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2013年12月

2013年12月31日 (火)

R・シュトラウス 「4つの最後の歌」 ローテンベルガー

Minatomirai20131224

今年も、大晦日を迎えることになりました。

と思って、去年の記事みたら、おんなじ出だしだった。

でもほかに書きようがない今日。

今年も、ほぼ毎日、たくさん音楽を聴きました。

何度も書きますが、ワーグナー、ヴェルディ、ブリテンのアニヴァーサーリーだったから、大忙し。
かなりの分量を占めてます。

それから、佐村河内守さんのコンサートに2度行けました。
CDで聴くのと、全然違う空気感と、聴者全体の一体感。
素晴らしい体験でした。
しかし、台風のおかげで、ピアノソナタの初演には立ち会うことができませんでした。
そのCDは、ただいま格闘中で、近く記事にできると思います。

そして、なんといっても、今年一番の喜びは、神奈川フィルの新公益法人化が決定したこと。
オーケストラと楽団のみなさま、関係者のご努力の賜物ですし、われわれリスナーの熱い思いも後押ししての成果だったと思います。
ともかく、うれしー。
加えて、神奈川フィル監修の本も発刊。
ちょっとだけ、お手伝いできたことも、今年の喜びのひとつとなりました。

というわけで、来年も、神奈川フィルを思いきり楽しめそうで、なによりなのです。

Strauss_vier_letzte_lieder

   R・シュトラウス  「最後の4つの歌」

        S:アンネリーゼ・ローテンベルガー

      アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団

            (1974.12 @アビーロード・スタジオ、ロンドン)


毎年、この日に聴くことにしてます。

シュトラウス、絶美の音楽。

1864年生まれ、1949年没。
来年、生誕150年、没後65年のシュトラウス。

死の前年、1948年、人生のすべてを達観し、作曲された、黄昏に満ちた素晴らしい4つのオーケストラつきの歌曲。

ヘッセの詩による「春」、「9月」、「眠りにつくとき」、アイフェンドルフの詩による「夕映えに」。

85歳のシュトラウス、達観したとはいえ、まだまだ若々しく、朗らかな心情を失ってなかったから、これで最後とは思ってはいなかったのですが、ミューザを司る神は、もうシュトラウスに、最後のオペラを作る余力を残さなかったので、いくつかの歌曲を除けば、この曲集が事実上、シュトラウスのまとまった最終作といえます。

ともかく美しい。

数日前に、ブリテンのオペラでも触れましたが、人間は、美しい物を常に求め、心に留めておきます。
音楽における、「美」という言葉があれば、きっと、シュトラウスの「最後の4つの歌」こそ、相応しいものと思えます。
 それが、シュトラウスの場合、人によっては、人工的な美と捉えられても、わたくしはいっこうに構わないのです。
ともかく美しいものは、美しい。

これまで、幾種類の演奏をライブも含めて聴いてきたことでしょうか。

初めて、この曲を聴いて、知ったのは、75年のウィーン音楽祭のライブ。
エリザベス・ハーウッドのソプラノ、シュタインとウィーン交響楽団のFMライブでした。
もう亡くなってしまた英国の名歌手は、カラヤンのボエームのムゼッタでデビューした美声の持ち主でした。
ウィーンのオケの、独特の管楽器の音色も、この曲にぴったりで、カセットテープに残して聴きまくりました。

そして、近時では、松田奈緒美さんの歌、シュナイト&神奈川フィルの超絶的な名演奏。
言葉を失うほどの美しさと、襟を正したくなるほどの厳しい音の選び方。
美の裏腹にあった、極度の緊張感が、快感を呼ぶ、素晴らしい演奏でした。

前置きが長くなりましたが、今年の「最後の4つの歌」は、ドイツの名花、アンネリーゼ・ローテンベルガーとアンドレ・プレヴィンの共演盤。

高校の時に発売されたものの、すぐに廃盤になって久しかったもので、ずっと探していたし、待ちわびていた1枚。
精度高い完璧な歌唱や、オーケストラを聴きなれた、いまの耳からすると、ややぬるく感じるし、ローテンベルガーの声にも陰りがうかがえる。

少しあとの、ルチア・ポップと同様に、誰にも愛されるチャーミングな声と、その愛らしい人柄が偲ばれるローテンベルガーの歌声は、それでも、さすがに往年の美しい高音を聴かせてくれます。
もともと低い方は苦しかったけれど、ドイツ語の美感を感じさせる、とても味わいに富んだ歌いぶりは、聴いていて涙が出そうになりました。

プレヴィンの指揮も、美に奉仕してます。
ソフィスティケイトされすぎなところも、このころの、ロンドン響とのコンビならでは。

何度聴いても、いつ聴いても、「夕映えに」の最後の場面は涙がでます。
赤く染まった夕空が、藍色に変わりつつあり、そこに鳥がかなたに羽ばたいて、やがて見えなくなって、景色もぼやけてゆく・・・・・。

      はるかな、静かな、平安よ

      かくも深く夕映えのなかに

      私たちはなんとさすらいに疲れたことだろう

      これがあるいは死なのだろうか

               (夕映えに、より)


新年を迎えるにあたって、死への旅路を感じさせるなんて・・・、と思われるむきもございましょう。
わたくしは、毎年、年の最後には、こうして「終り」という、観念を大切に思いたいと思ってます。

そして、また始まるのですから。

あと数時間後には、またあらたにご挨拶もうしあげたく存じます。

本年も、ご照覧、ありがとうございました。

Minatomirai20131224_12


 2007「シュティンメ&パッパーノ」

 2008「ステューダー&シノーポリ」

 2009「ポップ&テンシュテット」

 2010「フレミング&ティーレマン」

 2011「デラ・カーザ&ベーム」

 2012「マッティラ&アバド」

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2013年12月30日 (月)

ワーグナー 「パルシファル」 クナッパーツブッシュ指揮

Minatomirai201312_a

メッセージキャンドル。

ナビオス横浜にて。

今年もあと2日。

わたくしの大好きなオペラ作曲家3人、ワーグナー、ヴェルディ、ブリテンのアニヴァーサリー・イヤーでした。

ともかくたくさん聴きました。

ブリテンは、全部のオペラを聴き終えましたし、ワーグナーは、もう何度もやってる全曲チクルスの最終が本日。
でもヴェルディは、初聴きのものが多く、途中までで断念。
全作揃えましたので、この企画はゆっくり継続します。

そこでワーグナー最終、「パルシファル」は、あまりにも永遠すぎる定番でまいります。

Parsifal_kna


    舞台神聖祭典劇 「パルシファル」
 
 アンフォルタス:ジョージ・ロンドン      ティトゥレル:マッティ・タルヴェラ
 グルネマンツ:ハンス・ホッター      パルシファル:ジェス・トーマス
 クリングゾル:グスタフ・ナイトリンガー クンドリー:イレーネ・ダリス
 聖杯守護の騎士:ニールス・メーラー、 ゲルト・ニーンシュテット
 小姓:ソーニャ・セルヴィナ、ウルゼラ・ベーゼ
     ゲルハルト・シュトルツェ、   ゲオルク・パスクーダ
 花の乙女:グンドラ・ヤノヴィッツ、アニヤ・シリア
        エルセ・マルグレーテ・ガルデッリ、ドロテア・ジーベルト
        リタ・バルトス、ソーニャ・セルヴィナ
 アルト独唱:ウルズラ・ベーゼ

   ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                          バイロイト祝祭合唱団
         合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ
         演出:ヴィーラント・ワーグナー
         
                    (1962.7、8 @バイロイト)

 

 
ワーグナー・イヤーの最終に相応しい歴史的孤高の名演。

ワーグナー好きが、ブログをやって、そのワーグナーをメインテーマのひとつにしながら、これまであえて取り上げてこなかったこの名盤。

もう、あらゆる人々が賛辞を尽くし、書き尽してるから、わたしには何も付けくわえることはありません。
「パルシファル」、いや、ワーグナー演奏の最高峰にあると思っているから、そして大切な演奏だから、むやみやたらと言葉にできないと思ってきました。

作品が神々しい「パルシファル」だから、ということもあると思います。
同じレヴェルで、自分にとってワーグナー道を定めてくれた「ベームのリング」は、このブログでも、ことあるごとに取り上げ、称賛してきました。

Parisfal

舞台神聖祭典劇と、ワーグナー自ら題したこのカテゴリー。
楽劇は、いくつかあれど、このカテゴリーは、パルシファルが唯一のもの。

いまでこそ、この神聖性を、バイロイト自らが崩壊させ、それこそ、あえてそうしたかのようにメチャクチャにしてしまった。
他劇場に遅れての、この崩壊劇への参入でありましたが、バイロイトまでが、それに加担してしまうとは、あまりにショックだった。
G・フリードリヒは、まだまだ健全なもので、あらゆる神々を登場させ、アフリカの土着宗教までもそこにあったし、腐乱したウサギの映像までも見せつけた、くそみたいな故シュルゲンジーフの演出には、はらわたが煮えくりかえるような怒りと失望を覚えたものだった。
その後のことは、もう皆さんご存知のとおり。

この聖なる祭典劇は、すっかり普通の劇作品と同レヴェルになりはてて、カジュアルな存在になってしまった。

バイロイトだけが、パルシファルを上演できるという、作曲者というより、あとを継いだコジマが引いた特権も切れたあとは、欧米各地に、パルシファル熱が広まった。
それはある意味、キリスト教に根差したこの作品への、世紀末後の、人々の渇望のあらわれだったかもしれない。
しかし、それでも、この作品の「聖」なる部分は尊重されたし、せめて1幕のあとは拍手をしないという慣習が生まれ、それは長らく守られていったのであります。

わたくしが、「パルシファル」という作品にまず馴染んでいったのは、ごたぶんにもれず、NHKFMのバイロイト放送から。
かつての昔から、年末バイロイト放送は定番で、「パルシファル」だけは、春のイースターの日曜日に放送するのが、習わしとなってました。
そうした頃、中学生の頃に必死に録音して聴いたのがヨッフムの指揮。
同時に、オペラアワーで放送された、ショルティのレコード。

そんなわけで、春先のパルシファルは、ずっと恒例で、唯一放送されなかったのが、エッシェンバッハのパルシファル。
1年で降板してしまったけれど、わたくしは、NHKに電話して、何故放送しないんだ、と抗議した覚えがあります。

Parsifal_kna_2

こうした、一定のひとつの決まりごとたちに、絢どられた、わたしにとっての「パルシファル」。
それを、唯一、繋ぎとめてきている存在の音源が、このクナッパーツブッシュ盤だからこそ、めったやたらと手にするこはしない。
以上のような思いが、たっぷりつまった「パルシファル」の真性なる、姿を写し出す神のような存在のレコードを、手にしたのは、ちょっと遅れて高校卒業の頃でしょうか。

歌手も、その録音の素晴らしさも含めて、それを束ねるクナッパーツブッシュの神々しさに圧倒され、ひれ伏すようにして、何度も何度も聴きました。
大づかみな指揮と思われがちですが、クナの指揮するパルシファルは、場面ごとに、微細に色合いを変え、変化してゆく、いくつもの小川のような繊細で美しい流れが、それが、束ねられ、やがて大河となって、聴く者、歌うもの、弾くものを圧倒してしまうという魔力を秘めているのです。

このような大きくて、そして細やかなワーグナーの演奏を前にすると、昨今のバイロイトのちまちました効果だけの、そしてなによりも、いまある過剰な演出を後追いしてなぞるような演奏が、屁みたいにして聴こえる。
それは、それ、現在の演奏の流れからしたら、当たり前に聴こえるそれらのワーグナー演奏を、完全にうっちゃってしまう巨大な威力がここにありました。
いまは、ティーレマンにこそ、その残滓を見る思いだ。

Parisfal2


加えて、1951年の戦後のバイロイト音楽祭再開の、記念すべき初期演出としての、ヴィーラント・ワーグナーの舞台。
予算もなかったこともあるが、簡潔な舞台装置と、日本の能を思わせるような、動きの少ない心理描写に基づく象徴的な演出は、ワーグナーの音楽に集中させることによって、本来、雄弁すぎるその音楽の魅力をさらに引き出し、観客をかえって舞台に集中させる効果があった。
当然に、わたくしは、その舞台を観たことありませんが、幸い映像の断片や、トリスタンの大阪上演も一部残されてます。
 タイムマシンがあれば、往年の大歌手と、クナやベームの指揮とともに、黄金期のバイロイトにワープしてみたいものです。
 51年から、73年まで、実に22年も続いたそのヴィーラント演出。
亡くなるまで、そのほとんどを指揮したクナッパーツブッシュ。
完全に表裏一体の間柄です。

歌手陣に関しては、100%と言い難いけれど(ダリスのクンドリーと、ロンドンのアンフォルタスは、わたくしはあまり好きじゃありません)、フィリップスの雰囲気豊かな録音は、いまもって素晴らしいです。
とても50年前のものとは思えません。

なんたって、ホッターの滋味あふれるグルネマンツが素晴らしい。
言葉ひとつひとつの重みと、含蓄、深みとコクのある声。
リートの世界にも通じるものを感じます。
 あと、トーマスの気品あるパルシファル。
いまのヘルデンたちに欠けているもの、そのすべてを持ってました。
そして、ナイトリンガーのクリングゾールの、なりきりぶりの鮮やかさ。
この人は、アルベリヒでも、クングゾールでも、テルラムントでも、はたまたザックスでも、その役に完全になりきってしまう凄さがありました。

完全、べた誉めの最終章。
どなたも、こればかりは、お許しいただけると思います。
誰も不可侵のクナッパーツブッシュの「パルシファル」なのですから。

Parisfal3

何度聴いても、聖金曜日の音楽のシーン、そして、パルシファルから洗礼を受け、はらはらと涙を流すクンドリーのシーンを、そして野辺に咲くとりどりの花の美しさを思うと泣けてくる。
ワーグナーの書いた、もっとも美しく感動的な音楽のひとつといっていいでしょう。

わたしがいつか眠りにつくときに、この音源は、棺に入れてもらい、ともに旅立ちたいもののひとつであります。
家人よ、よく覚えておいて欲しい。

ワーグナー生誕200年の最後に。

Minatomirai20131224_9

パルシファル 過去記事

「飯守泰次郎 東京シティフィル オーケストラルオペラ」

「クナッパーツブッシュ バイロイト1958」

「バイロイト2005 FM放送を聴いて ブーレーズ」

「アバド ベリリンフィル オーケストラ抜粋」

「エッシェンバッハ パルシファル第3幕」

「ショルティ ウィーン・フィル」

「バイロイト2006 FM放送を聴いて ブーレーズ」

「クナッパーツブッシュ バイロイト1956」

「クナッパーツブッシュ バイロイト1960」

「クナッパーツブッシュ バイロイト1964」

「レヴァイン バイロイト1985」

「バイロイト2008の上演をネットで確認 ガッティ」

「ホルスト・シュタインを偲んで」

「エド・デ・ワールト オーケストラ版」

「あらかわバイロイト2009」

「ハイティンク チューリヒ」

「シルマー NHK交響楽団 2010」

「ヨッフム バイロイト1971」

「アバド ベルリンフィル 2001」

「トスカニーニ 聖金曜日の音楽」

「ジョルダン バイロイト2012」

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2013年12月29日 (日)

ブリテン 「ヴェニスに死す」 ベッドフォード指揮

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目黒川沿いのピンクのイルミネーション。

大崎から五反田にかけての目黒川沿いの桜並木が、冬の桜並木に。

目黒川みんなのイルミネーション2013。
クリスマスで終了してます。

かつての昔は、大崎駅周辺は、工場ばかりで殺伐と、何もなかった。
品川も同じようだったけれど、いずれも再開発でオフィスビル、高層マンション、住宅地と、職住の街に変貌を遂げました。
地域から出る食用等の廃油を集めて、バイオエネルギーとして、自家発電。
その電力を使ったイルミネーションで、完全還元。
良い試みです。

しかし、どこもかしこも、木にイルミネーションを施してます。
その木々への負担はないのでしょうか。

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    ブリテン  「ヴェニスに死す」

 グスタフ・フォン・アッシェンバッハ:ピーター・ピアーズ
 旅人、初老の伊達男、老いたゴンドラ引き、ホテル支配人、理髪師
 芸人の座長、ディオニソスの声:ジョン・シャーリー=クヮーク
 アポロの声:ジェイムス・バウマン
 ホテルのポーター:ケネス・ボウエン
 その他多数

   ステュワート・ベッドフォード指揮 イギリス室内管弦楽団
                        イングリッシュ・オペラ・グループ

                      (1974.4@モールティングス、スネイプ)


ブリテン(1913~1976)の最後のオペラ。

前作オペラが、「オーウェン・ウィングレイヴ」で、そちらは1970年。
室内オケの繊細で鋭い響きを背景に、題材はゴシックロマン的なミステリーで、そこに反戦思想も交えた作品だった。
 そのあと、ブリテンは、心臓に持病をあることがわかり、あまり体調はすぐれず、手術も行っております。

そんな中で、取り上げた題材が、この「ヴェニスに死す」です。

いうまでもなく、ドイツの19世紀末、ドイツの小説家、トーマス・マンの同名の小説がその素材。
マンは、千人の交響曲の初演に立ち会い、それがもとで、われらがマーラーに知己を得て、そのマーラーが亡くなった翌年にヴェニスを家族で旅をして、そのマーラーのことを念頭において、この小説を書きあげた。

その内容は、妻に先立たれ、娘も嫁いだ、功なしとげた著名な作家がひとりヴェニスを訪れ、そこで出会ったポーランド系の一家の少年に魅せられ、そこで彼にのめり込んでいき、最後は流行りのコレラに感染し、亡くなって行くという物語。

1971年に、ルキノ・ヴィスコンティが、映画化をして、そこでは、主人公アッシェンバッハは、作家ではなく、音楽家になってました。
そして、その風貌はマーラーその人なのでした。
音楽は、第5交響曲のアダージェットが、全編効果的に使われてます。
わたくしの記憶では、クーベリックの演奏のものが使われたのではなかったかと。
当時、中学生だったので、映画の中身などは知らないわけで、でも、その音楽だけは、よく流されていて、あの弦楽による美しいメロディーに魅せられたわけです。

Britten_death_in_venice

そして、高校生の時に、ブリテンのこのオペラがレコード発売され、期しくも、それがブリテン追悼盤になってしまったのですが、それは買わないまでも、文庫本の小説を読んでみたわけです。
 そこで知った、オホモチックな内容に、げげっ、となってしまったわけですが、長じて、ブリテンの音楽をほぼ大系的に聴くようになって、そんな怪しいものを見るようねフィルターは、すっかりなくなり、むしろブリテンの平和を愛し、弱者を思う優しい目線と、そのカッコいい音楽に魅せられるようになったのであります。

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映画が1971年で、このオペラが1973年の完成ですが、ブリテンはその映画のことを知っていたのか、いなかったのか。
いずれにしても、この小説のオペラ化は、ブリテンにとって、きっと取りかからなくてはならない、運命的なことだったのだろうと思います。
確かに、美少年タッジオに魅せられてしまう、初老の主人公は、ブリテンそのものかもしれませんが、それはまた、少年を、「美」という概念に置き換えることで、われわれ一般人(?)も、たとえば、芸術に美を求めるわけですから、その心情はわからなくもないです。

しかし、まあ、このオペラの中で、アッシェンバッハが、タッジオのことを思い、身もだえするように、I love you、なんて歌ったりすると、背筋が寒くなって引いてしまうのも事実であります・・・・。

登場人物は、例によって男ばかり。
主人公アッシェンバッハは、お友達ピーター・ピアーズを念頭に書かれており、このオペラを「ピーターに」ということで、彼に献呈しております。
その主役テノールが、最初から最後まで出ずっぱりで、肝心の少年は登場せず、すべて彼の独白的な進行で劇が進められる。
この一人称的なあり方に、ほかの人物たちが、影のようにからみあって、その心象風景とともに立体的になるという仕組みであります。
このあたりは、毎度感心する、ブリテンの天才性とも思います。
 しかも、からみの人物は7人いて、それはすべて同じバリトンで歌われます。
ホフマン物語を思い起こしますね。

主人公テノールが、極めて難役なのに加えて、このバリトンがまた、芸達者じゃないとダメなところが、舞台上演を難しくしております。
イタリア人の床屋が、陽気にイタリア訛りの英語で歌うって、そんな歌と歌詞、信じられます?
そうかと思うと、主人公を旅にいざなう深刻な旅人や、ゴンドラ船頭などは、曰くありげな怪しさと深みを出さなきゃならないし。

そして美少年クンは、オペラ上演では、パントマイムやバレエによって演じられます。
そこらへんも、見ててイメージをちゃんと掻き立てられる人材を得ないとダメですな。
その点、映画の少年は確かに美しいし、美しすぎるわよ。

このようにして、主人公アッシェンバッハ以外は、顔を持たない実態を伴わない存在のように思います。
ですから、よけいに、ホモセクシャル的な要素を、そのまま、美の賛美に置き換えることができると思うのです。

オーケストラの方は、前作と同じように室内編成で、打楽器・鍵盤楽器をふんだんに使用してます。
その響きの面白さは、その多彩さにあって、可視的でもあります。
まさに、至れり尽せりで、音楽が、その心象と実際の出来事を雄弁に語ってやみません。
一例をあげると、イタリアまでの船旅においては、蒸気船の音を、小太鼓のブラッシング・サウンドで巧みに表現していて、それを当時のデッカのソニックステージ録音が立体的に捉えていたりするのです。
 そして、海の場面では、「ピーター・グライムス」の北海の荒涼サウンドとはまた違う、明るい、でもどこか引っかかりのある海の光景を描きだしてます。
さらに、ブリテンの音楽でお馴染み、日本や東南アジア訪問で身に付けた、東洋風なエキゾティックサウンド。そこに打楽器が混じり、ガムランのような響きも聴いてとれます。

同時代にありながら、保守的作風だったブリテンですが、どうしてどうして、ここでは斬新で近未来的な音楽ともとれますが、いかがでしょうか。
映像もいくつかあります。
ですが、これは舞台で体験してみたいものです。

Brittenpears
                   (お墓でも、お友達同士)

初演者グループによるこのCDは、作者直伝的な圧倒的な存在。
ピアーズあってこそ、そしてそのピアーズが入魂の神的歌いぶり。
完全に同一化しちゃってます。
主人公と愛するブリテンに。

最近では、ラングリッジがヒコックス盤で歌ってますし、彼亡きあとは、ポストリッジとういうことになるのでしょう。

それと、シャーリー=クヮークのバリトンがまた舌を巻くほどに見事。
この役は、アラン・オウピという、たしかカナダ出身の歌手が得意にしていて、かれはブリテンのスペシャリストであり、ワーグナーも歌う歌手です。

それから、ブリテンのもとで、ずっとアシスタントをつとめていたベッドフォードが、病で指揮が出来なかった作者に変わって初演とこの録音を残しました。
素晴らしいオーケストラに、目覚ましい録音の良さでもあります。
ベッドフォードは、このオペラの各場に置かれたオーケストラ間奏曲をつなぎ合わせて、組曲として録音しております。
わたくしは、そちらで、その音楽を耳になじませてから、オペラ本作に挑んだので、割合楽に入り込むことができました。

※今回、あらすじは、別途追加とさせていただきます。
年末で忙しいのです、わたくしも。

ヴィスコンテイの映画の予告編を貼っておきます。

 

マーラーの風貌そのままのアッシェンバッハ。

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これにて、ブリテンのオペラ15作(ベガーズ・オペラは編曲ものなので除外)を、すべて聴き、ブログに書くことができました。
アニヴァーサリー・イヤーに、いい思い出となりました。

そして懸案の「ベガーズ・オペラ」は、音源入手に成功しましたので、それはまた来年にでもと思っております。

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2013年12月27日 (金)

BEATLES in CLASSICS ベルりンフィルの12人のチェリスト

Bay_quwater_2

おもちゃのお家。

それぞれに明かりが灯って可愛いものだ。

横浜ベイクォーターの大きなツリーの足元ですよ。

寒波来襲、寒い日が続きそうです。

雪も多くて、厳しい年末年始となりそうです。

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   The Beatles In Classics

    1.Yellow Submarine         2.Let it Be

    3.Something                   4.The Fool on The Hill

    5.Help                           6.Yesterday

    7.Michelle                      8.A Hard Day's Night

    9.Norwegian Wood        10.Here, There and Everywhere

   11.Can't Buy Me Love    12.Hey Jude

       ベルリン・フィルの12人のチェリストたち

                           (1982)


言わずとしれた、天下のベルリンフィルのチェロ奏者たち、12人のアンサンブルです。

1972年の結成ですから、もう40年超ということになります。

カラヤンの治世からずっと、ひとつのオーケストラの中のアンサンブルとしては異例のことかもしれません。
しかも、今も昔も、ギンギンのヴィルトォーソぶり。
それでいて、繊細で、艶やかで、緻密。

メンバーは40年を経て、すべて入れ替わっているけれど、きっと、指揮者の交代による、ベルリンフィル本体の音色の変化に合わせて進化し続けていることでしょう。

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このCD録音時のメンバーをCDジャケットから。

カラヤン時代の終わりごろ。
当時の映像などでもお馴染みの顔ぶれで、なんだか懐かしい。

ビートルズ・ナンバーが12曲、これでもかというくらいに、ブリリアントに、そしてクラシカルに演奏されてまして、聴いてて、これほんとにみんなチェロかい?と思ってしまいます。

編曲が、ちょっと硬くて、もう少し、くだけてていいのかなとも思いましたが、これはこれで、むしろ新鮮なのです。

これをカラオケにして、ビートルズを歌っちゃうと、わたしなら、オペラアリアみたいになってしまうことでしょう。
今度、車の中の密室で、やってみよっと。

というわけで、個別にどうこうコメントはいたしませんが、ポールも来日して、ビートルズイヤーともなった今年、この懐かしいCDを聴いてみて、とても気分がよろしいです。

彼らのHPにあった映像から、東日本大震災の追悼演奏。

ヴェルディの「聖歌4篇」から、「アヴェ・マリア」です。

心のこもった美しさ、泣けます。

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2013年12月26日 (木)

スウェーデン歌曲集 フォン・オッター

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日本のクリスマスは、終わってしまいましたが、わたしの中では、新年を迎えるまでは、その気分。
あんなに街をキラキラと飾ったツリーも、昨日の夜中から朝ににかけて、みんな撤去。
電飾屋さんや、装飾屋さんは、さぞかし大変であったことでしょう。

せっかくなのに、もったいない。

ツリーはともかく、冬の間中だけでも飾って欲しいな。

新宿のこちらは、まだしばらく見れますよ。

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 「Wings in the Night」 ~スウェーデン歌曲集

         Ms:アンネ・ゾフィー・オッター

         Pf:ベンクト・フォシュベリ

                (1995.9 @ストックホルム)


 
 スウェーデンの西欧でいうところの、後期ロマン派から世紀末にあたる頃の、作曲家たちの歌曲。

  
 ショグレン        (1953~1918)

 
 
 ペッタション=ペリエル(1867~1942)

 ステンハンマル     (1871~1927)

  アルヴェーン      (1872~1960)

 コック           (1879~1919)

 ラングストレム     (1884~1947)


ちょうど、マーラーの晩年、シェーンベルクやR・シュトラウス、プッチーニたちの時代。

スウェーデンには、メジャーな大物作曲家はおりませんが、かの国は歌の国でもあります。

優秀な合唱団があるし、大歌手たちもたくさん輩出、ビョルリンク、スヴァンホルム、ゲッタ、ニルソン、リゲンツァ、シュティメ等々。
なんといっても、ドラマティック・ソプラノを輩出。

あと、歌でいえば、アバですね!

そして、いま、最も充実している、スェーデン出身の歌手といえば、アンネ・ゾフィー・オッター。
ストックホルム生まれのメゾソプラノです。

1980年頃から、ずっと第一線で活躍。オペラもリートも、古楽から現代音楽まで、その活躍の場もレパートリーも広大です。

柔軟で、クセのない歌声は、常に嫌味がなく、クリアにすぎる場面もあって、さらりとしすぎた淡泊感じも与えることがかつてはあったように思う。
いまは、声に艶と深みが出てきて、昨年のアバドとの「大地の歌」では、情のこもった、とても味わい深い名唱となっておりました。
これからの彼女、バッハを多く歌って欲しいものです。

95年に地元で録音された、このスウェーデン歌曲集では、まさにすっきりと、おいしい天然水のような、穢れない純白の歌唱を数々聴かせてくれます。

加えて、これら31曲のリートたちが、いずれも北欧らしい、しっくりと爽やかな歌ばかりなので、オッターのクリアボイスがよけいに引き立ちます。

いずれも、いい曲、素敵な歌ばかりなのですが、6人の歌の中から、自分的に気に入った曲は、ペッタション=ペリエルの「天の星のように」~静かに淡々と夜空の星を歌う美しい音楽、同じペリエルの楽しい「ボリエビー=ワルツ」、ラングストレムの神秘的な「パーン神」、美しい「夜への祈り」。
初聴きの名前の作曲家コックの「春宵の雨」はピアノがまるでドビュッシーのようでした。
メロディスト、アルヴェーンの「森は眠る」は、かなりロマンティック。
いかにも北欧のムード漂う、ショグレンの「谷や丘の上を飛んでみたい」。

厳しい冬を終え、束の間の春や夏を思う詩が多いのも、北欧の国、スウェーデンならでは。

スウェーデンといえば、家具の世界チェーン、IKEAだけど、北欧家具ということでお洒落なわけだけど、工場は中国だもんね。
あとは、H&Mもそう。
こうした世界チェーンを造り上げるのも、スウェーデンはお得意。
IKEAとは、ちょっとお付き合いがあるけれど、本国の指示が厳しくて、なかなか頑固なものです。日本流に染まろうとしないところが逆に魅力なのかも。
昔、日本上陸して失敗して撤退。
2度目の正直は、いまのところ成功のようですね。
レストラン部門の売上がなんでも日本は他国に比べて高いらしいですよ。

今年もあと5日。
都心は、心なしか、人が少なくなってきた感じです。

Shinjuku_terrace_5

こちらも新宿で発見。

まさに北欧の歌姫みたいでしょ。

 

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2013年12月25日 (水)

ワーグナー 「ジークフリート牧歌」 クナッパーツブッシュ指揮

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クリスマスの日、いかがお過ごしでしたか?

あっ、日本には関係ない?

そうなんですよ、クリスマス・イブに燃え尽きてしまう日本のクリスマスは、あまりにもお祭りじみていて、浮かれまくる方々をみていると悲しくなります。

仏さまの誕生日を、仏教徒でない海外の人が、「祝仏さま」などと、お祭り騒ぎをしていたら日本人はどう思うでしょうか。

そんな了見の狭いこと言っても始まりませんね。

でも、クリスマスは、家族揃って、日頃の感謝を述べあいたいですね。
それでこそ、翌朝のプレゼントの喜びも増すというものです。

クリスマスではありませんが、静かな朝、自分の誕生日に、こんな素敵な音楽で目覚めた女性も幸せです。

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    ワーグナー 「ジークフリート牧歌」

 ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

                          (1962.11@ミュンヘン)


生誕200年のワーグナーの年、例年にも増して、ワーグナーを聴き、そして書きました。
いつもおんなじようなことばっかり書いてごめんなさい。

今年の、ワーグナー記事、今日を入れて実に34本。
あと1本考えてますので、2013年は、35本。

1870年12月25日、ワーグナー56歳の年に、ルツェルンの邸宅の回廊で、愛する妻コジマに感謝とともに、その誕生日に捧げられ、演奏された「ジークフリート牧歌」。
おりから作曲中のリングの「ジークフリート」の旋律を用いた愛らしい音楽。

この名称は、同時に、まだ1歳の愛息子ジークフリートへの思いも込められてます。

あの性悪とか、いろいろ言われちゃうワーグナーも、人の子なのです。
家庭をちゃんと愛してるのですね。

そんな、サプライズの朝日の眩しい光景を思い描きながら、この美しく、情感のこもった曲を聴くとまた、こちらも、暖かい気持ちになります。
楽劇のジークフリートは、人ずれしていない自然児で、2幕前半までの竜ファフナーを殺すまでの性格そのものが、このジークフリート牧歌の雰囲気なのでしょうか。
もちろん、旋律的には、その後の展開の、森の小鳥や、ブリュンヒルデと出会ったあとの、平和の旋律などが、ここに盛り込まれているわけですが。

初演時の、各楽器1本の室内楽版の透明感ある演奏も好きですが、オーケストラ版の抒情的でロマンティックな様相も好きです。

今宵のクナッパーツブッシュの演奏は、もちろん後者のフルオーケストラのものですが、この演奏はカラヤンや、バレンボイムなどの滑らかな演奏の対局にあります。
少しデッドな録音もあって、ごつごつと無愛想な雰囲気。
当時(62年)のミュンヘン・フィルは、武骨そのもので、ヘタクソにも聴こえる。
このころは、そんなものだったのかもしらんミュンヘンフィル。
そのあとのケンペやチェリが偉大だった。
で、このクナ盤は、同じコンビのブルックナー8番がそうであるように、妙にクセになる、安心する雰囲気。
この緩いモコモコ感は、ワーグナーの精一杯の優しさのようであって、ビューティフルな演奏にはない、ドイツのまことの響きを感じます。

木製のちょっと硬いベットで目ざめた感じです。
朝食は、硬いドイツパンに、甘いスグリのジャムに、ちょっと苦いコーヒー。

そんな朝を迎えるのも清々しいものじゃないですか。

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銀座の書店、教文館。

クリスマス、おめでとうございます。

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2013年12月24日 (火)

アカデミー・イン・コンサート マリナー指揮

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カレッタ汐留の海をモティーフとしたイルミネーション。

海の仲間たちが、サメにめげず、いろんな素材を集めて、海のツリーを造る物語。

オジサンのわたくしも、手拍子して応援しましたよ(笑)。

今夜は、クリスマス・イブ。

爽やかな、マリナー&アカデミーの演奏を聴きましょう。

Marriner

  ザ・アカデミー バイ・リクエスト

  1.ヘンデル       「ソロモン」より シバの女王の入場

 2.バッハ           カンタータ208番より 「羊は安らかに草をはみ」

 3.ヘンデル       「ベレニーチェ」より メヌエット

 4.バッハ          カンタータ147番より 「主よ人の望みよ喜びよ」

 5.バッハ          「クリスマス・オラトリオ」より シンフォニア

 6.ヘンデル        「メサイア」より パストラーレ

 7.グリーグ       「ホルベアの時代」より 前奏曲

 8.シューベルト 「ロザムンデ」より 前奏曲

 9.グルック        「オルフェオとエウリディーチェ」より 「精霊の踊り」

10・ボロディン      弦楽四重奏曲第2番より 夜想曲

     サー・ネヴィル・マリナー指揮

            アカデミー・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

               (1983.6 @アビーロード・スタジオ、ロンドン)


リクエストとありますが、こちらの曲目の数々は、マリナーとアカデミーが手塩をかけて、バロックからロマン派までの人気曲を次々に演奏してくれる、サービス精神満点の1枚。

かつては、こうした名曲集のアルバムが、それこそたくさん出ておりましたが、いまや、ライブ録音が主流の世の中となって、こうした録音はあまりされなくなったと思います。

カラヤン、マリナー、ヤルヴィ、この3人は録音魔ともいうべき、多録音王なのです。
しかし、カラヤンはいい時代を過ごし、いい時代に没しました。
マリナーとヤルヴィは、いまだ現役バリバリの長老なのですが、昨今、その録音は少なめ。
寂しいことです。

そんなマリナーが、ゼッコーチョーの時期の名曲集。

しかも、クリスマスにぴったりの曲も多く入ってます。

バッハの「安らかに羊ははみ」、「クリスマス・オラトリオ」、「主よ人の望みよ喜びよ」、そしてヘンデルのメサイアのパストラーレ。

いずれも、クリスマスの静かな喜びをかみしめるような、インティームで、心温まる曲に演奏です。

そのほかの曲も、はつらくと明るく、そしてしみじみと心に響く曲と演奏ばかりです。

マリナーのいいところは、こうした曲を、巧く聴かせるのでなく、嫌みなく、さりげなく、明快に爽やかに、さらっと演奏してしまうところでしょう。
聴かせ上手ではありません。
味付けの濃すぎる演奏は、その場限り。
マリナーのさっぱりとした、爽やか演奏は、いつまでも、ずっと手元に置いておいて、時おり聴いてみたくなるんです。

クリスマス・イヴに、団欒を過ごしたあと、このCDをBGMに家族で、または自室でひとり余韻を静かに楽しむにうってつけです。

ありがとうマリナー卿。

思わず、そんな言葉をつぶやきたくなります。

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期間限定、2020年、東京オリンピック招致記念バージョンの東京タワーは、25日まで。

みなさま、よきクリスマスをお迎えください。
 

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2013年12月23日 (月)

ヴェルディ 「ファルスタッフ」 ジュリーニ指揮

Nakadori

丸の内仲通りの一隅に、ちょっとした庭園スペースがあって、いつもそこは素敵なのでした。

このシーズンは、プーさんたちのイエローなツリー。

ツリーには、蜜蜂の巣が飾られてますよ。

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    ヴェルディ  「ファルスタッフ」

 ファルスタッフ:レナート・ブルソン   フォード:レオ・ヌッチ
 フェントン:ダルマチオ・ゴンザレス  カイユス:マイケル・セルス
 バルドルフォ:フランシス・エガートン ピストーラ:ウィリアム・ウィルダーマン
 フォード夫人アリーチェ:カーティア・リッチャレッリ
 ナンネッタ:バーバラ・ヘンドリックス 
 クイックリー夫人:ルチア・ヴァレンティーニ・テッラーニ
 ページ夫人メグ:ブレンダ・ブーザー

  カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ロサンゼルス・フィルハーモニック管弦楽団
                      ロサンゼルス・マスターコラール

            (1982.4 @ロサンゼルス、ミュージックセンター ライブ)


ヴェルディ(1813~1901)最後のオペラは、喜劇となりました。

1892年に完成、翌年80歳の年にスカラ座で初演。
もしかしたら、これが最後のオペラとわかっていた聴衆は、熱狂的な歓声と称賛をイタリアオペラの最大の作曲家に浴びせた。

ワーグナーは、半音階の大悲恋楽劇「トリスタン」と、ハ長の喜・楽劇「マイスタージンガー」を対のようにして重ねて作曲した。

ヴェルディも、悲劇的な「オテロ」と、そのあとは喜劇の「ファルスタッフ」を晩年に、対のようにして創作。
ともに、シェイクスピアの原作で、ボイートの台本。
晩年に巡り合った、彼らは、後世のわたしたちに、このような素晴らしいオペラの傑作を残してくれました。
ですから、いまだに恵まれない、作曲家としてのボイート、ことにオペラ「メフィストフェーレ」なんかは、ちゃんと聴いて評価しなくてはいけません。

この大傑作オペラの記事を、自分ではたくさん書いてるつもりだったけど、よくみたら、新国の観劇記事しか残してないことに気が付きました。
音源は、それこそたくさん持っているのに。
カラヤン、バーンスタイン、ショルティ、ジュリーニ、アバド。

ともかくヴェルディ指揮者でなくても、このオペラを好んで指揮する大家が多い。

それは、「オテロ」とともに、シンフォニックなアプローチが可能な作品だからだろうか。
作曲を進化させたヴェルディは、先にワーグナーが到達したように、そしてお互いが影響しあったように、「オペラ」を旧弊の概念から脱却させ、音楽優位の総合芸術としての概念で確立させた。

「オテロ」以降、アリアという歌手の見せ場が、劇の中で突出してしまわないように、ドラマと音楽の流れの中に、しっかりと埋め込んでしまった。
モノローグ(独白)とも言うべき、登場人物の心情吐露に変わったわけで、そこにはアリアのような形式はなく、長さも長短あり、劇の流れの効果のなかで、歌われる。
したがって、歌手の名技性をひけらかしたり、大むこうを唸らせるような派手な歌はなくなりました。
そうして生れた、ある意味自由な心情吐露は、素晴らしい旋律を伴って、プッチーニに受け継がれたのであります。

このような背景から、オテロとファルスタッフに、交響的な演奏も可能なのでして、歌手を楽器のようにして扱った、カラヤンが、この二つのオペラを得意にしたのもうなずけます。
バーンスタインの快活な演奏にも、その流れを感じますが、ショルティはまたちょっと複雑で、軸足はオペラ指揮者かもしれません。

シンフォニー指揮者としても練達であるジュリーニとアバドは、ともにシンフォニーオーケストラを指揮しながら、オペラの呼吸をオーケストラに完全に植えつけてしまい、歌手たちもそれを背景に生き生きと振る舞っているのが聴いてとれます。
そして、ともに過去、レコード・アカデミー賞を受賞(アバドは大賞)しております。

それに反して記事が少ないことを反省し、これからちょくちょく書こうかと思ってます。

このオペラの舞台経験は、さほど多くなくて、82年の二期会(小澤征爾指揮)と、2007年新国立(ダン・エッティンガー指揮)の2回だけ。
どちらも鮮明に覚えてます。
舞台にすると、まさに喜劇としての色合いを濃く感じ、そこに、若い恋人のロマンスと、夫婦の倦怠期と愛情、そして男の遊び心と、それより上手の女性の強さ・優しさ・したたかさ、こんなもろもろのことを、目の当たりにし、楽しめることができます。

このオペラの詳細は、「オテロ」もそうですが、全曲チクルスの中で、また来年か、再来年の記事で取り上げたいと思います。

今日の音源は、それこそ、元オペラ指揮者だったジュリーニが、オペラからはしばらく足を洗い、その後、長らくを経て、ロサンゼルスフィル時代に、ロスフィルをピットに入れて上演した記念碑的なライブ録音であります。

最初の開始音から感じる明るく、軽い響き。
見通しがよく、透明感にあふれている。
いずれ取り上げる、アバドとベルリン・フィルも同じようなイメージを持つ。

ともに行き着いた境地。
でも、弾むような若さを持つのはアバドの特徴だけど、ジュリーニの演奏には、いつものようなゆったりとしたテンポの運びのなかに、もしかしたら貴族?と、ほんとうに思わせるノーブルさを、サー・ジョンに感じさせもする面白さがあります。

このオペラで大切な、いくつもある重唱。
歌手たちのハーモニーをくっきりと響かせ、オーケストラも混濁することなく、しっかりつけてゆく、この熟練の手腕は、オペラ指揮者ジュリーニそのものです。
ロスフィルの音色も、ここではヴェルディにピタリ!
メータの、プレヴィンの、サロネンの、いまやドゥダメルのロスフィルの音。
ずっと好きだったけど、ジュリーニ時代がもっと長ければ、きっとこのオケはもっとスゴイ存在になっていたかも。

豪華な歌手たちに、いまさら、なにを言えばいいでしょう。
でも以外に一番好きなのは、リッチャレルリのアリーチェ。
ふるいつきたいほどの豊かな声です。

それと当時絶頂期だったゴンザレスのフェントンは、驚きの美声。
故テッラーニのもったいないくらいのクイックリー夫人。
同じく、ミスター・フォードのヌッチの凛々しさ。

ブルソンのファルスタッフは、当初からその豊穣な声が素晴らしいと思ってました。
でも何度も聴くと、そこにややドラマ性の空虚さを感じる場面があったりします。
今年、ブルソンをいろいろ聴いてきて、そんな思いを抱くようになりました。
カプッチルリやヌッチを聴いて、思うブルソンなのですが、その声自体は極めて立派で、しかも美声。素晴らしいと思います。

しかし、「オテロ」と「ファルスタッフ」、このふたつの傑作は、こうして連続して聴くと、その完璧な出来上がりに感服しまくりです。

過去記事

 「新国立劇場 D・エッティンガー指揮」

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2013年12月22日 (日)

ヴェルディ 「オテロ」 クライバー指揮

Yurakucho

有楽町マリオンの吹き抜けです。

有楽町センタービルというのが正式名匠だそうですが、この建物が出来て、もう30年近くになる。

当初は、西武と阪急というふたつの百貨店が2館入居するとうバブリーな存在でしたが、いまでは映画館はそのままに、西武は撤退し、JR系のルミネと阪急のメンズ系の商業施設となってます。

まったく、時の流れとその変化は速いものであります。

ここの吹き抜けは、銀座方面と有楽町駅とを結ぶ通路にもなってますから、いつも結構な人ごみであります。

さて、ワーグナー、ヴェルディ、ブリテンのアニヴァーサリーの今年も、冬至の今日、あと数日となりました。

最初にうちたてた、大計画は半ば達し、半ば崩壊。

ワーグナーの自身数度目になる全曲記事は、音源と映像で2度やろうと思ったけど挫折。
ヴェルディは、オペラ全曲をやろうと思ったけど、いまだ半分。
ブリテンは、あと1作でこちらはなんとか。

という訳でして、持ち越しのヴェルディ、せっかくの生誕200年なので、後期の大傑作をふたつ聴くことにしました。
その全曲順番聴きとしては、来年にまた取り上げることになります。

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  ヴェルディ  「オテロ」

 オテロ:プラシド・ドミンゴ      デスデモーナ:ミレッラ・フレーニ
 イヤーゴ:ピエロ・カプッチルリ   カッシオ:ジュリアーノ・チャンネッラ
 ロデリーゴ:ダーノ・ラファンティ  ロドヴィーゴ:ルイジ・ローニ
 モンターノ:オラツィオ・モーリ   伝令:ジュェッペ・モレッリ
 エミーリア:ジョネ・ジョッリ
 

 

  カルロス・クライバー指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                    ミラノ・スカラ座合唱団
 
              合唱指揮:ロマーノ・ガンドルフィ

                     (1976.12.7 @ミラノ・スカラ座)


日曜の朝から、こんな高エネルギーの音楽と演奏を聴いていいのだろうか。

ヴェルディが最後期73歳で完成した「オテロ」は、その音楽も、シェイクスピアの戯曲をもとにしたボイートの台本も、いずれも高密度で、どこをとってもひとつも無駄がなく、文字通り完璧の一字に尽きる傑作であります。

ムーア人の将軍が英雄から、ひとりの直情的な男として、嫉妬と疑念に狂ってゆき、やがて自滅してゆく、そんな男の悲劇を描き尽くした2時間のドラマ。

カルロス・クライバーの、それこそ、切れば血の吹き出るような圧倒的な興奮と輝きに満ち溢れた指揮。
最後の、透徹したオテロの死の場面に向かって、その音楽はひたすら真っすぐに突き進んでゆく。
 そうした直載な突き進む推進力もありながら、物語の各所に応じた場面場面での切り込みの深さ。
毎度おなじみ、羽毛のように柔らかくそっと、時に理不尽なほどに強烈に、時に抒情と濃厚なロマンを・・・・。
すべての着地点がいずれもK点越えでして、もう嫌になっちゃう。

不満は、もうこれに慣れると他が聴けなくなってしまうところか。
そして、あまりにも強過ぎる演奏なので、疲れてしまう。
だから、わたくしは、この盤をあんまり聴かないようににてます。
ただ、主役のオテロだけは、デル・モナコという絶対的存在があるので、それだけは打ち消すことができません。

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1981年、クライバーはアバド率いるスカラ座引っ越し公演に同行し、この「オテロ」と、「ボエーム」を指揮しました。
当時、新入社員だったわたくしは、薄給に鞭うって初アバドということで、「シモン・ボッカネグラ」をS席で購入するのがやっと。
音楽人生の失敗のいくつかのひとつ。ここで、財布を空にしても、クライバーの「オテロ」を観ておくんだった・・・・。

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 そのかわり、NHK様が、スカラ座公演は全部、FM生放送と、テレビ放送をやってくれた。
クライバーの自在な指揮に見入り、ドミンゴの迫真の演技と口角泡を飛ばさんばかりの歌いぶりに食い入るようにしたものです。
カセット録音も全部の公演がいい状態で残せましたので、自家製CDRは、今でも、わたくしの宝物のひとつです。
 
 当時のFM放送の解説は、黒田恭一さんだったでしょうか、クライバーが登場して、最初の一振りをたとえて、オーケストラピットから虹がかかった・・・かのようなことをおっしゃってました。
まさに、その言葉どおり、拍手が鳴り終わるやすぐさま指揮棒を振りおろし、あの嵐の場面の激しい冒頭のサウンドが響きわたりました。

このスカラ座音源は、モノラル非正規録音ながら、鮮明に全貌を捉えておりまして、かえってリアルさにかけては、NHKホールのステレオライブよりは上に感じます。

シーズンオープニングだったこともあり、聴衆も含めた全体の熱気たるや、並々ではありません。
燃えて燃え尽くすカルロスの指揮、冒頭もすごいが、2幕で、イヤーゴにそそのかされて、怒りに突き進む場面での凄まじさは、例えようがなく、火の玉のようなオーケストラに、これでもかと燃焼し尽くすドミンゴとカプッチルリ。
これぞ、ヴェルディの醍醐味。

起・承・転・結の4つの幕が、クライバーの一見、奔流のような勢いの中にしっかりと、その性格ぶりをみてとれる。
そして、それこそが、超高みに達したヴェルディの錬熟の技、そのもの。
4つの楽章の、シンフォニックなアプローチでありながら、前述のとおり、オペラティックな感興に満ち溢れた素晴らしい演奏。
こんなオペラ演奏・上演は、クライバーをもって、ほかにはないものと思います。

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ドミンゴのオテロは、この頃が一番よかった。
5年後のNHKでは、そのありあまる豊饒な声が、ちょっと硬質な感じに傾きつつあり、以降、巧みに、どんな役柄でも巧く歌うことに完璧になっていった。
その半面に失われっていった、ドラマティックな情熱。
そんな前の、ドミンゴが60年代最後半から持ち合わせていた、豊麗な声に、プラス、ドラマティコな声が。
レヴァインの同時期のスタジオ録音より、そのバカっぷりと、すべてを含んだ最終諦念は、よくあらわれていると思います。

対する、カプッチルリのイヤーゴ。
全曲盤では、まともな録音がない、まさに不世出の大歌手のイヤーゴは、ここでも豊かな声を武器に、硬派でありながら、美声でもって、全身全霊のすさまじさとなっております。
この歌手は、どんなオペラでも感心されっぱなしです。
ゴッピとはまた違う、本来のいい人的な歌手が歌うイヤーゴの、悪の裏の姿を極め尽くしたかのようなカプッチルリの歌唱。

あとひとり、フレーニのデスデモーナの、女の鏡みたいな存在を思わせる、優しくも全人的な存在。
正直いって、フレーニを越えるヴェルディとプッチーニ歌手はおりません。
歌い回しの一節、ひとふしに、暖かな共感がともり、聴く人の共感度数も常にあがっていく。
わたくしにとって理想的なヴェルディ歌唱です。

いずれの将来、クライバーのオテロが、正規なライブ音源として登場することを夢にまでみます。

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 過去記事

「ヴィントガッセン&F=ディースカウ」

「メータ&メトロポリタン」

「フリッツァ、石井 @新国」

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2013年12月21日 (土)

マーラー 交響曲第10番 金聖響指揮

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みなとみらい、クィーンズ・スクエアを歩いて行くと、この時期、遠くに大きなツリーが見えてきます。

そのツリーの斜め下が、みなとみらいホールの入口です。

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シンギングツリー。
クリスマス・ミュージックに合わせて、文字通りイルミネーションが七変化します。

みなとみらいホールの音響が、すっかり自分の耳に馴染み、いまはサントリーホールよりおなじみになってしまいました。

ホールとオーケストラの関係は、きってもきれない間柄。

ホールの音響によってはぐくまれる、色や響きの特徴もあります。

よく言われるのが、アムステルダム・コンセルトヘボウとウィーンのムジクーフェライン。
ベルリンや、ボストンもそうですね。
日本では、巨大なNHKホールの隅々に音を満たすことで、かのオケの特徴も生まれたものと思います。

そして、われが神奈川フィルには、みなとみらいホールがあります。

かつては、音楽堂と県民ホールという、どちらかというとデッドなホールが本拠地だった。
みなとみらいは、繊細なくらいに響きが豊かで、ある意味女性的な柔和さも感じます。
そんな本拠地で、聴きなれた神奈川フィルのマーラー・ライブがついに発売されました。

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 マーラー  交響曲第10番 嬰ヘ長調 (デリック・クック補筆完成版)

      金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                     (2013.2.14,15 @みなとみらいホール)


2月15日が本番。
ホールに居合わせましたよ、当然に。

マーラーの10番全曲版は、わたしにとっては、遅れてきた存在で、長く、アダージョしか聴かない時期がありました。
全曲をひとつひとつ集めて楽しんだ、アバドやバーンスタイン、テンシュテット、当初のインバル、ベルティーニなどが、補筆全曲版を手掛けなかったことにもよります。

ライブでは、飯森&東響のみで、それはそれでよかったのですが、まだ遠い存在の10番。

それが、近くにやってくることになったのは、聖響&神奈川フィルのマーラー・チクルスのおかげです。
それに先駆けて、何種類もの音源を聴きまくり、ようやく全貌が見えだして、そのうえでの演奏会でした。

そして、このときの演奏ほど、自分の中に、10番がすらすらと入ってきて、しっかりと、マーラーの交響曲の一員として根付くのを実感できたものはありません。
ちょっとそのなり立ちと存在に、眉に唾してた、10番ですが、エルガーの3番がそうであったように、いまや完全に、「マーラーの10番」として、強く自分のなかに存在してます。

そのライブが、こうして超優秀録音によって蘇り、いま自分の聴きなれた装置で、あのときの感動がさながらにして再現できるという、えもいわれぬ喜び。

みなとみらいホールの音像を、くっきりと、きれいなカーブを描くような響きを、忠実に捉えたこの録音は、わたくしのおんぼろ装置でさえも、ヴェールが1枚取れたかのような、すっきり、くっきりの明るい色調のものでした。
 きっとSACDで、ちゃんと聴いたら、もっともっとすごいんでしょう。
音の芯も、しっかりとらえてますし、打楽器の迫真の音も風圧とともに、びんびんきます。

もちろん、平尾さんの叩いた、バスドラムの容赦ない数撃は、適度に乾いて、そして、ウェットでもあり、虚しくもあって、あの晩の印象そのものに、いまもこの録音から耳に響いてきます。

このときの演奏の白眉であった、第5楽章は、そうしてバスドラムから始まり、不気味なテューバ、諸行無常の哀しみのフルート、弦につながってゆき、やがてカタストロフの再現。
そのあとに訪れる平安と安らぎが、しずかに広がってゆく光景。
あのコンサートのとき、涙して、しまいには慟哭しそうになった場面。
自宅では、さすがにゆとりをもって聴きましたが、それでも、この終楽章の美しさは、神奈川フィルの音色あってのもの。
とくに弦楽器の美しさ。

CDだと、耳だけなので、よけいに全体を見渡すことができますが、その全曲にわたって、はりつめた緊張感と、音楽へ打ち込む熱のようなエモーションを感じる一方、細かなところでの精度にいま一歩を求めたくなるのも心情。
当日も、感じたのはその点で、ファンとしては耳に痛いことも書いておかなくては。
会場では聴こえない、聖響さんのうなり声も繁茂に聴こえますが、指揮者が、ちょっと没頭しすぎてしまうんでしょうか、やばいと感じた演奏会での特に2楽章は、ここでは違うテイクになっているようです。

ですが、わたくしには、そうした演奏の精度をあげつらってどうのこうのは、まったく意に関することではございません。

聖響&神奈川フィルの8番以外のマーラーを全部聴いてきた集大成の音源という意味で、感無量の思いとともに、オーケストラがマーラーを通じて、確実にオケとしての一体感を勝ち取ることができたと思うから。

聖響マーラーは、過度な思い入れを廃し、早めのテンポですっきりと快適に進行する、嫌味のまったくない健康的なものだと思います。
番号でいえば、若い方の番号が似合っていて、後期のものになると、もう少し辛口の味付けと濃淡を求めたくなります。
そこを補っていたのが、神奈川フィルの持つ能動性と、音色の美しさではなかったかと思うのです。

そうした諸々の総轄を、わたくしには、この10番の演奏に聴いてとることができました。

細かなところは、またいずれ書き足そうと思ってます。

日本のオーケストラ初の10番全曲版の録音。

これからも、コンサートの思い出とともに、大切にしていきたいCD音源となりました。

欲をいえば、素直な3番と、震災翌日の異様なエモーションに包まれた6番。

このふたつを是非ともCD化していただきたい!

過去記事

「2013年2月 定期演奏会」

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こちらは、去年2012年のシンギング・ツリー。

グリーンな感じです。
     

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2013年12月20日 (金)

ベルク ヴァイオリン協奏曲 ファウスト&アバド

Yodobashi_church

静謐な雰囲気のこのツリーは、新宿区百人町の淀橋教会です。

大久保の駅から見える、独特の屋根の建物がこちら。

プロテスタント系で、オルガンや器楽コンサートもよく催されてますが、まだ聴いたことはありません。

数年前、叔父の葬儀はここで行われまして、その叔父は、御殿場にありますこちらの教会の美しい共同墓地に眠っております。

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       ベルク  ヴァイオリン協奏曲

            Vn:イザベル・ファウスト

      クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

               (2010.12@マンツォーニ劇場、ボローニャ)


わたくしの3大ヴァイオリン協奏曲、トリは、ベルク(1885~1935)です。

3つの作品を年代別に並べてみます。

 ベルク    (1885~1935)    1935年

 バーバー  (1910~1981)    1940年

 コルンゴルト(1897~1957)    1945年


音楽の歴史の流れの中では、いうまでもなく、ベルク→コルンゴルト→バーバー。

マーラー後の、ツェムリンスキーを師とする、新ウィーン楽派にあったベルクは、一番保守的であったかもしれないし、緻密な作風をオペラの領域に持ち込んでいまに生きる劇的な音楽を残した。

その次に来たコルンゴルトは、神童の才を発揮したが、そちらの作風は、あふれるロマンティシズムで、回顧調。十二音などの最先端とはまったく違う調性音楽。

そして、アメリカにあって、これまた保守クラシカル路線を貫いたバーバー。

こうしてみれば、音楽の新しさ、といっては語弊がありますが、耳への斬新さでは、作曲名年代を遡って、すっかり逆になり、コルンゴルト→バーバー→ベルクがMAXとなります。

以前の記事から引用して、この曲について振り返ってみたいと思います。

>1935年、オペラ「ルル」の作曲中、ヴァイオリニストのクラスナーから協奏曲作曲の依嘱を受け、そして、その2カ月後のアルマ・マーラーとグロピウスの娘マノンの19歳の死がきっかけで、生まれた協奏曲。

「ある天使の思い出に」と題されたこの曲がベルク自身の白鳥の歌となりました。

そんな思いで聴くこのヴァイオリン協奏曲には、もうひとつ、バッハの名前も重なります。
2部構成の第2楽章で、バッハのカンタータ第60番「おお永遠よ、汝おそろしき言葉よ」からのコラールがそのまま引用されていて、ヴァイオリンや木管で再現されると、そのあまりの美しさと崇高さにわたしは卒倒してしまいそうになる。

「主よみ心にかなうのなら、このいましめを解いてくださいわがイエスがきます。お休みなさい、おお世界よ。わたしは天にある家に戻ります・・・・・・・」

第1楽章では、ケルンテン地方の民謡「一羽の鳥がすももの木の上でわたしを起こす・・・」が主要なモティーフとなっていて、晩年、といっても40代中年の恋や、若き日々、夏の別荘で働いていた女性との恋なども織り込まれているとされます。

こうしてみると、可愛がっていたマノンの死への想いばかりでなく、明らかに自身の生涯への決裂と追憶の想いが、この協奏曲にあったとされるのであります。

その二重写しのレクイエムとしてのベルクのヴァイオリン協奏曲の甘味さと、バッハへの回帰と傾倒を示した終末浄化思想は、この曲の魅力をまるで、オペラのような雄弁さでもって伝えてやまないものと思います<

この曲の最後の浄化された澄み切った世界には、ほんとうに心動かされます。
ケルンテンの民謡と、いろいろと姿を変えたバッハのコラールのモティーフ、それぞれが交互に回想と諦念のようにあらわれて、天に昇るかのような和音にて平安を得たかのように終結。
いつも、息をするのもはばかれるほどに、集中して、感動して聴いてします。

アバドの声掛けで録音された、イザベル・ファストとのベルク。
生々しい録音も手伝って、実感と共感の伴った真摯なイザベルのヴァイオリンが、耳にどんどん入ってきます。
音楽との少しの距離感が、この人らしいところなのか。
彼女のバッハを聴いてみたいと思いました。

そして、2度目となるアバドの指揮。
大編成ではないモーツァルト管を指揮して、突き刺さるような集中力と、奏者に寄り添うような機敏さ、そして前にもまして透明感にあふれていて、かつ歌うベルクという、アバドならではの名演でありました。

1度目のブラッヒャー盤も、マーラー・チェンバーというフルオケでないオーケストラでもって、親密な雰囲気と鋭さを兼ね備えたベルクを造り上げておりました。

わたくしには、もうひとつ、実は、こちらの方が一番と思っているテイクが、ムローヴァをソロに迎えてのベルリンフィルライブのFM録音。
こちらが、ムローヴァの異様なまでの緊張感と、アバドのライブならではの即興感あふれる燃え方でもって極めて素晴らしい演奏なのです。
そして、やはりベルリンフィルという高性能のオケには、若いオケは敵わない。
独特の色もあり、コクと艶ともに、ベルクの音楽にぴったりなのです。
ファウスト盤と、このムローヴァ盤では、演奏時間が3分も違います。
遅くなっております。
このあたりは、アバドの行き着いた境地の裏返しとも言えるかもしれません。

ついでに、アバドではありませんが、録音を残さなかったカラヤンが、ピエール・アモイヤルをソロに迎えたライブも大切に持ってまして、そちらのオーケストラの濃厚さとビューティフルぶりは、ちょっと堪らないものです。

※こちらのジャケットの少女の横顔、気になりますね。
クリムトの「エレーネのポートレイト」という作品で、晩年に娶った極めて若い女性とのことであります。
まったく、あのオヤジったら!

Klimt_herene

ベルク ヴァイオリン協奏曲の過去記事

 「シェリング&クーベリック」

 「ブラッヒャー&アバド」

 「渡辺玲子&シノーポリ」

 「パイネマン&ケンペ」

 「ズッカーマン&ブーレーズ」

Yodobashi_church2

ブルー系のカラーは、クールで熱いベルクの音楽にぴったり合います。

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2013年12月18日 (水)

バーバー ヴァイオリン協奏曲 スターン

Shiodome_1

汐留のイルミネーション。

このあたりが開発されて、大企業のビルが乱立するようになって、もう10年。

新橋までは行くけど、その先の汐留にまで足を伸ばすことは、あまりありませんでした。

へっぽこ人生ですから、こんな吹き抜けがふんだんにあって、高層エレベーターでオフィスまで駆け上がるような、カッコいい仕事はしたことありません。
ただただ、高い高級そうなガラス張りのビルを、下から仰ぎみるだけ。
そんなことには、縁もなく、人生を終えて行くことでしょう。

このあたりや、都心のオフィス街を、カツカツと靴音を立てて闊歩する、サラリーマン諸氏や、OLさま方たちを、眩しく見るのみですよ。

人生、それぞれ。 

わたくしには、そんなかっこいいステージはありませんが、自分の幸せと、自分の道を、信じて歩くのみです。

Baber

      バーバー  ヴァイオリン協奏曲

            Vn:アイザック・スターン

   レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

                        (1964.4 @マンハッタンセンター、NY)


アメリカの作曲家、サミュエル・バーバー(1910~1981)のヴァイオリン協奏曲。

マーラーの没した1年前に生まれ、世の中がデジタルになった時代まで生きた、作曲家。

自分はオジサンだから、バーバーが亡くなったときも覚えてます。
(なんたって、ショスタコやブリテンの死も覚えてるんですから、ジジイですよね)

亡くなった当時は、唯一の有名曲、「弦楽のためのアダージョ」が盛んにかかりました。

当時で聴けるバーバーといえば、その曲と、「悪口学校」、「ヴァネッサ」、チェロ協奏曲に、このヴァイオリン協奏曲。

いまもそんなに、バーバー受容は音楽界で変わってないように思うけど、交響曲や歌曲が聴かれるようになった。
なかでも「ノックスビル1915夏」は、スラトキンがN響でやったり、プレヴィンやMTTが録音したりで、隠れた名曲として記憶に刻まれるようになりました。

そして、しつこいようですが、わたくしの3大ヴァイオリン協奏曲のひとつが、このバーバー。
ベルク・コルンゴルト・バーバー=BKBなのです。
そして、僅差でエルガーとディーリアスを入れると5大ヴァイオリン協奏曲。
あくまで、「わたくしが好き」という概念ですので。

>1940年の作品。
日本は戦時への道をひた走り、国民は徐々に統制のもとに置かれつつあった時分に、バーバーはこんなにロマンテックな音楽を作っていた。
 文化の豊かさの違いか、日本は暗い押し付け文化しか残されなかった。
私的初演のヴァイオリンは学生、指揮はライナー。
本格初演は1941年、ヴァイオリンはスポールディング(なんとスポーツ用品のあの人)とオーマンディという豪華版。<  ~過去記事より~

3楽章の伝統的な急緩急の構成でありますが、バーバー独特の、アメリカン・ノスタルジーに全編満たされております。

ロマンティックなことでは、コルンゴルトと遜色ありませんし、ゆったりと甘味な1楽章、夢見つような2楽章、無窮動的な3楽章。
そんな楽章のそれぞれの色合いも、とても似てます。
 しかし、コルンゴルトは、後ろ髪惹かれるような憧れと悔恨を感じるのに対し、バーバーは、あくまでも明るいアメリカの大地に根差したかのようなノスタルジーです。
それを強く感じるのです。
だれもが正しいと思い、清廉潔白で、陰りはナシ。
コルンゴルトの思いにあった過去(ヨーロッパ)、バーバーの思いにあった今と黎明期の美しき希望に満ちた過去(アメリカ)。

そんな風に思って聴く、ふたりのヴァイオリン協奏曲。

涙がでるほどに、美しく、愛らしく、哀しい。

ベルクは、また違う存在。
もっと緻密で、複雑で、雰囲気的じゃなくって、特定の思いに満たされている。

3曲の比較になってしまいました。

バーバーのこの曲を聴くと、ほっと一息、とても安心できます。

冒頭の、大らかで、ゆったりとふぅ~と呼吸したくなるような、それこそ、呼吸の良い音楽です。
そして泣ける2楽章。
泣きのオーボエ、次ぐヴァイオリンソロ、オケとソロが連綿たる旋律を紡いでいくさまは、もう視線は遠くに飛んで、いつしか、ぼやけてしまいます。
短くて元気良すぎる3楽章が、あっけないですが、それはそれ、不思議と、前の素敵なふたつの楽章にぴったりと合ってます。

いかにもスターンらしい、大らかさと男気の優しさ。
素晴らしいヴァイオリンに、バーンスタインの気持ちのこもった指揮。

第9は行けなかったけれど、こうして今宵も、緩やかな気分で過ごせたのは、バーバーのおかげです。

(コルンゴルトの次は、これですよ、神奈フィル様)

Shiodome_2

いま、外は冷たい雨ですが、夜半には雪になるのでしょうか。

過去記事

「スラトキンのハンソン」

「シャハム&プレヴィン」

「J・ベル&ジンマン」

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2013年12月16日 (月)

コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ズナイダー

Kitte_winter_1

東京駅丸の内口の旧郵政丸の内にできた、日本郵政の商業施設「KITTE」。

その吹き抜けホールに登場した巨大なツリーです。

わたくしは、このツリーを、大きくひっくるめて、今年のイルミ、ナンバーワンにしたいと思います。

ナチュラル感と、白い柔らかな雪の色が、柔らかな自然色に変化する、その美しさ。

いま、北国に襲っている寒波のことを思うと、こんな呑気なことを言っていて申し訳なく思います。

その色合いの変化を、コルンゴルトの最愛の協奏曲とともに楽しみたいと思います。

Korngold

  コルンゴルト  ヴァイオリン協奏曲

        Vn:ニコラーイ・ズナイダー

  ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

               (2006.12.12~9 @ムジークフェライン、ウィーン)


いったい、何度目の記事になるでしょうか。

最愛のヴァイオリン協奏曲、コルンゴルトの作品。

数えたら7回目の記事でした。

わたくしにとっての3大ヴァイオリン協奏曲のひとつで、あとのふたつは、ベルクとバーバーです。

どんだけ好きか、言葉がみあたらない。

コルンゴルトの音楽自体が好きで、映画音楽以外は、ほぼコンプリートしつつあります。
彼の若書きのオペラたちも大好き。
夜毎、聴いてます。

マーラー、ツェムリンスキー、シェーンベルク、ベルク、R・シュトラウス、シュレーカー、コルンゴルトの図式であります。
世紀末系音楽として、ナチス到来による悲劇と、保守アメリカとの接点、そしてその後に続くアメリカのビューティフルサウンドは、バーバー、コープランド、ハンソン、シューマン等々。
そして、いま全盛のJ・ウィリアムズにまでつながる系譜。

1945年、ナチスがもう消え去ったあとに亡命先のアメリカで作曲。
アルマ・マーラーに献呈。
1947年、ハイフェッツによる初演。
しかし、その初演はあまり芳しい結果でなく、ヨーロッパ復帰を根差したコルンゴルトの思いにも水を差す結果に。

むせかえるような濃厚甘味な曲でありながら、健康的で明るい様相も持ち、かつノスタルジックな望郷の思いもそこにのせる。

何度聴いても、本当に素敵な音楽なのであります。

ズナイダーの快活で、若さの横溢した技巧的な演奏は、かなり素晴らしいです。
ゲルギの指揮は、無味乾燥ながら、ウィーンフィルでよかった、と思わせるか所が各所に散見。

カップリングのブラームスは、いまだに未聴。
オッターとプレヴィンが夫婦であった頃のDG録音もカップリングのチャイコフスキーは、いまだに聴いたことありません。
しょーもないですね。

そして、以前より熱望してきた、石田コンマスのソロと神奈川フィルによる演奏が、ついに来シーズン実現します。
ホント、夢のような話です。

以下、Kitte写真集。

Kitte_winter_2

まずは、ブルーに。

Kitte_winter_3

ブルーを下から

Kitte_winter_4

ピンクorオレンジ系で

Kitte_winter_5

最後はグリーン

コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 過去記事

「ムター&プレヴィン」

「パールマン&プレヴィン」

「ハイフェッツ」

「シャハム&プレヴィン」

「ハイフェッツ&ウォーレンシュタイン」

「ベネデッティ&カラヴィッツ」

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2013年12月15日 (日)

ワーグナー 「神々の黄昏」 S・ヤング指揮

Yuurakucho1

有楽町の交通会館は、今年も、このように天使を階上にかたどり、駅周辺と一体化した美しいイルミネーションに絢どられております。

今年、ほかの場所でも目立つのは、グリーンです。

高輝度のはっきりした色合いが、街の冬を美しく、そして暖かく飾ってます。

Gotterdemarung

   ワーグナー  「神々の黄昏」

 ジークフリート:クリスティアン・フランツ  ブリュンヒルデ:デボラ・ポラスキ
 グンター:ローベルト・ボルク         ハーゲン:ジョン・トムリンソン
 アルベリヒ:ウォルフガンク・コッホ     グルトルーネ:アンナ・ガブラー       
 ワルトラウテ:ペトラ・ラング         第1のノルン:デボラ・フンブレ       
 第2のノルン:クリスティナ・ダメイン    第3のノルン:カトゥーヤ・ピーヴェック   
 ウォークリンデ:ハ・ヤング・リー      ウエルグンデ:マリア・マリキナ       
 フロースヒルデ:アン・ベス・ソールヴァング

  シモーネ・ヤング指揮 ハンブルク国立歌劇場管弦楽団/合唱団

   
                演出:クラウス・グート

                         (2010.10 @ハンブルク)


「ジークフリート」以降、かなり間の空いた「リング」ですが、ようやく「神々の黄昏」を。

4部作間の時間配列をここにあらためまして。

 「ラインの黄金」
           約30年?  
            ウォータンが徘徊し、ウェルズングとワルキューレを生みだす
 「ワルキューレ」
     ↓    
  約18~22年?
            ジークフリートが青年に
 「ジークフリート」
     ↓    
    数日から数ヶ月
            ジークフリートが知恵をつけ、冒険に旅立つ
 「神々の黄昏」

神さまは歳をとらない。
壮年の強い意志と悪だくみの若さを持った、ラインの黄金のときのウォータンが35歳とすれば、ワルキューレでは、65歳のシニア。
さらに、ジークフリートの成長を鑑みて、ジークフリートでは85歳のさすらい老人。
まぁ、不老不死が前提だからそんなこと考えなくてもいいのですが、最後の「神々の黄昏」では、ウォータンの老いぼれぶりが、娘のワルキューレのひとり、ワルトラウテの口から語られる。

徘徊さすらいの老人は、槍を孫に折られて、力を失い、終末を待っていて、若さのもとの林檎も食べなくなってしまったと。
ブリュンヒルデが指環をラインの乙女たちに、返すことを熱望していると。

もとはといえば、アルベリヒが盗んだ黄金を、卑怯にも横取りしたことに端を発した「指環抗争」。
その再奪取にかけて生み出したウェルズング族の末裔に、コケにされ、追放した娘に、遠まわしに指環返還のお願いをするも、ふざけるなと一蹴される。
自業自得の憐れな神様の姿がウォータンなのです。

神々の長を、そんな風に描くなんて、ワーグナーの劇作の才は、ほんとうにすごいものだと感心します。
かつては、ウォータンを神聖で神々しい存在として描いていた演出も多く、演奏面でもそうしたことが前提となっていたはずです。
ハンス・ホッターという名歌手の存在も、まさにそうした流れのなかにあります。

しかし、70年代半ば以降のウォータンは、それまで見過ごされてきた、いや触れずにおいたウォータンの行動の矛盾と悪辣さを、まるで小男のようにして描くことであぶり出す演出も、はばからず登場してきました。
神々の黄昏には、ウォータンは登場せず、見張り役のカラスだけが出てきますが、このリングの締めくくりにも、ウォータンが撒いた種が暗い影を落とし、何人もの人物が死に、最後には紅蓮の炎で持って「無」となってしまうのです。
 ワーグナーのト書きには、「ワルハラ城も炎に包まれ、右往左往する神々が見える」とありますから、不老不死の神さまたちも、これでお終いなのでしょう。

ウォータンだけが、ひとり生き残る・・・という意地悪なお仕置きも読み替え演出としては面白いでしょう。

 そして、もうひとりの、おばかさんは、リングの主要人物ジークフリート君です。
前作「ジークフリート」で、思いきり自然児ぶりと、無邪気な殺人ぶりを見せつけた彼ですが、本心は冒険が命。
ブリュンヒルデにいろんなことを伝授されたし、不死身の術も備わっている。
元気に田舎を飛び出したけど、大都会は甘くない。
成熟した社会に戸惑いつつも、ギービヒ家の客分から家族へとなってしまう。
なんら躊躇なく忘れ薬と、最後の思い出し薬を飲み干す人の良さ。
しかし、グンターに化けて、ブリュンヒルデを強奪したときに、なぜ、指環も取り上げたのだろう。

Hunburug_gotter_3

 本来自分がファフナーの洞窟から持ち出し、自分のものであることを認識していたからか。
また、自分の剣、ノートゥングのことは忘れていないし、自分の名前すらちゃんと覚えてる。
そこにあるジークフリートの矛盾。
もしかしたら、山の頂で、ブリュンヒルデに出会った時以降の記憶のみを消し去ることができた、優れた飲み物だったのだろうか、ハーゲンの忘れ薬は!
こんな矛盾の数々は、第3幕で、ラインの乙女たちに看破されるのだが、それを鼻で笑い、自ら悲劇に足を踏み込むということが英雄的であったりする。
 ともあれ、憎めないヤツなのですが。

これらの矛盾した連中と大きく異なる、芯のある、ぶれない人物がブリュンヒルデ。
ワルキューレでの登場から、ずっと最後まで、「愛」を貫いた高潔の気高い女性。
彼女は間違いなく尊敬できます。
人間としてカッコよすぎます。
あらゆるオペラの登場人物のなかで、一番素敵で、立派な女性だと思います。
ジークフリートの矛盾に騙され、彼を憎み弱点を漏らしてしまうのも、愛するがゆえの行為ですし。
ですから、昨今のヘンテコ演出でも、一番いじりにくいのがブリュンヒルデの存在なのではないでしょうか。
せいぜい、妊婦にするくらい?。。。

あとひとり、ハーゲンもぶれてませんね。
アルベリヒの意志を継いだ闇の軍団の血族だけど、親父とはまた違う独自路線で、憎っき神々系ウェルズング族の末裔をたやすく抹殺する。
正統派の悪党だけど、殺したその場で、指環を取っちゃえばいいのに、チャンスを逃し、最後は川に引き込まれて、あえなく終わり。
もうちょっと頑張って欲しかったぞ。
しかし、ハーゲンは、立派な歌手が演じ歌うと、実に舞台映えする役柄だ。
ワーグナーの書いた、バスのロールは、どれもこれも良いです。
ダーラント、マルケ、ハーゲンにグルネマンツ・・・。

そこへ行くと、グンターやグートルーネは性格表現も弱いものですが、彼らも演出次第では、すごいモンスターに化けたりしますから面白い。
キース・ウォーナーのトーキョーリングでは、彼らは神経質な良からぬ企業家で、近親相姦的なムードも醸し出していた。
そんなところに現れるワイルドなジークフリートや、高飛車な強い女ブリュンヒルデは、異次元からやってきた眩しい存在だったに違いない。
わたくしは、そんな風に歌われるギービヒ家の兄妹が好きだし、どこか気の毒でならない。

今回の、リング・チクルスは、古いものばかり聴いてる自分には珍しい、昨今のワーグナー演奏で組んでみました。

 「ラインの黄金」   ヤノフスキ

 「ワルキューレ」   ゲルギエフ

 「ジークフリート」   ティーレマン

 「神々の黄昏」    S・ヤング

女子指揮者リングとして話題になった、シモーネ・ヤングのハンブルグ・プロダクションのライブ録音。
リング全体は、まだ聴いてませんが、全曲であれば、こちらは映像が欲しいところ。
リブレットにある豊富な舞台写真を見ていて、そう思いました。

Hunburug_gotter_1

しかし、演出全体の色調は暗く、救いのない雰囲気を感じる。
いまや人気演出家のクラウス・グートのプロダクション。
グートといえば、二期会のパルシファルや、アーノンクールのフィガロをの人。
写真とハウスのHPにある映像から察するに、みんな病んでるし、舞台は病院か?
いやな感じではありますが、映像の最後に、おそらくラストシーンと思われる場面があって、それはちょっと泣かせてくれそう・・・・。

ここはしかし、音だけを楽しみました。

このシモーネさんの、ワーグナー、実によろしいのです。
最初から最後まで、隅々に活気と、舞台ならではの一気呵成の迫力もみなぎっています。
リズム感もよく、ノリもいいです。
そして、ここはこうして、粘って、ガンガン鳴らして、的な、自分にしっかり根付いた聴きどころを、漏らさず、そうしてくれます。
女性指揮者的な細やかさ(なんて表現自体がナンセンスだけど)は、ここでは感じません。
男も女もなく、普通にしっかり指揮してるわけですが、いま風のこだわりのなさと、すっきり感あるワーグナーでもあるところがよいです。
ヤノフスキの熟練濃密度、ティーレマンの巨大なずっしり感あふれる充実度、などにくらべると、まだ小粒ではありますが、実に堂々としたワーグナーでして、ドイツの高水準の劇場の日常をしっかり体感できるものです。
 ゲルギエフよりは、はるかにずっといいです!

そして歌手も充実。
なかでも、ポラスキのブリュンヒルデがしっかりと録音されたことは嬉しいことです。
彼女のアメリカ的な、世界を救う的な大らかさに、その後加わった細やかな歌いぶりと、従来のパワー。
最後はちょっと疲労の色がうかがえますが、実に感動的なブリュンヒルデだと思います。

Hunburug_gotter_4

それと、これもわたしたちには懐かしい、フランツのジークフリート。
新国ですっかりおなじみの、気の置けないジークフリートがここでも聴けました。
すっかり手の内に入ったジークフリート、巧妙な歌いぶり。

トムリンソンのこれまた巧いハーゲンは、暴力的でなく、知的ないやらしさが横溢してます。
あと、いまやブリュンヒルデを歌うようになった、ペトラ・ラングの凛々しいワルトラウテも印象に残りました。

ハンブルク・シュターツオーパーの抜粋動画サイトはこちら。  →Humburug

海外のオペラハウスのサイトは、ダイジェスト映像が満載で、それらを次々に見て、いまの風潮の一旦を垣間見ることができるし、そうしてお酒でも飲みながら過ごす楽しみがあります。
このハンブルク・リング、今年のバイロイトの馬鹿野郎よりは、はるかに筋が通っていそうに感じましたがいかに。

ワーグナー・イヤーも残すところ数日。
2回、ワーグナーサイクルやると言った、最初の大風呂敷は、どこいった・・・・、自分。
なんとか、「パルシファル」で仕上げを図りたいところです。

Yurakucho_3

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2013年12月13日 (金)

シュレーカー ある大歌劇のための前奏曲 シナイスキー

Mikimoto

銀座ミキモトの、恒例のツリー。

その足元には、今年はリングのオブジェ。

頭が入りそう。

Schreker_2

  シュレーカー  ある大歌劇のための前奏曲

    ヴァシリー・シナイスキー指揮 BBCフィルハーモニック

                         (2000.10 @マンチェスター)


久しぶりのフランツ・シュレーカー(1874~1934)。
でも、こうしてブログで取り上げるのは、しばらくぶりだけど、日常的にちょこちょこ聴いてます。

あらためて、そのプロフィールを過去記事から引用しておきます。
これも何度もやってますが、シュレーカーの人となりを知っていただきたいから。

>ユダヤ系オーストリアの作曲家。

自らリブレットを創作し、台本も書き、作曲するという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能で、10作(うち1つは未完)のオペラを残している。
 指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、世紀末を生きた実力家。

ドイツオペラ界を席巻する人気を誇ったものの、ナチス政権によって、ベルリンの要職を失い、失意とともに、脳梗塞を起こしてしまい56歳で亡くなってしまう。

その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。

マーラーの大ブレイクの影に、同時代人としても、まだまだこのうような作曲家がたくさんいます。
しかし、いずれも交響曲作家でなく、劇音楽を中心としていたところがいまだ一般的な人気を勝ちえないところだろうか。<

という、シュレーカーさん。
亡命をすることはなかったのですが、次々に追い込まれ、心臓の疾患で亡くなりました。

その音楽は、退廃的でもなく、シェーンベルクの初期作と同じような、甘味で濃密な表現主義的な世界にも通じ、かつマーラーのような、複雑な顔を持っています。

強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。
 それらの味わいが、一度好きになると、やめられなくなる。
いくつも聴いてくると、その音楽のパターンが自分の中で整理されてくる。
そして、常習性を持って、聴くようになる。
毎夜、ブログのために、音楽を聴きます。
その作業が終ったあとに、寝るまでにツマミ聴きする音楽たちのひとつがシュレーカーやコルンゴルトなんです。

さて、シャンドスが出したシナイスキー指揮によるシュレーカーの管弦楽作品の2枚目。
その中から、「ある大歌劇のための前奏曲」。
ほかの収録曲も、とても魅力的なのですが、既出であったり、また、改めて取り上げたかったりもしますので、ご案内は、ここでは割愛しました。

この曲は、シュレーカー最後の作品です。

1920年初演の「音楽箱と王女」の時から芽生えた、「メムノン」という題材のオペラ化。
しかし、構想を持ちつつも、その後の指揮活動や、いくつものオペラの作曲で、本格的に手が付けられない。
1933年に、したためていた素材から、この大前奏曲をとりあえず、生み出した。
前奏曲とはいいつつも、実に24分の大作で、思い描いたオペラ本編のエッセンスの集結なのでありましょう。
これを編んだあと、ナチスの脅威も迫り、翌年にはシュレーカーは亡くなってしまいます。

エジプト神話に素材を求め、半神のメムノンと、それを探し求める女性・・・・、というようなドラマのようです。

音楽は、エキゾテッィクで、まがまがしい雰囲気で始まり、その後に、シュレーカーらしい、甘味で後ろ髪ひかれる旋律も交錯してきます。
冒険的なファンファーレ風な場面もありますし、夜のしじまを感じさせる、これまたシュレーカーならでは怜悧な音楽も響きます。
このような、とりとめのなさの連続が、不思議なほどに、耳に麗しく響いてくる。

でも何十回も聴いてるけど、どこか遠くで鳴ってる音楽。

それがまたシュレーカーなのであります。

壮大な素材、完成していたら、どんなオペラになっていたことでしょうか!

シナイスキーとBBCフィルの明快な演奏。
ムントとウィーントーンキュンストラとのナクソス盤よりも、バリっとはっきりしてました。

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2013年12月12日 (木)

ペーター・ホフマン Monuments

Yurakucho

有楽町のとあるビルにちゃっかり入り込んで、パシャリ

赤いバラのゴージャスなツリー。

Yurakucho2

近寄ってパシャリ

あらやだ、ワタクシの姿が、オーナメントにまる映り。

そうとわからないように、モザイク入りましたが、まるで犯人だわ、これ。

しかし、外の有楽町駅のグリーンとの対比が、それは美しいものでしたよ。

今日は、亡き名テノール、ペーター・ホフマンの歌声を。

Peter_hofmann

 
  「Monuments」  ペーター・ホフマン

   1.ホルスト 「惑星」 快楽の神

   2.All by myself ~ラフマニノフbyエリック・カルメン

   3.プッチーニ 「トスカ」~「星はきらめき」

   4.ヴェルディ 「リゴレット」~「風の中の羽のように」

   5.「歓喜の歌」 ベートーヴェン

   6.グノー 「アヴェ・マリア」~バッハ

   7.Could It be Magic ~ショパン 前奏曲第20番

   
   8.バーンスタイン 「ウエストサイドストーリー」 Somewhere

       アンドリュー・プライス・ジャクソン、アンドリュー・ポーウェル指揮

                            ロンドン交響楽団


                              (1987 @ロンドン)

ペーター・ホフマンが亡くなって、もう3年が経つ。

1944年生まれ、2010年11月30日没の闘病の末の早すぎる死。

あのときの衝撃と悲しみは、いまでも覚えてます・・・・。

おおよそ、ワーグナー好きにとっては、タイトルロールを歌うヘルデンテノールという存在は、憧れであり、素晴らしければ素晴らしいほど、神的な存在に高められるのだ。
そんなひとりが、ペーター・ホフマン。
名前もしらなかったとき、水星のようにあらわれ、76年の大スキャンダルとなった、これもまた、今年亡くなった、パトリス・シェローの「リング」のジークムント役で颯爽と登場した。
演出も指揮も、歌手も、みんな激しいブーイングを浴びたなか、それは先輩、ジェス・トーマスやルネ・コロさえ例外でなかったのに、ひとり、ペーター・ホフマンの神々しく、輝かしい声と、その悲劇的な抜群のルックスでもって、大喝采を浴びたのだ。
そのときのことは、FM放送で聴いて、いまだに記憶があります。

そして、以来、ワーグナー歌いとして、ヴィントガッセンの後を継いだ、キングやトーマスのあとの世代の、三大ヘルデンとして、コロ、イエルザレムとともに70~80年代に最も輝いた存在なのです。

同時にその経歴が明らかになって知ることとなった、本来のロック・ミュージシャンとしての側面。
学生時代は、ロックバンドを組んで活動していたというし、同時にスポーツの万能選手として陸上競技にも通じていた俊敏で強靱な肉体を持っていました。

天は2物を与えず、とかいうのは、ホフマンの場合、まったくあてはまりません。

「パルシファル」の上演で、2幕で、クリングゾルが槍をパルシファルに投げつけるクライマックスシーンがあるのですが、それを実際に投じて、しかと受け止めることができたのは、槍投げが得意だったフランツ・マツーラ(クリングゾル役、シェーン博士のスペシャリスト)と、このペーター・ホフマンのコンビだけ!

どう考えたって、憎らしいほどにカッコいい。

で、クラシック以外のポップス・ロックアルバムもドイツでは多数、発売されていたようです。

今日のCBS録音の1枚は、ホフマンのオペラ界での絶頂期の録音で、クラシカルな音楽のポップスバージョンを、オペラ歌手であり、ロック歌手であるシンガーが歌うというユニークなもの。

編曲も、原曲の形は残しながらも、完全にロックポップス。
ロンドン響だから、そのあたりの順応性も抜群だし、分厚いオーケストラサウンドも聴けるし、パーカッションも効いてます。

そしてホフマンの、伸びのある突き抜けた声は、こうした曲たちでも、抜群の破壊力パワーを展開してくれます!
一方で、陰りある、バリトン系の声もここではとても魅力的です。
根っからの悲劇的ヒーローの姿を背負った歌い手なのです。
こんなバリバリ系なのに、すっきりともたれない透明感と軽さも併せ持ってるから、それは、鍛練された肉体の賜物でもありましょう。

ジュピターが流行るずっと前の「火星」。粋でかっこいいですよ。
エリック・カルメンより、ずっとずっとラフマニノフな、オールバイマイセルフ。

この音盤の中で、一番面白いし感銘を受けるのが、カヴァラドッシ。
あまりに異質なプッチーニではあるけれど、その悲壮感あふれる孤独と力感。
まるで、ジークムントのようなカヴァラドッシに、有無を言わせずに気持ちを持っていかれます。

ほかの曲も、ここでは触れませんが、どこをとっても、どこを聴いても、われらが「ジークムント」だったペーター・ホフマンの歌声です。
泣けました・・・・・。

天は与え、そして、天は奪ったのです。

ホフマンの早すぎた、病による歌手生活の引退と、その後の死でした。


   

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2013年12月11日 (水)

シューマン 幻想小曲集 ブレンデル

Gaien2

神宮外苑の参道をお散歩してきました。

昨日の低気圧で、黄色く色づいていたイチョウも、散ってしまって、黄色い絨毯ができあがってました。

春のピンクの絨毯と、秋の黄色い絨毯。

日本の四季は、ほんとにきれいなのだ。

Schuman_brendel

 シューマン  「幻想小曲集」 op12

      ピアノ:アルフレート・ブレンデル

                  (1982.3 @ロンドン)


ひさしぶに聴くシューマンのピアノ曲。

遅すぎる晩秋を、本格的な冬の始まりに見て、感じてしまったから。

そんなロマンティックな心情に、ぴたりと寄り添うのが、シューマンのピアノ作品だし、ブラームスの室内楽、そしてディーリアスの感覚的な音楽。

「幻想小曲集」、この曲を初めて聴いたのは、高校生のとき。
そう、17歳ぐらいですよ。
オッサンになりはてた自分にも、そんなときがあったんですよね。

NHKFMで、午後のリサイタルっていう番組が、平日、毎日あって、日本人演奏家による室内楽と器楽演奏、歌曲が放送されてました。
それを録音しまくることで、知り、開眼していったオーケストラやオペラ以外の世界。
シューマンのピアノ曲の数々も、ここで知りました。

多感な高校生の心に、ショパン以上に、ひびきました。
ショパンのような直截なロマンや憧れじゃなくって、もっと複雑で、近づくと離れてしまうような手に負えないモヤモヤ感がを感じました。
 そのある意味、いびつな情熱の吐露が、若い自分には、女性的なショパンよりも、男性的なロマンティストとしてのシューマンを感じたのでありましょう。

高校生の時には、思いもしなかったほど、その何百倍もの音楽を、しかも当時には聴くこともできなかった音楽たちを聴いた、いまの耳でこうして聴いても、シューマンはあのときと変わらずに鳴り響いてます。

いくつになっても、歳を経てもシューマンはシューマン。
夢を垣間見させてくれます。

 1.夕べに    2.飛翔     3.なぜ?     4.気まぐれ   

 5.夜に      6.おとぎ話   7.夢のもつれ  8.歌の終わり


1837年、26歳のときに作曲されたこの曲集は、ライプチヒ訪問時に親しくなったイギリスの女流ピアニスト、ライドラウに献呈されております。

これら8曲の日本語訳の邦題は、ほんとうによく出来てると思います。
それぞれの曲の持つ、雰囲気を、本質的に捉えてしまっています。

「幻想小曲集」という大きなくくりと、これらの各曲の邦題だけで、もうなにも解説はいりません。

短い、日本語のそれぞれを思いながら、これらの曲を聴くだけで、もうこと足ります。

夜への関連性が強いのですが、昼に見た、素敵な光景や、会った人のことを想いながら聴くと言う意味でも、夜の音楽でもあります。

ブレンデルの明快でありながら、ふくよかタッチのピアノは、そんなシューマンを聴く人のロマン的心情を優しく包んでくれてやみません。

Gaien3

いい夢みましょう~

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2013年12月10日 (火)

モーツァルト 「リンツ」・「プラハ」 アンチェル&ドレスデン

Brooks_brothers

丸の内のブルックス・ブラザースのショーウィンドウ。

アメリカン・トラディショナルは、わたくしの学生時代の花形ファッションでした。

在学中に近くにオープンした、初の直営店舗は、どきどきしながらの買物でした。

いまほど高級ブランドじゃなかったし、女子は、ハマトラで、男子はアメトラで、なんだか今思うと懐かしいほどに律儀だったな。
同時に、西海岸の軽いポップなAORとともに、サーファー風のファッションも湘南発ではやりましたな。

いまとはまったく違う風貌のワタクシも、そのどちらも中途半端にマネするひよっこでしたよ。

社会人後は、1年は我慢して、トラッド専門。
Jプレスばかり、ボタンダウン、ブレザーばかりでしたな・・・。

誰しもありますね、こんな時期や時代が。

いまでは、ジーンズと汚いトレーナーはまだいい方で、ジャージで近所のスーパーで豆腐や納豆を買いに行く、そこらのオッサンになりはてておりますがなぁ。

Ancel_mozart

  モーツァルト 交響曲第36番 ハ長調 「リンツ」

            交響曲第38番 ニ長調 「プラーハ」


   カレル・アンチェル指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

                        (1959.6 @ドレスデン)


実に珍しい組み合わせです。

チェコの指揮者として、この耳で聴ける歴代の大家としては、ターリヒに続いて思い起こされるカレル・アンチェル(1903~1973)。
そのあとには、クーベリックは先達として別格として、スメターチェク、ノイマン、コシュラー、コウト、ビエロフラーヴェク、ペシェク・・・と代々続くわけで、ふだんはあまり意識はしないけど、チェコの指揮者たちの系譜というのは、超大物はいないかわりに、名匠のがつく、ほんとうに優れた指揮者たちの宝庫なのであります。

同時に、われわれ日本にも、とても馴染みのある指揮者ばかり。

アンチェルが日本にやってきたのは、1959年で、よくいわれるようにその頃は、戦後日本が、文化面でも急速な立ち上がりを示し、欧米の著名オケやオペラ、演奏家が多数来日するようになった時勢です。
この年、同時に、カラヤンがウィーンフィルと来演して、ベートーヴェンやブラームスをメインに演奏しましたが、アンチェルとチェコフィルも新世界をメインに、チィコフスキーやベートーヴェン、ブラームスを引っ提げて、全国津々浦々演奏してまわり、アンチェルとチェコフィルの名を、日本人にしっかりと植えつけていったのでございます。

ユダヤの血を引いていたがゆえに、第二次大戦中は収容所送りながら、生きながらえて、チェコの楽壇で活躍。
チェコフィルの指揮者に復帰して活躍すれど、68年のプラハの春に伴うソ連を中心としたの軍事進攻により、アンチェルは祖国に帰ることがなく、そのままカナダにとどまり、トロントのオーケストラを指揮して、そのあとの短い活動をおこなった。

ナチスドイツ亡きあと、ヨーロッパ周辺国は、東西にわかれた陣容となったが、政治は抜きに、東西ドイツは文化が一体なので、その交流は、ソ連ほどの厳しさはなく、いまにして聴かれる豊かな歴史的な音楽の恵みも多々残されました。
 東&東の交流ですが、チェコの名指揮者アンチェルが、東ドイツのドレスデン・シュターツカペレを指揮したこの1枚は、イデオロギーは関係なくお互い眼中になく、音楽家同士が、一期一会的にぶつかり合った、鮮烈な記憶として聴くことができます。

モノラルのスタジオ録音。
鮮明で、レコードならではの、暖かさも感じさせる音色をそのまま復刻。

リンツとプラハという、ヨーロッパ中世都市の名前を冠した交響曲の組み合わせは、あるようで少なく、モーツァルトを演奏させたらかつては世界一だったドレスデンならではの、意外なほどに充実した重低音を背景にした、音の丸みとまろやかさが、とても耳になじみやすい。
 思いのほか、モダンな嗜好をもったアンチェルの爽快でキビキビした指揮も、思えば、この指揮者の新世界はそんな感じだった、と思い起こさせる立ち上がりのよい、キリリと引き締まったモーツァルトになってます。
大型の音楽を造ることのない、小回りのきく機敏な指揮者ではなかったのでしょうか、アンチェルさん。
アンチェルの芸風、「新世界」と「わが祖国」しか聴いてなかった自分には、驚きの小股の切れあがりぶりを見せつけてくれました。

貴重なコンビの、貴重な演奏を復刻してくれたのは、まいどお世話になります、大阪のEINSATAZさんです。
LEBHAFTというレーベルにて発売中です。こちらからどうぞ

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2013年12月 8日 (日)

ブリテン 「グロリアーナ」 マッケラス指揮

Mitsui

日本橋の三井本館、夜のライトアップですよ。

半沢ドラマのロケ地としても、よく登場してました。

財閥の象徴、由緒ある重要文化財でございます。

わたくしのような、へっぽこな人間には、まったく縁もゆかりもござんせん。

Britten_gloriana

  ブリテン  歌劇「グロリアーナ」

 エリザベス1世:ジョセフィーヌ・バーストゥー
 エセックス公ロベルト・デヴリュウー:フィリップ・ラングリッジ
 エセックス公夫人フランセス:デッラ・ジョーンズ
 マウントジョイ卿チャールズ・ブラント:ジョナサン・サマーズ
 エセックス公の姉レディ・リッチ、ペネロペ:イヴォンヌ・ケニー
 枢密院秘書長官ロバート・セシル卿:アラン・オウピ
 近衛隊長ウォルター・ラーレイ卿:リチャード・ヴァン・アラン
 エセックス公の従者:ブリン・ターフェル
 女王の待女:ジャニス・ワトソン  
 盲目のバラッド歌手:ウィラード・ホワイト
 ノリッジの判事:ジョン・シャーリー・クヮーク
 主婦:ジェネヴォーラ・ウィリアムス
 仮面劇の中の精霊:ジョン・マーク・エインズリー
 式武官:ピーター・ホーア      
 街の触れ役:ジェイムス・ミラー・コバーン
 マウントジョイ卿の給仕:クリストファー・コルナール
 エセックス卿の給仕:ドミニク・キル

  サー・チャールズ・マッケラス指揮

            ウェールズ・ナショナル・オペラ管弦楽団
     ウェールズ・ナショナル・オペラ合唱団
     モンマス・スクール合唱団
   リュート:トム・フィヌカーネ

  (1992.12 @ブラングウィンホール、スヴァンシー)

16作あるブリテンのオペラ作品のうち、8番目。
これらの中で、「ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)」は、ジョン・ゲイの作品の編曲・焼き直しなので、それを除けば15作7番目。

1953年、現女王、エリザベス2世の戴冠式奉祝として作曲された。
ちょうど今年は60年。
ブリテンは、献辞に「この作品は、寛容なるご許可によってクィーンエリザベス2世陛下に捧げられ、陛下の戴冠式のために作曲された」としております。

原作は、リットン・ステレイチーの「エリザベスとエセックス」。
台本は、南アフリカ生まれの英国作家ウィリアム・プルーマーで、彼は「カーリューリバー」の脚本家でもあります。

1953年6月6日に、コヴェントガーデン・オペラハウスで、一般人はシャットアウトして、政府高官や王列関係者たちだけのもとで初演。
英国作曲界の寵児であったブリテンの新作オペラではあったけれど、初演の反応はさっぱりで、むしろジャーナリストたちからは、果たして女王に相応しい音楽だろうか?として攻撃を受け、連日非難が高まり、やがてこのオペラは忘れられていく存在となってしまった。
 そんな風潮も、どこ吹く風、なところがブリテンらしいところで、さらにオペラを極めてゆくこととなります。

ではなぜ、そんなスキャンダルもどきのことになったのか。

それは、オペラのあらすじをご覧いただければ一目了然。
物語の主人公はエリザベス1世、期せずして、1533年生まれ1603年没。
その別名が彼女を讃えるべく「Gloriana」グロリアーナでもあるわけです。

時は、1599年から1600年のこと。
登場人物たちは、歴史上実在の人物たち。
成功続きだった女王の治世も陰りが出てきて、生涯独身だったエリザベスにも老いが忍び寄っていた時期。
エセックス公ロベルト・デヴリューを寵愛し、彼は、一方で女王から信頼を受けていた政治の中枢、ロバート・セシルと敵対関係にあった。
ドニゼッティのオペラにも、英国女王3人にまつわる3部作があり、エセックス公=「ロベルト・デヴリュー」があります。

こんな背景を頭に置きながら、このオペラを味わうとまた一味違って聴こえます。

第1幕
 
 ①馬上試合の場面、エセックス公は従者とともに試合観戦中。
従者からの報告で一喜一憂。しかし結果は、マウントジョイの優勝。
女王から祝福を受ける彼をみて、エセックス公は、本来なら自分がそこに・・・と嫉妬をにじませる。
人びとは、エリザベス朝時代の女王を讃える歌「Green Leaves」を歌う。
そのマウントジョンとエセックス公は、やがて口論となり小競り合い。
そこに登場した女王のもとに、二人は跪き、彼女の仲裁で仲直りする。
人びとは、ここで再度「Green Leaves」を歌い、今度はフルオーケストラで、とくにトランペットの伴奏が素晴らしい。

「Green leaves are we,red rose our golden queen・・・・」 

この讃歌は、このオペラに始終登場して、その都度曲調を変えて出てきます。

 ②ノンサッチ宮殿にて。腹心のセシルとエリザベス。
彼は、女王に先の馬上試合での騒動の一件で、エセックス公への過度の肩入れは慎重に、と促し、女王も、それはわかっている、わたくしは、英国と結婚しています、と述べる。
 彼と入れ替わりにやってきたのは、そのエセックス公。
彼はリュートを手にして歌う。明るく楽しい「Quick music is best」を披露。
もう1曲とせがまれて、「Happy were he could finish」と歌います。
それは、寂しく孤独な感じの曲調で、ふたりはちょっとした二重唱を歌う。
オーケストラは、だんだんと性急な雰囲気になり、エセックス公はここぞとばかり、アイルランド制圧のための派兵のプランを述べ、命令を下して欲しいと懇願。
女王は、すぐさまの結論を出さず、公を退出させる。
ひとり彼女は、神よ、わたくしの信民の平和をお守りください・・・と葛藤に悩む。

第2幕

 ①ノーリッジ 訪問の御礼に市民が女王の栄光をたたえるべく、仮面劇を上演。
マスク役のテノールが主導する、この劇中劇の見事さは、さすがブリテンです。
そんな中で、結論を先延ばしにする女王に、エセックス公はいらだつ。
劇が終ると、人びとは女王のそばにいつも仕えますと、感謝の意を表明し、女王はノーリッジを生涯わすれませんと応える。
 ここでまた、Green leaves。

 ②ストランド エセックス公の城の庭
マウントジョイとエセックス公の姉ペネロペは恋仲。ふたりはロマンティックな二重唱を歌い、そこにエセックス公夫妻もやってくるが、最初は公は姉たちがわからない位置に。
エセックス公は、プンプン怒っていて、弟君は、何故怒っているのかとペネロペに問う。
自分の願いが認められなくて、イライラしてるのよ、と姉は答える。
やがてそれは4重唱になり、愛を歌う姉、どんだけ待たせるんだとの弟とマウントジョイ、自制を促すエセックス公の妻。
しまいには、女王はお歳だ、時間はどんどん彼女の手から流れ去ってしまう・・・・と3人は急ぐように歌い、ひとり妻は、ともかく慎重にと促す。

 ③ホワイトホール城の大広間 エセックス公の主催の舞踏会
パヴァーヌから開始。やがて公夫妻、マウントジョイとペネロペ入城。
夫人は豪華絢爛なドレスを纏っていて、マウントジョイにペネロペは、弟があれを着るように言ったのよとささやく。
ダンスはガイヤールに変わり、4人はそれぞれにパートナーで踊ります。
 そこに女王がうやうやしく登場。彼女は、エセクス公夫人を認めるなり、上から下まで眺めつくす。
彼女は今宵は冷えるから体を温めましょうと、イタリア調の激しい舞曲ラヴォルタをと指示。
音楽は、だんだんとフルオーケストラになり、興奮の様相を高めてゆく。
 ダンスが終ると、女王は、婦人たちは、汗をかきましたからリネン(下着)を変えましょうと提案し、それぞれ退室。その後も、モーリス諸島の現地人のダンス。
しかし、レディたちがもどってくるが、エセックス公夫人があの豪華な衣装でなく地味なまま飛び込んできて、さっきの服がない、誰かが着てると騒ぎ立てる。
そのあと、女王が大仰な音楽を伴って戻ってくる。
そのドレスは、なんとエセックス公夫人のあの豪華な衣装。
しかも、体に合わず、はちきれそう。
唖然とする面々にあって、婦人は顔を手でおおって、隅に逃げ込む。
屈辱を受けながらも、怒りに震える夫と、姉、マウントジョイには、それでも気をつけてね、相手は女王なのよ、とたしなめる健気な夫人。
 お触れの、お出ましの声で、元のドレスに戻った女王が登場。
エセックス公に、近衛隊長ラーレイが、大変な名誉であると前触れ。
そして女王が、「行け、行きなさい、アイルランドへ、そして勝利と平和を持ち帰るのです」とエセックス公に命じ、手を差し出す。
うやうやしく、その手をとり、エセックス公は感激にうちふるえ、「わたしには勝利を、貴女には平和を」と応えます。
明日、あなたは変わります、そして今宵はダンスを!クーラントを!
女王の命で、オーケストラはクーラントを奏で、やがてそれは白熱して行って終了。

第3幕

 ①ノンサッチ宮殿 女王のドレッシングルーム。
メイドたちのうわさ話。3つのグループに分かれて、オケのピチカートに乗ってかまびすしい。エセックス公のアイルランド遠征失敗のことである。
そこに当の、エセックス公が息せき切ってやってきて、女王にいますぐ会わなくてはならないという。
女王は、まだ鬘も付けず、白髪のままで、何故にそう急くのか問いただすものの、エセックス公はいまある噂は嘘の話ばかりと、まったく当を得ない返答。
何か飲んで、お食べなさい、そしてリフレッシュなさい、とエセックス公をたしなめ帰すエリザベス。
待女とメイドたちの抒情的で、すこし悲しい美しい歌がそのあと続く。

 秘書長官セシル卿を伴って女王登場。
セシルは、アイルランドはまだものになっておらず、しかもスペインやフランスの脅威も高まってますと報告。女王は、これ以上彼を信じることの危険を感じる。
女王は命令を下します。「エセックス公を管理下におき、すべて私の命に従うこと、アイルランドから引き上げさせ、よく監視すること。まだ誇りに燃えている彼の意思をつぶし、あの傲慢さを押さえこむのよ、わたくしがルールです!」と。

 ②ロンドンの路上 盲目のバラッド歌手が、ことのなりゆきを歌に比喩して歌っている。
少年たちは、セシルやラレーのようになろう、と武勇を信じ太鼓にのって勇ましく行進中。
エセックス擁護派は、王冠を守るために働いているのだ、女王は年老いたと批判、かれが何をしたのか・・・と。
バラッド歌手は、反逆者だと?彼は春を勘違いしたのさ、と。

 ③ホワイトホール宮殿 エセックス公の公判
セシルとラレーは、彼がまだ生きていることが問題と語っていて、女王が入廷すると、エセックス公に対する処刑命令が宣告される。その最終サインは女王。
「彼の運命はわたくしの手にゆだねられたのね、サインはいまはできない、考えさせて・・」と女王は判断を伸ばすが、セシルは、恐れてはいけません、と迫る。
女王は、「わたくしの責任について、よけいなことをいうのでありません」とぴしゃりと遠ざけてしまう。

ひとりになった女王は、哀しい人よ、と嘆く。
そこへ、ラレーが、エセックス公夫人、姉、マウントジョイを連れてくる。
彼らは、女王にエセックス公の助命を懇願にやってきたのだ。
まず、夫人がほかの二人に支えられて進み出て、「あなたの慈悲におすがりします。わたくしのこのお腹の子とその父をお救いください」と美しくも憐れみそそる歌を歌う。
これには、女王も心動かされ、嘆願を聞き入れる気持ちに傾く。
 その次は、エセックスの姉ペネロペが進み出て語る「偉大なエセックス公は、国を守りました・・」、その力はわたくしが授けましたと女王。姉は、まだ彼の力がこのあなたには必要なのですと説くと、和らいだ女王の心も、一挙に硬くなり、なんて不遜なのだ、と怒りだす。
食い下がるペネロペにさらに怒り、3人を追い出し、執行命令書を持ってこさせ、サインをしてしまう。

この場面での悲鳴は、エセックス公婦人、オーケストラはあまりに悲痛な叫びを発します。
ここから、音楽は急に、暗く寂しいムードにつつまれます。

女王は、大きな判断をして勝利を勝ち取りました、しかし、それは虚しい砂漠のなかのよう、と寂しくつぶやく。

遠くでは、エセックス公が、死の淵にあるいま、みじめなこの生を早く終わらせることが望みです・・・・。とセリフで語る。
以下は、セリフの場面が多く、音楽は諦念に満ちた雰囲気です。

女王は、自分はわたくしの目の前で、最後の審判をこうして行ってきました。王冠に輝く宝石は国民の愛より他になく、わたくしが長く生きる、その唯一の願いは、国の繁栄にほかなりません、と語る。
 外では、群衆の喝采が聴こえる。

  「mortua, morutua, mortua, sed non sepulta!」
 
女王がつぶやくように歌うこちら、ラテン語でしょうか、意味がわかりません。

セシルが再びあらわれ、女王に早くお休みになるように忠告するが、女王は、女王たるわたくしに、命令することはおやめなさい。それができるのは、わたくしの死のときだけと。
そしてセシルは、女王の長命をお祈りしますとかしこまります。

弦楽四重奏と木管による、寂しげな音楽のなか、女王は「わたくしには、生に執着することも、死を恐れることも、ともに、あまり重要な意味をいまや持ちません」と悲しそうに語る。

ハープに乗って静かに
「Green leaves are we,red rose our golden queen・・・・」が、合唱で歌われ、それはフェイドアウトするように消えてゆきます。

舞台では、ひとりにきりになった女王が立ちつくし、やがて光りも弱くなり、暗いなかに、その姿も消えていきます・・・・・・。

                    


このような、寂しくも哀しい結末。
老いから発せらる女王の嫉妬や、時間のないことへの焦り。
そして、ある意味、醜いまでのその立場の保全。
さらに、重臣たちの完璧さが呼ぶ、あやつり人形的な立場。

ブリテンは、エリザベス1世の人間としての姿を、正直に描きたかったのに違いありません。
一連の、ブリテンのオペラの主人公たちが持つ、その背負った宿命や悲しさ。
あがいても無駄で、そこに、はまりこんでしまう主人公たち。
その彼らへの、愛情と同情、そしてそれが生まれる社会への警告と風刺にあふれたブリテンの作り出した音楽たち。

クィーンだったエリザベス1世に対しても例外でなかったのです。
恩寵をあたえたエセックス公への思いを殺して、処刑のサインをする女王の苦しみは、短いですが、最後の10分間のエピローグに濃縮されてます。

当然に、当時の英国社会は、ふとどきな作品としてネガティブキャンペーンをはります。
音楽業界も、完全スルー。
ブリテンも、わかっていたかのように、静かにその評価を受け止めます。

まるでなかったかのように、ブリテンはその後も活動し、英国もブリテンをパーセル以来のいオペラ作曲家として処します。
大人の対応の応酬なのでした。

そして、このオペラをCDで蘇らせたのが、サー・マッケラスです。
ことしの、コヴェントガーデンで、上演もされました。
2世の御代、このオペラも冷静に受け入れられる土壌ができました。

曲中に溢れる当時の音楽や舞曲。
語りも駆使して、緊張感あふれる間をつくりだすブリテンの筆の妙。
オーケストレーションは最高に冴えてて、細かなところまで細心の注意と意志が張り巡らされた上質のオペラ作品だと思います。
後年、趣きある舞曲を中心として、このオペラから組曲を編み出してもあります。

オーケストラについては、マッケラスの繊細な目配りが行き届いてます。
歌手たちも、その名前をご覧ください。
いまにいたるまで、最高級の英国オペラ歌手たちが配されてます。

カラヤンも登用したバーストゥの位高くビンビンのソプラノは、まるでトゥーランドットのようでいて、かつ悲しそうな歌唱が十全。
ラングリッジの繊細だけど、一方的な歌も、これはきっとピアースと思わせる、そんな没頭ぶり。

ほかのおなじみの豪華歌手陣、みんな完璧でした。

編曲ものとした場合の「ベガーズオペラ」をのぞいて、ブリテンのオペラは、あと1曲。

そう、最後のオペラ「ヴェニスに死す」です・・・・・。

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2013年12月 7日 (土)

ベルリオーズ 幻想交響曲 ロト指揮

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お約束のサンタルックの12月の小便小僧。

12月は、毎年サンタになりますが、いつも異なるサンタさんで、ボランティアでやられている会の皆さまには敬服いたします。
毎月26日に衣裳替え。

もう今年最後となりました。

幻想も今年最後。

Hamamatsucho201312_b

背中にしょった袋には、何が入ってるんでしょうね。

福をたくさん背負って、イブにみんなに分けて欲しいですね。

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     ベルリオーズ  幻想交響曲

   フランソワ=クサヴィエ・ロト指揮 レ・シエクル

   (2009.8.30 @ラ・コート・サンタンドレ、ベルリオーズ音楽祭ライブ)


いまから210年前に生まれたベルリオーズ。
今年は変則ながら210年祭だった。

フランス南東部、ローヌ・アルプスの麓の美しい街ラ・コート・サンタンドレに生まれました。

そこで毎夏行われているベルリオーズ音楽祭。

こんなにベルリオーズを聴いてるのに、その音楽祭のことはうかつにも知りませんでした。
今年は、近くのリヨンからリヨン管が、スラトキンとともに訪れてます。

今月の幻想は、2009年の音楽祭のライブで、指揮は、今注目のクサヴィエ・ロト。
ロトは、1971年パリ生まれの42歳。
パリとロンドンで学び、中でもガーディナーのアシスタントをつとめて、古楽を多く学んでいるほか、アンサンブル・アンテルコンタンポランとの活動を通じて現代音楽にも精通。

2003年には、「レ・シエクル」という古楽オケを創設し、2011年からは、カンブルランの後を継いで、南西ドイツ放送響の指揮者にも就任。
文字通り、17世紀バロックから、21世紀現代までと、広範囲のレパートリーを手にした指揮者であります。

かつての昔の指揮者界では、あり得ない存在の人で、アーノンクールやガーディナー、ノリントンらよりもさらに鮮烈でユニークな若い世代の指揮者なのです。
同系列に、ミンコフスキ、ヘンゲルブロック、ティチアーティなどがいますが、ロトさんの、なにやるか分からない変幻ぶりは、古楽と現代音楽のふたつの手兵オケを有しているので、これから大いに楽しみなのです。

今年の、プロムスでは、リュリとラモーとハルサイを、この古楽オケで演奏してのけて、大喝采でした。
リュリとラモーでは、リュリがそれを足に殴打して、それがもとで死んでしまった、大きな杖をコツンコツンと叩きながら指揮してましたよ。

その時の記事→ロトのハルサイ

この幻想の演奏タイムは51分。
長めですが、それは1楽章も、4楽章も繰り返しをすべて励行しているからでして、テンポそのものはごく普通。
しかし、細かなところで、テンポはよく動かされ、かつ強弱や表情付けも豊かなことから、最初の一音から、爆発的な最終場面まで、どこひとつとっても飽きることなく、面白く聴ける幻想なのですよ。

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1楽章の性急さは、主人公の前のめりの想いをよく体現しているし、2楽章のぎくしゃくと感じさせるワルツも面白い表現だ。
そして素晴らしかったのが3楽章。
これは美しく、透き通るような抒情がたまらなくいい。
ヴィブラートをかけずに、乾いた音と一切感じさせない、繊細で、ピリオドのいいところだけを抽出したかのようなお手本でありました。
ベルリオーズの生まれた、フランス南部の田園風景を、ここに思うことも可能なのでした。
 ストレートな断頭台への行進では、オケの薄さが、派手な打楽器に負けている感はありますが、ここでのリアリティある響きはなかなかのもの。
奇嬌な終楽章も面白い。
古楽オケも、ここまできたかと思わせる多彩な表情を駆使したヴァルプルギスの乱痴気ぶり。
音のひとつひとつが、最後に向かってだんだんと熱をおびてゆく。
フランス人のラテン的要素も加味しての、切れば血の吹きだすような熱血大会。
猛然たるアッチェランドで華々しく終わる、オモシロ幻想なのでした。

こんどは、ロトさんの、マーラーやシュトラウスを聴いてみることにしよう。

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真横から失礼。

勢いよろしゅうおまんな。

月イチ幻想交響曲をやって3年半。
月イチ小便小僧をやって約3年。

小僧と幻想を絡めて月イチとして、2年半。

その数だけ、幻想を毎月聴いてきたわけで、45ぐらいは取り上げていることになります。

まだ取り上げてない幻想もたくさんあります。

ぼちぼち、違う曲にしようかとも思いますが、もう少しやりますね。

この横姿を見てたら、まだ続ける気になってきた。

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2013年12月 6日 (金)

RPG 世界の終わり

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秋葉原のクリスマスツリー。

大企業の街と化した駅前開発。

それとは別の顔、サブカルチャーの発信地としての顔。

東京の街は、みんなそれぞれ。

そして、各街から、いろんな多彩なアーティストが輩出。

横浜、埼玉、千葉、広義の東京が織りなすポップな音楽ワールドは、宇都宮や広域群馬にも同域に、そして日本各地が世界的な文化の発信域になっていると思います。

クラシカルな音楽の領域にあるわたくしは、ときおり、いまの若い人たちの音楽を確認しながら聴くことがあります。
自分の子供たちが、何を聴いてるからだいたい把握してます。

そうでない日本の曲たちにも目を光らせなくてはなりません。

でも、大概に、遅すぎるのですが、それでも事務所にいるときは、FMヨコハマを流してるので、昨今の若いリスナーさんたちが聴く音楽は、自然と耳に入ってくるんですね。

そんな中で、春先あたりからずっと気になっていた、この曲。
以来、ずっと聴いてました。

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   「RPG」   世界の終わり

クレヨンしんちゃんの映画にも使われました。

世紀末的な終末バンドのようなイメージをいだかせる名前だけど、いろいろと苦労して、苦心惨憺極め尽くしたあげくの状況を自虐的に表明した名前が「世界の終わり」なそうです。

この画像は、かれらのこの曲のビデオクリップなのですが、けっしてヤバイことなくて、ごくまっとうで、生真面目なバンドなのですよ。
 この映像の録画のとき、ヴォーカルの彼は骨折したから、その杖が、まるですごい効果を醸し出しているんです。

ドラムのマーチングバンドは、この曲に、興奮を呼び覚ます効果を持ってまして、だんだんと盛り上がってゆくその効果は、音楽が人の気持ちをつかんで、盛りあげてゆく効果のそのものです。

 是非映像でご覧ください。



両性的な高音域もきれいな声のヴォーカル。

バンドのキモは、きっとキーボードの女性。

4人の仲間たちの作り上げる、幻想的で、キモくって、3次元的で、優しくって、可愛くて、そして、音楽的な世界は、愛にあふれてます。

彼らはすごい。

音楽の多様性。

日本人で、ほんと、よかった。

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2013年12月 5日 (木)

モーツァルト レクイエム シュナイト指揮

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東麻布にある、聖アンデレ教会。

レクイエムやミサ曲は、カトリックの典礼音楽ですが、こちらの教会は、カトリックでも、プロテスタントでもなく、英国国教会という、その間に位置する教義を持つものです。

近くに、お客さんもいるし、いまあるところから、お散歩にちょうどいい場所ですし、なんといっても東京タワーが間近なので、よく行く場所です。
神谷町、六本木もすぐ近く。

華美でない、精緻な美しさに、心落ち着きます。

今日、12月5日は、モーツァルトの命日。

1791年、今からちょうど222年前に、35歳でこの世を去りました。

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 モーツァルト  レクイエム ニ短調 K626

        S:平松 英子     Ms:寺谷 千枝子
      T:畑 儀文      Br:福島 明也

  ハンス=マルティン・シュナイト指揮シュナイト・バッハ管弦楽団
                        シュナイト・バッハ合唱団
                         
            

             (2004.6.5@オペラシティ・コンサートホール)


モーツァルトの命日にあたって、世界中、きっと多くの方が、このレクイエムを聴いていることでしょう。
しかも、222年前という、ツーの語呂のよさ。

没後200年の1991年のことはよく覚えてます。
音楽業界は、モーツァルト一色になり、ザルツブルク・モーツァルト音楽祭が、サントリーホール中心に催されて、プレヴィンの至芸品モーツァルトが演奏されました。

わたくしは、プレヴィンのピアノと、キュッヘル率いる四重奏団での室内楽コンサートを堪能しました。

もう22年があれから経ってしまった。

あの年のモーツァルトの命日には、ウィーンのシュテファン教会で、ショルティの指揮するレクイエムが、典礼ミサ付きで演奏され、NHKBSで生放送されました。
テレビの前で、全部観て聴きました。

そして、今日は、神奈川フィルに入り込むきっかけを作ってくれた、シュナイトさんの指揮でレクイエムを。

1930年生まれのシュナイト師は、ドイツの典型的なカペルマイスターであり、根っこの部分から教会と音楽とオルガンが、その体にしみついておられる大指揮者です。

ブロムシュテット86歳、ハイティンク84歳、マゼール83歳、アバド81歳、こんな大巨匠と並ぶ83歳のシュナイトさん。
いまは活動を抑えて、ドイツ暮らしなのですが、こんなに元気な同輩の指揮者を思うと、シュナイト爺さんの老けこみ具合が残念。
爺は、厳しい半面、明るく開放的なものですから、オフで羽目を外しすぎるんですよ(笑)。

でもとにかく、いつまでも元気でいて欲しいシュナ爺です。

神奈川フィルとともに、マエストロの名を冠したこのオーケストラや、コロ・ヌオーヴォ、ジャパン・アカデミーフィルなどと、多くの実りある業績を残しました。
日本と、日本の食と、われわれ聴衆と、そして日本女性も大好きだったシュナイト爺は、憎めない愛らしい指揮者です。
でも、その音楽には、ドイツの伝統を担い、それを異国の日本にしっかり伝えたいという厳しさがあふれてまして、練習での容赦ない発言や行動は、いまや語り草になってます。
そこから生まれる、シュナイト節は、柔らかくふくよかで、かつ峻厳さに満ちた本物の響きなのでした。

今でも、脳裏にその姿と音が、神奈川フィルの音色とともに刻まれております。
シュナイト・バッハやコーロ・ヌーヴォ、仙台フィル、札響との共演も追いかけました。

2004年のモツレクの演奏は、残念ながらCDで聴くのみですが、全編ゆったりと、心を込めて慈しむように指揮しているのが、痛いほどよくわかります。
ゆったりめの運びは、シュナイトさんならでは。
ラクリモーサ以降の、ジェスマイアーの手になる部分との落差・格差をまったく感じさせない立派さ。

厳しさと、優しさが同居するモーツァルト。
響きは総じて、南ドイツ風な柔らかさを持ちつつも、その表情は厳しく、モーツァルトの叫びすらも耳に届いてきます。
ベームの厳しさよりは、ワルターのモーツァルトのような微笑みを感じます。

冒頭のオーケストラによる悲しみを引きずるような出だしは、合唱の開始とともに、思いのほかインテンポで、淡々として始まります。
平松さんの清らかなソプラノから、オーケストラはシュナイト爺の唸り声とともに、息が吹きこまれたように生彩に富みだし、合唱とともに、優しいけれど痛切なレクイエムを造り上げていきます。

レコルダーレの心洗われる4人のソロの饗宴と、豊かな低域をなみなみと響かせ下支えするオーケストラには感動しました。

そして、本来、ピークともいえるラクリモーサ。
一語一語、語るように、区切るようにして歌う合唱。
切実さが、それによっていやでも増す。
ここでの思いのほかの淡泊さ。
モツレクの中間点としての認識で、ラクリモーサは位置づけられてます。

その後の補筆補完部分が、こんなに立派なのには驚きなのです。
繰り返しの多い、演奏によっては単調に陥ってしまう部分も、しっかりと、たっぷりとした感情を伴って演奏されてます。
この音楽する心の豊かさ。
それが、聴き手に、ストレートに伝わってくるのです。
そして、最終章コムニオでは、シュナイト節の最たる、祈りの音楽の至上の姿がここにあらわれるのです。
ゆったりと、なみなみと、感情の度合いは高く、最後の盛りあげはどこまでも強く長く、最終和音で、両手を伸ばしきったシュナイト師の姿が思い浮かぶようです。
感銘の、そして祈りに満ちた最終和音です。

日本人のソロ、合唱、オーケストラ、ドイツ人の指揮者。
ここから導きだされた、繊細でありながら、味わいに富んだドイツ音楽の本流。
神奈川フィルのときもそう。
世界にもまれな、日独コラボレーションは、天然記念物級だと思ってます。

このレクイエムの前後には、「フリーメイソンの葬送の音楽」と「アヴェベルム・コルプス」が演奏されてます。
そのどちらもが泣けるほどの名品・名演にございます。

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2013年12月 4日 (水)

ベートーヴェン 交響曲第5番 マリナー指揮

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丸の内中通りは、いまやイルミネーションまっさかり。

乗り換え駅、かねてより起点の東京駅から有楽町までは、ちょうどいい散策コース。

今年は、LEDの進化と大幅普及もあり、やたらと眩しく、各店も独自展示で、震災の年の慎ましさがウソみたいな艶やかなイルミネーションが各所にみられます。
 それもまた、東京・横浜の中心部や、各地のターミナル駅周辺のみのこと。
そうでない駅や街は、相変わらず真っ暗。

それでいいんでしょうね。

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  ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調

 サー・ネヴィル・マリナー指揮
           アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

                       (1987.11 @ロンドン)


いわゆる、俗にいう「運命」、第5であります。

かつての昔、仕事先の方に、この「俗に言う」というフレーズが口癖の方がいらっしゃいました。
その方、当然に、俗に言う「オジサン」だったのですが、なんでもかんでも、「俗に言う」という前触れを、言葉の始めにつけちゃうものですから、うまく行ってるときはいいんだけど、失敗したときなんぞに、こちらからの問題提起に対し、いわゆるそれは、「俗に言う」とか言ってしまって弁明するもんだから、かえって心象を悪くししてしまって、ぐちゃぐちゃになってしまうのでした。

言葉というものは、本当に大事です。

俗に言う、「運命」なれど、ふりかぶらずに、ごく普通に、ベートーヴェンのスコアを音にする行為。
そんな演奏行為が、マリナーとアカデミーの、隅々まで見通しのいい、伸びやかで気持ちのいいベートーヴェンなんです。

どこまでも曇、一点なく、この頃の、雲ひとつない澄みきった青空のようです。

そのうえで、じゃじゃじゃじゃ~ん、なのですから、もたれずに気持ちいいですね。

二日酔いの、むかむかした胃やお腹でも、もたれません、下しません。

すっきりさわやか、後味も爽快なベートーヴェンです。

ピリオド系の軽快かつ爆発的な演奏も充分に聴きました。
その反動としての、たっぷりとした演奏も、さらに濃厚な反動的な演奏も聴いてます。

まだまだ、異種な演奏の可能性も音楽というものには幸いにして秘めております。

70~80年代に、興隆したサー・ネヴィル・マリナーの爽快音楽は、もしかしたら、これからまた、音楽界の決め手となるような気がします。
聴く側にも、演奏側にも、ことさらの負担とストレスのないフリーダム具合。
軽やかさが身上だけど、その姿勢や音楽の組みたてには、ともかくシビア。

そんなマリナーは、いま重厚熱路線に、老いてから踏み入れてますが、マリナー・ファンは、こうして彼のかつての演奏にこそ、今につながるスタイルを見てとっているのです。

この第5の軽やかさと、透き通ったアンサンブルによる見通しの良さは、田園の前の曲としての認識も持たせてくれました。
本当に、気持ちのいいベートーヴェン。
これもまたートーヴェンでありました。

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2013年12月 3日 (火)

レハール ピアノ・ソナタ

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横浜ベイクォーターのツリーです。

向こう側が、新田間川の入江と、ゼロックスやニッサン。

毎年、ここは、いい感じですよ。

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  レハール ピアノ・ソナタ ヘ長調、ニ短調

     ピアノ:ヴォルフ・ハルデン


                  (1999 @シュトットガルト)

オペレッタ作曲家、フランツ・レハール(1870~1948)のピアノ作品です。

オーストリア治下のハンガリー生まれ、軍楽隊長だった父は、職業柄、帝国内を転々としつつ、息子フランツをヴァイオリンストにしたくて、その特訓をし、勉学はプラハの芸術学院にて行わせた。
 少年時代より、フランツは、作曲の才も持ちつつ、勉学中に、師であるドヴォルザークに自作のヴァイオリンのためのソナチネを自らのヴァイオリンで聴かせた。
ところが、これを聴いたドヴォルザークは、ヴァイオリンでなく、作曲の道を進むように指示。
フィビヒに学びつつも、頑固な親父はヴァイオリニストへの夢を押しつけ、そのためレハールは独学の作曲家とされました。
 そんな頃、すなわち17~18歳、1887年頃に作られた、ピアノソナタがこれらのものです。

ちなみに、レハールの他のピアノ作品には、25歳(1895年)のときの、ピアノとオーケストラのための交響詩「Guado」や、1909年の、ピアノ・ソロのための12のサロン音楽、などがあるようです。

レハールが、「メリー・ウィドウ」でウィーンで大ブレークするのは、そののち、35歳、1905年のことです。

ある分野の専門家みたいに思われてる作曲家にも、若書きには、いろんな作品があるものですね。

この2曲のソナタ、最初のヘ長調は、4つの楽章で22分。
コンパクトでスリムにまとめられた簡潔で、古典的な様相も感じる生真面目な音楽です。
シューベルトやシューマンを思わせる、古典とロマンの中間点的な、当時を思えば保守的なサウンド。
悪くないけど、決め手に欠ける。
でも、ちょっと背伸びして、ロマンティックな雰囲気を、青年ながらに出してみました的な緩徐楽章たる2楽章が妙に愛らしいです。
スケルツォは、なんとグリーグっぽいときました。

一方の短調のソナタは、全曲なんと40分。
こちらは、その堂々たる構えがブラームスを思わせます。
忍従感ある冒頭から、ただならぬ雰囲気を与えますが、そこは後年のあのメロディアスなレハール。すぐさま親しみやすい旋律が滔々で出てきます。
どうしても、誰それの亜流的な捉え方・聴き方しかできないのですが、ときおり、やはり、レハールならでは甘いフレーズがチラチラっと顔をだします。
ごくほんのちょっとですが、そんな瞬間を聴き分けるために、この長大なソナタを聴くのも悪くはないかもです・・・。
解説にも書いてあるのですが、長すぎて、構成感が崩壊しているとの指摘もあります。

「メリー・ウィドウ」か「金と銀」、「微笑みの国」「ジュディッタ」ぐらいしか主に聴くことができないレハールの、一面をこうして知ることも、「ヴィリアの歌」や「君こそわがすべて」などの名品を愛することに深みを与えてくれる思いがしました。

微笑ましい、レハールのピアノ作品でした。
ヴォルフ・ハルデンというピアニストの演奏です。

レハールのオペレッタ以外の作品。また聴いてみます。

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