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2013年10月

2013年10月31日 (木)

シチェドリン 「カルメン組曲」 プレトニョフ指揮

Donq

ハロウィンなんですって。

かぼちゃを飾ることから、年々、日本にも定着していったハロウィン。

ここ数年は、仮装が繁華街ではスゴイことになってますね。

30日の晩、渋谷で飲んだあと、もう10時を回ってましたよ、道玄坂のドンキ前。

あまりリアルに写真撮っちゃいけないけど、すごい人たちがもっともっとあふれてましたよ。

そもそもハロウィンは、アイルランドやスコットランドのケルト族による魔よけ的な風習から始まったもの。
だからキリスト教とは本来は関係ないものだけど、カトリック系以外は、容認の風習。
宗教とは関係なく、秋の楽しみとして、極東日本でも流行っても、とくにどうという思いはございません。

でも、みんな仮装して電車乗って繁華街に出てくるから、勇気あるよ、まったく。
コスプレってのは、そんなものなのかいな?

と、オヤジのひとりごと。

Shchedrin

 シチェドリン  「カルメン」組曲

   ミハイル・プレトニョフ指揮 ロシア・ナショナル・オーケストラ

                       (1998.2 @モスクワ)


旧ソ連の作曲界の重鎮、ロディオン・シチェドリン(1932~)の代表作はこれ。

体制的なところもあったでしょう、ショスタコーヴチと同じように、交響曲やピアノ協奏曲、24のピアノの前奏曲、オペラ、バレエなどを、たくさん書いてます。

アンコール曲などでも、前奏曲やバレエの一部が演奏されるようになってきましたが、やはり、この「カルメン」と、5曲あるピアノ協奏曲が有名か。
ピアノ協奏曲を聴いたことはありますが、正直、いまひとつ。
やはり、この「カルメン」が、実にいけてる。
あと、オペラでは、「アンナ・カレーニナ」が長大そうで、妙に気になる。

このシチェドリンさんの奥さんは、バレエであまりにも有名な、ザ・白鳥の湖みたいな、マイア・プリセツカヤさんなのですよ。
もう半世紀以上も連れ添った姉さん女房。

1967年、冷戦真っただ中、その彼女の属したボリショイバレエが、ビゼーの「カルメン」のバレエバージョンの編曲を企画し、ショスタコーヴィチとハチャトリアンに依頼するが、それぞれに断られる。
なんのことはない、旦那のシチェドリンが受け持つこととなりました。

45分あまり13の組曲からなる大弦楽オーケストラと打楽器による「カルメン」から自由に素材を導入した、カラフルなバレエピースが出来上がった。

ここに、13の場面をあれこれ、分析する要もないですが、オペラの進行順とは関係なしに、自由にイメージを採用して曲は進行し、同じビセーの「アルルの女」から「ファランドール」やオペラ「美しいパースの娘」からも採用して、旋律のうえでは、ビゼー・カラーを打ち出しております。

ところが、出てくる音の華やかさと、禍々しさは、痛快このうえないものなのです。
ロシア臭は薄目で、というか、変幻自在のショスタコ風とも申せましょうか。
オケは金管がないのに、弦は唸りを上げるように、ときに激しく、悩ましいのですが、一番、あっぱれなのが打楽器の数々。
あらゆる打楽器を駆使した見本市みたいな、おもろさ満載なんです。

ハバネラの一節を奏でるチューブラーベルの冒頭と最後の扱いが、印象的なのだけど、静かにおさまったその後にくるアラゴネーズの大爆発が絢爛豪華なものだ。
そこでも小太鼓やティンパニが効果的だし、ほかの曲でも、イケイケの気分を盛り上げてくれるのは、パーカッションの数々。

ここにその打楽器群の数々を羅列するとページが埋まってしまいますので、ネットで見てください。
数えたら実に35種類の打楽器ですよ。

そして、管楽器・金管楽器はありません。
打楽器のほかは、分厚い弦楽器群だけなのです。

こんなナイスな曲はありませんぜ。

ビゼーもびっくり、スペインやフランスの味わいは、この痛快なサウンドにかき消されてしまい、無国籍濃厚カルメンに仕上がっているのです。

プレトニョフ盤は、実に丁寧かつ、細部に目を凝らしたバランスのとれた演奏です。
欲をいえば、無難にすぎるとこ。
もっと激しく、華麗に、暴れてもいいかも。
生真面目なプレトニョフさんは、カルメンの運命を一生懸命考えて演奏したのかも。

かつて、ロジェストヴェンスキーとモスクワ放送とのレコードがあって、FMで聴いたことがある。
探せばCDになっているかもしれないけど、あのロジェヴェンさんのオモシロ指揮をもう一度聴いてみたい。
 そして、FM放送を自家製音盤化した、現田茂夫さんと京都市響の演奏が、実は最高に素晴らしい。
なにが素晴らしいかって、きらきらゴージャス、金ぴかサウンドなんですよ。

だから、これ、現田さんと神奈川フィルで演奏してもらいたい!!

お願いします。

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2013年10月29日 (火)

バーンスタイン 「ウェストサイド・ストーリー」シンフォニックダンス

Landmark_rock

横浜のハード・ロックカフェとランドマーク。

絵になりますな。

成田のイオンにも、ハードロックカフェはありましたが閉店しちゃいました。

確かに、成田のイオンSCは、外人さん多し、空港や駅から直通バスもあるんですが、どちらかというと外人さんの客層は、住んでる・働いている人系で、われわれと同じく、外食にあまりお金をかけずに、中食といって、お惣菜やお弁当を買って、お家で楽しむタイプ。

そして、空港に着いた皆さんは、東京方面へいちもくさんに行ってしまいます。
難しいものですな。

横浜や大阪、福岡、名古屋は東京と違う日本を、北海道は、さらにまた世界の中でも特異な自然を主張できる。
ほかの地域を、いかに魅力あるものにするか、知恵です。

あら、ワタクシ、今日は何を言ってるんざましょう。

ハードロックカフェからアメリカへ、そしてバーンスタインへと妄想が飛んでたのに・・・。

Bernstein_gershwin_lapo

 バーンスタイン  「ウェストサイド・ストーリー」~シンフォニックダンス

   レナード・バーンスタイン指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック

                       (1982.@ロサンゼルス)


このジャケット、むかしから好きなんです。

ニューヨークの摩天楼は、わたくしのような世代にあっては、富と繁栄の象徴。
ことにその夜景の素晴らしさは、アメリカという国が夢のように思えて、やることなすこと、羨ましく思えるくらいで、東京の街には高層ビルは霞が関と新宿の一部にしかなかったから。

奥様は魔女に代表される、アメリカンな家電満載の快適生活も憧れの世界。

日本の家電はそれを追い越し、世界を席巻し、そしていまは敗北し、近隣のお国にお株を奪われた。
思えば、経済と市場の主役の循環であります。
政治も含めたアメリカの後退ぶりは、もうラップしてやってきている日本の姿だけど、日本人の不屈の精神と、気持ちの細やかさ、精緻なものへのこだわりは、きっと世界のどこも真似できないものでしょう。

2番手か3番手ぐらいで、世界をドイツとともに支える国であり続けるものと思いますよ、わが日本は。

そして1番は、やはりアメリカ。

バーンスタインという人間ひとりとってもそう思う。

この人の指揮する音楽は、ときに時代錯誤的な場面もいまやあり、没頭感が強すぎますが、それでもその説得力はとんでもなく強い。
 そして、この人の書いた音楽は、全人間的に普遍のものでありました。
ユダヤ教的な濃密さを伴うものもありますが、バーンスタインの音楽の根底にある、優しさ=LOVE&PIECEは、私たちが絶対に持ち続けなくてはならない概念で、その楽天的なまでの表出ぶりには永遠に敬意を評さなくてはなりません。

一方で、深刻でとっつきの悪い作品たちもたくさんあるバーンスタイン。
今後体系的に、その音楽を探求すべきかと思います。

ウェストサイドのオーケストラピース版は、コンサートでもとても映える曲です。

マンハッタンで起きるロミオとジュリエットの物語。

作者とロスフィル盤は、わたしのCDの中でも両手で指折れるくらいの時期に買った、ごく初期の1枚。
まだ3800円とか、4000円の時代ですよ。
しかも、ドイツグラモフォンから、ロサンゼルスフィル。
ウィーンやロンドンのヨーロッパ録音でなく、アメリカでのDG録音。
目の覚めるくらいに、素晴らしい録音。

メインのガーシュインとともに、何度聴いたかわかりません。
わたしにとって、永遠の名盤です。
若々しい表現はロスフィルならではで、老練な作者との抜群のコラボレーションです。

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  レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック

                  (1961.3 @NY)


これぞ、この曲のオリジン。
ほやほやの本場演奏。

いま聴けば、粗いし、勢いが良すぎる。

けれど、喜びも悲しみも、爆発も、すべてがハイテンション。
このナイスな感情表出こそ、アメリカの最盛期。
わたしたちが、憧れた「ザ・アメリカ」。
その憧れも、なに恥じることなく、バーンスタインのもの、まっすぐストレート。

笑って、喜んで、怒って、拳を振り上げ、正義を振りかざし、そして失意し、悲しむ。

そんな感情をむき出しに、堂々としてる眩しい曲に演奏だ。

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  マイケル・ティルソン・トーマス指揮 ロンドン交響楽団

                  (1993.9 @ヘンリーウッドホール、ロンドン)


作者没して、この曲を普遍的に演奏する・・・と思いきや、思いきり、小又が切れあがり、リズムも、キッレ切れで、かっこよすぎる演奏がすぐさまに、しかもDGに録音された。

このCDは、わたしの大好きなF・フォン・シュターデがアリアと舟歌で登場しているものだから、95年に発売時すぐさま買いました。
ハンプソンも歌うそちらも大いに気に入りましたが、余白に入ったこの名曲。
このMTTの演奏が抜群に素晴らしかった。

リズミカルな小澤&SFSOよりも、はるかにキレがある。
20分のなかに、しっかりドラマを築いてる。
しんみりとしたエンディングが、作者の没頭した濃厚さよりは、さっぱりとしているところもよい。

いまや、数々の演奏で聴けるシンフォニックダンス。

まだまだこれから、いろんな演奏が登場することでしょう。

バーンスタインも、演奏で楽しむ時代になってます!

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2013年10月27日 (日)

ブリテン 「ノアの洪水」 デル・マー指揮

Shibaura

芝浦の高層マンション群の間を走るモノレール。

運河はもちろん海のなごり。

埋め立ての歴史は、明治後期にまでさかのぼる。

千葉から横浜まで、東京湾に広がった人工の土地。
そこにかつては大工業地帯があり、いまもそれは同じだけど、こうして人も住むようになって、商工住の街になってゆく。

すごいものだ、人間の開発欲と、その能力。

Britten_noyes_fludde

  ブリテン  歌劇「ノアの洪水」 op.59

 神の声:トレヴァー・アンソニー  ノア:オーウェン・ブラニガン
 ノアの妻:シェイラ・レックス    セム:ダイヴィット・ピント
 ハム:ダリエン・アンガディ     ヤフェト:ステファン・アレクサンダー
 セムの妻:カロライン・クラーク  ハムの妻:マリーエ・テレーズ・ピント
 ヤフェトの妻:エイリーン・オドノファン  その他

  ノーマン・デル・マー指揮 イングリッシュ・オペラ・グループ
                   イースト・サフォーク少年少女合唱

                         (1961 @オックスフォード教会)


16作あるブリテンのオペラ作品のうち、10番目。
これらの中で、「ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)」は、ジョン・ゲイの作品の編曲・焼き直しなので、それを除けば15作9番目。

素材は、旧約聖書のなかの創世記、ノアの箱舟の物語そのもの。

多面的な素材、形式でもって、これまでの9作のオペラを書いてきたブリテン。
民話や伝説、ヴェリスモ的な現実、ミステリアスなゴシック文学などの題材に加え、今回は聖書がその素材。
このあとに、放蕩息子や燃える炉などへとつながり、さらにカーリュー・リヴァーを加えて教会という神聖なスペースでの上演を念頭に置いた、教会オペラのジャンル。
 その先駆けが、この「ノアの洪水」。
1957年の作品、「ねじの回転」と「真夏の夜の夢」というふたつの文学路線作品の間にはさまれてます。

「小さな煙突そうじ」と同じく、子供たちにも歌と演奏を委ねる、わかりやすく親しみやすい音楽の内容と規模。

大オーケストラによるものと、室内オーケストラによるもの、さらに器楽によるもの。
そんなカテゴリー分類もできるが、ノアは、最後の器楽伴奏のオペラ。

大人の弦楽五重奏(コントラバス)、リコーダー、ピアノ連弾、オルガン、打楽器。
子供の弦楽、リコーダー、鐘、打楽器、ハンドベル。

ノアとその妻、神の声は大人。
それ以外は子供たち。

こんな編成です、おもしろいでしょ。

創世記第6章の中ほどから、第9章の中ばまでを物語に。
是非、聖書を手に取って読んでみてください。

ブリテンは忠実に聖書に従ったが、唯一、ユーモアともとれる挿入か所は、ノアの妻が、井戸端会議仲間の女性たちを離れたがらず、箱舟への乗船拒否をする点。
セムを始めとする3人の息子たちが、母親を説得して、最後はノアがむりやり船に引き入れる。
 これもまたブリテン独特の社会風刺なのかも。
なにごとも信じない人、さがない人の口がもたらす間違い・・・・。

超簡単に、あらすじを述べると・・・

「世界は乱れて人々も悪に染まりつつあった。神は、世界をきれいにしようと思い、自分への忠義をいつも誓って行動しているノアを選び、あるときよびかける。
家族と動物のつがいを選んで、大きな船を建造して備えよと。
ノアはさっそく、3層構造の巨大な船を造り、神から言われたとおりに準備するが、妻だけは仲間からの誘いもあって船にのらない。しかし、ノアは息子たちとともに、無理やりに妻を船に乗せる。
しかるに、雨が40日40夜降り続き、世界は大洪水にみまわれる。
40日後、ノアは鳥を外に放ったが、外に留まるところはなく帰船。
さらに鳩を放つも同じこと。7日のちに、鳩を再び放つと、オリーブの葉を加えて戻ってきた。その7日後に鳩を放つと、もう戻ってこなかった。
 ノアは、皆で外へでて、神への感謝とともに、祭壇を築いた。
神は、二度とふたたび、生き物を殺すようなことはないであろう、と約束し虹をかける」

48分のショート教会寓意劇は、とても聴きやすい。
稚拙さもともなう子供たちの歌唱は微笑ましいし、無垢なるものを感じる。
その一方、ノア夫妻には大人の頑迷さと意思を感じる。
大人の歌唱は、ときとして、語るように歌うのでリアル感もあり。
さらに、語りだけの神さまも、その抑揚はときに音符も感じさせます。
初期第1作の「ポール・バニヤン」でも、アメリカ創世の主であるバニヤンは、語り部で、同じような効果を引き出してました。
「ノア~、ノア~」と呼びかける神さまです。

それから、動物たちの乗船の行進の場面の面白さ。
原初的なラッパのファンファーレとピアノのオスティナート的なリズムにのって、大きな動物からだんだんと小動物までがやってくる。
歌うは子供たちによる「キリエ・エレイソン」。

短いけれど、ブリテンの筆の冴えと独創性を強く感じるオペラ「ノアの洪水」でした。

作者自演ではなく、名匠ノーマン・デル・マーの指揮によるものです。
何度か書いてますが、デル・マーは、ベートーヴェンのベーレンライター版を校訂した、ジョナサン・デル・マーの親父です。

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2013年10月26日 (土)

ブルックナー 交響曲第7番 シュナイト指揮

Takane

昨年の今頃、法要があって群馬方面に走ったおり、榛名山に行きました。

その途中の展望スペースにて。

木の様子が、ヨーロッパっぽい。

この先を行くと、真っすぐの一本道。

ついついスピードが出てしまうところ、最近はやりの、音楽が鳴る道路になってるんです。

「静かな湖畔の森の宿から・・・・」ってね。

ナイスです。

Bruckner_sym7_schneidt

  ブルックナー  交響曲第7番

    ハンス・マルティン・シュナイト指揮 

  ジャパン・アカデミー・フィルハーモニック

              (2008.10.28 @杉並公会堂ライブ)

台風去って、冷気を呼んだ今宵は、澄んだ夜の空気のなかで、秋のブルックナーを。

しかも、シュナイト翁の日本での忘れ形見的な1枚で。

上記の日付のライブ録音。

この日、わたくしは、この会場におりましたし、ご一緒した方々もよく覚えてます。

その日の演奏会の感想はこちら→シュナイトのブル7

シュナイト師のもとに生まれたユースオケですが、この演奏を境に、シュナイトさんは退任し、同時にわたくしの愛する神奈川フィルや、バッハオーケストラからも身を引いて、南ドイツに帰られました。

この若いオケは、その後、ゲルハルト・ボッセを指導者にむかえましたが、そのボッセさんも、いまや亡く、巨匠のもとでの若いオケから、徐々にプロ化を目指す動きもあるといいます。

当日は、演奏の細かな精度など気にならないほどに、音楽全体をつらぬく、一本の緊張と暖かみを伴ったエモーションが強くて、それに飲みこまれるようにして、長い演奏時間の73分をいとおしむようにして味わったものです。

CDになったこの音源をあらためて聴いてみると、アンサンブルや個々のセクションに物足りない場面はあります。
しかし、演奏会での印象と同じく、指揮者の強い意志とそこに、全面的に従う奏者の意思とを、ともに感じることができます。
 当日、シュナイトさんが自らマイクをとり、聴衆に語ったのは、ブルックナーがワーグナーの死に際し捧げた2楽章のこと。
そして、ブルックナーのカトリック信仰とアルプスへの自然信仰のこと。

これらの言葉をCDでは、かみしめるようにして、聴くことができるのが喜びです。

ことに25分をかけた第2楽章は、一音一音、大事に慈しむようにして演奏されていて、多少の傷はまったく気にならなくなってしまうほどに、真摯で熱っぽい、そして暖かさにあふれた素晴らしい表現です。
遅いテンポにだれることなく、フレーズが次々に繋がる、シュナイトさんならではの、緩やかな表現。
まるで、オペラの一場面のような、心に刻まれる名場面とも呼ぶべき楽章です。

もちろん、全曲のどっしりした構成のなかに、しっかりこの楽章はおさまっているのでありまして、伸びやかな歌が、深呼吸したくなるほどに気持ち良い1楽章。
若々しいリズムの刻みと、中間部ののどかな田園情緒がさすがに素敵な3楽章。

そして、当日も驚きだった、終楽章の堂々たる佇まい。
あせらず、あわてず、ゆるやかに、でもどこまでも歌い、音楽を忘れぬ献身ぶり。
本当に素晴らしいエンディングです。
曲が終って、しばしの沈黙ののちに発せられるブラボは、シュナイトさんのものでしょうか。

神奈川フィルや、シュナイトバッハの演奏を通じて、いつも聴いてきたもの。
それは、南ドイツてきな大らかさと、音色の暖かさ、そして祈り。
ここでも、それはおなじ。
ヴァントのような厳しいブルックナーでなく、南ドイツのアルプスの麓にある、ゆるやかなブルックナーで、その山の麓には村の人びとが集う教会があって、親密なオルガンの音色がいつも響いてる。
それは決してうまくはないけど、人の心を引きつけてやまない優しさがあるのです。

昔のレコ芸を見ていたら、ドイツのレポートのなかに、シュナイトさんと、ミュンヘンバッハとの出会いの記事がありました。

1984年、カール・リヒター亡きあと、シュナイトさんを後継者に据えることを決定ずけるマタイ受難曲の演奏です。

Schneidt


ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場では、さまざまなオペラを指揮することになりますし、前職のヴッパタールでは、ワーグナーのニーベルングの指環を指揮してるんですよ。
びっくりです。

オケには厳しかったシュナイトさん、でもその音楽は優しかった。
いつまでも元気でおられますこと、お祈りしてます。

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2013年10月25日 (金)

プッチーニ!

Harumomiji

警戒するに足ることはないけれど、いまこのときの首都圏は静かなものです。

台風はもう勘弁して欲しいけれど、自然の猛威にはかないません。

あらためまして、注意を呼びかけますとともに、被害に合われた方々に、心からお見舞い申し上げます。

こちらは、春もみじ。

空が明らかに、秋じゃないですね。

この鮮やかな色を作り上げるのも、自然のなせる技です。

Puccini

このところ、プッチーニを聴いてないことに気が付き、無性に聴きたくなり、かといってオペラ全曲というわけにもいかず、これまでブログでも取り上げたお気に入り4枚を、とっかえひっかえ聴いてます。

気の多いわたくしですが、やはりオペラのジャンルが好き。

そして、ワーグナーとヴェルディ、モーツァルトに、R・シュトラウスとプッチーニ、そしてブリテンに、ツェムリンスキー、ベルク、シュレーカー、コルンゴルト。

ブログでは、ワーグナーはもちろんのこと、R・シュトラウスとプッチーニのオペラは全部取り上げました。
ブリテンとできればヴェルディも年内には完成したい。

プッチーニの、煌めきと甘味なる響き、そして人の情に訴えかける登場人物たちの悲しみを伴った所作。
「お涙頂戴」を超えたところにあるプッチーニの音楽の音楽史的な存在感、すなわち、マーラー、R・」シュトラウスにも通じるイタリア世紀末・後期ロマン派としてのありよう。
斬新なるオーケストレーションと和声。
ドラマや声ばかりに気を取られてると、オーケストラがやっていることの凄さを見過ごしてしまう。
それを強く感じさせるのが、カラヤンやメータ、マゼールらのオーケストラ指揮者によるもの。

ジュリーニや、アバド、ムーティがプッチーニに対して消極的なところが面白いです。

今日は、あまりテカテカしていない、真摯な歌声でもって、声を主体にプッチーニを聴いてみました。

Puccini11

 カリーネ・ババジャニアンというアルメニア出身のプッチーニ歌い。

彼女は新国での蝶々さんで、いたく感激した。
日本的な所作を生真面目に、楚々とまでに受け入れ演じてました。
ご覧のとおりの美人さん。
清潔で、真っすぐな歌、少しの色気を漂わせて、とっても凛々しく素敵な蝶々さんや、リュー、マノンを歌ってます。
彼女のその後が、あまりないのが残念。
蝶々さんの、最後のシーンには、泣かされます・・・・。

http://wanderer.way-nifty.com/poet/cat6441788/index.html

Puccini10

プッチーニのテノールも最高の聴かせどころばかり。

三大テノールはメジャーにすぎて、聴きあきたし、耳に付きすぎのときは、ハンガリーのシャーンドル・コーンヤがいい。
もう一時代前のテノールだけど、今夜はコーンヤだ。
プッチーニも、ヴェルディも、ワーグナーも素敵なコーンヤだ。
NHKのイタリアオペラでも来日して、ドン・カルロをうたったし、バイロイトでは、ローエングリンとマイスタージンガーとパルシファル。

そんなコーンヤが歌うプッチーニは、リリコスピントであり、ヘルデンなのだ。
もしかしたら、ルネ・コロと同じような声質。
コロのプッチーニもきっと素晴らしいと思う。
独語録音あるけど、お蔵入りのまま。聴いてみたい。

コーンヤのプッチーニは、すべて好きだな。
ロドルフォからカラフまで、なんでも歌える。
このCDのオーケストラが、ヴォットとフィレンツェで、目も覚めるほどに素敵すぎるんだ。
泣けるぜ。

http://wanderer.way-nifty.com/poet/cat6441788/index.html

Puccini12

こちらは、女声ばかりのガラコンサート。

ヴェニャチコーヴァ、グルベローヴァ、マルトン、G・ジョーンズ

もう何もいえねぇ、大物たちの至芸に、心ときめかすばかり。

グルベローヴァは、プッチーニ向きじゃない。
でも、ほかの3人は素敵。
ヴェニャチコヴァのエドガーは泣けた。

そして、グィネス・ジョーンズのトゥーランドットには鳥肌が立つ。
圧倒的な声の強さと、その強さにある魅惑的な女性としての魅力は、デイムに相応しい凛々しさと、奥ゆかしさがある。
その声への好悪はあることは存知あげつつも、わたくしは、G・ジョーンズは大好きです。

http://wanderer.way-nifty.com/poet/cat6441788/index.html

Puccini_chally

そして、最後は、プッチーニのオーケストラを最高に表現できる指揮者リッカルド・シャイーの伝説的な名盤。
シャイーはこの若き日々が一番よかった。
それも、ベルリン放送交響楽団とのコンビが。

怜悧でありながら、親密で、歌も音の厳しさも、すべてがきっちり備わっていた。

泣けるほどに美しいプッチーニがここにあります。

一番好きなのは、「マノン・レスコー」の間奏曲。
あまりの甘味さと、それを惜しげもなく開陳するこの演奏に、全身がとろけてしまう。

「交響的奇想曲」「交響的前奏曲」のふたつのシンフォニックな作品も、胸を焦がすほどに好きです。

http://wanderer.way-nifty.com/poet/2006/05/post_b685.html

あぁ、プッチーニ。

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2013年10月24日 (木)

マーラー 「嘆きの歌」 ハイティンク指揮

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横浜コスモワールド。

演奏会に行く前に、ちょいと覗いてみました。

ブルー系のイルミネーションがとてもキレイ。

クリスマスまであと2ヶ月。

この前まで猛暑だなんだと言ってたのに。

そしてまだ台風シーズンなんだから、季節感はむちゃくちゃに。

Mahler_das_klagende_lied_haitink_2

  マーラー カンタータ「嘆きの歌」

   S:ヘザー・ハーパー       A:ノーマ・プロクター
   T:ウェルナー・ホルヴェーグ

 ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
                    オランダ放送合唱団

                  (1973.2 @アムステルダム)


ネットで、懐かしいジャケットを見つけて、お借りしてきました。
高校生の時にレコード発売されたハイティンクのマーラー。

交響曲は、8番でもって全曲録音が終わり、あとは「大地の歌」を残すのみのところへ、出てきたこのレコード。
興味はありつつも、買うまでには至らなかったこの音盤は、CD時代になって期せずして、ふたつ持つこととなりました。
3番とのカップリングと、エロクワンスの廉価盤での10番とのセット。

  
マーラーの残された完成作品としての第1作。
1878年、18歳のマーラーは、ウィーン音楽院在籍中に、ワーグナーに魅せられるが、ワーグナーが自ら劇作をものし、台本を書いたように、自身も台本創作欲につかれ、素材を「グリム童話」に求めた声楽作品となりうべきものを書きあげた。

「子供と家庭の童話」の中から「歌う骨」という物語を選んだ。
そこに、マルティン・グラーフという人の詩「嘆きの歌」を織り交ぜた。

そして作曲は、その2年後20歳の年に完成し、ウィーン音楽院の作曲賞に応募したものの見事に落選。
傷心のマーラーは、それでも、指揮やピアノでもって地方のどさ廻りをして生活を成り立たせる努力をする・・・・。

この音楽に聴こえてくる1番や2番のフレーズ、それらの完成までは、あと4年です。

3部からなる大作で、Ⅰ「森のメルヘン」、Ⅱ「吟遊詩人」、Ⅲ「婚礼のできごと」からなってます。

Ⅰ.むかし、誇り高く美しい女王がいた。彼女と結婚するには、森に咲く赤い1本の花を見つけた者のみ。
ふたりの騎士の兄弟が、森へ勇み立つ。弟は優しい心根の青年、兄は邪悪な心を持つ男。弟は見事、花を見つけ、帽子に刺して、柳の陰でまどろんでしまう。
それを見つけた兄は、弟を剣で一太刀。

Ⅱ.ひとりの楽士が、柳の下を通りかかり、白々と輝く骨を見つけた。
木の管と思い、それを横笛にしようと彼は取り上げた。
そしてその横笛を吹いてみた。
笛は歌い出した。「親愛なる楽士よ・・・兄がこのおれを殺してしまった、やがて素晴らしい女性と結婚をする、なんという悲しみ・・・・・」
楽士は、各地でこの悲しい笛を吹き広め、やがてお城へ登る。

Ⅲ.婚礼のただなか。かまびすしく賑やかな楽隊に合唱。
王は青ざめて、ふさぎこんでいる。
そこへ楽士がやってきて、横笛を吹くと、あの歌が・・・。
王は玉座を飛び降り、笛を取り上げ、邪悪な笑みを持って横笛を口にする。
すると、「ああ、兄上、親愛なる兄上よ・・・、あなたは私の若い命を死に委ねてしまった・・・」
女王は倒れ、人々は逃げ去り、城壁は崩れ、王は下敷きになってしまう。
なんたる悲しみ、嘆き!

こんな感じの、まさに残酷かつ、嘆きに満ちた、ドイツ中世独特の物語。

この奇嬌なドラマにマーラーが付けた音楽は、オペラを書かなかった作曲家の、一番オペラに近い作品と思われるくらいに、ドラマティックでかつロマンティック。
そして、マーラー独特の明暗・悲喜・唐突・・・、二面性、いや多面性を秘めた複雑な音楽の運びも、この若書きでは明らかになってる。

この3部作を、後年2度ほど改訂していて、3度目、1901年の作曲後20年を経た初演時には、第1部を削除してしまい2部構成としました。
アルマとのお付き合いのさなか、残虐な場面を削除し、破綻に終わる結婚の物語を少しでも薄めようという気持ちもあったのでしょうか。

今日のハイティンク盤は、この最終稿の2部構成版によるものです。
約40分くらいで、ちょうど聴きやすい長さ。
原典の3部版は、ブーレーズやラトルです。
わたしの手持ちのラトル盤は65分もかかりますので、第1部が長いのです。
正直、中だるみしますが、よりグロテスクな雰囲気は3部版の不均衡さの方にあるかと思います。

牧歌的な雰囲気や、婚礼のシーンでの激しさや、バンダ別動隊の巧みな効果など、後年の交響曲の雰囲気にも通じる面白さがあります。
ソロたちの扱いが、情景を述べたり、登場人物になったりと、やや劇的要素に乏しいが、微笑ましいところもありです。

「本当は残酷なグリム童話」とは裏腹に、マーラーの音楽は、ほのぼのとしていますが、マーラー好きには堪らないシーンも続出しますよ。
最後の、思わぬエンディングもイイです。

ハイティンクとコンセルトヘボウ、そしてフィリップス録音は、期待を裏切らない、ふくよか、ヨーロピアンサウンドでもって、耳に心地よく、味わいも深いです。
テノールが弱いですが、ふたりの女声は素晴らしいです。

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2013年10月22日 (火)

フィンジ クラリネット協奏曲 マリナー

Azumayama

わたしの育った町にある、吾妻山からの眺望。

コスモスに相模湾、遠くは伊豆の山々。

四季おりおり、何度もこの景色は出してます。

この山の麓の小学校に通っていた頃は、山の頂上は整備されてなくて、神社が少し下ったとこにあるだけで、何もない山でした。
それはそれで、自然そのもので、いろんな思い出があります。
クラスで世話をしていたウサギが、逃げてしまい、放課後、子供たちだけでこの山に登ってしまい、まだ新任ほやほやだった担任の先生は、教頭や親たちに大目玉をくらってしまい、子供心に申し訳なくおもったりもしたものです。

社会人になってから、この町を出て、都内に住むようになり、それでも週イチには帰ってきていたけど、結婚してからはすっかり足が遠のき、盆暮正月状態。

そして、親父が倒れてしまった。

会社に電話が入り、駆け付けたときには、もう意識のない、そこにあるだけの存在だった。

このときほど、自分が育った町を離れたことを後悔したことはない・・・・。

父親はもういないけれど、折りふにれ帰るようになったこの小さな町が、いまは愛おしくてならない。

Marriner_finzi

   フィンジ  クラリネット協奏曲 ハ短調

      Cl:アンドリュー・マリナー

   サー・ネヴィル・マリナー指揮 

      
         アカデミー・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

                        (1996.6 @ロンドン)


わたくしの最愛の作曲家のひとり、ジェラルド・フィンジ(1901~1956)の、これまた最愛の作品のひとつ、クラリネット協奏曲。

もう何度も取り上げてますし、マリナー卿親子の共演もかつて記事にしてます。

多感な時期に、父、3人の兄、やがてその姿を被せて敬愛していた師ファーラーも戦争で亡くなる。
哀しみに堪えるような楚々たる音楽は、フィンジの音楽の本質です。
ナイーブという言葉も相応しいけれど、英国の田園情緒の美しさもそこには重ね合わせることもできます。
いつもいつも、涙なしには聴けないフィンジの作品の数々。
自身で破棄したものも多くあり、作品数でいえば30と少し。

悲しいほど美しい。

第2楽章のアダージョ。
甘く切ない死を待受けるかのような音楽。
フィンジはいつも死を予感しつつ作曲していたという。
このマリナー盤は、父が亡くなって、ほどなく聴いたCDで、初フィンジだった。
ぽっかり空いた、自分の中での空白感にこそ、まさに自分が見えてくるような気がした。
この内省的な音楽は、どんなときでも、心にすぅ~っと入り込んできて、優しく包みこんでくれる。

一転して、弦のピチカート乗ってクラリネットが歌う、飛翔するような明るさに満ちた3楽章。
秋の高い空に等しい。

シリアスな1楽章も切実な響きでもって迫ってきます。

声高に素晴らしい曲とお薦めしたくはない。

静かに、ひとり、心して聴いてください。

 過去記事

  「フィンジの作品」

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2013年10月20日 (日)

ヴェルディ 「マクベス」 ムーティ指揮

Kabukiza

ライトアップされた歌舞伎座は素敵に美しい。

後ろのビルも東京の風景になじんできました。

Macbeth_muti

  ヴェルディ  歌劇「マクベス」

 マクベス:シェリル・ミルンズ       マクベス夫人:フィオレンツァ・コソット
 バンコー:ルッジェーロ・ライモンディ  マクダフ:ホセ・カレーラス
 マルコム:ジュリアーノ・ベルナルディ  待女:マリア・ボルガート
 医師:カルロ・デル・ボスコ        従者:ジェスリー・フィソン
 暗殺者:ジョン・ノーブル          先駆け:ネルソン・テイラー
 幻影1:クリストファー・ケイト       幻影2:サラ・グロスマン
 幻影3:ティモシー・スプラックリン

  リッカルド・ムーティ 指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
                   アンブロジアン・オペラシンガーズ
                   合唱指揮:ジョン・マッカーシー

              (1976.7 アビーロードスタジオ、キングスウェイホール)


ヴェルディのオペラ10作目は、いよいよ名作「マクベス」。

1846年、胃痛と体調不良を押して完成させた「アッティラ」のあと、ヴェルディは医師の勧めで、6ヶ月間の休養に入ります。
北イタリア、ヴェネト洲にある美しいレコアーロという地で、ひと月の間、保養生活を送ります。
この地の鉱泉水を飲み、ヴェルディは元気を取りもどすのですが、いまでもここの水は効能豊かなようですね。

Recoaro1

さらに、以前より交流のあったマッフェイとも親しく接し、ドイツやイギリス文学の翻訳を業とした文化人の彼との日々は、ヴェルディの創作欲を大いに刺激しました。
一回り以上歳の差のあったマッフィーの若い妻クラーラも、知識人で、ミラノでサロンを開催して、多くの文化人との交流もありましたが、当のマッフィーとはすれ違いばかり。
政治的な考えも異なり、ついには離婚ということになり、マッフィーさんは、その痛手をヴェルディとの文学談で紛らわしておりました。

そこで、話題に上ったのが、シラーの「群盗」。
さっそく、ヴェルディはマッフィーに台本製作の依頼をします。
次の仕事の依頼先であるフィレンツェでの上演をもくろんでのことです。
作曲を開始した「群盗」では、力強いテノールを念頭にしており、それは、ナポリで惚れ込んだ「アルツィラ」を歌った歌手をあてこんでのものです。
しかし、フィレンツェがその歌手を手当てできないことがわかると、ヴェルディは「群盗」の筆を置き、すぐさまに、マッフィーとの交流の中で芽生えたシェイクスピア劇の「マクベス」構想に切り替え、今度は、毎度のコンビ、ピアーヴェに台本依頼。
主役をバリトンに据えるため、フィレンツェでも上演が可能と判断したヴェルディの動きは早い。
猛然と仕事に熱中し、1947年の2月に「マクベス」を携えてフィレンツェに乗りこみます。
翌3月に、「アッティラ」初演1年で、新作を上演。
その間の1年の半分を静養にあてていたヴェルディの作曲の勢いと情熱は、まったくもってすさまじいものがあります。

これまで、「ふたりのフォスカリ」という渋い心理劇はあったものの、歴史スペクタルの中に、愛国心を鼓舞する熱々路線を引いてきたヴェルディは、この「マクベス」から、初期作を脱し、中期の森へと入り込んで行くわけです。

>シェイクスピアの原作にほぼ忠実。
この原作もアバドのレコードを聴いてから読んだが、簡潔ながらシェイクスピアがマクベス夫人に与えた邪悪な野望の持主という性格は恐ろしいものであった。
そしてそれに鼓舞されて人生を狂わせてしまうマクベス。
 ヴェルディもシェイクスピアの意そのままに、マクベス夫人を歌う歌手は「完璧に歌うのでなく粗くて、しゃがれたようなうつろな響き」を持ち「悪魔的な感じ」を求めたという。

そして、マクベス夫妻の歌のスコアには、「ソットヴォーチェ」とか「叫び、うつろに」「しゃべるように」・・・・、といった指示がたくさん書かれている。

 このオペラの二人の主役がいかに難しく、性格描写が求められるかがわかるというもの。<
 (以前のアバド盤の時の記事より引用)

ヴェルディは、18年後、パリのために、「マクベス」を改訂し、そのフランス語版のイタリア訳の版がいまもって上演・録音される版となっております。
初稿は聴いたことがありませんが、基本ラインは同じで、愛国的な合唱に手が入り、バレエが追加されたほか、よりダイナミックになったされます。

1040~1057年 スコットランド

第1幕

 3組の魔女たちが歌うところに、マクベスとバンクォーが登場。
魔女は、マクベスがコーダーの殿となり、やがて王ともなる。バンクォーは王の父となると予言する。そこへ、マクベスがコーダー領主となったとの使者が現れ、二人は驚く。
 マクベスの居城では、夫の手紙を読み野望にメラメラと燃える夫人がいる。
おりから、王ダンカンが今宵やってくるとの報に、帰館した夫に王暗殺をしむける。
ついに刺殺してしまうマクベスは、おお殺っちまったとおののくが、夫人は凶器の短剣を夫から取上げ、王の部屋へ置きにゆく。やがて大騒ぎとなる・・・・。

第2幕

 国王となったマクベス。魔女の言葉を一緒に聞いたバンクォー親子の存在が気になってしょうがない。
ならいっそのこと、と夫婦で次の殺害をたくらみ、刺客を雇ってバンクォーを殺してしまうが息子マクダフは逃げおおせる。
城の広間に客人をもてなすマクベス夫妻。しらじらしげに、バンクォーはいかがした?とか言いながら、バンクォーの席に座ろうかなどと言うと、血にまみれたバンクォーの亡霊が座っているのが見え動揺しまくるマクベス。
夫人はその場をとりなし、夫を励ます。

第3幕

 マクベスは魔女たちに気になる未来を見てもらおうとする。
魔女たちは、幻影を呼び出し、その幻影が語る。「マクダフに用心、女から生まれた者でマクベスに勝つ者はいない、バーナムの森が動かない限り戦いに負けない」と。
有り得ないことばかりに意を強くしたマクベスだが、王たちやバンクォーの亡霊が現れ、バンクォーの子孫たちが生き返ると聞かされ気絶してしまう。
 帰って夫人に報告し、二人でマクダフの城を攻めてしまえと毒づく。

第4幕

 マクベスの暴政に悲しむ人々の合唱。復讐に燃えるマクダフに亡き王の息子マルコムは、バーナムの森の木々を切ってそれを手に持って姿を隠そうと作戦を練り励ます。
城ではマクベス夫人が狂乱の死の境に立っている。
手についた血のしみや匂いに囚われてしまっている・・・・。
 マクベスは今しもイギリスと組んで攻めこようとするマクダフ軍に毒づき、最後の時が近づくのを悟り、自分の墓には悪口しか残されることはないと歌う。
そこへ、バーナムの森動くとの報。くそっとばかりに武器を持って戦場へ出るマクベス。
マクダフと出会い、母の腹をやぶって取り出された生い立ちを聞かされ、マクベスは「地獄の予言を信じたゆえ罰を受ける。卑劣な王冠のために・・」と歌い破れ死ぬ。
 勝利に沸く民衆とマクダフとマルコム。 

                       幕

Macbeth_muti_2

いうまでもなく、マクベス夫人のふたつの長大なアリアがもっとも聴きもの。
最初の登場のアリアでは、邪悪さも表出し、強烈な存在としてのマクベス夫人。
最後の狂乱の場では、自分の手に付いた血の幻影に怯える夫人。
これらを歌うメゾの領域の歌手は、いまもってマリア・カラスがどうしても頭をよぎるのですが、全曲盤で、いまもって最高のマクベス夫人と確信しているのは、こちらのフィオレンツァ・コソットであります。
まっすぐに伸びたピーンと張りつめた強靭な声。低域から高域まで、無理なく駆使される豊かさと技量。どんなに強く歌っても耳にうるさくない。
ヴェルディの指摘したような、しゃがれた声では決してないけれど、権力を狙い鼓舞し、やがて転落してしまう、強くて弱い女性を完璧に歌いだしているコソットの見事なマクベス夫人です。

同じことが、ミルンズのマクベスにもいえていて、完璧なのですが、声の威力に頼り過ぎの部分と、美声があっけらかんと響きすぎて、悲劇色を打ち出せないうらみもありました。
でも、わたくしは、ミルンズの声が大すきですよ。

贅沢にもカレーラスとライモンディを配するEMIならでは豪華版。

録音時35歳のムーティの熱血かつ、情熱と表現意欲に富んだオーケストラが見事。
イギリスのオケとは思えない、強靭なカンタービレと歌をニューが付いていたころのフィルハーモニアから引き出してます。
EMIらしからぬ、芯のある録音もよいです。

Macbeth_muti_3


当時、ムーティを擁していたEMIは、お互いにライヴァル心むき出しだったアバドのいたDGと、これまた何かにつけはり合うことが多かった。
アイーダと仮面舞踏会は、EMIがいち早く録音したが、「マクベス」は、DGがスカラ座に乗りこんで、数十年ぶりのスカラ座全曲録音を復活させた演目だ。

スカラ座上演に合わせて、歌手もバージョンアップさせたアバド盤と、その1年後のムーティ盤は、当時のイタリアオペラ界の名歌手の相関図でもあります。

皮肉なことに、両盤のキャストを混ぜ合わせると、史上最高のキャストができあがります。

マクベスはカプッチルリ、夫人はコソット、バンコーはギャウロウ、マクダフはカレーラス。
指揮とオケは、アバド&スカラ座に軍配。

ムーティもいいけど、ロンドンのオケはスカラ座の比じゃないし、ヴェルディが踏み込んだ人物たちの心理の綾を表出した音のドラマをアバドは緻密さと、解放感とでもって表現しつくしているから。

ブログでのヴェルディオペラ制覇まで、あと6作(改作除く)。

過去記事

 「アバドのマクベス」



 

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2013年10月19日 (土)

神奈川フィルハーモニー第293回定期演奏会 広上淳一指揮

Minatomirai20131018

これから聴く音楽会にちょうどお似合いの写真が、いい感じに撮れましたよ。

Kanapo201310

  ブリテン   ヴァイオリン協奏曲

  ラヴェル  「カーデッシュ」(ふたつのヘブライの歌)から

          Vn:ダニエル・ホープ

   ホルスト   組曲 「惑星」

      広上 淳一指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                 神奈川フィル女声合唱

           (2013.10.18 @みなとみらいホール)


近代英国音楽の夕べ。
生誕100年のブリテン(1913~1976)と、最近、先月のアルプス戦争とともに、各オーケストラがよく取り上げ、惑星戦争ともなっているホルスト(1874~1934)の人気曲。

英国音楽好きとしては、今シーズン、楽しみにしていた演目のひとつ。

世界的存在、旬の英国ヴァイオリニスト、ダニエル・ホープさんを迎えてのブリテン。
背の高いダニエルさんと、鮮やかな対比の広上さん。
指揮台にたってもまだ、ダニエルさんの方が大きい(笑)

そのポール・ダニエルさんの先導で、ブリテンの音楽は進行し、オーケストラもヴァイオリンソロが引っ張って行くような印象。
それはそうです。
CDも録音してるし、すっかり手のうちに入った曲ですから。
ヴェンゲーロフのCDと、同じヴェンゲーロフの自家製放送録音のサヴァリッシュ、大植英次、ヒコックスなどの音源で、ようするにヴェンゲーロフばっかりで聴いてきたわたくし。
いわば、骨太で雄弁なヴァイオリンで聴いてきたワケです。

しかし、冒頭の親しみある旋律から、ダニエル・ホープさんのヴァイオリンは繊細。
その繊細さは、曲が進むにつれ、大胆さと抜群の切れ味も加わって、耳が、心が釘づけとなってしまうのでした。
超絶的に難解技巧のこの曲を、いとも鮮やかに弾くその顔色は、まったくのポーカーフェイス。
ブリテンの音楽は、ともかくクールで熱いのですが、ダニエルさんのヴァイオリンも同じく、クールでその内包するサウンドは熱い。
驚きの技巧は、第2楽章の最後にある長大なカデンツァ。
しなやかに、かつ激しく、弓は上下し、左手でもピチカートを奏でる。
それがこれみよがしにならずに、正攻法で勝負してるから、とても音楽的で、聴く人を内面から引きつけるものがある。
当然に、指揮者は見ずに、わたしは、ヴァイオリンソロに目も耳も集中。

神奈川フィルも最高に素敵なブリテンを響かせてる。
ブリテンの音楽は透明感と切れ味の良さ、そしてしみじみ感が大切。
そのいずれも、オーケストラは完備してました。
後半の演目を聴くにおよび、これは、ダニエルさんの効果によるものと自身判明。

それにしても、ブリテンの音楽はすばらしい。
オペラを中心に、そのほとんどの作品を聴きつつありますが、常套といってもいいくらいに、曲の最終局面で、感動的なシーンが待ち受けている。
それはたいてい、曲全体を見通すようにして回顧したり、主要主題が最高の姿で回帰したり、はたまた、急展開でバッと終ったり。
そして、このヴァイオリン協奏曲は、5分近くに及ぶアダージョが訪れ、澄み切った浄化されたかのような世界が静かに、感動的に展開します。
ダニエルさんのヴァイオリンが、どんどん、どんどん、高みに昇るようにして飛翔し、秋空のように澄み渡って行くさまを、息がとまるほどのの感動を持って聴きました。
オーケストラの皆さんも、一緒に耳を澄ませているのもわかります。

静かに曲を閉じて、わたくしは、つぶやくようにブラボー献上。

もうこれで、この日はいいや、とも思いましたが、でもホルストですよ、「惑星」ですよ。

指揮棒を持たない広上さんの動きは、正直いって、つらい。
何が辛いかって、面白過ぎるからですよ。
後ろから見ててもオモシロ姿なのだから、オーケストラの皆さんはよく辛抱できるな。
いや、体操は見てないわ(笑)
P席のお客さんも、よく平気だな(笑)
あとで、聞いたら、P席でお二方ほど、笑いをこらえてクスクスしてるご婦人がいたそうな(笑)。

辛口の評価になりますが、いくつか不満を。
1、大すきな金星がせかせかしすぎで、平和を司るヴィーナスもあわただしく過ぎ去るの感あり。ホルン女子ちゃんも、毒に煽られ気の毒。しかし、石田&山本のソロは完璧に自分の世界を供出。
2.音の濁りが散見。指揮者のコントロール不足か、バランスが悪いヶ所数点あり。
3.女声合唱がリアルにすぎ、かつ人数多過ぎ。
しかも照明を明るくしたのは失敗では?神秘感吹っ飛んだ。
2階左右に振り分けたステレオ効果はバッチリだったが・・・・。

でも素晴らしいこともたくさん。
いつも感嘆するティンパニ。そして今回はダブルティンパニでばっちり。
打楽器群は超強力。
木管の柔らかさ。ことに4人のフルート勢ぞろいと、4人の各種オーボエは圧巻。
ファゴット陣も雄弁。
煌めく金管も好調ですね。
弦楽器はいうに及ばす、素敵すぎます。
こうして、神奈川フィルは、この夜も好調なのでした。

次は、しばらくぶりにブラームス。そしてラフマニノフ。
いずれも3番です。ブザンソン優勝の垣内さんの指揮。

Bludal

神奈川フィルのマスコット、ブルーダル君。

ビールに向かってるのか、うしろ姿を見せてますよ。

今回のアフターコンサートは、和食系でまいりました。

ビールに焼酎、わたくしは、しみじみと、熱燗をいただきましたよ。

みさなまお世話になりました。

そろそろ、忘年会のことも話題になる季節となりました。

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2013年10月17日 (木)

神奈川フィル定期演奏会Vol.293 前夜祭~惑星祭り

Gyoukoudori_1

ホルストの作品のひとつに、「雲の使者」という大きな合唱作品があります。

「惑星」の少し前に書かれた曲で、インドの詩人カリダサの叙事詩に付けた壮大な音楽です。弊ブログで取り上げてます→「雲の使者」

「惑星」以外の、ふんだんにあるホルスト作品に目を向けることで、また「惑星」が違った風に聴こえるようになります。

神奈川フィルの10月の定期演奏会は、イギリス音楽ですっ。

どんなに楽しみにしているか、英国音楽好きのワタクシです、おわかりでしょう。

   ブリテン   ヴァイオリン協奏曲

          Vn:ダニエル・ホープ

   ホルスト   組曲 「惑星」

      広上 淳一指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                 神奈川フィル女声合唱

   2013年10月18日 金曜日 19:00 みなとみらいホール


そこで今夜は、「惑星祭り」と称して、わたくし独断のランキングをやってみます。

Onegai_planet

こんなものまでこさえてしまう、おバカなワタクシ。

いまや人気曲として、CDやDVD音源も、それこそ星の数ほどあります。

わたしの保有する音源は、たかだか17種類に過ぎませんが、その中からベスト7を。

7なワケは、惑星好きならおわかりですよね~

  ① メータ指揮     ロサンゼルス・フィルハーモニック

  ② プレヴィン指揮  ロンドン交響楽団

  ③ マリナー指揮   コンセルトヘボウ管弦楽団

  ④ ボールト指揮   ロンドン・フィルハーモニック

  ⑤ ハイティンク指揮 ロンドン・フィルハーモニック

  ⑥ ハンドレー指揮  ロイヤル・フィルハーモニー

  ⑦ ラトル指揮     フィルハーモニア


なんだか、ロンドンのオーケストラばかりになってしまった。

わたくしの音源の中には、世間でいう名盤、新旧カラヤンや、レヴァイン、マゼールなどは含まれておりませんことをあらかじめ申し上げておきます。
ちょいと天の邪鬼なものですからして。

メータは、中学生のときに聴いた、それこそ刷り込み演奏。
アカデミー賞もとった、惑星時代興隆の今にとって恩ある名盤。
精度はいまやもっと高めを求めたいけど、ダイナミズムと語り口の巧さ、録音の優秀さでもって、わたくしにはこれがいまもってイチバン。

メータ後に登場した、これもまたストーリーテラー的な語り上手のプレヴィン盤。
のちのロイヤルフィル再録も悪くない。EMI録音も、これはいい。

なんといってもコンセルトヘボウの魅力が全開。
ハイティンクによって培われた魅惑のベルヴェットサウンドは、フィリップスの優秀録音あってのもの。ヨーロピアンを絵に書いたような惑星。

悠揚せまらぬ英国紳士の剛毅かつ柔和な惑星。
LPOが素晴らしい。

同じLPO。こちらはいくぶん、くすんだ音色が魅力で、コンセルトヘボウ化しているのは、ひとえにハイティンクの指揮。着実でゆるぎないサウンドは生真面目。
英国音楽してます。

この勢いあるサウンドと迫力は気合充分。抒情にもあふれ、ボールトとはまた違った意味での英国。
300円の駅ナカ、ワゴンセールにしとくには、もったいなさすぎる名演ナリ。

若きラトルは、いまよりずっとずっとぶっ飛んで、はじけてた!
スピード感と豊かなリズム感は、耳にも心地よく、興奮を呼ぶ。
しかし、EMIののっぺり録音がいかん。

Mehta_planet_1

ほかも、いろいろありますし、実はカラヤンも聴いてます。
その新旧カラヤンは、憎いほどに上手で、文句のつけようがありませんでしたが、いま手元にはありません。
ただ、そこにないのは、英国的な奥ゆかしさと、ノーブルな歌い口。
 この曲の場合、あまりに、うますぎて、雄弁すぎるのは考えもの。
金星や土星の静かな部分にも心くだいて、不器用でも、じっくりと歌いあげた演奏の方を、わたくしは好みます。
メータのお上手演奏が1位は、中学時代の思い出がたっぷり詰まっているし、ノスタルジーでもあるからです。

神奈川フィルの惑星、楽しみ。

それと、ダニエル・ホープが弾く、ブリテンのヴァイオリン協奏曲。
マジで楽しみだ。
協奏曲は、今回、神奈川フィルでしか演奏しません。
ブリテンの協奏曲は、ベルクにも通じる甘味さと、スペイン情緒、超絶技巧、それぞれが聴きどころ。
ヴェンゲーロフ盤で、聴き馴染みました。(過去の記事)

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2013年10月16日 (水)

ブリテン オペラを作ろう「小さな煙突そうじ」

Gatebridge

東京ゲートブリッジを走行中。

下は海です。

東京湾、江東区若洲と中央防波堤埋立地を結ぶ、長さ2.6km、高さ870mの橋。
高いところは、あんまり好きじゃないから、少しわなわなしながらハンドルを握ってましたよ。

右側は歩道にもなっていて、歩けるっていうから恐ろしいじゃありませんか。
きっと、わたくし、ちびってしまいますよ。

Britten_little_sweep

  ブリテン オペラを作ろう「小さな煙突そうじ」

  サム(煙突そうじの少年):デイヴィッド・ヘミングス     
  ロワン(子供たちのメイド):ジェニファー・ヴィヴィアン
  ミス・コヴァット(家政婦):ナンシー・トマス

   子供たち
  ジュリエット・ブルック:エイプリル・カンテロ 
  ケイ・ブルック:メイケル・イングラム
  ソフィー・ブルック:マリリン・ベイカー  ジョン・クロム:ロビン・フェアファースト
  ティナ・クロム:ケイブリエル・ソスキン  ヒュー・クロム:リン・ヴォーン

  ブラック・ボブ(煙突そうじの親方)、トム(馭者):トレヴァー・アンソニー
  クレム(煙突そうじの助手)、アルフレッド(園丁):ピーター・ピアーズ

    ベンジャミン・ブリテン指揮 イギリス・オペラ・グループ管弦楽団
                      アリンズ学校聖歌隊


                               (1955)

16作あるブリテンのオペラの6番目の作品。

純なる心から、無垢なる子供たちを愛したブリテン。
子供たちへの音楽もいくつか残してます。
有名どころでは、「青少年のための音楽入門」、「セント・ニコラス」などがありますが、オペラでは今日のこちら。

1949年の作で、ブリテンは36歳。
台本は、「青少年」の楽器解説のナレーター台本を書いたエリック・クロージャー。
3つの幕からなる、劇+オペラ編で、最初のふたつは、ドラマ仕立て。
3幕目が、オペラ仕立てとなっていて、当CDも当然に第3幕のオペラ部分のみの収録です。

主人公のサムと子供たちの一部は、ボーイ・ソプラノ。
あとは、大人の歌手たち。
オーケストラではなく、弦楽四重奏とピアノと打楽器が伴奏。
ともかくユニークです。
そして、子供たちのものですから、音楽の内容も平易です。

オペラの本筋に入る前に、この題材の背景を。

主人公である「小さな煙突そうじ」サムは、まだ年端もいかない少年。
彼は、農業を営む父親が怪我をしてしまい、そのため仕事ができなくなって食べることができなくなり、可哀そうにも煙突掃除業者に売られてしまうのだ。
 少年を煙突掃除の重労働に架すことは、ヨーロッパでは人身売買も伴って行われていたことだったが、ことにイギリスでは、社会的弱者の典型として、少年の煙突掃除人と娼婦がよく引き合いに出される時代があった。
それが、いわゆる産業革命の18~19世紀という時代に符合します。
 ディケンズのオリヴァー・ツィストもそうした時代。
1788年、8歳以下の少年を煙突掃除に従事させることを取り締まる法律改正さえ行われた。
このオペラは、1810年の物語ですから、あきらかな法律違反を摘発するような内容でもあります。

ブリテンは、同性愛主義者であったことで、なにかと色眼鏡で見る向きもありますが、そんなことで、ブリテンの本質を見誤ってはいけません。
先にふれたように、子供たちへの優しい視線や、少年が登場する作品が多いのは、社会的弱者に対する愛情であり、それは子供ばかりでなく、社会から孤立してしまう人々への優しい目線でもあります。
名作「ピーター・グライムズ」や「ビリー・バッド」はその典型であります。
 同時にそれは、人間が憎み合うこと=戦争への極端な拒絶反応へともつながります。
平和主義者としてのブリテンは、弱者への慈しみもその基盤としてあるわけです。

生涯貫いた、そんなブリテンの想いを頭に置きながら、このシンプルなオペラを聴くことで、妙な偏見はなくなり、偉大な作曲家としてのブリテンの存在が浮き彫りになるものと思います。

第1幕 (劇) 
 パワージー夫人の客間で、夫人は集まった子供たちに、祖母から聞いた物語を話してきかせ、子供たちは、これを題材にオペラを作ろうということになる。

第2幕 (劇中劇)
 オペラの準備は整い、指揮者は、子供たちはおろか、客席の人々にも、次の3幕でのオペラ篇で挿入されている合唱の練習を強要し、実際の客席と舞台は一体化して、オペラへの期待に膨らむ。

第3幕 (オペラ) CD本編
 1810年。観客全員をふくめた合唱で、煙突そうじの悲哀を込め、歌う。
やがて、少年サムが煙突掃除の親方と職人に、こづかれながらあらわれる。
ほとんど泣いているサム。
容赦ない親方たちに、仕事の発注元であるお屋敷の意地悪な家政婦バゴットも加わって、サムは無理無理に煙突に内側から登ることになる。
唯一、子供たちのメイドのロワンは、大いに同情し、涙ぐむが手の出しようがない。

ひとり煙突内で怖くて泣いてしまうサム。
その声を聴きつけたのが、屋敷の子供たちと、休みに泊りにきていた親戚の子供たち。
みなで、サムを救いだし、おもちゃ箱にかくまう。
そこにロワンも加わり、サムの気の毒な境遇を聴き、彼を家に帰してあげようということになる。

サムが消えて、怒りまくる職人と家政婦が外へ探しにいった隙に、サムをお風呂にいれて、着替えもさせ、食事もあたえ、すっかり元気になったサム。
翌日、サムの家を知る従姉妹たちの馬車でこっそり返そうという計画が決定。
子供たちは、その計画で大いに盛り上がる。

家政婦が、あらわれてはヒヤヒヤする場面も何度か。

翌日、気持ちいい朝。
いよいよ旅立ち。感謝のサムに、皆は名残惜しそうに別れを告げる。
大きなトランクに隠れ、御者たちが、その重さに、何度もカバンを開けるだ、家政婦が登場するだの、またもやヒヤヒヤの連続ですが、無事、馬車は旅立つ。

それを見送る、子供たちの明るいギャロップ風の歌で幕となります。

               幕

あ~、よかった。

純粋な子供たちなら、きっとこの子供たちだけの救出劇に、ハラハラ、一喜一憂したことでありましょう。
いまの子供たちも、そうであって欲しいと痛切に思います。

優しい目線のブリテンの音楽に、大人も、ついつい思いは優しくなります。

ブリテンのオペラ、ブログでの全制覇まで、あと4つ。
        
  

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2013年10月15日 (火)

ホルスト 「サーヴィトリ」 ヒコックス指揮

Yasukuni2013103

前にも出しました、都会のど真ん中、靖国神社の日本庭園。

池にはビルも映ってます。

騒音ゼロ、静かな雰囲気に、気持ちも研ぎ澄まされます。

Holst_savitri

   ホルスト  歌劇「サーヴィトリ」

    サーヴィトリ:フェリシティ・パーマー サティアワン:フィリップ・ラングリッジ
    死神:ステファン・ヴァーコー

     リチャード・ヒコックス指揮 シティ・オブ・ロンドン・シンフォニア
                      ヒコックス・シンガーズ

                         (1983.6 @ロンドン)


グスターヴ・ホルスト(1874~1934)は、前にも書きましたが、生粋の英国人ではなく、父方はスゥエーデン。
ゆえに、グスターヴという北欧風の名前なのです。

そして、ホルストといえば、判で押したように「惑星」なわけですが、作品番号が付いているだけでも、200曲以上の作品があり、その主力は、声楽・合唱作品にあるとみていいと思います。
もちろん、管弦楽作品にも捨てがたい曲がいくつもあって、「エグドン・ヒース」などは、最高に素晴らしい曲だし、数々の組曲作品も捨てがたいです。

主力の声楽作品では、「合唱交響曲」や「雲の使者」などは、わたくしの最も好きな作品ですし、しゃれたパートソングの数々も涼しげで心地よい音楽たちです。

さらに、オペラのジャンルでは、8つの作品(うちひとつは未稿)が残されました。

ホルストは、親友のヴォーン・ウィリアムズとともに、イギリス各地の民謡を収集し、それらは素敵な合唱作品の一部に結実していて、いかにも英国風な趣きがあります。
 一方で、若い日々から、インドのサンスクリット文化にも感化され、東洋風なエキゾシズムにあふれた音楽もいくつも書いている。
「惑星」における占星術的な思想も遠からずこの分野から発したものでありましょう。

そのサンスクリット文学から、叙事詩「マハーバーラタ」に素材を求めたオペラ「Sita」を1906年に完成し、リコルディ社から発刊。
その初演も行われないうちに、今度は「ラーマーヤナ」の中からの一編を抜き出して、次ぎなるオペラを作曲したのが1908年。

それが、「サーヴィトリ」であります。

大きな前作に比べ、こちらはミニオペラで、登場人物も3人。
オーケストラは12人の奏者だけ、合唱は女声によるアカペラのみ。
約32分くらいのコンパクト・オペラです。
ですから、筋立ても大仰なものでなく、寸劇みたいな動きの少ない、かつ内面的なものでもあるんです。

劇の概要

ある森のなか、晩。

前段として、貞淑な王女サーヴィトリが結婚した相手は、スティアワン。
ところが彼の余命は結婚当初すでに1年。
あともう時間のないある晩のこと・・・・・

「死神(マヤ)がサーヴィトリの名を呼び、自分は誰もが必ず通らなくてはならない道であり門であると呼びかける。
サーヴィトリは、ただならない雰囲気に緊張する。
サティアワンは、サーヴィトリの名を口にして讃えるが、不調を訴え、やがて手にした斧も落としてしまい力が抜けてしまい倒れる。
 サーヴィトリは神様に、夫なしには生きていけない、活き返らせて欲しい、さもなくば、自分の命をと懇願する。
神への訴えは、死神マヤをも屈服させ、サティアワンはよみがえる。
死は、人間の活きる夢を統治するのだ、と核心的なことをつぶやき、消え行き、サーヴィトリは汝とともに・・・と最後に歌う。」

というような内容かと。

英語の歌詞はついてますが、これがまたどうにもわからない。
普通のオペラのように、惚れた腫れたの会話じゃなくって、観念的な言葉が並んでて、約しようがない。
なんのことはない内容だけど、ラーマーヤナによれば、サーヴィトリは、「40人の子供を産みます」と宣言。死神も、それはいいね、頑張りなさい、みたいなことを言って奨励するんだけど、サーヴィトリは機転を利かせて、「わたしゃ、サティアワンじゃなくちゃ駄目なのさ」と開き直って、見事活き返させるということになるらしい。
そして、ふたりは、ほんとうに子宝にめぐまれ、サーヴィトリは良妻賢母の代名詞みたいに祀られてるってわけなそうな。

音楽は、かなりに神秘的かつ東洋風で、あっちの世界にも足を踏み入れたみたいな彼岸な雰囲気もまんまんです。
冒頭の死神さんの、無伴奏での歌の怪しげな様子、甘々のサティアワンは、いかにも英国テナーの声にぴたりの役。
無伴奏女声コーラスは、後半になると、サーヴィトリの神との対話や、よみがえりの場面での伴奏となっていて、これがまた清らかかつ、神がかった雰囲気。
惑星の「土星」みたいな老成化したムードも死神の歌には出てくる。

万人向けでは決してありませんが、ホルストの一面を端的に味わえることには違いありません。
カレーは食べたくなりませんが、不思議の国インドを思い描くこともできる作品です。

ホルストは、じつにおもしろい。

3人の英国歌手は完璧にクール。
ときおり唸り声も入る、ヒコックス入魂の指揮です。

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2013年10月13日 (日)

ヴェルディ 「アッティラ」 ガルデッリ指揮

Hanayashiki

セピアに加工してみました。

いかにも似合う、浅草の花やしき。

子供の頃に行ったか行かなかったか?

あれは、豊島園だったか?不明。

でもよく覚えてるのは、横浜ドリームランド。

最盛期のダイエーが買収したりしたけど、もうないです・・・。

昭和は遠くにあり、でも近くに感じます。

Verdi_attila

   ヴェルディ  歌劇「アッティラ」

 アッティラ:ルッジェーロ・ライモンディ  エツィオ:シェリル・ミルンズ
 フォレスト:カルロ・ベルゴンツィ      オダベッラ:クリスティーナ・ドイテコム
 ウルディーノ:リッカルド・カッシネッリ  レオーネ:ジュール・バスタン

   ランベルト・ガルデッリ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
                     アンブロジアン・シンガーズ
                     合唱指揮:ジョン・マッカーシー
                       
                      (1974.9 @ロンドン)


ヴェルディのオペラ第9作は、1846年32歳の作品「アッティラ」。

前作が「アルツィラ」で、混同してしまいそうですが、アルツィラがインカを物語の場にして、なんでやねん?的な荒唐無稽ぶりだったのに、半年後の本作は、舞台をイタリアに戻し、5世紀のフン族の襲来を物語にして、イタリア魂を鼓舞する内容となった。

ナポリとの契約によりアルツィラでは、当地の習慣や劇場のやり口が面白い物でなく、ヴェルディには後味が悪いものとなったが、今度はフィレンツェからの仕事。
ドイツのツァハリアス・ヴェルナーの戯曲「フン族の王アッティラ」という素材が大いに気に入ったヴェルディは、原作のドイツから見たイタリア侵略みたいな内容を、真逆にして、フン族を侵攻を受けるイタリアと反攻、というふうに愛国路線に変えて、ピアーヴェに、そののちに、愛国路線はお手の物のおなじみソレーラに台本作成依頼をした。

しかし、やっつけ的に仕上げられた台本が気にいらないヴェルディは、再びピアーヴェに以来。
ようやく思い通りに仕上がった台本に、いつものハイペースで作曲に取りかかったものの、リューマチによる痛みが激しく、仕事は思うようにはかどらない。
初演の予定を延ばしながら、3月に完成。
素材を大いに気に入って、大いに力を混入したこのオペラは、初日はごく普通の反応。
しかし、二日目には、聴衆の「イタリア、愛!」を大いに刺激して、爆発的な成功をおさめ、熱狂に包まれたとあります。

愛国路線は、これまで何作かあったけれど、なにが聴衆を熱くさせたか。

物語は、フン族の王アッティラがイタリアに圧倒的な武力で侵攻するが、イタリア側は、屈したと思わせながらも、殺された領主の娘がアッティラと結婚したと見せかけ、敵王を殺し、父の敵をとる・・・・というもの。

この中で、フン族側と交渉したローマの将軍が、アッティラに対し、「世界はお前が取ってもいいが、イタリアは自分に残せ」と持ちかける。
このアリアが直接的に聴衆の心に訴えかけたのであります。

このあとヴェルディは、医師の勧めもあり、しばしの活動休止をすることとなります。

音楽は、蛮族とも言われるフン族の気質も思わせる、なかなかに煽情的で激しいダイナミズムに満ちてます。
同時に、ヴェルディならではの、どこまでも伸びやかな歌、また歌。
澄んだ秋空を見ながら、次々にあらわれる美しいアリアを聴いていたら、心が晴れ晴れとしてきました。

物語の背景

ユーラシア遊牧民としてのフン族(モンゴル系との説も強い)は、4世紀半ばごろから、ヨーロッパへ移住し、強力な騎馬部隊を率いて略奪と侵略をしながら強大なフン帝国を築き、アッティラ王の治世に南下を極め、イタリアに侵攻した。
登場人物として、アッティラに殺された領主の娘がオダベッラ、その娘の恋人でイタリア反乱軍のフォレスト、ローマの将軍エツィオが主要な存在。

Raimondi


 5世紀中ごろイタリア アクイレイア

プロローグ

アクイレイアの街を占拠したアッティラに率いられた兵たちの勇壮な合唱。
オーディンの名をあげ略奪行為の気勢をあげる。
(オーディンとは、すなわち全能神・戦いの神ウォータン)
そこへ捕虜をして引かれた女性たち。部下のウルディーノが王への貢物というが、ひとり目立って荒々しいのがオダベッラ。
イタリアの女は祖国を守る、自分の武器を返して欲しいとし、アッティラは彼女を気にいって、自分の剣をとらせる。
オダベッラは密かに、父の敵打ちを誓う。
このときの、オダベッラの登場がすさまじい!2オクターヴに及ぶ声域を一気に上下しなくてはならない難曲中の難曲の歌なのだから!

そのあと、ローマの将軍エツィオが登場。彼は、アッティラに「世界はおまえのものに、イタリアを自分のものに残して欲しい、それであれば協力しようと持ちかける。
このときの、エツィオのバリトンの歌もなかなに聴きもの。
アッティラは、そうした卑劣な考えが気にくわない、裏切り者とののしり、むしろローマを壊滅させると言い放ち、エツィオも自分の隊に帰ると憤然として席をける。

嵐の夜、やがてそれも晴れてくる。(このあたりのヴェルディの筆の冴えは素晴らしい)
神への祈りの合唱。そこへ舟でフォレストが登場し、オダベッラを讃えて美しいアリアを歌い、やがて祖国の美しさを歌う愛国歌となり、合唱も唱和し大いに盛り上がる。

第1幕

第1場 アッティラの陣営近くの森

オダベッラが亡き父への思いと、恋人フォレストへの気持ちを歌いあげる。
そのあと、フォレストがやってくるが、最初は、オダベッラがアッティラのところにいるのが裏切り行為だとしてなじるが、彼女は、やがて復讐するためにこうしてそばにいるの、となだめ、やがて二人は許し合い、熱い二重唱となる。

第2場 アッティラの天幕

ある夜、アッティラのは夢にうなされる。ひとりの老人があらわれ、お前は神の国ローマへの入城は許されない、と宣言したのだ。
それでも、部下ウルディーノの慰めもあり、気を取り直して、ローマへの進軍の決心をするが、そこへ神への祈りの合唱が響いてくる。
外を行進するのは、白衣のローマ司教レオーネに率いられた行列。
その姿は夢にでてきた老人と同じ。
しかも、神の領域に入るべからずの言葉に、アッティラは戦慄を覚え、思わず神の前に跪く。
これを見た行列ないにいたオダベッラとフォレストは、いずれくる勝利を確信する。

第2幕

第1幕 エツィオの陣営


エツィオは、かつてのローマの繁栄と美しさに思いをはせ、目もさめるようなアリアを歌う。
この歌はともかく素晴らしい。当時の聴衆も酔いうっとりしたに違いない。
しかし、ローマ教皇サイドは、アッティラと休戦協定を結んでしまったとの報に憤然とする。

そこへ、フン族から、宴席への招待が舞い込む。
そこに姿を紛らわしていたフォレストがひとりのこり、宴の最中にアッティラを亡きものにしようという計画を持ちかけ、エツィオも喜んで賛同する。

第2場 アッティラの陣営

エツィオを含むローマの隊長たちも居並ぶ宴席では、ソロモン風の巫女の合唱や、アマゾネスの踊りなどで歓待している。
空の雲が怪しく赤くそまり、人々はアッティラに異国の人間たちと席をともにするのはいかがなものかと忠告するも、アッティラは介さない。
エツィオは、またしても一緒にくまないか、との持ちかけをするも、断るアッティラ。
 オダベッラに、アッティラの杯に毒を仕込んだことを打ち明けるフォレスト。

あくまで自分の手で仕留めたい気の強いオダベッラは、王に注進して、毒が仕込まれていることを話す。
驚きと感謝のアッティラのもとに、自分がやったと決然と申し出るフォレスト。
そのフォレストの処分を、自ら申し出るオダベッラに、アッティラは結婚を申しでる。
復讐を誓う、オダベッラ、フォレスト、エツィオの三者とアッティラと合唱による壮大アンサンブルは、興奮を呼び覚ます鮮やかなもの。

第3幕  アッティラの陣営近くの森

フォレストはウルディーノから、アッティラとオダベッラの結婚式の知らせを受ける。
今度こその裏切り行為に、憎むべき挙式、オダベッラと歌う。
そこへ、エツィオがやってきて、ローマ軍の反乱の準備は整ったと話す。
驚いたことに、オダベッラが抜け出してきて、フォレストにことのなりゆきを必死に弁明する。
さらにそこへ、当のアッティラが出てきて、そこに3人のイタリア人を認め、裏切り者と怒りまくる。
そこに響く、ローマ軍の挙兵の声。
不意をついて、オダベッラはアッティラを短剣で刺し貫き、父よ、今こそと叫び、驚いたアッティラは、オダベッラ、お前が・・・・と息たえる。

                     幕

あらすじ項目でも、ちょこちょこ書きましたが、このオペラでも、各場に登場人物それぞれ対等に、素晴らしいアリアが与えられ、耳のご馳走のようにして楽しませてくれます。

正直、オダベッラのものは、技巧に走り過ぎ、単調のそしりをまぬがれないが、目の覚めるようなバリトンのアリア(エツィオ)は素晴らしい。
それとテノールに与えられた歌も、甘いばかりでない、ヒロイックな雰囲気もそなわってきた。
ただ、肝心のアッティラの性格づけがあいまいで、夢と現実にさいなまされるという設定自体と、ローマへの強硬ぶりへの展開がよくわからない。
その不可思議ぶりも、このバスの主役の歌にもあらわれているようで、甘過ぎの歌は魅力なれど、強烈な個性が欲しいところだった。

それは、ライモンディの美声によるところのイメージにもよるとおも思います。
これはこれで立派な歌唱で、70年代は、このひととギャウロウをおいて、ヴェルディをこんなふうに歌える歌手はいなかった。
ミルンズの豊麗な声が大好きなわたくしですから、ここでの、「ローマよ」、と歌うミルンズの歌声にはしびれます。
ベルゴンツィの折り目正しい歌にも感銘を受けます。
もう90歳を越えてるだろうベルゴンツィ翁、いやな報がずっと参りませぬように!
 あと、当時の技巧派ドラマティコの第一人者ドイテコムの登場の場面のすさまじさ。
抒情的な面は不満なれど、真っすぐの直情的なまでの声はすばらしい。

誉めっぱなしだけど、最後は、初期から中期にかけて、模範的なまでのヴェルディ演奏を残してくれたガルデッリ。
ロンドンのオケから、鮮やかカンタービレを引き出してます。

初出当時から、ずっと聴きたかったアッティラのこのレコードはCDでも2枚組で、2時間に満たないコンパクトなオペラは、ちょい聴きするのにもちょうどいい。

ヴェルディは、休息のあと、いよいよ「マクベス」となり、中期作品の森へと踏み込むわけです。

懐かしいジャケットと、浅草、花やしきの加工前の画像を。

Attila

初出の「アッティラ」のジャケット。

ラファエッロの絵画から。

アッティラがローマ司教に出会い、慄くさま。

Hanayashiki_a

花やしき。

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ロマンティックチェロ 迫本章子チェロリサイタル

Sakomoto

コンサート開始前の厳かな佇まい。

チェロとピアノ、神奈川フィルのチェロ奏者、迫本章子さんと、神奈川フィルの前副指揮者、伊藤翔さんとのコンサートに行ってきました。

Sakomotoitou

 ロマンティックチェロ Vol 10.

 ボッケリーニ    チェロ・ソナタ イ長調

 ベートーヴェン   チェロ・ソナタ第3番 イ長調

 フォーレ       「 シチリアーノ」

 オッフェンバック  「海辺で夢見る人」

 ブルッフ       「コル・ニドライ」

 ポッパー       「タランテラ」

  〃          「セレナーデ」 ~ アンコール

 サン=サーンス   「白鳥」     ~    〃

         チェロ: 迫本 章子

         ピアノ: 伊藤 翔

                     (2013.10.12 @ラリール 文京区)


気ごころのしれたどうしの演奏者と、ソロや室内楽に最適の響きのいいホール。
そこに集まったのも、迫本さんの親しい方々と、神奈川フィルを通じておなじみの人びと。
家族的な雰囲気が醸し出された素敵なコンサートでした。

秋に聴くチェロの調べ。
ということとで、会場の下調べをしたら、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅を降りて、筑波大や区の施設のある公園を抜けていく行程。
ところがこのとんでもない暑さ。
ひと汗かきましたが、気持ちいい緑を見ながら到着した親密感溢れるホールと、暑さをねぎらう迫本さんのお言葉と、冒頭の爽やかなボッケリーニの音楽に、すぐさま気分はほぐれ、暑さも忘れ解放されました。

そのあとの本格的な音楽としてのベートーヴェン。
チェロもピアノも、やはり本日随一、音楽の強さ・太さ・内包力の豊かさなどをヒシヒシと感じます。
聴きなじんだ名曲ですが、最前列でチェロの松脂が飛ぶぐらい、ピアノのキーへの指タッチがカチカチと聴こえるくらい、そんなリアルな臨場感も存分に楽しめるなんて、お家でCDをい聴くのと大違いでした。
生真面目だけど、ベートーヴェンの大らかな一面もよく感じさせてくれた、そんな迫本さんのソロ。
音楽の力というか意欲が強過ぎて、疲れてしまう中期のベートーヴェンなのですが、3楽章冒頭の短い静かな序奏では、ほっと一息。
このあたりの機微がとてもよかったです。
伊藤さんのピアノも、サポート力抜群、導く指揮者としての立場から、しっかり支える。
お二人の意外なほどの力強いベートーヴェンでした。

後半は、バラエティ豊かな演目。
編曲ものでなく、今回は、すべてがチェロオリジナルの曲を選びました、とのお話もいただきました。
フォーレの「シチリアーノ」もチェロオリジナルとは知らなかった。
逆に、フルートで聴きなれてしまった耳には、まさに目からウロコの新鮮さでしたね。

フランス風の柔らかなな響きは、次のオッフェンバックの未知曲、「海辺で夢見る人」に引き継がれました。
迫本さんの解説では、チェロ奏者だったオッフェンバック(私もチェロ協奏曲をこのブログで取り上げました)のこの曲は、楽譜はあるけど音源もなく情報もない、邦題もご自身でこのような感じということで訳した、とのことでした。
じつは、この日一番のお気に入りの曲と演奏。
確かに、地中海を思わせるような明るさと、柔らかな寄せて帰る波を思わせるピアノの背景にのって、さながらオペラのアリアのように好ましく歌いあげるチェロは、その邦題にぴったりのものでした。
わたし好みの素敵な曲をご紹介いただきました。
オペラのひとふしを感じさせるオッフェンバックの音楽、とても気にいりました。

そのあとに、ドイツへ飛んで、後期ロマンティックなブルッフ。
オーケストラ盤は聴いていたが、ピアノ伴奏版はあまり聴いたことがなかったけれど、甘さも感じる大らかな歌は、ピアノ伴奏の方が、チェロの良さが引き立つ気がします。
ユダヤの聖歌が、ことのほか暖かく、旋律の魅力を引きな出すような美しい演奏でした。
ピアノの中間部のアルペッジョも煌めくように美しかった。

チェロ作品をたくさん残したポッパーさん。
暗譜で、それこそ音楽に没頭したかのように弾いてらした迫本さん。
タランテラの無窮動的、リズミカルな音楽をしっかりモノにされていて、会場はついにその華やかなチェロの爆発に、雰囲気は最高潮となり、掛け声も飛んでました。
聴くひとの心を押し上げ、気分を高めてしまう舞曲ならではの効能もたっぷりの演奏でした。

アンコールは、ちょっと哀愁を帯びた同じポッパーのセレナーデと、美演だった白鳥。

これだけバラエティ豊かなプログラムをまとめるのは、ソロもピアノも大変だと実感しました。
指揮者とオケの関係と、ソリストと判奏者の関係。
その両方をあれこれ思いながら聴いたコンサート。
そして、聴いてる私は、神奈川フィルを愛する応援団。

神奈川フィルをキーにして、こうしてコアたる楽員さんたちの演奏にも親しむ。
器楽・室内楽も合わせて楽しめることとなり、音楽を受容する幅も広がります。

迫本さんの女性的でありながら、思わぬ情熱とバリバリの技巧。
サポートに徹しつつも、リードもおこたらず、細やかなピアノの伊藤翔クン。

終演後、飲み物がふるまわれ、迷わず、さわやかな白ワインを頂戴しました。

演奏されたお二人にご挨拶して、緑の公園を抜けて気分よく駅まで歩きました。

楽しかった!

追)伊藤翔さん、お髭もたくわえて、たくましくシャープな雰囲気に変貌。
でも、お話すると、いつもの柔和な翔クンでした!
今後の活躍も、応援しますよ!

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2013年10月12日 (土)

ベルリオーズ 幻想交響曲 ムーティ指揮

Hamamatsucho201310

10月も10日が過ぎてしまい、いまごろに、小僧のお出まし。

今月は、港区の社会福祉協議会60周年の旗を背負っておりました。

旗にちょこっと見えるキャラクターが港社協のマスコット。

それをイメージしたものでしょうね、今月の小僧は。

東京タワーです!

Hamamatsucho201310_a

今日は、ほんとに暑かった。

夏の暑さとも違う、ちょっと付き合い憎い暑さ。

秋の暑さで、みなさん体調がイマイチではありませんか?

ワタクシもそのひとり。
どうも調子悪い。
ずっと眠いし。

Berlioz_muti

  ベルリオーズ 幻想交響曲

   リッカルド・ムーティ指揮 フィラデルフィア管弦楽団

                   (1984.11 @フィラデルフィア)


ベートーヴェンの第9(1824)と幻想(1830)の間には6年の年月があり、その6年に驚きもあり、またベートーヴェンの凄さも逆に感じもします。

第9のあとの「月イチ幻想」。

若獅子と呼ばれたムーティも、今年72歳。
ヴェルディ・イヤーに即して、今年、単身来日して日本人オーケストラを指揮します。
さらに、来年は、ローマ歌劇場を率いてやってきて、ナブッコとシモン(!)をやります。

いっときの体調不良は克服して、とても元気そうなムーティさん。

熱烈アバディアンであるワタクシは、レパートリーもポストもことごとくぶつかるムーティを快く思っていなかった時期があってあまり聴かなかった頃があります。

デビュー時は、それこそ、その若々しい颯爽とした指揮ぶりに惚れこみ、アバドとともに大好きな指揮者となりました。
ベームが抽選でハズれ、ムーティの日本デビューを真近で聴き、「アイーダ」のレコードも憑かれたように聴きまくった。

でも、アイーダのキャストは、その少し前、アバドがスカラ座とミュンヘンオリンピック上演したそのものだったし、そのあとの「仮面舞踏会」も、アバドがコヴェントガーデンで上演したそのもの。
なんだか、慎重なアバドに対し、次々と先に攻めてくるようなムーティ攻勢が面白くなくなった。
スカラ座就任もそう。
あと、録音レーベルの音のイマイチ感も不満だったし。
EMIとソニーの一部。でもフィリップスは最高だ。

そんなこんなの思いも、アバドが体調を壊したとき、ムーティがアバドを心から心配し、お互いが尊敬しあう関係が築かれ、本当に涙がでるほど嬉しかったものだ。
いまでは、昔のムーティさんの録音も含めて、いろいろと聴いてますよ。
特に、フィルハーモニアとフィラデルフィア時代のものをあらためて見直してます。

そんな中から、フィラデルフィアとの「幻想」を久しぶりに引っ張りだしてきました。

元気で劇的なムーティならではの幻想を期待すると、決してそうではない。
思いのほかゆったりめのテンポで、じっくりと歌わせるところをクローズアップしつつ、丹念に描いた幻想に思える。
もちろん、フォルテの部分は、屈強のメジャーオケゆえに強烈で爽快、金管のブリリアントな響きもさすがのフィラ管と思わせますし、3楽章における弦楽器の美しさも、ムーティの歌い心地のよさも相まって大変によろしい。
スコアに忠実に取り組み、よけいなデフォルメは一切なく、音楽の本質一本勝負といったところ。
それでも、終楽章のこの曲ならではの爆発ぶりには、心晴れるほどの爽快感を味わえます。

欲を言えば、40代に入ったばかりのムーティさん、もう少し踏み外して力みまくってもよかったんじゃない?
ライブだったらまた違ったかもしれないし、フィリップスとの録音でもまた違ったかも。

いまならシカゴとのライブが出てくるかもしれませんね。

アバドとともに、ムーティさんも、いつまでも元気で活躍して欲しいと願ってます!

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2013年10月10日 (木)

ヴェルディの誕生日

Yamanakako_4


今日、10月10日は、200年前、ジュゼッぺ・ヴェルディが生まれた日。

ブッセート近郊、レ・ロンコレ。

当時のイタリアは、フランスのナポレオンと、オーストリアとの間にゆれる分割国家でした。

同じ年に、アルプスの向こう側で生まれたのが、リヒャルト・ワーグナー。

イタリアとドイツ。

どちらも国を愛し、誇りと信念をもってオペラ作品を書き遺した。

音楽の性格こそ違えど、その思いは同じで、ワーグナーは思想において、ヴェルディはひとつひとつの音符、すなわち歌の力において、国への愛を語った。

わたくしのこのブログでは、次回はヴェルディは「アッティラ」、ワーグナーは「神々の黄昏」を予定しております。

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2013年10月 9日 (水)

ベートーヴェン 交響曲第9番 ウェルザー=メスト指揮

Yasukuni2013102

この一本の橋が渡り、向こう側に結ばれる麗しくも美しい庭園は、靖国神社の一番奥にある日本庭園であります。

清々しい、澄んだ雰囲気。

周辺国家はかまびすしいけれど、この静的な佇まいを乱そうとすることは別問題で、もっと違う場所で正々堂々と論じて欲しい。
 あれこれ言われるまえに、わたしたち日本人は、一番平和を愛し、秩序も保ち、周りを配慮して知的に存在してますからもうお構いなく。

そして、日本人ほど、ベートーヴェンの第9を愛している国民はおりません。
「歓喜」、喜びをことほぐ気持ちと、それへの感謝を、1年の結びと新年への橋渡しという意味合いに結び付けて、年末に第9を聴く。

12月の後半に、日本でいったい何回、第9演奏会があるのだろうか?
少なくとも60~70、いやそれ以上あるかもしれない。
節目として、あらたな気持ちを喚起する音楽として、これほど日本人に相応しい音楽はないです。

そしてベートーヴェンの最後の曲であり、偉大な交響曲のマイルストーンとして、その後も「9」という数字を乗り越えられなかった作曲家が何人もいることなども、「憂愁の美」的な観念として、われわれが最も好むものでもあります。

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  ベートーヴェン 交響曲第9番

    S:ミーシャ・ブルッガコーズマン  Ms:ケリー・オコナー
    T:フランク・ロパルド         Bs:ルネ・パペ

  フランツ・ウェルザー=メスト指揮 クリーヴランド管弦楽団
                       クリーヴランド合唱団

                (2007.1@セヴァランスホール クリーヴランド)


本格シーズンを前にしての第9。
なんだかとっても新鮮。

寒くもないし、イルミネーションもないし、だいいち、この秋は異常に暑いときた。
季節外れと思うことが、そもそも日本人的だ。

ただ単に、ベートーヴェンの交響曲第9番なのであり、ひとつの音楽として、構えることなく聴けばいいのだ。
どうしても、襟を正して、3つの15分もかかる楽章をキッチリと聴き、終楽章を折り目正しく迎えるの図になってしまう、この悲しいサガ。

そんな思いとは裏腹に、普通にひとつのコンサートとして、ベートーヴェンの交響曲のひとつを構えることなくサラリと演奏してしまったライブ録音が、このW=メスト盤。

アメリカの楽壇が、第9の位置づけをどのようにしているかは不明なれど、もしかしたら、この演奏の日付からして、1月のニューイヤー的なオメデタ音楽として捉えているかもしれないけれど、メストの指揮は、そんなことはお構いなく、サラサラとしてスムーズなものだ。

この指揮者は、リンツ出身のオーストリアの指揮者だけど、やはりドイツ人と違う。
同じオーストリアのインスブルック出身のスゥイトナーを現代的な感覚にしたような感じだと思ってます。
きびきびと小気味よく、重厚さとは無縁で、妙にあっさり、でも歌心満載・・・・みたいな。
一聴、無愛想だけど、オペラにおいては無類のバランス感覚とシャープさ、歌のツボをしっかり押さえて、完璧な存在感を示します。

 その音楽性において、ドイツ風のティーレマン、オーストリア風のW=メストということで双璧の独墺指揮者たちと思います。
さらに述べれば、ワーグナーはティーレマン、R・シュトラウスとモーツァルトはメストであります。

緻密なアンサンブルとヨーロピアンなサウンドのクリーヴランドとの相性抜群なメスト。
そのこともよくわかります。
このCDでも、分厚いアンサンブルとともに、ヴァイオリン群のきめ細やかさ、木管のウッディな響き、それとともシャープな金管とエッジの効いた低弦。
素晴らしいオケと実感します。
セル→ブーレーズ→マゼール→ドホナーニ→メスト。
そんな指揮者の系譜からして、このサウンドは育まれてきたものと実感できる、この第9のCD。
終楽章のコーダでは、スピード感あふれる現代的なテキパキ解釈によって、無類の盛り上がりを見せてくれます。
もちろん、3楽章の緩やかな歌や、スケルツォの軽やかさ、深刻ぶらない1楽章など、とてもナイスで、従来の「第9」にございます的な格調と重厚あふれる演奏とは、一味ふた味異なる演奏にございます。

歌手たちは、欧米の混合。でも妙にアメリカンしてる気がする。
メットもそうだけど、歌の世界は、アメリカのどこか開放的なヌケてる感がいつもある。
言語によるものだろうか?
わたくしにはよくわかりませんが、日本人がドイツ語を一生懸命歌う方が、よりドイツ的に感じたりもします・・・。

ウェルザー=メストとクリーヴランドの音源がもっと増えますこと、願ってます。

さて、今日、10月9日でもって、番号シリーズはお終い。
気がついてた方は気がついてらした。
そうでない方は、いまもってわからない。
不思議なシリーズは、「第9」でもって終わり。

9のあとは続けにくいし、特定の作曲家にぶれてしまう。
そして、これ以上続けて死にたくないから。

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2013年10月 8日 (火)

ショスタコーヴィチ 交響曲第8番 プレヴィン指揮

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この大きな鳥居は、靖国神社の第一鳥居で、高さは25mだそうです。

先日、市ヶ谷に用事がありまして、そのあと神保町に向かって靖国通りを歩きました。

なにかとよからぬことをする輩もいるものですから、警察の方々もそこここに。

それでも都会のど真ん中にある神社ですから、外国の観光客もそこそこいらっしゃいましたね。

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  ショスタコーヴィチ 交響曲第8番 ハ短調

   アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団

              (1992.10 @オール・セインツ教会、ロンドン)


交響曲でいう「第8番」は、ベートーヴェンが規模的には短め・軽めの作品を残し、第9との対比で交響曲史上稀にみる前例を残したが、それとは逆のパターンをやってしまったのがショスタコーヴィチ。

7番、8番と第二次世界大戦中の大作を書き、勝利に終わった戦後、だれしもが壮大な規模と感動をもたらす巨篇としての第9を期待していたところに発表されたのは、軽快で小ぶりな9番だった。
こうした軽い裏切りともとれる肩すかしを、ショスタコーヴィチは意図的にやるところがあって、それは、例の証言にもあるような隠された秘密などとは程遠い、悪戯のような、遊びの境地ではなかったのではと思ったりもします。

死人に口なし、早々に死んじゃったから真相はわからないけれど、ショスタコーヴィチの音楽はあれこれ詮索せずに、その音楽を純粋に聴き親しむの限ると思ってる。
もちろん、いろんなニュアンスが満載の多面的な顔を持ったその音楽だから、時には、時代背景や、当時のソ連のことなども考えて、想像をたくましくして聴くのもよし、です。

この8番は、67分という長さを持ってますが、全体の色調はともかく暗くて憂鬱。

過去記事から以下引用します。

>全5楽章、そのうちを、演奏時間で40%近くを第1楽章が占めるといういびつなバランス。
しかも、その1楽章は中間部に強烈なアレグロ部分を有するアダージョ楽章であって、その冒頭部分とともに第5交響曲を連想させる。
 この楽章は、今や聴き古して表層的に思えてきてしまった第5の1楽章と異なり、聴くほどに深く激しく孤高な音楽として迫ってくるものがある。

同じように深みある音楽が第4楽章のラルゴ。
パッサカリア形式の人類への葬送行進曲のような、何とも言えず内面的な音楽で、前楽章の大音響から休みなく始まり、皮相的な終楽章にそのまま連結している。

 リズミカルな動きが妙に楽しく、そして虚しくもあっけないスケルツォの第2楽章。
こちらもリズミカルだが、もっと強烈かつ行進曲的で激しい第3楽章。

先のラルゴをはさんで、妙に楽天的かつ捉えどころのない終楽章は、途中驚くべき悲劇への逆戻りのカタルシス大音響が待ち受けているものの、すぐさま妙な明るさを取り戻し、最後のピチカートを伴った消えゆくようなエンディングに収斂していく。

この満たされない終わり方。

ここに明るいきたるべき未来を見るか、戦争や悲劇はまだ続く、と見るか・・・・。
私には、どちらかわからない。<

なんだか今夜はよく眠れそうにないな・・・・。

だからムラヴィンスキーの演奏はまったくすごいし、コンドラシンもキッレキレだけど、わたしには、このプレヴィンやハイティンクの、ある意味優しい演奏の方が好きだな。
静かな場面に、プレヴィンのマイルドさがとてもよく出ているし、LSOの優秀さもばっちり受け取れる録音の良さも特筆もの。
EMI旧盤も最近復刻されたので、聴いてみたい。

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2013年10月 7日 (月)

「倉田寛 トロンボーン&テノールリサイタル」

Lilis

午後はご覧のように晴れ渡って、暑くなりました、今日、7日月曜日。

こちらは、横浜市栄区の栄区民文化センターです。

この中にあるコンサートホール「リリス」に行ってまいりました。

神奈川フィルの首席トロンボーン奏者の倉田さんのコンサート。

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     「カンツォーネ・ファンタジー」 岩田匤史 編曲

     シューベルト  「アヴェ・マリア」

     カッチーニ    「アヴェ・マリア」

     H・フィルモア  「シャウティン・リザ・トロンボーン」

     ショパン     「子犬のワルツ」 ~ ピアノ

     プライヤー    「愛の想い」

     プッチーニ   「トゥーランドット・ファンタジー」 大橋晃一 編曲

     武満 徹    「小さな空」 (武満SONGSより)

     バーンスタイン  「アメリカ」 (ウェストサイドストーリーより)

           トロンボーン、テノール:倉田 寛

                    ピアノ  :城 綾乃


                    (2013.10.7 @リリスホール、横浜)

倉田さんもユーモアたっぷりにお話されてましたが、平日の午後2時です。
嬉しい時間オーバーとなりましたが、1時間の午後のコンサートは、たくさんのお客さんで大盛況でした!

前から聴いてみたかった。
神奈川フィルの倉田さんの、トロンボーンとテノールの二役を。
いつもオーケストラでは、ブリリアントなトロンボーンを聴かせてくれる倉田さん。
先ごろも、佐村河内守の交響曲では、2楽章の素晴らしいコラールを響かせてくれました。

トロンボーンは、テノールやハイバリトンの音域で、オペラのオーケストラ編曲ものなのでは、よくソロ部分を担当したりします。
ブツ切れの音でなく、音をつなげてスライドできるから、人声による歌に近いこともできる。まさに「歌うトロンボーン」それを両面で完全実施しているのが、われらが神奈川フィルの倉田さんなのです。

歌好きのわたくしですから、まずは歌の方からまいりますと、倉田さんが歌ったのは、カンツォーネの中では、「オーソレミオ」「カタリ」「帰れソレントへ」「カッチーニのアヴェマリア」、「トゥーランドット~泣くなリュー、誰も寝てはならぬ」「小さな空」。
そう、見事なテノールなんです。
それも、イタリア系のリリック。突き抜けるような高域も、巧みに歌いこんでました。
クセのない、耳に馴染みのいい滑らかな声は、彼のトロンボーンの音色、そのものだと思います。
末尾に、youtube映像を見つけましたので貼り付けておきますが、そのときの声から3年。
ずっと練れてきて、歌い口も素敵なものなってました!

わたくしも、もうちょっと若い頃は、テノール音域が出ましたので、「オーソレミオオ」は勝手にレパートリーにしてまして、カラオケであれば歌ったりもしてましたが、そんなこと恥ずかしくなってしまう本日の倉田さんの本物の歌でした。

アンコールの「小さな空」は、ほろりとしてしまう歌、そして声を引き継いで吹かれたトロンボーンの優しい音色でした。
その本職のトロンボーンは、もういうことありませんね。
とおりのいい響きに、ニュアンスの豊かさと明快さ。
実に気持ちのいいトロンボーンです。
歌から楽器、楽器から歌と、その鮮やかな切り替えも見事なもんです。
素人には想像できない技ですな。

城さんの、キリリとしたピアノも素敵なものでした。

週の初めに、いい気分になるコンサートを聴かせていただきました。

2010年の演奏より。

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ドヴォルザーク スラヴ舞曲第7番 ノイマン指揮

Shibapark

芝公園の、文字通り芝とタワーの足元。

緑とタワーの赤のコントラストが美しく、緑多めで写してみました。

鳥たちも寛いでます。

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 ドヴォルザーク  スラヴ舞曲第7番ハ短調 op46

  ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

                    (1985.3 @プラハ)


ブラームスの勧めもあって、ドヴォルザークは、ピアノ連弾用のボヘミアの舞曲集を作曲することとなるが、それは同時に、ブラームスのハンガリー舞曲でひと儲けした楽譜商ジムロック社にとって、二匹目柳の下のドジョウなのでした。
 8曲の作品46のこちらのスラヴ舞曲集は大成功をえて、文字通りドヴォルザークの本格出世作となり、即座にオーケストレーションもされました。

8年後には、作品72の二番目の曲集も作曲され、全16曲のスラヴ舞曲は、ボヘミアの息吹きを感じさせるばかりでなく、スロヴァキア、ウクライナ、ポーランドなどのスラヴ諸国の民族音楽の集大成のような舞曲集となっております。

コンサートのアンコール曲でも、この曲集のなかの多くが定番となってます。

今日は、そのなかから、そこそこ取り上げられる7番を。
スコチナーという急速系のスロヴァキア(ボヘミア)由来の舞曲です。

オーボエの可愛らしい旋律にはじまり、そこにファゴットがからみ、やがてフルートへと。
木管が活躍する舞曲で、後半は金管や打楽器も音を増して盛り上がります。
こうした民族的な舞曲は、明るめな色調でありながら短調なところが、どこか哀愁を感じさせるところ。
これもいい曲です。

鉄板のノイマン&チェコフィルで!

動画は、サヴァリッシュとイスラエルフィルの2001年の映像がありました。
昨日の演芸系のシモノフの指揮ぶりと、まるきり違う余計なことはしないタイプの指揮ぶり。
この指揮姿を見て、われわれ日本人愛好家は育ちました。

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2013年10月 6日 (日)

ヴェルディ 「アルツィラ」 ルイージ指揮

Annuus

季節外れのひまわり。

それでも、もう涼しい9月最後の終末の早朝ですよ。

健気に1本、すくっと立つ「ひまわり」に、東京タワーの背景。

よくよく観察すると、ひまわりという花は実に精巧にできてます。

緻密さと大胆さを兼ね備えて、夏が終わっても立ちつくすこの姿。

わたくしも、見習わなくちゃ。

さて、しばらくお休みしてた、ヴェルディのオペラシリーズ行きます。

ブログ記事なしの作品としては、改作を除いてあと8作品。

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     ヴェルディ  歌劇「アルツィラ」

 アルヴァロ:スロボダン・スタンコヴィク グスマノ:パオロ・ガヴァネッリ
 オヴァンド:ヤーヴォ・レリジン      ザマロ:ラモン・ヴァルガス
 アタリバ:ウォルフガンク・バルタ     アルツィラ:マリーナ・メシェリアコワ
 ズーマ:ヤナ・リリエフ           オヴァンド:トリステン・ケルル

   ファヴィオ・ルイージ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団
                    ジュネーヴ大劇場合唱団
              (1999.6,7 @ヴィクトリアホール、ジュネーヴ)


ヴェルディ8作目のオペラは、「アルツィラ」。
現在、ほとんど上演されることもなく、音源として録音されたのも、ヴェルディのオペラ作品としては最後にあたり、1985年頃に発売されたガルデリッリ盤が初であったと記憶します。

スカラ座のために前作「ジョヴァンナ・ダルコ」を書いたヴェルディは、休む間もなく、以前より打診を受け条件交渉中だった、ナポリのサン・カルロ劇場との仕事に取り掛かる。
当時は国自体が統一前だったので異なるし、北に育ったヴェルディと南のナポリでは、その風習や慣習が異なり、かなり苦戦したらしい。

そのヴェルディに台本を提供したのは、カンマラーノという人物。
この人は、ナポリではすでに高名な台本作家で、ドニゼッティやメルカダンテらの大物に作品提供をしており、これまでヴェルディがつきあってきた作家からすると大物だった。
 その台本のベースは、ヴォルテールの戯曲「アルツィール」で、当時ではやや古びた物語との認識もあったし、台本の仕上がりにはヴェルディも完全な満足を得るものではなかったが、有力作家への遠慮とナポリという地への配慮などもあって、文句も付けることなく、毎度のように短期集中で猛然と仕事に取り掛かった。

しかし、ヴェルディは以前の超多忙のなか我慢してきた胃痛が悪化し、健康状態もすぐれず、さすがに、ナポリの劇場側に初演の延期を申し入れたりもしている。
 結局のところ、1845年8月、ナポリで初演され、またもや大成功を収め、そのときヴェルディは31歳でありました。
しかし、その後、各地の劇場での上演は思ったほどの成功は勝ち取れず、ヴェルディの作品への消極的な発言などもあって、以来、埋もれた存在となってしまった・・・・。

でも、こうして、初期作品を順に追って聴いてきて、それからこのあとの充実ぶりも思うにつけ、「アルツィラ」は、その流れのなかにしっかりとヴェルディの刻印を感じることができます。演奏と録音が良い、こうした優れたCDがあることも幸いです。
 全曲92分というコンパクトさ。一番短いかも。

舞台は、16世紀ペルー。
1533年にインカ帝国は、スペインによって征服され帝国としての国体は滅亡するわけですが、その後の、スペイン統治下の総督政府と抵抗インディゴたちの闘いを背景とする物語。
インカが舞台のオペラ、しかもそれがヴェルディって、誰もがびっくりですね。
当然に、被征服民であるインディゴたちは、ヴェルディ当時、オーストリア統治下にあったイタリア人たちを意味するわけです。
愛国者ヴェルディは、ただじゃ起きません。

序曲

プロローグ リマ川のほとり

オヴァントを始めとするインディオたちが、征服者であるスペインの総督アルヴァーロを捕え、いままさに亡きものにしようとするところへ、若い酋長ザマロが登場。
死んだと思っていたザマロの登場に一同驚く。
彼は、祖国インカを歌い、恋人アルツィラに対する思いも歌う。
ザマロは、アルヴァーロをもらいうけると言い、一同もそれには異論なし。
彼はアルヴァーロを放免し、見方がわに帰ったら、未開の野蛮人たちに命を救われたと報じるのだ、と約束させる。
 その後、アルツィラとその父アタリバが、スペイン側の捕虜になっていることを聞き、その救出に向かうのだと血気盛んに歌う。

第1幕 リマの街

第1場
 帰りついたアルヴァーロは、総督の地位を息子グスマノに譲ることとする。
そのグスマノは、捕虜のアルツィラを愛していて、彼女と結婚して、スペインとインカとの和平を図ろうとも思っているが、一方でアルツィラが恋人を忘れられず悲しい思いでいることも知っている。

第2場 アルツィラの部屋
 待女たちが、眠るアルツィラを起こさないように静かに歌っている。
やがて、まどろみながらも目を覚ますアルツィラは、夢の中でザマロに会ったことを歌い、待女たちは、もう死んだのだから諦めればいいと言う。
でも彼女は頑なに、ザマロを思い、星になっても愛していると歌う。
そこへ父が入ってきて、同じように結婚を勧めて諭す。
 ひとりになったアルツィラのもとに、ザマロが忍んでくる。
驚くアルツィラ。ふたりは再会を喜び二重唱を歌う。
ところが今度は、グスマノが登場し、抱き合う二人を発見して逆上。
やがて、両方の父も参加して、許さんぞと不穏な雰囲気に。
しかし、グスマノは父を助けられたことも脳裏にはあり悩む。
折から、インディゴの蜂起も伝えられ、グスマノはついに、ザマロを解放することとし、戦場で会おうということになる。

第2幕

 
 
第1場 リマの城壁内
 勝利に湧き、酒を酌み交わすスペイン兵。インディゴ決起は失敗に終わった。
城内では、グスマノがアルツィラに迫っている。
ザマロの運命を変えられるのはあなただ。
結婚をしてくれれば、彼は安全にこの国を出ていける。
そうでない場合は、ヤツは死ぬのだ、と。
やむなく、承諾するアルツィラ,喜ぶグスマノ。

第2場 荒涼とした郊外の洞窟
 ザマロは、スペイン兵の格好を強いられていて、それが嫌でみじめ。
そんな気持ちを歌う。
オヴァンドは、むくわれない愛を忘れて、インカを出たらどうかと言うが、ザマロは乗る気でない。
あの飾りや街の明るさは、今日、グスマノとアルツィラが結婚するのだ。
それを聞いたザマロは、怒りに震え、裏切りだ、涙を血に変えてやる、招かれざる客として乗り込んで復讐してやると意気込み、誰にも来ないように言いつけ、走り去る。

第3場 総督の邸宅
 グスマノはずっと喜びっぱなしで、そこそこ美しいアリアなどを歌うが、アルツィラは心折れ、しょげかえっている。
さぁ、手を貸しなさいというグスマノ。ところがそこには、突然現れたザマロ。
短刀で一突き。
驚愕のホール。瀕死のグスマノは、息も絶え絶えに、ザマロを許し、ふたりは手を取り合い結ばれるがよい、と祝福を与える。
人々は大いに感動し、彼をたたえる。
当のふたりも、なんというお言葉、なんというお方・・・と感謝。
グスマノは、老父の腕の中で静かに息を引き取る。

              幕

どうでしょうか、この急転直下の結末と、あまりの大はしょり。
なにもインカじゃなくてもいいんじゃないの?

許し、許され、怒り、また許し、汚い手口を使い、また怒り、殺して、許し、許される。
登場人物たちに、一環した思想や信念はない。
死に瀕し、急に寛容の善人となるグスマノの唐突さ。
ザマロもなんだかよくわからない人。
ただ、ヒロインのアルツィラだけは、愛に生きる一環した思いを貫いてる。

アイーダっぽく、トスカみたいな感じ。

陳腐な筋立てに、ヴェルディの霊感も不完全燃焼か。
今回発見のオモシロ・イタリア語は、2幕冒頭のスペイン兵の元気な合唱。
「メシ、メシ」と歌っております。
「Mesci, Mesci !」景気づけの掛け声でしょうか。
よほど腹減ってんですね。

でも各場に配されたアリアの数々は極めて美しく、毎度ながら聴き惚れます。
1幕最後の大アンサンブルにも興奮させられたし、その前のアルツィラの夢の音楽は、さざなみのような弦がとても素敵で、後年の「シモン」を思い起こしました。

歌手たちのなかでは、ヴァルガスのザマロの耳洗われるような歌声が爽快かつ完璧な歌唱。
ロシアのメシェリアコワは、思ったほどクセがなくて、すっきりとした歌唱でまずます。
ほかのオジサンたちは、わたしには声揺れがあったり、威圧的だったりと、ちょっといまひとつに思いました。

ルイージのジュネーヴ時代の録音なので、オケはスイス・ロマンド。
このオケのヴェルディが、音源としては珍しい。
ルイージのリズム感の良さと、大いなる歌心、知的なまとめ口など、生来のオペラ指揮者と感じます。

あと7作。ヴェルディ全曲聴き。
 

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ブラームス ハンガリー舞曲第6番 アバド指揮

Kappabashi

秋の食品サンプル。

さんまに、おでん、おいしそう。

浅草合羽橋から。

今日はかつてないほどにショート記事。

Brahms_abbado

   ブラームス ハンガリー舞曲第6番 ニ長調

    クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                         (1982.4 @ウィーン)


ハンガリー舞曲は、ブラームスのオリジナルもあるが、大半はジプシーの民族音楽から素材を得ての編曲で、全部で21曲。

これを一度に聴くと、正直飽きてしまいます。
その時の気分によって、つまみ聴きするか、BGMみたいにして流し聴きするのがいいかも。
そして、それぞれの短さと盛り上がりの効果から、コンサートのアンコールピースとして定番の曲もいくつかあります。
この点も、ブラームスがアドヴァイスしたという、ドヴォルザークのスラヴ舞曲と兄弟のような関係にあります。

今日は、だいたい3分くらいの「第6番」。
明るい色調で、ゆったりと始まりながら、何度か同じフレーズを繰り返すうちに、テンポを上げてゆき、だんだんと熱狂的になってまいります。
中間部の哀感を伴った様相もどこか熱を帯びていて、そしてまた冒頭に戻って、快速運転に切り替わり、ジャンジャンと終了!

アバドの全曲録音は、ウィーンフィルならではの明るい音色も魅力的で、リズム感豊かに、早いテンポで演奏しきったスマートなハンガリー舞曲です。
日本でのアンコールは、1番が多かったかな、アバドは。
いつまでも若く元気で!

動画をひとつ貼っておきます。

これは、ユーリ・シモノフとモスクワフィルのユニークなロシアン的演奏。
お茶やコーヒーを吹き出さないようにご注意!
オモシロ指揮者シモノフの面目躍如(笑)

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2013年10月 5日 (土)

チャイコフスキー 交響曲第5番 ベルティーニ指揮

Tokyotower_201309

宵闇の東京タワー。

朝も夜もロマンティックな東京のこのシンボルは、永遠に不滅ですっ。

きたるオリンピックのときにも健在で、かつスカイツリーとともに、東京のシンボルであり続けることでしょう。

わたくしも同期として、生涯2度目の国内オリンピック、そして冬も合わせたら4度目のオリンピックを実感したいぞ!

そして、これまで人生で何度聴いてきたでしょう。

ほんとに好きだわ、この曲。

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  チャイコフスキー 交響曲第5番

    ガリ・ベルティーニ指揮 バンベルク交響楽団

                     (1980 @バンベルク)


チャイコフスキーの5番を初めて聴いたのはいつだったか?

たぶん、小学5年生のとき。
伯父や従兄に感化され、もうクラシックにはまっていたとき。
大木正興さんの司会のN響アワーで、たしか岩城宏之さんの指揮で聴いたもの。
案の定、終楽章では途中で拍手がおきてた。
そして興奮しました。

でもって、買ったレコードが、カラヤンの60年代DG盤。
これを擦り減るほどに聴いて、虜になっていきました。
以来、たくさんたくさん聴いてきました。

どんな演奏でも、みんなそれぞれに特徴を見出すことができるし、何といっても曲がいいから、嫌いな演奏なんてありません。

そんな中でも、今日は、美しい佇まいでは群を抜いているベルティーニ盤を。

この音盤はだいぶ前に手にいれたもので、録音はちゃんとしたデジタル音源のスタジオ収録です。
1980年ころは、まだベルティーニはさほどの録音成果がなく、ウェーバーのオペラぐらいしかなかったかも。
そんなベルティーニを強く意識したのは、NHKFMで放送されたベルリンフィルを振ったマーラーの7番。
86年ぐらいだったかも。
マーラーに明け暮れていた、自分の中での第2次マーラー・ブーム。
ともかく怪しくも美的な演奏に感じ、ベルリンフィルの巧さも実感できた。
 そして同時期に、初めて日本に単身やってきて都響とマーラーを演奏した。
10余年後に都響の指揮者になるなんて思いもよらない。
1番・5番・9番を演奏し、そのすべてを聴きました。
以来、ベルティーニのマーラーは、アバドやレヴァインのあとの、緻密かつ美音の集積としてのクリムト的な金色のマーラーに感じるようになりました。
ケルン放送との演奏も素晴らしくきれいだった。
いまでも好きです。

こちらのチャイコフスキーでも、細かなところまでよくよく配慮され、微妙にテンポを動かしながら美しさの限りを尽くしたような演奏を行ってます。
約45分。ゆったりめのテンポをとるベルティーニは、この曲でもゆったりめです。
チャイコフスキーの音楽が、もともとは緻密に書かれている、そんなことが実によくわかる精密な演奏でもあります。
それが無機的にならずに、音楽が生きづいているところがベルティーニの美点で、分析的な印象を与えずに、音楽の豊かさが先行するのです。
そして、こんなに美しくもかっこいい終楽章コーダの演奏はありません。

ドイツ風な古雅なオケ、バンベルクを指揮しながら、このような明晰さを貫いたベルティーニは、この頃からすごい指揮者だったのですね。
77歳という、いまにしては早過ぎる死が、とても残念です。
バンベルクのオケは、H・シュタインと60年代終わりにもこの曲を録音してまして、絶対に聴いてみたい音源のひとつとなってます。

久しぶりに、ベルティーニのマーラーでも聴いてみたくなりました。

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2013年10月 4日 (金)

バッハ ブランデンブルク協奏曲第4番 アバド指揮


Benihana


ベニバナ(紅花)のドライフラワーです。

山形県の県花として、あちらでは油や食用にと多く使われてます。

濃い黄色からオレンジの色は、とても秋の色合いでございました。

レストラン紅花もござますが、こちらは、東京駅グランルーフにオープンした山形蕎麦とお酒の店の店頭にあったオープン記念の花々のひとつです。
 このお隣には、山形交響楽団音楽監督飯森範親より、というきれいな花も飾られてましたよ。

Brandenburug_abbado_scala

  バッハ  ブランデンブルク協奏曲第4番 

     クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団

                      (1975、76 11、5 @ミラノ)


6曲のブランデンブルク。
最初は5番がお気に入り。華やかだし、バロック風だし、チェンバロの活躍も素敵だし。
3番とか6番の渋いところも好きになっていった。
次は、2番のキンキンのトランペットの世界も悪くないと思うようになったし、そこにリコーダー(フルート)やオーボエが組み合わせられるとこがスゴイと思った。
で、一番かわいらしい4番は、実はこっそりと常に好きだった。
そして、いまだによくわからないのは規模の大きい1番。

ブランデンブルク協奏曲は、かつてはオーケストラ・レパートリーとしてよくのっていて、コンサートオケが演る際は、通常楽器で代用するのでリコーダーはフルートで演奏された。
かつての多くの録音がそういうことになっていた。

かねてより聴いてきたアバドの第一回目の録音もまさにそうで、コンサートスタイルとしてのブランデンブルクで、4番や2番では、フルートが演奏してます。

アバドとスカラ座の蜜月の時代。
この録音のころ、いまや伝説的な名演の「マクベス」と「シモン・ボッカネグラ」が録音された。
座付きオーケストラのコンサート活動は、どこでも珍しくはないけれど、オペラの殿堂スカラ座のバッハというのは録音上、今もって希少なものです。
当時、古楽奏法は今のようには確立されていなくて、古楽器合奏団はあっても先鋭さというよりは緩やかな古雅な雰囲気が先立つものでした。
当然に、このアバド盤は現代楽器による通常奏法で、フォルムの美しさと歌心に満ちたおーソドックな解釈です。
こうした演奏に、懐かしさを感じてしまうのは、嬉しいことでしょうか、悲しいことでしょうか。

それだけ、いまのわれわれの耳が異なる演奏・奏法にすっかり馴染んだということでしょう。

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 バッハ  ブランデンブルク協奏曲第4番 

      リコーダー:ニコラ・ペトリ、ニコラーイ・タラソフ

      ヴァイオリン:ジュリアーノ・カルミニョーラ

     クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

              (2007.4  @ヴァーリ市立劇場、レッジョ・エミリア)


こちらは、前回ミラノ盤より30年が経過したアバドのライブ演奏。

ふくよかなお顔は、すっかりシャープになり、病で全身がシェイプされたので、小柄で、その指揮姿はむしろキビキビしたものに拝見します。

今年の来日は延期(と思いたい)になってしまったけれど、この演奏は、前回来日のあの2006年の翌年のもの。

指揮棒を持たず、楽員さんと同じ平土間で、最小限の動きでキューだしぐらいしかしてない。
アバドももう、そこにいるだけで・・・・的なオーラを発する超存在になっていることを痛感します。
とりたてて何もしていないように見えるけど、演奏者ひとりひとりと目を合わせ、心を通わせて、音楽だけに打ち込んでいるのが映像と出てくる音楽でよくわかる。

到達した領域は高みすぎて、凡人の及ばぬところですが、アバドはどこまでも謙虚で、微笑みを忘れません。
華やかな2番で終わる、このコンサートの拍手喝采は、常に楽員さんたちと同じ位置か、むしろそれより一歩後ろ。
どこにいるかわからないくらいの立ち位置なのです。

Abbado_bach

そしてここでのバッハの演奏の響きに、いまのわたくしの耳は、これこそ馴染みます。
旧来の演奏の粋にいまや留まったスカラ座盤に比して、こちらの若い楽団とキラ星のごとくのアバド仲間の名手たちの新盤は、いまこの時代に普通に違和感なく聴かれる普遍的な古楽演奏様式なのです。
行きすぎた先鋭さもないし、鈍長さもない、リズムに敏感で歌う気持ちも満載。
誰にも納得できる、「今」が行き着いた普通のバッハ演奏だと思います。
ともかく、音楽の活きの良さと、気持ちの充分入った若々しい表現もまたアバドならではです。

少女のようだった、ニコラ・ペトリさまが、アバドと共演して落ち着いたリコーダーを聴かせてくれちゃう。
ペトリちゃんが、デビューのころの35年くらい前には、こんな構図、夢にも思わなかった。

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2013年10月 3日 (木)

ショパン バラード第3番 ポリーニ

Higanbana

毎年、9月の半ばには必ずあらわれる彼岸花。

そして必ず群生してます。

川の土手や、田畑の畦に集まるこの赤い花は、日本の初秋の風景のひとこまです。

またの名を「曼珠沙華」。

以前にも書いてますが、ユリ科なので地中に球根状で繁殖しますが、それが少しの有毒性があり、それがわかっていた日本人は、お墓や田畑が地中動物たちに荒らされないように、地境にこれを植えたとあります。

そんな過去を知ると、この禍々しい姿と赤が妙に怪しく見えてくるんです。

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   ショパン  バラード第3番 変イ長調 op47

        Pf:マウリツィオ・ポリーニ

                (1999.4 @ヘラクレスザール、ミュンヘン)


ショパン、なぜにあなたは、ショパンで、ショピンでないの?

Choinをショパンと読んで、Chopanでない件。

フランス語なのか、ポーリッシュなのか?

それはともかく、なんだかなんだでショパンは大好きですよ。

ロマン派の時代、ベートーヴェンより40歳若いだけ(1810~1849)。

外観上の形式はきっちりと守られているけれど、こんなにフリーダムに内面を綴った作曲家という意味で後年のマーラーみたい。

4曲からなるバラードは、同じく4曲からなるスケルツォとともに、ショパンの音楽の骨格をなす作品群だと思います。
それぞれに、作曲時期は異なりますが、スケルツォはベートーヴェン以来あった、ある意味伝統的な形式。
でもバラードという形式は歌曲の分野以外は、具体的にはほかにないのでは。
そしてショパンはこのバラードに自由な楽想をそれぞれに封じこめました。
4つとも全部違う。
そして、物語を語るうえで3拍子というのは必定で、4曲ともに3拍子。
それぞれに、物語的な背景を持っていて、無題ながら標題音楽という隠れた側面もあり。
それらを踏まえて聴く、ショパンの技巧性に富み、抒情と激情があいまみえる音楽に、ピアノの枠を超えたオペラティックな世界に通じるものを、わたくしは感じるのでありました。

今宵は3番変イ長調を。

1841年31歳の作。ポーランドの詩人ミツキエヴィチの詩「水の精」によるもの。

「美しい少女に恋した騎士。でも心変わりをしてしまい、あるとき湖の底に飲まれる」

水の精に恋した騎士の物語。

ショパンの抒情的な、そしてバルカローレ(舟歌)のようなリズムが心地よく、哀しくも美しい音楽です。

ときおり唸るようにして歌いまくるポリーニのショパンは、きっちりと完璧な一方で、歌謡性が高く、わたくしには絶品という言葉しか浮かびません。

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2013年10月 2日 (水)

リスト ピアノ協奏曲第2番 ベルマン

Zoujyouji

芝増上寺を大門方面から。

東京タワーは近づくにつれ、先の方しか見えなくなります。

早朝の図は、これまた荘重なのでありました。

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  リスト  ピアノ協奏曲第2番 イ長調

      Pf:ラザール・ベルマン

   カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ウィーン交響楽団

                   (1976.6 @ウィーン)


リスト(1811~1886)は、ハンガリー生まれ、ドイツ・オーストリアに活躍した人でしたが、その生涯の詳細を細かに知る人はあまりいないのではないでしょうか。
わたくしも、そのひとりでありますが、わたくしの場合、リヒャルト・ワーグナーとの関連性においてリストを捉えることが多いので、ますます、作曲家としてのその存在をあまり知らないということになるんです。

肖像や写真を見ると、痩せていてスマートでお洒落な紳士。
神経質そうで、どこか近寄りがたいオーラを放っている。
でもビジュアル的には、とてもイイ男で、ちんちくりんのワーグナーとは全然違う。
そのワーグナーとは、娘コジマの強引な再婚相手であり、義理の父であるとともに、ワーグナーの最大の理解者。
ワーグナーより2年早く生まれた義父リストは、婿より3年長生きする。
年上で長生きもしたうえに、むしろ名声をどんどん高めていったワーグナーと親子関係にあったリストは、その個性的で超絶的な技巧をようするピアノ作品の数々の生みの親であるとともに、ワーグナー作品が生まれたバックボーンを支えた偉大な功績者なのであります。
具体的に、ローエングリンの初演を受け持ち、リングも相談にのり、なによりも娘コジマの親として。

交響詩というスタイルを編み出したのもリストの大いなる功績ですが、ふたつあるピアノ協奏曲も、従来の協奏曲の枠にとらわれない独創的な、いわば交響詩的な作品であります。

切れ目なく単一楽章として演奏されますが、こまかくは6つの部分に分かれてます。
極めてロマンティックで、感傷に濡れそぼったような場面も続出しますが、1番のような明確さと外へ向かう外向的なエネルギーには不足します。
しかし、ロマン派が円熟し、幻想味満点の内省と華やかさの入り混じる曲調は、聴けば聴くほどに魅力的です。
22分ほどの曲ですが、1番とともに、聴くときの気分によっては、それ以上にロマンティックな思いに浸らせてくれる音楽です。

1930年ロシア生まれ、76年当時、忽然と姿をあらわし、幻級のピアニストと称されたラザール・ベルマンの演奏でこそ、前世期をも感じさせもするグランドなピアノ。
ベルマンより年上だけど、ヨーロッパの伝統を頑固に身に付けたジュリーニとの共演。
当時の手兵ウィーン響が、ベルマンの復古調のピアノに併せて、録音のせいか丸みをおびて、マイルドでいにしえのサウンドに聴こえる。
ロンドンのオケでやったらもっとバリッとした音になったかもしれない。
でも、この時代のジュリーニのウィーンとシカゴでの活躍は目覚ましいものだった。

ベートーヴェンからリスト、ピアノの世界でも、そんなに遠くないような気がしますし、ある意味、どちらも幻想的なシンフォニストだったと思います。

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2013年10月 1日 (火)

ベートーヴェン 交響曲第1番 マリナー指揮

Grandroof_1

東京駅にオープンした新しい施設、グランルーフ。

八重洲口のふたつのビル、ノースタワーとサウスタワーをベデストリアンデッキで結び、テント状のルーフを設置。
地下から3階までの細長い商業施設だど、このデッキのある2階はモバイルショップのみで、主に通路としての実用と緑も配置した癒しっぽいスペース。
地下が各地から集まった飲食店で、そちらがメインかも。

このミストも舞う緑化壁面はなかなか気持ちいいものです。
ただ、そこに配置された透明なアクリルの椅子は雨が降るとびしょぬれに。

Grandroof_2

左手が八重洲側、右手のビルは線路を挟んで丸ビルです。

子供のときから、東京駅が起点だったし、いまもそうだけど、ここ数年でどんだけ進化したろうか。
そしてまだ進行中なところがすごいものだ。

そして、なんでも新しいものは新鮮でいいのだ。

Beethoven_sym12_marriner

 ベートーヴェン  交響曲第1番 ハ長調 op21

  サー・ネヴィル・マリナー指揮
        アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

                        (1970.9 @ロンドン)


10月1日、秋の本格的な音楽シーズンの開始にも相応しいベートーヴェンの1番。

このところ、コテコテの重厚長大系に染まっていたので、これはまたなんと爽快で軽やかな音楽に聴こえることでしょうか。

この第1交響曲が作曲されたのは1800年、ベートーヴェンが29~30歳のとき。
先週まで、聴いてきたR・シュトラウスやストラヴィンスキーのほぼ100年前ということになります。
この100年の隔たりを長いと聴くか、短いと聴くか。
わたしには、ベートーヴェンゆえに、それは短いと感じます。
ベートーヴェンからほんの少し遡って、この第1交響曲が範としたハイドンとその100年の経過は、それは極めて大きいと思えます。
それだけ、ロマン派の端を発したベートーヴェンの革新性は大きく、この1番においても古典的な佇まいは掲げつつも、ロマンの香りも漂っているし、メヌエットの3拍子はスケルツォのそれに近かったりします。

9曲の交響曲の中では、いちばんコンパクトでこじんまりと地味なものだから、コンサートでも前半にちょろちょろとやって、後半のメインの刺身のツマみたいになっちゃって、その日のメイン曲が終了すると印象が薄くなっちゃう。
そんな可哀そうな1番。
だけど、完全調和のハ長調は、曇りも陰りもなく、このジャケットにあるベートーヴェンの不機嫌な皺もありませぬ。

ところが、そんな物静かに微笑む1番を、演奏会のトリに持ってきて堂々たる交響曲に仕立てあげた演奏をわたくしたちは聴いております。
6年前の神奈川県立音楽堂における、H・M・シュナイト指揮する神奈川フィルの堂々たる、でも明るい演奏である。
ブリテンのシンプルシンフォニー、ストラヴィンスキーのプルチネルラ、そしてベートーヴェンと、まるでクラシック音楽の150年を俯瞰し、この1番を大トリにもってきて、これがザ・ベートーヴェンだとばかりに聴かせてくれた。

もうあんな演奏を出来る人とコンビは、世界のどこにもない、絶滅危惧種級のものでありました。

でも、今宵のサー・ネヴィル・マリナーの演奏はドイツの伝統云々とはまた別次元にあって、ベートーヴェンのやる気満々の心意気と早春賦をも易々と導きだした気分よろしき桂演なのでありました。
マリナーの指揮キャリア初期の1970年、デッカに「四季」や「水上の音楽」を録音して、ヒットを飛ばしていた頃の「さわやかマリナー」そのものであります。

軽めのオケ、あっさりぎみの味付けも疲れた頭と耳に心地いい。

フィリップスへのベートーヴェン・シリーズはこの後10年以上かかって完結しますが、後年のものほど構えが大きくなり、オーケストラの響きも多様化していきます。
そんなマリナーのベートーヴェンが、わたくしは大好きであります。

過去記事

「シュナイト指揮 神奈川フィルハーモニー演奏会」

「マリナー&アカデミー ベートーヴェン 第9」

「マリナー&アカデミー ベートーヴェン エロイカ」

「マリナー&アカデミー ベートーヴェン 田園」

「マリナー&NHK    ベートーヴェン 第7」

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