに立ち会えたこと、とてもうれしく、同胞感を味わってます。
文化会館がワーグナー好きに満たされた感がありました。
ヴィンツィングもトムリンソンも、声の力は抜群ですのでさぞかし素晴らしかったでしょうね。
今思えば、当時、お財布さえ許せば、ホルライザーの方も観劇したかったし、真の日本初演の横浜も行きたかったところです。
ともかく、いい時代でした・・・・
投稿: yokochan | 2021年7月14日 (水) 08時30分