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2014年2月 2日 (日)

ベルク 「ヴォツェック」 アバド指揮

Abbado_wiener_staatsoper

ウィーン国立歌劇場のサイトでのアバド追悼ページ。

ウィーンフィルもそうでしたが、いくぶんあっさりとしてます。

アバドが関係してきた劇場やオーケストラのなかで、その特別ページが充実しているのは、やはりベルリンフィル。そして、スカラ座とロンドン響でした。

ウィーンとはデビュー以来、蜜月期間が長かったけれど、90年代終わり頃に冷え切った関係となってしまい、ウィーンフィルの指揮台に立つことがなくなってしまった。

91年のフィルクスオーパーから兼任の形でのヴェヒター男爵の総監督就任は、ウィーン生まれの同氏が、アバドの根差した深いドラマ性を持つオペラへの偏重に異を唱えるように、伝統回帰を打ち出しました。
 さらに、ヴェヒターの片腕は、辣腕化のホーレンダーが選らばれ、アバドは、彼らとソリが合わず、音楽監督の座を投げだすこととなりました。
そのヴェヒターも、92年には急死してしまい、ホーレンダー体制が引かれ、アバドはウィーンから遠ざかることとなりました。

 さらに、2000年には、ザルツブルクで、ウィーンフィルと「コシ・ファン・トゥッテ」と「トリスタン」を上演することになっていたが、キャンセルを表明。
演奏のたびに、楽員が変わる、ウィーンフィルのシステムに不満を表明したためとありましたが、体調の不安もあったのではないでしょうか。

アバドのオペラに対する意気込みと、完璧な上演を求める思いは、このように妥協がなく、地位をなげうっても、その意志を貫く強さもありました。
スカラ座のときも同様のことが何度かありました。

何度か書いてますが、アバドのオペラのレパートリーは、かなりユニークで、まんべんなく広く上演するというより、ひとつひとつの作品を何度も、じっくりと取り上げる慎重さがありました。
長くメトにとどまり、広大なレパートリーを誇るレヴァインとは、まったく違うタイプです。

「シモン・ボッカネグラ」、「ボリス・ゴドゥノフ」、「ヴォツェック」の3作が、アバドが最も愛したオペラ作品ではなかったかと思います。

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  ベルク  「ヴォツェック」

 ヴォツェック:フランツ・グルントヘーパー    マリー:ヒルデガルト・ベーレンス
 鼓手長:ヴァルター・ラファイナー        アンドレス:フィリップ・ラングリッジ    
  大尉:ハインツ・ツェドニク                        医者:オーゲ・ハイクランド 
 マルグレート:アンナ・ゴンダ          ほか

   クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                   ウィーン国立歌劇場合唱団
                   ウィーン少年合唱団

                   演出:アドルフ・ドレーゼン

                       (1987.6 @ウィーン国立歌劇場)


この、アバド好きにとって、大切な「アバドのヴォツェック」。
思えば、一度も記事にしてなかったけれど、まさかこんなときに取り上げようとは・・・。

アバド亡きあと、その足跡を、関係したオケやハウスを振り返りながら確認してきました。

1986年に、マゼールの後をうけてのウィーン国立歌劇場の音楽監督時代は1991年まで。
得意の「シモン・ボッカネグラ」で84年に初登場してから、アバドは、ウィーンで多くの名舞台・名演奏を残しました。
その多くが、音源・映像化されてますので、ほんとうにありがたいことです。
ここでも、先にあげた3作を何度も取り上げてますし、スカラ座以来、理想を求めてきた「ペレアスとメリザンド」と「フィガロの結婚」、「ホヴァンシチナ」、「ローエングリン」、「アルジェのイタリア女」は、ウィーンでもって完成形となり、最高の精度を誇る名演として残されました。

さらに、シューベルトのオペラや、自身が発掘したロッシーニの「ランスの旅」、ヤナーチェク「死者の家から」(ザルツブルク)などの、ある意味マニアックな演目もさかんに取り上げましたから、レパートリー性を大切にする劇場旧派からはうとまれることもあったかもしれません。

保守的なウィーンと、その聴き手に、ウィーンモデルンなどの現代音楽祭で、新風を吹き込むなど、オペラ・コンサート、加えて演劇や美術など、大きな意味で、この街に変革をもたらしたのも、アバドの大きな功績だと思います。

ちょうど、任期中に、ウィーンを訪れましたが、アバドには出会えませんでした。
しかし、そのあと、アバドはクライバーとともに、国立歌劇場と日本にやってきてくれました。

さて、「アバドのヴォツェック」。

Wozzeck_abbado_wien


この演奏に聴かれる、最初から最後まで張りつめられた緊張感は、尋常のものではありません。
3つの幕が、それぞれに、組曲・交響曲・インヴェンションという巧みな形式を纏っているベルクの緻密な構成。
 それを、アバドは、完璧に把握して、その構成を感じさせることなく、かといって細部をおろそかにせずに、あきれかえるくらいに完璧に、そして鮮明に描き尽しております。
 ベルクの音楽の持つ、甘味さも、ウィーンの持ち味を生かして充分に味わえます。

Wozzeck_abbado_wien_1

ヴォツェックが、池にはまっていって死んだあとの、壮絶さと甘さの入り混じる間奏は、わたくしが、もっとも好きな音楽のひとつですが、ここは、アバドの演奏がなんといっても一番です。
血に染まったかのような池と、不気味な空。
そして、アバドの音楽は不思議と明るく、透明感にあふれてます。

ヴォツェックも、マリーも、残された息子も、みんな社会的な弱者。
そんな問題意識を感じさせるドラマに、強く共感して、狙いを付けたオペラに打ち込んだアバドの優しさと誠実さを、あらためて強く感じるのでした。

Wien

アバドは、音楽監督時代の89年と、卒業後の94年の2度、国立歌劇場と来日しております。

89年が、「ランスの旅」と「ヴォツェック」。
94年が、「フィガロ」と「ボリス・ゴドゥノフ」。

その頃は、結婚と子供の誕生が、まさにそこに重なり、コンサートから遠のいていた時期でして、これらのうち、「ボリス」しか観劇できなかったことは、いまにして痛恨の極みなのです。
変わりに、89年は、ルネ・コロが出演した「パルシファル」をS席にて観劇してるから、困ったものです。
返す返すも惜しいことをしました。

マリーは、ヴェイソヴィチ、鼓手長は、コクラン。
その他はほぼCDに同じメンバー
「ランス」とともに、アバドのすごさを、知らしめた公演でした。

こうして、スカラ座、ウィーン・シュターツオーパーと、アバドの真骨長のオペラを味わえた、われわれ日本は、ほんとうに幸せものでした。

天国のマエストロ・アバド、日本を愛してくれて、ありがとう。

そして、アバドのおかげで、新ウィーン楽派の3人を、ブーレーズとは違った切り口で、よく知ることとなりました。

 

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コメント

今晩は、よこちゃん様。今、クラシック音楽館でアバドのモーツァルトのレクイエムを放送しています。 涙しています。 追悼番組も来週あるようですね。必ず見ます。ソチよりアバドを見ます。

投稿: ONE ON ONE | 2014年2月 2日 (日) 23時05分

こんばんは。
アバドのヴォツェックはかみさんが行きましたが、その時点では全く理解できないと言っていました。ランスは最高だったそうです。ランスは当方も一緒に行きました。年輪を重ね、今年は新国のヴォツェック、また二人で行く予定です。今日ののオリー、最前列でしたが、オケは欠伸がでそうでしたが、光岡とシラグーザの掛け合いは抜群でした。光岡の最高域の透明感は素敵でした。

投稿: | 2014年2月 2日 (日) 23時10分

ONE ON ONEさん、こんにちは。
家では、チャンネル権がないワタクシですので、のちにオンデマンドでネット放送をみたいと思います。

ルツェルンでの、たしか一昨年のモツレクですね。
演奏終了後の、長い沈黙がすごいです。
悲しいです。

ソチより、アバド。
「いいね」を、100個献上いたします!

投稿: yokochan | 2014年2月 3日 (月) 00時15分

Mieさん、こんにちは。

ウィーンのこのときの「ヴォツェック」は、演出がちょっと保守的で、新国ほどの救いようのないほどの暗さはなかったと思います。
映像で所有してますので。

シラクーサは、すっかり日本の舞台に溶け込んでますね。
そして光岡さんは、聴いてみたい歌手ですね、そんなことを聴いてしまうと。

投稿: yokochan | 2014年2月 3日 (月) 00時28分

 時折、訪問している、ディーリアスの愛好家です。最近、いろいろ悲しい出来事があって、心配しておりました。
 ベルクも好きな作曲家の一つで、ヴォツェックはDVDを持っています。~映画風の映像で、単に、安価だったので、買ったものなのですが~
 クラシック音楽が無調、12音技法に移っていくあたり、正直、私も十分理解できないところがあります。そんな中にあって、叙情性を残したベルクは好きですし、ヴォツェックに関して言えば、この題材は、ベルクの音楽、でなければ表現できないのだと納得しています。何が何でも無調や12音技法でひょうげする必要はないと思うのですが、この題材を表現するには、必要だったと、説得力を感じるのです。ロッシーニ風では表現できなかったでしょうし、マスカーニのようなヴェリズモオペラでも表現しきれなかったと思うのです。
 私も、改めて、このブログを見つつ、アバドの演奏を聞いていきたいと思っています。~CDをあまり買う余裕はないのですが…。
 現代と言える作曲家の中では、メシアンを比較的良く聞き、CDもいくらか持っています。自分がクリスチャンなので、共感できるところが多いというのもあるのですが…
 寒い中、ご自愛ください。

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 15時10分

 名前を書かずに、失礼しました。

投稿: udon | 2014年2月 5日 (水) 15時11分

udonさん、こんにちは。
なんだか、次々に追い打ちをかけるような報が飛び込んできて、酒に逃避する日々です。
ですが、アバドに関しては、ほんとに感謝の念をもって、彼の音楽の歴史と、自分の生き様を照らし合わせて、慈しむようにして記事を書いております。

素材は、ヴェリスモですが、音楽はシンフォニックであるとともに、シェーンベルクやツェムリンスキーの表現主義的なところもありますし、師の12音技法も駆使されてます。
舞台で、切り込みの鋭い演出で観ると、背筋が寒くなる、そんな音楽です。
一方で、甘味なところもありますから魅力は尽きないですね。

メシアンのオルガン曲や、ピアノ作品は、キリスト教を背景にしつつ、焦がれるような愛にあふれていると思います。
わたくしも共感するところ大です。
洗礼は受けておりませんが、信条としてはクリスチャンです。

ご丁寧にありがとうございました。
本当に、寒いですね。

投稿: yokochan | 2014年2月 5日 (水) 22時54分

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